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たとえ磨かれた感性でも、それは長くは続かないだろう。どこかへ、一瞬で消えてしまう。然も,それは、麻薬や刺激では得られない。その鍛えられた切っ先が鈍るのは何故だろうか。それは、人間の弱さであり、軽さだろうか。或いは重力のためだろうか。周囲の軋轢を捨てられない宿命だろうか。その宝石に似た輝きは、どこにもあり、そして容易く見ることはできない。多くの矛盾の中にあるからだ。どうやら、数日酒を飲まなかった所為で、昨夜の酔いが堪えて睡魔が襲ってきて早寝した。妻子が猫がいなくなったと騒いでいるので、先ほど目が醒めた。猫などどうでもいいではないか。自分のことをもう少し考えろと、口の中でいいながら、9月1日だ。現代の女たちは知らない山崎朋子の「サンダカン」がある。身を売った女たちは、東南アジアで商品になるために密航し、漁船の船底に身を隠し機械室の熱の中で、水も与えられないで狂い死にした女もいた。この世に憎悪した目で、女衒の喉を噛み破って。日本の女には、美しい歴史などない。自分が人形のように綺麗だと威張る資格などない。何が「エロかっこいい」だろうか。勿論それは、マスコミによる、ためにするキャッチコピーに過ぎないけれど。宝石たちは、どこにいるのだろうか。いないだろうか。そういえば、今日は震災記念日だ。忘れられていく歴史がある。嘆き苦しむのは、ブログを見てくれる君だけではない。私たちはまだ高見にはいない。この社会の「女衒」たちの喉をくい破る勇気を、私たちは持たねばならない。
2006.08.31
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朝から雨で、娘を車で駅まで送り、信号で停車したら、レストランにサラリーマン風の中年男がコーヒーを飲んでいた。ふと思い出したが、東京の町田で、出勤前私も数ヶ月だがドトールコーヒーで朝食を摂っていたことがある。単身赴任をしていて、横浜市内から町田支店まで、暫く通勤して都会の通勤生活を体験した。朝7時前にマンションを出て、東蒔田駅から地下鉄に乗り、新横浜まで行き、JRに乗換えて、町田まで通った。所謂ラッシュアワーだ。大抵座席に座ることはできなかったが、帰りはどうにか座れることが多かった。町田駅周辺の混雑は、宇宙から見れば、まるで黒い川が流れているように見えるだろう。それでも、慣れてくれば大した苦痛でもなく、朝からのモーニングサービスを愉しんでもいた。併し今考えると、それ程こころが豊かであった訳ではない。多分、辟易しながら過していただろう。僅かなサラリーのために。会社に腹も立てていた。それでも、土日には、公開講座や図書館通いをしていたし、気晴らしにあちこちに出かけた。行くところは箱根から日光、鎌倉など多かった。今考えると、もう少し遣れることがあっただろう。カネや体力があるときにはその思慮がなく、痛い思いをしながらこれからはしたいことをしなければならない。若いころに脳にすこしの空地をつくり考えることだ。すこしの思慮でいい。この社会は、それほど手に負えないような世界ではない。自分が卑屈になっているだけだろう。
2006.08.31
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昆虫学者 東子・カウフマン自伝「虫取りの網をたずさえて」を手に取ったとき、わくわくした。養老孟司の解説がある。彼の虫好きは有名だが、それよりも何よりも、作者が、私の生まれた中国の青島に生まれており、チンタオの思い出を書いていることだった。ドイツ人の父と日本人の母との間に生まれた。経歴が凄い。津田塾からヘブライ大学で理学修士、ミュンヘン大学で博士号を取得。昆虫学が専門だ。世界を広く旅して昆虫研究に従事している。2001年ケニアで死去した。84歳。青島は、当時はドイツの租界で、何もかもがドイツの小さな町そのもので、アカシアの並木通り、赤い屋根と白い壁の家々、自然のままの公園や学校、水晶のように透き通った海と柔らかい白い砂の美しい浜辺がありました。と書いている。彼女は、昆虫に魅せられた少女時代を青島で過している。仄見える青島はじつに魅力的世界である。まだ、観光パンフ程度しか知らないので、何とも興味がそそられる。目次をみると中国、日本、イスラエル、ドイツ、ガーナ、アメリカを経由している。目次から見ると宇宙論まで書かれているようだ。しかも昆虫学者である。本書は青木聡子訳本だ。作中に、昔の青島の泥棒市の記述があった。父母からその話を聞いたことがある。なくなった物がそれこそ何でも翌日には店先に並べてあったそうだ。なくなった片方の靴まであったという。ミステリアスでわくわくする。いつか行きたいと思っている。図書館本・EU 欧州統合の現在・現代史の展開・21世紀、世界は日本化する・ユダヤ人はなせ迫害されたか・円と元・イスラムの読み方・The Dragon Head・サンダカンまで・日本人とユダヤ人・虫取りの網をたずさえて
2006.08.31
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時々、「これは、自滅かな」と思う。念のため「自滅」を広辞苑で引いてみた・自然に滅びること。・自分の行為が原因となって自分の身を滅ぼすこと。英語では、 its pertishes naturally. 併し、キリスト教では、自殺を認めない。勿論、自殺は誤った解決策だろう。でも、案外それに近いことを遣っているのではないだろうか。雨が降れば、気が塞いできてやる気を失くすかも知れない。他人から好かれないからと陰気になるひともいるだろうし、何の支障もない身体や顔のことで悩むひとも多い。まさに、「自分の行為が原因となって自分の身を滅ぼす」ことばかりしているのではないだろうか。誰も自殺しようなどとは考えないだろう。併し、日本人は年に何万人も自殺するという。それは、追い詰められると、普通の人間も、遣るかも知れないということではないだろうか。自分を傷つけるだけではない。他人を傷つけることにもなるのではないか。意識は脳でつくり出しているから、脳は自分を守ろうとするだろう。必ずしも、最後まで自分の行為をコントロールできるとは限らない。学識者が、破廉恥行為をするのも、説明することができるだろう。脳の荒業の為せることだろう。「自滅」するのは、自分の行為が原因なのだから、そうしないように努力すればいいのだ。ことは簡単だ。自分を好きになり、周囲のひとを大切にして、環境に適応すればいい。自滅しないために。何てね、いうのは簡単なのだろうか。
2006.08.31
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企業で仕事をすると分かるが、平たくいえば騙すひとと騙されるひとに分類できる。企業の詰まるところヒエラルヒーがあり、上に行くほど下克上がある。そして犠牲者も出る。その極端な例が、自殺者だろう。エリートほど折れると脆い。そこまで行かなくとも追い出されるか、くびになる。バブルの「空白の10年間」は、外資に仕組まれたドラマであり、それに易々と乗り続けた政府と経済界の無能の証明であった。騙されたのだ。到底善意の所業ではない。M&Aが遣っていることは、私が見たことは、それは騙すことである。騙す人は犯罪者だろうか。騙される人は被害者だろうか。不法行為だろうか。他人の権利を害する行為ではないか。過失責任の原則には該当しないというだろう。単なる経済活動で、しかない、いうのであろう。何を以って騙すかだろう。小さな犯罪は見逃さないが、大きい犯罪ほど甘い、のが世の習いらしい。会社を破綻させて刑務所に入るのは、犯罪を犯すからである。堀江や村上が逮捕されたのはそのためだ。併し、法の網にかからない悪人がいる。騙すひとだろう。銀行からくる出向者は、騙そうそして来たし、親会社は子会社を騙し続けたが、手が後ろに廻ることはない。彼らは合法的に会社を都合のいいように潰しもするだろう。騙される人はされるままだ。せめて、人間を玩具にしてはならないだろう。絶望して自殺する人もいるのだから。これから愈々自己責任の原則が、一般化してくるだろう。弱者は益々社会の隅に押しやられるだろう。現代版の「楢山節考」の「姥捨て山」が展開することになるだろう。今日で八月も終わり、明日から九月である。強か秋を告げる雨が降っている。>せめて挫けないために。
2006.08.31
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誕生日ではないが、ケーキが食べたいという次女の依頼で、その有名店とやらに行ったら定休日で、結局いつものケーキ店「アクア・テラス」になってしまった。ここも意外と人気のある菓子店舗らしい。タルトが美味しいとの評判の店だ。まあここまでサービスするには理由がないではないが。それにしても、福岡市は予想通り、東京に五輪都市の投票で負けたようだ。それほどの力もないのに山崎福岡市長は無駄なことをしたのだろうか。まあ蔭でこそこそするよりかはいい。それでもまだ、東京が五輪招致できるかは不明だが。知り合いから電話があり、やはり前の会社は、身売りすることになるらしい。M&Aがあり、それから訳の分からないことが色々あったが、買収した会社が、世間では名の知れた人物だが、期待した程の実力もなく、今度は手放すらしい。振り回された社員が可哀想だが、そんなものだ。私が、ここで感じるのは、日本の経営者、ことに若い経営者のマネージメントが思った以上に脆弱でしかないことだ。数字ばかりで実態を理解せずことを起こしていることだろう。どうも先行きが暗い。P.S.時に、皮肉な偶然に思えるが、それは偶然でもないかも知れない。私と楽天ブログもそうか、も知れない。スタートは他のブログを遣っていて、勤めていた会社の関わりから・・・に過ぎない。続けてきた理由は幾つかあるが、大したことではない。何度か、中断しそうにもなったが1年半続いている。それ程長い訳でもないが、毎日書いている。面白いのは、場違いで書いているという違和感があることだろう。こいつの書いているのは何かの暗号ではないか、何だろうと思うのだろうか。そういうのを弾くのが、色々あるらしい。最近飽きられたようだ。それにして、そろそろ方向転換をしなければならないが、もう少しどうなるか見てみようかとも思う。「瓢箪から駒」というではないか?「瓢箪で鯰を押さえる」ということわざもあるが。まあいいことの序でに、三木谷のステージを観察するのも一興だろう。堀江は、取巻きに殺されただろうか。自分が利巧だと思う奴に限って周囲をイエスマンにしてしまい破綻するものだ。自分の人生を下らなくしているのは自分でしかない。何故、美貌の女と結婚なんかしようとするのだろう。もう男のステータスでもないだろうに。自分が勉強できる環境を優先すべきだろう。女なんかに嵌るようでは本物ではない。どうも騙すことしか考えない奴が出世をしてしまうのは、騙しのテクニックがまだ有効だからだろう。底の浅い真剣味のない若造が往来をうろつくようでは日本も「おしまい」だ。
2006.08.30
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日本の立場ばかり強調した視点ではなく、「対日」を考慮したものでなければ見えない鳥瞰図もあるだろう。中国ではなく、中華人民共和国と台湾のそれぞれの視点だろう。概括的に見ただけでも一様ではない。反共国アメリカが見せる外交は、中国やロシヤも視座にいれた戦略を取っている。時には国際協調も演じてみせる。ブッシュは、必ずしも利巧ではない。中国も危ない橋を渡ろうとしているだろうか。それは、経済というダイナミクスであり、人間の欲望という名のパワーでもあるだろう。台湾も、統一か独立かで、運命を変えるだろう。日本もロシアに対する国交正常化の問題や、米台韓日の軍事同盟のカードをどう処理することができるだろうか。断交した台湾との関係もある。日中に於ける、「抗日、反日」後と、現在との関係は、必ずしも改善されたとはいえないだろう。そうしているのは、イデオロギーの相違ばかりではない。そんなものは、何を纏っているかに過ぎない。生身の人間は少しも変わらないだろう。喜怒哀楽は、文明の誕生以前からある。国はどうであれ、民間は既に交流を始めている。誰が、この日中間の巨大な「堤」を開くかだろう。アジアであり、世界である関係を、日本は、タフな外交で乗り切って行かなければならない。そろそろ図書館から借りた本を返却しようと思う。朝から雨だったが、今は雨上がりで蒸し暑くなった。一雨ごとの秋が来るだろう。
2006.08.30
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何でカレーなのだと訊かないでくれ。何でたまねぎは腐っち満タンだ。にんじんはまるでエンピツの用ではないか。馬鈴薯とした日にゃあエンド豆のようではないか。何故ビーフではなく、サナダビッチの豚肉なのだ。どうもおれは棲むところをまちがえたようだ。言葉の通じない場所で訳の分からないことばかりしている。米は、お決まりの炊飯器で、このごろご機嫌悪いピアノのようだ。良かったり悪かったりする。何でいまごろから造るのだろうか、訊かないで暮れ。俺にもワカラナイ。まだ11じだ。宇宙は膨張している。インフレーションだ。それが止まった堂使用なんて考えても、四方がない。ただ人は生きているだけだ物ね。死んでから生まれる世界があるだろうか?俺は、人の食えないカレーを造ろうとしている。素材を選ぶヒマも能力もない。ただあるのは目の前のことで、ヘイフリックの限界といくつかの別離があるだけだろう。叫んでも届かない場所にいて、人の食えないものをつくろう言うのか。カタツムリが葉の表面に出てくるようになり鳥から食べられる。そうやってカタツムリの寄生虫は伝染して行くのだ。ひとは、張り巡らされた世界に生きているだろう。俺は、黙っている。俺は唯、これから人の食えないカレーをつくることが生甲斐だと重おうとしている。
2006.08.30
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静かに日本を見つめるひともいるだろう。この空白の10年間や、何度も死線を越えてきた日本国がある。その姿を視線を外さずに覗ける人はどれだけいるだろうか。それが、誰にも見ることができないのは皮肉なことだ。多分高見にいるひとには感じることしかできないし、権力のあるひとには、異次元のように見え、他人を押し退けて恥じない富裕層には、無価値な存在でしかなく、元気なひとには、病気にしか思えないだろう。貧しいひとや、病人には、身近すぎてみえないかも知れない得体の知れない日本がある。静かに日本を見ている人は、死の床にいるひとだろうか。この世界を不遜であってはならない。それほどの存在ではない。君は地球の酸素21%を守っているほどの力はない。いつまでも、日本でもないだろう。ただ、日本を正しく見えるのは、私たちではなく、私たちの影にいる人たちだろう。その尊い人たちは、何も言わずに死んで、消えてしまうだろう。影のように、蜻蛉のように・・・。私は、想像する。それは、私たちが愛し、求めて止まなかったものたちではないだろうか。手の届かないところにあるものに憧れている。もう障子のある家をもっていませんか。それでは、日本は見えないかも知れませんね。障子を破いたこともありませんか。それでは、何も見えません。夢も見ないで健康だと威張ることはない。君は、見えるものを見ていないだけの・・・でしかない。この地球環境は破壊されてしまうでしょう。のこるものは何ですか?
2006.08.30
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それが、なかったのは現実でもある。それは、中国になんらかの示唆を与え大きな貢献をしたかも知れないのだ。中国の存在は、日本人にとっても実に難しい課題だ。地理的、歴史的な密接さに起因もしている。大昔から中国文明の不断の影響下にあったからだ。漢字、儒教、律令、仏教等をはじめ稲作も、木綿も、箸を使うことも中国から学んだ。そして、それが一方通行でしかなかった。日本から中国へのものは皆無であったのは、所謂中華思想にあるだろう。そして、そのために中国は、ながい苦渋を嘗めなければならなかった。西欧社会の餌食にされてしまったし、東アジア世界の地位を失った。中国の政治的立場は、諸外国を朝貢国として扱うことしかしていない。日本は明治以後、西欧文明を進んで受け入れらけたのは、他国に学ぶという土壌があったからでもある。日本人は頑迷固陋さを笑うが、借物の文明をまるで衣替えするように乗り越えるのと、自己の骨肉を変えねばならない痛みは自ずと違うに相違ない。そして、いまや私たちは、日中関係という古くて新しい友人関係を築こうとしている。正しい理解をするために、どうあるべきかを真剣に考えることができる国家が、先を歩くことになるだろう。もし、明日から自国語を捨てて、英語しか使えないとしたら、日中どちらが生き残れるだろうか。コンピュータは、そのことをいっているのではないか。あたらしい言語のことを・・・。
2006.08.30
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もう日本も我執だけではすまない。アジアの隣国の本音を時間をかけて訊くべきだろう。どれだけ国内のフランクで客観的な意見でも、例えば中国や韓国のもつ本音の「反日」のそれとは違うだろう。欧米に傾注していた日本の視座をアジアにシフトすべきだろう。それは、学者や研究者だけではなく、民間も参加した交流にすべきだろう。そのためには、そのことを相手国にどうどうと表明しなければならない。相互理解はそこからスタートすべきだろう。言語の問題にしろ多様な装置を準備すべきだろう。これまでの経済に偏った交流ではやがて限界が来るだろう。観光だけでは、真の交流ではない。単に知るだけでは、理解した事にはならない。我執を捨てて取組む姿勢が必要だろう。そうしなければいくら善意を尽しても相互理解ができないだろう。どれほど、隣国といえど拠って立つ意識や立場が違うことが多いのだから、そう簡単にことが進むはずがない。お互いに我執を捨て、小異を排し大同に就くべきだ。そのためには、国民に共存とは何かを考えさせる教育が必要だろう。戸惑があるとしても、相手国の気持ちを汲む姿勢を見せねば成らない事態が必ず来るだろうと思う。常識を超えなければ、何事もできない。これからの私たちは、そうであらねばならないだろう。これまでのことに拘るべきではない。これから何をするかだろう。
2006.08.29
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成り立ちは似ているために双子星とも言われるが、金星の大気は約96%が二酸化炭素で、地表面は460℃の灼熱の世界であり、地球とは違う。地球は約窒素78%と酸素約21%が主成分で、両者を分けたのは、水の有無だと考えられている。金星は地球よりも僅かに太陽に近く水はすべて蒸発してしまい、宇宙に放出されてしまった。運命を分けたのは僅かの相違だ。生物の運命も多くはわずかな違いだ。人間も同じ親から生まれても兄弟は違う人生を歩くひとが多いだろう。それも何かの少しの違いではないか。午後、1940年10月、ヴェトナムのユエで死んだファン ボイ チュウ「ヴェトナム亡国史」を読んでいた。「抗仏」反植民地闘争に身を挺した人だ。フランスの植民地政策が如何に非人道的で、弾圧と残虐行為が為されたかを語っている。歴史的事実だろう。そして、日本とフランスとの間で仏印軍事協定が調印され、日本軍による仏印進駐が開始された。何かが変化すれば、地球も金星の運命をたどることに成るかも知れない。人間の傲慢がそれを生むのではないかと、危惧する。>ヴェトナム女性
2006.08.29
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英米文学と日本文学の領域で自然をテーマとして扱いまとめた本だ。多くのエッセイ集も含まれている。英米文学でも「自然」はもっとも重要なテーマの一つだ。イギリスでは、パストラルと呼ばれる田園文学の長い伝統がある。アメリカ文学も「白鯨」や「老人と海」や「ハックルベリー・フィンの冒険」等の名作も多い。勿論日本にもある。「おくのほそ道」「武蔵野」「山の人生」などがある。本来山里の民であった日本人は、自然は身近な存在であり、自然の事物のなかに魂のありかを認めようとさえした古代シャーマニズムがあった。平安時代の花鳥風月や老荘思想に影響された隠者的自然観を持ち、やがて西欧文化と交わるのだ。日本的自然観と環境論的自然観とは基本的には相違している。同じネーチャーでも、何故こうも違うのだろうか。ながい宗教観の違いに由来するだろうか。全く手に負えなかった祖先持つものたちと、シャーマニズムをもたなかった文化の相違だろうか。イザベラ・バードは、1873年(明治11年6月)東北および北海道を旅して「日本奥地紀行」を書いているが、当時の日本はまるで、未開地の劣悪な環境でしかない。農民たちの食べ物といえば生魚か半分生の焼魚と野菜の漬物だ。男はふんどし姿で、若い女たちも石鹸を使うことがない。併し、彼女は書いている。 When Japan gets the sunshine,its forest-covered hills and garden-like valleys areturned into paradise. In a journey of 600 miles there has hardly been a pantch of countrywhich would not have been beautiful in sunlight.>k福工大キャンパス
2006.08.29
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日本のものだけでないが「小説」は、昔の魅力を失いつつあるのではないか。少しも役に立たない訳ではないが、パワーを失いかけているような気がしてならない。これも斜陽の大英帝国か。何故だろうか。多分スケールの所為だろう。作者だけでなく、出版社や、取巻く環境だろうし、読者の側にもあるだろう。忙し過ぎだ。思想や哲学を語らない主人公ばかりではないか。偏頗な人間が人生を語っても響くものがない。何が「世界の中心で愛を叫ぶ」だ。小説かドラマか知らないがが、「功名が辻」にしろ、妙なシーンが多い。日本語の魅力も希釈化しているだろうか。魅力のない小説は、小説ではない。薄明かりの半端な人間を描かないことだ。「ハムレットやオフィリア」では、ない世界を描く必要があるだろう。それは、言いたくて堪らない人間が書いていないからでもあるだろう。どれだけの内部蓄積があるかだろう。見せかけの小説しかなくなっていけば、小説家はいなくなるだろう。これも自然淘汰による進化だろうか。どうも、軽薄なものに引きづられているのではないか。他人の所為にせず、自分の読解力もあるけれど、手の届くところにあるものに満足せず、少しは、自分の目を覚まさせることだろう。ドンキホーテは、今日は図書館にいます。
2006.08.29
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残念ながら、私は一人っ子で兄弟愛を知らない。従兄弟は18人もいたし、親族の中でも年齢の近いものとは親しくして貰ったけれど。それでも苦楽をともにする兄弟とは違うだろう。兄弟愛を知らないことは、えらく損をしているのではないかという思いが子どもの頃にあったのは事実だし、自分の人格形成に少なからぬ影響も及ぼしてもいるだろう。中国の一人っ子政策を知ってもう随分長いがどうなのだろうか。「弟妹」への影響があるだろうか。興味がある。日本のように核家族の問題があるに相違ない。爺婆や兄弟を知らない世代が、どういう社会的存在になるだろうか。まだ大家族が存在していた時代とどう違うだろうか。波風の少ない場所で育った子供より、ダイナミックな人間関係の中で育ったこどもとどう違うだろうか。興味がある。子どもの頃の体験は、貴重なものであろう。親子でもなく、恋愛でもなく、友情でもない、兄弟愛とは何だろうか。そのために寧ろ「愛憎」を引きずっている人もいる。相続争いもあとを絶たない。一人っ子には、理解できないものがあるに違いない。妬ましくも羨ましい兄弟愛ではある。ユダヤ人や、架橋の人たちにも、「弟妹」の精神があるのだろう。
2006.08.29
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先日の海の中道大橋での飲酒事故死した幼時3人の葬儀が報道された。悲惨な事故に参列者だけでなく多くの人びとの胸を塞がれた。警察は、飲酒の取締りを強化するという。最近殆ど遣っていなかったのではないか。こういう大事故が起こらないとしないのではないか。まず白バイを殆どみたことがない。福岡県は、交通取締りをしないか、極端に少ないのではないだろうか。個人的な印象だけど。それにしても、飲酒運転を周囲が監視する習慣が浸透していない。殆ど自己責任の世界だ。今回の加害者は、市の職員で、22歳の普段は真面目な若者だという。山崎市長は、今後は職員の飲酒運転は、即刻懲戒解雇だと言明した。少なくとも直後の今は反対する者がいないだろうが、市はこの際で、ある。市には何の不利益もない。勿論幼い子らに責任はない。殺したのは、若者である。厳しい裁判になり、若者の行為は「原因において自由なる行為」と看做され、刑事罰が科されるだろう。或いは、「未必の故意」が適用されるかも知れない。交通事故は、段々量刑が厳しくなっている。少しのこころの緩みが大きな犯罪になることの証でもある。犯罪を起こせば犯罪者である。それでも飲酒運転は繰り返されるだろう。酒や酒屋はどこにでもあるからだ。悲劇は、止まらない。誰にも運命の別れ道があるだろう。
2006.08.28
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午前中は西部ガスのひとが、ガス点検に来た。3年に一度の検査らしい。データの蓄積をしているらしい。地震等でのケースで、家庭のガス管がどれだけ万全かは疑問だ。さて、今日は、新書で大江健三郎、金田一春彦、社会主義関連の本。ニュートン9月号、福田著「太宰と芥川」を読んでいたが、今日は閉館17時で追い出された。・カーが、20世紀の出来事のなかで見出した新しい価値とは、人間の領域の拡大、自己意識の発展ということだ。・福田は、芥川の情欲を秘める表情は、この少年の日のストイズムが窺われるのを何人も否定しまい。彼は情欲を自己の弱点と見たがゆえに、これに反逆し、これを羞恥したのである、という。最近になり、どうも他人との接触がわずらわしく思えてきたようだ。隠遁の証明か。集中力が切れかかっているのかもしれない。この際、携帯電話もやめようかと思っている。この猛暑も、漸く朝晩クーラーがいらなくなったようだ。
2006.08.28
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羞恥は表現とは道を通じてはいない。羞恥はあくまでも表現を嫌い、他人の窺知を拒絶する、という。それは自己の孤独に閉じこもり、狭く深く沈潜しようとさえする。それは楽天的な理想主義とは逆に虚無や厭世に通じているだろう。芥川龍之介が比喩によって描いた風景画を、彼の自我の貧困と苦渋とを表白してもいるだろう。ひとは自分をひとつの場所に追い詰めるのは、いつもできることではない。それに耐える抵抗力がなければならないが、大抵自虐に帰する。自分のこころを放り出すことはできるがそれは遊戯でしかない。自分のこころは、鍛えることができないでもいる。私は、未だ目のないモグラのように地下にトンネルを掘り続けている。昼から女子大に来ている。涼しいところに張り付いて、じょっとしているイモリのようにしていようと思っている。こうしているうちに今年の八月も過ぎるだろう。脳の中に空地を探して苗床から始める必要はないだろう。自分を自己分析するだけでいい。目の前にある自然をありのままに見ればいいだろう。いま解明されたものと、そうでないものとがあるが知るだけでなく、理解することだろう。ただこの世界が、偽善であり、歪であることだ。
2006.08.28
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見ているものは一瞬だろう。美しい花の写真も一瞬の前でも後でもない。その時でしかない。私は、この瞬間、窓外の公園を見ているが、赤とんぼが数匹跳んでいるのが見え、松林が遠景にある。少なくとも20数年前には公園はない。松林も50年前にはなかっただろう。ここらあたりも100年前になれば、相当違うに違いない。そして100年も過ぎれば違う街に変わってもいるだろう。私たちは、すぐにも変わる環境の中に生きているに過ぎない。何を確信しようとしているだろうか。すぐ壊れてしまうものを永遠と信じようとさえしているのではないか。他人を騙そうとしていないだろうか。そして自分も。それは人間の優しさや善意と呼ぶに相応しいことなのか?私は、怠惰に生きているだけで、立ち止まって同じところにいるだけだ。生きていることに厭きたわけではない。図書館に行き本を読んでいるだけだ。自分のこれまで育った環境で知っている知識を使って手当たり次第に読み始めたところだ。それとブログが側にあるのは時代だろう。未だ、見えるものを見ているだけに過ぎず、原生林の中だ。
2006.08.28
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セリーヌ・デオンの透き通った歌を聴きながら、爽やかな朝の香りの中にいる。思えば八月の末も近い。強者とは、何だろうか。弱者とはどういうひとを指すのだろうか、とふと思った。この爽やかな朝の空気をカーテンの外にひろがっているのに知らないひとも多いだろう。それが当り前と思うだろうか。そんなことはない。そう感じるチャンスがあるだけで本当は、稀かも知れない幸福なのかも知れないのだがら・・・。世界中で、この清浄で平和な朝を迎えられている人々どれだけいうだろうか?殺し合いの場所にいて、優しさを捨てなければ生きていけない人びとがどれだけいるのだろうか。人びとは、今も、無知と貧困に囚われし世界に苦しんでもいる。政治的、経済的、精神的、身分的、階層的或いは宗教的差別に悲鳴を上げている。単純な意味で捉えられない社会でもある。」世界は、一様ではない。日本は、国家権力に頼って来たし、国民の自立を抑えてもきた歴史背景があるから、その後遺症を抱えてもいる。これから個人主義だからといわれても戸惑う人びとも多いことだろう。貴方の「曖昧さ」は、これからの国際社会には通用しないといわれている。美しい自然の中の狭い場所で、生きる智慧を模索してきた日本人たちは、このちを離れなければ生き残れないのだろうか、と苦悩し始めてもいる。やっと、おそい我が家の朝顔が蔓を四方に伸ばし始めている。そういえば、最近のテレビの状況は酷すぎではないか?
2006.08.28
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バラエティなのかどうか分からない「24時間テレビ」があっている。タレントの広末涼子がロシアの2年前の事件の小学校を被害者の少女と訪問するシーンは、多少の脚色はあったとしても報道の価値があるだろう。真面目な報道と言えるかは分からないが、少女の過酷な体験は現実の厳しさを描き出してもいる。立場が違えば、違う描き方にもなるだろうが。日本の若い女性が、現場に立てば、ただ泪を流すしかないのだろう。それは民間テレビだからだろう。nhkなら違う視点で取材するに相違ない。それにしても、「アンガールズ」の100kmマラソンは酷いだろう。あれは、マラソンではない。歩いているではないか。走るからマラソンで、歩くなら徒歩だろう。それでも完走をさせて盛り上げようというのは、下心の卑しい企画でしかない。手段を選ばない悪意のある所業だ。仕立て上げようとするものだ。それに怒らないのは、「曖昧」を認めてしまうからだろうか。子供地味た事をするものだ。それこそ日本のテレビ界の文化レベルとそれを許してしまう日本の国民性であり、これも「曖昧さ」だろうか。折角、いい企画もあるのに、くだらないフィナールになりそうだ。一日くらい、少しは真面目を通して見れないものだろうか。
2006.08.27
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おサキにどうぞというのは、西欧の精神にもある。他者を侮ると自分の傲慢に気付かなくなる。卑下せず、自惚れずにあることは何と難しくもあるだろう。それは、世界が差別と偏見で動いているからだろう。西洋と東洋の対峙は、相互理解の欠如に起因するだろう。中国の中華思想は、その思想にゆえに崩壊した。独り勝ちのアメリカも世界を無視し続けるなら、いずれ孤立するだろう。それが西欧であろうと東洋を侮れば、その報復を受けるに違いない。何時までも、東西ではないだろう。新しいルールが、できつつあるのかも知れない。知らないのは私たちだけだろうか。それを指摘できないのは貧困や無知からだろうか。どこから変わるだろうか。本当の自分のこころをどこまで理解しているだろうか。どれだけ周囲に敬意を払い、感謝しているだろうか。傲慢なのは自分ではないだろうか? 間違ったままでいないだろうか。常に反省をして顧みる時間をもつべきだろう。24時間テレビも、午後を過ぎたら、だんだん陳腐になってきてしまった。これも日本のテレビ局の現実を表白しているのだろう。
2006.08.27
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君にあかい血が流れているなら、どこかに向かって走り出せ。選ばれたことばが迸り出ているか?どこを読んでも、突き動かされるものはないだろう。空疎な文章は、他人のことばを横取りしているに過ぎない。ただ引用しただけのものをどれだけ積み上げようと、一撃で倒壊するだろう。欧米の思想を翻訳しても、それは違う文化の剽窃でしかない。その寄せ集めのモザイクはもう見飽きたものでしかない。辞書引きの上手い奴が学者なのだろうか。少なくとも研究者ではない。必要もない論文で、自分を衒い続けても、ただ身を装飾したものでしかないだろう。この世界を、どれだけ分断しても、事実は少しも変わらないだろう。一度だけの夕立も、この自然界では、価値のない夕立はないのだ。君は、どこに向かって走り出そうとしているだろうか?たとえ泥沼で顔を埋めてしまおうと構わない。君に、あるのは赤い血だろうか?雨空に、雷光があるのを、君の目に見えているだろうか?誰も、知らないところを歩くのだ。他人の後ろを歩こうと思うな。先人は、いつもそうして来ただろう。他人のことではない。自分の生命だからだ。
2006.08.27
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なんと軽薄な! という勿れ。番組は低俗でも、司会たちがどうでも、出ている人たちには、重い現実がある。私は、昨夜から何度も泪を流した。いいではないか。ここには、日本のドラマがある。ほの見えるものは、ひとの善意でもある。共感できるものもある。喜怒哀楽を共有するものが、何であろうと、たった一日で、10億円の募金があるのだ。もし多くの脚色があろうと生きている日本人が其処にいる。これが全世界であっても、いいだろう。世界中で起こっている泪を、ともに流す人びとがいることだろう。ごちゃまぜの現実があり、日々に耐えている人間がいることは、生きる私たちの勇気にもなるだろう。それぞれが、どう感じるかは知らないが、それが泣かせであろうとも、現代人は泣かなくなり過ぎだ。めそめそ泣かなくなったのは、いいことではないだろう。泣くから人間は、悲しくも嬉しくもなるのだろう。少しも利巧に成っていないくせに、空威張りをすることはない。感動すれば泪を流せばいい。人間は泣くことができる。笑うこともできるけれど・・・。今日は、一日、24時間テレビをみていようではないか。この低俗な番組をみて過すのもいいだろう。見る心があれば、見えてくるもあるだろう。>今朝の庭の朝顔です。
2006.08.27
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朝、眼が覚めて、何もせず机の前でPCが立ち上がるまで、さて、何を書くかと考えることが最近のクセになった。中々立ち上がりが遅くなったPCの前で、イライラする時と、今朝のようにどうでもいいという心持がするときがある。釣瓶落としの夜と、すぐには夜明けの来ない朝になってきた。それでも、やっと窓外は明るくなって来た。テレビを観たら、昨日からの24時間テレビがあっていた。「絆」という今年のテーマだそうだ。昨年は10億円の寄付を集めるイベントである。商業主義のすることだから、仕組まれた番組でしかないが、これも時代性があるだろう。人気も移ろい易いのだろう。皆は気付いているだろうか。人気タレントのメッキがすぐに剥がれることを。そして、それをネタにして嘲笑する。持ち上げて捨てて遊んでいる子供のようなものだ。まあ、それでも多様な社会は、それだけではすまないが・・・。のんびりしてしまい今朝は、まだ外に出ていない。冷たいミネラル水が、お友だちだ。すこし胃が重い気がする。今日は、まだ何をするか決めていなかったが、ふと一昨日の海ノ中道大橋の交通事故のことを思い出した。痛ましい事故だ。加害者も被害者も一瞬の悪夢でもあろう。幼い命が3人も奪われた。時々車で通過する場所で、一直線で、少し起伏があるので、スピードを上げると危ない。周辺は何もない、いつも車の少ないところだ。まして夜であれば殆ど走行している車は数台だろう。ロケーションの良いところで好きだったが、もう悲しい場所になってしまった。人工島がなければなかった海ノ中道大橋でもある。>海の中道大橋
2006.08.27
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ノールウェーの小島に住む女性は、誇らしげにいった「私は、この自然の一部なんです」。何と確信に満ちたことばだろうか。人間が地球を我が物としているのは驕りでしかない。地球の歴史からいえば、ひとは新参者でしかない。虞れを知るものが、謙虚でやさしいこころをもつ。カモの巣立ちをやさしくみまもる人間がいる。いまも白夜の下で、同じ空気を吸い、爽やかな風の中で生きているひとがいる。この世界で、自分が、自然の一部だといえるひとがどれだけいるのだろうか。深い思慮をもって、人生の何たるかを知るひとだろう。遠いノールウェーの小島でも、ひとりの豊かな人生がある。 昨夜、博多湾に人工島を造り橋を架けて、その橋から追突されて家族5名が車と落下し幼児3名が事故死した。痛ましい事故だ。人間は、自分たちが造りだした物で、新しい悲劇も創りだしてしまうだろう。
2006.08.26
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もがけばもがくほど罠に嵌るのだろうか。そんな気がしてならない。知れば知るほどアジアと欧米との格差は広がるばかりだ。寧ろ人々は貧しくても自分の生きている世界しか知らない方が、閉鎖的だといわれようと良かったのだろうか。恐らく、多くのアジアの先覚者たちを悩ませた分断されたアジア諸国は、多くの人口を抱え、多民族を擁して途方にくれている。西欧の専断と搾取の屈辱にまだ当面は耐えねばならないだろうか。世界に通用する人材の育成をアジアは、まだ西欧に頼ろうとしている。にわとりが先か卵が先かで、果てしない論争が、国力を軍事に振り向けようとさえしている。欧米は、人種差別も社会的差別も、経済的差別もやめようとはしない。貧富の差も拡大し続けるだろう。強者と弱者の問題を解消しない限り、公平な社会は実現しない。人類は、昆虫ではない。「あり地獄」にやすやすと堕ちるわけには行かない。すべての分野で、自信をなくした大人たちが、心の中で悲鳴をあげている。もう西欧型の真似ではこれ以上、明日のことは決められない。寄せ集めた哲学では、国民をどこにも連れて行く足腰にはならないのだ。どうも、排気ガスと有毒物質とで息苦しいし胸焼けがする。
2006.08.26
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平易にいえば、小さく分析して行けば真実はあるだろうか。そしてそれが積み重なって世界はできているのだろうか。物事を小さく見ようとしているように見えてならない。それでは、この地形も人間社会も変えることはできないだろう。人間は、生命の誕生を知ろうとしているが、おそらく解明まではまだ相当時間がかかるだろうし、宇宙への旅立ちも、この重力を容易に撥ね退けるだけの科学も持ってはいない。私たちは、明るく気楽に生きようとするが、現実は、多くの矛盾がある。現代の日本人は、客観的に見て、日本社会がどれだけ公平で文化的であるか疑問を持ってもいるだろう。イギリスのシンクタンクの調査によれば、そういう日本でさえ世界レベルからみれば正当以上の資源を消費をしているという。そして、世界が日本並みに消費すれば、地球が2.5個必要だ。マスコミの報道も、事実の矮小化がみられるし、政治も同じだろう。物事をズタズタに分断し、世界レベルで解釈しようとはしない。この社会変化をどのようにして概念化するのかが問題だ。そして、社会的現象を「日本社会」、「アメリカ社会」、その他の社会を、世界レベルで150ヶ国という多元社会を世界システムの一部として見なければならないだろう。現実を正しく直視することは、何と難しいことだろうか。ころろを奮い立たせるものがなければならないだろう。
2006.08.26
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その人の名は落合信彦というらしい。何度か名前は聞いていた。「誰も見なかった中国」というタイトルの本を読んだ。先ず自分を写す数枚の写真でズボンに手を入れているのを見ただけで、これは、と思った。驚いたのは、公安の車が一緒でその大きなメリットまで書いてある。それが、何で「誰も見なかった中国」なのだろうか。9日間で約2000キロ車で移動して取材したのだそうだ。しかもタフなスケジュールだったと書いて憚らない。ただ貴州省と雲南省を走ったばかりではないか。「今まではなぜ良かったかというと、貧しくとも閉鎖された社会だったからです。人口の自由な移動を制限する行政的な措置もありましたし、マスコミもそれほど自由ではなかったですから、人々は貧しくても自分の生きている世界しか知らなかった」という。彼は、アメリカの大学で何を教わったのでしょうか。恐らく、こんなくだらない見解しか持たない日本人が多いのではないだろうか。然も、国際的なノンフィクション作家と称しているのでしょう。公式サイトをみたら「勝ち組」だそうだ。多くの著作を出している日本の作家が、この手の本を出して持て囃されている。欧米の大学で振り分けられて、役に立たない人物が日本に舞い戻って大きな顔をしているのではないか。陳腐なことです。遣るなら中国を相手に真正面から料理すればいいではないか。中国に住まなくても研究はできるだろう。立派な仕事をすれば、誰でも認めてくれるだろう。たとえ中国だって、事実は事実として認めざるを得ないでしょう。真実とは、あるジャーナリストの報道をして、ヴェトナム戦争をストップさせたではないか。真面目なジャナーリストは、あらゆる権力や圧力と闘いながら、世界に珠玉のレポートを準備していると信じたい。何故なら、この世界が、このままではいいとは到底思えないからだ。>この橋から車が転落して幼児3人が死んだという今朝の報道だ。
2006.08.26
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昨日の芥川の「秋」で主人公信子の原風景は、「松林」として心象イメージとして何度も出てくる。私も「松林」というのは、昔から心を魅かれてきたことを思い出した。「松林」が暮れ行く風景のトーンが、人生の黄昏をイメージするのだろうか。何度か入院した国立病院の構内に、「松林」があり、その奇妙な容に眼を奪われることが多かった。何か人間の姿をイメージさせたからだ。芥川も、人間の生い立ちでひとりひとり姿が違うように、松も採光や置かれた場所で様々に枝振りを変える姿を比喩しようとしたのではないか。風雪に耐える姿は奇妙に人間のように見えさえする。ふと思い出して、先ほど近くの公園からみえる松林を見に行った。外はぼんやりとした雲がかかり星は少なかった。やはり「松林」は不気味な静けさを漂わせている。信子の「秋」は、松林から来るのだろう。他人にはわからない風や気温や思いが重なるのだろう。心に沁みる心象風景がある。芥川が描こうとした「秋」の作品は、「路上」の続編ということだ。幾つかの類似点がある。信子のもうひとつのテーマは「無意識の偽善」である。愛する男を妹に譲るというものだ。併し、信子は、本当に愛する男と結婚しようと熱望しただろうか。芥川は、それを藪の中にしている。誰にも分からない。日本文学の特徴は、建前と本音が違うことだ。愛に殉じようとはしない。それは未練とされる。何故藪の中なのだろうか?その曖昧さは、多くのひとを足止めさせてしまうのではないだろうか。もうそこに価値をとどめるべきではない気がしてならない。「松林」は、どこまでも松の林でしかない、と観るべきなのだろう。>女子大キャンパス
2006.08.26
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素戔鳴尊やヤマトタケルにしろ艱難辛苦の旅に出ねばならない。そして水辺に至る。求めるものは何か。キーは何かを求めるが、自分はそれが何かを知らない。それは、何かを待つのかもしれない。日本文学とは、謂わば葦の原野を眺めるようである。ところが踏み込むと底知れない沼地に入り込んだような心持になる。ずぶずぶと足がはまり込んでくるような恐怖さえ感じてくる。芥川のいくつかの作品の講義を聴いてきたが(9回目)、もう、蜘蛛の巣のように作品が絡んでくる。彼の評価は難しい。そしてかれの「艱難辛苦」は、水辺に至らないだろう。少し、視点を変えるだけであろう。芥川は、同じ素材を何度も使って自滅したかも知れない。この現実の世界をあまり知らなかったのではないか。若くて注目されたのは、寧ろ彼にとってなくてはならない「艱難辛苦の旅」が薄かったのだろう。同じネタを使い過ぎたのだ。文学者が、文学しか知らないから、ネタ切れになるのだろう。文学者が自分たちで泥沼を造り出している。矛盾をどれだけ並べても泥の山を築くだけではないだろうか。そんな気がした。P.S.午前1時過ぎに眼が覚めた。どうもビールを飲み過ぎたらしい。座椅子で少し横になり起きてきた。利害で動くことに慣れた人たちは、人間の誠意を中々受けとめることが出来ないようだ。多分臆病なのだろう。臆病はやがて、殻をつくり蓑虫のようになってしまいチャンスをなくすだろう。それは、この社会の素晴らしさを知るというチャンスでもあるからだ。土台リスクを被ろうとしないのは、マイナーの所業だろう。どうも、リセットのできない人たちが増えてきているようだ。これからの時代は、一生に何度も経験することになるだろう。勿論パーフェクトはないだろうが、小さいのは何度もある。学生から社会人になり、結婚して、子供ができて、其のたびにリセットしなければならない、昨日までの自分を。それができないと半端な人間になってしまう。「大人こども」がそうだろう。私に言わせれば、男を駄目にしているのは女性たちだろう。どうやらそういうデータもあるらしいから、科学的根拠がないわけではない。男社会がそろそろ変わるだろうか。それがいい方にであればいいが、必ずしもそうではない。「性の中性化」を齎し始めたのではないか。人口増加の抑制が種としてのヒトにかかり始めただろうか。結婚しない女や、子供を産まない女性が増加している現象が見られる。少なくとも統計上数字として出てくることは何を意味するだろうか。男女の出生のバランスは、生命の神秘を思わずにはおれないが、それは人間が無知だからでもある。何かが作用しているだろう。人間の性行動に対するブレーキがかかり始めただろうか。それこそ「利己的な遺伝子」に手が入りだしただろうか。私のブログに、時々コメントをくれるのは、決まって女性である。女性の脳細胞ネットは、世界中に蜘蛛の糸を張ってもいるだろう。異常な信号を捉えるのだろう。自分ではアブノーマルでも何でもないが、ゲストが増えているのは気持ちが悪い。「脳ある鷹は爪を隠す」のだそうだ。私には、切り裂く爪などないが、コンクリートに穴を開けようとは思っている。人間は、誰にもステップアップができるチャンスがあるだろう。それだけは信じている。
2006.08.25
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対象が定かでない、なにかわからないものを待っている。芥川の「秋」で、信子と俊吉は、「時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあった。その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落とした。其処には待つと云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあった。」「秋」のテーマが、今日の講義の眼目だ。「秋」には、人生のたそがれとしての比喩と物理的な自然の意味がある。芥川の大正9年の作品群には、彼が死に至るまでの発想の原点があるという。否スタートしたというべきか。・黒衣の聖母・或る敵討ちの話・素戔鳴尊・老同左・東洋の秋・秋・動物園作品を年譜でたどると、一つ一つの作品では見えないものが見えてくるという。特に芥川の作品群にパターンが顕著でもある。天候が、心情を吐露し、テーマが何かの比喩だったりする。ピェール・ロチ著「秋の日本」→「日本の秋」→「東洋の秋」。まだ作者は若いが人生黄昏を感じている。黄昏が、二対の意味で使い分けられる。「寒山拾得」は、西洋にはない東洋の世界観だ。公園の清掃をする人夫が、「寒山拾得」の化体した姿にもみえる。「動物園」は、ルナール「博物誌」とキップリング「小さな子供たちの物語集」の構成を使っている。写生文と俳句のような作品だ。「へビ・・・長すぎる」今日の教授は遅れてきたが、1時間延長して面白い講義だった。「すべての事は評判があって、始めであり甲斐がある・・・」というフレーズは芥川の心情だろう。今日の作品群は、芥川の重要な作品と言えるだろう。
2006.08.25
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近くの大学の公開講座に行くことをお薦めしたい。多少、したいことと違うかも知れないが、その内、いいものと出会えるだろう。焦らないことだ。序でに大学の図書館に滑り込むこと。まさか女子大に男が行けるとは思わなかったが、受け付けてくれた。生涯教育というのがあるらしい。試験勉強もしないで大学に行けるのは、社会人の特権かも知れない。威張ることはないが、どうどうと参加すればいい。お金がなくても教養くらい手に入れられるだろう。自分で大学の門をくづり、ぐうたら亭主に、「あんたも、大学で勉強でもしたら・・・」といって遣ればいい。現代の日本では、叱る親たちがいなくなったから、自分で教養は身につけねばならない。大学のヒマしている先生に、私たちはこんなに真剣に生きていることを示さねばならない。自分の子どもたちが、どんな先生から勉強しているか知る必要もあるだろう。意外と阿呆な先生がいるのに驚くことだろう。あまり自分には、必要でもないと思うものほど、感動があるかも知れない。自分は、どれだけの才能があるかハ、誰も知らないのだ。少なくとも自分の才能がどれくらいかを調べてみたらいいのではないか。これから、文学部教授の講義を聴きに行くが、何だこんなことも判らないで講義をしているのかと驚くことがいくつもあることだろう。そんなものだ。
2006.08.25
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まだ残暑が厳しい。それでもドイツに住んでいる女性のブログで気温が朝晩10℃だそうだ。それだけではない。もう来年のカレンダーが売られている。最近書店に行っていないが、日本は未だだろう。せっかちな日本人という認識でいたが、意外と寒暖の差はあちらが激しいのかも知れない。風土とか季節とか独自のものが日本にあるように思っていたが違うかも知れない。日本人の顔がだんだん丸顔になり、丸顔を可愛いというようになった。ぽっちゃりが、スリムを求めてきてもいる。うりざねからまるがおで、今度はどうなるのだろう。外見だけではない、すぐキレる母親がいる。母親だけではない。外国人と結婚する日本人が増えているが、日本人同士でも難しいのにと心配になる。まあ余計な心配だが。日本では夫婦は離婚すべきではないという環境があったが、捨てられる男が増えている。まあ殺されないだけ有難いが、その理由が分からない莫迦男もいる。厳しい環境で、先のことを考えなければ生きて行くことができない人たちとそうでない人たちの力の差が、西洋とアジアの差だろう。西洋は季節と対峙して油断なく生きなければならなかったのだ。そうしないアジアであれば、世界から棄てられるだろう。暦の「処暑」は、秋である。「もう秋だよ」と教えている。それに気付いて「秋(とき)」を思い知るひとがどれだけ日本人にいるだろうか。それが、たとえ連日の熱帯夜と猛暑がつづいているとしても、それは、昨日のことに過ぎなくなる。遅いコーヒーを飲んでいるところだ。そういえば、nhk そろそろメルヘンの世界から、現実に目覚めてはどうだろうか。いつまで大リーグの中継を続けるのだろうか?余程、ヒマしているのだろう。
2006.08.25
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実は、童話を読んでいない。読んだかも知れないけど、内容を殆ど忘れている。ただ「ドリトル」が、「do little 」から来ていることは印象深く頭にある。物事は、すべて「小さいこと」でしかない。だから、人間も小さいことしかできない。先生は、小さいことをするのだと。大きいことは神様しかできはしないのだという。色々悩んで、何もできないできたから余計そう思うのだろう。若い人にアドバイスしたいことは、いいと思うことを遣りなさいということ。自分の五感を信じなさいということだ。「落とし穴」があるかも知れないとか、自分にできるだろうかとくよくよする間にできなってしまう。他人が横から来てそれをしてしまうからだ。決断することは時間をかけてはいけない。「さっさと始めなさい」だ。駄目なら止めればいい。その決断もすぐにすることだ。だから、do little でもある。人間の遣れることは大したことではない。人間は、悪い奴もいるが悪魔ではない。することもされることも大したことではない。よく結婚したら取り返しができないと考える人がいるが、離婚するひとは大勢いる。結婚したら案外いい人だったと思う人もいる。大抵、女性は相手がただの人だと知るだろう。それでも結婚をしない人よりも利巧にはなるだろう。それが「現実」なのだろうと思う。してみないと現実は分からない。頭のいい人が考え過ぎて何もできなくなるのをよく見かける。ああでもないこうでもないと迷い続けるからできなくなる。それより、「私は莫迦だから、遣ってみないと分からないの」といいながら、結構人生を謳歌している小母さんのほうが、私には利巧に思える。人間の進化も人間の好奇心に由来しているのではないか、しかも偶然の所産なのだ。他人の決断にタッチしないようにしている。段々腹が立ってくるから、これも aging らしい。
2006.08.25
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何度目かの民主化の波が通り過ぎて、民主政治がデモクラシーの下で現実の政治過程を意味している。そしてそれは「自民党政治」をどう見るかでもある。戦後の歴代首相の歴史をみていくのは、まるで古新聞の記事や写真を見るようだ。短絡した軌道を幾つか繋いで、いまに至る道は容易ではない。昔読んだ、大審院判例のようだ。時々水面に浮かび上がり深呼吸をしなければならない。しかも放り出したい衝動にも起きる。かって日本人は、思い上がりをしただろうか。それとも劣等感の反動であったか。低賃金で作り上げた経済力が齎したものは何だろうか。民主政治の中身が、まるで内臓の一部のように曝け出されるとき、反吐を吐きながら歩いてきた。まだ、これが最後ではない。私たちには、まだ、知らなければならない明日がある。この夏も過ぎぬとする。まだ積乱雲があるのに、秋の声がする。
2006.08.24
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得意不得意で余計な遠回りをしている。或る人には、何でもないことが、或る人には超えられない悩みにもなる。他人と喋ることは平気であるが書くことが苦手の人がいる。その逆もあるだろう。何でもできるひとが臆病だったりもする。人は、くだらないことで悩んでもいるだろう。一寸したことで身動きできないでいる自分に気付く人は、寧ろ少ないのかも知れない。戦前の日本人は、自分たちの立場を見失いもした。いまの子供には、何故そんなことに当時の大人たちは、気付かないのだろうと不思議がるだろう。カードを切れないギャンブラーは、ギャンブラーではない。彼は、前に進めない。良くも悪くも、存在価値がないからだ。不得意を多くしてしまうのは、自分であろう。世間を狭くしているのは、他人を知らないからでもあるだろう。日本人を知らない日本人は日本人だろうか。外国人を本当に理解できるだろうか。過去の自分を理解できない自分は、自分の明日をどこまで信じられるだろうか。あれだけ、簡単だったパズルが解けなくなっていることに気付いていますか。素戔鳴尊(すさのをのみこと)は、高天原の国に住んでいました。古の日本人を知っていますか。彼にも得意不得意があったのでしょうか。ふと思いました。得意なことはあっても自分にはなんでもないことでしかない。不得意に悩まされるだけでしょう。人生なんてそんなものです。何か大事なことを忘れて生きているのではないか。それをいつ気付くのでしょうか?
2006.08.24
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中古マンションを観てきた。ロケーションがよくどの部屋からもいい風がはいり、明るい。知り合いの方に同行した。6階なので遠くまで眺められる。ひろがる夜景を見ながら過すのもいいだろうと思った。住めば都で、どこでもいいようなものだが、やはり我が家がいい。衣食住というが、衣食は、一応足りているが、日本の場合は、狭い国土で住まいが問題だろう。国民が自分の住まいを持つのは当然のことだと思う。それを国民の家族に提供できないのは国家の怠慢であろう。誰でも自分の居心地のいい場所で多くの時間を過せるようにすべきなのだ。どうも、しなくていい我慢をすることに慣れてしまっているのではないか。気分良く暮らすことは当然の権利でもあるだろう。住まいを大事にすることは、基本的な人権でもある。自分の仕事を大事にすることに繋がるのではないだろうか。決して不相応に見栄を張るのではない。自分らしく生きるために住居は、必要な条件ではないか。気分良くあることは、自分へのかけがえのない時間の供給でもあるだろう。日本人が住環境をもうひとつ大事にしないのは、自分を大事にしないこと、と同じではないかと思う。結婚するひとと結婚しないひとがいるが、勿論できないひとは仕方がないが、チャンスがあれば結婚した方がいいだろう。住居も手に入るのであれば、手に入れた方がいいのではないだろうか。国籍不明の人間が多いが、本拠地を持たないからだろう。自分の本拠地を持とうとしないのは、責任を負おうとしない所業と同じではないか。
2006.08.24
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アジアの世紀が凋んだといわれる。見せかけや救いのないものがアジアにはあるだろうか。近代化のプロセスを経ないで「現代」に突入しただろうか。中国の経済成長は、これからさまざまなリアクションを迎えるといえそうだ。テキストのない10年が待っている。子供が、大人の靴を履き、大人の洋服を着ようとしても中身がそれだけのサイズに成長していないアジアだろうか。この世界で、南北問題はまだ解消してはいない。侵略者と被侵略者とでは自ずとそのダメージが違うだろう。この世界の難しさは、成長過程が各国で全部違うことだ。国連は、共通観念を持てずに苦しんでいる。貧富の差は広がりつつあり、このままでは、調整は破綻するだろう。突然変異でもない限り、人類に競争原理が止められない。匙を投げて不貞腐れた学者ばかりだ。何の智慧も出そうとはしない。「アジアに未来はあるのか」という本を読んで思ったのは、作者が、勝手にそう思うだけで、未来は必ずある。どうすれば、リスクを回避できるかを考えなければならない。それがテーマであり、取組むべき方向でもある。現実を指摘するだけで、思考をストップさせないことだ。解決方法はいくつもあるが、それを現実化することが問われている。アジアの現状は、まだまだ見せかけの国家でしかない。西欧に追いつくことが目標ではない。為すべきこと確りと為すべきだろう。政治家が政治をし、経済家が効率のいい社会を目指すのだ。親が子の自立心を養い、教師が学生にこの世界の矛盾を示し、どうすればその解決に近づけるかを教授するのだ。それだけでいい。
2006.08.24
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マスコミの関心は、「ニュースバリュー」だろう。商業主義で時々失敗もする。自分たちの関心が世論のそれとは違うからだろう。2歳の子のシュレッター事故は、痛ましい。その対応がされるという。「家庭での使用を想定していなかった」からだ、と製造メーカーが弁解したが、もう20年前から事故は遭ったらしい。マスコミのフットワークは、人間の目と同じで、必ずしも脳に繋がってはいない。ヴェトナム戦争の報道のように時には威力ともなるが、それまでは、マスコミは「能天気」ですらあるだろう。使い方を間違えると凶器にもなる。イラク戦争では、マスコミのフットワークは、まだ腰が重いようだ。多くの犠牲が出なければ、だろうか。もう、その条件は充分すぎるほどにあるはずだ。それだけ圧力が強いのだろう。権力に阿る報道は、その社会的存在価値がない。この社会のタブーは、世界のタブーとは限らない。それこそ聖域などないはずだ。アメリカは、大統領が「イエス」といっても、上院や下院がある。新聞も、テレビもある。そして世論もあるから、政府が間違ったことをしても、修正が可能だろう。権力は腐敗する。それを糺す装置をもつことが、民主主義の証明だろう。独裁を目指したがる政府を監視することが、どれだけできているか目安になる。政府に対する批判が自由にできる保障がされなければならない。そして、何が、ニュースバリューなのかを的確にできる能力が、今のマスコミにあるだろうか。それが問題だ。P.S.朝から、投稿できず、1時間ばかり無駄にした。最近なかっただけにショックだ。そうもネットのアクセスと関係がありそうだ。それにしても消去になるのは何故だろうか。まあ腹を立てても後の祭りだ。気分を変えようとしたが、どうも乗らなかった。今日も暑そうだ。出勤前の娘から、「バーベキューセットを洗っといて!」と頼まれた。昔は、家族で焼肉パーティをよくしたものだ。家族も、細胞分裂していこうとしているだろう。時間と共にすべてが価値を移動させてもいる。花も時を得て輝くだろう。それぞれがそれぞれの役割を果たしている。なるようになるだろう。それは、自然の摂理でもある。受け入れるものは潔く受け入れるべきだろう。せめて歪めてはならない。時代を足止めしないようにありたいものだ。自然から学ぶべきものは多いだろう。そういえば、私がこどものころ友達と遊んでいるのを、或るとき、ふと振り向くと父母は目を細めてみていたものだ。私は、そうしていただろうか。こどもたちが安心して我を忘れてあそんでおり、親たちが目をほそめて眺めている社会でありたい。
2006.08.24
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アメリカの活力は、異文化の坩堝だからだ。黒人差別と女性差別の克服をずっと続けてきたことだ。同質ではなく、異質を取り入れることで活力化が可能となり、進歩が生まれる。差別を克服しようとして、アメリカは自己の活性化を長年図ってきたのだ。日本の場合は、同質な文化を守ろうとし、異質を排除したために閉塞しているだろう。世襲は、衰退の幕引きをするだろう。北朝鮮もそのことに何れ気付くだろう。日本も異文化を積極的に導入して行くべきだろう。純血主義は、リスキーな選択に過ぎない。かって、教養のない下級武士が明治をリードしたように、地方出身者が、躍り出て、国を活性化した。世襲を謀ろうとして、ことは成立しないだろう。日本の政治も、旧弊を捨て切れないようでは、真の活性化は望めないだろう。>博多湾日本の政治が低迷し、疲弊しているのは、政治家が世襲するからに他ならない。勿論政治ばかりではない。異質を拒絶しているセクトはどこも同じだろうと思う。
2006.08.23
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どこの国家も人材の育成に必死であるが、必ずしも「アカデミック・フリーダム」が確立されている訳ではない。かって戦前の日本もその苦渋を味わった。まさにアジアが西欧に比して見劣りがするのは、この「アカデミック・フリーダム」ではないか。国益だけに固執するのではなく、ひろく他国の共感を引き出す必要がある。そのためには、強いリーダーよりも調整型のリーダーが、必要である。多くのひとと議論をし、相手の納得のいく結論を導き出さねばならない。日本人の学者のアジア論の本を読んでいたが、我田引水で他国を切り捨てるものだった。日本の教育は、自国の利益だけでなく、他国と充分議論を尽くし、結論を導き出せるだけの能力のある人材を育成しているだろうか。付和雷同では駄目だろう。
2006.08.23
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まだ残暑が厳しい昼前に、家の周りの雑草を取っていたら、すぐに息が上がってきた。どうも体力がない所為だろう。殆ど運動をしていないし、体を使っていない。人間は、生甲斐の必要な生き物らしい。段々面倒になって気を使わなくなる。家族も自分の体も身辺も同じだろう。神経を使わなくなるようだ。龍之介の「南京の基督」を読んでみた。短篇小説で作者の得意なテーマでもある。キリスト教に対する日本人の浅学がある。誤解もあるのだろう。時代背景もあるが、偏見もある。思ったのは「踏絵」で、殉教したといわれる日本人たちだ。島原の乱は、切支丹の弾圧だけではない。圧制が主な原因であろう。それほど日本人はキリスト教を学んではいない。それは仏教も同じだろう。多くの日本人には、宗教が根付いてはいない。風土や環境やそうさせただろうか。基督は、どこにでも現われるのだろうか。憐れなひとは誰だろうか。そうして死んで行くだけだろうか。そんなことはない。残暑は厳しいが、確かに秋の気配がしてきた。多くの生物はそれを知っている。生きることに神経を使っているから知っている。小説の中の中国の少女宋金花は、いたとしても、もうそこにはいないし、もともとその世界は龍之介という日本の作家の一時の迷いだろう。処で、前回10回目と書いてしまったが、8月25日は、第9回目だった。従って作品も違う。どうも最近凡ミスが多い。多分、ブログも怪しい。ゴミを積み上げてもゴミの山でしかない。安倍氏は、周囲に人を集めて何かできると思っているのだろうか。アメリカの真似をして、日本を守れるはずがない。どうも勘違いしてはいないだろうか。エリートコースを歩いた人が、この社会のリーダーになれるはずがないだろう。私は、今処暑の午後刈り取った雑草の匂いを嗅いできたところだ。出かけようか迷っている。
2006.08.23
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「隣に住むひと」が「隣人」であり、「隣人愛」も「愛」なのだろうか。「哲学」が西欧では、「愛知」の思想があるからだろうか。喧嘩でもしない限り、隣人とは、普通親しくなっている。お隣に外国人が住んだことがことはないけれど。もし住んだとしても同じに人間だし驚くことはない。少なくても、そういう時代でもない。お隣に、中洲で何かの女将をしたという老婦人が引っ越してきたのは20年近くになるだろう。上品な博多女の風格のあるひとだ。物腰で分かる。先日心臓疾患で救急車がきて驚いたが、すぐ九大病院に入院されて、最近退院して、時々見かけるようになり、お声をかけたら、元気そうだった。九州の女性は、ひとことで言うと、私などは「怖い」。熊本では、「おてもやん」だ。歌詞を知っている人は、震え上がるだろう。福岡のこのあたりでは、差し詰め「玄海灘の女」だろう。あの「小倉生まれで、玄海育ち、・・・」だ。どうも「九州男児」も、いつの間にかいなくなってしまった。本当にいtaのだろうか。「家」にいるべき主がいないと、「家」も寂しくなるとつくづく感じるようになった。伯父たちが生きていた頃のことを思うと涙が出る思いがする。元気な声が満ちていたのに伯父たちが死んだらあっという間にただの構造物になってしまった。お隣も、老婦人がいなかった間、犬の声さえせず静かだった。先ほど、気がついたが、お隣の庭に花が咲いていた。花好きのお隣さんが復活したようだ。
2006.08.23
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今週は、第10回目がある。「女」から「秋山図」までの7作品。全22回講座で、149篇を遣る。まあ遣ってみないと分からない。前回一葉は半年遣ったが、自分の宿題が残っている。受講者のレベルもよく分からないで文学部教授はマイペースで講義をされている。普段の学生に対してもそうなのだろう。相手を知らないでよくできるな、と私などは、感心したり呆れたりする。どうやら偉い人になるとそれでも想定内なのだろう。そういえば、政府の言っていることも、わかるひとに判ればいいいうところがあるだろう。曖昧が日本的なのだろう。ふやけて栄養価は希薄になるけれど。それでも、私は、自分の仕事が増えるのはいいけれど。最近あれもこれもが増えてきて、時々前が見えなくなる。それで、あまりつじつまを合わせなくなった。無理に合わせようとしても無理かも知れないと思うようになった。ひとつひとつの事実を分析して積み上げても、それが現代の統一した原理になるだろうか。モザイクでしかないのではないか。スペシャリストを目指そうとするが、それがすべてではない。一部の真実が、全体の真実ではない。人間は、所詮ミツバチ社会になろうというのだろうか。東京は、この100年で、3度気温が上昇したという。世界では1度上昇して、多くの微生物が死滅したと言われている時代に大変なことだ。東京に海風を通すのだという。コンクリートの都会に必要なのは風だという。現代科学では、歯が立たない自然がある。科学の進歩を信仰した人びとは、自然の力に驚かされている。たかが微風さえ、髪の毛一本も再生することができない。今更、龍之介は天才だったというのも気が引ける。否病人でもあっただろう。そういえば、先日熊本の田舎に墓参りに行って、田んぼに赤とんぼが群れているのを見つけた。まだ、蜻蛉はしっかり生きているのだと嬉しくなった、もうながい日々が流れた。
2006.08.23
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春、喜界島を飛び立ち、2000キロをもろともしないを飛来する。その生態は、一般市民も参加して調査されている。そのエネルギーは凄い。海面で休むのだろうか。気流をどこまで利用するのだろうか。どこまで飛べるのだろうか。これまでの最高距離は2,140キロだ。モットかも知れない。花を求めているのだという。その生態に学ぶものはないだろうか。小さな蝶でさえ、2000キロを移動しているのだ。日本だけではない。アサギマダラだけでもない。もっと凄い昆虫がいるだろうし、もっと凄い生命がいるだろう。人間が、知らないだけだろう。やっと人類は、この世界のミラクルを知り始めたのだろう。何故、恋人でなければならないのだろう。それは何が決めるのだろう。この不思議は、いくつもあるだろう。生物は、その生命を最大限に拡げようとしており、無知の人間の想定を軽々と超えているだろう。人類は、生命の王者でない。海を渡る蝶は、それを語るだろう。P.S.素人が研究に参加することは希少価値があるが、アサキマダラの生態について素人が、マーキングなどや、蝶の発見で貢献している。判りやすい研究だからだろう。それでも、蝶がどうして数千キロも飛べるのだろうか。そのメカニズムはどうなっているだろうか。向かう拠点はどうして決めるのか。人間は、自由のようでも、この地球の一生物に過ぎないし、重力に閉じ込められた存在で、数千万種に及ぶ種としてヒトでしかない。他のすべての動物や、植物や、昆虫の生きる智慧を学んでいるのでもない。人間の脳は、厖大な名宇宙に相当する拡がりをもつという。アサギマダラの海を行く距離に比べれば、まだ人間のこれからやらなければならない仕事は多くあるに違いない。少し、元気の出る話である。
2006.08.22
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来月の総裁選は、目前だ。誰になるか略固まりつつあるが、政治は一寸先は闇だ。彼が、どういう世界観をもつか、国民ははっきり知っている訳ではない。自民党という政党の総裁が、首相の切符を手にするようにできている。懸念されるのは、一番手の安倍氏が靖国参拝について明言しないことだ。どうも彼の「国際社会」への認識と「国家意識」とのギャップが大きいような気がする。自分に不利益なことは隠そうとしているのではないか。小泉流のマスコミを利用して世論を操るような手法で、これからの世界政治に対抗できるはずはない。堂々と持論を吐露し、国民に問う姿勢が必要だろう。彼が北朝鮮に対して行った交渉は、タフな外交と言えるだろうか。国連は、必ずしも日本の意向に組しなかったではないか。小泉は、アメリカの力を背景にしたが、彼は、どうか。日本の外交は、世界からそれほど支持された力を持ってはいない。それは、経済力に見合った責任を果たしているとは言えず、日本の政治が世界から信用されてはいないからだ。そうしているのは歴代の首相を輩出してきた自民党が、もつ理念が世界に認知されてないからでもある。新首相の条件は、少なくても、国際感覚に優れた人物で、世界から受け入れられる識見をもった人でなければならないのではないか。それが担保された首相かどうか、国民には知る権利があろう。
2006.08.22
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人間はすべて社会的存在であるにかかわらず、政治に無関心の人が多い。政治は生活のすみずみまで及んでいる。不公平税制に不満をもつサラリーマンが多いのに選挙の投票率は極めて低いように政治から距離をおく人が多いのが現実だ。現実の問題としての政治化が進行しているのに、人びとの政治意識は脱政治化が進んでもいる。かって、政治が身分によって限られた少数の手に独占されていた時代ではない。現代は、個人の自立を保障し、個人の政治参加を認め、民主主義制度を確立させた近代社会のはずだ。原因は、政治家という専門家に「政治」を任せしまったからだろうか。人びとは「非政治化」してしまっただろうか。ややもすると宗教や芸術のように絶対的な価値の追及により「現実」を軽蔑や嫌悪を持ちがちになり「反政治化」の形成する。効率化を重視した官僚機構が、政治機能の分業化と専門化を齎し、肥大化を進行させてもいる。このようなことから、国家の政策決定プロセスは、複雑で不透明になっている。国民の政治意識レベルは決して高くはない。政府は、国民の政治意識の啓蒙に熱心ではなく、むしろひとびとの政治的状況の理解は困難性を増しつつあるだろう。経済的に豊かな社会の到来が、人々をして日常の消費生活に、いっそう関心を向けてしまっている。現代の「脱政治化」の傾向が、あらゆる道具をつかって造成されているだろう。例えば私事だが、この猛暑に外出もせず、自分のイエに閉じこもっていたら、庭は雑草が繁茂してしまった。日本の政治もこれから穏やかではいられないようだ。どうも、舵取りが日本丸をどこに連れて行こうとしているか、手の内を見せようとはしない。まるで旧体制だ。来月から豹変して行く権力者が見られるのではないだろうか。「ショータイム」は、劇場でだけで愉しむものだが・・・。「脱政治化」の国民へのツケがどれだけかは、世界政治の天候次第だろう。>熱帯夜で睡眠不足です。夏バテしてます。
2006.08.22
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議院内閣制の是非もあるが、今回も政策論争のないまま、安倍晋三氏に決まるのだろうか。多くを語ろうとしない安倍氏の態度は、自己の政治的態度を表明せず政権を掌握しようという従来型の手法でしかない。あとでぞろぞろ問題が発覚するのではないか。マスコミもまるで「張子の虎」のようである。堀江や村上も泥を被るまではヒーローの如くであった。それこそ、政治には、隠し事があってならない。機先を制する情報を開示して貰いたい。必ず予兆はあるだろう。それを知らないだけだ。それにしても、お粗末な日本の政治システムであろうか。国民の直接手の届かないところで最高責任者が決まるのだから。安倍氏は文春9月号で「この国のために命を捨てる」述べているが、こういうことを安易に口にする男を、少なくとも私は信用しない。システムの欠陥は言うまでもないが、国民は、今回も貧乏籤を引いているとしか思えない。政治家は誰がつくるのだろうか。政治大学院でも設立して、優秀な人物を選挙でもしたほうがいいのではないだろうか?
2006.08.22
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文学で、求められているのは、新しい切り口だろう。どうこれまでとは違う視点を持つかでもある。そこに作家や評論家は智慧を絞ろうとする。100回読んでも見えないものには見えないかも知れない。多分、遣り方が間違っているだろう。何が間違いであるかを考えなければならないが、自分の準拠枠に囚われてしまう。それは、原因のそのまた原因を探さないからだ。諦めてはいけないものを諦め、断念しなければならないものをいつまでも捨てないために時間切れにもなる。チャンスを永遠に失うのだ。この生きている世界で成果を上げられるものは多くはいない。新しい切り口が新しい切り口と評価されないことが多いからだ。プロの評価をパスすることは至難だからだろう。その痕跡はすぐに消えてしまうからでもある。私たちは、いつまでも痕跡を残すことはできない。一瞬の夢ではないが、そのようなものなのだろう。言いたいのは文学の話ではない。例に挙げたまでだ。或る文学部の教授の話でもあるが。最近知った経済学の教授は、私のブログを大丈夫かと心配された。標的にされると。そうかも知れない。それが社会の免疫にかかれば攻撃されるだろう。私は、新しい切り口を探しているだけに過ぎない。悲劇にも喜劇にもなるだろう。日本人がロシアの人工衛星に乗ろうと数十億円をかけて夢を叶えようと宇宙訓練を受けていたが、健康チェックではねられたとテレビスポットで言っていたが、何のために宇宙船に乗りたいのだろうか。その価値があるのだろうか。人間は莫迦なこともするものだ。それができるだけいいというだろうが、そうではない。それは、無駄なことだろう。この社会を歪めているのはそうした無駄遣いでもある。新しい切り口は、少なくともアカデミックな環境にはないだろう。自然界には、それが溢れているというのに・・・。>此花はいまも存在しますか?
2006.08.22
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