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久留里(くるり)は千葉県君津市の内陸部にある町です。その玄関口がこの久留里駅です。木造の駅舎がいい雰囲気です。令和元年度の一日平均乗車人数は365人だそうです。確かに地方だと鉄道を使うより自家用車を使う人が多いのでしょうね。まあ、もう少し本数が多くて、駅前に無料か安い料金で利用できる駐車場があると、鉄道の利用者も増えるような気もするのですが。駅の隣にある上総地域交流センターです。いわゆる公民館と市役所の支所を兼ねた施設ですね。地域交流センターの前にあったこの施設。久留里の町に多い自噴井戸だそうです。「生きた水」というのは、久留里の地下水は溶融成分が多い軟水で、微生物も含むので時間によって味が変化することもあるため、「生きた水」だそうです。みなさん、ここで水を汲んで持って帰られているようです。水質検査とかして大腸菌数とか確認されているんでしょうか? まあ、持って帰って煮沸して飲めば問題ないでしょうけど。この建物は「久留里観光交流センター」。古い倉庫を改修したのでしょうか。中に入ってみると、展示されているのは鉄道関係の展示。懐かしい漢字の駅名標。これは蒸気機関車の前面のナンバープレート。門司港行とかあまり房総半島には関係なさそうな行先標。そしてかっては房総半島を走っていた急行の「うち房」、「そと房」のヘッドマークも。この行先標は高崎線ですね。この観光交流センターの人が「是非、久留里城へ行かれたほうがいいですよ」とのお勧めに従って、次は久留里城へ向かうことにしました。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その2) 久留里は名水の里
2020年11月30日
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「有線放送電話」(→→→こちら)というのを御存知でしょうか?秋田県の農家出身で電気通信行政を担当する総務大臣も務められたスーガー総理ならご存じてしょう。「有線放送電話」とは,昭和30年~40年代にかけて,当時の電電公社の加入電話がほとんど普及していなかった農村漁村において、無料 または 定額で区域内での通話ができ、一部では 電電公社の電話回線と 接続して区域外通信もできた、当時のLAN(ローカルエリアネットワーク)システムでした。運営主体は農業協同組合や町村などでした。有線放送電話に加入するとスピーカーを内蔵した電話機が家に置かれて、地域の広報や NHKニュースの再放送・天気予報・農産物などの市況 ・防災情報 等が放送され、放送がない時間帯のみ電話として利用できました。また、区域外の町村外に電話する時は、電話交換手を呼び出して、相手側の電話番号を伝えてつないでもらったものでした。その発祥之地の石碑が、千葉県君津市の久留里線上総松丘駅の西側にある松丘国保診療所の前にあります。元々は、石碑は久留里線久留里駅前に建っていたそうですが、駅前整備などでこちらに移されたそうです。石碑の背面にある碑文には、こう記されていました。昭和二十四年当時,旧君津郡松丘村消防団長四宮喜八郎氏は 同村ラジオ共同聴取有線放送設備を広報の伝達,消防 その他非常の際の連絡に利用することを思いつき, 同村の通信技師沖津一氏にこの有線放送設備の改良を依頼した。 その結果昭和二十六年通話兼用の有線放送電話設備が同村一円に設置されるに至り, その後この有線放送電話の利便は広く認められ, 全国農山漁村の通信連絡用施設として,貴重な役割をになうようになった。現在この装置は,本県をはじめ全国各地に設置され,その施設は二千を数え, 約三百万世帯の利用に供されている。こゝに有線放送電話法施行十五周年に当り,有線放送電話発祥のこの地に記念碑を建て, この由来を永く構成に伝えんとするものである。昭和四十八年五月吉日社団法人 日本有線放送電話協会千葉県有線放送連絡協議会君津市昔の地方の農山漁村にも志しのある方がおられたのですね。実は、このちょっと時代を感じさせる有線放送電話、今でも施設を更新して現役で使われている地域もあるようです(松代有線放送電話→→→こちら)。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その1) 有線放送電話発祥之地
2020年11月29日
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日高屋で食べたレバ野菜炒め定食(税込み680円)です。まあまあ、美味しかったですが、やっぱり日高屋で食べるなら「中華そば」が無難だなと思いました。人気ブログランキング孤独のグルメ レバ野菜炒め定食
2020年11月28日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。地蔵坂の交差点を左折します。左折した道。この道は「骨董通り」と呼ばれています。この狭い道に路線バスが走っています。建物が骨董品というわけではなく、売っている商品が骨董品なんです。こんな感じのお店があります。そして、この店では、ペルシャ絨毯を扱っているみたいでした。この交差点をまた左折です。駅前の商店街になりました。ゴールの西荻窪駅に到着しました。JR東日本が開催する「駅からハイキング」。知らなかった東京に出会えたようで楽しめました。また、機会を見て参加したいと思いました。それから、東京に限らず、JR東日本の路線がある、青森県でも、千葉県でも、開催されているようですから、一度参加されてみてはいかがでしょうか。【了】追伸:ビリケンさんは「万事あるがままの神」です。昨日紹介した地蔵坂の「縁結び童子」について、大阪のビリケンさんに似ているとのコメントをいただきましたが、確かに顔つきは、尖った頭と吊り上がった目という点で似ていますが、大きな違いは、ビリケンさんは足を投げ出して牛の裏をみせた座り方をしていないといけませんが、「縁結び童子」はお行儀よく正座しています。ビリケンさんの足の裏を撫でるとご利益があるといわれていますが、縁結び童子の足の裏は撫でられないので、ビリケンさんとは全く別の神様だと思われます。ちなみに、ビリケンさんは通天閣公認のビリケンさんキャラクターなので、勝手に真似ると通天閣から商標の侵害などで訴えられるかも。そして、ビリケンさんの台座には「THE GOD OF THINGS AS THEY OUGHT TO BE」(万事あるがままの神)と書かれているので、縁結び以外の願い事もかなえてくれそうな神様なんですね。人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その20) 骨董通り
2020年11月27日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。女子大通りに沿って、荻窪中学がありました。荻窪駅からは遠いけど、荻窪中学なんですね。女子大通りと思っていましたが、この坂道は地蔵坂(→→→こちら)と呼ばれているんですね。さすが、地蔵坂。お地蔵さまが。と思ったら、「縁結び童子」という神様(?)でした。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その19) 地蔵坂
2020年11月26日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺池から水が流れ出しているところです。出てくる水が少ないのか、水路の底に狭い水路を造ってあり、そこを流しています。水深がそこそこあるので、魚も泳げるようにしているのでしょうね。途中から水路の幅が広がっています。勾配が緩くなっているのでしょうか。善福寺川に屋根がついている区間がありました。丁度、井荻小学校の敷地が川を挟んで建っているところにこの屋根がついています。善福寺川、住宅街の間を下流に向かって流れて行きますが、ここで今度は川から離れて、一旦、東に向かって、この緩やかな坂を登って行きます。この坂道の先に東京女子大があるので「女子大通り」(→→→こちら)と呼ばれています。駅からハイキングのコースは、果たして、東京女子大に立ち寄るのでしょうか?【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その18) 善福寺川に沿って歩きます
2020年11月25日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 善福寺公園の生い立ちを解説した説明板がありました。看板の解説を引用してみました。福寺公園の生い立ち この公園は、多摩川が東京湾に流入して形づくられた隆起扇状地で、武蔵野台地の一部をしめております。標高約50メートル、西側はほぼ平坦な台地で東側は、石神井川・妙正寺川並びに神田川などが流れ、起伏に富んだ丘陵になっています。 また善福寺池は、三宝寺池・妙正寺池並びに井の頭池と共に武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺からの湧水によってできた池である点が、共通の大きな特徴となっています。なお善福寺の名称については、昔丘の西側に善福寺・万福寺の二寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれています。 ここは、交通の便にめぐまれなかったため、自然の景観がよく保存されていました。その後、周囲の住宅化や近代施設の接地などによって、この風致を保存するために、昭和五年十月都市計画法によって風致地区に指定してこの区域では、建築物その他工作物の築造、土地の形質変更、樹木等・土石の採取、あるいは風致維持に影響ある行為を制限することにしました。その後昭和三十二年に東京都市計画公園として決定され、その一部が昭和三十六年六月東京都善福寺として開園し現在に至っています。 公園の東側、「下の池」の方へ向かいます。 園内の鬱蒼とした雑木林は、かっての武蔵野と呼ばれたこのあたりの面影でしょうか。 上の池と下の池を結ぶ水路を水遊びができるような「遅野井川親水施設」と呼ばれる場所を杉並区が整備したそうです。川岸の勾配が緩くなっていて、水の中に入り易くなっています。それゆえ、水に親しむことができる「親水施設」なのでしょうね。 そして、遅野井の湧水を水源としていた善福寺川は、かつて「遅野井川」と呼ばれていたことから、「遅野井川親水施設」と命名されたそうです。しかし「遅野井川親水施設」とは、ちよっとお役所らしい角張った名前ですね。 池の周りには、野鳥を撮影するカメラ愛好家の方がよく来るようですね。 下の池はアシなどの水生植物でかなりの面積が覆われていました。 善福寺川に流れ出る池の下流側はスイレンに覆われていました。花が咲く頃は綺麗でしょうね。 そのスイレンの繁茂しているあたりにダイサギが佇んでいました。 この堰になっているところから下流側が善福寺川となっています。 そして、堰のある付近では、真鯉がゆったりと泳いでいました。 【つづく】 人気ブログランキングへ 善福寺川ウォーク(その17) 善福寺川はむかし遅野井川でした
2020年11月24日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺池は武蔵野台地から湧水池だそうですが、「上の池」の畔に小さな滝がありました。「遅野井(おそのい)の滝」と呼ばれています。滝の近くにあった説明です。源頼朝が奥州征伐の帰路この地に立ち寄った際、この地で飲料水を求めたが、折からの干ばつでなかなか水が出ず、頼朝が弁才天に祈り、自ら弓の筈(はず)で土を7か所掘ると、しばらくしてその7か所に水が湧き出たそうです。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅の井」と命名されたというわけです。傍らには「遅の井」と刻まれたちょっと古びた石碑がありました。こちらは黒御影石が使われた新しい石碑も建立されていました。ちなみに、現在は泉が涸れてしまったので、新たに井戸を掘り、ポンプで汲みあげて遅の井の滝として復元しているそうです。遅野井の滝の向かい側あった善福寺池にある小島には、社がありました。昔は橋が架かっていたような痕跡がありましたが、今はないのでお参りはできませんね。市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)というそうです。源頼朝が奥州合戦の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけた時に、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事に倣って、建久8年(1197年)に江ノ島弁財天を勧請したのが当社の始まりであると伝えられています。善福寺公園の周辺はベンチやテーブルが整備されて、ちょっとしたピクニックにいいですね。また、こんな銅像もありました。内田秀五郎という方の銅像です。この内田秀五郎は旧井荻町の長で、現在の井荻界隈に影響を与えた政策をいくつも立案し、地域発展に貢献したということです。上の池のバス通りにあった自動販売機、「おそ乃井」と屋号が書いてあるテントがありました。遅野井の故事にちなむ、古くからあるお店があったのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その16) 遅の井(おそのい)
2020年11月23日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。井草八幡宮のわきにあるこの道を抜けて、小学校の横を通ります。桃井第四小学校だそうです。このあたり善福寺という地名なのに「桃井」という校名なのはちょっと不思議です。近頃、みかけなくなっていた、二宮金次郎の石像がありました。善福寺公園前のバス停に到着です。善福寺公園は善福寺池を中心にした公園です。池は「上の池」と「下の池」に分かれています。まず西側の「上の池」の周りを歩くことにしました。ここは池のボート乗り場です。池の水は、かつては神田上水の補助水源として利用されたほど澄んでおり、湧水量も多かったそうです。井の頭池(井の頭恩賜公園)・三宝寺池(石神井公園)と並び武蔵野三大湧水池として知られ ていました。また善福寺池の名称は、昔、この湖畔付近にあった寺の名からとったと伝えられています。ここからすこし離れたところに善福寺というお寺がありますが、このお寺は昭和17年(1942)に善福寺に改称したそうです(→→→こちら)。さて、湖畔にあった、この建物は、善福寺公園サービスセンターです。公園の施設を使いたい時などに申し込みを受け付けてくれるようです。この足で漕ぐダイブのボート、サイクルボートというそうですね。広々とした池でのんびりとボートで遊ぶって楽しそうですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その15) 善福寺公園「上の池」
2020年11月22日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。再び住宅街の道を歩いて、善福寺1丁目の交差点にやって来ました。また、青梅街道です。青梅街道沿いに、大きな赤い鳥居が、ここが井草八幡宮(→→→こちら)です。木立に囲まれた広い参道を進んでいくと、赤い楼門が見えてきました。井草八幡宮の由緒が紹介されています。創建当時、春日社をお祀りしていたそうですが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際にここに立ち寄り、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来以来八幡宮を名乗っているそうです。こちらが境内の案内図です。やはり都内でも有数の広大な社叢を誇る神社ですね。この松は「頼朝公お手植えの松」と呼ばれています。奥州征伐の際に立ち寄り戦勝祈願し、報賽として2本の松を植えたと伝えられています。現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまったそうです。子供会のみなさんがお囃子の練習をしていました。この回廊の中に拝殿、本殿があります。これは「七五三((しちごさん)」と読みますが、名字で七五三掛(めししめかけ)さんという人がいますね(→→→こちら)。こちらが拝殿です。見事な金文字の扁額でした。お参りを済ませると、北参道に向かいました。北参道にある大灯籠(だいとうろう)です。本当に大きい灯篭ですね。北参道を出ると青梅街道と早稲田通りの交差点に出ます次は、いよいよ善福寺公園に向かっていきます。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その14) 井草八幡宮
2020年11月21日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。青梅街道にやって来ました。青梅街道、日曜日だったのですが、かなりの交通量ですね。そして、次の目的地に到着しました。杉並区立桃井原っぱ公園(→→→こちら)です。面積40,000平方メートルの広い公園。以前は日産自動車荻窪工場でしたが平成10年(1998)に移転した跡地を平成23年(2011)に公園として開園したそうです。ちなみに、日産自動車の工場になる以前は、中島飛行機株式会社東京工場としてゼロ戦のエンジンなどを製造していたそうです。この公園にも手押しポンプの井戸がありました。結構、家族連れで遊びに来ている人たちが多いようで、園内には綿あめの移動販売車や、クレープ屋さんなどが店を開いていました。今日はみなさん売り上げが立ったでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その13) 桃井原っぱ公園
2020年11月20日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。「東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム」の向かい側にあるのが、この荻窪八幡神社です。境内にあったこの胸像。有名な人かと思ったら、この神社の宮司だった小俣金治氏のものでした。神社の宮司さんって世襲が多いので、小俣家は代々この神社の宮司さんなんでしょうね。こちらが二の鳥居。その隣の小さな円の穴があいた門。祓門というそうです。夏越の大祓や年越の大祓でくぐる茅の輪のように、くぐると穢れを祓ってくれる門のようです。こちらが神門となります。神門を抜けて、こちらが拝殿となります。文明9年(1477)江戸城主であった太田道灌が、上杉定正の命をうけ石神井城主・豊島泰経を攻める際に、この神社に武運を祈願した時に植えた高野槇です。「道灌槇」として、御神木として崇められているそうです。この小さな鳥居が、善福寺川に架かる社橋から見えたもので、荻窪八幡神社の南の参道の入口になります。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その12) 荻窪八幡神社
2020年11月19日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。さて、善福寺川から離れて北に向います。青梅街道の手前までやって来ました。善福寺川ウォークの次の見学ポイントは、東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム。この建物の中にあります。でもこの建物、むかし結婚式場なんかあった「杉並会館(→→→こちら)」では?どうやら、ネーミングライツの導入で、「東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム」となったそうです。この、杉並アニメーションミュージアムは、日本のアニメの歴史やアニメ制作の過程を直接体験できる施設で、入場無料です。アニメ好きな人にはいいところかも。そして、東京工芸大学、アニメの仕事に携わりたい人にはいい大学かもしれないですね。建物の内部の壁です。陶壁と呼ばれるもので、陶芸家の會田雄亮(1913-2015)(→→→こちら)の作品だそうです。区立の施設にしては重厚な内装ですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その11) 杉並会館
2020年11月18日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。さて、荻外荘公園から折り返して、この小さな児童遊園を抜けて、今度は善福寺川を上流に向かって歩いて行きます。歩道まではみ出してきた桜の木の下を潜ります。そこで振り返ってみると、大きな看板が。ゆたかな、夢をそだてるチャイルド社(→→→こちら)です。保育用教材や書籍を販売する会社のようです。普通の住宅街の中に本社を持っているのは意外な感じでした。こどもの夢を育てるためには、都会の真ん中ではなく、こういう閑静な住宅街がいいのかもしれませんね。また、川沿いには、庭に柿の木があるお宅もありました。この柿の収穫されるんでしょうか。こちらのお宅なんか、木も大きく育って、随分高いところにまで柿の実がなっていて、取るのは大変そうです。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その10) ゆたかな、夢をそだてる。そして柿の木も
2020年11月17日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。このあたり、大きな家屋敷が並んでいる割には、道が狭いです。多分、第二次世界大戦の時に空襲で焼けなかったので、むかしの区画のまま残ったせいなんでしょうね。戦災や震災で焼け野原になっていたら、江東区や墨田区のように、区画が整理されて道も広くなってこういう狭い道はなかったかもしれませんね。町中、いたるところでポスターが貼られていました。都議会議員の方です。化粧品の宣伝ではありません。そんな細い道の住宅街を抜けて、広々とした芝生の広場に出ました。芝生の広場の真ん中にあった井戸の手押しポンプです。災害の時、水が確保されているというのは安心できるかもしれませんね。水が枯れていないでちゃんと出ればの話ですが。広場の北側には、建物があります。ここが国指定史跡 荻外荘(てきがいそう)(近衛文麿旧宅)(→→→こちら)です。荻外荘は、昭和戦前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の別邸だったそうで、近衛文麿という人物、 1945年12月16日にこの荻外荘で服毒自殺したそうです。石柱も建立されています。説明板には荻外荘の来歴が詳しく書いてありました。2012年(平成24年)、永らく荻外荘に居住していた所有者で近衛の次男・通隆氏が逝去したことから、地元の町会長の連名で要望書が区に提出され、2013年2月、杉並区は荻外荘を買い取ることを明らかにしたそうです。そして、2014年に買い取られて2015年3月に敷地の一部が荻外荘公園として整備・公開されましたそうです。しかし、改めて建物を見ると、古い日本家屋だなとは思いますが、文化財的な価値は・・・・?「荻外荘(てきがいそう)」は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所ということで、国の史跡として指定されたのだとか。マンホールの蓋はちょっと凝ったデザインになっていました。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その9) 国指定史跡 荻外荘
2020年11月16日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 次に訪れたのは、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」(→→→こちら)です。 こちらも入園料は無料。この中を入って行くと、 こちらの「幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」の入口に着きます。 こちらは、日本文学研究者で角川書店の創立者である角川源義の自邸を整備し、2009年(平成21年)5月10日に開園した公園です。 この建物は、幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は旧角川源義宅で、旧書斎が展示室とされて、角川源義にゆかりのある品や俳句などが展示されていました。また、詩歌室、茶室が設けられているそうです。 こちらが茶室となっていますが、マスクをしてお茶を点てるという、コロナ時代にふさわしい茶会となっているようでした。 【つづく】 人気ブログランキングへ 追伸:お詫びと訂正 昨日の投稿で、「荻」と書くところを「萩」と書いてしまい、また、「荻」はススキに似た植物で花札でイノシシと一緒に描かれている「萩」とは別の植物だそうです。ここで訂正させていただくとともに、全国の「荻野目慶子」ファン、並びに「荻野目洋子」ファンの皆さん、そして「萩本欽一」さんに、謹んでお詫びをさせていただきます。 善福寺川ウォーク(その8) 角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)
2020年11月15日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。ハイキングコースのポイントになる「杉並区立太田黒公園」(→→→こちら)です。立派な石柱が建立されています。この公園、入園料は無料です。無料といいながら、みごとな公園で、正門からつづく見事なイチョウ並木。ギンナンの独特な香りがします。この木戸をくぐると、日本庭園が広がっています。日本庭園には欠かせない池ですね。錦鯉も欠かせないアイテムですね。こちらは記念館。この公園の所有者だった太田黒元雄氏のアトリエだった建物だそうです。太田黒公園の由来が書いてありました。この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年10月1日に開園したものです。大田黒氏は、86歳で逝去されるまで47年間余りにわたって、この地で音楽活動を続けられ晩年を過ごされました。この公園の約30%に当たる2,679.63㎡は公園にしてほしいとの氏の遺志により、ご遺族から杉並区に寄付されたものです。公園化に際し、できる限り原形保存を図り従前からあった池の再現をしました。園内には樹齢100年を超えるイチョウ並木を始め、ケヤキ、アカマツ、シイノキなどの巨木がうっそうと茂っています。また、数寄屋造りの茶室、民家の土間を思わせるような休憩室のほかに、氏の仕事部屋であったレンガ色の記念館が保存されています。記念館は、昭和8年に建築されたもので当時としては珍しい西洋風の建築物です。室内には生前氏が愛用されていたスタインウェイ社製のピアノや蓄音機などが残されています。つまり、元の持ち主だった太田黒元雄氏(→→→こちら)は、こういうお家を維持できるほどお金持ちだったのが、残されたご遺族はそれほどのお金もなく、建物と敷地を杉並区に寄付したということなんでしょうか。こちらは茶室だった建物で、管理事務所も兼ねているようです。この茶室の中から見える「萩」の木が見えるそうです。花はもう終わっていました。この公園、春夏秋冬楽しめそうでいいですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その7) 太田黒公園
2020年11月14日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川に沿って下流側に向かって歩いてきて、春日橋を渡ります。ここで善福寺川と別れて、荻窪の住宅街の中に入って行きます。緩い坂道となったこの道を荻窪駅の方に向かって歩きます。この道、「荻外荘(てきがいそう)通り」と呼ばれているみたいです。このような立派なお屋敷が立ち並ぶ通りです。駅からハイキングのコースなので、こういう公園で、トイレを利用できるように配慮されています。荻窪つどい公園という名前の公園です。この公園、昭和23年から平成28まで東京フリーメゾジスト杉並中部教会がありましたが、教会の解散に伴い遺族の方から土地が杉並区に寄贈されて開設された公園だそうです。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その6) 荻外荘通り
2020年11月13日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。大きな電波塔が見えました。この会社のものでした。こちらの排水口にハトが集まっています。この排水口はハトの巣になっているのでしょうか。この橋。さかいばし(界橋)というそうです。昔の地名の上荻窪村と下荻窪村の境だったのでしょうか。ここにも水位監視の施設がありました。この橋は荻窪橋、上を走っている道は環状八号線です。この歩道橋を渡りました。環状八号線(→→→こちら)です。日曜日なので交通量は少ないのでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その5) 環八を渡ります
2020年11月12日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川は一級河川です。一級というとなんとなく重要な川って感じですね。重要な河川ですから、こういう施設がありました。河川の水位を測定して、水位が上昇して危険なレベルになりそうになると、このスピーカーから「とっとと避難しなさい」と放送されるのでしょうね。水位を測定している施設は手前にあります。測定機械で測定しているほか、標尺も備えて、機械が故障しても目視できるようになっていました。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その4) 一級河川善福寺川
2020年11月11日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川、住宅街の中をくねくねと蛇行しながら流れています。小さな公園がありました。手入れの行き届いた花壇ですね。そして井戸水の手押しポンプもありました。周辺の案内図も整備されていました。そして、川は中央線の鉄橋の下をくぐっていきます。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その3) 手押しポンプ
2020年11月10日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺川沿いの細い歩道を歩いて行きます。社橋という橋です。善福寺川水源から2.5kmの地点になります。社橋の「社」とは、この橋の北に位置する荻窪八幡神社のことです。八幡神社の境内からまっすぐ南へ伸びる道が、この橋の上を通っています。道の彼方に荻窪八幡神社の鳥居が見えますね。善福寺川には水鳥がよく遊んでいます。白鷺と呼んでいますが、シラサギという種はおらず、白いサギ類の総称を意味しているんだとか、これはダイサギでしょうね。サギの仲間って、ジッとしていることが多く写真は撮影しやすいですね。別に写真撮影のためにポーズをとっているのではなく、本当はこの姿勢で川の中の魚を狙っているのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その2) 社橋
2020年11月09日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。 JR東日本のイベントだけに出発は、中央線の西荻窪駅です。 受付です。参加者はやっぱり足腰を鍛えたい暇な中高年が多いですね。ギャルはいなくて10年後が楽しみなギャル候補生が家族に連れられて参加しているのをたまに見かける程度です。 駅を出で西荻北銀座を北に向かって歩きます。 街路樹があって、なかなかいい雰囲気の道でした。 橋にさしかかりました。 善福寺川に架かる関根橋という橋です。関根は、荻窪八幡神社の神官の屋号と言われています。 ここから善福寺川を下流に向かって歩き出します。 【つづく】 人気ブログランキングへ 善福寺川ウォーク(その1) 西荻北銀座
2020年11月08日
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リンガーハットの皿うどん(税込み682円)です。意外と野菜がたっぷり入っていました。しかし、「うどん」といいながら、「中華麺」のかた焼きそば使っているのが不思議。長崎の方では、古くから海外と交流があったので、黒人と白人を区別せずに人間と呼ぶように、「うどん」と「中華麺」はあえて区別せずに、「うとん」で統一しているのかも。人気ブログランキング孤独のグルメ 皿うどん
2020年11月07日
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羽咋市といえば、この千里浜海岸(ちりはま かいがん)。1里=4キロメートルですから、4,000キロメートルの砂浜が続くわけではなく、日本海に面する石川県羽咋市南部から宝達志水町今浜にかけてのおよそ8キロメートルの砂浜海岸です。遠浅の砂浜海岸って、やっぱり海水浴にはいいですね。サーフィンにもいいかも。この海岸は「千里浜なぎさドライブウェイ」(→→→こちら)となっていて、日本で唯一、車で砂浜を走れるドライブウェイとなっています。もちろんバスやバイク、自転車でも砂浜を走ることができます。道路交通法を適用する公道になっているそうで、スピード違反したりあおり運転はしてはいけませんが、海岸線の砂浜の波打ち際を走ることができる爽快感はいいですね。ということで、今回は東京から日帰りの能登半島の旅。ちょっと入口の付近だけでしたが、まだまだ絶景、名所がある能登半島。じっくり時間をかけて春夏秋冬、探検してみたいところです。最後に、なぜか紅白歌合戦では歌ってくれない石川さゆりさんの「能登半島」、今度は是非、紅白歌合戦でも歌ってもらいたいものです。【了】人気ブログランキングへ能登路(その17) 千里浜なぎさドライブウェイ
2020年11月06日
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ドライブで旅をするとついつい立ち寄るのが道の駅。 能登島の後は羽咋市千里浜に向かいました。そこで立ち寄ったのがのと里山海道千里浜インターのすぐそばにある「道の駅のと千里浜」。 ところで、道の駅って、国土交通省の「特定交通安全施設等整備事業」(→→→こちら)という補助金で造るのですね。でもこの補助金で造れるのは駐車場、トイレ、道路情報ターミナル等だけで、それ以外のみんなが利用するお土産物屋さんとかレストランは補助しないみたいです。 まあ、そういう商業施設を税金で造るのもどうかと思うし、また、縦割り行政の原則からしてもレストランは農林水産省とか厚生労働省の管轄なのかもしれませんからね。 砂浜が近いせいか、砂像が道の駅にありました。 これくらい大きなものだと作るのは大変なんでしょうね。砂と水だけで作るそうですから、水が蒸発したらひび割れて行くし、また雨が降れば砂が流されるので、こういう屋根のあるところに造ってあるのかも。 こういう小さいものは、それほどもないのか、外に展示してありました。 能登って海産物だけかと思ったら、イノシシ肉なども特産品として売り出しているのですね。いわゆるジビエ料理っていうものですね。 ところで、道の駅といういうくらいですから、やっぱりこの施設の責任者は「駅長」と呼ぶのでしょうか? 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その16) 道の駅のと千里浜
2020年11月05日
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「ツインブリッジのと」とオシャレな名前で呼ばれているこの橋。 実は、正式名称は「中能登農道橋」というそうです。 中島地区側に「長浦うるおい公園」があり、このツインブリッジのとの七尾湾の景観を楽しむことができます。 なにやら細かく説明が書かれている、橋の説明板。 農道ですがトラクターのような農耕車両だけ通行できるというものでもなく、普通の乗用車や輸送用のトラックも通行できるのですね。 確かに、和倉温泉と能登島を結ぶ能登島大橋は観光専用みたいな感じで、観光バスや乗用車で混雑しそうですが、こちらの橋なら、通行車両も少なく、能登島で生産された能登ミルクも新鮮な海産物も運ぶのには便利かもしれませんね。 こちらの展望台に登ってみると、 海を渡る中能登農道橋です。 ちなみに、この橋の構造は斜張橋(→→→こちら)と呼ばれています。 そして、橋を渡って七尾市の中島地区にくると、。国道249号との交差点に「道の駅なかじまロマン峠」があります。 ここにある、金太郎さんの絵が描いてある「Yahata すしべん」というレストラン。どうやら石川県下で展開しているチェーン店なようです。 ここで天ぷらうどんを食べたのですが、他のお客さんの様子をみていると、ちょっと変わったシステムのお店だということがわかりました。 この店、レストランだけでなく、入り口にコンビニがあり、普通にお惣菜やご飯の入っていない弁当が売ってあります。まあ、ここで弁当を買うとご飯を盛ってくれて、そのまま持ち帰りもあるのですが、人によってはその商品をレストランコーナーに持ち込んで食べてもいいですし、また追加でレストランコーナーでうどん等をたべることもできます。 さらにビックリしたのは、レストランでうどんや丼物を注文して、そのままコンビニへ戻って、お惣菜をレジを通さず持ち込んで食べている人もいることでした。多分、最後にお会計する時に精算するんだと思いますが・・・。 ということは、カツ丼をレストランで注文して、コンビニでカップ麺を買ってきて食べてもいいということですかね。 そんな変わったシステムのお店なので、多分、MoMo太郎のような田舎者は初めて行って戸惑いました。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その15) 「ツインブリッジのと」は農道でした
2020年11月04日
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能登島からこの橋を渡って、本土に戻ります。この橋は「ツインブリッジのと」(→→→こちら)と呼ばれています。 三ヶ口瀬戸と呼ばれる海峡を渡って能登島と七尾市中島地区を結んでいます。 この橋からの眺めです。 橋から望む七尾西湾、能登島と本土に挟まれた海です。 さらに向こうには、七尾市和倉温泉地区と能登島を結ぶ能登島大橋が見えます。 しかし、人口3,100人の能登島に大きな海上橋が2つも架かっているとは、大したものですね。そのおかげて、年間100万人もの観光客が訪れているので、結構な経済効果が地元にはあるのでしょう。 しかし、観光客が増えて地元にお金を落とすことは、大変結構なことですが、日本全体からみれば、どうなんでしょうか? 人間、一日3回しか食事しないので、仮に観光客が能登島で食事しても、その分、観光客が住んでいる町で食事する分が減るだけですから、日本経済全体にとってもプラスマイナス・ゼロってことじゃないでしょうか。 旅行にしても、能登島に行った代わりに、佐渡島か沖縄へ行く人が減るわけで、全体としては変わらないような。もちろんGoToトラベルなどの施策で旅行に行く回数が増えるなら別ですが、コロナ禍でマイナスになったものを元の水準に戻すくらいで、日本経済の成長を促すような施策ではなく、一種の観光業者向けの福祉政策みたいなものですかね。 さて、こちらは七尾北湾です。能登半島にはもっと奥があることがわかります。 旅人をいざなう魅力の尽きない能登半島ですね。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その14) ツインブリッジのと
2020年11月03日
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能登島では釣りが楽しめるようですね。桟橋が整備されていて、釣り用の船まで使えるようで、釣り好きの人達には随分楽しめそうないいところですね。海もこんなに澄んだ青で、透明な水で、こんなもの東京ではお目にかかれません。そして、ここにキャンピングカーでやってくる人もいるのですね。これなら一杯遊べそうです。電源も使用できて、いわゆるRVパーク(→→→こちら)でもあるんですね。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その13) ねやフィッシングパーク
2020年11月02日
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こんな詩を書いてみました。スーガーが最初学者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は学者ではなかったから不法滞在する外国人たちが牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は外国人ではなかったから彼が真実を知らせようとした新聞記者たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は新聞記者ではなかったからそして、彼が私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった菅さん、どんな国を作りたいのですかね?ちなみに、この詩は、反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラー(→→→こちら)の詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」のパクリです。ドイツ語の原詩(多分)Als die Nazis die Kommunisten holten, habe ich geschwiegen, ich war ja kein Kommunist.Als sie die Sozialdemokraten einsperrten, habe ich geschwiegen, ich war ja kein Sozialdemokrat.Als sie die Gewerkschafter holten, habe ich geschwiegen, ich war ja kein Gewerkschafter.Als sie mich holten, gab es keinen mehr, der protestieren konnte.この詩の日本語訳ですナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった【付録】2020年8月1日~10月31日のアクセスレポートです。8月は一日当りのアクセス数を2,000で踏みとどまりましたが、9月は2,000アクセスに届く日がなく、10月からはなんとか持ち直し4,000アクセスを超える日もありましたが、月末になりアクセス数が減少局面に入りました。これからも多くの人に閲覧してもらえるように頑張りたいと思います。人気ブログランキングスーガーが最初、学者を攻撃したとき
2020年11月01日
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