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憲法9条について、様々の議論がある。本条に関する問題として、自衛権の問題がある。本条が自衛権を否定するのでないとすることは当然だ。すべての戦争を放棄しすべての場合について戦力の保持を否認したとする見解にたつときに、はじめて問題となる。外交その他の政治的手段によって国を防衛しようとすることは、当然許される行為である。しかし、自衛権というときは、実力的手段による防衛を意味することは論を俟たないが、その内容については議論がある。何れにしても、政府の外交努力が重要であることは異論がないところだ。その政府が、その努力を放棄しているのが。「靖国問題」ではなかろうか。小泉首相は、ブッシュ大統領と今夜は、プレスリーの館を訪問するとの報道がされている。どれだけ蜜月といわれる関係も今や二人の関係でしかないだろう。似たもの同士である。然し、ことは国家間の問題だ。安全保障は日米間だけではない。日米安全保障条約に日本の安全保障を委ねてきたのは多くの弊害も生んでもいる。国民自身が国を守るという当然の自衛権がどこかへ行ってしまった。それは、敗戦後世界が日本に課した制裁でもあるだろう。それに対する正当な反撃ができなかったのはそれなりの理由があったからだ。原爆を二つも投下されて正当な反論ができないくらい国家は色んな意味で打ちのめされていただろう。なんとも恥ずかしい限りだ。はっきり物のいえる人間を育てるには遅いが、だからといってこのままではいけないだろう。戦争による解決ではなく、平和外交のプログラムによる解決方法を考えられる政府を造らねばならないのではないか。利己的な行為が、余りにも目に余るのではないか。より広い視野をもつ努力がされるべきだ。
2006.06.30
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ジェンダーが未だ社会的な問題であることはいうまでもない。「性」を売り物している社会には、真のデモクラシーもない。女性がまだ「性」を武器にするのは恥ずべきことだろう。 「性」を売らなければ生きていけなかった時代がいいというのだろうか。正にそのことを自ら主張しているような女性がいるのは驚きだ。社会のダニがいうのは、まだ判るが。男にプライドをもたせる女性がいなければ、ローマ時代から、男はどこまでも堕落し、女性も「性」の餌食にされるだろう。動物の社会は、「性」の獲得によって繁栄したが、その「性」のコントロールで生死が決まるだろう。優れた子孫を残すためには、男女が自らを成長させなければならない。何が「健全」かは、一概には言えないが、少なくとも「性」を侮辱するものは、人間の未来を崩壊させるだろう。所謂権威主義でいうのではない。自分にないものを相手に求めようとすることや、より未来にちかいものを愛するのは、自然なことだろう。自分の五感を、磨かねばならない。安直な感情を信じないことだ。激しい雨になった。この雨は恵みの雨にもなるだろう。もう田植えが始まった。
2006.06.30
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今にも降り出しそうな空模様。もうすぐ雨になるだろう。天候はすぐ変わるものだ。そんな梅雨の六月の雨だもの。」清張の@龍之介の死」を読了した。芥川は、詩人であり、文人であり、ロマンチストだろうか。世間ではそう思われているし、わたしもそのひとりだったが、少し変わった。当時の文士と同じ、卑屈で憐れな小便小僧で、そして、カネで女を買う「サナダビッチ」だろうか。世間の目を気にする男と言われながら、陰で世間に判らなければ何でもするくだらない低俗な文人の姿が見え隠れする。そんな風だから、明治以後の文学に碌な思想がないのだろう。段々腹が立ってきた。女を買うなという思考で、まともな思想は生まれない。唯、私たちの知っている芥川の初期から中期にかけての短篇の創作は、それでも絢爛たる修辞の構築物であるのだろう。それが、やがて、芥川の人間性のお粗末なブラックホールを知るとしても。何故こうも、狭い空間の中に、日本人は居続けようと思うのだろうか。自分の手足を食べて生きようとするだろうか。そのことを覚醒しない限り、新しい芽が出て来ないのではないか。優れた天才と評されている人を、「サナダビッチ」とだけ評すればいいだけではないだろう。
2006.06.30
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公開していましたね。今朝のブログでメッセージを戴きました、どうもです。何か、誕生日毎に、あちこちガタ出てきます。朝の気分がどうもスカッ都市内というか?おしっこの切れが悪いような気分です。だんだん滅入るようではいけませんね。今日は、一日この話に触れないようにするつもりでいtaのですけれど、今朝娘が、ポツリと「夕ごはんは、何時まですればいいと」という。「はあ、何のこと」。どうやら、食事療法のことらしいと気付くまで暫く時間がかかった。「めしをご馳走します」らしい。成る程、博多は今日は本当の大雨になりそうだ。人間関係には、親子でも、こっち側と向こう側があるようで、分からなくなる。私が、横浜に単身赴任していた4年間は娘が丁度大学時代と同じで、何かというと遊びに来ていて、優しい娘をしてくれたが。やっと私も帰省して、一緒に暮らしだしたら、段々扱いが変化して来た。今では、ピアノの上のゴミと同じだろう。そんなやつが親父も誕生日を覚えているらしい。まあこっち側としたら、「中くらいの・・・」の話だけれど。親などというものは、いないと恋しがるくせに、毎日傍にいると喧しいと思うようだ。人間付き合いが、お互い得意でない。やはり血筋だろうか。
2006.06.30
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孝子さん、貴女は、どなたでしょうか?特定ができません。サーフェン中のゲストさんでしょうか?昨日、書き込みして戴き、ありがとうございます。この前の「阪急ツアー」でご一緒したどなたかですか。どこか謎めいて、それも、いいですけど。「とびっきりシンガポール」旅行パックでしたけど、「それっきり・・・」になるのが、普通なのでしょうけど。旅行をしていると、何か、誰とでも仲良くなるのは何故でしょうか。殊に、日本人は、そういう気分になりがちなのではないでしょうか。国内では、意外と無口で暮らしているひとが旅行中は饒舌だったする。それで、騙されて結婚するとか。旅をするとテンションが上がるのでしょうね。多分、ベテランの旅行業者が、調査を充分して観光客を悦ばせるように仕組んでいるのでしょう。だから、たいていの人は悦ぶはずですね。でも、現地のひとにとっては自分の居住地に入り込んでくる昆虫みたいに思っているかも知れない。それとも、「おれたちは動物園の中では、ない」と思うでしょうか。観光立国は、その点強かなものですが。目がきらきらした若い女性が観光地で見かけて、愉しいけれど、何が見えているのだろうと想うときがあります。どちらがより観察者ですか?確り、自分への魂のお土産を買っていますか?日本に帰国して、何か課題ができましたか?自分の目は、何をみていましたか?唯、見るだけなら昆虫と変わらない。どうか、孝子さんも良いたびをお続けください! Have a nice day.
2006.06.30
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2年前に亡くなった義叔父のことを話しながら、義叔母と妻と一緒に、車を走らせて熊本に行って来たが、その義叔母が乗った時から、時間が止まった気がした。どんどん頭の中に昔の思い出が溢れてきた。そして、お通夜が始まり、妻の姻族のひとたちの顔を眺めながら不思議な気分を味わった。いまここにいる自分は、誰だろう。妻は、懐かしそうに数人の知り合いに話しかけていた。突然、気丈な義叔母が、棺を覗き込んで立ち竦んだようだった。あとで聞いたら、ふと気が遠のいたのだそうだ。義母が来ており、思ったより元気そうだったので安心した。意外と姻族とのお付合いがあるのは、われながら、不思議だが、シャボン玉の中に入る時間のような気がしてくる。この前は、義叔父の時で、その前は義父の葬儀のときであった。あちこちから、声をかけられるが、どうも姻族というのは、訳がわからない。妻が説明してくれるが、すぐ忘れてしまう。義父の通夜で、徹夜で蝋燭の火を守った高校教師の妻の従兄が、声をかけてきた。定年まであと1年。その先は、どうなることか決めていないとのことだった。それでも、姻族の何分の1も知らない。日蓮宗のお通夜だった。
2006.06.29
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ここ一年が、乗越えられなければ、先に生き延びることができない。芥川はそれができずに自殺した。なんでもない神経衰弱や、胃アトニーだっただろうか。不眠だったろうか。余りに恵まれた文壇デビューと自惚れとが、彼を破綻させただろうか。私は、現代のエリートと芥川の存在がダブって仕方がない。漱石が誉めた「鼻」は、ただ「よくできた小説」を誉めたに過ぎない。中国や日本の古典から、翻訳しただけのことでしかない。多くのエリートたちも、自分の創造に根ざさないもので、この社会で食えると思うのは、思い上がりだろう。世に逆らってこそ、得られるものがなければならない。芥川は、ここ一、二年が、乗越えられずに逝った。そして、それは、誰にでも言える。
2006.06.29
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正確には、今夜熊本でお通夜だ。妻の伯母さんで90歳を幾つか超えておられると思う。そういえば、以前は、私の大家さんでもあった。もう古い話になる。そんな縁で、親戚になってから何度かお逢いしているが、男勝りの後家さんで物怖じしない、ずばずばものをいう方だった。熊本では、昔から強い女性がいる。民謡で「おてもやん」という歌があるが、あれは凄い。相手の男を「ぐじゃっぺだるけん、まだ盃はせんじゃった。」と言い放つ豪快さが、たまらない。わたしの知っていた伯母さんは、ご亭主の愛人に立ったまま小便をかけたという猛女だった。祖母も立ったままで小便をした。下着など見たことがない。腰に布を巻いていただけだ。そういえば祖母の衣服は小便の臭いがした。だが、私は侮辱しているつもりはない。皆なそうだったから。はやく老人になり、醜く皺枯れたが愛すべき人たちだった。厳しい肉体労働で、皮膚はかさかさして腰も曲がって、歯も白くなかったが尊敬されてもいた。熊本の子どもたちは、怖いおばさんに育てられたのだろう。亡くなった義伯母は、ながく足を悪くされて弱っておられる話は聞いていた。併し、それから10年になる。何という、猛女だろうか。80歳過ぎて足が悪くても10年だ。今夜、福岡で近くに住んでいる別の義叔母から私たちに同行するとの連絡があった。まだ80歳で、私たちの贔屓目でだが、岸恵子くらいの美人で色気のある義叔母である。妻に言わせると、「あの叔母さんは、いまでも電話してからでないと逢えないの。」だそうだ。何せ、熊本は、強い女が多いところであろう。そのひとりの「火の国」の義伯母さんのお通夜に行く予定だ。
2006.06.29
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昨日「ダ・ヴィンチ・コード」をシネマで、初めて見た。(全く、内容は知らなかった)隠遁者なので、予備知識も関心もなかったが、何故そんなに騒ぐのだろうとは思っていた。謎解きの面白い推理小説なのだろうくらいの。これまでも、西欧のタブーを扱ったものは、その殆どが宗教に関するものだろう。西欧は、国家権力とローマ教会の権威が結びつき醜い闘争を繰り広げて、人びとをして血の海にした歴史がある。そればかりではない、やがて、世界中を席捲したのだ。宣教師は、その尖兵となりキリスト教だけではなく、自国の富を拡大させもしたのだ。教会は、奴隷をつくることも認めていたのだ。神の前に平等だといいながら・・・。武力と神を使い分けて、世界を荒らし回った。アジアもアフリカも、南北アメリカも、オセアニアもだ。三大宗教があるのは、その結果であろう。今も、その名残を残す、西欧がある。これまで、美しい人間の建前としてのキリスト教がドラマでもシネマでも文学でも音楽でも美術でも、あらゆる芸術がある目的のための道具であった。併し、もうネタが無いようである。というより、もうそんな時代ではないことに気付き始めたのだろう。こんなことを続けていたら、今度は、自分たちが報復されるだろうと。その危機感の現われてはないだろうか。テロは、いつまでもテロではない。それは、キリスト教が一番知っている事ではないか。彼らは、暴力的テロを繰り返してついに、巨大な組織を造ったのだ。そして、それは内部崩壊し、再生させた。世界を支配するために、絶対の神を創りあげる必要があったのだ。暗闘の歴史は、未だ多くは闇の中なのだろう。今、ファシズムの台頭がいわれ、宗教への回帰がいわれ、日本では愛国主義は叫ばれだしている。それは、不穏な胎動のような気がしてならない。人びとは、こころの準備ができているだろうか。どんな事態になっても、最後まで、守るものをもっているだろうか。唯、朝の中にいる。
2006.06.29
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龍之介を全部読もうという講座を受講している。清張の「昭和史発掘」のシリーズを再読していて「龍之介の死」という一篇があるのに気付く。先日文子夫人側から見た本を読んだが、龍之介のイメージが大分違ってきた。清張の目で見た龍之介も面白い。肉体の衰弱を「発狂」に結び付けようとしたのは単に痔疾や胃アトニーのような平凡な病気に敗れたくないという彼の天才の傲慢だろうか。いずれにしても稚拙な考えだろう。死の八日前一夜妓楼で遊び、席に出た芸者から彼女たちの陰惨な生活状態を聞いて深く「生きるために生きる」人間の浅ましさを知り、一層厭世観をもったらしい。墓穴を掘るようなことばかりしている。まあ追い込まれればそんなものかも知れないが。作品ばかり読んでいても、作家を理解しないと物は見えないのではないか。即ち、ベースとなる時代背景がある。そういう面で見てくると人間としての龍之介の存在が少し翳んでくるようだ。それは、少し歴史にシフトしているからでもあるようだ。外からだけではまだ足りのかも知れないが。勿論文学的価値のの問題ではないが。
2006.06.28
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自己撞着したブログを見ても何とも想わなくなったとは少し怖い。ニュースで有名美容整形外科医の大学生の娘の誘拐事件があり、その母娘がインタビューに応じているのも、日本の警察が優秀だとかいうのを聴くことも、犯人が3億円要求したとか、韓国人、中国人、日本人たちだったりするとか、何か極めて異常だと思う。こういう事件が惹起する事態がまともではない。所謂セレブとかいう人たちが自慢げにテレビに出て来て、贅沢な生活を披露したり、自画自賛しているのを見るとなんか不安になる。多くのその日暮らしの貧しい人たちがどう思うのだろうか。何でもネタにしてしまうとは節度があろう。日本女性の奥床しい謙遜していた美徳は色褪せたようだ。美容整形の趣旨が歪められているのではないか。母親が、娘の前に出て来て「怖かったでしょう!」はないのではないか。何か勘違いした人生なのではないだろうか。そういうひとが、憎しみも買うのではないか。勿論犯罪は、犯罪だが、それを誘発していることも考えるべきだ。奇貨となるようなことを自らするようでは自業自得と言われても仕方がない。自画自賛は、本来東洋では、不遜な行為である。自分が金持ちだとか、私は美人だとか言う人間は、他人から嫌われるだろう。
2006.06.28
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ロン・ハワード監督。トム・ハンクス主演。「アメリ」のオドレイ・トトウが相手役で出ていたがアメリは適役だったけど、今回はミスキャスト。日本人にはあまり馴染みのないテーマだけど、ここまで、踏み込んだ作品は珍しいのではないか。クリストが預言者で、「神」にされたという話や末裔がいて、その役がオドレイというのは、少し軽い気がした。西欧に於ける宗教は重いテーマなのだろう。ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチがでてくるのは、西欧の宗教と科学の深刻な底流の葛藤を感じた。それと宗教テロの根深さがあるのだろう。話題の作品だが、成る程これでは、批判も多い訳だろう。しかしタブーが崩されてきているのは、世界の潮流なのだろう。フリーハンドが何をするか判らないが、これも通過儀礼のような気もする。大人になって行くためには、まだまだ破られねばならないタブーがあるだろう。この映画を観て、これまで見たことのない素顔の西欧のルーツを垣間見た気がした。
2006.06.28
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「日本国憲法」は、「法の法」である。それが正しく実際に運用されてこそ、その制定の目的は真に達成される。日本国民は、常に倦むことなくその検証をすべきであろう。憲法は敗戦による多大の犠牲の上に制定された多くの国民に支持された国是としての憲法である。法文は抽象的な文章に過ぎないから解釈によって大いに内容がに違ってくる。然し、それでも黒を白にすることはできない。それでも憲法9条は、自衛隊を拡大解釈して創設された。その原因は朝鮮戦争だった。国際情勢が米ソの冷戦時代に突入したからだ。憲法9条は、後段で、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」即ち、軍備を廃止している。就中、自衛隊が「軍備」ではないと誰にもいえない。自衛のための戦争ならいいのではないかという議論がされたが、「戦争の放棄」は、自衛も制裁のための戦争も含むのは自然の論理だ。だから、いま改憲なのだろう。これは、ただ憲法の条文の改正だけの意味ではない。旧体制からの圧力が増していることを物語るだろう。またぞろ、卑屈で従順な国民にしようとする目論見が隠されていることを忘れてはならない。代弁者たちの甘いことばに浮かされて痛い目にあって来たではないか。権威主義や軍国主義は、民主主義を蹂躙する思想であった。甘言に迷うことなく、現実を直視すれば現憲法の精神は理解されるはずだが、国民もそれらの勢力に対抗できるだけの見識を持つべきだろう。
2006.06.28
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J.K.ローリングが英民放テレビのインタビューでまじめに応えたらしい。三人の内二人死ぬことになるらしい。あとは、ロンとハーマイオニーのどちらかだけど、どっちだろう。また悩みが増えたかなァー。最近の事件を起こした高1の少年もハリー・ポッターが好きらしい。どこか不可解な世界を象徴しているようだ。もし作家が、アガサを意識しているとすれば、少し失望した。絶望ではないけれど。まだ作家は40歳なのだろう。生身の人間としての存在を消すことはできないのだと納得するところもある。イギリス人らしいのだろう。作家が、主人公を愛し過ぎると少しも面白くなくなる。少し意地悪な方が作品はよくなるのだが、最後で転ぶのだろうか。矢張り、聴かない方が良かったかも知れない。同じことだが。「画竜点睛を欠く」なのだろうか。人気と作品性は必ずしも同じではない。どこに収めるかがはじめるより難しいのだろう。くだらないと想うものにこそ何かがあると想う。こどもが興味を持つのは、大人には見えないものがあるからだろう。来年には最後の7作目ができる。そう作家が言っているから間違いないだろうが、それでも確定している訳ではない。何があるか判らないのが世の中だ。作家ひとりのハリーではないからだ。作家の描く作品中のハリーだけでなく、作家と共有する自分の脳内のハリーがすきなのだろう。子どもたちもそうではないかと想う。孤児のハリーは、大人たちが太刀打ちできないヴォルデモートと闘っているが、やはり殺される運命なのだろうか?それは人間世界に戻ることを意味するのだろうか?
2006.06.28
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多くの点で問題の所在が、ぼやけるのはよくある現象だろう。ポイントは何か冷静な目で見定めることは必要な要件であるが、実は簡単ではないことの方が多く、核心を掴むのは並大抵でできることではない。真実を知るものは、重要であるほど隘路があるだろう。多くの人の信念はすぐ揺らぐものだ。しかも人の寿命は驚くほど短いのだ。心臓が止まれば、すぐ死へと直結する。学問も同じだろう。すべてがそうかも知れない。磐石に見える大会社も利益がでなければ倒産し、国家も、政策を誤れば破綻し、国民は悲惨な生活を強いられることにもなる。何をしなければならないかの問題の所在ポイントを見誤るからに他ならない。ゴーヤは、子どもの頃最初は苦くて吐き出したが、食べられるようになったのは、寮生活をして、外に食べるものがなくて、いやいや食べ始めてからだ。好き嫌いの多い方だったが、空腹には勝てない。何でも食べるようになったら、美味しくもなった。胃弱が改善しもした。ゴーヤは、そういう意味で懐かしい味でもある。苦いものも喰えるという自信がつけば、大抵のものが食べられることを知ったと思う。料理次第でもあろう。逃げないで暫く吐き出さないことだ。いまや、ゴーヤ料理は大好物である。案外、自分が思い込んでいる苦手なことも、我慢していれば、ゴーヤと同じかも知れない。やがて、苦味も旨く感じる。P.S.確かに、科学の進歩がなければ、そして医学の研究の成果がなければ、もう死んでいたかも知れない。人びとの平均寿命は50歳にもならなかった。それは大したことであろう。私たちはその恩恵に浴していることは事実だろう。そのことを考えれば、これまでとは違う人生がある。CHANGI で思ったけど、人間の脳は眠らないのに、そして、65億人もいるのにそれに対する現代人の認識が遅れているだろうことだ。時差があるのだから、世界中どこかが夜で、どこかは朝だ。勿論休息は必要だが、個性がある。そのライフスタイルに対応できないことはないはずだろう。ひとは、何時死ぬか病気になるかだけではない。いいアイデアが真夜中に生まれることもある。このブログもそうだろう。いろいろな個性があっていい。複雑系のヒトであればそのほうが当然ではないか。キャッチコピーで、人生を描写することはできない。文学でもどうだろうか。勿論、このスペースも、楽天のコマーシャルベースの中で運営されているが、必ずしもブロガーはそれに拘束されている訳ではない。勝手に遣っている。好きな書き込みをしている。これも謂わば表現の自由だろう。思想。信条の自由だ。日本人の卑屈さは、その歴史から来ている。私人としての私生活が、封建社会の残存としての道徳風習に支配されていた。それは法律にまでなり、個人の尊厳や平等が無視された。これが、権力に依存しなければ生きていけない体質をつくり、民主主義の成長を萎縮させたのだ。これは弁解でしかないが、少なくとも歴史的背景はある。だからどうなのだ。だから、それを克服する必要がある。私は、欧米が偉大だとは思わない。国家も個人も東洋の国家と変わらない。同じ誤りも冒してきたし、これからも冒すだろう。他国を侮れば、その報復も受けるだろう。大国も小国も同じ人間がベースである。傲慢な人間と卑屈な人間がいたから侵略ができたのだろう。いまや傲慢な人間は、自国で排除されねばならない。自国において卑屈な人間も政治に登場させるべきではない。タフな交渉力のない人物が、外交官になるべきではない。ピッチを走り回る体力のあるものがなるべきだろう。何れ、国家というボーダーもなくなるだろうが。図体の大きい奴が必ずしもこれからの地球に有利な形質かは微妙かも知れない。寧ろ小さくなるのではないか。脳も大きいだけが優秀なのでもないだろう。1400gもどうなのだろう。昔から、「知らぬが仏」ということばがあるが、自分がどこを歩いているのか。実は余り知らないのであろう。それ程、完璧にこの社会を認識しているのではない。知っているのは、自分が見てきたことでしかない。思わぬことが起きるだろうが仕方がない。君子ではないが、「君子は器ならず」というから、時に応じるしかない。長く書いても誰も読んでくれないだろう。心情を吐露することは、容易なことではなかったが、そのことができたとしてもどれだけの意味があるかといえば疑問だろう。その内容に応じたスペースとは限らない。それは、管理者の能力でもあるだろう。多くの作家を世に出したのは、作家たちの力だけではない。傲慢な人間に小説は書けない。卑屈であるからできるのであろう。芸術とはそんなものかも知れないと想う。話は、ごろりと変わるが、寝ぼけているのか、コーヒーの粉をまたこぼしてしまった。この前も、同じことを遣り、ついでにパックの鶏卵も冷蔵庫に入れようとして落してしまった。その有様や無残である。遣りたくて遣る訳ではないが、時たま、こんな破目になる。交通事故を起こしたシーンを何度か見たが、情けなさそうな顔を皆んなしていた。裁判所で刑事事件を起こした被疑者をみたが同じだ。手錠をかけられ歩く姿が目に焼きついている。堀江貴文も村上世彰も同じだろう。日本は、そう簡単な国家ではない。外圧で変わるのは一時の方便でしかないだろう。デモクラシーの確立も、国民の意識の高まりに待つほかはないのかも知れない。
2006.06.27
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俄然面白くなって来た。これがサッカーなのだろう。ジーコが批判されるのは心無い話だ。各国の試合をみればよく分かるではないか。日本のマスコミのレベルが低いだけだ。国際レベルを理解しないで優勝などと言っていた。サッカーは、格闘技だ。それがよく分かる試合が続いている。好試合が観られている。日本チームが出なくなって、やおら面白くなった。世界中が熱狂するスポーツで、まだ日本チームの出る幕はない。いいではないか。それより、サッカーファンの層を増やせばいい。子どもたちにいい試合をみせて、奮起を促がせばいい。何時か、素晴らしい日本チームが、ピッチで見られるだろう。何でもそうだが、焦るからチャンスを逃すだろう。たった20数名の代表選手をつくるよりも、90分を走り抜いても、勝利へのファイトの失せない選手を育てるべきだ。私は、ひとつのことに拘らない、自分では物見遊山をしているつもりでいる。だから、どこにでも出かけるつもりでいる。あちこち歩きまわり、野垂れ死にするのが願いである。清張の「昭和史発掘」を読んでいる。推理作家らしい彼の視点は鋭い。こういう人物が、雨後の筍のように出てくる地盤造りをすべきだろう。
2006.06.27
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「臣民の義務」が主張され、戦前までの日本国民は思想、信教、言論等の自由を制限された。現在憲法で保障された権利である。真面目な話程、殆ど関心を引かないらしい。著述家のプロがプロらしい話をしない時代だ。正に滑稽であるが、現世からはぐらかされることに怒ってはならない。どれだけ自分の思い通りに世界がならないからといって、人間の価値を失うことはない。滑稽に見えるのは、他人事だからかも知れない。何故そんなことをするのだろうかと、毎日報道される刑事事件をみて思うだろう。殆ど氷山の一角しか見えないからではないか。自分が無知で分からないからといって「自由」が無価値なのではない。よく海外旅行をして、日本の良さが分かると聴くが、それくらいことで、それこそ「愛国者」になるとしたら、軽薄でしかない。むしろ「愛国者」にならないことだろう。確り分析ができていないだけだ。簡単に分かることは簡単に壊れるものだ。もう午後は、夏の陽射しである。最近、殆ど動かないせいか。体力がなくなってしまった。学者が成果を上げられず、まともな仕事をしないのは、足と脳の筋肉の衰退からくるのではないか。平成18年版高齢社会白書を興味深く読んでいる。課題だけが総花的に羅列している。本当に取り組む気があるのだろうか。この社会は、滑稽で堪らない。子どもたちが必要もない背伸びをし、遣らせておいて、それを潰すために過大の投資がされる。
2006.06.27
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「われに自由を与えよ、しからずんば死を」(パトリック・ヘンリー)現代に於ける「自由」とは何ぞや。真の自由とは何か。それに正面から答えられる学者がいるだろうか。「自由」は、空気ではない。時には、「自由」のために、死をかけた闘いがされた。恐怖政治に苦しんだ歴史は、どこの国家にもあり、日本も治安維持法が国民の「自由」を弾圧した。「自由」は、その時代で、様々にかたちを代えてしまう。真剣に「自由」と向き合うものでなければ、そのすがたは見えないかも知れない。人間にとって真に価値あるものは、いつも権力によって排除されようとするし、迫害を受けるものだ。まるで小説の悲劇のように。そのひとつが「自由」だろう。何が「安寧秩序」か。何が「善良の風俗」だろうか。何時も、多くの判例をみながら思ったものだ。国家にとって都合のいいことばで国民の「自由」は切り捨てられている。私たちのもつ、真の権利としての「自由」とは、憲法に制定され条文で保障されるものではない。私たちは、何度でも問わねばならない。真の「自由」とは何か、と。それが、これからの私たちの生きる日々の糧でもある。
2006.06.27
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一匹の雀が隣の軒先からジッーと私を見ている。勿論私も観ている訳だけど。雀にとっても一日の始まりだ。自宅の屋根に雀の巣があるらしく、そのとばっちりで雛が落ちていたりする。日本人は、生命に敏感なのだろう。生き物を神様にしてしまう。西欧では、世界は、人間以外は、獣か愛玩動物か植物でしかいない、すべてひとを支えるものだ。彼らは人間社会では、多くのルールを創らねばこの社会の秩序を保てないと思っている。この社会は、デモクラシーや、宗教の自由や、平和が必要であり、個人の尊厳が保障されなければならないという。だが、現実は、貧富の差があり、身分社会であり、エリート社会が克服されない。神の前の平等に過ぎない。彼らは、その矛盾に苦しんでもいる。どうも偽善がある。憧れている場所は、どうも憧れる場所ではないことが多い。大学はいいところではない。優れた人間が優れた仕事をするところではない。私は、いま雀を憐れんで見ているが、実は逆かも知れない。利巧なやつが利巧ではないから、この社会は、おかしくなっているのだろう。どうもいけない。妄想が連鎖反応を起こしそうだ。兎に角、日本は、朝を迎えた。 今日だ!
2006.06.27
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わが国において国家と学問とは、密接な関係と意識され「国家のための学問」という理念が席捲していた。学問にとっては不当な桎梏となり、学問の自由と国家権力との間で摩擦を生じる原因でもあった。戦争突入後、戦争遂行のために政府によって強力な統制下に置かれた。学問の自由は、全面的にねじ伏せられた。空白の時間である。ポツダム宣言では、民主主義的傾向の復活強化が約束されいた。占領後思想言論の自由を回復する措置がとられて、新憲法において「学問の自由」が新設された。大学にあるものが、真に「学問の自由」を渇望しているだろうか。時々思うことがある。寧ろ「自由から逃走」しようとするものたちではないか。一部のプライドをもつ学者であり研究者や学生だけが、目を向けているだけではないのか。ながい服従に諂い宦官たるを願うものたちが支配した歴史をこれからもつづけようとしている。何が恥なのだろうかと思うときがある。何が「不当な桎梏」だろうか。外力でしか質すことのできない「学問の自由」など、所詮は絵に描いた餅だろう。P.S.謂うまでもなく、日本国憲法自体が、妥協の産物であろう。個人の尊厳や、国民主権、民主・平等の原理とは相容れないものがいくつある。ひとつは、天皇制がそうだろう。いろいろの論議がある。むしろないのが可笑しいくらいだ。何が民主主義なのか、それは、世界中で苛烈な闘いがされている。人間はそれほど利巧ではなく、ただ愚かだけでもないだけなのだろう。日本の歴史に「なじまない」という歴史観があるが、これは何だろうか?日本の歴史も、世界の中のひとつの国の歴史であるに過ぎない。例えばアメリカも中国もそうだ。人類普遍の原理があるだろう。紛らわしい議論で本質を歪めるものがあるのも事実だ。学者の役割は、正しく歴史を国民に示すことであろう。そこからよりよき選択も可能なのだ。それをしなかった戦前の学者は、真の学者ではない。そして、それと同じことをしている現在の学者も同類だ。正しくエゴイストである。この世界は、それこそ一般人にとって理解のできない社会ではない。もし複雑すぎるとすれば、誤魔化しがあるからだろう。分かりやすくすることはできる。それをしようとしないか、させない力が強いからに過ぎない。夫々が、自分の責務を果たせばいいだけだ。それをしない社会は淘汰されるだろう。たとえ小国だろうが、大国だろうが、ひとは同じ戦場にいるだろう。
2006.06.26
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私たちの生活は、他人の力に依存したものだ。国家ですら他国を抜きにしては存続することができなくなっている。日本のように、自国の防衛もままならない国家である場合が多い。それで何で自由なのだという議論がありうるだろう。100%は、無理だが60%のラインが合格点だろうか。否、70%だろうか。80%だろうか。多くは、妥協の産物としての、バーター取引が行われている。ベストではなく、ベターを求めているのが現実だろうか。それは、戦争をしないためにであろう。日本は、北朝鮮を理不尽だと言うが、韓国は違う。韓国人の選択はより現実的にならざるを得ないだろう。奥歯に噛み締めているものは、生きるための苦渋だろう。台湾の人たちも同じだろう。他国の人間に言えない口惜しさがあるだろう。然し、この太平楽に見える日本人も、悩みは多いのだ。借金大国であることがそれを物語っている。今死にたくないから、副作用の強い薬を飲んで生き延びているに過ぎない。安らかに死ぬことはできないだろう。それだけは日本国民は覚悟して措くべきだろう。現在、より深く悩まない人たちは、選択する能力を仮装社会に棄てているのかもしれない。平和憲法を生かせないとしたら、余程汚い世界か、無能な国民でしかない。
2006.06.26
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Article 23. Academic freedom is guaranteed.「註解日本国憲法(法学協会)」上下巻を書棚から引き出してきた。何か忘れていたものがあるかも知れないと思ったからだ。本は、もう少し赤茶けている。「過去においてわが国では学問の自由は、・・必ずしも充分に実現されていたとはいえないので、その経験に鑑み、憲法中に新しく取り入れたものであり・・・」とある。「文化国家の建設のため必須の要件に基づく」からだ。他国の学問の自由も、殆ど不完全のままだ。必ずしも尊重されている訳ではない。それは、イデオロギーの対立からだ。先ず、「学問の自由」は世界のどこでも完全ではない。英米にしても同じだ。科学の進歩が日進月歩である今日ややもすれば、その掛け声に惑わされて、デモクラシーもそれに応じて進んでいると錯覚しているのではないだろうか。改憲論者は、もう50年も経過しているというが、当時の精神や理念から、どれだけ現代が進化しているといえるだろうか。むしろ戦争の惨禍の現実感が薄れてきて、平和憲法の理念も希薄になってもきているのではないか。それこそ、書棚にしまいこんでいたこの憲法のテキストを読まねばと思ったのだ。ひとのこころは移ろい易い。正しいことも、そういま信じていることも、原点に戻り考え直すべきではないか。OCW で、いよいよ学ぶ自由の実現かと思ったが、守られるものが価値のないものであるとしたら、意味はない。何が「学問」で、何が「自由」で、何から、誰が守らなければならないのか。
2006.06.26
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どうも掛け声ばかりのJOCWだろう。これでは、形式ばかりのものでしかない。そのいじましさには辟易だ。何が大学だ。見識がそれほどないということだろうか?プライドの欠片もないものが、研究などすべきではないし、教育の名に値しない。無抵抗な若者ばかり相手にしているからだろうか。少女マニアのようだ。そんなにこころが狭いようでは、世界の潮流に乗ることはできない。うじうじしている間に、世界は次のことを始めるだろう。学問の自由は、滝川事件に見られるように大学の自治の自由でしかなかった歴史しかない日本でしかない。日本の大学が、世界の大学の一流になれないのは、その閉鎖性にあるのではないか。今だに、「井底の蛙」ですまそうとする教授などいらないのではないか。政府は、聖域のない日本にするというのではなかったか。働きながら、勉強できる環境を造り、前向きな議論をすべきだろう。他人の理論を追いかけるだけの研究ではなく、オリジナリティーが求められている。それができる人間を育てなければならない。分かっていてできないのは、その気がないからだろう。JOCW とは、そういうものでしかないということか。いじまし過ぎないか。そうであれば、さっさと看板を下ろしては如何か。
2006.06.26
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激しい雨音に目が覚めました。暗くて外は見えませんでしたが、朝まで降り続いていた。やっと5時になり窓を開けたら、雨は止んで、小鳥の囀る声が賑やかです。小鳥たちもほっとしたのかも知れない。雨音は、何か太古からの遺伝子のかも知れない不安を感じますね。どこか落ち着かない気分にさせる。視覚の重要性はいうまでもありませんが、嗅覚や、聴覚もまだよく分かっていないスペースがあるのではないか。文字だけの知識だけでは視野が狭くなる。知見がジャンプするためのメカニズムがあるのでしょうね、きっと。小鳥たちも何か話している。私には音にしか聴こえないけれど。同じことばでも、その時によって、相手によって違う。「嫌い」が「本当は好き」だったりする。意外と利巧と想う人がそうでなかったり、逆のケースもある。何でも不思議にしたり、悪魔のせいにしたりしていると、自分の目が何をみているのか判らなくなるのではないか。ひとは見かけでは判らない。「本当のことは隠れている。」生きることは、知覚を通じて知ろうとしている。いま自分が、どんな環境で、どんな状況かを。それが、どれだけ客観的であるかなのでしょうね。何が、本当に価値があることかは、その時々で変化もする。意味も違ってくる。あれだけ不安にさせた激しい雨も、もう止んで、朝の爽やかさに変わりました。新たな生きる勇気が湧くようです。
2006.06.26
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旅行する前にブーゲンビリアだけは、写真に撮ろうと思っていたのに、半ば忘れていた。写真が仕上がり慌てて確かめたら、数枚に写っておりほっとした。ベランダに咲き乱れたブーゲンビリアを観た。多くの日本兵が、この花のことを書いている。南国を彩るこの花の名前は、なにかこころに響いてくる。シンガポールは、観光地で、小さな国だが、日本人にはいろいろな意味で郷愁を誘うものがある。この花に魅かれて南国を旅するものがいるのではないだろうか。私もそのひとりかも知れない。花は、ただの綺麗なだけの花ではない。植物は、花という武器で生き残りをかけてきた。女性が花に譬えられるのは意味のないことではない。花のようにあることは、多くの人びとからサポートされる存在でもある。花は、強かな戦略を秘めている。だからまた魅力的なのもかも知れない。ブーゲンビリアと並んだ自分の写真をプリンターで大写しにした。花と競うつもりではなく花と一緒に、この世界で生きていることを喜びたい。赤道の近くで、私もやっと、ブーゲンビリアにであった日本人のひとりになった。
2006.06.25
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人間の知覚は、聴覚、視覚、味覚などの様々な感覚様相に基づく相互関連が重要とされる。ところが、知覚心理学では、視覚を中心に研究が進められ、聴覚の研究が本流から外れ、むしろ工学の分野で独自の発展を遂げている。最近になり、Handel(1989)、Bragman(1991)が聴覚研究の新たな展開が見られた。ゲシュタルト心理学は、歴史上の遺物とみなされていたが、今や聴覚研究のむしろ草創期だという。ゲシュタルト心理学の基本的な立場とは「全体は部分の総和ではない」。メロディ全体の構造を、知覚系がどのように捉えているか。その中で一つ一つの音がどのような役割を果たしているかを知ることは重要なことだ。音事象の知覚と音脈の知覚とは密接に関連しており、双方を理解して、初めて聴覚における知覚的システムを全体として把握することができる。「日本語母音のフォルマントに相当する成分を、レベルを高くしたうえで、対数周波数軸上を一定の速度で上昇させ、それ以外の成分を同じ速度で下降させると、母音が聴こえ、音声には聴こえないもうひとつの音が、それにかぶさって知覚されるという研究結果があるそうだ。ふと、想像したのは、聴覚の知られざる知覚の領域だ。恋人同士が、ことばや音楽だけではない知られていない幾つかのコミュニケーションを遣っているのではないだろうか。
2006.06.25
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アメリカ型デモクラシーとフランス型デモクラシーとの対比を、政治学のテキストを読んでいた。前者を「国家からの自由」、後者を「国家への自由」と分類している。国家の形成過程の相違がある。民主主義理論ほどいかがわしい「通貨」はない。それを、現代国際社会の標語として、表舞台で教育しなければならないことほど、皮肉で、滑稽なことはない。スローガンをそのまま受け取るものはいない。間抜けな奴はどこにでもいるだろう。表白するものをみれば、その人間のお里が知れる。そんなノーテンキな人間ほど、大口を開けて吼えているだけなのだろう。悪い奴ほど、沈黙しているのかも知れぬ。アメリカとフランスのタイプの違いを分類するのがデモクラシーを学ぶことではない。そんなものは、いまや「鎌倉遺文」と同じ「遺文」に過ぎない。民主主義の価値とは、コンセンサスや、説得、多数決にあるのではなく、それは、「議論する」ことだ。その議論によって、お互いの間にある差異、見解の相違を確認しあうことだ。謂わば、そこからすべてのスタートが切られねばならない。唯、それだけのことが世界のまだどこでもできていない。梅雨のただなかで、私は、湿った空気を吸い込んでいる。
2006.06.25
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人間たちは、知るだろう人間たちの目に血がたまり、見えなくなっていることを、それは、いつからだろうか過去からか、未来にか、そして、今もそうなのかこのままでは、人間のすべてが失われるホモ・サピエンスの子孫ではないし、祖先でもない宗教は、過去の遺産である。それを排除することはできないが、闘う相手である。瞬間の飢えと渇きのみではなく、未来における飢えや渇きこそ問題なのだ。このままでは、やがて、時を失い、その目は光を失い見えなくなるだろう。現実の恐怖と暴力が死の危険を雨のように地上に降り注いでいる。人びとの生活は、孤独で、惨めで、貧しく、険悪で、残忍で、そして短い。権威に巣食うものが、服従者から真実を奪っている。力による服従の強制は、長期的にみて成功しない。それは、繰り返された人間の歴史ではないか。それを、みているものたちに責任はないのだろうか。やがて、報いが来るのではないだろうか。私たちは、その矛先を、どこに向けているだろうか。情報を何のために使おうとしているだろうか?
2006.06.25
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まさに、私たち日本人は、戦争でも積極的平和でもない peacelessness (戦争の危険)の中にいる。暴力の姿を見せない貧困や、不平等や、差別や、抑圧やそして、疎外の存在は、不平等な社会構造から産出される。搾取、分断、辺境化等だ。暴力とは、「ある人に対して影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼の潜在的実現可能性を下回った場合、そこに存在する」という。構造的暴力のない状態こそ真の積極的平和概念.(ダール「権力」より)「民族」というパンドラの箱を、開けようというのだろうか?国民国家の揺らぎは、振幅を増そうとしている。果たして、ボーダーレスエコノミーやインターネット等の国境を越えた文化は、本物なのだろうか?安全保障とは、軍隊だと信じているものたちが権力を奪取している世界で、相互依存や共存が可能なのだろうか?寧ろ、それは対立であり、従属化の政策なのではないか?いまだかって、一度も実践されなかった平和主義を主体的に実践する義務が、日本国民にはあると信じている。すくなくとも法を学んだものとしていわねばならない。
2006.06.25
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音をことばにするのは難しい。外は雨だ。雨が降ってもどうということはないが、矢張り、濡れるのが厭なのは何故だろう。下着が濡れたからといって替えがないわけでもないから、傘などいらない。裸でいたころは、雨が降れば愉しくなったのを覚えている。気持ちがよくなったものだ。息が楽になる気がした。ひんやりとして、少し眠くなって、雨音を聴きながら寝るのが好きだった。政治学とは何か。アリストテレス、マキャヴェリ、ホッブス。「市民」の学としての政治学。「市民」のコンセプトとは。「自己決定」と「共生」について・・・。面白いとおもうところをプリントしていたら、かなりの枚数になってしまった。参考テキストを図書館で探して見るつもりだ。本当に雨音を聴いていたら眠くなった。どうもいけない体力がなくなりつつある。頭と体の健康のバランスは難しい。梅雨の雨を聴きながら眠ることにする、大昔の洞窟でも想像して。
2006.06.24
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私は、タイプライターからワープロそしてノートパソコンだけど、ワープロは、富士通の親指シフトでかなり慣れていた。かな入力をするといらいらしてできない。下の娘は、ゲームはプロ級で女にしてはPCに詳しくて、何でも自分で遣ってしまう。パソコンも自分で寄せ集めで造ってしまった。その娘が、今夜は「アイーダ」を観に出かけている。感動して泣く準備をして行くのだそうだ。親と一緒には行かないが「アイーダ」は見たかったらしい。変な娘である。どうも、私が知っている昔の親子関係ではなくなったようだ。少し娘たちが可哀想な気もしないではないが、いいところもあるのだろう、よく分からないが。プリンターは、共用しており、何時の間にかインクが減っている。カートリッジは直ぐなくなる。でも、プリンターは便利である。上の娘が、友人とパーティをするらしく、何枚かレシピを打ち出して出かけた。妻は、来月初めに、何かの招待で佐賀と別府に行くらしい。「暇な貴方に代わりに行って貰いたいけど「母の日」のプレゼントなのよ。」だそうだ。そんなとこ、頼まれても行くか。
2006.06.24
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家の中で猫がウロウロしておりまして、汚い。白い野良猫をいつの間にか養っております。もう6年近くになるのではないか。流石に、私の目は避けれおります。いつか蹴飛ばそうとしたのを覚えています。猫は、妻子を捉まえては、ミャア、ミャア、鳴いては餌をねだるので、買い置きの餌があるのを知ってます。猫の毛が、身辺にあるは気持ちが悪いし、不潔です。急に周辺が、汚染されていることに気付いたのは、私の靴下に猫の毛が一杯ついている。PCにも、机の上にも・・・。これでは、まるで、猫のばい菌を吸い込んでいるようなものです。世の中猫好きばかりではない。私は、そんなに綺麗好きの神経質ではない。寧ろ、鈍感の無神経の性質ですが、これは、・・・と絶句致しました。ちと遅いですが、そこで、全てのスケジュールのキャンセルして、清掃ディーにしたのでした。ついでに、風呂場の、以前から気になっていた天井の汚れを清掃して、疲れてしまい。昼寝をしていたらもうこんな時間になりました。やれやれ。自分の身辺が、ばい菌で溢れており絶望して自殺した化学者がいましたが、そこまでいかなくても国の免疫システムといい、微生物を侮っていたら、65億人もあっという間に絶滅でしょう。ところで、猫いらずは、殺鼠剤でしたね。
2006.06.24
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老人たちの勇気のあるものは、物事を急がない。老いたるものを侮る風潮は、どこでもみられる、いつの時代でもある。それは、新陳代謝がそうであるように、自然の法則でもある。然し、その若者も、いま在るものは、老人たちと同じ空気を吸っているものたちだ。若者が背負って歩くものは、戦争でも、核兵器でもない。そして、いまや老人の智慧でもない。それは、急がず、忍耐強くあることだろう。それこそ、勇気ある老人のように。世界は、拗れた権力にねじ込まれてしまった。そこにあるのは、欲望によって歪んだ荒野でしかないだろう。私たちは、何をすべきだろうか。何をやめねばならないか。闇の中に踏み出す勇気を持つものだけが、明日の曙光を見る。
2006.06.24
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おはよう、皆さん! なんてネ、偶には軽いノリもいい。あまり、考えないで生きている。考えなさ過ぎるかも知れない。シンガポールの CHANGI 空港のターミナルをみながら、こりゃ、大変なのではないだろうか?と思っんだよ。だって、24時間働いている。眠らない。色んな人種が、同じところで、見詰め合っている。どうすりゃ、ee 、と・・・戸惑う声が聞こえていた。あいつらは何をしている。そういう私は何物で、私はどこに来てしまったのだと。午前0時過ぎに、第2ターミナルから、長い動く歩道を来て、第1ターミナルにあるコーヒーを飲んでいた。これがまたでかいカップで、すごい量なのだ! 真夜中にこんなに飲めるのか、と思ったけど、それが、また美味かった。気がついたらラテだった。不思議な経験をした。リフトで、白人の少女が前を歩いていた。長い髪で、スラリと長い鉛筆のような、顔をみて驚いた。おばさんだった。場所が場所なので、異次元に来た思いがした。何も考えないで書いているから、楽だけど読む方は莫迦らしいだろう。昨日は、大学で3人の講師の話を聴いたけど、自分たちの誤りが見えないようだ。案外、そういうものなのだろう。縛られて身動きできない自分を見ようとはしない。そういうひとに限って、自分は一番自由だと思っている。M的なのだろうか?そういうひとが増えている・・・
2006.06.24
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「ドイツのちょっといい話」という講演会があっていた。講義が重なったので全部は聴けなかったが、ドイツで留学された講師の教授が、あちらの生活ぶりを話されていた。スライドを観ながら話されるので具体的で面白かった。アメリカとはかなり違うようだ。ドイツと日本は確かに学問的な係わりは深い、特に法社会科学ではそうだ。ドイツでの生活は快適だったようだ。ドイツ人はアメリカ人と違って、暫く用のないときなど、黙っていてもいいので日本的で楽なのだそうだ。国境を越えた交流も盛んらしい。私たちも中国の大学を覗いてみたい。勿論中国語は駄目なので無理だろうが、せめて、OCWの講義ノートでも覗けるようになればいいと思う。小さい枠にとらわれない自由な思考が必要だろう。ドイツ人講師が、日本人並みの日本語で講義されているのを聴いているとそんなことも考えてしまう。学問は、新鮮が一番だ。少しでも時期を過ぎれば、すぐ役に立たなくなる。
2006.06.23
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旅行の写真はバカチョン27枚撮り3個を持参することにしている。今回も同じ。それとCD-Rも同時に頼んでいる。やっと写真が出来てきたので、アルバムとPCに取り込んだところだ。出来上がるまでは愉しいやら忙しいやらだ。どうにか、整理が出来ているのは、簡単に出来てしまうからだろう。もう千枚を軽く超えている。ブログの写真は携帯であるが、何せ数が多くなるので時々手を抜いている。あとで気がつくのだが、今回も東京の人たちや、熊本のひとたちと一緒に撮っておけば良かった。例のホテルでタレントの岡村隆にそっくりサンも、口や文字だけでは迫力がない。一緒に撮れば良かった。あれば写真の威力だろう。前の写真と比べれば、大分老けたのがよく分かる。大抵旅行は、二人なので、今度は娘のどちらかを連れて行き、一緒の写真を撮り残したいと思うが、どうもパートナーはそれ程その気がないようだ。年齢が余り違うと写真も離れて撮ることになるようで、熟年離婚も想定外といえなくなるのだろうか。
2006.06.23
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女子大で芥川の作品の講座を聴いた。彼が26歳頃の作品を7篇。芥川文学の研究家吉田精一によれば、アナトオル・フランスの「わたしが人生を知ったのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である」という言葉に芥川は、同意している。スタイルにおいて、メリメエの影響が大きいという。彼の短篇は、西欧風の近代的な短篇の手法をマスターしたものだという。日本では、他には比較できる短篇小説家では国木田独歩くらい。「首の落ちた話」の何小二の首が切られて犬のように訳もなく殺され地面に横たわってはじめて「その寂しさ」を感じる。「枯寂の空」だ。「その寂しさ」は、芥川文学の底流に共通しているものだ。漱石や三島にもある「寂しさ」でもある。かなえられないものをいつまでも空しく待つ「寂しさ」でもある。殆どの作品は原典となるものがあり、いまだにその研究がされている。「首の落ちた話」も江口渙によれば「戦争と平和」からの影響がある。「地獄変」も、レオナルド・ダ・ヴィンチが、炎を観るシーンからのヒントらしい。例えば、秀吉と千利休のように、権力者と芸術家の争いはどこにでもあるらしい。ボードレールの「パリの憂愁」福永武彦訳の中にも描かれている。「枯寂の空」などというものは、創作をするものの宿命なのかも知れない。凡人は、ただ一度最期に知ればいいだけだろう。
2006.06.23
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マハーバーラタは、大叙事詩で聖書の16倍の長さ。桁違いのスケールだ。叙事詩は、ひとの営みの歴史を物語っている。日々の暮らしで、忘れている何かがあるだろう。それが何かに触れて私たちに語りかけてくるが、それを聞こうとしないのかも知れない。それでも、学ぶ価値はあるだろう。例えば、シンガポールは小さな国だが、世界の縮図でもある。国家の過去も未来もある。耳を清ませば聞えてくる物があるだろう。ナイトサファリで、ヒトの太古を想像することが出来るように、シンガポールの多民族社会は、これからのアジアを示しているかもしれない。運命共同体の地球が見えてくる。世界でもっとも長い物語である「マハーバーラタ」は、何かを伝えようとしているだろう。それを知ることがいま求められているのではないか。サンスクリット語で書かれた韻文の原典は18万行あるという。情報が氾濫する時代にあってこの書は人生の指針を与えてくれるかも知れない。何でも省略しようとして、道を見失っているのではないか。それこそ、全方位で未来に繋がる「偉大なコード」を真剣に探さねばならない。
2006.06.23
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自己満足では、足りない。日本文学は何百人芥川龍之介が出てきても何万人でも足りない。東照宮を見て恐れ入った時代ではない。そんなことは皆知っている。何を今更だ。世界を本当に学んでいるだろうか。神がかりの言動では通用しない。世界に通じるものを外国から教えて貰うようでは真の実力ではない。他人の真似ではない日本独自のオリジナルが必要だ。ショートしないために何ができるかを自分の頭で組み立てられる人間が続々出て来ないといけない。くだらないことを批判をする前に自分がこれから明日のために何ができるかを考えられる人間だ。ブラジルとサッカーで闘えば、今は負けるかも知れないが5年後は、負けないチームを造れる人間だ。それが何であれ、足りないものを見つけて、それを造れる人間だ。負けてからうじうじ考えない人間だろう。ブラジル戦を観ているが、これは予想通りだろう。それを知りながら、衒うことばかりしていては日本は変わらない。誰が悪いのではなく、自分に何ができるかを考える人間が必要だろう。目先の勝ち負けが問題ではない。チームプレイの出来ないチームでは勝てない。格を落したブラジルと闘わせさせられる日本チームは憐れだ。寄せ集めのチームを造ろうとしても結果はこんなものであろう。さて、昨夜から激しい雨が降っている。何時か梅雨も明けるだろう。
2006.06.23
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明日芥川の講座がある。「袈裟と盛遠」を読んでみた。男と女のモノローグ。作者の龍之介は、当時26歳だ。袈裟は、盛遠が見たようにー姦婦ーなのだろうか。男から語られる袈裟は真実なのだろう。単なるイメージなのか。時に男と女は、日本では同じ言語を交わすとは思えないほど短絡的で没交渉の関係であることか。古代ほどではないとしても、男女の利害が違うと思えるほどだ。それは日本文学の未成熟に起因するだろうか。何時も男は恋愛を理解しない。女は恋愛を知ろうとしない。女性は美しくなければ、唯醜いだけなのだろうか。26歳の若造が語る恋愛とはいつも裏切りの世界でしかないのだろうか。それとも悲劇でしかないのか。芥川の文学作品は、切り絵のようだ。同じ鋳型の中の変形の作品群でしかない。日本人ももう捨てるものと残すものの選択をしなければならないだろう。それは、やはり「哲学」の欠如ではないだろうか。P.S.ワールドカップは、遂に日本対ブラジル戦。23日午前4時中継が始まっている。テレビ観戦しながらだ。今、芥川の「西郷隆盛」を読んだ。「僕はピルロンの弟子で沢山だ。・・・」老紳士がいう「ピルロンの弟子」の原典は何だろうとweb で調べてみた。あまりこの引用はないらしい。どうやら、イタリアの貴婦人のユベントスに恋したしがないオールドタイプの男がピルロンらしい。そこから先がわからない。諦めた。芥川の引用は、大した意味はないものが多いようだ。カタカナが多いのは、修辞でしかない。才知だけでは、深見がない。読ませる先が違うのではないか。作者の妥協は、読者を卑下するものだろう。それだけの作者の広大無量の、度量があるだろうか。王者ブラジルと闘う日本チームは、ちぐはぐな攻撃のような気がする。日本人は判官贔屓ばかりではなくなったかもしれない。と言ったところで、日本チームが先制してしまった。まあこういうこともあるから、ゲームなのだろう。奇跡は起きるか?
2006.06.22
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「現代シンガポールにおける「中間階層」の研究」(財)アジア女性交流・研究フォーラム専門委員会の5リポートを編集したものだ。ASEAN諸国の「中間階層」についての調査プロジェクト研究だ。ASEANでの「ミドルクラス」の役割の重要性を位置づけようとするものらしい。「学歴社会」といわれるシンガポールは、学歴と仕事の種類、収入との相関関係が極めて強い。日本よりも寧ろ厳しくもあり、ドラステックでさえある。Oレベル(高校入試)、Aレベル(大学入試)試験の結果で、その後の人生に進路が決まる。就労の約70%が永続雇用で、収入の安定が見られる。政府の発表では83%が「中間階層」で、フラット所有者でもある。隣接する周辺国家がイスラム国家であり、多民族国家のため複雑で、必ずしも国家は一枚岩ではない。国語(マレー語)1990代には、東南アジアで最も成功した国の一つと言われた。これは、1965年にマレーシアから分離独立して、リー・クワン・ユー政府が長期政権を継続したことによる。人民行動党を主体とした実力社会のエリートたちが支配しており、宗教的にも多くの問題を抱えている。政府は、国民に、勤勉と自立を訴え、積極的な経済活動と達成への個人的な努力に大きく利する政策を取っている。自国メディアを統制し、他国からの影響の排除に懸命だ。むしろ禁欲的ですらある。問題は、個人に対する社会保障の仕組みを殆どもたないことだろう。誰でも「自助努力」で生きることを望んでいるが、それは理想でしかない。現実は、社会保障によって、補完されるのではないだろうか。リポートを読んでいて、不満はあるが、他国を知ることが自国との比較において生かされるものがあるのではないかという思った。それでもまだ要点を搾る必要があるだろう。
2006.06.22
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ニーチェやボードレールのような偉大な著述家たちが、悲観論的で憂鬱な精神と結びついてポストモダニズムが「時代の兆し」を表白している。悲観論はもう遺物だろうか。悲壮ではあるが賢明なる人びとが、穏やかなアイロニーで組成された懐疑論的で精神性を有しながら存在しているだろうか。個人の感情に基づいた実在を認知しているが、連帯は他人と共感しあうものであるが、いまや「感情移入」に変容されてしまっているだろうか。自己の情動は、その生のかたちをもつだろうか。幸福は、擬似コミュニケーションの世界のもとでの一種の孤立した系になってしまった。(吉田謙二より)それこそ、世に溢れるサクセスストーリーを腹一杯を呑み込んでも空しいことでしかないだろう。その暇があるなら、哲学書でも読んだ方がましだろう。短い時間で得られるものは唯それだけでしかない。だから、何ももたずに明日に向かうべきだろう。C.A.van ベールセン著 吉田謙二訳「ポストモダニズムを超えて」を読んでいる。空腹で死にそうだ。朝コーヒーだけだったから。
2006.06.22
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北朝鮮でミサイルの発射準備がされているという。いつかその日がくることの予兆なのだろうか?たとえそれが脅しの行為だとしても、いずれは現実になるかも知れない。国の理性が時に狂気に変わることを歴史は表白するだろう。不幸は突然に人々を襲うだろう。アクシデントは誰にも起きるだろう。核が投下されるとき、子どもが公園で遊んでいるシーンを何度か映画で見たことがある。誰もそんなことはないと思うことが起きて震え上がるだろう。人間は、神ではない。悪魔でないだけだ。愚かなことをするのが人間だ。そのためには、子どもたちを教育しなければならない、私たち「人類とは何物であるか」を。正しい知識で育てなければ、いつか核爆弾が、雨のように空から降ってくるかも知れない。国家間の会話の努力をしていると言えるだろうか。対北朝鮮は、相手が社会主義国だからと敵視してはいないか。弱小経済だと侮ってはいないだろうか。たとえ現在が友好だからといって、明日のことは判らない。対韓国。対中国。対台湾。対アメりカ。対ロシア。対欧州。対世界。日本の外交努力が、ひとり外交官だけの役務ではない。
2006.06.22
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かって、生命はここで誕生しただろうか。打ち寄せる波は、もう荒ぶるスープの海ではない。私は、時に空しくなる。いつも happy ではない。それほどノーテンキでもない。自分のことだけ悩んでいるのでもない。人並みに未来を憂えてもいる。最近自分でも驚くほど泪脆くなった。これは涙腺が弱くなっただけだろう。弁解だけはしておく。私は、単純な人間だと思っている。ところが取巻く環境がそうではない。いつからかは、私の知るところではないが、厄介なのは、そこで生きるしかないことだ。いま平和憲法が、押し付けだとして改憲されようとしている。押し付けられたのは憲法ばかりではない。そして主権や人権や民主主義も弾圧されていたではないか。やってきたことはどうだ。20世紀の前半は、日本は世界の嫌われ者でしかなかったし、残虐者でしかない。恥じることはあっても誇れるものはない。昔を懐かしんでいるのではない。またぞろ、私たちは、裸でなぎさに投げ出されたのだろう。眼前には青い海と広大な宇宙がある。砂漠に引き返すか。海に乗り出すか。宇宙への旅に向かうのだろうか?私は、日々、ヘイフリックの限界と闘わねばならない。
2006.06.22
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私は、福岡市東区に住んでいるが、他所と比べてどうなのだろうかと考える。敢ていえば自宅周辺の住環境は、日本のありふれた町なのだろう。必ずしも利便性や町並みや緑地が多い訳でもなく、公共施設が整っているとは云えない。電信柱が縦横に張り巡らされており、道路の幅員も狭い。毎朝車の渋滞もあるし、公園も狭く、散歩コースも特にない。狭い路地がいくつもある。どうやら一流の住環境とはいえそうにない。もうここに20数年暮らしている。いいところだと思えるときもあるが、そうは思えないときもある。それでも、車の騒音や、排気ガスで洗濯物が汚れるでもなく、夜のネオンに悩むこともない。何がいいのだろうか。まだ転居したいとは考えていない。それでも、これでいいのかなあー、とは思う。観光地のように広い道路とか、気持ちのいい散歩コースがあってもいい、ハワイの広い公園のように、人びとがジョギングしたり、朝夕憩えるスペースがあった方がいい。朝の散歩で、知らない外国人に、グッーモー二ング! と言ってみたい。あの爽快な気分が忘れられない。誰とでも仲良くなれるという気がしてきたもの。型に嵌らず、こせこせせず、のびやかに自分の暮らしを見直したいものだ。
2006.06.21
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「甘え」があるだろうか。挫折感や嫌悪感は確かにあるが。蒸し暑い最中に冷過ぎの図書館の中だ。少し寒いので早めにここを出るつもりである。どうも最近、読んでいて理解し難い本が多い気がする。私が幼稚なのかも知れないが、何故だろうか?それこそ、大学のレクチャーのは簡単すぎて皆テストで同じ解答をしそうだが。図式化も少し遣りすぎで省略しすぎではないだろうか、リポートや論文も画一で工夫がないものが多いようだ。本旨と関係のない余計な修辞が多いのだろうか。ガラスの金魚鉢の中の金魚のような今の自分があるもかも知れないと思う。透明で見えない枠の中で囲まれた意識なのだろう。金魚鉢が、落ちて割れてしまったらお終いだ。そんなことを考えていたら帰りたくなった。夕方になると疲れてきて、頭の中も萎れてくるようだ。図書館からのロケーションは意外いい、ここは3階だが丘の上にあるので高く立花山や観音岳の緑が映えて綺麗だ。
2006.06.21
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ポストモダンのイメージ・金魚がガラス鉢の中で泳いでいる。・金魚の目に映らない唯一のもの、それは金魚を閉じ込めているガラス鉢の透明性だ。・われわれは、自分が歴史の中のある状況の中で生きていることを承知しているが、今われわれにあるかたちを与えている「歴史」が何であるかを見通すことが出来ない。・ポストモダンは、この金魚鉢の名前である。・われわれを閉じ込めている考え方につけられた名称だが、状況やそれ自体を説明してはいない。歴史とは、振り返ってはじめて、きちんと区分できる。過去のどの時代も、自らをモダンだと思い描いただろう。そして、いま「テロ」と「核」とを抱えて世界のあらゆる場所で底知れぬ憎悪のただ中にいる。いまやポストモダンの深刻な局面を迎えている。午後から、モロン著中村裕子訳「フロイトと作られた記憶」を読んだ。これから、出口剛司「エーリッヒ・フロム」を読んでみるつもりだ。「自由からの逃走」を読み直す前に読んでみようと思う。午後から女子大に行くつもりだったが、猛暑で中止した。女子大は、冷房設備がなく暑いから。
2006.06.21
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西田は「経験するというのは事実其儘に知るの意である」という。「善の研究」をそのまま読もうとしたが、一歩後退して解説書を読むことにした。偏見を排して読んで見よう。西田は、かって果敢に自己を西欧思想に解放しようとしたが、未だに西欧の思想家たちは、東洋思想の中にはいって来ようとしないのであろうか。ハイデッガーもふくめて、自国の哲学的伝統から自由になって、東洋思想の深淵に真剣に踏み込もうとしないのは、これは何れ世界の不幸に繋がるのではないだろうか。この世界が、偏頗な構造であることは認めざるを得ない。それは、われわれの常識の直観が物事を分析するやりかたというものは非常にひとを誤りやすくしていることであろう。直接真実を知ろうと探究者が「原書」を読もうとしても正しい理解をするだけの能力がない場合が多いだろう。間違った翻訳書を読んでも原書の理解にはならない。正しい「置き換え」や「翻訳」ができないと誤るだろう。まさに、西欧と東洋の思想は、その哲学の現場で凍結されたままなのではないか。私たちは、ある焦燥感に悩まされ続けている。それは、共存しなければ生き残れないという命題を抱えていることだ。西欧や東洋を無視しては、これから何も成立しないという、現実があるだろう。
2006.06.21
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自分の行為や肉体に無防備な奴は消される。所詮世間知らずのUT出の甘ちゃんが笑いものにされた例はいくつもある。かれらは scapegoat なのだろうか?日本が新しい時代に入ったと浮かれているが、それは、三日天下や、旭将軍や、驕れる平家は久しからずの類なのだろうか。勿論今回のグーロバル化は伊達ではあるまい。併し、エスタブリュメントやアンシャン・レジュームは強かだ。跳ね上がりの小悪党を一撃で葬る力はそれこそ伊達ではない。元々どれだけの成金だろうと三代で搾り取る「税のシステム」がある。世の中を甘く見てはいけない。自分だけは利巧だと思っているとしたら「早死に」のカルテが出ている。餌がワナに落ちるのを待つ世間のダニたちは、人間の欲望や無防備な心身を知り抜いており、近くをただ通り抜けるだけで捉えることができる能力を持っている。そのダニたちがどこでも辛抱強く待ち構えている。彼らは何十年でも何百年でも自分のテリトリーで、世代を代えて待つことが出来る。そういえば、自然のダニとダブってしまったが、東南アジアの自然のダニたちも多分今回旅行した私について、日本に上陸したに違いない。微生物も同じだろう。まあ誰かが犠牲になって病気が発覚するまでには時間がかかるとしても、なんと杜撰な国の免疫システムだろうか。まるで、ヤラレて気付くのは、日銀の福井総裁と同じで、欧米のメディアから嘲笑されるお粗末な国なのだろう。小悪党がのさばるようでは、まだ日本の「甘えの構造」は続いている。
2006.06.21
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妻の従妹が地元のテレビ局の「めんたいワイド」に「ソープカービング」紹介で生出演した。誰もテレビを観ておらず、娘が録画していたビデオテープを家族で見て大騒ぎだ。2時間の中継中に実演でカービングして見せるのだから大したものだ。いい宣伝になっただろう。出来はどうか知らないがまあまあ綺麗に素人目にはできあがっていたようだ。もう少し痩せればいいのにと妻は喜んでいた。今度講習会に知人を誘って行くらしい。場所は、タイ料理店であるらしい。序でに私も同行してタイ料理が食べたくなった。そのうち彼女も有名人になるかも。何せ彼女は、家族と離れてひとりでタイに滞在して勉強したのだ。努力が報われることを祈りたい。さて、これから、シャワーでもして・・・
2006.06.20
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