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2004年09月18日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 夢を見ていた。直下型の大きな地震があった。当然のことながら自分が無事であることはわかるので、無事を確かめるために電話をかけようとした。着信歴を表示させリダイヤルしようとしたところで目が覚めた。正確には目が覚めたように思った。僕は携帯電話をいつも枕元においているので、実際に電話をかけようとしていたように思った。夢の中でも恐怖で震えていたが、目が覚めても震えは止まなかった。あの揺れは本当にあったのではなかったか…僕は確かめることができなかった。近くに誰かがいたら、今地震があったか問うことができただろう。また、近くにいた人が、今の地震は怖かったといったとしたら、やっぱり本当に地震はあったのだと信じたであろう。

 地震の怖れは、持つものを失うことの怖れである。最近の日記で、学校の帰りバス停で待っている間、悲しい思いにとらわれたことを書いた。今、ここまで生きてきたのに僕が何も持ってないことに思い至ったのである。

 しかし、僕が何も持っていなかったら、怖れることはなかったはずなのである。フロムはこんなことをいっている。「もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう…私は持っているものを失うことがありうるので、必然的に、持っているものを失うだろう、とたえず思いわずらう」(『生きるということ』p.153)。知識ですら「持っている」と思えば、失うことを怖れることになるだろう。また、持っている知識を教えることができなければ、自分はもはや自分ではない、と思うことになるだろう。

 しかし、持っているものを怖れる不安や心配は、「ある」様式には存在しない、とフロムはいう。「もし私が、私があるところの人物であって、持つところのものでないならば、だれも私の安心感と同一性の感覚を奪ったり、脅かしたりはできない」(p.154)。

 フロムが次のようにいっていることが僕の注意を引いた。「持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する」(ibid.)。燃えてもなくならない「燃えるしば」は、聖書におけるこの逆説の象徴である。モーセが神の山ホレブにくると、ヤハウェの使いが、めらめらと燃えている柴の中でモーセに現れた。よく見ると不思議なことに、火が柴をなめているのに、柴は燃え尽きなかったのである(『出エジプト記』3.1)。「理性の、愛の、芸術的、知的創造の力、すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」(ibid.)。愛は愛されることではなく、愛することであり、また、得ることではなく与えることである、とフロムが考える所以である。愛は燃え尽きない。





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最終更新日  2004年09月18日 21時47分23秒
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