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昨夜、「聖公会京都教区FH司祭事件を考える会」からメールが来ました。H司祭による児童に対する性的虐待事件のことを、時系列的に記してありました。 知人を通して「聖公会京都教区FH司祭事件を考える会」の代表の方の許可を得ましたので、その全文をここに掲示いたします。 詳しいことをお知りになりたい方は、下記のホームページにアクセスして下さい。 実に悲しいことです。以下、メールの本文。事件関係者の氏名はアルファベットにしました。ホームページから抜粋皆さん何回も読み直して祈りと高地主教への抗議お願いします。「聖公会京都教区FH司祭事件を考える会」 ホームページ http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html 代表 コルネリオ堀江静三(事件現場教会信徒) 日本聖公会 京都教区高田基督教会(創立1887年) (奈良県大和高田市本郷町9-27) 昭和13年2月誕生(69歳) 大阪聖バルナバ病院で 昭和17年12月25日 受洗 曾根茂樹司祭により 昭和27年12月7日 堅信式 主教 マッテア佐々木二郎 昭和39年11月結婚まで12年間同上教会にてオルガニスト この事件は被害者が小学4年から中学2年3月まで5年間も信頼していた牧師である家庭教師から「○○○○」を受けたことにより、大人になってから、重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、それが嵩じて、・・救急病棟へ運ばれ、家族から連絡を受け病院にかけつけたH牧師が土下座して謝罪したことから表面化した。実はそれ以前から被害者の父親がH牧師夫妻と示談交渉を重ねていた 「○○○○事件の背景、流れ」<1976年> 加害者H氏がウイリアム神学館入学 (27歳)<1979年> H伝道師は新潟県N市の教会を(ある出来事のため)退職 <1979年> Y司祭が主教の位に按手される (Y主教誕生)<1980年> H伝道師T教会(現場)に転入、翌年執事に。<1982年> H執事はY主教から司祭の位に按手(叙階)される<1983年> K牧師の父(S会の牧師)死去。前後して(○○○○犯罪 行為,しかし他の被害者は加害牧師が着任後しばらくして被害 を受けたとT主教に訴えた)<1984年> H牧師はウイリアム神学館助手に、後に教授に就任。(2005年9月5日付辞職するまで、ウイリアム神学館教授)<1988年3月>H牧師T教会(8年間在籍)より京都市内へ転出。 京都教区、財政に1億2千万円の使途不明金が出て、 Y主教辞任。 <1989年> O司祭は主教の位に按手される (O主教誕生) そして10年の時が経過し、被害者女性はある「○○○○」のテレビドラマを見たのがきっかけとなって、自分も同じ状態、精神的に不安定(腹痛、不眠、幻覚等)であることを自覚しはじめた。(裁判記録) (参考 1990年12月K主教、U管区総主事らは沖縄土地売却(46億円) 事件を封印して、古谷一俊氏(故人)聖公新聞編集者を解任する。言論の 自由を弾圧、信徒の知る権利を奪う。隠蔽体質は継続される)<1995年> 横浜教区M司祭は主教の位に按手される。(M主教誕生) 同年、オウム真理教地下鉄サリン事件<1998年> 12月末に女性が父親に被害のことを打ち明け、翌月姉にも・・・<1999年正月>には父親だけがH牧師を訪ねた<1999年7月>N県警本部にH牧師から被害を受けていたことを相談に行き、 8月にN県精神保健センターの医師(K大精神病理学)の診察を受ける。<2000年1月> H牧師は教区「常置委員会〔役員会〕委員長」に就任<2000年1月3日>H牧師夫人に初めて被害者が「〇〇○○被害」の件を話した。 H牧師夫人は被害者からの電話で知った時、信じられないと 思いながらも被害者女性に会う約束をした。<2000年1月6日>T駅前の喫茶店で被害者から詳細を聞いた。 別れ際夫人は「夫に確かめ事実であれば牧師をやめさしますから」と告げた。<2000年1月28日>H牧師は父親へ認める謝罪手紙を出している。 その後H司祭はG会館で父親に2回会い「魔がさした、許してください、許してください」と懇願・謝罪している。しかし、司祭職を辞退するとは明言しない。その書き出しは次の通り。 「○○様 懺悔の値打ちもない愚か者から痛悔して、手紙を書かせていただきます。はらわたが煮えくり返るほどのお怒りを覚悟して・・(略)死んでしまいたい位の気持ちで悶々としています。 このまま車を崖から・・(裁判記録48頁) この手紙はM主教にも手渡されている。 故にM主教はH牧師がこの手紙で「〇〇○○」を認め謝罪している事を知っていた。 M主教が退職撤回したことがこの一点からしても如何に大きな判断ミスをしたことがわかります。最高の倫理規範を要求される聖職者が犯した「〇〇○○」事件は懲戒解雇になると世間では判断する。この時点で審判廷で停職「陪餐停止」はできた。(注5)「聖公会では懲戒解雇する場合は当事者双方を呼んで主教座聖堂で審判廷を開き、証言を確認しなければ、懲戒解雇できない。(聖アグネス教会、浦地司祭談話、2006年5月9日)と突っぱねたが法規を購入して読むと、非公開で可能となっている。 (日本の法律、刑罰や裁判は信用しないということか?) <2000年11月23日>京都教区会(年一回)に出席していた父親を休憩時間に 議室の片隅に連れて行き、H牧師は「娘さんの体を触りました。許して ください!」と「〇〇○○」行為をはっきり認め、謝ったと裁判記録に 書かれている。<2001年3月8日>夫人が一年以上前に「事実であれば牧師を辞めさします」と 言ったのに謝るばかりで一向に辞めないので、電話にて被害の 苦しみの声をH牧師に聞かせ、厳しく責め、退職を迫りました。<2001年3月10日夜>H牧師は被害者本人へも謝罪手紙を出している。2001年4月 5日 病院で土下座して謝罪。2001年4月 8日 常置委員会で退職決定2001年4月18日 退職撤回し、ウイリアムスの教授に戻す。
2007.01.31
私の知りあいの友人という方のブログにこう書かれていました。> 「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」> 総理大臣でも法廷で裁かれることがあるんだが、聖公会では主教は法廷に>呼び出されないのだとしたら、聖公会の主教は天皇なのか?しかし、聖公会>の司祭で「昭和天皇の戦争責任」ということを口走っていたのがいたよな。>天皇は裁けても、主教は裁けないとしたら、主教は明治憲法下の天皇以上に>絶大な権力を持っているってことなのか?> ただひたすら沈黙している司祭は、何を考えているんだ。 そう言えばそうですね。 年号がまだ昭和だった頃も、平成になってからも「天皇の戦争責任」ということを問題にされていた方が聖公会にはいらっしゃいましたね。私もキリスト教界紙か何かで読んだことがあるような気がしています。聖公会の主教は審判廷で裁かれることはないのに、天皇を審判廷で裁くことはしないというのであれば、明治憲法下に規定されていた天皇の権力以上の権力を主教は持っているということになりますよね。現在の天皇陛下は象徴でしかありません。立法・行政・司法に関して、一切の権限をお持ちになっていらっしゃいません。にもかかわらず、聖公会の主教は恐ろしいことに、立法・行政・司法という三権を越えて存在していらっしゃるようです。 まさかご自分のことを「朕」とはお呼びになっていらっしゃらないでしょうが、しかししていることは、正に天皇を越えた権力を持っていらっしゃるようです。そして、教皇無謬説を否定したはずの聖公会の中で、主教無謬説が罷り通っているのでしょうか。驚きですね。 聖公会京都教区FH司祭事件を考える会から頂戴している一斉メールに、「ところが『主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ』と言っているという声が聞えてきました」と記されていましたが、彼はこれを問題にしているようです。当然でしょう。 それとも日本聖公会では、主教は法憲法規を越えることが出来るのでしょうか。 日本聖公会法憲法規にそのことが書かれているのでしょうか。 日本聖公会は、法秩序を無視するのであるとすれば、カルトを越えたアナーキスト集団であると言わざるを得ませんね。それにしても、悲惨な話です。本来のアナーキストの多くは、日本聖公会の主教や司祭の多くよりはむしろ健全だと思います。彼らは、人権と自由と言うことを真剣に見つめているように聞いています。彼らが見つめているのは、集団がどこまで個を規制できるかということでもあります。 神学しない主教や司祭は、こうした議論もお判りにならないのかもしれません。 「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」という考え方は、近代市民社会における法というものの基本的な意味をご理解されていないのではないかと思われます。それだけではありません。主教が法になっていらっしゃらないでしょうか。私は、どなたがこれをおっしゃったかを知りたくて仕方がありません。もしあのH司祭の児童への性的虐待事件問題に関与していらっしゃる主教であれば、情況は最悪です。主教に叙階された方が日本聖公会の法憲法規をお読みになっていらっしゃらないのですから。 被害者の方はこうした情況をどのようにお考えなのでしょうか。 間違いなくお辛い想いをされていることと拝察いたします。 私の知りあいの友人のブログのアドレスを記しておきます。 もしよろしければ、是非ご一読下さい。 http://blog.goo.ne.jp/myocor_319/
2007.01.29
聖公会に神学はないということを聞いたことがあります。神学で一致しているのではなく、祈祷書(礼拝の式文)で一致しているのだということです。ですから、主教や司祭は祈祷書を使って礼拝をしていれば、それで仕事を全うしていることになりますから、「神学はない」ということが、神学をしないということになっても仕方がありません。しかし、ここの大きな落とし穴があるのではないでしょうか。 一つに宗教団体としての規則、つまり日本聖公会綱憲と日本聖公会法憲法規が、宗教集団としての日本聖公会を規定しているということを忘れてしまっているようです。「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」という声が挙がっているようです。聖公会には、明らかな身分制度があるのですね。審判廷は日本聖公会法規で定められていることです。それが「不届き千万」ということであれば、主教は法憲法規の上に鎮座ましましていることになるのですが、それを当然と考えている人がいるということでしょう。 主教は何をしても裁かれないと思っているようです。 数億円の使途不明金を出しても、背任を問われないのですから。 それだけなら、「放っておけよ、いつか必ず自爆するから」とお考えになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、5人の児童に対する性的虐待をし続けた司祭に対する責任と、そしてそれを庇護してきた責任、そして何よりも被害者とその家族に謝罪しないばかりか、無視しているという実態は見過ごすわけにまいりません。 あまりにも卑劣な行為であるとしか言えないのではないでしょうか。 宗教的言語で呪縛をかけて数年に渡り性的虐待をし続けてきた司祭を、日本聖公会はその規則に従って裁くことなく、司祭から出された退職願を受理し、法憲法規に定められていない「陪餐停止処分」に付しました。しかし、法憲法規に抵触する処分は無効ですから、この「陪餐停止」はまったく効力を持っていません。法憲法規では、主教の権限をそこまで認めていません。それとも、主教は親分なのでしょうか。親分の言うことには逆らえないという暗黙の了解が、組員である司祭や執事の間にはあるのでしょうか。 私の友人はある司祭に、「右手でチャリスを持つということになっているのですが、左手ではいけないのですか?身体的な理由で右手では持てない時にはどうしたらいいのですか?」と質問したら、「右手でもって下さい。それが聖公会の仕来りです」という答えが返ってきたそうです。また、別の司祭は「左手は穢れているから、右手で持つんじゃないですか?」と答えたそうです。 ピュリフィケーターという白い布があって、それでチャリスを拭うのですが、そのピュリフケーターは左手で持っています。ピューリフィケーターという言葉は「ピューリファイ」からきた言葉で、「浄める」ものとか「清める」ものという意味です。もし左手が穢れているとしたら、何故左手にピューリフィケーターを持つのか、実に不思議です。そして、一番重要なのことは、祈祷書のルブリック(脚注のこと・昔は赤で書かれていたのでそう言われています)には、このことの規定はまったく記されていません。「祈祷書で一致」するのであれば、チャリスを左手で持ってもまったく問題はないと思えるのですが。「神学はない」ということが「神学をしない」になって、論理的な思考を停止させてしまっているのかもしれません。実にお粗末な話です。 日本のキリスト教はこのレベルだと思われると、他の教派の牧師さんたちが困るでしょうね。 被害者の方のPTSDは極限に達していると聞いています。 一人の女性にこれだけの重荷を負わせておきながら、日本聖公会は女性の人権を大いに語ってきたのではないですか?その終着駅(もしかすると通過駅)が女性司祭按手だったように思えます。これに関しては実に不思議なことがあります。私は女性が司祭になれない理由はないと思っているのですが、司祭は礼拝の中の聖餐の中ではキリストの代理として司式するという考え方が聖公会の中にあるので、祭壇の前に聖餐卓を置いて、司祭はその向こう側で会衆の方を向いて司式しているのではないのですか? もう一つの問題は、何故女性司祭を認めておきながら、女性主教は認めないのですか?女性を主教にしないのですか?女性を主教にすると何か都合の悪いことがあるのですか?「とりあえず女性司祭」ということは、女性差別そのものだとお思いになりませんか?ただ単に、女性の地位を執事から司祭に「格上げ」したに過ぎないのではないでしょうか。 キリスト教の中には、まだ女性が牧師になれない教派もあります。非常に不思議なことです。それでいて、その教派の神学校には女子学生がいます。神学するのはいいが、牧師になることは駄目だということなのでしょうか。 ローマ・カトリック教会はこのことに関しても、はっきりとした神学的見解を持っているようです。それも、多くの司教や司祭の間でコンセンサスを持っているようですし、信者さんもそれをしっかりと理解しているようです。 「神学のない」聖公会は、結局は烏合の衆になっているのではないでしょうか。あるいは、主教の数だけ「神学」があるのかもしれません。「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」という声は、どなたから出てきたのでしょうね。まさか主教自身ではないと思いますが。もしそうだとしたら、その主教もまた法憲法規に抵触した発言をしていることになってしまいます。審判廷は、この法憲法規の下で、法憲法規に違反した事例を裁くためのものなのではないでしょうか。 聖霊のお導きが日本聖公会にありますように。
2007.01.27
日本聖公会はどうして謝れないのですか? 明らかに悪事が行われているにもかかわらず、そしてその悪事を見逃そうとしたことも含めて、日本聖公会は被害者に対して謝っていません。それどころか、その謝っていないことに関して質問し、謝るように勧めている人々に対して「聖公会を潰す気か?」と大声でおっしゃったそうですが、何故なのですか? 教会は正しいことだけをしてきたのでしょうか。教会はいつも正しいのでしょうか。聖書は、教会はいつも正しいと語っているのでしょうか。私にはそうは思えないのです。何が正しいのかを主に聞くことは出来ても、自らの判断が常に正しくなることは、例え司祭や主教であっても不可能なことです。日本聖公会がそのことをご存知ないはずはないと思っています。 H司祭による児童への性的虐待、司祭であろうが主教であろうが、あるいは一信徒であろうが、あってはならないことであることは誰にでもわかることです。にもかかわらず、日本聖公会はH司祭による児童への性的虐待だけでなく、主教による使途不明金事件やまったく理解できない土地売買に関しても沈黙を守られてきています。それだけではありません。東京教区では使途不明金を出した財務主事を刑事告発しているにもかかわらず、主教による使途不明金の問題に関してはまったく沈黙していらっしゃいます。あるいは、沖縄教区での理解できない土地売買に関してそれを記事にした聖公会新聞の編集長を、圧力をかけて解雇されてしまいました。私も、あの編集長だった方の書かれた文書を読ませていただきました。 市街化調整区域の土地を、常識では考えられない価格で買い取りましたよね。そしてその土地は傾斜地で、有効に利用できる土地は限られているそうですね。一体何故そのようなことをされたのか。そしてそこことを問題にしようとされた方々を排除されたのですか? ここまでならば、司祭や主教の個人的資質の問題として考えることも不可能ではないのですが、日本聖公会はこれらの問題に関して一切沈黙されてしまいました。信徒の方々さえも、多くを語ることが出来なくなっているのではないでしょうか。何故信徒の方々を黙らせることが出来るのか、私には不思議でなりません。信仰は、司祭や主教を信じることではなく、主イエスキリストの出来事を通して私たち人間が救われたことを信じることなのではないでしょうか。司祭や主教が人間を救うわけではありません。聖書はどこを読んでもそのような答えは出てきませんし、ローマ・カトリック教会が主張する教会の伝承の中にもそのような理解はないと思っております。 何故、H司祭を審判廷で裁かなかったのですか?日本聖公会の法憲法規では、審判廷でなければ裁けないことになっているのですが。知りあいから法憲法規を見せてもらいました。第197条に「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない」とはっきりと記されていますよね。にもかかわらず、審判廷を開くことなく、H司祭を陪餐停止にしてしまいました。このことも、法憲法規から逸脱していませんか? 聖職の陪餐停止は、「職務の一部停止または停職を受けた聖職」に自動的に科せられることが、法規第201条第5項に規定されています。審判廷は聖職に対して陪餐停止を科すことは出来ません。一昨年の暮れに出されたH司祭の陪餐停止は、法憲法規上無効ではないのですか? それ以前に、なぜH司祭を審判廷で正式に裁かなかったのですか? 聖職の懲戒の中で最も重いものは「終身停職」ですよね。 ここにも大きな疑問があるのです。そもそも、司祭按手はサクラメンタルなものですから(法憲法規では「サクラメント」になっていません)、取り消すことは出来ません。そこで、H司祭が日本聖公会を離脱すれば、H司祭が聖奠を執行しても日本聖公会はそれを止める権利はないのです。そして、その離脱した状態で、外国の聖公会がH司祭を司祭として受け容れることは十分に可能なことになります。そして、ほとぼりが冷めたらどこかの教区の主教として迎えることは、法的には可能になります。 私の知りあいは「そこまで頭が回らないだろうが」と言っていましたが、私が存じ上げている方々であれば、それくらいのことは十分にお考えになられます。 そこまでしてもご自分たちの立場を守ろうとする、その理由は何なのですか? 以前にも書きましたが、性的虐待に関しては日本聖公会に限ったことではありません。セクハラということも含めれば、私はいくつもの事例を耳にしてきました。それだけではありません。キリスト教の聖職による不倫さえ耳にしてきました。それも、関係者の証言を得ています。 奥様以外の女性のところで生活をし始めた大学のチャプレンの話も聞きました。仕事の関係で知りあい、同労者であった複数の女性と関係を持ってしまった結婚されている牧師の話も被害者のお母様の文書を読ませていただきました。 何故、それぞれの教派はそれぞれの立場で罪を裁かないのですか? 犯罪者に対する刑罰は教育であるという立場を守り通してきたのはキリスト教会ではないのですか?だからこそ、死刑廃止論を盛んに論じていらっしゃったのではないのですか?死刑廃止論といえば、学術研究のために「沈黙の一年間」を過ごしていた私の知りあいに対して、死刑廃止論に賛成して一緒に行動しないという理由で、私の目からするとイジメにも等しいことをされていましたよね。あの方々は皆さん日本聖公会の聖職になっていらっしゃるようですが、何故あなた方は審判廷の開廷を申し出ていないのですか? 被害者の人権を無視されるのですか? 私の知りあいのブログからこのブログへお出で下さった方々の中には、キリスト教以外の方々もいらっしゃると思いますが、皆様はどのようにお考えでしょうか。宗派の組織と傷ついた檀家とどちらを選ばれますか? 悲しいことです。本当に悲しいことです。 日本聖公会の聖職の方々は、教区からの給与以外にかなりの収入があるそうですね。田舎の小さな教会ではそれが少ないそうですが、都会の大きな教会になると副収入がかなりあるそうですね。もちろん確定申告をされていらっしゃるでしょうが、税金も高額納税者になっていらっしゃいませんか? それが組織を守ることの原動力であれば、キリストの代理として、祭壇の前で聖餐式をされるのはお辞めになられた方がいいのではないですか?キリストの代理になれる資格がおありですか?
2007.01.22
やはり私が思っていた通りでした。 「考える会」からの一斉メールが来ていますので、その一部を引用します。これは「考える会」の一斉メールに対する返信メールの内容で、一斉メールへの掲載を希望されたものなので引用させていただきます。発信者がどなたかは判りません。「考える会」の方々と私と私の知りあいではないことだけは明らかですが。 (名前はアルファベットにしました。Hは加害者本人です) 1. H司祭夫人は何も仰らないのですか。長男は三十歳近い、長女、次女 も二十歳くらいです、物心のついている年齢です。事件がこじれてお り本人が何もしないし教区のお偉いさんたちも逃げているのですから、 こういう身内の人が何かを発信しても良いのではないでしょうか。そ れが、被害者に対しての愛、また夫・父親に対する愛なのではないで しょうか。家族の再出発にもなるのです。身内の人が言えば事態打開 の動きが出てくるものです。夫・父親もやり直しができるのです。私 の妻や子供は「父親がこんなことをすれば夫婦・親子の縁切りで、た だではすまない」といっています。 2. Y主教は沈黙ですか。休職中のH司祭が復職したのも、執事、司祭に なったのも、宣教局長、ウィリアムス神学館教授になったのも、Y主 教のときです。常置委員にも選らばれています。いわば原田を取り立 てたのはH主教なのです。裁判の場で、公金費消のことも言われてい るのです。Hのこの後のことの苗床はこの時期なのではありませんか。 H主教にはHの心の闇を語る責任があります。この人は裏情報には通 じていると伝わってきますが、ホームペイジや一斉メイルだけは知ら ないのですか。それともいえない深い事情でもおありですか。 3. 奈良の「敬虔で令聞ある」信徒の弁護士は、二次加害に重大な役割を 果たしています。この人が「間違いを間違いと認めなさい」と言えば 穏当な解決を見たのです。教会に行って「姦淫するなかれ」、「偽り の証をするなかれ」という十戒を聞いているのでしょう。守秘義務で すか。 裏が見えてきませんか。どす黒い裏が‥‥‥ こうした体質は以前からあったのでしょうね。宗教教団上層部が、ある意味では公然と不正を行っていて、それを知っている直属の部下を優遇し、その直属の部下の犯罪を何とか隠そうと躍起になっている。そして、後任の上層部もその関係を維持し続けている。 沖縄教区や北関東教区、そして京都教区の主教による常識を外れた不明瞭な土地売買や使途不明金、それらは億単位のお金が動いていると言われています。そして、そうした違法なことに対して、他の教区の主教や司祭の多くは口を噤んでいるのは何故なのか。そもそも、幼児に対する性的虐待という犯罪を「祈りで解決しましょう」という発言自体、「何もなかったことにしましょう」ということでなければいいのですが、一般的な常識からすれば「何もなかったことにしましょう」ということと同じように思えてなりません。 Y主教も使途不明金事件の当事者です。1989年頃に自主退職しています。 ここまで暴露されてもなお沈黙を守っているとしたら、はっきり言って相当に悪人ではありませんか?常識的な正義感をまったくお持ちではないように見えます。 1979年にH司祭(当時はまだ伝道師)が伝道師を一旦自主退職した理由を知りたくなりました。そして、翌年には復職して犯罪が行われた教会に赴任しています。Y主教はことの真相をご存知のはずです。何故黙っていらっしゃるのか。黙っていらっしゃれば、いろいろと穿鑿されても仕方がないと思います。 そしてこれだけのことが明らかになりはじめているのに、日本聖公会は教会としてしっかりとした弁明もなければ、自らを戒めることさえしていません。私の知りあいは、全身麻酔の手術を二回も受けています。その原因が某司祭にあることは誰の目にも明らかであるのに、日本聖公会はまったく沈黙し続けています。先日、東京で彼に会った時にも、手にしたボールペンを落としそうになっていました。彼も聖公会の犠牲者です。病名は両肩の胸郭出口症候群だそうです。通常の生活では起こり得ないものです。私の知りあいの医師に確認したら、特別な専門医でなければ手術をしたことがないくらい珍しいことだと言っていました。 聖公会は何人の人を傷つければすむのでしょうか。 そして、この次は命を奪うのですか?
2007.01.21
文部科学省がイジメの定義を見直したと、読売新聞に出ていました。 「『判断は、いじめられた児童生徒の立場に立って行う』ことを強調し、『仲間外れ』や『集団による無視』などの具体的な行為を初めて盛り込んだ。」 「新たないじめの定義は、『一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの』とした。」 「現行の定義は、 〈1〉自分より弱い者に対して一方的に 〈2〉身体的・心理的な攻撃を継続的に加え 〈3〉相手が深刻な苦痛を感じている ――としている。しかし、自治体によってとらえ方が様々だったため、新定義では『継続的に』『深刻な』などの文言は削除した。 これを読んだ最初の感想は、文科省の方が教会よりも人権問題で進んでいるな、ということです。キリスト教も宗教ですから、「救われる者」と「救われない者」とを区別します。「どうしたら救われるか」を考える時、「救われない者」が水面下で定義されていきます。 それだけではありません。 教会の具体的な在り方は、常に人間的な想いに曝されています。極めて個人的な価値判断が、その人の社会的立場や経済力、時として学歴によって、是か非かが判断されてしまいます。高額献金者の意見と、働きながら学生生活をしている青年の意見とは、必然的に差が付けられていきます。教会の役員を「長老」と呼んでいる教会では、それが「プレスブテロス」の翻訳語であり、その言葉の定義と現実的な意味を、教会としてしっかりと認識している教会はどれくらいあるでしょうか。「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」は教会の中で起こっていないでしょうか。それだけではありません。 日本聖公会のように、時効で刑事裁判にはならなかったようなことが、H司祭以外の事件でも起こっています。前にもお話ししたことがある、私の知りあいの場合、勤務中に受けた傷害ですから雇用者側に責任があるのは当然なのですが、未だに謝罪すら為されていません。主教は、二回にわたる手術の診断書を受け取っているにもかかわらず、謝罪することも手術に掛かった費用を弁償することもしていません。切除した彼の両肩の筋肉は再生することはありません。切除しなければ、両腕が壊死する可能性があったことは、診断書に記されています。私も読ませてもらいました。 京都教区におけるH司祭の児童に対する性的虐待は明らかに犯罪です。 裁判記録に書かれていることを知れば、誰の目にもそれが異常な性的犯罪であることは火を見るより明らかなことです。それを、最高裁判所も認めているのです。 「婦女暴行未遂」と「婦女暴行」で逮捕され、有力な証拠もないまま懲役三年の実刑判決を受け、すでに刑期を終えた方がいらっしゃいましたが、他の事件で逮捕した方がその事件に関しても自白されて、地検は慌てて地裁に再審請求をして、刑期を終えた方の無罪を確認するようにしたと新聞に出ていました。今日から「それでもぼくはやっていない」という映画が公開されますが、地検や地裁の裁判がどれだけ異常であるかを指摘しているとのこと、私も是非みたいと思っております。 しかし、H司祭の場合、日本国憲法で保証された三審制の最高裁への上告が棄却されているのです。もちろん「冤罪」を主張することは大切なことです。「狭山裁判」などは、もしかすると国家的な犯罪が影に潜んでいるかもしれない冤罪事件であることは、裁判の証拠などが開示されないことからも、誰の目にも明らかなことです。もし「冤罪」であるというのであれば、H司祭は何故声をあげないのでしょうか。周囲の主教や司祭が沈黙しているのは何故でしょうか。自分たちの中だけで「冤罪だ」と主張しても仕方がないのです。日本という国家の中で、国家の司法として裁判所が出した上告棄却なのですから。 そして、ほとんどの主教や司祭は沈黙しています。 悲しいことです。この沈黙は、ある意味では犯罪なのではないでしょうか。「犯人隠匿」という犯罪です。聖公会の主教や司祭は、まさかこの「犯人隠匿」をキリスト教の聖職が持っている黙秘権だとは言わないでしょうね。かつて種谷先生がなされた牧会が「犯人隠匿」にあたるとされた裁判が行われましたが、あの事件とは質が違います。 沈黙している主教や司祭もイジメに荷担しているのです。新聞やテレビのニュースで盛んに言われていますよね。周囲の沈黙がイジメを助長しているのです。 一昨年の暮れになって奈良県庁で記者会見を開いたのも、その裏に周到に考えられた筋書きがあったと聞かされました。「小泉劇場」の沸騰が沈静化してからということがあったそうですね。そこまで社会の動きを読める方が、何故、いま問題になっていることを読めないのですか? 読めないのではなく、読まないのではないですか? 他にも聖公会の中でのイジメはかなり多いようですね。それも、僻みやっかみに根ざしたものが多いように聞いています。確か、日本聖公会には社会委員会というのがあったと思うのですが、そこではこの問題は議論されていないのですか?社会委員会の「社会」とは何を意味しているのでしょう。北関東教区や京都教区の使途不明金、沖縄教区の非常に不明瞭な高額の土地売買、ことに沖縄教区の問題ではそれを記事にした聖公会新聞の編集長を解雇させましたよね。彼が書いた「個人誌『神の測りなわ』 諸悪の根元は主教制」という文書は、私の友人がテキストファイルにしてくれると言っていました。こうすれば、皆さんがホームページを作られるときにも便利でしょうし、ブログに書き込むときも便利だと思っています。 「この印刷物は記者の事前の許可なく自由にコピーし、配布すること可」と備考にありますから、テキストファイルにすることは問題ないはずです。彼は、かなり速くタイピングすることが出来ますから、あの程度の文書ならば1日で出来るかもしれません。 ここを読まれ、関心を持たれた方は下記のホームページにアクセスしてみて下さい。 私が書いていることが事実であることがお判り頂けると思います。 キリスト教だけの問題ではありません。現代社会における宗教の問題です。靖国神社が問題になっている中で、宗教とは何かということがほとんど議論されていないのではないでしょうか。しかし、靖国神社も日本聖公会も宗教法人法上の宗教団体になっています。しかし、この宗教法人法をお読みになればお判り頂けると思うのですが、宗教法人というのは国家が認めた宗教であるということを意味していないのです。あくまでも、宗教的な施設や像、あるいは土地や森林など、歴史的なものを保全する為のものです。宗教法人の申請は簡単に出来ます。審査に関しては、教理内容が原稿の法律に触れない限り、ほとんど問題になりませんし、憲法の規定からすれば問題にすることは非常に難しいのです。日本聖公会は宗教法人であると威張っていた司祭に会ったことがあります。国が認めたとでも言いたかったのでしょうか。宗教法人法の第1条さえお読みにんったことがないようです。 ホームページのアドレス(ここをクリックしてもアクセスできません。コピーして下さい。) http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html 異常気象で困っている方もいるようです。地球の温暖化に貢献しないように、みんなで頑張りましょう。自然を壊すのは人間です。ですから、自然を回復する責任は人間にあります。 「いま投げた ゴミが川を汚してる」
2007.01.20
前回書いた内容に、誤りがありました。 お詫びして訂正いたします。 裁判になった被害者以外の被害者は5人のようです。最高裁の上告棄却が出たあと、T主教が裁判の結審に抗議すると言い、その新聞記事を見て二人の女性が8月30日に名乗り出たのですが、その方たちが「自分の友人のあと二人も被害にあっていたと言ってましたよ」と証言したそうです。これで5人になります。 この5人というのは、加害者の数ではありません。 一人の司祭によって、性的虐待を受けた被害者の数です。この事実だけでも、この司祭を司祭として按手した主教に責任はないと言えるでしょうか。そして、その後、最高裁でH司祭による上告が棄却された後も、事実無根を主張していた主教や教区関係者に責任はないのでしょうか。 彼らは、被害者とその家族が解決のために提示された3か条の最低限の要望をも無視し、未だに被害者宅に謝罪にも行っていないそうです。ある常置委員の司祭は、「もう彼らは謝罪に行きましたよ」と支援者に電話で言って来たので、支援者はすぐ父親に確認電話を入れると、全くのでたらめを言っていると言うことが分かったそうです。こういうのを「組織ぐるみで犯罪隠しをしている」というのではないでしょうか。 それだけではありません。 先日、上京した友人とゆっくり話をすることが出来たのですが、彼の話では実に巧妙にこの司祭への「処分」が仕組まれているのです。それは、 1.日本聖公会では、管区(日本聖公会全体)の審判廷を開かなければ司祭を処分できない。 2.司祭の処分に関しては、戒告・1月以上3年以下の職務の一部執行停止・1月以上3年以下の有期停職・終身停職、この4つしかありません。但し、これが定められている法規第203条の第5項には、「職務の一部停止または停職の懲戒を受けた聖職の陪餐は、停止する」とあります。 3.これらの処分は、「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」と 法規第197条で明確に規定されています。 ということを理解した上で行われたと考えられます。教区主教や教区常置委員が日本聖公会の綱憲や法憲法規を読んでいないとは考えられませんから、この三つの規定の穴を抜け出せる道を用意していたのでしょう。 H司祭はあくまでも自主退職をしています。ですから、停職処分を受けているわけではありませんし、教会付き司祭=「牧師」を退職しただけであって、司祭であることに変わりはありません。ですから、2005年12月に受けた陪餐停止という処分は、法憲法規によればまったく効力を持っていませんから、司祭の仕事であるサクラメントを執行することが出来ます。これをT主教が公表し、その直後に他教区もしくは他の国の聖公会に移籍させることが出来ます。 これは、日本聖公会の法憲法規上は問題ないことです。そして、その移籍について公表する規定は法憲法規には見当たりませんから、公表する義務は主教にありません。この作業は、二日もあれば十分です。法律の抜け穴だと私の知りあいが教えてくれました。こうした規則を読んで理解することに慣れている司祭や主教、もしくは弁護士や司法書士であれば、この法憲法規の抜け穴を探すのは簡単だろうとも言っていました。 そして、彼らはここまで読んでいるかもしれないと、次のようにも言っていました‥‥‥ T主教がH司祭を陪餐停止にした処分は、明らかに法憲法規に違反しているのですから、法規第198条にある聖職の懲戒事由にある「綱憲、日本聖公会法憲、この法規その他の日本聖公会の法規に違反すること」を行ったとして審判廷が開催されることがあり得るかどうか。組織を温存しようとする意識や、聖職者団を守ろうとする意識が強い聖公会で、果たしてこれが実行されるかどうか。そして、実行されたとしても、どの程度の処分が決定されるか。 また、審判廷は、一審の小審判廷と二審の大審判廷の二審制になっているので、この二審にどれくらいの時間をかけてくるか。最終的に結審するまでには相当の時間をかけるであろうと思われます。ですから、それを回避するためには、日本聖公会の主教や司祭、あるいは退職主教や退職司祭がどれだけ発言し、前項の教会の信者がどれだけ審判廷に注目するかということに掛かってくると思います。長引けば長引いた分だけ被害者とそのご家族の心の傷が深くなっていきます。M主教やT主教あるいは常置委員の司祭は、こうしたことを見越していると思います。しかし、被害者の人権を考えたら、審判の引き延ばしは許されないことです。 知りあい曰く、 日本聖公会にも、ごく僅かながら、人権ということを自分の社会的地位を賭してでも考えようとする司祭はいると思っている。もしそうした司祭が一人もいないようであれば、日本聖公会はソドムやゴモラの町と同じだとしか言いようがない。 もう一つ問題がある。 法規第205条では、管区審判廷の審判員の任命方法が記されているが、「管区審判廷の審判員は、日本聖公会の教区主教ならびに満40才以上の現任の司祭および現在受聖餐者の中から、主教会が指名し、定期総会が承認して任命する。」となっているが、前回の管区の総会で選ばれた審判員の中に、当該事件の関係者はいないのだろうか。もしいたとすれば、被告が審判員を兼務するという、審判としては異例中の異例といった事態になる。しかし、法規205条第8項には次のように記されている。「審判員に公正な審判を妨げる事情があるときは、その者は審理および審判に関与することが出来ない。」しかし、ここにも落とし穴がある。「審判員に公正な審判を妨げる事情がある」と誰が判断するかということである。常識的には、管区の総会であろうと思われるのだが、しかしそれが明記されていない以上、あらゆることが考えられる。 「こういうのをザル法と言うんだ」と知りあいは言っていました。意図的にこうしたザル法を作ったとしたら、日本聖公会は何と不誠実な集団なのでしょうか。いまのところ、この審判廷を開くことを申し立てる方はいらっしゃらないのでしょうか。申し立てには3人の方がいらっしゃればいいようですね。懲戒の被申立人が主教ですから、3人の内のお一人は司祭さんでなければいけないようですね。
2007.01.18
2001年4月 4日 M主教に被害者の父親が被害手記を渡す。 5日 翌日、父親は被害者が入院中の病院からH司祭(加害者)に PTSDによる自殺未遂を電話でつげる。H司祭は婦人と共に 病院に駆けつけ、病院の廊下で土下座して詫びる。 6日 M主教はH司祭に辞表を書かせ、H司祭に退職させると父親 に告げる。 8日 常置委員会で退職決定。 18日 主教が退職撤回、常置委員会でもそれを決定。 理由は「事実無根」 7月 9日 奈良地裁葛城支部へ損害賠償と慰謝料請求を提訴 2004年9月30日 奈良地裁判決、原告敗訴 10月14日 大阪高裁に被害者が控訴 2005年3月30日 大阪高裁判決 原告(被害者)勝訴 4月15日 被告(加害者)最高裁に上告 7月19日 最高裁は上告棄却を決定 9月初頭に3人の女性が自分たちも被害を受けたと教区に訴え。 5日 H司祭は金沢聖ヨハネ教会を自主退職。 12月 9日 教区が奈良県庁で謝罪記者会見。 加害者である司祭の陪餐停止と主教及び聖職常置委員の減給 処分を発表。 これに、2005年の出来事を重ね合わせてみます。 7月 最高裁の上告棄却 9月 3人の女性が性的虐待の被害を受けていると訴え、 H司祭は金沢聖ヨハネ教会を自主退職。 12月 更に4人の女性の被害者が現れて、教区が謝罪記者会見。 教区が奈良県庁で謝罪記者会見。 加害者である司祭の陪餐停止と主教及び聖職常置委員の減給処分を発表。 疑問が起こりませんか?9月に、H司祭に自主退職を勧めたの誰なのか。 判決内容が事実無根であれば、自主退職する必要はないと思えます。 「12月 更に4人の女性の被害者が現れて」とありますが、9月の「3人」の後、もう一人の方が被害を受けたことを申し出たのでしょうか。とすると、最後の一人の女性の申し出によって教区が動いたことになります。裁判を起こした被害者を含めて、被害者の数が4人から5人になったから教区は謝罪記者会見を開いたのでしょうか。そしてH司祭の陪餐停止と主教及び聖職常置委員の減給処分を決定したのでしょうか。しかも、犯罪が行われた教会でもなく、京都市にある教区事務所でもなく、何故奈良県庁で記者会見を開いたのでしょうか。 教区の重大な決断の発表を、何故奈良県庁でしたのか。 本来であれば、主教座聖堂ですべきものではなかったのか。 そして、どうして奈良県庁の部屋を借りることが出来たのか。 3人の被害者が申し出たのは9月頃です。 そして最後の被害者が申し出たのは12月頃です。その差は三ヶ月しかありません。日付によっては2ヶ月と少しというところかもしれません。この間にもう一人の被害者が申し出たということだけで、「事実無根」を撤回して「謝罪」したということになったのでしょうか。この転換は無罪を有罪とする180度の転換です。4人が5人になったことによって引き起こされたものなのでしょうか。 常識的に考えれば、この180度の転換が何故起こったかということは、誰にでも容易に推測できると思います。4+1=5という単純計算だったのかどうか‥‥‥。 この推測が事実であったとすれば、日本聖公会京都教区は自らキリストの教会であることを否定してしまったことになります。勇気を出して被害を訴え、裁判を闘ってきた被害者とそのご家族の方々の心を、あまりにも軽く見ていたのではないでしょうか。 同じようなことは、日本の教会の中ではよく見受けられます。しかし、それをしたら教会は教会でなくなります。私の知りあいは、私が気が付く前からそれを見抜いていました。しかし、証拠がありません。しかし、神様は見ていらっしゃいます。仕事の都合でか、彼は今日、東京へ来るそうです。久しぶりに会えることになりました。 最近は携帯電話があるので、実に便利です。途中から電話してくるそうです。
2007.01.13
聖公会京都教区FH司祭事件を考える会のメールに次のように書かれていました。 現場となった教会の信徒から情報が入りました。その教会に 新しくウイリアムス神学館を卒業した卒業生が配属される辞令 が出た。 信じられません。 聖公会という「教会」は何を考えているのでしょう。 H司祭による児童への性的虐待が行われていた教会に、まったく牧会経験を持たない新卒の方を任命するという暴挙は、牧会ということを少しでも知っている人間にとっては信じられないことです。新卒の方の資質は問題ではありません。お幾つの方かは存じ上げませんが、まだお若い方にこの問題を解決できるはずもありません。事は、教区の常置委員長であり、次期主教候補であった司祭による犯罪なのですから。 他の教派の司祭や牧師たちがこれを聴いたら、ほとんどの方は即座に「愚かなことを」とおっしゃると思います。聖職の任命は、最終的には主教の判断ですが、内容に関しては常置委員会で審議されていたはずなのですが、常置委員会はどう考えていたのでしょう。私には信じられない人事です。 それとも、新任の方は他教派の教会での牧会経験がおありになるのでしょうか。それでも、他教派と聖公会では相異が様々あるでしょうから、それなりの経験は必要だと思います。執事になるまでは、どなたかが代務者になってその方の指示のもとでお仕事をされるのでしょうが、それにしても大変なことではないでしょうか。 私は、別のことを考えてみました。 被害者やその御父様に、他の司祭たちが接するチャンスを作らせないようにしたのでしょうか。それならば判ります。未だに被害者とそのご家族に謝罪することもなく、審判廷を開くことなく、H司祭が自主退職した後で彼を陪餐停止にしたわけですから、それくらいのことは平気でされるのではないかと思っています。 本当に困ったものです。 事件を隠蔽することによって沈静化させようとする意図が見えています。 私の知り合いが自分のブログにこのブログを「お気に入り」として入れてくれました。まったく関係のない内容のブログなのですが、彼のブログは約半年で15000を越えています。「年賀状にブログのアドレスを書いておいたので、アクセスして下さる方が増えました」と電話で言っていました。同じプロバイダーなので、電話の通話料がまったく掛からないのが非常に便利です。 教会もこれを利用したらどうですか? お互いの電話連絡の経費は、ごく少量の電気料だけです。まさか今時、インターネットを利用していない牧師はいないと思います。書籍を探すのに非常に便利ですし、ことに古書を探すときには非常に便利です。同じ本を一番安いところから買うことが出来ます。インターネットでの商売は信用が第一ですから、かつての通信販売のようなトラブルは数が減ってきています。 聖公会はいち早く取り入れているでしょうね。英語の文献を読んでいらっしゃるでしょうから、基本的にはタイプライターとキーボードは同じようなものですし、メールでのやりとりは簡単だと思います。 検索サイトは日進月歩で進んでいます。日進月歩と言うよりは「光速通信」並みに進んでいると言った方がいいかもしれません。主教が司祭に連絡する時にメールを使えば、コピー代や郵送料が削減できます。毎月出す広報などは、メールに添付して送付して、それぞれの教会で必要な分をモノクロのレーザープリンターで印字すれば、かなり経費が削減されます。 週報をパソコンで作っている教会が、いまはほとんどではないでしょうか。 型式を決めれば、後は文字を入れ替えて行くだけですから、それだけ時間が短縮されますし、その分、本を読むことが出来ます。 聖公会の司祭さんも本はお読みになるでしょうから、実に便利だと思いますよ。そして、ご自分でパソコンを組み立てて、自由にハードディスクを利用できるくらいにはなって下さいね。夜中に故障した時に、使えなくなったのでは困りますから。パソコンを使えるということは、そうしたことだと思っています。鉋の刃を研げない大工さんはいらっしゃらないでしょうし、包丁を研げない板さんもいないと思います。パソコンは仕事の道具ですから、中身がどうなっているか、簡単なことは知っていた方がいいと思います。 そうそう、教会の牧師さんでM社の仮名漢字変換システムをお使いの方は、J社の仮名漢字変換システムに替えることをお奨めします。かつては、J社のものは遅すぎると言われていましたが、物理メモリー(専用チップを用いたメモリー)がこれだけたくさん積めるようになったいまのパソコンでは、この「遅さ」を体感することは不可能です。 M社のものとJ社のものとでは、入力されている仮名漢字変換データの量が愕然と異なっています。説教の原稿をお書きになったり、一般の文章をお書きになる時に、愕然とした相異を体感できます。M社のワープロソフトでJ社の仮名漢字変換システムを使うことは難しくありません。お近くのパソコンに詳しい高校生にでも教えていただけば簡単に変更してくれますよ。お礼に、聖書でも差し上げたら、喜ばれるかもしれません。 聖公会は、この世の常識があまりに欠如しすぎです。 人事を見ればすぐに判ります。日本人の中には、現代でも、江戸時代の「離壇の禁止」(檀那寺から離れることの禁止)が生きているようです。「お寺を変えることは出来ない」と考えている方が多いのですが、いまはまったく自由です。聖公会からローマ・カトリック教会に替わることも自由です。曹洞宗から真言宗に替わっても、なんの問題もありません。墓地がお寺の境内にある場合を除いて、他宗旨の檀家の墓地を村の墓地から追い出すことは出来ません。これには、判例もあります。 聖公会の信者さんがローマ・カトリックに移って、墓地にある先祖の遺骨を聖公会の教会の墓地からローマ・カトリック教会の墓地に移転することを聖公会の教会は拒否できません。いっそのこと、聖公会の教会員の方々は、他教派に転会されたらどうですか?このままだと、大変なことが起こるかもしれません。先物取引での損金が使途不明金で処理されているうちはいいですが、損金が多額になった場合には、聖公会の責任も追及されかねません。まぁ、芝白金のあの一等地を売ったお金が残っているうちは心配ないと思いますが、果たしていくら残っていることか‥‥‥‥公表されないということは実に怖いことです。 選挙による主教制度、それも聖職議員と信徒議員による投票で主教を選ぶと、互いの利害関係だけで主教を選んでしまいかねません。ローマ・カトリック教会の司教は、まったくの任命制だそうですね。組織構造によっては、それ自身が教会を建てることも、潰すこともできます。主教制度は、歴史的事実ではなく、正に信仰に根ざしたものですから、そのことをきちんと確認しておかなければ、日本の近世にあった親分子分の慣習(しきたり)になりかねないのではないでしょうか。
2007.01.12
日本聖公会京都教区であった現職司祭による児童への性的虐待事件、犯罪の発覚から最高裁の上告棄却を経て、被害者が他に4人いたということが判り、当時の(現在も続いているが)主教と常置委員の司祭が奈良県庁で記者会見を行い、加害者である司祭の陪餐停止と主教及び聖職常置委員の減給処分を発表しました。 1983年から1988年まで、児童(被害者)への性的虐待行為を続ける。 1988年以降、PTSD発症 2001年4月 4日 M主教に被害者の父親が被害手記を渡す。 5日 翌日、父親は被害者が入院中の病院からH司祭(加害者)に PTSDによる自殺未遂を電話でつげる。H司祭は婦人と共に 病院に駆けつけ、病院の廊下で土下座して詫びる。 6日 M主教はH司祭に辞表を書かせ、H司祭に退職させると父親 に告げる。 8日 常置委員会で退職決定。 18日 主教が退職撤回、常置委員会でもそれを決定。 理由は「事実無根」 7月 9日 奈良地裁葛城支部へ損害賠償と慰謝料請求を提訴 2004年9月30日 奈良地裁判決、原告敗訴 10月14日 大阪高裁に被害者が控訴 2005年3月30日 大阪高裁判決 原告(被害者)勝訴 4月15日 被告(加害者)最高裁に上告 7月19日 最高裁は上告棄却を決定 9月初頭に3人の女性が自分たちも被害を受けたと教区に訴え。 5日 H司祭は金沢聖ヨハネ教会を自主退職。 12月 9日 教区が奈良県庁で謝罪記者会見。 加害者である司祭の陪餐停止と主教及び聖職常置委員の減給 処分を発表。 H司祭は、最高裁の上告棄却が決定されてからも、教会の牧師、ウィリアムス神学館教授、教区常置委員長を続けていました。しかし、3人の女性からの訴えが教区に対してあり、さらに4人の女性からも被害があったことを告げられ、「教区がやっと対応の誤りに気づき原告被害者と他の4女性に謝罪」したとのこことですが(「考える会」の時系列資料から)、この時にいたってもH司祭は「事実無根」であると主張し続けています。 事件が発覚した2001年当時のM主教は2003年に退職し、2003年9月6日以降は、新しくT主教が就任しています(現職)。 2006年5月9日に、「考える会」の方がお会いした司祭は、「審判廷には当事者の両者を呼び聖堂内で公開でするという規定があるので、この種事件ではプライバシー保護の観点から無理である」とおっしゃったそうです。しかし、日本聖公会法規第二〇九条第二項では、「行為の被害者を保護するために必要であると判断したときは、審判を公開しないで行うことができる。」とされているとのことです。 2005年9月5日にH司祭が自主退職した後、12月9日の謝罪記者会見までの間に何があったのか。皆さんには見えてきませんか?テレビのドラマ、それも刑事物のドラマのような筋書きが見えてきませんか? 7月 最高裁の上告棄却 9月 3人の女性が性的虐待の被害を受けていると訴え、 12月 更に4人の女性の被害者が現れて、教区が謝罪記者会見。 もちろん、日本聖公会の主教や司祭が「法憲・法規」を読んでいないことは事実でしょう。ほとんど関心がないと思います。私の友人の履歴書を「読む義務はない」といって読まなかった責任を、いとも平然と「期間未了」発言をした司祭に帰してしまったくらいですから、組織に関する議論など出来るはずもありません。 9月から12月のほぼ3ヶ月の間に、何があったのか。 そして、その後も主教や常置委員だった司祭が、被害者に謝罪していないのです。もちろんH司祭も謝罪していません。 もし私の脚本が事実だったら、日本聖公会は中世封建社会の宗教組織であると言わざるを得ないと思います。中世の領主の下で、教会はどのような立場をとっていたでしょうか。イギリスにはいまでも貴族がいます。そして、ダイアナ元妃の交通事故が、意図的に引き起こされたものである可能性が、最近になってまた浮上してきています。
2007.01.08
このブログのコメントは今のところ停止させていただいております。 コメントの容量で十分なご返事できるとは思いませんので停止させていただくことにしました。私の別のブログで、誹謗中傷するような、内容のないコメントを書き込まれてしまいました。そして、メールを差し上げたのですが、まったくの架空のアドレスでした。 キリスト教カルトに関することは、深く人権に関わっている問題ですから、ブログという匿名性をもったサイトであっても、少なくともメールアドレスは正確にお書きいただきたかったと思っております。 また、このブログ内での敬称に関してですが、主教とか司祭あるいは牧師という言葉が姓名の最後に付けられた場合、それは日本語では敬称にあたると考えております。「社長」「専務」「常務」「部長」「課長」「主任」という言葉も、一般社会においてはある種の敬称として用いられていると思っております。 残念なことですが、日本にはまだ身分制度に支えられた敬語が残っています。日本国憲法の規定からすれば、この敬語そのものは非常におかしなものなのですが、日本の社会がこれを用いている以上、つまらぬ批判を受けないために、仲の良い友人以外には私は出来るだけ敬語を用いるようにしております。敬語を使うと若く見られることもあり、なかなかいい感じです。 大学などでの「教授」「助教授」も敬称なのではないでしょうか。
2007.01.08
児童少女への京都教区性的虐待事件も、一向に収集が付いていないようです。 聖公会の加害牧師への判決が最高裁で確定したとすれば、せめて聖公会組織内部でも、独自に日本聖公会法規に基づいて正式な審理と審判を執行しなければ、信徒と信者に不信感が渦巻くのは必至だと思います。教区会が済んだ今でも、なおも加害牧師の退職を認め、日本聖公会法規の上では無罪放免としてしまっているのですから、なおさら不信感を助長させているのではないかと思います。軽挙妄動を防ぐのも統治義務を持つ教区の責任、聖公会内部に当該加害牧師への処分を反対する方が存在するのでしょうが、だからこそ審判も開始して和解を追求する必要があるのではないでしょうか。審判も開かないとなれば、処分反対信徒を先頭に多数の信者や信徒の方が醜い「権力者取引」の経験学習(悪魔の誘惑)を心に刻み込むことにもなるでしょう。「信仰と言っても、教会はいざとなれば権力とコネなのだ。」というふうに。 昨日配信されたメールに、上記のようなメールが来たと記されていました。 大事なことをもう一度思い出させられました。「なおも加害牧師の退職を認め、日本聖公会法規の上では無罪放免としてしまっているのです」という一節です。H司祭は自主退職したのであって、退職処分や職務執行停止を受けていません。ただ、陪餐停止になっていますから、司祭としての職務を執行することは不可能ですし、一信徒としても重大な危機に瀕していると言えます。陪餐出来ないということはキリスト教の信者にとって、「あなたはキリスト教の信者ではない」と宣告されてしまうようなことです。これだけ重大な過ちを犯した人物を、自主退職させただけで、職務執行停止処分にしなかった教区主教や常置委員は、明らかな判断ミスを犯していたと言えるのではないでしょうか。 そもそも、主教の権威は神の言葉と教会の伝統の内側にあるものであって、主教そのものが聖書が示していることや教会の伝統を越えて、その権威があるわけではなく、主教の私的判断が神の言葉になるわけではありません。アポストロスの権威は、常にキリストの出来事と聖霊のお導きの中にあったと聖書に書かれているように思えます。 教会は「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を授け、御ミサを捧げてきました。司祭や主教の権威は、その洗礼と御ミサの下にあるのではないでしょうか。にもかかわらず、「教会を守るために」あえて言えば「聖公会を潰」さないために、自らの判断ミスを隠蔽しようとしていないでしょうか。聖公会は本当に不思議なところです。 聞くところによると、東北教区の大聖堂の墓地には、アイヌの人々の中に入り込んでいって、そこで天に召された執事さんのお墓があるそうですね。私はそれを聞いて驚きました。北海道教区では葬儀は行われていないようですし、墓石を建てることすらしていなかったので、東北教区で埋葬したようです。北海道で葬儀が行われなかったのは、アイヌの人々の中に福音を宣べ伝えようとされたからだそうです。 まぁ、東北教区の墓地にしても実に不思議なことがあるのです。 教会としての共同埋葬墓はあるのですが、その周りに個人の家の墓石が並んでいます。しかし、それも一杯になってしまったので、これから教会に加わる人はその共同埋葬墓に納骨されるのだそうです。ただ、「私の家はあそこに墓地を持っています」という言葉を耳にされた方がいらっしゃいました。その方もクリスチャンなのですがものすごく驚いていらっしゃいました。教会の中に家ごとに格があるように思えたというのです。英国国教会の伝統なのかもしれませんが、中世封建制度がそのまま残っているように思えます。日本聖公会には、自由も平等もないのかもしれません。もちろん、人権ということなど考えられないのかもしれませんし、信者さんの中にも暗黙の了解を得たヒエラルヒーがあるのかもしれません。 ですから、主教の絶大なる権威が認められ、その権威が教会法を越えられているのでしょうか。だとすれば、宗教法人法の規定など、まったく意に介していないのでしょうね。重大な犯罪を犯した司祭を退職処分にすることなく、自主退職でことを済ませてしまったのだと思います。 もしかすると、洗礼や堅信礼の時には、教会への献金以外に司祭や主教にお礼を出しているのかもしれないと、ある知り合いが言っていました。ですから、大きな教会に赴任すると収入が多くなるし、小さな教会では収入が少ないそうです。呆れてしまいました。洗礼名を付けると収入があるのでしょうか。そして、その名前によって格が決められていて、それなりのお礼を出さなければならないのでしょうか。こんなことを考えていると、本当に恐ろしくなってきます。 まさかこんなことはないと信じていたいのですが‥‥‥‥ 日本聖公会の法規では、聖職候補生・執事・司祭の結婚には主教の許可が必要とされています。実におぞましい規定です。日本国憲法の規定を越えています。それで判りました。最高裁の上告棄却をも越えて「事実無根」を貫いているのは、こうした考え方によるものだったのですね。近代史民社会の大原則を否定してでも、自分たちの権威を主張しようとしているのですね。正にカルトです。 また、離婚した信者が再婚する時にも、主教の許可が必要だとか。 ローマ・カトリック教会では離婚そのものを認めていませんから、再婚もあり得ませんが、「離婚した信者が再婚する時」ということは、日本聖公会では離婚を「絶対悪」だと考えていないはずなのですが、主教の中にはそのことを理解できていない人がいるようです。私は離婚と離別を分けて考えています。相手のしている仕事を理解できず、むしろそれに対して真っ向から反対して相手が家を出ていってしまうようなケースを「離婚」とは思っていません。むしろ、聖書が「出ていってしまう」という言葉で示していることだと思っています。 主教が使途不明金を出しても処罰されない教派ですから、この程度のことを理解できなくても仕方がないかもしれません。背任罪は親告罪のようですね。それとも被害を受けた教区が訴えなければ、使途不明金を出したこと自体は法に触れないのでしょうか。また、主教が教区のお金を私的に流用した場合、その金額は主教の収入として申告しなくていいのでしょうか。使途不明金ですから、先物取引にそのお金が使われたとしたら、教区がその先物取引をしたことになるのでしょうか。 不動産の売買でも同じことが言えます。教会のと地建物を売却して、そのお金で市街化調整区域の土地を高額で買い取った場合、少なくとも時価評価額を大きく上回った金額で買い取ったとしても、教区がそれを問題にしなければ背任行為にならないのでしょうか。しかし、東京教区では財務主事がそれをして告発されていますよね。財務主事がしたら法律違反で、主教がすると法律違反にならない。正にカルトの典型ではないでしょうか。 しかし、ここまで騒がれていながら、未だに被害者とその家族に謝罪していないという神経が、私には理解できません。
2007.01.05
日本のキリスト教はどうしたら土着できるのでしょうね。 日本聖公会の権威主義は、明らかに江戸時代の封建制度化の武士社会や商人社会にあった、封建制度的身分制度に根ざしていると思います。その人物の資質や能力には関係なく、家柄や学歴によってその地位がはっきりと決められているのではないですか。私の知る限りでは、主教の息子さんが主教になっているケースがかなりあるように思えますし、主教や司祭の息子さんが教会委員になっているケースが多いと思います。あるいは、教会院の選挙で選ばれるはずの教会委員も世襲のように理解されていないでしょうか。 その根底には、日本的イエ制度が影響していないでしょうか。 これは日本聖公会だけに言えることではないのですが、日本聖公会ではそれが顕著であるように思えます。こうしたことはどこから来ているのでしょうか。日本聖公会は神学ではなく祈祷書によって一致しているとは言いながら、あくまでも「アングリカン・コミュニオン」の一員であり、原則的にはランベス会議の決定を尊重してきました。新しい祈祷書の「聖別祷」がその典型かもしれません。今の祈祷書では、聖餐制定語が読まれてから聖別が行われますから、聖餐制定語を読む時に司式者は聖別されたホスチアや葡萄酒を奉挙することが出来ません。 かつて、祈祷書が改訂される過程でこのことを指摘した方に対して、明確な神学的反論が出来なかったからか、「何も判ってない!」という侮辱とも思えるような発言があったと聞かされています。しかし、「神学による一致ではなく、祈祷書による一致」を貫くのであれば、それがランベス会議の決定に反することであっても、二つの聖別祷を用いることが出来るように、そしてそれはどちらかが「正」でどちらかが「副」であるということではなく、同時並立的なものとして定めれば良かったのではないでしょうか。 ですから、司祭によっては聖餐制定語の奉挙を、「聖別」されていないホスチアと葡萄酒に対して行っているという、実に奇妙な御ミサをしているという珍事が行われていると聞いています。 あるいは、聖餐は「繰り返し行われる犠牲奉献」ではなく「感謝・讃美の祭りだ」と、聖書にある制定語を無視して主張してしまいました。「私の記念としてこのように行いなさい」という聖書の言葉は、「エイス ムネーモスノン」というギリシア語が使われています。旧約聖書のギリシア語訳=七十人訳でこの言葉が使われる時、そのほとんどは「神が想起するために」という意味で使われていることをご存知なかったようです。 この「感謝・讃美の祭り」であるということを強調する時、そこには「共生」という概念がしっかりとあったのでしょうか。彼らの多くはそれを主張していたように私には聞こえてきています。しかし、彼らの中にはそうした丹念な研究を無視した発言が見えていました。「犠牲奉献」でなければ女性司祭でも聖餐式が出来ると考えたのでしょうか。だとしたら、その根底には女性蔑視が横たわっているとしか考えられません。「女性は犠牲奉献が出来ない」という女性蔑視です。確かに旧約の規定では女性は神殿で犠牲を捧げることは出来ません。しかし、現代において聖書を紐解く時、私たちはそこに何を見つけだすでしょうか。 そうした意味では、日本聖公会は神学的に破綻していないでしょうか。 これを考える時に、ローマ・カトリック教会を彼らは見習ったのかもしれませんが、日本聖公会はローマ・カトリック教会とは根本的に聖餐論が異なっています。 文語を口語にすることによって会衆が理解しやすくなるという考え方もあったようですが、宗教学的に見ると、自ら宗教であることを否定しているのかもしれません。私たちの日常生活の中でも非日常的な言語はたくさん用いられています。また、文語は会衆が理解できないと考えたとしたら、あまりにも中学生や高校生を馬鹿にしているとしか思えません。中学の国語の教科書には古文や漢文が出ていますし、高校では必修科目です。 宗教とは、非日常的な世界のことですから、例えば曹洞宗の葬儀で読まれるお経はサンスクリットを音訳したものが読まれていても、皆さん何の不思議も感じていらっしゃいません。あるいは、浄土真宗では最近、参列者にもお経を渡して一緒に唱えるお坊さんがいらっしゃいます。渡されたお経には仮名がふってありますが、すべて漢字で書かれていますから、ほとんどの人はその中身を理解することが出来ます。ローマ・カトリック教会では、ラテン語の御ミサが復権するかもしれないようですが、私は素晴らしいことだと思っています。それは、ラテン語が正しいということではなく、ラテン語で御ミサを捧げようと日本語で御ミサを捧げようと、定められた式文を用いてそこで御ミサが捧げられれば、「御ミサ自身で御ミサになる」という知り合いの神学に共感しているからです。 日本にキリスト教が土着する過程で、日本聖公会はイギリスという国と日本という国の歴史の相異を無視して来たのかもしれません。うどんに蒲鉾を入れて食べている主教は、あくまでも日本人なのであって、イギリスの国教会やアメリカの聖公会を表面的に真似しても仕方がないと思っています。そう言えば、アメリカの聖公会の議長、女性がなったそうですね。日本聖公会で、司祭になれる女性が主教になれない理由が私には判りません。 日本の武家社会の思考が歴然と残っているのでしょうか。
2007.01.03
日本聖公会の多くの主教や司祭は、今頃は酒に酔っていることでしょうね、。彼らは酒が飲めることが司祭の条件であるかのように考えています。例の私の知りあいが聖公会に移籍したとき「酒も飲めない位からだが弱くては駄目だな」とまじめな顔で言った司祭がいたそうです。呆れてものが言えなかったのですが、彼らは司祭や主教だけの集まりなどの時は、酒を飲んで暴れ回るそうです。ある宿泊施設に、「あなた方の関係の宿泊はこれからはお断りします」と言われたこともあるようです。カラーのシャツを着てそこへは行けないとある司祭が言っていたと、私の知りあいが言ってました。 恐ろしいことです。例え冗談でも言ってはいけないことなのに、彼らは自分たちの権威をひけらかしたくてそう言ってしまったのでしょうね。私の知りあいは、人間の体内に入ったアルコールを分解する酵素を保持することが、遺伝子の中に書き込まれていないそうです。二種類の酵素があるのですが、彼の場合は二種類ともないのだろうと医師に言われたそうです。酒を飲めるか飲めないかが司祭になるための条件であるのであれば、何故日本聖公会は法憲・法規にそれを明示していないのか。御ミサの時に困ると言うことであれば、それをきちんと明文化すべきであろうと思うのですが。 この酵素を保持する遺伝子を持っていないのは東アジア人だけだそうです。ほぼモンゴル・中国・北朝鮮・韓国・日本だけだということを聞いたことがあります。欧米人やアフリカの人々で遺伝子的にお酒を飲めない方はほとんどいらっしゃらないようです。ですから、体が弱いからお酒を飲めないのではありません。日本人の多くの人が、車酔いするのは体が弱いからだと考えていらっしゃるようですが、あれは三半規管の性能が良すぎることと、平衡感覚をつかさどる脳の活動が良すぎるためだそうです。 聖公会の司祭たちはそうした知識を持っていないのでしょうね。しかし、こうしたことは実に大切なことだと思います。例えば、教会の附属幼稚園や学校法人になっていても教会と密接な結びつきを持っている幼稚園の子供たちに対する配慮ができなくなってしまいます。子供たちは、様々な体質の相異を持っています。そして、それが個性に繋がっているのですが、こうしたことを知らない司祭や主教が園長にでもなったら悲惨ではないでしょうか。 また、その子供が育った環境や周囲の人々の年齢構成によって、子供たちは様々な個性を持っています。ですから、こうした小さなことの一つ一つを理解していなければ、幼児教育など不可能だろうと思えます。私の知りあいは、大量のアルコール清浄綿を使うことが出来ません。手術の時などには困るそうです。注射を打つときにアルコール清浄綿で皮膚を消毒しますが、あれでも皮膚が赤くなってしまうそうです。 聖公会の司祭たちはこの程度の知識さえ持っていないようです。そして、遺伝子による体質を「からだが弱くては駄目だな」と言い切ってしまったことは、明らかに人権を無視したものであることに気が付いていません。あまりにもお粗末です。近代民主主義国家の中にある宗教法人の指導者として、最悪の状態にあるといわざるを得ません。 ある医師にこのことを質問したら、唖然とした顔をしていらっしゃいました。アルコールを体内で分解できない人に、無理矢理酒を飲ませたら、ある意味では犯罪かもしれません。あるいは、酒を飲めないことを『体が弱くて駄目だ』と発言したら、明らかに誹謗・中傷にならないでしょうか。それとも、聖公会の法憲・法規には、お酒を飲めない人は司祭になれないと書いてあるのでしょうか。御ミサの時にはごく少量のワインを口にする知りあいですが、残ったワインをすべて飲み干せないのであれば司祭になれないということであれば、組織としてそれをはっきりと明文化しておくべきではないでしょうか。 しかし、H司祭の幼児に対する性的虐待事件とその後の対応を見ていると、彼らには法憲・法規だけでなく、この日本の憲法や法律を無視できる権威が自分たちにあると考えているように思えてなりません。恐ろしい話です。人間の尊厳ということなど、彼らにはまったく判らないのでしょうね。「天皇の戦争責任」や「天皇制批判」を主張していながら、自分たちの絶大な権力を行使しているのですから。 「日本聖公会京都教区FH司祭事件を考える会」から来たメールには次のような一節がありました。」 * * * * * * * * 先ほど12月30日夜10時20分に被害者父親と電話で定期連絡、 本年最後の会話を交わしました。 (中略) まず京都聖公会のシンボルのマリア教会の信徒に事件の内容、 経過、主教の対応、M主教、K司祭の問題等々を簡潔にまとめ、 ホームページの紹介も兼ね文書を作成、日曜日10時頃から手渡 しましょうと話し合いました。まず私が文書を作成して、父親 に目を通していただくということで打ち合わせを終わりました。 父親は娘をめちゃめちゃにした聖公会を絶対許さないと最後 に強調されました。 私共も必ず最後まで支援いたしますよ! (中略) マリア、アグネス、奈良教会(K司祭の教会だった)での 文書手渡しが終われば京都駅、四条河原町です。そのあとは 平安の前でハンストも計画いたします。 必ずやります。 * * * * * * * * この悲痛な叫びを皆様はどのようにお考えでしょうか。 児童に対する性的虐待事件の加害者とその加害者を擁護し続けてきた主教や司祭をどうお考えですか。被害者は今でもPTSDに悩んでいます。キリスト教会の一つの教派である日本聖公会がこのような暴挙をし続けていることを、是非ご一緒に考えて下さい。そして、多くの人々に、あるいは教会にこの問題を知らせて下さい。 このブログはリンクフリーです。 京都教区の主教さん方や司祭さん方を擁護されている方々のブログでリンクされても構いません。一日も早く、加害者であるH司祭とその上位にあって指導監督していた主教さん方が、被害者とその家族に謝罪することが成就するように祈り、意見を主張して下さい。 革新的で民主主義的な発言を繰り返していた司祭たちでさえ沈黙しきっています。よろしくお願いします。教派を越えて、被害者とその家族を助けてあげて下さい。事件に関する教区の関係者は、記者会見では謝罪しましたが、一番大切な被害者とその家族への謝罪をしていません。
2007.01.01
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