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民藝とは民衆的工芸の略語で、柳宗悦と美の認識を同じくする陶芸家の浜田庄司、河井寛次郎らによってつくられた言葉です。 ”民藝のみかた”(2024年11月 作品社刊 ヒューゴー・ムンスターバーグ著)を読みました。 民藝とは何かからいま日本で盛んになっている民藝運動まで、多岐にわたり読みやすく解説しています。 民藝品とは一般の民衆が日々の生活に必要とする品という意味で、民衆の民衆による民衆のための工芸といえます。 日々の生活のなかにある美を慈しみ、素材や作り手に思いを寄せるコンセプトです。 民藝運動の創始者の柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し用の美と称えました。 簡素で飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ民藝は、海外からも高く評価されています。 民藝のコンセプトはいま改めて必要とされ、私たちの暮らしに身近なものとなりつつあります。 今からおよそ70年前、日本の民蓼に魅せられたひとりのアメリカ人がいました。 東洋美術史家の、ヒューゴー・ムンスクーバーグです。 本書は1985年に発表された日本の民芸を海外に紹介するための書、 The Fork Arts of Japan の初めての邦訳です。 ヒューゴー・ムンスターバーグは1916年ベルリン生まれ、父親はユダヤ系ドイツ人、母親はアメリカ人です。 幼い頃に父親を亡くし、家庭の問題に加えユダヤ人として迫害を受けたこともあって、1935年にアメリカに移住しました。 ハーバード大学で美術史を学び、博士号を受けました。 日本や中国の美術品を愛好した父親の影響もあり、アジアの美術史を専門としました。 なかでも、中心は日本と中国古代の美術でした。 1952年から国際基督教大学に赴任し、4年にわたって教鞭をとりました。 そこで出会った同大の初代学長で民藝の蒐集家であった湯浅八郎の影響で、民藝への関心を深めました。 柳宗悦とも交流し、調査と研究を重ねた成果が本書に結実しました。 1956年にアメリカに戻り、1958年にはニューヨーク州立大学ニューパルツ校に美術史学科を設立しました。 長年にわたりアジアの美術、世界の芸術について、講義を行うかたわら多数の著書も発表しました。 そして1995年に、78歳で永眠しました。 今でも、ニューパルツ校に燦然と名を残しています。 なお、アメリカ心理学会会長を務めたハーバード大学の1863年生まれのヒューゴー・ムンスターバーグとは、叔父と甥の関係です。 弟のオスカーの長男が本書の執筆者です。 本書はもともと、外国人の目で日本の民藝を見つめてわかりやすくまとめた、外国人向けのガイドブックです。 現代の私たち日本人にとっても、当時の民藝の全体像を知るための良き道しるべとなります。 民藝について初めて英文で書かれた本として、きわめて重要な意味をもっています。 民衆的芸術の研究と体系的な収集は、19世紀末にドイツの学者たちによって始められました。 道をひらいたのは、ウィーンの著名な美術史家、アロイス・リーグルです。 1896年に、ロベルト・ミールケによって民衆的芸術の書が出版されました。 それ以来、ヨーロッパやアジアの各地で見られる工芸品についても、数えきれないほどの著作が発表されました。 日本における草分けは柳宗悦で、民藝を広く紹介してその評価を高めました。 柳宗悦は著書や寄稿文のなかで、日常生活で普通に使う器具の美しさを繰り返し褒めたたえました。 真の美とは、名前や芸術家としての経歴が知られていなくても、職人たちの手仕事にのみ見出されるといいます。 自己意識の強い芸術家が上流階級のためにつくった美術品より、素朴な人々が使うためにつくった質素な工芸品のほうが称賛に値するといいます。 工芸品にこそ、芸術に対する真に民主的な取り組み方が表れていると考えます。 名もなき職人の作品と著名な芸術家の作品を比較して、前者のほうが美の表れかたとして優れているということです。 民藝のなかに見ているのは単に抽象的審美的な美ではなく、実用と密接に結びついた美です。 民藝品に対する日本人の審美眼や敬意は、400年ほど前の初期の茶人たちに起源があります。 茶人たちが讃えた茶器のほとんどは、民器品でした。 そうした茶器の美の概念は、常に渋さの美という言葉で表現されます。 そこには簡素、静寂、礼節、空といった考え方が含まれ、自然美や健康美が高く評価されています。 茶道はただ美を眺めるだけでは飽き足らず、美しい物を実際に生活で用いた時に初めてその美を真に味わえるのだと説きました。 用に即した器物に注目し、美術品ではなく工藝品に対する深い関心を育みました。 富貴な階級の鑑賞用に作られた物ではなく、庶民が日常の暮らしに用いるために作られた物を重視しました。 そして、近年の民藝運動こそが対象とする範囲を広げ、そうした品物を日常生活で用いることを推し進めました。 この運動は、鑑賞するだけでは不十分であり、品物自体が庶民の日常生活に取り入れられるべきだと訴えています。 日本の民藝運動について特筆すべき点の一つとして、無銘性の意義を強調してきたことがあげられます。 民藝品はまさにその性質上いつもかならず無銘であり、個人が名前を記す必要のない世界の美しさを見せてくれます。 そうすることで、個人主義がはびこる現代の悪をいくらか正す一助となるのかもしれません。 本書の巻頭言に、日本の民藝の美を正しく理解することを教えてくれた柳宗悦氏に捧げる、とあります。 柳宗悦は、1889年生まれの美術評論家、宗教哲学者です。 学習院高等科在学中に、志賀直哉、武者小路実篤らと雑誌・白樺を創刊しました。 芸術を哲学的に探求し、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めました。 1913年に、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業しました。 心理学は純粋科学とはなり得ないと考え、アカデミズムに対する違和感を覚えたといいます。 このようなことから、独自の学問を形成提起していくこととなりました。 ブレイクの直観を重視する思想に影響を受け、芸術と宗教に立脚する宗悦独自の思想大系の基礎となりました。 ブレイクとの出会いをきっかけに、柳の関心は次第に東洋の老荘思想や大乗仏教の教えに向けられていきました。 1919年に東洋大学教授となり、1921年からは明治大学予科にも出講しました。 1923年の関東大震災を機に、京都へ転居しました。 同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。 木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行いました。 民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年から民藝の言葉を用いました。 1926年に、陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎の4人連名で、日本民藝美術館設立趣意書を発表しました。 1931年には、雑誌・工藝を創刊し、民藝運動の機関紙として共鳴者を増やしました。 1934年に、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立されました。 全国を手仕事調査でまわり、思想面でも実際面でも職人たちの生計を助けるなどの役割も果たしました。 1936年に実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設しました。 また、沖縄・台湾などの南西諸島の文化保護を訴えました。 人間は個人の自由を常に求めていますが、それと同時に、みずから生みだした新たな制約の犠牲になっています。 だからこそ民藝運動は、自我のない世界の美しさがどれほど奥深いものか示そうとしています。 そうした意味で日本の民蓼運動は単なる工藝運動を超え、新しい美の宗教としても重要と言って過言ではありません。序文 柳宗悦/第1章 日本の民藝の精神/第2章 陶器/第3章 籠と関連製品/第4章 漆器、木器、金属器/第5章 玩具/第6章 織物/第7章 絵画と彫刻/第8章 農家の建物/第9章 現代の民藝運動/謝辞/解説 いまなぜ民藝か/訳者あとがき [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]民藝のみかた [ ヒューゴー・ムンスターバーグ ]民藝とは何か (講談社学術文庫) [ 柳 宗悦 ]
2025.03.29
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上杉謙信は、戦国時代に越後国など北陸地方を支配した武将です。 ”上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実”(2024年10月 吉川弘文館刊 池 亨著)を読みました。 上杉謙信について、覇権、挫折、同盟、衝突などの戦国争乱を辿りその生涯を紹介していまう。 上杉謙信は、長尾為景の末子として誕生し幼名を虎千代と名乗りました。 長尾為景は長尾氏本家筋に属し、越後国の守護代を務めていた戦国大名です。 長尾氏は上杉氏の被官として、関東管領や越後守護代を代々務めていました。 1536年に為景が病死したため家督は兄の晴景が継ぎ、虎千代は春日山城下の林泉寺に入りました。 青年期の7歳から14歳までをここで過ごし、深い学識と厚い仏心を培ったと言われます。 その後、元服して長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となりました。 以後のいろいろな戦歴は、元服をした1543年に始まっています。 武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねました。 謙信の戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれます。 また、旗印の毘の文字は、自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた毘沙門天からとったものです。 内政や外交にも才を発揮し1578年に享年49歳で亡くなりましたが、その生涯は戦の連続でした。 妻を持たずに生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといいます。 池 享さんは1950年新潟県に生まれで、1974年に一橋大学社会学部を卒業しました。 1976年に大学院経済学研究科修士課程を修了し、1980年に大学院経済学研究科経済史専攻博士課程を単位取得退学しました。 1997年に一橋大学より、博士(経済学)の学位を取得しました。 1980年に一橋大学経済学部助手、1981年に大月短期大学専任講師、1983年に新潟大学人文学部助教授となりました。 1987年に一橋大学経済学部助教授、1991年に同教授となり、2014年に定年退職して名誉教授となりました。 専門は日本中近世史、特に室町時代と戦国時代の大名の研究です。 以後、ソウル大学校教授、歴史学研究会委員長、歴史科学協議会代表理事などを歴任しました。 上杉謙信の初名は長尾景虎で、関東管領の上杉憲政の養子となり山内上杉家の家督を譲られました。 上杉政虎と改名し、同家が世襲していた室町幕府の関東管領を引き継ぎました。 後に室町幕府将軍の足利義輝より偏諱の輝の1字を受け、最終的には輝虎と名乗りました。 正式な姓名は藤原輝虎で、謙信はさらに後に称した法号です。 謙信は合戦に明け暮れ、1561年の川中島合戦など派手な戦いも多く、1577年に加賀手取川で織田軍を撃破した一戦は印象深いです。 しかし、1566年の下総臼井城での手痛い敗戦もあり、百戦百勝だったわけではありません。 また、私利私欲なく信義に基づいて戦ったかどうかについては、再考が必要でしょう。 他地域からの援助要請に基づいて出兵することは、戦国時代にはよくあったのです。 何をもって信義とするかは、時代によって変わるのです。 信義を絶対化するのではなく、政治戦略的意味づけが必要となるでしょう。 謙信は、関東諸将の要請に応じて出兵を繰り返しました。 これにはまったく領土的野心はなく、関東管領として平和秩序の回復を目指したといいます。 もとをただすと、関東管領山内上杉氏と越後守護上杉氏との関わりにたどり着くといいます。 越後上杉氏は、関東の享徳の乱、長享の乱介入、顕定の関東管領就任などで関東政治と関わってきました。 はじまりは謙信最初の出兵から100年以上さかのぼり、政治状況は大きく変わっていました。 関東管領は鎌倉府体制の主要な担い手ですが、その位置や役割も変わっていました。 戦国争乱が何によって引き起こされたのかが、まず明らかにされねばならないでしょう。 必要なのは、室町幕府による政治秩序がどのようなもので、なぜ機能不全に陥ったのかを明らかにすることです。 その際大切なのは、社会のあり方に視野を広げることです。 既存の社会秩序維持システムで紛争解決できなくなった理由や、新システムがどう用意されたかです。 本書は、戦国争乱を通じて新たな政治秩序が生み出される過程を、社会動向との関わりのなかで見ていきます。 これによって、謙信の出兵の意義も歴史の流れのなかで客観化してとらえることができるでしょう。 「越後上杉氏と関東」で、鎌倉公方足利氏と関東管領山内上杉氏の成立までさかのぼります。 そこから越後上杉氏と家宰の越後長尾氏が生まれ、室町時代の関東政治に関わっていきます。 そして、鎌倉公方と関東管領の対立が高じて本格的武力衝突である享徳の乱が起こります。 そして、上杉氏一族内部での主導権争いである長享の乱へと続き、関東の戦国争乱が始まります。 越後上杉氏は、これに深く巻きこまれていきました。 ここを押さえないと、なぜ謙信が関東にこだわったのかも理解できないでしょう。 「長尾為景と関東」で、謙信の父為景は守護上杉房能を討ち国主として越後に臨み、享禄天文の乱など国衆らの抵抗を受けつつ戦国大名化していきました。 「長尾景虎の覇権確立」で、為景の路線を引き継いだ謙信は享禄天文の乱を終結させ越後の覇権を確立させ、、覇権確立を機に本格的外征へと路線を転換しました。 「関東管領体制の挫折」で、小田原北条氏との争いに敗れた関東管領上杉憲政が越後に避難してきて、これを契機に謙信自らが関東管領となって関東一円の支配を目指しました。 「越相同盟の成立と崩壊」では、謙信が北条氏と越相同盟を締結し、北陸方面に外征の主目標を置いて関東から撤退していきました。 「上杉謙信の遺産と波紋」で、謙信が実子を儲けなかったことから、養子の景勝と北条氏康の子の景虎の間で後継者争いが起こり、上杉氏と北条氏、武田氏との関係も変わっていきました。 最後に、「関東管領から普通の戦国大名ヘーエピローグ」で、関東戦国史のなかに越山を位置づけ、あらためてその歴史的意味を考えるといいます。上杉謙信のイメージープロローグ/越後上杉氏と関東/長尾為景と関東/長尾景虎の覇権確立/「関東管領体制」の挫折/越相同盟の成立と崩壊/上杉謙信の「遺産」と波紋/関東管領から普通の戦国大名へーエピローグ/あとがき/略年表/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実/池享【3000円以上送料無料】上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 第36巻) [ 前嶋 敏 ]
2025.03.15
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熊沢蕃山は江戸時代初期の陽明学者で、政治家、経世家です。 呼称について本人は自分を熊沢蕃山と称したことはなく、生存中に周囲からそう呼ばれなかったはずだといいます。 ”熊沢蕃山 まづしくはあれども康寧の福”(2023年10月 ミネルヴァ書房刊 川口 浩著)を読みました。 単なる学者としてではなく、儒教的価値を実現するため専心した為政者であった武士の熊沢蕃山の生涯を紹介しています。 江戸時代以前、呼び名は誕生から死亡までの間に、さらに死後においても、幾度か変わることがありました。 蕃山も、左七郎、二郎八、次郎八、助右衛門、伯継、了介、息游軒などと名乗りそう呼ばれていました。 しかし、この中に熊沢蕃山がないことに読者は戸惑われるかも知れないといいます。 熊沢は正式な名字ですが、蕃山とうのはそうではありません。 これは本来バンサンではなくシゲヤマと読み、自分の知行地の村に付けた名です。 一時期、蕃山子介と名乗っていたことはありますが、熊沢と蕃山を連ねて使ったことはありません。 異説もありますが、いつの頃からか誰かが熊沢蕃山と呼ぶようになり、それが次第に世間に広まりそのまま現在に至ったのだといいます。 川口浩さんは1951年三重県生まれ、早大高等学院を経て1974年に早稲田大学政治経済学部を卒業しました。 1985年に、同大学院経済学研究科博士課程を単位取得満期退学しました。 1986年に中京大学商学部専任講師となり、1991年に経済学部助教授となりました。 1994年に早稲田大学政治経済学部助教授となり、1996年に政治経済学部教授となりました。 現在、早稲田大学政治経済学術院教授を経て名誉教授を務めています。 専門は日本経済思想史で、社会経済史学会常任理事を務めました。 熊沢蕃山は1619年に京都の浪人の野尻藤兵衛一利の長男として生まれました。 8歳の時に母方の祖父の熊沢守久の養子となり、熊沢姓を名乗ることとなりました。 池田輝政の女婿の京極高広の紹介で、16歳のとき輝政の孫の備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕しました。 21歳のとき池田家を離れ、滋賀県近江八幡市近江桐原の熊沢家に戻りました。 島原の乱への参陣を許可されなかったために出奔したと云われていますが、詳細が不明です。 光政は蕃山を他の児輩と異なると評価していたため、蕃山の成長を考え敢えて世に放ったのではないでしょうか。 光政には、自藩といった枠を越えて個人を活かす道を選ぶ癖があったといいます。 蕃山は、桐原の地の熊沢守久宅で朱子学の勉学に励みました。 しかし、独学では満足できず、師を探し始めました。 そこで出会ったのが、滋賀県高島市の近江小川村に住む中江藤樹でした。 藤樹は1608年に近江国小川村、現、滋賀県高島市に生まれ、9歳のとき祖父吉長の養子となりました。 陽明学の確立と知行合一の道を実践し、のちに近江聖人と称えられました。 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。 人は生来備えている是非・善悪・正邪の判断力を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。 藤樹は愛媛の伊予大洲藩を脱藩して、母の住む小川村に戻り私塾の藤樹書院を開いていました。 蕃山は23歳のとき、34歳だった藤樹の塾に入門しました。 わずか8ヶ月間の塾生生活でしたが、蕃山は藤樹から学問と陽明学の思想を学び儒教信者となりました。 陽明学は実践の学問であり、机上では無意味だとされていました。 1645年に、再び京極高広に口添えを願い出て、備前岡山藩の池田光政に出仕する運びとなりました。 藩政に参与して零細農民の救済や土木事業で業績をあげ、三千石の番頭に命ぜられました。 蕃山の治国策は、儒教の普及、軍事面の充実、治山治水などに至るまで国政全般に及びました。 農本主義を唱え、治水・治山による農業政策を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与しました。 しかし、大胆な藩政改革で藩内からも幕府からも不審を招き、岡山を去ることとなりました。 このため、1657年に39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村、現、岡山県備前市蕃山に隠棲を余儀なくされました。 1658年に京都に移り私塾を開いて、多数の家下・武士・町人に師事されました。 さらに、浪々の中で幕府政策批判を続け、参勤交代や兵農分離策などを批判しました。 また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったため、保科正之や林羅山らの批判を受けました。 そのため、69歳で茨城県古河城に蟄居謹慎を命ぜられ、1691年に古河城にて享年74歳で死去しました。 蕃山の学問と思想は没後も多くの識者に影響を与え、やがて明治維新の大きな原動力になりました。 熊沢蕃山は、現在では、江戸時代初期の経世思想家として知られています。 その思想の根底には儒学思想と儒教的価値観があり、経世策はその応用編でした。 本書は、両者は一体不可分であるという立場に立脚しています。 蕃山は、自分が生み出した政策案を助言・吹聴するだけの学者ではありません。 蕃山は、生涯、自分の中では自身が学者であることをよしとすることはありませんでした。 儒教的価値実現のための政治・行政に注力・専心する、為政者としての武士であり続けました。 自己を武士であると確信している蕃山は、生真面目な信念の人であると言えます。 しかし、非妥協的で独善的な人物であるかも知れないのです。 このため、尊崇する門人・知人がいる一方で、忌み嫌う反対者・敵対者も少なからず存在していました。 その結果、蕃山の人生はいろいろな力によって右へ左へと揺さぶられ、数奇なものになってしまいました。 ある意味で、そこには自業自得な側面もなにがしかはあるかも知れません。 蕃山は薄幸な人であったかといえば、恐らくそうではないように感じられるといいます。 蕃山は、自己に与えられた天命のままに生きたように思われてならないということです。 蕃山の思想の基軸にあるのは、天道とか誠とかいわれる普遍的だと信じていた道徳規範です。 しかし、これは観念の世界における理念であり、そのままでは画に描いた餅です。 それゆえ、それは現実の中で具体化されなければなりませんが、幸運にも蕃山はその実現の場と力を得ました。 蕃山は誠に基づく治国安民という理念を具体化するため、備前岡山藩で身を粉にして働きました。 しかし、蕃山は池田家の家臣であったため、池田家のために働く対価として藩から扶持を得ていました。 ここには、普遍である誠と個別である岡山藩の二重構造があります。 なにごともなかったならば、この二つは矛盾せず相互補完的であったかも知れません。 ただし、両社が甑語をきたしたとき、蕃山はしばしば前者を優先して非妥協的・激情的な行動をとりました。 何が普遍で何が個別かの判断や、軸足をどちらに置くかあるいは折り合いをつけるかは、人それぞれです。 蕃山の弟の泉仲愛は、周囲との摩擦を生むことなく新参者でしたが藩主から信頼される家臣の一人となりました。 しかし、蕃山は、良し悪しは別にして、大人の度量を欠き普遍と個別の谷間に落ちてしまいました。 著者が気になることは、蕃山の思考の大前提にある無成長という経済のあり方であるといいます。 現在の日本では経済成長は当たり前のことと思われていますが、近年では一部に脱成長という主張があります。 ただし、前近代の無成長と21世紀の脱成長とは歴史的文脈を異にし、同一視することはできません。 しかし、蕃山を読むと人類史全体の中で近代は例外であり、前近代の無成長と将来の脱成長の間に超歴史的な一貫性があるのはないかといいます。はしがき/第1章 武士人生の始まりと躓き/第2章 師と君主/第3章 岡山藩政への参画/第4章 擁護と排斥/第5章 儒学思想/第6章 経世済民論/第7章 古河幽閉/あとがき/参考文献/年表・索引 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]熊沢蕃山 まづしくはあれども康寧の福 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 川口 浩 ]熊沢蕃山 その生涯と思想 [ 吉田 俊純 ]
2025.03.01
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