誤射という概念は、戦争状態にはいない、平和なときの概念のような気がします。平和な状態であれば、間違いによって犯罪を犯したという、過失という考え方もできると思います。

しかし、戦争状態では、犠牲を計算しての攻撃が行われているように思います。ミサイルを撃ち込んで、目指す敵だけが殺せると言うことは事実としてあり得ません。その近くにいる民間人が犠牲になるのは避けられない。その時に、民間人を殺したのを「誤射」と呼ぶのは間違いだと僕は思います。間違ったんじゃなくて、正しく攻撃したけれど、その犠牲は計算済みだったと考えるべきだと思います。

ベトナム戦争の頃、ゲリラが逃げ込んだ村を捜索して、誰がゲリラが分からなかったときに、村人すべてを処刑するという論理を聞いたことがあります。これが戦争としては正しいんだという考え方でした。戦争状態の時は、誤射のように見えるものはすべて作戦の一つだと解釈した方がいいと思います。

自衛隊の行為は、果たして「誤射」という平時の出来事なのか、作戦としての攻撃なのか、実際にそのような事件が起きたときに、うやむやにせずに議論したいものだと思います。 (2004年01月29日 10時55分18秒)

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2004年01月28日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 石破防衛庁長官が自衛隊員が地元住民らを誤射した場合の責任問題について、「誤射というのは過失犯だろう。過失の場合の行為が殺人罪、殺人未遂、傷害、傷害致死罪に当たる場合は我が国の刑法が適用される。隊員の責任が問われることはあり得る」と発言したことが報じられたが、このような可能性があるところに自衛隊を派遣することがそもそも問題なのではないか、と思うのだが。おそらく誤射かどうかは(正射というのがあるのか?)事が起こった瞬間には判断できないだろう。殺人罪になることを怖れて判断を躊躇したら殺されるかもしれない。そしてそれがテロによるものであれば、「テロに屈しない」と首相らは、いつのまにか、テロの一掃が自衛隊派遣の目的であるかのような発言をするのだろうか。

 ブッシュ大統領は27日、クニワシエフスキポーランド大統領との会談の後の記者会見で、大量破壊兵器のイラクでの発見にまだ自信があるかという問いに答えなかったかという。フセイン政権打倒によってアメリカと世界はより安全になったと戦争の意義を語ったというのだが。 池澤夏樹 が『イラクの小さな橋を渡って』(光文社)の中で、イラク攻撃に反対する理由はいくつかある、として、まず、イラクはたしかに民主主義国家ではないが、それはまずもってイラク国民の問題であり、他の国が武力を使ってまで是正するべきことではない、といっていることを(pp.49-50)今も正しいと信じている。

 南木佳士の「さとうきび畑」の中では医師にマルクス・アウレリウスの『自省録』を読むように勧めるのは、八十一歳の「老婆」である。彼女は隣村からバイクで通院してくる高血圧の患者である。村の婦人会の読書会で読んだ本を手渡す。この本を風呂を焚きながら読んだので煤で真っ黒だという。このようなことは、日本の中のドイツ人と称せられる信州人を相手にしてよくあったという。本というのは生きることに根ざして読まれるものだということをあらためて思う。本を字面を追って要領よく内容をまとめあげることは読書とは何も関係ないことなのだろう。iBlog版の日記に 「読書をめぐって」 というエッセイを書いたが、高校生や大学生の頃はずいぶん背伸びをしていたと思う。もっとも年を重ねた今、人生や世界の真理にあの頃よりも近いかといえば疑わしいのだが。





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最終更新日  2004年01月28日 23時17分23秒
コメント(19) | コメントを書く


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Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
かすみ草 さん
先生にそう言ってもらえるとほっとして嬉しいです。最最後の行の僕は・・・あまり忙しくありませんからなんて先生、じーん。か~くんの日記の中に「先生の本を開くといつもそこに先生がある」と書いていましたね。この言葉いいですね。私もほんの少しで読み終えます。実はあるところで私なりに考えていました。夫にも考えを聞いて、納得しましたので進みました。饗宴もそうなんです。あるところでこれは妙に納得してしまって。ソクラテス登場の前ですが、こんなところで納得してはいけないのでしょうが、もともと男女の体は一つで・・・相性のいい男女はそのもともとの・・・とかというところです。そうだったのかと。同性愛の説明もこの説明で納得してしまって。 (2004年01月28日 23時56分43秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
かすみ草さん
 息子に、昼(夕方)に寝ているのを見つけられ、どうも仕事をしていないように思っているみたい(笑)。
 どこで立ち止まって考えられたのですか? (2004年01月29日 00時03分40秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
かすみ草 さん
Ichiro_Kishimiさん
>かすみ草さん
 息子に、昼(夕方)に寝ているのを見つけられ、どうも仕事をしていないように思っているみたい(笑)。
・・・・・
それは、早く中学生に職場体験に来てもらわなくっちゃ(笑)
 どこで立ち止まって考えられたのですか?
----
おそるおそる P143の最終行の誰かのためではなく自分のために、自分の得になるように(それが善の本来的意味である)の「得」の字は「徳」ではないか?と思ったのです。「情は他人のためならずのことわざのようになのね」と思いました。陰徳を積むという言葉があるの
で。はたと考えて先生が間違うわけないし・・・と思ってどう思う?と夫に聞くと、「こんな重要な字を君が言うような立派な先生なら間違うはずがない。著者は細心の注意を払って書いている。前後をよく読んで」ときっぱり一言。私は誤植かな?と。得という字の意味を色々調べました。先生のおっしゃるとおりですね。今考えたらお恥ずかしいです。忘れてください。 (2004年01月29日 01時04分06秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
かすみ草さん
 ありがとうございます。それは誤植ではありません。
 ギリシア語の善という言葉はためになるという意味で使われるのです。p.10をご参照ください。あることが善かどうかということは、そのことが自分のためになるか、あるいは、自分にとって「得」になるかという意味です。 (2004年01月29日 01時36分44秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
秀0430  さん

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
maruchann さん
P10から再読させていただいて・・・P13の4行目から*****引用******善を願っていても、何が善であるのか、何が幸福かについては、人によって意見は一致せず、善=幸福であるための手段の選択を誤るということである。*****引用終わり*********ここを読んで・・・
もしも一番最初は本当は普遍的な善のイデアとしてだいたいは一致していて・・それは知らず知らず「共同体感覚を感じよう」という感覚から発しているとすると、それを具体的に感じるためにはこの状態が必要・・という様に変化発達していく「目標」。(そこが意見が一致しない様相を呈していて)求めるものは外にあると思っている場合「手段を講じないと」感じられないと思い、それで「誤る」ということが起きるのだとして・・・もしそれを感じるために外に働きかけなくてもいいと知る程に自分の中に見つけることが出来たら、すでに自分は幸福であったのか、と知ることになり・・・・今、ここが善=幸福であれば、「手段」は消え、誤ることもなく・・。ということかな。と。。自分の中に見つけることは意志するだけでは得られないけど「もし、それがあったとしたら、この目標はどう変化するか?」と仮定して考えて行くという方法を書かれている本 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393364686/ref=sr_aps_b_/249-4286167-2876352 もあって、色々考えさせられました。

p143「自分の得になるように(それが「善」の本来的意味である)動いていい」のところ、私も最初は、あれ、、ええっと。。と、つっかえました。
返事を書く

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
つづきです・・・(前の投稿者名、半角英字・・(汗)
それで・・「徳」は「ある価値観における”良いこと、立派なこと”」だけど、
「得」は「その人がその人にとってプラスになると考えていること」という意味しかついていないために
より図式的で、[手段として]正しくても誤っていても使える数学的な表現のような感じだと思ったら、スッキリ読めました。♪♪♪
(2004年01月29日 19時33分36秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
秀0430さん
 自衛隊が派遣されたイラクは戦闘が行われていてはいけないという前提があるのでしょうね。平和であるというわけです(そうは思えませんが)。
 藤原帰一氏は、「誤爆で死んだ人のことを戦争では避けることのできない「付帯的犠牲(collateral damage)」などという言葉に押し込める、そんな正義があってたまるものか」(「アメリカの平和」、『テロ後』岩波新書所収、p.224)と書いていますが、この言葉を見ると、誤射や誤爆は作戦に織り込み済みということになります。ひどい話です。 (2004年01月29日 19時50分38秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
かすみ草 さん
Ichiro_Kishimiさん
>かすみ草さん
 ありがとうございます。それは誤植ではありません。
 ギリシア語の善という言葉はためになるという意味で使われるのです。p.10をご参照ください。あることが善かどうかということは、そのことが自分のためになるか、あるいは、自分にとって「得」になるかという意味です。
-----
私のほうこそありがとうございます。
あな恥ずかし。いやちょっと恥ずかし。
まるちゃんも同じとこでひっかかってらした。 (2004年01月29日 21時59分24秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
かすみ草さん
 たずねてくださるとありがたいのです。まるちゃんもコメントありがとう。コメント少しお待ちください。ちょっと今、締切に追われた仕事があって、時計見ながら秒読み(笑)。 (2004年01月29日 22時39分17秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
まるちゃんさん
今、ここが善=幸福であれば、「手段」は消え、誤ることもなく
-----
 どういったらいいか。僕が他の箇所でいっていることまで考えにいれて読むとわかりにくくなります。そんなにむずかしいことをいっているわけではありません。
 誰もがちょうど磁石がいつも北を示すように幸福を願っています(不幸であることを望む人はないということです)。それなのに、幸福になれないとしたら、幸福という目的を達成するための手段の選択を誤っているからです…こういう説明ではわかりにくいでしょうか? (2004年01月30日 10時35分51秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
Ichiro_Kishimiさん
>>今、ここが善=幸福であれば、「手段」は消え、誤ることもなく
-----
> どういったらいいか。僕が他の箇所でいっていることまで考えにいれて読むとわかりにくくなります。
-----
あ、すみません。つい。この文章の中の「手段の選択を誤る」は素直に読むべきでした。「手段」という言葉一個で、たとえばP210の最後から3行目の****引用****「なしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことである。********とか、そういうところまでどどどど・・・と連想して行ってしまいました。;^_^Aお忙しいところをタイヘン申し訳ありません。m(_ _)m (2004年01月30日 14時46分40秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
先日は「手段の選択」を誤りました。「P13の5行目を素直に読まなかった」のではなくて、他の本に「あるがままでだいじょうぶだという感覚(OKness)」という言葉の記載があるのを読んだとき、岸見先生と、ここで「あるがままでいい」という言葉についてお話したときのことを思い出し、(Zogchenについてのお話。)”その言葉は善く生きようと努力することとは違うのでは?”と問いかけられ、(たような気がしましたが)私の考えとして、「そうではなくて人間には誰にでも他の生き物と同じように幸福を求めるこころがあることを認めましょう、ということだと思うのですが」ということを言わなくてはならなかったのに漠然としていて言葉にならなかった。と気になっていたのでした。P13の意味は分かっていたのに、関連の単語をとらえてムリムリそういう事を伝えようとしたので、「間違った理由で手段も誤った」っていうことなんです。でもそれをしたかった理由は「あるがままでだいじょうぶだという感覚(OKness)」を他の人と共有したかった。という理由なのでやっぱり正しい理由(目的)だった。と思いたいのです。
P11の3行目には「すべての人は幸福であるのを望む」ということが「単に事実」と書いてあります。そのことについて「あるがままでいい」って言っているのだということを私がZogchenについて何も知らなかったために分からなかったのでした。あの時は執筆中にお時間をいっぱいいただいてしまって大変申し訳ありませんでした。 (2004年02月02日 16時06分25秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
まるちゃんさん
 不幸になることを望む人は誰もいません(と僕は考えます)。誰もが幸福を願っています。この議論に「あるがまま」という話しを絡めると話がめんどうになるかもしれません。僕がいいたいのは、幸福になりたいと思うだけでは十分ではない、ということです。方向は幸福を向いていても、それだけでは幸福になることはできません。幸福を実現するための手段を間違いなく選び取る必要があるのです。その意味では、あるがままということの意味が、幸福であることをめざしていればいいということだとしたら、あるがままではいけないということになります。
 でもあるがままという言葉を僕はこの文脈では使っていないのです。 (2004年02月02日 20時44分31秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
Ichiro_Kishimiさん
>でもあるがままという言葉を僕はこの文脈では使っていないのです。

そうですが、先生が書かれたというのではなくて前お話したときに「こころの本性は鏡のように元々清らか」かどうか、というお話になって、そうじゃない。という事だったような記憶があるのですけれど、どうでしたでしょうか?その本性のことを私が、「あるがまま」という表現をしていたように思うので、その言葉を書いてしまいました。
本性が清らかというのは「幸福をめざしている」っていうことなのかな。って思いました。先日の書籍に書いてあることをやってみたら。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393364686/ref=sr_aps_b_/249-4286167-2876352 (それで、そこにもレビュー書いてしまいました。)
あるがまま、は誤解を招きやすい言葉なので、「本来の」と言い換えると・・【「本来の自分は幸福であることをめざしていたのか。」と知ったら、手段が間違っていることに必然的に気が付く】っていうことも考えられるような気がするのです。
「幸福を実現するため」には「手段を間違いなく選び取る」ことの他にも、「手段は必要なかった」ということを知る、っていうのもあるのじゃないかって思ったのでした。それで、先日はそんな風な書き込みになりました。
そのことを思いながら先生の書かれたご本を読んでいると、そのことを、ギリシアの哲学者は知っていたのね。と思いました。 (2004年02月02日 23時53分44秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
まるちゃんさん
 ウィーンに行った時、シュテファン大聖堂の近くに泊まっていました。高い塔があって、この塔は高いので街のどこに行っても見えるから迷うことはない、という話を聞いていたのに、実際には、街中に出たらあっという間に迷ってしまいました。どこからでも見えるはずの塔が見えなくなったからです。ギリシア人はきっと塔はいつも見える、でも、道は一つではないので、正しい道を選ばないといけない、というふうに思います。後には、塔そのものが見えなくことがあるので見失わないようにしないといけない、と考えた人もいましたし、塔が見えても決して塔に到達することはできないと考えた人もいます。
(塔は幸福のたとえです) (2004年02月03日 08時42分42秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
Ichiro_Kishimiさん
私はうろうろと道を歩き回って、自分が何をしようとしているのか分からなかったのですが、街の中心に塔があったのか。って知ったら塔が見えていなくても心配なく、ゆっくり塔を目指そうとも思えました。他の人は是非すぐ塔に登りたい。って思うかもしれませんし塔が建っているところまで行って壁を触ってみないと安心できない人もいるでしょう。塔までの正しい道を示す、アドラー心理学や塔の位置が分かる地図であるギリシア哲学はすごい。って思っています。(たとえが変だったら教えてください) (2004年02月03日 10時35分28秒)

Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
Ichiro_Kishimi  さん
まるちゃんさん
 大体の方向を間違ってなければ、多少、途上で迷うことがあっても到達できるでしょう。急がないでゆっくり、時には少し後戻りしながら人生を楽しみましょう。 (2004年02月03日 14時31分47秒)

Re:Re:生きることに根ざした読書(1/28)  
まるちゃん さん
Ichiro_Kishimiさん
ありがとうございます。エネルゲイアですね。私はイデアと現実も混同しやすいので、注意しながら到達したいと思います。またいろいろ教えてくださいませ。
かしこ。 (2004年02月03日 16時51分34秒)

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