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2002年08月20日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 昨日、信頼について書いていてふと思い出したエピソードがあった。この話は 「子どもと生きる」

 四年生のある日、いつもは夜更かしする息子が、僕が仕事から帰ってくるのを待たずに寝てしまうという日が何日か続きました。帰りが遅くても必ずといっていいほど、起きて待ってくれていたのにである。

 ちょうどその頃、コンピュータのCD-ROMドライブが不調で、使えなくなりました。そのことを話すと、心配してくれました。ところが、これは故障ではなく、バッテリーの残量との関係で起こることであり、ACアダプターをつなぐと、無事、使えるようになりました。

 そのことがわかった時、突然、息子はコンピュータの上にすわったことを白状しました。すわったことがばれるのではないか、と恐れていたところ(だから、このアクシデントがあってから、僕が帰る前に早く寝なければならなかったわけです)、CD-ROMがおかしいと聞いて、不安が頂点に達し、その後、故障ではなかったことが判明したとき、安堵すると同時に黙っていたことを白状したのでしょう。

 息子が白状したとき、僕は叱ったりはしませんでしたが、この出来事を今になって回想して思うことは、彼が僕のことを恐れている、という事実です。最終的には、彼は確かに白状したわけですが、なぜ最初からいえなかったのでしょう。

(引用終わり)

 昨日も書いたように、こちらが信頼しているつもりでも、そういう「つもり」は必ずしも相手には通用しない。僕のことを息子が恐れているとは思っていなかったので、息子の告白に僕は動揺した。

 さて、話を進めると…



 アドラーは援助について次のようにいっている。

「私たちがしなければならないのは、もしも本当に援助するのであれば、人に勇気と自信を与え、自分の誤りをよく理解してもらうことである」(『個人心理学講義』)。

 自分で解決しなければならないことは自分の責任で解決しなければならないのである。

 援助する側からすれば、求められないのに援助してはいけないと思う。「何かできることありませんか」とか「できることがあったらいってね」といい、相手が援助を求めてきたことについては、それができることであれば援助したい。しかし、援助を求めてもいないのに、人の課題に手出し口出しすると後に問題が起こることがある。

 小さな子どもが忘れ物をしないように毎日点検する。点検している限り当然忘れ物をすることはない。ところが、ある日、親が点検を怠る。そんな日に限って忘れ物をする。学校から帰ってきた子どもはいう。「今日はお母さんが忘れ物の点検してくれなかったから忘れ物をした」こんな時「課題」という言葉を学んでなくても、忘れ物をしないようにするのは、あなたの課題でしょうというような言い方をしているはずである。

 息子はやがて長じてこんなことをいった。

「僕には僕の生き方がある。親に〔自分の生き方について〕何をいわれないといけないというのか。僕の人生を〔親に〕決めてほしくない。ごちゃごちゃと〔生き方について〕いわれたくない」

 小学生の時息子がある日、隣にすわって時々頑張れといってほしい、といった。頑張れという言い方は多くの場合、プレッシャーになり、そういわれることが勇気をくじくことになる。親は子どもがいい成績を取った時に「次も頑張るのよ」というような言葉をいう。もしも子どもが次回も必ずいい成績を取れるという自信のある子どもであればいいが、たまたま今回いい成績を取ったという子どもは、もしもいい成績を取れなかったら、親は何もいわないで不機嫌になるか、あるいは、叱るということを知っているので、とにもかくにも結果がよければいいと考えてカンニングをするかもしれないし、さもなくば試験を受けないということもありうる。まだ達成できていないことにこんなふうに注目すると勇気づけることにはならないわけである。

 ところが息子はこういった。「僕はお父さんが横にすわって時々『頑張れ』っていってくれたらやる気がでる」。この息子の依頼はむずかしいものではなかったので、どれくらいの頻度で声をかけたらいいかという相談をした上で、息子の隣で仕事をしながら時々「頑張れ」といった。

 こちらが協力を申し出をすることもできないことはない。例えば、最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強しているようには見えないのでそのことについて一度話し合いをしたいというふうに申し出ることは可能である。このように本来自分の課題でないことについて協力して課題の解決に向けて尽力する時、このことを「共同の課題にする」という言い方をする。共同の課題にできるということを知ると、何でも共同の課題になると思いこむ人は多いが、先のような場合だと「嫌だね」という言葉が返ってくれば、そこで終わりである。申し出ても断わられたなら引き下がるしかない。「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わない。でもまたいつでも困ったことがあったら相談してね」というふうに。

 しかし、子どもが勉強していないことが気になる、子どもに勉強してほしいと思うのは親の課題である。子どもを援助する、あるいは子どもに協力するという美名のもとに容易に子どもを支配することになる。「あなたのために」という時、愛情という名に隠された支配かもしれない。あなたのことが心配だというのは、この心配から解放されたいということであったり、そういってあなたを自分の思うままに操りたいと願うことかもしれない。しかし、総じていえば、そんなふうに自分の課題を相手に解決させることはできない。



 課題を分離することは最終的な目標ではない。むしろ、協力して生きていくということが最終的な目標である。人はすべてのことを自力で達成するわけにはいかないからである。しかし先に見たように人の課題まで担おうとしている現実がある。そこで最初に課題を分離する必要があるわけである。

 人を援助することは、課題の分離が前提である。さもなければ、ただのサービス、あるいは、甘やかしにしかすぎない。





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最終更新日  2002年08月21日 03時08分26秒
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