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森田先生の言葉です。森田正馬全集第5巻 389ページ神経質の症状の治ると治らないとの差は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、10年でも20年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、仕方がないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かがね治ると治らぬの境である。私の場合は対人恐怖症です。対人緊張が非常に激しい。人から非難される、バカにされる、いい加減あしらわれる、無視されるなどということがとても耐えられなかった。いつもそんな場面に出くわすと、やりくりしたり、逃げ回っていた。逃げたときはほんの少しだけ楽になるが、そのあと何十倍も苦しみが襲ってきた。地獄に家を建てて、住むつもりで対処せよと教えられたが、自分には少し無理だった。そこで私の取った対策は、欠点、弱点、ミス、失敗を10のうち1つだけは隠さないで公開しようという気持ちでやってきた。その時は「まな板の鯉」、「清水の舞台から飛び降りる」、「背水の陣をひく」これが私のキーワードだった。10のうちの1つができるようになると、なんとか会社にしがみついて家族を養っていけるようになると思っている。
2013.10.31
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冒険家の三浦雄一郎氏に「元気の秘訣はなんですか」と聞くと、「常に目標を持つこと。そして、いつも夢に向かってチャレンジすること」と答えておられたそうです。この記事を書いた方は、日本100名山を踏破。その後一時目標を失って無気力になりかけていた。今は「花の100名山」(高山植物がたくさん咲いている100の山のことです)と「日本の3000メートル峰21座」の踏破を目標にされているそうです。前者は残り24座。後者は残り6座であるという。人それぞれにいろんな目標があるのだなと思います。
2013.10.31
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今月号の体験談はうつ病で2カ月会社を休職した方の体験談です。休み明けに会社に出るときはとても勇気がいった事と思います。うつ病でつらい思いをされている方は、大いに励まされることと思います。ぜひ参考にしていただきたいと思います。その方は先輩の手紙に励まされたそうです。これが集談会の自助組織のよいところです。先輩の手紙には、「私たちは月給鳥という鳥だ。餌をせっせと巣に持って帰ればそれでいい。仕事が目的ではなく、生活する上での手段にすぎない。」と書いてあったそうです。休み明けびくびくしながら会社に出て、一人一人に挨拶をして回られました。「役立たず」とイヤな目で見られるのではないかと内心びくびくしておられました。しかし、みんな普通の顔で返事をしてくださったそうです。これに救われました。そして「ダメな自分」に人はそれほど関心を持っていないということが分かり、自分を守ろうと体に張っていたバリアが急速に弱くなっていき、自己受容が生まれとても楽になって行きましたと書いておられました。これは劣等感的投射といいます。神経症で悩んでいる人は、自分が何かにとらわれていると、人はそのことに重大な関心を寄せてくる。そして自分を軽蔑したり、毛嫌いしたり、迷惑がったりしてくるはずだと、かってに判断してしまうことを言います。そして行動することができなくなってしまうのです。しかしほとんどの場合事実はそれとは違っていたわけです。これらは認識の誤りといわれています。森田理論で理論を学習して、この方のように実際に体験してみるとすぐにその誤りに気がつくことができます。
2013.10.31
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日野原重明さんの話です。私が尊敬している人物の一人に、精神医学者のV・E・フランクルというユダヤ系オーストリア人がいます。第二次大戦中、300万人の人命が絶たれたアウシュヴィッツ収容所にユダヤ人としてとらわれ、奇跡的に生還した人です。この医師が、人間が人間らしく生きるために必要なことが3つあるといっている。1、 人間はクリエイティブに何かを創る、生産することで生きがいをもって生きられる。2、 人間は他の動物とはちがい、何かを愛することによっていきいきとする。3、 逆境に耐えることによって、より人間らしくなる。これは森田理論に通じるところがあります。まず1番目。森田理論は「生の欲望の発揮」ということを言います。自分の生まれた境遇の中で持って生まれた能力を活かして、人のため、将来を今よりもよりよくしていくために常に心身を働かせて運命を切り開いていく。森田理論の土台となる考えです。2番目。自分、他人、物、お金、時間などを大切に扱う。そのものの存在価値を見つけ出して、できるだけそのものの持っている存在価値が発揮できるようにしていく。唯我独尊、物の性をつくすという考え方です。3番目。不安、恐怖、ストレスはイヤなものですが、それに目をそむけないでぶつかっていくことは、その人の人間としての成長につながります。また生きがいにもなります。但し、森田では、不安には積極的に手を出さなければいけないものと、手を出してはいけないものがあるといいます。まずそれを区別することが大切です。そのうえで、手を出してはいけないものは不安を抱えたまま、なすべきことやるべきことに手をつけましょう。そうしたことができる能力を獲得しましょうと教えてくれています。不安常住という考え方です。これらはいずれも森田理論の核となる考え方です。
2013.10.31
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みのもんたさんが持ち番組を降板するという。次男の窃盗容疑の連座責任をとらされたようだ。会見を開いていた。その時、「辞めなければ収まらない風潮に、僕は感じました。そこまでたたかれるとは思いませんでした。何でこんなに騒がれるのかな、と。みのもんたのせがれじゃなかったらな、というのが本当の僕の気持ち、そうでなかったら、バカ息子で終わったかも。」これはみのもんたさんのまさに正直な気持ちである。しかし私はこんな正直な気持ちをしゃべる必要があったのかと思う。これは腹が立ったので、その憤懣やるかたのない気持ちを正直に相手にぶちまけましたというのと同じことだ。どんなに理不尽だと思っても、心の中に押しとどめておく発言ではなかったのか。この発言によって、かなりテレビ局の心証を悪くしたようである。このような自己弁護、言い訳、責任転嫁はテレビ局が受け入れがたいのである。というより、その背後に控えている世間が受け入れがたいことなのである。そして世間の外に放り出されるということになる。いったん放り出した人を、再び仲間として許すということはめったにない。日本人というのは、欧米人と違い、世間があっての個人なのである。いきなり個人が外の社会と対峙しているのではない。世間に守られての個人の存在がある。世間に見放されてそっぽを向かれるということは深刻な事態を招く。世間に気を使わないで、自分勝手な生き方や言動は決して許されない社会なのである。いくら自分は悪くないと思っていても、まず、「このたびは私の次男が窃盗容疑で取り調べを受け、被害者の方々をはじめ、番組スタッフのみなさま、番組スポンサーのみなさまに多大なご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。私はこの責任を痛感して、一切の番組を降板いたします。」という謝罪を繰りかえすだけでよかったのである。言い訳、自己弁護、釈明は一切不要である。これを貫くことによって、世間が外に完全に放り出すことはなくなる。むしろ同情が集まるだろう。あれだけ心身に謝罪しているのだからこのたびは大目に見てやろうよということになる。そしていずれ多くの番組に復帰できるようになっただろう。しかし言い訳めいた自己弁護を再三繰り返したため、全番組への復帰はほぼなくなったのである。森田理論でさらに付け加えておきたい。世間の目を気にするということは、日本人の相手を思いやるよいところでもある。だが一方的に自己を抑圧して世間に追随するというのはストレスだらけとなる。つまりバランスが崩れた生き方となり、神経症発症の原因となる。このバランスが崩れた生き方というのが一番の問題なのである。森田理論で学習したように、自己の意見や意思をしっかりと持ちながら、常に両者のバランスをとりながら生きていく。森田理論は、そういう知恵を身につけなさいと教えてくれているのです。バランスをどうとるかは別の問題です。難しい問題ではありますが、まず日本人の特性をよく理解して、バランスのとれた生き方を目指す、という気持ちが確立しないと話にならないということです。
2013.10.30
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神経質な人はよく嘘をつく。つきたくて嘘をついているわけではない。自分を守るために、必死になって嘘をついている。仕方なしについているんだよ。地の自分を出すと、みんなから嫌われると思っている。みんなから無視されることには耐えられないんだよ。これは確信にちかい。だから嘘をつくことは止められない。多分これからもずっと、死ぬまで嘘つきを続けるかもしれない。本当は、自分のだらしないところ、欠点、弱点、ミス、失敗を隠すことなくあけっぴろげな人に人が集まるんだけどね。自分も楽な生き方ができるんだけどね。分かっちゃいるけど、止められないんだな。でも嘘をつくと後味が悪い。いつもあとで自己嫌悪に陥る。嘘をつくのが始末が悪いのは、その嘘を隠すためにまた嘘をつかなければいけないことなんだ。自分で自分を追い込んでいるんだな。いたちごっこなんだよね。なんで自分をよく見せるために嘘をつかなければならないのだろう。悪いと思っている自分も自分そのものなんだけどね。嘘をつかない人は、とても楽な生き方をしていると思う。森田理論の学習で、嘘をつかなくてもいいような人間になりたいと思う。
2013.10.29
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NHKの番組に病の起源 うつ病という番組があった。集談会でもうつ病の方も来られます。またうつ状態という人は私も含めてたくさんおられます。何しろ日本には100万人のうつ病の患者がいるという。この番組はそうした方たちに大変役に立つ内容でした。見ておられない方のために説明してみようと思う。脳に扁桃体というものがある。扁桃体の役割は、不安、恐怖、悲しみを受けた時ストレスホルモンを出す司令塔となっている。これが魚にあるおかげで、魚は天敵から素早く身をかわして逃げることができる。命を守るという点ではなくてはならないものである。こんな実験がある。ゼブラフィシュという小魚を、天敵であるリーフフィシュと一緒に水槽に入れると、最初は逃げ回るそうだが最後は逃げることをしなくなる。つまりストレスホルモンが過剰に出続けた結果、脳の委縮や破壊が起こり。意欲や行動がなくなってきたのである。孤独というのも「うつ」の原因になる。チンパンジーは群れで生活している。助け合いながら群れで生活する方が、生き延びるためには都合がよいのである。ところが何かの都合によって隔離されたチンパンジーは、扁桃体からストレスホルモン過多となり「うつ病」を発症する。次に人間は脳が発達して記憶できるようになった。普通一週間前に食べた食事のことは覚えている事は少ない。ところが強い不安、恐怖を扁桃体で受けると、その刺激はトラウマとなって海馬などにしっかりと記憶される。同じような場面に遭遇すると、予期不安がでてくるようになるのである。その間ストレスホルモンは出続けることになる。また人間は言葉を使うようなった。すると他人からの不安、恐怖、ストレスなどの話を聞くと、扁桃体が激しく活動するようになる。この4つがうつ病の発症に関係がある。いずれも扁桃体の指令によって出るストレスホルモンの暴走がうつ病の発症の原因となっていたのである。つまりバランスが崩れてしまっているのである。アフリカに狩猟民族のハッザ族がいる。この人たちはうつ病とは無縁の人たちである。調査してみると、ハッザ族は獲物をとると公平、平等に分け与えるそうだ。協力して狩猟し、平等に分配するというのは、天敵から身を守る、孤独にならない、不安や恐怖をやわらげることにつながり、決して扁桃体の暴走にはならないという。現代人は公平、平等を破壊して、貧富の差を広げて来た。生まれた時から競争社会、ストレスの多い社会に身を置かざるを得ず、人間の進化の過程で身につけた記憶力、言葉がさらに輪をかけてうつ病の発症の原因となっていたのである。番組では、挨拶、ふれあい、地域とのつながりなど温かい人間関係を築くこと。また適度な運動をする事。昼はしっかりと太陽のもとで活動し、夜はしっかり寝る。等の規則正しい生活を勧めていた。
2013.10.29
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それは他人や地球環境に迷惑をかけないような「目標や課題」を持って、日々努力していくその過程の中に秘密が隠されていると思う。まずは日々、日常生活を人に頼らないで、きちんとこなしていく。これも小さな目標や課題に取り組んでいることです。そのうち好奇心を発揮して、さまざまなことに挑戦してみる。すると一生涯取り組んでみたい目標や課題が見つかることもあります。NHKのプロフェッショナルの番組を見ているとそんな目標や課題を見つけ出した人ばかりである。森田理論ではこのことを「努力即幸福」といっている。そういう意味では、子育ては「いたずら」を目いっぱい容認して、好奇心いっぱいで、自主的な子どもに育てる必要があります。「かくあるべし」で子どもを押さえつけてはいけません。また会社などでも、挑戦する人、意欲のある人を支援して伸ばしてあげるような人材育成が大切だと思います。「不安やストレス」もそれを解消しようする限りにおいては、生きがいにつながるものです。これはエネルギーや意欲がなければ、取り組むことはできません。馬力のある人が挑戦しているのです。ただ不安については、解消するために積極的に頭を使って考え、手足を動かした方がよいものと不安に服従し受け入れていくしか方法がないものとに分かれます。その比率は松下幸之助によれば1対9になるといわれています。無駄なことに手を出すと徒労に終わるばかりです。そして精神交互作用によって抜き差しならぬところに迷い込んでしまいます。ストレスも人間が生きていく上になくてはならないものです。しかしあまりにも強いストレスを自分で抱えていると自滅してしまいます。この場合は、人の手を借りたり、早く逃げたり臨機応変な対応が必要になります。いづれにしろ心豊かに生きようとすれば、目標や課題、不安やストレスが心の食料としての役割を担っているのです。
2013.10.28
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人間はどう生きたら満足できるのだろうか。ある会社の社長さんで、退職後瀬戸内海の小島の温かい土地に家を建てて、モーターボートを買い、毎日魚釣りやグルメ三昧の生活をしていた人がいました。一見うらやましい生活に見えましたが、体調を崩し、精神も不安定になり、精神科にかかっています。会社ではストレスが多く、ストレスのない老後を過ごしたいと思われていたのです。ところが実際はストレスがないということが、逆にストレスとなって身の上に降りかかってきたのです。お金をたくさん蓄えて、好きなものをふんだんに食べられて、欲しいものはなんでも手に入れて、やりたいことや趣味ばかりに集中して、申し分のない家族と毎日楽しく暮らす。こんな生活は実際にはできないが、こんな生活にあこがれている人は多い。これが人間の満足できる生き方だと思っているとしたら、それを目指してきた人たちの顛末がどうなっているかをよく観察した方がよい。決してバラ色の人生とはいえないのである。先ほどの元社長さんのように、むしろ暇を持て余し、心の病気を抱えるようになる。どうも心も体も健康で、自由に活き活きと生きていくというのは別の要件が必要だと思う。
2013.10.28
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私は森田の多くの本を読んできました。特に5巻は何十回も読みました。それらの本は付箋を付けたり、鉛筆やいろんな色のマーカーで印だらけです。それを大切なところを抜き書きしました。そして自分なりに整理してまとめてみました。発見誌は抜き書きや切り抜きで大切な記事を該当項目別に貼り付けています。この作業が今となっては自分の財産となっています。何冊もそうした冊子があります。現在は森田の本は時々取り出してみるくらいです。それよりももっと森田理論を深めていく方法があるのです。今こっているのは、子どもの育て方、人生論、心理学、伝記など森田以外の本を読むことです。これが森田理論を深めたり、確信を持って発言するために役に立っているのです。200ページぐらいの肩の凝らない本は約一時間で読めるようになりました。50ページ15分を目標にしています。だから一日2冊読める日もあります。大事なところは付箋を付けたり。鉛筆、マーカーで印をつけます。そして読み終わると、A4用紙にぺージ数の記入と要点を簡単にまとめます。その中から森田に関係するところを取り上げて自分なりに考えてみます。これはというものはプログで取り上げています。読むより、こちらに力を入れています。分かりにくい考えのところはどんどん飛ばしながら読んでいるのです。本は今のところブックオフとアマゾンの中古本です。ブックオフは100円の中古本主体です。10冊買っても1000円と消費税で済みます。大変助かります。後は市の図書館を利用しています。みなさまの参考になればと思い投稿してみました。
2013.10.27
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寝たきりのお年寄りを見ていると、病気やけがをして入院してベッド生活が始まりそのまま寝たきりになることが多いそうだ。人間はもともと動き回るようにできている。動きをしばらく怠ると、筋肉は急速に廃用性萎縮へと進行してしまう。そのスピートは驚くべ早さである。2、3日で立てなくなってしまう。自分の体を甘やかせてしまうともう取り返しがつかなくなる。二度と二本の足で立って歩くことはできないのである。横になって休むことは、一時的には楽だが、そのまま自分を甘やかせていると大変なことになるのだ。我々元気な者でも、夜目が覚めたり、朝起き上がるのはしんどい。重力に逆らって起きることは気力や体力が必要なのである。しんどいからといってそのまま寝ていれば、いずれ寝たきりとなるだろう。子どもを甘やかせる人も後を絶たない。その後どんなに子供に苦労を背負わせているのか分かっていない。子どもが自らできることややるべきことを親がなりかわってやっている人がいる。また子供が言うがままに、お金や欲しいものをふんだんに与えている人もいる。これは甘やかせるというよりも溺愛である。子どもの自主性、やる気は育たず、欲求不満になる。わがままになり、依存的生活が身について、たくましく一人で生きていくという自立性は育たない。今日の子どもの教育をめぐる問題は、甘やかし教育の弊害と思う。会社でもリーダーが部下を甘やかせて、なかよしグループのような組織がある。今日のような時代ではノルマを達成することはできない。本来部下は実績を上げなくてもよいと思っている人はいないはずである。ノルマを達成して、責任を果たし、できるだけ長く会社に在籍して、家族の生活を支えてゆきたいと思っている人ばかりだと思う。でも困難な状況、大きな壁が立ちはだかっているとつい逃げたくなる。やる気が失せてくる。ついさぼり癖がついて、気がつけばどうにもならないところに足を踏み入れている。そうならないためには、リーダーが部下をよく観察して、援助したり、叱咤激励してエネルギーを鼓舞しないといけない。決して甘やかせてはならないのである。いつもモチベーションを保てるように見守り、刺激を与えて、目標に挑戦させ続けなければならない。甘えるということは麻薬のようなものだ。一時的には楽ができほっとできる。その時はハイな高揚した気分になるが、最後には心と体をズタズタにしてしまう。甘えというのは詐欺にあって、全財産を奪い取られて、息の根を止められるようなものである。
2013.10.27
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岩田真理さんは「流れと動きの森田療法」という著書にこう書かれています。森田学習を長らく続けてきて、3つのタイプの人がいる。その1 頑固で自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちやその場の雰囲気などお構いなくいいたいことをいう人たちです。その2 長い間森田学習をグループで学んできて、目立った症状はないものの、なにかすっきりしない、マイナス思考から抜け切れていない。自分としては失敗と思われることがあると、そのたびにとことん落ち込み、生活も停滞している人。その3 片やスッキリして前向きに生活を楽しんでいる人。森田学習の中で、どうして1や2のタイプの人が発生してきたのでしょうか。普通に考えると森田理論学習をすると、3のように、神経症から解放され、生の欲望に沿って毎日の生活が活性化して、充実した人生を送ることができると思うのです。このことについて私は、今までの森田理論学習の進め方に問題があったと認識しています。最近はそうでもありませんが、森田理論学習の重点は、長い間行動・実践におかれていました。行動・実践が軌道に乗ると、蟻地獄に陥り苦悩していた状態からは、比較的早く抜け出すことができます。それが森田の核心部分だと多くの人が思ってきました。そう思った人は、早合点してもう森田理論は理解できた。もう神経症は治ったと思って集談会に来なくなりました。早々と見切りをつけられたのです。実に残念なことです。宝の山を見ることなく去られたのですから。反対に継続して集談会に参加してきた人の中は、2に該当する人がでてきました。こうゆう人は、森田によって悩みから解放されたという実感がわかないのです。でも集談会の仲間といるとほっとするし、自分には森田しかないのかなとくされ縁でつながっている人たちなのです。これは私たちの学習の進め方の誤りだったと思われます。特に「かくあるべし」を追い求めて完全、完璧、理想の状態を追い求めて、コントロールできない自然現象と格闘し続けている人の悩みは尽きることがありません。そうした矛盾を解消する方面の学習がおろそかにされてきたのです。現在はそうした反省に立ち、思想の矛盾を打破して、事実本位・物事本位の体得面に力を入れています。理論体系が理路整然と整備されていますので、安心して学習に取り組んでいただきたいと思っています。森田先生は症状を持ちながらも、なすべことがなせるようになったなら一応症状からは解放されます。でもそれは小学校卒業程度です。といわれています。その次にまだ中学、高校、大学卒業するための森田理論学習はあります。これは思想の矛盾を打破して、自然服従して、生の欲望にまい進する生き方です。森田理論学習を続けゆくことで真に神経症から解放されるし、神経質者としての今後の生き方も変わってくるといわれているのです。
2013.10.26
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有名な大学を出た能力のある女性でも、入社したての頃は、コピー係やお茶くみをさせられることがある。これに反発して、「なんでこんなことを私がしなければならないの」と反発する人もいるらしい。そんな人にコピーをさせると大変だ。ホッチキスで綴じる時も、綴じる向きなどはお構いなしに綴じるので、書類がめくりにくくなる。またトナーがなくなると、自分で交換しようとしない。すぐに「トナーがないんですけど」と近くの人に助けを求める。用紙がなくなると「用紙がなくなったんですけど」といつまでたっても補充しようとしない。中にはA4サイズの用紙がないといって、A3サイズの用紙にコピーする人もいる。「子どもの使いじゃないんだぞ」と言いたくなる。すると「カッターで切ろうと思っていたんです」と反発する。これがコピー係に「なりきってしまう」と対応がとても好感が持てる。コピーはよく紙詰まりを起こすが、自分でフタを開けてすぐにつまりを解消できる。社内書類は裏紙を利用して用紙の節約を図ることができる。トナーなどはすぐに自分で替えてしまう。また用紙の補充、トナーの補充の段取りが行き届いている。切らすということがない。コピー機はFAXと兼用になっているが、FAXはすぐに片づけて必要の人のもとに届けている。まさにコピーとり名人の域に達している。そんな人は自分本来の仕事もよくできる。机の上、机の中もよく整理整頓されているのである。そんな人はすぐにもっと責任ある仕事を任せたくなるものである。お茶出しも、丁寧に心をこめてすると相手に感動を与える。コーヒーでも、アメリカンの好きな人もいれば、ブラックがよい人、砂糖入らない人、ミルクがいる人などいろいろである。またマイカップに凝る人も多い。朝はこぶ茶に決めている人もいる。緑茶でも入れ方にこだわる人もいる。これを覚えておくのは大変だがスムーズにお茶出しができると、みんなに喜ばれる。さらに紅茶の好きな人に、レモンのスライスにブランデーを振りかけたものなどを用意してくれば、期待以上の感動を与えることができるかもしれない。なりきってしまう人はこれらのことは朝飯前にできるのである。「なんでこんなことを私がしなければならないのよ」と反発して、いい加減にやっている人はどんどん引き離されてしまうのである。
2013.10.26
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竹村健一氏は、欧米人と日本人の人との付き合い方は大きな違いがあるという。まず欧米人。親友だからといっても、すべての面で信用しているわけではない。例えば彼の付き合っている女性が魅力的だったら、自分としては積極的にアタックするだろう。無論相手だって同じことを考えている。テネシーワルツという歌がある。これはダンスパーティで自分の彼女を紹介したら、相手に自分の彼女をとられてしまったという歌である。次に日本人。もし友達の中に、親友と呼べる人がいたら、彼だけにはすべてを打ちあけ、困ったときや悩みのある時は、アドバイスを求める。すべてをさらけ出してつきあう。つまりべったりとひっつきあう人間関係を求めているのである。これは私には心当たりがある。私はかつて、親友が2、3人ぐらいいれば、他には友達はいらない。それだけで十分生きていけると思っていた。その方向を目指していた。森田理論を学習してきて、それは大きな間違いだったと気がついた。本来人間は必要に応じて付き合ったり、離れたりしているのが自然である。そこで親友を2、3人作ることよりも、年賀状を出す人を300人ぐらい作るという方向に変更した。比較的薄い人間関係をたくさん作るという方針にしたのである。すると大変気が楽になった。意見が合わなくなって対立したり、自分のことを毛嫌いする人がいてもそのことにとらわれ続けることはなくなった。以前は、気に入らないことがあってもずっと我慢して、最後に大爆発を起こして、人間関係をめちゃくちゃに壊していた。そして孤立していったのである。今はいったん仲たがいしても、時間がたてば、もとのように必要最低限の付き合いはできるようになった。付き合いのコツをつかんだのである。これは森田理論でいうと「不即不離」「精神拮抗作用」等の考え方に通じることであると思う。
2013.10.26
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昔、西田敏行がでていたコマーシャルで、「今やろうとしていたのに言うんだもんな」というのがありました。西田敏行はユーモアに変えて返せるのでまだ救いがあると思います。普通は自分で今まさにやろうとしていたことを、突然親や先生に「早くしなさい」などと言われるとムカつくことがあります。反対に反発してやる気がそがれてしまい、そっぽを向けてしまうこともあります。これを森田理論で考えてみよう。もともと人間にはこうしなさいといわれると、それに反発して、反対の行動をとることがあります。パチンコ好きな夫に、「家計のことなんか考えずに、給料は全部パチンコで使ってもいいのよ」等といわれると、いくらパチンコが好きでも抑制しようという気持ちがでてくるようになっている。これは森田理論でいう精神拮抗作用である。もともと人間に備わっている精神の調整作用のことである。これが第一の理由。第二に、人間はちょっとした事件や出来事に遭遇すると、逃げたいとか何とかしたいという感情が湧き起ってくる。それに基づいて行動を起こすようになっている。事実に直面する。感情が発生することによって積極的、自主的行動につながっている。そういうプロセスを踏まない状況で、指示、命令、脅迫によって行動を強制されるということは、苦役以外の何物でもない。自主的、積極的、建設的行動には結び付かないのである。森田では「かくあるべし」を人に押し付けると、自分の思いとは反対の結果が待ち構えているという。まさにこのからくりなのである。
2013.10.25
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森田理論の目指すものは何か。普通の人は言う。森田理論は神経症を治すための理論である。これは神経症で苦しんでいる人はもちろんのこと、それ以外の人も疑いのない常識となっている気がする。これは一面あたっているが、決してすべてを説明しているものではない。それだったら、保険も効く認知行動療法や薬物療法、またはカウンセリングはどうですかといいたい。そのほうが即効性がありますよ。私その考え方にはとても賛同できない。森田理論はそんなことを目指しているような安易な代物ではない。と私は言いたい。神経質性格を持ち、自分の持っているものを活かして最高の生き方を全うしたい、そうゆう人たちに灯台のように、遠くまで届く光の道しるべを与えてくれているようなものだ。時々届くその光が心地よい。試行錯誤しながら、その光に導かれて、本来の生き方を求め続けていく。それがなんともいえない大きな魅力のような気がしている。森田理論はそれだけに奥が深いし、人によっていろんな方面に花開く、とてもユニークな楽しい考え方なのだと思う。
2013.10.24
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私たちは認識の誤りがあっても、自分ひとりで抱えていると、誤った考えに支配されているとは思いもよりません。それはちょうど外国旅行をして、外国の人の生活や行動を見て、はじめて私たち日本人の生活や行動パターンを見直すようになるのと同じようなものです。神経症で悩んでいる人は、特にこの認識の誤りが強いと思います。例えば・神経症で苦しんでいるのは自分ぐらいのものだ。普通の人はいつも楽しそうだ。・症状さえ取り去ることができれば、私の人生はバラ色になるはずだ。・人は自分の欠点、ミス、失敗を見てバカにしているはずだ。絶対に見逃してはくれない。人に批判されるようになると生きてはいけない。・頭で納得しないで軽率に行動すると、必ず失敗をして笑い者になると思う。・白か黒、ゼロか100というように、物事はどちらかにはっきり決めてしまわないとイライラする。程よい加減というものはないと思う。バランスをとるとか考えたこともない。気の向くまま、気分本位の生活で満足している。・細部のことばかり気になり、全体を見ることをしない。視野狭窄に陥ってしまう。・本来の「生の欲望の発揮」を目指さないで、症状や不安をとることばかりに心血を注ぐ。そうしないと自分の明るい未来はやってこない。・一つでも欠点があると、自分は生きている価値や資格がないのではないかと思う。とるに足らないことが、すぐに人生の大きな問題に発展してしまう。本人はそのことに気がつかない。・物事をいつも悲観的、否定的に見てしまう。両面を見て判断するということをしない。・物事を実際に確かめることをしないで、今までの経験や先入観で決めつけてしまう。・完全、完璧という理想に凝り固まっていて、その通りにならないと我慢できない。・雑事は自分のする事ではない。もっと意味のあること、クリエイティブな創作活動をするべきである。・自分にはいいところは一つもない。欠点をすべて修正して人並みにしたい。・感情のおもむくままに行動し、好きなこと、やりたいことを自由にやれるようになりたい。・いつも変化に合わせて自分を変えていくよりも、固定して動かないことが一番安心できる。これらの最たるものが「かくあるべし」で、自己中心的に世の中のことすべてを自分のコントロール下におこうとすることだと思います。自分の認識の誤りは、森田理論学習の中で学んでいくことが重要です。自分一人ではなかなか困難です。これは人に教えてもらうことが一番です。集談会を活用して、自分の誤った認識を自覚することが大切です。「私の考え方や行動に認識の誤りはありますか。あったらぜひ教えてください。」と聞いてみればよいのです。当たり前に考えていたことが、全く間違っていた。偏っていた。一方的であった。視野狭窄に陥っていた。極端すぎた。客観視できていない。あまりにも主観的、独善的であるなどが分かるはずです。その際注意点として、自分の考えや行動パターンを具体的に話しましょう。すると、仲間から反対の見方、視野の広い見方、先入観のない見方、両面観からの見方、偏らない中庸の見方、柔軟な見方、客観的な見方、事実に即した見方などがアドバイスとしてでてくると思います。まずは頭で理解して、しだいに生活態度として活かしてゆきたいものです。
2013.10.24
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竹村健一さんが、光文社のカッパブックスというベストセラー集団を作り上げた初代社長の神吉晴夫氏のことを紹介している。神吉さんは最初講談社に入った。その入社試験の面接で、「君は東京外国語大学の仏語科出身だから英語と仏語ぐらいはできるんだろうな」といわれた。その時彼は、英語、仏語の他に独語、ロシア語、スペイン語、イタリア語、その他西欧語のありとあらゆるものができると答えたそうだ。本当のところは全部できなかったそうだ。だが西欧語というのは、お互いに関連性があり、仏語ができれば、辞書と文法書があればある程度分かるそうだ。採用されたい一心だったのだろうが、彼のすごいところは、そうして自分を追い込むことができるということだ。事実入社後、勉強して次々と物にして仕事に活かすことができた。これは森田先生のやり方によく似ている。森田先生は慈恵医学校の「精神病学」講義をするようになったのは、大学卒業後9カ月目だった。もしこの時に「自分は講義をする自信がないから、1年先に伸ばしてもらいたい」と言えば、チャンスはするりと逃げて行ってしまっただろう。仕事は他の人に回り、自分にはもう二度とチャンスは回ってこなかったかもしれない。「イエスかノーかに迷う時は、断然イエスと答えること」そしてのっぴきならない状況に自分を追い込んでいく。背水の陣をひいて、運命を切り開いていくことが大事です。そうすれば、できないと思うようなことでもできるようになります。できなくても、どうしてできないのか分かる。失敗に学んで、次に活かすことができる。観念で考えるよりも、手を出せ。足を出して動きなさいということだと思います。
2013.10.24
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以前の生活の発見誌に掲載された童話「みにくい手」を紹介します。あるところに、とてもかわいらしい娘さんがいました。ところがその娘さんが17歳ぐらいの時に、右手に湿疹のようなものができ、それがだんだん大きくなり、右手全体に拡がってゆきました。それは痛くもかゆくもないのですが、右手全体が黒ずんで、美しい娘さんの顔立ちにはふさわしくないみにくい手になってきました。最初は自分の運命を呪いました。何もする気がおこらなくなり家に閉じこもっていました。自殺しようと思い池に行きました。そこであることを目にしました。巣から落ちた小鳥をヘビが食べようとしていたのです。すると空から親鳥が下りてきてヘビを攻撃し始めたのです。ヘビはびっくりして草むらに逃げてゆきました。娘さんはそれを見て、「死ぬ気でやればなんでもできる」とささやいているように見えたそうです。娘さんはすぐ家に帰りました。そして、今日から自分は生まれ変わったのだと思いました。自分のみにくい手をみていくら悩んでもどうにもならない。それをなんとかしようと思うからどんどん悩みが深くなっていくのだと思います。いっそ、そのみにくさを事実として認め、そして皆から笑われ、いやがられる。そこを出発点に、自分がそれに耐え、何ができるか考えようとしました。そうだ、私の手は汚いのだから、人の嫌がる汚いところをきれいにしようと思いました。近くの公園のトイレはひどく汚れていました。近所の人は気が変になったのではないかと思いました。次に近所に体の不自由なおばあさんがいました。そのおばあさんは息子夫婦からも疎んじられて、一人ぼっちにされていました。おばあさんの家に行くと、洗濯ものがいっぱい放置されていました。洗濯ものをきれいに洗って干してあげました。家に帰ると今まで味わったことのない、充実感と満足感、それに伴い快い疲労感を覚えました。すると、みにくい手の嫌悪は感じなくなりました。「私はこの手のおかげで、今まで知らなかった、知ろうとも思わなかった新しい世界を知ったのだわ」とつぶやきました。これまでは自分の美しさを鼻にかけ、人をおもいやる心を持たなかった私、働く喜び、人に感謝されることがこんなに心をはずませることを知らなかった私、私は何と間違っていたのでしょう。それを気付かせてくれたのはこの手のおかげなんだわ。私のためには、こんな手になることは、これでよかったのだと思いました。
2013.10.24
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人間二人よれば必ず意見の相違は発生します。そんな時のために親業での「勝負なし法」をご紹介します。これは相手の意見のいいなりになるのではありません。また相手を自分に従わせることでもありません。話し合いによって折衷案、妥協案を探るというものです。これを実践すると「かくあるべし」を相手に押し付けるということがなくなります。やり方は次の6つです。1、 まず相手と何について対立しているかをはっきりさせます。2、 二人でいろんな解決策を出し合います。3、 それぞれについて検討します。4、 その中から一つを選びだします。5、 実行方法を考えます。6、 その後の経過をみて、必要なら見直します。具体的な例で説明します。外が寒いのに子どもが薄着で遊びに行こうとしています。母 寒いからジャンパーを着ていきなさい。子 寒くないよ。それにあのジャンパーは大きすぎて動きにくいんだ。母 でも風邪がはやっているから、母さん心配なのよ。子 じゃジャンパー以外のものを出してよ。母 何がいいかな。子 白いセーターがいい。あれを出してよ。母 そうそうセーターがいいよね。このように自分の意見を押し付けるでもない。相手の意見に追随するでもない。お互いの主張を言い合い、検討して、最善の方法を選んでいくというものです。ややこしい問題は、紙に書いて整理していくとよいでしょう。こうすれば相手との摩擦は避けられると思います。こういうことが自然とできるようになると、事実本位の生活に変化してくると思います。
2013.10.23
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私メッセージは、「かくあるべし」人間から抜け出す一つの有力な方法です。お母さんが風邪気味で、熱があって体がだるい。何もする気が起こらない。そんな時に子どもたちが、夜遅くまでテレビを見たり、ゲームをしたり、音楽を聞いていたりするとイライラします。こんな時口をついて出てくる言葉は、「さわぐんじゃないの。早く寝なさいよ」「テレビは消しなさい」「もうゲームはやめなさい」「音楽はとめて」等ではないでしょうか。これに対して子どもたちは、「うるさいな」「またお母さんが怒っている」「いつも指示、命令ばかりなんだから」「僕たちの自由にさせてほしい」などと反発してきます。こんな時、お母さんが言い方を替えるだけで子どもの対応は全く変わることがあります。例えば「お母さんは風邪で寒気がしてぶるぶる震えているの。それなのにテレビの音がやかましくて、あなたたちが騒いでいるので、頭がガンガンして、とてもイライラして気分が悪いの」「お母さんは今日だけは早く静かに休んで、明日は風邪を治したいのよ」これの主語は「私」です。決して「こどもたち」ではありません。私の思い、気持ち、感情を事実のままに子どもに伝えているのです。これによって子どもたちは様々な反応を示してくると思われます。「そんなこと言ったって、僕はまだテレビをみたい。でも音を小さくしようかな。」「お母さん、音を小さくするから、この番組が終わるまで見ていいかな」「お母さん風邪でかわいそう。僕たちのせいでイライラしているんだ。今日はテレビを我慢しようか。」「お母さん、何か手伝っておくことはないの」等です。これは先ほどの対応とは全く違います。先ほどの対応はあなたメッセージの対応です。叱責、指示、命令、強制、強迫の対応です。森田でいう「かくあるべし」の押し付けです。「かくあるべし」の押し付けは、自分の考えているように物事が進展しません。仮に従ったとしてもイヤイヤ、義務感で従っているのです。その後の子育ての過程で必ず反動がやってきます。感情の事実だけを伝える。その後の対応は相手に任せるという姿勢が大切です。
2013.10.22
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中国の大気汚染が深刻だ。中国政府も手をこまねいて見ているわけではない。しかし50メートル先も見えないほどの視界の悪さだ。ハルピンでは学校も休校だという。日本でもかって川崎、尼崎などで公害問題があった。経済成長優先という場合、いつも生活者の犠牲がつきまとう。国民の生活を優先したうえでの、経済発展を願うばかりである。中国では日本以上に森田療法が普及している。森田療法を手掛けている人たちはどう思っておられるのか聞いてみたい。
2013.10.21
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私の小さい頃は里山はきれいに手入れされていた。里山は風呂やかまどの貴重な燃料源だった。それが次第にガスや電気、灯油に変わってきた。今は焚き木やまきを作る人はいなくなった。昔はどこの家でも里山で炭を作っていた。里山には松茸をはじめきのこの宝庫だった。里山は家族で行くピクニックの場であった。箸は父親がその辺の枝を切って作っていた。里山は私たち子供の遊び場だった。枝ぶりのいい木に紐をつけて隠れ家を作って遊んでいた。遊び友達と敵と味方に分かれて、木の棒を振り回して闘って遊んでいた。里山にある池で魚釣りをしていた。今は里山は荒れ放題。赤松は枯れて松茸は取れなくなった。何より「いがいが」がいっぱいあって足を踏み入れることもできない。またどこにマムシがいるか分からない。猪や鹿などもたくさんいる。スズメバチがいておいそれと山に入れなくなった。今日里山のよさを復活させている人の番組を見た。ほとんどお金を使っていないのに、アユの塩焼き、シカ肉のたたき、マイタケのチラシすしなど贅沢なものを食べていた。今はお金、お金の世の中になった。毎日お金がないと生活できない。お金さえあれば何でも食べれるし、なんでも手に入れることができる。でも、昔に比べて、心豊かな生活をしているとはどうしても思えない。
2013.10.21
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会社でパソコンの入力作業をしていると、よく注意していても入力間違いが発生します。それがときには会社に大きな損失をもたらすことがあります。私も会社に粗利で30万円ぐらい損害を与えたことがありました。上司に報告すると、「なんということをしてくれたんだ。この注文をとるのに営業がどんなに苦労しているのか分かっているのか。もっと集中して仕事をしろ」と怒鳴られた事があります。自分では「しまった。どうしてこんなミスをしてしまったのか。どうしよう」と気が動転しているのです。その上厳しい叱責ですからたまったものではありません。頭に血が上り、「いざとなったらこんな会社いつでも辞めてやる」と心にもないことを考えたりします。ここで大切なことは、起きてしまったことは変えようがない。認めることしかありません。今やるべきことは事後処理です。関係各所に連絡して謝ることです。そして収拾策を相談して、これ以上問題が大きくならないようにすることです。そして、反省して、このようなミスが起こらないように対策を立てることだと思います。上司は腹いせに部下を怒鳴り散らすことではありません。森田的にはどうしたらよいのでしょうか。ヒントを親業という本で見つけました。自分の腹立たしい感情はそのままにしておくのです。押さえつけてはいけません。また決してストレートに出してはいけません。なすべき事は、まずミスの中身をよく把握することです。そして上司は部下にこういうのです。腹立たしい気持ちをもちながら、まず部下の報告したことをオウム返しに繰り返すのです。例えば、「単純な入力ミスをしたんだね。入力後のチェックが甘かったんだね」そして次に、それを言いかえるのです。「会社としては30万円の損害が発生しているね」最後に相手の気持ちになって発言するのです。「ミスをしたことは仕方ない。得意先にこれ以上迷惑をかけないように、早急に手を打っていこう。君の案を出してくれ。」ここで一番大事なことは、相手の言い分を聞き、私はあなたの話を聞いてこのように理解しましたが間違いありませんかと確認するということです。こういう対応をされると、部下の方は自分のおかした入力ミスの中身の方に意識が移ります。自分なりの反省、判断、善後策を生み出す余地が残ります。「かくあるべし」の入り込む余地はありません。これは親業では「共感的理解」といいます。森田では「受容と共感」といいます。相手との信頼関係がないと、相手にいくら理論的に正しいことを言っても受け入れてもらうことはできないのです。こういう態度は、努力することによって可能となります。つまり努力することによって、事実本位の態度を身につけることができるのです。
2013.10.21
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贅沢の限りをを尽くし、クルーズトレインななつ星in九州が出発した。1泊2日15万円から40万。3泊4日38万から95万円である。7両編成の車両に30億かけているという。料理は一流シェフが乗り込んでいる。ピアノの生演奏もあるという。森田学習をされている皆さんはこれを見てどう思われているだろうか。私はどうも違和感を感じてしようがない。これは直観的な感情である。お金があればどんなに贅沢を重ねてもいいのだろうか。これ以上ないおいしいものを食べて、これ以上ないような至福の時を過ごす。この方向で、心は満たされるというのだろうか。どうも違うとしか言いようがない。森田を学んで、物質的欲望、グルメ志向を追い求めれば追い求めるほど、その欲望はエスカレートして歯止めはきかなくなる。感性はどんどんと鈍り、次第に今までよりも強い刺激がないと満足できなくなる。さらにもっとおいしいもの、珍しい珍味を求め、便利で物珍しい新製品を片っ端から手に入れようとする。それがおかしいことは、少し考えれば、誰でも分かりそうなことだと思うのだが。もう人間は貪欲な欲望に火がつき、そしてしだいに加速度がついて、もう後戻りできないところに来てしまっているのだろうか。
2013.10.20
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「本当のバカになってはいけないが、バカができる人間なれ」という人がいます。統合失調症などの器質的な精神疾患や、認知症になって脳に異常をきたすと、本人はもとより、周辺で世話をする人たちも大変です。このことを言っているのでしょうか。一方バカができる人間というのは全く違います。自分のしでかしたミスや失敗などを隠したりしない。欠点を隠さない。ありのままの自分をいつもさらけ出すことができる。回避したり逃避したりしない。起きてしまったことは仕方ない。やりくりしようと思わない。親、兄弟、友達、同僚、上司、先生など世間の人に知られて非難されたり、バカにされたり、能力のない奴だと蔑まれたりしても、その通りですと認めることができる。なかなかできないことですが、これができる人は、バカができる人であり、とても魅力のある人です。これを生活の中で実践した人がいます。長田百合子さんという方です。この方は中学生のころ猛烈ないじめを経験されています。そんな中私を見てヒソヒソと悪口をいう子たちに、ニコッと笑って返すようになったのです。するとみんながいいはじめました。「おまえ、なにををわらっとるんや。お前のことをいっとるや。バカとちがうか。」その言葉を引き出して、私は「勝った」と思いました。私はいつも母がいっていたバカが演じられるようになった。嬉しく思いました。するとバカなんかいじめたって仕方がないと、だんだんだんだん私をいじめる子が少なくなってきました。こうして中学3年のころにはいじめがすっかりなくなっていったそうです。この話を聞くと、対人恐怖の人は、バカができない。あまりにもプライドが高く、欠点や失敗をあからさまにさらすことができない。神経が他人の思惑ばかりに集中して、ますます葛藤や悩みを拡大再生産させています。長田さんのように、隠しごとなんか何にもしない。できなくても意識してバカを演じる役者になる。これはまず集談会で試してみることをお勧めします。集談会では欠点、ミス、失敗した話を面白く脚色して話す材料を用意してみる。そして、次にはどんな面白い失敗談の話をしようかなと思えるようになると、対人的な悩みはずいぶん楽になると思います。そのように生活全部を変える必要はありませんし、そんなことはできないでしょう。10あれば、そのうちの1つか2つやりやすいところから取り組んでみてはいかがでしょうか。集談会でできるようになると、学校や職場でもできるようになります。どうしてあんなことを必死になってやりくりしたり、隠したり、回避したり、逃げまくっていたりしたのだろうかと振り返ることができるようになった時、対人的な悩みはぐっと少なくなっているはずです。これが森田理論では、「かくあるべし」を少なくして、事実を受け入れて、事実に服従するということなのです。
2013.10.20
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私はいつまで生きられるか分からないが、4つの芸を磨いていこうと思う。1つはアルトサックス。150曲はなんとかできるようになった。まともに吹けるのは数少ないが。2つ目は、どじょうすくいである。老人ホームでの慰問で数限りなくこなしている。本来は男踊り、女踊り、アドリブができるようになると最高だ。いつも大受けしている。3つ目は、獅子舞いである。獅子頭はいいものを手にしたのであとは練習のみである。これはめでたいので、ことのほか受けがいい。獅子頭のせいかもしれない。4つ目は浪曲手品である。浪曲の名調子に合わせて、手品をし、その後種明かしをする。4つの手品がある。滑稽な芸である。そのほか、室内でヘリコプターを飛ばしたりもするが、披露するのは上の4つに絞り、芸を深めることにしようと思う。
2013.10.19
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アメリカ大会である。日本はたくさんのメダル候補がいてとても楽しい。韓国のキムヨナ選手は一人で孤軍奮闘している。でも結果を残しているし、いつか優勝した時、東日本大震災に賞金をすべて寄付したのがとても印象に残っている。ところで、フィギアのジャンプは見ていてとても面白い。ジャンプの4回転が決まるかどうかは、順位に大きく影響する。多くの選手は高難度のジャンプに挑戦して加点をねらう。でも失敗すれば地獄をみる。失敗した時の落胆は大きい。ゴルフの石川遼も言っていたが、失敗覚悟でもバーディをねらう。挑戦することがプロの宿命です。森田では彼らの挑戦をどう考えたらいいのだろう。私はこう考えている。目標に向かって、作戦をコーチとともにを練りに練る。そして猛練習を重ねて体に覚えこませる。そして試合に臨む。当然プレッシャはかかる。予期不安は察するにあまり余るものがある。あとは、不安を抱えたまま、恐ろしいまま開き直っているのでしょう。私はつたないサックスを吹いているが、1000回練習すれば、人前で堂々と披露できると思っていたが、ある有名な演奏家に聞いたところ、あなたは甘い考えをしていると言われた。その方が言うのは、その10倍の10000回でやっと人前で披露できると思うといわれた。私はその人の話を聞いて、腰を抜かさんばかりに驚いた。プロはもともとすごい素質があるうえに、さらに、私の目標の10倍以上の練習を積み重ねていたのであった。私はなんと浅はかなことを考えていたことか。それでもフィギアの選手は、大観衆の中勝負に臨まないといけない。試合に入ればもう自分を信じることしかないのではなかろうか、と思うのである。キムヨナに勝とうとか、パトリック・チャンに勝とうとかはないと思うが、とにかく無意識にできるまでに高めて自分の体に覚えこませた自分の最高の演技をこなすしかない。ここで意識がししゃりでてきた人は負けである。あとは運を天に任せて結果を待つしかない。それでも結果が思うような成果がでないことが多い。でもそうしないと、結果がつくことはほとんどありえないということは心得ておきたいと思う。
2013.10.19
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小泉元首相が脱原発問題について言及している。息子の進次郎氏は脱原発に反対らしい。私は森田的視点から原発再稼働は反対だ。その理由は2度にわたって説明してきた。小泉純一郎氏の言うように、核廃棄物の処理を子孫に先送りするからである。子孫はたまったものではない。現代人が処理しきれないものを押し付けられるのだから。森田では、将来が今よりもよりよくなること、本当の意味で人の役に立つこと。この二つは命を賭けてでも、積極的、果敢に取り組んでもよい。というより、むしろ取り組んでゆかねばならない。それ以外のことは、決して手を出してはならないと学んだ。いくら納得ができなくても、理不尽な出来事であっても受け入れていく。服従していく。森田理論というのはそういう理論なのである。
2013.10.19
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私は森田理論学習の大きな柱の一つに事実本位、物事本位の生活態度を養うといっています。ところがこれにとらわれてしまって、これ自体が「かくあるべし」になってしまっては、ミイラ取りがミイラになるようなものです。これはよくよく気をつけないといけません。事実本位、物事本位というのは決して目標ではありません。「かくあるべし」を少なくしていく実践を積み重ねていたら、気が付いたら事実本位の生活に近づいていた。後ろを振り返ってみたら、なんと以前は「かくあるべし」に翻弄されて、息苦しい生活をしていたことかと思う。つまり結果的に事実本位、物事本位の生活になっていたというのが正解なのです。そのためにどうするか。ここでは項目だけをあげておきます。・まず前提として、事実にはコントロールできるものとできないものがある。できるものはコントロールしてもよいが、ほとんどは事実を受け入れ、服従するものが多いということをしっかり認識する。・次に事実から目をそむけないでよく見る。観察する。事実はできるだけ具体的に、詳細に、赤裸々に取り扱う。・事実は価値判断しない。事実を事実としてそのままに認識する。・事実は必ず両面観で見るようにする。・事実は私が言っているように4つに分類してみる。もうひとつ加えるとすれば、昔の事実と今現在の事実が矛盾する時は、今現在の事実に従う。・つぎに常に感じから出発する。森田理論でいう「純な心」の体得実践。・私メッセージの体得と実践。・共感的理解の態度の体得実践。・WIN、WINの法則の体得実践。以上、今私が「かくあるべし」を少なくするためにいつも意識している事です。これが全部できればいいのですが、大変難しい。一つでも二つでも実践でくるようになれば、かなり事実本位に近づいてゆきます。そして弾みがついてきます。これ以外にもあるでしよう。それは私が皆さんから教えてもらいたいことなのです。集談会に参加していれば多分その願いはかなえられると思っています。詳細については、今までにだいぶ投稿してきましたが、視点を変えてこれからも投稿を続けてゆきたいと思っています。
2013.10.19
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森田理論では物を見る時に偏った見方をしてはいけない。表からみれば、裏からも見る。プラスの面からみれば、同時にマイナスの面も見る。バランスのとれた物の見方をしなければ、物を観察したということにはならないといいます。私はそういう生き方をした良寛さんの次の句に共感を覚えます。裏を見せ 表を見せて 散る紅葉さて、一つの例として酸素を取り上げて考えてみたい。酸素は我々が生きていく上で絶対になくてはならないものである。もし酸素がなかったら人間だけではなく多くの生物もすぐに死んでしまいます。それは酸素がエネルギーの生産にかかわっているからです。ところがその酸素が著しく反応性が増した活性酸素というものは、我々を病気にさせたり、老けこませたり、ついには命を奪ってしまうものなのです。そうした酸素毒として、鉄が錆びる。皮をむいたリンゴが変色する。等があります。これらは酸化反応といいます。顕微鏡で核と酸素がふれあうと、瞬時にして核は死んでしまうそうです。このことから分かることは、酸素は我々が生きていくエネルギーを取り出すためには必要不可欠ですが、それ以外のときは毒以外の何物でもないということです。エベレストの頂を目指す人が酸素を吸いながら登っているのを見ると、酸素の持つよいところしか見えてきません。しかし実際には、最終的に生物を死に至らしめるのも酸素なわけです。実際に酸素を利用しない動物は死というものはないという人もいます。この酸素の例のように事実を見るということは、両面観で見ないととんでもない間違いを起こすということをよくかみしめてもらいたいと思います。マイナス面が見えてきたら、その次にはそのブラス面も見てゆく。特に神経質の性格は、プラスとマイナスの二面性を持っていますから、両方をバランスよく見ることです。バランスをとるためには、マイナス面は見ないようにして、プラス面ばかりに焦点を当てればやっと釣り合ってくると思われます。
2013.10.19
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生活の発見誌に丸山晋先生の「甘えの理論と森田療法」という記事がある。この中で、「人間生まれてずっと、人間関係の中で生活しているわけですが、そのスタートにおいて「甘え」を十分に味わうことで、人とのつながりを確認でき、それによって、心が発達していくというふうに思います」と指摘されています。幼児期、学童期の親や周囲の人との人間関係が、大人になってからの人間関係に大いに影響を与えているというのである。全くその通りである。森田理論で考えてみたい。人間は最終的に自主的、自立的に生きていく必要がある。そのためには意欲や欲望が高まってこなくてはならない。意欲や欲望が高まってくれば行動へと駒を進めることができる。ところがここで一つ問題がある。欲望と対になって不安や恐怖が発生するのである。森田理論では欲望と不安は表裏一体と考えています。ここで不安や恐怖を押しのけてでも、目指す目標や目的に邁進することができる人と、不安や恐怖を取り去ることに邁進する人に分離してしまう。不安や恐怖にとらわれてしまう人は、幼児期に周りの人に温かく見守られながら、新しいことに挑戦し、能力を身につけてきたという体験が少ない。反対に自分が新しいことに挑戦しようとすると、制御がかかったり、自分になりかわって周りの人が行動してくれていたのである。それは自分が目の前の問題を解決しようとしているのに、後ろから自分に石を投げられているようなものだ。すると本来自分の後ろ盾となる人が、敵に寝返って自分に攻撃してくるような状態となる。もはや目の前の敵や問題に対処することはできない。まずは後ろの敵に対して防御をしかないと自分の存在さえもが危うくなってきたのである。だから幼児期、学童期の周りの人、特に親子の人間関係は大切である。不幸にして「甘え」を十分に味わうことができなかった人は、今からでも遅くはない。集談会のような温かいグループに身を寄せることが大切だ。同じような悩みを抱える人たちの自助グループはたくさんある。そうしたグループに身を寄せて、受容と共感力をつけていくことだ。私は集談会に身を寄せて27年になるが、仲間が受け入れて共感してくれ、ほめて、励まし、いたわってくれたおかげで、自分に多少なりとも自信がついてきたと思う。何かあった時相談するのは、そうして培ってきた仲間たちであると思う。
2013.10.18
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集談会ではみんながはじめてきた人を温かく受け入れて、共感的態度で接することが大切です。まず信頼関係を構築することです。最初は受容と共感の態度は持てないかもしれません。最初は無理にでも相手の立場に立って考えていると、しだいに弾みがついて受容と共感的態度になってきます。次に集談会にくる人はアドバイスを期待してやってきています。ただ相手の話を聞いているだけでは、物足りなさを感じ、閉塞状態に陥ります。相手は蟻地獄に入り込んだような状態ですから、アドバイスすることが必要です。アドバイスといってもこちらから一方的に、自分の考えを押し付けることではありません。例えば対人恐怖の人は、人の思惑が気になり、肝心な場面から逃げたり、自分の欠点や失敗を隠そうといろいろとやりくりしています。その結果生活が停滞しているのです。こういう人は、大きな認識の誤りがあります。その考え方は一方的で、あまりにも偏っています。また症状のことが頭の中の大半を占めており、観念と行動の悪循環が起こっています。奇妙にも思える判断、狭すぎるものの見方があり、本人は釣り糸ががんじがらめにもつれたような状態で訳が分からなくなっているのです。これらを少しずつ分かってもらうようなアドバイスが必要です。系統的に森田理論学習をする事が必要です。相手にこうしなさい、こうすべきですというようなアドバイスではありません。相手がもつれた糸を自分でほぐしていけるようなきっかけを与えるということです。馬を水飲み場までは連れてゆくことが私たち先輩の役目です。水を飲むという行為は、悩みの渦中にある人がする事なのです。自分で気付いたり納得できない限り、森田理論は「豚に真珠を与える」ようなものです。
2013.10.17
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岡本正善氏の「メンタル・タフ」より長所に焦点を当てる、リズムに乗るということについて考えてみましょう。プロゴルファーで試合が4日間ある場合、「今日はドライバーが悪かった」という日があったとします。するとある人は試合後の夕方、明日に備えてドライバーを一生懸命に練習します。しかしドライバーが悪いのに、一生懸命ドライバーを練習してしまうと、悪いドライバーのリズムの中に1時間、2時間と浸っていることになります。すると次の日、プロですから練習によってドライバーはある程度改善しているのです。しかし今度は別のもの、アイアン・パターが崩れたりするのです。ドライバーの練習によって、昨日よかったパターのリズムが消えてしまうのです。大事なのは、「今日アイアン・パターがよかったな」というのであれば、試合後の練習で30分、最初にアイアン・パターの調整をするとよいといわれるのです。「そうそう、今日はこの感じがよかった。おおっ、きたきた。練習でもいい感じだ。今日はこれが冴えていたんだ。」と、まさに、本番時のラウンドのいいリズムを繰り返して出すのです。そういういいリズムの中で、その日調子の悪かったドライバーを打ち始めれば、アイアン・パターでずっと強いリズムをつくってきたため、ドライバーも修正されていくのです。なるほどと思います。私たち完全主義者は自分たちの優れたところは見向きもしません。宝の山をほおっておいて、欠点ばかりに焦点をあてて修正しようとします。その結果元々あった長所が生きてこなくなるのです。岡本氏のおっしゃられている事と逆になっています。このことは、長所にやすりをかけて、長所を削っているようなものです。長所に磨きをかけることによって、短所は少なからず目立たなくなる。よくよく考えておく必要があると思います。
2013.10.17
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ヨットマンの白石康次郎さんのお話です。水産高校では研修航海に出る。船の中には危険なものがたくさんある。マグロなどを釣り上げた時ひっかけるでっかいかぎや出刃包丁などである。これらを使ったままそこらにおいておくことは命にかかわる。船が揺れた時に、それらが船の上を走るのである。人の首や腹に刺さってなくなるという事故が実際に起こっている。使った道具は必ず元にあった決められた場所に戻さなくてはならない。これは口でいってもなかなか身につかない。研修航海では口よりも、手などで殴って教え込まれるという。それがよい習慣となり、単独ヨット世界一周に活かされているという。カッパを着る場合でも、水の浸入を防ぐためにタオルを首に巻きついたり、肌荒れを防ぐためにベビーパウダーやハンドクリームをつけることを怠らない。また船内はいつも整理整頓しておく。シートはきちんとまとめておくと、急いで作業をするときに、足に絡まり、転倒するという事故も防げる。部品の一つ、工具の一つも使ったら必ず元へ戻す。急いで何かをしなければならないときに、探し物をするほどストレスがたまることはない。困難な修理を終えた後など、くたくたに疲れる。後で片付けよう。まあいいだろう。と思って整理整頓をしないと、ズルズルといい加減な気持ちがでてきて収拾がつかなくなる。つまり人間は安易な方向に流されてしまうのである。そうすると後で、何十倍にも困難な仕事となって自分の身の上に降りかかってくる。その場ですべきことは、すぐに手をつける。神経質な人は、きちんとしていなと気がすまないという割には整理整頓、部屋の掃除はいいかげんという人が多いのではなかろうか。かくいう私もそうである。白石さんのお話を参考にしたい。神経症の苦しみを訴える前に、まず家の中の整理整頓、部屋の掃除を毎日丁寧にこなすことを習慣にしたいと思う。このことに真剣に取り組むことの中に神経症克服の光が見えている。
2013.10.16
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マズローの欲求5段階説はよく知られている。まず人間には性欲、食欲、睡眠欲などの本能的欲望がある。これが満たされると、自分の身の安全を求めるようになります。すると家族を持ちたい、仲間とつながっていたい。集団に帰属して群れることを求めるようになります。次に自分が人よりもすぐれていることへの自信、能力への確信、達成への実績、自立の確認、こういったものによって自尊心を満足させたいという欲求と、そういったことを他者からも認めてもらいたいという欲求です。そして最後に自己実現の欲求です。これは「自分のなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望をもつ」ということです。春山茂樹氏は面白いことを言っている。人間は快楽を求めて行動している。それは脳内に快楽を発生させる神経伝達物質が放出されることによってかなえられる。脳内神経伝達物質である脳内モルヒネはマズローの言う欲求が低位から上位に高まることによって放出量が増加してくる。したがって欲求が高まってくることは大事なことである。もう一つ面白いことがある。脳内神経物質には脳内モルヒネやセロトニンなどという快楽を産む神経伝達物質が放出されると、必ずバランスをとるためにそれを抑える神経伝達物質も放出される。ギャバ、ノルアドレラリンなどである。これにより本来は快楽の暴走が食い止められている。現代人はストレスや生活の乱れによってこのホルモンのバランス機能が失われているのかもしれない。さらに面白いことが分かっている。自分のことは横に置いて、人のために尽くす。将来が今より、よりよくなる活動をする。子孫のために負の遺産を押し付けない。等の生の欲望に邁進する時は、それを制御する神経伝達物質は全く出てこない。つまり止めるものがなにもないので、どんどん快楽のもとになる脳内モルヒネ、ベーターエンドルフィンなどが無制限に出て、最高に気持ちのよい状態にしてくれる。マズローはこのことを、「至高経験」といっています。これは森田理論の目指している事と一致します。このようにして我々は体と精神の若さを保つことができるのです。
2013.10.15
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みなさんは集談会に集まった人のどこを見ておられますか。私はどんなに立派に森田理論について、よどみなく話しされてもそれだけでは判断していません。その人の日常生活がどうなっているのか。それを見ないと「森田の達人」度は判断できないと思っています。まずは愚直に日常茶飯事を丁寧に、規則正しく、ものそのものになりきっておられるのがどうか。これは当たり前のようですが、とても難しい。私もいつも気分本位に流されてしまうことがあります。そして、慌てて引き締めているということろです。まだまだだといつも思っています。これを愚直に徹底されている方が生活の発見会におられます。その人を見て、ある人が「あなたは仙人のような生活をしておられますね」と言われたそうです。その方が言われるには、森田は言葉では表現できないことがある。それがもどかしい。そういう発言を聞くと、次に話す気力が起きなくなるのです。と言われていました。私はその人の気持ちはよく分かりました。その方は、ものすごく質素な生活をされています。というより贅沢を退けて、必要最低限のお金と物資で生活して、そこから味わうことのできる心豊かな感情を存分に楽しんでおられます。私は誰にも言ったことはありませんが、勝手に現代に生きる「良寛」さんそのものであると思っているのです。その方は、そうゆうふうに評価してくれる人は、めったにいないのですとよく言われます。森田を深めていくと、症状がどうのこうのという話ではないのです。自分の人生を、いかに深めていって、味わっていくのかという生き方の問題にかかわってくるのです。こうゆう視点で集談会に集まってくる人を見てゆくとおもしろいです。意外に、埋もれた人で優れた人がいることに驚かされているのです。
2013.10.14
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私は土曜日のテレビ番組「人生の楽園」の大ファンである。大体定年退職した人が多い。また途中やりたいことがあって早めににリタイアーした人も多い。みんな元気だ。人生を楽しんでいる人が多い。お金に不自由していないからこそできることかもしれない。感じることは、やりたいことの中で自然と関係のある人との人間的つながりがでてきている。また近所の人などにも受け入れられて、親しい人間関係が豊富で実に楽しそうだ。マズローの社会に溶け込み、温かい人間関係を築くという第3の欲求が満たされた人たちが多い。今回は長野県でいろんなジャムやピクルスを作っている夫婦が紹介されていた。手作りで味もよく味わう人に評判であった。いろんな工夫や挑戦が楽しそうだった。また利害関係なしの人と人の触れ合いが実に気持ちがよい。私はいつも思っている。田舎で暮らして、たまには軽度のスポーツや麻雀などのゲーム、ダンスもいいかもしれない。釣り、加工食品、栗や果物、キノコ狩りなどでみんなが集まり、それで料理を作り、とっておきの一人一芸でみんなで大いにかくし芸を披露して、大いに笑いあう。そんな生活が送れたら最高だと思います。でも現実は、田舎でも都会のマンション暮らしと一緒で、「隣は何をする人ぞ」で触れ合いはどんどん薄れてさみしい限りなのです。好奇心旺盛な神経質者は、症状を克服した後は、スポーツ、演芸、文芸、楽器演奏、地消地産でいろんな楽しい食事メニューの開発。味噌や醤油、もちつきや燻製作り、ビザやパンを焼いたり梅やラッキョウ、漬物や葡萄酒などの加工食品作りなど情報交換を行いながら、横のつながりを強めてゆきたいものです。そうすれば一人孤立してさみしい、悔いの残る人生から、人間に生まれてよかったという気持ちに変化してくるかもしれない。森田理論でつながった仲間は、ますます生の欲望を発揮して、お互いに刺激を与える仲間であり続けたいと思うのである。集談会は生き残る集談会はそれでいいのですが、もし自分の参加している集談会が解散ということになっても、そうした主としてネットを通じて、日本全国の人と交流し、森田理論を学習し、自分の生活を見直して、生き生きと生活できる状況にあるということは頭に入れておいてほしい。まだまだ模索段階ですし、乗り越えないといけない問題もたくさんありますが、近いうちにはきちんとした森田学習を基盤とした人的交流は確立してくるはずであると考えています。どんな可能性が開けてくるのか、考えただけでも楽しいではありませんか。
2013.10.14
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昨日集談会があった。記念集談会ということで、普段は参加されることのない人が多数参加された。その中で85歳、83歳の人がいた。二人とも現在病院にもかからず、元気いっぱいであった。もちろん認知症の気は全然ない。85歳の人。77歳まで現役で働いていた。現役のころは駅前にある大きなホテルの構造設計を担当したそうです。対人恐怖で苦労したが、今となってはそのおかげで成長させてもらったといわれていました。孫が東大の大学院に行っておられるそうだが、この孫が「おじいちゃんの神経質性格を引き継いでいたのがよかった」と言ってくれたそうです。40年前の幹事の頃、一泊学習会の企画書を見せていただいたが、設計者らしく細かいところにも十分に配慮が行き届き、これだけでも森田の学習になると思いました。83歳の人。小学校教師。その後公認会計士資格取得。会計業務ののち、また教師生活。不登校の子供と関わる。現在森田認定指導員であるという。本は3冊書きあげられた。三聖病院2回、啓心寮に2回、計4回の入院経験をお持ちの方であった。人に歴史あり。どんな人でも人生の足跡をたどって、真摯に耳を傾ければ、味わいのある話を聴くことができる。
2013.10.14
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岩村暢子さんが、現代の子育て真っ最中の家庭の食事の調査をしています。父41歳、母40歳。幼稚園に行く娘6歳の朝食は、カップ麺にプチトマト、その前日はふりかけご飯と野菜ジュース。その前はお茶漬け。父34歳、母34歳、娘4歳。休日の夕食は昨夜の残り物と、コンビニで買ってきた弁当。母37歳、息子7歳、娘6歳の昼食。手作りのカステラと2つのカップ麺、残り物のブロッコリー。キューウリにポン酢をかけたもの。こうした実態を40人の「おばあちゃん世代」見てもらったそうです。娘たちの食生活を写真で見せられると、口々に「信じられない」「私はちゃんとした食事で子どもを育てた。それを見ている子どもがこんなめちゃくちゃなことをするわけがない」と異口同音に語ったというのです。おばあちゃん世代は伝統的日本の食生活からはすでに欧風化していました。オムレツやグラタン、ハンバーグにスパゲティ、チャーハンなど、和風に中華、洋風というふうにバラエティに富んでいました。それを食べてきた子どもたちは、料理の作り方は分かっているはずだと思い込んでいるのです。当然見ただけでは分かるはずもありません。実際に自分が作る体験がないと作れません。おばあちゃん世代は自分ではきちんとした料理を作り、工夫もしてきたのですが、子どもに手伝わせることは全くしてこなかったのです。「あなたは勉強さえしていればいいのよ。」「おけいこ事さえしっかりしていればいいのよ」と言って料理を教えることを怠ってきたのです。私に言わせれば、甘やかせてきちんと育ててこなかったのです。その結果、毎日の食事をきちんと作るという日常茶飯事の大切さは実感できないのです。その上、親が当然のように食欲を過剰に満たしてやってきた結果、食欲という人間の基本的欲求が持てなくなってきたのです。つまり森田でいう生の欲望が減退乃至は持てなくなってしまったのです。そうなると次の欲求である、社会的欲求、自己実現の欲求を追い求めていく欲求の高まりは考えられなくなります。無気力、無関心、無感動、無作法な人間の発生につながります。これは人間にとってとても不幸なことだと思います。
2013.10.14
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プレッシャというのはあともうちょっとでなんとかなるという時にかかってきます。全然だめで箸にも棒にもかからないときはかかりません。北島康介選手は、「試合って緊張するものだと思います。僕は今でも緊張します。ただ、緊張しないと、120%のレースはできないんですよ」と言います。その上で、緊張を通り越してひびってしまって満足なレースができないというのは、その前の過程に不安を抱いてしまっているからだと思うんです。つまり練習不足が不安を倍増しているのです。僕は不安を抱いてレースに臨みたくないので、普段から妥協しないトレーニングを心がけています。練習によって体が自然に反応してくれる状態を目指しているのでしょう。本番ではある程度の気持ちの高まりは必要です。でも必要以上の緊張感は動きをぎこちなくさせます。北島選手は猛練習によってイメージを体に覚えこませようとしています。そして本番では清水の舞台から飛び降りるぐらいのつもりで思い切ってスタートをするのです。森田でいう恐怖突入です。これだけ練習したのだからこれで負けたらしかたないと開き直ることができるのです。自分の体の動きに任せてしまうのです。この気合いを学びたいものです。
2013.10.13
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明日は私の参加している集談会が40年を迎える。啓心会を引き継いだ「生活の発見会」が発足したのが昭和45年だった。私の集談会はそれから、3年遅れの昭和48年発足している。ちなみに私は第2期の昭和62年からの参加である。毎回記録が残っているので、この際集談会の歴史をまとめてみた。するとおもしろいことが分かってきた。皆さんの参考になるかもしれないので、簡単に紹介してみよう。最初の10年は成長と発展の歴史だった。最初の世話役の方たちには大変感謝しています。長谷川会長をはじめ東京からも、関西からもそうそうたる歴史に名を残した人の参加があった。この10年の参加者は最初の頃、年平均参加者12名ぐらいだったのが、終わりのころは22名平均へと次第に増えていった。次の10年。安定、充実の時期である。基準型学習会、一泊学習会が盛んに行われている。またレクレーションも集談会活動以外に盛んであった。参加者は20名から25名平均を保っていた。きわめて安定していた。その次の10年。平成6年から平成15年。まさに嵐の激動の10年であった。バブルがはじけて、まだその余韻があったのか、生活の発見会は、平成6年過去最高の会員数になった。私の参加している集談会は、それから2年後平成8年、年平均参加者27名にも膨れ上がった。このときが最大である。参加者が多すぎて3つの集談会に根分けをした。ところが予想に反して、その後参加者は減少に転じた。特に平成11年からは減少が顕著になった。根分けの弊害が随所にでてきた。その次の10年から現在に至る。集談会としては衰退の終焉。横ばいの時期。平成18年3つの集談会は再度1つになり再出発した。その後はおおむね15名程度で推移している。これは生活の発見会の会員の減少からしてみると、相対的に健闘しているといえる。その要因としては、まず森田理論に熟知し、生活の中に森田理論を根付かせておられた指導者がおられたことが大きい。次に幹事か常時5名以上存在して、よく会を盛り立てててくださったことも大きく寄与している。今後であるが、長らくはっきりしなかった森田理論学習の進め方が、集談会で共通認識として持てる状況になってきた。これにより、今後10年間、集談会は安定的に横ばいの状態で推移していくものと推測している。欲を言えば、今後発足50年目が、予想より少しでも参加者が増えていることを願っている。
2013.10.12
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あるお母さんのお話です。二人の子どもを育てられました。上が女の子。下が男の子です。上の女の子はとても我が強く、幼い時のしつけは親と子の闘いだったそうです。そのため外出先ではどんなに苦労したか分かりません。下の子は生まれつき甘ったれでかわいい子。その上アメリカ伝来の子育て論が主流を占めてきました。「幼児期に一番大切なのは子どもの情緒の安定。そのためにはスキンシップが大切である」というものです。上の子の我の強さに、「これを野放しにしては駄目だ」と必死になって戦った彼女も、下のこの時は、スキンシップを心がけ、終始体にくっつけて甘えさせて育てたのです。下の子を叩いたり、厳しくしつけることはしませんでした。しかし大人になった子どもたちを見てしみじみといわれています。上の子の方が自立心の強い子に成長し、下の子の方がいつまでたっても精神的に不安定だといわれるのです。振り返ってみると、「添い寝をしたり、泣いたらすぐに抱き上げたりすると、子どもの情緒は安定します。だって結局子どもの好きなことばかりやっているんだもの。子育てする私の方も楽だった。けじめをつけようと、子どもと闘わなくてもよかったんですから。でも甘やかせてばかりで、しつけを怠ってきたつけは、後からやってきたように思います」「楽は苦の種」というのは今になってはっきりと分かるのですといわれています。子育ては0歳児から始まる。スキンシップはもちろん大事ですが、生活習慣などのしつけもきちんと行う。するとその後の親子の関係はとても楽になるようです。
2013.10.12
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最近幼稚園の段階で子どもが二極分化しているという。一つは乱暴で我慢ができなくて、泣き叫んでどんなに注意してもわがままを通そうとする子ども。どんなにいわれても散らかし放題。きちんとした生活習慣が身につかない子。もう一つは、やる気がなくて、いつも落ち着きのない子、自分で何一つ決められず、いちいち母親にうかがいをたてないと、なにも手をつけない子です。神経質の場合は後者の傾向が強いと思います。田中喜美子さんによると、これは0歳の時の母親と子どもの関係にあるという。0歳児は可愛いばかりでどんな欲求もかなえてあげるという母親が多いと思います。それに対して田中さんは、0歳のときにすべての要求をかなえられて育つ赤ちゃんは、7か月から8カ月になると、もう「この世は自分を中心にまわっている」と思い込んでしまいます。「この世で僕は、私は、なんでも思う通りにできる王様、女王様なんだ」という「全能感」を持ってしまうのです。こうして育った子が歩きはじめるようになります。1歳を過ぎると、どんなに叩いても、どなってもいうことを聞かない子になってしまいます。するとしだいに、母親はカッとなって叱りつけたり、つき放したり、ごまかしたり、脅かしたりするようになるのです。今まで子育てというと、子どもを甘やかせることと、子どもとのスキンシップばかりが優先されてきました。でも子育てで大切なのは、スキンシップと同時に、しつけや「この世には自分の思い通りにならないことがあるのだ」ということを覚えさせることなのです。そのバランスをとりながら子どもと接することが大切です。ここでも森田の調和、バランスということがでてきます。
2013.10.12
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さあこれから一家で親戚の結婚式に出かけようとしている時に、4歳ぐらいの子がはしゃぎすぎて家の前の泥水の中で転んでしまいました。服がビチャビチャです。身体は泥だらけです。もう時間がありません。こんな時あなたなら子供になんて言いますか。「何をしてるの。全くもうダメな子ね」「いつも調子にのないのよ。ほんとに困るのよ」等ではないでしょうか。出発時間が遅れたことに苛立ちながら、子供を家の中に引っ張ってゆき、風呂場で身体を洗い、荒々しく着替えをさせるのではないでしょうか。こうすると子供にはお母さんの叱責だけが残ってしまいます。自信をなくしてしまいます。自分のことを自分でするという自主性は育ちません。依存心が強くなります。こんな時、怒り心頭のままこういってみてはどうでしょう。「家で新しい服に着替えてらっしゃい。身体もお風呂で洗うのよ。お母さんは荷物を車に運んでいるから」着替えを自分でさせている子は、家の中に入り、自分で身体を洗い、服を着替えてでてくるでしょう。少々残った汚れはふきとってやればよいのです。この体験で、今後水たまりは気をつけるようになるでしょう。また自分のことは自分でするという自立心も育つのではないでしょうか。ちょっとした違いですが、子供の成長にかかわる大きな違いです。この違いを学習するのが森田理論です。
2013.10.12
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私は今「獅子舞い」を月一回1時間習っている。授業料は2カ月に一回焼酎1本である。安くて申し訳ない。生徒は5人いるが一番ましなほうだとうぬぼれている。師匠は奉納獅子舞いをする実力者である。今はぎっくり腰で休んでおられる。私はまだ初心者なので、「あなたのは獅子舞いではなく、まだ獅子踊りの段階だ」と言われている。胸かみ、山越し、ミカンのつかみ食い、居眠りなどの練習をしている。本番でやらないと本気にならないので、今月は初めて公開公演を2つこなすことにした。難しいのはお囃子に合わせることだ。これはまだ十分でない。獅子頭はよいものが手に入った。普通はいいものは30万円ぐらいするのだが、友達のよしみでビール1ケースで立派なものを作っていただいた。これは私の口から言うのも変だか申し分のない獅子頭だ。迫力がある。耳が立つ。耳がよく動く。私は集談会で出会う人にいつも一人一芸を勧めている。いろんな特技を持っている人は多いが、公開することろまでいっている人が少ない。残念だ。また楽器などできる人が多いのだが、老人ホームの慰問などしている人は少ない。私は森田先生のまねをするにあたっては、森田先生の一人一芸から入って行った。もっとも森田先生は2芸も3芸も持っておられたようである。一人一芸を身につけて公開すると、みんなに喜ばれる。自分も目標が持てて生活に張りがでてくる。健康的な生活になる。などの利点がある。いつか生活の発見会で大々的なかくし芸大会を企画したいものである。1年も一つの芸事に取り組めば、人を感動させることができるのではなかろうか。
2013.10.11
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今日今まで1回もNHK受信料を払ったことがないという人がいた。テレビを持っていない人はいないわけだから、相当なつわものである。その人が言うにはNHKは見たい番組がないという。見るのはプロ野球ぐらいだという。それでは払いたくないのもよく分かった。NHKには民放にはない優れた番組も多い。プロフェショナル、NHKスペシャル、アスリート魂とか見たことがないのかというと、そんな番組があることさえ知らないという。相撲などもほとんど見ないらしい。どんな番組を見ているのか聞いてみた。ほとんどバラエティ番組だった。サスペンスもよく見ているようだった。格闘技もよく見るそうだ。ボクシングなどである。私はバラエティ番組を見ると頭が痛くなる。なんでこんな番組が電波を使って飛ばす必要があるのかと思ってしまう。でも人それぞれだから仕方ないかなと思った。一致したのはコント番組だった。私も好きだ。文句なしにおもしろい。私は録画してあとで見ることが多い。これも賛否両論あることを知っている。子供にこれを覚えさせると、同じ番組を何回も見るそうだ。また、いつでも好きな番組を見れるという気持ちにさせるらしい。私はテレビの分野で、まだ誰も手をつけていないことで、必ず需要がある仕事があると思っている。今まで放映されたテレビ番組で、見たい番組を安価でダウロードして見れる仕事である。ジャンル別に分けて希望の番組を選ぶ。今でも新聞などで宣伝されるが高すぎる。種類が少なすぎる。などの問題がある。そんなサービスが開始されれば、私はぜひ見たい番組がある。「人体の仕組み」「宇宙の起源」「生命の誕生」「健康の秘訣」「人間関係のコツ」「子供のしつけと育て方」「加工食品の作り方」「自給自足の生活」などである。これまでの多くのいい番組がある。人類の宝だ。これらを活かさない手はないと思うのである。きっとこの先誰かが手掛けると思う。期待して待っているのである。
2013.10.11
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神経症というのは誰にでもあるような一つのことにとらわれて、日常生活が滞るという症状である。現在脳生理学が発達していて、脳の機能の立場から説明できるという。有田秀穂氏の「セロトニン欠乏脳」から見てみたい。私たちは絶えず外界からの刺激を受けて生きています。目からの視覚情報、耳からの聴覚情報、皮膚からの触角、痛覚など、いわゆる五感からさまざまな入力を受けて生活しています。多くの感覚入力は、注意されずに捨て去られているそうです。いちいち記憶しておいては脳の記憶容量がすぐパンクしてしまいます。そこで身体の危険を告げる感覚入力や、おやっと好奇心をそそられる入力に対しては、注意が向けられ、一時的に記憶情報として海馬というところに蓄えられます。それ以外のものは受け流すようになっています。特に生命の危険に結びつかないような入力情報は、どんどん捨て去られているのです。記憶容量が満杯にならないように、記憶すべきもの、捨て去るものを選別している神経伝達物質があります。それがセロトニンというよく知られた神経伝達物質です。記憶という面ではセロトニンは不要な情報を捨て去るというふうに作用しています。ところが我々のようにとらわれやすい人は、本来捨て去るべき情報を捨て去ることができない状態になっているそうです。つまりセロトニンが少ないために、選別機能が働いていないのです。これは我々だけではありません。特にうつ病、うつ状態で苦しんでいる人もそうです。また最近子供たちがよくキレるという現象があります。普段はおとなしい子供が、ちょっとしたきっかけでキレてしまい、暴言を吐いたり暴力をふるったりするのです。その子供たちもセロトニンが少ないのです。だからセロトニンというのは大切な物質です。なぜ少なくなるのかというとストレスなどの他に、普段の生活習慣がおおいに影響しているそうです。今の子どもたちは、テレビゲーム、ビデオ、パソコンなど一人きりで、しかも家で楽しめる娯楽がたくさんあります。それらに夜遅くまでかかわり、昼夜逆転現象がおきています。マンションなどでは、夏休みなどでも子供たちは全く家からでてきません。でるのは買い物に行く時ぐらいです。家の中でずっと一人で過ごしているというのは考えてみると空恐ろしいことです。太陽はセロトニン神経を活性化してくれるのですが、その恩恵を忘れて家に閉じこもりがちな生活はセロトニンが悲鳴を上げます。最近はSSRIがよく効くといいますが、元々セロトニンは普通に生活していれば人間の体の中で作られるものです。薬で調整するというのは副作用もありますし、本末転倒だと思います。一時的に頼ったとしても、根本は生活態度の改善にあります。
2013.10.11
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やりたいことが見つかるまでアルバイトなどで食いつないだり、親の援助で生きていく人のことをモラトリアム人間というそうだ。決して悪いことではない。ヨーロッパなどでは1年2年と自分のやりたいことを見つけるまで旅に出たり、いろんな仕事を経験する時間が認知されているという。日本でも大学へ進学する人は、自由に遊んだり、勉強したり、旅行したりする猶予期間になっている人もいる。ただ30歳を過ぎても40歳を過ぎてもまだ自分のすすむべき道が見つからないというのはどういうことだろうか。この人たちは森田の言う「ものそのものになりきる」という経験はされているだろうか。やりたいことを見つけるために、最も確実な方法は、「ものそのものになりきる」ということだ。これはそんなに難しいことではない。今やっている仕事、勉強、日常茶飯事に義務的に取り組むのではなく、一心不乱に取り組んでみることだ。寝食を忘れるくらいな気持ちで取り組むことです。和田重正さんという人がおっしゃていました。毎日毎日退屈だという人を見てごらん。やるべきことを、これは大切なこと、これは意味のないことと選別している。大切なことはどこから手をつけていいのか分からない。意味のないことはやる気が起こらない。結局手足を動かそうとしていないのだ。そして退屈で苦しいといっている。森田先生は風呂を焚くときは風呂焚きに、ご飯を炊くときは飯炊きになりきるとおっしゃっています。入院生がびっくりするほどの工夫をし、ノウハウを会得されていました。「ものそのものになりきる」と必ず「感じ」がでてきます。これが重要です。そして感じがさらに高まってきます。気付きや工夫が発生します。興味がでてきて積極的な行動につながります。これがポイントです。自分のすすむべき道は、この生活態度を続ける中で見つけることができます。森田では「境遇に柔順なれ」といっています。
2013.10.10
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海洋冒険家の白石康次郎さんの本から森田と関係のある言葉を紹介したい。「夢って育つものなのです。一つかなえれば次の夢、次の夢をかなえればまた、その次の夢が生まれます。僕はいつも、素直にその夢を追いかけているだけです。」森田でいう生の欲望の発揮は弾みがつくことを言われています。集談会で私は欲望なんて何にもないという人がいます。なにもやりたいという感じがでてこないといわれるのです。これは症状によって神経が過度に敏感になり、生の欲望に振り向ける余裕がなくなっているのだと思います。神経質性格を持っている人であれば、症状から遠ざかるにつれて生の欲望がむらむらと高まってくるものと考えられます。我々神経質者は普通の人よりも、元々強い欲望をもっています。いったん生の欲望に火がつけば1段ロケットが燃え尽きれば、次に2段ロケットの点火というふうに弾みがついてくるものだと思います。生の欲望で大切なことが一つあります。「過ぎたるは及ばざるがごとしです」経済的にも、精神的にも満ちたりた生活が続いていると、生の欲望はどんどん衰えていくという関係にあります。お金には不自由した経験がない、現在も不自由していない。心に悩みなどを抱えて苦しんだ経験を持たない、今も心の悩みとは無縁である。一見うらやましそうに見えるこの状態はとても危険な兆候を示しています。満ち足りていると欲望という感情は湧き起ってきません。するとそれに対応する行動も縮小再生産されることになります。だから絶えず小さな不安、違和感、問題、イライラ感を抱えているということはとても大切なことです。それは我々が生きていくための貴重な食料とともに、心の食料となるものです。心の食料が継続的に補給されないと、我々はまともに生きていくことができないのです。そのためにはせめて物質的な欲望を手放しに追い求めることは慎みたいと思います。むしろ必要最低限の欲望に抑制していくという生活態度を身につけることが大切です。ここにもバランス感覚を前面に出して生活するということです。調和がとれていれば破綻することなく、継続できます。そこに「生の欲望」が健全に育つ糸口があります。
2013.10.09
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