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宇都宮タワー(→→→こちら)に登ってみることにしました。宇都宮タワー、正式名称は八幡山公園展望塔、詳細はこの看板に書いてありましたが、宇都宮タワーの高さは89m、展望台の高さは30mです。しかし、八幡山丘陵の標高158m地点に立地しているので合わせると247mになるそうです。公園の中にあるので、展望塔というが本来の目的のような正式名称ですが、実は、かつての東京タワーと同じテレビ塔として建てられたそうです。早速、タワーに登りました。入場料はお安い。高校生以上 190円、小中学生 50円です。加えて幼児、宇都宮市内に住む小中高生と、市内の小中高校へ通う方は無料ということです。しかし、老人には割引がなくて残念かも。手軽に日本一広い関東平野が一望できるのはいいですね。ちなみに、こういう所にある望遠鏡も無料で使えるのもありがたいです。ガラス越しに撮影しているので、反射した影が映って見にくいのが申し訳ないです。眼下に見える青い吊り橋、ちょっと面白そうなので後で行ってみることにします。こちらは宇都宮競輪、周長500mと長いバンクを採用しています(400mが一般的)、そのため直線距離は長めの設計(63.3m)で、カントはかなり緩い設計(25°47´44″)になってます。こういう場合は、先行選手が不利で、競輪で最も有利ポジションである番手選手も3番手以降の選手に捲られやすい特徴(交わしの交わし)がありますよ。実力・ポジション的有利不利ではなく、地元選手や本場成績の良し悪しに注目して予想するといいそうです。遥かに見える山は、足尾山地、赤城山などだと思います。こちらの方には、多分、筑波山のある方向だと思います。関東平野の広さを感じますね。こちらの方は東京スカイツリーが見えるらしいですが、よくわかりませんでした。そして、宇都宮の市街地もよく見えますね。東北新幹線の高架橋が見えました。実は、宇都宮タワーが出来るまで、宇都宮周囲はTVの電波は東京タワーから受信していまたのですが、市街地に高層ビルが建設され、さらに東北新幹線の開通による高架の建設で受信状況が悪化することが懸念されたことから、中継局として宇都宮タワーが昭和55年(1980)に完成したとのことです。ズームして新幹線を撮影しようと思いましたが、なかなか新幹線やってこなかったので諦めました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その10) 宇都宮タワー
2024年02月29日
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次に八幡山公園(→→→こちら)に向かって、八幡山公園通りの緩やかな坂道を歩いてゆきます。途中八幡山の下を抜ける塙田トンネルが分岐していました。そして、ここから八幡山公園の入口になります。右手に見える赤い鳥居は八幡山の由来となった塙田八幡宮(→→→こちら)の鳥居です。こちらが八幡山公園の案内図です。宇都宮市の中心市街地に近いこの公園は、自然の丘陵を活かした園内に様々な施設があり、その中には宇都宮競輪場(→→→こちら)もありました。そして、この東京タワーによく似た「宇都宮タワー」(八幡山公園展望塔)もありました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その9) 八幡山公園
2024年02月28日
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宇都宮の町を西に向かって歩いて、市内を流れる田川を渡ります。田川にかかる橋の上から、東北の方角を見ると、「あれ! 東京タワー??」田川から1kmも歩かないうちに、朱塗りの大きな赤門が見えてきます。戦国大名でもあった宇都宮氏が治めた城下町であっただけに、宇都宮の町には寺院や神社が多いですね。考えてみれば、「宇都宮」氏という名前も「宮」が入っているので、元々は奥州を見据える要衝の地・宇都宮にある下野一ノ宮二荒山神社の社務職だったようです。といことで、浄土宗慈光寺(じこうじ)(→→→こちら)という寺号碑が建立されています。この立派な赤門、元あった赤門は、第二次世界大戦の時に空襲で焼失して、平成20年(2008年)に復興されたものだそうで、そのことを示す石柱も建てられていました。本堂はこの階段の上にあるので、登ってみました。石段に覆いかぶさるように伸びた大木の枝を材木で支えているんですね。こちらが慈光寺の本堂です。この慈光寺は、永正13年 (1516年)に、下野国の戦国大名であり下野宇都宮氏第17代当主である宇都宮成綱(→→→こちら)が開基したそうです。ちなみに、慈光寺は宇都宮氏の本拠である宇都宮城から北東(鬼門)の方角に位置しており、鬼門除けの役割を担っていたのだとか。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その8) 慈光寺(じこうじ)
2024年02月27日
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下野国(現在の栃木県)を22代・500年にわたり治めた宇都宮氏にゆかり寺、「河北禪林 神護山 興禅寺」(→→→こちら)の山門にやって来ました。この寺名は、宇都宮で最初の禅寺であることから、「興禅寺」となり、山号は、「神護山」、寺域を「河北禪林」と定められたそうです。山門の扁額には寺域の「河北禪林」文字が記されていました。こちらは中門(ちゅうもん)です。この興禅寺、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、赤穂浪士の討ち入りと並ぶ江戸三大仇討とも言われていた浄瑠璃坂の仇討(→→→こちら)の発端となった宇都宮興禅寺刃傷事件の起こった場所でもあります。この石像は、縛られた子供の足元でネズミがいるというので、禅僧でもあった雪舟(→→→こちら)の逸話、絵ばっかりを描いて、お経の勉強をしない幼い日の雪舟を仏堂の柱に縛りつけてお仕置きをしたところ、雪舟は床に落ちた涙を足の親指につけ、床にネズミを描いた。を示しているんでしょうかね。本堂の前にあった、宇都宮8代城主 宇都宮貞綱公・9代城主公綱公墓碑と記された石柱。この二基のお墓が宇都宮貞綱公と宇都宮公剛公の墓碑になります。こちらの興禅寺開山由来によると、興禅寺は宇都宮氏8代目当主である宇都宮貞綱が、かつて黒羽雲巌寺で第五世住職をしていた真空妙応禅師のために、1314年(正和3年)、地蔵堂があったこの地に寺院を建立して興禅寺としたのが始まりです。宇都宮貞綱はの元寇の弘安の役に、山陽、山陰の6万もの御家人を率い総大将として九州に出陣した武将で、鎌倉幕府の引付衆(→→→こちら)の一人に任じられたそうです。また、宇都宮公綱は宇都宮貞綱の次男で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれたそうです。室町時代には宇都宮氏の興隆とともに隆盛を誇りましたが、第22代当主宇都宮国綱が豊臣秀吉によって領地を剥奪されたのに伴い、この寺も一時廃寺となりました。その後、江戸時代に入って奥平家昌が宇都宮城主となるとその勧請を受けて復興されたそうです。こちらは本堂、寺額には山名の「神護山」と書かれていました。興禅寺の門前には、「北河原興禅寺開基宇都宮貞綱公」という看板があり、宇都宮貞綱の銅像が建てられていました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その7) 興禅寺(こうぜんじ)
2024年02月26日
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宇都宮にある寺院も少し訪ねてみました。こちらは「光明山 花蔵院 遍照密寺」(→→→こちら)の山門になります。花蔵院は真言宗智山派のお寺ですので、お約束の弘法大師の像があります。弘法大師とともに一歩一歩「同行二人」(→→→こちら)孤独な人生の旅路を歩いて行きましょう。こちらのご本尊は、大日如来です。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その6) 花蔵院(けぞういん)
2024年02月25日
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宇都宮駅東公園を抜けると大きな校門のある学校がありました。校名は「栃木県立宇都宮農業高等学校」(→→→こちら)でしたが、明治28年(1895)4月、当時北関東地域では初となる栃木県簡易農学校として開校。全国の農業系高等学校では4番目に古い学校になるそうです。広いグランドがあって、なかなか教育環境のいい学校ではないでしょうか。この伝統ある農業高校、今は「栃木県立宇都宮柏揚高等学校」(→→→こちら)という名前に変わっています。校名の「柏楊」(→→→こちら)とは、ポプラの木のことです。ポプラの木、この広いキャンパスのどこかにあるんでしょうね。高校で馬術部があるのは、珍しいのでは?意外とセレブのご子弟が通われていたりして。専門性のある教育をする学校らしく測量士補試験(→→→こちら)の合格者も数多く出しているんですね。国家試験の測量士補試験、合格率が30%前後だそうです。測量士補とは、測量士の補佐を行う技術者になりますが、測量士補の資格があると、土地家屋調査士の試験のうち測量に関する試験が免除されるそうです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その5) 宇都宮柏陽高校
2024年02月24日
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鬼怒通りから、わき道に入って、公園にやってきました。駅東公園(→→→こちら)という公園です。この公園は、駅東土地区画整理事業により整備した公園だそうです。プールも配置されています。訪れたのは2023年11月24日だったので、プールは営業していませんでした。しかし、このように見事なイチョウの紅葉も楽しめて、なかなか魅力的な散歩道になっています。また公園の一角には、国鉄EF57形電気機関車(→→→こちら)が保管されています。このEFF57形電気機関車は鉄道省(日本国有鉄道の前身)が太平洋戦争前に製造した最後の旅客用電気機関車であり、上野 - 黒磯間の東北本線や日光線の旅客列車の牽引に従事していたそうです。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その4) 宇都宮駅東公園の電気機関車
2024年02月23日
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鬼怒通りは、栃木県道64号宇都宮向田線のうち宇都宮市東宿郷 - 道場宿町の間の愛称になります。名前の通り、この道路の先は鬼怒川を渡っています。余り見られない黄色の矢印信号(→→→こちら)です。この信号は、矢印が示した方向に向けて、路面電車は進むことができる、という意味です。したがって、この信号の表示は、路面電車の宇都宮ライトレールは直進はできて、また、青色の矢印で、車両(自動車)は直進と左折ができますが、右折はできないということになりますね。これは栃木県の運転免許試験には必ず出そうな問題かも。宇都宮ライトレールのこの区間は併用軌道、つまり道路上に線路が設置された区間になっています。この先は、鬼怒通りが国道4号と立体交差しています。ということで、宇都宮ライトレールの車両、急な勾配をスイスイと登っていきました。坂道を登り切ってしまいました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その3) 鬼怒通りを走る宇都宮ライトレール
2024年02月22日
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宇都宮駅東口にあった石像です。この姿かたちからみるとお相撲さんの石像のようですね。台座に記された名称は、「日下開山 初代横綱 明石志賀之助」(→→→こちら)とありました。明石志賀之助は、下野国宇都宮出身で、江戸時代前期に存在した力士とされ、最強の力士に与えられる称号である「日下開山(ひのしたかいざん)」を受けたとされているそうで、現在、日本相撲協会では、明石志賀之助を大相撲の初代横綱として認定しているようです(→→→こちら)。また、この明石志賀之助は身長221センチ、体重225キロの巨漢だったと伝わっており、この石像もむ台座を除いた高さが志賀之助の身長と同じ221センチあるそうです。そして、東に向かう宇都宮ライトレールが走る鬼怒通りに沿って、MoMo太郎も歩いて行きました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その2) 初代横綱明石志賀之助
2024年02月21日
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赤羽駅から宇都宮線(東北本線)のE231系に乗って、宇都宮駅にやって来ました。宇都宮駅東口からみた駅舎です。宇都宮といえば、去年の8月26日から運行を始めた、宇都宮ライトレール(→→→こちら)(が話題ですね。下の写真が宇都宮ライトレール(以下LRT(Light Rail Trainの頭字語)と表記します)の車両、宇都宮ライトレールHU300形電車(→→→こちら)です。黄色が印象的ですね。ということで、LRTの宇都宮東口駅に行ってみました。時刻表を見てみると、結構頻繁に運行しているみたいですね。LRTの車両は超低床型で、乗り降りが楽そうですね。北関東というと群馬県、栃木県。そして茨城県となりますが、2023年10月1日の推計人口によりそれぞれの県庁所在地の人口を調べてみると、(→→→こちら)群馬県前橋市 326,904人(全国31位)栃木県宇都宮市 513,257人(全国17位)茨城県水戸市 268,231人(全国38位)参考として、全国1位は神奈川県横浜市の3,771,766人、東京都新宿区は353,615人で全国27位になります。しかし、単純に人口で比べても、面積が広ければ人口も多いわけで、都市としての集積度は人口密度も見るべきです。そこで、面積と人口密度を見ると群馬県前橋市 面積 311.59Km2(全国35位) 人口密度 1,049.15人/km2(全国25位)栃木県宇都宮市 面積 416.85km2(全国28位) 人口密度 1,231.28人/km2(全国20位)茨城県水戸市 面積 217.32km2(全国41位) 人口密度 1,234.27人/km2(全国19位)ということで、都市としての実力にはそれほど大差はないと思われますが、広い地域に沢山の人が散らばっているというのが、今回訪れた宇都宮市。だからこそLRTが必要だっんですかね。ということで、今のところ多くの人が利用しているみたいですね。ほぼ満員で出発するみたいです。ここから、終点の芳賀・高根沢工業団地駅に向かって行きます。ちなみに宇都宮駅東口から終点芳賀・高根沢工業団地までの所要時間は48分、運賃は大人400円です。いつも利用する都電に比べれば割高な感じもしますが、そこは地方都市で利用者も少なく、路線も新設なのでこのあたりは仕方ないのでしょうね。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その1) 宇都宮のLRT
2024年02月20日
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久しぶりに博多一風堂(→→→こちら)のラーメンを食べに行った。食べたのは、期間限定メニューの赤丸味噌(1050円税込み)です。追加で替え玉(150円税込み)も頼んだので、合計の支払額は1,200円でした。名前の通り、味噌に豚骨スープを合わせた、濃厚でコク深いスープに、博多ラーメンらしい細麺が入っていました。隣の小皿は、セルフサービスになっているトッピング用のもやし、高菜、紅ショウガを取ってきて置いたものです。博多一風堂、最近メニューをリニューアルしたみたいで、定番だった「白丸元味」「赤丸新味」「からか麺」がそれぞれ「極白丸元味」「極赤丸新味」「極からか麺」となっいたみたいで、値段も1,450円と高くなってました。ラーメンで千円を超えるとちょっと高いかなと思う人も多いかも。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 味噌赤丸
2024年02月19日
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「おにぎり」と「おむすびの」の違いはなく基本的に同じものだと思っていましたが、セブンイレブンで売っている二種類の「おにぎり」をよく見てみると、ふたつは区別されていることに気がつきました。こちらの三角形というか、食べる直前に海苔を巻くタイプのものは「おにぎり」と書いてあり、こちらの円形というか、海苔があらかじめ巻いてあるものが「おむすび」と表記されていました。ちなみに海苔が巻いていない円形のものも「おむすび」と表記されていました。ひょっとしたら、これが正しい日本人の常識なのかと思って、他のコンビニでもそうなのかと思い調べてみると、ファミリーマートでは「おむすび」に統一されているようです(→→→こちら)。そして、ローソンでは「おにぎり」に統一されていました(→→→こちら)。同志社女子大学のこちらのサイト(→→→こちら)では、「にぎり」の用例は古くて、「常陸国風土記」に「風俗(くにぶり)の説(ことば)に握飯筑波の国といふ」と出ているそうです。また、「むすび」の用例は、江戸時代まで出てこないそうです。また、「むすぶ」とは心(魂)をそこに込めること(呪術的な意味合いがある)であり、心臓の形になっているという柳田國男の説(食物と心臓)もあるし、「おにぎり」は「鬼切り」の語呂合わせから魔除けの効果があるという説もあるそうです。諸説、色々あるようですが、今は「おにぎり」と呼ぶ人が多いような気がします。人気ブログランキング「おむすび」と「おにぎり」は別物ですか?
2024年02月18日
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群馬県桐生市にある富士山(ふじやま)登山を終えて、帰宅します。上毛電鉄が国道122号を横断する踏切を越えます。この先、線路は県庁のある中央前橋駅まで続きます。国道122号を歩いて行くと、門柱に「群馬県衛生所」と「醫(医)学校」という看板のある、白い洋館の建物がありました。この建物は、桐生明治館(→→→こちら)と呼ばれる建物で、明治初期(1878年)の擬洋風建築として。「旧群馬県衛生所」の名称で、重要文化財に指定されているそうです。「擬洋風建築」(→→→こちら)というのは、大工や左官職人らが日本の技術を基に設計・施工し、見た目は西洋風建築物でシンメトリーになっている特徴の西洋風の建物だそうです。明治11年(1878)、前橋市に「衛生所兼医学校」として建設された建物だそうですが、明治12年(1879)に 衛生所が廃止。、そして明治14年(1881)には医学校も廃止され、その後県立女学校、師範学校付属小学校、群馬県農会などに転用されていたそうです。昭和3年(1928)に「相生村役場」として現在の地に移築されたそうです。現在は、明治期のピアノやオルガン、洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されているほか、喫茶室も併設されています。ちなみに入場料は高校生以上150円、小・中学生は50円です。それを払うのが惜しい人は、10月28日の群馬県民の日に行くと無料で入館できます。そして、こちらの相老駅(→→→こちら)から東武鉄道で家に帰ることにします。この駅は、わたらせ渓谷鐵道(旧国鉄足尾線)と東武鉄道の駅になります。写真の右側のホームがわたらせ渓谷鐵道の下り、大間々・足尾・間藤方面行き乗り場で左側の島式ホームが東武鉄道のホームになります。相老という駅名は、駅の所在地である旧相生村の地名をそのまま使用すると兵庫県の相生駅と重なることと、共に老いるという考えから「生」を「老」に変更したそうです。個人的には「上州相生」とかいう駅名で、生き生きした活力ある街という風にしてもらいたかったですね。この特急「リバティりょうもう」号で東京方面に帰ります。やっぱり群馬県、栃木県のエリアへはこの東武鉄道の利用が便利だと思います。リバティ (Revaty)という愛称の東武500系電車は、東武の特急車両として平成29年(2017)年4月から使われている新型の列車です。ちなみに、この前面を貫通形として分割・併合を行えるようになっています。したがって6両編成から途中の駅で車両を切り離して3両編成で運行することもできるそうです。始発は隣の赤城駅で、乗客も少なかったことから車内も撮影してみました。天井部は隅田川や鬼怒川などをイメージした波型のデザインとしいるそうです。ちなみに社内の自動放送のアナウンスは女子鉄アナウンサーの久野知美(→→→こちら)さんが担当しているんだとか。(富士山(群馬県))【了】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その4) 桐生明治館(旧群馬県衛生所)と相老駅
2024年02月17日
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標高160メートルの富士山登山をはじめます。ちなみに、駅からの高さは約40メートルということなので、かなり初心者向けの山だと思われます。登山道は最初はこんな感じで整備されていました。一合目の目印となる石柱がありました。いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつということで、このような石碑を建立しているのでしょう。いよいよ九合目です。登山道の途中からは、桐生市の町並みも見えました。正面に見える山は群馬県太田市の八王子丘陵です。山頂にある浅間大神を祀る祠です。周りはこのような木立に囲まれていて、いい眺めではありませんでしたが、木立の間からは渡良瀬川の流れが見えました。祠の向こう側に行くと、こちらは展望台になっていてね桐生市や太田市の町並みを眺めることができました。下山して、今登ったばかりの富士山を眺めてみました。ちなみにこの富士山、足尾山地の吾妻山南西支脈から渡良瀬川の断層によって切り離されて孤立した低山となったのだと思われます。こちらは、本物の富士山。新幹線の車窓から撮影したものです。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その3) 富士山頂
2024年02月16日
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全長157.280mの上毛電気鉄道渡良瀬川橋梁です。この橋は2007年(平成19年)に国登録有形文化財になっています(→→→こちら)渡良瀬川を渡ったところにある富士山の最寄り駅のこの駅で降りました。桐生市にある富士山は「ふじやま」(→→→こちら)と読むようです。富士山(ふじやま)は、いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつなるそうです。ということで群馬県にいわゆる世界遺産となった富士山(ふじさん)はないので間違わないようにしないと。駅の前からすぐに富士山の登山口になっていました。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その2) 富士山下駅
2024年02月15日
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さて、桐生駅まで戻ったMoMo太郎ですが、桐生市に富士山があると聞き行ってみることにしました。こちらの上毛電気鉄道の西桐生駅(→→→こちら)から上毛電気鉄道に乗って出発です。駅前には遠足帰りの小学生たちが整列していました。シブイ字体の西桐生駅の看板。昭和3年に建てられた駅舎の中は、昭和の雰囲気を伝えていますね。しかも、交通系ICカードお断り、いつもニコニコ現金払いの上毛電鉄。駅名標です。こちらが上毛電鉄の車両です。上毛電気鉄道700型電車と呼ばれている型式ですが、元は京王電鉄の3000系電車を譲り受けたものです。上毛電鉄ではデコトレイン(→→→こちら)と呼んでいる飾りつけのある列車を走らせています。車内は海なし県の群馬県を走る水族館ということで、いろんなお魚が泳いでいました。(富士山(群馬県))【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、桐生市で富士登山(その1) 上毛電気鉄道
2024年02月14日
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こちらの新川公園は、もともとは新川球場という野球場であったそうです。公園入口には、「新川球場を偲ぶ」と題された記念碑が建立されていました。碑文にある稲川東一郎(→→→こちら)というのは、群馬県立桐生高等学校の監督だった方で、桐生高校は甲子園に26回出場の強豪校です。また新川球場は、終戦から3か月後の1945年11月24日にプロ野球東西対抗第2戦が開催された野球場でもあり、「日本野球聖地・名所150選」(→→→こちら)に選定されています。また、球場としての歴史は古く、1927年に、桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)が第13回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に初出場したことを契機に、桐生市では野球熱が盛り上がり、桐生中学の劣悪な練習環境を改善しようという機運が生まれた。 そこで、堀祐平が桐生中の甲子園初出場を記念して私財を投じて野球場を作ったことに始まるそうです。1987年に老朽化から解体。跡地を公園として整備して、新川公園となった後も、一面芝生の公園で、かって野球場だった面影を残しています。こちらのライオンの銅像は桐生市に県内初のライオンズクラブが設立されたことを記念するものだそうです。この新川公園の近くにあるのが、群馬県立桐生高等学校(→→→こちら)です。各界に有名な卒業生を送り出しているようですが、甲子園出場26回を誇る野球の名門校だったので、プロ野球選手も数多く輩出しているそうです。そして、JR桐生駅に戻ってきました。初めて訪れた群馬県桐生市、結構魅力的な街でした。(桐生市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その12) 新川公園と桐生高校
2024年02月13日
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桐生市本町通の町並みです。桐生のメインストリートで、人通りも多い場所にあるのが根精大明神という神社がありました。ご利益は「家内和合」、「商売繁盛」、「子孫繁栄」、「根性振興」、「子授安産」、「ボケ封じ」だそうです。の御神体を見ると、ご利益がありそうな気もしますね。こちらの南欧を思わせる建物は、桐生市指定重要文化財の桐生倶楽部会館(→→→こちら)です。大正8年(1919)12月に竣工したものだそうです。この建物の持ち主は、一般社団法人桐生倶楽部(→→→こちら)。明治38年に誕生した産業人の社交機関「桐生懇和会」が大正7年に発展改組 して現在に至っています。当時桐生町と周辺町村の有力者が桐生倶楽部のもとで協力して、鉄道や銀行の誘致、電話設置等に尽力、桐生町発展の基礎をつくったそうです。織物の町、桐生を今に伝える建物としてこちらの桐生織物記念館(→→→こちら)もありました。こちらの建物は国登録有形文化財で昭和9年(1934)に竣工したもです。この建物が建てられた昭和10年前後には、大陸に輸出販路を築くのが早かったこと、人絹や絹洋服地などの新製品を創り出したこと、などの理由により桐生の織物産業は全盛期を迎えたそうです。こちらの建物は、貸事務所や貸室(会議室・催事等)などに用いられているほか、桐生織物販売場や織物資料展示室があります(→→→こちら)。また、こちらの資料展示室では1300年余の伝統を誇る桐生織物の伝統的な技術、技法などを学ぶことができました。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その11) 桐生倶楽部と桐生織物記念館
2024年02月12日
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桐生の町のメインストーリート、本町通りを桐生天満宮から南に向かって歩いていくと、「坂口安吾 千日往還の碑」がありました。坂口安吾(→→→こちら)というのは、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人だそうです。坂口は1952年(昭和27年)から3年ほど、桐生市本町2丁目の書上文左衛門邸で暮らしたそうです。書上(かきあげ)家というのは桐生の名家だそうで、書上という名前も小説家が住むにはふさわしそうな名前ですね。そして坂口安吾48歳の1955年(昭和30年)2月17日、突如脳内出血のためこの桐生の地で亡くなったそうです。さらに南に向かって歩いて行くと、渋い店構えの酒屋さんがありました。このあたりは、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区(→→→こちら)として織物関係の蔵や町屋、ノコギリ屋根工場など歴史的な建造物が残っているそうです。この酒屋さんの横にあるのが有鄰館(→→→こちら)という施設です。桐生市指定重要文化財旧矢野蔵群(有鄰館)附祠社(→→→こちら)だそうです。この説明看板によれば、旧矢野蔵群(有鄰館)は、享保2年(1717年)に現在の矢野園の創業者である近江の商人初代矢野久左衛門が来住し、二代目久左衛門が寛延2年(1749年)現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく寄与してきた矢野本店の蔵群だそうです。この蔵群は酒・醤油・味噌などの醸造業が営まれていたころの建物で、古いものは天保14年(1843年)、敷地内には合計11棟あり、ビール蔵を除いた建物が桐生市指定重要文化財になっているんだそうです。確かに、歴史を感じる蔵が立ち並んでいますね。こちらは今でも人が住んでそうな建物ですね。煉瓦造りの蔵、煉瓦蔵という大きな建物です。こちらは重要文化財には指定されていませんが、ビール蔵と呼ばれる施設だそうです。「桐生からくり人形芝居館」(→→→こちら)という施設が併設されていて、桐生からくり人形芝居が毎月第一、第三土曜日に定期上演されているようで、入場無料で見物できるようでした。桐生からくり人形芝居は、各町会が昭和36年(1961年)までに6回、天満宮の御開帳時に上演していた「からくり人形芝居」を復活させて、上演しています。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その10) 「坂口安吾 千日往還の碑」と「有鄰館」
2024年02月11日
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次に群馬大学桐生キャンパスの近くにある桐生天満宮(→→→こちら)です。関東五大天神で桐生広域総鎮守と言われいますが、関東五大天神ってどこなんでしょうか?こちらが一の鳥居となります。信号機も傍に建っているのはなんか面白かったです。一の鳥居から長い参道が続きその先に二の鳥居が見えます。こちらが神門、桐生門と呼ばれています。この神門をくぐると、こちらが拝殿となってます。景行天皇の時代に、当地で有力な土師部の遠祖にして、菅原道真公の御祖先にも当たる天穂日命 (アメノホヒノミコト)が御祭神でありましたが、観応年間(1350年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称され、菅原道真も御祭神として祀られるようになったそうです。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた桐生天満。なかなか風格のある神社です。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その9) 桐生天満宮
2024年02月10日
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群馬大学理工学部のキャンパスが桐生市にあります。群馬大学って前橋、太田、そして桐生と別れてキャンパスがあるんですね(→→→こちら)。群馬大学理工学部の前身である桐生高等染織学校が桐生市に設立された経緯があって、ここに理工学部のキャンパスがあるんですね。この校門の前にあったのが、工学部守衛所。歴史を感じさせる木造の建築物ですね。そして、こちら旧桐生高等染織学校正門も残されていて、その中にある洋風の建築物は群馬大学同窓記念会館(→→→こちら)だそうです。桐生高等染織学校の校舎として、大正5年(1916年)に竣工となったこの建物は、その当時の本館の一部とそれに附随する講堂を昭和47年度に移設(曳家)したものだそうです。こちらの説明によれば、群馬大学同窓記念会館は、工学部守衛所、旧桐生高等染織学校正門とともに平成10年に国の登録有形文化財に登録されているそうです。そして、NHKドラマ「花子とアン」をはじめとする映画やテレビのロケ地にも使われているそうです(→→→こちら)。行幸記念碑が建立されているということは、前身の桐生高等染織学校は戦前の日本の基幹産業であった繊維産業を支える教育機関として、天皇陛下も訪れるような学校だったということですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その8) 群馬大学工学部同窓記念会館
2024年02月09日
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こちらは、旧桐生市立北中学校です。「旧」というのは、2009年4月に桐生市立東中学校・桐生市立北中学校・桐生市立菱中学校の3中学校が統合して桐生市立清流中学校(→→→こちら)として開校したからです。この廃校跡、ロケ地として利用があるようです(→→→こちら)。地方の中学が舞台などのドラマには適しているかもしれませんね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その7) 閉校された中学校
2024年02月08日
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動物園にならんでアースケア桐生が岡遊園地があります。こちらも「アースケア」(→→→こちら)という会社がネーミングライツで支援しているそうです。そして入園料は無料となっています。入園料は無料ですが、園内のアトラクションを利用する場合は、料金が必要です。このスカイヘリを利用する時は、大人は一回、200円となります。また中学生以下は100円です。そして2歳未満のお子様は無料になります。そのほかのアトラクションも大体大人は200円、中学生以下は100円と低めの料金設定でした。メリーゴーランドも人気ですね。アドベンチャーシップ。こちらは絶叫系ですかね。サイクリングしながら空中を進むサイクルモノレール。なんか気持ちよさそうですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その6) アースケア桐生が岡遊園地
2024年02月07日
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地球上に誕生した小さなバクテリアのようなものから進化して様々な生物が生まれていったという進化論を信じるならば、動物園にいる動物も野山に繁っている植物も、もとをたどれば、みんな私たち人間とは祖先が同じ親戚同士ということになりますね。ということで、動物園にいる私たち生き物の仲間を見ましょう。これはカピバラ(→→→こちら)。一応こんな図体でもネズミの仲間だそうです。こちらはミーアキャット(→→→こちら)。キャットといいながらネコではなくマングースの仲間らしい。こちらはニホンザル(→→→こちら)。どこの動物園でもサル山で飼われていることが多いですね。子供達には人気があるみたいです。こちらはクモザル(→→→こちら)。尻尾で物を掴んだり木にぶら下がったりできみたいです。こちらは室内で飼われているレッサーパンダ―(→→→こちら)です。パンダという名前はジャイアントパンダよりもレッサーパンダに先につけられたものであり、ネパールの言葉で「ニガラポンヤ(竹を食べる者)」がその語源とされているんだとか。ちなみに、桐生が岡動物園に並んで桐生が岡遊園地(→→→こちら)というのもあり、そこの観覧車も見えました。檻で見にくいですが、ライオン(→→→こちら)もいます。群れで生活するネコというのがも意外と珍しいですね。こちらはホオジロカンムリヅル(→→→こちら)です。フラミンゴ(→→→こちら)です。こちらの動物園には何種類かのフラミンゴがいるみたいです(→→→こちら)。フンボルトペンギン(→→→こちら)もいました。野生種は絶滅が危惧されているそうですが、日本の動物園では繁殖に成功して、数は増えているんだとか。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その5) 私たちはいきもの
2024年02月06日
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西宮神社から坂道を登って行くとプロペラ式の飛行機とヘリコプターが展示されている公園に出ました。こういう形の飛行機を見ると、すぐ旧日本軍のものと思ってしまいますが、説明板によると、ノースアメリカンT-6型という二人乗りの中型練習機だそうで、昭和13年にアメリカのノースアメリカ社で製作され、昭和29年から日本の航空自衛隊で練習機として使用されていたものだそうです。こちらは特に説明もありませんでしたが、ヘリコプターも展示されていました。そして、ここが桐生が岡公園(→→→こちら)という桐生市立の総合公園で、動物園と遊園地があります。公園の入り口に設置されていた女神像です。台座には「平和」という文字が刻まれていました。こちらが桐生が岡動物園の南門となります。ちなみに、入場料は無料です。ということで中を見学させていただきました。こちらが園内の案内図で、動物園の名前が「山田製作所桐生が岡動物園」(→→→こちら)となっていました。飼育されている動物も多そうですが、これが無料なのは、(1)ふるさと納税の寄付金を活用している。(2)「山田製作所」という企業をつけてネーミングライツスポンサーの利用している。(3)売店やアトラクションの売り上げ金を利用している。ということで、頑張ってこれからも無料で子供たちが楽しめる動物園であって欲しいですね。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その4) 桐生が岡動物園
2024年02月05日
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桐生市の吾妻山の東南麓に沿っている山手通りに面したところにある美和神社(→→→こちら)です。美和神社は平安中期にまとめられた延喜式神名帳に記載がある延喜式内社です。延喜式内社は上野国(群馬県)には十二社あるそうです。そのうちの一つがこの美和神社ということで、平安時代にはすでに朝廷からその存在を認められた格式と歴史のある神社です。旧社格は郷社(→→→こちら)となっています。社伝によると美和神社は「崇神天皇の御代に大和国の御諸山から勧請された」と伝わっているそうで、大和国の御諸山とは奈良県桜井市にある三輪山のことを指すそうなので、この三輪山を神体山としているのが奈良県にある大神神社に因んで、石柱にも。三輪大明神と刻まれていました。こちらが拝殿ですが、御祭神は大神神社と同じ、大物主命(オオモノヌシノミコト)=大国主命(オオクニヌシノミコト)ということになりますね。扁額にも、延喜式内と記されていました。この美和神社の境内社に桐生西宮神社(→→→こちら)があります。明治34年(1901年)に、えびす総本社である兵庫県西宮市の西宮神社(→→→こちら)から分霊勧請された神社で、関東で唯一の直系分社であることから「関東一社」と称されているそうです。桐生は織物で栄えた町です。そのため全国各地から技術を持った人たちが集まってきました。そして、その人達の間で福の神信仰、えびす様信仰が盛んになったことから、福の神「ゑびす様」の総本社、西宮神社から分霊勧請できたそうです。それだけゑびす信仰が盛んな土地ですから、毎年11月19日から20日にかけて桐生ゑびす講が開催されるそうです。社号碑にも「関東一円桐生西宮神社」と刻まれていました。この石段を登り、桐生西宮神社にお参りさせていただきました。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その3) 美和神社と西宮神社
2024年02月04日
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西桐生駅から水道山公園へ向かってこの坂道を登っていきます。まだ、始まったばかりでこの坂道はちょっとキツイ。こちらの建物が水道山記念館です。入口の脇にあった水道山記念館(→→→こちら)の説明です。水道山という名称の山があるわけではなく、群馬県桐生市にある雷電山・小曾根山・金毘羅山の総称だそうです。桐生市に、渡良瀬川左岸一帯を水源地とすることに決定した水道が整備されることになり。この水道山に高区・低区配水池が新設され、高区からは山手方面に、低区から平地の市街地に通水することとして、1932年(昭和7年)4月から給水が始まったそうです。この水道山記念館は、桐生市水道課(現在の桐生市水道局)の配水事務所として1932年(昭和7年)に建設された建物で、昭和47年には配水事務所としての役割を終了しました。その後昭和60年~昭和61年に改修工事を行い、名称を「桐生市水道山記念館」と改め展示室・会議室として利用されているそうです。水道山記念館から、山沿いの道を少し歩き、この坂道を下って、次の目的地になる美和神社・西宮神社に向かいます。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その2) 水道山記念館
2024年02月03日
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北関東三県の茨城県、群馬県、そして栃木県を廻る旅を続けています。今回は令和5年10月下旬の晴れた日に群馬県桐生市にやって来ました。隣の岩宿駅は群馬県みどり市ですが、小俣駅は栃木県足利市になります。ということで群馬県最東端の駅になります。両毛線を走るのはこのE221系(→→→こちら)です。このタイプの車両もかっては東海道線、高崎線そして東北線で走っていましたが、今はこちら両毛線に転用されてきたんでしょうね。桐生駅構内に置いてあった、駅ピアノです。ハラミちゃん(→→→こちら)もここで弾いたりするんですかね。桐生駅北口からスタートしました。駅前にある末広通りです。なかなか賑やかな商店街のようです。そして、しばらく歩くと上毛電気鉄道の西桐生駅に着きました。昭和3年(1928)の開業当時のままだそうで、土木学会選奨土木遺産になってます。ちょっとオシャレな洋風建築の駅舎が、よくテレビや映画のロケにも使われているそうです。看板のフォントがシブイですね。駅舎の中です。ちなみにICカードは使えません。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その1) 西桐生駅まで
2024年02月02日
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久しぶりに飯田橋にある尾張屋のきしめんを食べに行きました。ランチメニューで食べたのがこのカツとじ定食(980円税込み)です。結構ヴォリュームがあって男性のMoMo太郎でも完食するのに時間がかかったのですが、別のテーブルで食べていた若いOL風の女性の方でもペロリと食べていたので、ちょっとビックリ。いや、それってやっぱり女性に対する偏見なのかな。人気ブログランキング孤独のグルメ カツとじ定食
2024年02月01日
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