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「青二才」とは、(青は未熟の意。ボラなどの幼魚を二才というのにたとえたもの。)年若く経験に乏しい男。青年を罵っていう語。という。自分を「青二才だ」と、心から、そう自覚している人間はそうはいないだろう。よく知らないが堀江氏の保釈の報道で思った。余り関心がある訳ではない。今度は、法廷で争うとのことだが、些事だ。もう決着はついている。あとは量刑でしかない。この社会は、余程真剣に思考能力を持っていないと、自分の目は翳みの中だ。権力や権威に目が眩む者もいる。例えば、死は、死んでいく個人だけのものではない。社会全体のものでもあるだろう。それが、理解できなければこの社会のシステムもルールも、本当に理解しているとは言えないだろう。青二才とは、どうしてもそれが理解できないひとたちのことではないだろうか。それは年齢だけで判ることでもない。一生解らないものもいるに違いない。もがき苦しみながら、解ろうとするものだけが解るのではないか。「安楽死」を安易に考えた医師が、反社会的、反文化的だとして処罰されるのも、最期まで死と闘いつづける人間の尊厳の価値を解し得ない青二才たちだろう。・・・・・・PS 午前2時過ぎに目が覚めて、外に出てみた。もう寒くはなく星が出ていました。この前までオリオン座が綺麗でしたけどね。家の前に出ても街灯が在り、それほど暗くはなく、勿論人影もありません。家の中からもゴルフ場のこんもりした森林がすぐ近くあり、風が通ると、風の音が、ザワザワ、ザーワッー、時々サワーだったり、その時々で、色んな音に変わります。私は、寝室にもこの音が聞こえてきて好きなのですが、この風の音に、ふとドキリとする時が、昔から何度かありました。別に怖いとか言うのではないのですが、背筋にゾクリとします。そして、ひやりと冷たいものが奔ります。あの感じはなんなのでしょうね。勿論風の音でしかないのですが、妙に不安を感じます。懼れだけでも、それは、何かのたたりと言うようなものでもなし、誰かに見られている感じでもない。ただの風が、森の中を通り過ぎる音なのですが、ことばにならない何かの声のようでもある。一寸外気を吸って、眠るつもりでしたが、そのまま眠る気がしなくなり、その森の見える部屋で、感想を書きたくなりました。ところがです。いつも点灯する電気スタンドが壊れたのか。点かないのです。これって偶然でしょうかね。不思議ですね。今日は、病院に2件も行かなければならない日なのです。はあ、少しめげますね。でも、また風の音を聞えてきます。いい音です。風の木々を通る音を聞きながら、私たちの祖先たちも眠りについたでしょう。そして、嵐の音に肝を冷やしたことでしょうね。亦、少し眠くなりましたので寝室に引き揚げます。これ夢ではないですよね。朝起きたら、消去されていたりして・・・。また、ザワーッと風の音がしました。ああ・・・やはり、怖いという感情が湧きました。寝ろ。
2006.04.30
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「米国には、市井の人でも、正直で控えめないい人がたくさんいる。ほんとうに尊敬できる国民だ。」と政界を引退した宮沢喜一が日経の「私の履歴書」で書いている。私は、宮沢をはじめ政治家は嫌いだが、ことは好き嫌いではないことは分かっている。訊かなくても解るほどの者でもないので、一応読むことにはしている。「一片氷心在玉壺」は、彼一流の衒いでありプライドなのだろう。「市井の人でも・・・」という「・・・でも」は余計だが、世界にあって、尊敬される国家とは、尊敬できる詰まるところ市井のひとが多いことではないだろうか。正直で、控えめでいい人が文化の高さを表象するのではないか。私欲に溺れることなく、正直に控えめに生きることができるのは、寧ろ市井の人であろう。家庭を守り、こどもを育てて驕らない人たちだろう。宮沢は「学」があるのをみせたくて、今更唐詩選でもあるまい。もう彼は過去の人であり、まだ、彼を訪ねてる人が何を訊こうというのだろうか。と不思議におもう。同じページの、「山笑う」という記事の方が面白かった。>今朝のゴルフ場ゲート近くの躑躅。
2006.04.30
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広辞苑「道楽」(道を解して自ら楽しむ意から)本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。ものづき。好事(こうず)。酒色。博奕などの遊興にふける者。放蕩。遊蕩。道楽者は、他になまけもの。ばくちうち。身持ちの悪い人とあるから、あまりいい使われ方はしていないようだ。そういえば、小説や落語でも、道楽者は嘲笑されるいい材料でもあるだろう。道楽は、少なくとも世間の街道を歩くことができないものたちなのだろう。戦前まで日本人の平均寿命は50歳に満たなかった。今や80歳である。平均で30年間の時間をどう生きようとするのだろうか。所謂「健康寿命」でQOLを維持しながら、人並み生きてゆくために、ひとびとは模索をはじめているだろうが、これまでの「道楽」は、道を解して自ら楽しむ意ではすまないのだ。老人に、本当の「市民権」を与えてはいない。若い人と一緒に走らせてタイムオーバーだから、貴方は、いりませんといわれる。それが公平だという。もう地球上には、65億人の人間が生きている。こどもたちは誰も皆よき人生を生きる権利がある。そして、子を産み育てる義務がある。そして、老人は、生きるとは道楽でしかないだろうか。窓を開けて、畳の上に寝転んでいたら寒くて目が覚めました。どうやら、毎日私のしていることも道楽なのだろうなと考えています。
2006.04.30
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もうサイゴン崩落の日から31年過ぎたのですね。昨年夏大統領官邸に観光バスから下りたとき、それまで空港からスコールでしたが、雨が嘘のようにやみました。そこかしこに水溜りができていました。官邸前の庭の芝生を見回すと当時の戦車でしょうか記念物があるようでしたね。そのまま案内されて官邸を見て歩きました。まさかあのベトナム戦争の戦場跡に自分が立っていることに奇妙な戦慄を覚えました。しかも、アメリカ人の観光客もいました。薄暗い官邸内に憎しみあったベトナム人とアメリカ人と一緒にいるのですから何とも不思議な気持ちでしたが、もうそんな感情も消失しているのでしょうか。日経の今朝の「春秋」で、ドイモイ政策とビル・ゲイツが、ハノイでスター扱いされたと書いていますが、果たしてそのまま受け取っていいのだろうかと思います。彼らは血の通った民族です。誇り高く、謙虚なのです。オートバイで、大勢で街を走り回るのに信号が殆どないくらい敏捷なのです。殆ど事故を見かけませんでした。31年も経過しているのに世界中どこでもあるアメリカ資本の看板も殆ど見ませんでした。私は、そのことが気になって、頭から離れませんでした。彼らは、まだ闘っているのではないか。旅行のアルバムを見直していたところです。そういえば、日本では、見かけたことのない。高い木が、何本も聳えていたのが強く印象に残りました。サイゴンは、現在は、ホーチミン市です。勿論誰でもご存知ですけど。朝から、散歩しました。よい天気になりそうです。>昨日玉名で見かけた小川にかけた鯉のぼりです。
2006.04.30
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私たちは、自分をエゴイストにする権利はない。そんなに立派に生きているのでもない。産まれた時は、誰かの手を借りなければ生きることさえできなかった。ことばも喋れないし、歩くこともできなかった。生かしてくれたのは、この社会と周囲のひとたちだ。自分の食べ物を減らして、自分の遣りたいことを犠牲にしてまでも喰わせ、育ててくれたのだ。もうそんな時代ではないと君たちはいうだろうが、少なくとも自分たちが赤ん坊を一人前になるまで育て見ればわかるが、膨大な投資であることに驚くだろう。その投資を確りと決済できる者がどれだけいるだろうか。育ててくれたからではない、生かしてくれたのは自分たちのオヤではないだろうか。そのことを正しく説明してくれないから分からないと君はいうだろうが、それは、これを伝えるだけのツールがないからだ。私たちが当然と思って享受してきたものは、謂わば血に汚れているものばかりではないだろうか。自分の吐く息の臭さを知っているだろうか。自分の本当の姿を知っているだろうか。綺麗に着飾ったひとたちが、エゴイストになり、自分を育てたひとたちを無視しようとするのは、少なくとも誇りをもつ人間ではないだろう。自戒を含めてであるが。
2006.04.30
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何か疲れました。もう眠ります。どうも一杯宿題をのこしているような気分がしています。眠れるひとはまだいいのかも・・・。>家の前の公園の中でタンポポを見つけました。息を吹きかけましたのでもう過去の姿です。
2006.04.29
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博多を出たのが昼近くになっていた。玉名市の病院に入院している義母の見舞いにいくのは2回目である。検査入院だ。高齢なので時間がかかるらしい。丁度GWの初日で在り、帰省ラッシュに重なるのではないかと心配したが案外流れはスムーズに流れていた。運転は娘だ。それでも助手席で監視役をさせられた。普段の運転をしていないので妻が心配してのことだが、以前に比べると上手くなったている。九州縦貫道に入ったら黄砂で視界がよくなかった。もう陽射しが強いので、クーラーがいる。義母は突然の訪問で驚いていた。併し、入院の状況を訊いてショックを受けたのは私たちだった。入院して、まだ風呂にも入っていないし、下着も替えていないらしい。二人部屋で、同室の方の話だ。義母は、何度か入院しているが、今回のように足腰が弱っていた訳でもないし、高齢でもなかった。義母は、大正10年生まれ、今年で85歳だ。私などは、到底、手が届かない年齢であろう。義父と死別して、めっきり弱っている。風呂に入れてやった妻子が、義母の弱った姿がショックだったようだ。今まで、自宅で気ままにやって来た高齢者が、長く入院することは身心ともにダメージが甚大なのではないだろうか。然も、大正生まれの田舎育ちの女性である。これまで、枕が違うだけで眠れないと、娘の家の我が家にも泊まったことが数回しかないくらいの義母なのだ。この時代、入院して、20日間も過ぎているのに、と苦笑せざるを得ないが、あの気丈で、書道の先生でもあった義母がと思うと何とも切ない。本人がどんなにか苦しんでおられたことだろうか。「来てくれてよかった」と喜ばれる姿が、私たちの胸を締め付けた。
2006.04.29
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威張っても仕方がないだろう。さっさと緒に就くべきだろう。世界がどれだけ広かろうと、自分が惨めなスタートを切ろうと。ただひとは自分の嚢を抱えているだけ。この胡桃は、ただの胡桃ではない。どれだけ魅力的な性的シンボルよりも価値がある。このグロテスクなかたちの1300gの脳は人間を造り上げたのだ。何でも起きればいい、悪ければ正しながら行くまでだ。この脳をさえあれば、種としてのヒトをいくつくところまで導いてくれるだろう。世界がお子ちゃまをしていても、やがて大人になるだろう。それはそうならなければならいからだ。毛が生えて背が伸びてくるだろう。女は高い声を上げて男を呼ぶだろう。男は低い声を出すだろう。それまで、辛抱強く待つしかない。笑うがいい。こころから笑えるものがあれば、それだけの勇気があればいい。相手にとって不足はない。
2006.04.29
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ずらりと並んだ全集の多さに辟易する。大学の図書館は宝の山だが、モノでしかない。これをどう料理するかが問われている。知識の蓄積は行きつく先が、此処ではない。何故「点」を「線」にしないのだろう。そのITとは何か? 情報であろう。何故過去のデータを利用しないのであろうか。文学者、哲学者、社会学者、自然科学者などの著作を科学的に解析して、特効薬があるかはしらないが、見つけようとしないのだろう。この老い耄れが探しているのは、自分の遣りたいテーマは、何かだ。嘲笑されそうだが、まだ探している。簡単には見つかりそうにないが、簡単に見つかっても面白くない。だから、読み漁っている。まあこれだけの人間が生きているし、選択肢はいくらもあるだろう。併し、頭の、それは勿論脳だが整理が必要だ。判断するためのデータが正確でなければ論理の構築は徒労に終わるだろう。人間は、回り道が好きらしい。それとも余程、ノータリンなのだろうか?世間と違う軌道で生活していますので、どうもGWの状況が分かりませんが、九州道の下りはどうなのだろうか?これから、ネットで調べねば。朝寝坊たちを起こして、熊本に義母の見舞いに行きます。寄らば切るぞ!! 冗談ですけど。
2006.04.29
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ホルモン回路はD方向を指向して熟睡できない。やがて、、、その時が来るでしょう。この社会は、マイナス・スパイラルの軌道を奔り続けて、やがてエントロピー増大に呑まれるでしょう。多寡がそれだけのことでしかない。長生きだけを願い続けても何の意味がある?PS昨夜は、眠くなってしまい途中で停めてしまいました。酔ってもいましたけどね。昨日、図書館で帰ろうとして、次に読む本を探していたら、福沢諭吉の本があり、西郷論が書いたところでしたが多分当時の見識としては一流だろうと思われるもので、座りなおし少し読んでみました。彼に依れば、幕末の頃、上士の子と下士の子とでは、措かれた環境が違う。上士の子は周囲から期待され学ぶ場所と時間を潤沢に与えられる。処が下士は違う。まわりも期待しないし、学ぶ場所も時間もない。何かをしたいと喰えないからだ。だから、学んでも漢文の初歩しか知らない。上士と下士の子が議論したら使う道具が違うだろう。だが、明治維新をやったのは下士たちの子だ。上士たちは、高い教養を生かすことができなかった。議論で勝っても現実を動かせなければ意味のない論理でしかない。松蔭の論語の解説を一寸この前覗いただけだが、高いとは思えなかった。そうだろう、そういう見識のある論語読みは維新の志士たちにはいなかったのではないだろうか。明治の英雄は、殆どが下士の出身だろう。福沢もそうである。上士の子は恵まれた環境に育ちながら何も出来なかった。これは、精神の衰弱であろう。国難が目前にあっても、為す術がないのを無能という。まさにそれであろう。それは、儒学の限界を示してもいる。中国も西欧に蹂躙されたのは、外の世界を見る目がなかったからだ。内政にしか興味をしめさない権力者はいずれ国土を焦土にする。寧ろ、蔑みを受けて育ち、世間に期待されなかった若者が時代を変えたのだ。中西輝政はいう。「いまの日本の精神の衰弱は、いずれ社会の衰弱というかたちで決定的に見えてくるのではないか。」と。
2006.04.28
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博多に住んで長いので、郷里の熊本のことが脳から消えていくのでしょうか。ほんの百数十キロしか離れていなのに。でも人生の内の3分1も住んでいないことになる。物心ついてからとなるともっと短いのに時々懐かしくなるのはなぜでしょうかね。高群逸枝の学生時代の自叙伝を読んでいたら、矢鱈知っているところが出てきました。彼女たちのように苦しく切ない貧しい暮らしを知っている訳でもないのに、目に浮かぶように感じられるのは不思議です。本妙寺は、明治の頃参詣者目当てのライ患者が集り、それを見たイギリスの貴族の女性が、収容施設を日本で初めて作りました。私は、そのすぐ近くで育ちましたから、ハンセン氏病の患者のひとたちを見かけています。なんと表現したらよいのかわかりませんが、こころの底にのこっています。おそらく、実際の自分の思い出と、その後に読んだ色々な書籍で、自分の脳が漠然としたイメージを作り上げているかも知れません。墓場まで持っていくことになるでしょうか。明日、義母がまだ入院していますの、また家族で見舞いに行ってきます。
2006.04.28
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五月蝿いハエのようだという意味だ。「お前は、ひゃァのごたる」と言われれば、酷く傷つくことばである。言われたことはないが、そう思われたくはないと思ったことは何度もある。時として刃物以上にもなる。ことに方言は強烈だ。ひとのこころを刺すものが多い気がする。それだけ、過酷で厳しい身分社会であり、貧しくもあっただろう。高群もそんな少女時代を熊本で過している。さて、今日は、芥川の「仙人」「酒虫」「野呂松人形」「芋粥」「猿」「手巾」「煙管」芥川が嫌いだったという三島が、代表作として「秋山図」「舞踏会」と「手巾」を挙げている。芥川は、この「手巾」で、中央公論に記載されて文壇でデビューした。漱石は「鼻」を激賞した。しかし師と仰いだ漱石が、すぐ死んでしまう。彼の悲劇にも繋がる。「芋粥」と「鼻」が同じパターンである。「仙人」が「羅生門」。「煙管」が「虱」。おなじ物を書きながら、同じように見せないのが作家の腕であり、芥川の才能であるが、それにどこまで芥川が自覚していたのであろうか。芥川の「人生は短く、芸術は永い」という芸術至上主義とは何だったのだろうか。「野呂松人形」の中の主人公の僕が「僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、さう信じて疑ひたくないと思っている。しかし、それが、果たしてさうありたいばかりでなく、さうある事であらうか。・・・」と言わせている。私たちが、遣っていることは、例えば、まるで「ひゃァのごたる」と嘲笑されそうである。少なくとも、私は「さう」思えてならない。3階の図書室に上がりながら、高群も、芥川も、「ひゃァ」ではないだろうと思いつつ。
2006.04.28
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高群は「仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、「古事記伝」(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた」という。彼女は37歳だった。自らを無知、無一文だと言っている。「六十而耳順」と孔子は、自らの生涯を振り返って言っている。凄いことだが時代が違うだろう。あるのは時間だけだ。それだけで充分だが。今日午後から、芥川の講座があるので、朝散歩がてら近くのゴルフ場の躑躅を見てきたが、息切れがした。”Rome was not built in a day. ”ローマ帝国は700年の苦難の末に築かれた。ことはさほど容易くなる訳はない。華やかなスタートほど、末は知れたものだろう。誰も皆憐れなスタートからだ。種としてのヒトは、目的をもって生まれてくるのではない。目標は自分で選択して行くものだろう。結婚がよくゴールインだといわれるが、寧ろスタートだろう。他人のことばに酔わされると酷い目に遭うものだ。芥川のような男でさえ、あなたのような純真な娘と結婚するならといっていたのに、結婚したすぐ妻に絶望している。愚かなのどちらだろうか。土台、妻の立つ瀬のないことばかりしているではないか。それが一流の文化人だろうか。これから、暫く高群の自伝をもうすこし読むことにします。学界が皇国史観という支配下の中で当然無視された「母系制の研究」ですが、それでも、一からスタートしたひとが成し遂げたことはかちがあるでしょう。なにごともスタートしなければ、それこそ始まらないですか。>家の薔薇が咲きました。
2006.04.28
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広辞苑では「差別」は、差をつけること。区別。ちがい。けじめ。とある。「差別待遇」は、待遇に差をつけて人をあしらうこと。である。私たちは、ひとを差別するな。人間はみな平等だと教えられたし、人民の、人民による、人民のための政治が民主主義であるとも。しかし、現実の社会は必ずしも教科書のようなものではないことは、ものごころついて、本を読み出す頃には感じてはいた。何故競争させられるのだろう。遣りたい勉強があるのに、それをやめて違うことばかりさせられるのか。映画では、ハッピーエンドで終わり、愉しいことばかりなのに、黒人が差別されるのだろうか。住井すゑの「橋のない川」があったりするのだろうか。知りたいことは多くあったが、誰も応えてくれなかった。それは訊いた人が答えられなかっただけかも知れないが。キリスト教では、人間と動物とは違う。区別される。動物は人間の為に供されているものだ。異教徒は今も敵だが、殺されても仕方のないひとたちである。この社会には、敵と味方しかいないと思っているひとが大勢いるだろう。そういう社会構造だからだ。身内に甘く、それ以外には厳しくしている者が必ずいる。身内は、家族と血族と親類と友人知人で、あとは仕事上のお仲間たちだ。だから、皆仲良くではない。「差別しろ」だし、エゴイストカードというカード名の会社まである。顧客を差別化しろ。だ。世界でも、アメリカが遣っていることは、自分たちのお仲間つくりだろう。こうしてみると、建前と本音は相当違うだろう。だから人間は、心のうちに悪をもつ者なのだろうか。太陽の当たるところと、そうでないところとあるのは、人間たちが造りあげた歪んだ構造物があるからなのだろう。いつか遺物になるだろう。さて、今日もいい天気になりそうだ。腐らずにいきましょう。今朝見たブログの女性がトラックバックで怒っていましたが、怒るのは当然ですけど、美人は大変だ。姿だけではなく、こころもそうあって欲しい。>もうすぐ家の前のゴルフ場の躑躅が見ごろになるでしょう。
2006.04.28
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断固として遣ろうとするなと言われる。強く遣ろうとするからストレスになる。ストレスは万病の源だという。併し、適度のストレスも進化のためには必要なのだ。最近、何かを強く思うことが少なくなっているのではないか。でも一言では言えない難しさもある。広く浅くが生きる上で利口なのかはよくわからない。全てに当てはまる訳ではない。どうやら、何も思おうとしないのではないか。だからのほほんと生きているのではないだろうか。若いうちはまだ時間があるが、老人には時間がないが、そしてそれが「健康寿命」だとは限らない。最近、これまで役に立たないと思っていた近世の文学や、四書が面白いと思うのは、いくつも空地があるからだろう。どうやら、研究しても価値がないと放置されていたのではないか。西欧流を真似しても所詮仮想現実でしかない。寧ろ足元を見なければならなくなっているのではないか。ところが、故郷が消去されかけている。消去してきたのは自分たちだ。消してしまえば綺麗になるが、自分たちの存在もなくなるだろう。それは漠然としているが、何かを強く思うことが、いま必要ではないだろうか。それは、我ままや、利己的なことではなく、人間として評価できるものだろうが、それは価値とは違うだろう。何かを強く思い描いてそれに向かうことが必要ではないだろうか。それが何であるかは、個人で決めることだろうけれど、そんな気がします。PS人は何を言わんとしているのか表現することは微妙で、中々伝わらないだろうと思います。自分の思惟というのは、一様ではない。その時々で変わりもするし、更に逆のことも考えたりする。もう28日になりましたが、芥川の作品の講座がありますが、彼を壊したのは、先ず自分の責任でしょうけれど、その環境であり、薬物でしょうね。青酸カリだという話ですが、それとも睡眠薬によるものか分かりませんが、少なくとも作品を少し分析すれば、病的傾向は、今の精神科医ならすぐ分かるでしょうね。吉田松陰の全集物を、少し読んで見ましたが、世間で言われているような見識の持ち主だったのでしょうか。どうも、ヒーロー達の教養を過大評価し過ぎているのではないか。私たちの識見は、本当に正しい歴史観の上に形成されているのであろうか。正確なスケールでデータは作られていなければ世界観も狂ってきます。謂わば間違ったデータで構築されている現実があるのではないか。誤魔化しの世界を、恐らく多くの人が気づいているだろうけど、手が出せないでいるとすれば、どうも厄介な社会構造になっているようです。そうだとすれば、何れリセットされることになる。
2006.04.27
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どうにか遣ってきたつもりだっけど、よく考えてみると、どうも現実と違う固定観念があったのではないだろうか。勿論夫々の社会的ステータスをもった人たちが働いている訳だけれど、どうもおかしいのではないだろうか。単純にそう思えてならない。組織の中で仕事もしてきたので、或る程度この社会のシステムも知ってはいるけど本当に理解していると言えるのだろうか。大学教育も一応受けてきて、金融機関で仕事もしてきたので特別疎外されてきた訳ではないだろうけれど、何かモヤモヤしたものがあったのは事実だ。そしてどこかのM&Aにも遭い、バブルも経験した。さて、まだ人生終わった訳ではないが、どうも素直に再出発が出来ずにいる。この際、もう一度勉強してみようと数年前から、すこしづつ遣り始めたがどうも、中々だ。他人と群れるのも厭なのでひとりそこそこ遣っている。ブログは、もうすぐ2年目だ。もうすぐ団塊の世代が、定年になり、私のような人間が増えるのではないか。>キャンパスにて
2006.04.27
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Newton 5月号で「アミノ酸の”形”が老化の鍵?」という興味深い記事が載っている。これまで、地球上の存在する生物のもつアミノ酸は、すべて左手型といわれてきたが、最近になり右手型が発見されたという。然も、老化との関与が注目されているという。紫外線によって右手型に変化するかも知れないという。顔の皮膚に右手型が多く、背中の皮膚には少ないという。研究はこれからだ。さて、「火の国の女の日記」2部まで読了。これから3部。ノートからを一部引用する「生命ほど美しいものはない。だから生命の死ほど空しくて悲しいものはない。われわれの伝記は生命への美しい反面と死への悲しい反面をもつ。このように美しく、またはかない生命をもつわれわれ相互は決して憎しみ合ってはならない。愛し合わねばならない。 生命に充足して死を思わない若い日の姿は人間でも鳥でも獣でもなんと美しく愛らしくせいいっぱいに生きていることだろう。だがそれらが老い、病み、やがて死んで行ったとき、それらの姿はなんといとしく悲しいものだろう。こう書く私もまたもちろん同じ道を行く生命の一員でありことには疑いがない。」 と、高群逸枝は70歳の時に書いている。少し自惚少女に過ぎない彼女が、やはり幾つかの試練に耐えながら成長している。当時としては、やはり多彩な才能を発揮した女性なのだろうと思う。それにしても、自伝によると熊本で、よく知っている意外と身近なところに住んでいたらしい。私の氏は珍しいのだが、縁戚かどうか知らないが平凡社の下中に紹介した人物で出てきたのには驚いた。その人の妻と逸枝は友人だったようだ。今日は、昨日と違い晴天のようだ、ここの図書館は、2階と3階にあり、私は今、3階にいる。一寸窓際まで歩いたら、いつも間にか数人の学生がいた。明日は、またこの大学で、公開講座が午後からある。芥川の2回目だ。
2006.04.27
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「どぎゃんたまがったかしれまっせん。」などという、ことばが高群逸枝の自叙伝に出てきて、ある感動がした。こどものころ自分たちもこんな会話をしていたのだ。もう遠い昔の夢の彼方でしかない。朝からFWU Library で、「火の国の女の日記」の読みかけを読んでいる。分厚いので未だ半分も読んでいない。それと急いできたので朝食を摂っていなかったので、少し低血糖らしい。彼女は女工になり、代用教員になり、珍妙な恋愛がはじまった20歳の頃だ。そこがまた嘘がないというか、下手なフィクションより面白い。が、ちと細かすぎて困る。思えば日記とはそんなものかも知れない。同じ事を何度も書いているように見える。恐らく傍目に同じフレーズなのだからそうも思うのは当然だろう。処が本人が、その時々時間の経過で微妙に違うし思いも違うだろう。そこが難しい。読む前の逸枝と今の私は、彼女に対する考えが相当違っているから、受け取り方も相当違うだろう。それにしても、「そら、やりそくのうたばい」と言われそうなことばかり、これまでしてきたようで、方言のもつ温かさを感じている。他にも読みたい本があるけど、取り敢えず、もう少し読んでみようと思う。それにして、低血糖で倒れそうだ。早めの昼食でもしようと思います。誰もいない図書館にて。>今朝6時の我が家の薔薇です。定点観測しています。
2006.04.27
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昨夜は疲れて早かったので3時起きだ。また日色ともゑのナレーションで「たけくらべ」を聴きながら、好きな時間を過している。どこかに悩みがない訳ではないが、それは些事でしかない。一葉の世界は、日本人のこころの内奥を表現して止まない子どものころの記憶だろうか。その甘く切ないその記憶はいつまでも消えることがない。それは懐かしさだけではない哀愁でもある。この明治の彗星は、平成の世でも人びとの彗星なのだ。それをまたとばしてくれる人がいるのであろうか。図書館道楽を当面止めつもりはないが、先は長かろう。それは、或る意味精子のようでもある。おそらく一匹では何もできはしないし、卵子に届かないだろう。でも一億くらいであれば、誰かがたどり着くかも知れない。誰かが小径をつくり、誰かがそこを歩くのだ。マラソンのペースメーカーは、面白い仕事だが辛かろう。それはスポーツではない。職業だろう。それと人生とは違う。マラソンは人生ではない。与えられた道を走るのではないからだ。何故減数分裂なのかは知らないが、生命はその戦略を続けている。思えば人間にも heat and cold しかないだろう。抜き身の刃は、使わなければ意味がないだろう。それが竹光だとしても・・・。>海の中道海浜公園
2006.04.27
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飽くなき探究心が時代を動かしただろう。自分のエリアを拡げるしか手立てはない。図書館で、数百数千の冊子に圧倒されることはない。どれだけ読んだとしても消化してものしなければ意味がない。多く永く読んだから意味があるのではない。教典や、数冊の本で生きるべき道を間違えないひともいる。疑い迷うのが凡人だ。ただ知ろうとしているだけの人間に明日のヒントなどありえない。無駄なことだ。自分のない人間に碌な人生などありはしない。自己耽溺し、撞着はするは、笑止の一語だ。学生は、5年くらい休学してみればいいだろう。芥川には、後半の人生がない。前半の人生だけで終わろうとするから、役に立たないのだ。苦難を乗越えてこその人生であろう。先生を間違えてはならない。利益を誘導する人間に碌なことなどありはしないだろう。一番汚くて貧相で、うだつのあがらない男をえらび、鼻が曲がる臭い奴と結婚して、その子どもを生み育てるがいい。そうしたら、本当の人間や、幽かな未来が見えるかも知れない。君は、格好が好過ぎるのだ。豚のように食べればいいのだ。君は、綺麗になりすぎて人生の意味を見失うだろう。 女子大にて想う。PS 他人の嫌うものに、何かあるかも知れないものがあると想うひとがいるだろうか。見かけばかり感けて人生を無駄にする人たちがどれだけいるだろうか。まあ、それはその人間の自己責任だといえば、何のために教育だ、と言いたくもなる。非常識も時に常識になるのは、現実の世界だ。「敵は消してしまえ」がギャングのことばかりでない。口にはしないが、おかしなことばかり世界である。言い出したらきりがないくらいだ。 Life is a tragedy when seen in close-up,but a comedy in long-shot.もう、倦むほどの時間が経過しているが、理性と言われる国家がまともなことをしていない。今朝も、早寝の早起きで、3時前に起きてきた。これも暖かさの所為もある。本当はシャワーでもしたいが、まだそれには少し早そうだ。最近はしていないが、英単語の勉強も面白い。朝方のほうが、一寝入りのあとの脳は疲れが取れている。さて、きょうもきょうなり。
2006.04.26
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詩人にして民俗学者。日本の「女性史学」の創設者。「母系制の研究」「招婿婚の研究」など。・1894年(明治27年)生~1064年(昭和39年)癌性腹膜炎。70歳没。「高群逸枝全集」火の国の女の日記は、自叙伝より、 わたしゃ野性の一本野菊 雨のふる日も風吹く夜も 泥にまみれて立ち上がり 愚痴もいわずにきたのです ・・・・・ けれど私のぐるりには おなじ土から咲いて出た 若い多くの花もある ・・・・・素朴な歌だがいい歌だ。熊本は郷里なので、逸枝は知っていたが、「全集」をみたのは初めて。先程から読み始めたが、水前寺や味噌天神、県庁の隣の県立図書館といい、懐かしい場所が多くあり、耽読。殊に、彼女が師範に入学し、池田駅(現上熊本駅)停車場に家族を出迎えた時が、生涯で最良の場面だったという。親たちは、師範生の娘に満足し彼女もまたそのことが何より嬉しかったからだ。私にとってもこの上熊本駅や周辺の本妙寺など思い出深く懐かしい。未だ、この1巻も半分も読んでいないが、こころはのこるが、次回にする。逸枝は、師範を病気で退学になり、女工、代用教員、詩、小説、評論から民俗学を目指している。大して教育も受けておらず、然も田舎出身の彼女が、どこまで世界を拡げたのだろうか。少し興味が湧いてきたところだ。>雨のキャンパスから
2006.04.26
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現代も何れ100年経れば近代になる。現在、「確」ありと信じているものもあてにはならない、ことは歴史が証明している。「何を信じればいいか」と言うが、そんなものはない。生命の進化には目的はない。あるのは選択だけだ。それは人が進化という。7千万年前の恐竜の絶滅も進化の一端である。とすれば、種としてのヒトの存在も永遠ではあり得ない。多くのひとびとは夢のように去ってゆく、私たちも役割を果たして、子孫に引き継がねばならない。多くは役に立たないものだ。あと嘲笑されるようなことばかりであろう。併しそれは確かな傷跡にはなるだろう。それが致命傷にならないことを願うだけだ。今日も、午前中は、歯科医院で1時間半ばかり、顎が外れそうになりながら口を大きく開けなさいと叱られていた。どうやら昨年の秋からスタートした治療も、クりーングオフにはいりそうな雲行きだ。慌てて帰宅して昼食を摂り、ガソリンとコーヒー豆を買い、図書館には13:30過ぎになってしまった。小雨になっている。どうやら夕方は雨だろう。歯の治療を受けながら、楽しいことを考えようとしたが、どうもそういうモードになれない。我ながら気が小さいのだろうかと思ったりした。以前いつだったか、「ブレイブ・ハート」という映画を見たことがある。勇気とは一体何なのだろうかとその時思ったものだ。少なくとも歯が痛いくらいで勇気のあるなしではないだろうが、世間には、「火事だ」と言っても悠然としている人がいたりするが、本当に勇気があるかといえば、どうなのだろうか。気の弱い女の人がみせる時として毅然とした態度もある。少なくとも勇気のあるひとたちが、この社会を支えていると思いたい。書棚から、数日前から狙っていた「高群逸枝全集」第10巻ー火の国の女の日記ーを取って来たところだ。年譜によれば、高群逸枝は、1894年(明治27年)熊本県下益城郡の現在の松橋で生まれている。70歳で、癌性腹膜炎で死亡。郷土の著名人でもある。
2006.04.26
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一葉の作品は、彼女の日記で裏付けられている。作品は作家の表の顔で、日記は内面だろう。一葉の作品の奥行きが出てきたのは日記かも知れない。それと作品と作家と周辺の環境がある。ブログも日記だがどちらかといえば、表現としての外面の表象でしかないないだろう。だから、そのまま素直に見れるのは、映像くらいなのだろう。そして、正直に自分の内面を表現することのできるひとは、勇気があるし、評価できる。ひとは、見栄を張ろうとするひとが多いのだ。街を歩けば、見栄っ張りが流行という名の服を着て歩いているではないか。そのためにしなくてもよい争いもしている。外面ではなく、見えない内面を爽やかな空気で育てるべきだ。他人を責める前に、自らの行いを顧みるべきだろう。孔子でこの社会が救われるとは思わないが、学ぶべきことばは多いのではないか。一葉は、小さな世界を描いた作家で所謂大作家ではない。そんなものは嘘っぱちの喰えない人たちだ。大作家はいくらもいるが、一葉はひとりで小さい宝石だが輝いている。それが、見えるのは、誰にでも見える訳ではない。共感すると言うこころをもつひとは簡単につくれるものでもない。男尊女卑の世界で、その蒙昧を指摘できる一様ではできない「一葉」でしかできなかっただろう。そこに一葉の価値があるだろう。複雑系としての人間は、この脳と身体という宇宙船を操り生きているが、時々操縦士を忘れてしまう。つまり窮地に追い込んでしまうのは、自分の内面でよく話し合いをしないからだ。そのために日記があるだろう。どういう人間でも人間はなれるだろう。それをそうしているのは、それは、自分という多細胞の人間でしかない。日記は、その自分を知るためにあると思う。>香椎宮前の「綾杉」という古木。
2006.04.26
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たいていの男は、たとえ誰からでも「何かやれと命じられるのが嫌いだ。」たとえ彼女からでもそうであろう。もしそうでないとしたら余程アブノーマル状態だ。欧米諸国では、結婚した男女の約半数が離婚する。最初はいくら仲がよかった夫婦も、長続きしないで終わってしまう。男と女は世界中で喧嘩ばかりする。男がトイレに行くのは、目的はひとつしかない。でも女は、セラピー室であり、親友までつくる社交場だ。仕事や人間関係につぶされると女はチョコを食べながらショッピングに出かけるだけで気分転換できるが、男は、そこから逃げ出してしまう。男は、男のほうが分別があると思っているが、女は女のほうが分別があると確信している。「話を聞かない男、地図を読めない女」の本をはじめて読んだ時、笑ってしまった。女の声が高くなり、男の声が低くなるのは、お互い気のある証拠だとは知らなかった。そういえば、思い当たる節はいくつもある。この本を10代に読んでいれば結構面白い人生になっていたことだろう。そういえば、「遅かりし由良之助」は、何度も経験してきたことだろう。男と女の違いは、その役割の違いからある過ぎるくらいあるが、殆どまともに解析されていないので、ベストセラーにもなったのだろう。お互い、どんなところに不満があり、いらいらするのか、私も妻に聞いたことがないし、いったことがない。
2006.04.26
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昨年の秋くらいから、ここの女子大に講座とか講演会で来るようになり、学生と一緒になることが増えましたが、大分昔とイメージが変わりましたね。太った学生を余り見かけませんね。皆ジーンズで、髪がストレートで長くしている。とても感じがいいし、挨拶もよくしてくれます。何か躾のいいオフィスレデイにでもすぐになれそうですね。キャンパスも隅々まで綺麗に清掃が行き届いている感じです。昼間歩いていても騒いでいる学生をまだ見たことがない。外国人講師がいたり、その講座があったりもしています、こんな親父の私が図書館や教室に出入りしても受け入れてくれたりするのですからね。まあハラの内は分かりませんが、「なんで、こんなオジンが、居るのよ?」なんてね。でも其の内どこでも私みたいな親父が女子大で勉強したりするようになるかもね。「女子大」何てね。もう時代遅れじゃないでしょうか。この女子大でもQCWを最近スタートさせたらしい。今年の3月まで県立大でしたが、特殊法人化されたようです。地域に密着した姿勢を見せたいのでしょう。学長も去年着任したらしい。ここの同窓会を兼ねた講演会に参加して、謝恩会でケーキも戴きましたが、九州圏内の卒業生が主でしたが、凄いお婆さまばかりで、なんというか、賑やかで華やかでした。男女共同参画がテーマでしたが、女子大の体質も古そうでしたね。でも救いだったのは女子学生が爽やかでしたね。司会の学生が、何かはきはきして気分が良かったですね。それこそ錐で、古い体質を突き破るくらいのひとが出てきて欲しいものだと思いました。PS よく考えてみると、ブログをいつも慌てて投稿しているけれど、本当は、自分の本音は違うことの方が多いのではないだろうか。何もウソを言うというのではなく、衒いであったり、浅墓だったりしてるのではないか。「女子大事情」なんてタイトルにしたが、内容はそんなことではない。どうやら、Why men don't listen. でしかないのだ。ブログをみているとよくわかるが、男たちは他人の「話を聞かない男たち」だ。ブログで学ぶつもりがないからだろう。こんなもので学べるはずがないと多寡を括っているのであろう。その点女性は違う。勿論違わない女性もいるだろうが。「どういうひとなのだろうか?」と知りたいと思うのであろう。それが何であろうと興味の対象にしてしまうのは優れた能力でもあるでしょうね。アウシュビッツの中で生き残った精神科医の話を思い出します。それは、どんな環境でも生き残りのためには周囲に注意を払うものが、より多く生き残るという。私は、子どもの頃、男が女を愛し守るものだと教わったけれど、寧ろそれは、逆で男が女に愛されたいと願い、女が愛する男を探そうとするのではないだろうか。だから、男社会にする必要があったのかも知れない。「女に必要なのはsex する理由、男に必要なのはsexする場所。」とベストセラーにあるのは、笑える。どうも頭のいい男人間が、この社会から宇宙旅行でもしているらしくて、もう長い間いなくなっているのではないか。他人の「話を訊かない男」では、ろくな仕事などできるはずがない。そろそろ、朝も近いようだ。起きたら2時過ぎだった。
2006.04.25
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一葉の性格は慎み深い、内に寂しさをたたえ、他面勝気さと淡白であった。よく書を読み、文章を創作して精進を止めず、遂にその錐が嚢を突き破ったと湯地孝氏は評した。一葉は、閨秀作家として、「明治文学の彗星」といわれるが、その思想的内容の欠如と視野の狭さがあり、その環境から彼女の見聞したものを書くしかなかった。その文学者としての特徴は、・小さいながら円熟完成した文学・真面目な態度・真情の流露・余韻・女性描写の巧みさ・文章の妙 etc明治20年代は、文明開化のあと男女同権も一部で唱えられたが、まだ女性が男性の玩弄物でしかないことは変わりはなかった。娘たちへの教育にしても男に都合のいいような養育だった。むづかしい事をひとつも知らなくても家事を一通り切り回してゆく女、消極的で良妻賢母型の女が上品とされ、女らしい女と言われた。他に口出しや、理屈の一つでも言えば生意気だと罵られた。何事によらず従属的で独立した考えは殆どなかった。内気でなければ男に媚びて、僅かにその生を保っているような女性が多かったのだ。そこには、女性としての誇りも自覚もありえない。恨みはあっても憤るだけの抵抗力もなかった。それこそ、慰めは薄暗いじめじめした場所で悲しみに酔うしかない時代背景であった。彼女たちが与えられた読み物といえば低級卑俗なものばかりであっただろう。そんな中で育った一葉が、明治文学の彗星となった。全25扁のうち数篇を除いてすべて恋愛物の世界である。可憐な人物を描いてやまず、つねに努力の跡が見られ、その成長は奇跡のジャンプといわれる。思えば遠い昔であるが、ジェンダー・ギャップは今日的課題でもある。
2006.04.25
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遂に、念願が叶い図書館にPCを持込んだ。当然といえば其の通りだが、私にとってそれはそれなりにエポックでして取り敢えず悦ばしい。何せ大学の付属図書館なので、そこそこの蔵書ボリュームもありの、時間もたっぷりの、なのだからだ。少しは、レベルアップが出来るかはこれからだけど。まあ愈々ブログ訪問は減るかもね。何せ肥後モッコスですから。食事は確り食べなければいけないし、また運動不足になりそう。先程、OCW を覗いてみたけど、大分充実して来ましたね。基本的に中学生でも分かるような平易な論理であれば、誰にでも要旨は理解はできる。何しろ良し悪しくらいは其の頃までには身に付いていますからね。問題はそれからです。それでもシラバスや講義ノートをみたらどうやら多くはもうそうなっているようです。要するに学力レベルが落ちて、現実中学生並みのレクチャーがされていました。UTOCWが、医学・医療の目標という箇所があり、健康寿命とは、「QOLを維持して生存している期間」とありましたが、そういう捉え方なのですね。たとえば、 (寿命)-(健康寿命)を1年縮めると医療費が3兆円削減できる。昔から大学は好きですから、来たら元気になるようですが、空元気でしょうかね。朝から、また「樋口一葉論」湯地孝著を読み始めたところです。彼は明治文学研究の草分けで、「一葉論」は、その代表的著作で迫力がありますね。ここの文学部の教授の講義でもこれを推薦していましたが、まだ一日以上かかりそうです。これから、休憩して、キャンパスを少し散歩して昼食を取ります。躑躅が綺麗に咲きだしましたねこのブログでも載せましたが、そろそろ見ごろになってきました。
2006.04.25
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ヒト脳が、宇宙と比較できるくらい広大な未知の世界だと知って思うことは、自分自身が世界を小さく見ているのだと思った。そういえば、子どもの頃、遠くに見える山の向こう側は外国だと考えていた。それから、徐々にではあるが自分の世界は拡がった気がするが、まだそれこそ「井底の蛙」なのだろう。生半知ったくらいのことで、社会が分かった気がしたりするが、針の穴からでしかない。自分の二つの目は、見ていても本当に真実を理解しているとは言えない。四書にしろ、これまで一般論で、また少し読んだくらいでもう文化の遺物ではないかと断じたりしていたが、今、よく読んでみると含蓄があり学ぶべきことはまだ多くあるような気がしてならない。所詮、蒙昧でしかなく、自分は本の蟲になるだけだろうか。それこそ「汝らこころを上げよ」だろう。これまで、まじめに真理を求める先人は迫害されたのだ。過酷な運命を生きてもいる。そうしなければならなかっただろう。現在でも安易に得られる情報など大したことはない。ヒトの進化は、デッドロックを乗越えたのであろう。それほど誇り高い種であろう。平坦な人生など取るに足りないものだ。さて、SURSUM CORDA しましょう。今日は、尼崎事故から1年目だそうです。多くの犠牲者のご冥福を祈ります。
2006.04.25
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何でもこの社会は資格ですからね。例の一級建築士もそれでメシが喰えると思ったのでしょうね。彼がバカなのか世間がそうなのかはよく分かりませんね。堀江氏も世間はバカだからと言っていたそうですけどね。どちらがではなく、双方でしょうけど。資格を取ればなんだこんなものかといいますけどね。実際そうなのでしょうけど、藪の中になっています。地球は同じ軌道を飛んでいますが、人間は、新参者ですけど、あとから来る人が優秀だとは限らない。何が優秀なのか、時代で相当違いますね。厭になるくらい。人間の歴史を見ていると、それほど利巧とは思えなくなる。目先のことしか考えないのは、やはりアホのすることだと思いますけどね。自分の頭でも叩いていた方がいいのかも知れない。資格を取得して、途端に勉強しない博士や、政治家や、経営者がいることでしょう。そして、家族を大事にしだすのですからね。おそらく家族内は大変でしょう。それらしく振舞わねばならない。どこかの女王とか、大統領とかね。孔子の君子ではないでしょうけど。リスクのない自由はないでしょうね。決意のない学問もない。草臥れてひとは死ぬのでしょう。昨日書いた、23歳で死んだ鎌田瞳さんの SURSUM CORDA は、生きてゆくのものに対するこころの叫びなのでしょうね。それに恥じない生き方をしたいものです。>鎌田さんの在籍した大学のキャンパスの躑躅がここだけが満開でした。
2006.04.25
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一葉は20歳。相手は半井桃水32歳だ。新聞記者である。一葉は、日記「若葉かげ」でその時の気持ちを書いている。「初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかかることならはねば、耳ほてり、唇かはきていふべき言もおぼえずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼のみなすのみなりき。」桃水は「低い身であるのに少しく背をからめ色艶の好くない顔に出来るだけ愛嬌を作って、静粛に進み入り、三指で畏まってろくろく顔も上げず、肩で二つ三つ呼吸をして、低音ながら明晰した言葉遣い、いんぎんな挨拶も、勿論遊ばせ尽し、昔の御殿女中のお使者に来たやうな有様で・・・」と書いている。これは、桃水が、一葉の死んだあとで書いているので脚色や勘違いもあるが、まあ雰囲気はわかるだろう。それから、一緒に食事の相伴までしている。死別だがバツイチ男だ。一葉は、「君がくまなきみ心ぞへの事とて八時という頃にぞ家に帰れり。」と書く。一葉にとってこれは、初めて大人の男から聞いた慈愛に満ちた感動の瞬間だったろうか。桃水は、世俗作家であり、指導を受けてみると、余りに一葉の作品が古典過ぎて世間受けしない言われて、一葉は悲嘆にくれる。併し、一葉の「文学の肥やし」にはなった恋であろう。PS. いつも私のブログは、「尻切れ蜻蛉」になるけど、それほど気にしてはいない。本当に、一葉は、バージンだったのか?など研究者で議論があるらしいのは笑止だけど、一葉が、上野の図書館で勉強していたことには興味がある。臭い世の中だけど、図書館の中で読書をする一葉は想像するだけでほっとしますね。私も昔は相当純情したけど、12歳も歳の離れた男を好きになる気持ちは分からないなあー。First love is a beutifil heart. なんて映画の宣伝か何かで聴いて、そのフレーズをいつまで忘れなかったりしたものです。一葉の初恋は、悲しい恋に終わりましたけど、まあ誰の first love もそんなものでしょう。一葉の恋は、余りにも果かないですけどね。違うブログで、先程、self learner について書き入れしましたが、楽天は、もうリミットでしたからね。だから、歯抜けのブログになるけど、まあ自分では承知していますからね。そんなものでしょう。いつか、圧縮できるだろうか。そうですね。一度、一日書き続けたら面白いでしょうけど。多分アウトでしょうね。何時間かかけて遣ったら、投稿できませんでした。整理も必要でしょうけど、手段がね。よく見えない。自分の書いたブログが、整理できないでは、それこそ限界ですかね。何でも限界はあるのでしょうけど、境界は、限界ではないでしょう。自分の好きな時間に図書館が利用できる図書館が早く近くにできないかしら。ハーバードはできると訊いたけどね。遊び場はあるのに、学びの場にはないというのもおかしなはなしだ。一番勉強をしたいときにその場がないのは誰でも同じでしょうね。知る必要がないというまだ時代を引き摺った社会がつづいているのでしょうか。そろそろ時間ですね。
2006.04.24
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博多は黄砂が降った。図書館では「国訳漢文大成」の四書・孝経を読んでいた。此処は珍しい書籍も揃っている。何故中国が「家」を大切にするか少し判ったようだ。所謂、国を治むるには、必ず先づ其家を斉(ととの)ふとは、其家教ふ可からずして、而して能く人を教ふる者之なし。そして、「此を身を修むるは、其心を正しうするに在りと謂う。」 「其の本乱れて、末治まる者は否ず。」先ず、身を修めて、「家」皆仁愛の感化を受けて「辞譲謙遜」の道に生きるべきだと謂う。之に反して、権力者が私欲に耽り道理に背く行いがあったら、一国の民は之に倣い乱逆するという。 「故に国を治むるは、其の家を斉ふるに在り。」という。孔子の仁とは、決して高遠な経路を経なければ達しえられないものではなく、最も身近な、孝弟という家庭道徳が其の根本である。子曰、不患人之不己知。患不知人也。(人の己を知らざるを患えず、人を知らざりしを患ふ。)>不老水を汲み、香椎宮に寄りました。
2006.04.24
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"Sursum Corda HITOMI KAMATA ”の画集が、新刊コーナーにあった。ここの女子大に在籍していたらしい。「スルスム コルダ!」ラテン語で「汝ら心を上げよ!」という。画集を見たが、4年間の闘病生活後に2002年9月に23歳で夭折したとある。素晴らしい人物画だと思う。短い時間との闘いの中で描かれた作品だ。一葉もそうだが、才知の溢れるひとほど短命なのだろうか。25歳の一葉も絶望と診断され、ある対談でこう語った。「皆さまが野辺をそぞろ歩いておいでの時には、蝶にでもなって、お袖のあたりに戯れまつはりませう。」亦、その後孤蝶が、「この暮れに、またお目にかかりましょう」の別れのことばに対して、一葉は、「その時分には、私は何に為っていることでせう。石にでも為って居ませうか。」と言ったという。彼女たちのこころの叫びを、静かに受けとめねばならないだろう。正に、「スルスム コルダ!」(汝ら心を上げよ!)だろう。
2006.04.24
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規範的家族が、漸次社会の変動で揺らぎ出してかなり時間の経過があるが、それは中々目に見える容ではない。OCWも愈々本格的に稼動し始めたようだ。どうやらその兆しが見えている。あとは津波のように、荒波を受けることになる。おそらく、たいていのことは理解できるだろう。それは、多くは出す側により多くの負担になるが、それはまだそういう時代でしかないから仕方がないだろう。寧ろ研究者が、これまで怠惰であったのだ。Creer des liens ?だってそうだろう。狭い井底の蛙でいるから、いつまでも通説としての翻訳ができないのであろう。人間の脳の知的能力を一番強く妨害しているのは人間自身だ。真実を懼れるから間違いを取り返しのつかない高みにまで押し上げてしまう。無知を恥じることはない。無知なのは個人だけの責任ではないだろう。教育者も責任があるだろう。分かる奴に分かれば良いというのは、それこそ莫迦でもできることではないか。我輩とか、余は、とか言っていた時代と少しも変わらない。それこそ、中学生でも分かるように講義すればいいのだ。専門用語でしか説明のできないことなどそれこそこの世の中にそうあるとは思えない。陪審制度も、一般人が判決するとなれば、専門用語だけでは通用しないだろう。研究者が下りていくのではない。寧ろその逆だろう。研究者が現実を知ることになるのだ。おにぎりと梅干を海苔巻きにして、玉子焼き、ハムとウインナーソーセージで弁当持参で出かけます。>福岡カントリークラブ場。これから躑躅が綺麗です。
2006.04.24
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寒がりなので朝の気温が気になります。二階から下りて来るとき先ず、今朝は?と気になります。これからいつでも気楽にシャワーできるのは嬉しいですね。今日も図書館に行きます。目的は、研究?です。同行していた友人から「何の研究ですか?」と尋ねられたので、「シカーネの研究です。」と応えておきました。本当をいえば、コギト エルゴスム ですけどね。まあ他人には理解してもらえそうもない。処で、毎朝ブログを開いて、いつも綺麗な写真を載せておられる方のを良く観ますね。海外に住む方のブログが、写真も綺麗だし新鮮で、楽しいですね。それから、バリバリの現役のマニアックなブログも観ますけどね。若い男のブログは、あまり面白くない。自分本位過ぎるか、馴れ馴れしいか、自分勝手なのが多いようです。それこそあまり言い過ぎるとまた攻撃されますかね。さて、「大学の図書館」してきます。シカーネの研究してきます?そういえば、法学部はない大学で、あまり「法」の蔵書はありませんね。でも、まあ運動にもなりますしね。>昨日、昼から庭のテーブルでビールを飲んでいました。
2006.04.24
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酔いが少しまわりました。ブレンダ・リーを聴きながら、過ぎ行くときを思います。彼女の歌う声を昔はよく聴いていました。何か寂しいですね。自分より若い人が、死と直面している姿は余り見たくはありません。先程書いた妻の従妹と、初めて逢ったのは、私たちが結婚する前でした。多分彼女が18歳くらいだったでしょうか。若々しい声とさわやか姿が印象的でした。その後も、何度か、色んな通過儀礼でお会いしていますし、20数年前から近所に住んでいますから、よく知っているだけにショックです。おそらく、病名を知ってからの1年間は、長い闘いの日々であったことでしょう。そして、まだ彼女の苦闘は終わってはいないのですから・・・。何もできない私は酒を強か飲んでいるだけです。そして、ブレンダ・リーを聴いています。
2006.04.23
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夕方久しぶりに妻と車で、古賀市のサンリブまで、買い物に出掛けた。車の中で、妻の従妹の話を聞いた。もう1年くらい前からある病で入退院を繰り返している。そして、博多駅ちかくのホスピスに入ったとのことだった。そこまでは聞いていたが、その彼女の息子が、近く結婚式を挙げるらしく、それに出るとの話で驚いた。誰にも会いたくないと聞いていたからだ。妻は何度も見舞いに行くと言ったが、私は止めていた。向こうから呼ぶまで行くなと言っている。呼ばれないのに行くのは、土足で相手の心に入り込むことにもなりかねない。お見舞いなど無神経な人間のできることではない。私は、自分の母が、末期で病人が嫌がる気持ちを知っているからだ。その彼女が、自分の体を晒してまで息子の結婚式に出席するというのだ。新婦は身重で、お腹も大きいのだそうだ。女性の強さは、男を蹴散らす強さなのだろう。「孫の顔を早くみたい」と、いっているらしい。「病気で人は死なない。」とは、日本の田舎のお年寄りが言ったことばだ。
2006.04.23
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三つの概念を使え分けて、現代医学の医師はクランケの訴えに耳を傾けよりも検査結果に関心をはらうのか。病気と治療は文化的差異が大きいのだろうか。アスベスト被害やチェルノブイリ原発事故にしろ、多くの人々が知らないうち生命を奪われたりもする。この社会は平安ではない。昨年長い間咲いて悦ばせてくれペチュニアの一部が越年して、また花を咲かせている。こんなことがあるのだろうか。パンジーも昨年の秋から咲き続けている。3月に愛犬ミルクが老いて死んだが、パンジーの花弁をいっぱい妻子がいれて遣っていた。色んな花弁の中にミルクは埋もれていた。花弁の凋んでしまったものを取っていて思うのは、どんな花もいつか無残に凋むことだ。そして、花弁は自分のスペースがないとすぐ枯れてしまう。一種のアポトーシスだろうか。その潔さは見事というほかはない。犬もそうだ。猫もそうだ。あっという間に去ってゆく。愚痴など聞いたことがない。>上記に書いている、最近白い花弁が咲き出した越年ペチュニアです。
2006.04.23
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"chaos "天地創造以前の世界の状態。混沌。転じて大混乱。もう広辞苑もそれほどの威力がなくなっている。中学のときは、読む本がなくて国語の辞書で言葉を覚えたものです。大昔は毎日漢字を造語していたのですから、膨大に数になるはずです。それでも余りに永い時間をかけてしまうとその手段だったものが、目的とは違う方に歩き出してしまうようです。異文化との交流を見失ってしまうのでしょうか。外国語と日本語も簡単に翻訳できないのは、勝手に語彙が変化してしまうし、新しいことばを創るからでしょう。余りに情報が氾濫してしまい。日本人間でさえこころが通じないどころか夫婦や、親子ですらそうですものね。現代では、多くの問題が科学技術で解決できるようになり、人々の生活も近代的になり、それに伴って宗教はやがて衰退すると思われたけれど、1970年代から、むしろ宗教的なものを取り戻そうとする動きが目立つようになってきた。ことにアメリカの保守的なキリスト教徒たちが大きな政治的勢力をもっている。それが保守政党の基盤にさえなっている。そして、他方で、ファンダメンタリズムが台頭してきている。更に、旧ユーゴスラビアのボスニアーヘルツェゴビナの紛争は、民族紛争と正教とイスラム教との間の宗教戦争でもあるという側面を持っている。イラク戦争にしろ、代理戦争になっているところに抜きがたい深刻さがあり、これはカオスなのでしょう。人間は、世界と個体という自分のそれぞれの病に苦しんで生きていかなければならない。外見だけにこだわり、それが偏見であることをすぐに忘れてしまいがちだろう。ハンセン病を重大な罪を犯した結果の罰だとして、そのひとの存在そのものが不浄として、隔離していたのは、数十年前のことだ。そして現在、またぞろ異教徒を迫害し、病人たちや弱者を偏見と差別の対象とする存在が勢力を拡大しようとしている。
2006.04.23
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霊に憑かれたサカのspirit possession は、劣位のものが優位の者に抵抗する一つのかたちで在る。初期の人類学は、キリスト教の信仰のみが唯一の宗教という視点からスタートしている。従って、キリスト教の信仰からみた辺境の異質で、理解しがたい、グロテスクな信仰だという考えである。自分たちは文明社会で、大人の合理的な宗教であるという。それに対して、その対極としての未開社会であり、子どもっぽさ、非合理的で、野蛮な信仰でしかない。それは西洋合理主義におさまらない、はみだしたものでしかない。現在に措いて、それは払拭されているかといえば、そうではないだろう。あらゆる側面で、その視座があるのであって、そのことを忘れては、その認識は一歩も先に進めない。何もこの社会は複雑でも何でもないが、見せかけの世界が横たわっている。その歴史はながい。宣教師が、世界を飛び回ったのは、この世界にどんな宗教があるかを知りたかったからだろう。そして、キリスト教が、大人だと思ったのだろう。その差別意識が消しがたく学問の世界にもある。それが西欧型の思想の限界でもある。世界を知ってしまったという考えは、異教徒への侮りに変わるだろう。サカの spirit possession に限らず、霊の命令と称して、欲しいものを手に入れようとするのはいまの時代にもかたちをかえて存在するが、キリスト教徒も宣教師以来、同じ誤りを繰り返している。
2006.04.23
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一寸外出しただけで、雨もあって一日自宅で過した。今和室で雑然とした中にいる。やはり図書館の方が集中できそうだ。PCを相手にしているとどうも読書に集中できないところがある。大学の図書館は土日が休館である。勉強したい時が平日とは限らない。どうしたら多くの読者が利用できるかとの視点が大学にはないようだ。管理面で問題があるからといって、図書は読まれてこその価値であろうと思う。畳も長く座ると腰が痛くなるので困る。やはり椅子がいいようだ。文化人類学のテキストを読んでいたが、執筆は女性が多いようだ。そういえば女性が多いのかも知れない。新しい分野である。世界の異文化の比較があり、それなりに興味も湧くが、どうも異文化に対する興味本位な面も感じられる。アメリカが、日本の文化をドラステックに調査研究して、占領に役立てたように、底意があるのではないか。これも世界戦略の一環ではないのか。というような気がしないでもない。プリンターも調子が悪いし、どうも今日は、ブルーモードである。
2006.04.22
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通過儀礼とは、通常誕生儀礼や成人式、結婚式、葬式などの人生の節目に行われる人生儀式とされる。ところが、イギリスの人類学者エドモンド=リーチは、通過儀礼を、それが何故不浄や危険と結びついているのかという視点から分析している。リーチは、節目や境界は本来危険なものだと指摘している。日本でも、平安時代には、昼と夜のかわり目の夕方は、「逢魔が時」と言ってこどもの外出を禁止した風習があったという。葬式や出産でさえ不浄とされた。節目は危険だという意識があるであろう。それは、自然は本来かたちのないものであり、どう変わるかわからないという不安が底流にあるかもしれない。現代に於いても、通過儀礼は、そのときがくれば、いろいろの圧力が周囲からかかってきてやらざるをえないようだ。これは亦、急激な社会の変化に、ついていけなくなった個人がそのパターン認識にズレたくないという危機感があるからではないだろうか。どうやら、まだ、暫くは「通過儀礼」に振り回されそうだ。今朝、娘が友人の結婚式に参列するために、早く出かけるのに駅まで送らされた。
2006.04.22
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人間の一生は、幾つかのカテゴリーで分けられる。胎児、幼児、子ども、青年、成人、未婚者、既婚者、壮年、中年、老人、死者というようにである。人は、社会の中で一定の役割を果たすことを期待されているが、ある人がどういうう役割を果たすかは、その人がどのカテゴリーに属しているかで決まる。いま私が、最も関心があるのは「ヘイフリックの限界」だ。人間は、一瞬のうちに完全に消滅しない限り、謂わば、少しずつ死んでいくのだろう。生殖能力が衰えたり、消化機能が衰えたり、歯が抜けたりするといった aging が起きてくる。そして、死者になる。それは、心臓停止、呼吸停止、脳死であろう。どんな社会でも生者と死者を分かつものがある。併し、世界では、「ヴードゥー死」があったりするし、社会的に死を宣告されるケースもあれば、白骨になるまで完全に死んでいると考える社会もある。問題は、その節目が人為的であるために必ずその周辺であいまいなどっちつかずの状態が生み出す不安だろう。時にこれは大きなダメージになるものだ。人間の一生の間に行われる通過儀礼が問題になるのかもしれない。一日、雨になりました。少し肌寒いです。昨日入れた歯が外れまして、また歯医者です。>写真が小さいので見え難いですけど、上部左側にゴルフの躑躅がこれからです。白いのが咲き始めています。
2006.04.22
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「高徳院 勤行式」を鎌倉大仏を参観した時に買った。一緒に旅したひとが、お寺をお参りしながら各寺社の朱印を貰っていた。何か記念にと思った。もう5,6年前のことだろう。それからこの冊子が私の手元にあり、時々読んでいるというより見ている。そのなかでも、発願文(ほつがんもん)というのがあるので紹介する。 發 願 文 願くは弟子等。命終の時にのぞんで。こころ顛倒せず。こころ錯乱せず。こころ失念せず。 身心にもろもろの苦痛なく。 身心快楽(けらく)にして。禅定に入るがごとく。聖衆現前 したまひ。佛の本願に乗じて。阿弥陀佛國に上品往生せしめたまへ。宗教は、難しいから、凡人には中々理解することができない。ただ教えに従うだけである。理解をしようとしない衆生は迷うしかないのであろう。或る意味で宗教は、解するもの解しないものと異教があるのであろう。それは、断じて行うものと断じて行わないものかも知れない。或いは、捉われるものとそうでないものであるか知れない。上記の発願文は、臨終のときのことを言っているのであろう。どうも語彙が難しいのでそのまま読むと誤解しそうであるが、素直に読めばいいのではないかとおもう。今朝、こころに響いたので紹介します。
2006.04.22
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Don't ask questions-that was the first rule for a quiet life with the Dursleys.たとえば、この社会も同じことをいうだろう。「質問は、許さない!」だ。誰でも、どこでも言われるが、従う必要はない。ただそれだけだが、それができないと酷い目に遭うだろう。ハリーのように、逞しく雄々しく育つ子もいるだろうが、やはりフィクションだ。ひとは、「鋼のハート」を持っている訳ではない。環境と遺伝子でどうにでもなる。私たちの現代も、謂わば優しく慈愛深く育てられた時代でもなければ、人たちばかりではない。猛禽類の世界のようでもある。併し、にも拘わらず、人類は、いずれ住みやすい環境を手に入れるに違いない。ただ社会もそうであるように自閉症になる人たちも必ず出てくるだろう。そのためにも脳の研究は、大きな役割だあるだろう。未だ多くの成果を必要としている。「質問を、許さない。」なら、どうして、そうなのかを分からなければならないだろう。そこからすべては始まるのだ。質問さえ出てこない人間では困るだろう。この時代に未だ素朴で、一応平和な家族を営み、家族そろって健康で仲良く暮らせば、その中心である自分の存在意識をすべてが充たされると思っていないか? 一個の独立した人格としてその存在理由は何だろうかを問いたい。それとも、うっかりこんなことを考えたら転落するとでもと思うだろうか。それこそ、人間は、幼児でも自分が邪魔者扱いされているか、それともかけがえのない存在として扱われているか、その相違を敏感に感じている。そこに人間の存在が問われるのだ。>よく水を貰いにいく、「不老水」名水百選の周辺です。
2006.04.22
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西田幾多郎は、明治以後に邦人のものした最初のまた唯一の哲学者といわれる。その彼は、「私の論理というのは学会からは理解せられない。否未だ一顧だにされていないと云ってよいのである。」と自らを語っている。抜きんじた人間だけが味わう孤独から、西田も自由ではなかった。「善の研究」は、純粋経験、実在、善、宗教と題された四つの編から構成されている。基本概念は「純粋経験」である。その立場の根本的新しさ、その哲学の深い独創性とはどういう点にあるか。実在としても神が、語られている。高坂正顕は、「海の哲学」といった。禅を愛し、打座をよくしたらしい。京都の「哲学の小径」はこの西田哲学の由来であるという。学生のころ、名前に惹かれてよく歩きました。この前、よく覗くブログの方の最近の写真をみましたが懐かしかったです。・フランスの高校の哲学の教科書というのを見た。人類文化とは何か。古典学科の目的は、職業のための準備よりも精神の形成にある。しかし、哲学の名のもとに含まれる熟考の対象の全体は、人間を中心にしたものであって、事物を中心としたものではない。ここから、この学問分野のいっそう人間的・文化的な性格が出てくる。「友情を得ようとするのはよいことだが、有益な交際だけを得ようとするのは賎しいことである。」>図書館から見た風景
2006.04.21
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今日も体力気力に支障なしで、fwu付属図書館へ。張り切り過ぎて図書カードを忘れた。何とか見逃して貰い昼食のついでに家に戻りカードを持って来た。・日本主義の哲学 松本材。 山鹿素行、会沢正志、本居宣長らの日本観をまとめている。宣長「破邪顕正」・・・「聖人の道は、まことに毒薬なるが故にこれを服すれば世を障害するなり。」私としては、儒仏の思想を排斥した歴史的な背景が知りたい。・「天地の心のまま」なるべく自然的平穏な生活を喜ぶところに日本人のひとつの特性がある。 山水の自然を愛し、市井黄塵の中に生棲しながらも花を好み盆栽を玩ぶのは一般日本人の通性 でもある。・我古典に神代の巻を読むときは、そこに漲る茫洋たる自然味と幼稚な乳臭を感知するであろう。・排知排教の思想は遂に真淵をして、人と動物との区別を去って同一視するに至らしめた。これらは、儒仏の思想を排斥する余り、次第に文化や教化に反対して、無知無為の自然を高調する方に傾いて行く。・西田幾多郎 「善の研究」・現代思想としての西田幾多郎 藤田正勝・ウイトゲンシュタイン研究 ルドルフ・ハラー・老化論 ジャン・アメリィ・哲学講義 フランス教科書・星の王子さま・・・新訳5冊を新刊コーナーで発見した。Le Petit Prince 第21章の ... Qu'est-ce que signifie "apprivoiser"? は、昔から気になっていた箇所だ。 -C'est une chose trop oubliee, dit le renard. Ca signifie "creer des liens..." ・「飼いならす」・「飼い慣らす」 小島俊明・池沢夏樹(訳者) ・「仲良くする」 倉橋由美子 ・「手なずける」 三野博司 ・「なじみにする」 川上勉成程、日本語に翻訳ができないと、30数年前先生がいっていたが、おそらく翻訳できない文化の相違がいくつもあるのではないだろうか。
2006.04.21
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大昔、賞でモン・ブランを貰った。万年筆とボールペンだった。万年筆は柔らかいタッチで愛用したがいつか潰れてしまった。カートリッジではなく、インクの取替えをしなければならなかったし、よくインクをこぼしてばかりいた。昨年の春、ハワイのアラモアナ・ショッピングセンターで、モンブランの店があり、覗いてみたが高価なので買えなかった。できればもう一度触れてみたいと思っている。もう万年筆を使うことはなくなってしまった。それにカートリッジになっているし、インク壺を使うことはないが、意外と懐かしい思いがする。図書館で整頓された書棚をみていると、どこか昔雑然と積み上げていた書籍とインクで汚れたノートが浮かんでくる。成る程、勉強するのは、整理することだということをあとで知ったが、それまでかなり回り道をしたと思う。もう試験を受けることもなくなって、受験する側ではなく、試験を出す側のことを考えるべきだったと思ったりした。壁は高いのではなく、自分の方が後ずさりしているに過ぎない。独り芝居の人生でしかない。モンブランは、美しい憧れの山でもあるが、果てしない夢の彼方のようでもある。まだ、そういうことを想っているのだから、先は長いかも。
2006.04.21
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スピノザは、ひとりアムステルダムの屋根裏にとじこもり、生計をたてるに足るだけのレンズみがきと個人教授のアルバイトをして、あとは全然世事に関係しなかったという。しかし思索と著述にあらんかぎりの力と時をそそぎこんだ彼の胸には人類全体のものの考え方を根本的に変革しようという大それた野心があったといわれる。彼の場合、現世よりも、後世が人生のテーマなのだ。これを、ひとはどう考えるだろうか。そのひとの世界観で違ってみえてくるだろう。キリスト教は、現世に対して謂わば正攻法であり、仏教は、現世に対して消極的な姿勢を示す。法然は、社会的地位を得て、戒律と世俗に対して特権と責任を担おうとし、親鸞は、人間的な煩悩の矛盾をもちながら宗教的境地をひらき、一遍上人は、何もかも捨てて、一生を遍路の旅を続けた「捨聖」である。人間の積み上げてきたものは何だろうか。今日も、誰の上にも、温かい陽射しと柔らかな空気の朝がくるだろう。
2006.04.21
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神谷美恵子著「生きがいについて」(みすず書房)作者は、精神科医。温かさと知性と努力の人と紹介されている。「生きがい」とは、「世に生きているだけのねうち、生きるしあわせ、利益、効験。」と辞書にある。欧州では、生きがいにあたる言葉はない。「生きるに価する」「生きている価値または意味」がある。如何にも日本語の「曖昧さ」を示している。生きる喜びが最も体験されるのは、出産直後の歓喜は、女性の生きがい発見の瞬間だという。更に赤子の示す生の喜悦は動物のもつ本能の迸りでもある。官能の陶酔はどうだろうか。生命力の発現としても刹那でしかない。それは生きがいではないだろう。本当に生きているという感情は、生の流れはあまり滑らかであるよりか、寧ろ生きることに夢中で努力している時であり、生きるのが苦しく辛い時にこそより強く感じるものがあるのではないか。ある中年の婦人がやむにやまれぬ向学心で大学の籍を得た時に、「これでやっと望み通り好きな仏文学を一筋に学べるようになり、何か体の内からうれしさが湧き上がってくるようです。」といったと言う。苦しみの中に生きがいを覚えるという心の姿は、尊いだろう。それは宗教家だけのものではないはずだ。それは、その目標が達成されるかどうかは、真の問題ではないだろう。マルローの「ほんとうの人間」(authentic person)とは、人類の一員である面が多い人だという。「健康という不当利得」を生きているものは、弱者に対して、その利得を返還せねばならない義務があるだろう。
2006.04.20
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孔子は、姓は孔。名は丘。字は仲尼。三歳で父を亡くし、母に育てられた。貧乏暮らし。15歳で学問に志して、30歳で学問で独り立ちした。論語は紀元前の人のことばであるが、教育者であり偉大な哲学者。日本の思想に多大の影響を与えたが、徳川幕府はこれを愚民政策に利用した。「君子が己の身を持するに敬を以ってして過失のないように努め、人との交際に恭を以ってして礼に合うようにしたならば、天下の人が皆己を敬愛して兄弟と同じように温かい心で接してくれ、世界中の人が皆兄弟となるのである。」という言葉は好きだ。子曰、飯疏食、飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。」読む心さえあれば、含蓄のあることばだし、そのこころは、東洋の魂でもあろう。午前中、歯医者に行き、また顎が外れそうになりました。図書館には、14時頃から、あっという間に時間が経ちました。論語と、現代心理学、少々。蛇に関する民族と伝統 南方熊楠書で面白いところ一部ですが。名義。本居宣長いわく「古事記の遠呂智は、書記に大蛇と有り、和名称に蛇和名倍美一名久知奈波、日本紀私記に云、乎呂知(おろち)と有り、今俗には小く尋常なるを久知奈波と云ひ、較大なるを幣昆(へび)と云ひ、猶大なるを宇波婆美と云ひ、極て大なる蛇(じゃ)と云也。遠呂智とは、俗に蛇と云許りなるをぞ云けむ云々。」とある。
2006.04.20
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