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「過程の霊的な教え」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、6章25~34節 「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。……きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(28、30節)。 冒頭の聖句は、「からだのことで、何を着ようかと心配し」ている人に対して、主イエス・キリストが語られたことばです(25節)。 ある人々は、結果や結実また結末や結論というものだけを重要視して、そればかり追い求めていますが、もっと大切なものがあることを忘れてはなりません。それは結果や結実また結末や結論に至るまでの過程です。なぜなら良い結果というのは、それにふさわしい原因や過程というものが必ずあるからです。 ここで主イエスは、「野のゆりがどうして育つのか」という過程をよく見、また考えるように言われていることに心を留めなければなりません。「過程」は、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、過程の観察と熟慮――神を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程を私たちがよく観察し、また熟考するなら、人間の理解を越えた神の不思議なわざに驚嘆することでしょう。動物の成長であれ、植物の生長であれ、生物が育つ過程というものは、人知をはるかに越えた神秘的なものであり、それは私たちに創造主である神の知恵と偉大さを教えるものです。 しかしこの神の知恵と偉大さは、生物が育つ過程のみならず、私たちキリスト者が信仰に成長する過程においても同様に見ることができます。聖書は、神が私たち人間をどのようにお取り扱い、またどのように訓練して育てられるのかを記した書物です。私たちは、聖書に記されている人物が、どのようにして神の訓練を受け、育てられていったのかという過程を学ぶ時、神の計り知れない愛と知恵を教えられるのです。 二、過程の観察と熟慮――自分を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程を私たちがよく観察し、また熟考するなら、人間の無知と無力さに恥じ入ることでしょう。動物の成長であれ、植物の生長であれ、生物が育つ過程というものは、人知も人力も及ばないものです。 そしてこの私たちの無知と無力さは、生物が育つ過程のみならず、様々な物事や出来事、また複雑な社会や家庭や個人の成り立ちを知る時にも痛感するものです。 私たちは、様々な物事や出来事、また色々な社会や家庭や個人に関して、その舞台裏や現在に至るまでの過程というものを知れば知るほど、いかに自分が無知であり、そのために知ったか振りをして冷たくさばいていたのか、その高慢と怠慢、また愛の無さと知恵の無さをいやというほど教えられるのです。 三、過程の観察と熟慮――人を知るため 野のゆりは、どうして育つのでしょうか。その育つ過程には、今まで述べた神的な面や自然的な面とともに、人間的な面や人為的な面があるでしょう。野のゆりの場合は、ともかくとして、ほかの草木の場合、刈り込みをしたり、良い肥料を与えたりすることによって、より大きく美しく育てることができるのです。 このことは、すべての人の姿にも当てはまることです。私たちは、現在の姿や結果として表れている表面の姿を見て、人を判断しやすいことですが、その人をほんとうに理解するためには、現在に至るまでの自然的な過程と人為的な過程を知らなければなりません。すなわちその人は、先天的にどのような性質なのか、また後天的にどのような環境に育てられて何をして来たのかという過程を知る時にのみ、その人を正しく理解することができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.01.31
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「沈黙の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇、50篇1~23節 この詩篇には、神に関して対照的なことばが記されています。 「われらの神は来て、黙ってはおられない」(3節)。 「こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた」(21節)。 聖書が教えている真の神は、私たちに語りかけられる神ですが、またある時は、何も語らずに黙っておられる神でもあります。それでこの沈黙ということに関して、聖書から学んでみましょう。 一、人の沈黙について 人が沈黙するのは、およそ次のような場合ではないでしょうか。 1.一般的な場合--次の八つがります。(1)試す時(創世記24章21節)(2)かかわりあわない時(ヨブ13章13節)(3)観念する時(イザヤ47章5節)(4)恥じる時(エゼキエル23章2、4節)(5)途方に暮れる時(ダニエル10章15節)(6)静まる時(マタイ20章31節)(7)驚嘆する時(ルカ20章26節)(8)承認する時(使徒11章18節) 2.悪い場合--次の四つがあります。(1)怠慢の時(第二列王記7章9節)(2)弁解の余地がない時(マタイ22章12節)(3)隠す時(マルコ9章34節)(4)頑固な時(ルカ14章3、4節) 3.良い場合--次の五つがります。(1)信頼する時(出エジプト14章14節)(2)待ち望む時(詩篇62篇1節)(3)自制する時(イザヤ43章14節)(4)服従する時(イザヤ53章7節)(5)悔い改める時(哀敬2章10節) 同じ沈黙であっても、このような多くの意味があることから、沈黙というのは決して何もないということではなく、それも私たちに何かを語りかけ、ある場合には、ことばで語る以上に雄弁であることが分かるでしょう。 二、神の沈黙について それでは神の沈黙というのは、どのようなことを意味しているのでしょうか。 1.それは、神の怒りであり刑罰です 良心の光に背いてバプテスマのヨハネを殺させたヘロデは(マタイ14章10節)、その後、十字架につけられるキリストに色々と質問しましたが、キリストは、彼に何もお答えになりませんでした(ルカ23章9節)。またパウロは、ローマ人への手紙において、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」(1章24節)と述べていますが、このような神の沈黙や放任は、恐ろしい神の怒りや刑罰を表しているのです。 2.それは、神の愛であり忍耐です ゼパニヤ書には、「彼なんじのために喜び楽しみ愛の余り黙し」(3章17節、文語訳)と記されています。またペテロは、その手紙において「主は......あなたがたに対して忍耐探くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章9節)と述べていますが、このような神の沈黙や忍耐は、神の愛を表しているのです。 3.それは、神の試験であり試練です 聖書は、ヒゼキヤ王について「バビロンのつかさたちが......説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた」(第二歴代32章31節)と記していますが、このような神の沈黙や不干渉は、神に従うかどうかを試す神の試験や試練を表しているのです。 人の沈黙は、ある時は、ことばで語る以上の雄弁であるように、神の沈黙も、ことばに優るとも劣らない語りかけであることを知らなければなりません。ですから私たちは、神の語りかけのみならず、神の沈黙の中にも神のみこころを知って、いよいよ神を恐れて、敬虔に歩むべきなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.01.22
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「かがみの霊的な教え」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、1章19~27節 「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです」(23節)。 「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(第一コリント10章11節)。 日本語において「かがみ」と読む漢字が二つあります。一つは、古い時代には金属製、現在はガラス製の「鏡」であり、もう一つは、良い見本である「模範」と、悪い見本である「戒め」や「警戒」という両方の意味を持った「鑑」です。聖書も、この二つの「かがみ」について述べていますが、「鏡」には、物を写すと同時に反射する働きがあることから、聖書には、次のような三種類の「かがみ」について記されています。 一、神のことばは私たちの姿を最も正しく写し出す鏡です(ヤコブ1章23~25) 人間の眼は、その構造上、ほかの人の顔や姿など、自分以外のものはよく見えても、自分自身の顔は全く見えず、その姿もほとんど見えないものです。ですから自分の顔や姿を見るためには、鏡が必要です。このことは、私たちの外側の姿だけでなく、私たちの内側の心の姿においても同様です。私たちの心を写す鏡は、一般的には法律であり、また倫理や道徳です。しかしこれらの鏡は、私たち自身の人の前における姿や、この世における姿を写し出すことはできても、それ以上のものを写すことはできません。 それでは、私たちの神の前における姿や、次に来る世(来世)における姿まで写し出す鏡は何でしょうか。これこそ神の律法が記されている聖書です。聖書は、私たちが神の前において、どのような姿であり、またこのまま死ぬなら、次に来る世においてどのようになるかを写し出してくれる唯一の鏡です。 二、すべての人たちは私たちを訓練するために存在する鑑です(第一コリント10章6~11節) 使徒パウロは旧約聖書の出来事を述べてから、「これらのことは我らの鑑にして、彼らが貪りし如く悪を貪らざらんためなり」(第一コリント10章6節、文語訳)と述べています。私たちは、神のことばによって直接的に自分の姿を知らされるとともに、周囲の人たちを通して、さらに具体的かつ実際的に自らの姿を教えられ、訓練されるのです。 私たちは、あらゆる面において上には上の人物が大ぜいいることを知らなければなりません。これらの人たちによって私たちは、自らの足り無さと低さを教えられ、もっと前進し成長するように挑戦を受けるのです。 また反対に私たちは、あらゆる面において下には下の人間が大ぜいいることを忘れてはならなりません。これらの人たちによって私たちは、神からの賜物を感謝するとともに、警戒を受けたり、思い遣ったりすることを学ぶのです。 さらにこの世には私たちとあらゆる面において同じような境遇の人たちが大ぜいいることに気がつかなければなりません。これらの人たちによって私たちは、慰められ、励まされ、また孤独や卑屈から救われるのです。 三、キリスト者は主の栄光を反映する鏡です(第二コリント3章14~18節) しかし私たちは、ほかの人たちを鑑として自らを訓練していくだけでは成長していくことはできません。何と言っても神とまみえ、神と交わることが必要です。 パウロは、私たちが心を主に向けて主を見続けるなら、「私たちはみな、顔おおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と述べています(第二コリント3章18節)。 キリスト者は、主の栄光を反射する鏡であり、自ら光るものではありません。しかし主の栄光を反映し続けていくなら、御霊なる主の働きによって、私たち自身も主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.01.15
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「不思議の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇139篇1~24節 「そのような知識は私にとって、あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」(6節)。 「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです」(14節)。 この詩篇においてダビデは、神の全知の不思議さと神の全能の奇しさに驚嘆しています。良いことについても悪いことについても、すぐ慣れて無感覚になりやすい人間にとって、不思議なものには不思議に思い、驚嘆すべきことには素直に驚き、すばらしいことには心から感動する気持ちが必要ではないでしょうか。 そこで不思議という観点から、聖書が教えている大切な真理と教訓を学んでみましょう。 一、不思議の意味について まず不思議ということの意味について考えてみましょう。 1.それは、知識の面からみるなら、文字通り不可思議ということ、すなわち人間の知識や理解を越えているということです。 2.それは、感情の面からみるなら、その不思議さのゆえに驚嘆したり感動したりして、眠っている感情が呼び覚まされることです。 3.それは、意志の面からみるなら、人間の意志や力の及ばないこと、すなわち人間の意志や力を越えているということです。 ですから私たちが不思議な宇宙や自然を見ても、何も不思議に思わなかったならば、私たちは、人間の知識と力の限界を認めない高慢な人であり、また木石のように無感覚で冷たい心の持ち主なのです。 二、不思議の対象について それでは私たちは、不思議なものには何でも不思議に思い、驚嘆すればよいのでしょうか。決してそうではありません。 1.不思議なもの自体を恐れて礼拝する これは、汎神論や偶像崇拝であり、まちがっています。 2.不思議なものの背後にある未知のものを恐れる これは占いや呪い、また偶像崇拝であり、決して正しいことではありません。 3.不思議な宇宙や自然の背後におられるる唯一の真の神を認めて礼拝する これこそ聖書が教えている正しいことです。 三、不思議の霊的な教えについて 聖書は私たちに次のような三つの不思議なものについて教えています。 1.神の不思議さ 神は、人間の知識と理解そして人間の意志と力を越えた全知、全能、永遠、偏在の驚くべき方です。この世界に神ほど不思議な方はおられません。 2.人間の不思議さ 三つの不思議があります。 (1)人間の存在の不思惑さ 人間のからだは最も精密で精巧にできた機械以上のものであり、さらに驚くべきことには人間は、このからだに精神と霊を宿した不思議な存在なのです。 (2)人間の反逆の不思議さ しかしもっと驚くべきことは、このような神の傑作品である人間が、不思議な宇宙と自然に囲まれながら、神に背いて、罪に陥っていることです。 (3)人間の救いの不思議さ きらに最も驚くべきことは、神に背いていた人間がキリストとその十字架の贖いによる救いによって新しく造り変えられるということです。 3.キリストの不思議さ キリストは、その名が「不思議」(イザヤ9章6節)であるだけでなく、永遠の神が有限な人となられたという不思議な方です。そしてキリストは、その生涯において数々の不思議なわざを行われ、最後は人類の罪を負って十字架につけられるという不思議な死を遂げられました(第一ペテロ2章24節)。しかしこのキリストの不思議な死によって、そのことを信じる者は罪から救われて、新しく造り変えられるのです(第二コリント5章17節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.01.10
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「光の霊的な教え」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、1章1~10節 聖書は、光のすばらしさについて、次のようなことを教えています。 「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(伝道者11章7節、文語訳、新共同訳)。 「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4章18節)。 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません」(第一テサロニケ5章5節)。 私たちは、光というものが、どんなに大切なものであるかをよく知っています。もし光がなかったならば、この世は死の世界になってしまうでしょう。このことは、自然界の光だけでなく、精神的または道徳的な光に関しても同様のことを言うことができます。 そこで光ということについて聖書から学んでみましょう。 一、光の意味について 光とは、何を意味しているのでしょうか。それは、文字通りの光である自然界の光や物理的な光のほかに、聖書は私たちに次のような光について教えています。 1.光は、絶望に対して希望、また苦難に対して栄光、さらに死に対して生命というように、実際的に価値のあるすばらしいものに対する総称です(エステル8章16節)。 2.光は、無知に対して知識、迷いに対して悟り、さらに不正や虚偽や罪に対して正義や真理や救いというように、知的、道徳的、そして霊的に価値のあるすばらしいものに対する総称です(使徒26章18節)。 3.光は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物......光を造られた」神を現しています(5節、ヤコブ1章17節)。これは、「偽りの父」であり、「暗やみの世界の支配者」である悪魔に対立するものです(ヨハネ8章44節、エペソ6章12節)。 二、光の働きについて 光は、どのような働きをするのでしょうか。様々な働きがありますが、特に大切な三つのものを挙げてみましょう。 1.「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます」(エペソ5章13節)。 光の働きの第一は、すべてのものを照らして明らかにすることです。私たちは、聖書と聖霊の光によってのみ、神と自らの罪深い姿と十字架の救いを知ることができるのです。 2.「光の中を歩んでいるなら......すべての罪から私たちをきよめます」(7節)。 光の働きの第二は、日光消毒のように罪をきよめることです。聖霊は、私たちに罪を示すだけでなく、イエスの血のゆえに、その罪を焼き尽くすのです。 3.「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(エペソ5章9節)。 光の働きの第三は、植物の生長を助けるように、キリスト者の結実と成長を助けることです。 三、光の霊的な教え それでは私たちは、光に対して、どのようにすればよいのでしょうか。 1.光のほうに来る(ヨハネ3章21節)。 私たちは、聖書と聖霊の光によって自らの罪深い姿を示されたならば、罪を悔い改めてキリストの十字架による贖いを信じなければなりません。これが光のほうに来ることであり、私たちは、光のほうに来なければ、暗黒と罪の中に止まるのです。 2.光の中を歩む(7節、エペソ5章8節)。 光のほうに来て光の子どもとなったキリスト者は、聖書と聖霊の光によって教えられたり、示されたりしたことを信仰によって実践しなければなりません。これが光の中を歩むということです。 3.光を輝かす(マタイ5章16節)。 しかし私たちが光の中を歩んで、奉仕や善行に励むのは、単に自分のためではなく、ほかの人たちが神を信じて救いを受け、神の栄光が現れるためです。これが光を輝かすということです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.01.03
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