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昨日の礼拝の後、教会に方々と日本聖公会のことを話し合いました。前から御案内していたので、ほとんどの方はインターネット上の資料を読んでいて下さいました。教会の方々は皆さんインターネットをされています。そして得た結論を今日は最初に申し上げます。 「日本聖公会京都教区は神学的に破産してしまった」ということです。これは、1970年代頃の使われていたような意味ではなく、教会が公同性を失ったという意味です。「聖公会」という名前自身、「聖なる公同の教会」を意味しているのですが、この公同ということをまったく見失っているということです。今朝は、少し忙しいので余り詳しくは書くことが出来ませんが、教会の聖職者の権威はあくまでも神に仕える教会の権威によるものなのですが、高地主教や原田文雄司祭の発言や公同を見ていると、ご自分たち自身の内側に神の権威があるとお考えになっているとしか考えられないからです。言い換えれば、主教座のみならず、司祭席も神の場所にあるとお考えのように見えるからです。このことは教会の根幹に関わる重大な問題です。多くのプロテスタント教会はローマ・カトリック教会の「教皇無謬説」を批判し続けてきています。日本聖公会も、アングリカン・コミュニオンの立場からすれば批判しているだろうと思います。私たちの教会は、それも一つの聖書と教会の歴史の理解であると考え、批判はしません。 しかし、日本聖公会京都教区の高地主教や原田文雄司祭は、自らを「無謬」であると規定しているかのような発言や公同を繰り返してきています。それは、国家の法律をも越えたところの存在としての「無謬性」です。ですから、最高裁判所が上告棄却・不受理としたことの意味をまったく理解出来ていないのです。高等裁判所の裁判記録に残されている内容を、高地主教は一旦はお認めになったはずなのに、原田文雄司祭に被害者の所へ謝罪に行かせていません。これこそ正に、国家の法秩序を越えたところで自らの権威をお考えになっている証拠です。 教会の聖職である以上、いえ信徒にとってもですが、国家の決定が明らかに非福音的なものであると考えられるときには、教会をこの間違いを正すべく国家に対して声をあげ続けなければなりません。しかし、原田文雄司祭の犯した過ちは、刑法で規定されている「準強制わいせつ」です。それも、小学校4年生から高校1年生までの間に継続的に行われていたことです。そして、高等裁判所は3人の裁判官の全員一致の結論として、その原田文雄司祭による「準強制わいせつ」行為に関する被害者の申し立てを事実として認定しました。 「冤罪」という言葉をかつて高地主教はお使いになったそうですが、「冤罪ではない」というのが高等裁判所の結論であったのです。そして、高地主教は最高裁の判決が出てから、半年近くも経って他の被害者が同じような準強制わいせつを受けていたという申し立てをしたので、この高等裁判所の判決を認めたのです。 ここにも重大な過ちがあります。この4人が申し出なければ、被害者は今でも「虚言癖がある」といわれ続けていたということです。ここで、この被害者の人権が著しく阻害されています。「他に4人の被害者が出てきたので」ということが高地主教の判断を変えさせたのだとしたら、一人一人の個人を一人の人間として互いに大切にし合わなければならない教会が、被害者を無視していることになるからです。つまり、あの2005年末に行われた「謝罪の記者会見」の弁明すらもが、日本聖公会の権威主義の衣を着ていたことになるのではないでしょうか。「マスコミは気が付いていなかった。だからそれを問題にしなかった。いまの日本の民主主義は、そうした意味からすれば『似非民主主義』だとしか言えないし、高地主教や古賀司祭はまったくその矛盾を認識出来ていない。主教や司祭であるということは常に神学的でなければならないにも関わらず、こうしたことさえ判っていない」と知り合いのメールに書かれていました。この集まりのために、この問題に対する意見をメールで送ってもらっていたのですが、その中に書かれていました。 そして、日本聖公会の主教会も何ら対処できていません。「何か後ろめたいことがあるんじゃないの?」とある方が笑いながらおっしゃった瞬間、とある初老の方が「ある、間違いなく‥‥‥」とボソッとおっしゃいました。何かをご存知のようでした。さきほど知り合いに電話したら、知り合いも同じことを言っていました。主教会がこの事件に関わることが出来ない理由があるということを知っている方々は、聖公会にはほとんどいらっしゃらないのでしょうか。そうした主教さん方が触れて欲しくないことを知っている司祭がいるとしたら、主教は何も発言できなくなるでしょうね。逆に、厳しく叱咤したり、反論をする主教の過去を知っている司祭がいたとしたら、主教は日に日に発言が弱くなるのでしょうね。 主教や司祭の権威が、神学ではなく中世封建制的な意識に支えられている証拠です。S. サイクス(村上訳)の『聖公会における権威』という本に書かれていることとは、まったく異なっているようです。このことも知人に聞いたら、「あの本は名訳で、素晴らしい本だけど、ほとんどの司祭は読んでいない。というか、読んでも理解できない。それぞれの教会には送られたはずだけどね。」と言っていました。だろうと思います。あの本を読んで理解できていれば、高地主教や原田文雄司祭のあのような発言や行動は見られなかったはずです。
2007.07.30
何故高地主教は原田文雄司祭を連れて被害者とそのご家族に謝罪にいらっしゃらないのですか?「謝罪の記者会見」で準強制わいせつが行われたことを認定されていらっしゃったのですよね。だとしたら、どう考えても、高地主教は原田文雄司祭を司祭を連れて、被害者とそのご家族に謝罪に行くというのが、司牧者の義務なのではないでしょうか。何故その義務を履行なさらないのでしょう。 もうかなり以前のことになりますが、種谷先生が裁判の中で勝ち取って下さったキリスト教会の司牧者の権利を、高地主教はまったく無視されているように見えます。最高裁の上告棄却・不受理に対して「冤罪」を主張されていた高地主教は、あの記者会見で「冤罪」ではないということをはっきりとお認めになっていらっしゃるにもかかわらず、司祭であり続けている原田文雄司祭を黙認し、被害者への謝罪をしないまま1年半が過ぎています。何故なのでしょうか。「陪餐停止」になっているからと言って、原田文雄司祭が高地主教の管轄の外にいるとは思えません。法憲法規にもその規定はありません。ですから、高地主教には司牧者として原田文雄司祭を被害者とそのご家族の所へ無理矢理にでも連れて行かなければならない義務と、事件が起こった現場の教会に対する主教としての謝罪が行われなければならないのではないでしょうか。 現在でも「事実無根」を主張しているのは、加害者である原田文雄司祭だけです。あの「謝罪の記者会見」の内容からすれば、高地主教は原田文雄司祭が準強制わいせつをしたということを事実であるとお認めになっていらっしゃるわけですから、これからなすべきことは加害者を被害者の所へ連れて行き謝罪させるというのが司牧者としての、当然の義務なのではないでしょうか。確かに、民事裁判では決着しています。しかし、日本聖公会京都教区という信仰者の群の中では、まったく問題は解決していません。日本聖公会京都教区の名簿に載っている司祭は、現場教会の名簿に載っている被害者とそのご家族に対して謝罪していないのですから。和解はここから始まるのではないでしょうか。原田文雄司祭が「事実無根」を主張している間は、和解はまったく行われていないことは火を見るよりも明らかなことです。 司牧者が司牧者としての義務を果たせないときは、他の司牧者の群がその司牧者を司牧すべきではないでしょうか。一日も早くこの問題を解決しないと、宗教者に与えられた法的権利、つまり司牧権を国家から剥奪されてしまう可能性が出てこないでしょうか。簡単に言えば、他教派の聖職の方々の働きを決定的に邪魔することになりはしないでしょうか。高地主教は日本聖公会の京都教区主教としてだけでなく、日本という国家の中にいるキリスト教の聖職の一人として、しっかりと目を見開いて、常識的にお考えいただきたいと思います。このままの状態が続くようであれば、それはあまりにも理不尽なことです。被害者とそのご家族の心の傷を広げてしまいます。
2007.07.28
日本聖公会京都教区における現職司祭による準強制わいせつ事件に対する当該教区の対応には、あまりにも非常識な点がありすぎです。と同時に、事件の複数の被害者に対する対応には目に余るものがあります。私が今日耳にした話では、「あの事件は既に解決している」という認識を聖公会の人々が持っているということでした。損害賠償と慰謝料は確かに支払われましたが、原田文雄司祭は被害者に対して未だに謝罪していないそうですね。そのことに関して、京都教区は何らかの方法で謝罪することを促しているのでしょうか。 他教区の主教はこれに関して沈黙しているようですが、何故でしょうか。未成年者、ことに12歳以下の児童に対する準強制わいせつ事件です。真剣に考え、真摯に対応しても、社会的責任が問われる事件です。日本聖公会は準強制わいせつという行為を犯罪だとはお考えになっていらっしゃらないのでしょうか。だとしたら、あまりにも恐ろしいことです。聖職の方々は、退職された方々も含めて、何故問題を指摘なさらないのでしょうか。 一昨年の暮れに、日本聖公会京都教区主教が自らこの事件があったことを、つまり「事実無根」などではないことを、記者会見で明らかにしているのです。それを何故無視されているのでしょうか。日本聖公会法規第197条には「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」という規定があるにもかかわらず、京都教区主教は原田文雄司祭を「陪餐停止」にされました。それとも、私たちが見ることが出来ない「宗教法人日本聖公会規則」には、別のことが書かれているのでしょうか。もしそうだとしたら、つまり宗教法人法上の規則が内部規則よりも上位にあるのだとしたら、日本聖公会はキリストの教会であることをお止めになったとしか考えられません。 これまで、多くの司祭や主教が人権を発言されてきました。私はそれを眼と耳で確かめています。にもかかわらず、この事件に対する京都教区の対応を戒められないということはどうしたことでしょうか。この事件は解決したというのはとんでもない誤認で、被害者とそのご家族は京都教区の対応に幻滅されて、教会を離れてしまわれたのです。『キリスト新聞』に出ていた編集長自らの取材記事は捏造だったのですか?「謝罪の記者会見」は行われていなかったのですか?それとも、日本聖公会では刑事訴訟法上の時効が来ている犯罪に対しては、一切問題にしないのですか? あまりにも悲しすぎます。
2007.07.24
私が知っている範囲では、司祭や執事、あるいは聖職候補生は、双方の主教の了承があれば移動できます。と言うよりは、大きく分けて二つのパターンがあります。一つは主教の考えで他教区へ移動するケースですが、これにはミッションスクールのチャプレンになる場合も含まれています。これは比較的簡単に済むそうです。何しろ、教区内の人事に関しては、最終的には主教が全権を持っています。もう一つのパターンは、司祭・執事・聖職候補生が自ら他教区への移動を主教に願い出るケースです。前もって移動先の主教と話をしていることは間違いないと思うのですが、一切が秘密裏に行われているようで、私の耳には詳しいことは入ってきません。 これは法憲法規に規定されていない「慣習」だそうです。法規第31条では「常置委員会にはからなければならない」としか規定されていません。つまり、常置委員会に拒否権はないということになりますから、最終的には主教の判断で行えるということになるはずです。 ですから、H司祭が他教区へ転籍することは十分に可能ですし、他国の聖公会への転籍も可能です。「陪餐停止」という処分はあくまでも主教判断でなされたことですから、その解除に関しても主教判断で出来ると思います。皆さんは如何お考えでしょうか。 K主教もK司祭も、あるいは他の日本聖公会京都教区の聖職の方々は、民事裁判での慰謝料や損害賠償の支払い命令の意味をご存知ないようですね。違法性がなければ、支払い命令は出ません。私が連れ合いの財布から福沢諭吉さんを3人ばかり無断で失敬しても、連れ合いは損害賠償請求できません。日本では窃盗にはならないからです。 損害賠償及び慰謝料の請求裁判が行われたということは、そこに違法性があったとする被害者の申し立てを裁判所が受け容れたからです。そして、その裁判の結果、請求額の満額が認められ、支払い命令が民事訴訟法259条の仮執行宣言付きで言い渡されました。私は法律に関しては素人ですから「仮執行宣言」で検索してみて下さい。 K主教もK司祭もこうしたことの意味がよくお判りになっていらっしゃらないようですし、準強制わいせつという犯罪が一般社会でどのように考えているかをご存知ないようなので、H司祭を他教区に移籍させるとうことを考えている可能性は十分にあると思います。インターネット上では、そのことが出てこないので心配しています。法憲法規にないことは聖公会の慣習で考えられてしまうと思います。刑事訴訟法で時効が来てしまっている事件ですから、本当に難しいかもしれません。しかし、このことは日本聖公会の良識や常識が問われていることだと思いますし、他教区へ移籍した場合、そこの教会が途轍もなく困るのではないでしょうか。私のこのブログも1万アクセスを突破しました。他教派の知り合いの先生方もこのブログを読んでいて下さると思っております。ですから、H司祭が他教区へ転籍されても、転籍先の教区や派遣される教会がお困りになるのではないでしょうか。特に、幼稚園などがあればなおさらのことです。そして、審判廷で審判が下されない限りは、一切懲戒を受けることはありませんから、主教になることもできてしまいます。皆さんは「まさかそんな理不尽なことを」とお考えになるかもしれませんが、そうした理不尽なことが行われたり、発言されてきたのが日本聖公会です。 私の知り合いは、主任司祭の命令で大量の樹木の移植をし、両肩の6本の筋肉のうち4本を切除しました。もう筋肉ではなくなっていたそうです。「胸郭出口症候群」という病名が診断書に記されていました。そして、この司祭もお咎めなしで、管区の重職についていらっしゃったそうです。 「君が読んだ本をすべてリストアップして提出しなさい。君が読んだことがない本から試験問題をだすから」と聖職試験委員長でもあったその司祭から言われたそうです。聖公会はこうした理不尽なことが罷り通っているところのようです。正にカルトそのものです。彼は、こうした理不尽な言葉の裏にある陰謀を見抜いていましたから、家族を連れて聖公会を離れました。 民事時効はまだ来ていません。 聖公会神学院でも事件があったようですね。新聞やテレビでは報道されていないようですが、その実態は劣悪なもののようです。これから、日本聖公会の主教会は、こうした問題をどのように考えていくのでしょうか。興味津々です。それとも、「あれは神学院に任せてあります」とおっしゃって、責任逃れをされるのでしょうか。日本聖公会京都教区を裁けない主教会では、そういうことになるかもしれませんね。あるいは、もうそうした発言が飛び交っているかもしれません。
2007.07.21
最高裁判所の上告棄却・不受理。 もうあれから2年になるのですね。私は、ある方からK主教たちの記者会見の話を聞かされたのが、この問題を知った最初の時でした。それ以後、様々な人々や様々なサイトで情報を得ようとしたのですが、聖公会の司祭さん達からはなかなか話を聞くことが出来ませんでした。東京教区をはじめ他の教区の司祭さん達は一斉に口を噤んでいらっしゃいました。 問題はここにあると思っています。 一人の女性信徒が現職の司祭から、準強制わいせつを受けていたにもかかわらず、そのことに対して口を噤んできたのです。キリスト教の聖職として、言語道断ではないでしょうか。彼女たちは犯罪の被害者です。それも、窃盗とか、傷害ではありません。準強制わいせつです。法治国家としての日本の社会にあって、より重罪であると考えられてきたことなのではないでしょうか。そして彼らは、女性司祭按手に関して、女性の人権ということを口にしてきていたのではないでしょうか。にもかかわらず、彼らは最高裁の上告棄却・不受理を知っても、黙り続けてきたのです。彼らは最早、神の御業に仕える者ではありません。 そうした意味から、私は彼らを聖職とは考えないことにします。確かに"ex opere operato"という神学的立場に私も立っていますが、彼らがサクラメントを執行すること自体に問題を感じざるを得ないのです。ある司祭は、知り合いを虐待しました。彼は両肩の筋肉が3分の1しかありません。強制的な労働により、筋肉の摘出手術を受けました。あの時も、誰もそれを咎めることなく、自分たちの立場を守り続けました。 彼らには最早、キリストの十字架の福音を語る資格はありません。彼らがどんなに社会問題を語ろうとも、差別問題に関わろうとも、彼らのそれは単なるポーズでしかないということがよく判りました。私が知っている主教や司祭が社会問題に発言をしたら、その内容以前に、このブログで彼らを実名をあげて批判することにします。 ヨハネ福音書15章13節 (新共同訳) 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。 そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わた したちも兄弟のために命を捨てるべきです。 ヨハネの手紙1 3章16節 (新共同訳) 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 彼らはキリストの福音を捨てました。誰がどう考えても、おかしなことです。現職司祭による準強制わいせつ事件に対して口を噤んでいるということが、何故キリストの十字架による福音の道なのでしょうか。沈黙し続けている主教さんや司祭さんにお尋ねしたいのです。「何故黙っていらっしゃるのですか?」「皆さんがこれまで語ってきたことが、すべて無になってしまうのですよ。」「聖公会から追い出されることが恐ろしいのですか?聖公会だけがキリスト教ですか?むしろ聖公会自体がキリストの福音を捨てているならば、そこから出てくることを何故怖れるのですか?」 ご自分の生活の方が、キリストの福音よりも大切であるのであれば、信仰について、神の救いについて語ることはお止め下さい。 準強制わいせつ事件の被害者が御ミサのお恵みに与ることが出来ないにもかかわらず、加害者は和解への道を一歩も踏み出していないということを何故お許しになるのですか。どうしてこれが福音なのですか? 間違えても、中越沖地震で問題を露呈した原発に関して発言しないで下さいね。災害援助の遅れに関して、沈黙していて下さいね。まして、世界中で起こっている様々な問題に対する発言をしないで下さいね。目の前にいるご自分の仲間を救うことをせずに、社会の問題に対して口を挟んでどうするおつもりですか? 神学館や神学院では、この問題を真剣に考えなければならないにもかかわらず、まったく沈黙されているのは何故ですか?「PTSD」という言葉の意味をご存知ですか? マタイ福音書 7章1節以下(新共同訳) 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り 与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、 『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言 えようか。自分の目に丸太があるではないか。 私も自らが犯してきた罪を悔い改めながら、生きていこうと思っています。そして、この御言葉を、日本聖公会の主教さんや司祭さんにお送りしたいと思います。私の知り合いは、両手の痛みや痺れと闘いながら、自分に与えられた道を歩んでいます。
2007.07.19
日本聖公会京都教区は主教さんをはじめ司祭さん方は、あのH司祭による準強制わいせつ事件に関して、時が来れば何もかもがおさまるとお考えのように見えますが、無理です。私の知り合いは、「糾す会」のホームページを各国の聖公会に紹介する英文のメールを既に書き上げています。「翻訳するのは大変だから、それぞれの聖公会で翻訳者を見つけてもらえばいい」ということで、翻訳はしていないそうです。 アメリカ聖公会には日本語を理解できる司祭さんがいらっしゃるそうですし、他教派の聖職には、長い間日本で暮らしていた方がいらっしゃいますから、彼の英語能力よりは、そうした宣教師の先生方の日本語能力の方がかなりすぐれているだろうと、彼自身が言っていました。 これで、世界の聖公会が動かなければ、アングリカン・コミュニオンは終焉を迎えることになりますが、最近のアングリカン・コミュニオンの動きを見ていると、私は希望を持っています。それに、同じメールは各国のNCCにも送るつもりでいるようですから、WCCレベルで問題になるかもしれません。加害者の「事実無根」を信じるか、最高裁の上告棄却によって確定した高裁判決を信じるかは、各国の教会の自由だろうと思います。 「教会のためには大事にしない方がいい」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、それこそ正に加害者を擁護することになるのではないでしょうか。それが世界的な流れです。 高裁判決の閲覧レポートにもあるように、事は確実に、現職司祭による女子児童への準強制わいせつ事件です。私の知り合いのパソコンには、各国のNCCやWCCのメールアドレスが入っているそうです。そして、裁判記録を日本にいる宣教師に読んでいただくのが一番確実だとも、知り合いは言っていました。ただ、外国人が裁判記録を閲覧できるかどうかは、判りません。明日にでも、電話で確かめておこうと思っています。 それにしても日本聖公会京都教区は大変な集団のようですね。ここまで事件の内容が明らかになっているというのに、いまだに和解への道を歩みだそうとされていないのですから。しかも、被害者とそのご家族は教会を離れてしまわれたことについて、まったく痛みも感じていらっしゃらないようです。 迷宮入りを願っても無駄です。神様はすべてをご存知でいらっしゃいます。神様は、すべてを見ていらっしゃいます。神様の前に隠し事は出来ません。それをあえてしようとすれば、そこにはもう信仰も教会もありません。京都教区は自ら破産宣告をしているようなものです。そして、その破産を自らの痛みとして感じていない管区も同じようなものだと思います。 勇気を奮って、信者さんが声をあげて下さい。信者さんが声をあげて下さらなければ、最早日本聖公会は「死に体」ですから、信者さんまでもが立ち直ることが出来なくなってしまいます。御ミサの後で、司祭さん方に質問して下さい。何故、被害者の声に耳を傾けないのかを。それが教会の徳を建てることになるのです。沈黙は、気が付いたら教会の基礎を崩していまいます。
2007.07.17
日本聖公会は教会としての常軌を逸しているようですね。 あるところで、とんでもないことを耳にしました。本当かどうかは聖公会の信者さんならお判り頂けると思います。我々他教派の人間にはまったく理解できません。また、この情報は本人方に確認したわけではないので、真偽についてはまったく見当がつきませんし、個別にはこうしたことがあっても、全体としてそれが行われているとも言えません。ただ、小さな田舎の教会だと司祭の生活が苦しいという現実を考えると、あながち偽りだとも言えないようです。 日本聖公会では、幼児洗礼に始まり、堅信礼や結婚式など、信者さんのイニシエーションに関して、教会への献金以外に主教さんや司祭さんへの個別の謝礼が送られているそうですが本当でしょうか。洗礼には当然クリスチャンネームが付けられるわけですが、それに対してもそれを付けて下さった主教さんや司祭さんに、教会への献金とは別に謝礼が渡されているそうですが、本当でしょうか。 もしそうだとしたら、小さな教会では収入が減るというのが当然のことだろうと思います。そして、家庭訪問をしたときにも、謝礼が個人的に渡されているということも耳にしました。先程、友人に電話で尋ねてみたのですが、彼はそこまでは知らなかったようです。ということは、彼は子供たちの堅信の時に、これをしていないということになります。「あり得ないことだろうが、それらしい雰囲気は感じたよ」とは言ってました。 このブログはいろいろな教派の方々もお読みになっていらっしゃると思いますが、これが事実だとしたら、そしてそれが一部で行われている習慣であったとしても、サクラメントが教会にとって何であるかということがまったく見失われているとしか言いようがないのではないでしょうか。 教会史をまったくご存知ないようですね。聖公会では、「私唱ミサ」が否定されていないのでしょうか。「私唱ミサ」を否定しておきながら、洗礼というサクラメントで主教さんや司祭さんが個人的に謝礼を受け取っているとしたら、神学的に破産していませんか? まぁ、サクラメントは二つだと綱憲で規定していながら、堅信礼は主教さんでなければ出来ないとか、結婚式やレクイエムも司祭さんでなければ出来ないという習慣も大きな矛盾だと思います。また、聖公会は「祈祷書」を非常に大事にされているようですが、あの中には死者のための祈りと思われるものがあると思えるのですが、それでいてアポクリファを正典ではないとされていらっしゃるようですが、このことは問題にならないのでしょうか。 いまの祈祷書に変えられる過程で「サンクトゥス・ベルを何時鳴らしたらいいのか」という疑問が出てきた時に、それに対する明確な答えがなかったと聞かされています。聖餐にとっては、神学的に非常に重要な問題なのですが、対立を避けるためなのか、神学的議論が一方的に脇へ押しやられてはいなかったでしょうか。「私はサンクトゥス・ベルは鳴らしません」とおっしゃっていた司祭さんがいらっしゃいましたが、ご自分が鳴らすか鳴らさないかではなく、聖餐制定語が何を意味しているかということの議論をしっかりと踏まえた上で、聖餐式の式文をお考えになるべきだったのではないでしょうか。 こうした神学的議論に末端の聖職がすべて参加する仕方で、祈祷書が「改正」されたとは思えないのです。「文語が口語になった」という感覚しか持っていらっしゃらない司祭さんもいるのではないでしょうか。だから、主教按手式が文語の式文で行われても、まったく問題がないかのように通り過ぎてしまったことがあるのではないでしょうか。 聖公会は、教会としても常軌を逸しています。 主教制という教会組織の根幹が、寺院本末制度と見間違うほどになってしまっていたり、教会組織が変質した檀家制度になっていないでしょうか。洗礼名を付けるときに個人的に謝礼を受け取っていたとしたら、それと戒名料とどう異なるのでしょうか。以前に「日本聖公会に神学的議論は無駄だ」ということコメントが知り合いのご友人のブログにコメントとして書かれていました。聖職者団の中から、神学的議論が消えたら、最早教会ではあり得ません。日本のプロテスタント教会の一部には、そうした問題を回避していることがいいことだと考えられている風潮があるようにも見えます。しかし、神学議論が消えたら、教会は教会でなくなるのは、教会史の必然ではないでしょうか。 被害者に謝罪できない加害司祭、そしてそのことに神学的な視点から対処できない主教さんや司祭さん達、私の目から見ると、神学そのものをどなたか他の司祭さんにお任せになっていらっしゃるのではとも思えます。一日の半分以上を書斎で過ごすことがなくては、説教の準備すらお出来にならないのではないでしょうか。一日の半分とは、12時間を意味しています。
2007.07.15
先程、「糾す会」からメールが届きました。 昨年の高等裁判所の判決が確定して1周年の時のメールでした。判決確定から、後わずかで2年です。昨年から今までで、何か進展がありましたか?京都教区の姿勢が変わりましたか? そして、ふと思ったのです。あの裁判が刑事裁判であっても、最後まで「事実無根」をH司祭は主張されたのではないかと。被害者の「妄想」、「虚言癖」という言葉で、ますます被害者を苦しめたのではないかと。そして、京都教区は最後までH司祭を庇い、「冤罪」だと言い続けているH司祭を影で支援していたのではないかと。 「あの司祭がそんなことをするはずがない」という言葉が、方々の教会で聞かれたかもしれませんが、刑事事件でも同じことが聞かれたのではないかと。最高裁判所の上告棄却はそうした意味では、非常に重要な意味を持っているのではないでしょうか。刑事裁判であれば、確実に実刑であったであろうと思われます。 問題は、日本聖公会京都教区はそれでも「冤罪」だとしたか、ということです。被害者本人に対して、加害者が謝罪しているかのように見せかけたあの「謝罪の記者会見」、私は不思議でなりません。他の4名の被害者が申し出てきたにもかかわらず、それでも加害者であるH司祭は現在に至るまで「事実無根」を貫いているようですが、そのことに対する京都教区の指導がどれだけ行われているのでしょうか。被害者と和解するまでの「陪餐停止」を宣告しただけで、和解のための努力をまったくしていないH司祭に対して、どのような指導が為されてきたのでしょうか。 そしてH司祭はいま、何をされているのでしょうか。外国では、児童に対する性犯罪を犯したものに対しては、かなり厳しい社会の目が向けられています。アメリカでは、居住地を明らかにする方向で考えられているのでしょうか、それとも州によっては既に明らかにされているのでしょうか。 京都教区は、H司祭の住所を公表していないそうですね。陪餐停止の人の住所・氏名を公表されていないということは、他教派にも連絡していないのでしょうね。他の教会で陪餐されたらどうするおつもりなのでしょうか。この一年間、京都教区はこうした具体的なことをまったく公表されていないように思えます。そして、まるで事件がなかったかのように振る舞われていないでしょうか。先日の「つのぶえ」に記されていた内容からして、教区内ではまったく痛みを感じていらっしゃからない教会が多いようにも思えます。 日本聖公会は、一から出直すべきです。 最低でも被害者は5名いるのです。今日、知り合いを訪ねてそのことを話してきました。彼も同じ考えです。「こうした事件では、被害を申し立てない人の方が多いかもしれない」というのが、彼の意見でした。「被害者の全員が申し立てるわけじゃないから統計の採りようがないことですが、被害者でありながらあの裁判のことすら耳にしていない被害者がいるかもしれません」とも言ってました。私もその考えに納得しています。 京都教区の聖職の方々は、こうした社会問題に関してはまったく関心をお持ちではないようですね。しかし、クリスチャンがこの世で生きているということは、この現実の社会の中で生きているということであり、その社会が持っている法的秩序や常識というものを無視できないのではないでしょうか。 児童に対する準強制わいせつは最悪の犯罪の一つです。
2007.07.11
《FH司祭問題を駁す》 というブログに「四名の方々と潜在被害者の心の傷」という題で書き込みがありました。そして、残りの4名の方々のことや「潜在被害者」の方々のことが書かれていました。これで、やっと私も書けるようになりました。聖公会のどなたかが書かれたら、私も書こうと思って思っていました。 常識的に考えて、被害者が5名ということはないのではと私も思っています。こうした事件では、被害を明らかにされていない方々が他にもいらっしゃるのが普通です。そして、そうした被害者を誰も探し出そうとされません。それは、事件が事件だけに、もう想い出したくないという想いと、公になって欲しくないという想いがあるからだと思います。そして、周囲もそうした人々の想いを受け容れようとされるからだと思います。 私も同じように考えてきました。そして、今でもそう思っています。だからこそ、京都教区の対応の過ちは途轍もなく大きなものだと言わざるを得ないのではないでしょうか。同時に、日本聖公会という宗教法人そのものの責任も問われなければならないのではないでしょうか。強いて言えば主教会です。「京都教区に任せています」とおっしゃったそうですが、任せていた京都教区が誠実に対応していないのですから、任せた側の責任も当然発生していると思います。 聞くところによると、こうした人権侵害事案は他にも数多くあるようですね。ことに聖公会神学院の事件では、命が失われているそうですね。恐ろしいことです。もう20年位経っていると思うのですが、牧会に関する研修時の人権侵害事件をあれだけ問うていた神学院で起こった事件です。あまりにも悲惨です。そもそも、在日の人々に対する意識や関心が低すぎたことによって起きた問題ではないのでしょうか。高いところから見下ろすような発言に対して、私は本当に腹立たしく思っていました。日本聖公会に「差別」を考える視点はないと感じたのは、あの問題をいつまで経っても解決できていない聖公会神学院の姿を見た人から話を聞いたからです。 最近、FH司祭のこととそれに対する京都教区の対応に関して考えているうちに、結局日本聖公会は差別やイジメを真剣に考えないどころか、差別したり虐めたりするところなのだということを痛感しています。ですから、自分たちにとって都合の悪い人々が聖公会を離れても、何の痛みも感じていらっしゃらないのでしょうね。はっきり申し上げて、日本聖公会はキリストの教会ではないとしか言いようがないと思います。 差別やイジメを徹底的に問題にしないで、どうして御ミサを挙げることが出来るのですか。どうして聖書を読むことが出来るのですか。福音書に記されている主イエス・キリストは、どのような人々と共に食事をされ、どのような人々の罪をお赦しになり、どのような人々と共に生きていらっしゃったのでしょうか。 聖公会の聖職の方々にご質問させていただきたいのです。福音書の中で、最後の晩餐の記事以外に、あのカナの婚礼の物語を除いて、「ぶどう酒」を主イエスと弟子達がお召し上がりになっている記事がないののか、その理由がお判りですか?おそらく、主教さんや司祭さん方は考えたこともないことだろうと思います。答は簡単なことなのですが‥‥‥ ヒントは「ナルドの壺」です。あの物語をしっかりとお読みになれば、初代教会のことがよく見えてきますし、溯って、主イエスと弟子達がどのような人々と共に生きていらっしゃったかが見えてきます。 聖書はこの視点を徹底的に持ち続けています。 私の知り合いが言ってました。「日本聖公会は、江戸時代の宗門人別制度の枠の中でしか存立していない」とです。日曜日に仕事をすることなく、教会の礼拝に来ることが出来る人々しか相手にしていないのではないでしょうか。確かに、一部では、社会福祉事業をしていらっしゃるかもしれませんが、全体がそれに積極的に関わっているでしょうか。 最初に述べました「四名の方々と潜在被害者の心の傷」というタイトルで《FH司祭問題を駁す》に書き込みをされた方は、次のように記していらっしゃいます。 「問題を裁判だけに矮小化するから何時までも解決しません。聖公会の問題として解決を図ってもらいたい。このままでは日に日に教会が遠くなります。」 私はもう引き留めようとは思いません。本当の御ミサをしている教会が必ず見つかりますから、是非お探し下さい。私も、聖公会の教会を離れた方々を直接存じ上げています。そうした方々のおっしゃっていたことに、日本聖公会の主教や司祭は、まったく耳を貸していなかったのではないでしょうか。 万が一にも、審判廷が開かれることがなければ、日本聖公会は聖書に証しされ、教会の伝承によって築かれてきた主イエス・キリストの教会ではありません。あの日、十字架の上で主イエスは左右にいる罪人に何と語りかけ給うたかを考えれば、すべては明らかになると思います。 近いうちに、この事件に関するすべてのことは、海外の聖公会にも伝わると思っております。そして、事件に対する日本聖公会の醜態が問われるであろうと思われます。何しろ、女性の人権に対する決定的な疎外以外の何ものでもありませんから。
2007.07.09
このブログをお読みになられている方で、まだ「糾す会」の一斉メールの配信を受けていらっしゃらない方は、下記のアドレスにメールを下されば、そのまま「糾す会」に転送いたします。「糾す会」のアドレスを迷惑メールから守るためですので、ご理解下さい。 私のこのアドレスは仕事で使っているメールアドレスなので、皆さんのメールを転送次第、サーバーからも削除致しますし、もちろんアドレスを保存することは致しません。 メールの件名に「一斉メール希望」とだけ記して下さい。 本文をご記入になられましても、私はそれを読むことを致しません。 tera_dream_ms@hotmail.com 自動返信にすると、迷惑メールの餌食になりますので、ご理解の程よろしくお願いいたします。なお、このアドレスをアダルトサイトなどに書き込まれた場合、法的な措置を執らせていただきますので、お気をつけ下さい。
2007.07.01
今、「糾す会」からのメールを読んで驚きました。京都教区のK司祭は裁判を傍聴しに行っていらっしゃったそうですね。どの時点での傍聴だったのでしょうか。裁判を傍聴し、それでもH司祭が主張する「事実無根」を支持していたというのが、どうしても理解できません。最高裁の上告棄却が決まった後も「事実無根」「冤罪」「最高裁に抗議する」という立場をとり続けられたということは、余りにも無神経か、あるいは余りにも無知であるかのどちらかしかないと思っております。 どんなお気持ちで裁判所へ行かれたのでしょうか。 本当に行かれたのでしょうか。 民事裁判は、一般的な刑事裁判とは異なった雰囲気があります。双方が双方の主張を覆そうとしています。刑事裁判は、罪状認否から検察側の証拠申請や証人尋問という過激さはありますが、多くの場合は罪状認否で被告が認めてしまうようで、検察と被告弁護側との激突という場面は少ないのではないでしょうか。最近の有名人や財界人の刑事裁判ではどうだか判りませんが‥‥‥ 村岡氏や退職司祭さんが書かれた裁判記録閲覧報告を拝見すると、高裁での被告側の抵抗が見えるような気がします。そして、「虚言癖」という言葉も出てきたのでしょうか。 K司祭は、被害者が記した絵や文章を見たり読んだりしているのでしょうか。それを見てもなお「事実無根」ということを主張されたのだとすれば、余りにも理不尽なことだとしか思えません。 私も裁判記録を閲覧することにしました。仕事の関係でとんぼ返りになりそうですが、少なくとも朝から夕方まで閲覧できる時間を作ろうと思っております。「被害者の心情を考慮すると、大勢の人が閲覧するのは如何なものか」とおっしゃっている方がいるそうですが、それこそ正に、H司祭の側に立っている発言でしかありません。あるいは、京都教区のK主教やK司祭を庇うことにしかならないのではないでしょうか。ことは重大な性犯罪です。いま判っているだけで5人の女性が被害を受けています。子供がいたずらで校舎の屋上から水を撒いたら、下を歩いていた5人の女性にその水がかかってしまったというようなことではありません。 メールには、K主教は「2003年9月6日の就任時点で被害者に面談し精査すべきだったのだ」と記されています。当然のことではないでしょうか。前任の主教の時にあったことだから、自分には関係がないとおっしゃるのでしょうか。もしそうだとしたら、本当に愚かなことです。あらゆる社会において、法人格を持った団体にそれは通用しません。営利企業でも宗教法人でも、それが法人であるということの意味はそういうことです。私の知人の件に関しても、後任の主教は問題を取り上げようとはしていなかったようです。 もしこれを真正面から主張されるのであれば、宗教法人であることを辞退すべきではないでしょうか。法人の長であれば、前任者から聞いていなかったという言い訳は通用しないはずです。 一昔前なら「恥を知れ!」ということが言われただろうと思いますが、聖公会は「キリスト教には『恥』という考え方はない」とおっしゃるのでしょうか。「『恥の文化』は日本的なもので、キリスト教にはない」ともおっしゃるのでしょうか。 何しろ、ベストリー(香部屋)でストラに口づけする司祭が多いくらいですから、何でもかんでも日本的なものは否定されるのでしょうか。 恐ろしいまでの権威主義ですね。 メールにはこうも記されていました。 「2001年4月4日父親からM主教へ渡された被害申立手記が記録簿につづられていた。同じものがM主教からK主教に引き継がれた筈だ。M主教はその内容を読んですぐH司祭を呼び、辞表を書くようにと告げたほどひどい内容だったのだ。」(姓をアルファベットにしたのは私です) この時から6年も経っているのに、何ら誠実な対応がなされないので被害者とそのご家族は教会を離れてしまわれたのではないでしょうか。誠実な対応がなされていれば、離れることはあり得ない方だったのではないでしょうか。 そしてこの一文は、最早言い訳無用です。 「H司祭は後ほど判事からこの土下座の意味を問われた時『京都に配置移動が出て、教会を去るとき双方が恋愛感情を持つにいたり、それを振り切って聖光教会に移ったので、それが原因で彼女が〇〇したと思い、それを謝る意味で土下座をした』と判事に釈明している。全く説得力のない何んという卑怯な言い訳ではないか。」 司祭がまだ18歳未満の少女との間で恋愛感情を持つということ自体、破廉恥きわまりないことです。ご自分でそれを法廷で証言されているのです。ですから裁判記録に残っているのです。これでもなおH司祭を庇おうとされる主教や司祭の考え方がまったく理解できません。神学以前の問題です。おぞましいことです。高校生同士が恋愛感情を持つというならいざ知らず、結婚している司祭が18歳未満の少女に恋愛感情を持つということは、誰がどう考えても間違っていることではないでしょうか。 京都教区は喪に服した方がいいのではないですか。喪に服すという言葉が不適切であれば、徹底的に謹慎した方がいいのではないですか?「教会を去るとき双方が恋愛感情を持つにいたり、それを振り切って聖光教会に移ったので」という証言は、京都教区の当時現職だった常置委員長の証言です。この証言を知っていながら(傍聴した?)「最高裁判決に抗議する」とおっしゃったのだとすれば、これこそ本当に問答無用ではないでしょうか。それともK司祭は、傍聴してきたことをK主教には報告しなかったのでしょうか。 私には、K司祭が傍聴に行ったということが信じられません。どの時点での裁判を傍聴されたのでしょうか。判決公判ですか? 「糾す会」のメールには次のようにも記されています。 「早期の収拾を祈るのは私だけだろうか。この加害者の司祭は経済的、社会的制裁を受け、すべてを剥奪されたとはいうものの、未だに事実無根を主張していることはだれが考えても社会通念上許されることではない。これは新たな人権侵害になるのでは?」 いまだに「事実無根」を主張しているということは、京都教区が事実と認めたことを否定していることです。京都教区は、新たな課題が生まれています。加害者の処遇です。「事実無根」を主張しているということは、悔悛の情はまったくないということですから、すぐにでも審判廷をK主教の責任で開廷し、きちんとした審判を下すべきなのではないでしょうか。オーディネーションは取り消せませんが、しかし「終身停職」という規定が法規にあるのではないでしょうか。
2007.07.01
「天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として捧げます。どうか、聖霊によってわたしたちをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください。」 日本聖公会の祈祷書にある「聖餐式」の最後のところで唱えられる祈りです。有名なトマス・クランマーカンタベリー大主教が造った祈りが原文だと聞かされています。トマス・クランマーの神学について私はよく知りませんが、この祈りの内容は、神学的に大きな問題になるところはないと思っております。 しかし、「聖霊によってわたしたちをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください」という祈りが、いまの日本聖公会で本当に心から捧げられているのでしょうか。不思議でなりません。 この祈りの言葉の前に、こういう祈りがあります。 「主はこれによって、わたしたちがみ子の体のえだであり、み国の世継ぎであることをいよいよ明らかにしてくださいました。」 主イエス・キリストの体と血のお恵みに与れたことを感謝し、そしてそのことによって「み旨を行う者とならせてください」ということなのではないかと思います。 沖縄教区の不明瞭な土地売買に始まり、それを取材し記事にした聖公会新聞の編集長を罷免し、いくつかの教区で多額の使途不明金を出しておきながら、信徒の横領については刑事告発したにもかかわらず、聖職の使途不明金には目を瞑り続けてきていました。そして、長年にわたる女子児童への準強制わいせつについて、いまだに京都教区は誠実な対応をしようとしていないばかりか、被害者とそのご家族が教会離脱を宣言されても、誰も責任を感じていらっしゃいません。それは、この世の司法権よりも、主教の権威の方が上にあるとお考えになっていらっしゃるからのように見えます。 裁判記録を閲覧された方のご報告では、被害者が提出され証言された被害状況を、裁判所はすべて事実として認定しているにもかかわらず、最高裁の上告棄却(あれは、少しでも民事訴訟法を知っている方は、無駄な上告だと思われるような上告なのだそうですね)によって高等裁判所の判決が確定した後も、「事実無根」を主張し続けていました。そして、他の被害者からの申し立てがあってはじめて、京都教区は現職司祭による準強制わいせつを事実と認定され、県庁で謝罪の記者会見を行われたのですが、裁判を傍聴に行くこともなく、そして裁判記録を閲覧することもなく、何故「謝罪の記者会見」が出来たのでしょうか。 「栄光は世々に限りなく、父と子と聖霊にありますように」 最後にこう祈ります。「世々に限りなく」とは過去も現在も未来もという意味であろうと思いますが、栄光は父なる神と子なるキリストといまもこの世にあって力強く働いてい給う聖霊にあるという信仰の告白です。この中に、人間である聖職は入っていません。これは、聖職が「父と子と聖霊の御名によって」と口にする時に、それが聖職の行為ではなく神の出来事であるということの宣言なのではないでしょうか。ですから、この陪餐後の祈りのためのルブリックに、会衆だけではなく「一同次の祈りを唱える」と記されているのだと思うのですが‥‥‥ 定型化された祈りは、ある意味で、信仰告白だとも言うことが出来ると思います。 そろそろどの教会でも御ミサが終わって、それぞれのお集まりが行われていると思います。そうした時間の中で、日本聖公会京都教区だけでなく、日本聖公会のすべての教区の教会が、あの現職司祭による長期間の準強制わいせつ事案と、それに対する京都教区の対応に関して真剣に学んでいただきたいと思っております。わたしたちの教会では、ことある毎に、様々な問題を話し合っています。そして、知らないことはすぐに調べたり、専門家に尋ねたりしています。最近の話題で興味深く思っているのは、日本の改革は教会とカルヴァンの関係です。特に聖餐論です。日本の改革派の多くは、アメリカ経由のオランダ改革派の影響を受けていますから。そして、教派によっては、女性は「長老」にさえなれません。
2007.07.01
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