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これまでの民主党の悪あがきは二大政党制という想定が如何に甘いものであるかを露呈したものでしかなかった。土台処理能力のない政党が政党たるの資格はない。今も若者が精神的にスキルを受けていないことの現われでもあるだろう。民主党は、根が自民の亜流でしかない。幕末の「ええじゃないか」の思想が世直しであったように、その程度の運動の広がりでしかない政治が、国際社会に通用するはずがない。永田氏の辞職も恥を曝しただけだ。前原氏も政治家の器ではない。小粒なのではない。大塩「檄文」の中の「小人」だ。どれだけ衒っても品格は証明されるだろう。ことが大事になったときに人間が試されなかっただけでもいい。政治戦略しか考えないようでは、時代を見損なうだけだろう。この一連の事件は、取り返しのつかない事態である。それをこれまで引きずったのも処理能力のなさだし、認識の甘さだろう。これは、民主党一党の問題ではなく、三点セットに対する追求の場を失するなどの責任は消しようがない。責任政党ではないことだけは確かだろう。これから、電車で、友人たちに逢ってきます。
2006.03.31
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近世の日本は、鎖国の体制であり、幕府や欧米諸国は漂流民を利用しようとしてあらゆることをしている。江戸時代になると商品経済の発展で海難も増加したため漂流民も増えたこともある。殊に、1837年のモリスン号で送還された漂流民7人は、文政の打払令で、帰国できず、香港や上海で一生を終えている。併し、彼らは、その後の日本人漂民を積極的に援助するなどして、日本に帰国できるように支援したという。これこそ庶民の人間性の偉大さを示しており、こころある日本人は刮目すべきだろう。大黒屋光太夫にしろ、ジョン万にしろ、ヒコにしろ漂流民たちが果たした役割は、庶民の偉大さを示すものだ。日本人は、宣教者という戦略目的だけでない欧米諸国との接触という幸運と、漂流民という庶民の偉大さが近世を彩り、存在することに敬意を払わねばならないだろう。
2006.03.31
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或る大学の学生の書いた講義memo を読んでいるが、多分聞いたままなのだろう。考えながら喋るのは難しいだろうが、日本語は解り難い。混乱することが多いが、自分の脳のフィルターにかけるしかない。成長は老化である。若い女性の絵とおばさんの絵は錯覚である!講師が、一般的にだが、先ずボキャに乏しいし、学生が日本語の常識が余りないとすれば、脳では不完全燃焼するだろう。大学の講義を聞くだけフラストレーションが蓄積するだけだろう。中学・高校・大学と進学する教育システムはもう時代遅れだが、それに無理に押し込められる学生は可哀想だ。それに適応できる学生は寧ろ何にでも適応するのではないだろうか。どうも、型にはめられすぎる人間だけが増え棲みやすい社会とすれば、フレキシブルな発想は生まれないのではないか。表現力の乏しい講師と、関心の持てない学生とのミスマッチは、悲劇だ。お互いに意欲を失くしてしまうだろう。延々と続くノートをみていると疲れる。要点を述べて、自分で調べろの方がまだいいのではないか。さて、今夜は、久しぶりに博多で飲み会がある。花冷えしそうだ。
2006.03.31
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八分咲きのさくらを見つけて、車を停めて、すこし花見気分を味わってきた。できれば、敷き物と缶ビールとフライドチキンでももって、一日ゆっくり出かけたい。さくらは、思い出があり過ぎて、すこし敬遠していたが、横浜の弘明寺の周辺の大岡川の桜や、鎌倉の段葛やあちこちの桜の名所巡りなどをして、また好きになった。昨年は、熊本の一心行の大桜を観てきたりした。図書館から中島千波の「さくら図鑑」を見ていた。やはり、風にそよぐ自然のさくらがいい。花の中にいると不思議な気持ちになる。時を忘れるからだろうか。小学校の桜が綺麗だった。この世が、とても気持ちのよい世界のように思えてくるのは何故だろうか。何度も花見をしたが、やはりひとりで静かにさくらを観ながら、酒を飲むのが一番だ。暗い夜空とライトに照らされた大岡川のプロムナードを思い出している。そろそろ屋台が出ているだろう。焼き烏賊を食べながら歩いたものだ。
2006.03.30
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どうも「日本の歴史」というと、学生のころから少しとっつき難いところがある。だから、年表くらいが精々で、教科の社会はまあ得意な方であったが殊に、近世は、殆ど中学生程度の知識しかないだろう。徳川幕府の将軍の名前くらいしか関心がなかった。ところが、最近になり、ちらちらと読む機会があり、朝日百科の「日本の歴史」何かで大塩平八郎の「檄文」などを読んでいると興味が湧いてくる。どうも素面よりか酒でも飲みながらゆったり読んでみたい気がしている。何故日本が植民地にならずにすんだのだろうか。思えば不思議である。極東という僻地のためだろうか。それとも島国だったからか。生麦事件の処理にしろ、ひとつ間違えば列国の植民地になっていてもおかしくない気がする。幸運だったのは地域だけの所為だろうか。近世が藩中心であったためか、資料にまとまりが欠けている。近世から近代という狭間で、あまりにもおざなりな気がしてならない。
2006.03.30
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日記に、それほど特異日はあるわけではない。平凡でつまらないことの繰り返しだが、それに耐えるだけの忍耐が必要だ。実は、それが事実だとしてもだから人生が不幸だということではない。いつかは、特異日もあるだろう。午後から、「サウンド・オブ・サンダー」を観てきた。近未来の話だ。内容は観ての御楽しみだが、新しい科学の進化が途轍もないリスクを抱え込むことでもあるというストーリーである。よくある話だが、臨場感だけは段々凄くなるようだ。それと或る予感があるだろう。それは、人類がひとつ間違えば、この60数億年の地球の歴史をご破算にしかねないという危惧である。取り返しの効かない事を人間は時々遣らかすのだ。人間の愚かさは嫌というほど歴史が教えてくれている。映画で、娯楽として作られているパニック映画がいつか本当になるかも知れないし、そうならないことを祈りたいが、こういう話は、かたちは変わってもそれに近いことは起きるだろう。それは、人間の想像力とは、そういう意味ではまともにできているのだろう。>福岡県久山町の桜
2006.03.30
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五位は「芋粥」をあきる程飲んでみたいと思う、それが唯一の欲望になっていた。彼は、一切の不正を、不正として感じない程意気地のない、臆病な人間だった。まるで周囲の軽蔑の中に、犬のような生活を続けて行かなければならなかった。五位は身分が低く、当時の芋粥は、貴重品で年に一度、僅かに喉を潤おすに足る少量しか飲めなかった。やがて、敦賀の男から誘われて旅をして、念願の「芋粥」を山のように積まれたが、堤にいれた「芋粥」を目の当たりにした五位は吐き気を覚えてしまう。そして五位は、「芋粥」を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来る前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。「芋粥」、五位、狐とそれは、いろいろ読み替えることができるだろう。芥川の作品は、この種の比喩が多いようだ。これも、現代に置き換えると興味深いようだ。善良な市民とは五位のような人間をいうのかも知れない。「芋粥」は、カネだろうか。何か切なくなるが、芥川の才知が時代をを超えて蘇る思いがする。
2006.03.30
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昨夜早く寝た所為か。今朝は3時過ぎだ。娘はいつも徹夜だ。和室に替わったので、別行動である。立花の驚異の読書術の本は面白い。でも少しバラバラの感じが否めない。無駄なのは仕方がないのだろうか。さて、日本の官僚機構が頽廃しているのは、誰でも知っているが、手が出せない。それは、彼らが長年に亘りこの国のかじとりをしているからだし、大衆の生殺与奪の権を握っているからだ。政治家たちが官僚機構にいいように手玉にとられている。日本の権力の真の所在は、官僚にある。そして、官僚のパワーの源泉は情報の独占である。従って、政治家はダミーに過ぎない。政治家を追い落としても、彼らの代わりはすぐに見つかるようにできている。木偶人形は、どれだけでもつくれるだろう。官僚の肥大化を阻止するには、情報公開しかないが、官僚に対抗できるような組織がない。謂わば、建前ばかりの情報公開制度でしかない。官僚も、たやすくいまの地位をすてないだろう。せめて、官官接待問題くらいでお茶を濁そうとしている。日本の頽廃の元凶が、官僚機構にあるとすれば、それを捨てねばならない。その決意が必要である。そのためには官僚機構に代わるパワーの所在をどこにシフトすべきであろうか。まだ、先はながいだろう。昨日から寒の戻りだろうか寒いようである。まだ外は真っ暗だ。
2006.03.30
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・名声を得るにつれて、ますます愚かになりました。まあ、ごくありふれた現象ですが。・安楽と幸せそのものを目的としたことは一度もない。そのような倫理上の原則を私は豚小屋の理想と呼ぶ。・「われわれ」という言葉に不安を感じる。だれも他の奴とはいったいじゃないからだ。あらゆる合意の背後にはつねにある、ひとつの深淵が、目に付かない深淵が。・その時(死ぬ時)がきたら、医療の助けは最小限にして墓に入ろう。そして、それまでは私のよこしまな心のおもむくままに、しっかり罪を重ねようとかたく決心しています。・おもに個人的な願望の実現に向けられた人生は、つねにおそかれ早かれにがにがしい失望に終わります。・自然が秘密を隠すのは、自然が気高いからで、ペテン師だからではない。・科学全体は練り上げられた思考にほかならない。・科学者にとって報いとは、アンリ・ポアンカレが言う理解する喜びであって、ある発見が応用につながるかもしれないという可能性ではない。・(精神分析について)分析されるくらいなら、大いに喜んで闇の中にとどまりたいね。・真理とは何かを言うのはむずかしいが、誤りを認識するのは、ときとしてたいへんやさしい。・世界の永遠の神秘は、その理解可能性である。・・・世界が理解可能だろいう事実は、ひとつの奇跡だ。 (アリス・カラプリス編「アインシュタインは語る」アインシュタインの物理学上の偉大さを何一つ理解できないとしても、彼の偉大さと人間的魅力は、誰にでも理解できるのは、何故だろうか。人間として、生きる勇気があれば、ひとは人間の偉大さを知ることができる。
2006.03.29
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母は50歳で胃癌で死んだ。手遅れだった。それまで元気だった。食べるときに違和感があるといい、見る間に痩せてきた。当時熊本の玉名市という田舎町に住んでいた。母の友人の勧めで熊本の外科医を紹介されて診て貰ったら、父と私が呼ばれて胃癌だった。今日の午後、久山町の映画でも見ようと出かけたら、春休みの所為か人が多そうなので止め周辺を散策したら、菜の花が咲いていた。そして菜の花の匂いを嗅いで、子供のころ、鶏卵の黄身だけを食べさせられたのを思い出した、忘れていた。母からの命令で、朝昼晩黄身を食べていた。菜の花を見ると吐き気がしたものだ。どれくらい続けたかは忘れてしまった。小学生低学年だ。母は、病気さえ、絶食をして治してしまうひとだった。数ヶ月間、水ばかり飲んでいた。医師の指示だったかどうか知らないが、それで治ったと言っていた。多分糖尿病の初期だったのであろう。私は、腎臓が悪かったので、それで、黄身を食べさせられたのであろうが、菜の花は見るだけで気持ちが悪くなった少年時代を忘れていた。母は優しいひとで、周囲から好かれていたが、よく考えると案外ユニークな女性だったかも知れない。その母から一度だけ、他人の前で死ぬほど殴られたことがある。子供心に堪えた。母は泣きながら、「卑怯な真似をするな」といった。菜の花は、そのことを思い出させた。
2006.03.29
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幕末の異事奇聞「寛政紀聞」の1799年に、11代将軍家斉(いえなり)が、江戸城中に新しく茶屋をつくり風流をつくして興じたとある。これは、遊郭であり、秩序の中枢に無秩序が乗っ取られたのだ。遊郭は、解放とか無秩序とするのには無理があるが、如何にもこの時代を象徴しているだろう。家斉の側妾は40人で55人の子供がいたが、「北海の鱈のごとし」と揶揄される。もう子供たちの処遇に苦慮している。政治の空白がある。大塩平八郎の「檄文」は、それまで支配の道具として使われてきた儒教思想がある。庶民の世直し願望の意識を刺激することに成功したが、半日で粉砕された。幕府批判の儒教的論理を実践した一揆は、幕府や領主を震撼させた。大塩の乱のあと、江戸湾浦賀沖に、アメリカ船モリソン号が碇を下ろすことになる。江戸のベストセラーで一位は、四書(大学、中庸、論語、孟子)である。内憂外患の狭間で日本人は、何をしただろうか。その混乱は、或る意味まだ続いているのではないか。大塩平八郎の事件にみられるように一撃でパニックになるような政治が現在も存在しているのではないだろうか。オウム事件、ライブドアショックも、内在する問題は軽視すべきではない。
2006.03.29
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現世の幸福を否定する一つは、日本的ニヒリズムであろう。幸福のはかなさを説き、仏教の無常観に発して、ながく日本人の人生観の底流となっている。それは、「方丈記」「徒然草」だろう。その無常観の中には多少のニュアンスの違いはあろうともだ。日本人は、このような無常観を中学校から習う。「一生は此の世の中に暮らす間、若き時より老ゆるまで、誠にたわいもなき事なり。世の中は市の仮屋の一さわぎ誰ものこらぬ夕暮の空」 (司馬江漢「春波樓筆記」荷風の無常観は、生きていくことの妨げにならない。狂いもしなければ自殺もしないのだ。しかし、荷風以後の若い世代は、無常観は、幸福とか不幸にとどまらず、あせりと絶望を導いた。「人間失格」の太宰治は、「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さい過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世間に於いて、たつた一つ、真理らしく思はれたのは、それだけでした。」日本人の幸福感が、ともすれば日本的ニヒリズムとなるのは、ひとつの心理的伝統によるものであろう。四書や封建社会の身分制度に縛られた鬱積もあるだろう。何れにせよ。その存在を否定することはできない。そして、それが日本人のトラディションとするならば、日本人の不幸感を問い直す必要があるのではないか。それをしない限り、またぞろ日本的ニヒリズムに取り囲まれることもあるだろう。
2006.03.29
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立花隆の本のつづきだけど、トーマス・アレン/ノーマン・ポーマー「日本殲滅」副題「日本本土侵攻作戦の全貌」の紹介がある。太平洋戦争末期、アメリカはコード・ネーム「ダウンフォール」と呼ばれる最終的な日本攻略計画を策定していた。Xデー・Yデーの二つの作戦が地図入りで解説されている。毒ガス数万トンが製造され、生物兵器として炭疽菌を装填小型爆弾数十万発が製造されようとしていた。更に枯葉剤の散布で日本の米の3割が壊滅させる計画であった。という。東西から東京に侵攻し、日本側数百万人の死傷者と米軍側も数十万人の死傷者を想定していたという。日本は文字通りハルマゲドン状態だ。少なくとも60年前は、日米はそういう関係であった。だからどうなのだろうか。自分でその意味を考えるべきだろう。立花氏も多読しているが、より広く読むことが真実に近づくことを知っているからだろう。生半可な情報で判断すべきではない。数冊の本で判るほど狭い世界ではないだろう。兎に角いいと思う本を読むことだ。読んでつまらなければ棄てればよい。自分を小さな人間にしてはならない。人間社会は必要とするものを呼び寄せるだろう。そういう社会であらねばならない。それを妨げるものを拒絶するだけだ。
2006.03.29
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神風特別攻撃隊の著者猪口中佐は「最早事態は人智を超えていた。人智を超えていたからこそ、いまはこれら青年達の純一無垢な精神と、自己の精神の潔癖を保持しようとする瑞瑞しい気力を措いては、他に奇跡の行なわれよう筈がなかった。」彼らは、日本的精神主義の最悪の代表者だ。ある収容所長の訓示は、(「あれから七年」)「・・・わが国には古来日本精神がある。これが結晶した精華が軍人精神である。お前たちが軍人精神を横溢さして、毅然として俘虜に接するならば、それは俘虜の精神状態をひきしめ、物質文明に毒されている彼らといえども、おのずから物質にたいする精神の優位を感知し、困苦欠乏によくたえ、栄養失調のどとき軟弱病を克服し、全面的に増産に協力するようになる・・・」「至誠天に通ず」とか、精神主義は、今日でもその影響が強くのこっているだろう。精神が肉体あるいは物質に優先するという考え方は、日本人の抱えている課題でもある。窓外の夕暮れに染まる風景に見惚れていた。木々が風に戦いでいた。ヒトの祖先がまだ木の上に過していたころどういう姿勢で眠っていただろうか。不安な夜に慄きながらながい一夜を過していたのだろうか。祖先のながいながい苦闘の末に私たちがあるだろう。
2006.03.28
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日常で不断に起きている当たり前の現象はかたっぱしから無視して、もっぱら特異な現象を拾い出すようにできている。人間はオートマトン部分の上に乗っているヒューマン部分との総体なのだ。世の中には、正常なものにしがみついている人間がいるが、実はそういう人間ほど、本当の意味では、世の中に適応する能力に欠けた人間というべきであろう。何が異常なのかを見据える能力がなければ、土台正常なものの正しい認識をもつことができない。寧ろユニークとの出会いが人間が健全な適応能力を育むために必要な要件である。高価でダメな本など読まなくても、いくらでも代替するものはなるだろう。地球には2000万種以上が生きており、人間にも多くの人種がいるのは、可能性の問題なのであろう。私たちに必要なのは、紛れもない真実であり、真実こそが明日の価値を問うている。人間が、ユニークであることは当然の形質なのだ。他人の真似をすることの方がエネンギーを浪費することになる。今夜は、博多ラーメンでも食べましょう。
2006.03.28
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どんな本を読んでいるか。彼の読書術を知りたいと誰しも思うだろう。噛み付く先は尋常ではない。ひとつ云える事は彼の速読だろう。インターネット体験で身に付けたものが彼を支えている。巨大な情報空間の中で個々人が生きていかなければならない時代になり、その自覚と、そのためにどうしなければならないかという問題だ。彼はそのことを書いている。最近日本でもインターネットが普及してきたが、そういうことが分かっているひとが少ないだろう。ひとつは、日本のインターネット空間は、世界では僻地である。日本語空間は「井底」でしかない。インターネットが開いた世界は英語圏であり、その空間に自由に出入りできている日本人は少ないだろう。だから、その情報空間の巨大さも、時代の変化も十分把握しているとはいえない。その情報量のスケールは、日本語の十万倍以上だろうと立花隆はいう。何を急ぎ、何をじっくり考えねばならないだろうか。日本語を棄てる時代が来るのではないかという恐怖が日本人にはあるだろう。もうそういう時代である。何を残し、何を棄てるかを選択するときがくるだろう。其の時、「井底の蛙」では、未来はない。
2006.03.28
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世界が複雑化していく中で、そのツゥールがどうかが問われるようになっている。記録情報源からさまざまな情報や文献を効率よく求めるには、その手がかりとして役立つ適切なツゥールを選び、それを活用するための知識と探索技術を身に付けることだろう。学生と研究者の違いは、ツゥールの差でもある。昔は、資料も手近なものしか入らず大したことのできない環境であったが、現在は違う。できないのは自分の遣り方や、意欲の問題でもある。また情報量が違うだろう。論語も、日本文学や日本史も一分野でしかない。レファレンスブックには、豊富な情報を得ることができる可能性がある。問題はそのガイドであろう。どこかで読んだことがある。「いいジャーナリストは、こまかいことは、知らなくていい、何か課題を見つけたとき、どこをあたればよいかを考えることのできる人間だと。」人間は、「準拠枠」の中で生きているがその枠組みがみえなければ、本当は何もできない。潰されるだけだろう。その枠組みがいつも問題だ。>西鉄宮地岳線和白駅周辺踏切
2006.03.28
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私も相当うぬぼれだがブログをみていると日本人は、その傾向が強いのではないかと思えてくる。謙虚な民族では?さて現在、高血圧のひとは全国で約3400万人、加療中1700万人、服用中が1500万人だとされる。この「サイレントキラー」はどこにでもいる。最終的に、脳卒中や心筋梗塞、腎不全となり死に至るハイウェーだ。そろそろかと予想はしていたが、ついに仮面高血圧を疑われてしまった。これまで、不思議と何度が測定したが高血圧ではなかったが、父がそうだったし、自分でも怪しいと思いだしていた。月1度病院に行く度に測定だけはしていた。先日デジタル自動血圧計を買ってきて測定を始めたら、「ひやァー、こりゃ!」である。平成17年4月に日本独自のメタポリックシンドロームの診断基準が制定された。1)ウエスト 男 >85cm 女 >90cm2)脂質代謝異常 中性脂肪 >150mg/dl HDLコレステロール値<40mg/dl3)血圧 >130/85mmHg(外来血圧)4)血糖 空腹時 >110mg/dl以上のうち2項目以上に該当すれば、立派なメタポリックシンドロームに診断されることになった。心血管イベント発症の8年間の調査で40歳以上の男性では、メタポリックシンドロームの人は、そうでない人の1.8倍の危険度を示した。しっかり家庭血圧測定を遣りましょう。
2006.03.28
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今日も一日過ぎようとしております。大したこともなく、恙無くというべきか。月一回の定期診察で、明日から入院せよとは、いわれなかったし、歯医者から総入れ歯の宣告もなかったのだから、よしとすべきでしょう。熊本の馬刺しを食べました。この前までは、病院に行ったあと、映画をよく観に行きましたし、自分にご苦労様と旨いものを食べに行っていました。単純が好きですからね。「日本人の心理」というテーマで遣り始めたら、もう嫌気がさしてきた。自分のことに無関心であり過ぎるのは私だけではないようです。というより、それが遺伝子なのでしょう。時々、自分の病気のことを忘れてしまいます。生まれつきなのではなく、身に付いた習慣でしょうね。あと50年もしたら日本は、どうなっているでしょうか。そんなことを思いながら、寝ることにしましょう。皆さん、おやすみ。今日一日、お疲れ様でした。
2006.03.27
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私たちは何とぼんやり生きているだろう。無意識に様々のことをしているがそのことに気づかずに暮らしている。他人から指摘されて成る程と思うようでは怠慢といわれても仕方がない。やっと自分の力で、学校を卒業し、仕事を見つけて稼ぎ出して、競争相手を尻目にベターハーフを見つけて、漸く、子供を産んで・・・と思っている。それは、本当に自分の力なのだろうか。人間の体と頭を持っているが、自分の意識は、潜在意識のほんの一部でしかなく、環境は自分で造ったものではなく、できあがった環境でしかない。思い上がっているが、自分の意識だけでは何もできない。日本人にしたところが、うぬぼれているだけの存在ではないのか。もっと本源的蓄積をしないと枯渇してしまうのではないだろうか。世界の水流は常に変化しつづけている。他国は、未来のために投資することを惜しまないで努力しているのではないか。ひとりよがりで、自分のことしか考えられない人間になってしまっていないだろうか。私には、為すべきことがあるのではないか。
2006.03.27
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明治は徳川時代を消し、戦後は戦前を消した。しかし一つの時代の思想は必ず行動規範として残り、歴史を消せば、自分の行動規範が何に由来するか判らなくなる。そしてそのためにかえってその規範から脱却できなくなり、暗闇の中に迷い込んでしまう。これが所謂無思想的人間の蒙昧だ。思想史として客観化しなければならない。それができれば自ら新しい文化を創造することも、他民族との相互理解もできるはずだ。このことを日本人は何故しようとしないのだろうか。アジア諸国が、日本を先進国と見ているのではなく、「西欧化の先進国」と観察しているに過ぎない。そして、アジア諸国は、先進国に学ぶなら、直接西欧に学べばよいと思いだしている。無思想的民族の巣窟でしかない国家は何れ干されるのだ。従って、わが国のかかる無思想的うぬぼれを、批判してくることこそ歓迎さるべきだろう。>福岡国際カントリークラブ於いて
2006.03.27
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朝から定期検査と歯科でまた抜歯だ。そんなこんなの中で、「日本人と中国人」を読んでいた。自らの「内なる中国」が、中国とは関係なき尊皇思想の帰結として自らのイメージであって、「外なる中国」とは別だということが理解できないのである。という。徳川期の日本人が盛んに中国を論じ、時にはさまざまの議論まで展開したといっても、彼らが、現実の中国を知っていたわけではない。もちろん資料も統計もなく、実地踏査をしたわけではない。勿論時代は違うが、現在でもなお日本人が米ソについて議論するのに似ているではないだろうか。現実の世界をどこまで知っているだろうか。二・二六事件の首謀者が自分たちの軍事行動を叛乱とは考えなかったように、日支事変を、当時の日本人は中国への軍事行動を侵略とは考え得ないのである。日本人からみた中国でしかなく、「文化的に君臨すれど、政治的に統治せず」の中国の側からの視点ではない。どうやらひとり相撲の「内なる中国」でしかないのだ。現在の日中関係も、これまで相互理解という点では、他国以上に捩れた歴史があることから、お互いに歴史認識が真摯にスタートすべきだろう。>今朝の医療センター玄関
2006.03.27
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最近、といっても半年くらい前からだが、或る大学の文学部教授の「一葉」作品を読む会があり、参加させて貰ったが、これは偶々文学で然も一葉だっただけで、特に「一葉」ということではなかったが、一応一般の日本人なら、中学生ころに一度くらいは読んでいるだろう。そういう一般向けの公開講座であった。併し、参加者も少なくシニアが主でよく知らないが愛読者のようだ。講師も熱心だった。文学者は、作家の研究をする場合、先ず「文脈」を見るというのが印象に残った。例えば一葉であれば、名作がいくつかあり、駄作もある。一葉も書きながら成長もする。一般の読者は、名作だけしか読まないが、実は失敗作の中に作者の本音が見える。だから、全部読まないと作者の実像が捉えられないということだ。そして、その作品が、その時代にどう扱われたのか。同業者がどう評価していたか、どのような環境であったかも知る必要がある。それと、書かれている文章が、作者がどこから引用したものであるかを見ると、たとえば一葉の性格や趣味が見えてくる。何度も読むということは、ただ余計に読むのではなく、時間をかけて、文脈を読むことだという話だった。今朝、イザヤ・ベンダサン「日本人と中国人」を読み始めたが、山本七平の新鮮さは、時代に流されず独自の視点を持ちえたことだろう。日本人には、「交渉」の概念がないという箇所を読んで、こんなことは、どこの大学でも学ばないだろうと思った。ことばの遊びで終わればそれまでだが、どこにでも読む価値のあるものはあるし、ひとのはなしは聞くものだと思う。
2006.03.27
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暖かい一日で、PCを和室に移した。書籍や辞書など諸々も移動してやっと落ち着いたとこだ。障子を開けると公園とゴルフ場の松林が見えるし、もう直ぐ躑躅の鮮やかな色彩も愉しめる。20時からは「功名が辻」「ロンド」を観る予定なので早めにブログも片付けるつもりだ。杜甫について書こうか、ドーパミン・コネクションかで迷い。止めた。玄宗皇帝が前半生に示した政治への情熱を、33歳年下の楊貴妃への愛へと移してしまったころ、杜甫は、終生、不遇の書生であった。ドーパミン・コネクションは、ドーパミン異常が引起す様々な障害の要因についてである。ドーパミンの過剰と枯渇によって影響を受ける脳の場所で数々の病気を引起すのだ。どこかで活動過剰になると、別の場所にも波及して連鎖反応を起こすのだ。では、また。
2006.03.26
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遺伝子操作については、たいていの人が本能的に尻込みする。確かに危険はある。だが、時代遅れの道具をいつまでも使っているのはそれも危険だ。しかし、私たちが世界を変えるスピードに進化が追いつけないだろう。それは、自分たちが作り出した環境に適合するように、自らを変えていく時代がやってきたのではないだろうか何百万年もかけて発達してきた脳の複雑なシステムは、最近までとてもうまく機能していた。資源の乏しい世界では、快楽を求めたり、目標に向かって行動する時の報酬ははっきりしていたから、食べ物や獲物を得るのに、長い時間と労力をかけるのをいとわなかった。ところがいまや手間をかけずに手に入れることができるが、得られる満足感もそこそこでしかない。止むことのない欲求のとりこになっている人もいる。欲求の対象はセックスや食べ物、危険、薬物といろいろだが、どこまで行っても満ちたりることがない。アメリカの遺伝学者ケネス・ブラムとデビット・カミングは、この種の不満状態を報酬不全症候群と名づけ、多くの障害はすべてここに含まれると考えた。報酬系のどの部分(つまり脳のどこ)がいちばん関係しているかによって、かすかな不安やいらだち、見境のなさといった軽いものから、摂食障害、買い物強迫症やギャンブル強迫症、薬物、アルコール依存症まで程度に差が出てくるとした。脳の働きのどこかがおかしくなって、欲求をそらすことができないのだ。ある調査によると、4人に1人の割合で存在するという。おいそれとは治せない。つまりこの衝動には、脳が無意識的に果たしている役割と、非常に高度な役割が関わっている。それは、脳幹から前頭葉の皮質まで総動員されているからだ。(by Rita Carter)>新宮図書館周辺
2006.03.26
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エイリアン・ハンドは、脳の二つの領域のどちらか、あるいは両方に損傷を負ったひとに見られる。大量の出血や卒中が原因か、大部分は分離脳手術を受けたのがきっかけである。左右のうち支配的な半球は、左脳である。ひとつの頭には、ボスはひとりだ。これで全身の動きはスムーズに行なうことができる。ところがエイリアン・ハンドは、連絡手段がないと左脳は右脳を止めることができない。こうして左右の脳は、支配権をめぐって争うことになる。自分の右手に絞め殺されるひとは未だいないが。恐れるひとはいる。エイリアン・ハンドは、苦しんでいるひともいるだろうから、興味本位ではならないが、左右脳の存在を顕在化させるだろう。このエリア探検してみよう。久しぶりに、庭の清掃をしていた。もう暖かい陽光に汗を掻いた。草も伸びていた。元気なパンジーがいま盛んに咲いている。紫のペチュニアが、年を越して咲いている感激一入である。>年を越したペチュニアです。
2006.03.26
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外科医(50)による患者7人に対する「安楽死疑惑」が浮上した射水市民病院の院長は記者会見し、外科医は人工呼吸器を外したことについて「患者本人の直接の同意はないが家族の同意があった。患者のためにやった。尊厳死だ」と説明していることを明らかにした。とある。尊厳死で最も重要なのは患者本人の意思ではないか。それが文書として証明されなければならない。法治国家のこれが厳正なルールである。たとえば永田議員が起こした事件も混乱したのは立証できないからであり、これは論外の認識である。内容については、専門家が縷々議論されるだろうが、要は、市民病院の外科部長でありベテラン医師がかかる不祥事に係わっている現実ではないだろうか。医師は、識見の高い人物だと世間では勘違いされているのではないだろうか。報道では、日ごろ「責任感が強い」「真摯」だとか評価されていた人物らしいが、中味はこうである。おそらく自分が正しいと思えば世の中は判ってくれると多寡を括っていたのではないか。たとえ患者本人が同意しなくても家族が同意すればいいというのであれば末期患者の運命はどうなるだろうか。私は、この問題の根本には、医者の人間軽視にあると見ている。それがやがて病院全体の人間軽視意識になっているのではないか。そして医療全体の雰囲気にもなる。医者に取って、人間の尊厳をもつ人間ではなく、商品でしかないのではないか。今回の発覚も看護師長からである。医師の馴れ合いは、到るところで見られる救いようのないシンドロームかも知れない。少なくとも、こういう医師たちに、自分の最期は診て貰いたくはない。
2006.03.26
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これも昨日から調べているが、データが少ないので困っている。アメリカの心臓病学会で魚と野菜から摂るようにとのレポートがあるらしいが。理想はオメガ6とオメガ3は2:1だが、日本人は4:1で不足し勝ちらしい。これは、生オイルをそのまま食する習慣の無いのが原因とある。オメガ3脂肪酸は、不飽和脂肪酸で、青魚をはじめ、フラックス・オイル、シソ油、緑黄色野菜、豆類などから摂取できるが、意識しないと不足しがちだ。有効と思われる症状・イライラ・心臓疾患の予防・子供のキレ防止・中性脂肪・アレルギー脳の機能とも関連しており、不足するとイライラしたり集中力が欠如したりするらしい。最近の研究では、血液の改善や、心臓疾患のリスクの軽減、血中の中性脂肪の減少、アトピー性皮膚炎などの効果があるとのことだ。「サプリメント」は医師のモニターが必要だとある。カプセルタイプが製品化されているが、新しい報告があるのだろうか。中高年の健康維持や外食の多いひと、甘いものや辛いもの、酒が好きなひと向きだとある。オメガ3は、只今 調査ちゅうです。
2006.03.26
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昨日「K大からのお願い」との文書が届いた。生活習慣病予防を目指して、とある。社会医学講座予防医学分野とあるから調査研究の一環ではあるだろう。動脈硬化、がん、DMなどの生活習慣病の有効な予防・治療法の確立するためのようだ。cohort 研究とは、「前向き(将来にわたる)調査研究」をさすらしい。何故私なのか。住民基本台帳から選んだとある。調査内容は、1)生活習慣調査2)将来20年ぐらいにわたる4~5年ごとの健康調査3)生活習慣病と関係する遺伝子の解析(同意が得られる場合)緑茶カテキンとか飲酒調査もあるらしい。男性医師のコホート研究が成果がパンフに載っているが、時々飲酒で肝臓ガン1.5倍。1日2合未満でも2倍らしい。私は、あらゆる臨床データが足りないと思っている。やろうと思えば役立つデータはどれだけでも取れる時代だと思う。犯罪を懼れる余り貴重なデータが生かされないのは残念なことだ。動物実験にされては困るが生きている人間を調べないで、まともな治療などできはしないだろう。コホート研究は、大いに積極的に遣って貰いたいと思う。
2006.03.25
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左利きは、5%~8%。人類はじまって以来比率は変らない。右利きは左脳の優位と密接に関係している。左利きの人も70%は、左脳が言語活動をしている。残りの30%は左右両方の半球で言語処理をしているようだ。昔は、左利きは病気扱いされたりした。差別する言語も残っている。「ゴーシュ」「シニストロ」など、不器用な、不吉なという意味もある。聖書でも左手は邪険に扱われてもいる。(マタイ伝の福音書)この世に生まれてくる時には、既に利き手決まっている。妊娠15週目で殆どの胎児は右手の親指を吸っている。左利きについては遺伝だとする考えと胎児期に何らかのごく軽い脳損傷が関与しているのではないかとの考えがある。ニューロンのアポトーシスがうまくいかなかったか、或いは一部のニューロンが適切な位置にたどりつかなかった所為かも知れない。双子の20%とは、左利きで全体の割合より高いため、単生児の左利きは、双子の生き残りという研究者もいる。子宮内の限られた資源を争い、子宮損傷の所為で、左右の優位が入れ替わったのではないかという。ブリッテッシュコロンビア大の心理学者スタンリー・コーレンは、左利きの平均寿命は右利きより9年も短いと主張している。もしこれが正しければ、喘息、内臓疾患、甲状腺障害、近視、失読症、片頭痛、吃音、アレルギーといった発達異常、免疫系異常と左利きが関係していることになるという。(by リタ・カーター)左利きのなぞは深まるばかりだ。>今日図書館であった野良猫
2006.03.25
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支配権を持たないはずのパートナーが、相手を飛び越えていろいろやろうとすると本能のままに行動してしまう。「そのつもりはなかったのに、ついやってしまった」と困惑しながら思うだろう。充分な情報が入ってこないために、脳の片方しか働かないこともある。脳梁は1000分の1秒の単位で大量の情報を伝達している。左右の脳がどちらかが好む情報だと、反対の脳はぼんやりとしか認識していない。情報の行き来が中途半端な状態は、それとは知らず誰でも経験している。脈絡のないことばや、説明のつかない感情や、つまらないミスをするのは、左右の脳のコミューケーション不全だ。「あの人が気に入らない、どこと聞かれても困るけど」は、右脳は解っているが左脳がはっきり意識できないケース。「何かいやなことが起こった気がするけど、うまく表現できない」は、左脳が感知しても右脳が受けとめられないケースだ。気持ちがはっきりしなくても行動はできる。人間は右脳の直感だけで動いていることが多いのだ。私たちの周囲では、数え切れないことが絶え間なく起きているが、そのうち意識にのぼるのはほんの一部に過ぎず、残りはつかの間のエネルギーとして入って来ては何の印象も残さない。右脳では、一時的感情の変化が現れても左脳で意識されない刺激でしかない。思わぬときに何故いらいらしたり、理由も無く憂鬱な気分になるのは、中途半端な刺激が原因である。だから、好きな本を読んだり、お喋りをしたり、勉強をしているときように左脳の活動に没頭していると、不安や落ち込めは忘れられる。>FWU のキャンパスで。
2006.03.25
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最近になりコーヒー好きで一日数杯飲んでいるが、実は妻は、私の運転免許と同じでコーヒー歴が永い。それが、私の炒れるコーヒーが旨いらしく、催促されるようになってしまった。今朝も「まだ飲まないの」だ。ゆっくりしたいのに急かされている。さて、午前は、眼科で定期検査をして、電器店で血圧計を買い、それから図書館と回ってきた。人間の脳は、二つの半球が寄り添ってできている。左右の半球は、休むことなく親密に対話を続けている。ひとつの頭の中はふたりの人間が共存しているようだ。この社会は現在、物質主義と支配欲と無感動で組み立てられており、左脳に由来している。ユーモアはとらえどころがなく、すぐに消えてしまう。好みによるところが大きいし、高性能のコンピュータといえども、人間があらかじめプロミングしておかないとユーモアを発揮することができない。その意味で、ユーモアは左右の脳が両方関わる典型的なものだ。意外な結果をジョークと解釈できるのは、右脳が正常に働いているからだ。左脳が細部にこだわるのに対し、右脳は全体を把握するのが得意である。それは、長年連れ添った夫婦のようだという。どんなに複雑な作業でも、見事な連携プレーでこなすことができる。>今日借りてきた図書本。
2006.03.25
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小さい口に湯気が立つようなスイカやトマトを頬張りながら、腹が破れるくらい食べ、裸で走り回っていた。両親や親類や大人たちの愛情に守られて育った。それがどうであれ、それ以上の何が不足だろうか。私は、今ほど豊かな社会で教育を受けた訳ではないが、少しも恥じることはない。無知なのは自分であって、他人ではない。私は、自分は未熟であり、無知であり、欠陥車だと思っている。だから、日本人が国際社会から冷笑されるのを自分のことのように思えてくる。唯一心不乱に目標に向かって走っていたつもりが、実は、井底の蛙でしかない世界だった。まるで針の穴からしか世界を見ていなかった自分に気づいた時の虚脱感を忘れることができない。子供の数だけ子供部屋を与えることが正しい子育てだと思っていた。西欧型の教育はやがて破綻するだろう。むしろ独立した部屋など与えず、いやでも兄弟けんかをさせ、対話せざるをえない環境のほうが子供のためなのではないか。世界は狭くなっている。共存しなければ生き残れないのだ。個人でも国家であろうと独りよがりで生き残れないだろう。現在がどうでもすぐにも世界は変るだろう。要は、「どこへ向かうか」だろう。
2006.03.25
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現在確認されている神経伝達物質は50種類余り、・ドーパミン・セロトニン・アセチルコリン Ach・ノルアドレナリン・ダルタミン酸塩・エンファリンとエンドルフィン etc謂わば、脳の中に「精神の川」がある。脳内のこの化学物質は、化学反応でありながら、個性を際出させもする。ある物質は、喚起レベルをコントロールし、身体面の動機つけを与える。その物質の増減によって精神状態を変化させもする。気分が晴ればれにし、楽天的にもなる。睡眠や食欲、血圧にも関与する「幸せ」の物質となり、「快楽」中枢とも呼ばれたりする。学習や長期記憶を受け持つニューロンの結びつきを強めたりする。気負わず遣りましょう。「インドガンのヒマラヤ越え」があるかも知れない。
2006.03.24
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FWU公開講座「一葉」最終回。「わかれ道」、「裏紫」(未完)。I文学部教授。講義しか知らないが高校教師の経歴があるらしく、スパイラル人生のようで、熱心で文学に対する情熱もある。私見を交えての講義は面白い。今日は、女性10人、男5人が受講生。4月から芥川の講義が始まる。期間は1年。同じメンバーが参加予定だ。講義・「たけくらべ」→ 「わかれ道」・「十三夜」 → 「この子」・「われから」 → 「裏紫」モチーフが同じで、共通点があること。読み比べる必要がある。比較することによって作品や、一葉に対する評価が変るかも知れない。「わかれ道」の、お京の心がわざと暈かされているのは、一葉の意図がある「何故、妾に行かねばならないのか」が書かれていない。吉三の説明に「一寸法師」という差別用語が使われている。当時は深刻小説、悲惨小説が流行の時代で「にごりえ」もそのジャンルに入る。女性への差別も同じだ。吉三は、「ブリキの太鼓」のように、自分の成長を望んでいない。変ろうとしまいとする。私は、ピーターパンシンドロームを思い出した。お京は、変ろうとする。それが、妾になることなのが時代性だろう。お京は20歳で、吉三は16歳の設定である。姉弟のようにしているが、二人の「わかれ道」が来るのだ。お京と吉三は、二本の線路のように交わることがない。おそらく何年経とうと二人は恋愛関係にはならない。女は、成熟した大人の女であり、吉三には、止める力はない。私は、どちらが別れようとする「わかれ道」だろうかと思った時、やはりお京だろうと考えた。「裏紫」は、未完だが一葉が「姦通」を扱うだけの大人の女性になっていることを示すものだろう。死を目前にして作品ごとにこころの成長を見せる一葉がいる。一葉は、最早文学少女ではない。女流作家になっている。不倫とか姦通とか、表立った表現は明治という時代から避けたとしても、私は母性がもつ強かな戦略を考えてしまう。女性がもつ野性はいつの時代も簡単に解されるようなものではないだろう。恋人や夫をも裏切る本性は、動物でも、小鳥でもある。いつの時代も「いい男」を見ているだろう。
2006.03.24
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或る科学者は、証明するように迫られて、彼が出したカエルは合図をすれば飛び上がるように訓練された。まんまとカエルはジャンプしたあと、科学者はカエルの足を切りとり、カエルにジャンプするように命令した。「そして、ほら、お分かりでしょう。カエルは私の声が聞こえないのです。」科学者は、とかくこんなワナに陥り易い。ただ一つの病気を治そうとだけして、もっと重要な病気を見過ごしてしまいがちだ、「手術は成功して、患者は死にました。」を平気で遣る。患者が本当は何を要望しているかを無視しがちである。自分が幼稚な哲学しか持ち合わせていないことを知られまいと、懼れているようだ。人間の尊厳さえ理解できない医者がメスを握っているかも知れないだろう。彼らは、哲学者ではない。ただ複雑な手術工事を請け負っている請負人でしかないというだろう。この社会の捩れ現象は、志の低いものが大きい顔をしていることだ。質ではなく量で評価されるからでもある。相対評価しかされないからだろうか。だから、誰も信用しない方が長生きできるだろう。人をすぐ信じてしまう人間は、妻や子や、上司や友人から裏切られるだろう。そして、先ず自分の愚かさだけが問われるのである。信じる奴が莫迦なのだと。
2006.03.24
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デカルト的二元論はその後も生きながらえて、現代の私たちの思考にも浸透している。しかし精神と脳の働きはひとつのものだという主張がなかったのではない。脳のマッピングは、人間の手に負えないと思われただけだろう。さて、これから用事があるので出かける。そのあとむさくるしい頭髪をカットして、ランチをし、FWUの一葉の最終講義に参加する。
2006.03.24
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昨日夕方和白干潟を見ようと少し歩いて来た所為だろうか、22時過ぎには寝室にいた。ところが2時ころ妻が眠れないと起こされて焼酎が呑みたというので付合ったためか、朝方妙な夢を見ていた。少し寝過ごしてしまった。こんな時のネタ本は、UT生物学シケプリというのがあって「進化とは集団内の遺伝子頻度が時間とともに変化する過程」というプリントを見たりする。恐竜が絶滅することも進化。変らないことも進化。natural selection とは変異のある遺伝形質に淘汰がかかること。このシケプリは、シンプル イズ ベスト理論・生物には生き残るよりも多くの子が生まれる・生物の個体には同種であってもさまざまな変異がある・変異の中には、生存や繁殖に影響を及ぼすものがある・そのような変異の中には親から子へ遺伝するものがある・→生存や繁殖に有利な形質が集団内に広がる「生存するだけではダメ繁殖しない遺伝子は次世代に伝わらない」人間は、このように生かされているのだ。自然淘汰には目的はないし、進化は価値とは無関係である。自然科学者は現在そう考えている。時代が後になるほど複雑な生物が生まれるのは当然しかも高等であるわけではない進化的に身に付けたものを失う「退化」も進化である。どこまで、夢なのかわからないが、不確かな揺らぎの中で私たちは生きているだろう。
2006.03.24
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何年か前に来た私立和白病院が、最近建替えて屋上にヘリポートを付けている。離島対策であろうが、活用がどれほどあるのだろうか。これまで数ヶ月経過しているがヘリの発着を見ていない。どうも看板効果なのだろう。マスコミを利用した宣伝らしいことがあったりしているのも気になるが要は治療行為の質だろう。医療レベルが高いと思えないが、近くの病院で大抵のことは我慢しなければならないが、時によっては生命にかかわることにもなりかねない。ある意味幸運や不運があるだろう。それが地域差があるとすれば問題でもある。医師の医療行為レベルの評価もまちまちで中々解り難い。専門医同士では、学閥や派閥があって、部外者だと到底わからない。態々、あちこち病院を渡り歩くというのも空しいものがあるが、医者を選ばないと何をされるかわからない。病院も経済主義の時代だ。>屋上ヘリポートのある和白病院
2006.03.23
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成人するころには、その人だけの精神の地勢図ができあがる。だから恋人どうしで映画を見ても、感じ方はまったくちがう。映画のなかで認知するところもちがえば、そこから連想される個人的な思考や記憶も違うからだ。脳の内部環境は、つねに新しい刺激を求めていて、この情報に対する貪欲さは、脳の基本的な性質のひとつであり、それは人間の見せる基本的な反応でもある。目は脳幹がコントロールしており動くものであれば、それを追いかける。それは、向日葵が太陽を追いかけるのと同じで意識的なものでは全くない。それでも、死んでいるに等しい人間の目で追いかけられればいい気持ちしないだろう。生まれついての性質と環境から受ける影響が交錯しているために二つとして同じ脳は存在はしない。双子もクローンでさえも、胎児期のちょっとした違いが、脳の発達に影響を及ぼすため、生まれてくるころには独自の脳を持っている。脳の始まりとは、胎児が成長する過程で、のちに背推になる神経管の上端がふくらんだものだ。生まれるころにはおとなと同じ1兆個のニューロンができている。ただし、新生児のニューロンは未成熟である。少なくとも新生児の脳の配線は、子宮内の環境が大きくかかわっている。妊娠中にカレーばかり食べていた母親の子どもは、スパイシーな食べ物を好む傾向がある。母親の血液に溶け込んだカレーの香辛料にさらされて好みが形成される訳だ。女の子がお喋りが上手で、男の子が空間的な作業が得意という典型的な性差は、胎内のホルモンシャワーを浴びた胎児の脳が形成されるためだ。そして、アポトーシスの未完成が精神障害の引き金になり、不必要な細胞の間引きの過程で「サヴァン症候群」「ダウン症候群」が発生してしまうらしい。脳のなかには、成熟するまでに成人までかかる前頭葉があり、青少年が年長者にくらべて感情的、衝動的なのはそのためだといわれる。
2006.03.23
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やっと開花宣言が福岡であった。それでも例年より少し早いそうだ。あちこちで桜が見れるのは愉しみだ。今日から高校野球も開幕したし、身体がむずむずしてくるようだ。リタ・カーターのブレインマッピングの本は、いつ読んでも勇気が湧く。脳について知ることを嫌う人が意外と多いのは不思議なことだ。その性質を知ることは寧ろ不可欠だろうと思う。複雑な社会になればなるほど脳の複雑系が必要なのではないだろうか。一度に数百万種類の活動を並行して進められるダイナミックなシステムは、脳しかない。その脳をコントロールしているのは、電流と化学物質だが、もうひとつは、謎めいた振動がかかわっているらしい。それは、時間をゆがめているという量子効果かもしれない。脳は飽くことなく自らの特質を探求しつづけているのだ。すべてを理解することが不可能かも知れない脳の性質に挑んでいる姿は、ひとの大本ではないだろうか。リタはいう。「私たちの頭のなかに広がる世界は、どんな奇想天外な夢物語よりも、はるかに驚異に満ちている。」「ナルニア国物語」のBBC製作ののDVD をレンタルしてきた。テレビ版だが、イギリスのファンタジー好きの本領がよく分かるだろう。
2006.03.23
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虱を飼う男と虱を喰う男という不可解な男が出てくる。やがて、船の上の男たちは、二派に分かれて争うようになる。この二人の屁理屈に呑まれたのだ。寒風吹き荒ぶ冬の船上で、然も、待つのは長州征伐という戦場なのだ。虱は「主に哺乳類の皮膚に寄生し、血液を吸う。」戦後育ったので、虱はお馴染みだったが、もう知らないひとが多いことだろう。蚤とは違う。これは外部寄生し、血液を吸う。これら寄生虫も生物である。犬が死んですぐぞろぞろと湧いてくるように出てきて気持ちが悪くなるようだが、これも生態だと感じたものだ。「船中の侍たちが、虱のために刃傷沙汰を引起している間でも、五百石積みの金毘羅船だけは、まるでそんな事には頓着しないやうに、・・・雪もよひの空の下を、西へ西へと走つて行った。」とあるから、芥川は、日本の社会を言いたかったのだろう。屁理屈を言い立てたり、くだらないことに感けている間に、一生は終わるかも知れないのだ。死地に赴くときも争う男たちは滑稽だが、そればかり繰り返しているのは現在も変らない。いまの、日本の政治にも云えるかも知れない。
2006.03.23
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現代に於いて勝ち負けだけで生きようとしてもすぐにも寿命が尽きてしまうだろう。世界はそんな時代ではない。自分よりも優れた人間は多勢いて社会は稼動している。いまや情報をより多く手に入れる者が増えているのだから。より新しい武器を手にした者たちが、徘徊してもいる。海外留学して手に入れるしかなかったネイチャー・イングリッシュの時代ではなくなっている。下手に争うのは、馬鹿げている。然し利巧な人間が増えても、世の中が良くならないのは、PCに頼った偏頗な利巧さだからだろう。自分の頭を使わない人間は、アクション・フレームワーク・レフェファレンスを破れない人間になりがちだ。そして、この地球を何れ戦場にするだろう。「歯滅びて舌存す」とは、剛強なものが先に滅び、柔軟なものが後まで生き残るという意である。老子恐るべし。時々、世の中のことが腹立たしい。「勝手にしろ」と云いたくなるが、「早牛も淀遅牛も淀」とかや。なべて、今朝もわが身は静かなリ。
2006.03.23
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FWUの12回目最後「一葉」講義で「わかれ道」「裏紫」が、今週予定だ。明治29年2月「裏紫」は前半を「新文壇」に掲載された。一葉は4月肺結核の徴表われる。そして11月23日午前、奔馬性結核で死去。25日送葬、会葬者はわずか10数名の寂しいものであったという。法名 智相院釈妙葉信女。「裏紫」は、「ザ・一葉」に収録されておらず、プリントで読んだが、良人を裏切り、嘘をついて、家を出るところから始まっている、「何と言ふ悪者の、人でなしの、法も道理も無茶苦茶の犬畜生の様な心であろう。この様ないたづらの畜生をば、ご存じの無い事とて天にも地にも無いかの様に可愛がつて下すつて、私が事と言へば御自分の身を無い物にして言葉を立てさせて下さる思し召。有難い嬉しい恐ろしい、・・・。」女心の野生という遺伝子をもった明治の女を、一葉は、どう描こうとしただろうか。一葉は、数え25歳で急死する。過大評価する訳ではないが、一葉の視点は文化的な価値としても貴重な意味を持つ。それを社会は、見放し続けて見殺しにしたのだ。日本のこの稚拙は、女性解放運動に向かうだけで、その核を見失っていたのだろうか。女性が、自分の性の遺伝子を知らないのだろうか。自分の良人では満足できない思いは誰にでも起こりえる。そのことに対してどう向き合うかを学ばなければ、この悲劇はいつまでも続くのだ。一葉は、この課題を前半しか書いていないが、継承すべき、世間からは無視された遺稿のままだ。外見だけを飾るよりも、魂を揺るがすような表現力をもった気高き女性文学者が出て来ないものか。見せかけではない現実を見据える視点がなけらばならないだろう。そういう女性が、雨後の竹林の筍のように出てきて欲しいものだ。
2006.03.22
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生まれたのは中国の青島だけど戦後引き揚げて、熊本で育ち、大阪、横浜今は博多で暮らしている。どこも同じだったけど、考え方や、ライフスタイルは変ったでしょうね。若いころは、時代は変ると云ってきたが、今もおなじ事を云っているかも知れない。若いころと、年をとっても同じというのではなく、コンテンツは違うだろう。ここは日本で、あちこちで、夫々のステータスで、環境も人間も変ったけど、生い立ちで考えも違うだろう。違う生き方もできただろうけど、まあ臆病かも知れないが、肯定だけではないがそれなりに遣ってきた。ここバブル崩壊からの10数年は、政府も無能さを顕在化させたけど、その見返りはこれからだろう。いいも悪いも同じ痛みを共有するのだろう。都会でも暮らしたけど風は吹いてもそよかぜが吹くことは無い。時々、素足で歩く、田んぼの土の感覚や、下駄で歩く感触が懐かしくなったりした。手入れされた公園の木立の微風しか知らない都会の人は可哀想だと思ったりした、というよりそこにいる自分が憐れに思えた。小さなことのようだけど、自分の環境で人びとは死期を早めているのではないか。長生きしたところで、無為な人生であれば価値もないが、これからというときに時がないひとは情けないだろう。これから暖かくなり、窓を開け放して、そよ風を感じながら好きな本を飽きるまで読んで、まどろむことができるとしたら、あと何もいらない。人は欲が深すぎて、墓穴を掘っている自分に気づかないかも知れないと思ったりする。ふるさとは、素足で歩く。
2006.03.22
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「フラッシュ・ダンス」の中で、中年のダンサーが、「若いころは、私も輝いていたわ、全部衣装に注ぎ込んでいた。でもある時から止めてしまった。」いま、ひとりで、家にいて「蕎麦」を作り食べている。気楽でもあり侘しくもあるが、これが今の自分なのだと受けとめざるを得ない。1年前と、全く違う生き方をしている。思えば、多くのことや人たちと出逢い別離を繰り返してきた。その人たちと永遠の別離をしたひともいれば、多分そうなる人たちも多いだろう。何かを棄てながらまるでロケットのように燃料を燃やし続けているかも知れない。死ぬ時だけが寂しいのではない。いつも寂しさが付き纏い離れないのは、別離があるからだろう。もうあのがむしゃらなわがままな自分はもういない。どこかへ消えてしまった。あんなに近く若い女を感じた時も、大学で学部賞を貰った時の感激も無い。過去は何の力にもなりはしないのだ。刺激は鈍磨して行くのであろう。酒を飲みたくなった。誰も、夫々の人生を懸命に生きているだろう。それを他人がどう思おうとかまわないが、自分が何ものであるかを知らねばならないだろう。それだけだ、お別離だけが、人生だ。>近所の海。
2006.03.22
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一葉「塵中につ記」より、「・・・かひなき女子の、何事を思ひ立ちたりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。かすか也といへども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず、天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけじめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこころざしは、国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のえじきに成らんを期す。・・・。」碌に教育を受けていない一葉が、明治の世で、女流小説家になろうと決意したのは、数えで20歳の時である。過酷な環境と貧困と偏見が渦巻く時代にここだけが陽光が射したように輝いている。やがて金子みすずも生まれている。どこかでみた詩を思い出す。・・・ではさやうなら仏さま地獄は一定わたしたちのすみかださうでございますから思えば、わたしたちの目は何ものも見えていない節穴だろうか。見ようとしないだけなのだろう。我ことの悩みや哀しみの涙で溺れようとしているだけなのだろう。どこが痛いとか、苦しいとか、メランコリーだとか、何だとか、いう前にすることをして、ひとりの人間として、立ち上がりたい。
2006.03.22
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一葉の目で作品を読むことは並大抵ではない。一葉の目線は、上を見ていない。唯文学への思いは感じられるだろう。年譜を見ると明治16年高小を首席で卒業する。困窮のため進学できなかった。一葉12歳である。16歳から日記を始める。「塵の中」で、「・・・只利慾にはしれる浮よの人あさましく厭わしく、これ故にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥の様にぞ覚えし。十二といふとし、学校をやめけるが、そは母君の意見にて、女子にながく学問をさせなんは、行く行くの為よろしからず、針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせんとて成き、父君は、しかるべからず、猶今しばしと争ひ給へり、汝が思ふ処は如何にと問ひ給ひしものから、猶生れ得てこころ弱き身には、いづ方にも定かなることいひ難く、死ぬ斗悲しかりしかど学校は止めになけり。・・・」もし、学校を止めず進学していたら、どうだったであろうか。明治中期に生きた時代の女子が、ここまでの仕事をし得ただろうか。一葉の視点は、誰もその身にかえることのできないものであろう。一葉には、明治は、「塵の中」でしかない。しかし自分を、「猶生れ得てこころ弱き身には」と分析しているのだ。そして、平成の現在が、まだ「塵の中」だろうか。時代が変わろうと変わったものも多いが変らないものもある。一葉の視点と決意があればこそあれだけの作品が生まれたのであろう。奇跡は、非常時でなければ生まれないのであろう。だらだらと過すものには到底感じられない境地であろうと思う。一葉の文脈を探す旅に何れ向かいたい。消えないうちに。
2006.03.22
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市中の俗人。「俗人」とは、世間一般の人。僧でない世俗の人。風流を解せぬ人。学問のない人。仏の道や聖人の道をさとらぬ人。の意だ。広辞苑で、語彙を調べると、如何に現代の私たちが、間違った文章を書いているかがよく解るが、解り過ぎて文章が書けなくなりそうだ。というよりも殆ど正しい文章など書けないだろう。まず基礎がないのだから、できるはずもないだろう。何のために広辞苑があるかといえば、正しい文章を書くためだが、そのことを所謂「市井の人」は忘れているだろう。昔は、僧は学問のある人だし、仏の道を悟った人だったのだ。そうでない俗人は、学問がなく仏の道を悟らないひとのことだ。広辞苑のここで云う学問とは、狭い意味でしかない。謂わば古代の学問であろう。それでも、どちらが本当の学問であろうか。私には解らない。市井の人で、俗人でいることが、価値があるかなしかは時代が決めるだろう。
2006.03.21
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NST活動に関する研究会に偶然参加して感じたことであるが、若手の研究成果の場がかなり厳しい状況にあることだろう。先ず、医者たちは忙しいのが彼らのステータスでも在り、セクショナリズムに身動きできないことを当然とする雰囲気さえある。これは長年の伝統でもある。否因習だろう。自分たちだけの医学会がすべてと思い込んでいる節がある。くだらない。頭のいいことと利巧なこととは一致しない証明でもある。それと世間知らずだということだ。それがエリートだと思っているとしたら、「井底の蛙」でしかない。研究会の質疑で話題になったのは、ベテラン医師ほど自分の目先の仕事しかしない「木偶の坊」だという指摘だった。将来のために若いインターンに手伝って貰うのだそうだ。ドクターは、どこでも自分本位で、協力してくれないらしい。病院でも過当な労働をしているのは若手医師だろう。急がし過ぎて、遣りたい研究もできないという口実だけが空しい。できなければできるようにすれば良いだろう。砂漠の中で独りではないだろう。くだらない報告会をいつまでつづければ気が済むのだろうと思ったものだ。
2006.03.21
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