全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()
蔦屋重三郎は、1750年に江戸の新吉原で生まれました。 ”蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王”(2024年10月 新 潮社刊 増田 晶文著)を読みました。 貸本屋から身を起こし日本橋通油町の版元となり、北斎、歌麿、写楽ら浮世絵師の才能も見出した、蔦屋重三郎の生涯を紹介しています。 重三郎の本姓は喜多川、本名は柯理=からまるといいました。 通称は蔦重、重三郎、号は蔦屋、耕書堂、薜羅館などです。 当初は、遊郭を案内するただの細見屋でした。 20代で吉原大門前に耕書堂という書店を開業しました。 1774年に北尾重政の『一目千本』を刊行してから、日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担いました。 細見を刊行し、書店を作り、新人作家や浮世絵師を発掘し、洒落本や版画を出版しました。 版元として、多数の作家や浮世絵師の作品刊行に携わりました。 大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などです。 また、エレキテルを復元した平賀源内をはじめ、多くの文化人と交流を深めました。 そして、最終的に版元として一流の実績と富を築きました。 増田晶文さんは1960年大阪府布施市、現、東大阪市生まれ、1973年に大阪市内の私立中高一貫校に通いました。 1979年に、同志社大学法学部法律学科に入学しました。 1983年に卒業して、大阪ミナミのアメリカ村にあった編集プロダクションに入社しました。 1984年に、会社が広告企画の業務にシフトするため東京へ進出しました。 1994年3月に会社員生活に終止符を打ち、文筆の世界へ入りました。 しばらくはスポーツを中心に、実業家、作家、文化人とインタビューをして、雑誌に原稿を書きました。 1998年に、短編『果てなき渇望』で「文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞」を受賞しました。 2000年に、長編『果てなき渇望』を草思社から単行本で刊行しました。 同年に、『フィリピデスの懊悩』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞しました。 蔦屋重三郎は寛延3(1750)年の正月七日に生まれ、父は尾張出身の丸山重助、母が江戸出身の広瀬津与でした。 両親は譚つまり名乗り名柯理と名付け、通り名は重三郎と言いました。 重三郎は、狂歌をこしらえる時に蔦唐丸(蔦が絡まるに掛けている)というペンネームを用いていました。 数えで8つだった宝暦7(1757)年に、父母が離婚しました。 そのため親戚に預けられることになり、養父の姓は喜多川と言いました。 吉原で蔦屋の商号を掲げていましたが、親の生業や兄弟姉妹があったかなどは不明です。 曲亭馬琴は、重三郎の養父を叔父だと書き残しました。 馬琴は戯作者として大成する前の一時期、重三郎のもとで働いていたことがあったといいます。 叔父は、吉原にあってかなり羽振りがよかったそうです。 重三郎は、親戚に身を寄せたことで経済的な貧窮とは縁遠かったと思われます。 安永2(1773)年23歳の時、新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店しました。 お店は、吉原で引手茶屋を営む重三郎の義兄の、蔦屋次郎兵衛の軒先だったと言われます。 引手茶屋は、客と妓楼や遊女を取り持つ役割でした。 客はまず茶屋にあがって、豪奢な宴席を楽しみ、好みの遊女を指名します。 遊女が花魁であれば、妓楼から茶屋まで迎えにきてくれました。 ただし、吉原には茶屋経由など必要のない店もたくさんあったといいます。 当時の本屋は、多色摺りの浮世絵と、見開きに挿画を配した草双紙が主力でした。 一方、貸本屋は店舗としての本屋に負けない影響力を誇っていました。 長屋だけでなく武家屋敷にまで、風呂敷や葛龍を背負った貸本屋が入り込んでいました。 貸本屋には、身ひとつの商いだけでなく、たくさんの要員を抱える大手もありました。 江戸の本は、店頭販売だけでなく貸本することによって評判を高めました。 この年の秋に、重三郎は『這蝉観玉盤』を版木で印刷して発行しました。 これが、重三郎が出版にかかわった最初です。 安永3(1774)年に、吉原細見の改めの『細見鳴呼御江戸』編纂に携わりました。 吉原細見は、遊郭の最新情報を満載した案内書でした。 版元は鱗形屋孫兵衛といい、経営する鶴鱗堂は100年以上続く老舗でした。 年2回出されて、妓楼、茶屋、船宿の場所や、遊女の名前、揚げ代などが書かれました。 奥付には取次として、新吉原五十間左かわ蔦屋重三郎と明記されました。 内容については、最新、詳細、正確である必要がありました。 細見改には、廓内情報を収集する役割がありました。 そして、蔦屋の名で初めて大物絵師の北尾重政の評判記『一目千本』を刊行しました。 これはいわば遊女の名鑑であり、遊女を挿絵に擬して紹介したものです。 掲載してもらう遊女は、上客にねだって費用を出してもらったりしました。 開板した本は、遊女が名刺代わりに配りました。 遊郭や引手茶屋も、この本を販売促進用に利用しました。 安永4(1775)年に洒落本の『青楼花色寄』を刊行し、吉原細見『籬の花』の刊行を始めました。 この吉原細見では、中本という判型で旧来より一回り大きくしました。 一方、町内案内は見やすく軽便にして、鱗形屋より安く売れました。 8年後には、重三郎が吉原細見を独占出版するようになりました。 最上級の遊女は浮世絵に描かれ、その衣装や装飾は江戸の流行の先端となりました。 吉原は、老若男女を問わず足を運びたい町でした。 人々は細見を片手に吉原を訪れ、地方からの客は細見がお土産になりました。 そして、巻頭の序文には有名人を起用し、有名人との絆を世に広めました。 巻末の刊行物案内では、重三郎が手掛けた本を宣伝しました。 安永5(1776)年には、北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行しました。 この本は、当時の吉原の最高傑作とされています。 版元には、重三郎だけでなく問屋の山崎金兵衛も名を連ねました。 その後も、天明の時代から寛政の時代にかけて、一段と大きく飛躍していきました。 重三郎の狙いを満載した出版物は、江戸を席巻したのです。 狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出しました。 美人画や役者絵の大首絵は、浮世絵の主流になりました。 浄瑠璃では、富本節の詞章を写した版本が人気を博しました。 喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は、重三郎の存在なしに考えられません。 勝川春朗と名乗っていた若き日の葛飾北斎にも、眼をかけていました。 また、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝も大いに関係があります。 さらに、曲亭馬琴と十返舎一九は重三郎のもとで働き、初期作品を世に出してもらいました。 こうして築いた人材ネットワークが、江戸のメディア王に押し上げる源泉となったといいます。 出版活動を通じて、化政文化の端緒を開き礎を築いたのです。 そして、寛政8(1796)年秋に体調を崩し、翌年3月に脚気により47歳で死没しました。 本書は、蔦屋重三郎の発想、手法、業績を振り返っています。第1章 貸本屋から「吉原細見」の独占出版へ/第2章 江戸っ子を熱狂させた「狂歌」ブーム/第3章 エンタメ本「黄表紙」で大ヒット連発/第4章 絶頂の「田沼時代」から受難の「寛政の改革」へ/第5章 歌麿の「美人画」で怒涛の反転攻勢/第6章 京伝と馬琴を橋渡し、北斎にも注目/第7章 最後の大勝負・写楽の「役者絵」プロジェクト/第8章 戯家の時代を駆け抜けて [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]蔦屋重三郎ー江戸の反骨メディア王ー(新潮選書)【電子書籍】[ 増田晶文 ]眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎 江戸を熱狂させたエンタメ界の風雲児! 王様文庫 / 板野博行 【文庫】
2025.08.30
コメント(0)
![]()
武田家三代とは、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の三代を指しています。 ”武田家三代 戦国大名の日常生活”(2025年3月 吉川弘文館刊 笹本 正治著)を読みました。 戦国大名が乱世をいかに生きていたのかについて、甲斐武田家三代の日常生活にも目を向け、戦争に明け暮れたというイメージを再考しています。 信虎は1494年に誕生し、1507年に武田家を継いで甲斐国主となりました。 1519年につつじが崎に新館を造営して、家臣や商人職人の集住を図って城下町甲府を開創しました。 有力土豪が割拠していた甲斐を統一し、さらに積極的に隣国の信濃に侵攻して家勢を拡大しました。 しかし、1541年に信玄によって追放されて、駿河に退隠となりました。 信玄は、1521年に信虎の嫡男として積翠寺で誕生し晴信と称しました。 1536年に三条公頼の娘と結婚し、1541年に家督を継ぎ甲斐国主となりました。 隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、越後の長尾景虎と衝突しました。 今川氏衰退後、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち、同盟を破棄して駿河国へ侵攻しました。 1553年に始まった第1回川中島の戦いで有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しました。 釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にしました。 そして、商人職人集団を編成して甲府への居住を進め、城下町を大きく拡大しました。 交通網の整備も行ったことから、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。 1572年に、西上の軍を起こして三方ヶ原で徳川勢を撃破しました。 途中、室町幕府将軍の足利義昭の要請に応じて、上洛戦に転じました。 しかし1573年に、病気のため信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。 勝頼の代に美濃に進出して領土を拡大しましたが、次第に家中を掌握しきれなくなりました。 1575年の長篠の戦いに敗北すると、信玄時代からの重臣を失って一挙に衰退しました。 1582年には、織田信長に攻め込まれて、後を継いだ信勝ともども滅亡しました。 笹本正治さんは1951年山梨県中巨摩郡敷島町生まれ、生家は林業を営む農家でした。 1974年に信州大学人文学部を卒業し、長野県阿南高等学校教諭となりました。 1975年に名古屋大学大学院文学研究科へ入学し、1977年に博士課程前期課程を修了しました。 同年同大学助手となり、1984年に信州大学助教授、1994年に教授となりました。 1997年に名古屋大学文学博士となり、2009年に信州大学副学長、2016年に長野県立歴史館長となりました。 多くの人は戦国大名と聞くと、代表として北条早雲、武田信玄、上杉謙信などの名前を思い起こします。 それぞれのイメージを描く際には、戦国大名という名称から戦争が想起されます。 川中島の合戦、桶狭間の合戦、厳島の合戦などです。 戦国時代ということから、戦いに明け暮れて戦いは日常的であったと考えるでしょう。 戦国大名を取り上げたテレビ、映画、小説で、クライマックスになるのは戦争の場面です。 戦争を趣味や生活の糧にして、常に戦場に身を置いていた人はどれだけいたのでしょうか。 人間は本来的に、戦うために生まれてきた動物ではありません。 自分たちの利益を守ったり、新たな利益を獲得するために戦争をするのです。 けっして戦争、それ自体を目的として活動するわけではありません。 戦国大名も同様に、戦争することが人生のすべてだったわけではありません。 人が生まれるためには男女の関係があり、子が育つには家庭が重要です。 成長した人間もまた、子孫を作っていくのが人類の連環です。 戦国大名にも家庭があり、人間として一般人と変わらぬ日常生活があったはずです。 本書で取り上げたいのは、そうした戦争の場以外の戦国大名の日常生活だといいます。 この三代の間に武田家の領国は拡大し、支配のあり方も変化しています。 しかし、武田家は1582年に滅亡しましたので、武田家に伝わった文書が残っていません。 今から400年以上も前に滅亡したことから、利用できる材料はわずかです。 まして、日常生活を伝える史料は少ないのです。 特に、信虎の史料は数が少ないだけでなく、検討を要するものが多いです。 戦国大名として一括すると、三代の変化が見えなくなってしまうのです。 そこで本書では、戦国大名の武田家といっても、信玄、勝頼の日常生活を多く取り上げています。 著者は、三人の当主による差異に着目し、三代の間における変化を追うことにするといいます。 第一章では、三人の当主がいかなる過程を経て家を継いだかを確認しています。 家督相続には、戦国大名が乗り越えるべきさまざまなハードルや社会状況が見えるといいます。 第二章では、戦国大名がいかにして戦争で勝利していったかを確認しています。 戦いに勝つことが戦国大名の使命ですが、戦争より背後の意識や政策に着目したいといいます。 第三章では、戦国大名の統治者としての側面に光を当てています。 戦国大名はどうして人気があるのか、当時の領民の立場から述べるといいます。 第四章では、戦国大名と家族の関係を見つめています。 戦国大名にとって、家族とはいったいどのような意味を持つのかを明らかにしたいといいます。 第五章では、戦国大名がどのような毎日を送っていたか、日々の暮らしについてまとめています。 戦国大名の一生、教養や日常の信仰などについても触れるといいます。 第六章では、武田家の滅亡について記しています。 勝頼は凡庸な戦国大名ではなかったのに、なぜ武田家が滅亡したか明らかにしたいといいます。 そして、戦国大名についての神話が後世の人々によっていかに作られるかも考えています。 多くの人は、戦国大名は自分の力を頼りに意のままに生きた存在と考えているようです。 しかし、戦国大名の典型の武田家当主でさえ、思うがまま自分勝手に行動できたわけではありません。 社会と時代の制約の上で、必死になって生きていたのです。 神仏を絶対的とする中世的考えから、神仏も統治の手段とする近世的考えへの転換点にありました。 しかし覇者は一人のみで、多くはその下に座するか、戦って死ぬしか道がありませんでした。 勝頼の場合は、後者の典型的な例であったといいます。はじめに/第一章 日の出ー家督相続と家臣/第二章 戦うー時代を生き抜く/第3章 治めるー公としての統治/第四章 家族ー心の絆/第五章 日々の暮らしー日常の決まり/第六章 落日ーそれでも滅亡した武田家/あとがき/補論 武田信玄と川中島合戦 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]武田家三代 戦国大名の日常生活/笹本正治【1000円以上送料無料】その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末 勝頼vs家康の10年戦争、真田家三代と
2025.08.16
コメント(0)
![]()
ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、1909年ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人です。 経営学者として、現代経営学あるいはマネジメント の発明者として知られています。 ”ピーター・ドラッカー”(2024年12月 岩波書店刊 井坂 康志著)を読みました。 20世紀から21世紀にかけて経済界にもっとも影響力のあった、経営思想家であるピーター・ドラッカーについて、アウトサイダーとしての実像を紹介しています。 マネジメントとは、目標達成を見据えた組織の経営資源の活用やリスク管理を指しています。 分権化、目標管理、民営化、ベンチマーキング、コア・コンピタンスなど、マネジメントの主な概念と手法を生み発展させました。 未来学者とかフューチャリストと呼ばれたりしましたが、自分では社会生態学者であるとしました。 社会の生態に関して、東西冷戦の終結や知識社会の到来をいち早く知らせました。 産業社会と企業、そして働く自由な人間に、未来への可能性を見出しました。 井坂康志さんは、1972年埼玉県加須市生まれ、國學院大學栃木高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業しました。 続いて、東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専攻博士課程を単位取得して退学しました。 2020年3月に、専修大学より商学博士を授与されました。 東洋経済新報社を経て、現在、ものつくり大学教養教育センター技能工芸学部情報メカトロニクス学科教授を務めています。 上田惇生氏とともに、ドラッカー学会を創立し、NPO法人ドッカー学会の共同代表です。 2005年5月に、ピーター・ドラッカーに外国人編集者として最後となるインタビューを行いました。 ピーター・ドラッカーは2005年に亡くなりましたが、今なお注目されつづけています。 しかし、ビジネスや経営の世界では誰もが知っているのに、人物像はいまだに謎が多いです。 産業界や学界が取り上げてきたのは、ほぼマネジメントのドラッカーだったからです。 しかし一歩踏み込むと、経営論は表の顔に過ぎず裏側は、哲学、文学、芸術、全体主義批判の支えがあります。 それは、一つの問いの体系と言ってよい構成をとっていました。 実人生と問いの体系は、精密にリンクしていました。 そして、長年培われた知的土壌が発言を支えていました。 父親はウィーン大学教授で、家庭はドイツ系ユダヤ人の裕福な家族でした。 父親はフリーメイソンのグランド・マスターでした。 1917年に、両親の紹介で心理学者ジークムント・フロイトに会ったといいます。 ドラッカーは、第一次世界大戦を人生で最初の断絶だと見ていました。 その体験のあるなしで、世界の解釈は違ったものになります。 ドラッカーは早熟の天才ではなく、1916年に地元の公立小学校に入学しました。 悪筆と不器用で、自信もなく学校に適応できなかったといいます。 1919年に、私立のシュヴァルツヴァルト小学校に転校しました。 この小学校から、ドラッカーにとって運命的な影響を受けました。 ドラッカーの、生涯にわたる知的活動を決定づけました。 1918年にハプスブルク帝国は崩壊し、共和制が導入されました。 ドラッカーは1919年に小学校を卒業し、デブリンガー・ギムナジウムに入学しました。 しかし、ここでの8年間は退屈な時間だったため、外に目を向けるようになりました。 1920年代のウィーン体験は、後の全体主義批判につながるものでした。 当時のギムナジウムは、卒業試験に合格すれば大学への進学資格が得られました。 しかし、ドラッカーにはインテリ嫌いの傾向が芽生えていました。 1927年にギムナジウムを卒業して、ハンブルクで機械製品の貿易会社の見習いになりました。 勤務のかたわら、ウィーン脱出の口実だったハンブルク大学法学部に在籍しました。 講義には一度も出席せず、代わりにハンブルク市立図書館分室に通いました。 ここで、思想書や社会科学書を手当たり次第に読みました。 それが、本物の大学教育だったと振り返っています。 ここで、フェルデナンド・テニエスとセーレン・キルケゴールに出会いました。 以来、専業学生にならず労働現場で学ぶ人生を死ぬまで続けました。 1929年に、ドイツのフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー紙の記者になりました。 1931年に、フランクフルト大学にて法学博士号を取得しました。 この頃、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスから、度々インタビューが許可されました。 1929年に大恐慌が起こって、会社が倒産して失業しました。 直前は空前の好景気でしたが、ドラッカーの甘い予測は粉砕されました。 以後、ドラッカーはありのままの現実の観察を心がけるようになりました。 1929年から1933年まで、フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーという日刊新聞の記者生活を送りました。 記者生活のかたわら、フランクフルト大学で研究も行いました。 昼は記者として、夕方以降は大学での講義という日々でした。 1933年に、発表した論文がナチ党の怒りを買うと確信し、退職して急遽ウィーンに戻りました。 イギリスのロンドンに移り、友人の紹介でフリードバーグ商会に職を得ました。 ドラッカーはエコノミストとして、主にアメリカ株の取引き業務に携わりました。 生きて働く知性から、実践知が学知に匹敵することとなりました。 この頃、独力で大学の職を得る試みをしましたが、叶いませんでした。 1936年には、ケンブリッジ大学でジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受けました。 1937年に、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚し、アメリカ合衆国に移住しました。 当時、移民家族の生活は不安定で、なかなか職を得ることができませんでした。 文筆で生計を立てようとして、地元の新聞社をいくつか訪ねました。 紹介状なしで『ポスト』を訪ねて、発行人のユージン・マイヤーと面談して記事の前金を入手しました。 ほかにも、いくつかの新聞社で記事掲載の約束を取り付けました。 1939年に、処女作『経済人の終わり』を上梓しました。 この一作をもって、ドラッカーは論壇の寵児となりました。 1940年に、サラローレンス・カレッジから非常勤講師のオファーがありました。 1942年に、ヴァーモント州ベニントン・カレッジの専任教授となり、1945年まで務めました。 1942年に、『産業人の未来』を上梓しました。 1943年に亡命生活を終え、アメリカ合衆国国籍を取得しました。 1946年に、『企業とは何か』を上梓しました。 1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学、現在のスターン経営大学院の教授を務めました。 1950年に、『新しい社会』を、1954年に『現代の経営』を上梓しました。 1959年に初来日し、以降も度々来日しました。 そして、日本古美術のコレクションを始めました。 1966年に「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ、勲三等瑞宝章を受勲しました。 1969年に、『断絶の時代』を上梓しました。 1971年に、晩年の創造のため、西海岸に移住しました。 カリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務めました。 1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年に初めての小説『最後の四重奏』を上梓しました。 2002年に、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与されました。 そして、2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため95歳で死去しました。 ドラッカーの生涯は、大きく前半と後半に分けて見ることができます。 前半は、マネジメントの探求に至る少年から壮年期にかけての時期です。 後半では、期待をかけた産業社会の行き詰まりから一転して、コミュニテイ人間社会へ舞い戻ります。 19世紀は合理主義が進むとともに、生きた人間社会が否定される過程でした。 20世紀は、そのつけを支払うための100年間でした。 このような認識には、ビジネスの視点だけからは迫ることができません。 ドラッカーの紡いだタペストリーの、鮮やかな横糸のみではなく、縦糸に着目することが必要です。 ドラッカーの20世紀の苦闘と苦悩を抜きにして、その業績の全貌をとらえることは不可能であるといいます。第1章 破局 一九〇九ー一九二八/第2章 抵抗 一九二九ー一九四八/第3章 覚醒 一九四九ー一九六八/第4章 転回 一九六九ー一九八八/第5章 回帰 一九八九ー二〇〇五/終章 転生 二〇〇六ー [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ピーター・ドラッカー 「マネジメントの父」の実像 (岩波新書 新赤版 2045) [ 井坂 康志 ]カフェde読む 図解ピーター・ドラッカーのマネジメント論がよくわかる本【電子書籍】[ 中野明 ]
2025.08.02
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1