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まず基本的な日常茶飯事、雑事を丁寧にする事です。また生活を規則正しくしていくことです。この生活スタイルを確立することが大切です。またこれはすぐにくじけてしまいますから、末長く継続させるという意志を持つことも大切となります。つまり対人的な苦しみを安易に取り去ろうとすることはしないことです。大変つらいでしょうがそれを持ちこたえたまま、仕方なしにいやいや生活を立て直していくことです。これは体験すると大きな効果がありますのでぜひ実行してください。この方の悩みは対象療法ではよくならないし、一端よくなってもすぐに元の木阿弥になることをご理解ください。これができるようになると森田理論の学習会に参加してください。まず森田理論の基礎的学習に取り組みます。これは一人でやるのではなく、生活の発見会の系統的学習会や集談会で行うのです。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りなどがあります。これだけでもかなり、自分の対人的な悩みの対応方法が見えてくるはずです。そして基礎的な学習が終わったあとは、欲望と不安の関係の学習をします。さらにこの方の場合は、考え方の誤りがあります。他人に受け入れられる人間にならなければ生きる価値はない。人から後ろ指をさされるようなことがあってはならないなどの誤った考え方の特徴が強いと思われます。これはあなただけではなく、神経症で苦しむ人はほとんどの人が、自分の頭の中に完全無欠な自分をイメージして、そのようにならない現実の自分と葛藤を繰り返しているのです。とらわれが葛藤を生み、悩みを深めて苦しむ原因となっているのです。これを解消しないと、あなたの悩みはなくなりません。そのあたりの考え方の間違いと自分の苦しみの発生のからくりをよく学習して、それから自由になるための行動を積み重ねていくということになります。これは生活の発見会の先輩会員助けを借りないうまく進みません。先輩会員は、そのための学習と体験は積み重ねていますので、安心して学習してください。これらが軌道に乗れば、いつも対人的な悩みに翻弄されて、右往左往することはなくなります。さらに自分にとって味わい深い人生を送るためのヒントを、たくさん得ることができるようになります。あなたの悩みはこのような段階を経て解消されると思います。
2013.11.30
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2013/12月号には「苦しみの最中にある人へ」という特集がある。とてもよい企画である。私は質問に対して、自分の思いをまず考えてみる。そして回答者の答えを読ませてもらっている。本当は集談会でみんながそのようにして、自分の考えを述べあえばとてもいい学習になるだろうと思っている。まず一人目の人の悩みは、日頃関わりのある人たちが雑談しているのを見ると、不安になるという人である。これは両親が忙しく、遠慮して最小限の会話しかしてこなかったのが影響しているという。この方の症状は私と同じです。多分小さいときから何かにつけて親から「かくあるべし」を押し付けられて育ったのだと思われる。ほめられ、受容されることが少なく、叱責、批判、強制、脅迫で育てられたのであろう。すると大人になっても他人の目が気になります。自分の言動が常に監視されて、非難されているように思えるのです。自分の意思というより、他人の思惑で行動するようになります。自分の人生を生きているのではなく、他人を気にしていつもびくびくしているのですから、気が休まる時がありません。こういう人は森田理論とどうかかわってゆけばよいのでしょうか。
2013.11.30
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森田先生は先入観で物事を判断することはされない。実際に自分の目で見て確かめる。実際に現地に出向いて確認するという方法をとられる。それに徹しておられるところに凄味がある。「生の欲望」198ページにこんな話がある。一人助手を連れて、大日本観相学会長を訪ねて観相してもらった。この人は予言者である。最初は自分が医者であるということは伏せていた。また観相目的も明かされていない。ただ助手が鉛筆を握りつめて、そのやり取りの詳細を記録している。まず最初予言者は、今までの予言がいかによく当たっているかを説明された。その後森田先生の年齢や経歴の質問を始めた。そして将来の運命について次のように述べた。将来「出世する」「よくなる」「金には縁がない」「地味で研究的」「子どもはもう一人できる」すべて抽象的な予言であったという。そしてだしぬけに職業は何ですかと聞かれた。森田先生曰く。大体職業も当てられない人が、私の将来について事細かに予言しようというのだから、恐れ入った。観相が終わって、私の職業や子どもの数が分からない人が、将来起こる事件に関係ある人の住む方角や、その顔形までこまごまと説明するのは誠に滑稽である。普通の常識と判断力を持った人は、すぐにバカげたことだと分かる。常識のない迷信に陥りやすい人は、神秘、霊妙、不可思議に思われ、驚異の感に打たれる。こんな疑わしいことがらに対して、我々が心掛けないといけないのは、私がここに示したように、細かく、ありのままに記述する態度をとり、それを全体的に観察し、吟味することである。森田理論は事実を受け入れて、事実には服従するという態度が大切なのですが、その前提としては、事実を先入観をもたないで、具体的に細かく観察していくということなのです。
2013.11.30
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地球には寿命がある。太陽が死を迎える時、どんどん膨張して地球は太陽に飲みこまれてしまうという。でもその前に、人間が地球で生命が住めないような不毛な惑星にしてしまう可能性が高い。いずれにしても地球も太陽も永遠の存在ではない。また人間の命もたかだか100年ぐらいのものだ。永遠に生き続けることはできない。つまりどんなに努力しても、頑張ってもいずれは死を受け入れざるを得ない。視点を変えれば我々は負け戦をしていることになる。そういう視点を持って、今を生きるということはとても大事なことだと思う。限りある命の中でどう生きていくのかと、腹をくくることができると思う。森田先生は、亡くなるまで「まだまだ研究しなくてはならない。時間がない、時間がない」とおっしゃっていたそうです。この心意気に学びたいと思います。反対にいつまでも命があるかのように生きていると、今をとても粗末に扱うようになる。そして毎日退屈を持て余すようになる。生きがいが持てず、ついに脳や体が廃用性萎縮を起こしてしまう。これは森田的な生き方の対極にあるものです。
2013.11.30
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ヨットマンの白石康次郎さんのお父さんの話です。他の家がそうであったように僕の家も決して豊かではなかった。その証拠におもちゃをほとんど買ってもらったことがない。ところが兄貴が小さい頃、星に夢中になったことがあった。それを見ていた親父は、普段子どもがいくらねだっても耳を貸そうとしなかったのに、銀座の専門店に行き、かなり立派な天体望遠鏡を買ってきた。その兄貴は成長して、今やブラネタリウムの技師になっている。私にも当時まだ高かったパソコンを買ってくれた。また、自分が水産高校を目指すときも、「お前は魚屋になるつもりか」といったきり、お金を出してくれた。高校をでて、ヨットで世界一周をしたいから、大学へは行かない、就職もしない。ヨットマンの多田さんの弟子になるといった時も一言「わかった」と言っただけだった。この親にして、この子ありといった感じだ。普通の親なら、「大学は出ておいた方がよい」「天文やヨットで飯が食っていけるのか。よく考えてみろ」といって反対することが多いのではなかろうか。お父さんのモットーは、「僕は子どもの邪魔をしない」ということだったらしい。それは、人はそれぞれ、使命や運命を背負って生まれてくると信じているからだという。生まれつき難病にかかって生まれてくる人がいる。また極貧の家庭に生まれてくる人がいる。元気に生まれてきても、大きな事故や災難に遭う人もいる。これらは本人とその家族にとっては、過酷で、理不尽で受け入れがたい現実である。白石さんのお父さんによると、その人たちは、そうゆう運命を背負って生きてきたということなのだろう。その困難な状況を踏まえてどう運命を切り開いていくのか。自分の身の上の不幸をしっかりと受け止めて、今できることを精一杯こなしていく。森田理論を学習していて、ここが肝心なところだと感じている。
2013.11.30
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すぎもとまさとの「吾亦紅」は何とも言えない味わいがある。you tubeで見ていたら、他にもいい曲を歌っていた。その一つが「花のように鳥のように」である。歌詞がいい。「あるがままの生き方が 幸せに近い」一度、聞いてみられたらいかがだろうか。
2013.11.29
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生活の発見誌2013/12月号より、田原綾さんの森田先生の思い出話。先生は常に備えを忘れておられず、精神病の患者さんを診察なさるときはいつも、出口に近い方におられて、とびかかられた時は、いつでも逃げられるように用意しておられたということです。森田先生は、精神病の患者に殴られた事があったので、常に警戒されていたのであろうか。また森田先生は、みんなにこう言われていたそうです。「昔の侍の覚悟でおれ、サッと斬りかかられた時に、素早く応じられるように構えておけ。わしは、寝ていても、お前らが後で何をしているか、みんな分かっておる。」神経を四方八方に張り巡らせて、いろんな危険を想定して、いつでも変化に対応できるような心構えで生活するようにという教えだと思います。これも森田理論のポイントの一つですね。常に変化に対応していく。このこと一つを極めて行っても、森田の達人になれると思います。富士山は5つの登山口があるそうですが、頂上に着いてみれば、登山口が違っても同じところについている。森田理論も同じです。ものそのものになりきる。物の性を尽くす。一人一芸を目指す。日常茶飯事を丁寧にこなす。純な心に徹する。・・・等々。どの道でもよい。徹底して取り組んで、コツをつかんだ人は同じようなことをしゃべる。共通した話で盛り上がり、すぐに打ち解けることができる。要は徹底して実践してみることが大事だと思う。
2013.11.29
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不安の特徴について整理してみました。不安は欲望の裏返しです。欲望があるからこそ出てくるものです。不安が嫌で、不安を味わいたくない方は、欲望を持たなければよいのです。でも神経質性格を持っている人は、もともと強い欲望を持っていますからそんなことはできないと思います。この視点をはっきりとさせれば不安を取り去ろう、不安から逃げ回ることはなくなるだろうと思います。不安を取り去ろうという療法は間違いだと思います。はっきり言えば、金もうけのための手段です。不安を利用して、自分のほんとの欲望は何かを探る手がかりにしてみてはいかがでしょうか。自分の欲望が見えてきたら、生の欲望の発揮に邁進したらよいのです。その際も不安というブレーキの活用を考えないといけません。なにごともやり過ぎはいけません。バランスと失うとすぐに破綻してしまうのです。不安があるとそれをなんとかしたいという意欲ややる気がでてきます。不安は自主性、自発性の発揮に役だっています。その際、不安は人間が積極的に手を出して問題解決のために動かなければいけないものと、決して手を出して動いてはいけないものがあります。その割合は動かなければならないもの1割、動いてはならないもの9割です。動かないといけないものは素早く、どんなに予期不安があっても、不安を活かして行動しないといけません。動いてはいけないものは受け入れていくしかありません。これを森田理論では「境遇に柔順に、自然に服従しましょう」ということになります。どうにもならない不安をやりくりしようとすると、手段の自己目的化が起こります。本来不安は、欲望を発揮する時に障害物として目の前に立ちはだかってきたものです。不安と格闘することに力を入れると、生の欲望の発揮はおろそかになります。またどうにもならないことに挑戦するということは、永遠に苦しむことになります。それでも挑み続けるということは、精神交互作用により、蟻地獄の中心部に向かって落ち込んでいくことになります。不安というのは、きちんと取り扱い説明を森田理論で学習する必要があります。適切に利用すれば、こんなに役立つものはありません。反対に利用方法を誤ると、自分の人生、家族の人生、他人の人生を破たんに追いやるものなのです。
2013.11.29
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伊能忠敬は人生を二度生きた人だった。伊能忠敬は江戸時代の後期に千葉県で漁師の子として生まれた。働き者として認められて、当時没落しかけていた地元の商人、伊能家の養子となった。するとたちまち家を再興させて、37歳で佐原村の名主に推挙され、39歳で名字帯刀を許されている。押しも押されぬ大商人となったのである。これで一仕事終えて悠々自適の生活で、余生を過ごすのが普通であろう。ところが50歳の時、「この家での役割は終わった。これからは自分の好きなことをさせてくれ」といって江戸に出て、学問と測量の研究を始めた。当時の平均寿命が50歳ぐらいだったから、本来は楽隠居してもよい歳であった。74歳で没したが、56歳から72歳まで全国各地を測量して回り「大日本沿岸興地全図」を完成させた。史上初の日本全図である。伊能忠敬の活躍がなかったら日本は正確な地図を持つことはなかったのである。自身は喘息を持ち、たびたび病気にもかかり、また歯が悪く満足に食事もとれない状態であった。しかし当時としては長生きをして、大きな仕事を成し遂げた。これは台風のたびに氾濫する利根川をなんとか食い止める方法はないかと、家業の傍ら常に治水、天文、土木、算術、測量の研究をしており、それに火が付ついて弾みがつき、次のロケットに点火できたことが大きかった。伊能忠敬は好奇心の旺盛な人であった。この点我々神経質者と同じである。森田でいう生の欲望を発揮して、最高の生き方ができた人である。我々も伊能忠敬に学び、亡くなるまで燃えるような情熱を持ち続けたい。神経質性格を活かして、森田理論学習を続ければその可能性は高いと思われる。
2013.11.29
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プロ野球でコーチがフォアボールを連発するピッチャーのところにいって、「なにを恐れているんだ。ストライクを投げないと試合にならないじゃないか」ということがある。伝説の高畠コーチは、「そんな助言は効果がない。ますますそこに注意が向けられるからだ。そんなときは例えば、思い切って腕をふって投げてみろ、といって注意をはずしてあげることが必要なのです」といわれています。私たちは、注意を集中し、注意と感覚が相互に影響を与えて症状に陥っていくことを「精神交互作用」の更新と学習しました。注意は内向化して意識すればするほど、自分の願っている事とは反対の結果になるのです。反対に意識の無意識化が自然にスムーズにおこなわれていれば全く問題は起きないのです。これを脳の機能から説明している人がいます。高田明和医師です。私たちが体を動かそうとしている時に、脳では一体どんなことが起きているのか。頭に電極をあてて、脳の働きを示す電気活動を調べられました。すると不思議なことに、自分が手を動かそうとする0.3秒前には、すでに脳内に電気活動、つまり神経の活動が起きているのです。また一度やろうと思ったことをやめようと決めた時も、脳内では0.15秒前に電気活動が始まっているということが分かりました。これは私たちが自分で何かしようと思っている時は、その思いが意識に上る前に、脳は無意識の活動を始めているということです。野球でいえばまず体を鍛え、練習を積み重ねてストライクの球を投げられるように努力します。すると脳の方は、マウンドに立てば、0.3秒前には無意識的な活動をすでに開始しているのです。気がついたときはもうすでに球を投げていたということです。この無意識の脳の活動の時に、意識してストライクを投げようという考えを入れると、投球に悪影響を与えます。無意識の前に意識がちょっかいを出すのです。無意識の行動に任せておけば万事うまくいくのに、意識することによってとらわれが生まれます。注意を引きつけます。注意は不安を誘発して、スムーズな行動の流れを断ち切ってしまうのです。普段の練習では100%うまくいくのに、本番ではたびたび失敗をしてしまうという人は、無意識の心境になりきっていないのです。無意識を信頼していないといっても過言ではありません。森田理論はとらわれて意識化した状態を、いつの間にか無意識的状態に転化して、自然の流れの中に身を置いて生きていくことを目指しているのです。
2013.11.28
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最近の投稿記事は、次の3冊の本からヒントを得ています。「従病という生き方」 神山五郎 草思社「しょうびょう」と読みます。治らない病気だったら「闘病」は止めて病気を受け入れましょうという考え方を紹介されています。神山さんは、どもりの方です。この本は図書館で借りました。もうそろそろ返さないといけません。「子供を叱る前に読む本」 平井信義 PHPいたずら、おどけ、ふざけ、反抗する子、喧嘩する子は自発的な子に育つといわれています。またしつけは無用。子供を叱り付けることはしなくてもよいといわれています。ブックオフで105円で手に入れました。「心がやすらぐ本」 山崎房一 PHPそのままの自分に常に100点満点をつけましょうといわれています。この人の本は10冊以上読みました。もう亡くなられています。これも、ブックオフで105円で手に入れました。
2013.11.27
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私は良寛さんの生き方に傾倒している。しかし若いころの良寛さんには、こんなエピソードが残っている。岡山県玉島の円通寺で修業していた時に、仙桂和尚という20歳以上年上の僧のことを語っている。仙桂和尚は僧侶たちの食事を作ったり、菜園で野菜をつくる典座という役割であった。良寛さんは、当時仙桂和尚さんによいイメージは持っていなかったようです。良寛さんは、寺で参禅し、経文を読み、禅語録に触れることが修業であり、立派な僧になることであると思っておられたようです。台所で食事を作り、菜園を耕すなどの仕事をする人は下男か作男ぐらいにしか思っておられなかったのです。ところが、その後越後の国上の五合庵で暮らしている時こんな歌を詠んでいる。「仙桂和尚こそは、真の仏道者である。彼は黙して語らず、朴訥にしてうわべを飾らぬ人であった。30年間、国仙和尚のもとにあっても、参禅もせず、読経もせず、宗門の教えの一言も口にせず、ただ畑を耕して雲水たちに供養していた。円通寺当時、私は桂仙和尚を見ていながらも真の姿を見ていず、遇っていながらも真の心に遇っていなかった。ああ、今になって彼にならおうとしても、もはやどうすることもできない。誠に仙桂和尚は真に仏道を会得した人であった」森田理論の学習の深耕に明け暮れている人には衝撃的な話である。これを私なりに解釈するとこうである。森田理論をいくら深めて理論武装しても、森田の基本である規則正しい生活をしていない人は見るべきところがない。また日常茶飯事、雑事をいい加減にこなしている人には、森田理論は無用の長物であるといっているのである。そういえばがちがちの神経質性格を持ちながらも、神経質のプラス面を仕事、学業、家事、育児にいかんなく発揮している人がいる。その人たちは森田理論自体知らないし、また必要としていない。森田を勉強している人は、理論を深めるための学習をするのではなく、よりよい生活に変えていくための視点に早く切り替えてゆくべきではないでしょうか。森田の達人という人は、理論を深めた人の中にはいない。生活を変えていった人の中にしか現れてこないと思う。
2013.11.27
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杉本厚夫氏に「かくれんぼ」ができない子供たちという本がある。その中に、以前京都で子供たちのキャンプを企画、実施されていた内容の記載がある。その中に三原則というものがあり、大変森田の考えに近い。紹介してみたい。キャンプには「フェロー」という人がいる。約10名の子どもたちを世話をする大学生である。将来は学校の先生を目指している人たちだ。フェロー三原則はこうだ。1、 教えない。遊びについて「こうしたらいい」とか、「ああしたらいい」とかいった「教え」や「指示」は一切要りません。目的は、その遊びができたかどうかという結果ではなく、遊びの過程を楽しめたかどうかです。子供たちと一緒に考え、一緒に遊びを楽しんでください。2、 急がさない。「早く、早く」と急がせることは決してしないでください。プログラムは消化するためにあるのではなく、楽しむためにあるのです。余裕を持ってプログラムは作ってありますが、次のプログラムの時間がきたら、途中でやめて次に移ります。遊びの自由さを十分に味わってほしいです。3、 まとめない。グループに入ってこられない子がいても、無理やり入れることはしないでください。一緒にやろうという声はかけますが、みなが楽しくやっていれば必ず入ってきます。そのうちに入ってきたらよいという程度に考えてください。ただ、目の届く範囲で、安全の確保だけはしてください。教えないで子供たち自身に考えさせる。価値観を押し付けないで、子供たちのペースで自由に伸び伸びとやらせる。近くにいてやり、子供たちのやっている事を見ているだけで、指示はしない。普段の生活でも、こうした育て方を小さいときから受けていると、子供たちは親の後ろ盾を感じてのびのびと育つ。ガミガミと叱責、指示、命令されることがないので、自主的、積極的に遊んで、好奇心いっぱいの子どもに育ってゆくのではなかろうか。これは大人同士の人間関係にも参考になります。
2013.11.27
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私は大学卒業後、出版社に入りました。本当は編集部を希望しましたが、営業部に回されました。訪問営業でした。いわゆる飛び込み営業です。対人恐怖の私にはとても耐えられない職場でした。なんとか9年頑張りましたが、それが限界でした。訪問営業というのはほとんどの人から断られるのです。断られると自尊心がとても傷つくのです。森田を27年も学習してきて、対人恐怖は治っただろうから、今だったらできるのではと思われる方がいるかもしれません。とんでもありません。私は今でも訪問営業の仕事はできません。私は他人の思惑がとても気になり、自分のことを非難されたり、無視されたり、バカにされるということはいまだに耐えられません。これは死ぬる間際まで続くと思います。その不安、不快な気持ちは持ち続けていくしかないと思っています。そしたら森田学習はいったい何のためだったのだろうかと思われる方もいるだろうと思います。症状を治すことのできない森田療法は意味ないのではないのかと思われるかもしれません。そんな人に私は言いたいことがあります。森田理論は症状を治すための理論ではありません。神経質性格を持った人間が、神経質性格を活かして、充実した味わいのある人生を送るための理論なのです。神経症を治すことよりも、どう生きて行ったら満足できる生き方ができるかを問いかけている理論なのです。そういう意味では、私は対人恐怖は克服することはできませんでした。またこれからもできないでしょう。そのとらわれやすい点は持ち続けるしかないと思います。でも森田先生の生き方を真似てみる、森田先生の考え方を生活の中に取り入れてみるということで、まずまずの成果を上げることができました。そして人間に生れてきた喜び、神経質性格を持って生まれてきた自分をいとおしく思えるようになってきました。森田先生は人生観が変わったから、神経症が治ったのだといわれています。普通の人は神経症を治して、そのあとで人生観を確立しようとします。順序が逆だと思います。薬物療法にしても認知行動療法、その他心理療法にしても、ほとんど症状を取り去ろうとしています。昔から「急がば回れ」と言います。短絡的な方法よりも、もっと地に足のついた方法の方が自分にとってはよかったと思っております。今後は森田の真髄を伝え続けることに一生を捧げていけたらよいと思います。
2013.11.26
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他人に自分の「かくあるべし」を押し付けないために、リフレクションという手法があるそうです。とても簡単で自分の生活に応用できます。相手に不満を感じている人が、その不満を相手に話します。普通はあなたメッセージで話すことが多いかもしれません。「あなたはどうしてゴミをだしてくれないの。家事を分担してあげるとあなた言ってたじゃない。約束を果たしてよ」これでは喧嘩になります。その時「私メッセージ」で私を主語にして話します。例えば妻が夫に「あなたが私の代わりにゴミ出しを手伝ってくれたらうれしいんだけどね」といういい方です。次にこれを聞いた人の対応。相手が話したことの要点を掴んで、そのまま口に出して相手の話の内容を繰り返すということです。「僕がごみを出すと君は助かるんだね」と返すのです。これがリフレクションです。最初から自分の希望や気持ちは言わない。「僕だって朝は忙しいんだよ。」「それぐらい主婦の仕事だろ」なとどとは決して言わない。まずは相手の話す内容を繰り返すというだけのことです。こうゆう気持ちで相手に接しようという気持ちがあると、「かくあるべし」で自分の意見のおしつけということがいったん押さえることができます。相手の話を最後まで、よく聞いていないと適切な返答はできません。歌舞伎でも落語でも「間」を大事にしますが、この方法は人間関係の「間」にあたるものです。「間」を大切にすれば潤滑油の効いた機械のように人間関係は好転します。森田理論でいうと「かくあるべし」で指示、命令、強制などは差し控えるということです。
2013.11.26
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山崎房一さんの言葉です。人生はドラマ 人間はみんな役者 社会が舞台それは 本心に関係なく演技することだ 役者になることだ役者は気分がすぐれないときでもまた嫌な相手であってもいつも最高の演技を見せてくれる役は 本心とは違うこところにあるからです本心でない言動は嘘であり道徳に反するという考え方が人間関係をこわしてしまうのは役を演じることを忘れ本心をむき出しにしてしまうから本心で生きる人を世間では未熟で幼稚な人と見ます他人は私を 私の外面 即ち 言葉や態度で評価する今までは私は私の内面 即ち 心の動きで自分を評価していたそのような自分を自分の心の動きで評価する無意味なことはやめること人間関係を円滑にし 心の安定を願うなら言葉や態度を心の動きから完全に切り離し役を演じながら生活すればいいそうすれば人相もよくなるその妙を心得ている人物を私たちは円熟した人と呼ぶのではないでしょうか森田理論では心の中に浮かぶどんなに醜い感情でも、自然現象ですから人間は自由にコントロールすることはできません。ただその感情を受け入れるだけです。つらくてもじっと味わうことしかできません。やりくりしたり、逃げだせば苦しみは増すばかりです。今は苦しいし、悲しい気持ちがいっぱいだから仕事はしませんというのでは困ります。もしあなたが俳優や女優ならば、それまでのつらい感情は横において、立派に人を感動させる演技者として立ち向かわなければなりません。感情は感情。どこまでも開放状態にしておく。そして行動は感情とは切り離して考える。この考え方こそが森田理論の教えてくれている事です。
2013.11.25
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山崎房一さんの詩を紹介します。自分にとって一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです自分にとって自分は自分の安住地でなくてはなりません他人がどんなに自分のことを非難したり、無視したり、バカにしても、自分が自分の後ろ盾となり、かばって守り通す意思があれば生き抜くことができます。反対に自分の中にいるもう一人の自分が、現実で苦しんでいる自分に、後ろから他人と一緒になって石を投げつけることをしたらもう生きていくことはできません。
2013.11.24
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人間の脳には快楽を感知する部位があり、人間の行動はほとんど快楽を求めている結果なのだという人がいる。面白い考えである。確かに、快楽につながる行為にはやる気、意欲がでてくる。人間の三大欲求といわれる、食欲、性欲、睡眠も、元はと言えば快楽を志向している。それらが満たされる満ち足りた気持ちになる。森田理論は常に感じから出発せよと教えている。マズローに安全への欲求がある。自分の身に危険が迫って来た時、弱い相手には力で屈服させ、強い相手からはすぐに逃げるという行動をとる。人間には相手と闘争するという本能がある。それが発展したものが征服欲求である。これらの行動は、決して後ろ向きではない。常に快の感情を伴う。快楽を求めたごく自然の行為なのである。また仲間と楽しく過ごす。仲間とともに協力して助け合う。これも快楽の元になる脳内モルヒネがたくさん出てくる。最終的には、自分の能力を発揮して、自分のできうる最高のことをめざして、みんなから一目おかれる存在になりたい。これは究極の快の感情が生まれてくる。この快楽をキャッチしているのは、主として大脳辺縁系(一部大脳新皮質)からなるエー・テン神経であるという。どちらかというと他の動物も持っている神経である。快楽を求める本能があるからこそ、人間は意欲を持つことができ、成長発展できるのである。ところがそれがいったんやみくもに暴走を始めると大変危険なことになる。人間が他の動物と大いに異なり、大脳新皮質が高度に発達している。それで調整してバランスを取らないと破たんしてしまう。これは例えば包丁と同じで、うまく使えば料理を作る時に役立つが、反対に悪く使うと人を殺す道具にもなる。使い分けのできない人にとっては危険きわまりのないものとなる。だから快楽を求めるにあたっては、必ずきちんとした制御が働かないと、自分自身の破滅を招いてしまう。神経症にしても、不安、恐怖から一時的な快楽を求めて逃避するということが多い。それが癖になり、逃げまくってばかりいると、症状として固着してくる。世界の出来事を見ると戦争、侵略、本能丸出しの目をそむけたくなる行為が多発している。現代人は、自らを律する生き方の探求とそれにもとづく行動の確立が重要であると思う。日本には、言葉はあまり良くないが新渡戸稲造氏の提唱した「武士道」の生き方というものがあった。その精神だけは受け継いで行きたいと思う。
2013.11.24
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神山五郎さんはアルコール中毒、仕事中毒、煙草中毒、肥満などを、頑張って治そうとしても、かえって意識がそのことに引きつけられて、元の木阿弥になってしまうことが多いといいます。それが成功した人たちにはある共通した特徴があるそうです。まず第1に、新しい生活習慣を身につけることで、古い生活習慣を押し出している。第2に、ユーモアのセンスがある。この2つだそうです。第1の方ですが、禁煙を思い立った時に、子どもが生まれて、子どもに煙を吸わせたくないと意識して生活するうちに禁煙できた。ダイエットしたいと思っていた時に、恋人ができてダイエットが始まった。つまり今までの生活習慣が、内部的、外部的な要因によって変化するということによって、依存症から抜け出ることができるということです。このケースでは、子どもを健康に育てたい、あるいは恋人に好かれたいという目標が、依存症の克服に役立っているわけです。つまり新しい目標を達成するために努力する、という生活が依存症の脱却に一役買っているわけです。第2のユーモアですが、例えばユーモア小話を作っている人は、目の付けどころはいつもネタ探しに向いています。ネタが見つかるといかに面白い話に仕上げるか話の構成にとりかかります。出来上がると、実際に披露することを想定して練習を積みます。そして初めてみんなの前で披露していきます。当然反応が気になります。つまりユーモアのセンスのある人は、気持ちが外向きになっています。頭の中で、症状以外に考えている事がたくさんあります。自分の症状に集中してばかりではいられないのです。この二つは神経症の克服に役立つことです。いずれも大切だと思います。特に、神経質な人はユーモアを持ち合せている人が少ない。森田先生に学び一人一芸を身につけてみんなを喜ばす。あるいはユーモア小話や川柳などを極めてみてはいかがでしょうか。最後に私の作った川柳を紹介しましょう。来年の馬年の「生活の発見誌」投稿用です。馬になれ 孫が飛び乗り ムチを打つ
2013.11.23
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神山五郎さんのお話です。腕が上がらない人に、徐々に運動をさせることで、腕が上がるようになってきたというのは医療の仕事です。でも中にはどんなことをしても腕が上がらない。たとえ上がっても、以前ほど上がらない。そうなると、医療ではどうにもならない。そこまでいって、引き受けるのがリハビリなのです。つまりリハビリで大事なことは、まず患者さんが、一生障害が残るということを受け入れるということなのです。やみくもに、完全な治癒を目指して頑張るということをあきらめることなのです。これはなかなか受け入れることが難しいです。大きな壁となって立ちふさがります。でも障害を受容できるかどうかが、その後の生き方を大きく左右します。どうにもならないことに、時間をかけるのではなく、自分のできることに力を注ぐ方がはるかに有益です。治らないことに一生懸命励むことは決してリハビリではありません。それは拷問と一緒です。そうした覚悟が一旦できてくると、障害が残ることを前提にして、より現実的な目標に向かって動き出すことができます。例えば脳梗塞で右手が動かなくなった人には、右手は麻痺したままでも、左手で筆を握れるように訓練したり、箸を使えるように訓練していくことなのです。右手の麻痺を治すということができればいいのですが、全員の麻痺を治すことは現代の医療をもってしてもだめなのです。森田理論でも自分の欠点や弱み、気になって仕方のないことを取り除こうとしないで、それを引き受ける姿勢に切り替えること。それが症状を克服するとともに、その後の生き方を建設的に変えてしまうのだということをしっかりと認識してほしいと思います。
2013.11.22
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神山五郎氏の「従病という生き方」の内容は森田理論そのものである。ぜひ一読をお勧めします。この中にアルコール依存症の記述がある。91ページである。アルコール依存症の人は、当初は「自分はただ飲まなければいいだけなんだ」と思っているのが一般的だといわれる。飲んでいる時は乱れても、飲んでいないときはなにも問題がないことが多いので、本人も周囲もそれほど深刻な問題だとは思っていない。この段階では、医師がいくら「治療」しても効果はない。仮に治癒したかのように見えてもすぐに再発する。ところが、何度も失敗を繰り返すうちに、だんだんと友人や家族から見放され、配偶者からも離縁されたりします。経済的にも行き詰まり、時には浮浪者になったりして、「これは自分では治すことができない」と白旗をあげる。もう後がない。「もうだめだ」と覚悟したときに始めて治療が可能になるのです。ところがそこに行く前に、家族や後援者が介入してくると厄介なことになる。「あいつには困ったものだ」と言いながら、借金の穴埋めをしたり、不始末の後処理をしたりしていると、本人は最後の覚悟ができなくなってしまう。そして同じ過ちを何度も犯してしまう。愛で治そうとする人がいるうちはダメなのです。職場からも家族からも見放され、路頭に迷い、生活保護を求めてそれでやっと本気になる。治療を始めるには「どん底まで落ちる」ということがどうしても必要なのです。このことは神経症の治し方と一緒です。何年も苦しみ、もう自分の症状は治しようがない、このまま地獄におちてしまうけれども、自分としてはどうすることもできない。と治すのをあきらめた時に、初めて遠くに光が見えてくるのです。玉野井幹雄さんは、「地獄に家を建てて住む」という覚悟ができた時に、神経症はすぐに治すことができるといわれています。
2013.11.21
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血糖値をあげるホルモンはたくさんある。成長ホルモン、甲状腺ホルモン、コルチゾール、アドレナリン(エビネフリン)、ノルアドレナリン(ノルエビネフリン)、グルカゴンなどである。以上6つもある。これに対して血糖値を下げるのは、膵臓からでるインスリン一つである。人間の体は、とてもよくできているのに、こんなアンバランスはなぜ起こったのか。実はこれはアンバランスではない。ちゃんとバランスがとれているのである。これは人類の歴史に関係する。人類の誕生は約600万年前と言われている。そのほとんどの期間、人類は飢餓との闘いの歴史であった。そんな状況下にあっては、生命維持のための血糖値を高めるホルモンがとても重要であったのです。血糖値を下げる必要はほとんど皆無であったと思われます。そういう意味で、きちんとバランスがとれていたのです。ところが最近は事情が全く違ってきました。現在の日本人は、食べ物は金さえ出せば、どんなものでも手に入る。飽食三昧である。今や、処理しきれないほどの糖を体中にため込み、糖尿病などの病気に悩まされるようになってきた。これは敗戦後60年間に起きたことである。こういう時代で健康に生きていくためには、血糖値を上げるホルモンと、血糖値を下げるホルモンの数は逆転しないと、生命維持にはつながらない。ところが600万年もかけて作り上げてきた、人体の仕組みはそう簡単に切り替えることは出来ないのである。すると人間が生き延びようとすれば、自分の生活を改めていくしかない。飽食の食生活を改めて、粗食の食生活に戻すことである。しかし、放っておくと人間は快楽を求めて欲望が暴走するようにできている。本能的欲望が強すぎて、制御機能としての前頭葉の働きはあまりあてにできないのかと悲観的になってしまう。でも人体の仕組みを見つめ直し、また欲望の暴走の弊害を考えていく道しか、人類には残されていないように思う。
2013.11.20
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「銀座のプロは世界一」より、ビール注ぎ名人の話です。この道38年の海老原さんは、最高のビールを提供するには準備が8割だといいます。「注ぎ」「発注」「洗浄」の3つが大切だといいます。その中でも、「ビールは洗浄に始まり、洗浄に終わる」と断言されています。1000リットル入りのタンクが6つあり、そのうち4本にビールが入っている。2本は洗浄できる。そのタンクの中に入り込み、1本当たり40分をかけて丁寧に洗浄するそうです。室温は2.1度に設定されているからとにかく寒い。これを2日に一度はおこなう。骨身にこたえる重労働だ。次は地下のタンクからビヤホールまで伸びているホースの洗浄だ。ホースの内部にちょっとした汚れでもあると、ジョッキの泡が粗くなってしまうという。最後はジョッキの洗浄だ。しっかり洗う。そしてビールを注ぐ直前まで氷水の中につけておく。布で拭いたり、乾燥させるとジョッキ内にどうしても埃がついてしまうという。埃や汚れはきめ細かな泡の敵であるという。また発注にも気をつかう。ビールは鮮度が命だからだ。少なすぎても、多すぎても問題だといいます。また運ばれてきたビールはすぐには出しません。炭酸ガスを落ち着かせるため、丸一日タンクで休ませます。こうしたプロセスを踏んでお客様をうならせるビールが提供できているのです。これは森田理論でいう「ものそのものになりきる」という具体的な例です。ビール注ぎ一つとっても、「そのものになりきる」と、とても奥が深いものです。ぜひ参考にしていただきたいと思います。
2013.11.19
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平井信義さんは、次のように言われています。家庭がユーモアにあふれ、笑いに満ちている事は子どもの情緒の安定に大きく影響します。日本では真面目であるということが重宝されますが、欧米ではユーモアがある人間が評価されます。そういえば、今までにぎやかに楽しく夕食などをとっていたのに、お父さんが帰って来たとたんにお通夜のようになり、早々に自分の部屋に引き揚げていくという家庭はないでしょうか。お父さんはまじめ一方で、ユーモアなんか考えたこともない。とにかく子どもが騒いだり、ふざけたり、おどけたりするとイライラして、すぐに怒鳴りつけてしまう。小さいときから、そういうしつけをされると、ふざけたり、おどけたり、変なことを口にするということをしなくなります。すると家庭の空気は重苦しくなり、家庭に居づらくなります。平井さんは、小学校5年生のこんな作文を紹介されています。とても明るい家庭です。私のカアちゃん、バカ母ちゃん!私のカアちゃんはバカです。野菜の煮物をしながら、洗濯ものを干しに庭に出たら、煮物が吹きこぼれ、父ちゃんから、「オイ、バカ。煮物が溢れてるぞ!」と言われて、慌てて、洗濯ものを竿ごと放り出して台所へ駆け込みました。洗濯物は泥だらけです。「バカだなあ」と言われて、「ごめんね。父ちゃん、カンベンね」とおどける母ちゃんです。しかし、母ちゃんを叱るその父ちゃんも実はバカ父ちゃんです。ある朝、慌てて飛び起きてきて、「ご飯はいらん」と洋服に着替え、鞄を抱えて玄関から走り去りました。すると母ちゃんが、「バカだね。父ちゃん。今日は日曜日なのにね。また寝ぼけちゃってまあ!」そういうバカ母ちゃんとバカ父ちゃんの間に生まれた私が、利口なはずはありません。弟もバカです。家中みんなバカです。・・・しかし私は大きくなったら、私のバカ母ちゃんのような女性になって、私のバカ父ちゃんのような人と結婚し、私と弟のようなバカ姉弟を産んで、家中みんなでアハハアハハと明るく笑って暮らしたいと思います。私の大好きなバカ母チャン。なんともいえない、ほのぼのとした作文です。家族の失敗を誰も責めない。失敗をユーモアに変えることができる。不完全な人間が普通だという包容力の広さを感じる。失敗を隠したりしないで、あっけらかんとしていられる。事実をそのまま受け入れて生きることの自由さをよく理解している。そういう人が4人も集まると、毎日が祭りのような楽しさがあります。
2013.11.18
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我々は常に快楽を追い求めている。物質的欲望、飽食の世の中である。さしずめ現代人は金もうけ、拝金主義、利潤追求にとりつかれている。金もうけのためなら、生活なんかどうなったって構わないという風潮である。本来自分たちの生活を改善して、精神的に安定して、生きがいを持って生きていくという一番大事なことが忘れ去られてしまった。戦争をして人を殺したって構わない。自分の国が豊かになるためには、よその国を犠牲にするのは当たり前。世の中がそのサイクルで回っていると、どうしてもその影響を強く受けてしまう。最近読んだ「農をめぐる旅」という本にこんなことが書いてあった。霜降り肉というのは、牛を一種の病気にして作りだすのだという。ビタミンをやらなかったり、草をやらなかったり、光を当てなかったり、外部の人からは見えにくいのですが、牛をいきものとしてみるのではなく、高く売れる肉を作り出すことだけが目的になっている。霜降り肉というのは、人間でいえば内臓脂肪がついた肥満児です。さまざまな病気の原因となります。またブロイラーには抗生物質が使われています。鶏は腸内の微生物によって成長が抑制されるということがあって、その微生物を殺すために抗生物質が使われているのです。一刻も早く太らせて出荷したいという人間の欲がそうさせているのです。もともと腸内微生物は、外部からの病原菌の侵入に対して鶏の体を守る防御機能として役に立っているものだったのです。今や卵を産む鶏にしても「抗生物質漬け」となっているそうです。これらについて森田理論はどう考えているのか。我々は不安にとりつかれて本来の欲望を見失って、不安と格闘しています。また一方では、本能的欲望は野放しにして、物質的欲望にどっぷりつかった生活をしています。我々には、本来は生命の危機という大きな不安を感じる力を持っています。その貴重なシグナルを、もっともっと建設的に活かすようにしたらどうでしょうか。つまり人間の本能に近い欲望を野放しにしておくことの弊害をよく観察することだと思います。この拝金主義というのは、いずれは人類の滅亡につながります。森田理論が教えてくれた、「生の欲望」から出発するということは正しいことです。でも、それが暴走を繰り返すことは絶対に避けなければなりません。そのためには、人間に備わっている不安、恐怖を最大限に活かして、歯止めをかけて調和のとれた社会を築いてゆくことではないでしょうか。私は「欲望と不安」はこのように活かしていくことを提案したいのです。
2013.11.17
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「かくあるべし」で子供を追い込んでいくことは森田理論とは無縁のことです。そうかといって子供を甘えさすということも別の意味で大きな問題です。お菓子が欲しいといえばすぐに買い与える。おもちゃが欲しければすぐに買ってやる。遊園地、動物園、水族館に行きたいといえばすぐに連れて行く。お金がいるといえばすぐに用立ててやる。わがままに付き合っていると将来大変なことになる。森田先生の話。この間5つになる女の子を熱海に連れていった。感冒で熱が38度もあった。機嫌が悪くて、いろいろ駄々っ子をいう。寝ていなければならぬといっても抱っこをしてくれと言って泣く。抱っこをしてやれば今度は「外へ行く、外へ行く」という。熱があって気持ちが悪いから、風にあたればよかろうと、子供ながらに考えるのでしょう。少し訳の分かった母親は、子供の駄々っ子は、いい加減にあしらって、静かに寝かせておくが、気の軽い親は、別に深い思慮も何もなく、子供のねだるままに、なんでもその通りにしてやって決して病のためにはよくない。我慢したり、耐えたり、親の意見に従うという経験を持たない子供は、大きくなって苦労する。
2013.11.17
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アダルトチルドレンについて明橋大二さんの本から引用します。「もともとは、アルコール依存症の親のもとで育ち、心の傷を受けた子どもが、大人になってからも、さまざまな心の問題で苦しむことから名づけられたものです。しかし現在では、もう少し範囲を広げ、いろいろな機能不全家族の中で成長してきた大人のことを指します。機能不全家族とは、例えば、親のアルコール依存症や暴力、両親の不仲、両親の不在などです。その中で、子どもは、親代わりに弟妹の世話をしたり、親の愚痴の聞き役になったり、暗い家の中を、何とか明るくしようとする道化師の役を演じたりします。そんな中で大人になったアダルトチルドレンは、常に親や他人の顔色をうかがい、自己主張が全くできない人になります。どうしてそうなるのか、というと、常に相手の機嫌をとっていないと、相手は自分から去っていく、見捨てられてしまう、と思っているからです。ありのままの自分を大切にされた事がなく、自分の本音を出したら、ただちに捨てられる、と思うのです。アダルトチルドレンの本質は、自己評価の低さです。」これはすばり私に、そのままあてはまります。ではどうしたらよいのでしょうか。私はまずそうした自分を、自覚して受け入れることだと思います。アダルトチルドレンの定義を理解して、親を恨んでも仕方ないと思います。そもそも完璧な親はめったにいないと思います。自覚したあとは、そんな自分が、何とか社会に適応するように、多少修正してゆけばよいと思います。でも完全には修正できないと思います。普通の人のように明るく、あっけらかんとは生きていけません。でも、少しだけ修正すれば、なんとか生きていけます。その際森田理論の学習は大いに役に立ちます。私の場合、特に「神経質の性格特徴」の学習が役に立ちました。性格には両面性があり、短所の裏には長所が隠れているという学習です。私は気が小さい、他人の思惑にまどわされやすい。これは一面では心配性で、気苦労が多いということです。これを逆手にとれば、感受性が強いということです。感受性が強いということは、かすかな感情も敏感にとらえられるすぐれたレーダーを備え付けているようなものです。このレーダーを使って、芸術を鑑賞したり、細かい雑事にていねいに取り組んだり、人のために役立つことを実践すればよいと思ったのです。その方向で生きてきました。すごい威力があることが分かりました。自分の存在価値を見直すきっかけとなりました。アダルトチルドレンの人は、いつも生きていくのが重苦しいと思います。でもそれを親のせいにしている限り、何の変化も期待できません。森田理論の学習で、その状態を突破できる道があることを、知っていただきたいと思っております。
2013.11.16
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神経症の人は会社でミスなどをすると、自分はダメだ、情けないと思うだけならまだよいのですが、もうこの会社での居場所はない。辞めるしかない。等と物事をすぐに飛躍させます。また自分の容姿などに不満を持っていると、もう人前に出ることはできない。人を避けて生きていくしかないというように考える傾向があります。これらは誰にでもあることを、あたかも自分だけのことのように考えて、この障害を取り除かないと、生きていくことができないと勝手に思い込んでいるのです。これは神経症に落ち込む人の特徴です。非常に視野が狭くなっています。「井の中の蛙大海を知らず」の状態です。極めて危ういと思います。例えば円錐形の物体を真下や真上から見てこれは丸い物体であるといっているようなものです。また真横から見てこの物体は三角の物体であるといっているようなものです。上からも、横からも、斜めからも見ていくとすぐに円錐形であることに気がつくはずです。田原総一郎氏の司会する「朝まで生テレビ」などは、テーマに対して賛成する人と反対する人を呼んでいます。賛成の人ばかりでは番組が成り立たないのです。反対の意見を聞いて議論を進めないと議論の本質が見えてこないのです。森田には両面観という考え方があります。バランスをとって考えなさいということです。この考え方を身につける必要があります。性格でも短所の裏には必ず長所が隠れています。短所はそのままにして、長所を活かす道を考えてみることが大切です。面白い話があります。デルというパソコン販売のメーカーがあります。デルは販売チャンネルを持ってはいません。普通のパソコンメーカーは、販社、代理店、小売りなどの販売チャンネルを持って販売しています。それが確立していないと、パソコンは販売できないという先入観がありました。ところがデルが、インターネットでお客様から注文を取り、全世界で生産、販売を始めました。すると、今まで販売体制を確立していた既存メーカーの強みは、一挙に弱みへと転落してゆきました。施設や物量拠点、小売りのシステムを急に変更することができなかったのです。それらにかかる経費は相当なものです。商品に転化していかざるを得ません。デルははるかに少ない在庫で、流通や小売りのコストを最小限に抑えているのですから、大人と子どもが相撲を取るような結果となってしまいました。これを自分は販売チャネルがないから、どうしようもない。入り込む余地は全くない。もう生きていけない。等と考えていたら永遠に道は閉ざされたままです。欠点の裏には、必ず長所があるのです。そうした見方で、試行錯誤して考え、試してみる。そういう生き方を身につけたいものです。
2013.11.16
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子どもがもたもたしていると、つい言葉としてでるのは、「だめです」「はやくしなさい」「何度言ったらわかるの」等です。これらは子どもによって、自分の気持ちがイライラして我慢がならないのです。いくら遅くても、間違ったことをしてもじっと待ってやり、失敗しても叱らずに「今度は頑張ろうね」というようにしたらどうでしょうか。子育ては「我慢」の連続だという人がいます。つい口を挟みたくなるのを、じっと我慢して、やさしく子どもを見守ることができる親は素晴らしいと思います。でないと子どもの将来に関わります。また自分の欠点などを気にする人も多い。容姿が悪い。身体に欠陥がある。能力がない。等です。これらが我慢できずに、自己改造しようと努力する人もいる。自分が気にしているほど、他人は気にしていないにもかかわらず、大いに気にしている。たとえ、重大な欠陥でも、これらはどうしようもないことである。どうしようもないことは永遠に受け入れていく方が得策だ。またよく観察していくと、欠点と同じだけの長所もあって釣り合いがとれている事が多い。それが自然の摂理だと思う。また欠点というのは、見方を変えると素晴らしい長所にも見えてくる。これは我慢するというよりも、認識の誤りを正してゆくのが先決ではなかろうか。親の死、子どもが先立つなどの不幸、また東日本大震災で犠牲なった方のご遺族の悲しみなどは当分消えるものではない。折に触れて、思い出すたび悲しみが襲ってくる。傷が癒えることはないかもしれない。時間がかかる。でも長い目で見ると、いずれは時間が癒してくれるのではないでしょうか。神経質者は欲しいものがあると、何が何でも手に入れないと気がすまないという特徴もあります。せっかちに向う見ずの行動をとることがあります。無駄なものを買ったり軽率な行動をとって後で後悔することも多くなります。この点も少し我慢して、時間をおいて再度検討してみるという姿勢が大切だと思います。つまり間をとるということである。これだけのことを心がけるだけでも、不安などに対する対応は大きく変化してくると思う。
2013.11.15
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神経質な人はせっかちな人が多いと思います。イヤな感情は時間がたてば、無くなるか、薄まっていく。少しぐらい耐えたり、我慢すればよいのに、それができない人が多い。そんなことをすれば、感情が暴走して大混乱に陥るという人もいる。実際は決してそんなことは起こらない。体験してみることが一番だ。そう思う人は、一刻も早く、不安の種を取り去ってスッキリしたのだと思う。昨日の投稿で不安、恐怖、不快感、違和感を取り去ってくれるのは、「時間の経過」しかないと書いた。それではどれぐらいの時間耐えればよいのだろうか。まず、神経質者は、腹が立ったらすぐに爆発する。あまりにも手ごわい人からはすぐに逃げる。その後はその人を避けて近づかないようにする。森田先生は3日我慢して、それでも腹が立つようなら腹が立つだけの理由があるのだから、論争を挑んでもよいといわれています。腹が立った時はせめて3日は我慢するようにしたらどうだろう。夫婦喧嘩というものは、小出しにするようなものではない。いつも腹を立てていると、あの人はああいう人で箸にも棒にもかからないつまらない人だと思われてしまう。森田先生のやり方は、理不尽な行動の数々をノートに書き留めておき、いざという時にまとめて大喧嘩をすればよいといわれています。それまでは心の中にしまっておくことだ。これは10日から1カ月ぐらいは我慢した方がよさそうです。
2013.11.15
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昨日の投稿の続きです。注意点を2点申し上げます。まずその1。不安、恐怖、不快感、違和感は「時間の経過」に任せてそのままにしておけば、いずれおさまっていくと書きました。9割がたそうだと思います。問題は残り1割です。これは「時間の経過」に任せてほおっておいはいけません。すぐに対応策を考えて、行動を起こした方がよいのです。行動を起こさなければ、将来大変な事態が予想されます。ラインハート・ニーバンは次のようにいっています。1、変えることができないものについては、それを「受け入れる平静さ」を2、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持つ3、そして、変えることのできないものと変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい変えるべきものとは、人のためになること、将来に明るい展望が開けるものの2点です。それ以外のことは、すべて受け入れる。やりくりしたり逃げたりしない。「時間の経過」に任せて、不安を持ちこたえたままなすべきことをなしていく。このスタンスで大丈夫です。
2013.11.15
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神経症は誰にでもある不安、恐怖、不快感、違和感などを、これがあってはいけないと思って取り去ろうとすることから始まります。それらのイヤな感情は取り去ることができます。取り去ることができなくても、気にならなくなったり、薄まってきます。どうしたらそうなるのか。その方法をお教えしましよう。その前に、自分で格闘している限り取り去ることはできません。取り去ろうとすればするほど症状は強くなってしまいます。最終的には日常生活、対人関係に支障をきたします。逆にいえば、イヤな感情は自分で格闘しなくても取り去ることができるということです。自分で解決しなくてもよい。する必要はない。関わることをしなくてもよいものです。他人でもできません。集談会などに参加して人に頼って、取り去ろうとしても無駄な努力です。お医者様に頼ったり、薬でもできません。SSRIなどで不安を一時的に軽くすることはできますが、対症療法ですから薬をやめれば再発します。信じられないかもしれませんが、不安、恐怖、不快感、違和感を取り去るのはただ一つ。「時間の経過」がその役割を担っています。「時間の経過」が解決してくれる。「時間の経過」に任せておけばよいということです。森田先生の言われている感情の法則1はまさしくこのことを言われています。どんなにつらい経験でも、どんなに腹が立っても、後で振り返ってみればたいしたことではなかったという経験は誰でもされていると思います。肉親の死などは、「時間が経過」しても折に触れて思い出すこともあるでしょう。でも亡くなった当時の感情と比べると、多少なりとも薄くなっていると思います。不安、恐怖、不快感、違和感との格闘をやめて、「時間の経過」に任せるという考えかたはとても重要です。そうゆう自覚があれば、一時的にとらわれることはあっても、とらわれ続けるということはなくなります。不安などに対する対応がはっきりしてきます。たとえてみれば、注射をするときはちょっと痛みがありますが、病気を治したり、血液検査のためと思えば、その時の少しぐらいの痛みは耐えることができます。そして、その時にやるべきことや興味のあることに目を向けて、建設的、生産的、創造的な生活に邁進することができるようになります。
2013.11.14
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生活の発見誌2013年11月号。72ページより森田では、不安や症状はそのままに、日常の生活の中でなすべきことを実行しなさい、と教えている。修養により自分を強い人間に変えるといったような非日常的なことではなく、日常の生活を充実させていく中で、少しずつ症状を乗り越えていくことができる。症状克服の鍵は普段の生活の中にある。普段の生活の中にある工夫すべき点を発見し、直していく中で、他人との関わりも少しずつ円滑になっていき、生活に張りがでてきて、新たな自分を発見することができる。また、自分にばかり向いていた注意を周りに向けていくことで、今まで気付かなかったことに気づき、自分の中にある本来の欲望も見えてくる。探そうと思えば、希望、夢といったものも、自分の生活の中に見つけることができる。この記事は、今月の集談会である方が紹介されました。私はうかつにも読み飛ばしていました。その方もこの記事のように、規則正しい生活をされています。10年前と現在はほとんど同じ生活だそうです。でも中身が全く変わってきたといわれていました。つまり取り組む姿勢に雲泥の差があるそうです。例えば歯磨き一つにしても、歯と歯茎に歯ブラシを当てて丁寧に磨いているそうです。また早朝散歩をされていますが、毎朝晴れた日にはご来光を見られているそうです。普通の人はどうしてこんな素晴らしい体験を味わうことをしないのだろうといわれていました。食事の準備や盆栽の手入れ、風呂の掃除、庭の掃除、体のケアなどどれをとっても「ものそのものになりきり」丁寧にされています。工夫や新しい発見が常に湧いてくるそうです。あらかじめこれをしようと決めてやることはしない。気がついたことに手を出していくというやり方です。これは森田理論の基本の基本ですね。そもそも森田先生は、入院患者の神経症を日常生活の実践の中で治しておられました。我々のように、森田理論を学習して治していくというのではなかったのです。何をおいても、まずは実践。理論は後で補足していく。その態度がまずもって一番大事だと思います。
2013.11.13
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今月の集談会で聞いた話です。その方のお母さんは、田舎に一人で住んでおられます。自分たちはお母さんのことが心配で、何かにかけて安否確認の電話をしたり、時々帰省して気遣ってあげていたそうです。ところがお母さんは、そうされることがわずらわしいというような態度をとられるというのです。時には言い争いの原因にもなるということでした。ある方がこうアドバイスされました。「何かお母さんにものを尋ねる話題を作って電話をされたらどうでしょうか。ものを尋ねられるとお母さんもうれしいと思います」これはとてもよいことだと思いました。ただ単に用事もないのに安否確認の電話をするということは、お母さんの健康を気遣うことよりも、自分たちの不安を払しょくするためと気持ちが前面にでてしまうようです。また帰省する時も、その方のお母さんは自家用野菜などをたくさん作っておられました。余った野菜は、子どもたちに食べてもらいたいという気持ちがあると思います。自家用野菜のおすそ分けという理由を作って帰省すれば、用事もないのに帰って世話をやきたがるといわれることもなくなるのではないでしょうか。田舎で一人暮らしのお母さんは、気丈夫なように見えても、夜になると寂しくなると思います。元気そうだと言ってほったらかしにしたりしないで、そうかといって深入りしない。さりげなく見守ってあげるという姿勢は大切だと思います。これは森田の不即不離の考え方です。
2013.11.12
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平井信義さんの「子どもを叱る前に読む本」はとてもよい本です。この中に平井さんの小学6年生の孫が書いた作文が紹介されています。題は「僕のおじいちゃん」です。一部分紹介します。僕がまだ小さかった頃、おじいちゃんの部屋のドアを足でけとばして割ってしまったことがあります。おじいちゃんはガラスには目もくれずに僕に、「痛くないかい」と聞きました。てっきり怒られると思っていたのに、まるで反対のことを言われたので驚きもしたし、とてもうれしく思いました。おじいちゃんもおばあちゃんも毎日忙しく働いているので、ガラスを割られるとガラス屋を呼ばないといけないし、掃除やあとかたづけの用事も増えます。その上修理代もかかります。でもそのことをおじいちゃんは一言もいいませんでした。これは小さなことで、普段はほとんど思い出さなかったのですが、今までにこういうことがたくさんあったに違いありません。おじいちゃんは自分の頭で考えて、自分の考えを持って行動する人だし、僕たちにもそういう人になって欲しいから、簡単に他人の行動を批判したり、制限したりしないのだと思います。平井さんは、子どもにとって大切なことは「やる気」「意欲」のある子どもに育つことだといいます。だから「いたずら」は大切だといいます。「いたずら」によって自分で遊びを考え、どういう遊びをしたら楽しいかを自分で決め、そして他人に頼らずに遊びを展開してゆく自主性、自発性ある子どもに育つことがなによりも大切だといわれています。そのためには親は「無言の行」で、子供のいたずらは、口出ししないで、じっと見ている事が大切だといっておられるのです。これは放任主義とは違います。言いたいのだけれども我慢して見守るということなのです。森田理論の「かくあるべし」を他人に押し付けないということと同じことです。
2013.11.11
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茂木健一郎氏の全力教室という番組をみた。その中で意欲を持って、新しいことに挑戦するためには3つのことが必要だといっていた。問題に気付くこと、問題を受容すること、勇気を持って行動することです。一つの例としてポストイットの話をしていた。これはアメリカのミネソタ州の3Mという会社で作られた。3Mという会社は接着剤を作る会社だった。ある時スペンサー・シルバーという商品開発者が、強力な接着剤を作ろうとして、失敗作の極めて弱い接着剤ができてしまった。それを同僚のアート・フライに「これは何かに使えないか」と言ったが、その時は粘着力が弱いのでよい考えが浮かばなかった。ところがアート・フライが教会で賛美歌を歌っていた時、歌詞の間に挟んでおいた「しおり」がひらりと床に落ちた。それを拾い上げようとしていた時、瞬間的にひらめいたのである。あの弱い接着剤を使ってすぐに落ちない「しおり」が作れないだろうか。このひらめきがきっかけで、今や世界中で使われているポストイットが生まれたのだ。これを先入観で「しおり」はこんなものだと決めつけていては、決してそんなひらめきは湧いてこない。問題をあるがままに素直に受けとる姿勢。またいろんなところにアンテナを張って、心を外に解放しておく外向的な生活態度。ひらめいたことに対して、好奇心を発揮して勇気を持って行動する態度でいること。ペンギンも最初に海に飛び込むには勇気がいるそうです。海には自分たちをとって食べるものがいるからです。でも誰かが突破口を打ち破らないと誰も餌を採りに海に飛び込みません。先駆者というのはいつの時代でもこれら3つのことが必要条件となっています。この3つのことを心がけて生活するということは、生産的、創造的、建設的な生き方につながります。これを森田用語に言い直すと、どうにもならない不安、恐怖はそのままにして受け入れること。ひらめきや感じが湧きあがるように、日常の行動実践を丁寧に積み重ねること。不快な感情はなくすることはできないが、行動することによって新しい感情は作り出すことができる。人のためになることや将来が豊かになることは、なんとしてもやりぬくという強い意思を持って果敢に挑戦していくこと。この3つにつながるのではないだろうか。
2013.11.10
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神経症になった人はそれぞれの症状にとらわれて、本来の生の欲望を放り投げて、四六時中症状と格闘しておられます。他方では、ほとんどの人は、世の中の物質的、刹那的な欲望追及の渦巻きにどっぷりとつかった生活をしている。消費は美徳のもとに、楽しくて、便利で、楽ができるものはなんでも手に入れようとしている。低次の欲望が暴走しているのである。「生の欲望」には自己実現などの高度な欲望もあるが、現代人は本能に近い低次元の欲望に翻弄されているのである。つまり神経症の人は片方では不安に翻弄されて、もう一方では安易な欲望に振り回されているのである。ほどほどという考えはない。バランスという考え方から見ると、いずれも両極端に偏り、とりつかれている状態である。神経質者は普通の人と違い、その両極端のいずれにも大きく関わっているのである。普通の人の2倍の苦悩を背負いながら、毎日生活している状態である。森田理論は、欲望があるから不安があるという。不安に学び、欲望の暴走を抑えながら、「生の欲望」を発揮していく生き方を教えてくれている。調和のとれた生き方。中庸の生き方である。さて、私の目の前には45センチの「やじろべい」がある。バランスを取るのはとても難しい。釣り合うところにしるしをつけている。苦労して釣り合うと、そのみごとな「やじろべい」のバランスに見とれてしまう。「やじろべい」を持っているといつもバランスということを考えられる。皆さんも、お土産屋でよく売っている「やじろべい」を部屋に飾ってみてはどうだろう。どうすれば「やじろべい」のように、「欲望と不安」のバランスのとれた生き方ができるのだろうか。まずは森田理論学習によって、「欲望と不安」の相互の関係を十分に学習する事だと思う。その上で、バランスをとることは、とても難しいことなのだということを自覚する事だと思う。この自覚が持てないことは悲しいことである。自覚が持てれば、刹那的、場当たり的な欲望の暴走の弊害がよく見えてくる。さらに事実をよく見ていく。これは集談会などで学習してゆく方がよいと思う。すると欲望の暴走を警戒するようになる。また一方では神経症で苦しんでいる人は、「生の欲望」の発揮を忘れて、不安、恐怖、不快感、違和感と格闘している。これはコントロール不可能なことを可能にしようとしている無駄な努力である。これは森田理論を学習している人は、理屈としてはよく知っておられると思う。問題は2つのことをよく自覚して、バランスのとれた生活を実践することにあると思う。これが肝心なところです。そして最終的には、バランスが崩れそうになるとすぐに修正できる能力を身につけていく。森田理論の学習はそのための大きな手段となるはずです。
2013.11.09
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昨日の投稿の続きです。橘曙覧は子どもたちへの遺言にこう言い残している。「うそいうな。ものほしがるな。体だわるな(体を怠けさせるな)。求むるはただ至誠の二文字」これを森田理論で考えてみよう。まず、うそをいうな。神経質な人は自分をよく見せるためや欠点や失敗を隠すために、事実を隠したりうそをついたりする。橘曙覧は事実を事実のまま受け入れて、どんなに不快なことであっても事実に服従して、あるがままに素直に生きていきなさいといっています。自然に服従するということです。物を欲しがるな。日本人は1960年以降、戦後の貧しい生活から抜け出し、物質的な豊かさ、快適さ、便利さを追求してきた。欲望が次の欲望を産んで、欲望の暴走が加速度をあげて突っ走ってきた。それこそが人間の幸せなのだと信じて疑わなかった。その結果生活はなに不自由なく暮らしてゆけるようになった。ところがよい点もあったが、失ったものがあまりにも多かった。仕事に追いまくられ、家族や身近な人たちとの交流はなくなり、心が満たされることがなくなった。健康問題や地球環境は回復不可能なほど病んでしまった。こういう生き方は、欲望のみが暴走している社会ではなかろうか。バランスが悪い社会だと思う。体を怠けさせるな。体を怠けさせると筋肉が衰えてくる。頭を怠けさせると脳細胞はしだいに死んでいく。そして認知症などになる。人間一生涯、心も身体も健康でありたい。自由に体が動き、頭脳明晰でありたい。心の健康を維持するためには、多少の日常生活上の問題、不安、ストレスが必要である。不安の全くない社会は、不安定だということにやっと気がついてきた。また目標を持ち、運命を切り開いてゆく生活態度が大切である。この3つは森田理論で修養してきた人は、日常生活に取り入れておられることと思う。さらに学習して、心豊かな人生を築いてゆきましょう。
2013.11.08
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私は以前石川啄木の短歌が好きでした。はたらけどはたらけど猶わがくらし 楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむわがこころけふもひそかに泣かむとす 友がみな己が道をあゆめり神経症で苦しんでいた時、石川啄木の短歌に浸っていた。自分の心境を表現しているようだった。森田理論学習を積み重ねていく過程で、石川啄木に頼らなくても生きていくことができるようになった。今振り返ってみると、これらの短歌は、常に自分と他人を比較して劣等感にさいなまれているようだ。自分の境遇、自分の能力、自分の努力を他人と比べて価値判断をしている。その結果、他人の地位、能力に対して、どうして自分は社会的に恵まれていないのだろう。もっと自分の努力は世間に認知され、それなりの評価を受けてもよいのではないか。そういう不満が鬱積して、ストレスとなっているようである。石川啄木は誰よりも名声を求め、経済的に裕福な生活を求め、他人からの承認を求めていたのではないだろうか。そういう生き方は息がつまりそうである。これに対して、江戸末期の歌人で橘曙覧(たちばなあけみ)という人がいる。現在はこの人の短歌が好きだたのしみは朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時たのしみはまれに魚煮て児等皆が うましうましといひて食う時たのしみはあき米櫃に米いでき 今一月はよしという時橘曙覧はもともと大商人の後継者として生まれた人だった。ところが心境の変化が起こり家を捨て、名誉や利欲を求めず、清貧の生活をされたのである。欲望を極限までそぎ落とし、自然と一体になり、人や家族を大切にし、あるがままに生きた方である。こうゆう心豊かな生き方は、物質的な欲望が暴走しないように抑えないと得られるものではない。また人を押しのけてでも、自分の名声を勝ち取るという生活でも、かなえられるものではないと思う。森田理論は「生の欲望」はどこまでも発揮してゆきなさいと言います。但し、「生の欲望」を暴走させないように制御することが必要です。その両者のバランスのとれた生き方が目標となります。
2013.11.07
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2013/11月の生活の発見誌より「あるがまま」の生活とは、そもそも何でしょうか。普通の人々が普通にやっている日常生活が、とりも直さず「あるがまま」です。朝起きて歯磨きをし顔を洗い、朝食の支度をして食べ、身支度をして仕事に向かう。職場でもやるべき仕事が山積みになっているはずなので、淡々とこなし、同僚とともに昼食をとり、終業まで仕事をします。・・・夜はテレビや読書、家族との会話でくつろぎ、就寝します。休日には家族と買い物に行ったり、子どものクラブ活動の応援をしたり、友人と釣りに行ったりと、さまざまな行動が待っています。ゆったりする暇もありません。これが「あるがまま」の生活であり、非のうちどころない生活です。ちょうど、公園の樹木が風に揺れ、雪をかぶり、春には芽吹き、秋には枯葉を落とすのと同じ「あるがまま」のふるまいです。ここには何の「はからい」もありません。「あるがまま」というのは、誰にでもある不安、恐怖、違和感、不快感にいつまでもとらわれることなく、日常生活を淡々とこなしていくことだと思います。神経症になると、不安などはいちいち潰していってスッキリした心境になってから、なすべきことやってみたいことに取り組もうとしているんですね。考え違いをしているのです。そんな気持ちでいるとあっという間に人生が終わってしまい、後悔すると思います。それよりも、不安を抱えたまま、生の欲望に沿って前へ前へと進んでいくことが大切です。
2013.11.06
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生きづらさにたいして森田理論は万能ではありません。森田は神経質な性格を持ち、自分の症状を自覚し、なんとか自分の症状を直したいという強い意欲のある人が対象です。そのうえ感情などの対処について認識の誤りがある人、いつまでも生きづらさが抜けきらない人も対象となります。自己内省的であること、他の大きな精神疾患を抱えていないことも見落としてはいけません。他の大きな精神疾患がある方は、まず専門医によるそちらの治療を優先された方がよいと思います。集談会では森田療法適応者かどうかよく分からないときは、生活の発見会の協力医を紹介しています。森田療法にも詳しい協力医の方から、森田をやってもいいという了解をもらっていただきたいと思います。最近はうつ病、躁うつ病、統合失調症、発達障害、パーソナリティ障害(人格障害),アダルトチルドレン、不安障害、依存症、不登校、引きこもりなど専門医の治療が必要な症状を併せ持った人が多いように思います。自分にとってどういう治療法が合っているのか迷われている方は、是非とも森田療法の専門医の診断を受けていただきたいと思います。それらは、まずは専門医によって自分の症状の正体を知る。適切な処置を施すことが大切です。最近は協力医の方たちと連携して、治療と同時に森田理論学習を並行して進めている方も多数おられます。迷われている方は、集談会の森田理論の学習は、いつでもどこの集談会でも受け入れる用意がありますので、まずは専門医の診断を優先していただきたいと思っています。
2013.11.05
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森田先生は人間の感情について次のように言われている。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。
2013.11.05
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海洋冒険家の白石康次郎さんに「人生で大切なことは海の上で学んだ」という本がある。白石さんは1992年10月と12月単独無寄港世界一周に向かってヨットで出発した。しかし2度とも失敗している。1回目は9日目。2回目は10日目。日本近海を抜け出さないうちにトラブルを起こした。多くのスポンサー、支援の人に見送られて華々しく出発したのである。「また引き返したんだって」港の人もあきれて開いた口がふさがらない。白石さんは情けないが、仲間と一緒にいることは耐えられなかった。彼はみんなの前から逃亡した。長岡の知り合いの家に身を寄せた。そこで1カ月も居候をしていた。そして少し生きるエネルギーがたまったところで船乗りのアルバイトを始めた。そして1年後、三度、単独無寄港世界一周にチャレンジして成功をおさめられた。彼はつらい、逃げ出したい。しばらく休みたい。心がそう決めている時は現実から離れてみるのがいいといいます。森田でいう精神をいったん弛緩状態に落とすということです。自然の流れに従うということです。すると時が解決の糸口となります。弛緩状態の次には必ず緊張状態が戻ってきます。自然はそういうリズムで動いています。自分で意識してそのリズムを作り出すこともできるということです。最悪なのは、落ち込んだ時無理やりハイテンションに持っていこうとすることです。これは自然の動きに反することです。気がのらない、どうも意欲が湧いてこない。そんなときはその状態のままにしておくことです。全く弛緩状態にしてしまうと、次に動き出す時にかなりのエネルギーが必要となりますので、しかたなく、ぼちぼちとやっていく。超低空飛行で行動しておればよいのです。
2013.11.05
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平井信義さんの本から子どもの自主性を育てるということを考えてみたいと思います。テーブルの上の食器を「台所へ運んでくれない」とお母さんが子どもに注文したとします。その時、子どもが、お蕎麦屋さんの出前の人がやるように、お盆を肩の上に載せて運ぼうとしたらなんというでしょうか。「ちゃんと持ちなさい」「そんな持ち方をして落としたらどうするのよ」と注意するのではないでしょうか。平井さんは、そのようなことはいいません。子どもの気持ちが分かるからだといいます。子どもはかねがね蕎麦屋さんの出前の人がやっていることに好奇心を持っており、自分もためしにやってみたいという欲求を持っています。これは子どもがやれそうだと思った時に挑戦できるのです。つまり運動神経が発達してきているのです。子どもは同じような冒険に2,3回挑戦して自信がつくと、同じような冒険はしなくなります。つまりその冒険は卒業することになるのです。この時、「うまくいったね」とほめてやれば、本人の自信になります。これが、子どもの態度を非難していると、子どもは仮に成功しても成功感を全面的に楽しむことができません。まして、途中で食器を床に落としてしまい、大声で叱ったり、叩いたりすると、子どもを責めることになります。子ども自身しまったと思っているところに、追い打ちをかけて叱られるので、子どもは強い劣等感を持ってしまいます。こんなことを繰り返していると、子どもは好奇心を封印し、自主的に行動はしなくなります。いつも親の態度を気にして、親が指示することしかしなくなります。そうした子どもが大きくなると、ちょっとしたことですぐ躓くようになります。友達の言動に振り回されて、不登校に陥り、会社に入ると指示された事ことしかしなくなります。常に上司や同僚の目を気にして、ミスや失敗を恐れて隠すようになり仕事には身が入らなくなります。平井さんは子どもが食器を割ってしまっても、「この次はがんばろうね」と言います。そして壊れた食器を一緒にかたづけながら、その片づけ方を教えます。そしてまたいつか食器を運ぶ機会を与えるのだそうです。子どもが過去に失敗したことに成功の体験をすることで、子どもに自信と自主性を回復させるようにするのだそうです。こうした自信は、これからの人生を生きる上でとても大切なことだと思います。
2013.11.04
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今月号生活の発見誌に田原あやさんの「森田先生の思い出」話が始まった。とても興味が尽きない。16、17歳のころから森田先生のお宅に住み込み、家事見習い、看護婦として先生の身の回りの世話をされていた方である。今月号にも森田先生のエピソードが豊富に紹介されていて、とても親近感がわいてくる。森田理論というのは生き方を考える理論であり、どうしても「人間森田正馬」を研究していかざるを得ない。森田理論を学習すればするほど、神経症を治るだけではないと分かる。症状は、生き方を変えることによって副次的に克服できるものである。ここを間違えていくと、薬物療法、認知行動療法、催眠療法などにすぐに鞍替えしてしまうということが起こる。さて、田原あやさんは、その後三島の森田病院に移られた。最近天寿を全うされて故人となられた方である。あやさんは、「森田正馬伝」によると、森田先生の異父の姉で「道」という人がいた。5歳上である。高知の女性の特徴である「はちきん」といわれるような性格であったと聞いている。この方が近くの田原家に嫁がれた。そのご主人の妹に桃子という人がおられた。その人の子どもが、田原あやさんであった。また別の妹ことさんが、土居家に嫁がれて生まれた子どもに、土居光知さんという人がおられる。確か京都大学を卒業して、東北大学の教授をされていた。森田先生の伝記を読んでいるとよく名前がでてくる。ちなみに三島の森田病院は森田秀俊さんがはじめられたが、この方は、森田先生の妹に磯治という人がおられた。11歳下の妹である。その人の3男がこの人である。確か森田先生の養子になられた。森田理論は森田先生の人間関係、生きざまそのものであります。ですから野村章恒先生の「森田正馬伝」の研究は欠かせないのである。野村先生は森田先生の高知中学時代の同級生の子どもである。森田先生は、いろんなところでさまざまな人とつながっているのである。
2013.11.03
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森田先生は夜中にパニック発作で今にも死にそうになるという人に、自分で進んで発作を起こして、その詳細を報告するように命じられたことがある。不眠症や耳鳴りの激しい人にも同様の方法をとられている。ところが発作を起こそうとしようとすればするほど発作は起こらないのである。これは逆療法のように見えるが、森田療法では簡単に説明がつく。森田先生の発作性神経症の治し方は、できるだけ発作をおこすように努力してみよということである。このからくりはどうなっているのか考えてみよう。神経症の症状は、常に神経質患者の意識の中心にあり、これを忘れよう、意識すまいと努力している。常にはからっている。すなわち不安、恐怖、不快感などを意識の中心より周辺に押しやろう、押し込めようとしているのである。そうすれば自分の思いとは反対に、それはますます意識の中心を占領する。森田で言う症状を意識すればするほど、注意が症状に向き、注意が向けば向くほど不快な感覚が強くなるというからくりである。さらに意識しまいとすればするほどますます、一点に凝集強化されるのである。これを精神の交互作用という。これが神経症の症状である。精神交互作用によって、神経症は悪化して、症状として完全に固着する。しかし意識は、たえざる流動変化している。神経質症状も、環境の中で力動的に変化消長する。そして症状が意識の中心より、やや遠ざかった時に、意識的に無理にこれを中心に持ってくるように患者に努力させる。発作をおこすようにさせる。ここがポイントである。これは平素の患者の努力とは反対の心の働きをさせるのである。すると、ここに意外なことには、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周辺に退くのである。すこし逆説的で理屈ぽいかもしれないが、神経症からの回復の真実をついている。神経症は逃げたり、やりくりをやめない限り治らない。10年でも20年でも治ることはない。神経症を忘れていたという生活態度になれば治ってしまうのである。一夜にして治ってしまう。元メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男さんがまさにその例にあたる。
2013.11.03
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阪急阪神ホテルで端を発した食材誤表示問題が後を絶たない。安い肉に脂肪を注入して、霜降り肉に見せかけて提供していたというホテルまで出てきた。これらは日本人の本来持っていたよさが失われている結果だと思う。少なくとも江戸時代から明治時代の初期までは、誰が見ていなくても、自分を偽らず正直に生きていくという考え方を多くの人がとっていた。例えば、「本阿弥行状記」にこんな話がある。本阿弥光徳が、ある時、徳川家康に正宗の脇差を見せられた。家康は自慢げに言った。「この刀は代々、足利公方家の宝とされてきたもので、足利尊氏公直筆の添え状まである。いかがなものか」光徳は家康を前にして、脇差を鑑定した。刀は確かに正宗だが、何度も焼き直ししていて使い物にならない。光徳は正直に鑑定した結果を述べた。家康は腹をたてて以後光徳を召しかかえることはなかったという。普通は誰でも嘘も方便、家康の機嫌を損なわないという対応をとるのではないだろうか。ところが光徳は家康の逆鱗に触れて、手打ちを覚悟の上鑑定したのである。それは普段刀の目利きに命をかけて精進し、生計を成り立たせてきた。それが、家康の威厳を恐れて、いい加減な目利きをしたとなると、自分の存在価値に傷がつくということを恐れたからである。そうゆう人は絶えず自己を研鑽して、自分を高めている人だと思う。日本人は江戸時代、こうした人が少なからずいたようである。これが明治中期以降、殖産興業、富国強兵という西洋文化が日本に定着して、利己主義、拝金主義、便利主義、快楽追及にとって代わるとともに急速に衰退して来た。それが今回の食材誤表示にまで及んでいるのである。森田理論でいえば、本能に身を任せた行動が歯止めもなく突っ走っている状態といえるだろう。本来は理知でもって調整して行動するという、バランス感覚が機能してこないと、調和が崩れてしまう。東京オリンピックプレゼンの滝川クリステルさんが、日本人の「おもてなし」の心を強調していたが、本当の意味で「他人を思いやる心」を持っている日本人が果たして存在するのだろうか。
2013.11.02
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稲盛和夫さんが旧制中学の頃、先生がこんな質問をされたそうです。もし親友が何かの拍子に人をあやめ、「いま人を殺してきた、助けてくれ」といって、弱り果てて自分のところに逃げてきたら、君たちはどうするか」稲盛氏は、旧制1年生ですら理屈は分かっているつもりでしたので、「友達の非を諭し、自首するように勧めます」と答えました。するとそれはだめだと先生は却下されました。「そうして友人が頼ってきたら、自分が罪に落ちてもいいからかばってやるのが親友だ」この点森田先生も同じことをおっしゃっています。親父が博打をしているのを見つけたその人の子どもが、警察に届けたためお父さんが逮捕された、という事件が新聞にのっていた。これについてある人は学校の言いつけを守る感心な子どもだと言った。森田先生は、その子は低能な子どもだ。自分の親がどんなに悪いことをしていても、親をかばうのが本来の子どもの姿だ。常に行動は人情から出発しないといけない。この2つの話から学ぶことは、人間の行動はいつも自分の感情から出発しないといけない。最初に感じた感じを大切に扱わないといけないということだと思います。間違いやすいのは、理屈、常識、理性、観念から出発することです。そして自分の感情を無視することです。押さえつけてしまうことです。こういうことは無意識に多くの人が陥りやすいことです。これは認識の誤りです。順序が逆になっているのです。森田理論ではどんな場合でも、自分の感情を大切にする。それも最初に感じた感情を大切にする。つまり直観とか、初一念を大切にする。引き続いて出てくる初二念、初三念は無視する。ましてや観念や「かくあるべし」等で物事に対処していくことは差し控える。感じから出発して、そのあと理性でもって調整していく。調和、バランスのとれた行動を目指すということになります。ここは森田でいう「純な心」の体得となります。大変重要な考え方です。
2013.11.02
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フロンガスはエアコン、冷蔵庫、車のクーラーなどに使われている。人間にとってとても便利なものである。ところが、フロンが大気中に放出されてゆっくり成層圏に達するとオゾン層を破壊する。オゾン層が破壊されると、太陽からの紫外線はダイレクトに地球に届き、ゆくゆくは人間だけでなく動物や植物は生きていけなくなるという。現代の人間は自分たちの生活に役立つものは、子孫にどんなに悪影響を与えるものでもどんどん利用してきた。今がよければ将来子孫がどんなに苦しんでも構わないのか。これは赤信号みんなで渡れば怖くないといった自己中心主義である。森田とは反対の立場である。私は森田理論学習で、人に迷惑をかけることと、将来に禍根を残すことは決して手を付けてはいけないと学習した。始末に悪いのは、あくなき欲望の追求、利潤至上主義、便利至上主義、贅沢三昧の生活は加速度がつくということである。加速度がついてしまうと、気がつかないうちに急に状況が悪化してしまうことである。後でしまったと思っても手遅れとなる。それが生命の誕生38億年の最後の100年か200年という短い期間で起きている現象なのである。人間はそんなに愚かな存在だったのだろうか。温暖化、異常気象、酸性雨、PM2.5などの公害、北極南極の氷がとけている問題にしろほとんど人間のあくなき欲望のなれの果てである。
2013.11.01
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芸術は模倣から始まる、といわれています。芸事もそうです。師を選び、最初は徹底して模倣します。ピカソのような画家も、若いころに名画を模写していますが、これも徹底した模写です。こうしたすぐれた師を模倣していると、やがてその先に独創の世界が現れます。どんな天才でも、最初から独創的な独自の世界を築いているわけではないのです。これは森田理論を身につける場合も同じことが言えます。まず森田先生の生活ぶりを模倣することが一番です。私は森田先生の芸達者のところをまず真似てみました。今では楽器の演奏、どじょうすくいの男踊り、獅子舞などをみんなの前で披露できるまでになりました。それから、「ものそのものになりきる」「感じから出発する」「物の性を尽くす」「規則正しい生活をする」「神経質性格を活かす」「事実を受け入れる」等々いろいろと模倣してきました。理論を観念的に理解することも大切ですが、実際に生活ぶりをそのままそっくり真似てみるというのが案外早道かもしれません。次に集談会に参加していると、森田を生活に活かしている人がおられます。その人の生活を模倣してあやかるという気持ちで、日常生活を丁寧にしてみることもお勧めです。なかなか進歩しない人は、いろいろ集談会でよいことを聞いても、模倣しない人です。そして同じような苦しみを訴えている人です。実にもったいないと思います。目の前にお手本があるのですから、考える必要はありません。ただ素直に真似てみる。それを愚直に続けてみる。それだけのことで確実によくなります。
2013.11.01
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