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「過去を変えてこそ将来がある」 2017年12月26日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2016年5月10日放映「神への信仰と知識」 説教要約 905 古代ヘブル語の時制概念 説教要約 94 覚えることと忘れること「過去を変えてこそ将来がある」 甲斐慎一郎 イザヤ書、44章22節 ほとんどの人たちは「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えています。世の多くの人たちがこのように思うのは当然のことです。しかし聖書は「過去を変えてこそ、将来があり、過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。なぜでしょうか。 一、二種類のこれからの時(未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来」および「到来」と呼んで区別しました。 ◆未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ◆将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) 前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類のいままでの時をそれぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ◆過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ◆由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、過去―現在―未来という生き方 もし私たちが、いままでの時を過去としてしかとらえることができなければ、悪かった過去も良かった過去も、すでに過ぎ去って人の手が届かない、今さらどうすることもできないものとなるので、それを改めて現在という時に生かすことができません。その結果、これからの時を未来としてしかとらえることができず、絶望と不安に陥るのです。 神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェスレー)。人間も過去のことは、今さらどうすることもできず、未来のことは、来ないかもしれない不確かですから、神の前においては、過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。ですから聖書は、「過去を変えられなければ、将来はない」と教えているのです。 四、由来―今―将来という生き方 もし私たちが神を心から信じて、いままで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられたいままでの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。しかし神には、それができるのです。 「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(同44章22節)。 神は、キリストの十字架による贖いによって、私たちの罪をぬぐい去ることができるので、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くという将来があるのです(第二コリント3章18節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.12.25
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「豊かさにみるクリスマス」 2016年12月19日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2016年2月1日放映「無意識の三要素による歩み」 説教要約 933 神への信仰と自然科学(1) 説教要約 934 神への信仰と自然科学(1) 「豊かさにみるクリスマス」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、8章9節 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(第二コリント8章9節)。 この箇所には「貧しく」または「貧しさ」という言葉とともに、「富んで」または「富む」という言葉が一回ずつ記されています。 「主は富んでおられた!」 「あなたがたが……富む者となる!」 私たちは、この御言葉を読めば読むほど、聖なる驚きに満たされないでしょうか。 そこでキリストが富んでおられたとか、私たちが富む者となるとは、いったいどのようなことかということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類の豊かさ 一口に豊かさと言っても、様々な種類があります。聖書は、次のような三種類の豊かさを教えています。 第一は、通常の限度や必要な限界を越えているという量的な豊かさです。一般に豊かとか富めるといった場合は、ほとんどがこの豊かさであり、これは、自らが持てる豊かさ、または自らに蓄える豊かさということができます。 第二は、「喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となった」(2節)というような質的な豊かさです。これは、人に与える豊かさ、または人を富ませる豊かさということができます。 第三は、先の二つが相対的な豊かさであるのに対して、これは、「すべてのものをお造りになった神は……すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった」(使徒17章24、25節)という絶対的な豊かさです。 二、キリストの豊かさ キリストが富んでおられたとは、どのようなことでしょうか。 それは、キリストは神の御子として、絶対的な豊かさの中におられたということです。 「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」(ヘブル1章2節)とある通りです。 このキリストは、ご自分のためには、その豊かさを少しも用いずに貧しくなられ、ただ私たちを富ませるために、その豊かな富を、いやご自分のいのちさえも私たちに与えてくださいました。このことを最も良く言い表しているのは、次の賛美歌の一節でしょう。 「すべてのものを あたえしすえ 死のほかなにも むくいられで 十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」 (賛美歌121番3節) 三、私たちの豊かさ それでは私たちが富む者となるとは、どのようなことでしょうか。 1.物の豊かさとは、自らが持てる豊かさ、または自らに蓄える豊かさです。 2.心の豊かさとは、人に与える豊かさ、または人を富ませる豊かさです。 3.霊の豊かさとは、キリストの贖いを信じることによって罪という負債が帳消しにされるだけでなく、永遠のいのちとそれに伴う永遠の資産が与えられるという豊かさです。 私たちは、この霊の豊かさを持っているならば、人に与えたり、人を富ませたりする心の豊かさを持つことができ、決して物の豊かさに負けることはないでしょう(ピリピ4章12節)。 しかしもし私たちがこの豊かさを知らないならば、決して心の豊かさを持つことができないだけでなく、物の豊かさに負けて、様々な罪に陥ってしまうことでしょう(ルカ12章21節、第一テモテ6章9、10節)。 私たちは、物の豊かさと心の豊かさを持っていたとしても、霊の豊かさを持っていなければ、最も貧しい者なのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.12.18
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「貧しさにみるクリスマス」 2016年12月12日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2016年1月22日放映「真の信仰の三要素」 説教要約 951 創造論と進化論の功罪 説教要約 935 創造論は進化論よりも奇なり 「貧しさにみるクリスマス」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、8章9節 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(第二コリント8章9節)。 これはよくクリスマスに開かれる御言葉です。ここには「貧しく」または「貧しさ」という言葉が一回ずつ記されています。 「主は私たちのために貧しくなられた!」 「キリストの貧しさ!」 私たちは、この御言葉を読めば読むほど聖なる驚きに満たされないでしょうか。このことについて聖書から学んでみましょう。 一、三段階の貧しさ 一口に貧しいと言っても、貧しさにも様々な程度があります。聖書は、次のような三段階の貧しさを教えています。 第一段階は、自分の労働で辛うじて生活する貧困です。 これは、その日暮らしの労働者で、余裕は全くありませんが、何とか自活していくことができる程度の貧しさです。この言葉(ペネース)は、新約聖書の中に一回しか記されていません(第二コリント9章9節)。 第二段階は、他人に物を乞うことによって生活する極貧です。 これは、本来は物乞いのことで、自活能力の全くない貧しさです。新約聖書で貧しいという時は、ほとんどこの言葉(プトーコス)か、その派生語です。 第三段階は、他の人からに借金をし、その返済のために身売りをしなければならない貧しさです(レビ記25章39節)。 これは奴隷として働かされる負債者です。 二、キリストの貧しさ キリストは、どのような意味において貧しくなられたのでしょうか。これにも次のような三段階があります。 第一段階――天地万物を創造された永遠の神の御子が、有限の人となられたという貧しさです(ピリピ2章6~8節)。これが最初のクリスマスです。永遠の神の御子が「ご自分を無にし」また「自分をいやしく」されたとは、何と驚くべきことでしょうか。 第二段階――さらに驚くべきことは、人となられただけでなく、貧しい家庭にお生まれになり(ルカ2章24節)、その日暮らしの労働者として貧しい生活をされたのです(マタイ8章20節)。 第三段階――しかし最も驚くべきことは、罪の奴隷となっている私たちを救うために、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」(第一ペテロ2章24節)、罪という借金を肩代わりする負債者となってくださったのです。これが十字架による救いです。 三、私たちの貧しさ 私たちの貧しさについても、聖書は、次のような三段階の貧しさを教えています。 第一段階は、物の貧しさです。 聖書は「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことで」あり(マタイ19章23節)、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし……御国を相続する者とされた」と教えています(ヤコブ2章5節)。 第二段階は、心の貧しさです。 これは「自分がみじめで、哀れで、貧しくて……裸の者であること」を認め(黙示録3章17節)、神の前に無一物で、何の良いものも持ち合わせていないことを意識することです。 第三段階は、霊の貧しさです。 これは、神の前に返済不能な罪という借金を背負った者であることを認め、救い主の必要を自覚して、神から離れないことです。このような人こそ、イエスが山上の説教において最初に語られた「心(原語は霊)の貧しい者」です(マタイ5章3節)。 主が富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたのは、私たちが「霊の貧しい者」となるためです。それは、私たちがキリストの貧しさによって富む者、すなわち「天の御国」にはいる者となるためなのです(マタイ5章3節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.12.11
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「忙しさの克服」 2016年12月5日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年11月24日放映「人間を構成する三要素」 説教要約 878 生命の設計図と宇宙の設計図(1) 説教要約 879 生命の設計図と宇宙の設計図(2) 「忙しさの克服」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章26~30節 「今日のはやりの言葉の一つは、我々が時間の不足を訴えるのに使う、聞きなれた表現であると思う。我々は、それを余りたびたび繰り返すので、繰り返すだけでそうなのだと思い込んでしまう」と述べているのは、英国の名説教者ジョン・H・ジョウェットです。 主は、「ゆっくり食事する時間さえなかった」ほど忙しく奉仕をされましたが(マルコ6章31節)、地上を去る時、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて」と報告することがおできになった方でした(ヨハネ17章4節)。 キリスト者のこの地上における使命は、与えられた一生の時間内に、神が私たちになさせようとしておられるわざを成し遂げることです。ですから私たちにとって最も大切なことは、忙しさを克服して私たちの使命を遂行することではないでしょうか。 一、神のご計画に望みを置く まず私たちが忙しさを感じるのは、自分の計画通りに物事が運ばなかったり、自分の計画にはない出来事がはいり込んだりした時ではないでしょうか。しかし私たちの計画は常に最善であるとは限りません。神が私たちのために最善のことを計画してくださるのです。 「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という言葉は(ローマ8章28節)、物事や出来事に関してだけでなく、時に関しても言えることです。 私たちは、神が命じておられる御心にかなったことのみを行おうとするなら、神はそれをするのに必要な時間をも必ず備えてくださる方ですから、時間の不足を訴える必要はありません。しかし私たちが、神の命じておられない御心以外のことをするなら、時間が足りなくなるのは当然ではないでしょうか。 「もし私たちがもっと祈ったならば、私たちはそんなに忙しく働かなくてもよいであろう」(アンドリュー・A・ボーナー)。なぜなら私たちが祈るなら、神は私たちのために働いてくださいますが、もし私たちが祈らなければ、神のなさることを私たちがしなければならなくなるからです。 二、神と隣人への全き愛を持つ 次に私たちが忙しさを感じるのは、私たちの心が思い煩って分散し、物事に集中することができない時ではないでしょうか。このような時は、焦るだけで能率が悪く、仕事が遅れて時間が足りなくなってしまいます。ですから忙しさを克服する秘訣は、心を集中させて仕事に没頭し、能率を上げることです。 それでは心を集中させるためには、どうすればよいのでしょうか。それは、二心や不純な心がきよめられ、神にのみ心を定めたきよい心を持つことです。これは言い換えれば、神と隣人への全き愛を持つことです。 ヤコブは、ラケルを愛するあまり7年間仕えましたが、「それもほんの数日のように思われた」と聖書は記しています(創世記29章20節)。私たちも神と隣人への全き愛が与えられ、時が経つのも忘れてしまうほど無我夢中になって神に仕えたいものです。 三、永遠の世界を信じて生きる しかし私たちが忙しさを感じるのは、結局のところ、時の流れの中に生きているからです。ですから、もし私たちが時間のない世界に生きることができるなら、忙しさから解放されるはずです。 しかし実際問題として、そのようなことはできるのでしょうか。ここにただ一つだけ可能な道があります。それは私たちが祈りにおいて神と交わり、とこしえからとこしえまで変わらない永遠の神と一つになることです。そうする時、私たちは、モーセのように「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」(詩篇90篇1節)と時間を超越した永遠の神の腕の中に憩うことができるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.12.02
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