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2003年12月28日(日)曇のち晴05:15起床。出発前にもう一度玄関の戦艦模型を見ると、「戦艦武蔵」の艦名プレート。「大和」ではなかった。見送りに出てきた宿の主人「大和と武蔵は同型艦。100分の1の大きさで作ったから2.6mある。壊れたところがあるんで直したいけど、もう年だから・・・」。06:00「松里旅館」を出発。雲間に星がまたたく。第56番泰山寺をお参り。納経開始時刻10分前にもかかわらず、納経所が開く。ようやく明け始めた田圃の畔道や路地裏の遍路道を通って、次の札所へ向かう。第57番栄福寺は八十八ヶ所のうちで、たぶん一番「ちんまり」したお寺。お堂も小さいし、境内も狭い。けれど住職の「ミッセイさん」は、「ほぼ日刊イトイ新聞」に「坊さん。」という連載を書いていて、ちょっと知られた存在。前回遍路のときに墨書朱印してくれたのは、ミッセイさんの母親と思しきひとだった。お参りを終えて納経所へ行くと誰もいない。呼び鈴を押すように書いてある。呼び鈴に応えて出てきたのは、ジャージ姿の若い坊さん。写真を見たことはなが、たぶんミッセイさん。納経帳を返してもらうとき、「年末年始でも歩いてまわっているひとは結構いるんですか」と聞いてみる。「ええ、昨日は5人くらい見ました。バスの団体さんは少ないですけど」とのこと。納経所から見送ってくれる。山道と石段を登って、第58番仙遊寺に着く。「歩いてまわられて大変ですね」納経係の女性が声をかけてくれる。「最近はよく女のひとがひとりで歩いてますねえ。変な話だけど、女性の場合トイレの心配しないといけないし・・・。でも、冬は蛇とか虫とかいないから歩き易いかもね。石段の途中のお加持水、おいしいから飲んでみて」と教えてくれる。お礼を言って出発しようとするとき、「よいお年を」と送り出してくれる。(後編につづく)
2007.11.29
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2007年11月23日(金)曇時々晴 07:18JR東海道線函南駅着、先週の続きを歩き始める。日差しは薄雲に遮られて寒いが、急傾斜の道路を上るうち汗ばんでくる。台地に出たところで道は緩やかに。朝早いため交通量は少ない。後方に富士山を望む。道端の鮮やかなオレンジ色は、カラスウリ。軽井沢集落を抜け、丹那盆地へ下る。国指定の天然記念物「丹那断層」で休憩するつもりが、見つからないまま通り過ぎてしまう。09:10熱函道路を渡って、「玄岳(くろだけ)登山口」の道標。放牧地前でひと休み。ホルスタインの吐く息が白い。コンクリート簡易舗装の急坂がしばらく続いた後、登山道が始まる。見晴らしの利かない植林地、標高を上げてゆく。下山してくるハイカーひとり、挨拶を交わす。伊豆スカイラインからのエンジン音が近くなり、植生は低木と笹ヤブ。分岐の道標「氷ヶ池・玄岳」に従う。氷ヶ池を廻り込み、スカイラインを3度くぐる。最後にひと登りして、10:20玄岳頂上(798m)。ほぼ無風、先客はひとりだけ。360度展望のはずだが、雲に阻まれて100度くらい。辛うじて見える富士山にシャッターを切る。テルモスの熱い紅茶で休憩。 熱海側へ下山開始。雑木林に赤や黄色の紅葉が混じる。11:10車道。15%ほども勾配がありそうな急坂の両側に住宅が建ち並ぶ。車ならいいが、徒歩で毎日上り下りするのは大変だろう。熱海の街を突っ切って、12:05今日の終点・JR東海道線熱海駅に到着。12:13発の電車で帰途に就く。函南駅→熱海駅:20.4km
2007.11.23
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(26日目前編よりつづく)番外霊場の青木地蔵で昼食にする。通夜堂は5~6人が余裕で寝られる広さで畳敷き。電灯と水道、それに布団まである。国道から少しはいった場所だから騒音も気にならず、人家からも離れている。野宿遍路にはオアシスのような環境である。「民宿伊予路」の女将さんは、いつも遍路客に弁当をお接待してくれているようだ。おにぎりと、おかずにシャケ・漬物・梅干。宿の印象は、ほとんどの場合、女将さんのこういう心遣いによって決まる。13:50第54番延命寺。お参りを終えて休んでいるところに、大きな手提げの女性遍路も到着する。挨拶すると、「早いですね」との応え。何度か会っているが、言葉を交わすのは初めて。「今日はどこに泊まるんですか」聞いてみたが、まだ決まっていないらしい。今治市営墓地を抜け市街地にはいったところで、明日の朝食を調達するためコンビニに立ち寄る。ドアを開けると、ちょうど出てきたおばさんから「お遍路さんでしょ。お接待させて」と呼び止められる。「コーヒーか何か好きなの選んで」と勧められ、お言葉に甘えて缶のココアをお接待していただく。第55番南光坊をお参りし、15:20「松里旅館」に到着する。電柱に看板が出ているからそれと分かるが、なければ普通の民家と変わらない。玄関に2m以上ありそうな戦艦大和の模型。70歳を越えていると思われる宿の主人が、2階の部屋へ案内してくれる。お接待のココアでひと息。他に客はいないようだ。風呂・洗濯の後、洗濯物を乾かすためエアコンのスイッチを入れるが、全然暖かくならない。フィルターに埃がびっしり、これでは効かないはずだ。洗面所でフィルターを洗うと、今度は正常に働きだす。夕食後、早々に就寝。「松里旅館」、1泊夕食付5000円。民宿伊予路→松里旅館:36.2km(第1番霊山寺より896.5km)
2007.11.21
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「南関東低山つなぎの旅2日目」のルートを国土地理院の地形図で検討していたとき、「地震動の擦痕」という記載が目に止まりました。・・・で当日、その「サッコン」なる場所に立ち寄ってみました。「地震動の擦痕」という名称から、地震によって地表に現れた断層面のようなものを想像していたのですが、そこにあったのは全く別物・・・コンクリートの小屋に展示された、ガラス越しに見る「魚雷」でした。解説文によると、「魚雷は忠魂碑建設のため、時の海軍から下付されたもの。昭和05年11月26日の北伊豆地震で、台石が魚雷の腹を削り擦痕を付け、自然の地震計となった。昭和09年01月22日、天然記念物に指定された」とのこと。「なんでこんなものが国指定の天然記念物に?」と思ってしまうところですが、昭和ひとケタという時代背景を考えると、納得できるような気もしました。(魚雷の写真はこちら)
2007.11.20
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2007年11月17日(土)晴時々曇 08:05伊豆箱根鉄道大仁駅着。09月15日以来、2ヶ月振りの「南関東低山つなぎの旅」を歩き始める。狩野川を渡り、08:30登山口。防寒の雨具を脱いで山道にはいる。城山の岩壁の裾を登るルートから、岩壁に取り付いたクライマーがひとり見える。城山峠でひと休み。峠から先は葛城山の山腹を西側に廻り込む。緩やかなアップダウンが続く。いったんコンクリートの簡易舗装林道を経て、標高差200mほどの急登。09:45葛城山頂上(452m)。ここへは北側からの「伊豆長岡ロープウェイ」でも来られる。観光客の姿もチラホラ。残念ながら、富士山は雲に隠れて見えない。下山道はロープウェイの下を横切る。麓近くには観光みかん園、オレンジ色が鈴生り。スーパーの安売りみかんより、ずっと美味そう。10:35大門橋西詰を通過。今日はあと、平地を12~3km北上するだけ。 11:30地図に載っている国指定天然記念物「地震動の擦痕」に立ち寄る。名称から想像したのは、地震により地表に現れた断層面のようなもの。実際そこにあったのは、想像とは全く別物。(これについては、後日報告)12:10蛇ヶ橋で国道136号線を横断。県道141号線を来光川に沿って遡り、13:10今日の終点・JR東海道線函南駅に到着。13:16発の電車で帰途に就く。大仁駅→函南駅:21.3km
2007.11.17
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2003年12月27日(土)曇時々晴05:30起床。コンビニおにぎりの朝食を済ませて玄関へ行くと、女将さんがお接待の弁当を持たせてくれる。もうひとりの遍路客は先に発ったようだ。女将さんに見送られて、06:20真っ暗な中「民宿伊予路」を出発。今日の予定は国道196号線に沿って今治まで。北条市に入る手前で、先に宿を発った女性遍路に追い付く。立ち止まって地図を見ているので、挨拶して先に行く。昨日と同じく大きな手提げを持っている。あれでは歩きにくいだろうに。08:50番外霊場の鎌大師。お参りして納札を入れようとすると、納札箱のいちばん上に錦の納札がある。額にはいったのが宿に飾られているのを見たことはあるが、納札箱のなかにあるのを見るのは初めて。裏に164回目と記されていて、香川県のひとが入れたもの。錦模様が印刷された紙製のものを想像していたが、紙で裏貼りされた錦織だ。100枚100円の白い納札とは貫禄が違う。みかん園を下って菊間町へ。10:45番外霊場の遍照院。お参りを終えると、「売店のひとがお接待してくれましたから」と先に着いていた男性の歩き遍路がお茶とお菓子を勧めてくれる。50代と思われる千葉からのサラリーマン。自分と同じく年末年始一週間の区切り打ちだが、なんとこの寒いのにテントを背負っての野宿遍路なのだそうだ。冬でも野宿するのは「職業遍路」か、よほどの物好きだと思う。服装と装備から推測すると、「山屋さん」のようだ。お茶を飲みながら話をしているなかで、山屋氏から「余命3ヶ月と言われた知人がいるんですが、もう1年以上ホスピスで過ごしているんです。こうして私が四国をお参りしていることで、その知人の命が延びるのに役立っていると思うことかあるんですよ。そういうようなことを感じた経験はないですか」と聞かれる。「春に高知の宿で相部屋になったお遍路さんと、その秋に愛媛でバッタリ再会したことがあります。でもそれはあくまで偶然であって、特別な何かがあったのではないと思ってます。それほど信心していわけでもないですし・・・」そう答えると、「確かに。極端な言い方をすれば、四国をお参りすれば医者はいらないということになりますからねえ・・・」。そう言いながらも山屋氏は、遍路をすることである種の「効力」が生じると考えているようでもある。こちらは、具体的な現象としての「効力」はないと考えているが、それぞれの遍路の心に及ぼす「効果」はあると思う。山屋氏は今日、延命寺の辺りで野営地を探すという。(後編につづく)
2007.11.14
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(25日目前編よりつづく)次の札所へは「安城寺廻り」コースを行く。途中、種田山頭火終焉の地である「一草庵」に寄る。「庵」というくらいだから四畳半厠付程度を想像していたが、2Kほどもありそう。住宅に囲まれて、ゆっくり往時を偲ぶ雰囲気ではない。潮見小学校の手前でちょっと地図を見ていると、突然おじさんの大声が「太山寺はそこを突き当たって左だから」。地図を見ているだけで行く先を教えてもらえるのも、四国遍路ならではのこと。太山寺近くでも「お寺はあっちだよ」と、おじさんから道案内のお接待。第52番太山寺、駐車場に大型バスが2台停まっている。境内まで上ると、先達に導かれた般若心教の大合唱。歳末でもバスの団体遍路ツアーをやってるようだ。団体さんが終わるのを待ってお参り。松山市街のお寺より、山の中のお寺にお参りするほうがやはりそれらしく感じられる。第53番円明寺を打ち、コンビニで買物。15:30「民宿伊予路」に到着する。泊まり客の面倒をよくみてれる昔気質の女将さんがいるので、昨夏と同じここを予約した。金剛杖を洗う支度をしてくれる女将さんの足元が、歳のせいか前より弱々しくなったような気がする。通されたのは、前回と同じ部屋。フロントの公衆電話を使っていると、石手寺と円明寺で見かけた中年の女性遍路が到着する。ザックと金剛杖、それに大きな手提げを持っていて、ちょっと変わった風体。風呂のあと、広間で夕食。自分のほかは仕事関係の客が2人。フロントで見た女性遍路は素泊のようだ。ローストビーフ・鶏の唐揚・鯛の刺身・カズノコに酢の物という豪華版だが、「クリスマスと正月が一緒くた」とも言える。コリコリした食感の酢の物はナマコらしい。ナマコを食べるのは初めて、今後も食べる機会はないかも知れない。珍しいものを出してもらい、女将さんに感謝。「民宿伊予路」、1泊夕食付5500円。別格9番文殊院→民宿伊予路:25.3km(第1番霊山寺より860.3km)
2007.11.08
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2003年12月26日(金)曇時々晴昨夜19:10新宿を発った伊予鉄の夜行高速バスが松山インター口に着いたのは、06:45。12時間近く揺られていたことになる。松山南部へ向かう路線バスが来るまで、まだかなり時間がある。それまでじっと待っていては凍えてしまうので、とりあえず国道33号線を南へ歩く。歩きながら、森松停留所が伊予鉄営業所の建物と一緒になっていたことを思い出す。20分ほどで着いたのは、思ったとおり暖房のある停留所。オモリの力で出入口が閉まるように工夫された、電気いらずの自動ドアを入る。07:33丹波行きに乗車、07:45恵原公民館前で降りる。別格9番文殊院で旅の無事をお願いし、今回の区切り打ちを始める。朝食がまだなので食事を調達できそうなところを探しながら歩くが、見つからないまま第48番西林寺に着く。水屋には「名水」の表示、地下水なので冷たくない。お参りを済ませ次へ向かう。だんだん松山の市街地へ入ってゆくが、食事のできそうな場所は見つからない。まだ9時を過ぎたばかりだから仕方ないか・・・。結局、第49番浄土寺・第50番繁多寺を打ち、石手寺への途中、弁当屋でのり弁大盛を調達する。第51番石手寺は松山の観光名所だけあって、平日にもかかわらずかなりの人出。本堂をお参りしていると、目の前を鶏が悠々と歩き回る。11:00ようやく境内のベンチで弁当をかき込む。(後編につづく)
2007.11.02
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