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「神を信じる人生と神を信じない人生」2020年6月28日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年10月1日放映「神を信じる人生と神を信じない人生」 「神を信じる人生と神を信じない人生」 甲斐慎一郎 ヨハネ1章1~5節 一、神を信じない人生――進化論を信じる 1.初めに物理法則ありき(過去) ホーキング博士は、「宇宙は神によって創られたのではなく、物理法則によって自然に作られるのだ」と述べています(『ホーキング、宇宙と人間を語る』258頁、エクスナレッジ、2011年)。しかし「物理法則」があっても「情報」がなければ、何も生まれません。昔は、テレビもスマホも飛行機もありませんでした。なぜなら、それらを製造する設計図、すなわち情報がなかったからです。ましてテレビやスマホよりも何千倍、何万倍も複雑な動植物は、設計図すなわち遺伝情報(DNA)がなければ、何万年、何億年も時間が経過しても生まれることはありません。 2.苛酷な運命にもてあそばれる(現在) 「初めに物理法則ありき」というのは、初めに盲目的なエネルギー(物理法則)があり、それが機械的・自動的にすべてのものを造ったということを意味します。それは人格(知性・感情・意志)を持ち、すべての情報を持っておられる全知の神が全能の力で、すべてのものを創造されたことを信じないことです。それは何の計画性も目的も持たない盲目的なエネルギー(物理法則)がすべてのものを造ることですから、人間の力では、いかんともすることができない盲目的な力が決定した苛酷な運命にもてあそばれることになります。 3.絶望に満ちた人生(未来) 「神を失った世界では、醜く悲惨で不合理な人生が、そのままの素顔をあらわにする。しかもその不幸な生涯を終えた人間は、死とともに永遠の闇の世界に消えて行く。このように人生は非合理に満ちたものであるがゆえに、それは『運命』なのである」(ある宗教学者)。苛酷な運命にもてあそばれる人生は、絶望に満ちた、悲惨なものです。 二、神を信じる人生――創造論を信じる 1.初めに情報(ことば)ありき(由来) 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、「初めにことばありき」(ヨハネ1章1節)というヨハネのことばを用いて「初めに情報ありき」という本を出版しています。すなわち「ことば」は情報にほかなりません。聖書は、「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」と記しています(ヘブル3章4節)。 「ヒトの遺伝情報を読んでいて、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(村上和雄『生命の暗号』198頁、サンマーク出版、1997年)。 2.愛にあふれた摂理に導かれる(今) 聖書は、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50章20節)、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)と教えています。これが神の摂理です。 「摂理とは、神が世界と人間のために、その知恵と聖なる意志によって、これら世界と人間の存在と持続のために必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、配慮してくださること」です(『キリスト教大辞典』教文館、649頁、1963年)。 3.希望に満ちあふれた人生(将来) 聖書は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。……それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と教えています(エレミヤ29章11節)。愛にあふれた摂理に導かれる人生は、希望に満ちあふれているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.06.27
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「父と子の交わり」 2020年6月21日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」「父と子の交わり」 甲斐愼一郎 ローマ人への手紙、8章14~17節 このローマ人への手紙の8章14~17節には、「子」または「子ども」という言葉が各節に、そして「父」という言葉が二回(アバとはアラム語で父という意味)記されています。 そこで、この父と子という観点から、聖書が教えているキリストの救いとは、どのようなものか、また真のキリスト教とは何かということを考えてみましょう。 一、肉体の苦行 およそ宗教と名のつくものには、何らかの形において、肉体の苦行というものがあります。その内容を、大ざっぱに述べるなら、次のような四つです。1.様々な欲望を自ら断つ禁欲です2.肉体を苦しめる行為をすることです3.自らの肉体を痛め、傷つけることです4.自らの生命を死に至らせることです キリスト教においては、第一のものに相当する断食があります。しかしこれは、神に近づくための一つの手段であり、決してこれ自体を目的としているのではありません。 聖書は、神の宮である肉体を、いたずらに苦しめたり、傷つけたりしてはならず、かえって、その「からだをもって、神の栄光を現」さなければならないと教えています(第一コリント6章20節)。 使徒パウロは、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と述べ(コロサイ2章21、23節)、肉体の苦行によっては、決して真の救いは得られないと教えています。 二、心の修行 次に宗教を心の修行と考えている人々がいます。これをキリスト教に当てはめるなら、次のようになるでしょう。 1.ある人々は、キリスト教とは、理詰めで神の存在を信じ、ただ聖書を読んで、神の教えを学ぶことであると考えています(知性的な面)。 2.ある人々は、キリスト教とは、信じることによって神を感じ、ただ神の愛に感動して生きることであると考えています(感情的な面)。 3.ある人々は、キリスト教とは、すべての悪や罪をやめ、ただ神に仕えて、善行と奉仕に励むことであると考えています(意志的な面)。 キリスト教を、このように考えている人は決して少なくないでしょう。それぞれキリスト教の一面を表しており、真の救いを受けた結果としてこのようになります。しかし、たとえどれにも片寄らず、この三つのものに均衡が取れて備わっていたとしても、これは心の修行であり、真の救いではありません。 三、霊の交わり 聖書が教えている罪からの救いは、次のような三つの面があります。1.「義と認められること」です2.「新しく生まれること」です3.「神の子どもとされること」です 罪を悔い改めて、キリストの十字架は私の罪のためであると信じる者は、義と認められ(すなわち罪を赦され)、新しく生まれるだけでなく、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が……あかししてくださ」り、私たちは、この御霊によって「アバ、父」と呼ぶことができるのです(15、16節)。 私たちは、この御霊によらなければ、神をほんとうの意味と内容と資格をもって「天のお父様」と言うことはできません。「御霊のあかし」は、父の側から子の側への語りかけであり、「アバ、父」は、子の側から父の側への語りかけです。ここから父と子の霊の交わりが始まるということができます。この罪から救われた者だけが持つことができる父と子の交わりこそ、キリストの救いです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.06.20
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「隠れたものと現れるもの」 2020年6月14日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年5月11日放映「神の謙遜と人の謙遜」「隠れたものと現れるもの」 甲斐愼一郎 ルカの福音書12章1~7節 「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(2節)。 これとほぼ同じ内容の言葉が、他に3回も記されています(マタイ10章26節、マルコ4章22節、ルカ8章17節)。しかし何をたとえているのかということを前後の文章、すなわち文脈から意味を判断するなら、一つ一つに違いがあるようです。それぞれの言葉から、「隠されていても、必ず現れてしまうもの」について考えてみましょう。 一、隠されていても、必ず現れてしまうもの――罪(ルカ12章2節) この箇所において隠されているものとは、心の中の秘密や内緒の出来事を指していますが(3節)、1節にパリサイ人のパン種である偽善について記されていることから、ここでは罪について述べているのでしょう。 パウロは「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります」と言っています(第一テモテ5章24節)。罪は、いつまでも隠し通せるものではありません。たとえ人の前で隠すことができたとしても、神に前において隠すことは不可能です(ヘブル4章12節)。 このように罪は、決して隠せるものではなく、必ず発覚してしまうものであることを知ることは非常に大切です。なぜなら人が悪いことをすることの理由の一つは、罪を隠すことができると思うからです。 聖書は次のように教えています。 「自分のそむきの罪を隠すものは成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(箴言28章13節)。 二、隠されていても、必ず現れてしまうもの――真理や善行(マタイ10章26節) この箇所において隠されているものとは、神の啓示によってのみ分かる真理のことを指していますが(27節)、この章の内容が12使徒の派遣の説教であることから、真理とともに神に対する良い行いや奉仕について述べているのでしょう。 パウロは前に述べた言葉を続けて、「同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません」と言っています(第一テモテ5章25節)。 このように真理は、最後には必ず悪に打ち勝つものであるということを知ることは非常に大切です。なぜなら、もし私たちがこのことを信じなければ、真理に従うことによる苦しみに耐え切れず、悪と妥協して罪を犯し、堕落してしまうからです。 三、隠されていても、必ず現れてしまうもの――福音(マルコ4章22節、ルカ8章17節) この箇所における隠されているものとは、これらの章の内容が天の御国のたとえ話を教えていることから、「神の国の奥義」(マルコ4章11節、ルカ8章10節)のことを指しているようです。 パウロは、福音のことを「世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて」と述べ(ローマ16章25、26節)、また他の箇所においても福音の中心であるキリストのことを「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちの現された奥義」と言っています(コロサイ1章26~28節)。 福音の中心はイエス・キリストであり、またキリストの十字架です。私たちはキリストの十字架を仰ぐ時、そこに人の計り知れない罪の深さとともに、神の計り知れない愛の深さを見るのです。なぜなら十字架は、いままで隠されていたすべての罪が暴露されて罰せられるとともに、いままで隠されていた神の愛が惜しみなく現されて罪人を救うものだからです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.06.13
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「聖霊の満たしと聖書の真理」 2020年5月31日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年3月31日放映「弱い時にこそ強い」「聖霊の満たしと聖書の真理」 甲斐愼一郎 使徒の働き、2章14~21節 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(17節)。 一、聖霊に満たされるまで聖書の真理が全く分からなかったペテロと使徒たち ペテロと使徒たちは、イエスが地上におられた間はイエスが語られた十字架と復活のことも、イエスにおいて成就した預言のことばも全くわかりませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節)。いやイエスが復活された後でさえイスラエルの国の再興のことしか念頭にありませんでした(1章6節)。 二、聖霊に満たされた時、聖書の真理がはっきりと分かったペテロと使徒たち ところがペテロは、イエスが昇天されてからダビデが書いた詩篇のことばを引用し(1章16~20節)、旧約聖書とイエスに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時、旧約聖書が教えようとしていることとイエスのことがはっきりと分かり、聖霊が息子、娘、青年、老人、しもべ、はしため――老若男女、親子、主従の区別なく――すべての人に注がれて、預言する(すなわち神のことばを語る)と説教したのです。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)、「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)、「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)と記されているように「幻」や「夢」は神の啓示、すなわち神のことばです。聖霊に満たされると、聖書の真理が分かり、あかしをする力を受けて主の証人となるのです(1章8節)。 イエスは、御霊の五つの働きについて教えられました(ヨハネ14~16章)。 1.「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(14章17節)。 2.「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14章26節)。 3.「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)。 4.「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16章8節)。 5.「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16章13節)。 ペテロは、御霊の働きによって聖書の真理が分かり、大胆に語ることができたのです。 三、聖霊に満たされることによって聖書のことばが身近になったペテロと使徒たち ローマ人への手紙の10章6節と7節は、どのような意味でしょうか。自分の力で努力して、天におられる神に至るまで向上しなければ救われないと思うことは、私たちのために天から下り、人となって十字架の上で贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら自分の力でキリストを天から引き降ろして、救いを成し遂げようとすることだからです。また自分が犯した罪のためには、地の奥底、すなわち地獄に下って刑罰を受けなければ赦されないと思うことは、私たちのために地の奥底にまで下り、罪の贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら、それは自分の力でキリストを地の奥底から引き上げて復活させ、救いを成し遂げようとすることだからです。 パウロは、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30章14節)というモーセのことばを引用し、「信仰のことば」である福音は、だれの手にも届く身近な現実の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができると教えているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.06.06
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