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海上保安庁の保安官が違法行為で捕まったり、自衛官が覚醒剤を持っていたり、賄賂を受けていたりしています。社会保険庁の杜撰な台帳管理システム問題は、総理大臣の責任まで問われはじめています。 今朝の新聞のサイトには、警察官が捜査情報を捜査対象者に漏洩し、その見返りに10万円前後のお金を受け取ったというニュースが載っています。世の中は公務員に対しては異様なまでに騒ぎ立てるのですが、キリスト教会の中では、ただただひたすら事件隠しに奔走しているようです。それも、何事もなかったかのように事件を隠し、その事件に対する宗教教団上層部の誤った対応さえもが、「御蔵入り」されようとしています。 カルトと言われる宗教教団は、オウム真理教のような団体にだけ使われているとお考えになっていらっしゃる方が多いようにも思えますが、私は国家の法秩序に違反した行為を、「信仰」とか「教理」という当該宗教団体の内部でしか通用しないことによって正当化している宗教集団をカルトと呼んでいます。日本は、憲法によって信教の自由が保障されています。そして、それぞれの宗教教団が持っている歴史的財産を国家が保護するために、宗教法人法を定めています。宗教法人法第1条では、宗教法人法の目的を「この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。」としています。また、同条第二項では「憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。」とも記されています。 しかし、一般民衆の意識はどうでしょうか。宗教法人として認可されている宗教団体は、「その内容を国が認めている」と誤解していないでしょうか。あるいは、何らかの宗教集団に積極的に参加している方々の中で、この宗教法人法の規定をご存知の方は何%いらっしゃるでしょうか。 つまり、宗教法人になっているということは、日本という国家の法秩序の中でその宗教教団は存在しているということでもあると思います。もっと具体的な事柄で言えば、日本の法律に違反した犯罪行為の実行者を擁護するということは、国家の法秩序を無視したものであり、法治国家の枠組みの中に存在する宗教法人としての宗教集団にとって最悪の出来事であると言わざるを得ません。 沈黙や現実無視という行為も同じだと思います。 犯罪が行われていたことを知っていながら、正当な理由もなく、あるいは自首をすすめるわけでもなく、その事件に沈黙していたとしたら、それはたとえ宗教者としても「犯人隠匿」とされても不思議ではないと思えます。かつて、「種谷裁判」でキリスト教は、聖職者の牧会的行為を宗教行為として認定され、種谷先生は無罪になりました。種谷先生が「犯罪」者と語り合った行為が、宗教者の牧会的行為であると認定されたからです。 しかし、犯罪者の行為を否定したり、あるいは被害者やその支援者に対して誠実な対応をしないことを、私には牧会的行為だとは思えません。犯罪者に対してその事実をはっきりさせ、被害者の証言に耳を傾けてはじめて、牧会が成立するのではないでしょうか。そしてそれは同時に、日本という国家の法的枠組みの中で判断されなければなりません。でなければ、国家の法的枠組みの中に存在している宗教法人を辞退すべきだと思います。日本の教会の中には、時として、国家の法的枠組みを越えて福音を語らなければならないことを考えて、宗教法人設立申請をしていない教会もあると聞いています。 教会は常に、キリストの福音を語らなければなりません。 そして、主イエス・キリストが何をしなさいとおっしゃられたかをしっかりと心に留めなければなりません。主教や司祭に権威があるとすれば、それはあくまでもキリストの福音のもとにあるのですから、すべてはそこから考えなければならないと思っております。 日本のキリスト教の聖職の方々は、是非この問題に目を向けていただきたいと思っております。これは教会と国家の関係の問題に密接に結びついています。国家の法秩序の中に存在している宗教教団の聖職が、明らかに刑法に規定されている犯罪を犯したと裁判所が認定しているからです。そして、その事件の後の教区の対応があまりにも理不尽だからです。 同じようなことが他の教派でも起こっています。しかし、それに対する対応はあまりにも理不尽なものです。「糾す会」のサイトにある九州の方のお嬢さんの事件も、教会は真剣に見つめなければなりません。「あの先生が‥‥」という想いを先行させてはならないと思います。現実に起こったことを、しっかりと認識した上で、法秩序に違反した行為を教会はどう考えるかということを真摯に考えなければならないと思っています。信仰は、自分の心が平安になるだけのことではありません。聖書を読めば、すぐにそれが理解できるはずです。信仰は、聖書の御言葉を人生訓として受容することでもありません。この現実の世界にあって、主の十字架を見つめながら生きることではないでしょうか。 「行って、あなた方も同じようにしなさい。」 「信仰義認」という言葉が、この主イエス・キリストの言葉を歪めてはならないと思っております。M.ルターは「わらの書簡」と呼んだそうですが、ヤコブの手紙にはこう書かれています。 ヤコブの手紙第2章18節以下(日本聖書協会『新共同訳聖書』) 「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
2007.06.26
フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節(新共同訳) そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 私たちは御ミサの時に跪きます。それは、司式者に向かってでも、祭壇に向かってでもありません。正に、主イエス・キリストの父なる神に向かって跪いています。アメリカ人やヨーロッパ人は、就寝前にベッドのところで跪いて手をベッドの上に置いて祈る習慣を子供に教えるそうです。私がホームステイをさせていただいたお宅の奥様も、まだ未就学のお嬢さんにそれを教えに二階に上がって行かれました。 私たち日本人は、最敬礼をしなければならない時があります。腰を90度曲げてご挨拶することですが、しかし、私たちは神の御前以外では跪きません。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(6節~7節) 私たちが毎日見上げている十字架の上のキリストは、僕の姿になりきられたキリストのお姿でした。荊の冠を頭に載せられています。このキリストの教会は、決して、人間の権威によって建てられたものではありませんでした。「使徒継承」という言葉がありますが、人間的な権威を継承してきたものではありません。この「僕となり給うたキリスト」の眼差しの下に、従順であるために神によって定められたものです。ローマ・カトリック教会にとってはそれが教皇制であろうと思われますし、多くのプロテスタント教会にとっては信仰告白がこの従順さだったのではないでしょうか。ディアコノスもプレスブテロスもアポストロスも、僕になり給うたキリストに仕えるための権威以外は与えられていないのではないでしょうか。(この三つの単語を教派ごとに別々に訳してしまったことは、日本の教会にとってはマイナス要因だったかもしれません。元のギリシア語は一つなのですから) 主教が聖域の中央に祭服を身にまとって立つとき、時として会衆はその姿に、この世的な権威を見てしまっていないでしょうか。ある人々は、その一部がご自分達が捧げたものであることに、至福を感じていないでしょうか。 「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(8節) 主は腰を覆うわずかの布と荊の冠しか身につけていらっしゃいませんでした。教会の聖職にとっても、信徒にとっても、従順でなければならないのはあの十字架にかかり給うた主イエス・キリストだけです。私たちは、キリストを通してしか神に祈ることもできません。「主の御名によりて」とか「主イエス・キリストの御名によって」と祈りの最後に付けるのはそのためです。私たちは祭司を通してではなく、あの十字架にかかり給うた主イエス・キリストを通して神に祈ることが出来るように、その主イエスご自身によってされたのです。 それが、ルカ福音書23章45節にある「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ということの意味なのです。 私たちの祈りに上手も下手もありません。慣れているとか慣れていないということもありません。日曜学校の小さなお子さんが祭壇の前で十字を切っているのを見たことがあります。澄んだ目が、祭壇の上のキリスト像をじっと見つめていました。 ですから、何かを「祈りによって解決する」ということは、主イエス・キリストのあの十字架の出来事から解決するということでなければなりません。自分の願いから、解決することではありません。主の御前にへりくだって、すべてを失ってでも、あの十字架の主に自らをお委ねし、十字架の主の御足の跡を追い続けることではないでしょうか。 主イエス・キリストの父なる神よ、 私たちに、あの十字架にかかり給うた主イエス・キリストの御足の跡を歩むことが出来る知恵と力と勇気を与えて下さい。 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
2007.06.21
マタイ福音書5章21節~28 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 マタイ福音書が書かれた時には既に、聖餐式は行われていました。 ですから、この「祭壇に供え物をささげようとする場合」という言葉に、会衆は聖餐式を思い浮かべていたことは想像に難くありません。「兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら」 ここでいわれている兄弟という言葉はその聖餐式を共に守っているものを意味していたと考えられます。当時の習慣からして、男性だけをいっているのではなく、女性をも含んでいることは間違いないと思います。 マタイ福音書は、そして、こう続けます。「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し」 この「供え物を祭壇の前に残しておき」という言葉は、聖餐式を始めないで」という意味にもとれます。「、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」 和解は力で相手をねじ伏せることを意味しません。 和解は言葉で相手を言い伏せたり、言いくるめたりすることを意味しません。 和解は、主の平和です。罪を犯してしまった相手にまず謝罪し、そして自らの罪を主の御前に告白し、悔い改め、心からへりくだって主の御前に近づくものに与えられる、主の平和です。そこには最早、戦いも対立も遺恨もあってはならないものです。言い換えれば、相手への謝罪と主への罪の告白とそのことに対する謙遜さがあってはじめて、そこに主が与えて下さる平和だからこそ、戦いも対立も遺恨も消えるのです。平和は主から来ます。だからこそマタイ福音書は5章9節で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と記されているのではないでしょうか。 日本聖公会は、もう一度聖書を読み直す必要があるのではないでしょうか。教会の組織や権威よりも大事な主の御言葉があるということを、しっかりと認識されるべきではないでしょうか。綱憲の第1にこう記されています。「旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道を悉く載せたるものと信ずる。」(2006年10月31日に日本聖公会管区事務所から発行された『日本聖公会法憲法規』より引用) 聖書が告げる平和は、単に戦争がないというような意味ではありません。正にそこに主が臨在し給う時と場であることを告げています。それは正に「エル シャライーム」=エルサレムということです。神の時、神の場です。人間的な想いによる、対立や紛争がないということだけではありませんし、まして「なぁなぁ」でことを済ませることでもありません。 日本聖公会は、何かを勘違いされているようです。 100匹の羊の中の1匹がいなくなっているのに、そのことを痛みとして感じていらっしゃらないようです。「兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出し」ていらっしゃるようですが、こころはご自分と残りの99匹に向いていらっしゃるようです。しかし、聖書は私たちに何を語りかけているのか、私たちクリスチャンは、心を静めてもう一度聖書の御言葉を、繰り返し繰り返し読み直してみたいと思います。あの綱憲の言葉が真実であれば、たとえカンタベリー大主教であっても、聖書の御言葉を削ったり、付け加えたり、変えたりすることは出来ません。私たちすべての判断を聖書の御言葉からすべきです。そして、主教といえども、聖書の御言葉をご自分に都合のいいように解釈されることは許されません。でなければ、聖書学は何の意味も持ちません。 信仰は人間の知恵ではありません。聖書の御言葉によって、神の救いの現実とあの十字架に死なれ、黄泉に下り、三日目に甦り給うた主イエスキリストがサクラメント(聖奠)に現臨(Real Presence)されることへ絶対的な信頼です。いいかえれば、神様が今も私たちを救おうとされている事実と、あの主イエス・キリストが共にいて下さるという事実への徹底的な信頼が信仰であり、だからこそ私たちは毎主日ごとに主の御体と御血のお恵みに与っているのです。 主よ、失われた羊を探し出して、また共にいることが出来るようになれるための信仰と勇気を与えて下さい。 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
2007.06.18
3月30日 大阪高裁判決 原告(被害者)勝訴 4月15日 被告(司祭)が最高裁へ控訴 (裁判中も原田司祭は常置委員長のまま) 7月19日 最高裁が大阪高裁の判決を支持、被告敗訴確定、 それでも原田司祭は解職されず 、 高地主教は原田司祭にウイリアムス神学館教授も 続けさせた 8月27日 テレビ・新聞が一斉に報道する 新聞報道をみて別の女性二人が性的虐待受けたと 教区に訴え 9月 5日 教区がやっと対応の誤りに気づき原告被害者と 他の被害者に謝罪。 原田司祭、金沢聖ヨハネ教会を 自主退職、だが本人は事実無根を主張12月 9日 高地主教奈良県庁で謝罪の記者会見をする、さらに4女性の 被害者があったこと、原田を陪餐停止の処置を取ったと発表。 同日 21時45分NHKテレビで報道、翌日に新聞が一斉に報道 これは一昨年2005年のことです。それ程以前のことではありません。 高裁の判決文及び裁判記録の閲覧は、奈良地裁葛城支部ですることが出来ます。裁判記録の記号は <奈良地裁 民事 平13(ワ)193号>です。閲覧費用は150円、これは収入印紙で納入します。 諸注意などは<FH司祭問題を駁す>というブログの6月9日のところに、丁寧に書かれていますから、是非ご覧下さい。 「裁判記録を読んでそれを公表すると、被害者が可哀想だ」という意見が日本聖公会京都教区の中にあるようですが、これこそ正に事実の隠蔽をすることにしかなりません。恐ろしいです。原田司祭は「セクハラ程度で大したことはしていない」と思っていらっしゃる方がかなりいるようです。そして、中には「司祭や主教を審判廷にかけるなどとたいそれたことをするな」とおっしゃっている方もいるようです。 しかし、原田司祭が何をしたかということを想像で考えるのは一番危険なことではないでしょうか。現実をきちんと現実として認識するところから問題を考えることが出来るのではないでしょうか。「裁判記録を読んだら、他の被害者の方にも迷惑がかかる」という意見もあるようですが、その考え方自身が原田司祭の犯罪的行為を隠蔽することにしかならないのではないでしょうか。(刑事時効が過ぎているので「犯罪的行為」と私はいいます) 原田司祭は、以前にどなかたかおっしゃっていましたが、日本聖公会の法憲法規によれば、何の処分も受けていないことになります。高地主教が公表した「陪餐停止」ですが、審判廷を経ていないのでまったく無効です。また、教会の牧師を退職したのは自主退職です。これらの二つのことから考えると、原田司祭は司祭としての行為を制限されていません。御ミサを挙げることもできますし、レクイエムを執り行うこともできます。(聖公会ではレクイエムはサクラメント(聖奠)ではないから、司祭でがなくてもできますが) そして、京都教区自身がこの判決の正当性を「謝罪の記者会見」で認めているということを私たちは忘れてはいけないと思います。でなければ、あの時の謝罪は何だったのかということになってしまいます。 こうしてみると、日本聖公会京都教区は原田司祭の行為をまったく裁いていないということになりはしないでしょうか。教会は2000年近くの歴史の中で教会法を非常に大切にしてきました。7つのサクラメントにしても、聖職の職階にしても、あるいは一番大切な教理に関することも、教会会議を経て教会法として成立してきたのではないでしょうか。 日本聖公会京都教区はこうした教会法とその根拠をまったく無視しているようにしか見えません。「審判廷を開いたら、他の被害者の氏名が公表されるから大変なことになる」とおっしゃっている方がいるようですが、これなどは審判員の職権で氏名を伏せることは十分に可能なことですし、審判員が職権で伏せた氏名を審判員自身が他言するというような幼稚なことはなさらないと思います。もし日本聖公会の審判員がこれをしたら、日本聖公会は一切の信用を失ってしまうことになります。 原田司祭の事件そのものは、審判員が裁判記録を閲覧すれば十分ではないでしょうか。そして、その概略を被侵犯者に伝えればいいことかと思います。これで、審判廷の記録にきちんと残りますから。常識的に考えて、審判廷の速記録は残されるだろうと思いますから、この速記録を読めば後になっても審判の内容は確認できます。 日本聖公会は一日も早く審判廷を開くべきです。かつてある教団では「キリストの処女降誕には納得できないから、『乙女マリアより生まれ』ということについてはアーメンと言えない」とおっしゃった聖職がいらっしゃいました。しかし、その教団はその牧師を参考人としてさえ呼び出すことはしませんでした。教会の柱である、「ニケア・コンスタンチノポリス信条」や「使徒信条」を否定する発言を裁かなかったのです。結局、その問題は曖昧なまま通り過ぎてしまいました。ですから、これから同じようなことが起こっても、その教団はそれを裁くことが出来ません。発言者によって区別するとしたら、それは明らかに差別ですから。 様々な文書を拝見していて、日本聖公会の中に差別的なことが起こっていることを知らされて驚愕しています。先日は、日本聖公会から離れた兄弟?姉妹?の文書を拝見しましたが、日本聖公会の多くの教会では、教会員同士で「○○ちゃん」とかニックネームで呼び合っていることがあるようですね。危険なことだと思いませんか?初めて教会にいらっしゃった方は、自分は蚊帳の外にいると感じてしまわれますよ。それでいて、伝道ということを口にされているようですから、「私たちの仲間になれるまでには時間がかかるから、一生懸命入ってこれるように努力しなさい」ということなのでしょうか。 私の知り合いも、同じようなことを聖職試験委員長に言われたことがあるそうです。聖職試験委員長は何をお考えになっていたのでしょうね。確かにアメリカの教会ではニックネームで呼び合います。私も外国人の方の間では、英語的ニックネームで自己紹介します。しかし、アメリカは教会だけでなく、一般社会でもニックネームで呼び合うことがマナーに適ったことです。苗字で呼ぶことはむしろ失礼なことです。多民族国家の知恵だとアメリカ人から教えられました。しかし、日本聖公会は日本の教会ではないのですか?そして、教会はいつからムラ社会になったのですか?もしムラ社会の論理を持ち出すのであれば、伝道という言葉や宣教という言葉はお使いにならない方がいいかと思います。また、先程の聖職試験委員長は「伝道」という言葉と「宣教」という言葉を混同して使っていらっしゃったようです。今はもう、ご存知だと思うのですが、こうしたことはきちんと考えられた方がいいと思います。 聖公会の教会から信徒の親子が消えても、それも現職司祭による準強制わいせつ行為が原因で消えても、日本聖公会は何も言わないのですね。そして、日本聖公会全体として、この問題を真剣に考えようとされていないのですね。だとしたら、日本聖公会はNCCをはじめとしたエキュメニカルな活動の中で、特に女性問題や人権問題に関わる働きに参加することを自粛すべきです。そして、正義とか平和といった問題に関しても、自らの内にある問題を解決されてからの方がいいと思っています。 明日の主日、主教や司祭は、とりわけ京都教区の主教や司祭はどのようなおつもりで御ミサを挙げられるのでしょうか。ご自分の言うことを聞き、ご自分の悪口を言わない羊たちだけを集めて、ご自分達の過ちには沈黙したまま、御ミサを挙げられるのですか?それとも、あれは「聖餐」で「感謝と讃美の祭りだ」と弁解されますか?仮に御ミサが「感謝・讃美のマツリ」だとしても、追われるようにして逃げ出した被害者とそのご家族に対する謝罪なしで、その「感謝・讃美の祭り」を執り行うことが出来るのですか。 京都教区主教以外の主教さん達はどうお考えでしょうか。
2007.06.16
ヨハネ福音書7章53節~8章11節 人々はおのおの家へ帰って行った。 イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 この聖書の個所は嫌いだという方に出会ったことがあります。理由は「姦通という言葉が嫌だからです」ということだったのですが、本当のところは、性に関することをタブー視しているからのようでした。ですから、聖書は旧約の時代から性に対して実におおらかで、していいこととしてはいけないことをはっきりと区別していますし、旧約時代から伝わっている「ミシュナー」という口伝の律法にも、極めて具体的に性のことが書かれていることをお話ししました。男と女がいて、性の交わりがあって、はじめて神様がそこに新しい命を与えて下さるのですが、これもまた神の創造の秩序であると聖書ははっきりと伝えています。 日本のキリスト教には、ある意味で儒教的というか武士階級の考え方が残っているように見えます。武士社会は、性に関するタブー視と同時に、女性の童貞性を強く強調しています。しかし、日本国民の90%を占めていた農村地帯では、性に関しては非常におおらかでした。民俗学者はあまりここを強調しないのですが、東北のある町の民俗に関する研究書には、そのおおらかさが具体的に記されています。しかしそれは、けっして性の社会的混乱を意味していません。むしろ、結婚ということの社会的意味が完璧なまでに守られています。不倫は死罪です。これは男性にも女性にも適応されていますし、法的な記録ではなく、正に実例そのものが藩の公式記録として残っているところがあります。そして、おおらかであった村々で、こうした事件が記録されているのはごくわずかです。 「姦通の女」 彼女は姦通の現行犯で捕らえられました。この時代、男は姦通罪に問われなかったのでしょうか。なにしろ、主イエスのお話を聞こうと集まっている人々のところへ連れてこられたのです。目的は、ナザレ人イエスを試すためでした。主はそれを見抜いていらっしゃいます。 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか。」 律法学者たちやファリサイ派の人々が問い掛けたことは、立法という視点から考えれば当然のことかもしれません。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 主はそれだけおっしゃると地面にまたものを書き始められたようです。 「罪を犯したことのない者」 そういわれて、年齢の高い人々から去っていったと聖書は状況を説明しています。年齢の高い人から去っていった。それだけ罪を積み重ねてきたからでしょうか。それだけ過ちを犯してきたからでしょうか。時の流れは、人が罪を犯したことの連続かもしれません。 この時、この婦人は地面に立ったままでいたとは思えません。律法学者やファリサイ派の人々によって押し倒されるように地面に倒れ、そのままの姿勢で主の御前にいたのではないでしょうか。椅子に座って、ふんぞり返っていたのではありません。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 「主よ、だれも」 主には見えています。そこにこの婦人とご自分しかいないことが見えています。にもかかわらず、この婦人に「誰もいないのか?」とお尋ねになり給うています。この婦人は、この主の言葉で伏していた顔を主に向けたかもしれません。 「主よ‥‥‥誰も‥‥‥」 徹底的な謙遜さと徹底的な悔悛から、婦人はこの言葉を絞り出すように語っているのではないでしょうか。「主よ‥‥‥誰も‥‥‥」 この言葉に主の言葉が高らかに宣言されています。 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 主イエス・キリストの十字架による罪の赦しはここにあるのではないでしょうか。 主よ、 自らの罪をあなたの御前に告白し、悔い改める信仰と勇気を与えて下さい。 主イエス・キリストの御名によって、 アーメン。
2007.06.15
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。」マタイ福音書16章18節 ローマ・カトリックはこの言葉を根拠に、使徒ペテロから続いている教皇制を守り続けてきました。しかし、ルターやカルヴァンだけでなく、所謂プロテスタント教会は、この「岩の上」の岩を、ペテロ自身ではなく、ペテロの信仰告白だと考え、教皇制を否定しました。聖公会も教皇無謬説に反対してきているはずです。しかし、H司祭による準強制わいせつに関する一連の主教や教区の対応を見ていると、主教自身が教皇になってしまっていて、主教無謬説を聖公会は堅持しているのかと思えてしまいます。 もっともっと多くの方々があの裁判の裁判記録を読んで下さるといいと思っています。そして、大きな衝撃を受けるといいと思っています。H司祭は事実無根だとおっしゃっているそうですが、大阪高裁は被害者の主張を全面的に支持しているそうですね。それにも関わらず、いまだに村岡氏や堀江氏を揶揄・罵倒するようなメールがネット上を流れているらしいのですが、本当でしょうか。信じられません。また、大阪高裁の控訴審の記録もお読みになっていらっしゃらないようで、これも信じられません。 K主教は一昨年、謝罪の記者会見をお開きになっていらっしゃるのですよね。あれは何だったのですか?世間を欺くための方便だったのですか?私の周囲の方々は皆さんそうおっしゃいます。 2ちゃんねるという掲示板に「道義的にはどうだか知らんが慰謝料支払った時点で民事は終了だろ・・・ 」とか「『準強制猥褻だ!カルトだ!箝口令だ!洗脳だ!』って、騒ぐ方にとってはエキサイティングなネタだろうけどさ。野次馬根性を正義感にすり替えてないか? 」と書かれています。おそらく聖公会の関係者だろうと思うのですが、お金を払えばそれで決着、犯罪行為については既に時効だから、いい加減で騒ぐのを止めろよとでもおっしゃりたいのでしょうか。「糾す会」や村岡氏は「野次馬」ですか? 沈黙してきた聖公会の主教や司祭は、もう二度と「殉教」という言葉を使わないでいただきたいと思っています。皆さんに殉教者の心は理解できないと思います。目の前で苦しんでいる女性を無視できるのですから。 「人権」だとか「平和」だとかいう言葉を使わないで欲しいのです。K主教やK司祭を第4次被害者だとおっしゃっている方がいらっしゃるそうですね。加害者をかばい続け、一旦は「謝罪」の記者会見を開いておきながら、いまだに被害者に謝罪に行かないH司祭をそのままにしていらっしゃるのですから。 聖公会の教会はペテロの上にでも、ペテロの信仰告白の上にでもなく、主教の権威の上に建っているようですね。主教杖はいつから権威のシンボルになったのですか?マニプルはいつから主人がし始めたのですか?
2007.06.14
あの事件のことをある方から知らされたとき、私は一人、書斎にこもって泣きました。何故か判りません。涙が止めどもなく流れたのです。悲しみの涙と、苦しみの涙と、そして怒りの涙でした。この被害者の方と同じくらいのお嬢さんを何人も教えてまいりました。小学校の時から高校を卒業するまで私のところへ来ていたお嬢さんもいました。それぞれ、ご両親やご祖父母の皆さんに愛され、慈しまれ、育まれてきたお嬢さんたちです。「手塩に掛ける」とは正にこのことだと思われます。そして、あの被害者の方々は途轍もない苦しみを背負わされたのです。それも、信仰に関わる言葉で呪縛を掛けられて、準強制わいせつ行為をされていたのです。具体的なことはもう書きたくありません。私も遅々たる歩みではありますが、いまでも神学の道を歩ませていただいている者です。 そして、加害者が神学館の教授だと知って、また涙が出てきました。そして、その加害者の「事実無根」を援護した司祭は女子大のチャプレンだと知って、怒りがこみ上げてきました。 ルカ福音書23章39節~43節(日本聖書協会『新共同訳聖書』 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』 すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」 「私を思い出してください。」 私たちが捧げる御ミサは、いつもここにあると思っています。あの十字架の出来事を神様に想い出していただき、救いを求めることではないでしょうか。「私の記念として」という言葉は、「私を想い出すために」とも訳せます。つまり、「神がキリストの十字架を想い出して下さるために」とも訳せるのがあの「私の記念として」という言葉であるように思えます。紀元前にヒブル語の旧約聖書をギリシア語に訳した「七十人訳聖書」というのがありますが、その中で「私の記念として」と訳されている言葉の多くは、「神が私を思いだして下さるために」という意味で使われているそうです。 主は、自らも十字架にかかりながら、横にいる犯罪者に語りかけました。 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 口語訳では「パラダイス」と訳されていました。新共同訳は地名と人名以外は、基本的にすべて日本語にするという大前提があったので、「楽園」と訳されているのだと思います。 「パラダイスにいる。」 自らの罪を告白し、いま処刑されようとしている人に、「私と一緒にパラダイスにいる」と語りかけていらっしゃるのです。主の十字架は、悔い改める者に、十字架の死による贖いの恵みを与えるためのものでした。それが福音書の核心部分です。 主は、この悔い改めた人を十字架刑から解放していません。しかし、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語りかけていらっしゃるのです。 私と一緒に‥‥‥ 主イエスと一緒に‥‥‥ あまりにも悲しい出来事の中で、主は悔い改める人々と共にいらっしゃるのです。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と口にした人の方を主はご覧になっていらっしゃいません。本当に厳しい選択を主は求めていらっしゃいます。十字架刑に処せられたこの人は、相当の罪を犯した人であろうかと思われます。 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」 ローマ帝国の圧政に対する反逆者ではなかったように思えます。 自らの罪を悔い改め、そして他の人々が罪を認め、悔い改められるように祈ること。御ミサはそこから出発し、そこに帰結するのではないでしょうか。 すべてを見そなはしていたもう全能の神よ、 被害者とそのご家族を今宵も主がお守り下さいますように。そして、過ちを犯してしまった人々が一日も早く悔い改めの道を歩み始めることが出来ますように。 主の御名によって、アーメン。
2007.06.13
今日は暑いですね、東京の山の手は30度を超えました。これから灼熱の夏が続くのでしょうか。奈良も京都も大阪も暑そうですね。今ほど、風来坊さんのブログを読みました。どなたがお書きになられたかは判りませんが、悲しくて涙が止まりません。加害者が責められていることの痛みをお感じになっていらっしゃるのでしょうが、信徒の方であれば致し方ないと思います。サクラメントを執り行い、御言葉を語る聖職の方々がここまで批判されているのに耐えられないお気持ちは、よく判ります。 しかし、私たちはそこでふと立ち止まり、その悲しみが誰によって引き起こされたのか、そして私たちの悲しみよりも十倍も二十倍も苦しんでいる被害者とそのご家族がいらっしゃることを、しっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。被害者は小学校四年生でした。そして、高校へ進学した後も同じようにされていたのです。 もしかするとこの方は、村岡さんの裁判記録閲覧レポートをお読みになっていらっしゃらないのかもしれません。あの高等裁判所での裁判記録に記されている原告側の主張がすべて事実であると認定されたから、請求された慰謝料の満額が認められたのではないでしょうか。そして、高地主教も古賀司祭も、京都教区の司祭は誰一人お読みになっていらっしゃらなかったのではないでしょうか。 そもそも、原田司祭の裁判に、高地主教をはじめ司祭のどなたも傍聴には行っていらっしゃらなかったそうですが、何故なのでしょうか。私には信じられないことです。司祭は主教から按手されているのではないでしょうか。いわば、主教の手となり足となって、サクラメントを執行し、イニシエーションを行い、御言葉を語り続けているのではないでしょうか。その司祭が、準強制わいせつ行為を理由に、民事裁判に訴えられているのですから、当然のこととして主教は傍聴に行くべきだったのではないでしょうか。あるいは、高裁の判決が出た直後に、判決文を熟読されるべきだったのではないでしょうか。 ここに大きな問題があるのではないでしょうか。 被害者もそのご家族も日本聖公会京都教区の教会員です。主教にとっては、ご自分が神から託された羊のお二人です。だとしたら、主教は中立の立場でこの裁判を傍聴に行くべきだったのではないでしょうか。 教会とは何か、礼拝とは何か、サクラメントとは何か、そして聖職とは何か。正典(カノン)と信経(クレドー)と職制(オルドー)に関わる神学がきちんとなされていれば、こうした問題は起こらなかったはずです。神学的には極めて基本的なことだからです。聖公会では、洗礼と聖餐だけがサクラメントですが、しかし実質的にはあとの5つもサクラメントと同じように考えられているのではないでしょうか。堅信を受けなければ聖餐に与ることは出来ませんよね。聖公会の綱憲上は、聖餐はサクラメントですが、堅信はサクラメントではありませんが、しかし実質的には主教しか執行できないサクラメントなのではないでしょうか。 こうしたことに関するしっかりとした神学的裏付けがなければ、この「準強制わいせつ」事件を解決できるとは思えません。日本聖公会も、日本という国の宗教法人法によって利を得ている宗教団体です。だとしたら、日本という国の法律をきちんと守らなければならないのではないでしょうか。神学は常に、こうした神学自身の社会的意味を問い続けていなければならないと思っております。 「糾す会」への批判は、そのまま京都教区の主教や司祭に向けられるべきものではないかと思っております。一連の裁判記録閲覧レポートをお読みになっていらっしゃらないのでしたら、是非お読み下さい。他のブログなどにアクセスしたくないのであれば、私にメールを下さい。勿論匿名で結構でございます。「糾す会」以外の裁判記録閲覧レポートを3通、添付ファイルでお送りいたします。 寺夢 tera_dream_ms@hotmail.com 「糾す会」の方々はこれまで、裁判記録の内容を本当に穏便な形でしか公開していらっしゃいませんでした。この3通の裁判記録閲覧レポートをお読みになれば、それがお判り頂けると存じます。 他の方でも勿論結構でございます。タイトルに「裁判記録閲覧レポート希望」とだけお書きになって、上記のアドレスにメールをお出し下さい。出来るだけ早く、返信メールに3通のテキストファイルを添付してお送りいたします。 祈りましょう。主のお導きを祈りましょう。私たちが祈って、祈って、祈り続ける時、主が真実の路へ私たちを導いて下さいます。
2007.06.12
「糾す会」の一斉メールに下記の一節がありました。 * * * * * * * * * * * * 「こんな性犯罪牧師を京都のマリア教会は『お世話になりました!お世話に なりました、原田司祭さま、原田司祭さま!』と崇め、2001年4月に彼 がわいせつ行為を認め自ら退職に同意しますと言って聖光教会から引越しす る時に原田牧師が捻挫負傷しました。それを受けて、京都マリア教会のホー ムページの「おしらせ」欄に何んと書いてあったか 『原田司祭(常置委員長)さまが捻挫負傷されました、皆さんで回復のため にお祈りしてください』 と書かれていたことを記憶しています。」 * * * * * * * * * * * * やはり京都教区は事件の真相を知ろうとしていなかったか、あるいはまったく別の情報を知らされていたのでしょうね。もしかすると、京都教区の上層部(主教と聖職常置委員)によって情報操作がなされていたのかもしれません。これは大変な問題です。「信者さんを不用意に悩ませないために」ということがその理由だったとしたら、それは教会の指導者としては最低の行為ではないでしょうか。一見、「信者さん」に対する優しい介助のように見えるのですが、しかし現実に存在する被害者にとっては、二次的三次的加害を受けることになっているのではないでしょうか。 事件の現実を報せた上で、その事件の解決に向かって始めて現実的な介助になるのではないでしょうか。「事実無根」「虚言癖」という言葉が使われていたようですが、被害者に対してそこまで京都教区の上層部が二次的加害行為をすることが出来た根拠は何だったのでしょうか。 ことの真相は、もっともっと根深いところに、巨大な問題が隠れていないでしょうか。私の知人は、京都教区の上層部にあった意識に気が付いているようです。彼と電話で話をしていると、何となくそれが見えてきました。「糾す会」の報告にも、村岡氏や司祭様の裁判記録閲覧レポートにもそれは出てきていません。しかし、私が調べた範囲では、もっと重大な問題が隠れていたように思えるのです。そのことを問い質すと、私の知人は黙秘権を行使します。 まだ、確証をつかめていないので私もここには書きませんが、裁判記録を閲覧すればすべて見えてくると思っています。京都教区の上層部は勿論知っていると思われるので、審判廷でもこのことは明らかにして欲しいと思っています。 日本聖公会では、自らの正統性に対する意識が強すぎるために引き起こされた事件があまりにも多すぎるのではないでしょうか。教会制度としてのヒエラルヒーを強調するあまり、人権が無視されていることはないでしょうか。また、本来は文書で伝えなければならないことを、第三者がいないところで口頭で伝えるというという悪習が残っていないでしょうか。「言った」「言わない」の議論では、証人がいなければ結局は「言わなかった」ことになるということが頻繁に起きていなかったでしょうか。これは、実に不誠実なことであると同時に、教会のヒエラルヒーの中では、上位に立つ者に都合よくことを勧めることが出来るようになっているように見えます。そして、真実は信者には伝えられません。 おそらく、村岡氏や司祭様の裁判記録閲覧レポートが公開されて、京都教区の上層部は困惑しきっていると思います。彼らは、このレポートで事件の真相を知ったからではないでしょうか。もしそうでないとしたら、日本聖公会は最悪の似非キリスト教団体ということになってしまいます。一昨年、奈良県庁で謝罪の記者会見をしていますから、いまさら高裁判決を否定することもできません。将棋や囲碁であれば「投了」になっているのですが、京都教区の上層部は何をもたもたしているのでしょうか。日本聖公会法憲法規に「自首」に関する規定はありませんが、「自首」を否定する規定もありません。潔く、すべてを明らかにし、被害者とその家族に謝罪し、そして「糾す会」に対する暴言や悪口を謝罪すべきではないでしょうか。そして、そこがこの問題の解決の出発点になるのではないでしょうか。 そして何よりも「京都教区に任せている」とした主教会は、ことの真相を明らかにすると共に、二度とした事態が起きないことのために、法憲法規をもう一度整備する必要があるのではないでしょうか。特に審判廷に対する一般信徒をも含めた日本聖公会の構成員全員の審判廷に対する意識変革です。「波風を立てないこと」が善なのではなく、問題を真摯に受け止め、十分な配慮をもって事態を究明し、それを聖書とサクラメントの視点から解決していく道筋をより明確にすべきなのではないでしょうか。「審判廷」は、人間同士の裁きの場ではなく、キリストの教会による神の言葉への忠誠心の表白でなければならないのではないでしょうか。言い換えれば、そこで起きてしまった出来事を、神の言葉から解決を見いだす場ではないでしょうか。「審判廷」を「おしらす」にしないためにも、主教会は真剣にこのことを議論すべきなのではないでしょうか。同時に、主教制における主教の権威の範囲を明確にすべきなのではないでしょうか。世俗的権力を振るうことが出来る主教制を「アポストリック・サクセッション」と言えるでしょうか。 今宵も、被害者とそのご家族を主がお支え下さいますように。 加害司祭の心を主がお開き下さいますように。 そして、京都教区を主がお導き下さいますように。 主イエス・キリストの御名によりて、アーメン。†
2007.06.10
やはり京都教区は裁判記録をお読みになっていらっしゃらなかったようですね。それでいて、旧「考える会」=現「糾す会」に言っていることには間違いが多いということをおっしゃっていたのですね。裁判記録をお読みにならずに、よくも平然と「糾す会」を批判されましたね。原田司祭がどのようなことをしたかということをまったくご存知なかったのでしょうか。武藤主教が受け取った被害手記をお読みになっていらっしゃらなかったのでしょうか。私にはそう思えて仕方がありません。「セクハラ以外に大したことはしていない」ということを鵜呑みにされていたようですね。それで、判断を誤ってしまったのですよね。 最悪です。こんなことは小学校の児童会でもしないと思いますよ。問題が起きたら、その問題について一生懸命調べるのではないでしょうか。少なくとも片方だけの言い分を聞いて判断するということはないと思いますし、顧問の先生が正しく指導して下さると思います。日本聖公会の主教や常置委員会には、顧問の先生が必要なようですね。神学院の問題も然りではないのですか?使途不明金問題にしても、不透明で異様な土地売買問題にしても、然りではないですか?宗教法人法に違反して教会の土地を担保にするということは、社会全体に対する反逆行為です。 京都で、昔、岡林信康さん達がキリスト教会を痛烈に皮肉った歌を歌って批判されていましたが、あれからもう40年近くが経っています。私は、あの頃に神学院で問題意識を持っていた方々の文書を手に入れたことがあります。知人が私にくれました。確か、倉庫の段ボール箱の中に眠っているはずです。あの頃、教会の体質を批判した学生さんは皆、追い出されたと聞いています。 あの頃の体質は今でも続いていたのですね。女性司祭按手という一見リベラルなことを成し遂げたように見せかけながら、実質は封建主義体制を確実に維持されていたのですね。「封建主義」というよりは「親分・子分」の関係といった方がいいかもしれません。親分に逆らえばすぐにでも追い出されるのでしょうし、子分を手懐けておくために様々な裏工作が行われていたのではないでしょうか。こうした聖公会の体質は、新約聖書に記されているアポストロス(使徒・主教)とプレスブテロス(長老・司祭)の在り方とはまったく異なっているように思えます。 そして、もしかすると裁判記録を読むことが一番怖かったのは、主教や常置委員の司祭達だったのではないでしょうか。事件の真相を知ってしまうことが怖かったのではないでしょうか。常置委員会で被害手記が読み上げられた時の様子を知るとそうかなと思えるのですが。 しかし、もしそうだとしたら、主教も司祭も聖職であることを少しお休みされた方がいいかもしれません。キリスト教の聖職は、何があっても祈りを持って、誠実に現実を直視しなければならないのではないでしょうか。でなければ福音を語り、主の御言葉を語ることは出来ないのではないでしょうか。社会で起こっていることに対しても、個人の心の中で起こっていることに対してもです。 この世の現実からかけ離れ、まるで宙に浮いたような説教を、説教と言えるでしょうか。目の前で起こっていることに目を塞いだら、この怒っている当事者を神が救おうとされていることを知ることが出来るでしょうか。まして、目の前で起こっていることに覆いを掛けるようなことをしたら、最早、福音の告知者ではなくなるのではないでしょうか。「主教も司祭も聖職であることを少しお休みされた方がいいかもしれません。」と申し上げたのはそれ故でもあります。審判廷が結審したら、是非お考え下さい。
2007.06.09
私も原田司祭の準強制猥褻事件に関する民事裁判の裁判記録を閲覧したくなりました。これだけ恐ろしいことが起こっていたにもかかわらず、平然とした顔をしていられた主教や司祭にも会ってみたくなりました。 「堀江メ-ルで言及されている裁判記録は、かなり抑制されたものであることを確認しました。(原文には詳細な行為の陳述と絵図あり)」という一節は、堀江氏に対して今まで散々な悪口や誹謗中傷を口にしてきた人々に対する決定的な審判のメッセージですね。日本聖公会の体質がこれではっきりしてきたかもしれません。知り合いの携帯に電話をしているのですが、通じません。東京にいるはずなのですが‥‥‥ 彼がこのことを知っていたかどうかを確かめたかったのですが‥‥‥‥ 「かって堀江メ-ルが高田教会の礼拝堂、祭壇の再聖別をしてほしい、と記しておられましたが、礼拝堂、祭壇横、信徒の食事するテ-ブル上での詳細な陳述と絵図を見て、心情的に理解できました。」と記されていますが、前の村岡氏のメールにも同じようなことが書かれていました。 高地主教やその他の司祭は、こうしたことを知っていて、主日の聖餐式をそこで行っていたのでしょうか。キリスト教では按手の取り消しは出来ませんが、しかし、原田司祭は明らかに永久停職です。そして、もし知っていながら同じ場所で聖餐式を執行していたとしたら、主教や司祭も何らかの懲戒処分があって然るべきではないでしょうか。 日本聖公会は自らのレクイエムをした方がいいかもしれません。 こうした裁判記録に記されていることのすべてを事実として認知したからこそ、請求額の満額の慰謝料が認められたのではないのですか?これが刑事裁判だったら、実刑ではないのですか? 知り合いといま電話が通じました。「知ってたよ」とだけ言ってました。他にも何か知っているのかと問いつめても、「特別知っていることはない」としか答えませんでした。彼にとっては、日本聖公会はとんでもない教派であるにもかかわらず、誰にもその真実の姿を曝していないようです。「『糾す会』の方たちは、非常に温厚な方たちです」とも言ってました。彼はお会いしたことがあるそうです。 女性司祭を按手した日本聖公会が、現職の司祭による女子児童への準強制猥褻を行っていたことに対してどのように対応してきたのか。これは京都教区だけの問題ではないのではないでしょうか。「京都教区に任せてあります」という態度を貫いた主教会に、ひいては管区全体に大きな責任が発生しているのではないでしょうか。 病院で土下座して謝った時点で、犯行のすべてを認めているということなのではないでしょうか。それでいて、退職決定の10日後には「事実無根」を主張した原田司祭は、明らかな犯罪者です。そして、原田司祭の裁判を同じ教区内で行われているにもかかわらず、主教や常置委員の誰も傍聴に行かなかったということは、とんでもないことだお思いになりませんか?特に主教は、「来ないで欲しい」といわれても、傍聴に行かなければならない職責があったのではないでしょうか。 私も知り合いが裁判記録を読みに行く時に乗せていってもらうことにしています。一日では読み切れないかもしれないとのことなので、二日かけてじっくり読んでこようかと思っています。同じ日に、カラーのシャツを着た人々が来ていたらお話が出来るかもしれません。「来るわけがない。僕たちがいることが判ったら、そそくさと帰っていくよ」と知り合いは言っていました。「聖公会の権威主義を貫いても、簡単に論破できるからね。彼らの聖餐論は実に薄弱なものでしかない。しっかりと聖餐論を議論できる司祭は両手くらいはいるかな」と言って笑っていました。彼は神学的な話が出来る数人の主教や司祭を知っているようです。そういえば、来年、彼の聖餐論がもしかしたら出版されるかもしれないそうです。「聖公会の司祭達は読まない方がいい。自分たちがしている聖餐式がボロボロになるから」と笑っていましたが、聖公会のある司祭方は、彼のその論文を誉めていたようです。 「原田司祭は教会実習で何を教えていたんだろうね」とも言ってました。 私もそう思います。教会実習を教えている教授が、女子児童に対する準強制猥褻事件を起こしていたのですから。 先程の裁判記録閲覧報告メールを「糾す会」に送られた司祭さん、どなただったのでしょうね。そして、高地主教や古賀司祭はいまだに読みに行っていらっしゃらないのですか?京都教区のレクイエムの準備ですか?レクイエムをするなら、聖職だけにして下さいね。信者さんは騙されていたのですから。何も知らされずにいたのですから。もしかすると、常置委員でない司祭さん達はご存知なかったかもしれませんね。何しろ「主教にすべて任せていますから」というような返事しか返ってきていないそうですから。 聖公会の主教や司祭は、社会的責任という言葉をご存知なのでしょうか。と言っても、聖公会は高地主教や古賀司祭の辞表を受理しないようにして下さいね。そんなことをしたら、問題解決になりません。法憲法規に照らして、審判廷ではっきりと白黒決着を付けるべきです。「なぁなぁ」ですませてきた日本聖公会の体質がこうした問題を起こしたのですから、当然のことではないでしょうか。辞任というようなことでお茶を濁したら、それこそ取り返しの付かないことにならないでしょうか。 被害者とその家族が、もう一度、懺悔と悔い改めを済ませた教会で聖餐のお恵みにあずかれるようになることがなければ、京都教区の、あるいは日本聖公会の再生はあり得ないのではないでしょうか。 今宵も主が被害者とそのご家族をお守り下さいますように。
2007.06.08
「糾す会」からメールがありました。 取り急ぎ転載します。皆様、是非ご一読下さい。聖公会ほか関係者の皆さんへ新たな裁判記録閲覧報告がありました。【投稿】日本聖公会司祭、一斉メール受信者より6月7日(木)奈良地裁葛城支局を訪れました。遠路ゆえ午後1時ようやく到着、前日に申し込んでおいたので早速閲覧しました、帰路のため午後4時30分に退室したので、所要3時間30分。膨大な記録を読了することは不可能、飛び越し読みでしたが要点は読了できました。1、村岡レポ-ト、及び堀江メ-ルで言及、引用されている裁判記録の箇所は、いずれも原文と相違ないことを確認しました。2、堀江メ-ルで言及されている裁判記録は、かなり抑制されたものであることを確認しました。(原文には詳細な行為の陳述と絵図あり)3、かって堀江メ-ルが高田教会の礼拝堂、祭壇の再聖別をしてほしい、と記しておられましたが、礼拝堂、祭壇横、信徒の食事するテ-ブル上での詳細な陳述と絵図を見て、心情的に理解できました。4、有罪判決は主として以下の3点が有力な証拠となっていました。 イ、数年におよぶ行為の陳述が当事者でないと述べられないほど具体的である。 ロ、2001年、高田市の病院にかけつけた司祭が土下座して父親に赦罪したこと (病院関係者の目撃証言あり) ハ、2001年に司祭が送付した、被害女性及び父親にあてた長文の赦罪手紙 (全文のコピ-あり)5、京都教区セクハラ防止委員会に望むこと 足元で泣いておられる女性と家族の心の癒しと平安と信仰の交わりの回復のため、今後ともご努力をお願いいたします。万一裁判記録を閲覧されていない委員の方がおられましたら、ぜひとも閲覧をお願いいたします。防止のための数多くの学びができますし、防止の原点とヒントが記録のなかから読み取れます。 日本聖公会司祭、一斉メール受信者より
2007.06.08
「2003年8月 原田司祭は、主教選挙で第一候補に選ばれるが、主教になれなかったのは裁判が原因である旨の弁論(主張)を裁判所に提出します。」 村岡氏のレポートにこう書いてありました。 この時には既に、被害者は奈良地方裁判所に、「不法行為による慰謝料請求裁判」を提訴しています。7月9日のことです。にもかかわらず、主教選挙の第一回投票で原田司祭は最多得票者になっています。これが投票総数の過半数になっていれば、原田司祭は主教になっていたと考えられます。しかし、過半数に至っていなかったので、第二回の選挙が行われたのであろうと思いますが、この時にある議員が、原田司祭は「不法行為による慰謝料請求」に関して民事裁判の被告になっていると発言されたそうですね。それで、第二回以降の選挙で過半数を得たのが高地主教だったのでしょう。 ここにも大きな問題があります。教区会議員の間でさえ、原田司祭の準強制わいせつ事件は知られていなかったということになりますから、既にこの時点で事件の隠蔽工作が行われていたということを意味していると思います。この時、常置委員長は原田司祭だったのですよね。常置委員長である原田司祭にとっては、ご自分の準強制わいせつ事件に関してそれを隠蔽できるお立場にあったことになります。この時、武藤主教は何を考えていらっしゃったのでしょう。裁判で決着が付くまでは秘匿したいと思っていらっしゃったのでしょうか。しかし、これはないと思います。もし、「裁判で決着が付くまで」とお考えになっていたのだとすれば、高地主教にそのことを伝えていなければなりません。そして、仮にご自分の責任とお考えになっていらっしゃったとすれば、最高裁で上告棄却が言い渡された時に、問題のすべてを明らかにされたはずです。 2003年8月の主教選挙の時に原田司祭が主教選挙で選ばれ、原田司祭が主教になっていたとしたら、どうなっていたでしょうか。「現職主教の過去における準強制わいせつ事件」という言葉から、「過去における」が脱落していたかもしれません。たとえ、主教であろうとも裁判を避けることは出来ません。勿論、裏から圧力をかけることもできません。ジャーナリズムは「主教」という日本語を理解しているかどうか判りませんから「司教」という言葉を使ってしまったかもしれません。大変な事態が起こっていただろうことは想像に難くありません。今頃、京都教区の主教や常置委員はこれを安堵しているかもしれません。 しかし、2003年になっても、教区内の聖職や信徒議員があの事件についてご存知なかったということは明らかなことだと思います。まさか、知っていながら原田司祭を主教にしたとは考えられませんし、実際に原田司祭は主教になっていないのですから。それ以降、噂は徐々に広まっていたのではないでしょうか。そして、2005年7月19日の最高裁による上告棄却を迎えたのだろうと思います。高地主教や常置委員だけでなく、教区内の信者は相当なショックだったと思います。ただ、風来坊さんがご自分のブログでご説明されていますが、法的には上告自体が無駄だったようですね。何のために原田司祭は「上告」されたのでしょう。 日本聖公会の中に箝口令が敷かれたようです。 私のところに情報が入ってこなくなりました。私の知り合いからも入ってきません。<2ちゃんねる>の書き込みが減りましたね。日本聖公会には特高警察がいるのですか?それとも私設サイバーパトロールがいるのですか?あるいは、ご自分達は貴族の集団だと思っていらっしゃるのですか?イギリスにはまだ貴族がいますから。しかし、イギリスの下院(庶民院)議員の半数以上は王制はいらないと思っているのではないですか?上院(貴族院)はその「貴族」ということが形骸化し、有識者による再考議会という性格が強くなってきていますよね。それなのに、日本聖公会では主教は王直属の貴族ですか?言論の自由はないんですか?まぁ、司祭に結婚の自由がないくらいですから、一般人(信者)に言論の自由がなくても仕方がありませんよね。そういえば、最近は司祭の結婚は自由になったのですか?以前、某教区の司祭さんは、主教に結婚を反対されて他教派へお移りになっていらっしゃいますよね。恐ろしいところです。箝口令が敷かれても不思議ではありません。 このブログ、ここ二日ばかりは100人以上の方がアクセスして下さっています。今日はそれ程でもありませんが、関心を持って下さっている方が増えているようです。「準強制わいせつ」で検索すると、結構初めの方に出てきます。 箝口令は無駄だと思いますよ。箝口令などを敷けば敷くほど、民衆は関心を持ちます。それよりも一番支持されるであろう対応は、この事件とそれに対する教区の対応の過ちをすべて告白することではないのですか?「そんな事件はなかったし、対応も間違っていなかった。騒ぐ方が悪い。」という態度がはっきりと見えてしまったのですから、これ以上の悪あがきはお辞めになった方がいいと思います。当然のこととしてジャーナリズムはこの問題を知っていますし、関心を寄せていると思います。 堀江氏が去年の春頃、公開質問状を出されましたが、それを掲載した新聞社に「何故、あんなものを掲載したのか。『考える会』というのはどういう会か知っているのかね?あの会は一人でやっている会だ。原稿を掲載する前に何故自分に読ませてくれなかったのか?」と電話された方がいらっしゃいますよね。京都教区の主教さんですか?言論の自由を圧殺されるおつもりですか。あの編集長はあのあと少しして退職されたのですが、私の知り合いです。先日、お会いしてお話をお伺いしてまいりました。 神様が日本聖公会京都教区をお導き下さいますように。
2007.06.07
昨夜、知り合いとかなり遅くまで電話で話をしていました。 「原田司祭がしていたことは単なる準強制猥褻じゃない。被害者は小学生で、それを高校生になるまで続けていたんだ。しかも、ある意味では『姦淫』と刑法で表現されていることよりももっと猥褻かもしれないことをしていたんだ」と友人ははじめて教えてくれました。 2002年3月に原田司祭は「謝罪」手紙を被害者とその父親に送付していますが、それに関して、裁判記録には次のようなことが記されているとのことです。 「金沢聖ヨハネ教会にかかる金銭不祥事の弁済穴埋め等を自分がやったと述べ、それが原因の自暴自棄により、被害者のわいせつ行為に及んだと説明、当時の主教に原因責任があるとの主張です。当時、パチンコにふけり10万円もつぎ込むような生活状況の中での行為であったと続けています。(証拠:甲3号証)」 この金沢聖ヨハネ教会にかかる金銭不祥事」というのは、ある聖職が先物取引の補償金として銀行から多額の借り入れをし、それの利息が1000万円ほど焦げ付いていたことだそうです。それを原田司祭とその関係者が弁済したことを意味しているのであろうと思われます。それは、金沢聖ヨハネ教会の土地と建物が、多額の借り入れの担保になっていたからだとのことなのですが、不思議でなりません。 宗教法人法第二十三条には、「宗教法人(宗教団体を包括する宗教法人を除く。)は、左に掲げる行為をしようとするときは、規則で定めるところ(規則に別段の定がないときは、第十九条の規定)による外、その行為の少くとも一ヶ月前に、信者その他の利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。」とあり、その第1号には「不動産又は財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。」とあります。 その先物取引のための借り入れに際し、その聖職は宗教法人法のこの規定を遵守していたのでしょうか。教区常置委員会はこのことを承知していたのでしょうか。それにしても、日本聖公会の主教制度というのはあまりに理不尽なことが出来るのですね。自ら宗教法人として国家に保護されていながら、宗教法人法に違反した行為をしていたのではないでしょうか。 宗教法人法第一条 この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。 憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。 宗教法人であるということは、国家がその教理や儀式の正当性を保証するものではありません。法人としての能力を付与するということです。第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。 1.礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体 2.前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体 これらの団体に対して、一般からすれば課なりの優遇措置が採られています。 固定資産税は免除です。貯蓄や債券の利子利息は免税になります。 ただし、境内地を駐車場などの、宗教的儀式とは関係のない収益事業に供した場合は、その収入に対しては課税されますし、その駐車場の土地には固定資産税が課税されます。ただし、その宗教団体に参詣・参拝する人々のための駐車場であれば課税されることはありません。ただ、ここにも抜け道があるようで、年に一回お祓いを受ければ境内地への駐車が出来るというシステム?を採り入れている宗教法人があったそうですが、それを財務省がどう考えているかは、私は知りません。 京都教区は大丈夫ですか?駐車場を教会員以外の人に定期的に貸して、献金を受けていらっしゃいませんか? あるいは、主教や司祭が個人的に受け取ったものは、収入として扱い確定申告をするか、贈与税を申告しなければならないのですが、大丈夫ですか?結婚式や葬儀の謝礼も確定申告時に申告しなければならないのですが大丈夫ですか? 原田司祭は10万円もパチンコに費やしたようですが、そのお金は謝礼や贈与ではなかったのですか?日本聖公会では、教会に捧げられた献金を、主教や司祭は自由に使うことが出来るのですか? 村岡氏は次のようにも記されています。「2001年5月 原田司祭の聖光教会の牧師復職にあたって、4月に退職に同意したのは、”武藤主教が復職の約束をしていたからだ”などとする書面を、原田司祭は聖光教会で配布し、そのコピーを原田司祭側は証拠として提出しています。」 被害者とそのご家族は、この常置委員会で話し合われ決められたことを詳細に文書化して欲しいとおっしゃっているのではないですか?常置委員会の構成員には様々な意見があったようにも思えますが、しかし、原田司祭の復職が決められたのは事実です。まさかこの常置委員会に、準強制わいせつの加害者である原田司祭は陪席(退職しているから出席とは言えません)されてはいなかってですよね。仮に陪席していたとしても、陪席者が質問に答えるということはあったとしても、ご自分の意見を主張するということはないでしょうから、この議決はどうして決まってしまったのか私には判りません。 「4月に退職に同意したのは、”武藤主教が復職の約束をしていたからだ”」というのは本当のようですね。武藤主教は準強制わいせつの内容をご存知なかったのでしょうか。「わいせつくらいでたいしたことはしていない」と発言されたということも耳にしたことがあります。しかし、この時点で武藤主教は、被害者の手記を読んでいたのではないですか?ということは、被害者の主張を「事実無根」として退けてしまっていたことになるように思えます。私の知り合いは、このところの問題になると沈黙することが多くなりました。武藤主教をよく知っているからだと思います。 以前、こんなことを話していました。 「神学院での研修を終えて、東北へ帰るとき、ある教会で説教者としてボクを考えていたのかもしれない。それで、教会委員さんが集まっているところで話をするように言われた。それが説教させるかさせないかの諮問だということに気が付いていたから、あえて専門的な話を難しく話してきた。お陰で説教の話は出てこなかった。主教制の教会の説教者の資質を主教や司祭さえいないところで問うというシステムが納得できなかったから、あえてそうした。あそこにいらっしゃった信者さんは、ボクがあえて難しい話をしたということに気が付いていらっしゃらないと思う。」 その時の主任司祭が武藤主教だったようです。聖公会は、何もかもが矛盾だらけのようですね。主教制というのがこの世的な権威のシステムになってしまっているのではないでしょうか。主教杖の意味や、聖職という言葉の「聖」の意味が見失われてしまっているように思えて仕方がありません。 そして、原田司祭は2001年4月に、被害者が救急車で運ばれた病院へ夫人と共に駆けつけ、病院の廊下で土下座して謝ったことを何と弁解しているのでしょう。また、武藤主教はあの土下座をどう考えていたのでしょう。 そして、一番の問題は4月初旬の常置委員会にあるのではないでしょうか。 原田司祭の退職願を受理するのに、何故二日もかかったのですか。一般的な常識からすれば即決事案ではないですか。何を議論していたのでしょうか。この時にも「復職」という言葉が発せられていたのでしょうか。だとしたら大問題です。復職を認めるか認めないかは主教の判断と思うのですが、被害者との和解も何もなされていない時点で復職という言葉が出てきていたとしたら、「懲戒」ということは言葉だけのことになってしまわないでしょうか。あまりにもお粗末すぎませんか? 主教制の本来の意味を大きく逸脱してしまっている日本聖公会は、本当にアングリカン・コミュニオンの一員なのですか?
2007.06.06
「原田司祭の強制わいせつ事件の取材を続けているのですが、どうも、京都教区のみなさんへの、いずれかからの誤報?と歪曲?があるのではないかと危惧されます。」 村岡さんは裁判記録閲覧レポートの2にこう書かれていらっしゃいます。そして、次のように続けていらっしゃいます。 「私の専門的職業経験とジャーナリストの責任でもって、聖公会としての事件の解決と信頼回復の参考になればと思い、事件解決・信頼回復に役立ちそうなインテリジェンスを、裁判記録からレポートします。」 私が他から耳にしている範囲では、これは危惧ではなく現実だと思わされています。聖公会のメーリング・アドレスというのがあって、そこに登録しておくと、日本中の聖公会の情報が流れてくるそうですが、高地主教様方はそれを使って、「糾す会」や他の人々の意見を真っ向から批判されているようですね。 まさかこの期に及んで「あの裁判記録に記されていることは事実誤認で、原田司祭は潔白なんだ」とはおっしゃらないですよね。でないと、奈良県庁に報道関係者を集めて開いた「謝罪の記者会見」は何だったのかということになってしまいます。あの記者会見は、あの裁判記録を認めたことになるのではないでしょうか。そして、今までご自分達も知らなかった裁判記録が「閲覧報告レポート」という形で報告されることによって、愕然とされているのではないでしょうか。 「原田司祭は、被害女性の父親に手紙を送付。なぜか、手紙の冒頭には、金沢聖ヨハネ教会にかかる金銭不祥事の弁済穴埋め等を自分がやったと述べ、それが原因の自暴自棄により、被害者のわいせつ行為に及んだと説明、当時の主教に原因責任があるとの主張です。当時、パチンコにふけり10万円もつぎ込むような生活状況の中での行為であったと続けています。(証拠:甲3号証)」 とレポートには記されていますが、あまりにもお粗末な手紙ですね。仮にも、日本聖公会の教区常置委員長の書簡とは思えません。「それが原因の自暴自棄により、被害者のわいせつ行為に及んだと説明、当時の主教に原因責任がある」ということによって、自らの準強制わいせつ行為を正当化しようというのは言語道断です。呆れてものが言えません。原田司祭は本当に司祭なのですか?そして、また「金沢聖ヨハネ教会にかかる金銭不祥事」ですか。聖公会では、司祭が教会会計を管理しているのですか?お粗末な話です。 「『この手紙を書いているうちにラブレターになって…』とか『こんなに好きなのだから、それに応えて私を愛して欲しい。』などを書き、妻との性生活にも言及するのです。(証拠:甲4号証の1)」 これは最低です。性に関する倫理のかけらも見えません。性そのものは、仏教では超克すべきものですが、キリスト教では神の創造の秩序です。決して否定すべきものではありません。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の言葉は今でも変わることなく生き続けています。ですから、性そのものは開放的で自由なものなのですが、しかし、人間の社会の中にあっては個の中に止まるべきものです。と同時に、その倫理に関して教会は厳しく戒めてきました。妻帯者がこうした書簡を認めたこと自身、明らかに聖書に基づいた教会法に違反していると言わざるを得ません。日本聖公会に神学も教会法もないかもしれませんが、しかし、聖書がカノンであることをしっかりと認めていらっしゃるのですから、これを無視することは出来ないはずです。 審判廷では、ここのところも審議されなければならないと思っています。離婚ということをアプリオリに否定されている主教がいらっしゃるくらいですから、当然これが議論になると思っています。私の知り合いは奥さんに「逃げられた」のですが、ある主教はそれを事情も知らずにか「離婚」と断定されました。愚かなことです。彼が研究していることが差別問題に触れることだからですが、それをご存知なかったのでしょうか。私は、彼のところへ来た奥さんからの書簡やメールをすべて見せていただきました。一目瞭然です。確実にそれと判る文言さえありました。 もしかすると、あの主教様は彼のことで思い込みを持っていらっしゃるのかもしれません。恐ろしいことです。一人の人格を、現象面だけで捉えて判断するという、極めて愚鈍なことをされてしまったのですから。彼は私がそう言うと、笑っていました。「聖公会にいなくてよかった」と言いながら‥‥‥しかし、彼の両肩の筋肉は、復活することはありません。 「2001年4月9日 原田司祭は、武藤主教に届いていた被害女性の作成した手記を読むや、全面事実無根を主張、そして現在に至ります。」 どこが「事実無根」だったのでしょう。村岡氏は次のように記されています。 「この被害手記の内容は、判決文の別紙として、裁判官によりほぼ同一内容で被害概要に書き改められ、判決の一部として永久保存されることになりました。これには裁判所に対して原田司祭側が、原田司祭が刑事訴追であれば逮捕される事態の旨を公判尋問で証言するなどの如く、きわめて厳正な審理を要望した弁論によって、厳格に行った結果、民事裁判としては異例の詳細な強制わいせつ内容の認定となったものと思われます。」 判決の一部として永久保存されるのです。つまり、間違いなく準強制わいせつが行われたということを裁判所は、永久に記録しておくということなのではないでしょうか。教会に「赦し」はあります。確実にあります。あの主の十字架の贖いによって「赦し」は確実にあります。しかし、自らの罪を認め、その罪の告白があってはじめて主の十字架の赦しに与れるのではないでしょうか。自らの罪を認めず、それ故に罪の告白もなされることのない時、司祭や主教は「罪の赦しの宣言」をすることが出来るでしょうか。そして、この罪の告白がないから、原田司祭を陪餐停止にしたのではないのですか? 「2001年5月 原田司祭の聖光教会の牧師復職にあたって、4月に退職に同意したのは、”武藤主教が復職の約束をしていたからだ”などとする書面を、原田司祭は聖光教会で配布し、そのコピーを原田司祭側は証拠として提出しています。」 武藤主教様に責任を転嫁しようとしているようにしか見えません。確かに、武藤主教様もすべてを賭して、原田司祭の退職撤回を拒否すべきだったと思うのですが、原田司祭は自分の立場を主教が擁護しているということ、つまり訴えられていることは事実無根だと主教も思っているということを主張したかったのでしょうか。しかし、実に愚かなことです。 そして不思議なことは、一連の常置委員会での話し合いがあったのですから、主教や常置委員は原田司祭側の証人として何故出廷していないのでしょう。高地主教も常置委員の司祭も、傍聴にさえ行っていなかったと聞いています。本当なのでしょうか。ご自分達の教区の司祭が裁かれている法廷を傍聴に行かないということは私には理解できません。 村岡氏は、このレポートの最後の部分でこうおっしゃっています。 「ご存知のように裁判は公開で行ないます。被害者が訴訟を提起したからには、詳細なプライベートの開示を伴うことを覚悟せざるを得ないことが前提となっているのです。被害女性の証言速記録は、主イエス・キリストが彼女の後で支えっているかのような情景を、私に感じさせました。直接閲覧してもいない方が軽々しく『被害者の尊厳をもう一度損う恐ろしいこと』と口にすべきものではないと思います。」 審判廷の開廷を阻止しようとして「被害者の尊厳をもう一度損う恐ろしいこと」とおっしゃっている方がいらっしゃるのでしょうか。まさか、この問題の最高責任者である方々がおっしゃっているわけではないですよね。 村岡氏はこうもおっしゃっています。 「主イエス・キリストは組織の傘をかぶる者ではなく、被害女性に神の教えを堂々と行わせ述べさせたのだと思います。彼女は、自らプライベートを公開したことをはじめ、言葉では言い尽くせない勇気をもって訴え続け裁判を継続しました。」 信仰の戦いはこうしたところにあります。 主が支えていて下さるから、私たちは戦えるのです。自分の力で、自分の社会的権威で戦えるのではありません。この世は、聖職によって支配されているのではないのです。神ご自身がこの世に対して、聖霊としてお働きになり給うていらっしゃるのです。”We Shall Overcome” を風来坊さんは「俺たちの勝ちは決まっている」と訳されていますね。彼らしい訳です。「勝利を我等に」と訳されていますが、あの”shall” は必然の"shall" だと私も思っています。"We shall overcome someday." なのですから。 日本聖公会には、"Afro-Anglicanism"を理解することは到底無理ですね。 その存在すら知らない司祭さんがいそうです。
2007.06.05
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