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今までの人生で溜め込んできた、めんどくさいネガティブな感情は大体消化できたんじゃないかな、と思うようになってまいりました。感情って90秒くらいしか続かないらしいんですが、それを何ヶ月かけて消化してるんですかね私。まぁ、それくらい感情ってゾンビみたいに蘇ってくるし、終わらせるには向き合うしかないものなんでしょうね。いきなり最終回?それじゃジャーナリングは終わりにするか? と言うと、なかなかそうもいきません。なにせ自分の感情を粗末にするクセはなくなっておりませんから、引き続きセルフモニタリングは必要なんです。今までみたいに長々と頭の中で出来事を再体験するようなジャーナリングはもう必要ない、とは思いますが(もうやりたくもないですし)、ほったらかしにするとまた自分の感情を見なくなってしまう可能性の方が高いんです。しかし、書くネタもないのに書くのはなかなかキツいですし、そろそろこの辺でやり方を変えてみようかな、と思ったわけです。感情日記でサンプル収集私の場合、ほんの些細な出来事にストレスを感じて、それが後日爆発するというパターンを繰り返しているようです。なので、出来事とストレスを感じる要因を紐づけして、後日メンタルが変化した時にすぐ原因が特定できるようにすれば、大きく崩れないんじゃないかと思います。それで、「出来事」+「気分」を記録して、後日「人に会いたくない」とか「眠くて仕方ない」という変化を感じた時に記録を見返すというやり方にしてみようと思います。記録する「気分」というのは、「なんかモヤモヤする」とか「胃が重たい」とかそういうフンワリした奴だったり、もしかしてこれはこういう感情? というのもメモするようにしようかと思います。ストレスが胃潰瘍や頭痛の原因になったりするように、やっぱり体調に変化をもたらすようなので、感情そのものをモニタリングするよりは体調を見る方が私には分かりやすいかもしれません。こういう症状の時はこんな感情だった、というデータも採れるし、一石二鳥ですね。避けられないストレス時はご褒美をなるべくストレスを回避して生きていきたいですが、如何せんそうはいかないのが浮世の習い。なので、不可能な夢を見るよりは、現実的に「頑張ったなタヌキ!」と自分にご褒美でも用意してみようかな、と思います。今まで、ストレスをちゃんと自覚していなかったので、爆発した時に暴飲暴食する、というご褒美とは程遠い習慣があったんですが、アレってだいたいその後の罪悪感と体調が最悪なんですよね。飲み食いしている時はいいんでしょうけど、その後の胃の痛み、動きにくさ、体重計の数字は別のストレス源になるレベルです。なので、小さなストレスを自覚できるようになって、回避したり乗り越えたりした時に、よくやった! という意味も込めて何かやろうかなと思います。でもなぁ、あんまり大げさなことすると、今度はそれがストレスになるし(ご褒美の財布元も私ですからねぇ)。コンビニでスイーツ買うとか?ご褒美という習慣がない家庭で育ったので、何をすればいいかが微妙に分かりません。まとめ。私の生きづらさって、性格がどうのこうのの前に、感情を疎かにしまくる思考のクセのせいだということが、これまでのジャーナリングで見えてきました。でも、人の性格って目に見えないですから、別の理論から考えればまた違う側面が見えてくるのかもしれません。どれが正しくてどれが間違っているかなんて、素人のタヌキには分かりませんが、このやり方で楽になれるかもしれない、と思えるものはとりあえずやってみようと思っています。感情迷子で、INFJという診断をされて、ストレス爆弾を生成及び爆発させながらジャーナリングを続けてきましたけど、少しでも自分が楽になれたら、私にとってそれが正解だったのかなと思います。
2026.06.30
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価値観っていったい何なんでしょうね。先日、ある人が価値観について語るのを聞く機会があったんですが、その人は「価値観=好み」という扱いで話しておりました。え? 価値観ってそういうものなの? と私はちょっとびっくりしました。何に価値があるかに関する考え方、とか、物事をどう見るか、とか結構重ための意味合いを考えていたので、要は好き嫌いって言われて、「それでいいんだっけ?」となってしまったんです。好き嫌いと言うけれどその人は親切であることを大切にしているそうです。素敵な価値観です。誰かに親切にすることをモットーにしているし、親切な人が好きなんだそうです。なので、親切じゃないと思った人には「親切にしなきゃだめだ」ということを遠回しに伝えるんだそうです。⋯⋯なんか、不穏だな? となんとなく思いました。親切にすることを心掛けるのはいいと思うんです。他人が親切だと嬉しいのは私も分かります。でも、それを遠回しにとはいえ人に伝えるってのは、なかなかリスキーな感じがします。好き嫌いくらいの軽さならいいのか? う~ん、しいたけの美味さを伝えられても困ってしまう私としては、やっぱりなんか違うなぁと思ってしまいます。好き嫌いが鋭すぎる親切か不親切かって、見方によって結構ズレがありますよね。小さすぎて伝わってない親切もあれば、大きすぎて大迷惑になってしまうレベルのものもあります。でも、その人が基準にしているのは「自分が親切だと思うかどうか」なんですね。そして、それができていないと見做すと、距離を置きたくなるそうです。そもそも、親切でないと「親切に伝える」時点で親切じゃないって思ってしまうのは、私だけじゃないと思うんです。相手が小さすぎる親切しか示せない場合も、大きなお世話だと思わせてしまう場合も、根っこでは親切にしてるわけですから、「それは違う!」と主張してしまったら、その人の親切心を全否定していることになりますもんね。しかも、それを「私の好みだ」と言うということは、自分の好みで他人を遠ざけて平気だ、という鋭すぎる見方をしてしまっているということになります。どうなんだろう? これ嫌い、で切り捨てて快適に生きられるものなのかな?⋯⋯私はきっと、罪悪感とかでどうにかなっちゃう気がするんだけどな。価値観は自分限定の生きる指針以前、私は自分の価値観について人は独立した存在として尊重されるべきであり、自分自身と向き合い、誠実に、相互的な関係を築くべきであると考えている、とChatGPTに分析してもらったことがあります。好き嫌いよりもだいぶ重たいです。ですが、私はこれを誰かに押し付けるものだとは思っておりません。そりゃもちろん、他人を尊重する選択ができる人のことを良い人だなぁと思ったりはしますが、そうできない人にだって何かしら意見はあるわけですから、こちらの考え一つで切るのは失礼だよなと思うんです。相手にだって、相手の価値観があるんですから、押し付けちゃったら喧嘩になりますよね。今回お話をしてくれた人は、そういう感覚のまま今までずっと生きてきたそうです。相当生きづらかったんじゃないかな、と思います。価値観は自分の生きる指針となってくれる物です。でもどんなに立派な価値観でも、自分の枠を超えてしまったら、それは相手を支配することになってしまいます。どんなにリンゴが好きでも、こちらの都合も無視して口にグイグイ詰め込まれたら、「何すんじゃー」ってなりますものね。価値観を誰かに伝える時それでも「これは伝えなきゃ」と思う時、どうしたらいいんでしょう?今回お話してくれた人に、別の人がものすごーく言葉を選びながら話していました。例え話を使いながら、相手の意見を聞きながら、相手の価値観に傷つけまいとしながら。これぐらいしないと、価値観の話し合いってできないんですよね。たとえ好き嫌いでも、その人の芯になっているところだから、周囲から見てそれは間違ってると見えても、それをストレートに指摘すればこじれるだけなんです。きっと、すごく忍耐が必要だし、頭も使うし、相手の様子も見なくちゃならないから大変ですよね。その人も最後には「伝え方が大事なんですね」と納得してくれてたようですから、良かったなぁと思います。まとめ自分の価値観をAIに聞かないと言葉にできない私なんぞは、問われてちゃんと説明できるってのもすごいなと思いました。そして、少し歪んでしまった価値観を傷つけずに修正できるんだってことも知ることができました。人が何考えて生きているかって、すごく興味深いテーマだけれど、扱うのにとてもエネルギーが要るものです。だけど、伝えなきゃならない時はきちんと伝えたいと思うので、これからもサボらずジャーナリングで自分のことを考えておこうと思いました。
2026.06.29
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あまりにも長い間抱え込んだ感情って、もはや自分とベッタリくっついていて、どうにもしようがないんじゃないかと思うこと、ありませんか?子どもが親に思うモヤモヤ、部下が上司に対して思うイライラ、上司が部下に対して思うグルグル⋯⋯そういうのってストレスなんだけど、解決不能にしか思えない時もあります。私もそういう感じの悩みを持っていたんですが、今日ここにほぼ解決できた(少なくとも私は終わりにできた)ものがあったので、書いておこうと思います。長年のモヤモヤ、ついに終了?どんな立場からもモヤモヤが消えないんだとしたら、まぁ世界の在り方が間違っているんだとは思いますが、そこを今の私たちがどうこうできるわけでもないので、今はおとなしく飲み込みます。ですが。人間vs人間の行き違いの場合、自分が抱えているこのモヤモヤ、イライラなどは、どうこうできるものから来てることが多いので、諦めるしかないよりももどかしくなりますよね。あの人が私のことをもっと理解してくれていたら、この人がもっと思いやりのある人間だったら、と理想は果てしなく広がってしまいます。生きてる限りこれらに付き合っていかなければならないのか、と思うと、生きてることに楽しさや可能性なんて見えてきませんし、ついうっかり死にたいなぁ、なんて思っちゃうかもしれません。でも、ちょっと待って?完全無敵で万人向けの解決方法はないかもしれませんが、相手の気持ちと自分の気持ち(私の場合は気持ちが分からないので、状況から推測できる相手の気持ちと、自分のこうかもしれないという推測の気持ちという、根拠薄弱なものでしかありませんでしたが)を冷静に考えることができたなら、少なくとも相手と自分向けの解決への有効な言葉は見つけられるかもしれません。気持ちを言うと泣くただ一つ、ここで問題が生じます。私、自分の本音とか感情を言葉にする時、だいたい泣くんです。怒ってるとか悲しいとかじゃあるまいし、自分でも泣く理由はさっぱり分からないんですが、なぜか涙が出て止まらなくなるんですよ。泣く人を見て冷静さを取り戻せた、という経験がある人は少なからず分かるところがあるかもしれませんが、誰かの感情をそのまま共有してくれる人って、実はそんなにいないんじゃないでしょうか。そして、自分の物じゃない感情で泣くのは、考えるだけで疲れます。私の心の友は共有して泣くタイプだと教えてくれました。私はこの友人のことが大好きですが、如何せん私が相手の気持ちに共感することは特性的に難しいと思います。では、私に感情移入をしてくれるこの人に、私は何を返したら良いでしょう?伝えるべき言葉は結論から言えば、本音を語るのが一番近道なんじゃないかと思います。一緒に泣けないから、せめて聞いて「そうなんだね」で頷けるように話したいのです。親友は私よりも感情移入が上手なので、人を説得したりするのも多少上手だったとしても、世間一般の目からすればごく普通の人です。私の気持ちを理解しようという意欲はたぶん世界一だから、一生懸命に私の本音を引き出そうと頑張ってくれますが、カウンセラーのようなことはしないし、できないと思います。いくら投げても梨の礫、というのはどんなに情の深い人でもムカつくでしょうし、与えるばかりだと人は疲れてしまいます。続いていく世界と変わった感情よく「惚れた方が負け」なんて言いますが、恋愛友愛に勝ち負けなんぞありませんし、互いに尊重できないんでしたら、本当の意味で「惚れた方が負け」な人生を歩むことになるかもしれません。だからといって、損害は安易な選択をしても心は納得しないぞ、と常に身構えているのも疲れてしまいますよね。人間関係は、線引と取捨選択だけの世界ではないでしょうから、同じゼロのスタートラインから煉瓦を1個ずつ積み上げていって、いつかお互いに快適で双方の価値観に沿った綺麗な壁を作っていくのが理想なんじゃないかと思います。そう、壁、というか境界線はちゃんと引いておくのが一番良いんです。壁が自分を閉じ込めて、相手を遮断するだけなのも困りものですが、苦しいのに相手を受け入れ続ける扉でしかないのも困るんです。受け入れるか切り捨てるのが人間関係、という線引は自分を守るための壁としては理想ですが、開けるために相手がハンマー持参で決死の覚悟を決めないといけないなら、それは壁が防衛じゃなく、孤立を助長してしまっているのかも。まとめ。感情が迷子なままだと、苦しさと身体的な苦痛だけを見て、かなり強固な防壁を築くことが多いんじゃないかなと思います。無防備なままって怖いですからね。無条件に受け入れるのは正しくない。けど、自分の感情だけを理由に拒絶するのは、壁に設けた検問の基準が厳しすぎる状態になっているかもしれない、という可能性は忘れたくありません。私が作り上げてきた壁は、自分が感情を見分けることができない、という事実を告げる仕方でぶっ壊しました。同情してくれ、というのではなく、一番効率良いコミュニケーションはこれだ、という取扱説明書を渡したくらいの認識です。それを活用するかは相手次第。相手がそうできないなら、私は無理せずエラーを吐いてトラブルを起こしてしまうかも、ということを伝えるだけです。だからワガママとかじゃありません。そして、どんなに理想的な壁でも、壁は壁。それが邪魔になる時がきたら、自分からハンマーを握る勇気を持っていたい、と思うのであります。
2026.06.28
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人を好きになる、ということをどのように定義すればいいでしょう?ネットには恋愛に関する記事は溢れていますし、辞書にすら愛だの恋だのの説明は載ってます。でも、自分の言葉で説明できますか? 私は全然できません。質問したのにこの体たらく。あぁ、石を投げないで! どうしてこうなのか一応説明しますから!長らく人を好きになってない先日、私は感情が分からなくなっている、という内容の記事を書きました。悲しいも頭来たも全部一緒の「イラッとする」で括っちゃって生きております。多少改善したとはいえ、生きづらさはあまり改善されておりません。で、その理解できない感情の中に、人への好意、も含まれておりました。定義は分かります。そういう感情を持つ人がどういう態度を示すかも一通り読みました。でも、自分の中にそれがあるかどうかが、よく分からないんですね。つまり、私、長らく恋というものをしておりません。遠い昔にはあったかもしれないんですが、既に終わった感情なのか鮮明に覚えているわけではないので、新たに恋でもしない限り、どういうふうに感じたら人を好きになったと言えるのか、分からないというわけです。そもそも「好き」が分からない私、リンゴが好きなんです。自己紹介の時にはきっちり主張しますので、たぶん人は「あいつはリンゴを異常に愛している奴だ」と思っているかもしれません。ですが、どうしてリンゴが好きなのか? と聞かれると、実はよく分かりません。幸いにして、私にリンゴを好きな理由を聞いてきた人はいないので、今のところバレておりませんが、質問されたらどうしましょう?まぁ、美味しいから? とか、適当に答えておけば多くの人は納得してくださるでしょう。でも、それが本当にそうかは実はよく分かってないんです。⋯⋯リンゴが好きな理由をジャーナリングで分析するのは、あまりに不毛なのでやりませんけども。人を好きになる時も、「どうしてあの人が好きなの?」と質問されることがあると思います。でも、悪い人じゃないことは分かるけど、その人の何を良いと思ったのかをよく考えないと出てこないんです。ほんとにそれって、「好き」なのか? ⋯⋯私の心の中はともかく、周囲からは愛情だの恋情だのは見えてこないんじゃないかなと思います。分からないから動機になりようがないいろんな人に親切にする時、その人の根底には相手への好意があったりすると思います。私が誰かに親切にする時も、たぶん好意があるんだとは思います。でも、「あの人のことが好きだから親切にしよ~」も、「あの人、すごく良い人だな~」という思ったから、「お返しに親切にしておこ~」だったとしても、外からは分からない。そして、私も自分がどっちなのか分からない。なので、「タヌキ、あの人のこと好きなの?」と訊かれたら、「分からないよ」と答えるしかない。だからタヌキが友達だと思ってる人は、「どうしてあの人のことが良いと思えるんだろう?」と一生懸命考えて、答えが出た人だということになります。ものすごい愛情の結果なのかもしれませんが、本当に愛情なのかは本人にも分かりません。だから人の恋愛模様が分からないあの人があの人のことを好きなのかもしれない、ということは、観察していればある程度見えるかもしれません。ですが、観察をしても人の好意を見抜くことは、恐らく私にはできないでしょう。なぜなら、好きという気持ちを見分けることができないからです。定義で理解していても、その定義通りの感情を持っているかどうかが分からないので、同じ気持ちになりようがないのです。そこまでしないと分からないか? と思われるかもしれませんが、現実に私はネットや辞書で説明された好意に対して、心から納得できたことがありません。たぶん、誰かに好意を持つことで、グイグイ感情を向けられるのが怖いのかも? だからこうして頑なに誰かを好きだと思わないようにしてるのかもしれませんね。まとめ。どんな人とでも友達になれるとか、友達100人できるかなとか、とかく社会は人付き合いが良いことを褒めます。そういう意味では私は劣等生の最たるものです。でも、私でも友達だと思える人ができるのだから、感情が分からなくなった人でも誰かを好きになることはできるんじゃないか、と思います。ものすごい時間はかかりますし、相手を信用していいのか怖いこともありますけど、それを乗り越えて友達だと思えるなら、きっとものすごく好きなんじゃないかなと思います。そして、私の考えた結果で言いますと、そこまで時間をかけてでも考えたいってことは、愛してるってことなのかもしれない、と思います。
2026.06.27
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元々分かりにくい子どもだった可能性のある私なのですが、特にうちの母にとっては分かりにくい存在だったのかもしれません。意見の食い違いがある度に話し合う機会を持ったのですが、大体理解してもらえず、「もういいや⋯⋯」と諦めることが多かったように思います。こんな育ち方だからなのかは分からないんですが、いつの間にか自分の気持ちを誰かに話すことをしなくなっていたように思います。常に超低空、仏頂面人間の爆誕若い頃の私、あまり自覚はなかったんですが、常に仏頂面で楽しさなんて知らないような人間だったようです。なので、自分は他人には好かれない人間だという自覚を常に持っていましたが、なんで自分が仏頂面なのかはよく分かっておりませんでした。周囲からすれば常に不機嫌な人間なんて関わりたいとも思わないでしょうね。今ならフキハラとか言われるのかな?⋯⋯今にして思えば、あの頃の私は、「もういいや」で諦め続けた結果、自分の感情を「どうでもいいもの」として扱っていたように思います。何をするにしても「自分がやりたいか」を度外視して、「物理的にできるか、正しいか」しか見ていなかったんです。この思考方法、行動を選択することはできるんですが、幸福感はゼロですからねー。これでニコニコ笑ってられる人がいたら、そっちの方がメンタルおかしいと思います。自分の気持ちが分からないなんてことある?そんな若かりし頃を過ぎ、ごく最近になって私もようやく感情というものが大切なんだと学びました。それで、自分の感情というものと向き合うようになったのですが、その時になって「あれ? 私、自分の気持ちが分からなくなってないか?」と気づいたのです。でも、普通に考えて自分の気持ちが分からないっておかしいじゃないですか。他人の気持ちならまだしも、自分の内側にあるものですよ?これに気づいたとき、自分の頭がおかしいんじゃないか? と本気で心配になりました。色んな精神疾患について調べたりもしましたねぇ。失感情症(アレキシサイミア)というのがあるらしいこの時は「今までずっと感情を無視してたから、感情を意識する習慣が弱くなっているだけなんじゃないか」と考えて、とにかく感情について考えまくるというゴリ押しを敢行いたしました。結果、嬉しいとか楽しいとかはなんとか分かるようになったんです。ですが、難しいのはネガティブな感情です。どう頑張っても見分けがつかないんですよね。ポジティブな感情と違って、ネガティブな感情に関して考えまくるのはストレスが強すぎて、うまくできなかったというのもあると思います。で、途方にくれた私はネットで「気持ち 分からない」とか「感情がない」とか調べてみました。その結果、「アレキシサイミア」という感情特性が存在する、ということを知ったんです。全部、「イラッとする」アレキシサイミアとは、自分の感情を認識するとか、言葉にして表現するとかが難しくなる状態を指すそうです。言葉にすると怖いですが、別に病気ではありません。ただ、これを持ってると生きづらい人生を送ることになるようですね。私の場合は、悲しみも怒りも、全部「なんかイラッとする」という実に曖昧な感覚になっていました。イラッとするだけですから、悲しかろうが不安だろうが、全部「怒ってんのかな」くらいの認識で、しかもその理由を把握できないという有様だったんです。感情の分類を間違ってる上、理由が分からないから、問題を解決することができないまま感情自体を押し込めることしかできない人生を送っていたんです。そりゃ苦しくもなるわ。他人の感情は分かるの?感情が分からないなら、他人の感情も分からなくなるのでは? と思ったのですが、私の場合、他人の感情は「状況から推測する」で全て補っていたので、特に困ったことにはならなかったですね。ただ、推測する必要を感じない場合が多かったので、「正しいかどうか」だけで行動して、他人が自分をどう見ているかなどは全く意に介しておりませんでした。ムカつかれようが怖がられようがどうでも良かったんです。こういう感情特性がある、と知ってから、自分がネガティブな感情を全て「イラッとする」で括って、全部放置してきたせいで苦しくなっている、ということを理解しました。そこからは放置してきた感情のツケを払うべく、ひたすらジャーナリングによる自己分析を行い、自分が把握できる限りの「イラッとする」を言語化してきました。⋯⋯今でも時々、理由不明のイラッとする、を経験します。病気じゃないけれど、そういう癖なんでしょうね。でも放置すれば以前と同じになってしまうことは分かっているので、時間を取って分類と理由探しを行うようにしています。まぁ、人からすれば「考えすぎ」に見えるのかもしれないですが、これを怠ってフキハラ人間になるよりは他人に迷惑かけてないんじゃないかな、と思います。まとめ。アレキシサイミアは病気じゃありません。とはいえ、人として生きやすい状態とは言えないと思います。特に、嫌な感情が何度も戻ってくるタイプの人は、時間が経つにつれて理由が曖昧な苦しさを抱え込むことになるんじゃないでしょうか。本当に苦しいので、病気じゃないなら医者は要らんか、と思うのはやめた方がいいんじゃないかと思います。自分の気持ちにも他人への影響にも配慮できなくなるから、結構簡単に自分を粗末にしたりするようになっちゃうと思うので。
2026.06.26
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思ってることをつらつら書いていくのがジャーナリングなので、ノートに並ぶ文章は時に同じテーマで書かれた物が連なってることもあれば、唐突に話題が暗くなったり明るくなったりします。時折読み返しては、「すごい不安定な人が書いたみたいな文章だな」と思いますが、残念ながらそれ書いたの全部自分なんですよ。ほんと残念ですけど。終わらないテーマの原因なんでこうも同じテーマで延々と書き続けるかと言いますと、昔あった嫌な出来事に付随する嫌な感情が時々戻ってきちゃうからなんです。そういうことってありませんか? 例えば、誰かに意地悪なことをされて嫌な気分になったけど、泣き寝入りさせられて強制終了になった結果、何年経ってもその嫌な気持ちが残ってるって。学生時代のいじめの被害者が、大人になっても加害者を許せないっていう話はよく聞きますけど、あれってきっと加害者もまだ若いんだからと言って変に庇ってしまって、被害者をちゃんと救済できていないからなんじゃないかな。私の終わらないテーマもまた、人からとっても雑に扱われて、未だにその感情をきちんと表現できていないからなんじゃないかな、と思います。時薬で癒せない傷もある時薬(ときぐすり)が全てを癒してくれる、という考え方がありますが、全てと言い切るのは難しいんじゃないかな、と私は思っています。だって、私の感情って人生の半分以上時間、癒えてないんですもん。24時間365日ずっと恨みに思ってる、なんてことはさすがにありませんが、相手の顔を見る度、同じようなことに出くわす度、イライラして落ち込むんです。ずいぶん根に持つじゃん? と思われるかもしれませんが、私だってこんな気分の悪い感情、さっさと投げ捨てたいんですよ。でも、思い出す度に拳を握りしめるくらいの感情が戻ってきてしまうんです。怒ってるんだろうか、と自分でも考えるんですが、別に怒ってはいないと思います。ただあの気持を何度も経験するのは嫌だから、相手を避けたいと思ってしまうんです。相手はきっと私が未だにあの時の感情に囚われているとは知らないでしょう。そもそも私が何に違和感を持ったのか、私もうまく表現できなかったので、ちゃんと伝わっていないと思います。長い時間が経ってしまったので蒸し返すのも大人げない。だから今更伝えようとするのも難しい。時薬は、一時的には傷を塞いでくれるのかもしれません。でも、何度も同じ傷ができるのは、傷口にナイフが刺さったままだからなのかもしれませんね。蹴りをつけたい刺された傷を治すには、刺さったナイフを抜く必要があります。だけど感情ってのは見えないですから、人が扱える状態にしてあげないといけない。私はそれが「言語化」というんじゃないかなと思います。「私はこれが悲しかった」「私はあれに怒りを覚えた」「こういうことが悔しかった」こういうのを自覚して初めて、自分が何に傷ついたのかを理解して、それを取り除こうとできるようになるのかな、と思うんです。私の場合は、雑に扱われて「見下されてるんじゃないかと思って、それがすごく悲しかったか、腹がたった」というのが刺さったまんまなのかな。見下されてる、というのは私の解釈なんで、事実じゃないかもしれないんですけど、こうしてノートに文字にしてみて「あ、これかもしれない」と思えたので、たぶんこれが答えか、これに近いんじゃないかと思いますね。で、これを相手に伝えたい。そして全部終わらせてしまいたい。そしたら少しは気分が楽になるんじゃないかなと思います。ネガティブな感情は自分を傷つける怒りとか悲しみって感情は、誰かを傷つける原動力にもなり得ますが、何よりも抱えている本人を傷つけるものとなります。「お前のせいだー!」と叫んで相手に頭突きをお見舞いしても、自分も痛いですし、実行に移す前に何度も苦しい気持ちになるのも自分です。私が何度もジャーナリングで自分のネガティブな感情を分析し続けるのは、誰かにぶつけるためじゃなくて、自分の心を守るためなんです。報復とかを夢見てるわけじゃないんです。相手が後悔して謝罪とかしてくれたら、少しは気持ちが晴れるのかな、と思ったこともありましたが、恐らく昔のことすぎるし、見下してるつもりなんてないと言うと思うので、思ったように事は運ばないでしょう。むしろ私が未だに昔に固執していると知ったら、「うわぁ、こいつすっげぇ面倒」と思うだろうな、と予想しています。だから相手の反応云々はもうどうでもいいし、仲直りとか正直望んでもいません。ただ自分が楽になりたいってだけなんです。まとめ。私は感情を言葉にするのが苦手なせいで、嫌な出来事が起きると二度と関わりたくないと思ってしまうことが多すぎます。そして、それを「私って繊細だから」と言いたくはないです。なので、根に持ってると思われてもジャーナリングは続けた方がいいかな、と思っています。そしていつか、明るい気持ちでポジティブな感情も言葉にできたらいいな、なんて夢見ているのであります。
2026.06.25
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最近、私の母が体調を崩して38度からの高熱を出しました。普段元気な人なので、心配からいろいろもやもや考えたりもしたのですが、なんとか熱の乱高下だけは脱したようでホッと一息です。そんな数日を過ごしたので、ふとコロナ禍の事を思い出していました。私は仕事に行く以外に外に出ないという生活がそれほど苦ではなかったのですが、オンライン飲み会とか、そういうものが流行していたということは、やっぱりあの時期に心が満たされない人も少なからずおられたんでしょうね。私もオフラインで親しい人と会うことは、まぁ愛してやまないとは言いませんが、楽しいと思う方ではありました。ですが、あのオンライン会議システムという奴は、お世話にはなったんですけど苦手です。今日はそんなオンライン会議システムに関して書いてまいります。タイミングが回ってこない全てのオンライン会議システムを使ったことがあるわけではないんですが、私が使っていたものは発言者の音声しかマイクが拾わない、というものでした。いや、会議においてはそれで正しいんだと思います。誰でも好きに発言していい、となってしまっては、スピーカーから流れてくる発言が全てカオスになるので、誰か一人の発言をみんなで聞いてから、次の意見を聞くというのが会議として理想的な姿なんだと思います。ただ、これが単なるコミュニケーションツールとして使われていると、ちょっと変わってくるんですよねぇ。おしゃべりの場なんて、いろんな会話が錯綜する場です。テーブルの向こうとこっちで扱われているテーマが違うなんてこともあります。システムが全ての音声を拾ってしまったら、会議は何も決まらないまま終了するという悲劇しか生みません。でも、肩肘張らないおしゃべりの場に、挙手機能を使ったりしてまで発言許可を求めるの、なんかしっくりこないんですよね。ましてや、そういうシステムをちゃんと理解していない要するに機械オンチ系の人だったりすると、なんで私みんなに無視されてるの? とモヤモヤしちゃうでしょうし、「あー」とか「えー」とかを多用したり語尾を伸ばして次の発言に繋げちゃう「コンボタイプ」の人だと、無自覚にマイクを独占してしまう可能性もあります。私もマイクを独占されて「うわー、これ私参加してる意味あるぅ?」と思ってしまう側ですが、一周回ってもうトーク番組みたいに聞き流しちゃえ、とカメラオフ、マイクミュートにしてコーヒー淹れに行くこともあります。ですが、仕様で無視されるのは、やっぱりモヤモヤしますね。あの仕様が間違ってるわけじゃない本来の会議の場において、発言者の声以外を拾わないというシステムは別に間違っていないと思います。だけど、強引に会話に割り込むという無礼を働いても構わない、と思えない私は、あのシステムのみで回る社会では居場所を作ることはできないかな、と思います。オフラインにおけるおしゃべりの場というのは、様々な声が入り乱れても会話がなんとなく続いていく、なんなら別の話題が突然飛び込んできても話題が逸れても、新たなテーマが生成されて会話が続いていく⋯⋯というような、その場の雰囲気が支配する場です。「私はこう思います、あなたは?」という教科書的な発言の応酬からは、あの空気はなかなか作り出せないでしょう。一人ひとりがシステムの使い方を理解して、お互いに発言できるような余白を残せる間柄なら良かったのかなとも思います。でも、以前私が参加したオンラインの集まりでは、1時間という時間を独占して語り続けた猛者がおりましたので、現実にそれを期待するのは無理なのかもしれないとも理解しております。今後、パンデミックが起きたら?今後ああいう騒ぎが起きたとしても、社会全体で経験を活かして対処できるのかもしれません。でも、個人的な体験から学べる人ばかりとも言えませんから、一人が平気な私でも、オンライン上の孤独を経験することになるかもしれませんね。あのシステムってそもそも、みんなでわいわい騒ぎたい人とじっくり考えて話したい人が「オンラインで遊ぼう!」となった時に、関係者全員、薄っすらとした不満をもたらすんじゃないかな。話したい人がマイクを独占する→言いたいことがある人はモヤモヤする→言いたいことがない人でも無視されてたら関わるのが嫌になる⋯⋯みたいな流れで。まとめ。どんなシステムを使うにしても、参加者がどういう状況にいるのかを観察しておかないと、せっかくのオンライン会議システムで人間関係の溝を作ってしまうかもしれない、というのがコロナ禍においての私の感想でした。日々更新されていくシステムの機能に戸惑うことも多いですが、意見を一致させる目的の会議で離散していくなんてことにならないよう、会議システムの使い方はちゃんと覚えておきたいな~と思うのでした。
2026.06.24
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自分で言うのもなんですが、私、結構めんどくさがりです。例えば、誰かに食べさせる料理とかでないと、一皿に全部盛りしても気にしません。サンドウィッチの具とパンを別に食べて、お腹の中でサンドウィッチ、とか言ったりします(挟むのすら面倒)。平素こんな調子なので、ストレスがあると更に人らしさを失う生活を始めます。ほんとはやめた方がいいんでしょうけど、どんなに頑張ってもモチベーション上がらないの、やっぱりNiが嫌な想像ばかりするからなんですかねぇ。ストレスフルでも人間であるために嫌なことがあると駄目になる、というパターンから逃れられないので、いっそのこと駄目な状態でも生きられる仕組みを作るのがいいんじゃないか、と思いつきました。すぐに食べられる、レンジすら要らないメニューとか、物の配置を最適化するとか。丁寧な暮らしなんて言葉がありますが、要は自分が快適に暮らせりゃいいんですから、これだって自分に丁寧な暮らし!⋯⋯丁寧な暮らしに謝った方がいい?物はそんなになくていい実は、私が一番好きな部屋って、ホテルみたいな生活感のない部屋なんですよ。しかし、生きていると物って増えていくものです。我が家も例に漏れず、いつの間にか色んな物が部屋の中を占拠中。それで、定期的に断捨離をするようにして、お掃除しやすさをある程度保つ努力をしてます。省エネなご飯ストレスに潰されてると食事の準備も嫌になってしまうことがあります。でも、何も食べないのは体に悪いので、オートミールやトマトジュースといった「やる気ゼロでも準備できるメニュー」というのを用意してあります。メニューって言うほどのものか? でも、こういうのがあるとストレスじゃなく体力的に料理がキツい時も食事抜きを回避できますよ~。めんどくさがりの運動めんどくさいのが嫌いなのは、運動習慣にも言えます。普段から運動するようにしているんですが、あんまり難しい動きとかは再現ができないので苦手なんです。なので、筋トレをするにしても簡単なのを幾つかやる程度にして、あとはウォーキングをやるようにしています。そんなゆるゆるでいいの? とよく聞かれますが、5年くらい続いてますし、体重もいい感じを維持できてるんで、なんか大丈夫みたいです。まとめ。ストレスで生活リズムが崩れるなんて本当は避けられるのが一番です。でも、どんなに頑張っても、ストレスに負けないという保証はありません。ストレス管理を頑張るのももちろんなんですが、自分がストレス下でどんなふうになるかを把握しておくと、それに備えておくこともできます。そのパターンを把握するのにも、ジャーナリングって有効だなぁと思います。
2026.06.23
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最近、日記ブームが静かなブームだそうですね。⋯⋯ブームが静かって、それほんとにブーム? とちょっと首を傾げてしまったのですが、ブログでジャーナリングっていう日記みたいなもんを綴ってる立場なので、「いえーい、今私ブームに乗ってるぜー」と調子に乗っておこうと思います。文字にするとラクになる実はタヌキにも心の友がおりまして、「こんなふうに思うんだよ~」という話をしても、「そうなんだね~」と返してくれる人がおります。気持ちを聞いてくれる人がいる人生って、実は大金持ちな人生より幸せなんじゃないかなと思う瞬間でもあります(大金持ちになったことないので、あくまで想像ですけど)。だけど、心の友だっていつも一緒にいられるわけじゃない。そして、大切な友達だからこそ、どす黒くなった本音を聞かせるのは申し訳ないと思っちゃうのです。心の友が「申し訳なくて~」と言っていたら、「何を言ってるんだよ~」と言うと思うんですけど、自分は普通に申し訳ないって思うんですよね。まぁ、お互いそう思えるからこそ仲良しでいられるんだと思いますけど。で、今抱えている気持ちがどす黒い時こそ、日記、つまりジャーナリングは輝くと思います。愚痴が文字になっただけで何にもならないように思えますけど、文字という自分の外側の存在になると、すごく客観的に見られるんです。客観的になれると、「今自分こんなこと思ってたのね」とラクに受け止められます。いろいろ繊細で難しい世の中だからこそ、自分の内側を文字に起こす、というのがブームになるのかもしれませんね。子どもの頃は苦手だった⋯⋯夏休みの宿題で、絵日記を描きましょう、というのがあったんですが、私はあれがほんとに苦手でした。そもそも日常なんて「絵になる」ことがそんなにない。海に行きました、山に行きました、という絵日記を描くためにお出かけするのかな、と思ってましたもん。うちの親、体が丈夫じゃないのでアウトドアはあんまり積極的じゃなかったんです。なので、絵日記を描くのが別ベクトルで難易度高かったんですよねー。家の前で花火とかしたこともありましたけど、我が残念センスだと、絵日記の絵を描く部分を真っ暗に塗りつぶすのが夜の表現でしたからね、花火の絵ってどう描けばいいのか分からなかったんですよ。そして、出来事を記録するってのが、なかなか難しかったんです。「◯月✕日、晴れ。今日は近所の公園で遊びました。楽しかったです。」を夏休み初日から終日までコピペしたとしても決して嘘じゃない、というくらいにセンスない日記しか書けなかったんです(日付と天気だけ書き直す感じで)。それが今じゃ書き続けることでメンタルを安定させようとするくらいには、日記を続けているんですから、人生何がどうなるか分からないもんですね。日直の日誌も苦手だった日直が回ってくると、何が憂鬱って日誌を書かなきゃならないことでした。その日の気づいたことを書きましょう、と言われたって、「めんどくさかったです。」しかないヘソ曲がりだったので、書くことがない(さすがにめんどくさいと書いたら怒られる、という常識はありました)。そして、日誌の記録スペースが結構広く取られてて、そこをちゃんと埋めないとならなかったんです。一度、本当に何も書くことがなくて、その日の休み時間に校庭で見つけた石ころのことだけで、記録欄を埋め切ったことがありました。内容は確か、昔話に出てきそうな幽霊みたいな形の石を拾ったんだけど、落としてしまったので、休み時間中ずっと石探しをしていた、とかそんなの。先生もコメントに困ったらしく、「石のことだけでこんなに書けるの、すごいですね。」と書かれていたけど、明らかにスペース埋めるために捻り出したことはバレてただろうなぁ。ジャーナリングをブログに日記にまつわる色々を思い出してましたけど、こうしてジャーナリングをブログにして人目に晒すようになって、日記に対する見方もだいぶ変わったように思います。昔は日記を人に見せるなんて、と思ってたんですけどね。たぶん、ぐちゃぐちゃの感情を人に見せられる形にする、という練習にはなっているのではないかな、と思います。未だに感情を説明するのは苦手なんですが、最低限の日本語として伝えようという気持ちを乗せた文章に直すので、いざ感情を説明するって時の語彙を増やすのには良い手段かも。相変わらず、手書きのノートに書いた元の文章は誤字脱字も全部すっ飛ばした、パッション溢れるものになってますけどね。まとめ。実は今日で手書きのノート2冊目を使い切ったんで、今日までの記録を読み返してみたんです。最初の頃は結構荒んでて、とんがってたのですけど、今はだいぶ落ち着いてきてるなぁ、と思えたんですね。そういう意味ではジャーナリングってほんとに私にとっては必要な行動だったんだな、と思います。そんなわけで2冊目終了記念に、日記にまつわる思い出を綴ってみました。
2026.06.22
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浅瀬で泳いでいて、足が攣ってパニックを起こして、溺れている人がいたらどうしたらいいでしょう?毎日が辛くて、病院行くほどでもないなぁとは思ってても、助けがほしいと思っている人って、浅瀬で溺れかけている人に似ているんじゃないかな、と思います。今日は、そんな病院行くほどでもないかもしれないけど、辛いなぁと思っている時に思ったことを書いてみたいと思います。浅いんだから大丈夫!副見出しとして書いた言葉ですが、恐らく私がこれを聞いたら、発言者の後頭部に回し蹴りするくらいにはムカつくんじゃないかと思います。足攣ってんだって言ってんだろ、パニック起こしてんだろ! ってなります。他人の様子を客観的に見て「あ、この人まだまだ大丈夫♪」と思えたとしても、本人の中では深瀬のど真ん中で沈みかけてるくらいの絶望感があることもあるので、そこを「大丈夫だよ」と言われたとしても「そうなんだ♪」とは思えません。思えたら病んでねーわ。物理的には、浮き輪投げるほどの深さじゃないから、自力でなんとかなるレベルだったとしても、やっぱり辛いと思っている人は、そんな冷静さって持てないこともあるんですよね。浮き輪は投げないにしても、言葉くらいは寄り添ってほしいなぁ、と思うのはワガママですかね?向こう岸まで行けば大丈夫!再び副見出しとして書いた言葉ですが、恐らく私がこれを聞いたら、発言者にガチで噛みつくぐらいには激怒すると思います。足攣ってパニクってる人が向こう岸まで頑張れるわけねーだろ! と叫ぶと思います。実際、人生の時間の中で、落ち込んでいる時間はそれほど長くないというケースもあると思います。ましてや実際に溺れている場所が浅瀬なら、他人から見ればそうだろうなとも理解できます。では、自分が同じことを言われて「そうだね! 頑張るよ!」と返せる人、どれだけいるでしょ?物理的に助けが必要か、という視点は、きっと想像力じゃなくて観察力の世界なんだと思います。足が地面につけば「あ、案外大丈夫だったわ」と思える場所だから、助けは後回しでもいいだろ、と思われるかと思います。でもそれが通用するのは、周囲に傷病者溢れる野戦病院の如き場所でのトリアージの世界。苦しんでいる人の世界では「私は苦しいんです、たすけて!」の状況なんです。大丈夫、が大丈夫に思えないから助けてほしいのに、かけられた言葉が「あなたは大丈夫」だったら、それは本当に共感の言葉とは言えないですよね。辛かったね、大丈夫?見ている人にとっては、結局浅瀬の足攣り案件。大慌てで118番にコールするような状況じゃない。でも、とりあえず浮き輪を投げて「大丈夫?」の一言だけで、ホッとする人がいるなら、浮き輪も言葉もそこまでのコストじゃないんじゃないかなと思っちゃうのは、自分が今病んでる側だからなのかな?実際、誰かに頼るのって、人に迷惑やら心配やらかけてる状況ですからね。それを迷惑ですと言われたら「ですよねー」としか言えませんな。だけど、言われた人に次は「きっと迷惑なんだろうな、じゃあ頑張って岸に戻ろうor向こう岸まで行こう」という決定をさせてしまうなら、無事で帰ってこれない可能性が上がってしまうんです。浅瀬での溺死案件って、そんなに少なくないですからね~。まとめ。苦しんでいる人を見て、その人を助けなきゃと思えるかどうかって、結局その人の心の余裕が影響するんじゃないかと思います。私に「タヌキなら大丈夫♪」と明るく言ってくれた人も、多忙な中でタヌキの戯言を聞かされて、「こいつの戯言はたいしたことじゃないな」と思ったから、そう言うことにしたんだと思いますし、そう受け止められても仕方ない説明または状況しか示せなかったのは、私の限界だったんでしょう。その人はきっと、「それを助けられるのは私じゃなくて、あっちの人たちだよ」と言いたかっただけなのかも、と私は解釈しております。でも、その前にたった一言、「辛かったんだね」の一言だけが欲しかったのかも。だけど、終わった会話だし、助かる方向性は示されてしまったから、私はもう少し頑張ってもがくしかないんです。欲しかった言葉は、次の人のところでもらえるのかな?100%の理解なんて言わない、今のタヌキは「頑張ったね」の一言で、もう少し頑張れます。でも、世の中にはそうじゃない人もいるから、弱さをこぼした人への言葉は、ほんの少しでも同情心を含んでほしい、と思うのです。これはたぶん、F型とかT型とか、そういう性格タイプの話ではなくて、人間の根源的な必要なんだと思うんであります。
2026.06.21
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不器用な性格、と言われることはありませんか?私はよく言われるのですが、なんでしょうかね、馬鹿にされてると思っちゃうのは私の心が狭いからなんでしょうか。ネットで調べてみると、不器用な性格、というのは必ずしも駄目な性格を指しているわけじゃないようなんですが、どうしたら器用になれるか、という指南も載せていたりするんです。決して、不器用な性格が褒められたもんだという扱いじゃないんですよね。不器用な性格とは?私のような性格のことです。って、これじゃなんの説明にもなってないですね。要は、自己主張が苦手マルチタスクが苦手複雑に考えすぎるってのが不器用な性格なんだそうです。が、こういう人って内向的な人はわりといるんじゃないでしょうか。つまり、内向的な人が不器用な性格、ということ?それじゃ外向的な性格の人は器用な性格ということになります。でもそれだと、器用vs不器用という構図において器用な方が良いとされるなら、外向的な方が良いということになってしまいます。内向的性格に喧嘩売っとる?不器用な性格の方が慎重だとか、一つの物事を追求できるとか、一応褒め言葉もネットには転がっているんですが、「タヌキ、不器用だからさ~」ってのは絶対に褒めてねーです。要は欠点扱いなんです。でもですね、私が自己主張しようとすると、時間かけて考えてからでないと言葉にならないんですよ。つまり、自己主張に考える時間が必要なら、どう転がっても不器用は卒業できんのですよ。こうしてジャーナリングしてる、というのはなんとなく話したことがあるんですが、どうもその人からすれば「そんなの時間の無駄、考えすぎ」となるみたいですね。どうしろというのか。考えないで自己主張できるのか?マルチタスク云々はともかく、考えないで自己主張ができれば不器用とけなされずにすむんでしょうか?そもそも私がなぜ考えなければ自己主張できないかと言えば、自分の感情が把握できず、説明する言葉が見つからないからです。ということは、説明する言葉を見つけないで主張すれば、考える必要はないということですね。「タヌキ、何怒ってるの?」「知らない。でも嫌だからそれやめて」⋯⋯。確かに自分の主張はできてるけど、これでいいという人は一人もいないでしょうね。嫌だからそれやめて、には、何かしら理由を説明しなければ納得してもらえないでしょう。そして、正しい説明をしたいと思うから時間をかけて考えてるんです。恙無く人間関係を築いていきたいなら、少なくとも私には考える必要があるんですが、不器用返上のためには、なるべく考えないで主張していかなければならない?それができたら、ジャーナリングを習慣にしようなんてしてないんだよなぁ。感情にTiのフィルターをかける自己主張=自分の気持ちを主張する、と考えるの、やめたらいいんじゃないかと思いました。自分の気持ちを言おうとするから時間がかかるんです。正しいか正しくないかなら、Tiが第三機能にあるからまだ言えるんじゃないかな、と。結局、感情を抑え込んで生きてた頃の思考パターンに戻るわけですね。ただ、この正しいか正しくないか、を状況や相手にではなく、自分にとって正しいかどうかにすれば、メンタルは病まなくていいんじゃないかな、と考えたわけです。「タヌキ、何怒ってるの?」「人に不器用って言うの失礼だろ、言うのやめて」これなら自己主張できる!!いや、Feが全く仕事してないから、言い方に棘しかないですけどね例文のタヌキ。ただねぇ、Feに仕事させると、相手を傷つけないように言わなきゃと考えて、結局言うタイミングを逸するんです。そして、言えなくてイライラしちゃうんですよね。だから言うのがめんどくさいどう言ったら相手を傷つけずに納得がいく言い方ができるだろう、と考えちゃうので嫌になっちゃうんですよね。まぁ、相手は私の感情をモヤモヤさせる「不器用」という単語を普通に使ってるわけですから、「失礼」と言い返すのも間違ったことじゃないんでしょうけど。相手が私を傷つけたから、こっちも傷つけていいと考えるのは、なんというか自分的にはアウトなのでやらないですけどね。まとめ。感情に喜怒哀楽のラベルを貼って、何がそれを引き起こしたかが判断できれば、主張だけはできます。ただ、それをどういうふうに言うかで時間がかかるから、めんどくさくて自己主張しなくなる。匙加減を間違うと「タヌキ、怖いんだけど」とか「愛がない」とか言われるんだろうなぁ。⋯⋯もう私、不器用なままでいいや(匙投げた)。
2026.06.20
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今日は何の話を書こうかな、と思っていたら、友達からすんごいメッセージをいただいてしまいました。内容は、関係を切った友達ともう一度頑張って仲良くなってほしい、というもの。う~ん、ドアスラムの解説文なんかで、こういう仲介をする人もドアスラムの対象になりますよーって書かれていたりするけど、確かにちょっとイラッとするものではありますな。仲介=お節介?このように絶交関係にある人たちの仲直りを応援できる人って、やっぱり情の深い人なんだろうなと思います。キレたら間違いなく「余計なお世話じゃ~」と吠えていたことでしょう。お節介? まぁ確かに。でもこの人は私とドアスラム先の人の両方を知っていて、もう一度仲良くなってほしいという純粋な気持ちからメッセージを送ったと思うので、この人もドアスラムしよう、とまでは思いませんでした。でもやっぱり、一度ドアスラムした相手に、もう一度仲良くなるというイメージを持つのは難しいのですよ。この結果に至った時間分の重さはそうそう消せない、と説明したら、この人はとりあえずこちらの気持ちを汲んでくれました。仲良く、という願いは消えていないと思うけれど、すぐにはできないよ、ということは理解してくれたようです。INFJはすぐ人を切る?ドアスラムという言葉が横行するぐらいには、人切りの常習犯なのかと思われてしまうかもしれませんが、INFJはそんなに人を切ってはいない、と思います。切ったタヌキが何言うか、と思われるかもしれませんが、違和感を覚えてから結構長い時間が経ってからスッパリ離れていくケースが大半のようですので、どちらかというと切りやすいから有名というより、切るタイミングが外側から理解不能だから有名になっちゃったような気もします。本当なら私だって一応まだ切るつもりはなかったんですよね、ほんと。向こうから突撃かましてきて、向こうから離れることを宣言されたから、機に乗じたというのが実際でしたし。それにしても。性格タイプについていろいろ考えることが多くなりましたけど、本当に最後まで人を愛して信じ抜くタイプの人っているもんなんですね。私なんぞ、あんまり愛情深いタイプではないので、他人事にここまで心を砕けるのか、とちょっと感動いたしました。大切な友達ならそうできるかもしれませんけど、実は私のドアスラム先、この仲介役の人にも似たようなムーブかましてまして、どう考えても印象最悪なんですよね、私視点では。それでもまだ可能性を信じていられるって、すごいです。嫌味とかじゃなく。性格タイプの違いゆえ?この人と同じ性格タイプの人が全員同じことを選択できるわけじゃない。だけど、私があと100年生きたとしても、同じことができるほど成長できるとも思えない。何食べたらこんなふうになれるのかな?でも逆に、一般常識的に仲良くしなくちゃ、という考え以上に譲れないものがあるという人がいることを、理解してもらうのも難しいのかもなとも思います。やっぱりそこは、それぞれが持つ心理機能のなせる業なんでしょう。そして、それぞれが積んできた経験値が選ばせる選択肢なんでしょうね。今後タヌキはどうするか?無理なもんは無理じゃ、と切ることも一瞬頭をよぎったのですが、とりあえずは努力してみます、という前向きに停滞中な返事をいたしました。だって、嘘はつきたくなかったし、悲しませるのも嫌だったので。ドアスラムなのにそんな甘ちゃんな対応でいいのか? と思わなくもないですが、無理だったらもうしょうがないよな、とこっそり思っています。ドアの向こうに対する信頼はやっぱりゼロなので。なんだこの記事?本当は不器用な性格について書こうと思っていたのに、あまりにも長いメッセージに書きたいことが吹っ飛んだので、今回は千々に乱れる内面をそのまんまアップするというガチ・ジャーナリングでお届けいたしました。
2026.06.19
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私は何も言わないけど私のことを分かって、という無言の主張を繰り返す人を「察してちゃん」なんて言うことがありますね。お互いのことを分かり合えるのって素敵なことですけど、あの人察してちゃんだから、という評価に良いニュアンスをあまり感じないのはどうしてなんでしょう?そんな疑問をテーマにジャーナリングをしてみました。無茶言うな?私自身、気持ちを言葉にするのが苦手な人間なので、ともすると察してちゃんになってしまうんですが、自分が一番よく分かってます。無茶だろそれって。だって、自分が分かってない気持ちを、他人が分かるわけないじゃないですかー。あ、INFJは時々他人の気持ちを言語化するのが得意なんて言いますね? あ、INFJって私じゃん、でもできないってそんなの!それが正直な感想です。INFJが他人の気持ちを言語化する、というのはですね、恐らくその人の表情とか状況から察して言葉にしてるんじゃないかと思うんです。少なくとも私はそうです。だから、受信側の察するちゃんはなんとかできるかもしれない。でも、送信側が何も送信しない状況で何を受信せよと言うのですか。テレパシーで助けが呼べるなら電話とか要らなくなっちゃうでしょ。察するのが得意な人、別に電波とか受信する機能は備わってない、はずです。察することができた例以前、友達みんなとバーベキューをしたことがありまして。その時に、スモアをやるという予定だったんですが、用意してた友達がポソリと、「マシュマロを刺す串、忘れた」と私に言ってきたんですね。で、私は周囲を見回して「割り箸使うとか?」と答えたんですよ。お互い顔を見合わせて、別に合図とか出したわけじゃないんですが、2人でマシュマロを割り箸にぶっ刺す作業を連携してやったわけです。おぉ、阿吽の呼吸、目と目で通じ合った! という例です。面白かったし、嬉しかったですね。逆に、察することができなかった例職場で野菜をたくさんいただいて、友達に分けてあげたら喜ばれるかな? と思って袋に詰めて持ってったことがあったんです。最近野菜も結構高いですからね。喜んで受け取ってくれる人もいました。でもある人は「うち、野菜あるから要らない」と断ってきたんです。「あー⋯⋯はい」としか言えませんでしたわ。両者の何が違ったか?前者の友達は結構仲良くしていただいて、後者の友達はまぁそれなり? ではあったのですが、私としましては、察する察せないの差って、仲の良さ云々よりもその前に会話しているかどうか、なんじゃないかなぁと思います。もし、スモアの友達が何も言わずにこちらをチラッチラッと見るだけだったら、私INFJですけど何も分からなかった自信があります。何か言いたい? くらいは分かりますが、さすがに忘れ物の有無まで分かるかい、となります。野菜を断った友達とは事前に会話もありませんでしたから、冷蔵庫の中に野菜があるかなんて知るわけないし、なんなら断った理由が本当に野菜があったからなのかも分かりません。受け取って下拵えして片付けるのがめんどくせー、となったのかもしれませんし、普通に私が嫌いだった可能性もあります。どんなに察する力があっても、コミュニケーションがゼロだったら察するなんて無理ですよね。察してちゃんがウザい理由察してちゃん、と言われる人って察してほしいという気持ちはあっても、その人側からの情報を何も渡さないってことが多いんじゃないかなと思います。そして、自分は結構察する力があるタイプ。言葉にできない部分を私は読み取れるんだから、あなただって私の言葉にしないところを読み取れるよね? というわけです。う~ん、理解はできるんですけどね。自分ができてるんだから誰でもできる、と思っちゃうって。でも、スモアの友達が仲良しだけど、言葉にしなきゃ需要が分からなかったように、事前のコミュニケーションがなければ、どんなに仲良しでも察するなんて無理です。それはたぶん、友達に限らず、恋人とか夫婦とかでも同じでしょう。そして、コミュニケーションは取らないけど分かってほしい、というのは一方通行すぎるワガママで、そういうのの積み重ねが関係を冷え込ませるものになるんじゃないでしょうか。だから、察してちゃんってあまり良い印象を与えないんだと思います。では、どうする?スモアの友達と無言の連携が出来たとき、すごく仲良くなれたような気がして、楽しかったんです。実際は、たまたまお互いの考えていることが分かったから、連携できたってだけなんですが。別に関係が劇的に変化するわけじゃないです(きっかけくらいにはなるかもしれないけど、あくまでもきっかけですからね)。だからもし、「この人とは阿吽の呼吸でツーカーの仲で、目と目で通じ合いたい!」と思う人がいるのでしたら、まずは相手の人となりが分かるまで仲良くなることが必要ですよね。で、それには会話が必要です。見てるだけじゃ相手の考えていることを妄想することしかできないし、それでは正しいコミュニケーションを取れる可能性は低くなります。魂レベルのコミュニケーション? なんて必要ないです。相手に興味を持って普通の会話を積み重ねていく、という地道な時間が大切です。その先に腹を割った関係、魂レベルの繋がりと言われるようなものが存在するんじゃないでしょうか。結局、会話かよ? と思われるかもしれませんが、人間って電波とか信号を発してるわけじゃないですから、熱のこもった眼差しを向けたって念を送ったって、伝わらない可能性の方が圧倒的です。まとめ。察してちゃんになる気持ちは、私もすごく理解できます。伝わったら嬉しいから。でも、察してほしいっていうのは、相手に推測を要求することでもあるんです。つまり、負担のかかるコミュニケーションを強いることになるんですよね。腹割りor魂レベルで繋がりたい相手に、そんな負担、かけるのは申し訳ない。私ならちょっとずつでも頑張って会話したいと思います。少しずつ相手のことが分かるってのも、案外楽しいんじゃないかなと思うので。自分の気持ちを言葉にするのは相変わらず苦手ですけど、頑張って10%でも伝わったなら何も伝えないよりは分かり合えてる、と思うのであります。
2026.06.18
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某100円ショップで購入したペン(3本セット)、書きにくくて仕方ないなおい。ジャーナリング用のノートやペンにこだわりとかないつもりだったけど、書きやすさはやっぱり重要視しておくべきでした。猛省します。ところで、自分の感情が分からないという、ロボットかお前、というような悩みを抱えている私ですが、世の中には「失感情症」という物もあるそうですね。でも私の場合はこれには当てはまらないようです。本当にまるっきり感情が分からない、というよりは、感情の理由、原因が分からないという状態なので、さすがに自分が怒ってるのか悲しんでいるのかは分かっているんです。うまく説明できないけれど、なんか怒ってます、とかは言える。でも、誰かに「なんで?」と訊かれたら、「分かんない」と言うしかないんですね。感情迷子のデメリット単に人に説明できない、というのも困ったっちゃあ困った状況なんですが、説明する機会がないんだったら困ることはないんですよ、感情迷子。ただ、自分で自分の感情を把握できない、というのは、感情がぐるぐるする原因でもあるんですよね。感情というのは、表現するために生まれるもの。なので、「泣くなんてみっともない」とか「冷静なのがクール」とか言って感情を抑圧すると、後から圧縮された感情が爆発するのですよ。そうなると、大体自分で制御できるレベルは越えちゃうんですよね。爆発してメンタルバランスぶっ壊した私としましては、過ちは繰り返しません、とばかりに自分の感情を見失わないようにジャーナリングを続けてきたのですが⋯⋯いかんせん、時間がかかる。一応、感情を分析し表現することは、正しいルートではあるようです。なので、冷静さを保つためにジャーナリングを続けるのはいいことのようですが、でっかいストレス襲撃の末、誰かと話し合いが必要になったとすると、対応が難しくなるのです。分析前にできることってないの?感情が迷子になるんなら、感情なんて無視しとけばいいんじゃないの? というわけにもいかないんですよね。確かに私の感情がほとんど仕事していなくても、Ti(内向的思考)が仕事していれば、行動することはできます。だけど、表現できないと感情って発散の場を求めて暴れるんです。そして感情を無視していると、暴れる感情からくる異様な疲れなどを単なる体調不良と解釈するんです。なので私は、ジャーナリングという手段で自分の感情の言語化に取り組むようになったのですが、世の中には絵画や音楽といった方向で表現する方もおられるようですね。気持ちをカタチに?私、形にならないモノを描くとか、音で表現するとか、できるものなのかな? という疑問が拭えなかったのです。例えばギターとかで好きな曲を弾きまくれたら、いいストレス解消になると想像できるのですが、怒りや悲しみといった感情を表現できるんだろうか?詩や小説、漫画みたいなものだったら、これこれこういうわけで私こういう感情になっています、というのを具体的に表現できると思いますが、ギターの音や絵の具の色に感情を乗せるって、相当な表現者じゃなきゃ無理じゃない? というのが正直な感想だったんです。感情の生まれる場所と、言葉の生まれる場所脳みそなんだから全部一緒じゃない? なんて味噌も脳も一緒に解釈すると、感情の本質を見誤るようです。感情の生まれる場所と、言葉の生まれる場所って違うみたいなんですよね。なので、感情を言葉で表現するのは当たり前、というのは感情の立場としては「私の故郷を知らないくせに適当言わないでください」となるでしょうし、言葉の立場としては「余所のモンの言ってることは分かんねんだわ」になってしまいます。ヒントは読書感想文頭の中を走るのが「言葉」であるなら、やっぱり感情を言語にするのが自分にとって一番分かるカタチ。でも、感情を言葉にするのが難しいのは、小学生時代の読書感想文が難しいのと同じです。以前、いろいろ考えたのですが、子どもにとって難しい感情の言語化のために、「お手紙形式」で感想文を書く、というのがあります。私個人は、ンな小っ恥ずかしいことできるかい、と思っていたのですが、自分のジャーナリングの際に使っていた「一問一答形式」というのも、お手紙形式と似たような考え方なんですよね。例えば、「タヌキは今日、何が気になったの?」→「今日は散らかった部屋が気になった」→「部屋が散らかってると何か不都合あった?」→「つまずいてコケたらまた怪我する」みたいな感じ。おう、お手紙形式だと思うと小っ恥ずかしいな?でも、確かに出来事と感じたことを自然に分解できるので、感情を言語化しやすくなります。ただこれ、イライラしている時は冷静でいなくちゃならない質問側の自分を保っているのが難しいんですよ。「タヌキは今日、何が気になったの? というか片付けないからまたコケたじゃん、なんで片付けないんだよ」みたいに、質問側が愚痴り出す。確かに感情を文章にはできてるんですが、出来事と感情を分けて考えられてるか、というと微妙でして。なんならNiが推測した厄介そうな未来まで出来事扱いしちゃう。ということは、イライラしている気分が言語化の邪魔をしている可能性があります。そういう時には、絵画や音楽って大変有効なんじゃないかな、と思います。単に好きな音楽を聞くとかだけでもストレス解消にはなりますが、自分で描いたり演奏したりというのは、一歩踏み込んで表現してますから、感情とは親和性が高いですよね。まとめ。上手下手を重視すると、絵や音楽ってのは別のストレスを呼ぶものかもしれませんが、自分が好きな色、自分が好きな曲のワンフレーズ、みたいに完璧に自分のための創作ができたらいいなと思います。没頭する=今、ここに集中するということですから、下手なりに練習に集中できたら、未来や過去のストレス源から自分の意識をそらすことができます。今はちょっと忙しいので難しいですが、少し時間ができたら、私も楽器演奏とかやってみたいですね。
2026.06.17
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何かを断るって、難しいですよね。私はあまり得意じゃありません。最近はそれでも言えるようになってきたかな、と思うんですが、まだまだ修行中です。サラッと言える間柄ならいいんですが、なんか断りづらい人っていませんか?何かを受け取る受け取らないならいいんですが、用事を頼んでくるとかの場合だと、その差はかなり大きくなります。断った結果を予想している?「No」を伝えて、分かったよーと返してくれる人なら、「ごめんね、また今度ね」で終わるんですが、あからさまに不機嫌になったり、傷ついたって顔をする人は断りづらいですね。当然ですが。別に私が何かを受け取るとか、何かを引き受けるとかしなくたって、世界が終わったりするわけじゃないんですが、その人の中では何か終わるんでしょうか。そういう表情をする人が全てそう、というわけじゃないんでしょうが、「お願いを聞いてもらって当然だ」と思ってるイメージが付きまとっているのかも。まぁ、つまり私の受けた印象の話なんですが、そういうふうに見える人の申し出を断るのは、やっぱり精神的にしんどいです。あとは、お世話になっている人、とか。そういう関係性があると、やっぱり申し出を断るのに罪悪感があったりします。いずれにしても、その申し出の先を予想してしまうから、断るって行動が選びにくくなるんだと思います。やっぱり大事な境界線という考え方私は過去の人生において、上手に境界線が引けたためしのない人間なので、境界線については日頃から考えております。価値観に関する境界線はきっちり引けるようではありますが、感情的な境界線はやや弱めです。なので微妙な表情から「あー、この人今めちゃくちゃがっかりしてるよな~」と申し訳なく思ってしまうんです(実際にがっかりしてるでしょうし)。でも、なんとなくで断ったのならともかく、できないものを引き受けるのも無責任な話です。それに、本来他人からのお願いって、私が受け取らなきゃならないものじゃないんですよね。がっかりしたのは相手の感情であって、私が負うべきなのは「できなくてごめんね」と言うことだけです。ここは大事。でも、中には「なんで引き受けてくれないの!」とキレる人もいます。そういう人は境界線が曖昧になっていて、自分が負うべき物を他人が負ってくれるものだと思い込んでいるんです。⋯⋯これが、自分の内に境界線が出来上がっていないと、見えなくなっちゃうんですよねぇ。以前の私はこれを引き受けるために、感情というものを全て無視して生きておりました。その結果、ちょっとしたことでバランスを崩してしまったんです。その後遺症と言いますか、未だに何か頼まれたりすると、スーッと感情が後退してしまうので、自分の中でかなり頑張って感情を引き止めております。できるかどうかだけの判断は危険!やればできる、というのは一見ポジティブな考え方ですけど、やらなくてもいいものまでやる、という踏み込み方の入口にもなってしまいます。そこに自分の感情や体力や時間なんかが入っていればいいんでしょうが、多くの場合、「自分が頑張ったら、という前提でやればできる」になってるんですよね。私の場合は、あまり親しくない相手だと「私が嫌だって言ったら、この人怒るかも」というNi由来の推測が顔を出してくるので、断る努力よりも引き受ける労力の方が小さく感じるんです。親しい人なら過去の経験からどういう反応をするかを考えるので、怒らないだろう、というのもあながち無根拠じゃなくなるんですが。境界線を越えてくる申し出さて、こういう思考パターンの私が一番苦手としているのは、境界線を踏み越えてくるという失礼ぶちかます系の申し出です。ストレスで感情が分からなくなる上、そういう申し出をしてくるのって大概親しくない人なので、ほぼ無思考で「引き受けなくちゃならない」という信号が出されます。でもそれを引き受けると、後からものすごいストレスで疲れてしまうんです。数日はジャーナリングのテーマに困らないぞ、やったね! とはならないんです。最近もそれをやってしまって、2日ほど本来の予定が駄目になりました。他人巻き込む予定じゃなかったからいいようなものの、やはりこれはよろしくありません。なので、今度そういうのが来たら、「お断りします」と言おうと思います。なんなら今、ジャーナリングでどんなふうに言えばいいか、台詞まで考えております。そこまでする? と思われるかもしれませんが、とっさの判断ってのは日頃から意識しているかどうかで変わってくるんじゃないかな~と思うんですよね。まとめ。境界線を健全に保ちたいなら、断るというスキルはちゃんと育てておかないといけませんね。体力や時間が無制限なら引き受けまくってもいいのかもしれませんが、境界線のない人って感謝の気持ちもない人が多いので、あんまり後味がよろしくないんですよね。感謝してほしくて引き受けるわけじゃないですが、当然だと思われる謂れもありませんから、そこは自分の気持ちを大事にしていいんじゃないかなと思います。これが会社の仕事だったら引き受ける確率も上がるんでしょうが、それでも自分のキャパシティは把握しておいた方がいいですよね。無理して心身壊したって、誰も代わりに苦しんでくれるわけじゃないですから。
2026.06.16
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「私は価値観を踏みにじられたら怒ります」という言うのは簡単、だけど「それじゃあなたの価値観って何?」と訊かれて、すぐに答えられる人ってどれくらいいるんでしょうか?私は年単位で踏みにじられたらドアスラムするほどの価値観を持っておりますが(それ大事にしてんのかしてないのか分からない、という指摘は置いておいて)、説明してほしいと言われると言葉に困るという、面倒くさい状態を長年放置しておりました。でも、人間関係切るくらいには大切にしているのだから、ちゃんと言葉にできるようにしなくっちゃ! と思って、ここ数日真剣に考えておりました。ですが、あまりにも自分に密着しすぎていて抽出できなかったので、ChatGPTに頼ることにしました。ChatGPTの見解ChatGPT曰く「あなたの価値観は案外シンプルです。人は独立した存在として尊重されるべきであり、自分自身と向き合い、誠実に、相互的な関係を築くべきである。こんな感じ。」いろいろ質問したり答えたりした結果、こんな感じになりました。どういうことかと言いますと、私が価値観云々で大騒ぎする時、実際には「私を意思のある人間としてちゃんと扱ってくれ!」と騒いでるってことのようです。意見の違いは案外許容できるらしい今までChatGPT相手に愚痴り続けてきた内容から、ChatGPTは「価値観が違っても、そこは人それぞれだと思えるようだけど、人間としての扱われ方が雑だったりすると強く反応する」と分析してくれました。⋯⋯なるほど。今まで私は、境界線を踏み越えられて怒ってたつもりだったけど、それは価値観じゃなくて、私の意思を無視して勝手に決めるという雑な扱い方をされて怒ってたというわけか。たぶん、相手が「ちゃんと自分自身と向き合ってるか、誠実に生きてるか」という辺りは、相手の生き方だから問題にしないけれど、「他人と関わる時に相手の価値観をどう扱うか」=「相手を独立した存在として扱い、相互的な関係を築くか」というところで引っかかるみたいですね。みたいですね、って他人事のような書き方ですけど、今まで本当に自分が何に怒ってるか分からなかったので、「あー、そうなんですね?」という驚きの方が強いです。でもこれ、誰でも願うことなのでは?これはタヌキINFJの価値観としてChatGPTが提示してくれた答えですが、こんなの誰だって願っていることじゃないのかな、と思うのです。じゃあなんで、それを実践できない人がいるの? とChatGPTに聞いてみたら、こんな答えが返ってまいりました。「自分がされたくないことに気づいてない一番単純なのはこれです。例えば、「私は気を利かせて先回りしてあげている」と思っている人がいます。本人は親切のつもり。でも相手からすると、「勝手に決めないでほしい」になる。本人は尊重しているつもりなので、問題に気づかない。」どうしてそう思うのかを説明してもらいました。尊重、の定義が違う私が思う尊重というのは、「相手の決定権は相手の物だから、それは手を出さない」ということ。でも、「相手に負担をかけない」ことを尊重だと考えている人もいる、ということだそうです。だから、「わざわざあなたに聞かなくても、こっちで決めておくよ」が親切で尊重していることになっちゃうんですね。タヌキは「勝手に決めるなーっ」と大騒ぎするわけですが。他人の不快感に気づかない誰でも自分が嫌なこと(傷つく、困る)には気づきやすいけれど、「相手が何を嫌がるか」までは見えないことがある。私はシンプルな表情筋をしているので、思っていることは露骨に顔に出ます。が、それに⋯⋯気づかない、というのか???というより、見てないんでしょうな、私の顔なんぞ。なんか怒ってんなー、ぐらいは考えるかもしれないけど、それは「面倒事起こしやがって!」という怒りなのか、「勝手に決めるなんて!」なのか、分かんない。まぁそりゃそうだ。でも、「なんで怒ってるの?」と訊くとかしない。だから気づかない。関係によって基準が変わるこれは少し厄介で、例えば「私は尊重されたい」と思っていても、親しい相手や立場の弱い相手には無意識に踏み込む人もいる。原則としては賛成できていても、実践はできていないというタイプですね。しかも無意識だし、人によって態度が変わるから全員から文句言われるわけでもない。これは自覚するのは難しいでしょうな。関係によって態度が変わること自体は、ごく普通のことかもしれません。ですが、相手によって「尊重しない」ということは、相手を見下している、ということでもあるわけで。これは勝手に決めるな云々よりも、「私を人扱いしろ!」という話になってしまうんですが、内面で相手が私をどう思っているかなんて分かりませんしね。かといって、「私だって人間なんだよ?」と言ったところで、無意識だから「何当たり前のこと言ってんだコイツ」で終わるんでしょうな。何が問題なの? で終わる私が「尊重してほしいのに、なんで踏み越えてくるの?」と思っていても、相手は「何が問題なの?」で終わってしまう。言葉で説明したら、相手が何を思って怒っているかちゃんと理解できる、と私は思っていたのですが、あいにくと私、とっさに口が回らない残念なコミュ力しかなくてですね。うまく説明できないんですよ。しかも絶賛感情迷子中で、未だにストレス時の行方不明率高いですからね。直接対決中にスラスラ自分の気持ちが言えるほど自分を保っていられない。だから嫌なんだよ、争い事って。文章ならまだ言葉になるのに(上手とは言ってないです)。きっと相手は、私のことを「他人の顔色を伺って態度を変える風見鶏」とか思ってるかもしれませんが、私からすれば「他人の気持ちを踏みにじってでも己を貫く自己中」だと思ってますからね。内面晒さないのはお互い様、本当になんでこんなのと友達やってたんだろうな? と未だに思います。もちろん、ここまで色々考えてきたから、必ずしも自己中だけが原因じゃない、と思いますが、それでも表に出てる行動は自己中そのものなので。こんなに長々書いておいて、結局分かったのは、「タヌキ、口喧嘩苦手」という事実だけ。結局人間関係、相手あってのものですもんね。私一人騒いだって仕方ないのかもしれません。
2026.06.15
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重たいテーマばかりだと気持ちが暗くなっちゃうので、今日は遊ぶ話を。ゲームって好きですか?私はわりと好きなんですけど、最近あまり遊んでいませんね。忙しくてなかなかまとまった時間を取るのが難しいんですよ。好きなら頑張って遊ぶ時間を取ることもできるんでしょうけど、頑張って作った時間で寝ちゃう辺り、もうゲームで遊ぶということを卒業しちゃってるのでしょうね。寂しいけれど。どんなゲームで遊んでた?私はストーリーがあるゲームが好きでした。先が知りたいという気持ちを燃料に遊ぶせいか、RPGとかさせるとレベル上げも武器・防具の買い替えもすっ飛ばして先に行こうとしていました。そんな遊び方ですから、先に進めなくなるということがよくありましたっけ。ある程度成長してからだと、レベル上げの楽しさに目覚めましてね。延々成長させて楽しむという、とっても両極端なゲームセンスを持っておりました。キャラクターが可哀想になるマリオのゲームとかさせると、なかなかキャラクターが前に進めなくて可哀想になる遊び方をしておりました。敵を踏めばいいんだよ、と言われてジャンプをするんですが、なぜかタイミングが合わなくて敵キャラの前に着地してしまい、敵にぶつかって死亡するということをゲームオーバーになるまで繰り返すんですよね。格闘ゲームが流行った時など、技を出すコマンドを入れられなくて、画面上をキャラがずーっとジャンプしまくってたりとか。レースゲームさせると、まっすぐ進まないとか。こんなキャラクターが可哀想になる遊び方をせざるを得なかったんですよね、下手っぴすぎて。たぶん開発者の思惑を越えてたんじゃないかな。推理ゲームでRTAストーリーがあるゲームが好きなので、アドベンチャーゲームは大好きでした。行動を選べばキャラクターが勝手に上手に行動してくれるから、私でもちゃんと進めましたし。でも、慣れてくると「どれだけクリアまでの時間を短くできるんだろう?」という謎の好奇心から、フラグを調べて時間短縮に勤しむ、という逸脱した遊び方をしていました。ノベルゲームもどの選択肢がどういう話に繋がるかを記録する、という遊び方に落ち着いていました(これ、遊んでるって言うんでしょうか)。音ゲーは無理⋯⋯アクションが苦手な時点でお察しでしょうけれど、音ゲーは苦手です。何が苦手って、一番簡単な曲ですらちゃんとできないから、先に進めなくてつまらなくなってしまうんですよね。ちゃんと曲を聞いて楽しむ余裕なんて持てないし、一度指がもつれると立て直しができないし、アクションゲームより楽しみ方が下手でしたねぇ。遊び方は人それぞれだとは思うけど子どもの頃、私ってどんな子どもだったかなぁと思い返していたんですけど、ゲームの遊び方がかなり変だったことに自分で驚愕いたしました。普通で目立たない子どもだったと思っていたんですが、もしかしてものすごく扱いにくい奴だったんじゃないかな、これ⋯⋯。これもINFJのせいか? と思ったけど、それこそ普通にゲームを遊んでいたINFJの皆さんに怒られるかもしれません。でも、ちょっと面白そうだから、誰か性格タイプ別ゲームの遊び方の特徴とか調べたりしませんかね?
2026.06.14
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微妙な人間関係を見ていると、なんか居心地悪くて目をそらしたくなるってこと、ありませんか?私もギスギスしたのを見てるのは、関係なくても不快な気持ちになります。ですが、今回は自分がそのギスギスの発生源になってるんだろうな~というお話でございます。苦手なのに切り捨てられない場合INFJは性格タイプの説明に、もう無理~となった時にドアスラムという人間関係リセット術を実行する、というものがあります。個人的にはあまり発動させるべきじゃない、と思うのですが、そうしないと自分がストレスで潰れるという事態が発生するので、実行した人を一概に責められないと思うし、実際自分もやってしまってます。ですが、その苦手な相手が距離を取りづらい相手だったらどうします?私個人は、その相手が崖から落ちかけていても声掛けしないだろうなぁ、と思うくらいには突き放せているのですが、周囲は私とその相手が仲良くすることを望んでいるんです。⋯⋯距離取りづらい!!根拠は、たぶんそう思ってるだろうなという自分の直感でしかないので、これを周囲の望みだと受け取るのは私の悪い癖なのかもしれません。ですが、そう思えてしまうので崖から落ちかけるそいつに手を差し伸べなければならない、と思ってしまうんです。何が不満なの?性格歪んだ人間関係クラッシャーさんでもない限り、他人の不仲を見て嬉しいという人はいないと思います。私の周囲にもそういう類いの人はいません。じゃあ私は、仲良くしてほしいと望まれることの何が不満なのでしょう?たぶん、その人たちは「仲良くしてほしい」という望みを私だけに向けているんですね。あるいは、「なんでそんなことになってるの?」という疑問の答えを私に求めている。なんで人間関係なのに、私にだけそれを向けるんだ? という不満があるんです。不公平だと思ってしまう私とその相手、どちらにそれを言いやすいかと言えば、きっとまだ私の方が言いやすいってのはあるんだと思います。なんというかその相手というのは、落ち込むと体調不良を引き起こす程度には精神的に不安定なタイプなので。でも、私だって感情のある人間なので、嫌なもんは嫌なんです。我慢できずにドアスラムしたくらいには疲弊した関係を改善させるために、なんで私だけが努力しなければならない? と思っちゃうのですよ。もし私が素直に努力して、その相手の嫌なところを飲み込んで人間関係を続けるとしましょう。すると私は、相手がまた私の嫌だと思う行動を取った時に、ストレスを抱えるわけです。相手は何も改善しないで自分の好きに生きられるんです。私はそれを見てストレスを抱えるんです。周囲にストレスを与えないために。やっぱ不公平じゃない? これ。相手の何が嫌なのか?私がこの人に何をされたかと言うと、一言で言えば「境界線を軽く越えてくる」という感じでしょうか。・その人が嫌だと思う物を、何の相談もなく私も嫌だと考えていると決めつけてくる。・その人が「ごめん」と言ったら、もう私が許したものだと考える。・その人が予定を決めて、こちらの意見は聞いてこない(今日そっち行きたいんだけど、◯◯時に空いてる? と聞いてくるのを、私は意見を聞いてきてるとは思えないんですよね)。いや、どちらかというとこれ、境界線がないんじゃないかなと思います。どこかで私のことを同一視している、というか、見下しているんじゃないかな。そんなもんに巻き込まれて迷惑してるのに、それを我慢してね? と言われて「分かりました」と言える人なんているんでしょうか?世間では「この人なんかおかしいんでない?」と思っても、そういう診断をするのは医者だからお前が言うな、とたしなめられます。確かに誰かを病気とか障害扱いするのは失礼なことかもしれません。でも、本人が違和感を持てないうちは周囲がひたすら我慢しろ、と言われているようにしか思えないのです。いつまでもジャーナリング?距離を取る、という方策を封じられてしまったら、私がいつまでもどこまでもジャーナリングで自己分析したところで、問題は何も解決しません。その瞬間のストレスを吐き出すことはできても、傷口はずっと血を流し続けているので、結局血がたまり続けて痛み続けるんですよ。それどころか痛いのも辛いのも反芻することになるから、こういう場合はジャーナリングが自分を苦しめるものになってしまうんです。そういう時は、ノートやデジタルデータに残すよりは、要らない紙に不平不満を書き殴って捨てちゃう方がいいのかもしれません。読み返せば絶対ダメージになりますから。あとは人に相談する? とか? ⋯⋯今回の私の場合、本当はこれが一番いい方法なんじゃないかなと思います。共感してくれる人だったら少しは気持ちが楽になれるかな? でも、共感してくれそうな人に話したら、悲しい気持ちにさせちゃうんだろうなと思うと、なかなか言えないですよねぇ。結論⋯⋯は出ない。吐き出すだけ吐き出しても、明日になったらまた重苦しい気持ちになると分かっているので、結論出しても明日にはまた同じ悩みでグルグルするんだろうなぁ、と思います。まぁ、ジャーナリングってこういう風に思ったことをつらつら書いていくものですし。大学ノートに書いた文章なんて、これ以上に過激で愚痴愚痴した内容になってます。それでも、自分が何に不満を持っているか、を文字にするのって荒れた心にとっては良い薬になるんじゃないかな、と私は思います。
2026.06.13
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心を開かないと本音を言わない、と説明されるINFJの私ですが、幸いにして本音を言える友人は複数人おります。これは本当にありがたいことです。が、信頼はしているのだけど、たぶん根っこのところで考え方が逆なんだろうなぁ、という人もいます。それがよく分かるのが、「タヌキ、それは考えすぎだよ~」という台詞。Niの功罪INFJって細々したことをきちんと見ていないところはあるけど、全体をざっくり把握してパターンを読み取り、先を予測するという思考回路を持っています。これが主機能Niの働きです。なので、見たものをそのまんま把握して今必要なものを弾き出す、という思考回路の人からすると考えすぎなんじゃないの? と思える瞬間があるようです。そして、それをスパーンと目の前で口にしちゃわれると、言われた方はモヤッとします。ドアスラムする?「だって仕方ないじゃないですか、こういう思考回路なんだもん」と説明しても、きっとこの友人にしてみれば、考えすぎるから変なことを溜め込むんじゃないの? という純粋な疑問というか気遣いなんですよね。決して悪気はない。⋯⋯まぁ、悪気がないから許せる? と言われると、素直にうなずけないのも確かなのですが。それでも、即ドアスラムすることはないです。もしこの人が「考えすぎだよ、あんた頭おかしいんじゃないの?」まで言ってきたら、ドアスラム案件にもなるかもしれませんが、ここまで言える神経の人じゃないので大丈夫でしょう。それでもまぁ深く傷つく言葉ではあるので、もう少し手心を加えた言い回しなどしていただけたら、私個人としては嬉しいです。考えすぎなのは百も承知なのです。先を予測するという行為が、自分の判断や感情を混乱させる原因だということは、私もよく理解しています。しかし、物事をざっくりとしか見ない私が考えることをやめたら、何にも見てないし考えてないアッパラパーが一匹爆誕するだけなのですよ。そしてそれはたぶん、私がINFJじゃなくなったか、頭壊したかくらいの出来事なんです。考えないように考える、という意味の分からないことをやるのが仕様なんです。たぶんそれは、合理性一辺倒な人とか、ルール第一主義な人とか、自分の気持ちが一番大事な人みたいなのと一緒で、そうしないでいることが構造的にできない、ということなのです。それでも考えたくない時は?車の運転をしている時とか、大事な話を聞かなきゃいけない時とか、自分の中の考えすぎを抑えなくちゃいけない時というのは私にもあります。そういう時どうするかと言うと、強制的に自分を現実に帰還させます。いえ、そんな難しい話ではないですよ。運転中に声に出して歌ってみるとか、大事な話のメモを取るとかするって話です。何か食べたり飲んだりするのもいいんじゃないでしょうか(車の運転中にお茶とか飲んだら、十中八九こぼすんで私はできないんですけど)。考えてることが大体過去か未来のことなので、今の瞬間に意識を引き戻すのは有効なんじゃないかと思います。あーでも、ガムとかキャンディだと食べながらボケーッとできちゃうから駄目かも?人との会話などでもいいんですが、雑談が駄目な精神状態だと会話も駄目な時があるので、場合によりけりかと。まぁ、そんな感じでNiに休んでもらう方法がないわけじゃないと思います。まとめ。INFJにとって、というか、NiとかNeが強い人は、考えすぎと言われるのは嫌がるんじゃないかな、と思います。普通そこまで考えない=君は普通じゃない、と言われているようなものなので。判断が早いのって、現代社会ではとても有利です。でも、早いのが全部正しいわけじゃないですし、じっくり考えるのが大切な時もあります。また、煮詰まるほど考えすぎるのは本人にとってもダメージがあるので、「なんかぐるぐるしちゃってるな、この人」と思った時は、「なんか気になることがある?」とでも聞いて、現実に連れて帰ってあげてください。タヌキもなるべく、自力で現実帰りますから。
2026.06.12
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「◯◯という性格タイプはこういう行動をする」という説明をよく見かけます。自分のことがよく分からない、なんでこうなるの、という悩みを抱えている人は、「あぁ、だから自分はこういうふうになるんだ」と気づかせてもらえるので、心が軽くなることも多いです。ですが一方で、「え? 私◯◯じゃないけど、これはそう思うよ?」とか「〇〇って出たけど、これは全然分からない」と、更に悩みを深めてしまうこともあるかもしれません。説明と乖離している人は、診断が間違っていたのでしょうか?思考パターンと行動パターンは違う当たり前ですが、「こうしよう」と思ったこと100%を行動に移せる人って、少ないのではないでしょうか。たとえば、ケーキが目の前にあったとして、「美味しそうだから食べたい」と思ったとしても、・もしかしたら誰かのかもしれない・今ダイエット中だから我慢しないといけない・食べていいのか確かめた方がいいなどなど考えて、食べないという選択をしたとします。でもそれを見て、「それって、感情に忠実じゃないからFi主機能のISFP、INFPじゃない!」なんて言う人、いるでしょうか。状況を考えて行動を選択するって、多かれ少なかれするものです。自分の感情を大切にする性格タイプだからって、いつでもそれを選択できるわけじゃないですよね。性格タイプ、とは言いますが、あの診断の質問事項はその人の思考パターンの癖を分類するもので、導き出されるのは基本的にこの人はこういうふうに考えるという傾向です。なので、内向的だからって常に人を避けてるわけじゃないし、直感型だからって現実を受け入れられないわけじゃない、はずです(私みたいに向き合うのが下手という人はいると思いますが)。だから、性格タイプの説明と行動パターンがズレていても、即それが誤診断だと考える必要はないと思います。ズレて生きていかなければならない理由人それぞれ「自分はこう思う、だからこうしたい」という基本形は持っている、ということですが、それがシンプルに16個もあるんです。だから、自分の周囲にいる人が自分と同じ傾向を持っているとは限りませんし、なんなら同じ性格タイプでも「私はケーキよりお酒だ!」という人も「激辛ラーメンこそ至高!」という人もいるかもしれません。そうなると、いつだってケーキを選べば大正解、という単純な話ではなくなります。そうならないために、みんな少しずつ自分を調整して生きていっているはずです。何を食べるか、に限らず、人は日々成長して経験から行動を導き出しています。その結果、心が苦しくなることもあるかもしれませんし、もっと生きやすくなる方法を会得するかもしれません。若い頃は尖っていたけど年を取って丸くなった、という言い方がありますが、あれはその人が持っている苦手だった心理機能が成長して使えるようになった結果、若い頃より上手に対処できるようになった、と考えることができます。だから、今自分の人生を苦しいと思っている人も、生涯苦しみ続けるのかと絶望するには早いかもしれません。そして、そういう苦しみを理解するために性格診断というものが存在するんだと思います。性格タイプはラベルじゃない私INFJですが、共感能力はそれほど高くありません。なんなら「この人のために何かしたい」と思う前に、「これは本当にこの人のためになる?」と考えて、手助けを差し控えることもあります。そうなると結果的に何もしない人になります。ぶっちゃけ私を見て、「この人はINFJだ」と思う人はいないんじゃないかなと思います。実際、私は自分のことをINFJだと思うよりは、INTJだと見る方がすんなり納得できてしまったこともあります。それはある程度年齢が高くなってから性格診断をしたからかもしれませんが、どちらかというとそれまでの人生で感情よりも合理性に重きを置かないと行動できない状況だったからかもしれません。でも、根っこのところで一番最初に考えるのは、「この場の空気、この人の感情を傷つけないようにしよう」ということなんです。これは行動に出る前の動機の部分なので、自分にしか分かりません。だから、行動だけ見て他人が「お前は◯◯なんかじゃない」と言ったとしても、その人が超能力者か何かでない限り、その判断を真に受ける必要はないと思います。その人にとって性格タイプは「人に貼り付けるラベル」なのかもしれませんが、性格タイプを「自己理解のための指針」とする方が、在り方としては有意義だと思うんです。まとめ。自分ってどんな人? と問いに対して、性格タイプを掲げることが苦しさを和らげるのなら、それもいいと思います。でも、もしできるのなら、こういう思考パターンだから苦しいのなら、私はどうしたらいいんだろう? まで問いを深めることができたら、自分にもっと優しくなれるんじゃないかと思います。自分に優しくなれたら、人に優しくできる余裕が生まれるかもしれません。そうなったら、私たちが性格診断に出会った意味があった、と言えると思います。
2026.06.11
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自画像を描いてみたかったけれど、あまり絵は得意じゃないタヌキINFJです。最近はAIにイラストを描いてもらってる人も多いみたいですし、どう転んでもタヌキに見えないイタズラ描きみたいなのを自画像にするよりはいいかな、と思ってChatGPTに生成してもらいました。出来上がったイラスト、結構可愛い!なんか私本人と違って賢そうです。ところで、なんで名前が「タヌキINFJ」かと言いますと、16タイプ性格診断で、INFJが緑グループに属するんですけどね⋯⋯緑っていったら、タヌキかなぁって、なんとなく連想したもんですから。こっちも可愛かったけど、自画像にするには賑やかすぎかな?でも、せっかくだからこちらも貼っとこうと思います。
2026.06.10
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よくある共感のイメージ誰かに話を聞いてもらって、「あなたの気持ち、よく分かるよ」と言ってもらったりすると、ちょっとだけ心の荷物を下ろせたような気になるってありますよね。そういうふうに人に接してあげられるのは、やっぱり優しい人なんじゃないかなと思います。INFJは「共感能力が高い」と説明される性格タイプですが、私は一般的にイメージされる共感の仕方はしない方です。私の共感ってどんな感じ?やっぱりお前、INFJじゃないんじゃ? と思われるかもしれませんが、性格診断をしてみるとやっぱりINFJと出ます。たまにストレス状態の時にやってみるとINTJになることもありますが、思考パターンはどう転んでも、この2つのどちらかにしかならないようです。そんな私の共感の仕方は、「あなたの気持ちは分からないけど、こう思ってるんだろうなっていうのは理解できるよ」というやつです。なので、相手が悲しんでいるだろうな、とか、こんな風に言ってもらいたいんだろうな、というのは分かるんです。でも、それは感情を推測しているだけで、同じ気持ちになっているわけじゃないんです。「そりゃ、エスパーじゃあるまいし、それが普通では?」と思われるかもしれませんが、世の中には相手の感情に同調して涙を流すまで感情が動く人も存在するので、そういう共感の仕方はしないし、あんまり得意じゃないだろうなと思います。2つの共感の違いって?以前に、ストレスにさらされると感情が分からなくなる、という記事を書いたのですが、恐らく私の場合それが原因になっているんじゃないかと思います。共感って・感情共有型共感・理解型共感というのがあるんだと思います。感情共有型、というのは「以前に自分も似たような状況で、似たような感情を持ったことがある→だから今、この人はこういう気持ちでいるんだろう」というのが分かる、つまりFiが強くないと難しいんじゃないかと思うんです。理解型、というのは「こういう状況なら、こんな風に思って当然だ→だから今、この人はこう思っているんだろう」というのが分かる、つまりTiが判断していると私は分析しています。そして、私はこの理解型共感をしている、というわけです。ストレス時にINTJになる、というのは、Tiが感情を覆い隠してしまって、それが正しいかどうかだけを考えようとする私の癖が出てしまっているんじゃないかな、と思います。人の話を聞くのにTi?辛い気持ちの人の話を聞くのに、なんで感情を脇に置く? と不思議に思われるかもしれませんが、恐らくINFJの思考パターン的に、相手の気持ちを想像し、それが妥当かどうか判断し、その場の空気や相手を傷つけないやり方で行動しようとしてるんじゃないかと思います。だから、可哀想だと思うけれど、どこかで冷静に状況を分析している。だから、一緒に泣いてあげるという同情の仕方はあまりしないんじゃないかな。人によっては、それって冷たいんじゃない? と思われるかもしれませんが、一緒に泣く人も、慰めの言葉を選ぶ人も、アドバイスを考える人も、それぞれの優しさを示そうとしています。たまたま目の前の聞き手が、その人の一番欲しかった対応を苦手としていた、というだけなのではないでしょうか。もちろん、INFJの中にも相手の感情と自分の感情の境目が曖昧になって、感情に引きずられて苦しむという人もいます。それはきっと、Tiで分析することよりも相手の気持ちに寄り添いたいと思う優しいタイプのINFJなのだと思います。結論。共感には、感情共有型の共感と、理解型の共感がある。でもそれは、どちらが正しくて、どちらが優しいということではなくて、それぞれの優しさの表れ方。大切なのは、眼の前の傷ついた人に寄り添おうと思った、という事実なんじゃないかな、と私は思います。
2026.06.10
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私、特に活用する予定もないのですが、中国語を勉強しております。もう9年くらいになるでしょうか。教えてくださる先生が発音から始まって、文法を中心に教えてくださったので、暗記の苦手な私でもパターンを覚えればなんとかなる授業でほんと助かりました。で、ふと思ったのですよ。外国語の習得に、「とにかく外国人の友達や恋人を作れ」という人や、「文法を徹底的に分析しろ」という人がいますけど、こういうのって性格タイプ、つまり得意とする心理機能で最適解が違うんじゃないかな~、と。タヌキINFJの場合私に限らずINFJの方はそういう傾向が強いかと思いますが、とにかく、すぐに会話が弾む友達とか語り合える恋人なんて作れないんですよね。まずは信頼関係がないと、そういう濃い人間関係は作れないんです。「広く友達を作ることが大好き!」という性格タイプの方でしたら、会話も楽しみの一つでしょうし、そのためなら多少の文法のミスも気にせず、とにかく伝えるのよ! という強い心でコミュニケーションを取りに行けるんじゃないかな、と思います。でも、INFJの場合、というか私の場合、「こういう人に何を言ったら失礼になるのか分からない~」というところから始まります。恐らく、自分が外国人の方にお会いした時に、相手の言葉の多少のミスなんて気にしないのと同じように、大半の方が気にしないんじゃないかな、と思ったりもするのですが、それを前提に行動するのが難しい。ゆえに、友達や恋人なんて推奨されたからって作れるかぁ! と涙目になるのが目に見えております。つまり、INFJの気質的に、友達・恋人との語り合いから学べ、というのは前提からハードルが宇宙レベルなわけです。かといって、INFJってとっても頭が良い、というわけでもないんですよね。あ、INFJの方、石を投げないでください。あのこれ、心理機能的に不利な立ち位置って意味なので!優秀なINFJの方もいる、というのは分かるのですが、Siが自由に活用できない位置に存在しているので、恐らくシンプルに何かを覚えるということを苦手としているんじゃないかな、と。少なくとも私は暗記って苦手でしたね。例えば、歴史上の出来事を覚えたいのなら、年表を睨みつけるよりは歴史小説を読む方が覚えられる、とかそういう頭の構造をしているんです。物を覚えるのに活用するべきなのは?本を読むのがお好きでない方には、冗長で極めて非効率的な方法にしか思えないかもしれません。ですが、シンプルな暗記が苦手なので、自分の言葉に翻訳してイメージしておく方が楽なんです(時間がかかるという御指摘は深くうなずくより他無いのですが)。で、外国語の文法ではどうなの? という本日のテーマなのですが。シンプルな暗記、つまり記憶力に不安があるなら、得意な分野を活用すればいいということになります。私の場合、一番得意なのは、パターンを認識してそこから一つの答えに収束していく能力、Niです。実際、私の場合、読んだ本のタイトルなどは記憶になくとも、読んだ内容は記憶しているということはよく生じております。それは、読んだ内容を一度イメージするので、頭に残りやすいということなのかな、と分析しております。なので、文法を教えていただいた時に、それを言葉通りに記憶しようとするのではなく、一度自分に分かりやすい言葉に翻訳する、というのがいいんじゃないかな、と思います。中国語を例に挙げますと、中国語は概ね「主語+動詞+目的語」という形を取るので、英語に似ております。そして、時制や人称の変化で単語が変化するわけではないので、この基本形にオプションで「何をどこに付け加えていくか」というのを覚えれば、わりとOKです。その覚えていく過程を、自分の言葉で説明できるようになればいいんです。説明って、自分が理解していないと、他人に分かりやすいものにすることができないから、説明できるまで自分の中で噛み砕くっていう作業が、INFJにとっては必要なことなんじゃないかなと思います。じゃあ語彙はどうやって増やす?文法みたいな語学のエッセンス的な物は、そんなに大量に言語化しなくてもいいかもしれません。では、単語を大量に覚えたいならどうしたらいいんでしょう?これは未だに私にとっても課題なのですが、私のように片手間のようなものではなく、本格的に語学を学んでおられるのでしたら、私などよりももっと切実に悩まれているかもしれません。中国語は文法がシンプルなのは良いのですが、語彙が豊富過ぎてニュアンスの違いが言語化しにくい!日本語だって他言語のことは言えないかもしれませんが、中国語って、私が先生にニュアンスの違いを質問すると、先生ですら困惑するという世界なのです。先生いつもごめんなさい、と思ってはいるのですが、こういう「思考する時間」というのがINFJには必要なのかな、と思っております。そして、覚えた単語を活用するために、文章を作りまくる!幸い、今はAIにご相談、という手段が気軽に使えますので、AIに「この中国語、合ってる?」と答え合わせをすると、文法チェックからネイティブ的な活用方法まで教えてくれます。そうやってイメージを具体化させていくと、簡単な文章だったら会話レベルで使えるようになります。お勧めです。まとめ。記憶力にあまり自信がなくても、友達とか恋人とか作れる気がしなくても、外国語を学ぶINFJにもできることはたくさんあるようです。なにより、Feで他者の気持ちに応えたい! という思いを持ちやすいINFJなら、切羽詰まれば単語レベルでもなんとか意思疎通を図りたい、という気持ちを持てるんじゃないかな、と思います。自分が外国で誰にも質問できない状況を想像したら、身の丈に合わないなんて思わず、体当たりでも伝えに行ってあげるのは素敵なことだと思います。今はたとえ試験や進級・進学のための外国語学習だったとしても、その先に誰かのためになれたり、読めなかった本を読める未来を想像できるのなら、INFJにとって挑むのにふさわしい目標なんじゃないかな、と思うのであります。
2026.06.09
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X上で話題になっている「恋するへびべあ診断」というのを、ちょっとやってみたんです。そしたらなぜか「むっつりベアー」、ISFPという診断が出ました。あれ? タヌキINFJ、タヌキISFPになるの? と不思議に思ったので、ChatGPTに聞いてみました。どう転んでもINFJ?ChatGPTの判断は、私はどう転んでもINFJなようです。というのも、ISFPは主機能にFiを持つ性格タイプで、INFJはNiが主機能。ですが、最近やたらに「自分の気持ちは何なのか?」とか「境界線や自己理解は大事」というジャーナリングばっかりやってるせいで、質問項目によっては「Fiが強めの人」という診断結果になるかもしれないんだそうです。そして、「おまえの文章、具体的体験中心というより抽象寄りだから、どう考えても「Ni強めの人」だよね」ということだそうで。なので、行動特性ベースの診断ではISFPということらしいです。恋愛を意識した途端、変わった選択いや、診断中も「いつもなら選ばない物選んでるよなぁ」という感じはあったんですよね。たとえば、デートプランなんかはきっちり決まってなくても、その場の気分とかで決めちゃってもいいんじゃないかな(行く先が海か山かとか、服装とかの選択に必要な情報があれば)、と思う方ですし、直感や雰囲気よりは実際の言葉や行動で示された方が安心できますし。普段ならある程度決まってないと落ち着かないんですが、ある状況では柔軟性を許容する、というか、理屈で決められないことを決めなければならない時、私は最終的に「こっちの方が可愛い」とか「こっちの方が楽しそう」というフワッフワな基準で決めるので(でないと永遠に決められないから、こういう風に考えることにしてる)、柔軟性が皆無なわけじゃないんですよねきっと。恋愛中はSeを使ってる?ChatGPT曰く、「恋愛中はFeが強めに働くから、「二人が心地よい空気になっているか」、「相手と良い時間を共有できているか」を重視しやすくなる。だから、その場の雰囲気に合わせる、という普段は選ばない選択肢を選びやすくなる→FeやSeを使ってる」んじゃないか、ということで。お、もしかして恋愛ってSeの訓練にもなってる?思い返してみれば、恋愛に限らず大切な人を相手にしたら、「この人、今何を思ってるかな?」と考えつつ、ものすごく相手を観察しているんですよね。だから、日常風景を観察するよりも高いモチベーションで、Seを使えてるのかもしれません。もしかしてNiを信用してない??INFJって洞察力があるとか言われます。それは、Niの得意とする分野だからなんですが、私は「人を信頼する時は行動を基準にする」という考えを持っています。なので、自分の直感や洞察だけで相手を判断することはほとんどありません。それをやると、自分の感情も入ってきてしまうので、信じたい人は信じると判断するし、信じたくない人は信じないと決めつけてしまう気がするんですよね。つまり、恋愛面ではISFP、というよりは、人への信頼がより重要な恋愛という局面では、いつもより外部の根拠を求めるんじゃないかな、と思います。「それじゃお前はNiを信用してないの?」という話になりますが、信じていない、というよりは、「私にはこう見えるけど、必ずしも事実じゃない」という立ち位置なんですよ。実際、こうなるかも? と思ったことが実際起きたことは何度もあるので、タヌキごときの直感でも信頼感ゼロとまで言い切るつもりはないんです。ただ、人の感情が絡むことを私の内側の情報だけで決めるのは難しい、と思っております。だから、Niを信じてないんじゃなくて、Niの限界を認めている、と言う方が合ってるのかな。そして、Tiも仕事をしている状態なのかもしれません。「証拠を確認したい」=「正しいのかどうか見極めたい」ということですから、人間関係のこととなるとTi・Se総動員で判断しようとしているみたいです。まとめ。ISFP、という文字が画面に出た時はすごく嬉しかったのですが、冷静に分析してみると、自前の心理機能の工夫でISFPぽい行動をしようと思えばできるのかも、とちょっとがっかりしました。でも、成熟したINFJがISFPぽく見えることもあるそうなので、精進してればチャンスはあるかも?そんな未来があったらいいな、とフワッフワ考えているタヌキなのでした。
2026.06.08
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運転する時、「かもしれない運転をしなさい」と言われたことはありませんか?この角の先から、子どもさんが飛び出してくるかもしれない、あの車の陰から自転車が出てくるかも? みたいな可能性を常に考えて警戒してなさい、ってやつですね。私、何を隠そう妄想は得意です。まぁ、誰かにその内容を話すなんて絶対しませんけど。だけど、性格タイプや心理機能について考えた時に、「もしかして、かもしれない運転が苦手な人もいるのかな?」と思ったんです。いわゆる、Seが強い人。周りに集中できるということは瞬発力があるってことだから、もしかしたら可能性を考えるよりも、瞬発力で危険に対処できるのかな?Seが上手に使えていたら、もう少し上手に生きられたかな? と憧れている私ですが、現実には運転中にSeを常時働かせておけるほど思考回路は現実向きにできておりません。なので、せめて危険があるかもしれないという考えだけは持ちつつ運転していきたいと思っています。全ての人に推奨されている「かもしれない運転」?心理機能という考え方を知った時に、イメージをもやもや考え続けない脳みその人がいるんだ、と知って目からウロコが落ちた思いをしたことを覚えています。でも、運転者は教習所の教科書で、かもしれない運転について学びますよね? つまり、世間ではS型と言われる性格タイプの人でも、イメージで考えなければならない瞬間があるってことですよね?自分のことを「現実と向き合うのが苦手な人間」と思っていたので、それが上手な人は私よりも上手に世間を渡っているんだろう、と勝手に思い込んでいたんです。でも、イメージが苦手な人に「かもしれない運転」が推奨されているなら、もしかしたらS型の人がN型の人の思考パターンを羨ましいなぁと思う瞬間があるのかな、と思ったんです。N型って楽しい?ダイナミックな映像をぼんやりとしたイメージだけで覚えてて、あらすじの構成にばっかり気を取られてしまうとか、きれいだなという瞬間に即座に反応できるとか、本当に羨ましい。N型以外の生き方ができた記憶がない私は、常々そう思っております。でも、楽しめる側面もあるんですよね。読んだ小説を映画化するのがノーコストでできるとか、登場人物の台詞を好きな声で好きなように再現できるとか。現実には全く影響しないけれど、そういうのは結構楽しいんです。中には、そういう物を創作活動を通じて現実に作り出しちゃう人もいます。私にはそういう才能はないですが、それができたら面白いかもしれないと思います。S型視点も楽しめるようになる?ある程度の年齢になると、苦手とされる第三機能や劣等機能(INFJだったらTiとSeですね)も少しずつ使えるようになるそうです。私の場合、Tiはわりと昔から使っていたように思いますが、Seは全然使えておりません。つまり、まだまだ成長過程。ということは、もう少し人生経験を積めば、私も現実をありのまま楽しむようになれる、ということなのでは?そういえば、もっと若い頃は写真を撮ることを、単なる事実の記録と認識していたけれど、最近はきれいだなぁと思ってスマホのカメラを起動する、ということも増えたような。情緒が育ったのかな、と思っていたけど、そういうのがSeを使えるようになってきてる、ということだったのかもしれません。いずれは私もドライブなんかを楽しめるようになるのかな? 運転が好きになれるほど上達する余地は、もうなさそうにも思えるのですが。まとめ。自分の性格や特性を嫌いだと思い続けることは、損なのかなと思います。他の人から見たら何かしら良いところがあったり、こういう性格だからできてることもあるのかも。自分では分からないし、人に聞くのも難しい質問だけど、自分が他の人を羨ましいと思うことがあるなら、同じだけ思われてる可能性はありますもんね。
2026.06.07
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客観的に見て、私ってそんなに繊細な神経を持っている、とは思われていないような気がします。心の中では「あれは嫌、これは苦手、そんなの論外」といろいろ文句を言ってたりもしますが、大体口には出していないので(態度には出てるかもしれないですけど)。最近は繊細、というか過敏な人を「HSP」とか「繊細さん」と言ったりしますが、私は正直、あの分類に自分が入っているかもしれない、と思うのが居心地悪くて苦手です。神経系はそういう特性があるのかもしれないんですが、それを主張するのが苦手なんです。なので、これまでは自分が神経過敏だと思わないように生きてきました。でも、周囲が不快に思わない他人の香水がむせるほど苦手だったり、犬の吠える声やテレビの音(通常音量)にストレスを感じたりする自分が、普通の神経の持ち主だと主張するのは無理があるかなぁ、と最近は思うようになりました。もちろん、「だから私に配慮して」なんて言うつもりは全くないのですが、自分に対してまで嘘をつくのは違うんじゃないかなと思います。苦手なものを数えてみたら匂いのキツイもの好きな香りだったとしても、駄目なときは本当に駄目なんですよね。以前、接客業をしていた時など、お洒落なお姉さんがバッチリ化粧をキメてたりすると、その香料に涙目になりながら仕事していたこともあります。香料として使われるくらいだから、いい匂いなんだとは思うんですが、接客中にむせるわけにもいかないから、発声しながら呼吸を控えるという生物として無理がある努力をしておりました。一方で、良いこともあります。お化粧品を「使ってみませんか?」というセールスに対して、「すみません、私アレルギーがあって!」と言えるので、相手さんはそれ以上何も言えなくなるんですよね。アレルギーというよりは匂いが苦手なだけなんで、嘘じゃねーかと言われたらそれまでなんですが、お化粧した結果四六時中むせてたら、アレルギー並みに生活に支障出てますから。嘘じゃないもん⋯⋯。大きな音知人の家に大型犬が3頭おりまして、どの子もみんな可愛いんですけど、来客の度にみんな一斉に吠えまくる子たちなんです。そうなると私は、会話どころか思考もままならない状態になってしまうんですが、飼い主の方はそれほど苦痛にも感じていないようなんですよね。また、突然背後で音が鳴るのも苦手です。びっくりして腰抜かすくらいには。単なるびっくり屋(そんな単語あるのかどうかは知らないのですが)なんだ、と思うようにしていたんですが、それ以前に苦手なんでしょうなぁ⋯⋯。噂話という名の悪口これは言うのも嫌いですが、聞かされるのも苦手です。単に先入観を植え付けられるのが苦手だというだけでなく、そういうのがネタになってる空気が既に苦手ってことは、その後の人間関係への悪影響を心配しているというよりは、単に悪口が嫌いなんでしょうね。そういう会話がストレス解消になる、と言う人もいますよね。愚痴ぐらいこぼさせてよ、と思われる人もいるかもしれません。私も、「それが嫌だったんだよ」で終わるなら「そうなんだね」と返せるのに、それをエンタメとして楽しまれてしまうと、それは相談や愚痴ではなく、単なる悪口大会だなぁと思ってしまうのです。争い事SNSで炎上騒ぎなんかが起きると、攻撃的な文章が飛び交いますよね。楽しい事ばかりの世の中じゃないですし、苦しい、嫌いだ、理不尽だという気持ちを表に出すのも悪いことではないと思うのですが、それが攻撃的な色を帯びると途端に見るのが辛くなってしまいます。風景写真や動物の写真なんかをアップしてくれる人もいるので、そういうのを見るのは好きです。そういう平和な投稿ばっかりなSNSってないもんですかね?でもお金が絡んできたり、フォロワー数が物を言うようなシステムだから、扇情的な投稿っていうのは絶対になくならないんでしょうねぇ。面倒くさいな?自分でも、こういう嫌いな物が多い自分が面倒くさいと思います。だから、あんまり外で主張したいとは思わないんですが、自分の中に押し込めて無理に笑ってるのも精神衛生上よろしくないんですよね。なので、ジャーナリング上ではまぁ主張する主張する! 誰にも届かないのに。でも、言葉にするのとしないのとでは、だいぶ違うんですよね。あと、誰かに自分の状況を説明するにしても、「あなたの〇〇が気に食わない」みたいな言い方ではなく、「私、ちょっとそういうのが苦手なんです」というスタイルで言うようにしています。だって、面倒なのは絶対に私ですから。周りの人もその人らしく生きる権利はあります。ただ、苦手を我慢できない時に、それを避ける権利は私にもあるかな、と思うようにしています。まとめ。他人に配慮する、というのは、配慮される側の主張ではなく、する側の選択でないと結局別の火種を作ることになってしまいます。だから言わないことにする、という選択をする人がいるのもすごくよく分かります。ただ、「黙って耐えてる私」というのが自分を悲劇の主人公にしてしまうなら、私は配慮はしつつも言った方がいいと思うんです。悲劇の主人公になっちゃうと、どうしてもそういう自分に酔っちゃいますから、バランスの取れた判断はできなくなると思うのですよ。それで周囲と険悪になるなんて、たぶん繊細な人は耐え切れないと思うので、そうなる前に穏やかに話すのが結果的に平和な人間関係になるんじゃないかな、と思います。
2026.06.06
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何が好きなのか分からない?自己紹介の時、「嫌いな食べ物は何?」というのを聞かれることがありますよね。その質問をされたら、私は張り切って「椎茸は嫌いです」と宣言します(煮物とかに入ってると、その煮物自体が食べにくくなるので、自衛のためです)。理由も明解に理解しているので、そこをためらうことはまずありません。⋯⋯相手が椎茸農家さんとかだったら、ためらうかもしれないけれど。ですが、「今日何食べたい?」とか「何をしたい?」という質問に対しては、言葉に詰まります。別に食欲がないわけでも、遊びに行くのが嫌なわけでもないのですが。理由は簡単、聞いてくる相手がいる、ということは、その人も一緒に行動するということなので、無意識に「相手は何を食べたいかな?」とか「この人は何をしたいかな?」と考えてしまうんですね。自分の要望じゃなくて、相手が喜ぶことを考えようとするので、唐突な質問だと想像する余地がなくて言葉が出てこなくなってしまうんです。こういう場合、私は「何があるかな?」と選択肢を聞くことにしています。これなら相手は「嫌だな」と思う選択肢を出してきませんし、私も自分の要望を出せます。悩みすぎて答えが永遠に出てこないよりは建設的な方法かな、と思ってます。ところが、こういうタイプではない「感情が分からなくなるタイミング」というのがあることに、最近気付きました。ストレスがかかった時は、感情が見えなくなる?一人でいる時は「今日はこれでも食べるかー」とか「動画でも見てのんびりするかー」とか、自分のやりたいことを選べるので、私に感情がないというわけではありません。ですが、何かストレスがかかった状態で行動しなければならない、という時は、何かに覆われてしまったように自分の感情が見えなくなるのです。だから、怒りとか悲しみ、悔しさや嫉妬といったネガティブな気持ちが分からなくなる。分からないまま、「こうするのが正しいんだ」というのは理解できてしまうので、それを実行する。そうすると、それが更にストレスを呼んで、更に感情が見えなくなる⋯⋯というのをループするんです。そして、ほとぼりが冷めた頃に、発散し切れない感情が頭の中を駆け巡るので、それを処理するために自己分析を始めるのですが、すでに終わった話なので、感情を伝えられるタイミングがなくなっていると、「いつもこうなるんだ」→「私ばっかり我慢することになるんだ」→「誰も私のことなんて気にかけないんだ」→「もう周囲の人間なんてどうでもいい!」という内側で高速回転を始めてしまうんです。もうこんなの自己分析じゃない、拗ねてるだけじゃん、と自分でも思うのですが、自分ではなかなか止められないんです。で、これがさらに回転を極めてしまうと、暴飲暴食衝動買いなどの暴挙に出てしまうんです。それでスッキリする、ならいいんですが、この状況では目先の欲を満たしたいという衝動しか働いていないので、ちっとも楽しくないんですよね。まぁ、体重計の表示や、通帳の数字を見ながら、深い深いため息をつく羽目になるんです。ストレスはゼロにできない、ならばどうする?この世で生きてる以上、何もかも思い通りにはいかないものです。だから、ストレスをゼロにしよう、なんてアドバイスは、絵に描いた餅より役に立たないものです。だから、ストレスを管理できない以上に溜め込まない、というのがいいんじゃないかなと思います。私の場合、自分の感情がもやっとした何かに覆い隠されて、なんかイライラしてるけど言葉にできてない時が、ストレスを感じている時だと思うようにしています。何かが起きた直後だから、「なんで今こんなイライラしてるんだ?」と考えると、「あ、あれが原因か」とすぐに答えが出るので、人に延々と愚痴を垂れ流すとか、アホほどジャーナリングを繰り返すなどしなくても、感情を言語化しやすいです。で、自覚できるようになると、自分がストレスに感じる状況のパターンが見えてきます。そういう状況になりそうだなと思った時に、できるだけストレスがない方法を選択できるようになれたら、あるいは、小さなモヤモヤでいる間にストレス発散になる活動や休息を取り入れたら、どうにもならない状況にまで自分を追い込まなくてすむようになります。まとめ。ストレスに感じる状況は人それぞれ、そしてストレスを感じたら陥る行動パターンもそれぞれです。そういったパターンを見つけて、「今ストレス感じてるな~」と思ったら、気のせい扱いや後回しをやめてみましょう。ストレスを見つめるのって、最初は苦しいですけど、自覚できるようになると後は少し息がしやすくなるんじゃないかな、と思います。
2026.06.05
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人を信じるって難しいこの人は信頼できる、と言える人がいるなら、その人はかなり幸せな人だなぁと思います。相当濃い体験でもしているんでなければ、信頼なんて一朝一夕で築けるものではないですから、共に過ごす時間の中で、小さな信頼の証拠を積み重ねてくることができたってことですもんね。逆に不健全な関係だと、証拠を積み上げるどころかすり減らされてしまいます。結果、「あの人は信頼できない⋯⋯」となってしまいがちです。「もう無理!」の正体信頼感って主観的な物なので、単に信頼が損なわれるというのは、証拠がゼロになっていくってだけじゃないんですよね。そのためにかけた時間も、預けた気持ちも削り取られてしまう。だから、信頼できないと思わされた側の痛みは、かなりのものです。怒りたくもなります。いや、怒っての絶交ならまだいいかもしれません。怒ってるってことは、相手のことをまだ気にしてるって状態ですからね(気にしてる側にとっては、でっかいストレスですけど)。でも、怒ってないっていう人との関係は本当に戻りにくいんです。謝罪されても、「あーはいはい。もう(どうでもいいから)気にしてないよ」みたいな反応で終わらされてしまうから、仲直りの難易度は半端じゃないですよね。そんな戻れない関係のことを、絶交、えんがちょ、ドアスラムって言うんじゃないでしょうか。もう一度信頼できる?物理的にも距離を取れる相手なら、戻れなくても構わないかもしれません。近距離にいても心理的に切り捨てられるくらい絶望してたら、戻りたくもないかもしれません。でも、そうじゃないなら、もう一度信じたいと心のどこかで思う人なら、もう一度、証拠を積み上げていくしかない。言葉だけで「変わるから」「ごめん」と言われたところで、それを真に受けられるほど素直な人はそういません。私なんぞは「おめー、そう言っといてまたやるんじゃないの?」と更に疑いの目を向けるくらいには、ねじけております。証拠を提出するのは相手でも、それを受け取って実績として記憶していかなければならないのは自分ですから、心の底から「信じたい」と思っていなかったら、提出された証拠を証拠として認めてあげられないですよね。だから、大前提として、相手に対する友情または愛情、要するに関心を持てないとお話にならないんです。無関心な相手を観察したいなんて、思えないですからね。証拠を提出する側の覚悟じゃあ、人からの信頼を失った人はどうしたらいいでしょう? 私は、愚直に日々の行いで信頼に足る人間になったことを示していくしかないかな、と思います。実は私、メンタルが不安定だった時に、友人の一人にかなり辛辣な態度を取ったことがありまして。ようやく落ち着いた頃に、自分がやったことの重さに耐え切れず、相手に謝罪したんですよね。まず、LINEで謝罪の意志があることを伝え、直接会って謝罪したいとお願いしたんです。相手の方は、私の状況を思いやってくれて、涙すら流してくれました。だからこそ、私はもう二度とストレスでメンタルぶっ壊れるまで自分のケアを放置しない、と思うことができました。そのために、ここまでジャーナリングを続けてくることができたんですよね。このように地味で、継続的な努力が必要です。でも、信頼感を持つには時間が必要な以上、そして劇的な信頼なんて期待できない以上、こうするしかないんです。つまり、双方に努力と歩み寄りが必要なんです。信頼って、築けたことが奇跡に近いくらい大切なものなんですよね⋯⋯。だから、私はINFJではあるんですが、ドアスラムは極力発動しない方がいいと思ってます。ドアスラムで救われる心もあるとは理解しているんですが、そこに至る前に、足掻くだけ足掻く価値はあるんじゃないかと思ってます。もちろん、事情はそれぞれありますし、最初から信頼なんてねーよ! と言いたくなる人間関係が存在することも承知してはおりますけれどもね。まとめ信頼するされるの関係には、時間も感情も使うものだからこそ、再び取り戻すのには双方に負担がかかります。片方だけの努力でどうなるものでもないからこそ、壊すのは最終手段でありたいし、取り戻したいなら、それなりの覚悟と心の変革が必要でしょう。私も一応ドアスラムをしてしまった身、もう一度相手を信頼したいと思える時が来たらいいな、と思っております。
2026.06.04
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INFJは複雑な性格?世間では「INFJは複雑な内面を持つ」みたいなことを言われておりますが、私本人としましては、そこまで複雑な人間だとは思っておりません。が、「なんか理解されてない気がする⋯⋯」と思うことはあります。だからって、「誰も私を理解できないんだ」と孤高を気取ろうとは思いませんけど。察してください、と思う理由人の内面を見られる人間なんていませんから、言葉にならない部分を理解しようと思ったら、観察したり想像したりするしかないよな、と私は思います。INFJは共感能力が優れている、なんて言われていますから、多くのINFJの方たちは「私が誰かの気持ちを察するみたいに、私のことも察してほしい」と思うのかもしれません。ですが、私は自分にそんな共感能力があるとは思っていません。私は、人や状況を観察はします。そして、「こう思っているんだろうなぁ」と想像はします。でもそれだけ。想像した結果が的中していたとしても、それは相手の心を読んだからじゃないんです。外から見たら、「心読まれたー」と思うのかもしれませんけど、見たらなんか分かった、以上の答えを持っていないんです。感情的な性格だから、というよりは、パターンを読む心理機能Niのお仕事なんじゃないかな、と思います。だから、こんな私が「察してください」なんて言える立場じゃないと考えております。そんな私ですが、やっぱり誰かに理解してもらいたいという願いは持っています。相手が私を理解しようと観察して、(この人今こんなこと考えてるんじゃないかな~)と考えてくれたら嬉しい。でも、それって、相手が私に興味関心がないと難しいですよね。「みんな私に関心持ってよ!」なーんて、声を大にして主張できるほど心臓に毛は生えておりません。それでも理解してもらいたい、察してほしいと思うのは、やっぱり一人ぼっちは寂しいからなんでしょうね。誰かに関心を持ってもらうには?じゃあ、私を理解してもらうにはどうしたらいい? ⋯⋯私は、私の方から「私はこんな人間です」というのを開示するしかないかな、と思います。「それができないから察してほしいって思ってるんじゃないか!」と怒られそうですけども。私も、自分のことを話せる人じゃなかったので、自己開示の難易度が半端じゃないことは身に沁みております。なにせ、自分の感情を自分が理解していませんでしたから。本人が分からないことを他人が分かるはずがありません。見た感じ、なんか怒ってんだろうなぁ、とか、悲しんでるのかな、と思うことはあるかもしれませんが、よっぽど仲良くなかったら「今怒ってる?」「悲しいよね」なんて言わないし、言えないですよね。だから、私は今いる友達のことをもっとよく知ろうと思ったんです。そこからは、友達をいっぱい観察しました。この人、こういうことを言うんだな、とか、こういうのが嬉しいんだ、とか。深い内面とかじゃなくていいんです。で、相手が笑顔になる言葉を考えました。「君って、言葉のチョイスがうまいよね」とか「いつも美味しそうにご飯食べるよね」とか。そういうのを話してると、相手の方から「タヌキはいつも◯◯だよね」と言ってくれたりします。そうなったらしめたもんです。相手はこちらに関心を持ってくれました。んじゃ、何話す?ここで、ジャーナリングによる自己分析が生きてきます。自分の内面をある程度言語化しておけば、ネタには困らない。ネタの源は自分だから基本ネタが尽きるということはありません。ぶっちゃけ「私◯◯が好きなんだけど、なんでかって言うとね」みたいなのだって、立派な自己開示です。INFJの説明を見てると、深い話がしたい、魂レベルで繋がりたい、という高尚そうな願望が書かれていたりしますが、それの取っ掛かりってやっぱり普通の会話なんですよね。そこをクリアしないまま、「私の将来の夢は⋯⋯」とか語り出したら、普通に怖いです。「みんな私の話にそんな関心なんてないと思う」と尻込みしたくなるかもしれませんが、大丈夫、笑顔で、他人が笑顔になれることを話してくれる人を嫌う人なんて、ほとんどいませんから。結論。やっぱり、理解してくれる人がほしいなら、最初はこちらから理解する必要があると思います。「この人はこういう人だ」と思っただけで、相手を理解したと思わないというのも大事です。会話してみたら、案外そうじゃないことや、近いことを思ってたけど根拠は全然違っただとか、そういう予想外な展開もありますが、それらも全てネタになります。そしていつか、腹を割って話せる人が現れたら、それが「魂レベルで繋がれる」相手ってことだと思います。
2026.06.03
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基本、疑ってかかる私ジャーナリングは「書く瞑想」とも表現されています。そのせいでスピリチュアル懐疑主義な私は、「瞑想なんて信用ならん」と敬遠しておりました。でも実際、こうしてジャーナリングを続けているおかげで、わりとメンタルが救われておりますので、「瞑想」という単語一つでヤバい代物と考えるのは軽率かな、と思いました。それで、調べてみることにしました。瞑想ってそもそも何なの?瞑想=心を落ち着けるためにやるもの、とざっくり把握いたしました。もちろん、技術にはメリットとデメリットがありますので、デメリットについても調べました。どうやら、間違った方法で行うと、集中力が散漫になるどころか、病院のお世話になる羽目になることもあるようですね。そんなもん、怖くて手ェ出せるかい。と、思ったのですが、前提条件が「間違った場合」ですので、正しい方法で行えば本当に心が落ち着くものなのでしょう。常にイメージだのビジョンだの(ぶっちゃけ妄想)で騒がしい私の頭も落ち着くのかも? という可能性も捨て切れず、いろいろ見てみました。1.苦痛を感じない楽な姿勢で座って2.鼻から吸って口から吐く自然な呼吸で3.4秒吸って、6秒で吐く腹式呼吸を繰り返すというのが基本のやり方だそうです。が、この時、雑念が湧いても気にしないで呼吸する、というのが大切らしく。生きてるだけで妄想が頭を駆け回っているINFJには、雑念を気にするな、というのは死んどけと言ってるに等しい苦行なのではないかと⋯⋯。雑念を捨てるために、現実に目を向ける妄想を捨てたい、と思う人が行うべき瞑想が「マインドフルネス瞑想」というのだそうです。ということは、そうじゃない瞑想も存在するのかな?別に悪いことを企んでいるわけではありませんが、基本的に私の頭は呼吸するように何かを考えています。現実に行っていることを起点に、果ては全く関係のないことまで連想ゲームのように考えています。雨が降ってきたなー、というところから、今年こそ可愛い日傘をゲットしたいなー、という物欲に至るなど、着地点は考えている本人にも分かりません。そんな人には、マインドフルネス瞑想がお勧めなのだそうで。現在に集中するための瞑想だから、過去や未来の事に意識が向かず、ストレスが軽減するそうです。初心者向けの瞑想で、精神疾患などを抱えているのでなければ、ストレス軽減や集中力向上などが期待できるそうです。⋯⋯過去や未来に意識を向けない、というのを見て、なんとなく心理機能のことを考えました。雑念=心配や不安、と考えるなら、Niがもたらす「まだ現実になっていない考え事」をキャンセルするにはもってこいなのかもしれない。そしてこれは、私が憧れる心理機能、Seの訓練にもつながるかもしれない! と。マインドフルネス瞑想に伴う危険でも、ですよ?己の内面に意識を向ける、という行為は、ぶっちゃけ感情や記憶にアクセスしやすくなる状況を作り出す、ということにもなります。ほら、「家の鍵、どこに置いたっけ?」という時に、最後に家の鍵を持ってた記憶を思い返すと、闇雲に探すよりは良い確率で見つかるって、多いじゃないですか。感情や記憶を思い巡らして、素敵な記憶だけじゃなくトラウマになんぞアクセスしてしまったら、精神的に不安定な時は辛いなんてもんじゃないですよね。もちろん、そういう負の記憶や感情に打ち勝つために瞑想する、という人もいるかもしれませんが、メンタルが悪化してしまったら元も子もありません。だから、嫌な気持ちや記憶につながった時、「現実に戻らなきゃ」と呼吸や接触している物の感触に目を向けられなかったら、逆効果になってしまうんじゃないかなと思います。幸い、私にはそんな大きなトラウマとかはない、はずです。でも、頭に浮かんだイメージに興味が湧いて、瞑想中に連想ゲームのような思考の旅に出てしまったら。Niに直接アクセスしたことを鵜呑みにして、今よりさらに面倒くさい自分になってしまうんじゃないか、と思ってしまうんですよね。結論瞑想に関する論文などが存在する以上、素人の印象一つで効果を疑うのは合理的ではないかな、と思います。でも、それに伴う危険性もきちんと理解した上で行わないと、今より大きな問題を抱えてしまう可能性も孕んだスキルなのかなとも考えました。なので、今のところは、様子見です。もう少し調べてみてもいいかな、と思っております。
2026.06.02
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ある冬の日、車で30分弱の位置に住む両親から連絡がありました。「スマホがなんか変だから、見てくれない?」折しもかなりの積雪量、仕事も休みじゃないし、決してお出かけ日和じゃありません。それでも仕方ないから実家に車を走らせましたよ。実家の前の道、全然除雪されていなくて100mもない距離で10分くらいかかりました。スマホの不具合、ものの20秒で解決したんですけどね。さすがに疲れました。帰りに「これあげる」と食材を渡されても、感謝の言葉も出ませんでした。↑これ、以前の私の日常でした。こういう事の積み重ねから、メンタルがぶっ壊れてしまったんです。何が問題だったかと言うと、私に「断る」という選択肢がなかったこと。⋯⋯いえ、選択肢はあったのかもしれません。でも、当時の私にはそれが見えていなかったんです。断るのが苦手という人は多いんじゃないでしょうか。私は「私が断ったら相手はどうするんだろう?」と思ってしまって、断るという選択ができなくなっていました。それは自分の直感への自信でもあるでしょうし、あるいは優しさと表現することもできるかもしれません。でもそれって、事実じゃなくて、そうなるかもしれないという予感でしかないんですよね。実際は違うかもしれない、という視点を持てないまま、自分の状況や感情を無視して引き受けてたんです。そんなことをしてれば、当然自分が辛くなるし、相手もこちらの限界を見誤る。そうやってすれ違い続けて我慢の限界を超えてしまうと、フェードアウト、縁切り、ドアスラムなんてことに。私は内向型の人間なので人間関係を広く持つのは得意じゃないから、こんなことをしてたら、そのうち本当に周りに誰もいなくなってしまいかねません。現在は両親とも話し合い、ある程度の距離感がないと私が辛い、ということを理解してもらいました。まず、何から始めたかというと、人間である以上は我慢と遠慮はあって当たり前、と考えることでした。完璧な人間なんていませんから、私が誰かのことを我慢したり遠慮したりするように、相手も我慢したり遠慮したりして生きてるんですよね。だから、私が断って相手がちょっとがっかりするとしても、ある意味それは仕方がないんです。もし全部引き受けても平気なくらいエネルギーが有り余っていたら、何も考えずに引き受けてもいいと思います。でもそれは現実的じゃないですよね。無制限に引き受け続けて自分が壊れても、私の中にある辛さを引き受けてくれる人なんていませんから、自分で自分を守るしかないんです。もしそれで「引き受けないなんて、冷たい!」と言う人がいるなら、それはその人が距離感を間違えている、と思います。その人は私じゃないから私が抱えている事情全てを理解してないのに、そういうジャッジを下してるわけですから。そうは言っても、人をがっかりさせるかもしれない、と考えるストレスはあります。でも、そのストレスから逃げるために別のストレスを抱えるのって、ナンセンスじゃないですか。だから、そこがどうしても気になる時は、交渉してみるってのはありかなと思います。「すぐは無理だから日付ずらせる?」「ここまでならできると思う」って。言葉の頭に「ごめんね」とつけてあげれば、普通の人は納得してくれるんじゃないかな、と思います。頼まれ事って、0 or 100ではないですからね。自分の体力やスケジュールと照らして、「それは無理です」と言える人なら、すぐに答えも出せるかもしれません。でも、私の場合はすぐに答えが出てこないんです。そうしないと相手は困るかも、でも、それは今の私には無理かも? という直観が働くから。説明しにくいし、もしかしたら違ってるかもしれないから、全部真に受ける必要はないかもしれません。でも、全部気のせいだと思おうとするのも違う気がします。気のせいだと思おうとしてメンタル壊したのが、ここに一人いますし。そもそも、頼み事っていうのは、自分の荷物を背負うのを手伝って、と向こうからラインを越えてきてる状態です。だから、「ここまでなら手伝えるよ」と新しいラインを引く権利はこっちにもあるんです。本当に優しいと言われる人は、自分のことを後回しにして実行できるかもしれません。でも私は、それで自分を壊してしまったら相手が申し訳なく思っちゃうんじゃないかなぁ、と思うんです。だから多少冷たいと思われても、相手の荷物は相手の物だと思うようにしています。背負い方や下ろし方のアドバイスが必要な人、「重いのは大変だよね」と共感しながら話を聞いてほしい人、いろいろいますから。まずは「私が全部背負います」と名乗りを上げるのは、待った方がいいんじゃないかな、と思います。
2026.06.01
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