全51件 (51件中 1-50件目)
断捨離という言葉がある。ダンシャリと呼ぶ。2010年の流行語に選ばれた言葉である。断とは、入ってくる要らないものを断つ。捨とは、家にずっとある要らないものを捨てる。離とは、物への執着から離れる。ということです。それを生活指針にしている人のことを、ダンシャリアンというそうです。森田理論の関連で考えてみよう。神経質者は心配性である。心配性はちょっとしたなんでもないようなことが気になる。そんなことは気にしなければもっと自由に生きられるのではないかとつい思いがちです。私は反対に、心配性はとてもよい性格だと認識しています。小さいことが気にならない人は仕事でも、芸術の分野でも大成することはできないと思っています。小さいことが気になる人は、そのおかげできめ細かい準備をする事ができます。仕事がスムーズに進み、人への配慮が行き届いて感謝されることもあります。心配性というのは、言葉を変えれば感受性がとても強いということです。神経質性格を活かして仕事や対人関係に活かしていこうと思えば、もっともっと感受性を強めていくべきだと思います。その時に役立つのが「断捨離」という考え方です。物欲などの欲望をできるだけ抑えていけば、感受性はまだまだ強化することができます。それに沿って生活すれば神経質性格はどんどん活かすことができます。「断捨離」という考え方をぜひ生活に取り入れてみませんか。
2013.07.31
コメント(0)
柿原美恵さんという入院生のお話です。ある晩、森田先生がまだお帰りになっていないのを知らないで、誰か門に鍵をかけてしまったらしい。疲れてお帰りになったろうに、締め出された先生はさぞ気分の悪いことだろうと思ってお顔を見ると、けろっとしておいでになった。そして、「人は癪にさわるようでなければいけない。癪に障る人は、気概のある人であり、気概のない人は駄目である」とおっしゃった。私は従来、癪にさわることの多い質で、自分で困ったことに思っていたので、この時少し不審な気がした。それにしても先生は少しも癪に障った顔をなさっていなかったからです。面白い話です。柿原さんはきっと癪にさわったら、そのまま態度に出されるのではないかと思われたのです。森田先生は、癪にさわるという不快な感情は、態度に出そうになる寸前まで高めたほうがよい。どんなにイヤな感情でも決して押さえつけたりしてはいけない。自然に湧き起こったままの感情はそのままにしておくしか方法はない。でもそれを態度にあらわしてはいけない。感情と行動は別ということだ。神経症の人は感情を抑えてから行動に移ろうとしてしまいます。これはやってはいけないこと。そのままにしていれば、その癪に障った感情はすっと流して行ってしまう。感情の法則の通りになります。
2013.07.31
コメント(0)
生活の発見誌平成25年8月号より。集談会で雑談が苦手という話をよく聞く。雑談というのはもともとどうでもいい話。意味のない話。目的のない話。価値のない話。役に立たない話。いい加減な話。面白い話。スキャンダラスな話。面白半分の話である。責任を負わなくてもよい話。まとまりのない話。気のおけない話である。つまり親しい人とリラックスして、相手をけなしたり、自分がけなされたりして、たわいのない話をすることである。もともと楽しい会話のはずであるが、神経質者にかかると反対になる。むしろかしこまった話の方がやりやすい。将来を左右するような話。契約の話。賛成か反対か意思表示を求めるような話。会議での発言。仕事上の話。交渉事。利害が絡んだ話。普通の人はこちらの話の方が難儀をする。私もそうだか、なぜなんだろうか。どうして普通の人と反対になるのだろう。答えは生活の発見誌の中に書いてあります。苦しみの最中にある人は、認められたい、拒絶されたくないという欲望が強すぎる。雑談には相手の本音の断片が否応なしに入ってきます。自分が相手に認められたいという強い願望とは反対に、つらい現実に直面してしまうことになるのです。また他人は自分勝手に不機嫌にもなりますので、我々にしてみれば拒絶されたと勘違いしてしまうかもしれません。自分が症状で苦しんでいる時は相手に不快感を与えるというのが恐怖につながるのかもしれません。私流にもっと分かりやすくいえば、私たちは自分を守ることに汲々としているのだと思う。人からよく思われたいという気持ちが強すぎて、自分の弱みや欠点、ミスや失敗をつまびらかにすることができないのである。雑談の場は、強みや長所、幸運や成功の話よりは、弱みや欠点、ミスや失敗がよく似合う。すると我々は、いつとばっちりが自分にくるかも分からない。そうした場を避けるのである。嘘だと思うなら、他人の雑談を耳を澄まして聴いてみるがよい。相手をこき下ろしたり、自分がこき下ろされたりしても、それをネタにして楽しむ余裕がある人たちである。自分を守る必要なんて考えもしない人たちなのである。なんとうらやましい人たちなのだろう。この問題を森田ではどう考えたらよいのか。人からよく思われたいという欲望が人一倍強い人間だと認めることだと思う。否定したり、卑下する必要は全くない。その強い欲望の裏返しとして、雑談の場を避けているのである。森田ではこういう場合、人からよく思われたいという欲望にしたがって、「生の欲望」を発揮してゆきなさいといっています。雑談の場を避けている自分を否定していてはなにも問題は解決しません。欲望に従って行動することしかありません。
2013.07.30
コメント(0)
生活の発見誌の平成25年8月号柿原美恵さんの記事より。柿原さんは小学校の先生をされていました。小学校の2年生を担当したときのこと。森田先生から、「柿原さん、子供に勉強せよといわない方がいいよ」といわれました。柿原さんは勉強しなさいといわないで勉強させるにはどうしたらよいだろうと考えました。まず生徒の学力を知ることから始められました。小学校1年を修了していれば20以下の数字は理解していなければならないのに、1+1=2までの数の概念しか持っていない子がいた。そういう子を集めて放課後に教えてみることにした。するとその子たちの能力に応じて教えてやれば、骨が折れても嫌がらずに、喜んでついてきてくれた。もともと勉強ができるようになりたいという気持ちを持っていたのだ。このような子どもたちに教えることはとても骨の折れることであった。でも子どもたちは帰ろうとしなかった。少しずつでも、覚えられてきたことが、よほどうれしい様子で、顔つきまで生き生きとしてきた。柿原先生は、子供たちを勉強に導くコツは、勉強すること、知ること、覚えることに対して生徒自らが喜びを発見していくこと、実感していくことではないだろうか、といわれています。素晴らしい教育ですね。勉強しなさいという前に、最初はイヤイヤでも、仕方なく手をつけていると、そのうちしだいに理解が進み、勉強に興味がでてくる。先生はその子の能力を判断して、その子の能力にあった問題を与えて、教えたり、見守るということでしょうか。分からせるのではなくその子がいかに興味を持っていくのか、刺激を与えるということでしょうか。ただ知識を与えるのではなく、自主性を持たせるというのが教育かもしれません。私の経験でも、そういう先生は歳をとってもいつもなつかしく忘れがたく感謝の念が湧いてきます。
2013.07.30
コメント(0)
生活の発見会ではただ今キャンペーンとして、入会された方に入会金無料、どこかの集談会の会員の紹介があれば年会費1万円だけで会員になれるキャンペーンを行っています。会員になれば「生活の発見」という機関紙が12冊送られてきます。8月号をほぼ読み終えましたが、今月号は特に読み応えがありました。これから投稿してゆきたいと思っています。投稿原稿が5つぐらい書けそうです。森田を学習したい人はぜひ読んでもらいたいです。
2013.07.30
コメント(0)
森田先生の話に人が自分をどう扱ったかということを気にするよりも、少々間抜けと思われても人の役に立つことをしなさいというのがあります。これは絶えず日常生活の中で人の役に立つことを見つけて実践することですが、これに少し工夫を加えると、自分のファンを増やし、人にささやかな感動を与えることができます。これはものそのものにならないと、そうした発見はできないと思います。ではどうすればよいのか。ある人はビンビールを酒屋に頼んで配達してもらっていました。配達されてきたビールケースを見てびっくりしました。そのうちの2本ビンビールの栓に、何やらシールが貼ってあるのです。見ると「冷えてます」というシールでした。お客さんがすぐにでも冷えたビールが飲めるように店で冷やしたビールを二本入れていたのです。運んでもらった人は感激です。夕食によく冷えたビールを飲めるからです。配達以上のこのようなサービスがあろうとは全く思ってもいなかったのです。それからは事あるごとに、この感激した話を隣近所でした為、その酒屋のよいうわさが広まったということです。相手が自分のファンになり、感激してくれるためには、ありきたりのサービスでは難しいと思います。ちょっとした予想外のサプライズが、相手にインパクトを与えるのです。それが商品として売られているものでは、当たり前のことを当たり前にするサーヒースは、当然のサービスだと思います。当然のサービスでは自分のファンになったり、相手に感動を与えることはありません。反対に当然のサービスが得られないと、嫌悪感が湧き二度とその商品やお店に足を向けることはないでしょう。一工夫が付け加わってこそ効果があります。少し意識して実行してみれば可能となります。相手が喜んでくれれば、自分もうれしいし、自信にもなります。人の思惑が気になる人は、こうしたことに意識を向けて生活すれば、自分の内にばかり向いていた注意が外向きになり、症状から脱出の決め手となります。
2013.07.30
コメント(0)
私は数字にとらわれます。4とか9という数字が気になります。それは「死」や「苦」を連想させるからです。ホテルでも4番や9番の番号を飛ばして番号付けをしていることもあります。その他にも11という数字が嫌いです。家族の不幸な出来事は11月や11日に起きていることが多いと気がついたからです。またニューヨークの貿易センタービルのテロ、最近の日本の大きな地震は11日に起きていることにも気がついたのです。一旦気になりだしたら止まりません。いいも悪いもないのです。車の番号で気になって、どうしてもつけたくない番号があります。4219、3396、4989です。「死に行く」、「散々苦労する」、「四苦八苦」と重なるからです。以前は気にしていませんでした。ところが友人からそんな話を聞いた途端とても気になり、すれ違う車がどんな番号をつけているのか気になりだしたのです。野球選手でもゲンを担いで球場入りする時は、必ずこの道を通る。投球の前日は必ず「とんかつ」を食べている。等とインタービューに答えている人もいます。森田ではどう考えるのでしようか。とらわれる時はとらわれたらよいと学習しています。この場合もとらわれ続けるしかないと思います。折に触れて目にすると気になります。気にしないで「なすべきをなせばよい」といいます。でも気にしないようにするために「なすべきをなす」というのは却って気になるものです。私はこの手のものは、気になるものは気にして避けたらよいのではないか。と思っています。イヤなもの、イヤなことを回避しているのです。人に迷惑をかけたりしないことや今後の生活に支障が起きないことには近づかないのです。森田では「迷った時はイエスと答える」というのがあるのですが、どうもこれではうまくいかないのです。この前にも以前の会社のOB会に招待されました。私は行きたくありませんでした。欠席のハガキを出しました。逃げて後ろめたいという気持ちも少しありましたが、自分の気持ちを大事にしました。行けば楽しい語らいがあるかもしれません。でも参加しなくても人に多大な迷惑をかけるわけではない、将来の生活に影響があるわけではない。そうゆう時は自分の気持優先で一向に構わないのではないかと思っている次第です。その間自分の充実した生活を心がけたいと思います。
2013.07.29
コメント(0)
長所は短所、短所は長所にすぐに変化することがある。2000年初め、アメリカでパソコンを扱うデルはコンパックを抜いて、全米ナンバーワンのコンピューター・メーカーとなった。それはデルが、インターネットで客の注文を受けて、好みに合わせてカスタマイズして生産販売するという生産受注システムを作り上げたからだ。これによって他社よりはるかに安く作ることができるようになった。在庫は抱えない、流通コスト、小売りのコストは最低限に抑えることができるようになった。他社は確固たる販売チャネルを確立していた。これが経費を抑えることができない最大のネックになったのだ。過去の長所が最大の短所に変化してきたのだ。最初ネット販売が始まったころは、デルは販売チャネルがないので見向きもされなかった。しかしその後急速に立場が逆になった。既存の販売チャネルは重荷となってきたのである。今や流通や小売りの中間経費の存在が、その会社の存続を左右するようになったのである。今や過去の強みは、現在最大の弱み。最大のネックとなり、一旦つぶして再構築しないと立ち行かないほどの問題を抱えているのである。日本にもジャバネット・タカタという会社がそうである。通販だけでテレビ宣伝をおこなうほどの急成長した会社になっている。ネットバンキングというのがある。24時間、日祭日も営業している。このスタイルが確立してくると大銀行の既存の支店や従業員は一転してお荷物となるのである。そうゆう変化流動の社会になっているのである。我々はこの変化から学んでゆこう。こうしてみると欠点だと思っていることに、とらわれて気にする事はない。欠点は見方さえ変えれば、人にはない長所なのだ。欠点が大きければ大きいほど喜ぶべきことなのだ。つまり短所が大きければ、長所もそれだけ大きいものを持っているというふうにとらえるべきなのだ。短所や欠点は人にない宝の山が隠れていると認識するとよい。発想を変えるだけですぐにかけがえのない宝ものに早変わりする。現在の強みは、未来の弱み、現在の弱みは、未来の強みと捉えよう。
2013.07.29
コメント(0)
森田先生は目的を持って生きなさいとは一言も言っていません。でも私は目標を持って生きるということはとても大切なことだと思っています。生活の発見会でも「目的本位」という言葉が敬遠されています。それはそれでもいいのですが、以前あれほど「目的本位」で生きてゆきましょうと言っていたのに、急に方向転換されたのはなぜなんでしょうか。もし、方向転換されるのでしたら、それなりの明確な回答をいただきたいと思っています。森田先生はそんなことは一言も言っていません。森田理論の本質ではありません。というのはあまりにもお粗末のような気がします。私は反対に長谷川先生がよく話されていた次の話はどう考えられますかと、聞いてみたいと思います。フランクルの本で「夜と霧」という本があります。アウシュビッツの収容所の生活が書いてあります。過酷な収容所生活で生き残った人と死んでいった人の違いについて書いてあります。フランクル自身は、自分の将来のことを思い、愛する妻のことを思っていました。それが彼の命を支えたのです。また彼は、自殺を企てた二人の男を救っています。その一人には、彼の最愛の子どもが外国で彼を待っていることに、他の一人には科学者としての本のシリーズがまだ終わっていないことに注意を促し、かけがえのない存在として、生き続ける責任を自覚させたのです。自分の帰りを待っている仕事、首を長くして待っている最愛の人のことを思えば、どんなことがあっても生き抜かなくてはならない覚悟が生まれる。未来に希望があり、目的があり、目標があり、責任を感じている人は、どんな状況の中でも自分を捨てない。そういうものを持てなかった人はもろくも死んでいったのです。これと同じようなことを、元メンタルヘルス岡本記念財団会長岡本常男さんから、シベリア抑留中の話の中ででてきていました。生きがい療法の方々もその日一日を精いっぱい生き切る。目標を持って生きるということをとても大切にされています。私は今後ここでもっともっと目標を持って生きるということをアピールしてゆきたいと思っています。
2013.07.28
コメント(0)
一方の農業はどうか。安い食料品が入ってきて、高い工業製品を海外で売っていけば日本はまだまだ成長できると考えているのはあまりに短絡的だ。アメリカやオーストラリアの農家や穀物メジャーは、自分たちの作った食料を1円でも高く売りたいと血眼になって売り先を探しているのである。ところがそこに大きく立ちふさがって目の上のたんこぶになっているのが、関税障壁と各国の農業保護政策なのである。この二つを撤廃してもらわないと、自分たちの目指している最高の利潤を手にすることはできない。TPPによってその道筋が開かれようとしている。彼らのロビー活動がやっと実を結ぶ可能性がでてきたのだ。でもよく考えてほしい。食料は人間の生存に直接かかわる。いくら金を持っていても、相手が売れないといってしまえば、餓死して死ぬしかない。他に高く買ってくれるところがあれば、日本には回ってこない。ましてや中国やインドのような新興国が力をつけつつあるのだ。仮に日本に売ってくれるとしても、中国やインドなどと食料の争奪戦が始まり、高騰につぐ高騰を招く。ということは食料を自由に操作できる国は、そうでない国をいかようにも操作できるということである。つまり、経済、国防、政治、医療、文化にいたるまですべて自分のいいなりにしてしまうことである。日本は自分の主体性の基盤となる食料を持たなくなると、どんなに経済力があっても相手の言いなりになるしかない。主体性のない人が、どんなに葛藤を抱え苦しんできたことか、神経症に陥った人は身にしみているはずだ。また政府はTPPに参加しない品目交渉をおこなうという。そんなことは不可能だ。子供だましのようなことをよくいえるものだ。自分の都合のよいものだけは関税を撤廃して、都合の悪いものは関税をいままでどおりにかけることなど出来る筈もない。各国は日本が関税をかけたいものこそが、一番売り込みたいものだからだ。競争原理にさらされた日本の農業、特に米作農家は惨憺たる結果に終わるだろう。一旦は撤退を余儀なくされるかもしれない。すると、水田が破壊される、水利の施設が壊れる、米作りのノウハウが失われる、そしてトラクター、田植え機、乾燥機、コンバインの一戸当たり700万円から2000万円もする生産設備を失った日本農業が再生することはまず難しい。アメリカやオーストラリアの農家や穀物メジャーが狙っているのはここである。とくかく日本の農家の意欲をなくさせる。息消沈して再び立ち上がることの無いように徹底的につぶす。日本に主要な農産物は作らせないようにする。ここに彼らのねらいがあるということはよく考えておかないといけない。森田理論を学習した人は、TPPは人間の尊厳を踏みにじる反森田であるということを見抜いてほしいと思う。彼らの最大の利益を獲得するために、日本の国民の生きる力、意欲、主体性、自主性、積極性を骨抜きにしようとしているのである。
2013.07.28
コメント(0)
森田理論は一人一人の人間を大切にして、すべての人が自分の人生を活き活きと納得できる形で生きていく理論である。人間賛歌の理論なのである。ここに森田理論から見て放っておけない問題がある。日本のTPP参加問題である。医療と食料の問題を取り上げてみたい。まず医療。ここでの大きな問題は、「自由診療」というのが始まるということである。日本はご存じのように国民皆保険が当然のように思っておられると思うが、そんな国は世界では特殊である。アメリカは自由診療のため、健康保険制度はない。自分がそれぞれに民間の医療保険に加入して入院や病気に備えているのである。金持ちは手厚い医療を受けられる半面、貧乏人は相手にもされない。医療保険が高額で払えない人が多数いる。医療保険未加入者が多数いる。ガン難民という言葉があるが、アメリカは病気難民がいる。もしガンなどになって病院に入院したとしても、医療保険に入っていないと分かると、さっさと病院を追いだされてしまうのである。どんな重大な病気を持っていても虫けらのように追いだされるのである。血も涙もない。病院は社会慈善事業でやっているのではない。利潤の追求でやっているのだから当然だ。また金持ちであっても、民間の医療保険に加入しようすると、遺伝子検査を求められる。遺伝子検査というのは、遺伝子の配列を正常な人と比べることによって、将来病気のリスクを予測するものである。現在では結婚する時に受精卵の段階で子供の将来の可能性、能力、ガンや心臓などの病気の予測に使われているという。この制度はもう揺るぎようがないほど確立されている。とくにアメリカ、中国で力を入れている。そうなると医療保険会社は問題ありと判定された人とは保険契約を結ばないということになる。保険会社は自ら儲からないというリスクを負うことはない。困るのは異常と判定された人である。医療保険には入れない、病気にかかるリスクは高い。どうにもやりきれない。病院の経営にとっては、「自由診療」は自由に診察料、治療費、入院代を決めるわけですから、国が保険点数によって一律に料金を決めている治療よりは儲かるということになる。すると保険診療の分野を縮小または廃止して、「自由診療」専門の病院がでてくることが考えられる。自費で盲腸の手術20万円、心臓の手術1億円というのがでてくると、金のない人は医療難民となるのです。政府も今後の高齢化の進行により医療費の高騰には打つ手がない状態である。TPPというのは政府にとっても、将来国民皆保険をなし崩し的に崩壊させるまたとないチャンスなのである。詳しいことを知りたい人は、「貧困大国アメリカ」という本をぜひ読んでもらいたい。
2013.07.28
コメント(0)
森田ではその人やそのものの持っている「存在価値」というものを大事にします。しかし普通は、自分、他人、物を勝手に価値判断しています。そして人間にとって役に立つ利用価値があるかどうか、経済的にお金が儲かるかどうか、人から高い評価が得られるものかどうか。「利用価値」、「経済的価値」、「評価価値」でもって身の回りのものすべてを選別しているのです。次のような言葉があります。雑事、雑務、雑用、雑仕事、雑念、雑役、雑種、雑草、雑魚。これらはあまりよいイメージはありません。人間の勝手な選別の結果として、とるに足らないもの、無視してもよいもの、放っておいても支障のないもの、たいして役に立たないもの、金にならないもの、あると却って迷惑なもの、わずらわしいもの、適当に処分していいものとして認識しているものの総称です。でもそういう選別をおこない、ふるいにかけたものを無視したり、捨てたり、適当に扱うということになると、天に唾するようなもので必ず自分に報いが降りかかってきます。例えば家庭の炊事、掃除、洗濯、整理整頓、育児のような仕事を「雑事」とみなして軽視し、自分のやりたいことばかりやっていたとするとどうなるでしょうか。それらをいい加減にこなし、趣味や旅行、グルメ三昧の生活に軸足を置いていたとするとどうなるでしょうか。生きがいを喪失してしまうのです。楽しいことばかりやっているのに、重苦しい心のおりもののようなものがべったりと身体についたままいつまでもとれない。こうした実例は高齢者のお年寄りを見ればとてもよく理解できます。また「雑草」という言葉があります。本来自然界に「雑草」という植物はありません。「雑草」とは、人間にとって生きていては困るものとして認識されている植物群のことを言います。青森のリンゴ農家の木村さんは、夏に雑草を刈り取りません。周りの農家は訳もなく雑草を刈り取ります。除草剤や草刈り機で刈り取ります。木村さんはそうすると、夏の地表温度が30度を超えてリンゴの木の根がやられるといいます。根がやられないためにみんな水の散布をおこないます。私はいろんな植物を生やしたままにしているので、地表温度は20度台の前半です。水やりは必要ありません。またマメ科の植物は窒素を固定してくれるので、肥料もやる必要もないのです。木村さんのリンゴ栽培では雑草というものはないのです。これこそ植物のもつ「存在価値」を見つけ出したということです。そしてその「存在価値」を極限まで活かしている例です。森田では雑事、雑用、雑仕事、雑草などといった考え方はしません。発想の出発点が全く違います。物にはどんなものにも「存在価値」がある。生きとし生けるものは意味もなく生きているのではない。必ず「存在価値」がある。その「存在価値」を見つけ出していくのが人間の使命である。「存在価値」を見つけたら、その価値を高めてゆく方向で考えてゆきます。こうゆう生き方は自己否定、他者否定から、自己肯定、他者肯定につながってゆきます。なんとも楽な生き方につながってゆきます。これは物の性を尽くす。人の性をつくす。己の性を尽くす。唯我独尊という考え方です。自分の「存在価値」を今一度洗い直していただきたいと思います。
2013.07.27
コメント(0)
今日の新聞に心理カウンセラー岩田明子さんの記事があった。なにごとにも意欲が持てず、おもしろいことがない。人に会うのが億劫。というシニア世代が増えているという。この人たちが認知症予備軍だという。感情の老化はやる気、創造性、感情をつかさどる脳の前頭葉の老化によっておこる。茂木健一郎氏によると前頭葉は使えば使うほど活性化してくるという。反対に使わないと、脳は必要ないとみなして廃用性萎縮が始まり認知症などになる。生き生きとした感情が衰えてくると、活動性が失われて、体全体の衰えにもつながるという。負の連鎖が引き起こされるのである。気持ちを若々しくする一番の方法は、「自分の心が弾み、ハートが熱くなる趣味の対象を見つける。やりたいことをやってみる」利害関係がなく、効率を求めず、時間を忘れて熱中できるような趣味が最適だといわれている。また自分の硬直した思考や気持ちをほぐすため、好奇心を持ってこれまでと違うことに挑み、新しい人々と交流するのもよさそう。やる気を出すには体を動かすのもお勧めという。こうしてみると森田を続けている人は、認知症などはあまり気にしなくてもよいのかなと思う。
2013.07.26
コメント(0)
高良先生のお話です。人間正直であるべきだ。これは大切なことだ。だが次の例はどうだろう。人に会って、顔色の悪い人に、「あんた顔色が悪いね、ガンにでも罹っているんじゃないですか」特に医者が、正直ということにとらわれて、患者さんに対して、「あなたは生きてもせいぜい1カ月がいいところですね」等といっては困るわけです。これを題材にして「純な心」「感じ」から出発するということを考えてみよう。初一念は何だろう。息も絶え絶えの人をみると、「ああ、かわいそうに」「もっと生きたいだろうに」等ではなかろうか。それに基づいて行動すればよいのだ。側についていてあげる。当然いたわりのことばもでてくる。少しでも心が和むように、花を飾る。何か食べたいものはないか聞いてみる。好きだった本を聞いてみる。昔の写真を見たいか聞いてみる。などであろうか。次に初二念が湧いてくる。初二念はどんなものだろう。「この患者はもうながくはない。手を尽くしても意味がない」「だったらもう適当に治療しておけばよいか」「他の患者を診ていたほうが得だ」「あとは家族を呼んで家族に任せよう」などであろう。病院としては病室が開いた時の次の患者の手配を始める。家族は本人がまだ生きているのに、葬儀の段取り、遺産分割の話を持ち出す。これが初二念、初三念に基づく行動である。これは極端な例かもしれないが、二念、三念からの行動は、初一念の行動からは全くかけ離れてしまう。つまり心が目の前の人やそのものから離れて、言い訳や自己弁護、他者非難に移ってしまう。つまり第三者から見ると、とても非常識な言動に見えるのである。それは「かくあるべし」が前面に出てしまうからです。森田では二念、三念は無視する。いつも初一念を重視する。森田では「感じ」から出発すれば間違いは起こらない。「感じ」から出発して理知の力で調整して行動する。これが森田の主要テーマの一つである。
2013.07.26
コメント(0)
その人たちの仕事の取り組み方の特徴は、義務感でおこなっていると思う。自分から積極的にやっているのではなく、やらされているという感じが強い。いい例がある。ある刑務所でレンガ積みの仕事をさせた。一か所にきちんとレンガを積ませる。次にそのレンガを崩して100メートル先に運ばせる。そしてそこでまたレンガを積ませる。出来上がるとまた崩して、元の所に運ばせる。そこでまたレンガを積ませる。積み終わったらレンガを崩す。これを永遠に続けさせる。意味のない仕事である。自主性も積極性も何も生まれない。生まれるのは心身の病気である。もし自分のやっている仕事がこんな仕事だとすると、胃潰瘍などの体調不良、心の病を発症するだろう。この問題を森田理論ではどう考えるのか。森田でも最初の行動は、イヤイヤ、仕方なく、ボツボツとやることをすすめている。ところが、そうしてやり始めた仕事がいつまでも「お使い根性」ではいけないという。つまりいわれたから仕方なく仕事をするというのが、継続するというのはダメだといっている。せっかく手をつけるのだったら、少しだけ真剣に取り組んでみる。一心不乱になってみる。ものそのものになりきってみるというのである。最初は少しでもよい。そうすれば弾みがついてくる。その割合が増えてくればよい。ここが肝心なところである。大事なポイントである。例えばはたきで埃を落とす。言われたからいつまでも仕方なく、機械的にしていては進歩はない。少し真剣になれば、一か所にあるゴミをはたけば、部屋全体に埃がまき散らされることに気づく。すると、掃除機で吸い取った方がよいのではないか。あるいはテッシュやぬれ雑巾で拭きとろうかなどと考える。つまり最初はイヤイヤ始めた仕事でも、少し仕事に身を入れて、一心不乱になることによって、気がつくことがある。見つけられたことがある。新しい発見があるということだ。それに基づいて「感じ」が湧き起ってくる。こうしてみたい。むずかいかもしれないが挑戦してみたいなどの感情が起きる。それに手をつければ「感じ」がさらに高まる。これが自主的、積極的、生産的、創造的な行動へと発展してゆくのである。これこそが人間が活き活きと、自分の人生を生きていく道であると思う。森田の考えを取り入れて、仕事に取り組んでいくことをお勧めします。
2013.07.25
コメント(0)
みなさん仕事は何のためにされていますか。勝手に答えを推測すると、生活するため、お金を儲けるためという人が多いのではなかろうか。仕事はやりたくてやっているわけではない。だったら生活のため仕方なくやっているのだろうか。もし宝くじが当たる、親が死んで遺産が転がり込んできたら、仕事はやめるのだろうか。仕事を続けている人は、定時になれば早く家に帰りたい。家族と一緒に過ごしたい。酒を飲みたい。自分の好きなことをしたい。でも仕事が終わらなくて仕方なしに残業する。それもサービス残業という人も多いと思う。それは、はっきりいって苦痛です。だから若い方は、正社員になるのはパスするという人もいる。バイトやフリーターがいい。時間がくれば仕事が終わるからだ。さらに親と一緒に住んでいればお金はかからない。住居費、食費や光熱費は親が出してくれる。中には生活費の援助を受けて生活している人もいる。そして自分の本当にやりたいことが見つかるまで、つなぎの生活を続けるという。そのうち探しているうちに、自然に心が湧きたち、積極的になれる仕事があるはずだという。山のあなたの空遠く幸いすむと人のいう・・・。そんな感じで待っているのだろう。こんな人のことをモラトリアム人間というそうだ。でもそんな感じで30代、40代を迎えた人に明るい未来はやってくるのだろうか。でもそういう人たちの多くは、楽しく、充実した人生を送りたい。温かい家庭を持ってみたい。前向きな気持ちで成長してゆきたい。最大限に身体や心の機能を発揮して気持ちよく生きたい。何か大きなことに挑戦して達成感を味わいたい。という気持ちは持っていると思う。現実とのギャップを抱えてもんもんとされていると思う。
2013.07.25
コメント(0)
数年前にこんな事件があった。某テレビの監査役68歳が傷害の疑いで逮捕されたのである。この監査役は、打ち合わせのため繁華街で酒を飲みタクシーに乗って帰った。その途中バイパスで、危険防止のため、タクシーの運転手に後部座席のシートベルトの着用を求められた。注意されてかっとなった容疑者は、タクシーから降車後、運転手の右腕をつかみ引っ張るなどして、擦り傷を負わせた。その後車のドアなども蹴ったという。運転手が警察に通報したため、この事件は、全国放送の報道ステーションになどに取り上げられるまでにエスカレートした。社会的ステータスの高い人だったので、大きな事件として報道されましたが、私たちにとっても、腹がたったときよくありがちなことで、他人事ではないように思います。これを題材にして、「純な心」「感じ」から出発する事はどういうことかを考えてみたい。運転手の言い方が悪かったのか、監査役の人が腹が立ったというのは、自然現象としてごく当たり前のことである。これは森田でいう初一念である。腹が立てば「うむ、どうしてやろうか」仕返しの方法を考えればよいのだ。次にこの人に第二念の感情が湧いてきた。多分この人はステータスの高い人で、プライドの高い人だから、「俺を誰だと思っているんだ。バカにするのもいいかげんにしろ」などという気持ちになったのだろうと推察する。それも自然な感情だから問題にはならない。問題はこの先にある。森田では初一念、直観、最初に沸き起こった感情から対応しなさいと言っています。二念、三念の感情は、他者否定、自己否定、言い訳、責任転嫁などの「かくあるべし」を含んでおり、そこから出発するとその後に問題を発生させ、収拾がつかなくなる、といっています。私は分かりやすく、二念、三念は無視することにしている。ここが肝心なのだ。これを無視せずに失敗する人が後を絶たない。残念だ。もっとも「純な心」が明快に説明されていなかったので仕方ないのかと思う。監査役の、その後の行動をみれば一目瞭然、二念、三念で対応して失敗したのです。テレビ局の監査役にまで上り詰めたような人だから、素晴らしい面も持ち合わせていただろう。ちょっとしたボタンの掛け違いが起きたのだと思う。もし初一念から出発したとなるとどうなっていただろう。腹立たしさがどんどん膨らみ、不快な気持ちでやりきれなくなったことだろう。それはどうすることもできない。殴りかかる寸前まで感情が高まっていくことが多いが、そのままに受け入れていくほかない。その怒りの感情は、感情の法則が示す通り一山登って必ず下る。問題はその間どうするか。私ならなんとか仕返しをしてやろうと工夫する。会社に訴えてやろう。そのためにはタクシー会社名、運転手の氏名、降りてから車のナンバーを確認することを考える。そしてメモしておく。興奮治まらぬまま家に帰る。でも酔っぱらってのことだから一晩は置いてみる。朝になる。まだ腹が立っているようなら、それはこちらに訴えるだけの理由がある。会社に電話してもよいと思う。でもこのての事件は、自分の方でほとんどかたがついている問題である。「純な心」「感じ」から出発するというのはこのことなのである。難しいことではないと思う。これは森田では、皿を落として割った話、うさぎが犬にかみ殺された話がよく例に出されるが、私はそれ以外の例を持ち出して何回も説明したいと思う。
2013.07.24
コメント(0)
森田先生はよく修養という言葉を使われました。修養というのは「実行によって精神の動きや働きを体得すること」といわれています。ですから集談会で森田理論学習をして観念的に理解しただけというのは修養したとはいいません。森田先生は実際を離れてはいけない。逆にいえば森田理論を知らなくてもよい。入院生に対して自分の指導する内容に従えば約40日で治る。理屈を言う前に実行、実践を強調されました。森田理論はその後著作などを読んで後付けしてゆけばよいと考えられていたのではないかと思います。現在ではその方法はとても難しい。まず森田先生や水谷先生のような先導者がいない。我々の場合はやはり森田理論の学習から入り、まず原理原則を学ぶ。次に森田理論に沿って修養していく。つまり森田理論を血肉化していくということです。その流れに沿って考えると、学習は一通りみんながよくしていると思う。ただ心配なのはやみくもに手あたりしだい学習して、全体の枠組みが分からずに学習していたことである。これは森田理論全体像の学習を、学習の基本にそえたことで解決がついたと思う。問題はこれで終わってしまっていることである。次の修養の段階に入っている人が非常に少ない。何人かはその域に達している人を知っている。「森田の達人」ともいえる人たちである。そういう人に会うと、とても崇高な人に出会ったような驚きを隠せない。森田理論をどうやって血肉化してきたのだろうととても興味が尽きない。私は研修会用にいま冊子を作っている。その中に血肉化のポイントをあげているので項目だけ紹介したい。以下のことを体得するとかなり修養のすすんだ人ということになる。全部でなくてもよい。私は「ものそのものになりきる」と「物の性を尽くす」の2つだけを愚直に実践して「森田の達人」の域に達した人を身近にみている。うらやましい人生を送られておられる方である。1、 実践力、行動力を身につける。2、 無所住心の態度を身につける3、 生活にリズム感をつける4、 バランス感覚を身につける5、 変化対応力を身につける6、 人の思惑より、まず自分の「生の欲望」の発揮を優先する7、 自分、人、物の価値や能力を最大限に引き出す8、 常に「純な心」「感じ」から出発する9、 不安に学んで、「生の欲望」との調和を図る10、 事実を受け入れ、事実に服従する11、 ありのままの自分を磨きあげる12、 他人の仕打ち、欠点、ミス、失敗を許す13、 立ち直った人の生活を真似てみる詳しい内容は折に触れて、今後発信してゆきたいと思っています。
2013.07.24
コメント(0)
平井信義さんがこんなことを言われています。子供の人格形成においては、自発性と自己統制の能力がともに発達することによって、自主性がある人間になる。自主性とは、自分で考えて、自分のしたいことを選び出し(自己の課題の選択と発見)、そして他人に頼らないで活動する(自己実現)の力です。この力が発達するためには、何よりも好奇心のさかんな子供にする必要がありますし、好奇心がさかんになれば、いきいきと意欲的に活動を展開するものです。それには、子供を「自由な状況に置く」ことが絶対に必要です。そのためには親は、少々子供が危なっかしいことをしても黙ってみていることです。少々のけがや子供の喧嘩は親がでる幕ではありません。これは大事なことです。しかしながら、自発性のみが発達すると放縦児が作られます。自発性のある子のどこがいけないのかという意見が聞こえてきそうです。子供を放任すれば、子供には「自由」が与えられるわけですが、放縦児になってしまうのは、自発性ばかりが発達した結果です。どちらかというと甘えかしによって、我慢するという自己統制能力が欠如しているのです。そこで、自己統制の能力を育てることがどうしても必要です。自己統制とは、自発性にもとづいて、自分の力で自分の言動を統制することですから、親や教師に強制的にしつけられて鋳型にはまった状態とは正反対です。どうですか。森田の欲望と不安の考え方がよく似ていますね。自発性とは森田では「生の欲望の発揮」といいます。自己統制とは森田では不安による「生の欲望の暴走の制御機能」のことを言います。森田では自己統制の能力は、人間に自然に備わっている能力だとみなしています。神経症の場合は自己統制の力が過大になって前面に出てしまっている。つまりうまくバランスをとるべきなのに、釣り合いがとれずに破綻しているわけです。「生の欲望の発揮」、「不安へのとらわれ」のどちらにも偏ってはいけない。森田では、時と場合に応じて、二つのバランスをとって生活をする事が人間が生きるまっとうな道だと教えてくれています。生の欲望の発揮には好奇心が旺盛であるということがとても大切です。神経症に陥る人はもともと好奇心旺盛です。そうゆう素質を持っています。あとは経済的に許される範囲で、時間的に許される範囲で積極的果敢に挑戦していくことです。集談会で他の人の趣味などを聴いているととても心躍らせるものがあります。神経症の人がバランスを取り戻すにはまさに「生の欲望」の発揮に力を入れることなのです。
2013.07.23
コメント(0)
これは難しい問題である。森田先生は性格の面から、神経質同士の結婚はよくないという。神経質同士は、お互いに心持が分かり、心の底まで見通しているから、互いにその欠点を挙げあって、相手ばかりにそれを改良させようとする。グジグシといつまでも、しつこく言い争いをする。またヒステリー同士でもいけない。喧嘩が早くて始末におえない。およそ結婚は、気質の異なった人が、うまく組み合わされるとよい。神経質の人は、気の軽い大まかな人と結婚するのがよい。すると気の軽い人は、あの人はどうせ気難しがり屋だからといって大目に許し、また神経質の方では、どうせあれには、難しいことをいっても分からないといって、あまりやかましくはいわなくなる。お互いに許し合うから円満になる。結婚については、最も大事なことは調和ということです。磁石のプラスとマイナスとひっつけるとたしかに力づくで離そうと思ってもひっついてしまう。反対にどんなに大恋愛をしても、その性格がプラスとプラスだったり、マイナスとマイナスの組み合わせだったりするとしばらくすると分かれる運命にあるのが多いようだ。まあ、子供ができるとそうそう分かれることもできないのだが。私の感じでは相性を一番に考えるのはいかがなものかと思う。相性が反対なのが刺激があって、バランスが取れていい面もあるし、反面意見が合わずに喧嘩になることもある。でも発見会の会員同士で結婚してうまくいっている例もあるのだ。神経質同士だ。でもうまくいっている人も現実にいる。そもそも実際最初に結婚するときは、相手を選別するとかいう落ち着いた心境にあるのだろうか。目の前に現れた人が、自分に好意を持ってくれていればそれで御の字。結婚したい人は後先考えずに結婚しているのではなかろうか。私はそれでいいと思っている。あまりにも結婚相手に完全を求めると、結婚後しばらくすると神経質者の場合、相手の欠点がすごく気になると思う。別れたいと思うことがたびたびあった。今は60点の相手ならよしとしたほうがよいと思う。完全主義は息が詰まる。それと神経質な人は、相手と一日中一緒の生活は避けたほうがよいと思う。それぞれの仕事、趣味、生活スタイルを築きそれぞれに好きなことを精いっぱいやっている。でも家事や育児、食事、家計のやりくりはお互いに相談して分担する。というスタイルがいいと思う。助け合うときは助け合い、そうでないときはお互いあまり干渉しないで、自由にのびのびと自分の好きなことをする。私はこれでやってきたし、これからもこれを踏襲したい。この意見は多分反発する人も多いだろう。「人生の楽園」といういい番組がある。でも番組を見ていると、いつも仲の良い夫婦が二人三脚で生活されている。私にはまねができないし、息が詰まるのである。
2013.07.22
コメント(0)
東京に岡野雅行さんという金型、プレス職人がいる。6名ぐらいの家族経営の町工場の代表社員である。社長といわないところが面白い。その岡野さんが、痛くない注射針をテルモの依頼で作り上げ、グッドデザイン大賞に輝いている。その人の考え方がユニークだ。岡野さんが手がける仕事は単価の安い仕事と技術的に誰も出来ないことだという。ふつうの町工場は誰もができて、単価がそこそこのものをみんなが競ってやるという。しかしそのやり方では3年たてば、競争原理が働き商品は単価が下がり、儲からないスパイラルに落ち込んでしまう。またそういう仕事は中国などの新興国にとって代わられるので意味がないという。岡野さんは逆にそういう新興国でさえも単価が安すぎて投げ出したものを、大量生産していく。だから競争相手はいない。逆に言うと競争相手がいないものしかしない。自分独自の道を絶えず探し求めている。大量生産するためには、機械で自動化していく必要がある。そういう金型からプレス機は自分の腕の見せ所であるという。一から作り上げる。ところが一旦作り上げても、3年から5年をめどにして、場合によってはすべてのプラントを売りにだしたり、外注に出す。変化を読みどんどん仕事内容を変えていくスタイルを貫く。一つのプラントを作り上げても、自己満足して、それに胡坐をかき固執することは、会社の存続の危機を招くという。森田を学習する人はここのところから学んでほしい。森田先生のいう諸行無常である。すべてのものは変化流動しているのであって、周囲の状況に合わせて絶えず自分を変化させないと自分の存在そのものが危うくなるということであった。感情をそのようにとらえて、絶えず変化流動させれば、神経症に陥ることはない。さて他方で開発困難だが、6割の成功の見込みがある開発の仕事は引き受けるという。そして完成したあかつきには、金型とプレス機、その後のメンテナンスまで含めてプラントとして販売するという。特に潤滑油はプレス機独自に配合しないとうまく機能しないという。これは企業秘密だという。相手は有名な大手企業ばかり。NASAからも依頼が舞い込んだこともあった。それでも他に作れるところがないので、売値は自分のいいなりであるという。1000万円のプラントでも1億ぐらいにはなるようだ。もっとも開発にある程度の期間がかかり、試行錯誤もあるので、その費用もたくさんかかっているのだろう。でも自分の提示した見積もりがそのまま通るので、大企業のダンピング要請に応じることは全くない。そんな仕事を年に2つから3つこなしている。私が参考になったのは、人と同じことはしない。人と違うことをする。自分の特徴を活かして独自の路線を追い求めていく姿勢である。人の顔色をうかがう必要はない。気楽である。人の顔色を気にしないのでストレスで胃潰瘍になることはない。今後多くの町工場が生き残っていく道はあるという。それには競争に巻き込まれてはダメだ。特に新興国と競争になっては負けてしまう。競争しなくても生き残れる道はある。そのためには自分の特徴を活かして、独自の道を開拓していくしかない。森田理論を学習している人は、この姿勢を岡野さんから学んでほしい。人と同じような生き方を真似しなくてもよいのだ。人に追随して、人と同じことをする事は楽ではあるが、自分の主体性、積極性、意欲が骨抜きにされて、悶々とした人生に甘んじなければならない。自分が主役として、自由にのびのびと生きてゆける道を目指したかったら、人の顔色をうかがうことはやめた方がよい。岡野さんを参考にして「生の欲望の発揮」の意味をみんなで議論していこうではありませんか。
2013.07.22
コメント(0)
早川さんの提起した問題を私はこう考える。3つの視点から考えて見た。これはすでに投稿したものの再考である。一つ目は精神拮抗作用である。○○しなさいといわれるとそれに対して反対したい気持ちがでてくる。森田ではこれは元々人間に備わった自然現象であるという。確かに大酒飲みの夫に対して、奥さんが、「二日酔いになるぐらい好きなだけ飲んでいいのよ」などといわれると、いわれた本人はおいそれと飲むことはできなくなる。そういう反応が我々には元々備わっている。まず一つ目の理由によって、本人のやる気はそがれる。二つ目。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、1「火事になった」、2「身の危険を感じた」、3「急いで逃げる」という流れになります。また、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や意志の力」が介在しているのです。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。森田理論で学んでいるとおりです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。ところが「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。これが早川さんの言う、人から言われてやる気がうせてしまう第2の理由です。三つ目。これが一番大きな原因だと思う。相手が自分で課題を見つけて、自然に動き出す前に、安易に指示、命令、批判、説教、非難、叱責をするということは、相手を自分の家来のようにして扱っているということです。私は相手のためを思って忠告しているのだといっても、客観的にみるとそうなっているのです。つまり主従関係にあるということです。主従関係は力の強いものが一方的に相手をコントロールしようとしている事です。このような人間関係は普通ではありません。いつかは破綻します。それはコントローされているほうにひずみがたまり続けるからです。地震のひずみの蓄積を思い出してください。いつか一気にそのひずみが解放されて、大惨事になることがあります。これが「かくあるべし」を会社、家族、子供、友人たちの人間関係に持ち込むことの3つの弊害です。「かくあるべし」は自分自身にとって神経症の原因を作りだし、自由で活き活きとした生活を奪ってしまいました。そういう人は他方で、「かくあるべし」を自分の縁のある人に押し付けて、多大なご迷惑をおかけしているのです。森田理論でそのからくりに早く気づいてほしいと願っております。
2013.07.21
コメント(0)
森田正馬全集5巻409ページより、森田先生の言葉早川君の話の中に、自分のしようと思っていることを、人から言われるといやになるということは、例えば、我々が、子供の時でも、自分が掃除をしている時に、親から、ついでにここも掃除するようにといわれるとか、あるいは、いま学校の復讐をしようと考えているとき親から同じことを指図されると、せっかく自分のしようと思っていたことが、すっかり張り合いがなくなってしまう、というような経験はいくらもある。これが「犬も頼めば、糞を食わぬ」という心理であって、当然自分の力でやるべきことを、それが人の力になり、その人の支配下に立つようになる。我々の生命の喜びは、常に自分の発揮にある。抱負の成功にある。富士登山を遂げて、歩けないほど足が痛くなったとしても、自分の損得にかかわらず、喜びと誇りを感ずるのは、「努力即幸福」という心境であるのである。これをもとにして、次の投稿では「かくあるべし」押し付けはなぜだめなのか。3つ方向から考えてみたい。
2013.07.21
コメント(0)
私は2009年10月17日赤いリュウキンという金魚を飼い始めた。とても元気のよい金魚だった。毎日仕事から帰って餌をやっていた。餌をやると飛びついて食べていた。私が水槽の前に行くといつも前のほうにでてきてくれていた。その優雅な泳ぎに癒されていた。ところが2011年6月30日水槽の中で死んでいた。朝見つけてがっくりした。金魚は最低でも10年。上手に飼うと15年は生きると聞いていた。家の金魚は2年弱で亡くなってしまった。私の責任だ。とてもショックでそれ以後金魚を飼う気持ちがなくなった。自己流というのは、金魚にとっては厳しい環境だったのかもしれない。多分そうだろう。金魚は口が聞けないから、苦しいことも言うことができない。ずっと耐えていたのだろうと思うと、心が痛む。飼い方を詳しい人によく聞いて育てたらよかったと思う。今日メダカを飼っている人のところへ行った。30匹ぐらいのメダカが元気に泳いでいた。あまりにも水がきれいなので、水を毎日替えているのかと聞いてみると、大きな炭をそこに入れているので水が澄んでいるのだという。餌はメダカ専門の餌をやっているという。生き物を飼うときは、自己流はよくないと思った。詳しい人によく教えてもらって、その方法を踏襲しないと、私みたいな失敗をするのだと思う。
2013.07.20
コメント(0)
選挙の争点の一つに原発問題がある。今森田先生が生きておられてたら、森田理論をふまえて痛烈に批判されていると思う。今の争点は原発が地震などの自然災害、テロなどの脅威に対して安全に運用できるかどうかに矮小化されてしまっている。反対している政党も安全であれば原子力発電を認めるという考えのようだ。問題の本質はそこにはない。本質は原子力発電は将来我々の子孫に、使用後核燃料の処理を先送りにすることにある。つまり生きている我々が電力の恩恵を最大限享受する代わりに、現代社会で解決不可能な問題を将来に先送りしているのである。六ケ所村の核廃棄物の再処理工場が1回も稼働していないのに、各原発に山積みになっている核廃棄物は一体どう処理するつもりなのか。もし放射能が漏れだせば福島原発のような惨事が全国で起きる可能性がある。仮に再処理工場が稼働したとしても、処理されたものが各原発に戻ってゆき、そこで使用されたものは永久核廃棄物となる。密封して地中深く埋めるか深海深くに埋めるかしか手がない。人間の手にはおえない厄介なものなのである。森田ではコントロールできないことはしてはいけない。制御不能はものは受け入れて、服従するしかないと口がすっぱくなるほど学んできました。原発問題はまさにこれに該当します。冷静に現状を分析すれば、現代社会において原子力の利用というのは、神の領域である。今年6月13日の新聞によると北海道、関西、四国、九州の4電力会社の6原発が再稼働申請をおこなうという。その原発が世界中にある。末恐ろしい限りである。森田に迷いのうちの是非は、是非とも否なりという言葉がある。どんなに対策を立てても、将来チェルノブイリ、福島原発以上の惨事は必ず世界のどこかで起きると思う。それは今の人間が制御不能な領域に手を出しているからです。その日本はインドや他の国に原発を売り込んでいるのです。不幸の種をまき散らしているのです。自分の国の後始末も出来ないのに、よくそんなことができるものだ。ドイツは脱原発宣言をしました。代替エネルギーを真剣になって探っています。森田理論では、人間にはコントロールできるものとできないものがあると学びました。コントロールできないものに手を出すと、私たちが神経症で味わったような苦しみと葛藤が、間違いなく世界中の人類の上に降りかかってくると思います。
2013.07.20
コメント(0)
森田先生の鶯の綱渡りの芸は有名である。そのほか民謡のようなものも披露されている。私は森田正馬全集5巻を読んだ時、真っ先に読んだのはリェクレーションの部分だった、11回分はみんなで羽目をはずして大笑いしたり、踊ったりしている。実に楽しそうだ。赤面恐怖一座の三方一両損には笑ってしまった。時には落語家も呼んでいる。ピクニックなどもたびたびおこなわれている。しかし残念なことに、私は発見会活動を27年やってきたが、人を喜ばす芸を身につけている人が極めて少ない。一人が一つの芸を身につけるだけで、発見会はずいぶん変わると思う。大体多くのページを割いて5巻に余興の数々の詳細が紹介されている意味をどう理解されているのだろうか。発見会で芸能大会などの提案をするといつの間にか立ち消えとなる。中には宴会はお通夜のようにおとなしいのがよいという人もいる。こうなれば発見会以外で挑戦するしかなさそうだ。森田理論をうんぬんするよりも、ただ一つの芸を覚えることに精力をつぎ込むことで、症状は吹っ飛び、その人にも生きる自信もでてくるのにと思ってしまう。ちなみに私は、明日夕方町祭りの余興に呼ばれている。明日はアルトサックスの演奏だが、そのほか獅子舞い、どじょうすくい、浪曲手品の芸を極めており、毎日1時間は練習を欠かさない。呼ばれればいつでも最高の演技ができるようにスタンバイしている。これが一つの生きがいとなっている。すべて森田先生のまねをしているのである。
2013.07.19
コメント(0)
元漫才師、現在マルチタレント、映画監督のビートたけしは、「間」ということを大切にする。反対に「間抜け」な行動をよく取り上げて面白おかしく紹介する。ビートたけし曰く、「見渡せば世の中、間抜けな奴ばかり。どいつもこいつも、間が悪いったらありゃしない。間というものは厄介で、その正体は見えにくいし、コントロールするのも難しい。けれど、それを制した奴だけがそれぞれの世界で成功することができるんだよ」「間」というのは何か。一応考えてみると、空白の時間。一呼吸置くこと。タイミングを合わせるころあい。相性。リズム、テンポ、相手に余韻を与えるゆとりなどであろうか。一つ言えることは、人と人の間に生じる不思議な空間ではないだろうか。つまり自分と他人の間に発生するものなのだ。「間」をはずすと油の切れた歯車のようにギイギイ音を出してうるさいといったらありゃしない。またたけしは、「間」をはずすと、「魔」がその場をぶち壊しにするという。これを森田理論で考えてみよう。不快感を持ちこたえるということだ。人間関係にはこの「間」を身につけないとうまくいかない。歌舞伎でも必ずポーズを決めて「間」を作る。「間」がないと動作が連続してしまい、ワサビのきいていない刺身を食べるようなものだ。人間関係で「間」を作るとは、例えば腹立たしい感情が発生したとき、その感情をあおってもいいからポーズを作るまで高めていくことだ。そしてそれを持ちこたえてじりじりとしていることだ。これが「間」にあたる。歌舞伎ではこの「間」のポーズが決まれば拍手喝さいである。決して急いだりしない。十分に間をとる。そして「間」とったあとは一転して別の動作に移る。私たちは腹立たしい感情はそこに置き去りにしてまま、別の動作に移るということである。簡単に言ってしまえば感情と行動は別ということである。そこに十分に「間」を作らないと、腹立たしい感情がその流れをひきづって、行動に出てしまうということである。それはいかにも見苦しい。自分だけではなく、見ている人にも不快感を与えてしまう。私は以前いかなる感情を持ってもよい。だが行動は感情とは切り離して、俳優や女優のように演技すればよい。と書いた。そのためには、たけしの「間」を決めるということを提案したい。
2013.07.19
コメント(0)
森田理論は1919年森田先生が確立されました。もう6年たつと一世紀を迎えます。会社はイノベーションしないと30年でその役割を終えるといわれています。森田はその3倍生き延びているわけです。それを分析しました。貢献された方は3名おられます。第一は森田理論をうみだされた森田先生。第二はそれを大衆学習運動としての端緒を築かれた水谷啓二先生。第三は森田を世界に紹介普及された岡本常男元メンタルヘルス記念財団会長。その功績は疑う者はいないと思います。日本はともかく世界中に森田は広がっています。中国では、心の病を抱えた人がいると、意味も分からずに、森田療法を受けたらどうかという日常会話すらあるという。では、いま日本で水谷先生が端緒を築かれ、長谷川先生、斎藤先生に引き継がれたかに見えた森田理論学習の自助組織が順調に成長することなく、崩壊寸前にあるというのはどうとらえたらよいのでしょうか。社会不安障害学会によると、その対象者は300万人にも上るという。その受け皿として生活の発見会の役割は大きかったはずだ。私は自己変革を怠ったつけが回ってきたのだと思う。今やリエンジニアリングの手法しか残っていないのだろうか。私にはよく分からない。せめてこのプログに精魂こめて、悩める神経質者にエールを送ってゆきたい。
2013.07.18
コメント(0)
広島県呉市で広島市内の高等専修学校の女子生徒16歳が、元同級生を山で殺して遺棄するという事件があった。動機はインターネットの掲示板に気に入らないことを書かれて、口論になり首を絞めて殺したという。もともとこの二人は無二の親友だったようだ。ブログには「(少女と)遊ぶよ」「だーい好き」「ありがとねー」などと書いている。そんな二人がなぜ殺し合うほど憎むほどに変わり果てたのか。この問題を森田理論の不即不離で考えてみたい。森田では人間関係の極意を、つきすぎず離れずという。この二人の関係は、殺すほど憎しみ合う前はつきすぎて、離れるということがなかったのではないか。悩みをなんでも打ち明け合って、一心同体のような付き合い方は一見して素晴らしい人間関係を築いているように見えるが、極めてもろいものである。お互いに意思を持つ人間どうしであれば時には対立することが自然である。無二の親友のような付き合いは、力関係が同等であれば、お互いに相手の意向を常に気にして、相手に合わせようとするようになる。自分の言いたいことややりたいことを我慢して相手に合わせようとする。これはすごくストレスがたまりイライラするようになるのである。ましてや、力関係の異なるものがこのような関係になると、主従関係ができてくる。従の人は自分の意思を無視して強引に相手に合わせているので、指示や命令されるたびに心の中は敵意で一杯になるのである。どうしてそのような人間関係に落ち込んでいくのだろう。それはいったんそういう関係が出来上がってしまうと、相手から捨てられるということにとてつもない恐怖を感じるからではなかろうか。人間関係は森田で学習したように、薄くて幅広い人間関係を作ること、これに尽きると思う。そもそも人間の付き合いは、その時の都合によって、付き合ったり離れたりして、自由に動きまわっているのである。
2013.07.18
コメント(0)
15日海の日に老人ホームの慰問をした。その日は98歳の人の誕生日祝いだった。驚いた。いろいろ老人ホームへ出かけて慰問活動をしているが、あんなに元気な98歳の人を見たことがない。日本舞踊も踊るし、民謡も歌う。髪もきちんとされており、顔を見ていると70代ぐらいにしか見えない。全然ぼけていない。当日は着物をきちんと着て、祝いに駆けつけてくれた人に笑顔であいさつされていた。ケーキのろうそくは年齢の関係で1本だった。ひと吹きで消された。そしてその人に1年のうち祝日が一日もない月が2つあるが分かりますかと聞くと、6月と8月とすぐ答えられた。どうして頭もしっかりして、体も心も健康なのだろう。するとまだ化粧をする力が残っているからだろうといわれる。それを追っかける男性はもっと長生きができるのにと冗談をいわれる。恐れ入りました。森田を学習する人はこんなふうに歳をとっていくのだろうなと思った次第です。
2013.07.17
コメント(0)
毎日暑い日が続きます。外回りの人は大変だと思います。ほどほどに仕事をしていただきたいと思います。今日も営業の人が言っていました。一仕事終わって車に戻るとサウナ状態なんですよ。その気持ち分かります。その方が言ってました。ヨーロッパの人は昼休みが2時間から3時間ぐらいあるそうですね。たしかにこんなに暑いと能率が上がりませんよね。私はこの夏「つけ麺」の季節だと思っています。これが楽しみで働いているようなものです。唐辛子のきいた辛めのつけ汁。コシジャンでさらに辛くする人もいます。麺はラーメンの麺だと思います。特徴はキャベツの量です。チャーシューなどもありますが、茹でたキャベツと辛いつけ汁の相性がとてもよいのです。シャキシャキ感がたまりません。これって広島発祥らしいですが、関東や関西、東北、北海道、九州にもありますよね。店で食べるとおいしいのですが、1000円ぐらいはすぐかかります。もっぱら家で食べています。
2013.07.17
コメント(0)
タモリは2008年赤塚不二夫の葬儀の時に弔辞読みあげた。その中に「あなたはすべての出来事と存在を、あるがままに前向きに肯定し、肯定的に受け入れる人だった。」と言っていました。それを端的に表した言葉が「これでいいのだ」です。赤塚不二夫は新潟県の生まれ。小さい時から絵が得意で、中学を出ると映画の看板を書く仕事に就いた。その後漫画家として成功した。やりたい仕事を持っていた。酒が好きであった。自宅へ人を呼んでは夜遅くまで宴会を繰り返していた。そのため肝臓を壊して入退院を繰り返していた。また人を集めてはバカ騒ぎが好きであった。ギャグも好き。とにかく面白いことはなんでもやってみる。破天荒であったのです。女性も好き。自分を性の探究者だなどと言っている。赤塚さんは2度結婚している。一度目の奥さんには家や土地の財産をすべてわたして、娘の養育費も了承したという。その奥さんは再婚しても、赤塚家にやって来ては茶飲み話や相談ごとに付き合ってくれるという。人の悪口を言わない。これ以上のお人よしはないぐらいな人である。とにかく世話好きで困った人をみると放っておけない。家出人や浮浪者まで面倒をみている。また赤塚さんの自宅をホテルがわりに使用して、中にはジャージなども置いて自由に食ったり飲んだりしている人が何人もいる。タモリ、所ジョウジ、鳳啓介師匠、青島幸夫、由利徹、たこ八郎、稲川淳二などの知り合いがいる。金や物には全く執着しない。それらはみんなが楽しく使うためのものとして考えていたようだ。赤塚さんは、自分のやりたいことをやりたいように存分にやってきた人だ。そのために身体を壊し、人にだまされることもあったが、生の欲望の発揮から見ると、とてもうらやましい生活をした人だと思う。
2013.07.17
コメント(0)
私は死にそうになったことが2度ある。一度目は交通事故。二度目は初めて小学生の時海に泳ぎに行っておぼれたのである。浅いところから深いところにゆき、足が底に届かなくなった。私は底に足がつくたびに思い切り飛び上がり、わずかに息をしては沈むという動作を何回も続けていた。死ぬというよりも必死であった。そのうち友達が気付いてくれて命からがら陸にあがったのである。その友達は土居君といって今でも命の恩人だと思っている。その後大人になって海や川でおぼれるということは全くなくなった。海で泳いでいても立ち泳ぎをしたり、脱力して波に揺られて浮かび、自由に息をして休むことを知ったからである。万が一海にほうりだされても、何もしないでただ海に浮かんで仲間の助けを待っていればよいのである。反対にしてはいけないことは、バタバタと死に物狂いに体を動かすことだ。恐怖心が襲いかかり、パニックになる。また体力を消耗して、すぐに疲れて海の底に沈んでしまう。「草土記」の中に河原宗次郎氏がこんな経験をしている。網代に海水浴に行った時のことだ。「波には抵抗することはできない。抵抗すれば溺れる。波に身を任せきった時が一番安楽だ。心の波も、海の波と同じように、人間の力ではどうすることもできないのだ。それをどうにかできると考えたのは、自然の恐ろしさを知らない私の思いあがりなのだ。」森田先生にそのことを話すと、「それを自覚といいます。自覚とは自分の心のありのままの姿を正しく知ることです。ふつうの人は、自分の心は自分が一番よく知っていると思っているが、それはとんでもない間違いです。あなたは人間の心の大きな事実について正しい自覚を得ました。今後、憂鬱な気分に落ち込むことがあっても、それを切り抜けることができます。それが自覚というものです。」と言われたそうです。
2013.07.16
コメント(0)
きのう集談会に参加しました。その後の居酒屋での懇親会でおもしろい話を聞いた。その人は60代の人ですが、放送大学の学生であるという。心理学などの講座を受講しているという。今月末には単位取得の試験があるそうです。大学には車を利用すると広い駐車場があるそうです。部屋は冷暖房完備で快適であるという。学習するスペースはそれぞれに仕切られていて、十分に確保されている。学生であればいつでも利用できる。別に自分の講座以外の勉強をしてもかまわない。森田の学習をしたければそれでもよい。またDVDなどの視聴覚教材は豊富に用意されているそうです。学生食堂があり、とても安いということです。これは将来検討してみる価値があるなと感じました。私は以前近くの図書館で勉強しようと思っていきましたら、学生がいっぱいで席がありませんでした。また、学生は友達同士でやってきておしゃべりをしている人もいるのです。図書館は基本的に館内の図書閲覧スペースとして席を設けているので、一日とか半日席を独占するのは気がひけます。たとえ行ったとしても、継続的に利用するには少し無理があると思いました。
2013.07.15
コメント(0)
歳をとり足腰が動かなくなり、寝たぎりになると当然「下の世話」は誰かにやってもらわなければなりません。認知症などになっていない人は、それは恥ずかしいし、屈辱的でなかなか耐えられるものではないと思います。そこでそんな迷惑をかけるぐらいなら早く死にたいという人がいる。そう思うような人は、「決して人に迷惑をかけるようなことをしてはいけない」「迷惑をかけないようにボケてはいけない」「迷惑をかけないようにがんばらなくてはいけない」「迷惑をかけると人に負担をかける。それはプライドが許さない」「迷惑をかけて、厄介者扱いされたくない。それは耐えられない」等の「かくあるべし」が渦巻いているように思われる。そういう人は反対に、人が自分に迷惑をかけるということも許さない人である。自分が人に迷惑をかけることも、人から迷惑をかけられることもイヤなのである。もし迷惑をかけている自分を冷静に見つめられるようになるとどうだろう。まず、「下の世話」をしてくれる人に対して感謝がでてくる。そして迷惑をかけるのはお互い様、持ちつ持たれつの気持ちが湧いてくる。すると人が自分に対して迷惑をかけるのも大目に見て許すことができるようになる。また次のような創意工夫もでてくる。どうすれば人に迷惑をかけることを減らせるだろう。迷惑かけることを一人の人に集中させないことはできないか。お金をかけてプロを雇おうか。家族や子供に頼るのがよいのか。始末しやすいようなアイテムを探してみるなどいろいろと思い浮かぶかもしれない。こんな場合は、森田理論を活用して考えれば、自分の体の状態を価値判断しないで素直に自覚するということだと思う。どうにもならない自分の体の状況を認めてしまえば、自己否定で苦しむことはない。人への思いやりなどがでてくるのではなかろうか。もっとも認知症が入ってはそんなことを考えられないだろう。そのためには森田の考えを取り入れてどんどん脳を活性化してゆきたいと思う。
2013.07.15
コメント(0)
最近アダルトチルドレンという言葉をよく聞く。アダルトチルドレンとは、幼少期から過度の責任を負わされ、子供らしい幼少期を味わえなかったことにより、精神的不安定や対人関係の問題を引き起こしやすい性格が形成された人のことを言う。最近私もアダルトチルドレンかもしれないと思うようになった。父親はアル中で亡くなった。私は子供のころから父親と遊んだことがなく、どこにも連れて行ってもらった記憶がない。父親の楽しい記憶がほとんどないことに気がついた。たまにあるのは家を追い出されそうになったこと。友達と喧嘩をして泣いて帰ると、もう一回けんかをしてやっつけて来いとけしかけられたことなどである。いつも不機嫌な顔をして叱りつけられていたのである。父親にありのままの自分を受け入れてもらったことはない。「かくあるべし」で育てられた。それがトラウマとなって、大人になってからも普通の人のように、自分の言いたいことややりたいことに手をだすことができない。いつも人の思惑を気にしている。人に認めてもらうこと、受け入れられることが一番大切だと思うようになった。一人はさみしい。孤独、孤立するということにとてつもなく怯えて暮らしている。欠点、失敗やミスは絶対にダメ。ごめんなさいと謝ってばかりの子ども時代だった。いつも魅力のある自分を演じないと人から見捨てられてしまう。そのうち自分で物事を決められない。周りを見て自分が何をすれば相手が喜ぶのかを考えて行動する。だから自分の心の居場所はない。そのうち自分はなにを感じ、何をしたいのかが封印され、すごく閉鎖的な心境になり、いつも自分なんか生まれてこなければよかったと考えるようになった。今は森田理論が大きな生活のよりどころとなったので、そんなことはあまり考えなくなった。一番大きかったのはそんな自分をしっかりと自覚できたことだった。以前はそんな自分が嫌で自己嫌悪に陥り、父親を恨んでいた。森田の両面観を学習して自分のよさを気づかしてもらった。それを足がかりに生きていく態度に切り替えることができた。父親を今は恨んでいない。父親も対人関係が苦手で酒に走っていたということが分かったのである。今生きていれば一緒に酒を酌み交わしたい。そしてこの神経質という素晴らしい性格を与えてくれたのは社交上手な母親ではなく、この父親だったのだと気がついた。自覚しないとどんどんとらわれて泥沼に入っていくと思う。そんな自分をあるがままに認めてしまうと新たな出発が可能になると思う。
2013.07.14
コメント(0)
孫正義さんがタイタニックのジョークの話をされています。タイタニックの悲劇は救命ボートの数が乗員乗客の半分しかなかった。子供や女性を先に乗せた後で、男たちは流氷の浮かぶ海に飛び込まなければならなかった。どういって説得したか。イギリス人には、あなたはジェントルマンですねといって説得した。アメリカ人にはあなたはヒーローだと言った。ドイツ人にはそういう決まりになっている。これがルールだといった。日本人にはどういって説得したと思いますか。大人の男性は皆さんそうされています。これは各国の人にどのように言って説得すれば行動を起こすかというたとえです。日本人への説得方法に興味があります。日本人は自分の意思を殺して、他人の顔色を見て自分の人生の重大な決断を下しているということです。生きるか死ぬかという問題でもその考え方がでてくるのです。それぐらい周囲の人に気を使って生きている。多くの人はみんなで決めたルールを守ろうとする。マンションには使用規則があり、犬や猫を飼ってはいけない、ピアノを大きな音を出して引いてはいけない。管理費は毎月滞りなく支払わなければならない。等の規則を決めると全員それに従います。自分勝手なことを平気でして、ルールを頻繁に破ると、管理組合の総会決議によりマンションを追いだされることにもなりかねない。日本人がそのようにすべての面で集団の意向に沿って逸脱しないように生きているので、治安は世界一安全に保たれていると言える。ただ森田理論を学習してみて分かったことは、それに偏っては生活が窮屈になり、人生の自由な活動が妨げられるということであった。生の欲望に沿って自分の言いたいこと、やりたいことを作り上げていくこと。これも大切なことだ。バランスをとることが大切なのだ。もともと放っておいても人の思惑は自然に気になるのだから、バランスをとるためには、大きく自分の感情を大事にする、自分の意思をしっかりと持つ、自分のやりたいことを優先する、という方面に力を集中させる必要がありそうだ。
2013.07.13
コメント(0)
最初、「これで納得、実践的森田理論学習」を作りました。半年ぐらい経って、回りくどいところや説明不十分なところがとても気になりました。最初の本を半分ぐらい書きなおし、ほぼ自分としては納得できる本がやっとできました。これは手直ししたいところもありますが、もうこれで完結したいと思っています。その段階で今度は、それをもっと発展させたものを作りたいと思う気持ちが強くなりました。内容としては、森田理論のどこをどのようにを実生活に活かしていけばよいのか。そして森田理論で生活の様々な問題を考えてみる。つぎに世の中の様々な問題を森田理論の視点でもって考えてみる。ということです。これはまだまだ構想を練っている段階ですが、ほぼめどが立ちました。7月、8月で原稿をあげて9月印刷してゆきたいと思っています。弾みがついたのだと思います。このプログを続けていることが思わぬ副産物を生んでくれたと思っています。ブログのほうは、とりあえず5年ぐらいで3500の原稿アップ。10万アクセスの目標を掲げたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。自分でも、自分がどんなに変化していくのか今から楽しみにしています。
2013.07.12
コメント(0)
今日から会社関係。趣味の会。集談会の飲み会3連チャンです。今日は一日目。今終わって帰ってきました。2500円飲み放題でした。料理もうまかったです。2500円はあまりに安すぎ。かえって気を使いました。私は以前飲み会は誰よりも生ビールを真っ先に飲み干しお代わりしていました。そして一番先に酩酊状態に陥り前後不覚に陥っていました。多分普段のストレスを発散しないではおられなかったのでしょう。今日はとりあえずビールのお代わりは全員が終わった後最後にしようと思っていました。最近はいつもそうです。その間枝豆やサラダなどを食べています。お代わりした後は少しは節制していますが、どちらかといえば自由にしています。今日もビール3杯。ワイン、カシスソーダ、カシスオレンジ、生酒などを飲みました。飲んだわりには、ほとんど酔っ払っていません。最初の一杯をどう飲むかこれが二日酔いになるか、適度に気分がよくなるかの境であるような気がします。終わった後ラーメンを食べたいという衝動にかられましたが止めました。胃や肝臓に負担をかけたくなかったのです。早く休ませてあげたいと思ったのです。こんな気になるのは森田を学習したからだとしみじみ思っています。明日は10時から15日老人ホームの慰問のリハーサル、夕方中華料理の宴会、14日は集談会出席、夕方懇親会出席、15日老人ホーム慰問でどじょうすくいの演技、チンドンミュージックの披露と続きます。その後勤務先に出向き仕事の段取りがあります。いつになく忙しい3連休になりそうです。みなさんはどんな予定で過ごされますか。少し聞いてみたいような気がしています。
2013.07.12
コメント(0)
会社にいると、自分より能力のないのに、なぜ彼が自分よりも早く昇格するのだと嫉妬することがある。その憤懣やるかたないいらだちにどう対処したらいいのだろう。森田ではこの点はっきりしている。その嫉妬心、いらだちはそのままにしておくしかない。決してそのいら立ちを取り除こうとしてはいけない。いかに苦しかろうと、その不快感を押さえつけてはいけない。もしそのいら立ちを人事部や上司に直訴したりすると自分の立場を危うくしかねない。嫉妬心を第一に感じる感情だとすると、これに身を任せて不快感を味わうことしか方法はない。間違いやすいのは、その不快感に耐えられずに、破れかぶれの行動をとる人がいる。普通は第一の感情に続いて、すぐに第2波の感情が湧いてくる。たとえば、「きっと彼は上司にうまく取り入ったのだろう。でも今後彼のやり方でリーダーとしてうまく組織をまとめていけるだろうか。一旦リーダーになると失敗は許されない。失敗すると降格ではなく、会社を辞めさせられた人を何人も見てきた。彼もこれから大変だ。苦労するのではないか。」等々。森田では、常に第一の感情から出発する。第二波の感情は無視してもよい。私はいつも無視するようにしている。憤懣やるかたない感情を大切にして、味わうようにしている。その不快な感情を忘れようとか、取り去るためのやりくりはしないようにしている。この態度が森田で言う純な心、感じから出発するということだと思う。森田ではこの後、人間に自然に備わっている能力である理知の力を利用して行動するように勧めている。精神拮抗作用といわれるものだが、この作用のおかげで適切な行動がとれるのである。そして次に手をつけることは、「この不快感はどうすることもできないが、行動することによって新しい感情を作り出すことができる」ということを思い出してほしい。そうすれば時とともに不快感は薄れて流れていくようになっています。この森田理論の法則に沿ってさまざまな体験を積んでほしい。いくらでも応用できると思う。
2013.07.12
コメント(0)
新潟大学の安保徹医師の免疫学の話はとても面白い。また役に立つ。素人にもわかるように文庫本をたくさん書かれていますので一冊読まれることをぜひお勧めします。安保先生は、薬は毒だといわれます。薬づけの医療が次から次へと病気を拡大させているとも言われます。また副作用のない薬はない。しかしほとんどの人は薬が病気を治してくれていると思っている。もし大学病院の医師ががんになったとしたら、自分のおこなっているがん手術、抗がん剤治療、放射線治療を選択するだろうか。手術をしなかったら余命6カ月。手術を受けたら5年以上といわれて、手術を受けても6カ月以内に亡くなる人が後を絶たないのはどういうことでしょうか。安保先生の本から森田に関連することを書いてみます。花粉症などのアレルギーの人に抗ヒスタミン剤が処方されます。もともと人間の体からヒスタミンがでてくるには理由があります。それは血管を開いて痒みを出したり、異物が体についたという異常を知らせる役割を担っているのです。異物を洗い出すために、ヒスタミンが血管を開きます。それがかゆみや腫れと言った症状です。つまり分泌物がでて鼻水がでたり、涙を出して洗い流すのがヒスタミンの役割なのです。ヒスタミンは決して悪いものではなく、体の防衛反応なのです。今の医療は抗ヒスタミン剤を使って対症療法をしています。そのいやなかゆみや腫れをとり、鼻水や涙が出ないようにしようとしているのです。抗ヒスタミン剤を使ってしまうと、せっかく出そうとしている反応を止めてしまいます。しかし治ったと思って薬を止めるとまた症状が出ます。また抑えにかかる。薬の耐性がなくなると、また強い薬で抑えにかかる。そうやって症状から脱却できない身体になってしまうのです。これは精神交互作用によって神経症が悪化する過程と一緒です。安保医師は、花粉症になりやすい人はリンパ球体質であるといいます。神経が過敏な状態です。つまり白血球の顆粒球とリンパ球のバランスが崩れているのです。リンパ球過多になっているのです。甘い物好きや運動不足がこの体質を助長しています。つまり最終的には生き方の問題です。生活を見直すことが大事です。といわれています。
2013.07.11
コメント(0)
中島義道氏の「孤独について 生きる人が困難な人々へ」文春新書 という本の紹介です。自分は会社で孤立している。学校で孤立している。友達もいないし、話すのは家族中心だ。なんとかそんな自分を変えて社会に適応して生きてゆきたい。そんな人におお勧めします。元気がでてくる本です。それは中島氏が生まれてこの方60年以上も息苦しい生き方を続けてこられて、そうゆう自分を変えないでいかに楽しんで生きていくかという視点から書かれているのです。痛快な本でした。こんな一節があります。要旨を紹介します。自分を含めた人間が嫌いなのだ。それはもう仕方がないことである。そういうあなたは変えなくてもよい。それでいいではないか。だがそういうあなたは社会的には排除される。だからあなたも社会から離れようではないか。そのうえであなたなりに豊かに生きる道を探そうではないか。世の中のあらゆる教育者は、孤独から抜け出して多様な人間関係の中で生活せよと教える。しかしあなたはこうしたお説教に耳を傾けることはない。自分をごまかすことはない。無理することはないのだ。あなたは孤独に徹して生きるという素晴らしい道を追求すべきなのだ。これまでの人生を振り返って、自分の真の適性を見出すこと。そしてそれがわずかでも見えてきた人は、それを力のあるものに鍛えることだ。孤独な人はそれしか生きる道はない。だから真剣に求めるべきである。その際自分が何に躓くかよく見ることが必要だ。それをよく観察しなさい。それを大切に育てなさい。私は孤独を楽しむこと、自分の形を作ることに全情熱を傾けている。これを私なりに分析してみると、第一に人と上手に付き合わないといけないという「かくあるべし」はできるだけやめようよ。第二に人づきあいがへたくそな自分を認めてしまいましょうよ。第三にそんな自分をふまえて楽しく、生き生きと生きてゆける道を探していきましょうよ。ということだと思います。そうすれば人間関係がどんどん狭まってきて心細くなるかもしれない。でも自分らしい生き方を目指していくことは可能である。私も今は会社の人との付き合い、趣味の会の人との付き合い、集談会の参加者との付き合いくらいで、ご近所の人の付き合い、地域社会、親戚、昔勤めていたOB会などに呼ばれるがほとんど顔を出さない。これには賛否両論あるだろうが、私の気持ちはまずは自分の生活を充実させていくことで、嫌な気持ちに妥協して無理して生活の幅を拡げたくないのである。それよりも今は自分一人で過ごす時間がとても心地よいのだ。
2013.07.10
コメント(0)
○○したい、○○でありたいということと、○○であるべきだ、○○でなければならないという言葉はよく似ていますが、全く相いれない反対のことをいっています。天動説ほどの違いがあります。ここはしっかりと理解してほしいところです。まずこの言葉を発している人の立っている場所が違います。前者は現実の自分とともにあります。後者は雲の上のあたり、はるか上空に立っています。次に見ている方向が違います。前者は下から上を見ています。後者は上から下を見下ろしています。また前者は「生の欲望を発揮」して一つ一つ目標をクリアーして成長し続けることができます。後者は「かくあるべし」に縛られて、現実の自分や他人を否定してしまいます。そして葛藤や苦悩を作り出して神経症に陥り、生活の悪循環が始まります。これを「思想の矛盾」といいます。森田理論では多くのキーワードがありますが、その中でも、もっとも大事なキーワードの一つは、「かくあるべし」と「思想の矛盾」だと思います。森田理論の学習をされると、この大きな認識の誤りを正すことができます。
2013.07.09
コメント(0)
生活の発見会の森田理論学習の歴史をひも解くと、そのルーツは水谷啓二先生の啓心会にある。水谷先生は共同通信社に勤めておられた1956年(昭和31年)10月1日、森田療法の普及と神経質者の互助を目的とした啓心会をスタートさせた。水谷先生の東京練馬の自宅で隔月の第2日曜日に例会が開かれた。出席者は毎回50名を超えていた。会合は講話、質疑応答、自己紹介、助言で構成されていた。これが生活の発見会が行っている集談会の原型である。翌昭和32年10月1日には「生活の発見」を創刊している。当時は季刊(1,4,7,10月)で、32ページだった。発行満4年目から隔月刊で60ページとなった。昭和36年10月には月刊誌となった。昭和34年7月、自宅を開放して「啓心寮」を開設した。入院森田療法を始めたのである。これには「医療まがいの行為をする」と医師たちの猛烈な反発があった。慈恵医大の高良武久教授の仲介により医師の派遣によりなんとか開設にこぎつけている。これは森田先生の入院森田療法の忠実な再現であった。10年経過した時点で啓心会会員は2000名以上。啓心寮への入寮者は常時20名以上であった。次に水谷先生は森田理論を全国に広げてゆきたいと思うようになりました。その構想は「日本中和生活研究会」と名づけておられた。しかしこれは実現することなく水谷先生は58歳という若さで亡くなられた。森田療法がもし医療の場に限定されていたとしたら、一般の神経質者に森田理論が認知されることはなかったであろう。森田先生の死後、その傾向があったのです。その突破口となったのが水谷先生の功績である。特筆すべき偉大な功績である。それが長谷川先生や斎藤先生の森田理論学習運動の全国展開へとつながった。つまり生活の発見会の集団学習運動の始まりであった。これは森田理論学習の新たな夜明けであった。しかし残念なことに、日本ではそれを引き継いで、さらに人間再教育の面まで活動を押し上げていく人は現れたとは言い難い。もし現れたとすれば新たな枠組み、方法によって一般国民においてもその恩恵に浴していたはずである。しかし森田理論は、メンタルヘルス記念財団の岡本常男さんの活動で意外な展開を見せた。中国をはじめ森田理論が全世界に広がってきたのである。森田先生はドイツで自説が全く受け入れられないことに落胆しておられました。時代が変わり、今や国際森田療法学会も開催されるようになりました。森田先生や水谷先生は今の状況を見てどう感じられるだろうか。この次の森田理論学習の展開をどのように提案されるだろうか。興味は尽きない。しかしこれは森田の恩恵を十分に受けてきた我々が提案してゆくべき問題である。
2013.07.08
コメント(0)
20世紀最高のオペラのソプラノ歌手といわれたマリア・カラスは舞台に出る前には、とても強い緊張感に襲われて卒倒しそうになったことがあるという。それでも舞台で椿姫等を演じると、既存の歌手では表現できない歌唱力で観客を魅了したという。日本ではシャンソンの越路吹雪が同様の不安を抱えていたそうだ。彼女たちは、舞台で間違いなく歌えるだろうか。観客からブーイングは起こらないだろうかと強い予期不安がいつも襲ってきたのだろう。しかし表面的には全然そのようなことを感じさせない。我々と彼女たちは、人の評価をものすごく気にするということは共通している。にもかかわらずこのような差はどこからでてくるのだろう。我々神経質者がそんな立場に立たされるとすぐに舞台をキャンセルしたり、不安を取り除くために精神を鍛える方向に力を入れるのではなかろうか。つまりすぐに不安に耐えられなくなって、不安をなくそうとするのです。もともと人から賞賛されたいという強い欲望を持っているにもかかわらず、その方面の努力を止めて、不安を取り除くことに神経を集中させているのです。反対に彼女たちは不安やプレッシャーを糧にしている。不安やプレッシャーに学んで猛練習を繰り返している。本番で仮に80%ぐらいの出来でも、120%以上の感動を与えるぐらいの練習を重ねている。森田では不安はイヤなものだけれども、とても大切なものである。不安は欲望のありかを教えてくれている。不安は欲望が暴走しないように制御機能として働いている。不安にのみ翻弄されることなく、欲望と不安はバランスをとることが大切だと学習してきました。彼女たちの行動は、森田理論の原則に沿っています。そして彼女たちは、不安を抱えたままイヤイヤ仕方なく舞台に立ったのである。彼女たちの歌唱力は、不安を含んだ歌唱力のゆえにかえって観客の心をつかんだのではないだろうか。彼女たちの実践は完全欲の発揮です。森田でいう生の欲望の発揮です。不安に謙虚に学び、不安という制御機能を活用して、どこまでも生の欲望を追いかけていく。この生活態度を是非とも身につけたいと思っています。
2013.07.07
コメント(0)
子供が「今日は学校に行きたくない」と駄々をこねた時どう対応しますか。まず考えられるのは原因を突き詰めようとする質問です。「友達となんかいやなことがあったのかい」「先生に叱られたのかい」等。質問をして原因を究明しようという態度です。次に「人間は誰でもイヤなことはあるのよ。それを我慢するのが一番よ。元気を出して学校へ行きなさい。」これは自分の今までの経験で子供の気持ちを解釈する態度です。また「学校を休むなんてことは絶対にダメよ。お母さんは絶対に許しませんよ。」自分の価値観を子供に押し付ける態度です。さらに「なんか学校でイヤなことがあったんだね。かわいそうに。」子供の気持ちに同意し激励、なぐさめ、同情する態度です。そして「今日はどうしても学校へ行きたくないんだね」と相槌をうち、相手の気持ちを受容と共感の態度で受け止めて理解してみようとする態度です。森田理論では、叱責、指示、命令、批判、強制は子供の気持ちを無視して踏みにじることになると言っています。「かくあるべし」の押し付けは事態の悪化を招きます。どんなに一言文句を言いたくなっても、それをぐっと抑えて同情、受容、共感の態度で接することを勧めています。傾聴の研修を受けた時講師の人がこんなことを言われました。この人の話を聴こうとする気持ちになっていますか。思い込みで聞いていませんか。話したいことを初めから準備して、タイミングをはかって聞いていませんか。相手が話しているのに、話し始めていませんか。相手が言おうとしていることを、先回りして答えたり、アドバイスしていませんか。相手が思っている事、感じていることを否定感を持って聞いていませんか。評価したり善悪などを考えて聞いていませんか。相手の話についていけてますか。一つ一つ、しっかりと集中して聴いていますか。相手の話題を横取りしていませんか。
2013.07.06
コメント(0)
東ちづるさんの「私はなぜカウンセリングを受けたのか」から「自由」について考えてみたいと思います。ちなみにこの本は、東さん母子が「かくあるべし」から抜け出し、自分の弱さを認めて生きるようになった過程が、カウンセリングの中で具体的に分かりやすく書いてあるまれにみる良書です。東さんは自由というのは、慣れていないととても不自由なものだといわれます。たとえば、学校に決められた制服があると私服通学に憧れる。しかし規則には従わないといけない。やむをえず制服という制限の中で、なんとか自分らしさを出そうともがく。ズボンを細くする。スカートの丈を短くする。ソックスをルーズにする、といった具合に工夫をこらすのだ。みんなと同化することは安心であるが、スパイス程度の違いはアピールしたい。しかし、ある日突然、制服が廃止になり私服が許されたとしたらどうなるか。もちろんうれしい、この日を待ち望んでいたのだから。しかし同時に別の悩みも出てくるのではないだろうか。時代の流行をどこまで取り入れるか。どれくらいお金をかけたらいいのか。自分の着たい服が果たして似あっているのか。自分ひとり浮いた格好をしていないか。自分のセンス、表現力が問われることになるのだ。そして、ふと思うようになるのではないか。「制服って楽だったなあ・・・」と。東さんは突然自由を与えられると右往左往してしまうというのです。私たちの森田理論で目指している生の欲望の発揮は、自由に考え、自由にのびのびと行動することです。ありのままの自分を素直に出していいということです。そのためには普段の生活の中で自分のやりたいことを探し続け、求めて続けてゆかなくてはならない。そうしないと、今までの癖でつい人の顔色を窺うように行動してしまうのです。つまり生の欲望の発揮は意識しないで自然にそうなるというものではなさそうです。絶えずそういう方向に向かっているという姿勢がないとものにはできないということです。心しておきましょう。
2013.07.05
コメント(0)
電車の中で子供が騒いでいるとよく母親が、「騒いではダメ、あのおじさんに怒られるわよ」と言って周りの人を利用して注意しています。小さいころから、周りの人に迷惑をかけないように教育されているのである。こうした癖は大人になっても続く。国際会議などでは外国人は自分の主張したいことは相手を制してまでも発言の機会を求めてくる。しかし日本人は、指名されるまで積極的に発言することはない。周りの様子をうかがい、空気を読んでいるのである。その場の雰囲気が分かって初めて話し出すというふうである。日本人はひかえめでよいという半面、いつも自分を抑え込んでいるように思う。中国との尖閣列島の衝突にしても受身一辺倒のような気がする。対応が後手後手に回っている。周りの人や世間のしきたり、ルール、思惑を考慮して自分の行動を決めているという面はトラブル回避に役立っていると思う。しかしそれも程度問題でいつも自分を抑えて行動するということになると、ストレスがたまってくる。本来の人間は、自分の意思を尊重して、言いたいことを素直に話し、やりたいことをなんでもやってみる。自分の意志をまず第一に押し出すというのが人間の生き方として基本となっている。そのうえで周囲や世間の動向を見て、自分の言動を調整していくというスタイルが理にかなっている。森田理論ではまず自分の感じを優先する。そして理知の力で調整するという。この順番を決して間違えてはいけない。間違えると思想の矛盾に陥る。その考え方からすれば、森田でいう「生の欲望」の発揮は何はさておき第一に優先されるべきものであります。まずは自分の人生で、自分が主役として躍り出ることができること。これを目指したい。そのあとで世間と自分の意思のバランスをとる。今は世間の思惑ばかり気にしているとすると、バランスをとるためには自分の言いたいこと、やりたいことを積極的に膨らませていくことだ。そんな生活態度でやっと少しバランスがとれてくると思う。だから我々は安心して生の欲望の発揮に邁進しようではありませんか。
2013.07.04
コメント(0)
私は仏教のことはほとんど知らないが、最も基本的な考えとして「四諦」という言葉があります。「したい」と読みます。苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つの真理のことをいいます。「くたい、じつたい、めつたい、どうたい」と読みます。中身は森田理論の考え方と非常に近いものがありますので、紹介してみたいと思います。「苦諦」というのはこの世の人生は苦しみの連続である。すべてのものは苦しみを抱えて生きていくことをいいます。苦しみはどうにもならないことをコントロールしようとするから出てくるとみています。森田理論でいう「かくあるべし」でもって、どうにもならないことをやりくりするために人間の苦悩は発生するとみているのです。「集諦」とは、苦の発生原因は、私たちの無知や欲望、執着等の煩悩にあるというのです。森田では一つのことにとらわれて、その苦しさを取り除こうとしたり、逃げたりすることが悩みの発生原因であるとみなします。「滅諦」とはその煩悩を乗り越えて、苦しみを克服した安らぎの状態をいいます。森田では一つには精神交互作用を断ち切り、なすべきことをなすという生活態度が身につくこと。二つ目には、「かくあるべし」を少なくして「事実本位、物事本位」の生活態度を体得した状態のことをいいます。「道諦」とは、「滅諦」に至るための道を説いています。実践目標として「八正道」を提唱しています。これは森田でいう、まず事実を正しく観察すること。つぎに事実に価値判断を加えずに正しく認識すること、森田理論を正しく学習して、森田理論に沿った生活を心がけることをいいます。こうしてみると、仏教の考え方と森田理論は驚くほど共通点があることに気付きます。
2013.07.03
コメント(0)
親鸞聖人は、過酷な運命にもてあそばれながらも、境遇に柔順に生きた人だと思う。親鸞さんは後鳥羽上皇の念仏弾圧事件に巻き込まれて、1207年越後に流罪となりました。その時35歳。法然聖人やその門下とも別れ一人で信仰生活を歩まねばなりませんでした。しかし親鸞さんは、流罪にあって恨みつらみで世をはかなんでむなしく一生を終える人ではありませんでした。越後の人に自分の教えを機会を与えられたと考えられました。悩みやつらさはそのままに抱えて、自分の使命を全うされようとされたのです。この流罪をきっかけにして「非僧非俗」宣言をされたそうです。つまりもう僧侶でもない、俗でもない。中途半端な愚かな人であると位置づけられたのです。煩悩にまみれた愚者であると深く自覚されたそうです。そうした立場で布教されたのです。5年後親鸞聖人は赦免されます。しかし京都には戻りませんでした。京都に戻れば以前の安定した生活が待っていたことでしょう。しかしながらあえて関東を布教の地に選ばれたのです。これは越後での布教により、もっともっと自分の考えを広めてゆきたいという強い意欲が芽生えてきたのだと思います。苦しくても運命を切り開いてゆけば、次の新しい展開へとつながってゆくのです。そして関東で24輩といわれるすぐれた門弟たちを育てられました。森田先生も正岡子規、エジソン、野口英世、後藤新平等過酷な運命の中、「生の欲望」を発揮された先人たちの話をよくされていますが、親鸞聖人もまさにその一人だろうと思います。この人たちに共通していることは、普通の人はもう二度と日の目を見ることはないだろうという過酷な運命に翻弄されたにもかかわらず、そのことを糧にして運命を切り開いていかれたことです。
2013.07.02
コメント(0)
全51件 (51件中 1-50件目)