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「神の働きと人の働き」 2020年5月24日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年3月20日放映「確信と自信」「神の働きと人の働き」 コロサイ一章21~29節 甲斐愼一郎 「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1章29節)。 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。 この二つのみことばのそれぞれの前半には神の働きについて、後半には人の働きについて記されています。そこで神の働きと人の働きについて聖書から学んでみましょう。 一、神の働きについて これに関しては、次のような三つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.神の働きの範囲――すべて 万物を創造し(使徒17章24節)、万物を保っておられる(ヘブル1章3節)神は、◇すべての自然の法則の中に働いておられる◇すべての人類の歴史の中に働いておられる◇すべての人々の心の中に働いておられる ということができます。 2.神の働きの期間――常に 聖書は、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121篇4節)、また「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5章17節)と教えています。 3.神の働きの程度――完全 聖書は、「主のみわざは完全」(申命記32章4節)、「神、その道は完全」(詩篇18篇30節)、「天の父が完全」(マタイ5章48節)であると教えています。しかし、私たちの目に主のみわざが不完全に見えるなら、その原因は私たちの心にあります。なぜなら神は、「全き者には、全くあられ……曲がった者には、ねじ曲げる方」(詩篇18篇25、26節)であるからです。 二、人の働きについて これに関しても、次のような三つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.人の働きの範囲――ごく一部分 みなで力を合わせるなら、大きな働きをすることができますが、ひとりひとりの働きは極めて小さなものです。特に心に関しては、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(ローマ7章19節)しまうほど無力なのです。 2.人の働きの期間――短期間 次の世代の人が受け継ぐなら、長期間、働きを継続することができますが、ひとりひとりの働きは極めて短く、また休みを必要とするだけでなく、未完成のままで終わってしまうことが多いものです。 3.人の働きの程度――不完全 人の働きには、失敗や欠陥、また誤りや間違いが付きものであり、不完全極まりないものです。 三、働きについての教訓について このようなことから働きに関して次のようなことを学ぶことかできます。 1.人が働くことができるのは、神が働いてくださるからです。 まず最初に神が働いてくださらなければ、私たちは何もできません。しかし神は、常に私たちのうちに働いてくださるのであり、人の働きというものは、この神の働きに対する応答なのです。 2.人が休むことができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを守るために休むことなく絶えず働いてくださるので、私たちは安心して休むことができるのです(詩篇121篇4節、127篇2節)。 3.人が罪から救われて、良い行いをすることができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを罪から救うために、キリストの十字架による贖いのわざを成し遂げてくださったのであり、私たちは、行いや働きによらず、ただキリストの贖いのわざを信じることによって罪から救われるだけでなく、良い行いをすることができるのです(ローマ3章22~25節、エペソ2章8~10節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.05.23
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「神のみこころと人の願い」 2020年5月17日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年2月1日放映「神のみこころと人の願い」 「神のみこころと人の願い」 甲斐愼一郎 ルカの福音書、22章42節 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22章42節)。 このイエスの祈りから「人の願いと神のみこころ」について考えてみましょう。 一、人の計画と神のみこころ 箴言に「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(19章21節)ということばがあります。「主のはかりごと」とは「主のみこころ」のことです。 私たちはだれでも、将来に対して望みを抱き、自分なりに様々な計画を立てて歩んで来たにちがいありません。しかしその希望や計画の中には良い志だけでなく、野望や野心もあったのではないでしょうか。私たちの希望はすべてかなえられたでしょうか。私たちの計画通りにすべての物事が運んだでしょうか。答えは「否」と言わざる得ません。 私たちが正直に自分の半生を振り返ってみるなら、私たちの心に多くの計画があったとしても、野心や野望という良くない計画や身勝手な願いは実現せず、主が良いとみられることしか成就していないことを痛感するのではないでしょうか。 二、人のつぶやきと神のみこころ エジプトを脱出して荒野を放浪していたイスラエル人について、聖書は、「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし」と記しています(民数記11章1、2節)。 「つぶやき」は、一般的には不平や不満や文句と同じような意味で使われています。それは身勝手で不当なものですが、一種の願いです。また「祈り」も神への願いであるということができます。ですから人間というものは、祈りであれ、つぶやきであれ、心の願いに満ちている者であることがわかります。 私たちの心が神と正しく結びついているなら、その心の願いは祈りとなって表れますが、神より離れているなら、それはつぶやきとなって表れます。言い換えれば、神に造られた人間は、神との交わりの中にありましたが、堕落したことによってその祈りがつぶやきに変わってしまいました。ですからつぶやきは、偽物の祈りであるということができます。 私たちのつぶやきは、それが独り言であれ、人に対してであれ、みな神に対するつぶやきになります。イスラエルの民は、「この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきましたが(同14章2節)、神は、「わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう」と言われ、彼らは、そのつぶやきのとおりに、死体となってこの荒野に倒れたのです(同14章28、29節)。神は、私たちがあまりにも貪欲で、悪いと知りつつ強引に身勝手な願いを通そうとするなら、そのとおりにされることがあります。これを許容的な「神のみこころ」と言います。これは放任という恐ろしい神の刑罰なのです。 三、人の願いと神のみこころ 聖書は「主は彼らの願いをかなえたまいしかど、そのたましいをやせしめたまえり」と教えています(詩篇106篇15節、文語訳)。イスラエル人は、その激しい欲望が満たされ、願いはかなえられましたが、そのたましいはやせ衰え、からだは疫病に打たれて死んでしまいました(民数記14章33、34節)。 人間は、自分の心や霊性が向上することよりも、自分の思いどおりに物事が運ぶことのほうを願いやすいものです。しかし人間は、自分の身勝手な願いどおりに物事が運ぶことによって、かえって心が堕落したり、霊性が低下したりし、反対に自分の身勝手な願いどおりにならないことによって、悔い改めて神に立ち返り、心や霊性が向上するのです。 人間の願望は、つぶやきに代表されるように、自分でも気がつかないほど不純で身勝手なものです。ですから私たちは、自分の願いがかなえられたり、自分の思いどおりに物事が運ぶことを願ったりするのではなく、自らの心や霊性が向上することを求め、主のみこころのとおりにしてくださいと祈ることが何よりも必要で、大切なことなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.05.16
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「神の愛と人の愛」 2020年5月10日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」「神の愛と人の愛」 甲斐愼一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~16節 聖書は「神は愛です」(16節)と教え、また多くの人々も「キリスト教は、愛の宗教である」と思っています。このこと自体は少しも間違ってはいません。しかしその内容となると、この愛ほど正しく受け取られずに誤解されているものはないでしょう。そこで愛について学んでみましょう。 一、四種類の愛について 新約聖書の原語であるギリシャ語には、愛と訳される言葉が四つあります。 1.エロース(恋愛、夫婦愛)――これは初恋から始まり、本格的な恋愛を経て結婚し、夫婦愛となるもので、肉体的には性愛です。 2.ストルゲー(情愛、肉親愛)――これは親子、兄弟姉妹などの血縁の極めて近い者に対する愛です。 3.フィリア(友愛、朋友愛)――これは自分の好みに合い、自分と共通な場を持つ者に対する愛です。 4.アガペー(聖愛、神的愛)――これは人間が神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ尊いものであるゆえに愛する愛です。 二、神の愛について 神の愛は、言うまでもなく第四番目のアガペーです。これに関しては、「神の愛は、愛される価値のない者を愛する愛である」と言われることがありますが、決してそうではありません。知恵に満ちた神は、全く価値のないゴミやクズのようなつまらないものを愛するような不合理な方ではありません。 神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と仰せられたように、神は、御子イエス・キリストの尊い血(血はいのちを表します)によって私たちを贖われたほど、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ人間には価値があるということを教えています。 ですから人間は、その罪のために神に愛される資格を失ってしまいましたが、不滅の霊を持っているゆえに神に愛される価値があるのです。 三、人の愛について アガペーが神的な愛であるのに対して、エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)は人間的な愛です。この両者の愛を比較するなら、次のような三つにまとめることができます。 1.愛の対象――エロース(夫婦愛)は一人の異性、ストルゲー(肉親愛)は肉親のみ、フィリア(朋友愛)は共通の場を持った特定の人というように、その愛の対象が限定されています。これは当然のことであるとともに必要なことでもあります。これに対してアガペー(神的愛)は、その愛の対象がすべての人です。 2.愛の姿勢――エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)、そしてフィリア(友愛、朋友愛)という三つの人間的な愛は、その対象が「自分にとって(利用)価値がある」と判断して愛するものであり、ここに人間的な愛の限界があります。これに対してアガペー(聖愛、神的愛)は、「相手に価値がある」と判断して愛するものです。 3.愛の性質――三つの人間的な愛は、教えられなくても生まれつき備わっている本能的なものであるとともに、理屈を抜きにした情的なものです。これに対して神的な愛は、真理に基づいた理性的なものであるとともに、信仰と祈りに基づいた意志的なものです。 このようにエロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)という三つの人間的な愛は、私たちに生まれつき備わっていますが、様々な限界があるとともに、盲目的であり、そのために暴走したり、脱線したりする危険にさらされでいます。ですからこれらの三つの人間的な愛は、神的な愛によって支配され、正しい方向に導かれることが必要なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.05.09
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「神の苦難と人の苦難」 2020年5月3日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年3月7日放映「疑惑と不信仰」「神の苦難と人の苦難」 甲斐愼一郎 ペテロへの手紙、第二、2章18~25節 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら。それは神に喜ばれることです」(20節)。 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(21節)。 この前半の20節には「人の苦難」について、後半の21節には「神の苦難」について記されています。そこで「神の苦難」と「人の苦難」の違いについて学んでみましょう。 一、五種類の苦難 聖書は、苦難について次のような五つの説を述べています。 1.刑罰説--「だれが罪がないのに滅びた者があるか。……不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(ヨブ4章7、8節)。 苦難についての最も初歩の説明は、罪に対する刑罰として来る苦難です。 2.教育説(訓練説)--「悩みのなわに捕えられると、その時、神は、彼らのしたことを彼らに告げ、……神は彼らの耳を開いて戒め」(ヨブ36章9、10節)。 これは、前者より少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難てす。 3.試験説--「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」(創世記22章1、12節)。 これは、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。 4.代償説--「しかし、彼は、私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 これは、さらに高尚で、自らに全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を身代わりに負い、代償として来る苦難です。 5.栄光説--「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 これは、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。 二、人の苦難 この五つの苦難は、私たちが信仰に成長していくための五つの段階であるということができます。まず罪に対する刑罰として苦難を受け、次に未熟なところを教育されるために苦難を受け、第三に私たちの実質や実力を試されるために苦難を受け、第四に自らには罪がなくても、ほかの人の罪を負う苦難を受け、最終的には、神の栄光が現れるために苦難を受けるのです。 ヨブの苦難は、個人的には彼の醜い自我と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人人に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」です。ヨブ記の主題は、「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でした(1章1節)。しかし彼は、この苦難を乗り越えることによって、きよめられ、完成したのです(42章1~6節)。 三、神の苦難 これに対して神が受ける苦難は、代償としての苦しみです。この神の苦難には、次のような三段階があります。 ▽第一段階は「主は……心を痛められた」とあるように(創世記6章6節)、人の罪を痛む苦しみです。 ▽第二段階は「わたしのはらわたは、彼のためにわななき」とあるように(エレミヤ31章20節)、罪を罰せずにはおかない神の正義の怒りと、罪人を愛してやまない神の愛の炎とが激しく戦う苦しみです。 ▽第三段階は「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とあるように(24節)、人の罪を負う苦しみです。 神は、私たちの罪をその身に負うことによって、「私たちが罪を離れ、義のために生きる」者にしてくださるのです(24節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.05.02
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