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知り合いからメールが来ました。 「最高裁結審後毎月第一日曜日に被害者の村の伝道所に赴き、 2005年10月より転会されるまで2006年12月まで 約10回ほど私服で訪問し被害者と面会しています。 その訪問は被害者を懐柔する目的がありありで、平身低頭 もみ手を使って被害者に近づき被害者の要求を取り下げさせ ようとしてきました。しかし、父親はそれを見破り、三か条 の要望が満たされなければ謝罪訪問、和解を受け入れないと 強固な意志で一歩も引き下がらない態度は立派です。」 というある方の文が引用されていました。 高地主教は謝罪していません。被害者の要求を取り下げさせるために、私服で訪問したのであって、主教として謝罪したものではないと思います。「父親はそれを見破り、三か条の要望が満たされなければ謝罪訪問、和解を受け入れないと強固な意志で一歩も引き下がらない」とのことですから、まったく謝罪になっていないということなのではないでしょうか。 刑事時効が過ぎていなければ、刑事裁判で有罪判決が出た可能性が非常に高い事件です。高等裁判所は、請求額の満額を支払うように命じましたし、その判決を踏まえた上で最高裁は上告棄却を言い渡しているのではないでしょうか。それを、被害者の三ヶ条の要求を取り下げさせるために私服で出掛けていって、「懐柔」しようとしたのであれば、とんでもないことです。H司祭の犯した過ちを見過ごせと言うのと同じことではありませんか。謝罪するというのは、そういうことではありません。 いま、私の知り合いに電話しました。彼が最初に手術を受けたときに、主教は愚か、当の司祭さえお見舞いに来なかったそうです。彼の慰謝料請求権はまだ消えていないそうです。二度目の手術は、それから3年位してからだそうです。その間も、そして未だに、日本聖公会○○教区はまったく謝罪に来ていないそうです。おまけに、彼が独立したことを「聖公会を追い出された」といったキリスト教会の有名人(?)がいるそうですが、話になりません。あの方は何を根拠にそれを口にしたのか判りませんが、聖公会の中で何か極秘の情報が流れたのかもしれませんね。彼は、たぶん、公訴時効ギリギリの時に、手術に掛かった費用のすべてと、両肩の機能が著しく低下していることの慰謝料を請求するだろうと思います。勿論、裁判所を通してです。診断書は既に、二回の手術の分を教区に送付しているそうですし、二回目の時は主教の受領書簡を受け取っていると言ってました。大事な書類なので、風来坊さん(ブログ「いいたい放題」の管理人さん)の事務所の金庫に入っているそうです。 日本聖公会は最悪の組織かもしれません。主教や司祭の過ちを認めないのですから。それも、日本国の法律に違反していることでも、強権的に押さえ込み、誤った情報を流しているようです。謝罪というのは、自らの過ちを認めた上でお詫びをし、償わなければならないことは償い、そして加害者はそれなりの社会的責任を負うということなのではないでしょうか。それを知ってか知らずか、日本聖公会の主教や司祭は、信徒の管区事務所員の使途不明金に対しては告発しても、主教の使途不明金問題は握りつぶし、あまりにも不透明な土地売買を指摘した新聞編集長を更迭してしまうのですから。あの会社は、法的には宗教法人日本聖公会とはまったく別の有限会社になっていますが、何故そのような圧力がかけられたのか。正に言論統制そのものを日本聖公会自身がしてきているのです。恐ろしいことです。 こうした日本聖公会は平気で法律を犯すのですね。「言論統制」は憲法で禁止されていることです。日本聖公会が、憲法9条に関して発言したら、皆さん是非この点を追求して下さい。自分たちの内側で言論統制が行われていたことを隠して、外に向かって9条問題を語り、憲法改正問題を議論しようとしているのですから。あまりにも見にくいことですし、真剣に平和を追求していらっしゃる方々に失礼極まりないことですから。 高地主教は被害者とその家族に謝罪した、と私は思っていません。会いに行けば謝罪したことになるわけでもありません。自らの犯した過ちを詫びるどころか、「被害者の要求を取り下げさせるために、私服で訪問した」ことが何故謝罪なのでしょうか。 そして、代理人の方は一切情報を流して下さらないようですね。私のところへ流れてこないだけでなく、他の方々のところへも流れていないようです。申し訳ありませんが、私は代理人の活動を認めません。やはり聖公会の司祭でしかなかったのですね。あまりにも独善的すぎます。「糾す会」にも何もお知らせになっていないのですか?だとしたら最悪です。結局は、代理人も被害者とその家族を苦しめることしかできていません。一人でも多くの方々が事件とそれに対する京都教区の対応を知って、全国の人々が祈ることで問題が少しずつ解決されるのではないでしょうか。 今宵も、被害者とそのご家族を主がお守り下さいますように。
2007.04.30
日本聖公会は、犯罪を何故隠そうとされるのですか?ご自分たちの組織を守ろうとしているのですか?「教会に中に混乱を起こしたくない」とか「教会は徳を立てるような話をするところだから」とか「問題に関係のない信者さんを躓かせないために」とかいう弁解をされてないでしょうね。これほど身勝手な理由はありません。日本聖公会はアングリカン・コミュニオンの一員ですよね。アングリカン・コミュニオンでは同じようなことをしている各国の聖公会が多いのですか?アングリカン・コミュニオンだけでなく、イギリス国教会やアメリカ聖公会でも同じようなことをしているのですか? 私が知っている範囲では、アメリカ聖公会の統括(?)主教が女性になったことで、イギリス国教会からクレームが付いているそうですが、女子児童に対する性的虐待はどうなんでしょうね。インターネットのサイトには出てきていませんが。 あの時の新聞記事、つまり最高裁の上告棄却が決定された時の新聞記事を読んで、インターネットで<牧師・性的虐待・最高裁>で検索しても、あの時は、それ程情報は得られなかったと思いますが、今では「糾す会」のサイトやこのブログがかなり上位に出てきます。<聖公会 司祭 性的虐待>で検索すると、「糾す会」のサイトがトップで出てきますね。これはすごいことです。そして、弁護士さんのブログでも、このH司祭による性的虐待事件が取り上げられています。 かなりの人が関心を持っているのだろうと思われます。高地主教や古賀司祭はそれをご存知なのでしょうか。「日本聖公会京都教区原田司祭」という名前が出ているのですよ。勿論、教会の名前も出ています。それでも動じないとは、日本聖公会というのは途轍もなく鈍感なのか、あるいは自分たちは絶大なる権力を持っているとお考えのようですね。 最高裁の上告棄却が出てからさえ、いまだに高地主教や古賀司祭は被害者とそのご家族に謝罪に行ってないそうですね。先程、風来坊さん(「いいたい放題」というブログの管理人)にメールを入れておきました。「日本聖公会は最高裁の上告棄却の意味を考えて下さい」とプリントしたTシャツを着て、京都教区事務所の周りを散歩されたらどうですかという内容のメールです。 年貢の納め時なのではないでしょうか。あぁ、それとも聖公会は国王や貴族の教会ですから、年貢を受け取ることは判っても、納める方のことは判らないのでしょうね。性的虐待にも同じように考えているのではないですか?「平民が何をいうか!」と‥‥‥ 恐ろしいことです。中世封建制度が残っているのですね。ローかカトリック教会は既に、中世封建制度を脱却しています。第二バチカン公会議の決定はまさにそれを再確認したことだと私は思っていますが、日本聖公会は未だに中世封建制度を維持しているのでしょうね。 何のために祈祷書を改訂し、法憲法規を改正されたのですか?ご自分たちがお決めになった法憲法規を無視し、「主教を審判邸に引き出すとは何事か!」という意見が出てきてもそれを諫めようともしないとは、開いた口が塞がりません。 最近、いろいろな方がこのブログを読んで下さっていることを知りました。聖公会の関係者だけではありません。他宗教の方もいらっしゃいます。おそらく、他宗教でも同じようなことが起こっていると思います。21世紀は宗教がカルト化するか、宗教がその宗教の絶対性を相対化するかどちらかの時代だろうと私の知り合いが言っていました。「『神を知る』ということが、徹底的な自己相対化にならない限り、宗教はカルト化する」と彼は言っていました。「『日本は仏教国だ』とか「いや日本は神道国家だ』ということを言い出したら、最後かは殺戮しか起こらない。それぞれの宗教が自己相対化するときに初めて、多様化した価値観の遥か彼方でひととひとが共に生きられるだろうが、『それが神の御旨だ』と教会が言った瞬間にキリスト教もカルトになる。」と難しい議論をしていました。 少なくとも聖公会はいま、カルトになってしまいました。自分たちの中の司祭が女子児童に対して性的虐待を行ったと裁判所が認めていることを、何の検証もなく否定したり(加害者の弁解だけは聞いたそうですが)すれば、それは正にカルトだと言わざるを得ないと思っています。 聖公会の信者さんが立ち上がらなければ、日本聖公会はカルトから、犯罪者集団になりかねません。他にも、いくつもの過ちを犯し、命を奪い、肉体を傷つけているのですから。そして他の主教や司祭はそれに目を瞑っている限り、もうキリスト教の聖職ではないと思います。 沈黙することは隠蔽することにしかなりません。他でどんなに素晴らしいことを語ろうとも、それは偽善でしかありません。真剣に信仰の道を歩んで下さい。いま、京都教区に苦しんでいる女性信徒とその家族がいらっしゃるのです。そして、京都教区ではそのことに対して何も出来ずにいるのです。 何故それでも隠そうとされるのですか?
2007.04.29
今日、知り合いのところへ行ってきました。その時に面白い話を聞きました。日本聖公会のある司祭は、日本聖公会の司祭が結婚式場の仕事を始めたときに、「使う式文が聖公会のものと似通っていたら、著作権に触れるからそれなりの対処をする」と言っていたそうですね。 著作権法第二条の一 にこう記されています。 一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、 文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。 彼らはこれで、彼らの祈祷書がこの規定の中に含まれてると考えているのだとしたら、日本聖公会は「文芸、学術、美術又は音楽の」活動をする団体であるということになってしまいます。しかもこの方は、管区の聖職試験委員長をされていたそうです。呆れてものが言えません。聖書に著作権がありますか?信仰告白定式文に著作権がありますか?キリスト教史の古い文献に著作権がありますか?恐ろしい発想です。 「主の祈り」の翻訳が似ていたら「著作権の侵害だ」と主張したのでしょうかね。「翻訳権」の侵害?ですかね。祈祷書とまったく同じものを使ったら、「著作権の侵害だ」と主張したでしょうね。恐ろしいことです。ご自分たちの祈祷書が他者によって採用されるということは、喜ぶべきことではないでしょうか。おそらく、その司祭から祈祷書の使用料をもらうことを考えていたんじゃないでしょうか。この司祭さんは、結婚式場が建てた礼拝堂で素晴らしいお働きをしていると知人は言っていました。そして、知人は、その司祭さんが何故聖公会を離脱して独立したか、その時裏で何があったのか、誰がどのように発言したのかということまで知っていました。その司祭さんをよく知っている別の司祭からそれを聞いたそうです。 やはりお金が絡んでいるんですね。売り上げの何%という言葉を耳にすると、これでもキリストの教会なのかと耳を疑いたくなります。それだけではありません。あの時、あの司祭さんがそれを受け容れたにもかかわらず、結局はその司祭さんが聖公会を離れるということで決着を付けたようです。おぞましいことです。ですから、「著作権に触れるからそれなりの対処をする」ということもお金に絡んだことのようです。皆さんも気を付けた方がいいですよ、日本聖公会の祈祷書などを引用するときは。 日本聖書協会では、日本聖書協会の聖書を一度に25節以上を引用する時は、とりあえず連絡しなければならないそうです。文語訳聖書で新しい交唱詩篇を作って、毎日朝の祈りで用いる時には、日本聖書協会に連絡しなくてはいけないのでしょうか。誤訳を見つけて、それを訂正したら問題になるのでしょうか。 法律に著作権がないように、聖書にもないのではないでしょうか。出版権はありますが、しかし聖書や祈祷書は著作権を主張すべきものでしょうか。たとえ、他宗教の方がキリスト教批判をされることがあって聖書を引用したとしても、「天に宝を積む」ことを考えるべきではないでしょうか。 恐ろしい話です。 教会がキリストの福音を語り伝えようとするときに、その語り告げる言葉に著作権や翻訳権を主張するのですから。主イエス・キリストはどのようにお考えになるでしょうね。 「こう書いてあるではないか。 『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきものである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」 日本聖書協会 新共同訳聖書第1版 マルコによる福音書11章17節b キリストはここで何をおっしゃりたかったのでしょうか。 大きな教会の牧師よりも大学のチャプレンの方が収入は低いから、生活が大変なんだと主教はおっしゃったみたいですね。定期預金を取り崩して生活しているくらいだからともおっしゃったそうですが、考え方が、何か根本的に間違っていらっしゃいませんか? H司祭を陪餐停止にした時に、主教や常置委員は自らを減給処分にされたそうですね。判るような気がします。停職や終身停職よりも減給の方が重そうな方々ですから。しかし、それをしたらキリストの教会ではなくなるのではないでしょうか。日本聖公会の主教さんたちに、真剣に考えていただきたいと思っています。こうしたことがそのまま放置されると、正に「清く、貧しく、美しく」キリストの福音を生きている小さな教会の群の歩みを、大きく邪魔をすることにしかならないということを知っていただきたいのです。「だから隠しておけばいいのだ」とはお考えにならないで下さい。「上手の手から水が漏れる」という諺にもあるように、どこかで問題になれば、それが小さな群にとっては致命的な傷になることもあるのです。 それとも、日本聖公会は、自分たちだけがキリストの教会だとお考えになっていらっしゃるのでしょうか。
2007.04.28
「京都教区の対応を糾す会」の代表・堀江静三兄からのメールに添付されていた文書を、ご本人の許可を得て、ここに転載いたします。堀江兄は「H司祭による女子児童への性的虐待」とその後の京都教区の対応に関する情報を一斉メールという形で発信されていらっしゃいます。 この文書の最後にメールアドレスが記されていますが、そこへメールを出せば、その一斉メールを読むことが出来ます。一人でも多くの方がお読み下さることを望んでいらっしゃいます。 よろしくお願いします ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ (以下、添付文書の全文のコピーです) 聖公会関係者の皆さん!京都教区全教会の聖職者・教会委員・信徒の皆さん 2007年4月7日付けのキリスト新聞イースター号で京都教区事件が1頁にわたって特集されました。(同封)「福音と世界」2006年11月号でも特集 これは旧「考える会」がキリスト新聞に事件の第一報をいれ、2006年1月28日と5月20日に報道され、その後も続報を申し入れていましたが、今回は被害者家族から直(じか)に取材する為奈良の自宅まで松谷記者が赴かれ、被害者父親から悲しい、悲しい現状を取材され、生々しい記事が活字になりました。神様がこの松谷記者を東京から奈良県まで送られたのです。私どもの継続取材に応えていただき、このような内容の濃い、事件の真相に迫った記事を書いていただき深く心から感謝申し上げます。 これまで「考える会」からの一斉メールでも被害者家族が結審後も京都教区から酷い虐待を受け悲嘆のどん底に苦しまれておられる様子を伝えてきましたが、今回新聞記者がその真相に切り込んで書かれたリポートを読んで、今まで以上に京都教区に対して怒りと憤激が増します。 記事を読んで特に涙が止まらなかった点は 【父親は嘆く。「教会もいまだにわたしたちの味方ではない」。裁判後 父親には、教会員の前でことの経緯を説明する機会すら与えられていない。 今年に入り、かろうじて籍を置いていたその教会から家族で離れた】 というくだりです。 この教会の霊的指導をしているのは古賀司祭、三浦司祭、石塚司祭、高地主教です。霊的指導者としての司祭は信徒特に教会委員達に被害者を全力で擁護し守るよう指導すべき責任があるのに古賀司祭、三浦司祭は逆に一貫して加害者の原田文雄司祭を擁護し裁判に敗訴後も高地主教共々心からの悔悛を示さず、被害者家族を教会から追い出すような態度を続けたので、いたたまれず教会から去って行かれたのです。 私どもは2年にわたって古賀司祭、三浦司祭、石塚司祭、高地主教他常置委員に被害者の3か条の要望を速やかに聞き入れ和解を進めるように口をすっぱいほど言い続けたのであります。ところがそれに応えるどころか高地主教は被害者家族の前で大声で怒声を浴びせ、宮嶋司祭もそれを止めるどころか横を向いているような態度でした。 父親はこの高地主教の態度、特に被害者や支援者に対する敵愾心を察知し、この主教には自分のような弱いものでは太刀打ちできないと感じ、代理人契約を結ばれたのです。その後も父親が了解した文書を書き換え捏造した文書を全国の教会に配布したり、支援者の訪問にパトカーを呼んだり、電話口で怒鳴り散らすという態度を取り続け、ついに被害者を教会から追出してしまったのです。 これがキリスト者のすることですか? 良心はないのですか?日本中のキリスト関係者が 驚いています。この現場の教会でも何人かの皆さんは被害者を擁護するため、声を出しかけると「その話はしないで!やめなさい!」と静止されてしまうということがあり、故に被害者を守りきれず、結果的に被害者家族を教会から追い出すという状態になったのです。これは絶対間違っていますよ! 私は高田聖公会を母教会として70歳まで生きてまいりました。先日亡くなられた松尾克己先生(94歳)、安倍一郎先生(83歳)どちらも高齢で自分の教会で起こったこの事件を悲しみ、悲しみ、無念の思いで逝かれたことでしょう。 正しい解決は被害者家族を追い落とすのではなく、心の回復を願って、被害者の切なる 要望を聞いて差し上げ、一刻も早く心の回復を頂く為に出来ることすべてをして差し上げると言うことが現場の教会員として当然の行いなのではないでしょうか? そのためには現場教会から高地主教に対して、その対応の間違いを指摘し、早い和解を申し入れることではないでしょうか? 現場の教会をこんな酷い状態にしたのはこの霊的指導司祭の間違った指導のせいであり、広く言えば教区全体の沈黙司祭達の責任ではないでしょうか! 悲しい、悲しい、悲しい、これ以上に悲しい話がどこにありましょうか? 聖公会よ!聖神中央や摂理やオウム真理教よりも酷い話ではありませんか! 今からでも遅くない!被害者を守るスタンスに変わってほしい!お願いします! 「京都教区の対応を糾す会」(牧師による女児性的虐待事件) 代表 堀江静三(京都教区高田基督教会信徒、69歳) ホームページ http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html 電話 (070-5669-4276) 関連ブログ 「聖公会京都教区司祭事件」関係HP、Blog (京都教区牧師の少女にたいする性犯罪事件) 「考える会」「糾す会」 http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html 「考えよう!主張しよう」 http://blogs.yahoo.co.jp/ortho_catho 「キリスト教カルトを斬る」 http://plaza.rakuten.co.jp/teradream/ 「いいたい放題」 http://blog.goo.ne.jp/myocor_319/ 参考 「宗教トラブル相談センター」 http://maranatha.exblog.jp/i2/ 「宮本晴美事件」(ホーリネス教団牧師による性虐待事件) http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai/miyamoto.doc
2007.04.24
恐ろしいことです。正にカルトです。 聖公会では、人権がないみたいです。司祭が信者宛の文書などの情報を握りつぶせるようですね。その可能性が十分にあるから、「糾す会」からあのようなメールが来たのだと思いますが、信者は主教や司祭の奴隷ですね。 聖書に記されている使徒や司祭は、そうしたこの世的な権威を持っているのでしょうか。「牧会」という名で、信者の知る権利を疎外していないのでしょうか。あるいは、信者が他の信者に知らせる権利を疎外していないでしょうか。こうしたメールが発信されるということの中に、日本聖公会の主教制の過ちが見えているような気がします。 いま気が付いたのですが、風来坊さんが「いいたい放題」という彼のブログにまた新しいことを書いていらしゃるのですね。私が書こうとしていたことと同じことが書かれています。ただ、掲示板は<2ちゃんねる>だけではありません。それぞれの地方に、<2ちゃんねる>に似た掲示板はたくさんあります。検索サイトで見つけて、そこに書き込んだら、日本中にかなり広範囲に広まるでしょうし、特に日本聖公会の教会がある地域の掲示板に書き込んだら、大変なことになるのは目に見えています。ただでさえ子供の数が減っていて、幼稚園が大変な時代ですから、それぞれの教会幼稚園はお困りになるだろうなと思っています。ただ、一個所で書かれたことは、他に広がっていくのがインターネットの宿命ですし、その速さは光と同じくらい速いですから、書いて数分後には各地方の掲示板にいろいろと書き込みがされることは目に見えています。 それにしても、日本聖公会というのは、本当にキリストの教会なのでしょうか。自分たちの都合が悪くなると、大声で恫喝するようですね。恫喝そのものが悪いとは思いません。間違ったことをしていれば恫喝しなければなりませんし、こちらの人権が阻害されたり、無視されたりすれば恫喝しても仕方がないと思うのですが、ご自分たちの都合が悪くなると恫喝するというのはとんでもないことではないでしょうか。彼らは間違いなく被害者の人権を無視しているのです。そうした意味からも、公的な人権擁護システムが作られなければならないと思っています。それも被害者の側に立てる人権擁護委員がいるシステムをです。日本ではまた外国人の指紋押捺がまた議論されているようですが、あれが外国人の人権を深く侵害していることは明らかなことで、そのためには外国人が人権擁護委員にならなければ問題は解決できないと思っています。 まさか、聖公会の主教や司祭は「アメリカでもしている」と言わないでしょうね。アメリカで指紋押捺をさせられていたのは日本人だけです。日本でアメリカ人が指紋押捺させられていたからです。そうしたことをマスコミもあまり報道していませんでした。私がこのことを教えていただいたのは、指紋押捺を拒否されたアメリカ人宣教師の方からでした。 日本聖公会は、カルト以上のカルトです。主教や司祭は貴族で、信者は平民なのですか?司祭は法を犯しても、裁かれることはないのですか?主教が法を犯しても裁かれることはなく、信者が法を犯すと裁かれるのですよね。あまりに理不尽だとお思いになる聖公会の聖職はいらっしゃらないのでしょうか。
2007.04.19
かつて、いろいろなところで女性の人権を口にされていた主教や司祭が日本聖公会にいらっしゃいましたよね。私もそれを読ませて頂いたり、聞かせて頂きましたが、京都教区の現職司祭による女子児童への性的虐待に関して今まで沈黙を守られているようですが、あの発言はウソだったのですね。「口から出任せ」ですか?それとも、対外的に女性司祭按手を宣伝するための方便だったのですか。何のために女性司祭をお認めになったのですか?あの時に積極的に女性司祭をお求めになっていた司祭の中には、主教になった方もいらっしゃいますよね。一体どうされたのですか?女性が司祭按手を受けたら、考え方が変わってしまわれたのですか? まさか「日本聖公会という組織を護るために」沈黙しているとはおっしゃらないですよね。女性司祭按手の反対する人々を、まるで、かつてアメリカで行われたレッド・パージのように排除していらっしゃった方々が、組織の為に女子児童への性的虐待という犯罪に目を瞑ることはあり得ませんから。 それとも、ご自分たちの社会的経済的利益を優先させたのですか? もしそうだとしたら、その考え方を悔い改めるまでは、パルピットはおろかオールターの前にも立つことが出来ないのではないでしょうか。そして、それが教会の聖職であるということではないのでしょうか。 H司祭が女子児童にどのようなことをしたかに関しては、高裁の裁判記録にしっかりと出ているそうですね。そして、その証言を高裁が認めたから、請求額の満額の慰謝料を支払うように判決が出されたわけですが、日本聖公会の沈黙する主教や司祭は、その高裁判決を否定できるだけの証拠と証言を得ているのでしょうか。 「京都教区に任せてある」と発言された主教もいらっしゃるそうですが、それでは女性司祭を認めたのは教区レベルだったのですか?そうではなく、日本聖公会の法憲法規を修正したからではないのですか? かつて「女性の人権」という言葉を使っていた主教や司祭は、京都教区では最早、自浄能力を失ってしまっている現状をどうお考えなのでしょうか。「京都教区に任せてい」れば、女性の人権が守られると思っていらっしゃるのですか? 知り合いは、「名前を挙げて批判して欲しい」と言っていますが、今はお名前を出しません。しかし、あまりの豹変ぶりに、堪忍袋の緒が切れそうなのは確かです。 女性司祭按手に反対している人々をかなり激しく排除していましたよね。そして、フェミニズムをさえ肯定していらっしゃったのではないですか?実に不思議なことです。同時に、女性司祭按手を受けられた方々は、何故黙っていらっしゃるのですか。何のために司祭になられたのですか?あるいは、在日の方々、障害を持っている方々に対する社会的差別の問題を取り上げていらっしゃった方々もいらっしゃいますよね。何故、女子寺僧に対する現職司祭の性的虐待に関しては沈黙されるのですか?結局は単なるポーズだったのですか? 何故、戦わないのですか?あなた方が戦わなければ、誰が戦ったらいいのですか?それともH司祭を擁護する人々の側につくのですか?おそらく、皆さんもこのブログをお読みになっていらっしゃると思います。そして、私と私の知り合いを混同されていると思います。そんなことをする暇があったら、一日も早く被害者が癒されるために「祈り、かつ働く」ことが必要なのではないでしょうか。 あるいは、京都へ行って、お寺で座禅を組んできたと自慢げにお話しされていた司祭もいらっしゃいましたよね。知り合いから聞きました。他教派では既に、そうした研修はそれよりもずっと前から行われているのです。ご自分たちが一番だとお思いにならない方がよろしいかと思います。それだけではありません、現実に起こっていることを真摯に見つめることが出来なければ、神学は神学として成立しないのではないでしょうか。神学は、現実を神の前に存在していることという大前提から出発しなければならないと思っています。神学は、書斎の中だけの発想では、神の宣教の御業から離れていってしまうのではないでしょうか。 日本聖公会の主教や司祭は、真剣にこの問題に立ち向かうべきです。「教会を混乱させたくない」という発想は、被害者を苦しめることにしかならないということをしっかりと認識すべきです。 被害者の方は、今夜も苦しんでいるということを、日本聖公会の主教や司祭が深く認識しなければ、教会が変わるはずもありません。
2007.04.18
皆さんも、やっと見えてきましたか? 以下のような「京都教区の対応を糾す会」のメールを知り合いが転送してくれました † † † † † † † † † † † †聖公会関係者の皆さん! 先日4月7日付けのキリスト新聞イースター号で京都教区事件が1頁にわたって特集されました。 これは旧「考える会」がキリスト新聞に事件の第一報をいれ、2006年1月28日と5月20日に報道され、その後も続報を申し入れていましたが、今回は被害者家族から直(じか)に取材する為、奈良の自宅まで松谷記者が赴かれ、被害者父親から悲しい、悲しい現状を取材され、生々しい記事が活字になりました。神様がこの松谷記者を東京から奈良県まで送られたのです。私どもの継続取材に応えていただき、このような内容の濃い、事件の真相に迫った記事を書いていただき深く心から感謝申し上げます。 これまで「考える会」からの一斉メールでも被害者家族が結審後も、京都教区から酷い虐待を受け悲嘆のどん底に苦しまれておられる様子を伝えてきましたが、今回新聞記者がその真相に切り込んで書かれたリポートを読んで、今まで以上に京都教区に対して怒りと憤激が増します。 記事を読んで特に涙が止まらなかった点は 【父親は嘆く。「教会もいまだにわたしたちの味方ではない」。 裁判後、父親には、教会員の前でことの経緯を説明する機会すら 与えられていない。今年に入り、かろうじて籍を置いていたその 教会から家族で離れた】 というくだりです。 この教会の霊的指導をしている管理司祭は古賀司祭、三浦司祭、石塚司祭です。霊的指導者としての司祭は信徒特に教会委員達に被害者を全力で擁護し守るよう指導すべき責任があるのに古賀司祭、三浦司祭は逆に一貫して加害者の原田文雄司祭を擁護し裁判に敗訴後も高地主教共々心からの悔悛を示さず、被害者家族を教会から追い出すような態度を続けたので、いたたまれず教会から去って行かれたのです。 私どもは2年にわたって古賀司祭、三浦司祭、石塚司祭、高地主教に、被害者の3か条の要望を速やかに聞き入れ和解を進めるように、口をすっぱいほど言い続けたのであります。ところがそれに応えるどころか、高地主教は被害者家族の前で大声で怒声を浴びせ、宮嶋司祭もそれを止めるどころか横を向いているような態度でした。 父親はこの高地主教の態度、特に被害者や支援者に対する敵愾心を察知し、この主教には自分のような弱いものでは太刀打ちできないと感じ、代理人契約を結ばれたのです。その後も父親が了解した文書を書き換え捏造した文書を全国の教会に配布したり、パトカーを呼んだり、電話口で怒鳴り散らすという態度を取り続け、ついに被害者を教会から追い払ったのです。 これがキリスト者のすることですか?良心はないのですか? この現場の教会でも何家族かの皆さんは被害者を擁護するため声を出しかけると「その話はしないで!やめなさい!」と静止されてしまい、被害者を守りきれず、とうとう被害者家族を教会から追い出してしまったのです。これは絶対間違っていますよ! 私は高田聖公会を母教会として70歳まで生きてまいりました。 先日亡くなられた松尾克己先生(94歳)、安倍一郎先生(83歳)どちらも高齢で自分の教会で起こったこの事件を悲しみ、悲しみ、無念の思いで逝かれたのです。 正しい解決は被害者家族を追い落とすのではなく、心の回復を願って、被害者の切なる要望を聞いて差し上げ、一刻も早く心の回復を頂く為に出来ることすべてをして差し上げると言うことが現場の教会員として当然の行いなのではないでしょうか?そのためには高地主教にしっかりと現場からその対応の間違いを指摘し、早い和解を申し入れることではないでしょうか?現場の教会をこんな酷い仕打ちをする教会にしたのはこの霊的指導者の間違った指導のせいであり、広く言えば教区全体の沈黙司祭達の責任ではないでしょうか!悲しい、悲しい、悲しい、これ以上に悲しい話がどこにありましょうか? 聖公会よ!聖神中央や摂理やオウム真理教よりも酷い話ではありませんか! 今からでも遅くない!被害者を守るスタンスに変わってほしい!お願いします!「京都教区の対応を糾す会」 (牧師による女児性的虐待事件) 代表 堀江静三 (京都教区高田基督教会信徒、69歳) ホームページ http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html † † † † † † † † † † † † これを読んで皆さんはどう思われますか?キリスト教会として侵してはならない一線を日本聖公会は踏み出してしまっていないでしょうか。日本聖公会の聖職の方々は、人を裁くことには長けたお方が多いようですが、自分たちの仲間が犯した過ちについては、徹底的に隠蔽されようとされているのがよくお判りになると思います。 伝え聞くところでは、未だにH司祭を支援し、H司祭が復職する道を探られている方々がいらっしゃるようですね。最高裁判所が上告棄却をしたのは、H司祭の事件が事実であると認定したからではないのですか?たとえ法的手続き状の問題であっても、高等裁判所の判決に不備はないと判断したからではないのですか?児童に対する性的虐待は明らかに犯罪なのです。ただ刑事時効が成立してしまっていたので、民事裁判に訴えたのではないですか? 日本聖公会は、明らかに、キリストの教会が侵してはならない一線を踏み出してしまいました。それは、主の十字架の贖いを忘れて、自分たちの正しさを捏造しているからです。誰が加害者で、誰が被害者なのかは、皆さん、間違いなく同じ意見だと思います。日本聖公会京都教区はその加害者の側に立って、事件後も被害者を苦しめているにもかかわらず、他の教区はまったく沈黙していらっしゃいました。教会が犯罪を擁護し、隠蔽してどうなるのですか? 口封じのために、このブログに侵入したい方もいらっしゃるでしょうから、今夜、新しい、複雑なパスワードに変えることにしています。シンプルなパスワードでは、簡単に突き破られてしまってもいけませんから。既に、それを試みた方はいらっしゃいませんか?それも犯罪ですよ。「『その話はしないで!やめなさい!』と静止されてしまい」と書かれていますが、日本聖公会には言論の自由もないのですね。主教や司祭には絶大な権力があるのですね。恐ろしいところです。判りました、それで祭壇を前に出してきて、会衆の方を向いて聖餐式を執行されるのですね。「感謝讃美の祭り」というのは建前で、本音はご自分たちが神様のようになろうとされていたのですね。 本当に悲しいことです。どうしてそこまで権力を持てるとお考えなのか、私にはまったく判りません。犯罪さえもを隠蔽しようとされているのですから。これでもう「聖公会はプロテスタントの雄」等とは絶対に言えなくなりましたね。 このブログのアクセス数は大したことがないので、また新しい方法を考えます。ここも続けますが、もっともっと社会に日本聖公会の現実を知っていただくために、インターネット上の新しい方法を見つけます。私の知り合いは、「大して難しいことじゃない。むしろ実に簡単な方法だ」といっていました。後で、電話を入れてみます。
2007.04.16
昨日の夕方から夜にかけて、知人と知人の友人の方にお会いしました。 聖土曜日なので、最初に三人で祈りました。その祈りの冒頭に知人は「この御復活の日に、主よ、日本聖公会を救って下さい」と祈りました。土曜日の夜だったので「あれ?」と私は思ってしまいました。そして、祈りの時が終わって最初に「まだ土曜日なのに」と私が尋ねると、彼は「もう日曜日です。陽が沈んでいます。」と答えました。お恥ずかしい話ですが、教会の仕事をしていると、日曜日は日曜日の朝からだと考えてしまっています。土曜日は日没一時間前までで終わっていました。聖土曜日なので簡単な夕食をと思い、サンドイッチだけを作っておいたのが恥ずかしくなり、近くのファーストフードのお店でフライドチキンを買ってきました。教会の暦を、いつの間にか勘違いしていた自分に恥じ入っています。 キリスト教の暦にはローマの太陽暦とイスラエルの太陽大陰暦が混在しています。アドベントから灰の水曜日の直前までは太陽暦、そして灰の水曜日は太陽大陰暦で定められ、その後はその暦に続いていきます。そして、次のアドベントが来るまで続きます。しかし、エピファニーや主の洗礼の記念日は、イスラエルの習慣をそのまま採用しています。昨夜、知人が面白い話をしていました。思わず笑ってしまいました。「年賀状は神道のものだから、教会はクリスマスカードを出すべきだ」とまじめな顔をしていった方がいるそうです。日本聖公会のある教会でです。そしてそこには、管区の聖職試験委員長をした方がいらっしゃったそうですが、何もおっしゃらなかったとのことです。思わず笑ってしまったのは、日本聖公会の聖職試験委員長でさえ、年賀状の習慣がヨーロッパ・アメリカ的キリスト教に由来していることをご存知なかったからです。クリスマスカードには、"A Happy New Year"と書かれているのが普通ではないでしょうか。郵政省が葉書の売り上げを狙って作り上げた習慣だと聞かされています。最近はインターネットのメールが増えて、年賀状の売り上げが落ち込んでいるそうですが‥‥‥ そして、一番驚いたことは、京都にあるウイリアムス神学館の説教学の教授は、ソシュールの本くらいは読んでいるだろうと思ったのですが、聞くところではソシュールを読みこなせるような方ではないとのことでした。日本聖公会は何を考えていらっしゃるのでしょう。礼拝の説教です。神の言葉を取り次ぐものです。しかし、それを教える方がソシュールをお読みになっていらっしゃらないだろうと聞いた瞬間、頭の中が凍り付きました。日本聖公会は、世界各国の聖公会と共に綱憲を持っていらっしゃいますが、その中でも聖書を大切にしています。もちろんカノン(正典)としての大切さです。聖書は言葉で書かれていますから、言葉とは何かということを考えずして、聖書の解き明しを語ることは出来ないのではないでしょうか。礼拝の説教というのは、単なるお話ではありません。まして、「みんなが喜ぶようないいお話」ではありません。福音書に記されている主イエスの言葉は、非常に過激な言葉です。「求めよ、さらば与えられん」などは、当時のユダヤ教のあり方に対する強烈なメッセージではないでしょうか。そして、日々の暮らしがやっとだという人々がほとんどの時代に、五つのパンと二匹の魚で数千人が満腹した奇跡物語など、一世紀の人々が耳にしたらどう感じたでしょう。 日本聖公会はお金持ちの方々が多いようですから、なかなか理解が難しいかと思います。あるいは、マタイ福音書は弟子のマタイが書き残し、貴族や上流階級に読まれていたものだと教え込まれているかもしれません。しかし、マタイはナルドの香油が海泡石のような石で出来た壺に入れられ、密閉されたものであることを知りません。マタイには、「壺を割る」という表現がありません。貴族社会にいた人であれば、マタイはこれを知っていたはずです。マルコにも同じ記事がありますが、マルコはそれを知っています。マルコを底本の一つにしたはずのマタイが何故これを記さなかったのか。日本聖公会は、こうしたことをもっともっと聖職たちに勉強させるべきです。でないと、説教が主教や司祭の恣意的な聖書解釈になってしまうのではないでしょうか。 こう言うと、「幼稚園とか学校とかの仕事が忙しくて、なかなか十分な時間がとれない」という声が聞こえて来そうです。だったら、幼稚園や学校の仕事は信者さんに任せて、一番しなければならない仕事をすべきではないでしょうか。そして、ベストリー(香部屋)ではなく、書斎が一番居心地の良いところであるようにして下さい。24時間、そこにいても平気だというくらいにして下さい。そして、お酒をお控え下さい。お酒に酔っている時間は、主も宣教の御業に携われません。酔っているということは、そういうことではないでしょうか。お酒に酔っている時間は無駄ではないですか? そして、アポストロス(使徒)もプレスブテロス(長老)も、その上に教会が建てられているのではなく、聖書と教会伝統の上に教会が建てられているのですから、聖書と教会によって定められた使徒(主教)や長老(司祭)は、その聖書と教会に仕える者でなければならないのではないでしょうか。ただ、心配なのは、教会という時に、それが建物を意味していたり、そこの集まってくる人々に心を奪われてしまわないことだと思います。未信者の方々を自由に振る舞わせていた教会を知っています。そして、教会の決定がその方たちの考えによって左右しているのを知りました。福音が福音でなくなります。自由な人間の意思で、聖書もサクラメントもないところで「教会」が運営されてしまいます。教会という社会的組織は、聖書の御言葉や教会の伝統によってはじめてキリストの教会になることが出来るのではないでしょうか。 まず武藤主教と高地主教が被害者とそのご家族に謝罪して下さい。 そして、関係したすべての司祭も謝罪して下さい。 それから、主の御前に潔く審判廷の席にお着き下さい。 主は皆さんのためにも十字架に死んで下さっています。 主の平安
2007.04.08
日本聖公会はキリストの教会ですか? 「聖公会に神学はない」という事を聞いてきましたが、「神学はない」という時、それは神学によって立つことも倒れることもなく、ただ祈祷書によってのみ教会であり続け、各教会が一致しているということだったはずです。しかし、その考え方を誤解して、「聖公会は神学をしなくていい」ということにすり替わってしまっていないでしょうか。私が知っている範囲では、優秀な神学者がいらっしゃったはずなのですが、お一人は既に日本聖公会を離れてしまわれました。そして、他の方々は、あまり表面にお出にならなくなっているようですが、しかしこのままでは聖公会が倒れます。 確かに、聖公会が倒れることは聖公会自身の責任ですから仕方がないにしても、日本聖公会の問題性が新聞やテレビなどで報道される度に、他のキリスト教会に少なからぬ迷惑をかけているということをご存知ないようです。特に教会会計の不明朗さに至っては、他の教会には考えられない金額の使途不明金が出ていますし、沖縄教区での愚かな土地売買に関しては、裏に何かがあったと考えるのが常識だと思えるほどです。 聖公会神学院の事件では、何がそこであったのかに関して、聖公会内の諸教会に対して何の説明もないそうですが、これなども聖公会のオーダー(聖職位)のヒエラルキーにその原因があることかもしれません。そして、司祭になったらもうそこから先は神学しなくてもいいと思っている司祭があまりにも多すぎるのではないでしょうか。そして、京都教区のウィリアムス神学館に至っては問題外です。未だに高卒の学生を受け容れているにもかかわらず、大学にしようと思っていません(あの規模では到底無理ですが)。あるいは、イギリスにある神学院に留学させることもしていません。優秀な神学者の名前を出して「聖公会にも神学者はいます」という言葉を口にした司祭がいました。私はお会いしたことはないのですが、聖書神学者と云われている方が、1990年代になってブルトマンをはじめてお読みになったと聞いて驚きました。ブルトマンを肯定するか否定するかの問題ではありません。「非神話化」という聖書神学の方法論をクリティカルに考えることがお出来にならなかったのかもしれません。そして、最悪なのは、そうしたギリシア語聖書を丹念に研究されている神学者がいることで、聖公会は神学が確立していると思い込んでいる司祭が多すぎます。司祭の一人々々が神学しなければ、宗教教団としての日本聖公会が崩壊してもおかしくありません。 日本聖公会の「有力信徒」というのは、社会的地位の高い方や高額献金者のようです。日本聖公会の主教さんたちは聖書をお読みになったことがあるのでしょうか。そして「有力信徒」の発言力が極めて強いことを私も眼にしてきました。こうした問題も、「神学がない」ということが、「神学しない」ということになってしまっているからなのではないでしょうか。原典を紐解くことなく、注解書を書棚から出すこともなく、それでよく説教原稿を書くことがお出来になると思います。まさか主日の朝になって、何の話をしようかとお考えになっているのではないでしょうね。祈祷書通りに「聖餐式」をすればそれでいいのですか? そして、聖公会には大きな矛盾があることに気が付いていらっしゃらない方が多いような気がしています。世界の聖公会の「綱憲」というのがありますが、そこでは、サクラメントは洗礼と聖餐だけだとされています。それでいながら、主教制度は使徒継承を持っているとお考えです。なぜ、聖職按手はサクラメントではないのでしょう。サクラメントでない聖職按手を受けた方が、どうして使徒継承を受け継ぐことが出来るのでしょうか。サクラメントでないはずの聖職按手式は、きらびやかな祭服をまとった人々によって行われます。人々は、あのきらびやかさに安心しているのでしょうか。 もう一つあります。洗礼はサクラメントです。聖餐もサクラメントです。しかし、幼児洗礼を受けただけでは、御ミサのお恵みに与れません。サクラメントでない堅信礼受けなければ聖餐に与れないのですが、この問題に気が付いている司祭は何人いるでしょう。そして、ご自分なりにこの問題を神学的に解決されている主教や司祭は何人いるでしょう。「聖公会では、そう決まっているんです」と答えた司祭さんがいらっしゃいました。私は開いた口が塞がりませんでした。そうした方が教区の上層部に入られたら、教区がおかしくなっても仕方がありませんね。 聖公会はやはり「仲良しグループ」になってしまったようです。 「代々聖公会の教会員です」という方々によってだけ組織されたものでしかなくなりつつあるのではないでしょうか。京都教区の主教や常置委員は何としてでも審判廷の開廷を阻止しようとするでしょう。「審判廷」は絶対に開かれないものであり、開いてはならないものだとお考えの方がいらっしゃるようです。 このブログへのコメントは停止させていただいているのは、平気で誹謗中傷をお書きになるような方がいらっしゃるからです。そうしたものに対して、反論する時間はありません。昨夜も睡眠時間は4時間でした。やれるところまで仕事をしておきたいという思いが私を眠らせません。聖公会の主教や司祭さんは、少しはお酒を減らされた方がいいと思います。お酒を飲んでいる時間は、神学出来ませから、本当に時間が無駄になってしまいます。神様にお仕えする方が時間を無駄にしたのでは、弁解のしようがないのではないでしょうか。 幼児に対する性的虐待やパワーハラスメントの被害者とそのご家族はいまも苦しんでいらっしゃるのです。本当に悲しいことですが、被害者のお一人は既に先に天国へ行ってしまわれました。これから神学して、神の宣教にお仕えしようとしている時でした。日本聖公会は、何故、そうした問題と真摯に対峙しようとされないのですか?主イエスだったら、こうしたときにどうされたとお考えなのですか?批判をするものたちの口をふさぎ、力ある者たちを祝福されたでしょうか。
2007.04.05
武藤主教さんは退職されるそうですね、というか、昨日3月31日付けで辞任されているようです。しかし、その辞任は引責辞任ではないという「投稿」が転送されてきています。「私の解釈は、武藤主教は、自らの過誤を認めての引退ではなく、職に恋々としないというような格好の良いやめ方をするようです。蟄居閉塞して謹慎などとはほど遠いのです」と書かれていました。武藤主教と鎌田司祭さんは面識があるのではないですか?同じ横浜教区ですから。 私の記憶では、鎌田司祭さんは審判廷改訂の申し立てをしないと宣言されたのですよね。理由が判りません。この問題を祈ってきた人々の間では、審判廷を開くことが最優先課題だったように思えるのですが。審判廷を開かなければ、武藤主教や高地主教そして常置委員の司祭たちが犯した過ちに対する責任を問題に出来ないのではないでしょうか。審判廷による決定がない限り、日本聖公会では何人たりとも裁かれることはないというのが、法憲法規の考え方なのではないでしょうか。そして、「審判廷の開廷を申し立てることはしない」と宣言してしまった以上、これから先の活動はいっさいそれに拘束されてしまいます。 「こういう社会集団のなかで法と正義を主張しなければなりません。」と先程のメールには記されていました。正にその通りだと思います。ですから、社会集団としての国家の中で、当該国家を規制している法律は、すべての国民がそれを守らなければならない義務があります。原田司祭の女子児童に対する性的虐待は、日本聖公会の法規に違反する以前に、国家の法に抵触していたのですから、その処置に対して大きな過ちを犯し、被害者を精神的に追いつめた責任を追求しなければなりません。そのためには、審判廷を開く以外にはないのですが、被害者とその家族の代理人が「審判廷を開くことはしない」と宣言してしてしまえば、二度と審判廷開廷を申し立てることは出来なくなりますし、たとえ開廷されたとしても、その宣言以降に知り得たことは証拠にならないはずですから、鎌田司祭さんは審判廷の開廷を申し立てることを諦められたようですね。ただ、審判廷が開かれそこで審理されなければ、主教も司祭も信徒も裁かれることはないのですから、審判廷の開廷の申し立てをしないという宣言は、正に正直な発言であろうと思います。 だとしたら、原田司祭の事件の処置に関与した主教や司祭を裁けなくなってしまいます。まさか、「審判廷を申し立てない」ということを宣言しておいて相手を油断させ、いろいろな情報を得ようとしていれば、それはある意味でおとり捜査的行為ですから、審判廷は証拠採用できなくなってしまいます。日本では、確か、麻薬取り締まり以外でのおとり捜査は認められていません。日本聖公会の法憲法規の中にはこの規定がないのですが、法憲法規にないことは国内法を準用するのが社会通念としてあるのではないでしょうか。まぁ、まさかこのようなことはお考えになっていらっしゃらないと思いますが‥‥‥‥しかし、ここは一番大きな問題だと思います。 何故、鎌田司祭さんは審判廷を申し立てないことにされてしまわれたのか‥‥‥。審判廷を申し立てるべきだとお考えの方は、まったく別にこの審判廷の開廷を申し立てなければなりません。裁かなければならないことは主教や司祭の誤った司牧ですから、代理人がいなくても審判廷を申し立てることが出来ます。マヌーバーな戦略は、この場合必要ないと思います。 一日も早く審判廷が開廷されることを祈っております。相手がどのような反撃を企んでいようと、主教や司祭の責任を審判廷で追及するのに、人間的な戦略を用いることなく、聖書の御言葉に沿ってしっかりと追求すべきだと思っています。そうした意味では、審判廷では日本聖公会の神学が問われなければならないと思っています。そして、本当に日本聖公会のすべての主教が神学的営為をしてこなかったのであれば、そのこともまた裁かれなければならないと思っています。 日本聖公会のために祈りましょう。日本のキリスト教にとって、大変なマイナス要因を作ってしまっているのですから。
2007.04.01
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