2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全29件 (29件中 1-29件目)
1

おぃらは、長いこと冬は植物にとっても動物にも「静的」な時間と捉えていた。しかし、最近疑問に思うようになったことがある。日本の照葉樹林帯とは違って、こっちは少し登ればブナの森なのだね。ところが、年輪を改めて見てみると、夏が広いのはわかる。しかし冬は狭いがそれでも広がりはある。そして、今頃伐採しても明らかに木は眠っていない。では、木が眠るのはいつなのだろう。桃の枝がぴかぴか光っている。これは冬至にはなかったこと。わずか半月の光の差が枝に影響してるのだね。こんなこと、生物の教科書にも載ってないが旧正月とはこういうものだという一例。夕焼けにきれいでした。そいで、これは同時期のヤマザクラの花目です。古代の人は植物の花を鼻と呼び芽を目と呼び葉を歯と呼んだそうです。つまり、同は胴でなじむからどうにでもしてくれって、それはないか。(笑)旧正月と大寒から春節に至る典型的な里山の現象です。あの「朴歯味噌(嘘)」の芽がりんりんと光りはじめました。これこそ春の兆しです。*今までずいぶんと「いかさま」の春を経験したと思うのです。それにしても木の芽の美しさよ。偽りなき鏡の生命を前にして自ら写すくりかえしクリックはおやすみします。
2006年01月31日
コメント(10)

おぃらの知り合いの炭焼き名人と言っても80歳を超えてるが、彼には主張したいことがあるそうだ。「地域集落にひとつは炭窯があるべきだ。そうすれば人々は幸福に土壌改良して農業の生産性を上げることもできるし、炭を焼きながらうまいものを食うことができる。それから、出来た炭でうまいものを焼いて食うことができる。おぃらの焼いている炭はリョウブの炭だ。行き先は秘密だ。」ま。アップルパイでも食いながら話するべ。炭焼きをしていると「おき」が沢山出る。それがもったいないから、窯の隣にオーブンをつくったのね。炭焼きの途中で炎をおこしながら、炭出しを待ちながら火をたいて鍋をぐつぐつして冬野菜とジャガイモのトマトソース煮なんてのをずるずる食いながらだよ。そうして炭焼きはつづけられるのだよ。今回の炭は精錬できなかっただけに残念な結果だったが、焼くと煙が出る炭だから、これでビーフジャーキーでもつくってみるか。いや、この炭ならば、良い味のスモークドビーフジャーキーができると、屈折した料理人のおぃらは思うのだね。失敗は無い。一切の無駄はない。失敗を失敗とするのは、脆弱にはぐくまれた大量生産の感性なのだ。過程においてアップルパイを与えてくれたではないか。ピザも。鍋も。騙すもの万一を牛耳る者にこそ失敗の結果よふりかかれ。おぃらはワンゼロの間の∞、白黒の間のグレーの間をゆらぐのだ。*なぜかよくわからないのだが、ブログランキングをクリックしてもポイントが上がらないのだ。悪いことした覚えないのだが。ま。しゃむない。*明日はピカピカ光る春について考察するです。クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月30日
コメント(5)

おぃらは心根がやさすぃ。ところが鬼にならねばならないこともあると知った。そうなのだ。おぃらの心の中には鬼がいて豆が食いたい、イワシの頭はヤダと言っている。炭焼きの親方になるとは素材選びから厳密にしなくてはいけない。窯に、ちぐはぐな太さの材木を入れてしまった。それがまちがいのもとである。蕎麦とスパゲティーとうどんとラーメンを同時に煮るようなものである。そんなことをしてはいけないのだに。しかし、おぃらは、心根がやさしいので、失敗の原因を一身に背負ってしまったのだね。*「おーーぃカケルさんよーー。いつ開けるんだよ。」おぃらは窯の呼吸をすぅはぁーとずーーっと見ていたのだに。ところがだ。こうなってしまったのは、もう精錬もできないほどに燃焼がちぐはぐだったから。いやはや。炭は消し炭になってまった。精錬していないから、キンキン音がしないで、ぼこっと音がして小さく割れてしまう。ま。そこいらのところはじっくりと反省するのだに。前回のクリスマス(冬至)はうまくいっただけにくやしいっ。(笑)*旧正月なのだ。われらが炭火オーブンも久々の活躍というか、目的を思い出しておくれよとばかりに今日は大活躍。中に入ってるのは、ピザですが。。焼けるとこんなふうに。ま。親方としては、商売で炭焼きしてるのではないからと数名に言われたのですが、納得いかんのです。自分自身に甘かった。一部の炭がもし精錬をきちんと踏んでいたら、良質な炭になっていたとわかっているだけに忸怩たるものがあります。だみだ。リベンジだ。旧正月の失敗に、黄金の夕日を背に負って、山を下るおぃらなのでした。われらがオーブンの報告は明日も続きます。クリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月29日
コメント(8)
えっと、酒のみはなんで不摂生なのでせう。今日は、炭焼きの親方してきました。ってことは、コンビニでソルマックを買ってぐびぐび飲んで炭窯の前に立ったのです。たぶん、これは一生のチャンスだからとても大切なことだからなので。炭を焼くことができなければ製鉄はできない。それは、次男の自由研究につきあってみて納得してわかったことなんだけど、炭窯に呼吸させるタイミングを見定めるのが炭焼きのキモのキモであることは、おおよそ納得した。だから身体におぼえさせようってことなのだね。焚きはじめと炎が窯にまわるまで、そして煙の上がりを見るのだ。煙が蒸気機関車のぽっぽみたいに上がるか、その煙は冷たいか暖かいか、それによって見えない窯の中を見るって、その極意を掴む最終段階にいるのだ。おぃらは。*「カケルさんよ。前回の薪のくべ方が違うよ。」語りかける人は問うのだ。そぃで、仲間の一人はおぃらにことわりなく炎に薪をくべたくなって、おぃらがじとっと睨むとその手をひっこめるのだ。ふんっ。おぃらは「親方」なのだっ。(笑)前回と違うのは、全快は竹の白炭であって、今焼いているシイタケのほだ木より太い炭ではなぁい。からだっ!おぃらはゾロアスターの教えによって火をつけたら、その火がどのように窯に回るのか時折竹のコンプレッサー(単に火吹き竹とも言うが死語に近い)を使いながら炭窯に息をかけるのだ。炭窯で火吹き竹を使うのは、たぶんおぃらは自分のことしか知らないから言うのだから、日本ではここだけなのだわ。(謎)あーまたデジカメで写真撮影わすれっちまったよ。炎を見極めるってこのことなんだって、ま。写真ではわからないし、現場で炎に手をかざして初めてわかるんだよな。*そいで、水亀屋さん、ありがとう。こちらからそっちのページを紹介して良いやら判断がつかなかったので、謎だけ残しておきます。ヒスイの玉ですが、おぃらは「あれれ」と思いました。というのは、ヒスイの玉の構造が計算尺だからです。そして、目盛りが12なら納得しますが、13だったので、謎がふかまりました。更に内部は4です。「玉」とは円形計算尺だったのか。そぃで計ったのは何を。今、カレンダーになびいているので、おもうのですが、季節ではなかろうかと。(笑)そもそも、「四季」という概念は古代に同時多発的に人類に起こった認識なのでしょう。*そぃで、今日は大晦日。新年まであと2時間足らず。身辺で新年らしきものを捜したら。「桃の枝」です。午後の日差しが長くなった光を受けて桃の枝がピカピカ光ってました。これを我が正月の兆しとしよう。明日は炭窯から窯出しするです。シイタケのほだ木より太い炭ができるやら。ま。それは、でたこと勝負。おーーぃ清水国明さんよ。アウトドアテーマパークで、炭焼きはどうよ。明日は、炭出しした、ナンを焼くでよっ。(笑)おぃしい旧正月に自然薯の味噌焼き芋なんてどうよ。(笑)クリックしてね! ←必ずクリック・・ぼそっ。(笑)
2006年01月28日
コメント(11)
あったまいてー。。
2006年01月27日
コメント(3)
朝、家を出ようとして玄関の戸を開けたら凧のように飛ばされそうになって風上に尻を向けた。そのまま、丸い「でんでんむし」になって駐車場に行き、スターレットに乗ってひといき。さてち。白い息を吐くとデジタル時計は7時8分です。エンジンかけて出発!!北国の皆さんは似たようなもんだろ。「北国の夜型同盟」でもつくろうかね。(爆)吹雪の朝は、つらい。この歳になってなお、布団の中で欠勤の言い訳を考える。朝の地吹雪を超えて仕事を始めれば、思考にぽっかりと空間がある。これも北国の皆さんならわかるかもね。はじまってしまえば、どぅってことないのだ。帰路は、またもやすごい吹雪で車が煽られて揺れてハンドルがとられる。そうか。だから正月は今なのか。指折り数えるとはこのことか。旧正月は29日だよ。*家に帰り、トウガラシ味噌うどんを作ろうとしたらネギがない。全身に着込んでスパイク長靴を履いて真っ暗な中、ネギを掘りに行ったです。すべらないんだよね。朝、そうしたように風上に尻を向けて蟹歩き。よぃせっ。よっこらせっ。そぃでネギにたどりついたら、ちべたい雪を掻いてスコップでまたまた、よっこらせとネズミ堀します。ネギは黄色です。やわらかです。我が家のキッチンスタジアム(死語か?)に戻るとサトイモ、糸こん、ニンジン、戻したシイタケ、凍み豆腐、ささがきごぼうと鶏肉団子が土鍋の中、味噌仕立てで待っています。そこにうどんを放り込んだら、とーばんじゃんをちびっと。「かんずり」は有名だよね。でも今、家では切らしている。おぃらは小麦粉の細いもの。つまりそうめんからパスタまで幅広く支持される辛味だと思うのね。もちろん、雪がないとあの味が出ないのもわかるよ。だからなおさら思うのは、「辛味世界商品」に北国からデビューできる可能性があるってこと。イノシシの被害おびただしい里山農園だから、対策をしよう。どうすれば合理的にイノシシにトウガラシを食わせることができるか。*そういえばトウガラシにあたためられている。今年は。熱燗と味噌鍋の根菜うどんとおじやにあたためられて安定した腹に、トウガラシを入れてみた。はじめはちっとビクビクだったけど、もう安心したからどばどばっと一味トウガラシを若い日のように入れてみるのね。そうしたら、3日目ぐらいから肌の色が変わってきた。あの伝説の「カプサイシン肌」だよ。え?そんなの聞いたことないって?。そらそーだ。今おぃらが作ったんだ「カプサイシン肌」という言葉。間違いなく皮膚はトウガラシを味わっている。そして毎朝ほっとビタミンCを飲んでいるからだろうか。全身の皮膚がビリビリして吹雪に対峙している。こんな感じは実に実にひさしぶりだ。更に、タバコをやめたからヤニ臭くない。*地吹雪の下から掘ったネギをぶつぶつと切って鍋に入れて甘みに変わる一瞬を待つのだよ。君よ。この一瞬を逃すとだらしない鍋ネギになるのだ。そしてシュンギクもそこに向かって鍋を泳がせる。さてと、うどんを入れるぞ、ネギとともに。はふはふ、ずるずるっと背中に汗をかくその主役は。雪の下、黄色のネギだよ。クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月26日
コメント(1)
日本の株価が上がってたよな。数日前までは。それがたった一人の仕業でぼとんと落ちた。これほどまでに基盤は脆弱だということだ。持ち直しただって?始まったばかりなんだ君よ。これから食い散らすハゲタカがやってくる。そこに「日本」というボーダーはないから、日清のカップヌードルを食べよう。*おぃらは、グレゴリオ聖歌の「クレド」周囲をうろうろと歩き回る。ここぃらに「異端の神学」の核心があると思うからだ。もちろん、おぃらは裁かない。裁かれないためである。慎重に「火」に関する言葉を選び嘗めて捨てる。なぜ聖書記述者たちは、最も伝説をつくるにふさわしい少年から青年期を閉ざしたのだろう。荒野の誘惑にしかその記述はない。そして本当にクムランは彼が過ごした場所なのだろうか。まさかね。おぃらは思う。巨大な仏像とキリストイエスは出会っていたかもしれない仮説を否定する者はいないだろう。地面はつながっているんだ。便利な世の中はひとつの傾向あるテーマを選択して調べはじめるとリンクして拡散しながら意思があれば合致する答えを与えてくれる。*しかし、おぃらは「アナログが基本」だといつも思う。アナログレコードがすべての基本だし、時計はアナログでないと気分を計れない。この日記でも「少年時代」を何度か持ち出したけど、どうだろう。実は20世紀最後の部分近くの「濃い」日々は、様々な発想があったからちっとデジタルをアナログにひきなおしたら、すごい商品が生まれるかもしれないっす。たとえば○とか・・あ。「み・た・なっ・」(笑)アナログを使ってデジタルを完成させたらそれだけで・・(笑)クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月25日
コメント(3)
よくわからんのだが、最近変なひとたちがあちこちの門戸を歩き回って質問している。どうやら「下流」な人なのかどうか聞いているらしい。年収を聞くそうだ。その結果、「下流」かどうか白黒つけるのだという。彼らの質問は「ワン、ゼロ」だ。白黒の間にグレーはない。そのように彼らは教育されてきたし、ゲームの世界でもそうして生きてきた。だから命もワンゼロだ。ワンゼロと白黒の間には長い長い∞があると言うと彼らはそんな筈はないと言う。その根拠として彼らは言う。「だってボクらは優等生だもん。」*「里山を買おう」は不動産を買った話なので、ちっとおさらいしておこうか。長い不況で日本はすごく安くなった。そんなことは誰でもしってるね。でも安くなった原因がもうひとつあるのだね。それは、金融機関の「不良債権処理」なのだ。たとえば貸借対照表に不良債権があると貸倒引当金をたてなきゃいけない。これが税務上と会計上の考え方が全くちがうのね。そいでこの国がした手法は会計上の「貸倒れを統計的に見込め」ということなのだけど、統計的手法がどのような方法なのか果たして竹中氏はガイドラインを示したのだろうか。少なくともおぃらがあちこちで目にした計上方法は統計学とは縁もゆかりもない、「掛け算と割り算」だった。もし正さを追求するならば偏差が発生し、それを注記しければ正しい数学を用いた会計学にはならないだろう。もちろんそんなことを彼らは知っていたはずだ。ではなぜこの国を泥沼にぶちこんだのか。この国を泥沼にぶちこめば利益があがる。つまり、不良債権は金融機関にとっては荷物だから売却してしまったほうがいい。1億円の貸し金が足かせになるならば1円で売却してしまえ。外資がスキームを作って準備している。そしてバランスシートにあった一億円の不良資産は1円で売却されることになる。地域経済なんて関係ない。ところが、地域(コミュニティー)では大騒動がおこる。地域の中核となる不動産(建物や施設)がわけのわからん外資のものになってしまう。◆これが想定内のスキームだ◆待っていたかのように1円で買い取った債権管理会社は8000万円で騒ぎはじめた人たちに価格提示をはじめた。つまり、1円で買って8000万で売りに出したってこと。はじめはほんの数社だったような気もするけどあとは、ばたばただったような。。。こんな取引が不良債権処理の中で繰り返されていった。身近な地銀の人に聞いてみ。ある筈だ。無いはずはない。竹中さんは、そんなこと、民間がやったことだから知りませんと言うだろう。そして彼は守られる。だって彼は小泉をたてにして、周りには数年間でいつのまにやら権限を強めた連中が集まっているから。ただ、ときどきしっぽが出ることがあるんだよね。たぶんホリエモンもそこで尻尾をだした。その名は「タックスヘブン」。ペーパーカンパニーでシンジケート団が作った会社で擬似金融取引をつくってしまうんだ。でっかい資金を調達するときはここに動きがある。かつておぃらは巨大金融の断末魔にもつきあったのだ。その名は言うまい。*10円玉、100円玉を数えて伝票と合わせる。ある人のところに伝票と千円未満の金額の金員を届ける。「砂利銭だわ」と彼女は受け取った。しかし、おぃらは知っているのだ。彼女は借金をしている。そのもともとのオカネは金利0パーセントで、それを不良債権処理しようとしている銀行が借りていてその金は、テレビでCM流している有名高利貸しに貸し付けられて、有名高利貸しは金利を高くしてリスク分散しているから、債権の引き当てをする必要もなくて、国民的人気アイドルに化けて言うのだ「計画的に」と。国民の多くが不利益を生む構図はきちんと図示して小学生にでもわかるように開示しなくてはならない。「オカネはだいじ」なんだから。うちでは納税者で運営されている学校が一向に教えようとしないので、きっちり教育しておいたです。*優秀な連中はあなたの家の前に立って白黒を言い始めるかもしれない。でもそのときは、きっちり言おう。「幸福とはグレーでもある」ってね。(笑)セレブとか下流とか土地に種も蒔かずに言うんじゃねぇよっ!!クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月24日
コメント(0)
あったりめぇだろが。一番儲かるのは「種屋」だよ。「た・ね・やっ・!」おぃらは、少年の日に知り合ったじいさんに教わった。しかし、そのじぃさんは金儲けするつもりはなかったようだ。今はとてもよくわかる。彼は名誉が欲しかった。だから無償で自分が選抜した果樹の苗を種苗の市場に放出した。そのもとになった老木はまだ元気にしている。春になるとすばらしい花を咲かせるその名前は・・・*たぶんその苗木は今頃中国に行っているだろう。育種した本人がまだ100才で元気だったらよろこんだだろう。しかし、80歳から100歳の壁はどこにあるんだろうか。某、有名医師とは同じ教団教派だったんだけどねっ。(笑)こんなに有名人になるとは思わなかったよ。逆に言えばそれだけ「欲」があったってことだろう。人は表面ではわからんのね。ましてマスコミにでる顔だけでは。*会計はきもったまがちいさいやつにさせたほうがいい。人事は記憶力だけが優秀な奴に。教育は「パーツ」を社会に押し出して来る。しかし、言っておこう。教育システムでしかこの国の教育が養成した人は使えない。ホリエモンはようやく卒業式だね。その意味がわかるかな。この国は最も重要なことを何も私に教えてくれなかった。子供に納税のポスターを書かせることではないだろう。タックスペイヤーである自覚を学ばせること。それは権限であり、その税を使うときにはどれほどの慎重さが要求されるかということでもある。私はこの国を「今のところ」愛さない。この国が私を愛していないからだ。そして愛国心などということを私の子供たちに強要したら私は要求する奴に石を投げる。あなたは、私の息子を愛しているのか。私の認識は愛とは名前を呼び続ける行為である。わけのわからんやおよろずのカミの一人にされることではない。すべては絶望から始まったのだと思う。絶望の連鎖にくぎりがついたのかな。いや。始まったばかりかもね。ちっと今夜は乱れて御免未来人に聞いて明日を作るのが正しいと思う。クリックしてね。人気ブログランキングへ!!
2006年01月23日
コメント(5)
ったくなんでオメたちゃ、こんな木を切るのだぃ。こーゆー木はシイタケの駒打ちにちょうどいいコナラだが、薪炭向きではない。ここにシデの若い木があるではないか。それにリョウブだ。西の国では備長炭とか騒いでるが、北の国ではシデとリョウブだぞ。シデは「ウシコロシ」っても言うんだ。年輪のきめが細かくて硬いからな。とにかく。そいでこの槍で牛の眉間を突くからウシコロシって言うんだ。それだけじゃねーぞっ。ハンマー買ってきたら柄がついてるべ。これを交換するんだ。びぃぃんて痺れるからよっ。*炭焼き窯の前に丸太が並んでいる。そんな馬鹿なっ。(笑)というわけで冒頭の文句になるのですっ。完成した炭を通常は想定して伐採するのですが、おらたちのメンバはそうもいかず、ばたばたと想定外の木を次々と窯の前に運んでくるのですね。しかし、親方としては無下に却下するか否か、あたたかい心でしばし悩み、失敗も連中の糧のうち。と、決めました。宣言したのです。「窯の温度によっては半焼けの炭になる。努力はするが保障はしない。伐採の結果は、をのをのがたが刈り取るように。」そいで、大寒がすぎたとたんにさえずるシジュウカラ、ヤマガラの歌に包まれツグミはいないぞ。あの声はジョウビタキ。こうして日は去り月はすぎる。*なのだが、カレンダーを眺めるとなぜ7週なのかと不思議におもうのだね。そして季節を分ける最小単位について思うのだ。7日で1週は本当にリズムをあらわしているのだろうか。砂漠の民はそれでよかったのかもしれない。ところが、こっちのアジアの季節は大忙しだ。いつも生産と収穫のカレンダーで活動しているから獲物を狙って舌で唇を嘗めている時間が無い。そんな議論の痕跡をたどると7に落ち着くまでは5にしようかそれとも3かなというところはあるけどなぜか「4にしよう」とか「8にしよう」という痕跡がない。*なるようになる。あるがままになる。その言葉で考えてみると天空に素数を求めたんだねと確認してみる。そして季節は「セット」で現れる。更にカレンダーは明日のためだけにあるのではない。「始末」のためにカレンダーはあり、日記はとりえあえずその役割をはたしているがすべてではない。発見だけが日記ではない。「永遠に始末する」も日記だ。そぃで、たぶん現代人に欠落したのは始末する行為だ。さてと。今日がおわり、明日が始まる。今、心はとても不安だ。カレンダーの、どの素数のまとまりの今日だったのだろうか。始まりだけ数えておしまいを数えない私は現代人で、今罰をくらっている。ドストエフスキーが描く都市の人そのままに。オリジナルに72候をつくろうとして、早くも挫折あなたのカレンダーは語りますか?クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月22日
コメント(0)
大寒明けの朝、雪の山を巡る。河原で鴨の様子を眺める。コナラの何度も更新されたおやじ株の梢で聞こえた。シジュウカラがさえずりをはじめた。*ずっと鉛色だった自我が銀色になって春節に向かう光の中で虹色になった昨日を思い出す。そうだったのか。なにも自分が特殊能力を持っているわけではない。だれでもこの季節には地吹雪の夜を超え、銀色の朝を迎え、朝の光をうけとめて虹色になることができるんだ。ただ、あまりにも明らかすぎて、そして失われた日々も早かったから言葉に記録する人がいなかっただけのことかもしれない。しかし。力強い。今年初めてさえずったのか本当にというほどに確信を持ったさえずりだね。あるがまま。ありのまま。なるようになる。そのようになる。命の営みを見える現象や形質だけではかることはできない。音と音楽とそれを支えるリズムは明確に営みの根幹にあるのだろうね。*薪ストーブに薪をくべる。午後から曇った空にオオタカが来た。「痩せてたね。」「雌じゃないよね。」「雄だよ。若い。」「尾羽みた?」一瞬の影に、会話は延々と続く。ニコンの最新デジカメに巨大なレンズをつけた人が現れて去っていく。*鳥たちは太陽カレンダーの生物だ。そう確信したのはツバメの飛来を確認したとき。白鳥の飛来は満月と関係するのか、カレンダーを眺めてみたが確信はもてないでいる。虹色になった昨日の自分の心のクルミを思い出す。そして間違いないだろう。シジュウカラも昨日、虹を得たのだ。私が世界であるように、世界が私であるように。*明日は、伐採する。コナラの細い木。そして窯に詰める。また炭焼きだが、今度は火力が強いナラ炭だよ。焼肉焼き鳥用には最高なのだね。そいで伐採する木は明日適当に決めるのだが。適当に決めるということは、ほどほどに最高だということなのだ。どれほど適切かといえば、ニンゲンは山と蟻の中間の存在であり、氷と太陽の中間の存在で月となかよしってことなのだね。(笑)ま。そういうことだ。明日はまたチェンソー鳴らすぞ。(笑)小鳥たちはさえずりをはじめたけど・・どうする君よ。クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月21日
コメント(4)
朝、起きる。ばたばたとみじたくをして玄関から飛び出す。雪の朝は早めに家を出ないと渋滞に巻き込まれるから。電気かみそりとアルコールティシュを紙袋に入れて愛車スターレットに放り込んだら出発だ。今、お世話になっている仕事場までは雪がなければ30分。雪が降ったら1時間半かかる。以前は下痢と戦う恐怖の時間だった。吐き気とどろどろのおなかを抱えて朝、右往左往していたんだ。タバコをやめて熱燗をちびちび飲んで夜には味噌煮込みのうどんやおじやを食べるようになってから全く朝の下痢がなくなった。毎日ロペミンを飲んでいたのに。そして、もう、デパスもリーゼも飲んでいない。それなのに・・。朝の光は夜半から道路に薄く積もった雪を溶かす。その冬日は低くてまぶしい。雪と同時に硬くかぶった自分の殻も溶かそう。そうすると自己認識の周りが虹色に輝きはじめる。世界は私で私は世界だ。雪のように朝に溶ける銀色のくるみのような私よ。少年の日は毎日がそうだった。違っているのは自らを覆う殻から出た私だということだろう。雪道の途中で何度か休憩して銀色のくるみから虹色のくるみになって宇宙に溶けゆく自分を楽しむ。コンビニに寄って、ホットレモンを買って飲む。朝ごはんはそれでおしまい。それだけだったのに最近は朝、おなかがすくようになってきたよ。*午前中に建物の中を一巡して集められた伝票の数々の会計上のしぐさを解決してまた建物の中を一巡する。お。いい匂いでないの。「あぁら、カケルさん~。」「ほぃ。あなたの伝票とオカネもってきたからここに判子ちょーだい。」「まぁまぁ。いつもどうも。」食べ物を扱うその場所で伝票を交わして現金の授受やら送金の確認をする。「カケルさんもたべてみて。」食物の調理をして余った野菜、つまりはニンジンの皮やごぼうの皮、キャベツの芯などでスープを作って漉したあと、うどんのぶつ切りや戻しシイタケ鶏がらスープのもとを入れて、根菜の皮を刻んで卵を流してとろみを片栗粉でつけたあっさり塩味。そういえばみぃんな、子育て真っ最中だよ。「カケルさんていつも食べ物のこと考えてるでしょっ。」なぁんてことを言われてまあそれは事実なのだが、それはおなかの心配もあったから。そうか。離乳食か。やさしい味わいだな。「感想はどうよ。」「やさしい味わいでおぃしいですっ。」「カケルさんならもう少し言うことあるでしょっ。」「・・・」「・・・」「黒糖を微妙に。そしてジャスミンを少し・・」「(笑)」たまごスープをれんげで丸くすくっていただく、ジャスミンを少し。うぅむ。残りもの捨てるもので作ったとは思えない深い味わい。これも命への愛と感謝あればこそだねおっかさん。おぃらは虹のじーじになろうか。そんなことを言うにはまだ早すぎるが。*昼ごはんの注文を忘れた日はカップラーメンのふたを開けるのだね。そうすると、いまどき、カップラーメンのふたを開けると、ネギが静電気を帯びてカップにひっつくのだよ。そこにちっこい「わけぎ」を「切り口はこちらから」を開いて入れようとするとこれまた静電気を帯びてますます、びりびりひっつくのだね。そこでだ。天才なおぃらはカップラーメンのふたを沢山重ねると、ものすごいコンデンサーになると思うのだ。片面アルミで片面が絶縁体でそ。交互に入れ替えできるようにすると簡単にバリアブルコンデンサーつまりバリコンがカップラーメンの蓋でてきてしまうのだ。今は21世紀なのだ。*おなかが安定してくると、はふはふのトウガラシが食べたくなる。ここ数日、マイ・トウガラシを持ち歩く小さなおしゃれな瓶を100均で捜索したのだが見つからないのだ。香水瓶のコレクター本やら医療用具のカタログまで眺めはじめたおぃらってほんとに虹色のおばかさんですっ。(笑)大寒から春節にむかってみなさんお体大切にっ。ジャスミンでなかったら品薄な八角?大寒はおなかを大切に。クリックしてね。人気ブログランキングへ!!
2006年01月20日
コメント(0)
ごごごーー少しの隙間から粉雪が部屋に入ってくる。こればかりは「うるさいからやめさせろ」とはいかない。鬱だった頃に、毎日唇にあった言葉の多くが消えつつある。人を蔑み、人を呪い、怒り、嘆き、絶望して言葉はこの唇から出ていった。「喜ぶ者とともに喜び悲しむ者とともに悲しめよ」という聖書の言葉が次第に薄められていく。それ以前に、「愛されるために愛せよ。」と自らに語りはじめる。*20代には沢山の教会を巡り歩いた。そして帰りはちょうど今日みたいな雪の日が多かった。3月締めで総会して決算するところが多かったから予算消化のための会議みたいなものもあった。北海道のことは知らない。でも、東北自動車道の地吹雪は知っている。牧師といっしょに道路を嘗めるように這うように走る。前10メートルが地吹雪で見えない。そうしていると、突然牧師は、ある教会の牧師が今日の会議の冒頭の祈りのためのメッセージをしたその内容を批判しはじめる。ぼろくそに叩いて叩いて、はぁはぁぜいぜいと批判を続ける。牧師という人は僧侶とはちがって表面だけいい子になってるわけではないと思ったのは、そうだ。この地吹雪の季節だった。信徒のおぃらはあなたの胸にナイフをつきたてた。ナイフはそのまま止まっている。その自覚があればそれでいい。*ワイパーに氷がついて前方の視界が悪くなる。そうならない方法は北国生まれでないと理解しにくいだろう。着られるもののありったけを着て冷たい車の中で白い息を静かに吐くんだ。そうすれば窓も凍りつかないし、ワイパーはねばねば雪にからまれることもない。自分の快適だけを身の回りに持ち歩いていたらいつまでたっても「虹の国」へ行くことはできない。さてと。いよいよ大寒だ。春夏秋に集めたもので自らを覆いあたためよう。それは地吹雪が次から次へとつむじを巻き上げるこの季節にふさわしい。ちぢこまってまぁるくなって種になる。許されるのは春までだ。しかし、この国では夏でも冬を持ち歩く人たちが歩き回る。その人たちは、呪いの言葉をいつも吐き出し、安らかな人々を混乱させたり黒い目を白くしたりする。*私の氷のような心には沢山の呪いの言葉が封じ込められていた。だから朝起きるたびに呪いの言葉で歌をうたっていた。しかし、ようやく溶けてしまったようだ。20代前半の屈託なく始まる朝が帰ってきた。そして夜も。こんな地吹雪の夜、小鳥たちはどうしているのだろう。そんな心配をしたこともあった。しかし、河川を巡ってみた光景には安らぎがあった。ぼうぼうと伸びた柳の木にクズがからみつき、枯れてテントのようになっている。そんな藪がどこまでも続いている。雪の下は暖かいだろう。気温が低ければ低いほど触れ合う外気と命との間にカプセルがつくられ小さな命を覆うだろう。虹のように丸く。虹のカプセルは雪の下を移動してあつまったり離れたり。そうして命は「熱帯」を持ち歩いている。*さてとおぃらの身体も熱帯の海だ。アルコールで消毒するべ。パッションは。その目的は・・ 失われたかも知れないが・・ま。ちびっといっぱい。地吹雪の夜だぜ。ぼちっとクリック! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月19日
コメント(0)
Cathy☆さんはとても素敵な人なのです。そいで、自分のページにトマトプロジェクトの報告を書いてますけど、うぅむ。「エデンな人だな・・」って思います。あ。Cathy☆さん、めんご。もう少しで携帯復活させます。*木枯らし紋次郎がひゅーーっと鳴らしたあの楊枝の材質は何だったんだろうね、水亀屋さん。そぃで飛鳥の寺の建立縁起のNHKを眺めたら仏教の寺に「カミのタカラ」すなわち「玉」があったのでまたうむむです。これだけアウトドアの道具があってアウトドアで鉱石拾いも広まったんだけど、おぃらは博物館でヒスイの円柱中抜き玉を見てしまった。外は丁寧に円運動で「何か」で削らなければならない。内部の円も丸い。すなわち、旋盤だ。NCすなわち数値制御されてないだけに困ったもんだ。その正確さは。*数年前に一面、蛇紋岩の河原に立った。どの石を割っても「オパール」が出てきた。更にしばらくあるくと大きな瑪瑙(めのう)があった。オパールの河原、瑪瑙の台座。まゆにつばつけてみ。でも本当なんだ。日本にはこんなところもある。ただし、問題は「石は食えない」ってことにある。なぜヒスイの玉なんだろうね。「組合」という名がこれからマスコミで連呼されるだろうけど。本質は「シンジケート団」だ。昔は馬をシンジケートで買って減価償却していたからね。(笑)もちろん税効果があるからだ。それだけじゃない。テクニックはいっぱいあるぞ。ソロモンブラザースは昔、「かごぬけ」を提案してきた唯一だ。*地の実りこそ正しい。そして種をまく者との約束は完成される。成果主義であってもよいのだ。理念に即していれば。理念がなければ導入しないほうがいい。第一次産業からサービス業、消費するだけの業種(公務員だわ)、様々なステージからもう一度木枯らし紋次郎をみてみる。リアルに「あっしにわ、かんけーねーこってござんす。」と断られた。(笑)でも畑に何かを植えたいのだよ。じょーしゅーにったごーりのまずしーのーかにうまれたキミへ・・おぃらもケーナをふきますが、虫歯をかばって拭くので・・ひゅーーなんです。ざーーではないです。(笑)クリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月18日
コメント(4)
田舎町でこの長いながい不況と大規模店舗の進出があってなお、先代の積み上げた資産を食い潰すことなく呉服店を営んでいる。その店が配っているカレンダーを見たら、さすが、旧暦の日付と節季がきちんと書いてある。今日は三りんぼう。そして土用だ。季節がチェンジするから気をつけないと風邪をひきやすい。そして、安らかであれ。「大安」だった。月は満月からしぼみはじめる。株価は下がった。(笑)*自分の周辺にいる人を眺めると12月から1月生まれが多い。ということは・・と、思春期にしてみた逆算をもういちどしてみるのだ。そして、胎児であった自分がどのような季節の海を泳ぎ耳で何を聞いていたのか思い出してみる。しかし、その音は自分を破壊しないと聞こえないのだと誰かが言う。そうだろう。でも、そのときの音楽があったからこそ今が聞こえるんだ。それは、胎児であつた私の心臓。母親の心音とためいきと動脈の海。ギターのハーモニクスで音叉の440を出してみる。耳鳴りはするが、まだ絶対音感は健在だ。*たぶん、誰かさんにとって今日は「ドツボ」の日だろう。おぃらにとっては「やすらぎ」の日だったよ。だからカレンダーを改めて眺める。そういえば、「ひのえうま」には子供が少ないって少子化問題との関連を考えていたら愕然とした。「まさかね。」この国の人々にとっての命とはそれほど軽いものなのだろうか。いや、そんなことがこの年だけにあった筈はない。ちがう、ちがう、あったんだ。場所は病院だ。八百屋お七の一件だけが一般化されてはいけない。宮崎はどうなる。知識と知性と理性は通用しない。気分が先行する。戦争は祭りだ。ホロコーストじゃないか。「戦争は祭りだ」そして暦はそのための道具だ。胎児たちは殺されたのか。「ひのえうま」に。命を「都合」で操ろうとするこの国はなるほど、金をばらまけば少子化問題は解決できるかのような議論をあちこちでしている。愚かだ。ひろのみやとまさこさんに人権を認めず遺伝子が大切だとか言ってパンダ扱いするに等しい。そのようなスタンスでこの国は世界の敬愛と尊敬を集められるだろうか。*おっといけない。大安は安息日だ。(嘘)そして土用だからあと2ヶ月を過ごすためにキモチをシフトダウンして周囲に発生するあれこれを「固める」。そうか。土用のとは次の「季」に向かって固めるという意味があったのかと改めて思う。「気」よ固まれ。春節を乗り切るためだ。今が一番身体に変調が現れるから。「シフトダウンしてイソフラボンの豆食う」お。。現代72候のひとつができたぞっ。「里山を買おう」の次は「カレンダーをつくろう」にしようか。俳句芸術やら写真とも重なって一大サイトになることまちがいなし!!だって旧暦はアジアのカレンダーだから。「ひのえうま」の人と乾杯したいよ。クリックしてね!人気ブログランキングへ!
2006年01月17日
コメント(1)
うつ病と名前はついているけど、この病気は一面的ではない。その名を知ったのは斎藤茂吉の息子が小説家で昆虫が好きだったからだ。しかし、まさか自分がその病気になるとは思わなかった。病院で寝転んだ。流れる涙が止まらない。その理由は無い。同級生の医師が語る言葉を租借する。そして。この一ヶ月、薬を全く飲んでいない!「抜けた」かもしれない。*人はコミュニティーで育てばこそ、そのコミュニティーが持っている「組織意思」のもとに育てられる。よりよい宗教環境で無意識に宗教的世界観を育まれ、歌うことも語ることもそのコミュニティーの賜物である者は幸い。その者は地を受け継ぐだろうから。本来、この国もそうあるべきだったけど、明治にごちゃごちゃに攪拌されてしまった。おぃらの山にある「山の神」はあまりにも山奥であったため、政府の宗教介入を免れたひとつだろう。清々と山を巡り、神様の周囲にある藪を払い倒木を道から除く。道があれば、ぢぢばばたちは帰ってくるだろうから。そして物語は始まるのだ。*山のこの場所は以前から知っていた。「今日は休みます」と宣言し、覚悟して冬山を巡る場所を決める。それは、こけしを作った木地師たちが巡った場所の確認でもある。木地師たちがいた場所は紅葉であきらかにわかる。その場所を冬に行ってみたのだ。30分程度の雪中でも道は確認できた。そうだ。衛星だと思う。木地師たちの道は失われたと言われているが紅葉で確認し、雪中で確認できるのであれば衛星でも確認できる筈だ。オリオンよ。道を示してくれ。*一月の雨で雪が溶ける。議論になっていた場所に適切なのはヤマワサビだからさりげなく植えよう。そして自分の山には笹薮を消す何かを植えよう。庭に鳥海山の石がある。・・邪魔だ。(笑)*「抜けた」だろうか。欲望と悲しみの渦の中にある細い道をたどりながら自問する。「この道でいいのだろうか・・」と。確信がある。今までは忘れたいことが多かった。しかし、ブログをはじめてからは・・覚えておきたいことが多くなったよ。浴びるように飲んでいた酒が今はちびちび。なんで・・ちびっとクリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月16日
コメント(3)
さて。彼をどこまで説得できるだろうか。彼は「遊んでいるのであってボランティアをしているのではない。」と言い張る。その一方でボランティア保険には入っておこうとか会話が飛び交う。あーなまぐさい。しかし、あと20年後、炭焼き窯を石釜で組み上げる技術を持った人がどれだけいるだろうか。それだけではない。先週のダッシュ村の登り窯みたいなものを自信をもって粘土を選び組み上げることができるかな。更に、窯に入れるべき薪を確信を持って伐採して選べるだろうか。技術というものは原因と結果は大雑把でも過程は極めて繊細だ。鳥を捜すようにだ。だから、遊びであってもときにはいつのまにか特殊技能者になっていることがある。自らのボディーイメージを共有することがときには大切だ。*朗らかに燃える薪ストーブの前で、「今年はどうしようか」という総会の話をする。年間予定表を見て、ごちゃごちゃにかきまわすタイミングを計る。こういうことは、教会政治で散々経験しているから中核にいる数名の視線が泳いだら全部ごちゃごちゃにしてしまうのだ。そして結果的になるようになるのだ。おぃらは組織をふりまわしているのだ。しかし彼らは気づかない。「ぶちこわす」と言ったら気づくかもしれない。自らの卑小さにだ。*総会が終わったあと、ふくろうをおいかけて歩いた。あるいた。あるいた。まずは山のてっぺんに登る。それは鳥の渡りの経路を見るためだ。鳥だって風水で居場所を決めるからね。そして5箇所ほど場所を決めるとまた昨日のように歩いた。犬に吼えられ適当にスターレットを止めて怒られ、しかし、今日はからぶりだった。「コミミズクがいる場所」は情報を得たのだが・・*「なあ、カケルさんよ。畑どうするべ。」「どうするべって、イノシシ捕獲の許可得るべ。」「ちっとこの地域では無理なんだ。」「んでわ、イノシシにハバネロ食わせるべ。」そんな話をして総会を終わる。しかし、おぃらは思うのだ。里山を維持管理するということは決して自然にやさしい「行為」ではないのだと。さらに税金つまりは補助金の受け取りをかたくなに拒否する君よ。ときには遊んでいることでも「未来への遺産」になることがあるだろうよ。遊びを自己満足でおわらせなければいつのまにかボランティアになることもあるかもしれない。議論は尽きず。日は暮れて満月16夜にクリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月15日
コメント(0)
先日、「♪ たまき ♪さん」に教えた天文カレンダーソフトを操ってみる。それと潮汐(ちょうせき)ソフトのTide for Windows のショートカットをディスクトップにおいてみた。一月の日の出と日の入りの時刻を眺めると「日足が伸びる」の意味がわかってくる。*おぃらの大好きな薪ストーブの近くにいるぢーさんとねーちゃんのパソコンに1Gのメモリーステックからソフトを流し込む。そうしてためいきをつくとまた言われるんだ。「タメイキつくとシアワセが逃げていきますよ・・」確か去年もそういわれたのだった。どーだい「天文カレンダー」といいながら動作確認をさせると、さすがに太陽を相手に畑仕事をしてデジカメ持って野鳥をおいかけているだけのことはあるのだ。そして、さすが人生の先輩だ。*日足が伸びる。つまり日の出の時間はそれほど1月は動かない。しかし、日の入りの時刻が次第に伸びていくそれは春分まで続く。その後、両手を広げるように日差しが力づよくなる。書いてしまえば「なんだそんなこと」「知ってるよそんなこと」なのだが、「忘れてたよそういう事」「日の出を拝んでたからわかるよ」となると自分にはそういう感想がなく、どこかで断絶されたのだろうと思う。*朝、雨が降るけど、ふくろうとその他を捜しにでかけようとしたら。生命保険のご案内が来た。自分でも少し大切にしていた保険商品の更改の提案だったので断るわけにはいかず、迎えて話を聞いた。雪の上に雨はやまず、氷雨だなと、ちっと見せたい胸元の肌に目が泳いだら禁煙の話になった。自宅に来た二人はかつて同じビルにいたことがあるしおぃらの表の顔も知っている。しかし、夜の顔は・・(笑)*雨の中をうろうろと歩きまわり、人家の裏でペリットを捜す。いない。犬に吼えられ、怪しげな目で見られるのは毎度のことだ。午後から雨の中、ツァイスの双眼鏡をかばいながら歩く。ニコンはフィルムカメラから撤退したんだと。三菱系。アイリリーフが長い防水双眼鏡を出してくれニコン。国民のほとんどは眼鏡使用者なんだ。税額控除も受けられず。今日のふくろう捜しは不発。明日もまたでかけるです。手抜き水鳥でもいいかな。(笑)クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月14日
コメント(0)
15年前になるだろうか。子供をつれて野鳥を観察に行った冬のある日、双眼鏡にキレンジャクとヒレンジャクの大群が飛び込んで来た。窓からリンゴを持って手を出すとレンジャクが群がった、そんなビデオもある。レンジャクはその学名のように絹の繭のようにつやつやと輝いて雪の中にいた。その後、毎年レンジャクは見るが数は少ない。*小さかった子供たちをつれて野鳥を眺めているとぢぢばばたちに話しかけれられた。私は少年の日におぼえたぢぢばばとの対話の仕方でお話をした。そして家の近所にフクロウが来ていることを教えられた。家から300メートルほどのところにフクロウはいた。それからフクロウの「おっかけ」が始まった。「里山を買おう」にはヒメギフチョウが出てくるけれど、あれも里山の蝶なのね。ウスバサイシンとカタクリが常にないと生きていけないから。そぃで、おぃらが冬におっかけしている「トラフズク」は里山ではなく、「里」の鳥なのだわ。そして冬を過ごすところは「屋敷森」。その屋敷森は大きな水の流れの近くにあって自動車の通りが少なくてヒバもしくは杉の木が西にあるところ。なぜ西かというと、それはわんないのだわ。いつも見つけた場所は西の針葉樹の木だった。そして、どうしてなのだろう。大きな川の近くだ。*里の屋敷森なんて、21世紀を超えられるのだろうかと思うとほぼ絶望的なキモチにもなるのだが。100軒の中には、屋敷森に2×4の家をみかけることもあって、「おぉっ」と唸らされることもあるのですね。明日からまたフクロウを捜しにでかけます。それにしても、フクロウ好きってどうしてこんなに好きなんだろうねっ。発見の期待にクリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月13日
コメント(1)
自転車を背負って東京へ戻った長男は、休日に旅をしたらしい。そいで、アパートがある東京の郊外からどこまで行ったのか聞いた。「皇居に行ったよ。それとアキバ。」「!」「ラーメン食って帰ってきた。」リカバリしたパソコンに地図データを流して距離を測った。片道40キロだ。*おぉい。どうしたんだよっ。長距離を走るおぃらの背後から嘲笑が聞こえる。息子たちと自分とでは決定的に違うところがある。それは、子供たちが「健康だ」ってこと。おぃらは少しでも走るとすぐに耳に呼吸が響いてしまう。だから集中力も低下するし長距離は走れない。呼吸が耳に響いたらどこでもいいから寝転んで腹をあたためて回復を待つしかないのだ。だからアウトドアの楽しみは知っているものの躊躇していることが多い。おぃらの仲間たちも、はじめはなぜおぃらが突然寝転ぶのか不思議に思っただろう。最近、変わった兆しがある。タバコは毎日40本吸っていたのにぴったりやめられた。そればかりではない。さんまとキムタクがテレビでタバコを吸ってると、画像をみただけで「おえっ」とする。禁煙するときにカラダにすりこんだのは、初めてタバコを吸ったときの嘔吐感。そして、認知にすりこんだのは、タバコ1本600万円。半年が過ぎてずいぶんとカラダが楽になってきた。*25年もの間、体形がかわらなかったはずなのに。風呂に入っておなかをつんつんしてみる。秋葉原まで自転車で行ったか。はやいとこ、エルメスに会えるといいね。そして次男は卓球は愛好会で駅伝は選抜された選手だ。ある夏の日、鬱がひどくて妻の実家から100メートルも歩けなかったときのこと。子供たちは緑の山にむかってまっすぐに走っていった。駆け出した長男の後を次男はおいかけていった。緑の山と青い空にむかって。どうして走ったのか聞いてみた。おとうさんは走れなかったから。「走りたいから走ったんだ。」そんなあたりまえの答えにがくがくと震えた日の私よ。答えはみつかった。*いにしえのリズムに乗ればこそいい。そうすればまた走ることもできる。そんなふうにかたりかける炎を燃やすこと。そう。炎をもやしつづけること。迷惑といわれてもだ。ともにあるこうと。炎とともにある人は。たぶんしあわせなのだ。山の木を伐採して運び出すことを考える。やっぱ軽トラだよな。*廃棄物処理法のせいなのだろうか。急速にあちこちの門戸から煙の匂いがしなくなった。いま、この家に薪ストーブを持ち込んだら近所迷惑なのだろうか。しかし、薪ストーブのオーブンを開き魔女の宅急便を呼ぶのだ。魔女は自転車に乗る人にとであったふるい名前を持ってるかもしれないからね。(笑)その準備とこころがまえはしておくのにっ。(笑)今日は散漫だけど毎度っ。クリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月11日
コメント(4)
成人式の騒ぎが沈静化しているようだ。長男が中学校に入る頃、とても心配していたことがある。それは、逮捕者を出すほどの校内暴力が延々と続いていたこと。ちょうどその世代がなぜか成人式で騒ぎを起こしている。それが終わったのだ。たぶん。学校が問題を封印し、世間は忘れても失われた彼らは何度でもよみがえるだろう。団塊のチルドレンだ。そして、おぃらの子供たちの世代は綾波の静けさエヴァの恐怖を宿している。*ネオ・エデン計画というネームを考えたとき、仲間たちにうけるだろう。そのぐらいにしか考えなかった。しかし、いろいろに解釈する人が出始めたし、中には我田引水の「壁」的古カトリシズムを誕生させたい人も出始めた。それに世間も人格までもがカネで形成されるみたいに毒々しくなってきたから、少し「清く」あろうではないか。で・・だ。ちびっとだけ、メモ的に定義づけしておこう。人は失楽園を通ってネオ・エデンに至るということは、キリスト教信仰の常識なのですが、この国では非常識なのはおぃらが伝道をさぼったから。ただし、この1年間の学びの中で困ったことにおぃらの「輝きの御国」の概念が転換してしまった。それは意識の中で封印していたトマスによる福音書がいきいきと語りはじめたからなのですね。それは平面だったテキストが立体になって宙に浮いたとも言える。「多面的地平をもつ現象」が見えはじめた。そぃでコプト語をずーっと眺めてたら、あ。これも表音文字だからよめるど。よめるど。そぃで発音からギリシャ語をひっくり返して無意味な文字が輝きだすのを待っていたのです。机の上は聖書とメモでごちゃごちゃです。そんなおぃらを、おぃらの背後から眺めるとムスカ大佐のようであります。同じ過ちを何度繰り返せばすむのか。テキストは重要である。しかし、古代における社会現象の氷山の一角でしかない。人生をテキスト解釈で終わらせてはならない。テキストはPDCAの本体ではなくパーツである。自己確認は価値の相対化の彼方には無いのだ。*失われたリアルな幸福。それは少年時代をすごした里山だった。図鑑にあるものがリアルにそこにはあり、人々は名前をつけてその名を呼び続けた。愛と幸福と約束。愛とは名前をつけてその名を呼び続ける行為だ。庭はその人の心を映す。里山は人々の心をうつしていたんだろうね。だからやすらぎの美しさがあったんだ。喪失感ばかりではどうしようもないから、木を植えて成長を眺めるのだ。これから何年生きられるかわかんないが、20年もすれば立派な木になる。そうしたら、倒して炭を焼こう。火で清め灰でよみがえるるために。行為が重要なのだ。結果は次への過程でしかないし、評価する人の能力によってゆらいでしまう。名前をつけて天の音律地の鼓動を感じ行為を続けること。そうすれば失われた連結がよみがえり指輪のように回復される。それがネオ・エデン計画だ。*って親分。あっちの原稿はどうでしたかね。ネオ・エデン計画について書いたけど、やっぱ難解だろうか。おぃらのテキストも氷山の一角でしかないのだに。(笑)ネオ・エデンをつくろうにクリックお願いします。人気ブログランキングへ!!
2006年01月10日
コメント(2)

今年は渡り鳥が少ないそうだ。そいで、オオスズメは冗談半分で将軍様の国でカスミ網にかかってるのだろうとか言う人もいるのね。あっ。オオスズメって知りませんか。あれです。ツ○ミです。ところでスズメは食べましたか?今年はまだ食べていません。*なんて冗談が大好きなぢぃさんところに、また今日も行ったら見せられたっ!!うぁぁ。目がつぶれるぅ~「どぅ~だい。へへん!」「すごぃっ!トラだぁ。」「トラだトラだぁ。」さすがニコンのD70+600ミリでした。写真が気に入ったらクリックしてねっ!人気ブログランキングへ!!*そうなのだ。被写体は心なのだ。聖書に書いてあるように、宝のあるところに心もあるのだから。*家に帰る途中、トラフズクを捜しに行ったらこっちはからぶり。雪があればこそ鳥もみつけやすいのですが、多すぎる雪は本当に疲れる。「雪の上のペリット」はみつけにくいし。しかし、またじぃさんにもよきおとずれを告げるのだ。そんな花鳥風月を愛するおぃらは黒い影になり銀色の家路につくのでありました。でぁまたっ。ぼちっと、クリックもよろしくっ。
2006年01月09日
コメント(7)

買い物してしまったキャノンだけど、どの程度のうつりなのかちっと心配だったのねん。そいで、今日は窓越しの野鳥を撮影しました。デジスコって流行の子供の名前でないよ。デジカメとスコープで写真撮影することなんだけど、そーゆーことはビデオの時代にやっていた。ソニーにはそれ専用の望遠レンズだってあったんだ。そいでおぃらはそれを買ってしまったのだ。いまのところ、カビは生えてないが誇りはえっへんと、かぶっている。で、こんなのどうよ。ガラス窓ごし+手持ち+手ぶれ補正だからちっと甘いけどこれだけのものが気楽におぃらでも撮影できてしまう。嗚呼21世紀。更にこれはどうよ。小鳥好きにはたまらんでしょう。笑ミヤマホオジロの♂です。♀といっしょでした。こんな写真がストーブにあたりながら窓ごしに撮影できるのですね。もちろん、こういう場所はあそこにある、ここにあるというわけでもないし、億のカネをばらまいても維持管理されるわけでもありません。世間には「ものずき」がいるってことです。その人たちは無償でちっとさびれそうな場所を無償でなにげに維持管理しているのです。困ったことに本人たちはボランティアをしているのに、ボランティアだと思ってないのです。だから彼らは税金の再分配に群がろうとしないんですね。名ばかりのNPO法人みたいに。最近のNPO法人は職員を雇用しないで、研修生を募集するのね。最低賃金法にひっかかるから、「研修生」を集めるって?「労働の搾取」から一歩も出てないからそれは21世紀ではない。それにチクられるぞ。ま。そんなことに関係なく冬の鳥は美しいです。ちっと撮影しておいてまたアップするです。期待のクリックはこっちをぼちっと!人気ブログランキングへ!!
2006年01月08日
コメント(3)
今年は旧暦の立春が2月4日だから、今日が七草の日ではありません。2月4日がせり、なすなも生気にあふれた七草です。が、やはり思ったとおり、町場のスーパーに行ったら「七草粥セット」が売られてたです。明治政府は世界にもまれな人類の遺産である太陽暦と太陰暦(ムーンカレンダー)を組み合わせた「自然暦」をごちゃごちゃにしました。それは、閏月のある年だっため月給を1ヶ月減らせるからというなんともトホホなスタートだったのですね。そいで、七草セットをみるとおお。すずな、すずしろははいってますね。ところで「すず」って何かわかりますか?おぃらは何かあるとおもっているのですが、何なんでしょうね。明日になればクリスマスケーキといっしょで、安くなっているでしょうから現代の「七草セット」を解剖してみます。ちらっとみたら、タビラコがあったようなないような。*炭焼きじいさんの所にいったら、薪ストーブのファンが動かないという。みせてみ・・と見たら、ファンが回っていない。そいで、いままでの動作がどうだったか聞いて分解しました。ばこっ。分解なら誰でもできるのだに。子供でも。ここからが問題。分解して、三相のモーターが2個あって中間にサーモスタットがあるのを見て納得。サーモスタットなんか使わなけりゃいいんだ。修理とは破壊と紙一重である。日本経済がそうだったか今がそうかって?どれほど多くの中小企業の犠牲があったか考えてみるがいい。そしてどれほど多くの「日本の技術」がクズ同然の値段で買われて流出して行ったかだ。表面がいいから結果オーライとはいかないのだ。そして祭りの演出はサーモスタット一個でどうにでもなるんだ。絶望がどんな社会を生み出すかよくよく考えたほうがいいんだ。葦の塔でうかれる君よ。じいさんよ。サーモスタット切り離すべ。ペンチでパチパチとケーブルを切ってつないだらうぃぃんとモーターは数年ぶりに動いた。これだ。技術というのの根幹は極めて単純なんだ。気づいた人だけ○を得ることができる。*炎が順調に燃え出すと顔に安堵の笑顔が出る。「なぁ、じぃさんよ。」「よく燃えるわ。これだこれだ。」「・・・」「七草は立春だべ。」そう言うとじいさんは、ちびっと遠い目をする。「そういえば。七拾弐候なんだが。地方ごとにあったらしい。」「へー。このあたりにも。」「山のあっちだが、会津七拾弐候ってのがあったようだ。」「その【候】って何?」「わがんねの?」「わがんね。」「冬至から一年24気があってそれを3で割って七拾候、だから、【気】【候】で気候なんだぞっ。」「へーーすごいなぁ。」そして岩魚釣りと潮汐との関係についてなど延々と炎の前で話は続くのです。こうして延々と話させるのが大切。-知っていることがあっても知らないふりをするのが年寄りから知恵を得る重要な作法。そしてその人から知識を得たらあとで丸くまとめて返すこと。絵馬のように。都市で「おれはできるぞ!!」と孤独に叫ぶのとはちっと作法がちがうのっ。*そいで、「候」を読み始めたらこれって単純に太陽暦ではこうなるというものなのですね。京都あたりで編纂されたものを全国的に一般化するのは無理があるようです。もちろん「自然暦」にこじつけようとしても無理が出る。しかし、明確に当たっていると思ったのは「鳥の習性」のところ。清明のはじめの5日に玄鳥(燕)が来る。その後の5日で雁が帰る。野菜も灯油も値上がりして灯油は一時の軽油ぐらいの値段だけど。立春が来たら目印にした雪を掘ればいい。それがおぃらの【七草】だとその日を待とうと思うのでした。日本のカレンダーも心も明治5年いらい狂ってるのかもね。本当のカレンダーはうまいものをうまい時に食うためにある!納得したらクリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月07日
コメント(2)
朝、目覚めると、もぅやめてくれ!!という程に雪だ。長男の声がする。「お父さん、行くから。」長男は東京に戻る。10万円の自転車を2万円で買ってそれを分解して背負い、玄関から黒い影になった。家に帰ってきたとき、何かが違うと思った。ヨンさまみたいなマフラーの巻き方をしている。まさか、変なおばばにつかまったのではないべな・・と思うのは親馬鹿の証拠。そうか。背筋が伸びたか。昼頃にメールしたらもうアパートに着いたと言う。ここから東京までの新幹線の中、それから都内から郊外まで自転車をかついで行ったか。また考える。もし長男が工業高校ではなく普通科だったらどうなっていただろう。父親は、パーツを見たときそれは全体の一部だと認識できるまでに相当な時間が必要だ。形の美しさだけにとらわれたからかもしれない。思考のパーツにしてもそうだ。更に「いのちの形」に至ってはなおさら。人の子はパーツを見ると全体の価格から類推して落とす価格を決めている。更に同級生たちのパソコンにいろいろ仕込んで昼飯をタダにしてもらったり、数人の同級生を自転車中毒にしようとしているらしい。ある人が言ったっけ。「社長の素質がある。」って。まさかね。笑このままだと怪我する。*「夏はこの自転車で帰ってくるよ。そして広島まで行くんだ。」あのな。東北から広島までは遠いぞ。しかし2年前、目の前の川のかなた、河口までの100キロを午前で完走した弾んだ声を抗鬱薬でぐったりしながら聞いた夏の日を思い出す。*自転車に乗ってどこまでも行くことは親にしてみればバーチャルだった。しかし、父親が炭窯を丸く理解したように自転車を息子は丸く理解しているのだろう。たぷん。「行け。行きたいところへ。」かつてマイスターたちは雪の朝、子供たちを送り出したのだろう。そこには、技術者社会と個別のミニマムなコミュニティへの信頼があった。そうしてヘンデルもバッハも旅をしてブクステフーデの娘と出会ったんだ。結婚はしなかったけどそれは謎。笑*長男が去った後、また思い出した。そうだ。おまえに双眼鏡の使い方を教えておきたかったんだ。しかし、19歳にもなった息子にこれ以上教えるのは無駄な価値論をおしつけることになるかもしれない。というかここまで書いたのを読むと親馬鹿だ。連日次々と入れ替わり立ち代り同級生が現れ、にぎやかでセイシュンの男臭くなった部屋がまた静かになった。いつのまにか次男が満腹なハードディスクにある、「おみやげ」コンテンツを漁っている。そして父親と目が合うと粘ってそらす。10年後どんな家族になってるのかな。クリックはぼちっとよろしく。人気ブログランキングへ!!
2006年01月05日
コメント(12)
一昨日は次男と超絶技巧のラ・カンパネラbyフジコ・ヘミングエェイそれにショパンを聞きながら、ゆでたタニシを殻からだしてました。しかし今日からまた仕事に行ってきました。机はありました。。窓の外はまたまたすごい雪・雪・雪・・大雪の年は豊作になるんだとか、それは天然のダムがしっかり水を山に蓄えるから。でも、今年の旧暦のカレンダーを見たら・・ちっとうぅむ。うなってしまったのです。うぅむって、バウムさん。*今年の正月は1月29日。だから、七草粥は、2月4日(土)。それが立春と重なっている。それがどうしたって、だから大変なのだ。暦によれば今年の夏は長くなる。ということは、シロモノ(冷蔵庫、洗濯機、エアコン等白い家電)が売れるのだよ。アキバ君。この予言は、根拠は全く違うが一部の新聞記事でも明らかなのだ。昨年は手持ち超望遠デジカメ元年だったように、今年は「携帯冷蔵庫」がいよいよ日の目をみるのだに。(嘘)ま、そこまではいかないまでもエアコンの入り切りぐらいは携帯で出来るようになるだろうね。シングルな人は冷たい部屋に帰らなくてもいいわけだ。でもなっ。シングルな人。<みつげ>せんべいは薄くてもあったかいとおいしぃんだぞっ。(爆)*バブルの終わり頃には「やけくそ消費」という言葉があったっけ。そして早くも正月番組やら巷の噂を聞けば「やけくそ」だ。こんなに人々がのんびりしているのになぜTVは良質なドラマで泣かせてくれないのだろう。あ。感動病気ではないよ。今日を生き直したいだけなんだ。*太陽暦の七草粥にはクリスマスと同じ結果的な嘘があるけれど、旧暦を見て立春と重なったらなぜか安心してしまった。これでおぃらはテレビや新聞を見てもその嘘にうろたえなくてもすむのだに。(笑)潮汐(ちょうせき)ソフトをふたたびディスプレイに置いて、日付を数える。種を撒く日と刈る日と、山に入る日と夏に出る日と。山から苗木を移植する日と、収穫に行く日と。そしてキノコの日もだ。カレンダーの休日はたちまち埋まってしまった。あとは、休むしかないのだ。しかし、時給者と月給者の違いがここで出るのだね。(苦笑)ひがみが絶望になり警察社会を招くって、人を表層的にみてるかも。この国は旧暦を生み出すほどに豊かな国のだから、自然の懐は深い。だから隣人を愛することなど忘れたマンションアパート社会に背を向けておぃらは里山に向かうのだ。旧暦のカレンダーはじっくり解剖するとしよう。(笑)一緒にクリックしてね! 人気ブログランキングへ!!
2006年01月04日
コメント(0)

また雪が降った。そして積もった。中原中也の詩のように詩篇51篇9節のように。出エジプトの過ぎ越しに使われた血のヒソプの枝で私が清くなるように。そしてその血を清めてください。雪よりも白く。しかし、雪の中に人々は出かけて目印を探り「うまいもの」を掘り出す。生きるために。そして水路を捜す。「うまい汁」を飲むためだ。褐色ではない。あの懐かしい緑の粒だ。*友人が「自然薯のもとになるむかご」の見つけ方をたずねて来た一昨年の秋、山の紅葉を指差して、「あそことあそこ」と言ったら、感動して納得してくれた。コツは簡単だ。紅葉を捜して自然薯独特の紅葉を捜して傘を逆さに広げてびしびしと叩くだけ。そして今年になったら、彼から自然薯が届いた。味見してくれと言うのだが、雪の中に埋めておいた。更に次々と近所から「ヤマイモ」が届いたけれど、友人の自然薯を今日は食べるべきなのだろう。*数日前、雪の中から掘り出したほうれん草をおひたしにして味噌汁の碗に浮かべた。そして自然薯の皮をむいておろしたら、手がかゆいかゆい。熱い湯で手を洗いながらだよ。ごしごし。そしてのばす汁はひらめいた☆ぴか☆昨日のタニシの味噌煮からすくいとった。タニシエキスミソだ。ずるずると食べ終わると次男は、「どうしてこんなにうまいんだ、店のラーメンよりうまいよ。」と最大のほめ言葉をおとうさんに言ってくれるのでした。もちろん、ほうれん草の蜆汁が名脇役になったのは言うまでもありません。*「どうしてこんなにうまいのか。」それはもちろん、お前が取ったタニシの味噌煮のだしがたっぷり入った味噌味だったから。そしておまえが雪の水路から取った蜆だから。野菜もこの寒さで味がぎゅっと凝縮されているからうまいんだ。これも門外不出だぞ。彼が今日の味をしっかり覚えていてくれるのを願うのだ。「三日とろろ」と言うんだ。私が次男にそんなものを正月から食べさせると、両親は困惑した表情をする。両親が捨てたかったものは「貧しさのシンボル」で「味」ではなかったんだ。だって土の味はおいしいから。イタリアでもフランスでもこの自然薯タニシ汁と蜆汁の味噌うまうま味は出せないだろう。ジャンルの違いとかそういったことではなく。そしてこのブログを見た誰かが自然薯をタニシの汁でのばしたらそれはそれはうれしいことになる。だって冬味の極みだから。*さてち。明日から仕事なのだが、机は残っているだろうか。笑届いたばかりのカメラをもう少し使いこなしたいのだね。ちょっとピンボケならいいけどいつもピンボケではこまっちまうから、すこしはフォーカスしないと・・口の周りがやっぱりちっと痒い。ここいらが市販のとろろ芋と違うところだね。それに喉の奥にまだ味噌味が残っている。これだ。これこそ正月味だと納得する1月3日の夜でした。そいでは毎度っ。お願いします。クリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月03日
コメント(0)

タニシのレシピなんてどこにでもありそうだけど意外に無い。「タニシ 佃煮」「タニシ 味噌煮」でぐぐると、厚木が名産地だったことがわかる。でも、一昔前までは日本中が名産地だった筈だ。しかしそんな記憶が薄れ、更には外来種のタニシもいるってそんな・・*次男は、川の小魚を甘露煮にしたいといい始めた。ぢぢばばたちがみんなで昔あって今なくなっておいしかったものを次々と正月に話はじめ、聞いてる次男はそういうことになるんだ。確かに、おぃらが小さかった頃までは囲炉裏の上に藁すぼがあってそこに小魚が串にさしてあった。確かそれを甘露煮にしたんだ。そんな失われた里山グルメの話をしても、次男は納得がいかないらしい。自分の手で取りたいようだ。2年で身長が30センチ以上伸びてちょっと前まではできなかったことが次々とできるようになってきている。「おとうさん。○○川に行くといるよ。」ハヤとかオイカワの小魚はあきらめなさい。せめてタニシにしなさいと言ったらさっそく連れて行けという。この寒い中にだよ。 見ているだけで、指先が冷えてじんじん寒い。おーーい。ちっと取れたらそれでいいべ。おとーさんは軟弱なんだ。なにっ。シジミもいたって? わかったから寒いっつうか、痛いぞ。 取ってきたタニシを洗って静かにしてたら出てくる出てくるうにょうにょっ。これは・・うまそーだと次男とおぃらはうふふふと鍋を構えるのでした。ちなみに長男は定価10万円以上する自転車を友人から2万円で買ってお年玉が欲しいと言う。おめ、19歳にもなってそれわねーべ。おとーさんは、オメが隠し預金してるのを知ってるんだぞっ。それは ウ・ラ・ガ・ネ っても言うんだ。なにっ。パーツにして6万で転売してモーけるだと・・。んぢゃ2万円は融資するから返しなさい。商売ってのはそーゆーもんだ。* 早速調理しようとしたら、次男は泥抜きするのだと言う。 しかし、採集した場所はそれほど泥はたまっていない。それに泥を抜いたら味の深みも抜けてしまうだろう。 ということで、塩ゆでして、竹串で中身を取り出し、味醂と味噌2種と醤油で煮たら安直にできてしまった。思ったとおり、山椒をちびっとかけてほどよい加減だ。これはだ。。夏に山椒の葉の佃煮を作っておいて、さっと戻してタニシとあっさり炊き合わせると冬のビールにどうよって味になる。 日本全国ありそうで無さそうな高級食材だねっ。(笑) はふはふっと食べると、冬味で臭みがまったく無い。それに、味噌と醤油味を薄めにしてよかった。ふわっとした「田の香り」がする。食事がおわったところで次男はまた器をだして言うのでした。「明日はこれっ。シジミだよ。それにタニシが余ってるから。」おまえが歩いたその後ろにシジミがたまっている場所がある筈だ。水流が教えてくれたから。私が小学生のころ、このあたりの水田は農薬で壊滅的な打撃を受けた。しかし、農薬に規制がかかったことと休耕田が増えたためなのだろうか。昔の生物が確実に戻ってきている。「おいしいもの」もだよ。緑色をしたシジミを見ながら明日は三日とろろだったと思い出す。明日、またシジミを取りに行って味噌汁にしよう。明日で休日は終わるから。大切に味わおう。*繰り返すけど私がいるあたりのこの季節のタニシは泥臭くない。だから、ベトナム料理とかでスパイスを利かせる必要もないし臭み飛ばしにあれこれ手を加える必要が全くといっていいほど無い。次男が言うように清水に2晩おけばそれこそいい風味ある味になる。もちろん、ニンニクとオリーブオイルとハーブでエスカルゴソースをつくったらばっちり合うね。タニシピザってわかる人はぴんと来るでそ。あの淡白な香りだよ。(笑)次男のギンギンな努力にクリックしてね!人気ブログランキングへ!!
2006年01月02日
コメント(7)
正月の朝は遅い。昨日は大学生の長男も中学生の次男も夜遅くまで起きていた。昨夜は山の神が何か話しかけていたっけ。それに「うん、うん。」と生返事をしているうちに眠ってしまった。朝方、喉が渇いて目が覚めた。水を飲んでまた寝てしまう。9時頃に目覚めて、何もすることなくぼんやりして、正月だからしゃきっとせねばならぬと言うこともなく一年が始まった。そして餅を焼いて・・味噌をつけた。*実はここいらが「違い」が出るところ。「醤油」なのか「たまり」なのかわからないけど、山の神は味噌を醤油で溶いて焼いた味噌に回した後、もう一度焼いて海苔で包む。おぃらはそんなことは知らずそのまま醤油をつけて海苔で巻くだけだった。だから初めて山の神が柚子味噌焼きおにぎりもそんなふうにして作ってくれたとき、とても嬉しかった。おととい、自家製の白味噌に加えて、2種類の赤味噌と熟成味噌を買ってきたのを次男は鋭くみつけて小さいおにぎりにつけて焼き始めた。山椒をかけたり、柚子を包丁柄で潰して刻んだり。こうして味噌があったからこそ日本の冬は暖かだったのだろう。長男はうまいものの味は知っているが「作るよりも与えてもらう」ことに徹することになるかも知れない。興味を持って手伝おうとしないのだわ。次男は、この味噌とこの味噌を足すとこんな味になると教えると素直に感動する。素朴な味に感動できるってことはいいことだ。ジャンクフードを食わなくていいから。そんなふうに小刻みに味見してつくり置きしていたおでんを食って今日は過ぎていった。*小さな核となる価値をしっかり植えつけておきたい。価値観の基となるものをゆるぎなく与えておきたい。できれば、自分が子供のときに親類総出で味噌を作ったように味噌を作りたいが今では無理だろう。コミュニティー餅つきも味噌つくりも失われた。今ならまだとりかえしがつくだろう。しかし、どうすればできるのだろう。相対化された価値観をふりだしにぐるっと戻して「おいしいしあわせ」に回帰させるか、それとも本当に気心が知れた仲間内で手前味噌コミュニティーを作るかだ。テレビ番組のバラエティーのようにではなく、共有する心としての味噌をだ。しかし、こんなことを考えているうちに老いぼれてしまうから。(笑)反省すべきは、せっかく炭と懐石七輪があるんだから、檸檬味噌なんかも焼いてみるべきだったろうね。これから子供たちとの対話の時間は短くなっていくだろうから。明日は。。焼いた炭で味噌を焼いてみよう。*おくればせながら皆様、あけましておめでとうございます。このブログをごらんいただけばわかるとおり、以前は出来ないことも無理して成し遂げようとしていました。しかし、病を得て、出来ないことは無理して手を出さず、できることを出来る範囲ですることにしました。ちびっとわかりにくい勉強の報告があったりしますけど、今年もわかっても「わがんね」でも、クリックしていただれば幸いです。そいでは一発。ぼちっと。人気ブログランキングにクリックお願いいたしまするぅ~(笑)
2006年01月01日
コメント(7)
全29件 (29件中 1-29件目)
1