全31件 (31件中 1-31件目)
1
ハケの道をさらに歩くと、この木戸があります。説明パネルによると「旧村川別荘」(→→→こちら)というところです。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子をよく残すことから市の指定文化財になっています。こちらが、母屋です。村川一家はこちらの建物で、食事や入浴などの生活空間として使っていたようです。母屋は、大正10年(1921)に我孫子宿本陣の離れを解体、移築したもので、当初は茅葺屋根でしたが後に瓦葺屋根に直しています。建物は、江戸の佇まいを残す純和風建築です。この別荘地も背後のハケと呼ばれる台地の斜面に建てらていて、このように階段があり、台地の上に登っていけます。台地の上にはベンチがあり、展望ができるようになっていました。この別荘が造られたのは、今からおよそ100年前、我孫子にはまだ電気も通るか通らないかのころです。別荘からはこのような手賀沼を一望できたのでしょう。でも今は庭園の木が繁茂し過ぎで、沼を見る眺望は・・・。こちらが新館と呼ばれる建物で、昭和2年(1927)から翌年にかけて斜面地を活かして建てられたものだそうです。内部はこのようになっていて、寄木のしゃれたフローリングなど外観の和風とは違い、洋式に造られていました。この別荘の持ち主は、村川堅固(→→→こちら)という西洋古代史を担当する東京帝国大学教授でした。また、昭和になって長男の村川堅太郎(→→→こちら)に引き継がれました。村川堅太郎氏も父親と同様に西洋史を専攻する東京帝国大学教授でした。さらに学術書だけでなく、エッセイストクラブ賞を受賞した紀行随筆「地中海からの手紙」も著作され、山川出版社から出版された「高校世界史教科書」もあり、なかなか文才にも恵まれた方のようです。それにしても、昔の東京帝国大学教授はこんな別荘を持てるほど高い給料をもらっていたんでしょうか。ハケにある別荘なので、やっぱりここにも湧水を利用した池が造られていました。【追補】昨日、投稿した「常磐線沿線物語 我孫子編(その11) ハケの道」について、以下のような指摘を受けました。>台地の崖をハケ>関東でも一部の地域での言葉ではないかと思います。MoMo太郎が調べたところ精選版 日本国語大辞典「はけ」(→→→こちら)の解説では「〘名〙 北海道・東北、関東から西の方にかけて、丘陵山地の片岸をいう地形名。地名になったものも多い。※武蔵野夫人(1950)〈大岡昇平〉一「土地の人は何故そこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」という記述がありました。ただ専門家ではないので、詳しくはわかりませんが、「ハケ」が正式な地形学や地理学の術語かどうかはわかりません。しかし、「ハケ」という語素を含む地名の例もかなりあることから、日本で地形を表す俗称として広く認知されていると思われます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その12) 旧村川別荘
2022年01月31日
コメント(28)
古びた看板で文字も剥げかかっていましたが、多分「富桝旅館」と書いてありました。今も営業しているのでしょうか、手賀沼が眺められる旅館なんでしょうね。階段のところに「瀧井孝作仮寓跡(寿古墳公園)」の案内柱がありこの階段を登ると古墳跡があるのでしょうが、立ち寄るのは省略しました。この傍の道沿いに小さな公園があって説明パネルが立っていました。パネルには「ハケの道と湧水」と書かれていました。パネルには以下のことが書かれていました。関東地方では台地の崖を「ハケ」と呼びました。「ハケ」下のあたりは平坦で、安定していることから、集落と集落をつなぐ道である「ハケの道」が作られ、古くから人々の生活道として機能していました。白樺派の文人たちもハケの道を往来し、友情をつないでいました。また、「ハケ」からは台地に降った雨が浸透して染み出し、豊かな「湧水」が作られました。湧水はハケの道沿いの水田の水源として利用されたほか、台地から手賀沼へとつながる生態系を形成、維持してきた点でも重要です。我孫子のハケの道沿いには、かつてはあちこちに湧水が見られましたが、台地上のアスファルトで覆われ、斜面林が少なくなると、湧水も減っていきました。その中で、当地の寿古墳公園(瀧井孝作仮寓跡)下の湧水は、東側80mの旧三谷別荘下の湧水とともに現在も比較的安定して水が湧き出しています。我孫子市では湧水の持つ歴史的、自然的な意義を評価し、2か所の湧水が市民に親しまれるよう再整備しました。なお、この湧水は飲用には適しません。また、説明文の下には昭和初期の我孫子と文人の住まいの図、旧村川別荘から子ノ神大黒天付近の「ハケの道」と水田(昭和初期)の写真がありました。ここは枯れることもなく水が湧き出ていました。さらに東に100メートルも行かないところにも湧水痕のようなものがありました。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その11) ハケの道
2022年01月30日
コメント(24)
大正煎餅と書かれた昭和感満載の煎餅屋の木川商店(→→→こちら)がありました。さらに西に進むと、白い変なオブジェを展示しているちょっと変わった感じの建物がありました。我孫子白樺文学館(→→→こちら)です。柳宗悦(むねよし)・志賀直哉・武者小路実篤(さねあつ)などの白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼のほとりに集まって住み文学活動を行ったことを次代に伝えるためにつくられた記念館だそうです。白樺派(→→→こちら)とはなんなのか、ちょっと調べてみました。狭義には、雑誌「白樺」(明治43年(1910)4月-大正12年(1923)8月)の同人、有島武郎、武者小路実篤、児島喜久雄、柳宗悦などからなる、華族および華族に準ずる階層の文学者たちを指すそうです。また、広義には「白樺」に影響を受けた、文学者、美術家、そして無名の青年たちを含むそうです。これらの文学者、芸術家らは、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げていたのが特徴でしょうか、別に白樺(シラカンバ)の木を愛好していた集団ではないことは確かですね。この我孫子白樺文学館と通りを挟んだ向かい側に、志賀直哉邸跡がありました。志賀直哉邸跡は白樺の木がない木立の中にあるようです。白樺派といってもみんな白樺の木が好きではなかったようですね。ここに志賀直哉が住んでいた家があったのですね。志賀直哉は、我孫子以外にも東京は勿論のこと、尾道、松江、京都、奈良などにも住んでいたので、ひとところに落ち着けない性分だったのでしょうか。転居することで創作意欲が刺激され色々な小説ができたんでしょうね。ここに母屋が建っていたようですね。間取りなども紹介されていました。コンクリート床の上にはそれぞれの位置が示されていました。色が変わっている所が壁ですね。我孫子に集っていた白樺派の人達のことも紹介されていました。相関図などもあって誰と誰が仲が良かったのかとかわかります。手賀沼のほとりに住んでいて、みなさん交流があったようですね。また、白樺派の文人たちのエピソードも紹介されていました。ここは手賀沼北岸の台地の斜面下で、「ハケ(捌け)」と呼ばれる地下水がしみだす場所にあるため、湧水がありました。志賀直哉家ではこの水を使って生活していたんでしょうね。「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路(前編)」など志賀直哉が我孫子時代の作品はこの書斎で執筆されたそうです。平成23年に市の指定文化財になっています。茶室風の趣味の良い日本家屋なんでしょうね、白樺も使われているのでしょうかね。ちゃんとトイレも付いてますよ。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その10) 白樺派とは~志賀直哉邸址to
2022年01月29日
コメント(22)
手賀沼公園の中をさらに歩いていくと、大きな石碑がありました。血脇先生謝恩之碑という石碑です。この石碑、元は我孫子駅前にあったものが市街地の整備によりこの地に移設されたことが、東京歯科大学の名前で記されていました。血脇先生謝恩之碑は、かなり大きな石碑です。血脇先生とは血脇守之助(→→→こちら)のことで、我孫子出身の守之助は、弱冠12歳で上京しいくつかの学校に通った後、新聞記者、英語教師を経て、高山歯科医学院に入り歯科医となります。そして、高山歯科医学院の 経営を受け継ぐと、東京歯科医学専門学校への昇格を果たし、現在のように高等教育機関で歯科医が養成される仕組みの先駆となりました。このことが、戦後の東京歯科大学創立につながります。このように歯科医の地位向上に尽くした立派な先生です。また、野口英世の恩人としても知られています。会津で出会った野口英世が守之助を頼って上京ししてくると、高山歯科医学院の寄宿舎に住まわせて仕事を与え、アメリカ留学に当たっては渡航費用を工面したそうです。それ故に、このような大きな石碑が建立されたのでしょうね。この説明板に碑文が書かれてました。血脇先生謝恩之碑 (碑面) 従三位 池田成彬題額血脇守之助先生の歯科界に於ける多年の業績は茲に呶々を要せず歯科医育の独 立歯科医師制度の確立歯科医師会の設立等々で斯道の向上に資すべき経綸施設 一として先生の指導補翼に成らざるものなしと云ふも過言にあらす先生の功業 は我歯科医術発達の歴史と共に永世不巧なりと云ふべし先生高山歯科医学院を継承し育英の業を主宰すること既に40年に及ぶ今や先 生の門下歯科に業を立つる者8000人中に最高学位を帯び又は名声一世に高き者 数十百人を算すべく桃李 門亦一代の盛事なり先生天資温厚姿度広大頗る大人の風あり晩年易を好み造詣甚だ深し又能く時務 に通じ経済に明かにして経世家の素質に富む人或は功名場裡に擁せんとするも のあるも先生初志に殉ずるを以て任とし敢て動かず終始一貫力を歯科界に效し て老の至るを知らざる者の如し先生茲に古希を越えること1歳時偶々東京歯 科医学専門学校創立50周年祝典挙行の佳辰に会す即ち後進子弟 謀り先生生 誕の地を選び碑を建て文を勒し其寿康を祝し併せて謝意の意を表す 紀元二千六百年十一月二日 従四位勲二等木下謙次郎撰こちらの石碑は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られるバーナード・リーチ氏'→→→こちら)のものです。この石碑には、リーチ自作の詩と陶芸の図柄に好んで描いた、さすらいの修道僧が刻まれていました。I have seen a vision of the marriage of East and West. For off down the halls of time I heard a childlike voice How long? How long?「私は東洋と西洋の結婚する姿を夢見続けてきた。時の流れのはるか彼方から子供の声を聞いた。 それは いつのまで掛かるの? いつまで掛かるの?」(訳 MoMo太郎)バーナード・リーチ氏は明治20年(1887)に香港で生まれたイギリス人で、幼児期は日本で過ごしたそうです。帰英後は、ロンドン美術学校などでエッチングを学び、明治42年(1909)日本への憧れを強くし再来日、上野桜木町に居を構えてエッチングを指導し、入門してきた柳宗悦ら白樺派の人々と親交を結び、さらに千葉県我孫子の柳宗悦の住む三樹荘に窯を築くなど日本国内で作陶を始めた人物です。大正9年(1920)陶芸家の濱田庄司を伴って帰英、コーンウォール州セント・アイヴスに日本風の登窯を築き、大正11年(1922)にはリーチ工房を設立し生涯の拠点とした。昭和47年(1972)まで制作を続け、昭和54年(1979)に亡くなりました。昭和38年(1963)に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章し、昭和49年(1974)には国際交流基金賞を受賞しています。こちらの石碑にはリーチ氏の功績が紹介されていました。しかし、我孫子市には多くの文化人とか芸術家の足跡があるのですね。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その9) 血脇守之助とバーナード・リーチ
2022年01月28日
コメント(16)
天神坂を下り手賀沼のほとりに向かいます。手賀沼公園(→→→こちら)がありました。手賀沼のほとりにあるこの公園、このようにボート乗り場あり、種類もさまざまで、スワンボートや少し大きめの遊覧船、釣り船などもあります。ボートに乗らずとも手賀沼の周りを散策して水と緑の景観を楽しむこともできます。手賀沼は、昭和30年頃まではウナギなどの漁獲が多い清澄な沼であった。水底が透けて見え、子供たちは沼で泳ぎ、漁師は船上から沼の水をすくって飲んだほどだったそうです。その後の高度経済成長による周辺の都市化に伴い、手賀沼に注ぐ大堀川と大津川に生活排水や産業排水が流された結果、沼の水質汚濁と富栄養化が進み、かっては水質がワースト1位ということでした。しかし、利根川のきれいな水を入れる北千葉導水路事業(→→→こちら)などによる努力が実を結び、、環境省による令和元年度公共用水域の水質測定結果では、手賀沼の水質は全国ワースト3位とやや改善の兆しが見えてきました。公園の中にこのようなモニュメントがありました。「平和の記念碑」というもので、昭和60年(1985)12月、広島市から原爆で被爆した旧市庁舎の側壁と敷石を我孫子市原爆被爆者の会が譲り受け、翌年8月に市が建立したものだそうです。そして、毎年8月に平和の記念碑前で、我孫子市原爆被爆者の会とともに、平和祈念式典を開催しているそうです。「平和の灯」と名付けられた石碑とともしびがありました。ここに広島平和記念公園にある「平和の灯」から火を譲り受け、平成27年(2015)8月15日に、その年の広島派遣中学生の手により、手賀沼公園に点灯しました。この灯は、地球上から核兵器がなくなるまで燃やし続けるそうです。公園内を散策しみると、踏切がありました。これは、手賀沼公園のアトラクションである手賀沼公園ミニ鉄道のものです。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その8) 手賀沼公園
2022年01月27日
コメント(30)
大正時代から昭和初期にかけて我孫子は「北の鎌倉」と称されるほど、多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持っていたそうです。その中の一人に柔道創始者で、講道館を開き柔道の普及に努めた嘉納治五郎(→→→こちら)もいたそうです。その跡地が天神山緑地として公園となっています。嘉納治五郎別荘跡地の説明板がありました。我孫子には明治44年(1911)に別荘と農園を構えたほか、杉村楚人冠(ジャーナリスト)や村川堅固(西洋古代史学者)らと手賀沼保勝会を結成して、環境保全運動と手賀沼を活かした町おこしに尽力したそうです。生誕160年にあたる令和2年(2020)に市民団体の寄付により建立された銅像です。こちらは東京都文京区にある講道館前にある嘉納治五郎の銅像です。同じ型から制作されたんでしょうかね。そっくりです。このような書が我孫子に残されているんだとか。「力必達(つとむればかならずたっす)」「鏡為人以(ひとをもってかがみとなす)」なるほど、生き方の参考になりますね。ロンドンオリンピックで日本男子史上初の金メダル0個という結果に終わった柔道男子日本代表監督だった篠原信一(→→→こちら)さんなんか、この言葉の意味を噛みしめて指導されていたんでしょうね。別荘地からは手賀沼の景観が楽しめますが、往時はこんな感じで手賀沼を眺められたのでしょうが、今は、ちょっと周辺の木も大きくなって視界を遮っていて、ちょっと残念です。もう少し、枝を落とすなどの手入れをして景観を楽しめるようにしてもらいたいです。富士山なども見ることができたとそうですね。嘉納治五郎別荘跡地の向かい側にあった青い南欧調の屋根の邸宅は「三樹荘」と呼ばれる思想家、美学者、宗教哲学者として知られる柳宗悦(→→→こちら)邸宅跡です。今は現在は歌人の村山祥峰氏邸となっていて公開はされていないそうです。やっぱり、こんなお洒落な家は文化人と呼ばれるような人が住むもんですね。嘉納治五郎別荘跡と三樹荘の間にある天神坂と呼ばれる坂道を下っていきます。「三樹荘に 夢をつむぎし文人の 足跡しるす 天神の坂」と記された石版が坂の途中にありました。村山祥峰さんの歌なんでしょうね。更にこちらの石板には、天神坂の記かつて我孫子が、北の鎌倉と言われた大正時代、文人達の集った三樹荘と椎の実の降る天神坂は、彼らがこよなく愛したという。耳をすますと、往時の人々の声が、足音が、轆轤(ろくろ)の軋しみが、聴こえてきそうである。この度、市がこの様な石段となし、私たちの憩いの道として整備された。遠き日の三樹荘が天神様の境内であった歴史の道、文学の径を私たちも愛し、守っていきたいと思います。平成5年春 三樹荘主 村山祥峰と記されていました。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その7) 嘉納治五郎の別荘もありました
2022年01月26日
コメント(26)
我孫子市杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)記念館(→→→こちら)にやってきました。旧杉村楚人冠邸をそのまま利用した記念館のようです。こちらが、記念館の建物で、杉村楚人冠邸の母屋をそのまま利用したそうです。入場料が300円だそうです。また、近隣の白樺文学館・鳥の博物館との3館共通券だと500円です。また庭園にはいろんな樹木が植えられていて、杉村楚人冠と言う人の趣味が活かされた庭園のようです。この竹林、春にはタケノコが採れそうでいいですね。さらに歩いてゆくと楚人冠公園というのがあり、杉村楚人冠碑という石碑が建立されています。楚人冠碑には、陶製の碑で、楚人冠の詠んだ「冬晴れの 筑波見ゆ 洪(おお)いなる空に」という句が刻まれていました。でも、本当は「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と読むのが正解だそうです。いずれにしても俳句の五・七・五になっていないところが、秀作たる理由でしょうかね。杉村楚人冠の人物の紹介がここにありました。杉村楚人冠(本名・広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。日本で初めて新聞社に調査部や記事審査部を設け、新聞の縮刷版を企画、発行するなど、先進的な新聞人でした。また大正12年(1923)の関東大震災を契機に翌年に我孫子に移住し、我孫子ゴルフ倶楽部の建設を町長に進言したり、手賀沼の干拓に反対し景観保護活動に取り組むなど、風光明媚な郊外の住宅地、観光地としての我孫子の発展に尽力したそうです。また、主宰した俳句結社「湖畔吟社」をはじめ、地元文化の育成に努めたそうです。こちらは楚人冠と我孫子とのかかわりを説明しています。MoMo太郎、この杉村楚人冠という人初めて知りましたが、現在でいえば、池上彰とか立花隆みたいな人だったんですかね。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その6) Who is 杉村楚人冠
2022年01月25日
コメント(26)
我孫子市は、江戸時代より水戸街道・我孫子宿の宿場町として栄えていた町だそうで、市街地を通る国道356号線(旧成田街道)沿いに本陣の跡がありました。本陣の建物は残っておらず、マンションが建っていました。近くにある防犯ステーションです。ここに水戸道中と我孫子宿の町並みについての説明がありました。こうしてふるさとの歴史を知ることで住民に郷土を愛する心を養ってもらうということは大切だと思いました。「防犯 ステーション」とは、警察の交番の統廃合で使われなくなった建物を市民の防犯 拠点とする取り組みです。昼間、市民ボランティアが常駐し、道案内の対応や子供の下校時の見守りにあたるそうですが、日曜日はお休みでした。防犯ステーションの横には「従是子之神道」というの大きな角柱石がありました。子之神大黒天(→→→こちら)へ行くための道標だったんでしょうね。この角柱石の横にある案内板を頼りに歩いて行きます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その5) 我孫子宿本陣跡
2022年01月24日
コメント(26)
かなり古くて大きなお宅です。古くからある農家なんでしょうね。このあたりは台地の上で水の便が悪いのでしょう。畑が続きます。そして、この細い坂道を下ると。我孫子二階堂高校(→→→こちら)が見えてきました。こちらは付属の二階堂幼稚園です。いずれも日本女子体育大学を経営する学校法人二階堂学園の経営です。ちなみに東京にある日本女子体育大学付属二階堂高校は女子校ですが、こちらの我孫子二階堂高校は男女共学です。また二階堂というのは、大学の創設者で女子の体育指導者・教育者であった二階堂トクヨ(→→→こちら)からきています。このあたりも我孫子市久寺家なんですね。さらに沢山の建物が見えてきました。左手にも学校の校舎がありました。こちらは我孫子高等技術専門校(→→→こちら)です。いわゆる職業訓練校ですね、こういうところで技術を身に着けて活躍している人も多いことでしょう。こちらは中央学院大学(→→→こちら)です。箱根駅伝によく出ているので、名前は知っていましたが、ここにあったのですね。立派な校舎ですね。きっといい学校なんでしょうね。明王山寶蔵寺(→→→こちら)というお寺があります。ここにはかって久寺家城(→→→こちら)があったと伝わっているそうです。再び国道6号線を渡ります。ここは歩道橋ではなく地下道で渡ります。そして、常磐線のガード下を抜けて、手賀沼のある我孫子駅の南側に出ます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その4) 我孫子の文教地区>
2022年01月23日
コメント(26)
住宅街を抜けると畑が広がるところに出ました。次の目的地は「あけぼの山農業公園」(→→→こちら)です。実はMoMo太郎以前平成28年(2016)5月にここを訪れたことがありました(→→→こちら)。ということで、渡された駅からハイキングのコースマップを確認せずにこの標識を見て歩いて行きました。途中、こんな広告オブジェを作っている会社があったりして、結構楽しんで歩いていたのですが、ここに来て、道を間違えていることに気がつきました。本当は最初に見た畑の中を突っ切っていく道を進まなければならなかったのです。立派な顕彰碑でしたが、これを確かめる余裕もなく、慌てて、布施弁天の方へ歩いて行きました。この綺麗な日本庭園を抜けて、こちらが布施弁財天のある紅龍山布施弁天東海寺です。こちらも平成28年(2016)5月に訪れていますので、どんなお寺かは過去のブログ記事(→→→こちら)で確認して下さい。そして、あけぼの山農業公園に出ました。風車があって長閑な風景ですが、11月ということもあって花なども咲いておらず、ちょっと寂しい次第です。こちらが公園の案内図です。色々あって楽しめそうですね。しかし、のんびり見ていることもせず次に進みました。なんといってもメインの手賀沼へ急がなくては。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その3) 布施弁天とあけぼの山農業公園
2022年01月22日
コメント(26)
この建物は、JR東日本野球部柏合宿所でした。野球部の皆さん、ここで合宿しながら野球の練習しているのですね。練習がない時はJR東日本の社員として駅員さんとか会社の事務とかやっているんでしょうね。そういえば、歌手の藤井フミヤは、チェッカーズでデビューする前は、国鉄職員で貨物列車の操車・入換業務に従事していたそうです。JR東日本野球部は1920年に東鉄野球部として創部され、今年で創部102年を迎えた伝統ある強豪社会人野球チームです。会社の野球部が活躍すると社員の士気も上がるのでしょうね。その野球部が練習場として使用する野球場があるので、そこが「駅からハイキング」のコースになっているので行ってみました。こういう人気のない雑木林の中の道を歩いて行くと、ちょっとお洒落な建物がありました。ここは「マザーズガーデン」という特別養護老人ホームです。そしてその向かい側に、JR EAST JAPAN BASEBALL TEAM と書かれた建物があり、JR東日本野球部柏野球場がありました。ここで、観戦可能なゲームが掲示されていました。こういう時に来れば、試合が観れるんですね。近所の野球ファンにはうれしいですね。この奥にグランドがあるみたいでしが、この日は中に入れませんでした。この後、さらに歩いて行くと、いつの間にか「柏市」に入っていました。高級住宅街の中を歩いて行きます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その2) JR東日本野球部
2022年01月21日
コメント(28)
2021年11月21日の日曜日に参加した駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」は、ここ我孫子駅から始まりました。我孫子駅、初めて降りました。大きな集合住宅もあり、ベッドタウンという感じですね。道路標識、どうしたらこんなに損傷するのでしょうか。国道6号線の交差点です。歩道橋の上から取手方面を撮影しました。通行量は多い道ですね。訪れたのは11月21日、町の人がクリスマスの飾りつけをしていました。こういうものでちょっと気分も明るくなれそうですね。下総台地の上に我孫子市があり、なだらかですが起伏に富んでいます。このあたり久寺家(くじけ)という地名のようですね。「くじけ整骨院」、「久寺家」か「挫け」かどちらを当てるのでしょうか。MoMo太郎は、くじけず歩き続けます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その1) 久寺家(くじけ)ないぞ
2022年01月20日
コメント(32)
京都で友達と旧交を温める集まりがあったので、京都に一泊した。駅ビルが出来るまでは、新幹線で京都に停車する時、この京都タワーが見えたていたような気がするが、今では見えないので、京都タワーさんお久しぶりという感じでした。タワーの高さは131メートルあり、京都市内では最も高い建造物だそうですが、東京タワーや通天閣とは違い、鉄骨ではなく鋼板の円筒で出来ているそうだ。通天閣のように塔に広告をつけないのが京都の町の風格というものなのでしょうか。翌日、東京に帰る前に、京都駅ビルにある空中経路から、改めてタワーと京都の町並みを眺めてみました。京都では伝統的に「東寺の塔よりも高いものは建てない」ことが不文律となっており、高層ビルもなく、このタワーが一番高い建造物のなんですね。平安時代中期970年の書『口遊』(くちづさみ)には当代の建物の大きさ比べで、「雲太 和二 京三」とあり出雲の大社が一番、次いで大和東大寺の大仏殿、3位が京都平安京の大極殿となってますが、今だと、この京都タワーは、3位にはならないでしょうね。人気ブログランキング昔は「雲太 和二 京三」だったけど京都タワーは
2022年01月19日
コメント(27)
京都で友達が集まる機会があったので、それに併せて前から気になっていた近鉄の大和西大寺駅(→→→こちら)まで行って来ました。この大和西大寺駅は近鉄奈良線と近鉄京都線・橿原線が平面交差する形で乗り入れいる駅です。秋葉原のように立体で交差するのではなく、平面で交差しているというのがポイントのようですね。この駅から近鉄電車に乗れば、東は三重の伊勢や賢島・西は神戸の三宮・北は京都・南は奈良の吉野まで行けます。しかも、京都から伊勢志摩を結ぶ観光特急「しまかぜ」や難波から名古屋を結ぶ特急「ひのとり」も奈良行が一編成、朝と夜に停車します。知らなかったのですが、近鉄に乗って、阪神電車の尼崎や神戸三宮まで行けるのですね。平面交差なので、線路の切り替えポイント(分岐器)の数がとても多いので鉄道好きの間では有名だとか。駅構内だけでも、なんと28器あるそうで、日本最多ではと言われています。確かに線路が交差して、ポイントは多そうですね。実は、橋上駅舎にある駅ナカショッピングモールの「タイムプレイス西大寺」にある展望デッキから入り組んだポイントと出入りする車両の様子を眺められるのですが、行った時は改装工事中で上から展望することはできませんでした。思えば、子供の頃上本町の近鉄百貨店で迷子になり、また、小学校2年の頃、父親と一緒に石切に行った、列車に置き去りにされて、この生駒まで行ったこと。とどめは、社会人になって、むかし吉祥寺にあった近鉄百貨店で、自分と付き合っていると思った女の子が、別の男性と買い物をしている様子を見た。ということで、MoMo太郎は近鉄とは相性が悪いという宿命からは逃れられなかったのですね。人気ブログランキング大和西大寺駅にて 近鉄との相性の悪さを思い出す。
2022年01月18日
コメント(30)
「かつや」のロースカツのとん汁定食(715円税込み)です。寒い時はとん汁、温まりますね。そう言えば、福岡に住んでいた時、とん汁とは呼ばず、ぶた汁と呼んでいる人が多かったな。人気ブログランキングへ孤独のグルメ とん汁定食
2022年01月17日
コメント(30)
常磐線のガード下の壁に描かれた「COLORS OF LANDSCAPE」という題名の壁画です。取手市では、「壁画によるまちづくり」(→→→こちら)に取り組んでいるそうで、この絵もその一環で制作されたそうです。イメージとしては利根川なんでしょうか。この珍妙な物体は、宇宙人?こちらは利根川を渡る船なんでしょうね。常磐線の擁壁にも壁画がありました。まあ、壁画といえば壁画、そう言われないと、バンクシー(→→→こちら)気取りの輩が描いた単なる手の込んだ落書きのような。色んなテーマで壁画が描かれていますが、これに飽きたら消して、また次の作品を描いてくれるのでしょうか。それとも、このままずっと残すのか。残す価値のある壁画なのか。わかりませんけど。これは利根川の河原で生活する人の様子なんでしょうか。そんなアートに力を入れている取手市の取手駅にあるアトレ取手の4Fにある「たいけん美じゅつ場ViVa」です。芸術に触れられる交流スペースで、東京藝術大学所有の卒業作品の展示やワークショップをやっているそうですが、MoMo太郎が行った時には展示スペースは閉まっていましたし、ワークショップもやってませんでした。やる気あるんですかね、東京藝術大学。それとも新型コロナウィルスの感染を恐れて展示やめているのかな。ということで、取手駅西口改札から常磐線に乗って帰りました。(アートのまち取手のコースです)【了】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その9) 壁画といえば壁画かも
2022年01月16日
コメント(20)
承平元年(931年)に平将門の勅願所として建立と伝わる長禅寺(ちょうぜんじ)(→→→こちら)に参詣します。臨済宗妙心寺派に属する寺院で、この説明書きを読むと、なるほど、なかなかの名刹なようですね。昭和25年05月10日茨城県告示第211号の茨城百景(→→→こちら)になるのですね。長禅寺のあるの場所は利根川左岸を北西端の古河市から坂東市・守谷市・取手市、南東端部は利根町北部にのびる猿島台地の端部になるのでこのような急な石段があるのでしょうね。石段の途中にある石柱には、東京の人からの寄進されたものも多くみられ、このお寺が広く信仰されていたことがわかります。重層四脚門の古い佇まいの山門です。相馬霊場総本山の看板が掛かってるのは、新四国相馬霊場八十八ヶ所(→→→こちら)とは取手市及び千葉県我孫子市、同じく柏市にある四国八十八ヶ所霊場の写し霊場のことで、ここが一番、五番そして八十八番の札所であることを示しているのでしょう。ちなみに相馬郡というのはかって千葉県と茨城県にまたがる下総国相馬郡のことで、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将千葉常胤の代に二男の相馬師常が治めていた土地であったそうです。現在福島県に存在する相馬郡は、中世下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族相馬氏に由来するもので、こちらが本家の相馬郡になります。これで「大鹿山」と読むのでしょうね。大鹿山というのは、創建当時は旧大鹿村(現在の取手市白山地区、取手競輪場近く)にあったことに由来するのでしょう。そして、江戸時代初期に水戸街道が整備され取手宿が整備されると、この地に移ったそうです。この建物が茨城県指定文化財の長禅寺三世堂(→→→こちら)です。外観は2層ですが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているという不思議な作りの建物です。新四国相馬霊場八十八ヶ所の札所ということなのでしょうか、大師堂があります。臨済宗という禅宗のお寺なので、四国霊場八十八カ所に祀られる弘法大師ではなく、臨済宗の開祖、無相大師が祀られているのでしょうか。取手大師と書かれた提灯が吊り下げられていました。こちらが社務所です。隣の建物が本堂になります。本堂の前にある噴水のある池。木立に隠れていますが、こちらが本堂です。扁額には長禅と書かれていました。台地の上から利根川の景色が眺められるかと思いましたが、木立とビルに遮られて眺望は茨城百景ではなかったかも。そして、この急な石段を下って、取手駅に向かいます。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その8) 大鹿山長禅寺
2022年01月15日
コメント(24)
取手は水戸街道の宿場町だったそうですね。この道がかっての水戸街道になります。ということで、旧取手宿本陣染野住宅(→→→こちら)が残っています。茨城県指定文化財です。本陣とは、江戸時代の宿場町で、身分が大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用した宿屋さんですね。こちらが染野住宅の表門になります。取手市教育委員会による旧取手宿本陣染野住宅の説明がありました。千住と水戸を結ぶ水戸街道の取手宿は、千住から数えて6番目の宿場になります。貞享4年(1687)、代々取手宿の名主である染野家は水戸徳川家から本陣に指定され、歴代の水戸藩主をはじめ多くの大名や武士たちが、宿泊や休憩に利用していたそうです。ちなみに、水戸徳川家は参勤交代がない定府大名でしたので、水戸藩主はそう利用することはなかったと思いますが、家臣の利用は多かったかもしれません。また、奥州にある各藩の大名たちも利用することも多かったのでしょう。こちらが本陣として利用した玄関。なかなか堂々としたものですね。大名などの身分の高い宿泊者は、ここに駕籠を横付けしてここから建物の中に入ったんですね。染野家は明治11年3月に、現在の特定郵便局長にあたる五等郵便取扱役に任命されたので、この建物を郵便局として利用したため、このような郵便窓口かあります。こちらが染野家の住人が出入りしていた玄関だそうです。建物の内部です。太い梁が3段になっていました。竈(かまど)ですね。こちらは染野家の茶の間ですね。奥のテレビではこの建物の修復過程が紹介されているビデオが流されていました。街道沿いだけに歴史のある建物が並んでいました。明暦元年(1655)以来日本酒を醸造している田中酒造店(→→→こちら)です。創業が明治元年(1868)創業の新六本店(→→→こちら)です。茨城なのに奈良漬が名産とは意外ですね。まあ、「奈良漬」というものが地域団体商標(→→→こちら)でなくウリやキュウリ等の野菜の粕漬けことを普通名詞として奈良漬ということなんでしょうね。この蔵で、茨城県取手産の奈良漬けが作られているのですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その7) 宿場町です
2022年01月14日
コメント(24)
利根川に架かる常磐線の鉄橋が見えてきました。その近くでは、利根川には今でも現役の渡し船があるようです。小堀(おおほり)の渡し(→→→こちら)と言うそうです。行った時は11月初旬でした、コスモスが花盛りの中に、これが乗船場です。これが渡し船「とりで号」です。なかなかポップな感じの船ですね。東京藝術大学美術学部長の日比野克彦氏が「市の鳥、かわせみにちなんだ、カラフルで、水面に映ったときの輝き」をイメージして、デザインしたそうです。横の小さい船も応援で来ている先代の渡し船のようです。待合室にあった渡し船の時刻表です。この渡し船、観光用ではなく主目的は利根川に対岸にある取手市の飛び地と取手市中心部を結ぶ地域住民の足として使われているようです。小堀の渡しの由来は以下のそうです。利根川は、取手市の南(現在の小堀地区・古利根沼)を蛇行して流れていましたが、大正9年に利根川河川改修によって、当時、地続きであった小堀地区は、取手(井野村)から分断されました。交通の不便を感じた地域住民によって渡船場の設置が協議され、渡し舟を出したのが始まりと想定されて以来、現在に至っています。利根川の流れ、ゆったりしていていいですね。壁に派手な壁画が描かれている取手市民会館です。この横を通って、取手総鎮守の八坂神社(→→→こちら)です。八坂神社は素盞鳴命(スサノオノミコト)を祭神とする神社ですね。「邪」を裂き「魔」を祓う強い力を持つスサノオノミコトをおまつりすることから、厄除け・除災招福に御神徳があるとされているそうです。神社の由緒が書かれていました。明治39年(1906)に建てられた本殿です。前年には日露戦争に勝利し、欧米に並ぶ強国となったという勢いで建立したのでしょうか。彫刻が見事でした。こちらにあった健育塚。お食い初めで使った歯固めの石をこちらに納めると、その後、健康に育つことをお祈りするところだそうです。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その6) 小堀の渡しと八坂神社
2022年01月13日
コメント(22)
利根川に沿って上流に向かって歩きます。途中所々にこのような標識が立っていました。この地点では「海から82.50km」でした。ところで、この海から起点は銚子の河口ということになるのでしょうが、元々、江戸時代以前の利根川(→→→こちら)は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ流れではなかったのです。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いでいたのです。しかし、江戸幕府が成立すると利根川東遷事業として、江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする河川に付け替えられたのです。河川堤防の所々に、こんな工作物が見えます。川に向かって水路がつながっていました。内水排除(堤内地の水を排除する)ための施設のようてすね。河川敷は取手緑地運動公園(→→→こちら)として、色々なスポーツが楽しめるようになっています。こちらは、野球かと思いながら見ていると、どうやらソフトボールのようでした。駐車場もあって、沢山の自動車が駐車しています。こちらは、沢山の人が入り乱れて、子供達がラクビーをやっていました。テニスコートもありますね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その5) 利根川沿いを歩く
2022年01月12日
コメント(24)
本願寺を過ぎて、さらに東へ歩いて行くと、次の目的地にあったこの建物。取手市埋蔵文化財センター(→→→こちら)です。取手市内には、旧石器時代から中世、そして水戸街道の宿場として栄えた近世の宿場跡に至るまで、約90か所の遺跡があるそうです。こういう施設で郷土の歴史を学ぶのもいいことですね。この埋蔵文化財センターの前庭にある小さなブロンズ像。象さんではなく、豚さんでした。なんか跳ねた泥がついていたりして、たまには綺麗にしてあげればと思いました。この細い道を抜けて利根川に向かって歩いてゆきます。前を歩く方がいるあたりが、今回の「駅からハイキング」のコースの中間点のようでした。そして利根川の堤防の上には、こんな展望台がありました。展望台の上からは取手市の住宅街の街並みと田畑。こちらも田畑。でも広々としていいですね。こちらは堤外地になります。利根川の流れの下流側です。ちなみに、堤防によって洪水氾濫から守られている住居や農地のある側を堤内地,堤防に挟まれて水が流れている側を堤外地と呼ぶそうそうです。こちらは上流側、対岸は千葉県ですね。これから、展望台から利根川に沿って上流に向かって歩きます。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その4) 利根川展望台
2022年01月11日
コメント(32)
日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、徳川家康の重臣、本多作左衛門重次が天正3年(1575)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙だそうです。その本多重次(→→→こちら)の菩提寺が、ここ本願寺です。参道の左側に並んでいる石柱。左から圓光大師霊場(文政2年、1819)、六阿弥陀如来(文化11年、1814)があり歴史はあるお寺なんですね。本願寺は応永3年(1396)に建立された浄土宗のお寺だそうです。本多作左衛門重次との縁も説明してありました。徳川家康の重臣として戦功も多く、また行政面でも活躍していたそうですが、家康を大事に思ったため、豊臣秀吉から疎んじられ、家康の手によって、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた後、最後は下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に蟄居させられたことから、この本願寺を菩提寺としたそうです。仏教の教えも示していて、なかなか真面目なお寺なのかも。境内にある一筆啓上の顕彰碑です。ところで、福井県にあった旧丸岡町(現坂井市)では、本多重次が書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にちなみ平成5年から毎年テーマを定めて「一筆啓上賞」として作品を募集し、平成15年から「新一筆啓上賞」として、日本全国、海外から応募が寄せられていまます。これは、手紙の中にあった「お仙」こと、本多重次の息子の越前丸岡城主 本多成重(幼名 仙千代))に因んで行われているイベントです。本家の取手市としては、内心忸怩たる思いはあるのかな。しかし、こういう商売っ気のある地域おこしのアイデアが浮かばないところは、堅実で真面目な茨城県民性によるのかも。こちらが本堂、鉄筋コンクリート造りです。扁額は、どこのお寺も立派なものですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その3) 一筆啓上
2022年01月10日
コメント(28)
坂道を下っていきます。山中坂という坂道です。石柱に「この坂道はの辺りは字山中坂と呼ばれていた」とありました。今の住所は取手市台宿なので、山中坂というのは古い地名みたいですね。昔風の団地の集合住宅が建っていました。これは、雇用促進住宅(→→→こちら)だったんでしょうね。雇用促進住宅とは雇用保険事業の一つであった雇用福祉事業により整備された勤労者向けの住宅でした。しかし、雇用福祉事業が国の方針により廃止され、住宅も令和3年度(2021)までに譲渡・廃止することが決定されたので、雇用促進住宅は、民間のソフトバンクグループ傘下の米国投資会社フォートレス・インベストメント・グループに売却され、低価格賃貸住宅「ビレッジハウス」(→→→こちら)として運営されているそうです。ここもビレッジハウス台宿とありました。そして、ビレッジハウスというと「敷金、礼金、更新料、手数料が無料」というのが売りのようです。和菓子屋さんがありました。人気がありそうな感じかしました。一般的な5階建て階段室型の古い団地が並んでいました。井野団地というそうです。取手市は、高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、日本住宅公団(現在の都市再生機構)による住宅団地の開発が行われていて、この団地もその一つなんでしょう。下の写真は、若い芸術家のための共同アトリエ「井野アーティストヴィレッジ(INO ARTISTS VILLAGE)」(→→→こちら)です。井野団地内のショッピングセンターを改修して、若手芸術家に創作活動の場を提供してアトリエと利用しているそうです。さらに、「やさいINO」という取手市内で作られた野菜の直売所、「いこいーの+TaPPino」というもカフェがあります。これはなんかショッピングセンターらしいですね。団地があれば、小学校もあります。廃校になっているそうで、雑草がグランドを覆っているの等、荒れた感じ、やっぱり、団地が出来て長い年月が過ぎると子供の数も減って、小学校の児童も減って、廃校なんですね。交差点にあった小さな祠。新しいものですが、なにか由緒ありそうな。「疣(いぼ)取り榎の木の跡」平成5年10月建立 鈴木遖(あっぱれ)とありました。鈴木遖さんという地元の方が、地域の記憶を残すために建立されたのですね。色々な石像や銅像が残されていました。MoMo太郎の敬愛する二宮金次郎の銅像もありました。こちらも移転した中学校の跡地だったんですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その2) 団地のまち
2022年01月09日
コメント(24)
昨年の11月7日、駅から歩いてハイキング「~繋がる 人 まち アート~アートのまち取手を散策」に参加して、茨城県取手市を歩いてきました。そのご報告です。出発はこちらの取手駅東口からです。取手駅東口に展示されているのが、このパブリックアート「シュプリンゲン」。東京藝術大学前学長の宮田亮平氏の代表作のひとつだそうです。でも「シュプリンゲン」とは「飛翔」という意味で、イルカがモチーフなんだそうです。ここからイルカが想像できるなら、藝大の学長になれるってことですね。いや、芸術家の考えることってよくわからないです。この通路を抜けると西口に出られます。ここのを抜けて西口に回ります。地下通路の中には、市民の皆さんの絵画などの作品が展示されています。取手駅西口には、JR東日本の主要駅には欠かせないアトレというデパートがありました。そして駅前にあるこの「治助坂」の途中には、ストリートアートステージ「リング」というのがあります。道の反対側の歩道にも。この「リンク」は東京藝術大学の学生による作品だそうです。どうして、取手市に東京藝術大学関係者の作品が展示されているかというと、東京藝術大学の取手キャンパス(→→→こちら)があるからだそうです。しかし、東京で美術の勉強ができると思って地方から上京してきて、茨城県の取手市で勉強して下さいだと、ちょっとガッカリかもしれませんね。取手といえば甲子園に春夏合わせて6回出場し、前述のとおり1984年夏の大会で優勝した経験を持つ。取手二高が有名ですが、二高があれば、一高もあります。こちらはあまり知られていないかも知れませんが、アトランタオリンピック 1㎞タイムトライアル銅メダリストの十文字貴信さんなどの競輪選手を多く輩出しています。この跨線橋を渡ります。橋につけられている石碑には、取手ということで鳥が描がれているのでしょうかね。跨線橋の下にあるのは、JR常磐線と関東鉄道常総線(→→→こちら)が走っています。関東鉄道の常総線の方は電化されていません。そして、線路わきの擁壁にも壁画「letter"酔狂"ー生命り音ー」が描かれています。SUIKO氏の作品だそうです。落書きとしてもここまで描き込んでいるのは芸術ですかね。ということで、取手市内にあるアートを見ながらの駅からハイキングです。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その1) アートのまちだった
2022年01月08日
コメント(22)
今回で切りのいい6000回目の記事となりました。これからもよろしくお願いいたします。さて駅でよく見かけるJRスキーのポスターそう問われるまでもなく、昨日の東京に雪はありました。この写真はお茶の水の聖橋から撮影しました。人気ブログランキング東京23区に「大雪警報」
2022年01月07日
コメント(30)
埼玉県出身の渋沢栄一が主人公のNHK大河ドラマでは、渋沢栄一の実家の人達が「〇〇だいねえ」とよく使っていることに気がつかれたでしょうか。実は埼玉にも方言はあるのですが、関東でもあり東京との行き来もあるので、本当は埼玉の方言なのに、あたかも標準語のような言葉があります。「そうなん」: 「そうなの」の語尾を「ん」に変えています。関西弁のように思われますが、関西ですと「そうなんや」となります「したっけ」:「そうしたら」という意味で、文節を繋ぐ表現で用いられます。「なにげに」:若者言葉としても浸透している「なにげに」は、元々は「何気なく・さりげなく」という意味です。「~じゃねえ」:若者言葉のイメージが強くありますが、こちらも埼玉発祥と言われています。念を押したり、同意を求めたりする際に語尾を上げるイントネーションで使われます。「~かしんねえ」: 語尾につけて「かもしれないねぇ・もしかすると・ ひょっとすると」といった意味を表します。「~だよねえ」:語尾につけて「そうですよね」といった意味を表します。ちなみに、歩くことは「あいく」と言うそうです。そして、ようやくゴールのJR宇都宮線の蓮田駅が見えてきました。ここまで埼玉に親しんだMoMo太郎。埼玉県人のフリをして、むりくり埼玉の方言使ってみます。こちらは西口の駅前に展示されている鉄道の車輪だいねえ。こちらの車輪は説明書きでは昭和38年から昭和58年まで製造された国鉄115系電車の車輪です。蓮田市民に長い間利用された、湘南色と言われるオレンジとグリーンの二色で塗装された電車です。115系電車(→→→こちら)といえば、昭和38年(1963)から昭和58年(1983)まで製造された電車で、最初に投入されたのが東北本線(今の宇都宮線の区間)だよね。「蓮田市民に長い間利用された」って、したっけ、大宮や浦和の人は利用しなかったかしんねえ。こちらはD51( →→→こちら)484号機の車輪だいねえ。説明書きには「デゴイチ」の愛称で慕われた蒸気機関車の第3動輪です。このD51 484号機は、昭和15年に製作され、昭和51年度に廃車となるまで約270万キロ(地球を約67周)を走行しました。とありました。そうなん、したっけ昭和51年度(1976)で廃車となるまで約270万キロ(地球を約67周)を走行したら相当、鉄も削られるかしんねえ。それでも、後ろの軽自動車よりも大きいということは、新車の時はもっと大きかったんじゃねえ。バス旅番組に出演してもいいように、バス停をチェック。こちらは「けんちゃんバス」の乗り場だいねえ。そして朝日バスの乗り場だいねえ。ここは蓮田駅。なにげに、駅名の「蓮」はしんにょうの点が2つじゃねえ。「蓮」という漢字はしんにょうの点が1つじゃねえ、ところで、蓮田市の「蓮」の表記も2011年1月4日より、しんにょうの点が2つから1つに変更されています。したっけ、しんにょうの点が2つなのが歴史的には正しいんだよねえ。西口には立派な石碑が建立されています。蓮田駅西口駅前交通広場竣工記念碑だいねえ。こちらは古色蒼然たる石碑じゃねえ。こちらは単管パイプで囲われてるじゃん。これって篆書体(てんしょたい)っていうフォントじゃねえ?蓮田車站納地(はすだしゃたんのうち)記念碑だねえ。「車站」とは停車場とか駅の意味だよね。飯野吉之丞らは明治18年(1885)東北本線が開通の際、駅の敷地を寄附して蓮田駅を開設させことを記念して建立されたんだいねえ。こちらは駅の東口。東京までうえの東京ラインで50分はかからないだいねえ。便利じゃねえ。ということで。ニューシャトル志久駅からJR宇都宮線蓮田までのあいくは無事終了だいねえ。(伊奈町から蓮田のコースです)【了】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その12) 蓮田駅前のエセ埼玉県人
2022年01月06日
コメント(22)
昔の公立高校で、ナンバースクールと呼ばれる伝統校は、男女別学でした。例えば、宮城県仙台市の場合、仙台第一高校、仙台第二高校、仙台第三高校は、男子校で、宮城第一女子高校、宮城第二女子高校、宮城第三女子高校は当然女子校でした。結構反対も強かったそうですが、平成19年度(2007)から平成22年度(2010)にかけて、男女共学になりました。ちなみに水戸第二高校は制度上共学だけど女子しかいません。多分、これは県立だけど東京の私立女子御三家(桜陰、女子学院、雙葉)のような東大に合格するような優秀な女子を教育するという学校の方針なのでしょうね。そして、埼玉県(群馬県、栃木県にも)では未だに男女別学の伝統を守る県立高校が存在しています。浦和高校、熊谷高校、川越高校、春日部高校、そして松山高校は男子校、浦和第一女子高校、川越女子高校、春日部女子高校、久喜高校、熊谷女子高校、鴻巣女子高校そして松山女子高校と県土全域に散らばっています。ちなみに浦和高校の2021年度東大合格者数は46名うち25名は現役合格です。多分、これは開成とか灘といった私立の有名進学校を別にすれば、公立でもナンバーワンの実績ではないかと思います。やっぱり、共学で女子にうつつを抜かさず、高校生男子はしっかり勉強しろということでしょうか。このような宅地開発されたような住宅街を歩いて行くと、公園の片隅に板碑を発見。反対側にまわってみると「揚水工事記念碑」と銘が彫られていました。もう一度、刻まれた文字を見ると、昭和23年にこのあたりの水田へのかんがい用水を供給するためのポンプ場の建設工事をしたことの記念だったんですね。今は住宅街のこの地も、むかしは水田だったという歴史を今に伝える記念碑だったんですね。また、橋を渡ります。元荒川(→→→こちら)です。元荒川に架かる。新荒川橋ということでした。バス停のチェックも忘れずに。ここは朝日バス(→→→こちら)が走っているのですね。朝日バスは東武鉄道系列でバスやタクシー事業を行っていて、東武伊勢崎線、日光線の沿線沿いに路線バスを走らせています。途中に鬱蒼とした林がありました。「上町ふれあいの森」という公園です。近くには図書館や幼稚園、小学校もあり子供達には面白い遊び場になるでしょうね。さらに近くには、また緑の濃い「堂山公園」という公園があります。こちらも近くの幼稚園や小学校の子供たちに言い遊び場かも。でも、浦和高校や春日部高校、そして東大を目指すなら、こんなところで遊んでないで塾へいくのかな。公園の中央には、なにやら銅像があります。飯野喜四郎(→→→こちら)という人の銅像でした。実は、この公園、彼の生家の跡地に作られたそうです。銅像の後ろ側に、飯野喜四郎氏(慶応4年(1868)-昭和15年(1940))の業績が細かく記載されていました。まとめると、武蔵国埼玉郡蓮田村(現・埼玉県蓮田市)出身の゜政治家・実業家。埼玉県会議員・埼玉県会議長を務め、元荒川、中川、古利根川などの河川改修や耕地整理にも取り組み、農業の発展に寄与したそうです。また、教育の普及にも尽力し、粕壁中学校(現在の春日部高校)や旧制浦和高校(現埼玉大学)の設置に力を注いだそうです。ということで、男女別学で勉学にいそしむ埼玉県の高校生の基礎を作ったともいえる人ですね。ちなみに、喜四郎の父、飯野吉之丞らは明治18年(1885)東北本線が開通の際、駅の敷地を寄附して蓮田駅を開設させ、蓮田のまちの基礎を作ったそうです。そして喜四郎は明治20年(1887)飯野運送店を開業、開通した東北本線で蓮田の特産物である甘藷(かんしょ)を東北地方に販売しまたそうです。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その11) 郷土の発展に尽くした飯野喜四郎
2022年01月05日
コメント(26)
埼玉県の梨栽培は、江戸時代から始まったと伝えられています。この梨栽培が農業経営に組み入れられるようになったのは明治10年代になってからのことだそうで、県内の古くからの産地は、旧大宮市宮原・三橋地区、本庄市、熊谷市、嵐山町菅谷地区などだったそうです。テレビ東京のバス旅出演に備えてバス停をチェック。西新宿行のバスが走っているんですね。といっても「にししんじゅく」ではなく「にししんしゅく」という地名です(→→→こちら)段々歩いてきて、この階段の登り降りがあるとちょっと厳しい。階段は、この宇都宮線(東北本線)を跨ぐ跨線橋のものでした。跨線橋を降りると、立派なケヤキの木がある場所に出ます。ここは蓮田市役所です。その市役所の前には黒浜貝塚(くろはまかいづか)(→→→こちら)の遺跡があります。ここにある貝塚群および環状集落遺跡は、縄文時代の自然環境や集落形成の過程を知る上でも大変貴重なものらしく平成18年には国指定史跡となっています。大正2年(1913)~昭和6年(1931)頃にかけて調査が行われ縄文式土器などが発掘されていたそうです。本格的に発掘調査が実施されたのは、東北縦貫自動車道建設に伴って昭和46年(1971)になってからだとか。そして遺跡の整備も進み、縄文時代の住居も復元されています。中に入れませんでしたが、本格的なものでした。これが復元住居の説明板です。そして、近くには蓮田市文化財展示館(入場料無料)(→→→こちら)もありました。また、近くには梨畑があります。蓮田市で梨の栽培が明治28年ごろだそうで、蓮田市では今でも56ヘクタールの栽培面積を誇っているそうです(→→→こちら)。こういう看板もあって、遺跡も特産品の梨も大事にされているのですね。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その10) 国指定史跡黒浜貝塚と梨畑
2022年01月04日
コメント(30)
やっぱりお正月になると初詣。ということで、浅草寺に行きましたが、やっぱり雷門から仲見世まで参拝者の方が並んでいて、混んでいたので、三社様(浅草神社)にお参りしてきました。こちらは三社祭の時に使われるお神輿です。真ん中の一之宮には土師真中知命、右端の二之宮には桧前浜成命、左橋の三之宮には桧前武成命の御神霊をそれぞれ移して町内を渡御します。一昨年、昨年と三社祭が本格的には行われなかったのですが、今年は三社祭、無事にできるといいですね。さらに言問橋で隅田川を渡り、本所総鎮守の牛嶋神社にお参りしてきました。本殿前にある珍しい形の三ツ鳥居。奈良県の大神神社の拝殿にあるのも三ッ鳥居です。人気ブログランキング令和4年の初詣
2022年01月03日
コメント(30)
お正月というと門松を飾るというのが、昔からの風習ですが、やはり本格的に門松を飾っている所は少ないですね。最近は、こういう小ぶりの門松もあるんですね。両国国技館になると、やっぱり本格的なものがかざられています。しかし、門「松」といいながら、センターにある3本組の竹が目立ちますね。日本伝統の相撲ということで、両国界隈の相撲部屋もちょっと見てみると、春日野部屋はしめ飾りのみで門松はなく、門松が書かれた用紙でした。出羽海部屋は、松の枝だけつけていました。確かにこれが門松かも。回向院も竹の幹に松の枝をくくりつけような形で、これは門松の初期タイプかも。ちゃんこ料理屋さんともなるともしっかり飾っていますね。こちらのちゃんこ料理屋さんもしっかり飾っています。年神様はこの門松を目印に降臨してくると言われるので。お客様は神様です。お客様もこの門松を目印にやってきてくれるということでしょうか。江戸東京博物館の入口にも立派な門松が飾られています。江戸の風情を伝えるということで、これも広い意味での展示なのかもしれませんね。ちなみに、1月2日と3日は無料で両国にある江戸東京博物館を観覧できます。いずれにせよ、「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」ということで。人気ブログランキング門松をさがしてみました
2022年01月02日
コメント(25)
あけましておめでとうございます。新型コロナウイルスの流行など、まだまだ落ち着かない年明けですが、本年も宜しくお願い致します。人気ブログランキング新年おめでとうございます
2022年01月01日
コメント(28)
全31件 (31件中 1-31件目)
1