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2007年11月23日定期教区会「常置委員会特別報告を受けて」という題の高地 敬主教の文書が出されていたのですね。その中の気になるところを指摘させていただきます。 「>」で記す部分は、本文からの引用です。 また、機種依存文字が使われているので、○に1を「1.」と変更して記します。2及び3も同じです。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆>2001年4月17日の常置委員会等で、原田文雄元牧師>から重大な発言があったと思われますが、 ここまでで二個所問題があります。一つは「原田文雄元牧師から」という表現です。この時にはまだ原田文雄司祭は現職の牧師です。「元牧師」ではありません。これを読んだ人は、この時には既に退職していたと考えてしまう可能性があります。それを狙ってこういう表現をしたのだとしたら、大変な問題です。そして「思われます」という表現ですが、これによって、高地主教はこの文書を記している時にもまだ、2001年4月17日の常置委員会記録に目を通していないということがはっきりしています。>当時の主教と常置委員会はその発言の問題性を十分認識され>ませんでした。 ということは、高地主教は現在、原田文雄司祭の発言の問題性をしっかり認識しているということなります。>Aさんが告発された事柄について、意図的な隠蔽が行われた>とは認められませんが、それがあまりにも信じがたい内容で>あり、原田元牧師の強い否定もあって、告発に耳を傾けるこ>とができませんでした。 常置委員会記録を読んでいないにも拘わらず、どうしてこうしたことが言えるのか不思議でなりません。常置委員会記録以外に情報があったのでしょうか。もしあったのだとしたら、その情報はどのようなもので、その真偽を確かめるための二次資料は何だったのでしょうか。>従って被害者側から聴取を行わないなど当然取るべき手続き>を怠り、しかも、一旦受理した退職願を原田元牧師に返却す>るという重大な判断ミスを犯しました。 高地主教がこうお考えになり始めたのはいつなのでしょうか。ごく最近のことなのでしょうか。それとも「謝罪の記者会見」の直前なのでしょうか。高裁判決確定時に「冤罪」「最高裁に抗議する」「高裁に抗議する」とおっしゃられた時よりも前とは思えません。>古賀久幸司祭については、裁判において積極的に原田元牧師>を支持し、被害者側に多大な苦痛を負わせてしまいました。 古賀司祭が原田文雄司祭を支持したのは事実ですが、高地主教ご自身はどうだったのでしょうか。一度も裁判を傍聴しにいっていらっしゃらなかったのではないでしょうか。日本聖公会京都教区の主教であれば、原告が日本聖公会京都教区の信徒であり、被告が日本聖公会京都教区の司祭であるのですから、傍聴しに行くのが道理ではないでしょうか。高地主教は、裁判の過程では間違いなく原田文雄司祭の「事実無根」という言葉を真に受けていたのですよね。だったら余計に、裁判を傍聴しに行くべきだったのではないでしょうか。>また、一昨年9月、教区側が非を認めて以降も謝罪が遅れる>などの対応の悪さもありました。 この「一昨年9月以降」日本聖公会京都教区の主教はどなただったのですか?日本聖公会京都教区主教のご本人が発する言葉ではないと思います。そして、何故、謝罪が遅れたのかという重要なポイントがまったく説明されていません。>既に一昨年10月の被害者側との話し合いの結果、1.奈良キ>リスト教会を辞任し転勤する、2.ウイリアムス神学館の教授>をやめる、3.常置委員にならない、という措置が取られてい>ますが、今回新たに判明したことの責任をとる意味で、再度>の転勤を来年4月1日付けで行います。また、本日から来年>3月末までの聖餐式執行自粛を勧告いたします。 問題は奈良キリスト教会の司祭を辞任した後、平安女学院のチャプレンに就任したことです。被害者のご家族は、ここを強く問題にされているのではないでしょうか。これでは、被害者とそのご家族の心の中を、土足で歩き回るようなものではないでしょうか。 「聖餐式執行自粛を勧告」など何の懲戒にもなっていません。しかも、来年3月までという極めて短い期間です。平安女学院のチャペルでは聖餐式は行われていないのですか?>また、武藤六治主教と文屋善明司祭につきましても、上記の>責任を取っていただく意味で、本日から来年3月末までの聖>餐式執行自粛を勧告いたします。 高地主教はこのお二人に対して「責任を取っていただく」という、あまりにも軟弱な姿勢でしか対処していません。どういうことなのでしょうか。被害者の心を逆撫でしていることにならないでしょうか。傷口に泥を擦り込んでいないでしょうか。信じられないような言辞です。>なお、原田文雄元牧師については、2年前に一身上の都合を>理由とする退職願を受理し、退職が決定しました。このよう>な場合、「終身停職」の懲戒(法規第201条第4項)が相>当と一般的には考えられると思いますが、「終身停職」でも>5年後には復職願いを提出することが可能とされており(第>217条)、一方、「一身上」という事由は止むことがあり>ませんので、実質的な終身停職を貫くためにはこの選択の方>が適当と当時判断しました。 まず間違いがあります。終身停職の懲戒は第201条(4)にあることで、「第4項」ではありません。第4項には懲戒を受けた聖職の陪餐禁止が規定されています。 言い訳にも何もなっていません。 確かに法規第217条第1項には、終身停職を受けた聖職も、懲戒を受けて5年を経過すると復職を申し立てることができるとされていますが、司祭の場合は、教区主教は「常置委員会の同意を得て、主教会にはかり、復職を許すことができる」とされているのであって、5年経過して復職の申し立てをしたら自動的に復職できるわけではありません。単に、5年後に「却下」あるいは「不受理」を決めればいいだけのことです。>また、懲戒を行うには審判廷の審判によらなければなりませ>ん(第197条)が、日本聖公会の審判廷への懲戒申立には>「3年の事項」(第210条)があって、現行法規では審判>廷によって懲戒することは非常に困難であると思われます。 これもおかしな話です。第210条の「第192条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わったときから3年を経過した後は、することができない」という規定ですが、この「時」がいつかという問題があるわけです。この時もまた懲戒に関する重要なことですから、教区主教が一方的に判断できることではなく、審判廷が判断すべきことなのではないでしょうか。「非常に困難」なのは、他に理由があるのではないですか?>いずれにせよ、原田文雄元牧師が、真実に悔い改めて、被害>者及び関係者に心からの謝罪をし、被害者及び関係者が癒さ>れることができますように、今後も教区を上げて働きかける>つもりです。ご加祷、ご支援をよろしくお願いいたします。 まだ、高地主教は事件の本質を理解されていないようです。この事件の本質的意味をしっかりと認識していただきたいと思います。アメリカでは、同じ事件の加害者に対し、どのような措置が取られているかをご存じないようです。日本でも、いくつかの事件以来、これが真剣に考えられています。 申し訳ありませんが、被害者とそのご家族のためには、毎日何回もお祈りさせていただいておりますが、日本聖公会京都教区に関しては「主教と常置委員会」が一日も早く悔い改めますようにとお祈りさせていただいておりますので、支援することはご遠慮させていただきます。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 今日はみなさんどうされたのですか? 今日一日で350人位の方がアクセスしてくださっています。 感謝です。
2007.11.26
教区主教が退職主教に「聖奠の執行停止」を期限付きで「勧告」したとのことですが、日本聖公会法憲法規を買ってきて読んでみました。どこにも「勧告」の規定がありません。一人の主教が他の主教に「勧告」出来るという規定もありません。「勧告」は懲戒ではないのですか?聖職の懲戒事由は法憲法規第198条に規定されています。第198条(聖職者の懲戒事由) 聖職は、そのした行為または一定の行為をしないことが次の各号の一に該当するときは、懲戒を受ける。(1) 綱憲、日本聖公会法憲、この法規その他の日本聖公会の法規の規定に 違反すること。(2) 聖職按手式において約束したことに違反すること。(3) その他著しく不道徳または不正であること。第201条(聖職の懲戒) 聖職に対する懲戒は、次の4種とする。 (1) 戒告 (2) 1月以上3年以下の職務の一部停止。 (3) 1月以上3年以下の有期停職。 (4) 終身停職 主教に対する戒告は主教会が、主教以外の聖職に対する戒告は当該聖職の所属する教区の教区主教が、審判に基づいて行う。 第3項以下は略します。 「勧告」という言葉は見あたりません。 日本聖公会では、法憲法規にないことは主教が自由に行うことが出来るのでしょうか。一般的な近代法の考え方では、法に定められていないことは自由であると同時に、法に定められていない刑罰は一切行われないという罪刑法定主義であることは、極めて常識的なことです。それとも、日本聖公会では、主教は教会法としての法憲法規を超えられる権威があるとお考えなのでしょうか。どちらでも、宗教団体としての日本聖公会が選択することは自由ですが、しかし、ここには極めて重要な問題が存在するのではないでしょうか。 一般的に、教会法をアポストロスやプレスブテロスさえも超えられないと考えられています。ギリシア正教会系の教会ではどうお考えになっているか判りませんが、ローマ・カトリック教会では教皇(法王)だけは教会法を超えられると考えいるようです。それが「教皇無謬説」の意味であろうと思われますが、日本聖公会が、主教は教会法を超えられるとお考えであるとしたら、二つの大きなことが言えると思います。一つは、日本聖公会は「教皇無謬説」を否定しながら、「主教無謬説」を保持しているということになります。そして、もしそうだとすると、アングリカン・コミュニオンの他の教会は「教皇無謬説」を否定すると同時に、「主教無謬説」を主張していませんから、日本聖公会はアングリカン・コミュニオンとは異質の存在であるということになってしまいます。 そして、「勧告」は法憲法規にないことだから、自由に教区主教が裁定することが出来ると主教会がお考えになるとしたら、「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」(法規第197条)からすれば、「勧告」は懲戒ではないということになり、「勧告」をM主教やK司祭が無視したとしても、なんら問題がないということになってしまわないでしょうか。つまり、今回の「勧告」はまったく強制力を持たないということになります。 強制力のない「勧告」は懲戒であり得るでしょうか。 京都教区主教はこの点に関しても大きなミスを犯していらっしゃるように思えます。懲戒したかのように見せかけておきながら、実はポーズでしかないことをしているに過ぎないのではないでしょうか。そして、最高裁の上告棄却・不受理が決定し高裁判決が確定した後も、K主教は「最高裁に抗議する」「高裁に抗議する」とおっしゃり、FH司祭に関して「冤罪」という言葉を発していらっしゃったことに対する責任は、あの謝罪の記者会見でお話しされた「減給処分」で消えたとお考えになっているのでしょうか。「冤罪」という言葉は、被害者をどれだけ苦しめたことでしょう。被害者のご家族をどれだけ苦しめたでしょう。 今度は主教会が、法憲法規違反を犯してしまったK主教を問題にすべきではないでしょうか。それとも、主教会も「主教無謬説」を支持し、主教は法憲法規という教会法を超えられるとお考えなのでしょうか。
2007.11.26
いま入った情報では、処分ではなく「勧告」だそうです。 これで誰が悪いか判りましたよね。まるでテレビドラマみたいですね。処分されていないのは、誰と誰ですか?何も悪いことをしていないということになるのは、誰ですか?こんなに簡単なことは、皆さんすぐにお判りになりますよね。 事件が発覚してから、「謝罪の記者会見」が行われるまでの間に、この問題に深くこの問題に関わり、「最高裁に抗議する」「高裁に抗議する」「冤罪だ!冤罪だ!」と叫び続けていた人がいましたよね。その人は勧告されないのですか?そもそも、審判廷を開くことなく、司祭や主教を職務執行停止に出来るのですか? 日本聖公会京都教区は何をお考えになっていらっしゃるのでしょう。教区会で、かなり実態が暴露されてしまったようですが、そこで仕方なくM退職主教とK司祭の職務執行停止を口にされてしまったのではないでしょうか。何故ですか? 何故K主教はまたしても法憲法規に規定されていない「勧告」をされたのですか? しかし、これでもう、主教会は黙っていられなくなりましたよね。主教に関する懲戒は、それが退職主教であっても管区審判廷でなければ出来ないのに、教区主教が独断でM主教に職務執行停止を勧告してしまうという暴挙に出てしまいました。これも明らかに無効です。これを主教会が有効だと判断したら、主教会自身の責任が問われてしまいます。しかし、K主教はどうしてこんな判断をされてしまったのでしょう。法憲法規をご存じないのでしょうか。 今頃、主教間で電話での話し合いが行われているのでしょうか。そして、来週早々にでも、緊急主教会が開催されるのでしょうか。そこで、昨日の勧告が無効であることを宣言するのでしょうか。この後の推移が非常に重要だと思います。少なくとも、K主教は法憲法規違反を問われなければなりません。明らかな越権行為です。一人の主教が、他の主教の職務執行停止を勧告してしまったのですから。
2007.11.24
<FH司祭問題を駁す>というブログに書き込まれていたものを引用します。 「昨日の教区会で、M主教(退職主教)とK司祭の2008年3月まで の「聖奠」の執行停止が報告されたそうです。詳しいことは、まだ情報 がありません。」
2007.11.24
明日は日本聖公会の多くの教区で教区会が開かれるようですが、京都教区ではFH司祭の事案とそれに対する教区の対応が問題にされるでしょうか。皆さん、沈黙されてしまうのでしょうか。2ちゃんねるにも少し書き込みがされていますが、この問題のことで心を痛めていらっしゃる方は大勢いるのではないでしょうか。しかし、問題に対して声を上げるとパージされる可能性があるので、じっと我慢されている方もいるかもしれません。 主教は福音の擁護者であるというのであれば、この問題を聖書から、そして教会の伝統から真剣に考える必要があるのではないでしょうか。私が得ている情報では、K主教も常置委員も全くその神学的営為をされていないように見えます。何故でしょう。なぜ真剣に被害者の目を見ることが出来ないのでしょう。そして、被害者の心を感じ取ろうとされないのでしょうか。私の知り合いは、常置委員の一人の方をよく知っているそうです。そして、その方はFH司祭の「お弟子さん」だと言っていました。そうした方が常置委員では、問題を解決しようとはなさらないでしょうね。 日本聖公会はどうして主に立ち帰ろうとされないのですか?教区会の初めには、主教さんの御ミサがあるのですよね。その御ミサは日本聖公会の信徒であれば誰でも陪餐出来るのですよね。そして、すべての日本聖公会の信徒に開かれているのですよね。被害者とそのご家族もその御ミサに招かれているのですよね。だとしたら、被害者とそのご家族がその御ミサどころか、これまで所属していらっしゃった教会の御ミサにさえお出でになっていらっしゃらないことを、司式されるK主教さんはしっかりとにんしきされているのでしょうか。 今頃は、皆さん集まって前夜祭ですか?ずいぶんお酒を召し上がられるそうですね。お酒を召し上がって、正常な思考が可能ですか?もしそうだとしたら、一度お医者さんと相談された方がよろしいのではないでしょうか。 それだけではありません。被害者とそのご家族は今宵も苦しんでいらっしゃるのです。それを忘れて宴会をしていらっしゃるとしたら、キリスト教の聖職として言語道断だと思えるのです。FH司祭のしたことは筆舌では表すことが出来ないほどの虐待ではないのでしょうか。明日の教区会を期待しています。裏切られると判っていても、期待しています。それは日本聖公会のためではありません。被害者とそのご家族のためにです。 「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」 コリントの信徒への手紙1 11章27節 (日本聖書協会『新共同訳聖書』)
2007.11.22
大阪の聖アンデレ教会へ「糾す会」がビラを撒きに行かれた時、京都教区の方もお一人いらっしゃったそうですね。お名前どころか、性別も年齢もメールには記されていませんでした。当然のことだろうと私も思います。現在の京都教区では、名前が判った瞬間に強烈なイジメが行われることは目に見えています。日本聖公会の中で、イジメが公然と行われてきたことは、私の知り合いのことを考えればすぐに判ります。また、女性への司祭按手に関して反対を唱えていた人々への様々な罵倒が繰り返されていたのも事実です。 そして、女性の人権という観点から、ことにフェミニズムを容認する立場から女性への司祭按手を肯定する人々に対して、その議論の神学的無効性を主張していた私の知り合いに対して、誹謗中傷以上の言葉を投げかけた方が、京都教区で司祭をしていらっしゃるようですね。昨夜、電話でやっと聞き出すことが出来ました。その方は、障害者問題に関わり、原発反対運動もされていたようです。それでいながら、京都教区での女子児童に対する準強制わいせつ事案に関しては、まったく沈黙されています。 他の主教さんたちもそうです。女性司祭按手に賛成しなければ主教になれないような雰囲気が日本聖公会の中になかったでしょうか。私の知り合いや日本聖公会の司祭さんたちとお話ししているとそれが感じられていました。私は、司祭按手を受けられた女性を存じ上げております。あの方が、キリスト教会の聖職になることに私は何に問題も感じていませんでした。私の周囲には、他教派ですが、女性の牧師さんが大勢いらっしゃいます。しかし、彼女たちが聖職になったのはフェミニズムを根拠にした神学ではありませんでした。改革派系の教会では今でも女性の聖職を認めていないところがありますが、多くのプロテスタント教会は女性牧師がたくさんいらっしゃいます。それは、女性の牧師でなければ出来ない教会の大切な仕事があるからに他なりません。たとえその仕事が数が少ないことであっても、それを遂行するためには女性牧師でなければ出来ないことであれば、女性が牧師であることも教会として許されるという考え方があるのです。 日本聖公会はいつの間にかフェミニズムに毒されてしまって、聖書の信仰から離れてしまったようですね。そして、そのフェミニズムによって、神による被造物としての人間に対するユダヤ教以来の大事な神学を見失ってしまいました。どなたか判りませんが、ヤフーのサイトに「日本聖公会にもの申す」というブログを立ち上げた方がいらっしゃいます。日本聖公会のことに詳しい方なので、現職の司祭さんかもしれません。ヤフーのトップページで、「日本聖公会にもの申す」と入力してブログを検索するとヒットします。どこのどなたかはまったく判りません。メールを出してみたのですが、届いていることは届いているようですが、ご返事は頂戴出来ませんでした。日本聖公会に関して、かなりいろいろなことを知っている方のようです。関心のある方は、是非お読みになってみて下さい。
2007.11.21
驚きました。 日本聖公会中部教区では「性的少数者とともに捧げる聖餐式」なるものを毎月第3日曜日にしているのですね。驚きました。「本当ですか?」と思わず声を上げてしまいました。この聖餐式は、同性愛者や両性愛者、性同一性障害などの性的少数者のための聖餐式のようです。「同性愛者」や「両性愛者」と「性同一性障害」の人々を並列的に考えていることが実に不思議です。 この聖餐式では聖書のどこを読むのでしょうか。 どのような神学から、この聖餐式が行われているのでしょうか。日本聖公会の信徒で、このことをご存じの方はどれ位いらっしゃるのでしょうか。「嘘だろ」と思われる方は、Yahoo Japan のトップページで「日本聖公会」と書き込み、ブログというところをクリックして検索してみてください。このブログがヒットしてくると思います。 日本聖公会でも聖餐式はサクラメントですよね。そして、聖公会では綱憲の規定に縛られているはずですが、だとしたらこの聖餐式を行う聖書的根拠は聖書のどこですか?新約聖書の中でも、同性愛は否定されていませんか?ここまでくると、日本聖公会はキリストの教会であるとは言えなくなっているように思えます。しかし、信じられません。聖餐式をするということは、同性愛者の「結婚」式もされているのでしょうね。 日本聖公会の教会にある聖書は、私たちの教会にある聖書とはまったく異なったものであるようです。しかし、同性愛者の司祭按手や主教按手を、ランベスは何故無効であると宣言しないのでしょうか。不思議でなりません。あるいは司祭や主教が同性愛者になった場合に、何故終身定職にしないのでしょうか。女性司祭按手・主教按手の問題と、同性愛者の司祭按手・主教按手の問題が、同じところで議論されていることに、大いに疑問を抱いています。
2007.11.19
「糾す会」からの伝言 その3 今日は大阪の聖アンデレ教会でビラを配布してきました。 この教会は桃山学院と密接な関係があり、同期の方々や知り合いの方々も大勢いらっしゃいました。そして、桃山学院の高校生の方々も30名ほどいらっしゃいましたが、このビラを高校生に配ることは控えて欲しいという司祭さんからのご注意もあり、ビラを配ることは愚か、聖堂の中ではFH司祭の事件に関することは一切、口にしませんでした。 大阪聖アンデレ教会の皆さんは、この事件が一日も早く京都教区で解決されることを願っていらっしゃいます。この教会には、親戚もおります。 今日は、日本聖公会京都教区の30代の方も一緒にビラ撒きをして下さいました。モデムが復旧し次第、皆様に詳しいことをご報告させていただきます。
2007.11.18
「糾す会」からの伝言その2です。 モデムが故障したとのことで、交換することになりました。 保証期間内だったので、無料だそうです。 新しいモデムは19日(月)の3時には届くそうなので、それ以降に復旧する予定だそうです。 「一斉メール」等は、それまでお待ち下さい。 以上です。
2007.11.17
「糾す会」からの伝言です。 モデムの電源が入らなくなってしまったそうです。それで、インターネットにアクセスできません。ですから、一斉メール等を送ることが出来ません。もちろん、受信することもできません。 新しいシステムを構築するまで、しばらくお待ち下さいとのことです。ご理解の程、よろしくお願いいたします。緊急の場合は、電話回線で私に知らされたものをここに掲載します。 ご理解の程、よろしくお願いいたします。
2007.11.17
「だったらどうしたら良かったんですか?」 という質問が、FH司祭の事件に対する京都教区の対応の過ちに対する批判への質問として投げかけられることがあるようですね。全く議論にならない反論です。私が見ている範囲では、「糾す会」やその他の方々が問題にしているのは、事件そのものとそれに対する京都教区の対応ではないでしょうか。「だったらどうしたら良かったのか」ということを考えることは、過去の事実に対して、それぞれに過ちを認めていくこと以外にあり得ないのではないでしょうか。 時間は遡りことが出来ません。1983年頃からFH司祭によって行われていた準強制わいせつは事実なのです。過去の事実を変えることは出来ません。そして、M主教はいったんはFH司祭に対して、退職願を書かせました。依願退職です。このときにどうすれば良かったのかということは、この問題を考える上では大事なことですが、それは日本聖公会法憲法規にしっかりと記されています。規則にも慣例にもなければ、問題は別ですが、法憲法規という規定があるのですから、それを守れば良かっただけのことです。それ以外の方法はあり得ません。 事件は子供の喧嘩じゃないのです。日本国の刑法に明らかに違反した行為が行われていたのです。何とか丸く収めようとすること自体、被害者に対する決定的は二次加害になりかねません。しかし、一旦決定した退職決定した常置委員会は、なんと加害者であるFH司祭が同席している場でこの審議を行っていたのですよね。そして、一旦退職願を出したFH司祭の「事実無根」だけを受け入れて、FH司祭を復職させてしまったのです。これには、K司祭も関与していました。それは、裁判記録からも明らかなことです。 こうした一連の流れを被害者とそのご家族は問題にしていらっしゃるのですから、「どうしたら良かったのか」ではなく、これからどうしたらいいのかを考えなければならないのではないでしょうか。「どうしたら良かったのだ」という強硬な「反論」は、反論ではなく京都教区の言動や行為の正当性を主張しているとしか思えません。問題になっているのは、過去の事実であり、時間は戻すことが出来ないということが前提になっているのではないでしょうか。 そして、「どうしたら良かったのだ」と言う質問は、間違いなく無責任な発想であり、非常に権威的な視点からの「質問」でしかありません。 反論にもなりません。2001年4月6日と7日の二日間にわたって行われた日本聖公会京都教区の常置委員会の決定に重大な過ちがあるのですが、この時点にことを戻すことは出来ないのです。2001年から今までの時間を消すことは出来ないのです。日本聖公会の聖職者たちは、こんな簡単なことを理解できないのでしょうか。私が知る範囲では、「糾す会」が問題にしているのは、このときの流れの中で起こってきたことなのです。被害者は地裁の公判と高裁の公判で、自らFH司祭の行状を口にされたのです。女性にとって、これ程つらいことはないのではないでしょうか。 FH司祭による準強制わいせつ行為、そしてそれを一旦は認めておきながら、10日後の常置委員会では、加害者の「事実無根」だけを受け入れてFH司祭を復職させたのです。 被害者とそのご家族は、この過ちをはっきりさせたくて、二つの要望を出されているのではないでしょうか。 1.M主教とK司祭は、速やかに教育関係の仕事から離れること。 2.退職撤回を決めた常置委員会の内容を、詳しく文書で知らせること。 これを和解の条件とされているのではないでしょうか。当然のことではないですか?一般社会では、この二つのことは、最高裁が上告棄却・不受理を決定した段階で、組織の幹部が責任をもって自らこれを実行しているはずですよ。にもかかわらず、日本聖公会京都教区のみならず日本聖公会管区もこれを受け入れず、この要望が出されてから、自体はどれだけ進展したでしょうか。そして、こう述べると、日本聖公会京都教区は「糾す会」が騒ぎ立てるからいけないのだとおっしゃるのではないですか。 皆さん、考えてみてください。「糾す会」の方々が何もおっしゃらなかったら、この事件は解決済みということになってしまっていたのではないでしょうか。そして、被害者とそのご家族が教会を離れても、京都教区のほとんどの方々はそれを知らないということになっていなかったでしょうか。 「だったらどうしたら良かったんですか?」 この問いは、ただ事件とその後の対応の過ちを追求されることから逃げるための方便でしかありません。まったく京都教区は事柄を認識していないとしか言いようがありません。「FH司祭が準強制わいせつをしなければ良かったんです」という言葉は、何の意味も持たないばかりか、準強制わいせつという行為の犯罪性を覆い隠してしまうのではないでしょうか。 審判廷で裁かれなければならないのは、FH司祭だけでなく、この一連の問題に関わったすべての聖職たちではないでしょうか。こうした議論にならない反論が信徒の口からでるとしたら、その教会の聖職の問題でもあろうかと思われます。あまりにも悲惨すぎます。「だったらどうしたら良かったんですか?」という質問は、問題回避の典型です。今も、被害者はPTSDに苦しんでいらっしゃるのです。何故そのことから、日本聖公会京都教区は目を背けるのですか。
2007.11.16
「糾す会」から一斉メールが来ました。 来る11月23日に日本聖公会京都教区の教区会が行われるそうですが、その議場で、FH司祭問題を真の意味で解決すべく、そのための議案を上程してくださいという内容の文書を、教区会の代議員への文書を各教会宛に送られたそうです。 そして、「糾す会」ご自身が大いに心配していらっしゃることがあります。それは、この文書が、各教会の司祭のところで止まってしまうことです。今までの京都教区の姿勢を見てくると、主教命令でこの文書の強制回収が行われることさえ考えられます。日本聖公会の方々も、日本聖公会以外の教会の方々も、是非このことに関してご注目ください。日本聖公会京都教区の執行部がこうした暴挙を行われたとしたら、自由も平和も平等もすべて日本聖公会から吹き飛んでしまうことになります。 もっと突っ込んで言えば、国家社会主義と何ら変わらないことを日本聖公会京都教区はしてしまうことになります。日本聖公会京都教区執行部の皆さんは、この恐ろしさを知らないかもしれません。自由な発言を圧殺することは、近代民主主義に対する暴挙であるということを、ご存じないかもしれません。 しかし、誰が考えても、文書を強制回収したり、秘匿したりすることは、健全な民主主義を否定することにしかなりません。ナチズムがそうでした。日本の戦前の国粋主義がそうでした。そして、現在の中国共産党が同じことをし続けています。万が一、教区主教の権威によってこの文書を回収したり、信徒代議員に秘匿させるべく、司祭に命令したりすれば、京都教区主教はナチズムへの道を歩み始めてしまうことになってしまいます。そして、それに対して日本聖公会の管区や主教会が沈黙すれば、日本聖公会自体がナチズムと同じことをしてしまうことになります。 自由主義、民主主義というのは、どのような時にもその構成員に自由な発言を封じ込めないということであり、外部からの情報を遮断しないと言うことなのではないでしょうか。中華人民共和国はインターネット上の情報のすべてを検閲しています。北朝鮮ではインターネット自体が禁止されています。また、ミャンマーでも、インターネットがかなり阻害されています。 日本聖公会京都教区の執行部に都合の悪い文書を回収したり、遮断したりすることは、明らかにこうした情報操作以外の何ものでもありません。 日本聖公会京都教区執行部、つまり主教と常置委員会は毅然とした態度で、いっさいの情報操作をしないということをご確認ください。でなければ、靖国問題にも、狭山裁判にも、あるいは女性の人権問題やその他の人権に関しても一切、発言出来なくなってしまいます。あるいは「教会は社会問題に関わらない」という立場から、こうしたことを考えずに、情報操作や情報遮断をしたら、それこそ正に社会主義そのものであるということを十分に認識していただきたいと思います。 日本の教会の中では、時としてこうしたことが平然と行われてきたように思えます。ことに、神学的な対立関係にある団体の間では、かなり過激にこれが行われてきました。しかし、こうしたことをいつまでも続けていれば、日本聖公会も同じように弱体化していくことは目に見えています。そもそも民主主義は、マグナカルタがその出発点ではなかったのですか?少なくとも、イギリスではそう考えられていますよね。そうした意味では、日本聖公会こそ民主主義の手本にならなければならないのではないでしょうか。
2007.11.15
1.京都教区はFH司祭に脅かされている 2.謝罪したらこれまでの不祥事を明らかにする 3.FH司祭は長いこと常置委員だったから何でも知っている。 4.暴力団とも関係がある。 以上の4点が、一人の人によって<2ちゃんねる>という掲示板サイトに記されて以来、「【Anglican】聖公会8【Episcopal】」というスレッドから、それまで書き込んでいた方々が一挙に消えてしまわれました。もちろん、誰がこれを書き込まれたかは判りません。しかし、これが真実だとしたらあまりにも日本聖公会は悲惨な状態にあるということなのではないでしょうか。 また、逆に、単なるデマゴギーであったとしたら、この書き込みに対する反論があってもいいように思えます。3.が真実であれば、2.が起きる可能性は十分にあります。つまり、1.は3.2.のことが脅迫の種だということになります。 みなさんはどうお考えでしょうか。 FH司祭の事件はキリスト教会の中で起こったのは事実なのですが、しかし、こうしたことをそのまま放置している日本聖公会は、どういう考えを持っていらっしゃるのでしょう。そして、一斉に掲示板から姿を消された方々は何を考えていらっしゃるのでしょう。 4.に関しては信じられません。 これはないだろうと思えるのですが、本当なのでしょうか。私も50年近く教会に関わってきましたが、こうしたことを耳にするのは初めてです。どういう繋がりがあるのか、まったく理解不能です。
2007.11.13
いろいろと焦臭いことが聞こえてきました。インターネットは本当に便利です。写真も送れますし、文書をスキャンしたものを送ることもできます。そして、様々なブログも読むことができます。日本聖公会京都教区の現職司祭による女子児童への準強制わいせつ事件に関するブログがもう一つできたようです。グーグルの検索にはまだ引っかかってきません。知り合いの話によると、かなり過激なことがかかれているようです。 仕方がありませんね。ご自分たちの過ちを認めようとせず、現職司祭が犯した性犯罪を、「事実無根」で押し通そうとしたのですから。事件のことが明らかになったにもかかわらず、加害者を内外の要職につけさせ、被害者に対しては「虚言癖」という言葉までが使われていたのではないでしょうか。そして、最高裁判所で上告棄却・不受理が決まった後も、「事実無根」を主張し、「冤罪」という言葉まで使われていました。そして、「最高裁に抗議する」という声明文まで出していらっしゃったのではないでしょうか。 しかし、第二・第三の被害者が現れることによって、現職司祭の準強制わいせつを認め、「謝罪の記者会見」を主教座聖堂ではなく、県庁で行い、加害者を正規の手続きを経ることなく、加害者の「陪餐停止」という日本聖公会法憲法規にはない処分を下しました。法憲法規から考えると、この決定は無効です。法憲法規はここまで主教権を認めていません。しかし、日本聖公会は、まるで主教は法憲法規をも超えた決定をすることが出来るかのように沈黙し続けています。 なにやら焦臭いことが聞こえてきましたが、本当に日本聖公会は大丈夫なのでしょうか。「女性の人権」論から女性司祭按手を執行してしまい、" Anglican-Roman Catholic International Commission "の" THE FINAL REPORT "にある10年間の成果を無にしてしまったにもかかわらず、陰では、現職司祭による女子児童への準強制わいせつが行われていたのです。どこが「女性の人権」なのですか? 何処が" Bridge Church "なのですか?何故、他の教区や教会や退職された聖職の方々は黙っていらっしゃるのですか?ほかにも何かを隠しているような気がしてなりません。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、 秘められたもので、公にならないものはない。」 マルコ福音書 4章22節 (日本聖書協会『新共同訳聖書』)
2007.11.11
昨夜、ある方から電話がありました。1時間程、お話をしておりました。 日本聖公会の信者さんの中で、京都教区の問題だけでなく、他の教区や神学院の問題に触れて、日曜日にも教会へ行かなくなってしまわれた方々がいらっしゃるそうですね。 今日は主日です。是非、ご自分の教会の御ミサにお出かけ下さい。 キリスト教では古い時代から、"ex opere operato"という神学があって、主教さんや司祭さんの資質とは関係なく、「御ミサは御ミサ自身で御ミサになる」という考え方が継承されてきました。教会によって、サクラメント(日本聖公会では「聖奠」と訳していらっしゃいます)の執行を停止されていない限り、どの主教さんや司祭さんが御ミサを挙げられても、御ミサであることに変わりはありません。 信仰は聖書とサクラメントによって育まれます。日本聖公会の祈祷書にある御ミサの典礼文には、クランマー大主教のものと言われている、陪餐感謝のお祈りがありますが、御ミサを受けることによって私たちは神様からのお恵みを受け、生かされています。これは教会が聖霊のお働きによって始まった時から続いてきました。新約聖書の中に記されている「パン割き」も御ミサを意味しています。ワインは極めて高価なものでしたから、一般民衆はおろか、貴族でさえ、ブドウの収穫後の一定期間以外は簡単には手に入りませんでした。それでも、新約聖書の時代の人々は、主の御復活の記念日(主日)毎に御ミサを挙げ続けて、御ミサのお恵みを受け続けてきました。 まだ、御ミサが始まる時刻には、少し時間があるかと思います。 ここをご覧下さった方は、是非、皆様が所属している教会の御ミサにお出かけ下さい。所属している教会が遠くにあるとしたら、近くの日本聖公会の教会の御ミサにお出かけ下さい。キリストの御体と御血を受けることによって、私たちは主の招きに近づいていけるのです。そして、あの事件の被害者とそのご家族のためにも祈ってきて下さい。被害者とそのご家族が、一日も早く、また御ミサのお恵みに与れるように、他教派の者ですが、私も毎日祈らせていただいております。
2007.11.11
【 詩 篇 第147篇 】(日本聖書協会『新共同訳聖書』) ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか。 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。 打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。 主は星に数を定め それぞれに呼び名をお与えになる。 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く 英知の御業は数知れない。 主は貧しい人々を励まし 逆らう者を地に倒される。 感謝の献げ物をささげて主に歌え。 竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。 エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし あなたの中に住む子らを祝福してくださる。 あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。 主は仰せを地に遣わされる。 御言葉は速やかに走る。 羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし 氷塊をパン屑のように投げられる。 誰がその冷たさに耐ええよう。 御言葉を遣わされれば、それは溶け 息を吹きかけられれば、流れる水となる。 主はヤコブに御言葉を イスラエルに掟と裁きを告げられる。 どの国に対しても このように計らわれたことはない。 彼らは主の裁きを知りえない。 ハレルヤ。 ひとは誰も、明日、いやこのあと何が起こるかさえ知ることは出来ません。 自分のまわりだけではありません。この世界の中で、明日何が起きるのか。そして、その後どうなるのかを、ひとは予測することが出来ません。 思ってもみなかったことが、時として私共のまわりに降りかかってまいります。天災と呼ばれるもの・人災と呼ばれるもの・交通事故・病気・怪我など。思いもしなかったことが目の前で起こります。 台風や地震で田圃や畑を失い、家が無惨に潰れ、家財だけでなく肉親までもがその中に埋まってしまった人々の顔をテレビのニュースで見る時、そこにどうしようもないものを感じてしまいます。 何もかもを失ってしまう。 家を失い、財産を失い、家族を失う。あるいは、戦争や暴動が一瞬にしてすべてを失わせてしまう。 あるいは、すべてを投げうって病気と闘った結果が、死であったひとの肉親の方に出会ったことがご座います。自分自身の過失でもない。他人の過失でもない。けれども、何故そうなったのか判らない。 ある時は、まわりの目を気にして、その悲惨さを隠そうとします。 ある時は、その悲しみの中で、死を願うことがあるかもしれません。 父親の顔を見ることの出来なかった幼子がテレビの画面に写しだされる時、その母親の涙を目にする時、ひとは何を思うのでしょうか。 自分に降りかからなくて良かったと思うのでしょうか。 自分には降りかからないと思うのでしょうか。 そして、自分の力なさのゆえに、途方にくれます。 バビロニアという国に攻め滅ぼされ、バビロニアの首都バビロンへ連れ去られたエルサレムの人々は、およそ50年たって、エルサレムの町に帰って来ることが出来ました。ある意味では、望郷の念がかなったと言うことも出来ます。 しかし、彼らを待っていたエルサレムは、決して、安住の地でも、豊かな実りをもたらす町でもご座いませんでした。50年間、バビロンで故郷を思い続けていた人々を待っていたもの、それは、彼らが想い描いていたものとは、はるかに遠く掛け離れたものであったようでご座います。 しかも、帰ってきたとは言うものの、バビロニアを滅ぼし、バビロンから自分たちをエルサレムの町へ帰してくれたあのペルシャが、今度は自分たちの生活を脅かしていたのです。ペルシャは、バビロニアの力どころではなく、イスラエルの地を越えてエジプトまでその勢力を延ばしていました。 50年ぶりに帰って来たエルサレム、それは、彼らにとって決して安住の地ではご座いませんでした。彼らが見たものは、彼らを待っていたものは、豊かに地を潤す雨でもなく、たわわに実る麦畑でもありませんでした。 日照りのために、地はひび割れ、野の獣やカラスたちさえも死んでいく世界でした。エルサレムの町は、かつて栄えていたというのがまるで嘘であるかのように、破壊されてしまっています。また、天から降ってくるものは、雨ではなく、ひょうやあられや雪でした。このイスラエルの地方、エルサレムの周辺に雪が降るということは、おおよそ考えられないことでご座います。時として、ひょうが降り農作物が被害を受けることはあっても、当たり一面が霜で真っ白になり、雪が積もり、ひょうが寒さと共に襲って来る。そうしたことはめったにあるものではご座いませんでした。 そうした災害が彼らを襲う。 あるいは、砂漠地方の国境は、あってなきに等しいものでご座います。現在でも、国境は地図上のものであって、実際の場所には何もないというところがかなりあるようです。 大きな河の流れがあるわけでもなく、高い山並みが連なっているのでもない。勿論、壁が築かれているわけでもない。周囲の国々は、いつでも入り込んで来ることが出来ます。たわわに実った麦畑から、一晩のうちに麦の穂がなくなり、ぶどう畑から葡萄の実がなくなるということなど、日常茶飯時のことでご座いました。 そうした中で、今朝の詩篇147篇は歌われたものでご座います。 8節9節 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。 現実には、雨が降らず、農作物はおろか、野の草さえ枯れていく中で、この詩人は、あえて、正にあえてこう歌うのです。 16節17節 羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし 氷塊をパン屑のように投げられる。 誰がその冷たさに耐ええよう。 あるいは、14節 あなたの国境に平和を置き、 あなたを最良の麦に飽かせてくださる。 敵が来て、麦の畑に毒麦の種をまいていく話しが、新約聖書の中に出てまいりますが(マタイ.13:24)、この時代、譬話としてではなく、そうしたことが実際に起こって居りました。正に、国境を越えて敵が侵入し、たわわに実った麦を掠奪していくということが、毎年のように起こるなかで、この詩人はこう歌うのです。 いつ雪やひょうが降って来るのか、いつ雨が降らなくなってしまうのか、いつ敵が襲って来るのか、彼らにはまったく予測出来ない。そうした中で、彼らは、自分たちがバビロニアから連れて帰った馬を思い出します。エズラ記の記録によれば(2:66)、736頭もの馬を連れて帰ったとされて居ります。 にもかかわらず10節ではこう歌われます。 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。 この時代、イスラエルの民にとっての馬とは、間違いなく軍馬を意味して居りました。彼らは、この馬の威力に活路を見出そうとしたようです。 そして、こう続きます。 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。 エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。 シオンとは、エルサレムのある丘のことでご座いますが、この言葉の背後には、軍馬に助けを求めた民が、主なる神を離れ、異教の神々への雨乞いに走り、主なる神以外の神々を礼拝しようとしていることが、隠れて居ります。つまり、この詩人は、災いの中で、主なる神から離れてしまいそうになる中で、だからこそ、こう歌います。 エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。 そうした、絶望的な情況の中で、詩人は歌います。 飢えと渇き、病と苦しみ、貧しさの中で疲れ切った人々に、そして詩人自身もまた、そうした苦しみの中にありながら、にも拘らず歌うのです。 7節 感謝の献げ物をささげて主に歌え。 竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。 敵が来る、ひょうが降る、雨は降らない。そうした中で、歌います。 感謝の献げ物をささげて主に歌え。 竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。 それは、「羊の毛のような雪を降らせ、灰のような霜をまき散らし」「氷塊をパン屑のように投げられる」方が、にも拘らず「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる」からに他なりません。 詩人は、冒頭で歌っていました。 2節・3節 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。 打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。 飢えと寒さと、貧しさと弱さとに疲れ切った民と共に、自分もまた苦しみ痛む中で、この詩人は、自分を強めようともするのでもなく、他の人々の中に、あるいは異教の国々に、助けを求めようとするのでもない。絶望と無力さの中で、ただ主にだけ、主なる神にだけ頼ろうとしているのです。目の前に、ペルシャやエジプトといった豊かで強大な国がありながらも、ただただ、主に頼ろうとしている。 自分自身の罪を悔やみ、無力さを嘆き、失意と絶望の中で、正にそうした中で、ひとは神に助けを求めることが出来ます。 11節 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。 思いもよらぬ出来事の前で、考えてもいなかった苦しみの中で、主なる神のみを信じていくこと。何もかもが、絶望の淵に沈んでいく時、ただただ、主なる神に心を向け、神を賛美し、神の力に徹底的に信頼する以外に、本当の希望はありません。 そして、ここにだけ、本当の慰めがある、そう詩人は歌います。 14節 あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。【 祈 り 】 天の主なる神よ、 この世の現実に中で、私ども人間の力ではもはや、為すすべのないことばかりを耳にし、目にし、そして自分自身のまわりに起こることを思います。そのような時、どうか主よ、あなたに帰ることが出来ますように。そして、御子主イエス・キリストの十字架とご復活の救いを、常に心に思い、ただただあなたに信頼し、あなたの力を信じ続けていることが出来ますように。 人間の力や人間の手の作り出したものの力に信頼することなく、あなたのお恵みと、そしてあなたがこの地上のすべてをも支配して居られることを忘れることがありませんように。 私たちに真実の平和を与え、すべてを解決し、すべてを喜びへと変えてくださる、私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。 アーメン。
2007.11.10
>私に、牧会と説教は技術だと言われていた古賀司祭、いくらでも>人の心をつかむことはできる。いつでも誰でも俺は説教で人を感>動させることができる。そう話していたのを思い出します。おそ>らく、原田事件のことも、自分の権力で、こうすれば、消し去る>ことができる。そう考えたのでしょう。 「糾す会」から来たメールに書かれていた、原田文雄司祭の準強制わいせつに関する民事裁判の記録を閲覧された司祭さんの報告にこう記されていました。「牧会と説教は技術だ」という、実に恐ろしいことを古賀司祭は教えていらっしゃったのですね。「いくらでも人の心をつかむことはできる。いつでも誰でも俺は説教で人を感動させることができる。そう話していたのを思い出します。」と記されていますが、説教がひとを感動させるためのものではないことを、何故ご存知なかったのでしょうか。説教は講談や落語ではありません。笑わせればそれでいい。感動させればそれでいいというものではありませんし、ある有名な説教家は「会衆の一人からでも『今日の説教は本当に良かったです。感動しました。』と言われたら、最悪の説教だったと反省した方がいい」とおっしゃっていました。 説教は人を感動させるためのものではないと思います。聖書の御言葉を現代に語りかけるものだと思っています。聖書の解き明かしだとおっしゃる方もいらっしゃいます。 あるいは、牧会は企業の人事管理ではありません。日本聖公会のように主教の一存に近い形で、ひとを追い出したり、逆に都合のいい人だけを集めて「教会」という名の集団を形成することでもありません。教会は、その出発点は聖霊降臨でした。私たちはそのことを忘れてはならないと思います。教会は主教や司祭が作り上げられるものではありません。正に聖霊なる神の御業です。そして何よりも、人間の思いによって何かをするところではなく、聖餐共同体としての意味を聖霊のお導きによって常に検証し続けなければならないところだと思います。 被害者とそのご家族が教会を離れたことの重大性を何故京都教区の主教や常置委員が理解できていないのかということが疑問だったのですが、これではっきりしました。>原田司祭が被害者の父親と被害者本人に宛てた手紙にはあきれま>した。人を非難するときは情け容赦なし、だが自分のことになる>と、これが原田司祭か!そう思うぐらい醜い内容です。自己保身>の塊です。 京都教区の主教や司祭が裁判記録を閲覧しないのは、したくないからではなく、こうしたことが露顕していることに気が付いていたからなのではないでしょうか。もしそうだとしたら、京都教区の主教や司祭は、自らの内で徹底的に悔悛すべきです。そして、京都教区のすべての聖職は、被害者とそのご家族に徹底的に謝罪すべきです。こうした事態を知っていながら、それをひた隠しに隠そうとしてこられたのですから。 原田文雄司祭の準強制わいせつ事案はまだ解決していないということをご存知ない信者さんが、京都教区には大勢いらっしゃるようですね。何故でしょうか。「糾す会」が声をあげ続けているからですか?それとも、主教や司祭が現実をありのままに信者さんの報告してこなかったからでしょうか。>原田司祭の行為は、無差別だったのですね、それにも驚愕しまし>た。教会に来る子供すべてが餌食にしようとしていたとは・・・>信じられません。>>原告が抵抗しないで自分の意のままになる、というのがわかった>ので、どんどんエスカレートさせたのでしょう。>>誰でもいい、自分の蟻地獄の中に入った者を、とことんまで自分>の欲望の捌け口としていく。 「糾す会」からのメールなどを読んでいて、多くの方もこれを感じていらっしゃったのではないでしょうか。にもかかわらず、京都教区はこのことをひた隠しに隠そうとされてきたのではないでしょうか。「教会に来る子供すべてが餌食にしようとしていたとは」というのは「教会に来る子供すべてが餌食にされようとしていたとは」ということだろうと思われますが、こうした事態に「事実無根」という言葉で耳を塞ぎ続けてきた日本聖公会京都教区は、一体、何を考えていらっしゃったのでしょうか。>横浜教区で97年に一人の執事が飛び降り自殺しました。大変な>衝撃でした。このとき、遺族の所に真っ先に行ったのが原田司祭>と古賀司祭だったそうです。なぜか?その執事がウイリアムス神>学館で神学生時代、すさまじいイジメをこの二人が教育の名の下>にしていたからだそうです。執事の自殺後、周囲の人に言わせる>と、二人からは以前のような横暴さが少し減ったと言われていま>す。自分たちの行いに責任を少しでも感じたのでしょうか・・、 恐ろしいことです。これがウイリアムス神学館の実態だったのですね。そして、こうしたイジメは、京都教区に限ったことでないことは、多くの主教や司祭が知っていることなのではないでしょうか。女性司祭按手を認めない司祭に対して、考えられないような仕打ちが為されてこなかったでしょうか。あるいは、誹謗中傷が公然と語られて来なかったでしょうか。 わたしもそうしたことを経験している方々からお話をお伺いしています。そして、それぞれの時に、根も葉もない噂を流し続けてこなかったでしょうか。反論したり、異なった意見を主張したら、左遷どころか、病気の家族をも見捨てさせるような人事を行ってこなかったでしょうか。「子供の頃に片親になった人は、昔は聖公会の司祭になれなかった」ということを言った主教がいるということを風来坊さんが書かれていますが、私もそれをあの時に聞かされていました。これが聖公会の実態なのです。 聖公会の多くの司祭は、女性が聖職としての司祭になれないプロテスタント教会は日本聖公会だけだとお思いになっていらっしゃるようですが、カルヴァン系の改革派教会では、今でも女性は聖職になれません。「執事」にはなれますが、これは信徒である「長老」を補佐する信徒としての役職です。日本キリスト教団に残った改革派系の教会は、女性の牧師=正教師がいらっしゃるようですが、教団議長に女性がなったことはありません。この問題は極めて歴史的な問題であるにも関わらず、日本聖公会の女性司祭推進派の方々は、それに反対する人々を誹謗中傷し、時にはイジメにも等しい仕打ちをしてこなかったでしょうか。現在でも、2ちゃんねるで見にくい言葉を投げかけて、「聖公会の信仰」に属している方々を誹謗中傷している方々がいらっしゃいます。日本聖公会はそうしたことが人間性を無視し、自由と民主主義を破壊していることなのだということを何故、自覚なさらないのでしょうか。>女性司祭や人権・差別のことに二人の司祭は前向きに取り組んで>いるように見えましたが、すべてポーズだったのでしょう。むし>ろ、苦しむ人々にどう、つけいれば自分たちはずるいことができ>るのかを考えていたのかと思います。>裁判記録の中で原田司祭は現場教会時代にパチンコ店に入り浸っ>ていた期間があり、相当な金と時間を使ったと述懐しています。>>どんなことをしたら、パチンコ三昧できるのでしょう?暇で金あっ>たのか・・倫理とかないのか・・・、パチンコしている神学生が>いたら「何考えてる!」と怒鳴りつけてたのに・・・。 これで、日本聖公会の聖職の多くが何を考えて来たのかが見えてくるように思えるのは私だけでしょうか。こうした方々が人権や自由を語る時、その言葉は明らかに空しく響いてくることでしょう。>遅ればせながら記録を閲覧できよかったです。私はパレスチナに>行き、パレスチナの人々のこと、また女性司祭を認めないのは人>権侵害であることに気づき、命を守るために関われることにすべ>て関わろうと決心しました。その後、辺野古やいろいろな所にも>行きました。ですが原田事件に関われなかったのは本当に恥ずか>しいです。今後は関わっていきます。私の中で、以上はすべて繋>がっています。人権を守るということで。 女性が司祭になれないことが人権侵害になるかどうかは、極めて難しい問題だと私は思っています。宗教団体は任意の団体です。法的規制力を持ちません。例えば、男子修道院に女性が入れないのは、女性の人権を侵害していることになるのでしょうか。女性が司祭になれるかなれないかは、極めて宗教的な判断です。女性聖職に関する議論は、聖書と教会の伝統の中で議論されるべき問題で、女性の人権とはまったく別の次元にあると思っています。 そうした意味からすると、原田文雄司祭がしたこと、古賀司祭がしたこと、あるいは武藤主教や高地主教がしたことは、準強制わいせつ事案ということからして、女性に対する人権侵害も甚だしいものと言わざるを得ないと思いますが、それと女性聖職に関する議論はまったく別の次元の問題のように思えます。>閲覧者が、少ないのに大変驚きました。もっとたくさんいるもの>と思いました。 申し訳ありません。私も出来るだけ早い時期に裁判記録を閲覧しに行かせていただきたいと思っております。「糾す会」からメールなどで裁判記録の内容を少しは理解できているつもりになっています。 裁判記録をお読みになられたこのを司祭様を、神様が祝福して下さいますように。「とても大きなショック状態の中に」いらっしゃるとのこと、しかしこのショックがこれからの宣教活動に必ずやプラスとなると信じております。
2007.11.08
満員電車の中で誰かの足を誤って踏んでしまい、相手の方の足の指の骨が折れてしまったというような、過失によるものではありません。しかも、満員電車という状況下では、この過失責任もそれ程大きなものではないでしょうが、「ごめんなさい」と謝っただけで済まされる事案ではありません。相手の治療費や休業補償をし、慰謝料を支払わなければなりません。 しかし、原田文雄司祭の問題は準強制わいせつ事案です。教区会などで何度も謝罪し、「謝罪の記者会見」の前に被害者宛に文書で謝罪していたとのことですが、これで本当に謝罪したことになるのでしょうか。あるいは、高裁判決が確定した後、すぐに判決通りの損害賠償・慰謝料が支払われました。しかし、その後に被害者から出された二つの要求に関しては、何ら誠実な対応が為されていないのではないでしょうか。1)事件が発覚し、一旦、原田文雄司祭の退職を受理しておきながら、 その後にその退職の撤回を認めた武藤主教及びその退職撤回に関わっ た古賀司祭の教育機関からの辞職。2)前記の退職受理から、退職撤回までの経緯に関する文書による詳 細な全容の報告。 この二つを被害者とそのご家族が求めていらっしゃるにもかかわらず、京都教区は何故、これを実行しようとなさらないのでしょうか。現在の問題の焦点はここにあるのではないでしょうか。しかも、古賀司祭は、毎週のように京都教区内の教会で聖餐式の司式をされていらっしゃるようですが、被害者の法定代理人の方は「問題が解決されるまで、祭壇に近づくな」と要求していらしゃっているにもかかわらず、これを無視されているのはどういうことでしょうか。法定代理人の方は、被害者の方と同一と見なされて当然のことだと思われるのですが、何故これを無視されているのでしょうか。 京都教区主教は、「既に謝罪は済ませている」「何回も謝罪はした」とおっしゃっているそうですが、少なくとも傍目から見ると、謝罪していないように見えるのは、私だけでしょうか。謝罪していらっしゃるのであれば、被害者の要求を何故満たそうとお考えにならないのでしょうか。 そもそも、京都教区主教による原田文雄司祭に対する「陪餐停止」処分は、日本聖公会の法憲法規からまったく逸脱した行為でしかありません。このことに関しても京都教区は一切説明されていらっしゃらないように思えるのですが、如何でしょうか。確かに、「陪餐停止」という処分は非常に重い処分です。しかし、法規201条の5(「5」と記されていますから私は第5項とは書きません)「職務の一部執行停止または停職の懲戒を受けた聖職の陪餐は停止する。」という規定によって執行された陪餐停止ではありません。法規第201条に記された聖職者に対する懲戒の4種の中には「陪餐停止」はありません。 準強制わいせつの加害者に「過失」はあるのでしょうか。 あり得ないのではないでしょうか。でしたら、なぜ被害者から出されている二つの要求を京都教区は満たすことをなさらないのでしょうか。2ちゃんねるでは、様々な憶測が為されていますが、一方では特定の人物を誹謗中傷する表現が目に付きます。それも、この京都教区の対応に異議を唱えている方々にたいするものばかりです。こうしたことが教会の徳を建てることになるのでしょうか。私には、あの忌まわしい事件を隠そうとしているように見えてならないのです。そして、そうした隠そうとすることが、被害者の傷を逆撫でしているように思えてならないのです。代理人の方のメールを読ませていただいているとそれが見えてきます。1)事件が発覚し、一旦、原田文雄司祭の退職を受理しておきながら、 その後にその退職の撤回を認めた武藤主教及びその退職撤回に関わっ た古賀司祭の教育機関からの辞職。2)前記の退職受理から、退職撤回までの経緯に関する文書による詳 細な全容の報告。 被害者とそのご家族から出されているこの二つの要求のうち、武藤主教は既に退職されていらっしゃいますが、まだ別の役職にお就きになっていらっしゃるようですね。また、2)の要求に関して、京都教区は調査を始められているのでしょうか。記録文書=議事録をコピーすればいいだけのように私には思えますが、如何でしょうか。それとも、こんなに大切なことを話し合ったにもかかわらず、議事録が保存されていないのでしょうか。
2007.11.06
何かと忙しくしていて、風来坊さんの「いいたい放題」というブログをやっと読むことが出来ました。そして、「第九条の二」のコメントにあるmomoさんのコメントを読ませていただきました。>もちろん、原田司祭の事件は決してあってはならない犯罪>であって、きちんと罪を償わなければなりませんが、当事>者でない者が必要以上に騒ぎ立てるのは、私は良くないこ>とだと思います とのことですが、「良くないこと」というのは、誰にとって良くないことなのでしょう。京都教区にとって良くないことなのですか?>原田司祭のことは私も許せないし(法憲法規に抵触してい>ますが、してる・していないの問題以前です。)、とこと>ん責任を追及しなければならないことだと思っています。>臭い物にふたという考えは私は大嫌いです。被害者が泣き>寝入りするなど絶対あってはならないし、私も近くにいれ>ば力になりたいと思っていますし、さまざまなハラスメン>ト関係のことも少しずつ取り組んでいます。 とmomoさんは10月31日18時20分に書き込んでいらっしゃいますよね。当事者以外の方々が声をあげていらっしゃるのは、京都教区が真剣に被害者のことを考えていらっしゃらないからではないでしょうか。原田文雄司祭の事案は、「ハラスメント」ではありません。準強制わいせつです。それも、大阪高裁が100%認めている判決に対する加害者側の上告を、最高裁判所は上告棄却・不受理を決定したものです。 momoさんは、加害者の側に立っていらっしゃるのですか?それとも被害者の側に立っていらっしゃるのですか?私が貴姉のコメントを読ませていただいた範囲では、加害者の側に立っているとしか思えないのです。「臭い物にふたという考えは私は大嫌いです」とおっしゃっていながら、何故、積極的に活動をされていらっしゃる方々を非難されるのでしょうか。「当事者でない者が必要以上に騒ぎ立てるのは、私は良くないことだと思います」とおっしゃっていらっしゃいますよね。そして、風来坊さんに対する別のコメントの中で、次のように書かれていらっしゃいますよね。>色々意見を申しましたが、私はこのブログを読んであまり>にも過激すぎで、あなたが訴えれば訴えるほど、訴えられ>た側は離れて行ってしまっているように思うのです。 「訴えられた側が離れていってしまう」とはどういうことですか?京都教区がますます責任逃れをするということですか?だとしたら、非難されるべきは加害者を擁護した京都教区なのではないでしょうか。そして、窮状を訴えている「糾す会」の方々も含めて、「私には単なる週刊誌やマスコミがやっていることと同じようにしか見えません。」とおっしゃっていますが、何を勘違いされているんでしょうか。「糾す会」や風来坊さんや私は、売り上げを気にして、それぞれの仕方で活動しているのでしょうか。おもしろ半分でしているとでもお考えなのでしょうか。あなたのそうした考え方は、京都教区の聖職者が皆さんお持ちなのではないでしょうか。 何が一番大切なことなのでしょうか。誰のために、しなければならないことなのでしょうか。現実に、準強制わいせつによるPTSDに苦しんでいらっしゃる被害者の方がいるのですよ。>でも、冷静に考えてください。一人の人間に何百人も群がっ>て「おまえが悪い」と言ったところで問題が解決しますか?>だから法律があって、裁判所があって、警察があって・・・ これなどは、加害者を擁護していることにはなりませんか?オウム真理教の地下鉄サリン事件に対して声をあげた方は何人いらっしゃいましたか?各市町村ではオウム真理教の施設移転に関して、ものすごく警戒心を持ち続けているのですよ。「法律があって、裁判所があって、警察があって・・・」はその通りです。ただ、原田文雄司祭の事案に関しては、刑事時効が来てしまっていただけです。時効は、過去の事実が消えたことではありません。法的手続き上の時効だけです。そんなことは、「原罪」ということをご存知のはずのmomoさんにご理解頂けていないとは思えません。 そして、民事裁判では、原田文雄司祭の行為が被害者の申し立て通りに認められたから、請求額の満額の賠償賠償・慰謝料が認められたのではないでしょうか。確かに、時として、同じ事件の刑事裁判と民事裁判で異なった判決が出されることがありますが、全体から見るとそれ程多くはなく、むしろ少ないと言われています。>京都教区の対応が悪かったのかも知れません。(私はその>現実を側で見ているわけではないので問題を細かいところ>まで把握するのには限界があります。) とお書きになっていらっしゃりながら、その直後で、>被害者とその家族を深く傷つけたのは紛れもない事実でしょう。 とお書きになっていらっしゃいますが、あなたのコメントの意図がはっきりと見えています。京都教区の立場をなんとか庇護しようとしているとしか思えません。はっきりいって、京都教区の責任回避を庇護しようとしていらっしゃいますよね。>それ以外のことでも聖公会の聖職たちを馬鹿にした発言が>多いのです。自分だけが間違っていなくて、あらゆる神学>を知っていて、攻撃的なことばかり書いている・・・聖公>会以外の教派から好意的なメールが来ているから、何だと>いうのですか?あなたの本当の信仰とは何でしょう? 日本聖公会の多くの司祭さんや執事さんたちが、女性聖職に反対している人々に対してしていた攻撃をご存知ないのですか。ありとあらゆる誹謗中傷をまき散らしていらっしゃったのではないですか?それに、風来坊さんのご専門は神学ではありませんよ。ただ、ご趣味で教会史や教理史に関心を持っていらっしゃるだけです。あの方は、東京にあるとある研究所のスタッフです。 風来坊さんの友人の方を私は知っているのですが、おそらく彼からもいろいろと話を聞いているのだろうと思います。 それにしても、「自分だけが間違っていなくて、あらゆる神学を知っていて、攻撃的なことばかり書いている・・・聖公会以外の教派から好意的なメールが来ているから、何だというのですか?あなたの本当の信仰とは何でしょう?」という言葉には、呆れてしまいました。誰も、完成された神学など持ち得ないですよね。自分の神学は完璧であると考えた瞬間に、その神学は神学でなくなってしまうのではないですか?風来坊さんが批判されていたことは、神学の中でも基本的なことだったように記憶しています。 2チャンネルに風来坊さんが高級車を持っていたり、高級車に乗っているように書いている人がいますが、何か勘違いしていらっしゃいませんか?風来坊さんの高級車?はホームセンターで買った自転車ですよ?それから、彼が買っている本は、勤務先の本ですよ。そして、彼は牧師ではなく研究員です。それも、本当に食うや食わずの生活をしていたところを研究所に拾われたんです。風来坊さん自身がそうおっしゃっていましたし、周囲の方もそれをご存知です。>いったいあなたは何がしたいのですか。教会が良くなるた>めの祈り、行動を、これだけ批判しているのですから何か>起こしているのですか。 私もそうですが、こうしてブログを書いています。そして、このブログはリンク・フリーです。それ以外にも、機会があれば現職司祭による準強制わいせつ事案とそれに対する教会の対応の過ちについて、いろいろな方々にお話ししたり、「糾す会」のサイトをご紹介しています。 「教会が良くなるための祈り、行動」というのは京都教区のことをおっしゃっているのですか?「糾す会」のことをおっしゃっているのですか?しかし、風来坊さんが「糾す会」を批判されていたことはなかったように記憶していますが。 教会を維持するために、被害者を踏み台にしてはなりません。 事件を隠蔽することは、被害者を踏み台にすることです。 既に被害者とそのご家族は、教籍簿上どうなっているかとは関係なく、教会を離れてしまわれました。他教派の教会に移籍しているわけでもありません。このことをmomoさんはどのようにお考えでしょうか。ここが一番重要なポイントだと思っております。
2007.11.05
日本聖公会京都教区はどうなっているのですか? 「糾す会」からのメールを読んでいる範囲では、問題はちっとも解決に向かって進展していないようなのですが。それとも、もうどのような手段を用いても、自己弁護は出来ないとお悟りになったのでしょうか。被害者とそのご家族からの切なる願いは、聞き入れていただけないのでしょうか。1)加害者のしたことを了解した上で擁護した武藤主教が責任を認め、 裁判に参加した当時の常置委員、古賀久幸(平安女学院)が引責 辞任する。2)京都教区が事件をどのように処理したか、詳細な説明をする。 この二つの要望に関して、何か理不尽なことでもあるのでしょうか。 一般常識からすれば、どちらも当然のことです。ことに2) に関しては、いったん辞職した加害司祭を、加害者の申し立てだけを根拠に復職させ、何もなかったかのように元通りの役職に就けていたのではないのでしょうか。だとしたら、このことに関して、被害者が報告を求めることは当然のことではないでしょうか。被害者とそのご家族は日本聖公会京都教区の信徒の方々です。 日本聖公会京都教区が上記の二点について、誠実に対応されていれば、既にこの問題は、ある意味で解決していたのではないでしょうか。何故、被害者とそのご家族から出されているこの二つの要望を受け容れ、すべてを明らかにされないのでしょうか。実に不思議です。この謎解きからしなければならない「糾す会」の方々は、本当にご苦労をされているのだろうなと思っております。
2007.11.03
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