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「神の宝と人の宝」 2020年1月26日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年5月19日放映「初めに光があれ」「神の宝と人の宝」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、6章19~24節 「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる」(出エジプト19章5節)。 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(第二コリント4章7節)。 この前半の出エジプト記の御言莱には神の宝について、後半のコリント人への手紙の御言葉には人の宝について記されています。そこで宝ということについて聖書から学んでみましょう。 一、宝の意味について 私たちは「宝」と聞くと、すぐ「宝物」や「宝石」を思い出しますが、必ずしも目に見える有形のものだけでなく、「無形文化財」や「人間国宝」のような無形の、また精神的な宝もあります。ともかく宝というのは、有形、無形を問わず、私たちが最も大切で価値があり、貴いと考えているものです。 そしてキリストが「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(21節)と言われたように、宝というものは、私たちの心を引き付け、私たちの心を奪うものです。 しかし聖書は、「宝」の意味を、さらに深く私たちに教えています。。それは「富に仕える」(24節)という言葉から分かるように、宝というものは、私たちが当てにして拠り頼むだけでなく、ついにはそれにひれ伏して仕えてしまうものです。 1.私たちが最も大切であると考え、最も貴く価値があると思うものにみな宝です。 2.私たちの心をとらえて離さず、私たちの心を奪って夢中にさせるものはみな宝です。 3.私たちが当てにして拠り頼むだけでなく、ひれ伏して仕えるものはみな宝です。 二、人の宝について 宝には、多種多様なものがあるように思われますが、聖書は、二種類の宝しか教えていません。色々な宝があっても、それらはこのどちらかに包含されるからです。 1.天上の宝 この宝の代表は真の神でありキリストです。パウロは「私たちは、この宝(キリスト)を、土の器(弱くてもろい人間)の中に入れているのです」と記しています(第二コリント4章7節)。イザヤは「主を恐れることが、その財宝である」と述べています(33章6節)。さらに「神からの栄誉」も天上の宝です(ヨハネ5章44節)。真の神から出て、私たちをこの神に導くすべての良いものも天上の宝に含まれるでしょう。 2.地上の宝 この宝の代表は富であり、「マモン」です。「マモン」とは黄金の神を意味し、真の神に対立する偶像です。真の神を無視して金銭で買えるものを最も貴いものとするなら、それは地上の宝です。この世から出て、この世に属するすべてのものも地上の宝に含まれるでしょう。 三、神の宝について 神の宝とは、どのようなものでしょうか。 神のひとり子であるキリストが、神の宝であることは言うまでもありません。しかし神は、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは……わたしの宝となる」(出エジプト19章5節)と仰せられました。 神は、私たちを宝の民とするために、ご自分の宝である「御子をさえ惜しまずに死に渡された」のです(ローマ8章32節)。 私たちは、このことを信じるなら、「天上の宝」を宝として歩み、「その行き着く所は永遠のいのち」です(ローマ6章22節)。 しかし、このことを信じないなら、「地上の宝」を宝として歩み、「人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥」るのです(第一テモテ6章9節)。 キリストは、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめ」て、「天にたくわえなさい」と言われました(19、20節)。これは、「地上の宝」を自分の宝としてはならず、「天上の宝」を自分の宝にしなさいという意味です。 私たちは、「天上の宝」を宝として歩んでいるでしょうか。それとも「地上の宝」を宝として歩んでいるでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.01.25
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「今は恵みの時、今は救いの日」 2020年1月19日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年5月4日放映「初めにことばがあった」「今は恵みの時、今は救いの日」 甲斐愼一郎 コリント人への手紙、第二6章2節 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2節)。 一、二種類のこれからの時(未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは「未来」および「到来」と呼んで区別しました。 ▼未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ▼将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) ハイデガーは二種類のいままでの時を「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ▼過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ▼由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、古代ヘブル語の時制 旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかなく、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで古代ヘブル語の時制は「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」(J・ウェスレー)という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」はありません。人間も、過去のことは今さらどうすることもできず、未来のことは不確かで、来るか来ないかわかりませんから、神の前においては、「過去」や「未来」というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 四、過去―現在―未来という生き方 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 世の人は「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えていますが、聖書は「過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。 五、由来―今―将来という生き方 もし私たちが今、神を信じて、今まで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられた今までの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。人は罪深い過去を拭い去ることなどできません。しかし神は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」と仰せられたのです(イザヤ44章22節)。 六、現在的な信仰――過去に信じたとしても今、信じていなければ罪から救われない 聖書は「今は恵みの時、今は救いの日です」と教えています(Ⅱコリント六章2節)。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(J・ウェスレー『神学論文・根本を撃つ』)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.01.18
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「力と愛と慎みの霊」 2020年1月12日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年3月31日放映「隣人をあなた自身のように愛せよ」 「力と愛と慎みの霊」 甲斐愼一郎 テモテへの手紙、第二、1章3~14節 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(7節)。 ジョン・ウェスレーは、その注解において「力と慎みとは両極端である。愛はその中間にあり、両者の結合帯また調和である」と述べています。言い換えれば、力に偏れば無謀になり、慎みに偏れば萎縮しますが、愛は、両極端の二つのものを均衡と調和が取れた状態にして、両極端の過ちを防ぐのです。 「健全」というのは、それ自体は良いものであっても互いに相反する二つのものが均衡(バランス)と調和(ハーモニー)を保っている状態のことを言うのです。 実際生活において私たちは、この健全さに欠けるなら、純粋な動機で物事を行っても、極端に走ってしまうので、自分が失敗したり、他の人に迷惑を掛けたりして、様々な問題が起きてしまいます。神は、私たちに純粋な動機である愛を与えるとともに、均衡と調和の取れた力と慎みを与えてくださるのです。 一、健全な思想や考え方――神の恵みと人間の働きの調和(9節) 9節には、神の恵みと人間の働きとが対照的に記されています。ピリピ人への手紙にも神の側の働きかけと人間の側の救いの達成について記されています(2章12、13節)。 「神の恵み」は、神の力の現れであり、私たちを高い所に引き上げるものですから、言わば「神の理想の方向」と言うことができます。これに対して「人間の働き」は、人間の力の現れであり、神の力がなければ、弱く罪深い人間にとって、それは私たちを低い所に引き下げるものですから、言わば「人間の現実の方向」と言うことができます。 神は、私たち一人一人にふさわしい理想の姿を求められますが、同時に人間にもその人なりの現実の姿というものがあります。ですから私たちは、人間の現実を無視して、神の理想だけを追い求めたり、反対に神の理想を無視して、人間の現実だけを肯定したりしてはなりません。神の理想と人間の現実の両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な思想や考え方を持つことができるのです。 二、健全な品性や人格――喜びと悲しみとの調和(4節) 4節には喜びと涙、8節と12節には苦しみが記されています。喜びは私たちを高くし、高揚させますが、悲しみは私たちを低くし、謙虚にさせます。しかし何の悲しみもなく、喜びだけが与えられるなら、軽薄になるだけでなく、有頂天になり、ついには高慢にふるまってしまうことでしょう。反対に何の喜びもなく、悲しみだけが与えられるなら、陰気になるだけでなく、失望落胆して、ついには自暴自棄に陥ってしまうことでしょう。 神は私たちに喜びと悲しみの両方を与えられます(ピリピ1章29節)。賛美歌285番3節に「主よ飲むべき わが杯 選び取りて授けたまえ 喜びをも 悲しみをも 満たし給う ままにぞ受けん」とあります。 ですから私たちは、神から喜びが与えられたなら、心から感謝することです(第一テサロニケ5章16~18節)。また悲しみが与えられたなら、逃避することばかり考えず、神のよしとされる時まで耐え忍ばなければなりません(ヤコブ5章7節)。喜びと悲しみの両者が均衡と調和を保つ時、私たちのうちに健全な品性や人格が形造られるのです。 三、健全な行動や働き――大胆さと注意深さの調和(12節) 12節には神にゆだねて確信した大胆さが、14節には聖霊によってですが、自らを守る注意深さが記されています。ゆだねることは、私たちに確信と大胆さを与え、注意深さは、私たちに勤勉と責任感を与えます。しかし大胆さが行き過ぎるなら、無責任や怠慢や不注意になり、反対に注意深さが行き過ぎるなら、小心や臆病や不信仰になるでしょう。 神にゆだねた大胆さと自らを守る注意深さの両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な行動と働きをすることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.01.11
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「神を知る知識によって増し加わる愛」2020年1月5日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年3月25日放映「最も大いなる愛」 「神を知る知識によって増し加わる愛」 甲斐愼一郎 ピリピ人への手紙1章9~11節 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり……真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように……義の実に満たされている者となり……ますように」(9~11節)。 パウロは、この手紙においてピリピの教会の人たちの「知識」と「愛」と「義の実」が増し加わるように祈っています。 一、知識が増し加わることについて ペテロは、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています(第二ペテロ3章18)。知識ということを特に愛と比較して考えるなら、それは識別力のことです。私たちは知識を増せば増すほど、物事を正確に見分けたり、区別したり、識別したりすることができるようになります。これは具体的には、次のようなことです。 1.神に対して 私たちは、何が神に喜ばれ、何が神に悲しまれるかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。 2.自分に対して 私たちは神のために何が有益であり、何が有害であるかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。 3.人に対して 私たちは、隣人が神のために何を獲得すべきか、何を放棄すべきかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。これこそ私たちがどれだけ知識に成長しているかどうかを計る秤です。 二、愛が増し加わることについて このように大切な知識も、愛がなければ何の値打ちもありません(第一コリント13章2節)。しかし私たちが愛に成長しているかどうかは、どうしたならばわかるでしょうか。J・ウェスレーは、「謙遜と忍耐は愛の増大の最も確かな証明である」と述べています。パウロは愛の現れを14ほど挙げていますが(同13章4~7節)、これをまとめるなら、「謙遜」と「真実」と「忍耐」の三つになるのではないでしょうか。 愛は、信仰によって与えられる聖霊なる神からの賜物ですが、人の側から見るなら、自分を捨てる自己犠牲です(ヨハネ15章13節)。ところが謙遜と真実と忍耐も次のように根本的には愛と同じ自己否定です。 1.謙遜――これは神の前に自分をむなしくする「自己絶滅」(J・ウェスレー)です。 2.真実――これは自分に対して利己主義やわがままを絶対に許さない利己放棄です。 3.忍耐――これは他の人に対して自分の意志や主張を通さない自我否定です。 このようなことから謙遜と真実と忍耐こそ、愛の成長を計る秤であることがわかります。 三、 義の実が増し加わることについて しかし知識と愛はそれぞれ単独では成長することができないものです。もし私たちに知識があっても愛がなかったなら、どうなるでしょうか。コリント人への第一の手紙の8章には、次のような三つのことが記されています。1.知識は人を高ぶらせる(1節)2.知識は自分を欺く(2節)3.知識は人を性急にさばく(11節)。 これらは愛の現れである謙遜と真実と忍耐とは正反対のものであり、知識にはどうしても愛が必要であることがわかります。 また愛というのは、知識を求め、知識によって成長していくものです。なぜなら私たちは、神を知れば知るほど神の偉大さと自らの小ささを教えられて、ますます「謙遜」になり、自分を知れば知るほど自分を欺くことなく、ますます「真実」になり、他の人を知れば知るほど、どんなに「忍耐」を必要とするかを教えられるとともに、よく理解することができ、「忍耐」深くなるからです。 このように愛が真の知識によって豊かにされることこそ、純真で非難されるところがなく、義の実に満たされる秘訣なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.01.04
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