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卑屈なる根性を根絶し、「自主自由の真意義」を自覚し人間としての真価を取り戻すべきだと宮崎 touten は論じた。「ワマカシ」(肥後方言)とは、人間本来の自由をみずからのもとを取り戻すための、因習への反逆であり、時代風潮に対する反抗の精神である。 「己れを馬鹿にし了って而して人を馬鹿にし世を馬鹿にする」 当時の肥後藩は、朱子学が盛んで「屁理屈」が多く「小党分立」し、いがみ合っていた。「偽善」と「虚礼」で鼻持ちならない風潮があったなかで、一部には反骨の精神の気風も育っていた。 そのころ永山という権勢を驕る男がいて、横にいざるようにして歩き、コシで出かけていた。 「永山は一人か、つれしゆ(衆)はないか、つれしゆァあとからコシで来る、 キンキキラ(綺羅)キンの蟹政(ガネマサ)どん、 蟹政どんの横バイバイ。 」 当時大流行したこの歌をある子供が歌っているところにばったり行き合わせた永山はカッとなって無残に斬殺した。このように、藩公の威光をかりた権力がとぐろを巻いて閉塞感が漂ってもいたのだ。 この「ワマカシ」の潮流が、明治に入り、一方で「神風連」事件となり、このあと精神は徐々に堕落したが、個性的な熊本人である、蘆花や蘇峰など、の人物たちも輩出した。 私も熊本で育ったが「ワマカシ」ということばも伝統も、知らない・ただ「モッコス」ということばは、残っている。意味的には近い意味であろう。 世界中どこも不親切なのだ。それをツアーに行って理解することになる。日本人は日本人にはふつうは親切だが、これもいざとなるとどうなるか?アウトローに対する目は厳しくなる。外国人が、敵ではない限り、平和な時は親切にできるだろうが、事態が変わればわからない。日本は治安が良いと言われているが、犯罪は増えているのではないだろうか。しかも凶悪事件が多い気がする。どうも刹那的な風潮があるのではないだろうか、そして頽廃的でもある。めしが食べれ無くなれば人格も変わるだろう。なぜ避難民は欧州に行くのだろうか。ちゃんと理由もある。貧富や格差社会の根源が世界史の中に刻まれている。私たちは卑屈な根性を植え付けられてもいる。それはすべての悪のルーツでもある。
2016.03.31
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汚職やカネに絡んだ犯罪が世に溢れている。金権主義が背景にある。犯罪は後を絶たない。悪いと知って遣るのだから、罪は重い。僅かなカネでも100億円近いカネでも構成要件には違いが無いが、真面目に働いてギリギリの生活をしている者たちが重い納税に苦しめられているのに、平気で脱税や犯罪を繰り返している連中がいることだ。犯罪と判決されないが悪人は大勢いる。 ・卑劣な人間を許すことはできないが、それを一々捜し出して、処罰していたらこの社会はどうなるのだろうか。カネの力で、尊敬されたり軽蔑されたりもする。カネさえあればと考えてしまいがちだ。厭な世の中だと言えばそれまででしかない。ダラニ集に gate gate paragate parasamgate bodhi svaha. 厖大な般若経典の一部分が般若心経になったとある。末尾にあるフレーズが有名なダラニだという。こんな世の中だからこそ、心に響くものがある。
2016.03.31
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セロトニンはヒトを含む動植物に一般的に含まれる化学物質で、トリプトファンから生合成される。(Wikipedia) 集団で行動する生物には、皆で行動する時にセロトニンが出ているらしいという記事を見つけた。一匹で行動するときはそれがなくて、集団行動するときに出るらしい。ということは、集団行動はやはり嬉しいのだろうと思った。人間にもより大きな木の下にいる時そういう感情を持つのではないだろうか。勿論でない人もいるだろうが。人間行動も脳の化学反応でしかない。 ・仕組まれた罠の中を歩いている。容易にそれと気づくようなチャチなシステムではない。やっとそのことに科学は目覚めつつあるのだろう。世の中を騙そうとする人間が後を絶たない。アメリカの金融界でも生き馬の目を抜くといわれる世界でも、やはり騙す人と騙される人がいる。煽てられると阿呆になるからだろうか。それとももともとそういうふうに脳ができているとしか思えない。 ・へ2・・・企みのある生物世界があるのだ。他のものを餌にして生きている。鳥にだって托卵がある。眼を皿にして生きていないと、見る目がなくなるかも知れない。すべてが終わってからでは遅いのだ。他人を騙して自分だけはいい目に会おうとしている人間が如何に多いだろうか。それとも、猫を被るだろうか。それは知りませんでしたというに違いない。現代日本も危ない政治の選択をしてはいないか。
2016.03.31
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どうも目が暗い方を見てしまう気がしている。探せば明るさはあるだろうが、どうも怪しいものばかりだ。選挙に当選して勉強して政策を考えますというような、素人の連中が政治をしているのだから、問題の本質まで理解するまでに周囲から騙されるのが落ちだろう。そうかと思えば何十年も政治家をしていて進歩のない政治家もいる。あちこちで法螺を吹いてそれで政治家のつもりでいる。他人に愛国心を説きながら、自分は逃げ回っていた昔の陸海軍の上層部と同じことだ。国民の不信感は容易に拭えそうにない。 ・仮想の訓練や作戦ばかりしている自衛隊員たちを指導している者が、それこそ大相撲の稽古部屋のつもりでいるのではないだろうか。たらふく食べさせ、体を鍛えれば、国家のために犠牲になる愛国心ができると思っているかも知れない。それこそ、馬の前に人参で隊員募集しているのではないのか。資格が取れるからと騙してはいないとしても、どこか不純でさえある。防衛大に入学して、かなりの卒業生が別の道を歩くと聴いたことがある。どちらが騙しているのか知らないが、そんなことで、安心せよというのではないだろうか。 ・へ2・・・国民を騙しだまししながら、列強からの侵略を図らねばならなかった時代も確かにあっただろうが、それをいつまでも続けられると考えているとしたら、大間違いだろう。確りした課題を与えないから、人間は堕落するのではないか。それは、未来を感じさせる人間たちが日本から消えているからではないだろうか。目先の利益で、走らせようとする姑息な考えからだろう。人間は、どれだけでも可能性があるだろう。その能力をどうしたら引き出すことができるかだ。クジラくらいの夢を持たなければ、メダカにもなれない。
2016.03.31
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物事を俯瞰的に見るという習慣がないのだろう。個人的な豚小屋の理想で終わろうとする。彼奴がどうとかばかり言っている。真理を知ることは、一生をかけても出来そうにない。不可能は困難とは違う。できないことをいくらしてもできないからだ。その執着を棄てられないでいる。アインシュタインのことば深淵でもある。 ・なぜ建設的なことができないのだろうか。愚痴ばかり言っている。これだけ悧巧な人間がいるのに再建や復興できないのだろうか。間違いを修正できないのだろうか。消耗ばかりしている。口ばかりの人間ばかり増えている。スキルもない人が上に立っている。なにが大事かを忘れている。計算高い人間が威張ってもいる。権力や権威に弱い奴では、これからはやれなくなるのが解っている。 ・へ2・・・政治家も、公開の外交能力や教養試験をすべきだし、資産の内容を公開しない人間など必要ではない。公正な人間でなければならない。世界観や、歴史観やさまざまのテストをしてみるべきだ。世論の厳しい評価に耐えたものでなければできないことばかりある。議院内閣制は過去の遺物だ。インターネットの時代に相応しくはない。、増税しか考えられないような官僚機構も廃止すべきだろう。何が大きく狂ってきている。
2016.03.31
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気持に敗けてしまう。自分だけが強いのでも弱いのでもない。あるがままでしかないが、その時で、感受性が異なるらしい。追い込まれないと自分が解からないところはある。勇気を出せるかどうかだろう。ひとはミームを包含している。それが臆病になったり、英雄にもなるのだ。その時、自分はどうするだろうか。 ・人の評価は、その時、どんな行動をするかで決まる。日頃何を考えているかだろう。9.11でアメリカはどうしたか?3.11で日本は、どうしたのか?露呈したものは現実だろう。その時、恥ずかしくない行動がとれるか。自信はない。それでも決意だけはすべきだ。日頃、我慢強く生きることを学ばねばならない。痩せ我慢ではなく、贅肉を付けないだけの鍛錬をすべきだろう。 ・へ2・・・放射能で汚染された土壌をどうするか、狭い国土で日本は苦しまねばならない。原発54基の問題は深刻な問題だが、それを招いたのも政治と経済の所業でしかない。責任を負うのは自分たちではないと思うから、言い逃れをしようとする。卑劣なことをして恥じないような人間もいる。 その時のその苦しさに耐えられないと思ってしまう。それで人生を台無しにした人がどれだけいただろうか。魔女裁判で、火刑にされたくなくて、罪もない人たちを道連れにしたと言われている。恐怖が人を狂わせる。恐怖政治の恐ろしさは、そこにいなければ解らないのだろう。中国の皇帝が自分一人では死ねないと大勢の女を道連れにした例もある。なんとも悍ましいことだろう。
2016.03.31
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これからの、人間の魅力とはその「新鮮さ」にあるのではないか。どこにあるのだろうか。これをみな探している。追い求めている。渇望してもいる。どこにあるのだろうか。恐らく、身近になる。それに気付いていない。誰かがそれに気付く時が来るのだろう。既成概念で、権力や権威では証明されるものでもない。コペルニクス的転回になる。それは、清潔さに似ているのだろうか、或いはその逆だろうか。 ・太宰は無頼の作家だったが、その中に「清潔さ」を見た勘の鋭い女性のようなひともいたのだろうし、梶井の中にも心の奥に「すこやかさ」をみたのではないだろうか。ひとは一般の評価とは違う「新鮮さ」や「新しさ」を求めているのではないだろうか。それは、閉塞した時代にこそ高まるのではないだろうか。すべては、汚れてしまった世界観や価値観の上に成り立つ社会である。汚染されたものが充満している。環境は破局へ向かいつつあるのではないだろうかという絶望が感じられもする。 ・へ2・・・危機を感じ絶望したグループが暴走する鼠がいるという。闇雲に走り出してしまうのだろう。それに付いて行こうとする鼠たちがいて皆死んでしまうのだ。怖ろしいことだが、人間も同じ動物であることを忘れてはならない。理屈ではない行動をしてしまう人たちがいる。逆上した動物が何をするかは分からない。そのために絶えた種もあるかも知れない。「新鮮さ」の匂いのする者たちが、私たちの中にいるだろうか。それを見分ける力があるだろうか。少なくともそれは二つの目では見えないのだろう。眼の奥にあるもので見なければならないのではないか。
2016.03.31
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多くの日本のサラリーマンがそうだとは思わないが過当競争に追い込まれ、やがて燃え尽きるということに、どこか切ないものを感じるとしたら、それは何かで目にしたことでもあるのだろう。自分にもその経験があるかも知れない。そうなるまいと努力はしてきたが、いくつかの痕跡を隠すことはできない。笑えない事件がつづいていた。それはバブル崩壊にともなう敗残兵だっただろうか。いまだに消えない悪夢だっただろうか。 血流が止まり出して悲鳴の上がるような痛みを何度も感じたけれど、それが自分の会社だと気づくのは遅くなるものだ。その度に否定しようとしたからだろう。ただ私は未経験ではなかっただけだ。企業が破綻するときの、放漫経営を小規模ながら見ていたからだ。企業もひとも、ある相似したものがあるだろう。ものが尽きて倒れるのだ。 よく見れば解ることがあるだろう。それを見ようとしないだけだ。死病に対する多くの患者の受け止め方も一つのパターンがあると訊いている。最期は受容しなければならないだけだろう。燃え尽きるのにも早いか遅いかの違いだけなのだろうか。サドンダイが話題になるがそれが自分のことだと気づくのはいつも手遅れだろう。まさか自分がそんな莫迦だとは誰も気づかないだろう。そうして死んだ人は身近にもいるだろうに。 しっかり物事をみていないのは、そうさせまいとする力があることを忘れてはならない。罠に落ちたものがそれと気づくような簡単な装置であるわけがないだろう。自分で努力をしないで解るような社会ではない。解るものだけが解ればいいのだろう。 写真を観て、分るものは分る、がわからなければわからない。書き手の意図がどこにあるか想像できなければならない。イメージできないものに明日のイメージを描くことはできないだろう。段々と自分の体がシンメトリーではなくなっていくようだ。ヘイフリックの限界がじわりと近づくだろう。今すぐ死にたくないから現代医学にすがってもいる。信用はしないだけだ。「薬は毒だ」と言った薬剤師がいた。汚染された環境がどれほどのものか知っている研究者たちはどこにいるのだろうか。
2016.03.31
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トルコは、東洋と西洋の境界に位置しており、歴史の荒波を受けてきた。それこそ建設と破壊を繰り返してきた遺跡が到る所にある。トロイ遺跡も9層の戦場の跡地でもある。世界は常に戦争の絶えることのない荒野でもある。私たちはその子孫でもある。庶民にとって日本もこれまでどの時代も穏やかに生きていたのではない。 ・日々は命懸けの修羅場を生きていたのだろう。そして私たちもある意味で、愚かさの中で同じことを繰り返しているに過ぎない。宇宙に対するヒューマンスケールから考えれば、取るに足りないことばかりでしかないのだ。もう笑うしかないけれど、夢のまた夢なのだろう。 ・へ2・・・1回数時間しか眠れないらしい。寝ても起きていてもあまり変わりはないが、一日10万の神経細胞が消えていると思えば、眠ってもいられなくなる。時間はどんどん過ぎている。誰にも私の思いは通じないのだろうが、言いたい思いはある。
2016.03.31
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外の世界には多くのドラマがあるだろう。少なくとも日本より世界は何百倍も広い。知っていることを何回確認しても仕方がない。違う世界を知る方が新鮮だ。どんどん新しいものを取り入れていけばいいだろう。何が待つかわからないが、少なくともそうしなければならない必然性があるだろう。もうそういうステップの時だと思う。 捉われずに両手を伸ばして触るものを感じるべきでもある。誰も認めてくれなくてもいい。自分を信じるべきだろう。自分の感触を誰にも分ってはくれないからだ。自分のペースを守るべきだろうと思う。型に嵌らないことだろう。この社会は、自分を生かすのは自分でしかないだろう。他人に期待してはならない。
2016.03.31
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L・H・ガンは日本とナチズムの違いを広域経済圏構想を基礎とする強烈な拡張主義的態度によって引き起こされたとしながら、ともに担い手は陸軍であったが、日本人は、よりよい世界を作り出すという名目の下に民族的な大量虐殺に邁進したのではない。これに対してナチズムは、アーリア人種というもっとも高貴な民族が支配する帝国を樹立しようとする千年王国的信条であった。 実際には日本人は中国人やフィリッピン人に対して残虐な殺戮をし、「従属民の皇民化」の衝動は日本の優越性の前提に基づいていた。しかしなお彼らを勝利者に仕えるか飢え死にをするしかない、人間以下の存在に過ぎないと考える日本の理論家はいなかった。ヒトラーは正統なん君主であり、サンキュロットであったという。 日本人の国民性をめぐる議論は、欧米の目からみた一定の客観性を帯びているものだろう。しかしはたして正鵠をえたものだろうか。アーリア人の優越は、日本人のアジア人蔑視とどこが違うのだろうか。よくわからない。理由が何であれ、圧殺される側からいえば同じではないのだろうか。精緻な分析は、時として都合の好い論理をも生んでしまうのだろう。
2016.03.31
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レイチェル・カーソンは、しばらく使っていなかった感覚の回路をひらくことが、如何に大切か、を説いています。「それが、見慣れた風景だとしても、自分自身に問いかけてみて、もし、これが、今まで一度も見たことがなかったとしたら? もし、これを二度とふたたび見ることが出来ないとしたら?」 私たちは、多くの人が科学的知識をもたないまま、自然に接していますが、その美しさはその時々で、自分の心の持ちようで変わるもんだということを知っています。もし親を亡くしてその日の夕陽を見れば、普段と違うものに見えるでしょう。同じ夜明けでも感情が高ぶってみる風景はやはりいつもとは違う。子どもの時の初めてみる感動の感覚の回路は、多くの人が徐々に閉じてしまい、感動を失っていくものらしい。その感覚の回路をひらいて見ることの大切さをいっています。
2016.03.31
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アポトーシスから老化死まで、1日あたり数万レベルのオーダーでニューロンは死滅する。タテ社会日本の科学界では、まだ 権威主義が蔓延り続けている。この枠を突き破る者が出て来ぬ限り、未来は窒息し続けるだろう。彼らは適応に乏しい 人たちでもあるだろう・・・。悪条件では長生きできない。ラッキーな偶然が重なり幸運が味方しないと消えてしまう。 それこそ未来のカードを持った少年たちが専門家を凌駕するかも知れない。一学者のたった数十年間の知識など知れたもの。 逆転の発想により生まれた新発見は数知れない。権威に溺れる者の醜悪な末路はアポトーシスに相応しい。 全く無駄、無価値で害毒だと思われるものも、その時そう思われただけで実はそうではなかった例はいくつ もある。かって 酸素がそうであったように・・・。 そして下半身不随の脳性まひの喋れない天才がヒトの救世主になるかも知れないのだ。 厄介者扱いされている人たちの中から救世主が生まれるかも知れない。 むしろ、その人たちをサポートする装置がこの社会に整備されていない方が問題なのではないか。 どこからでも天才が出て来なければならない、そしてこの社会を未来に導くのだ。 これまでの権威には少なくとも明日の光は射さない。
2016.03.31
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まだまだ知らないことばかりだが、この地球はみんなのものであり、一部の人間のためにあるのではないと思う。私のものでもあり、他人のものでもあるのが自然でもある。自然とは、私が考える自然のことであるが、日本人の自然観は、里山に近い自然のことでもある。原生林の世界ではない。 ことばは心と一致していなければならないが、政府のしていることはそうだろうか。今日4.1から消費税が引き上げられるが、誰が何のためにするかでもある。 ・憲法の前文に、「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることにならないようにすることを決意し・・・」とあるが、確かに戦争は、政府が始める行為でもある。だからこそ、政府が今何をしようとするかでもあるのだ。 捕鯨の南極での調査が、研究のためだという日本の主張は、国際裁判所で敗訴になったが、これは当然の結果でしかない。詭弁でしかないからだ。どうも普遍的論理に乏しいことばかりしている。安倍首相は本当に何を守ろうとしているかである。 ・へ2・・・よく働いているように見える人がそうではないことはこれまでいくらもある。政治献金問題も、又もカネと政治家の癒着であり、言行不一致でもある。カネに弱い政治家の裏側であり、それはこれまで嫌というほど見てきたことだ。そして、財界の走狗になってきた政治の歴史でもある。悲しい現実しか目に映らないのは辛い。
2016.03.31
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アメリカでは、健康で自立した個人の集団が社会であるというと考えられて いる。だから、「ディペンデンス」ということを極度に嫌がる傾向がある。 ひとに頼ることは道徳的に悪いことである。だから、アメリカ人にとって、 病気でさえ排除されるべきことになる。病人や病気の存在は生きていく上のマイ ナスでしかない。例えば肥満でさえ病気の可能性の高さからエリート集団か ら外される要因になる。喫煙も差別を受けている。医療は、できるだけ早く 自立した社会人としての生活に戻るようにすることが目的であり、早く退院 させられる。医療費も高い。入院したら、見舞いや差し入れは拒否される し、私物は認められない。男女共通の灰色のガウンとパンツを着せられ、患 者番号をタイプした「腕輪」を嵌められるという。だから、世界でも入院期 間は極端に短くなる。入院は、アメリカ人の価値観の中では、個性が完全に 奪われることを意味しており、恥ずかしいことでもあるだろう。そして、ア メリカ社会では、仕事の内容が、専門化され、個性化されており、長期の入 院は失職につながるのだ。どれだけでも病人の代替は可能なのだ。いつでも 後釜はいるだろう。 WHO の調査では、日本人の長期入院は世界一である。どうも専門化が少なく 他の人のフォローが可能である。 病気の人間は、アメリカでは暮らしていけない。少なくとも健康でなければ 生活の安定は難しい。考えてみると、日本人は、病気について、それほど否 定的ではないだろう。「あの子は虚弱だから」とかいって、却って大事にさ れたり、甘やかされたりする。病気を自慢するひとさえいる。日常会話でも 「実はダウンしましてね」と平気で言ったりする。アメリカでは軽蔑される だろう。アメリカ人には、持病とか体質とかいうコンセプトはないらしい。
2016.03.31
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テーマをもっていることは大切なことだろう。それが、実現可能であり、自分にとってプラス思考であれば、生甲斐にもなる。だらりだらりとしているから何もできなくなる。毎日歩いていると、歩くのが楽しくなるが、恐らく、苦しくなる時が来る。その時それをどう乗り越えることができるかだろう。病気をしたり、怪我をしたりしてどうしてもできない時があるだろう。問題はそのあとだろう。いつも「ハイ」ではいられない。暗いモードのときもある。それにどう対処できるかだろう。 ・最初はわずかな差でしかない。それはライフスタイルと言うまでには相当時間の経過が必要だ。そして、良いことはすぐに苦しくなり、息が続かない。我慢してどこまでやれるかではないだろうか。ひとつのことをやれれば、次もやれる自信がつくだろう。できなければ挫折する。その挫折感もどこまで自覚できているかだろう。人の人格の形成はそうして積み上げられていく。そうした経歴はその人性質になり、そう簡単には変わらないだろう。そのひとの体型や態度が示すものはその成果でもある。 ・へ2・・・それこそ、一日の始まりは無からではない。これまでも自分の生活を引きずっており、昨日の続きの延長でもある。自律神経は生まれてからこれまでも歴史をそのまま刻もうとするだろう。脳は置かれた環境から自由であろうとするが、すぐに縛りあげられる。束の間のまどろみの中で私の脳は何かの口実はないかを探している。何も弁解できない日常が来る。そしていつまでもテーマを探している。
2016.03.31
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教育の領域と経済の領域は、相関関係にあり階級制度や社会的序列の編成に広く影響を及ぼしている。近代から上流階級、中流階級、労働者階級という区分が存在した。しかしこのシステムは構造的には他の近代資本主義社会と類似しているが際立った相違もある。社会の広範な人々は、少なくとも表面的には自分を中産階級だと考える傾向が強いことだ。それは政治的な階級意識を弱くし、地位の非一貫性を助長している。 教育制度と職業制度が密接に関係しているのはヨーロッパよりアメリカに近い。上流階級は主として子どもへの教育投資によって再生産しようとしている。日本では階級が教育的達成の重要な決定要因である。世代間の職業的継承である伝統的な帰属が機能しなくなってもいる。文化的資源の確保は、ほぼ全面的に教育を通じて継承されている。 日本的傾向は主として欧米との比較によって顕著になりつつあるだろう。それは明らかに客観的な指摘なってきている。ことに頂点にある大学と頂点にあるエリートとの関係密接であることはイギリスと類似しているが、イギリスではそうした学生は上流社会の出身者に占められている。日本では最近の現象であるが、頂点以外の経営者が増えてもいる。すなわち地位の非一貫性の傾向が強化されてきている。 欧米との相違は必ずしも単純な傾向ではない。日本特有の教育の序列構造、とくに平等主義や能力主義との特異な組み合わせと密接に結びついている。教育制度に明らかな階級性があるにかかわらず、学力による選抜が行われており、均質で水平的な社会階層がつくり出されることがなかったのである。社会を横断したピラミッド的に組織された複合的な垂直的組み合わせを生んでいる。 いまや日本は、74億人の世界の中の1.2億人のシンプルモデルではない。(・・・昔からそうだが)。特徴的な傾向はまだあるにしても、日本も多様で複雑化したアジアの一国としての国民でしかないだろう。今後は未曾有の高齢化社会が実現するうえで、あらゆる常識は通用しなくなるだろう。それを踏まえなければ議論の価値はなくなるだろう。
2016.03.31
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近代戦は総力戦だといわれる。軍事力だけの戦争ではなく、政治力、経済力だけで戦うのではない。あらゆる手段を使わねば勝利はないという意味でだ、然も部分的なものに終わらない生き残りをかけたものにもなる可能性もある。それは負ければ、勝者の奴隷にされた時代を想起させないでもない。もし、71年前の日本の敗戦において、些かもその例外ではないことを考えるとしたら間違いだろう。 ・言いたいのは、謂わば<スープ>にされたということの認識がなければ再建はできないということだろうと思う。粉々にされたという分析になしに何を始めても同じことだ。何もできないのではなく、始める前提を安易に見ているからだろう。種を選択しなければ実らない。西欧でもなく、東洋でもない、その地域でもない。種を探すことから始めねばならにのであって、その努力を日本人たちはしてきただろうか。どこをみて生きてきただろうか。負けたという認識もなしに、始めさせられたのであり、それがスタートであるはずがない。 ・へ2・・・そういう意味で総力戦である。一部の寄せ集めでは足りない。哲学であり、文化であり、すべてだろう。併し、相手は仮想敵国ではない。立ち塞がる世界であり、挑みかかってくる総体であろう。何ができるのか、考えるのはこれからであり、未来でもある。 一か八かの戦争などしたくはない。然し戦争では追い込まれてしまうとひとはパニックになってしまう。
2016.03.31
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時差8時間(13時)ヴィース巡礼教会 日々は自己嫌悪のシャワーを感じながら生きてきた。 安息日をもつ人たちは 易々と生きて行けることだろう。 僕たちは、悉く裏切られた日常に悪寒を 感じ挫折し妥協しながら・・・。それしかないと自分を追い詰め、自 己嫌悪に顔を歪めて耐えなければならない。ふやけた人生の歌謡曲を唄う。自嘲的 に家族たちを見回して、納得するしかないのだろう。ただ、このまま寿命を生きて惨 めに死のうと決意している。今夜も自己嫌悪のシャワー浴びながら、アルツハイマーか癌に なるぞと怯える。
2016.03.31
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自分の主張を通そうとする。悪い癖がある。私だけではないようだ。他人にはそれが不遜に見えてしまう。出た杭は叩かれる。大抵余計なことを言うからだろう。どうしても言わなければならないことは外にもたくさんあるのに。ついポロリと。どこかにあるから、出てしまう。全体を見てくれと言ってもそれは無理なことでしかない。誰も他人にそれほど関心がない。分かるはずもない。同じ過ちを繰り返してしまう。そしてそのうちアウトにもなる。 ・それほどトリックやマジックが通用するはずもない。いつか見破られる。懲りないといけないのだろう。まだやれると思いたいが、いい加減にしろというヒトも出てくる。信長もそれで殺された。おそらく、懲りないでいると周囲に潰される。
2016.03.31
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何のために長生きがしたいのだろうか。種としての「ヒト」に生きねばならない目的があるわけではない。人は自分でただ自分の一生を拘束しているのかも知れない。自分の世界観に拠っているだけかも知れない。たとえ、人並み以上の努力をしたからとして、明日が担保されるわけでもない。アクシデントがあればそれまでもある。美味い物をたらふく食べてさっさと、この世におさらばした方が好かったと思う人もいても可笑しくはない。だが、それではすまない。 ・してみると、無駄な努力をしているのだろうか。何かを信じなければ生きていけないだろうか。生物は、生きるのに必死である。人間だけが自分で絶望して死ぬ動物だといわれる。何故死ななければならないのか。死にたくて死ぬのではない。遣り過ぎれば処断される。然しそれは普通のケースではない。どれだけ健康に留意しても、ひとは生きる条件を失えば死なねばならない。それがいつなのか、知ることさえできずにいる。 ・へ2・・・何ものかであろうとしても、それは個人的な恣意的な解釈でしかない。寧ろ世に出られるものは少ない。多くの人は凡庸に一生を終わるだけである。理想は、単なる指標に過ぎない。どれだけ高い文化レベルを暮らしの中で維持できたからといって自分の心が冷えていては不幸でしかない。
2016.03.31
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経済は政治に係わっている。そしてあらゆる社会現象も同じだ。経済戦争を続ける限り、あらゆる面で争い事は根底にある。常に利害は対立するのだ。油断をすれば、いつでもジエンド。安楽に暮らしているものに自爆テロや難民の気持ちは理解できない。甘い汁を吸い続けている連中が、国家のことを担わせるのが可笑しいのだ。 世の中を安易に考えている人間が増えているのだろう。人生なんてと言う人が、社会のリーダーになっていくとしたら、どんな仕事をするだろうか。日本経済は、実力に相応しいことをしているだろうか。そして政治もだ。政府はどうか。北朝鮮にどれだけ有効な手立てを講じてきただろうか。そして、3.11の被災者に対してもそうだ。 ・へ2・・・日本の軍隊は、強いだろうと思っていた期待は裏切られた。何を戦前したかでもある。そして、戦争放棄の日本国憲法のもとで自衛隊に入った人たちはどうだろうか。防衛大学を卒業して、自衛隊に入らない人たちがいる。だれが不誠実だろうか。千葉大学の学生は、中学生を監禁していたという。そして誰もそのことに気付こうとはしなかったのだ。都会の真ん中で。
2016.03.31
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シンシア・オジック「ショール」のローザは、ワルシャワの銀行頭取の父親と詩人 で、日本人のように控えめな母親と、兄と二人の弟と幸せな少女時代を過してた。ローザはキュー リー夫人のような科学者になりたいとし思っていた、ところがナチスユダヤ人絶滅政策でゲットー に強制移住させられ、世界から隔離されてしまう。そこは、最悪のスラム地区のゲットーで、すし 詰めにされる。 50万人→不潔、飢餓、病気(チフス)、 外界から完全に隔離され→孤立。 そして、ローザは、同居したユダヤ人3家族への怒りを抑えられない。物語は、更に続くのだが、 注目されるのは、ローザが何故それほどに同じユダヤ人に憎しみをもち怒らねばならないのだ ろうかということだ。ナチスという政党がどんなことをしたかという話は、それは一部しか知らな いだろうが知っているし、「アンネの日記」も知っているが、ナチスをナチスにしたのは、彼らだ けはないということだ。それは、ドイツ人であり、西欧人であり、アメリカ人であり、そして日本 人でもあるだろう。それから、ユダヤ人自身にも何らかの要因がなかっただろうか。確かに強制収 容所や絶滅収容所でのホロコーストをいささかも肯定するものではないが、ローザの怒りが、どう しても気になってならない。どれだけ、戦争を克服しても、平和を希求しても肝心な人間同士で争 うのではないか。いつでも、誰にでも、メンターが出てくる訳ではないないだろう。 ユダヤ人と日本人と、その違いは何だろうと思わずにはいられない。 ローザがトラウマを克服できたのは、小説だからだろうか。 多民族国家であるアメリカ国民が星条旗にまとまるのだというエピソードは、眉唾だ。 幼児虐待などトラウマを背負ったひとたちが、却って立場が逆転すると同じことをしがちだという話を聞いたことがある。如何に人間には健全な環境が必要であるからだろう。メンターのいる社会とはそれだけ文化の成熟した社会だ。BS国際ニュースを見ていると、現実社会がいまだにスープの海に浮かんでいるかが解る。
2016.03.30
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どうも政治家が脇が甘いだけではなく、国民が殆んどそうなのではないだろうか。公務員もそうだし、老舗の若社長の謝罪会見のささやき女将といい、何とも笑止な事件が多いことだろうか。誰が見ても、遣れそうにないことを、裸の王様のように滑稽なことをしでかしている。政治家たちは、どこまで現場を知っているのだろうか。自衛隊の実態を知り抜いているだろうか。経済の最先端でなにがあっているのか、医学の現場や、最先端の分子生物学をどこまで理解しているのだろうか、それで、日本の未来を担うシステムが構築できらだろうか。 ・政党間の争いや、自分たちの政治生命をかけた闘いしか知らないのではないだろうか。次元の低いことで国費を浪費してはいないか。消費税10%の引上げも、それをやったら、また何かあれば同じように他の増税を繰り返すのではないだろうか?つまり、歯止めにはならないものでしかない。要するに方便としての政策に過ぎない。小泉の言うとおりに政治は動いただろうか。 ・へ2・・・世界から動かされることはあっても、日本が世界を動かしたことはあるだろうか。受け身だけでは必ず、世界の隅に追いやられてしまうだろう。これからはまさしくビジョンのない論理は通用しない。他人の眼ばかり気にせず、自分に何ができるのか、この10年くらいは、必死になって、それを考えるべきではないだろうか。 戦前の人たちは軍人を信用しすぎたのではないだろうか。立派なことをしていると思っていたのだろう。自分の命を投げ出してお国のためにやるのだから、偉い人だと素直に思っていた素直な人たちもいたのだろう。それは作り話だと後で知ったら、絶望したことだろう。そのために死んでいった人たちが数百万人もいたのだ。 現実社会には嘘つきがいるという事実だろう。甘ちゃんが政治家になっている。国が亡ぶ原因にもなる。政治家がどんな人か国民は知らないのだ。それで済んでいられる場合ではなくなりつつある。
2016.03.30
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食物を食べなければ、ひとはすぐに死んでしまう。空腹だけではなく、体が酸化してしまうからだ。食べることの意味は深い。個体が存在するから、ものを考えることができる。病気になって、初めて知った知識がある。それまでもっていたものは智慧ではなかった気がする。ヒトのしている事は、反対のことをして知る知識が重要なのではないだろうか。男が女性を理解するように。女が男性を理解して初めて解かるものがあると思う。 ・反対は必ずしもその反対ではない。裏と表もある。自分と他人との境界が、理解できなければ自分の人生もぼやけてしまう。このまま眠ってしまおうかと一度思ったが、やはりブログを書いている。昨日も、夜雨が降ると一旦思って、家でのんびりするつもりだったが、外に出たら、雨がやんでいた。恐らく二年前、否、一年前なら、歩く気がしなかったのではないだろうか。体が自然に動いた。自分の意識だけで、自分のからだやこころは動いていない。 ・へ2・・・自分ひとりで生きているつもりでいるが、はたしてそうだろうか?確かに死にたくないから活きているが、本当に生きているだろうか。「死とは何か」、本当に理解しているのだろうか?それは「他人の死」ではなく、「自分の死」のことである。自分で解かっていると思っているものが、本当は解かっていないかもしれない。この呪縛は中々消えない。
2016.03.30
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フットワークが軽くならなければならない。段々身体が重くなるのと比例して気分も沈んでくるがしていた。入院を機に運動を始めたが、思いの外、体調がよくなった。苦もなく痩せるようだ。食事計画も、確りカロリー計算しているからだろうか。あとは頭だけだが、そのベースの肉体が続かないでは何にもならない。この際ライフスタイルを変えようと思っている。暫くは、運動重視で身体づくりをしたいと思っている。 ・周辺を歩いてみると新しい発見がいくつもある。まだ人間には至らないが、そのうち素晴らしい人間にも逢えるのではないだろうか。今度桂林に行くことになったが、新しい出逢いも楽しみである。それでも、世の中には、見えないところにスケールの大きいのか小さいのか分からない人もいると思う。まあ、余計な話だろう。関係はない。自分の遣りたいことをやればいいのだろう。宗勝寺という寺社の境内に石仏を見つけたが、歴史の長さを感じた。こういうところがあるというのも、日本人の宗教観が支えているのだろうか。 ・へ2・・・どうも、あちこち紹介したいところが増え過ぎている観がある。次から次に新しいものが見つかるからだろうか。椿の海に埋もれてきた。
2016.03.30
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何故勉強かというと、それは一番大変だからでもあるだろう。他のどのような仕事より勉強をつづけることは或る意味難しいと思う。それは普通学問と言われるが、研究もある。見せかけもあるので一概にはいえないが、平たく言えば、勉強だろう。それは肉体労働ではないようにみえるが、脳の活動であり、脳神経を働かせる仕事である。ホーキング博士はそういう意味では立派は学者である。誰も学者を怠けものとは言わない。寧ろ人びとが畏敬の念をもつのは、彼が苦しい勉強という仕事をしているからでろう。 ・人かどの勉強を成し遂げられれば、世の中のことは大抵粉すことができるに違いない。どんな明晰な持主が名君になったところで、大衆をすべて公平で自由な社会を実現することはできなかっただろう。どんな苦心も徒労に終わらずには措かないに違いない。それは、ゲームであって勉強ではないからだ。真実を求めていはいないだろう。疑問を解決してとしてはいないからでもある。人は、何故、<勉強>と一言でいうのだろうか。それは、ひとの人生にとって最も重要だからでもあるのだろう。 ・へ2・・・<勉強>に自分の人生の最大の高い価値を与えるものは、その意義を理解しているだろう。それが為し難く一番辛く苦しいことを知っているからでもある。それをいつからやり直すかではないだろうか。ひとは生まれてすぐから他人から学ぶことから人生をスタートさせている。それを、確り続けているものもいるが、大抵途中で挫折してしまうものだ。それを何度も起き上がって勉強をしているともいえるのだろう。挫折と再起を繰り返してもいる。それは普通の人間のすることである。それが何であれ、真に自分の信じる<勉強>をすることだ。
2016.03.30
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ニーチェの松の木は、大気的想像力の宇宙的ヴェクトルである。 なんじに似て、生い立つものを おお、ツァラツストラ、私は松にたとえる。 亭々と、黙々と、冷厳に、孤独に、最良の材と最もたわやかな材にて作られし、荘厳なる松に この真直な樹木は、意思の軸である。 それは、ニーチェの思想に固有な垂直の意思である。それを熟視すること。 それは、おのが身を立て直すことだ。 彼が高所へ、明晰へと登らんとすればするほど、 その根は、ますます大地のなかに、闇と深淵へ、-悪のなかにめいりこんでゆく 大地のなかで、塵埃のはたらきがなければ、逃げ去る晴れやかな善もなく、花もなく、 善は悪から迸りでるのだ。 もっとも高き山々は、どこからきたのか、 それは、海からきたことを知った。 何と、詩的な表現者だろうか。ニーチェと、ガストン・バシュラール「空と夢」の中で出逢う。
2016.03.30
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華やかな人生のように見えて、実はそうではないという話をどれだけ聞いてきただろうか。歴史上の人物も、現代のひとでもある。戦後を彩った日本の文化の中にもそれがあり、枯れ木に花が咲いていたように思わないでもない。血の流れていない幻影だったのだろうか。舞台裏は日の当たらない闇の世界でしかない。豪華さを装っていた映画の撮影所のようなものでしかない。 ・理化学研究所が話題に上っているが、科学者たちの現実も、芸能界のタレントの世界と代わりはないのだろうか。スポットライトの当たるところとそうでないところでは、光と影のような違いがあるようだ。社会的ステータスがなければ、成果もあげられない。商品価値のないものは研究に値しないのだろう。医者も、地位を与えられなければ、学位を持った案山子でしかない。 ・へ2・・・患者に挨拶もしないで、担当医は去ったらしい。何故だろうか。大抵、今度はどこへ行きますと挨拶位する。それをしなかったのは理由があるのだろう。まさか結婚するから退職しマスではあるまい。医者だってサラリーマンだし、色々複雑な人間関係もある。大学の若手の医師が、過酷な労働を熟し、しかも安い給料で働いていた。この社会はそれほど甘くはない。知れば怖くなる話はゴロゴロある。 寧ろ医者と患者の信頼関係に問題があるのかもしれない。
2016.03.30
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人間は論理を創造する生物である。対立の原因が、実際には感情または利害の対立であっても、それを論理的体系としての対立にし、対立を拡大させいくことは古くからみられる現象でもある。人間社会のさまざまな対立は、論理的対立にすることによって、直接的に関係のない人びとの間にも対立が共有され、拡大される。 これは論理的体系のもつ普遍的な拘束力が如何に大きいかを示している。体系化された論理は、人びとを隷属化し、それを利用するものに権威や権力さえ付与するのだ。体系化された論理は有害無益だろうか。それとも論理の体系は必然的に避けられない現象であり、それが固定化することが問題なのだろうか。 論理から観た近代科学の特徴は、要素から全体を捉えようとするところにあり、これが宗教の宇宙から個人を捉えようとするのであり、仏教の論理と逆の関係にある。そこにボトムアップ型論理とトップダウン型論理の相違があるだろう。ある論理的考えが理論になることによって客観化され、予見性を獲得し得るのだ。
2016.03.30
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そろそろ中島敦「光と風と夢」も終りに近い部分を読んでいるが、昭和15年ころに書かれた作品で、31歳で死んだ作家の亡くなるまでの5年間の間に書かれた作品の一つであるが、作家が作家の伝記を小説にしている。「ジキル博士とハイド博士」、「宝島」の著者のR・L・スティヴンスンのサモアの生活を日記風に描いている。暗い時代に喘息に苦しみながら、何故書かなければならなかったのだろうか。 ・有名な白人の作家が、文明を知らない「南の島サモア」で地元の人たちを暮らすというそれこそ絵に描くようなお伽噺の冒険物語に近いものでしかないが、それは矢張り、中島敦の「夢」でもあったのだろうと。西洋人の南の島での晩年を描いたのではなく、中島のそれなのだろう。どれほどスティーブンソンの資料を揃えることができたのだろうか。当時のこととて、今のようには行かない筈だ。 ・へ2・・・夢には色々ある。原題は「ツンタラの死-五河荘日記抄」だった。香り高い文学作品として、当時よくこれだけのものが無名の作家にできたものだと思うが、それだけの才能があった作家なのだろう。土人や召使いや、差別的な意識も感じられる作品であるが、それは、当時の日本人のインテリたちの植民地政策の一端をみれば解らないでもない。それは「光と風」につながる夢でもある。
2016.03.30
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家庭菜園で野菜や肥料を撒いたりするので、昆虫が集まり、小鳥たちも増えたようだ。昨日は咲いたばかりのレモンや胡瓜の花に蝶が舞っていた。早速害虫たちもいる。色んなものが集まってくるが、それは別に連絡してくるのではない。みんな知っているのだ。葉っぱだって15分間の違いの日照時間を知っている。小鳥たちの声がすると、家猫たちが5匹それぞれの動きをする。 ・窓を開けてやりたいが、外に出ると他人の迷惑にもなるし、病気に感染もなる。今にも飛びつきたいという恰好が面白くもあるが、可哀そうでもある。エサもとらないで生きていけるのだから、家猫も悪いとは言えないが、私なら嫌だろう。新鮮な肉を食いたいだろう。 ・へ2・・・籠の中の鳥というのがあるが、人間にもいるのかもしれない。それで満足しているひともいる。他人を支配したいという欲望は強いのだろう。人権尊重ということはそれほど簡単な問題ではない。相手をどう扱うのかいつも悩みの種でもあるからだ。そして、相手が私にどう接しているか気になる。分からない間はどうでもよかったが、わかるだけに腹も立つ。
2016.03.30
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自分だけは例外でありたちがそういうわけにはいかない。イエローカードも一枚までで、二度あれば退場になるし、レッドカードをすれば一発退場だ。企業では、ワンストライクアウト。 してはならないことが沢山あるが、知らなかったでは済まない。これくらい好いだろうと思っていても、時と場合がある。ドラマのようににはいかない。 ・はらはらドキドキしてもしなくても、同じことだが、それだけショックの差にはなる。好い時もあれば悪いこともあるだけだ。海水の様な辛き恋を我はするかも、と志賀島を詠んだ万葉人は、それが甘い恋になるまでどれくらいかかったのだろうか。やっぱり辛い恋のままだったのだろう。恋愛は壊れるから美しいのかもしれない。壊れなかった恋は、あと長い忍耐の時間が待ってもいる。 ・へ2・・・実のらなかった恋愛がいつまでも懐かしくもある。だからいいのだろう。恋愛へのあこがれとはそうしたものではないだろうか。勘違いの差し違えのようなものだ。まあ、これも辛い恋などしたことのない人間の僻みである。勝手な勘違いをするのは、鈍感と敏感の間でしかない。そろそろ外が白んできた。
2016.03.30
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老化を遅らせ、高齢期も健康に過ごすことが知恵なのだろう。飢餓からの脱却がまだ世界の課題でもある。一部だけの健康が問題にされるが、肉体的だけではなく、精神的、そして社会的にも良好な状態であってはじめて健康なのだ。健康というコンセプトを一面からだけから見てきた気がする。少し抽象的にとらえ過ぎたようだ。どうも次元の違う世界のようでもあった。併し、こうして歩くということを通じで感じる思いは、それほど現実離れしたものでもないということだろう。それにしても、最近の「食の問題」として捉えられている社会現象は酷過ぎるのではないだろうか。 ・利益を優先した社会が齎してきたものは「複合汚染」であり、「環境汚染」ではないか。健康はそれらの問題を払拭していかなければ得られない問題でもある。美容食ではなく健康食でなければならない。肉体的に自由であり、精神的に幸福感があり、社会的にも健全な環境が約束され、生命が保護されていることだ。そのための福祉や安全性が整っていなければならない。プログラムや概念ではなく具現化されなければならない。 ・へ2・・・何を食べるか、どのように食べたらよいか、どのような環境であるべきか、について、具体的でなければならない。適度な運動、過度のストレスを避ける(気分転換を図る)、生き甲斐を持つ、楽しみを持つ、社会との良好な関係を続けることだ。愉しく食べることもある。「健康長寿」への道は常識的世界でもある。
2016.03.30
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日本のもつ独自性、特殊性とは、それは欧米とまったく異なる文化ではなく、むしろ大きく異なる一方でほとんど広範に似通った面をもっている。十九世紀後半に日本が門戸を開いて以来、西欧人による安易な日本見聞録が出回ったことで、多くの誤解を生んだといえる。日本の社会は、明治以後組織や構造面で西欧を手本にして勧められたのであり、多くの面で似通っているはずだからだ。 寧ろ西欧と日本の比較文明論的研究が遅れた結果、その対話の変則性が生じていた。今や多くの点でまともな研究がされているようだ。日本と西欧との比較は、近代化の成功の側面に限らない。大正期の民主化の頓挫も、1930年代の軍事政権の成立など、日本の失敗や危機も、同時代のファシズムの一変種と見られがちだ。日本研究とは評価されるようなものは多くはない。 飽くまでも「・・・見聞録」でしかないのは、日本からみた西欧も同じだ。何故かといえば、多くは軍事、経済面の戦略が先行するからであろう。こうして学術面の著述が遅れたといえそうだ。日本の近代化が文字通り西欧のそれと同じではない。近代化の独自なパターンが何を意味するかを西欧の研究者はどこまで把握しているのだろうか。未だ綿密な研究が為されねばならないだろう。 日本の特異性とは何か、読み説くことは至難であろう、ということだけは言える。勿論なしえないことではないだけだ。その研究は広範でなければならないだろう。
2016.03.30
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尭の人徳は高い。尭が亡くなり、三年の喪があけると、舜は天子の位を尭の子の丹朱に譲ろうとし たが、諸侯は皆舜を支持した。そこで舜は「天なるかな」と言って、天子の位に就いた。 このように天子が世襲しないで、有徳者に平和的に位を譲りわたすことを「禅譲」という。 孔子は、「大なるかな、尭の君たるや。ギギ乎として、唯だ天を大なりと為す。唯だ尭のみ之に則 る」言う。(「論語」) 尭は、民の声を聞くためにお忍びで老人の歌うのを聞く。 日出而作 日入而息 穿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉 尭の治世が、為政者による統治を人民に意識させないものであったことを示している。 中国では、天子は、世襲ではない。人徳者がなれば、理想的であったが中々そうは行かなかっ た。そこが、人間が、如何に厄介な生き物であるかであろう。
2016.03.30
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いましかないと、猫のことを書いたが、実は人間のことでもある。そして自分のことでも。今しかない、といえば極言には違いないが、そうしなければ生きていけない面もある。前頭葉が都合の悪い記憶を消してしまう。自分がいつも善人でいたいという願望がある。人生には色んな役回りがある。赤ん坊から始まり、子どもなり、ニキビの多い時代があり、それもなくなって、親になり、老いても行く。会社で自分の立場は変わっても、その中身は動かない。 ・まだ昔の仕事を続けている人もいる。自分とは違う暮らしを、生々しい利害の現実が人々を苦しめてもいるだろう。何か夢のように時は流れてしまった。いつかこうなるとは思ってはいたが、なってみて、居心地の良さと、悪さもあるが、もう争いは厭だ。人の嫌な面を見続けていなければならない世界は、懲り懲り。 ・へ2・・・本当にしたいことができるのではないが、財貨のためだけとしたら。私は嫌だが、妻子のためにしている人もいる。それはできるひとでしかない。めぐり合わせもあるのだろう。
2016.03.30
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夜の散歩をすると西の空に北から南の方角に航空機がライトを点けながら着陸態勢で福岡空港に滑空する姿がみられた。あの自働操舵に切り替えて、何事もなくタッチダウンまでの数分間が好きである。機内ではほっとした雰囲気が座席の人々に流れて緊張感が解れて行き、少しざわざわとする。そういうことを想像しながら地上から見ているのが好い。 ・福岡から横浜に単身赴任をして会社から毎月旅費が出ていたこともあり、随分帰省のため福岡と羽田間を往復した。福岡空港が市街のすぐ近くにあり、着陸態勢から滑空すると市街がよく眺められた。定期便が、ちかちかと点滅しながら滑空していく。 ・へ2・・・何か遠い昔のように思えてくる。航空機の静がな滑空を眺めていると時空を超えた機内でほっとしている時の自分が重なって視えて来るようだ。やっと胡瓜の花が咲きだしたので、胡瓜が食べられる日も近い。空港の近くでジェット機の騒音を聴いたことがあるので、これも無責任な感想なのだろう。
2016.03.30
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煩わしい人間関係から逃げ出して10年くらいこうしてやってきたが後悔はない。もっと早くしたかったが、遅いのはチャンスがあるようでない証拠でもある。自分ではそう思うが、勇気のある人もいるから、弁解でしかない。できたかもしれないことを考えても過ぎてしまえばどうにもなりはしない。人間だって、どんな好きな人がいたとしても、自分の思い通りになりはしないのだ。 ・ルビッツ副操縦士の「皆が自分の名前を知るだろう」も哀れな戯言でしかない。同情するひとはいない。寧ろ悪名でしかない。そんな人間をだれも許さないからだ。私のこれまで10年間が、脳の中でスープの海のようになっている。もうそれ以前のことは、彼岸のようなものだ。もう渡れない川が流れているのだろう。相手を利用しようとするものが相手から操られるのだろう。 ・へ2・・・スマートに悪人になれるかでしかない。人の世界で人はやすやすとスポイルされてしまう。非人情に触れば傷つくのだ。痛みのないその傷は、こころをズタズタにする。心が死んでしまっても気付こうとしなくなるのだ。哀れな人間たちで溢れてきた。
2016.03.30
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知り過ぎて、却って不幸になる話は、これまで嫌というほど聞いた。それが自分の身に降りかかるとはあまり考えたこともないが、おそらくそれも自分が知らないだけで、きっとあるのだろう。だから知らぬが仏なのだ。知ったからと言ってどうしようもないことばかりなのだろう。それがリアルでもある。 ・それこそ事実は小説よりも奇なり。金融機関に勤めたので、知らないでいいところまで知った。どこまでも非情な世界だった。あのバブルを真近かに体験もした。融資から法的整理や債権管理までしたから、融資と管理の両面を経験したことになる。担保にとった大量のゴールドを代物弁済して、その処分のために東京の販売元まで運んで処分したこともある。 ・へ2・・・企業は身の程知らずで危ないことをすると怖いエリアでもある。知り過ぎていい時もあるだけで大抵はあとで干されるものらしい。後味の悪い人生だ。楽をした分苦しみも味わう破目になる。それこれも無知からくる人生。それこそ小説のネタになりそうな話を墓場に持っていくつもり。 首相という社会的ステータスが実際はどういう仕事なのだろうか。それはなってみないとわからないのだろう。なりたくもない。政治家たちが一度はなってみたいものも、思うほど好いものではないのは確かだ。それほど能力があるわけではない。見せかけの権力者なのだろう。演じて見せているに過ぎないのだろう。巧いもあれば下手もある。 大根役者もいる。遣り過ぎて恥を掻くひともいる。引っ込みがつかなくなるだろう。見たくもないがそういうことばかりある。
2016.03.30
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進化とは集団内の遺伝子頻度が時間と共に変化するプロセスだ。大進化と小進化があり、適応が試 される。適応的な形質をもつものが同種の他の個体を蹴散らして、生存繁殖上の優勢をたもつこと になる。やがて環境が変化しあらたなステージに突入し、乗越えるためのチャレンジがスタートす る。 例えば、 ・インドガンのヒマラヤ越え ・郭公の托卵 ・さまざまの擬態 ・蝙蝠の超音波利用 ・人の手の器用さや脳の発達による優れた知性の獲得等 やがて、ナチュラル・セレクションがある。変異・淘汰・遺伝によって私たちは、存在している。 進化は進歩とは違うと言われる。進化は価値とは、無関係である。時代が後になるほど複雑な生物 が生まれるが、それが高等な生物であるかはわからない。進化的に身につけた形質を失う場合もあ るがその「退化」も進化なのだ。 平穏に生きているのが、人間の本来の生き様ではない。困難に立ち向かいいくつものデッドロック を乗越えてきた。例えば、インドガンのヒマラヤ越えのように。人間が、平和を求めるのは、更な るチャレンジをするために必然だからだ。地球は、このままでは、種としてのヒトを死滅させるだ ろう。やがてその緊急事態が、その奇跡を待っているのだから・・・。
2016.03.30
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深遠な道理をさとりうるすぐれた才知でなければ叡知ではないだろうか。その叡知とは何ぞや。叡 知で人間の社会を構築できるのであろうか。現実と深遠な道理は存在する場所が違うだろうか。 厖大な宇宙をみて、人は自分の存在を知るものだ。自分は生きていけるだけの才知があるだろうか と。そして、叡知というものをもっているだろうか震え上がってしまう。そこから動けなくなって しまうものもいれば、ままよで歩き出すものもいる。諦めるものもいるだろう。叡知は、未来にあ るのではない。人間の叡知は、叡知界を目指してはいない。より良き社会の実現であろう。 考えてみれば、深遠な道理とは、この世に存在しているのだろうか、道理はその場の状況のひとつ のものでしかないのではないか。何をなすべきかに方向をつけるだけだ。 もし叡知のあるものが其の専門分野の真理を解したとして、それを自分の物だけにするのであれば それは叡知といえるだろうか。其の成果は、自己満足でしかない。図書館の蔵書のヤマをみている と整理されていないカオスのような宇宙である。この中に人類の未来を救う真理があるかも知れな いしないかも知れない。どこにも無いかも知れないがあるかも知れない。手がかりでもあるだろう か。そしてそれは、明治初めに横浜から船で渡米した少女の留学生たちの不安と、カール・セーガ ンの本で見た一枚の写真を思い出す。それは、1990年2月初めボイジャー1号が撮影した太陽 系の惑星の写真だ。漆黒の宇宙に針の穴のように8つの惑星があった。 そして、セガーンはいう。 「知識は無知よりましである。安心させる神話より、動かしがたい真実を受け入れるほうが、ずっ とよい」と。(カール・セーガン著「PALE BLUE DOT」より) 叡知さえ、単に情報の一つでしかない。
2016.03.30
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略1億8千万年前 、「卵生」から「胎生」への進化があったという。ヴィンセント・リンチ「おそらくは、卵が生殖管のなかにとどまった期間がどんどん長くなっていった。ある時点で殻が失われ、卵黄にすべての栄養を頼る必要がなくなり、かわりに母親の子宮から栄養が得られるようになった」からだという。 ・この変化とともに、進化の大洪水が水門が開かれたのだ。子宮の誕生が脊椎動物に劇的な進化をもたらした。種としてのヒトにも進化のルーツがある。そして人間の脳の巨大化がある。第二の進化は、有体胎盤類が有袋類からわかれた際に起きた。然も植物と動物の分化も16億年前に起きているのだ。 ・へ2・・・進化の証拠を正しく認識していない人たちが、この社会を混乱させていないだろうか。明白な自然選択の証拠があるにも拘わらず、進化の爆発を理解していないのだ。「胎生」のコストは高くつくのではないだろうか。男は消滅する運命を抱えている。
2016.03.30
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同じことばにも夫々の人の違いがあるが、自然に対する感情ほど個人差のあるものは少ないだろう。元々一人ひとりに生まれながらの個性がある。これは殆どどうしようもなく多様性に富んでいる。日本人と韓国人は違うし、中国人とも違う、西洋となればまた大きな違いがある。都会と田舎でも違うし、時代でも違う。田圃といっても、今の田圃と昔の田圃の措かれた環境や背景が違う。 ・東峰村の竹の棚田を現地見学して懐かしいと思ったが、見学者の感想は様ざまなのだろうと思った。僅かに数匹の蝶々を視ただけで、昆虫が殆どいないし、小川には小魚もいない。植えてあるイネは福岡県の銘柄だった。美味しくなくなっていて、現在改良中であると、大学で聴いた。一見素晴らしい棚田に視えるが、昔の田園ではない。働き手もいなくなり、どうにか体裁を保っているだけらしい。 ・へ2・・・街から2時間かけて東峰村に出掛けたが、空気が澄んでいるのに感動した。緑も新鮮に見えた。こうして自分の目で見ないと、街での生活の空気の汚れや緑が少ないことなど偏頗な部分が見えて来ない。それでも、山は緑だが、田圃も美しく見える稲が植えられているが、それは果たして自然だろうか。それはまがいものの自然でもある。山は実は荒れているし、田圃も自然ではない。見せかけの世界なのだ。
2016.03.30
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遺伝子(DNA)→蛋白質→酵素・神経・ホルモン・脳内物質→行動 漸く、様々な疾患の機序を解析し、遺伝的要因の割合を探りつつある。AB型はコレラにかかりに くいとか、O型はコレラにかかりやすくマラリアに強いとか。単純な行動を決める遺伝子があるハ エのオスの交尾時間を決めている。ふつう交尾時間は20分だが、あっさりタイプは、すぐにやめ てしまう。しつこいタイプは、いつまでもつながりつづける。どちらが適応力があるのだろうか。 いうまでもない。しつこい奴は、どこの世界でも生き残れない。学習にも遺伝的な基盤がありそう だ。少なくとも、ラットの迷路学習ではいえることだ。誤り少ない個体とそうでない個体があり、 交配による系統を人為的に作り出すことができるという。勿論人間は、簡単にはいかないだろうが 形質は、環境で変わっていくが、疾患の解明にはなるだろう。 私たちは、何者だろうか。生きることに絶望を強いられて殺されていった人たちがいる。虐殺した ものが、名誉と地位を与えられ健やかに寿命を全うしてゆく。私たちは誰の子孫だろうか。 どちらの遺伝子を多く引き継いでいるのだろうかと考えると哀しくなる。否、変わることはできる だろう。それを信じたい。まだ間に合うだろう。 現実の社会は、人間を育ててゆくようなスペースではない。多くのひとびとは、島原の乱の一 揆をしても、権力に押し潰されてしまうだろう。勿論、首を切られるようなことはないが、される ことは余りかわらない。それは、徳川時代、明治以後、戦後と現在とまだ続いている。でも、それ は、少なくとも永遠ではない。島原の乱の原城で一揆軍37,000人の中で、ひとりの生 証人になった男のことを思う。彼は、誰の証人なのだろうかと。 >ヒヨドリは、数日間、柑橘系のえさを独り占めしていたが、さすがに昨夕のこのすがたは食溜めしたせいなのだろう。 これをみて大笑いしていた。
2016.03.30
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・ストレスは、神経系、内分泌系、免疫系のシステムと病気の発生と進行に関わること。 ・厚生労働省の16年度基礎調査で「自分の健康・病気・将来・収入・家計・借金」の順でアンケート。 ・戦後の社会環境の変化に因るストレスが見られること。原因:人間関係の希薄化・家族の崩壊など。 ・ストレスとは、当初は、物理学で、物体に歪みを生じさせる外からの刺激をストレッサーといい、歪みを生じる状態をストレスと言った。 ・セリエは、ストレスとは、外界からのあらゆる要求に対する生体の非特異的反応。ストレッサーは、引起す刺激や要因であると言った。 ・ストレス度について。配偶者の死が最大。 ・心理的要因・身体的要因に分類される。 ・ストレッサーに対するホメオスタシスの個人的資源により個人差がある。 ・依存症とは、 ・物質摂取依存のケース・・・アルコール・ニコチン・薬物・食事など。 ・プロセス依存のケース・・・ギャンブル・仕事・買物・PCなど。 ・人間関係依存のケース・・・恋愛・Sex・親子関係など。 ・ストレスの個人差について ・罹りやすい性格とは、Aタイプ(野心家など)・過剰適応・プライドや面子にこだわる人など。 ・高齢者は、心身の機能衰退によるストレスが発生し易いこと。 ・夫婦関係のストレス・・・男女差があること。夫が想うほど妻はいい夫とはみていない。意外なアンケート結果など。 ・ストレスの対処法について、 ・ストレッサーの軽減 ・認知的評価の修正・・・心理療法など。 ・生体反応のコントロール・・・リラクセーション法バイオフィードバック など。 ・ソーシャルサポート・システムの確立。 対処のポイント ・心配や不安の原因の究明 ・自己能力の限界を正確に見極める。 ・エンドルフィンの効用。笑うこと。 ・楽観的思考をもつ。 ・散歩などの気分転換を図る。など。 ・心理療法とストレス 論理療法・ABCDE理論 ・ Activating event ・ Belief ・ Consequence ・ Dispute ・ Effect 「非合理的・非論理的な思考(過度の一般化、どうせ思考、べき思考など) に対して、有効な反論をすること。合理的・論理的思考の導入。 安らかに死にたければ、自己中心的な思考ではなく、他人の為に尽くすことが有効なのだそうだ。心理学者の弁だ。
2016.03.30
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愛情深い人たちの中で少年の頃いたのだと思う。小さな世界だったが、小鮒と小川 とか、薫風戦ぐ思い出だ。恐らく私が、この世と別離れる時は、そのことを偲びな がら逝くだろう。ちと感傷的過ぎか。 自己満足の為になんでもする奴は許せない。然し、世に蔓延る風潮は止みそうにな い。いちいち相手をしていたら、こちらが疲れるが、被害を受けれるひとはそれど ころではないだろう。逃げないで対峙して排除するしかない。そうできないので あれば、他の方法を考えるしかないだろう。 皆、悩みはあるが、闘うしかない。愛情を発揮したいが、その場にいないだけだ。 それは、創らないだけかも知れない。 見えるのではなく、観るのだと思う。観る気持ちがあるから見えるのだ。 人間の目は見ていない、映しているだけだ。観ているのは脳だ。脳があるから 感情がある。脳は使う為にある。私たちの脳はどんな環境でも生きているだけの 準備があるが、ほんの一部しか使っていない。 もう半世紀前の、草の匂いと冷たい小川のせせらぎが今も脳の中にある。
2016.03.30
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できるだけ手間をかけまいとするが、人生とは関わることであり、ひと手間をかけることでもある。愛することも、手間をかけることではないだろうか。薔薇を育てるから、薔薇との係わりもできる。手間をかけて歩くから、歩く悦びも判るのだ。何かをするという手間をかけている。何でも便利になり、何もしなくなるのは可笑しい。寧ろ自分の自由な時間を使うべきではないだろうか? ・ウオーキングは手間のかかる遊びですが、私の寿命を延ばしてくれるのだと思う。それは正解ではないかもしれないが、それでも間違ってはいないと思う。然し、それも遣り過ぎたら逆効果になる。外に出て交通事故もあるし、事件に巻き込まれないとも限らないが、自宅でしっとしていても何があるかわからない。どこにも安全地帯はない。 ・へ2・・・アプリボワゼという言葉を知ったのは、フランス語の講座の時からで、日本語では、翻訳することが難しい。手間をかけることが愛だろうか。未だによく解らない。
2016.03.30
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容はぼやけて見えてくる。境界がなくなり、色になり、光と闇となり、そして光は遠のくのだろう。脳の神経細胞が分断され、ニューロンネットワークは滅んでしまう。生命さえ区別がなくなる。それは、元の化学物質に戻るだけだ。一つの夢が生まれ、消えていくに過ぎない。それがまた、私の人生でもある。ふと刹那、自分を取り戻している。 ・無言のなかで初めて、自分に戻る。そういっていることの意味はここにはない。ふざけるしかないのだろう。もう、広辞苑を引いてみることもなくなり、なにかのコピーでしかない。ここはどこかも分かりはしないのだ。私は少しも動いてはいない。時間も進んではいない。過去も未来もなく、現在もない。輝きもしない点である。 ・へ2・・・夜の明けるまでなにもしないでいる。善も悪もない。それこそジタバタしても何も見つかりはしない。柵ばかりの世の中で、どれほど焦ってみても、あの総理大臣の下で何ができるだろうか。好いこと何かあなたは、なにか見つかりましたか。
2016.03.29
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「マハーバーラタ」は、大叙事詩で「聖書」の16倍の長さ。桁違いのスケールだ。 叙事詩は、ひとの営みの歴史を物語っている。日々の暮らしで、忘れている何かがあるだろう。そ れが何かに触れて私たちに語りかけてくるが、それを聞こうとしないのかも知れない。 それでも、学ぶ価値はあるだろう。例えば、シンガポールは小さな国だが、世界の縮図でもある。 国家の過去も未来もある。耳を清ませば聞えてくる物があるだろう。ナイトサファリで、ヒトの太 古を想像することが出来るように、シンガポールの多民族社会は、これからのアジアを示している かもしれない。運命共同体の地球が見えてくる。世界でもっとも長い物語である「マハーバーラタ」は、何かを伝えようとしているだろう。それを 知ることがいま求められているのではないか。サンスクリット語で書かれた韻文の原典は18万行 あるという。情報が氾濫する時代にあって、この書は人生の指針を与えてくれるかも知れない。 何でも省略しようとして、ひとは、道を見失っている。 それこそ、全方位で未来に繋がる「偉大なコード」を真剣に探さねばならない。 平凡な暮らしの中にこそ、人間の生き方の真実があるだろう。
2016.03.29
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