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2002年08月26日
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 大学は八月の初めから休みに入っている。次は十月からなのでその間何もしなければせっかく身についたギリシア語の知識が雲散霧消する恐れがあるので二回に分けて夏休みの課題を出した。学生の一人から課題が届いた。初めての電子メールの挑戦だった。僕より年配の人で熱心に学んでられる。emailではなくてsnail mailで送りますという話をしていたので驚いた。

 大学生の時、ギリシア語の読書会に参加していた。この読書会はある大学の教授だった先生の自宅で開かれていた。医科大学だったので、その大学の医学生や医師を初めとして、他にも他大学のギリシア哲学を専門とする大学生、大学院生らが参加していた。「ギリシア語を教えてもらえることになった」と父に話したところ、「月謝はいくらだ」と父はたずねた。「それは聞いてないけど、たぶん、取ってられないと思う」と答えたら、「世の中にそんな甘い話があるわけはない。今すぐ電話をして聞け」と叱られた。父の言葉を待つまでもなく、見返りを求めずただ与えてくれる人が世の中にいるということは驚きであり、どうしたものか困惑していたのである。

 電話してたずねたところ、先生の答えは、「もし君より後進の人でギリシア語を学びたいという人があれば、今度はその人に君が教えてくれればいいのだよ」というものだった。私は、そういうわけで、その後何人もの後進の人にギリシア語やラテン語を個人的に教えたり、やがて大学でもギリシア語を教えるようになった。

 いつの間にかもう12年も大学にギリシア語を教えに行っていることになる。その間、いろいろあって、ギリシア語の講座がなくなるという危機もあった。その時は幸い、西洋史の教授がギリシア語廃止案に反対し、結局、この案は没になった。その先生は古典語を学ぶことの意義を教授会で説き、「ギリシア語の講座が消えることは奈良女子大学の恥である」とまでいわれたと聞いている。

 一人の年もあったりして僕の講座を終えた学生はそれほど多くはないのだが、昔、ただで教えてもらった恩をこんな形で返せるとしたらうれしい。

 さて、寛容について話し、その流れで課題の分離、中性の行動について書いてきたが、課題の分離について補足する。

 弁護士の大平光代が刺青を彫ろうとした時、彫り師から親の判がいるといわれた。大平は親に「刺青入れるから、判をつけ」といって荒れ狂った。その時、大平は、娘がこんなにひどいことをしているのに、叱ることもできないのかと絶望した、といっている。親を蹴っていいという理由はもちろんないので、娘に蹴られるのではないかと恐れた親が何もいえなかったことの責任の一部は当然子どもの側にもある。その意味では、この頃の大平の考えは甘いと思うのだが、大平が次のようにいっていることは注目に値する。

「私は、叱ってほしかった。本気で僕と向き合ってほしかった。でも、両親は一度も叱ってくれなかった」(大平光代『だからあなたも生きぬいて』)

 子どもを叱ることには賛成できないが、ここでのポイントは、親がどれほど子どもに関心を持っているかということである。時に課題を分離することで、ただ無関心であるということがある。相手の課題であり僕の課題ではないという理由で、放置してはいけないことがある。共に生きる人だからその人の人生に無関心であってはいけない。



 もちろん、このような論理で子どもの人生に干渉し、相手を支配しようとすることが多いので、このようにいうことは諸刃の剣の感があるが、相手に関心があることを伝えたい。あなたの人生なのだから勝手に生きなさいというのはあまりに冷たい。関心があることを告げた上で、もしも援助の依頼があれば可能な限り、助力したい。

 このようなことを可能にするためには関係をよくしなければならない。そのためには親は子どもを信頼したいし、子どもの側も親に対して横柄な態度を取ることは許されない。このような関係が成立しないとすれば、双方に何らかの点でなお改善の余地があるからである。





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最終更新日  2002年08月26日 01時15分05秒
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