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企業も大学もアメリカナイズされている。これはメリットではない。そんなことは当前だといえるひとがどれだけいるだろうか。棺桶に片足突っ込んでいるような人間ばかりではないか。日本はもう「死に体」ではないのか?感覚の鋭い先見えのする学生は、そう企業や教授をそう見ていると思う。彼らにこれからを見通せる能力はないだろうと。世界を渡り歩く若者は、もう巨大企業や、大学の権威をあてにしてはいない。MITは、大学の限界を感じたのだろう。このままでは大学は死ぬ。もう大学には権威はない。その亡霊を見ているだけだ。それこそ、間違ってばかりのデータで論理を積み上げても砂上の楼閣でしかないだろう。何度も、作っては取り壊すだけの砂場の遊びでしかないゲームをしているだけだ。現実がすり抜けて行くだけだ。大学は、このままでは破綻するだろう。
2006.05.31
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私たちは、人類の悲劇を求めてはいない。必要なものは活路であろう。唯、必ずしも容易ではない。マイナススパイラルはいくつもあるし、壊さねばならないものもあるだろう。そして、それは短絡的な思考では届かない。あらゆるところからの重圧に耐えられる人間はそうはいないだろう。やはり、何かを為すヒトは、ブレイブ・ハートを持つものだろうか。多くの人びとは、この社会は得体の知れない世界であり、必ずしも活路があるだろうかと疑念をもっている。いくつもの選択肢の中に悲劇は隠されている。そして、一寸先は闇だという。それであれば、悲劇の可能性は、必ずあるだろう。未来は、小説ではない。現実という修羅場を越えねばならない。いま私たちの前に聳えるのは、ヒマラヤ山脈よりも高い障害物だ。環境破壊、人口問題、食糧問題など山積する問題は多いのだ。もう目先のこととして取り組まないと、地球、そして人類は、疲弊し枯渇するだろう。ヒトは、そろそろ「インドガンのヒマラヤ越え」を準備すべきだろうと思います。>花いいですね。
2006.05.31
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今日は、新しい図書館で落着けないでいる。持込んだ本も拾い読みだ。昼食をキャンパス内の喫茶店で珈琲ブレイクした。コンセントの位置の件で、図書館の庶務部長とお話したが、大学側もこれからは、市民の閲覧を積極的に推進するのだそうだ。「開かれた大学」がどこまで可能か知らないが、図書館という存在を市民にアピールする意義はあるだろう。「世界戦争犯罪事典」の中で、シンガポールに関する記事を探したら、3件あった。・アレクサンドラ病院の惨劇・・・病院を襲撃して、軍医、ナース、患者などを殺害した事件。・シンガポール華僑の虐殺事件・・虐殺されたひと2万人。(推定)・豪州陸軍のナース殺害・・・・・日本兵がビーチで21人のナースを殺害。こういう歴史を知ることは、胸が苦しくなるばかりだ。だが、安易さに慣れてしまった私たちには自分たちが誰の子孫であるかを思い知る必要があるだろう。全てを呑み込んでからでないと解からないこともあるのではないか。誰の生命も見逃しには出来ないのだ。歴史が希釈化した時多くの人びとが人間性を見失うのではないだろうか。歴史的事実を知ることは、人間としてのベースになる哲学を認識することだと思う。日本軍の上官が敵兵の内臓を食べたという事件がある。戦死した日本兵はあまりにも悲惨というほかはない。そういう上官がひとりでもいる軍隊で戦ったのだから。そして、日本人は数百万人が、第二次世界大戦で死んだことを思い致すべきだ。もうこれ以上、書かないが、言えることは、戦争は、人間を変えてしまうのだろうということだ。>図書館の玄関ゲートは二階にある。土日も開館している。
2006.05.31
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図書利用の申請をして、館内であります。まるで新刊書のような図書でして、気分がいい。流石に総合大学でして70万冊近くあるらしい。PC持込み可なのですが、コンセントが近くにありません。受付にお願いして、延長コードを借りてきた。まるで工事用です。3階は、やたら広い然も、哲学の図書のところにマイスペースを確保できました。「世界戦争犯罪事典」・・・序に、「20世紀は、「戦争と虐殺の世紀」だといわれ、その前半は、日本が渦中の主役である。」「戦争犯罪」の国際法の定義とは、・通例の戦争犯罪(狭義)・平和に対する罪・人道に対する罪(ナチスのユダヤ人へのホロコーストなど)・反乱、抑圧などを包含する内乱やそれにからむ大量虐殺21世紀が、どのような世紀になるかは、予断を許さない状況下にあることだけはいえる。世界となると、戦争犯罪は余り多すぎて人間不信になりそうだ。よくこうも人類は残虐なのだろうか。どこの国がどうではない。ハワイもアメリカが乗っ取ったことは知っていたが、歴史として読むと悪寒を感じる。これらは、何なのだろうか。人間は、本当に歴史を学んできたと言えるのだろうか。どの国も、唾棄すべき戦争犯罪を止められずにいる。恐らく、今も、イラク戦争で虫けらのように殺されている罪もない人たちがいることだろう。謂わば、私たち人類は血塗られた世界の上で生きているだろう。そのことを自覚しなければ、またどこかで戦争犯罪が起こすに違いない。如何なる学問にしろ、それに抗すでなければならない。新刊書で真新しい本は気持ちがいいものだが、図書館で読む本に手垢のついてほうがある親しみがするものだ。ところが、あまりに読まれていない本ばかりずらりとあると妙な気がしてくるものだと思ってしまった。変に孤独を感じてしまう。>ここが或る大学付属図書館です。
2006.05.31
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机の上を片付ける気持ちが湧いたときは少しは気分のいい時なのだろうか。昨日の画家の話だけど小説家が模写したのではない。独創性を何よりも重視する世界ではないのか。恥ずかしい話だが、それを認識できない画家が一流だとされる幼児性がある。それを師と仰ぎ勉強している学生が可哀想だといいたい。弁解なしでいうけれど、読者は自分のスタイルで読めばいいと思う。昔は知らないが、ネットで、MITだろうが、ハーバードだろうが、オクスフォードだろうが、OCWがあるし、翻訳エンジンを使えば、英紙だって読めるのだから、世界を相手に不足はない。腐りかけた大学を相手にする必要はないのだ。外国語の勉強で一生を終わるなどつまらない。もともとこどものころでないと言語は、頭に入らないのだから、外国にでも住まない限り覚えられるはずがない。少し喋れたからといって、それで哲学まで身に付くわけではない。「相手が違うものを相手にさせる」社会があるのは、商売が不正で歪なのだ。知識だけを押し込んだからといって人間まで出来る訳でもない。よく、ある哲学を学んで自分もその思想を手に入れた気になっている学生がいるが外から見ればちんけである。それを10年も、20年も続けている学者がいる。他人の尻ばかり追いかけてよしとする科学者がいるから、日本人がノーベル賞受賞が少ないのだろう。原因はいくつもある。多くのひとは、私に言わせれば、その日暮らしと同じだろう。同じことを繰り返して安心していられるは「働き蜂」と一緒であろう。前述の画家と同じで、他人のモチーフでどれだけ傑作に仕上げようと偽作でしかない。スキルのない旅をすべきではないだろう。
2006.05.31
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日本人の生き様と風土を、「たしかな目」でみるといういうことは容易なことではないし、誰にでもできることでもないだろう。まして、混迷を続けている現代では尚更だ。少し他人より抜き出たからといって、外気に触れた途端に凋んでしまう。萎縮するんだろうか。研究書とは概ねそんなことになりかねない。何の価値があるのだろうか?他人の歩いた道を歩いたとて自己満足でしかない。絵画の偽作が話題に上っているが、幼稚な思考の画家だろう。自分で書いたから偽作ではないのだろうか。創造とは何かさえ理解していない作家が、文化庁から表彰されているという実態が物語るものは、文化の陳腐化だろう。たしかな目を持たないからだろう。そういえば、今時の男も女も所詮はそんな影響をもろに受けた人々ばかりではないか。同じことを5年も10年もつづけて、何とも思わない人間であれば、何も変わらない人間であるとしたら、所詮は、明日に繋がる希望はない。さて、もう就寝します。オヤスミ。>紫陽花の色が変化して行き、紫陽花らしい色になりました。
2006.05.30
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そんな区別があるとしても余り意味はない。世間の評価などあてにならない。これだけ出版物があるのだから、そのうち凄いものにあたるかもしれないが、あたらないかもしれない。元々解答はないかも知れない。答案用紙と違い、答えのわからない旅である。「問題の所在」の提起が問題なのである。これだと思い込んで研究者は取り組むがたいてい外れる。余程僅かな幸運者がいるが、それもひと時の慰めでしかない。お陰様で、腐るほど読む本がある。もうそこの図書館で借りるのを止めようとしたが、また10冊借りてきてしまった。・世界戦争犯罪事典・天皇・日本人を考える・現代史の対決・「忘れられた日本人」の舞台を旅する・日本文明の謎を解く・日本の風俗起源をしる楽しみ・文化心理学・文化人類学・桶屋一代江戸を復元する中旬に、海外旅行をするので、それまでに読まねばならない。劇団四季の「アイーダ」観劇もありの、それまで、歯科もあるし、定診もある。ある方から、私のは、狙われますよといわれた。望むところだ。
2006.05.30
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夕陽の中に 時刻がたてば何時とはなく 忘られて行くみにくさである だが・・・ 夕べの空がひととき茜に燃ると 青葉の中に揉み入りたいような 衝動が起きて来る ああ・・・ 今はなべてのものから引はなされ ひたすらにあらむとする みにくさである ~或る病者のうたえる~ハンセン病患者の記録である「近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦後編>第4巻」の中で見つけた。迂闊にも最初「みにくさ」とあるのを「たみくさ」と読んでしまっていた。たんに患者の感慨なのだろうと思ったのだ。そして、ふと字面を読み直して、「みにくさ」と書かれているのに気付き、ショックを覚えた。ひとりの詩人のふかい悲哀を、唯、素通りしてしまおうとしていた自分の愚かさにに愕然とした。恐らく、私も含めて、患者以外のひとには、その耐え難い苦悩に耐えられず、こころの目を閉じてしまうのだろう。人間は、それを耐え抜いたひとだけが得られるこころの輝きがあるに違いない。それは、凡人には、覗き見ることの出来ない「世界」でもあるだろう。せめて、詩歌を紹介したい。
2006.05.30
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今朝は、歯科治療が長引いて昼までかかり、図書館に行きそびれてしまった。元同僚からやっと連絡があったと思ったら、宮崎でオペだったらしい。九州にはオペのできる外科医がいないらしい。UT と帝京にしかいないらしい。九州は50年遅れているそうだ。「何が何に対してか?」は良くわからないが、まあそんなものだろう。研究者は、意外と組織化されていないのではないか。謂わば、昔の魚屋か八百屋さんなのではないだろうか。企業も、意外とそうなのだ。世間が誤解しているだけで、トップで何を言っても理解しないアルツハイマーに近い人もいる。「うなぎの寝床」で看板と実体が違うことはよくあることだ。「裸の王さま」もいる。だから、社会的地位で物事を判断すると痛い目に遭うだろう。「似非」が多いからでもある。タレントがどれだけのタレントがあるか知らないが、似非でしかないだろう。芸術的似非が文化を荒廃させている。他人が、聞いて見て解らないだろうという意思があれば、法的な悪意ではなくても、本人にとっては剽窃と同じだろう。独創性のない見せかけでしかないレポートが溢れているようだ。「君子は器に非ず」という。寧ろ「器」になろうとしているからではないか。元々、人間は、安心して生きるようには出来ていないのだ。居場所を移動するための足があり、同じ場所にはいられない。いつまでも甘い汁を吸おうと思うから人生を誤るのかも知れぬ。私はそう思う。
2006.05.30
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社会的事実はそれが断片的でせよ、そこから分析できるものがある。それは観察者の能力でもある。理解力がなければそれは、単なるモノであり、「現象」でしかない。蛇足だが、いま「げんしょう」でローマ字入力したら、最初に「減少」と出た。未だ、コンピュータのレベルは低く入力者の意図についていけない、まず想定が狭いだろう。中国語の漢字くらいすぐ「変換」できるようにすべきだ。そういえばフランス語も簡単に文字入力できないのも変だ。意外とこの社会は「すべてが奇妙」なのだろうと思う。それが為されているのは、動かしているものの価値観の所以だろう。現在50歳過ぎの人たちの既成観念とは違うパワーで社会は形成されてきており、動き出しているのではないだろうか。その経済的ダイナミクスは、彼らの意識を遥かにこえたスケールで押し寄せている。惰眠を貪るものはHUKAI(腐海)に沈むだろう。流石に、この「漢字変換」も、出来ない。どうやら、平易な日本語とは、ボキャの貧困を意味するようだ。「うなぎの寝床」のような研究をしている学者がまだいらっしゃるのではないでしょうか?どうもゲストが・・・。>ある有名大芸術学部の近くのアートな喫茶です
2006.05.30
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横浜には、ランドマークビルというのがあり、これが流石にどこからでも見えていた。福岡市の東部郊外にある立花山は、樟の北限の原生林で有名だ。今日は、ある大学のビルからのビューポイントから撮影した、小さいけれど。何時も電線に邪魔されるが。嘲笑されそうだが、意外と写真を載せるのは愉しいものだ。ランドマークをあちこちから撮るのは、撮影者の目が、その時の風景を写すのだが、それはカメラの目であって、脳がみている目ではない。そして、脳が捉える映像は微妙でやはり表現が難しい。論文を見ていると人柄が見えても来る。参考文献一覧はどれだけのひとが確認するのだろうか。文責は作者にあるのだから、一々書くのもどうだろうか。やはり格好をつけないといけないという強迫観念からだろうか。メルクマールがないと安心できないのは、可笑しい。トラバーがあるのは測量だけでいいのではないか。お土産に戴いたケーキは美味しく戴きました。ご馳走さま。P.S.朝起き3時で、気分は悪くはない。女子大の研究論文とか、少し見る機会があり、ちらりと観ただけだが、・・・らしい研究なのだろうか? 少し纏めてからにするが、テーマも変だと思った。一部を観ただけでいうのは僭越なのであとにするが着眼点に独創性がない気がする。文学では、作品そのものよりもその背景だといわれるようだ。文脈が見えて、作家が何を意図したかが見えてくる。裸にされる。裸にしようとする論文も、論文を書いたもののレベルが見えるだろう。少なくとも一般の社会人をしてきたものに取って、歪にみえるのは何故だろうか。多分自営経営でしかないからだろう。食わせて貰っているという意気地なさが見える。押入れの中に頭を突っ込んで研究をやっても、それこそ自閉症になるのがオチだろう。それは、単なる「考察」でしかない研究を何年、何十年つづけても成果に結びつかねば意味がないのと同じだろう。それこそ、これから血をみるのは大学そのものなのではないだろうかという気がしている。寄生していたミミズたちが大地震に驚いて出てくるだろう。それこそゾロゾロと、こんなにいたのかと世間は驚くに違いない。「面白てやがて悲しき鵜飼いかな」になりそうだ。さて、今日も「芋ほりの一日」になりそうだ。>立花山の眺望ビューポイントです。
2006.05.29
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日曜日でも開館している大学があった。これで私の周辺にある三大学の図書館が全部使えることになりそうだ。三番目の大学図書館は、何度か公開講座に来ている大学でもあり、キャンパスは知っているので有難い。昨年公開講座で知合いになった方のお陰で大学の図書館を利用できることになった。公共図書館でしか読めなかったがスペースが拡がってきたのはうれしいことだ。人間は、環境でどうにでも変わるものだとつくづく思う。少し解ってきたことは、遣ろうとしないだけで、原因は、自分だということだろう。勿論妨害もなくはないだろうが、決意しなければ何も生まれることはない。今、学内の経済学会の研究論文「エコノミクス」を読んでいる(全23冊)。無料で貰ってきたので、あまりいえないが、論文をどこか審査評価する機関があるのだろうか。折角の成果がうやむやでは適わない。ホームページでも作って欲しいものだ。学は個人のものではない。開かれた大学をはやく実現されることを期待している。>キャンパス内の美人の看板娘3人もおられる喫茶でご馳走になりました。
2006.05.29
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ロバート・ブライは、「未熟なオトナと不遜なコドモ」の中で述べている。「どの年代の人びとも成熟する苦労をせず、過去の業績を取リ入れる芸術家としての努力をしなくなった。現代社会は、もはや芸術家としての困難で難解な仕事を要求できなくなっている。それは、いくらか才能のある人間が本物の芸術家のふりをすることができる環境もつくってしまった。いまやどこをみても「似非芸術家」で溢れているだろう。」「すなわちビジネスマンは、従業員に対して公正であろうとせず、学生は楽な科目を受講し、剽窃が横行しても恥じることがないし、行政官は、貧しい人びとのための予算を横取りしても、当然だと思っている。病気を診断する医師でさえ、其の病因となる背景を見ようとはせず、教わった通りの薬を処方しているだけだ。」そのマイナス思考は、セックスさえも退行した大人たちの遊び道具にしてしまった。今や、女性たちは、どうしようもなく傷付きやすく、孤立しがちな、せがまれると萎えてしまう男たちが如何に多いかを知って、ショックを受けているだろう。>今日行った大学キャンパス
2006.05.29
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Robert Bly 著・荒木文江訳「未熟なオトナと不遜なコドモ」から、・今や評判は地に堕ちた父権社会から、衝動が幅を利かせる社会へと移行する時代にあって、人びとはあえてオトナになろうとはしない。・アレクサンダー・ミッチーリヒは「責任を伴わない仕事を求める大衆社会は、競争相手となる膨大なきょうだいを生み出す。」・オトナは若者へと退行しーそれを見てー若者は、オトナになりたいとは思わない。その実体は、「だまされやすく、指導者に従い、喜んで群れの一員なる・・・」・成熟するには暇が必要である。急いでいる人間は、成長することも衰えることも出来ない。彼らは、永遠の幼年状態に留まる。・Sibling Society では、何が本当か判断することが難しい。われわれは、ますます宣伝ばかりの「実体のない出来事」にかかわるからだ。・「実体のない出来事」とは、主催者が精神的あるいは政治的に重要なイベントを約束しておきながら、人びとをだまして、ほんのわずかしか関連のない内容を提供するときに起きる。それは、何百万人もの人びとが、それをみる「TVショー」等だ。・ますます創り上げられる若過ぎるサクセスストーリーが強要され、芸術や文化が荒廃している。・アメリカ社会のオトナたちは、愛されたいという飛び抜けて強い欲望を持っているが、しかし、だからといって、彼らは、愛情を返えす必要を感じてはいないのではないか。寧ろ、愛情の対象となるだけが望みなのだ。愛して貰うためには、子どものいいなりになるのが一番ではないか・・?まだ中途である。どうも、先行きが不安な気もするが、午後、続きを読むつもりだ。あと返却日もあるので「ハンセン病問題資料集成」を持込んでいる。・2・26事件秘録・川を渡る Crossing The Riber読めるかなあ。
2006.05.29
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そのスケールは、流石に日本の比ではない。日本の伝記は、古事記や神話からだろうが、望遠鏡で見なければ見えないものではない。然し、「史記」は、ステレオタイプではある。要は、観察者の視点の問題であるだろう。虫眼鏡で見ようとするから、すぐ行き詰るのだろう。自然に読めばいいのだ。どれだけ偏頗な学識だろうと、あるものを使えばいいだけだろう。それさえ使おうとしないから、見えるものも読めなくなる。誰でも解るものを解らなくしているのは、ちんけな学者でしかない。そのことに、流石に気付き始めたのが最近の大学なのだろう。寧ろ、ひ弱な精神の学者の研究では役立つ現実ではない。遥かに健全な人びとが世界には溢れており、彼らの象牙の塔は、ダムの底に沈むだろう。世界は、棄てるものと育てるものの選択を始めている。私は、「史記」から日本を見ようとしている。どこからでも見ようと思えば見れるのではないだろうか。自分の視点を下げているのは、自分でしかない。大学の研究が「質が高い」などと思っているのは、「ミミズの脳」の学者だけだ。独創性を生み出すものは、貧相な彼らの人生からではない。>写真の植物でさえ、「戦略」として花を作り出したのだ。それくらいの知恵を出さないでは、ヒトは生き残れない。
2006.05.29
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多くの歴史が、私たちに語りかけているが、聞こうとしないのは自分なのであろう。解ろうとすればできる言語ばかりである。それは文化でもあるだろう。闇から闇に消えていった人びとも多いというのに、少なくとも、今学ぶことの出来る人間であろう、私たちは。否、そう容易ではないかも知れない。矢張り、切り開くには、限られた時間であり、日々であるに違いない。誰にも出来るということでもない。謂わば、本旨というその声を聞き取るだけのレセプターを持つものでなければならぬ。そして、その人間の、TPOもある。唯、多くの良書を読めばいいのでもない。知識だけでもない。宗教でもない。それは、何なのだろうか? まだよく解らない。私は、自分の遣りたいことを他人に訊く気はしない。たとえそれが嘲笑されても仕方がない。判ることは、自分には自分の道があり、他人とは違うだろうということだ。他人の真似をしても得られない、わが道があるということだろう。そのための指標として学問があり、社会があるということなのであろうか。P.S.「嘯く」とは、広辞苑では「息を大きく強く出す」「口笛を吹く」「くちずさむ」「吼える」「そらとぼける」の意とある。私のは、差し詰めここでは「そらとぼける」に近いだろう。卒業する時に、私は、自分の日記や、友人に「10年間は、雲をみて過す」と言った。そのつづきをしているようだ。以前は5年間くらいは経験したが、中断があるので、再開してまだ1年間だ。まあーやる気だけはある。
2006.05.28
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いまやハンセン病は不治ではない。かって業病とか天刑病とか言われた。ガンもやがて治療法が見つかるだろう。併し、ことは容易ではない。科学の進歩で救えるものとそうは行かないものもあるからだ。然も、科学は端緒についたばかりだ。寿命が延びるからすべてがいい訳でもない。問題は内容だ。人間の良さを知り、それをゆっくり楽しんで逝きたいと、誰しも思う。誰にもその恵みが公平でありたいと思う。「神」の前に平等だけでは足りない。現世でそうあるべきだ。そのためには、ひとは一人の人間としての権利と義務を果たさねばならぬ。誰でもネイチャーとしての言語を持っているが、言語だけでは想いは正確には伝わらないことの方が多いのだ。恋人同士でも余程真剣に触れ合わないと誤解してしまうだろう。それは、人間は、内向きに生きている方が、気楽だからでもある。そして、このブログも殆ど内向きだ。だから続けられるのかも知れないが。恐らく、かなりのノー天気でもない限り、そんなに安易な万能薬ではない。他人と知り合って、助けて遣ろうなどというひとは嘘つきか、ニューロンネットワークの壊れかけたひとではないだろうか。物事をイエスかノーで判断するひとなのだろうと思う。誤解からスタートするからといって、相互理解ができないというのではない。愛情も、それこそ’アプリボワゼ ’なのだろうと思います。
2006.05.28
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始皇帝が崩御したとき、宦官の趙高が公子胡亥に、兄を殺して皇位を継承するべきだと「断行」を迫った時の言葉だという。中学時代、この言葉が気に入って、便所に大書して貼っていた。親たちから別に叱られなかったので、いい言葉だと思っていた。「鬼神」の意味もよく理解していた訳ではない。「断じて行えば、どんなことでも遣れるものだ」と、勝手に解釈していたようだ。まるで、青年将校と同じだ。自分たちにやましい事が無ければ、誰でも理解してくれると思ってしまう。丁度、自分が好きなのだから、相手も自分に好意を持つはずだと思うのと同じだろう。何でもいい方に考えるか、反対に其の逆か、極端過ぎてしまう。イエスかノーでしか考えられないらしい。ある意味で「断行」せねばいけないようなことは、この世ではないのではなかろうか。それほど、人間は利口でも、全能でもない。これしかないと「断行」して、あとで後悔する話は、嫌というほど聞かされる。そんなことは判っている筈だといわれるだろう。そんな常識も無いのかと。アジアでは、未だに学力テストが、その人の一生のターニングポイントだという。そんなことをまだ遣っているのかと思うが、一番手っ取り早い簡易な選別方法なのだろうか?それで、本当に豊かな社会を標榜できる人材が育つのだろうか。それは、「断之而敢行、鬼神避之、後成功」と鞘高のような人物から唆されていることにはならないのだろうか。ストイックな人生ほど、脆いものはない。そういう人生を社会が若者たちに求めた時代は、まだ続くのだろうか。本当は、誰が悪人なのだろうかと、ふと、思ってしまう。
2006.05.28
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成功の下(もと)には、久しく処(お)るべからず。日本語は、読むのも、書くのも、解釈し・理解するのも難しい。まして外国語も。人間社会も、宇宙も遥かに厖大である。日本語は、もともと議論するためではないだろう。伝えるため、命令するために始まったかも知れない。だから、一寸したことで、安心しようとする。小さなことで成功してそれでいいではないかと考える。大陸の人は、まだ先があると考える。もっとこれではすまないと思うのかも知れない。おかれた環境で周囲をどうみるかでひとの思考も変化してくる。日本語が難しいから、外国語を学ばない人間は、近所のおじさん、おばさんで一生を終わることになる。それでいいという人間もいていいが、事変があればまっさきに犠牲になる人たちだ。個人ひとりひとりが集って社会があるとすれば、多くの人たちが、社会的な動物としての人間を自覚して生きていくべきだろう。種としてのヒトは、多くの形質をとりいれて進化したが、まだ愛するものを守れないでいる。それは、成功者が、「成功の下には、久しく処るべからず」の精神がなく、その「獲物」をいつまでも貪っているからではないか。自分の使い慣れた「ことば」で為そうするものは、道程の欠片でもないのだ。前からの自分しか知らないものは、一度じっくり後姿の自分を見てみればいい。だから、山頭火は、詠じた。 うしろ姿の時雨れてゆくか>写真の紅い薔薇は、先ほど、コメントをくれたイギリスのみやこさんに!!
2006.05.28
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未だ、日本人は、大人こどもしているのではないかと思うときがある。何でも他人に訊いて、知ろうとするのは、普通のこどもの所業だからだ。泥棒に「あなたは誰ですか?」と聞く莫迦がどこにいるだろうか。相手が、まともな人間だというからまともかどうかなどどうして言えるか。自分は、幼稚だからと許される訳でもない。ある資料で、「終戦秘話」なる元国務大臣情報局総裁なる人物の講演の記録を読んでいた。「・・・一体内閣閣議というものは記録を取らないことになっている。故に閣議の間にメモでもとっておくか、閣議直後にすぐ書いておかないと誤りが出来、正しい事実は不明になる。うちでも最も問題は日時の前後ーいく日であったかなどに誤りがありすぐ書いておかないと記録は遅れてくる。・・・一体日本の政治家は従来、面会と宴会に攻められ勉強は不足となって政治家で手記を残した者はいない。・・・最も大切なことが秘密として葬られる。そもそも、この大戦をはじめたのは日本は唯だドイツの力のみをたよって来たのだ。それが二十年四月にドイツが降伏するや日本の勝目は無くなった。・・・鈴木貫太郎内閣は、天皇の絶対の信任があったからだ。鈴木大将には、政治は解らない。」どうも、政治の解らないひとを総理大臣にしてしまうのだから、日本の政治は怪しいだろう。そうしたのは、大人になりきれていないひとびとがそうしているのだろう。何でも他人に訊けばいいという、大人こどもたちがこの社会を形成しているところに、この国の危うさがあるのではないだろうか。>我が家で初めての紫陽花です。いやァ、うれしいですね。鎌倉のアジサイ寺を思い出します。 九州も入梅しました。
2006.05.28
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どうも小さく綺麗に固まってしまう傾向があるのではないか、これも抽象的な表現でしかないが。知ることを懼れてはならない。どうも子供の頃から脅されてきたようだ。つい遠慮が先に立つのは多分その所為だろう。日本人は、小さく生きることが善とされてきたようだ。そのくせ公徳心が薄いのは何故だろうか。姑息な生き方を強いられているのではないか。正しいとか間違っているとか。どこでも議論しあっていいと思う。議論のないおとなしい人間が利口なのではない。人間は議論しながら、意識が高まるのだ。議論のないところに進歩はない。「良妻賢母」を目指してきたなのだという女子大など笑止だ。静かな図書館で、女性史の饒舌な本を読んでいると、思わず笑い出したくなる。くだらない男の子を産むことだけで、自分の人生を終わろうとする女性など、豆腐の角にでも頭をぶつけて・・・がいいだろう。私の、きょうの一日は、妙な、軌道を奔っている。>せめて、花でも、どうぞ!
2006.05.27
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図書館の文庫本の棚を見て、ぞっとするのは、私ばかりだろうか。中には、闘争心を燃やす人いるに違いない。誰も検閲しないので、図書は増えるばかりだろう。まあ50年か100年も経過すれば殆ど忘れられるだろう。一般に「無用の用」であるものも、或いは、観察者の目に触れて息を吹き返すかも知れない。一葉がそうであったように。孟子ですら、斉の宣王や魏の恵王に用いられず熱弁を奮ったが、どこへ行っても相手にされず、ついに身を引いて「詩経」「書経」を整理して、孔子の主張を正しく後世に残そうとして、七つの篇からなる「孟子」を著した。それにしても、「孟子を招くのに高くついた」孟子は、数十台の車と、数百人の弟子をつれていたからだという。戦国の世は、それでもそれができるというのも、背景に富の偏りがあったのだろう。荀子は、荘子を「無用と思われているものが、何もしないでいて、役に立つことがあるだろうか。それが役立つのだと発見するものがいなければならない」と。荀子は、人間は努力をし、自らのもつ価値を、自ら確認して生きてゆける社会的動物であると考えている。どうも、これを読めばという本は、まだ夢のまた夢であるらしい。いま自分が何を選ぶのかは、その人間のスペースを示すものであることはいえるだろう。
2006.05.27
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今朝は3時に起きて一寸接続しようとしたけど、出来なくて「まあいいか」とのんびりしていて、午前中「史記」を読んで、昼からブログを忘れて、大学の自習室で外国語の練習をしていました。さてと思い直して、接続をしようとデオデオに電話したのですが、中々接続できず今になりました。辛抱強く付き合ってくれた担当の女性の方に感謝です。色々勉強になりました。一度リセットしたときのことを思い出しました。何度か電話して漸く繋がったのですが、こんなに時間がかかるのであれば、長くなる筈です。妙に納得できました。さて、投稿できるのか、またこれが解りません。写真も載せられるでしょうか。できたら、ブログも再開します。
2006.05.27
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荘子「人間世篇」で、今は有用の用、つまり役に立つものはかえって自分の身を損なう世である。肉桂の木は香りがいいので伐られるものだという。何の役にも立たないものだけが、無事に無傷に生き延びるという。役に立たぬと思われてこそ生命の燃焼もあることを知るべきだという。ある時、楚の威王が莫大な金品と大臣としてきて欲しいとの要請に、荘子は「私は汚れた溝の中で遊び戯れているほうが楽しいのだ」といって断ったという。繁栄を極めて得意の絶頂にある者も、今苦しんでいる自分も同じだと考える。世の中とは、ひとつの混沌とした固まりのようなもので、その中にいるものは、実はみんなひとつのおなじものだという。なぜならば、あいつもわたしも同じひとつのもので、金があってうれしい、金がなくて悲しいといった感情は、どちらも同じまぼろしに過ぎない。そして荘子は、胡蝶の寓話をする。「夢の中でみたのは、私が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が私になった夢をみたのだろうかと。」人生は、まぼろしに過ぎないとは思わないが、世の中の役に立つということが、いわれるほどあてにならないことはいえるだろう。何が、いいかも一概には言えないだろう。
2006.05.26
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本当の自分の能力が発揮できる時間は余りない。大抵しくじる人ばかりだろう。何せ、それほど親切な社会ではない。自分から潰れる奴は仕方がないが、せめてそれくらい気付かせるチャンスをくれたらいいのだがそれさえないだろう。7回貫通型受容体1000個のあと140個のシグナル分子が不明だ。オーファン受容体という。土台他人の真似をして研究していたら自分の寿命で足しはしない。だから、専門莫迦というのだが、成果が出なければやめればいい。「諦めろ」ではない。それでも、ダニは、獲物が来るまで待っている。その根気は大したものだ。それで死ぬことになっても一度のチャンスに命を賭けるのだろう。人、様々だが、好きなことを遣ることではないだろうか。山崎朋子の小説で「からゆきさん」が密航で、船底の石炭倉庫に閉じ込められて悲惨な死を遂げる話があるが、それを思えば、何でも出来るのではないか。ー新しい機能物質を探すーともう一つのテーマは、-地球は大丈夫か?だった。講師は、韓国人の先生で、最先端というより一般向けの話だったが、「エアロゾル粒子」の話は、興味が湧いた。>やはり写真は載せられないようだ。P.S. やっと載せられました。文章がお寒いので追加します。
2006.05.26
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時々、ネット接続が出来なくなります。弄り回していたら今になりました。お粗末。だから、講師のネットのレクチャーを未だ見ていません。最近では、生理活性ペプチドの多くが7回膜貫通型受容体と呼ばれる特殊な形の膜蛋白質によって細胞内へ情報伝達することから、ゲノムプロジェクトで明らかにされた遺伝情報を元に、7回膜貫通型受容体と予想される遺伝子を追いかけているとの話がされていた。未だ見つかっていない新しい生理活性ペプチドを単離する有効な戦略を探究中とのことだ。筑波大の先輩がナルコレプシーに有効と思われるオレキシンが関与しているとして注目されているとのこと。科学者にも運不運があると嘆息されていたのが可笑しかった。何せ、ネットの接続不良で予定が狂ってしまい。まだ夕食も食べていない。これから食事して、ノートを整理してみようと思っている。>写真は、大学の正門前の、西鉄津屋崎線沿線の風景です。花の名前は知りません。 どうも写真がでませんので、後ほど。P.S. やっと載せられました。
2006.05.26
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「研究最前線」は、今日の春季公開講座のメインテーマです。どんな講義か愉しみです。2人の講師で、・生命科学者の宝探しー新しい機能物質を探すー・地球は大丈夫か?地球環境を考えよう!「最前線」は何か?科学者は探していますが、それがいつまでも「最前線」ではないところに難しさもあるのでしょう。そして、過ちを犯しがちです。人間は過ちを大小犯しながら生きてきたと思います。取り返しの効かない事も多い。過ちをしたら反省をしなければ、同じ過ちを繰り返すだけでしょう。「ハンセン病」を不治の病の伝染病として、40年余も患者たちを絶対隔離した。その偏見のために、1951年には、長男がハンセン病患者と診断され山梨県で一家心中事件で、両親と兄弟姉妹合わせて一家九人が、青酸カリで服毒自殺している。少なくとも、プロミン治療によって治癒は可能となった時点で、すぐにとられねばならない措置はいくらもあった、無視されたのは、患者の人権が、如何に軽視されていたかを物語っている。詳しいデータがあり、当時の管理者や、厚生省の態度が読み取れるのは貴重だ。最先端は、専門家だけのものではない。専門家はややもすれば、専門莫迦になり易い。研究は自分のものだと考える幼稚な人間もいる。皆がそうとは言わないが、哲学を解しないものが多いのも事実だろう。科学者だけの世界ではない。人間は、視野を広くもって生きるべきだろう。
2006.05.26
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どうもモタモタしています。時々繋がらなくなる。誰かが悪戯でもしているようです。でも怒らない。「怒りは火事也」と言うそうです。「火事はすべてを、大切なものまで焼いてしまう。怒っては損である。実に勿体ないことである。そこで怒りたくなったら何か口中に念ずるといい、南無阿弥陀佛でもよしアーメンでもよろしいんである。かくすると怒りは静まる。しかして怒りを静めた報いは必ず来るものである。怒りの針が動いては病気も治らない。怒らぬことは病気を治す秘訣である。」これは、元大宮御所侍医荒井恵氏の挨拶の中にあった。(昭和23年8月於松丘保養園)「ハンセン病問題資料集成」は、貴重なデータだ。少なくとも発言したことや、書いたことが残っていることは内容は別にして大切なことであろう。何でも残しておくことは出来ないが、できるだけの努力はすべきだろう。証拠隠滅をはかるのは疚しいことがあるからだろう。ハンセン病の歴史を見ると、1956年の時点で、世界の常識から日本は逸脱してしまう。法を変えずに対応だけで現実にあわそうとして、必要もない強制隔離を続け、患者を苦しめ、強制堕胎をして、かけがえのない生命を奪っている。「恐ろしい感染病」と言われてハンセン病患者は、ユダヤ人のようにゲットーのような施設に強制隔離されたのだ。朝から、ムカついても仕方がないが・・・さて、書いても投稿できるかわからないので。
2006.05.26
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国民の中の歴史的な差別感を理由に、厚生省は、政策の過ちを知りながら、ハンセン病の政策の早期かつ根本的な転換を怠ったのだといわれる。かくして、1960年代においても強制隔離は継続された。歴史的な差別感は誰が指導して、植えつけたのであるか。国家の政策の誤りとは、何度聞けばいいのであろうか。根底にあるのは、その国民の差別意識を利用してきた姿勢がいつまでも払拭されないことだろう。不正を憎む精神が培われない社会では、到底差別は解消しないだろう。愛することは、悪を憎む決意がなければならない。差別を許さない決断があって、平等が達成されるだろう。曖昧な態度が、差別の温床になるのではないだろうか。女子大の図書館で、女性史に関するコーナーの書籍類を見ながら、それが豊富なのかどうかは判らないが、学生たちは、問題意識をどれほど持っているのだろうかと思ってしまった。
2006.05.25
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山崎朋子は言う。「恋愛という感情が人間の内面の<自由>の領域に属するものだとするならば、(女工哀史の)彼女たちは、少なくとも其の領域が自分のものであるという誇りをもつことが出来たはずだ。つまり、彼女たちは、労働力を売ったけれどもその外のものを売りはしなかった。ところが売春婦は、もともと人間の<内面の自由>に属しているはずのセックスを金銭で売らねばならなかった存在である。労働力をひどい低賃金で売って生きる生活とセックスまでも売らざるを得なかった生活と、どちらがいっそう悲惨であるか!」私は、からゆきさんが「女工哀史」よりも「いっそう悲惨であった」とは、思わない。どちらも同じだと思う。西欧人や日本人が相手であろうと中国人や土人が相手だろうと、その悲惨さは同じだろう。何れも虐げられたものの歪められた偏見の差でしかない。現代の売春も同じだ。おサキさんたちの置かれた環境で「死か売春」しかないものと、現代のような、そうでないものとでは、全く違う。自らが招いた浅墓さこそ恥ずべきだろう。山崎の視点は、間違ってはいないが、寧ろ女性の通史を目指すべきではなかったろうか。如何に、悲惨な事例があろうと、感情輸入があってはならないのが歴史家の使命だろう。勿論それは作家としての作品の評価を下げるものではないが。「サンダカン八番娼館」挿入された古い人物の写真は何を伝えているだろうかと思う。一部のエリート女性の歴史ではない。女性による日本女性の通史がなければならないと思う。
2006.05.25
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搭乗で医師の診断書がいるらしい。厳しくなったと言うけどどうだか判らないが一応お願いしてきた。今日は、少しまじめに遣ろうと決意して図書館に来たが、聊か挫けそうだ。・老人の生活と意識・日本の高齢化を考える・高齢化社会への対応・老いの心理学・H.P.高齢化社会が問題とされるとき、必ずしも明るい社会として描かれない。・医療費の増加・寝たきり老人・一人暮らしの老人・収入減による経済的逼迫 マクロデータでは、55歳以上は高齢者である。この重要問題を先送りすることしか政府は考えていないばかりか個人責任に転嫁しようとしている。就中、「老いのプロセス」で否定的な影響を及ぼす理由とは、・有益な活動を妨害される。つまり消極的態度の強制。・肉体的衰弱および愁訴。・娯楽の剥奪。つまり人生の悦ばしい経験や楽しみの断念など。・死の脅し。 (ウルズラ・レーア「老いの心理学」より)老人たちに必要なのは、ただ単なる「援助」や「同情」なのではなく、「尊敬」と「優しさ」をもって遇することだろう。赤子の頃、自身が、親たちから受けていた無償の「愛情」を思い出すだけだ。
2006.05.25
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この社会は、外見で形成されている虚構の世界であろう。社会的ステータスがそのひとの意識を決定してもいるが、全てのものがそれを弁えて、責務を果たしている訳ではない。どんな理想的な装置を持っていたとしてもそれを組織するものがそれに相応するひとでなければ、すぐ陳腐なものになってしまう。それは、今の世界だそうだ。確かに、改善された点はあるとしても、旧弊に喘いでいる人間たちがいる。何故社会的正義が為されないのだろうか。それは人間が生来「悪」だからであろうか。しからば、何をすべきであろうか。それを誰も、他人事にしている。誰も、自ら犠牲になろうとはしない。崇高な精神をもつものがいたとしても、彼らは、この澱んだ暗闇の中で喘いでいるに過ぎない「か弱き」ものたちでしかない。権力のあるものたちが、腐った肉を晒している。そして、この社会は「こんな世界だ」と喧伝して回っている。人びとに「人間の誇りを棄てろ」と言っているだろう。それを信じようとさえしている人たちがいる。それがエリートだろう。彼らがリーダーである限り社会は汚濁の中だ。人間は、誇りを内にもつものたちである。それがあったから進化があっただろう。その誇りを棄てて生き延びようとするものたちから、取り戻すものがある。
2006.05.25
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横田めぐみさんのご両親を知らない少なくとも日本人はいないだろう。そして、めぐみさんを取り戻そうと奔走されている姿に泪しないものはいない。世界の目は、お二人の慈愛のこころに揺さぶられてもいる。何故、「拉致」があるのだろうか。人間を人間とも思わない所業が繰り返されるのか?それは、この21世紀に於いても、民主主義が根付いていないことを表象している。人権蹂躙は、政府の通常の手段でしかないのか?世界の良識ある人びとにとって、何故北朝鮮は、横田めぐみさんの生命を速やかに明らかにしないのか不思議に思っている。そして、日本政府の外交能力のなさに、いまさらながら愕然としている。自賛してきた国家ではない。ひとりの少女の生命さえ保障できなくてなんの文化であり、国家であろうか。これでは、国民の生命を守るということばも信用できない。子を思う老夫婦が老体を鞭打ち、世界に北朝鮮の不正を訴えておられる。かって、日本も、アジア諸国を蹂躙し蔑視して各国で大虐殺をした侵略国家であり、世界から憎悪された。どの国家も必ずしも正義をのみ行うとは限らない過去を持つ。然し、親が子をどこまでも慈しむ愛情は、いつの時代にも変わらない人類の本源的なこころである。正義が行われんことを祈りたい。
2006.05.25
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一眠り、しまして先ほど目が醒めてました。外に出てみたら街灯で星が良く見えませんが、目も悪くなっているかも知れない。都市化してしまい星空が遠くなっています。真っ暗の菊池川の河畔を歩き回ったことが懐かしく思えてきます。不審人物と間違われて、後ろからパトカーが現れたときは、ドキリとしましたけど。ライトを消してつけられていたようです。「へえ、星ですか。いいですねえ」なんていわれましたけど。考え事をしながら、歩くのは田舎に限りますね。それも月の出ていないときが目立たなくていいかもいいかも、おまわりさんに気をつけよう!!
2006.05.24
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それから、2・26事件の公判記録を読んでいた。青年将校とは、誰を言うのだろうか。少なくともエリートではない。背景は複雑だ。清張の「昭和史発掘」とはまた違う側面が見えてくる。それから、山崎朋子「サンダカン八番娼館」を校内検索で見つけて、少し読んだ。確か以前も読んでいるが、何か新鮮な感じがする。気がついたら19時近いので、今日は、ここまでだ。シンガポール史も、中国、イギリス、日本と絡み合う歴史があるように、私たちの世界観も一様ではない。探っていけば「からゆきさん」もいる。その娼婦の語り口が熊本弁で、私は郷里なので、祖母が話しているような現実感が迫ってくる。13歳で売春を強要させる世界がある。3百円の借金が何時のまにか2千円になっているという。理不尽な世界は、まだ繰り返されているだろう。どこまで、私たちは、まともでいられるのだろうか。ただ、今日も、こころの「軌跡」を追いかけるしかできない。
2006.05.24
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名水百選の「不老水」取得し、序でに「理髪」。スタバで珈琲豆ゲットなどで、昼を回っていた。只今大学付属図書館で、「いまどきのシンガポール生活」「スチームボート・シンガポール」を読んでいる。少し眠くなってきたので一息入れている。ガイドブックは、見慣れているが、其の国のひとと触れながら書いてある本は、違った視点で面白い。若い作者だし、気取りがなくていい。そういえば、ウエブでも最近ブログのようなサイトがあったりするようだ。学識があろうとなかろうと、そのとき自分がどう感じ思ったのかを、できるだけ受け売りでなく、自分のことばで書くようになったのは、日本人が視野を拡げつつあるのかも知れない。それに写真付きなのがいい。この国でも、日本陸軍の歴史があり、日本軍の華僑大虐殺の話が出てきた。どうも大きな顔をして観光できない国が多いようだ。観光客が現地のひとから「どう思った」と訊かれても、返事ができないという。観光であろうと、相互理解のチャンスであろう。淡路島の広さで、シンガポールは人口350万人の内、中国人系が77%占めている。日本人の3万人居住している。「マーライオン」は、「世界三大がっかり」の一つだそうだ。シンガポールに出かける口実は、まだ見つけられずに困っている。まあ行くまでには、何とか見つかるだろう。学歴社会だそうだ。イギリスの統治の陰もさしているのであろうか。
2006.05.24
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1931年「らい予防法」のもとで「無らい県運動」は絶対隔離を推進した。1947年5月、熊本県の菊池恵楓園長宮崎松記は「らいの調査収容に関する意見」の中で、「らい患者の存在を知ったものは無記名を以て其の所在を保健所または県市町村の衛生当局に申告投書せしめる」ことを求めている。之は、まるで戦前同様、隣人へ患者密告を奨励し、同運動の推進を主張したのだ。これは、ナチスがユダヤ人を密告させた所業と同じではないか。かかる卑劣な行為を国民に求めている姿勢こそ「愛の殿堂」とさえ言って憚らないのであろう。「患者蔑視」の態度は許せない。ハンセン病を不治の病だと決め付けて絶対隔離を正当化してきた論理そのものが間違いであった。これは、多くの公害病で苦しんできた患者たちにも共通している。水俣病で、国や県市がチッソと手を組んで、長い間苦しめてきたではないか。これは、日本人の特質だろうか。差別社会がそうさせるのであろうか。そして、これは、世界中で今も存在している。油断すると、私たちもその偏見という蒙昧に加担してしまうかも知れない。今更ながら、肝に銘じねばならないことを示唆しているだろう。
2006.05.24
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藤野豊編・解説編集復刻版。戦後無らい県運動/解説。不二出版。戦後編・第4巻。資料528読み始めたばかりで、資料としての価値がどうかは知らないが、少なくとも、この「琵琶崎らい病院創立五十周年記念」集は、こころを打つだろう。朝3時に起きて読んでいた。この病院は、マリアの宣教師フランシスコ修道女会から若い五人の修道女が、派遣されて救済の道を切り開いたのが端緒である。記載されているエピソードは、ほんの一部に過ぎないだろうが、涙なしには読めないものばかりだ。もし作者が、芥川や一葉であったなら、どれだけの名作を残すだろうか。此処には、日本の隠された真実があるだろう。人間の極限の悲しみが表白されている。このことを知らずして、ひとは人間を知ったといえるだろうか。どんなに高潔な人間も、この事実を知らずして何の真理を悟り得ているといえるであろうか。もう何も言うまい。知れるものは少なくとも、知ることを願うものはいつかかたちは変わろうと知るに違いない真実があるだろう。真実は、宗教家だけが知るものではない。それは誰でも感じることが出来る。何故なら、私たちは、同じ人間だからだ。私たちは、まだ蒙昧の中に苦しむものたちであるが、先人たちは偉大な足跡を刻んでくれているだろう。せめて、それだけは言いたい。触れるべき一冊の本がある。
2006.05.24
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熊本市の「琵琶崎ハンセン病待労院」創立50周年記念の写真集の中に、Father John Mary Corre of the Missions Etranjeres, Paris. の写真がある。どこか、ハリー・ポッターのアルバス・ランブルドア校長のような雰囲気がある。シスターは、自発的な自己犠牲を以て「教会及び罪人の贖い」に自己を捧げるとされる。コール師は、多くのハンセン病患者のための病院を設立し、5名のシスターを送り奉仕させている。仏教は何をしただろうか。政府は、どこにいただろうか。管理者は、何を考えていただろうか。自分たちの仕事を小さくしてしまう人びとばかりだ。多くの患者が、待労院で救われた話が書かれている。考えてみれば、歴史は、殆どが差別の物語であろう。公平に書かれた本などないのかも知れない。だが、一々腹を立てて読んでいては何にもならない。我慢して読んで見ることだろう。それは、生きていると同じでもある。この世がどうだといって、やめてしまうわけにはいかない。であれば、自分が強かでなければ何事もできはしない。強くなるためになにをすべきか考えましょう。一人一人違うのでしょうから。P.S. 私のブログは、勝手に内容を変更します。いつまでも同じところにはいません。試行錯誤(trial and error)がありますから・・・。
2006.05.23
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女子大の図書館の検索を「シンガポール」でしたら、11冊しか出てこない。どうにか3階にある3冊を取って来た。・久保優子著「いまどきのシンガポールの生活」・伊藤伸平著「スチームボート シンガーポール」・世界現代史「東南アジア現代史2」1065年 マレーシアより離脱し、シンガーポール共和国建国とある。在住シンガポールの久保さんは、ワーキングウーマンらしく、読んでいて愉しい。自分の視点でシンガポールの社会をみているのがいい。政治とか歴史だけではない、その国とどう市民レベルで付き合うかだろう。変なところをいじったらしく、「変換」が可笑しいので、仮名が漢字になったりしてしまう。まあ、ふと思ったのだけど、日本では魅力的な女性が増えて、男はいまひとつ元気がないような話しがあるが、そもそもいい男がいないところにいい女もいないのではないだろうか。もし日本の女性が魅力的になってきたのはいい男を外で見つけ出したからではないだろうかと思うのだが。これから、片付けて帰ります。
2006.05.23
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「近現代日本 ハンセン病問題資料集成」をやっと県立図書館から手に入れて、読んでいる。読みながら苦しくなった。国民は、患者のための「愛の殿堂」と言われて信じていた人たちもいた。現実は、過酷な患者労働、懲戒、検束規定による患者への暴力的管理が横行し、強制堕胎の地獄でしかなかった。この恐るべき施設は最近まで生き延びていた。この日本国憲法に反する非人道的な隔離政策は現存していた。今回、調べて見たかったのは「琵琶崎らい病院創立50周年記念・マリアの宣教師フランシスコ修道女会(1949)」。1931年改正された「らい予防法」のもとでの絶対隔離とそれを推進したらい予防協会、あるいはキリスト協会や宗教団体の、患者の炙り出し行為についてだ。「同50周年記念」史には、"The first five Sisters in Biwasaki."の写真がある。「強い信仰の心から、荊棘に蔽われている道(らい病者の看護)を雄々しくも邁進した。とある。いくつかの写真は、見覚えのある建物である。同待労院は熊本市の西北端田畑に取囲まれた小高い所に在り、朝は阿蘇の連山、夕べには金峰山が夕陽に映える地で、野鳥も多く自然に恵まれた土地柄である。光孝天皇の皇子が盲目となりこの地に居住して琵琶を弾じたてその不幸を自ら慰めた由来があるとされる。どうやら、私の以前に見た本とは違う。それは判っているので、余り期待はしていなかったが、収穫はあったと思う。2週間貸出しがあるので、ゆっくり読んで見ることにする。さて、今日は父母の命日だ。不肖の息子である。奇しくも同じ日に、探していた琵琶崎待労院の写真をみるとは思わなかった。
2006.05.23
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禹の子の啓が後継した。啓のあとは、代々、子が後を継ぐ世襲の王朝となった。世襲がつづいて「王朝」と呼び、別の誰かに切り替われば「革命」となり、誰か一人にしぼれない「乱世」がある。帝王が子を継がせようとすれば、有力者を抹殺しようとし、その先手を打って、そいつが逆に帝王を殺すかだ。理由は急病でも何とでもなった。真相は公表されることはない。歴史書は手本である。啓の子の太康は帝位に即くが、まるで抜け殻のように何もせず、ただ遊びほうけていて、邪道は限度がなく、洛水の南で狩をして百日間も帰って来なかった。この太康のような男はしばしば後世の王朝にも登場する。ひたすら系図的記述だけがあり、孔甲にいたり、二匹の竜の話がある。夏王朝を滅亡させた履癸(桀)は、孔甲の曾孫である。暴君は殺される運命だ。桀は愛妾の末喜と佞臣の斯観に目をくらまされ、忠臣関竜逢の価値を見抜けなかった。然も、変形伝説だ。そもそも夏王朝は伝説ではないかという議論さえあるようだ。中国の考古学では「実在した」とのことでが、日本では疑う研究者もいるらしい。今日は、昼に歯科医院に行くので家で過しております。それが済んでから、公立図書館で依頼してある資料を取りに行き、女子大の図書館に寄るつもりです。天然水とコーヒーが切れました。それにしても、雨上がりの気持ちのいい朝です。
2006.05.23
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「只管打坐」とは、道元は「ひたすら」ではなく「ただ・・・」なのだという。厖大な宇宙を知ることなどできはしない。諦観ではないが悟ることなのだろう。誰にでも判らせることなどできはしない、だろうか。どんどん幼稚な思考になりつつあるだろうか。「お子ちゃま味覚」で日本人は、これからの時代を生き抜こうというのであろうか。時々不安を感じる。極寒や極暑や飢餓に現在の日本人たちがどれだけ耐えられるだろうか。明治の日本人たちのように「ある」ことはできるだろうか。多くのものを得たが失ったものも多いだろう。それは犠牲であっただろうかと思ってしまう。先人は、「ただ、すわれ」という。しかし、何をせよ、とはいっていない。それは、受け取る側の責任だ。中国三千年の歴史を書いた司馬遷は、名を棄て、史書を残したという。小事(名誉ある死)でさえ、自分の使命を棄てることになるという司馬遷の選択が、貴重な「史記」を生んだ。ただ「ひ弱さ」だけが日本人にはあるだろうか。温暖な国土に育った者のそれが宿命だろうか。何事も簡単ではない。一日も思えば長いかも知れない。耐えなければならない自分があるが、所詮個人の歯がゆさでしかない。古人畏るべし、よく生きて使命を果たしてきただろう。その恩恵を受けているが、私たちは、何を残そうとしているだろうか。「楚人はもっこう(猿)して冠するのみ」(猿がかぶっている。着飾っているが、その心は粗暴で思慮が欠けている)という秦を滅ばした項羽がいる。現代人が、先人から「受け取りそれを残す」べきはいくつもあるだろうと思う。
2006.05.23
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尭の人徳は高い。尭が亡くなり、三年の喪があけると、舜は天子の位を尭の子の丹朱に譲ろうとしたが、諸侯は皆舜を支持した。そこで舜は「天なるかな」と言って、天子の位に就いた。このように天子が世襲しないで、有徳者に平和的に位を譲りわたすことを「禅譲」という。孔子は、「大なるかな、尭の君たるや。ギギ乎として、唯だ天を大なりと為す。唯だ尭のみ之に則る」言う。(「論語」)尭は、民の声を聞くためにお忍びで老人の歌うのを聞く。日出而作 日入而息 穿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉尭の治世が、為政者による統治を人民に意識させないものであったことを示している。中国では、天子は、世襲ではない。人徳者がなれば、理想的であったが中々そうは行かなかった。そこが、人間が、如何に厄介な生き物であるかであろう。
2006.05.22
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妻が予約をしてきたそうだ。来月中旬だ。またチンタオが遠のいた。数日前からガイドブックを借りてきたりしているが、どうも本が古いようだ。観光旅行なので何もすることはないが、その間に、劇団四季の「アイーダ」観劇もある。昨夜の話では、娘もシンガポールなら行きたいそうだ。エジプトだったり、オーストラリアしか行かない、ハワイなんてと言っていたのに、ほかにもは行きたい場所があるらしい。福岡空港発で行くので、アクセスは便利である。自宅から空港まで都市高速だと20分かからない。便利だけが、取り得の空港だ。今日の大学の自習室は、これからも時々利用ができそうだ。まあ、私は、スープの海を漂っているが、ケセラセラだ。「史記」を読んでいたが、故事・名言も時代性を考えるとしても、現在でも読む価値は充分にあるのではないか。古典をどう読むかは、現実をどう把握するかにも繋がるものがあるのではないだろうか。中国とどう付き合って行くかも、重要な課題だろう。
2006.05.22
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人間の才能は、いつ、どこで、どのように発揮されるかわからないものだ。だから才能のあるひとを発見するだけではなく、其の才能を開花させることが大切なのだと「史記」は繰り返している。それは、現在の中国も言えるし、日本でも言えるに違いない。私たちが、ことわざとしておぼえている原典がいくつも出てくるので面白くて読んでいた。自ら己の首を切るとか、暗殺あり、復讐ありの、「わが眼を抉りて、呉の東門の上に県(か)けよ」(伍子胥)とか。過激な戒めが多いようだ。恐怖感で威圧するのが手っ取り早い教育であったのであろう。「史記」の文献目録を見ると、流石に多いのに驚く。注釈書から研究書など明治以後でも数百冊はあるだろう。これらは、形が変容していても影響を受けないはずはないだろうから、私たちの意識のルーツでもあるだろう。中国の文人には、謹厳実直な道徳家が多いのであろうと思われているが、寧ろ「史記」の登場人物は奔放であり豪胆な民族を表現しているようだ。騙したり騙されたりする人たちにとって、如何に「仁義」が重んじられる所以かがわかる気がする。個人の才能が尊ばれるのであろう。そういう点では、中国人は、日本人とは大分と意識が違う側面があるようだ。「一衣帯水」も怪しくなってきた。それこそ、襟を正してお付合いをしないと、日本人は措いていかれそうだ。
2006.05.22
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朝から来ている。自習室は広くて受付すればいいだけだ。存在は知られているらしく、学生だけではないようだ。ただ、閲覧室とは違うので、図書の利用は別らしい。但しPC持込可だ。自宅から「史記」と「炎のゴブレット」を持ってきたので、一日それで過すつもりでいる。ここはエクステンションセンターと言う。九階建てで新築でもあり設備も良く快適だ。古代から現代まで、中国人の思考法は儒教と老荘思想に基づくといわれる。人間のあるべきすがたを倫理・道徳とし、礼儀を重んじて秩序を守ろうとする儒家思想と、ひとりひとりがありのままに生きることをたいせつにした老荘思想(道家思想)の相反するふたつの思想や価値観が、中国人の思考法として形成されているようだ。紀元前6~5世紀の孔子や老子があり、ギリシャでは、西欧思想の源流といえるイオー二ア学派が活動し、インドではシャカが仏教を始めていた。ドイツの哲学者ヤスパースはこの時代を「哲学の世紀」と呼んでいる。司馬遷は、「史記」で、天人の際を究め、古今の変をに通じ、一家の言を成す。といわれる。老子と孔子が会見し、老子のことばが重い。「聡明で深い洞察力がありながら死地に近づいてしまうのは、好んで他人をそしる人間である。りっぱな弁論をして広い見識をもっているのにわが身を危険に晒してしまうのは、他人の悪をあばきたてる人間である人の子たるものは、自分に固執してはならない」さて、「史記」の名場面50選を読んでいる。
2006.05.22
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司馬遷は「自序」で述べている。多くの優れた著作は、作者の現実社会に於ける挫折(不遇)の中から生まれ、それが果たされざる意志が投影される。それは、多くの過去の事実に託して語られ評価を未来に問うものである。従って、表現は隠微になるのだ、と。「夫れ「詩」・「書」の隠約なるは、其の志の思いを遂げんと欲すればなり。昔、西伯(文王)は(ユウ)里に拘えられて「周易」を演じ、孔子は陳・蔡に苦しめられて「春秋」を作り、屈原は放逐せられて「離騒」を著し、左丘(明)は失明して厥れ「国語」有り、孫子は脚を斬られて兵法を論じ、(呂)不韋は蜀に遷されて世に「呂覧」を伝え、韓非は秦に囚えられて「説難」「孤憤」あり。「詩経」三百篇は、大抵、聖賢の発憤して為めに作る所なり。此らの人は、みな意に鬱結する所有りて、其の道を通ずるを得ず。故に往事を述べて来者を思う。」苦難に遭遇してこそ得られるものが、遺文としての価値もあるのであろう。「人生の智慧」は易々と得られるものではない。司馬遷曰く「小義をすてて大恥を雪(すす)ぎ、名、後世に垂る」「世を没して聞ゆる無きは、古人これを恥ず」学ぶべき方向を誤ってはならないと思う。今朝早く読んでいた。「史記」を「謗書」とする議論もあるが、どうなのだろうか。それにしても、「変換」のできない漢字が多いのに驚く。中国の漢字を何と思っているのだろうか。日本人の表現は、「表意文字」ではないか。「漢字文化」を蔑ろにして、何の文化ぞ。
2006.05.22
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世の中に天才あれど懼れるな。たとえ小たるといえど、我は我なりの気概あれ。ひとたるに王道はない。不屈のみ。先ず謙虚たれ。己を知り、独歩あるのみ。たとえ非才なるも懼れるな努力あれば、なるものはなるべし。君子であろうとなかろうと、そんなことが問題ではない。自分で決めたことを遣るだけだ。天命などあるはずない。自分のエリアを知れ。自分の人生を、生かすも殺すも己次第。この社会は、天才のためにあるのではない。天才は凡人のためにあるだろう。ケセラセラ・・・だ。そうして多くの人は、自分の役割をちゃんと果たしてきた。いま憎悪あれど、何れ知るだろう、共存なき所に、未来はない。嘆くなかれ、ひとは豊かではないか。感謝のみ。只、平和を守り、自由のために生きて、我が身を惜しむな。志高く、わが道を行くは、愉快というべし。P.S.芭蕉の旅を思い、司馬遷を思うと北し、西しの意味を考えざるを得ない。近代までの日本人にとってこの島国は宇宙であったのであろう。然し、中国でさえその領土は、大陸と言えども、世界ではなかった。中華と信じた民でしかない。東洋は、自然に恵まれて、よくこころを鍛えようとしたが、科学に重きを置かなかった報いが、人びとを苦しめる原因にもなったのであろうか。華僑となって世界に住む場所を求める所以であろうか。日本人も、最早芭蕉の句を、重んじなくなってしまったが、「わびやさび」で惑わされることはないかも知れない。彼の旅は、確かに他国を旅したのではない。裏山を彷徨っただけだろうか。確かに内面の旅は奥行きあるかも知れないが、司馬遷が、「西し、・・・」というのに、比較すれば確かにスケールが小さく見える。司馬遷が宮刑の屈辱を代償にして、ともかく死罪を免れてその後大赦によって出獄し、中書令となるのは、その志の思いを遂げようとしたからだという。
2006.05.21
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ゲーテは、「私の憧れを知るものたちだけに・・・」詩を捧げている。彼らは、自分たちだけに判ればいい。自分たちの世界だけがある。地位を争う社会だろう。敵と味方の世界だ。もうそれ以外は沢山だという。白人社会だけで結構だと。だから、私たちも思っている。勝手にすればいいと。もう、厭というほど戦争をしてきたが、まだ遣っている。肌の色がどうだといいながら、超えられない溝は深くなるばかりだ。宗教の所為だけではない。そのこころがないだけだ。公立図書館から、「ゲーテ」と「マザーグース」の朗読CDを借りてきた。それと「シンガポール」のガイドブックと「史記」。司馬遷は冷静で、誠実で、それでいてどこか喰えない中国人だ。日本人は、もう想像力を喪失してしまい途方にくれた老婆のようだ。ただ弔鐘を聴いているだけだろうか。マザーグースを聴くと、ほっとする。人間の溜め息が聞こえてくるようだ。必要なのは、現実と向き合うことだろう。それこそ、ずるい明日への近道はない。
2006.05.21
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