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世界のホームラン王の王貞治さんが次のように述べている。野球の世界で食べていくためには、ずば抜けたものがあるということが求められる。全部80点じゃダメ。最低 1つは90点、 95点のものがないと生き残れない。だから1つの分野で95点を取れるのなら、他は捨てて、その得意技で勝負したほうがいい。プロ野球の世界は、全員が走攻守そろった選手と言う訳にはいかない。例えば年間ホームラン数が数本でも、守備は一流だとか、バントの名手だとか、盗塁の成功率がずば抜けているとか、それぞれに様々な個性を持っている。もしそれが95点ならば、弱肉強食のプロ野球の世界で生き残っていけるのである。野球評論家の野村克也氏も同じことを言われていた。野球の世界で足が速い、肩が強い、球を遠くへ飛ばすことができるという特技を持った選手がいる。これらは持って生まれた才能であり、いくら訓練しても育たない。また、この3つをプロ野球の平均レベル以上に持っている選手はそうはいない。しかし、他の選手にはないきらりと光るものがあれば、プロ野球選手としてやっていける。半面、 1番厄介なのは、3つの全てが平均点の選手です。どれもそこそこの選手だ。厳しい目で見れば、他の選手と差別化できるものがない。とりえがない選手ということになります。ですから、プロ野球の選手は、自分の劣っている面に焦点を当てて、矯正しようとしたり、能力アップを図り、人に追いつこうとする努力はほとんど無駄な行為なのです。スカウトされてプロ入ってくるような人は、すでにそれなりにある一定の基準レベルには達しています。そういった人の集団の中で生き残って行こうとすれば、自分の得意分野を早く見つけ出し、それに磨きをかけて、監督やコーチにアピールして認めてもらうことなのです。足の速い人は、走力に磨きをかけ、ピッチャーの癖をよく研究して、ここ1番で確実に盗塁を決められるような選手を目指す。肩は強い人は外野に球が飛んできたとき、長打にはしないような返球に磨きをかける。ホームラン打者は三振を恐れずにホームランを狙う。ミートの上手い選手はヒットの数で勝負をする。一般の社会でも同じことが言える。自分は何を伸ばせるかを考え、そこを徹底して磨いていけば、組織の中で確実に重宝される。それも大したものでなくても良い。例えばパソコンの扱いが抜群に手慣れていれば、上司は自分の部署から外したくないと思うだろう。そう思わせることができれば、その人はそれだけリスクを少なくできるわけだ。これを我々神経質性格者にあてはめると、どういうことになるだろう。神経質者は細かいことによく気がつきます。これは天性のものです。また、真面目で粘り強い。物事を細かく分析できる能力がある。好奇心が強く、課題や目標を持って努力することができる。反面、わずかの弱点や欠点を過大視して劣等感を抱きやすい。気になることいつまでもくよくよ悩んでしまう。取り越し苦労をしてしまう。現実離れした理想を抱いて自分を苦しめてしまう。王さんや野村さんの話を参考にすると、神経質者の欠点や弱点を修正しようとするよりも、自分の持っている特徴や能力に目を注ぎ、そこに磨きをかけていく。そのような生き方のほうがはるかに意味のある有意義な人生を送れるのではないだろうか。神経質性格を持ちながらも、神経症に陥っていない人は、会社でも神経質性格をプラスに捉えて、存分にその性格を生かしている人たちだと思われる。例えば周囲の人から依頼されたことを、どんな小さな事でもメモして確実に実行していく。それを積み重ねて信頼感を勝ち取っている。コツコツと長い時間をかけて作り上げてきた信頼感は、組織の中で活かされて絶大な力を発揮している。
2017.05.31
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多くの若者は、結婚することや子育てにも関心を失ってしまい、大変な苦労を背負い、自分のために使える時間や費用を犠牲にしてまで、そうした面倒なことに取り組みたいとは思わなくなった。無理をして家庭を持ち、子供を産んだとしても、喜びよりも負担ばかりを感じるようになった。その影響は、結婚や子育てだけではなく、それ以外の対人関係にも及ぶ。人々は友人や隣人に対して心からの親しみを感じたり、困ったときに助けあったりすることが少なくなった。なぜなら、そうすることが喜びをもたらすよりも、煩わしさや苦痛や負担しかもたらさないからだ。社会はそれぞれがバラバラに孤立した、とげとげしく、パサパサの殺伐とした場所になりつつある。それぞれの人が、交流を最小限にとどめて、個人の殻に閉じこもり、それぞれの生活を楽しむようになる。もはや他者のために生きる事は喜びをもたらさず、自分のために生きることでしか、本当の満足を味わえない自己実現の追求こそが価値であり、真の生きがいとなる。そのためには、お金や時間やエネルギーを、できれば自分のためにだけに使いたい。我が子といえども、時間を奪われすぎる事は、煩わしく、邪魔者に感じられる。子育てという、本来最も重要な行為よりも、自己実現や自己の快楽追求が優先されるようになる。子育てはもはや、子供のための行為ではなくなり、母親が主人公の、母親のための行為になっていく。教育も、子どもの現実的なニーズではなく、親や大人側の期待が優先され、子供たちはそれに踊らされたあげく、自立の失敗というツケを払わさられる。遊びや対人関係も、人との交わりを楽しむのではなく、自分が主人公で、自分が楽しむものに変わっていくことになる。こういう社会に急速に確実に移行しているとすれば空恐ろしいことである。岡田尊司氏は、この現象は脳内のホルモンの変容から説明されている。下垂体後葉からオキシトシンとバソプレシンというホルモンが分泌されている。今まではこれらのホルモンの分泌が盛んで、これらのホルモンを受け取る受容体が脳内にしっかりと形成されていた。ところが現代の人間にはその仕組みが徐々に壊されていると指摘されている。その仕組みが壊されると、親子の関係や人間関係が全く変わってくる。詳しく見てみよう。これは北アメリカに住むハタネズミの研究で明らかになった。プレーリーハタネズミは、 一夫一妻のつがいを形成し、子供たちとともに大勢の家族をなして巣穴で暮らす。それに対して、サンガクハタネズミはつがいを作らず、不特定多数の相手と交尾し、別々の巣穴で暮らす。生まれたばかりの子ネズミを母親から離して1匹だけにすると、プレーリーハタネズミは悲鳴を発して助けを呼ぶ。サンガクハタネズミは、特に反応せず、ストレス・ホルモンの上昇も見られない。つがいの形成が起きたプレーリーハタネズミでは、オキシトシンやバソプレシンの受容体は、側坐核と言う快感を感じる中枢に多く存在していた。つがい形成が起きないサンガクハタネズミでは恐怖などの情動の中枢である扁桃体などに多く存在していた。プレーリーハタネズミでは大家族で生活することに快感を感じ、それが強化される仕組みが出来上がっていた。反対に、サンガクハタネズミでは、そういうことに快感を感じることは全くない。それよりも自分だけが好きなことをして、単独行動を好むようになる。家族や他人が近くにいると煩わしてく気が散って仕方がないのである。人間の社会でこうした事態が進行すると、社会全体が自己愛的で、自閉症的風潮が蔓延してくることになる。現在、マンションでも隣の人とは没交渉、また孤独死、無縁社会が社会問題となりつつある。今後、周囲の人と関わりを持たないで、個人個人の孤立生活を楽しむ生活様式が進展すれば、それらの問題は、ますます拡がってくるだろう。問題点を指摘しておこう。0歳から1年6ヶ月の生育期間中に、父母との間に愛着の形成が行われなくなると、追い討ちをかけるように、オキシトシンとバソプレシンの受容体が形成されなくなるということである。愛着の形成は本人のその後の対人関係に影響するのみならず、社会全体としての共同体の維持、無縁社会の形成に拍車をかけるということである。子育ての中でで愛着の形成をいかに確立していくかということは、現代社会に突き付けられた大きな課題となっている。(愛着崩壊 岡田尊司 角川選書より引用)
2017.05.30
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最近、国会では加計学園問題で紛糾している。これは、文部科学省の前川前事務次官が、加計学園が今治市で開校を予定している大学について、安倍総理ならびに内閣府の強力な圧力があったというものである。そういうメモが存在していたという。これに対して、菅官房長官や自民党からは、そういうメモは存在していない。したがって、野党が要求している前川前事務次官の証人喚問は行わないと主張している。テレビでもいろんな評論家が意見を述べている。文部科学省や官邸サイドが、そういうメモがないとは言っているが、実際にはあったのだろうという意見でほぼ一致している。この件に関して、私の意見は次のごとくである。議論があまりにも不毛な議論に終始している。もっと真相に迫った議論にならないものか。前川前事務次官は、文部科学省のメンツを安倍総理や内閣府にふみにじられたと言っている。これは三権分立の面から見て、おかしいのではないか。本来、国民から選挙で選ばれた国会議員と内閣が骨太の方針を決定し、それに基づいて行政官庁を使って政策実現を図っていく。これが本筋では無いのか。それが正しいとすると、文部科学省が内閣府に対して、自分たちの立場を無視して、官邸サイドの政策を押し付けてきたというのは問題がある。文部科学省は、本来国民の総意である内閣府の決定に対して、誠心誠意、その実現に向かって努力するのが本来の姿では無いのか。菅官房長官も安倍総理からそういう働きかけはなかったと説明するよりも、正々堂々と内閣と各省庁の役割の違いを説明すべきではなかったのか。内閣と業者の癒着を糾弾されること恐れて、枝葉末節的な言い訳をしているとしか思えない。私は評論家の人たちにも言いたい。安倍総理や内閣府の押し付けがあったかどうかと言うよりも、そもそも安倍総理が進めている国家戦略特区というものが国民生活にとってどういう意味を持っているのかという点について、再び議論を巻き起こす絶好のチャンスではなかったのかと言いたい。安倍総理は、国家戦略特区を日本の成長戦略の最重要課題として位置づけているのである。特区で軌道に乗せたら、自由経済の推進、規制緩和、金融の自由化の全国展開に持ち込もうとしている。今まで国民の生活を守るために、規制を設けたり、関税をかけて、国民生活と国内の産業を守ってきたのである。今後は、アメリカの要望に応じて、外資が自由に日本で経済活動を行えるように、その道筋をつけようと考えているのである。つまり、日本の農業、日本の医療、日本の年金制度などすべての面で、自由経済、経済合理主義の方向に向かって、すべての規制緩和を行い、アメリカや欧米の巨大な多国籍企業に日本の市場を提供しようとしているのである。これをやられると国民生活はガタガタになる。アメリカの貧困層の生活ぶりを見ていると他人事とは思ない。日本の巨大な多国籍企業が海外で事業展開を自由自在にできるようにすることの見返りとして、日本でも海外の多国籍企業に自由に経済活動を認めようとしているのである。それが実現すると、日本国民の生活はどうなるのか。グローバル化がいっそう進展して、 1%の超富裕層に富がどんどん集積し、それ以外の人たちは生活がどんどん苦しくなるという状況が進んでくるのである。近い将来必ず現実となる事実である。もし、現在フォーチュン500に名前があがっているような巨大な多国籍企業が、その儲けの大部分を法人税として世界の人々に還元するようになれば、飢餓で苦しむような人はいなくなるのである。人間が作り出した富は、一部の富裕層や一部の企業に独占・集積させてはならないのである。また、そういう心構えで会社を運営すれば、戦争というものはなくなるはずである。もっともこれは資本主義が貫徹されている社会ではあり得ないことではあるが。巨大な多国籍企業は、国民生活を踏みにじり、自分たちのあくなき欲望の追及に邁進している。これは資本主義社会の矛盾点が、もはや人類の存続にまで影響を与え始めているという証である。もはや政治家というのは、グローバル企業の子分のような存在である。アメリカではすでに政治献金とロビー活動によって、政府は巨大な多国籍企業の利潤追求のバックボーンとしての役割しか果たしていない。国民の生命と安全を守る役割を放棄して、グローバル企業の代弁者としての役割しか果たそうとしていない。国際的に見ても、ほとんどの国でそうなっている。政府が格下で、その格上には巨大化した多国籍企業群がいるのだ。この力関係を間違ってはならない。日本の政府も同じことである。ここで大事な事は、我々が選挙で選んだ味方であるはずの政治家が、グローバル企業と手を組んで、我々の国民生活を根こそぎ破壊する方向に向いていることである。それは巧妙に展開されており、矛盾点をついても、すぐに別の問題にすり替えられてしまう。よほど注意しないと、気が付いたときは釜で茹で上がったカエルのような状況に陥るということである。ここに焦点を当てて、なぜ議論ができないのか。つまり評論家と言われるような人たちは、人間とは何か、人間が生きるとはどういうことなのか、人間はどのように生きていけばよいのか、という視点から問題を見つめていないのではないのか。さて、森田先生が講話をされるときは、思想弾圧の意味から特別警察が張り付いていたという。あわや特高に逮捕されるような事件も実際に起きている。森田先生は、日本政府が治安維持法を盾にして、思想弾圧を強化していた時に、戦争反対を唱えられていたのである。実際には森田先生は、残念ながら戦争が始まる4年前に亡くなられている。もし存命だったなら官権によって逮捕・拘留はさけられなかったと思われる。その森田先生が今現在生きておられたら、国家戦略特区構想については、ご自分の考え方を展開されているに違いないと確信している。たぶん大変憤って反対されるに違いないと思うのである。その理由は本来の人間性を無視した政策だからである。
2017.05.29
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森田先生は人間関係は「不即不離」の態度で接するようにするとよいと言われている。相手の喜ぶときには近付き、相手の迷惑のときにはちょっとその場を外す。また一方には、恐ろしいために、離れていても、離れきりにはならないで、ちょっと相手の話し声がするとか、暇な時があるとかいうことを、極めて微妙に見つけて、直ちにその近辺に近づいていくという風に行動する。つまりひっつきすぎるのでもなく、離れるのでもなく、常にその駆け引きが、自由自在で、極めて適切な働きができる。「親しんでなれず、敬して遠ざからず」という風になるのである。犬を連れて散歩するときに、犬は主人の側ばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはさっさと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、また、どこからともなく帰ってきて、飼い主の足元へ絡みついてくる。これが犬の自然の心で、いわゆる「不即不離」の働きである。すなわち犬は退屈のために主人から離れるが、そうかといって、絶えず主人を見失いはしないかと言うことが気に掛かるから、決して離れてしまう事はない。これは子育てで言うと、過保護でもいけないし、放任でもいけないし、その中間どころが子育てのコツというところだろう。面白い実験がある。初めて注射に連れてこられた赤ん坊とその母親を観察して、赤ん坊が早く泣き止むのは、母親がどういう対応をした場合であるのかを調べた実験だ。すると、最も早く泣き止むのは、赤ん坊を慰める時間が短くても長くてもダメで、ほどよく慰めた後に、気持ちをそらせるように働きかけた時であった。慰めるのを早く止めて、気をまぎらわせようとしても、また逆にいつまでもなぐさめつづけても、赤ん坊はなかなか泣き止まなかったのである。赤ん坊を落ち着かせると言うこと1つをとっても、程よい塩梅が必要だということがわかる。どちらかに偏るということは、大抵のことで、よい結果になるよりも有害な結果になることが多い。子供に過保護で過干渉な親は、子供にとっては侵略的で、支配的になりやすく、子供のペースで主体的な関わりを楽しむのではなく、母親が一方的に関わりを押し付けるという状況が起きる。こうした強制された関係は、共感的な心を育てるというよりも、親は自分を支配して、親の思い通りにコントロールするものだという、本来の相互性とは正反対なものを子供に植え付けてしまう。そうした養育を受けた子供は、自分の要求や苦痛といった感覚を認識したり、それを他人に伝えたり、それによって相互性の中で自分をコントロールする能力が育たず、相手の顔色や反応ばかりに過敏になり、支配-被支配の関係になりやすくなる。次に乳幼児の時期に構ってもらうことがなく、放任状態におかれると、最初は母親を求めて泣き叫ぶ。ところが、いつも構ってもらえないと、そのうち子供は泣きやみ、かまってもらうことを諦めてしまう。そういう子供が大人になると、他人への信頼感が持てなくなり、他者との関わりを持とうとしなくなる。他人が近づいてきても拒否したり、他人の言動を悪意として受け取るようになる。子供が産まれてから1年6カ月の間に、母子密着の期間を過ごすことによって、その後の人間関係の信頼感が形成されるという。ただし、その間、完全な母子密着がよいかというと、必ずしもそうではないようだ。もっとも、うまくいっている母子の場合でも、密着状態の割合は、生後3ヶ月で28% 、生後9カ月で34%だった。気持ちを読み取り損なったり、子供の望んでいることとズレていたり、注意や関心が他にそれていたりということが結構起きているのである。完璧を求めるよりも、ほどほどが大事なのである。むしろズレが起きてしまっても、更にコミュニケーションをとることで、それを埋めることを学ぶことが大切だと言える。(愛着崩壊 岡田尊司 角川選書参照)
2017.05.28
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最近の森田の自助グループの会合では、傾聴、共感と受容がとても重視されている。これは、自助グループに集まってくる人が、基本的な他人への信頼感が乏しい傾向があるからである。他人を無条件に信頼することができない人は、いきなり自助グループに参加することは難しい。1回参加してみてすぐ来なくなる人は、確かに森田が自分に合わないと判断した人もいるだろう。しかしそれ以前の問題として、自分の居場所がないと判断して参加をためらっている人がいるとするととても残念なことだ。それを防ぐためには、まず最初に手掛けることは会の中での温かい人間関係作りである。そのためには、いきなり森田理論の神髄をしゃべるのではなく、まずは相手の話をよく聞く。基本的には「共感的受容」の気持ちで対応していくことである。岡田尊司氏によると、「共感的応答」には、次に挙げる3つの効果があるという。どんな効果があるのか。今日は、その効果について紹介しよう。・「共感的応答」は、相手が自分のことを分かってもらえたと感じ、安心感や満足を覚えることで、他者と言うものを心地よい存在として認識できるようになることである。「基本的信頼感」というものが育まれる上で、「共感的応答」はとても大事なのである。・自分の感情や意図を鏡のように映し出してくれることにより、自分自身の気持ちを理解する力を育んでいくということだ。混然とした感情や欲求にとらわれているときは、自分が何を感じ、何を求めているのかさえ分かっていない。他人が自分の気持ちをくみとってくれ、言葉にして応えてくれることで、自分の感情や欲求が整理されていく。漠然としていた感情や欲求が、はっきりした言葉によって整理されることで、鮮明化されるのである。言葉を変えれば、鮮明化されるということは、自分の頭の中に気づきや発見が生まれるということである。気づきや発見が生まれると、やる気や意欲が高まってきて、行動実践に結びついていくのである。・「共感的応答」が繰り返しなされることにより、自分自身も「共感的応答」ができる力を身につけることができるようになる。「共感的応答」は、他人の表情や感情が響き合う共鳴という現象を引き起こし、気持ちを共有し合う相互的な関係を生む出発点となる。他者と響きあうことの楽しさを知った人は、他者と関わり、体験を共有し合う事を自然に求めるようになる。そしてそれが、相互性や共感性を育み、やがて他者に対して「共感的応答」をするようになる。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書参照)そういう心構えを持って森田理論の学習会に参加しているかどうかは大変重要である。生活の発見会の中で神経症を克服して、さらに自分の人生観を見つけた人を観察してみると、自分の症状のことよりは、参加した人にどうしたら続けて参加してもらえるだろうかという方面に頭を使っている人であることは間違いのないところである。
2017.05.27
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森田先生は、昭和13年4月12日、 64歳で亡くなっられました。昭和6年3月にも大病をされて生死の境をさまよわれました。その時の事を次のように話されています。今度、私の3月の病気の時も、自分は心臓性の喘息であるから、命が危ないと思い、古閑君か佐藤君か、よく覚えていないが、死んだら解剖のことを頼み、また井上君や山野井君や修養のできた人には、危篤の電報を打ち、香取君には電話で、きてもらった。それは私が死ぬる今はの実際の状況を見せて、参考に供したいと考えたからである。つまり、肉体的解剖でも、臨終の心理的状況でも、これを無駄にしないで、有効な実験物として提供したいので、あるいはこれを功利主義と言えるかもしれないと思うのである。 (森田正馬全集第5巻 白揚社 113ページより引用)自分が死んだとき献体をして医学の発展のために役立ててもらいたいというのは、果たして何人おられるだろうか。また、意識が朦朧となり、臨終の時に当たって、その時の様子を、今後の参考のために、弟子たちに見せておきたいという気持ちになるような人がおられるだろうか。私はここに、森田先生の「物の性を尽くす」という考え方が非常によく出ていると思っている。「物の性を尽くす」というのは、一般的には物を粗末にしないで生活すると言う意味に捉えられやすい。以前滋賀県知事が、 「もったいない」運動で県知事に当選したことがあった。森田先生の言われている「物の性を尽くす」と言う意味はそれとは違う。元滋賀県知事のいわれているのは、無駄な出費は拒否するという考え方なのだ。森田先生のいわれているのは、その物の持っている存在価値、性質、潜在能力、資質、性格などを見つけ出して、極限にまで活用し、活かし尽くすということである。これは物だけに限らない。自分や他人を含めた生きとし生けるもの、お金や時間も含まれる。例えばお金でも、 100円を1,000円に、 1,000円の1万円に、そのお金の価値をもっともっと活かして使いなさい、と言われているのである。この「物の性を尽くす」という考え方が、神経症が治るということにどう関係しているのか。神経症に陥っている人は、自分の症状のことばかり頭の中にある。その状態の時は、目の前のなすべきこと、課題、目標の達成は頭の中にはない状態にある。考えることや行動が、ほぼ100%症状をなくすることに片寄っている。神経症から回復する過程においては、その比率が少しずつ下がってくる。反対に、目の前のなすべき事、課題、目標などを考えることが多くなってくる。その時に、ただ単に注意や意識が外向きになってやみくもに行動するだけでは心もとない。その状態はハツカネズミが糸車を回している様に見える。治すことを目的とした行動になっているのだ。神経症の苦しみがなくなると、またもとの木阿弥になる可能性が強い。自分が動き回るのは、そうすることによって症状を取ることが目的となっているのは問題だ。ただ単に治すために行動するのではなく、生活の必要に応じて行動することが大切である。そうすると、行動によって感じが発生して高まり、気づきや発見が生まれてくるようになる。ここが大事なところです。ここでもし「物の性を尽くす」ということを、そこに取り入れるとどうなるか。たとえばパチンコ好きの人がいるとする。1回勝負すると3万円も使うこともあるという。「物の性を尽くす」ことを実践に取り入れている人は、「お金の性を尽くそう」と考えるので、お金の無駄遣いはできなくなると思う。それよりも年間の生活の予算管理を立てたり、家計簿をつけたりして、無駄使いを避けて、出来る限り有効活用を考えるようになるだろう。その工夫が次々に浮かぶことになる。高良武久先生は、 「物の性を尽くす」にあたっては、贅沢三昧の生活を抑制することが大切であると言われている。私もこのことは強調しておきたい。贅沢なものばかりに関心があると、大抵、日常の小さいことに対する喜びがなくなるのです。珍しいもの、刺激のあるものに目が奪われて、そのものの存在価値、潜在能力の発掘には目がゆかなくなるのです。これは森田理論を活用するという点から見ると、とても残念なことです。路傍の草に咲いている花を見ても喜びを感じると言う風になると、見栄えのしない花だけれども、こういう物には、ランの花に及ばない情緒がある。すべてのものは、そのものの個性があって、他のものと比較にならない価値がある、と思えるようになる。その価値を発見し、その価値を評価して、最大限に活かすことを考えるようになる。人間もそうですね。自分の不足している部分にばかり目を向けていると、自分のもともと持っているものについては関心が無くなってくる。自分の持っているものを大事にして、ある点では人に及ばないところがあるけれども、自分自身の値打ちというものは、やはり他人と取り替えることのできないものだという事を自覚し、自分の存在価値、能力、神経質性格を存分に活かしていくことが大切です。それが結局は他人のためになることになり、人間関係は改善してきます。(生活の発見誌 1977年7月号より引用)
2017.05.26
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森田先生の話です。最近、朝日新聞に、五重奏ということが出ていた。それは本を読みながら、会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類のことをするということです。聖徳太子はいちどに8人の訴えを聞かれたとの事、すなわち八重奏である。私どもも平常、 2つや3つの仕事は同時にやっている。たとえば、病院などでも、患者の家族に面会しながら、机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事を命令するとかいうようなものである。三重奏である。我々の日常は、誰でも同時にいくつもの方面のことを考えているのが普通のことである。強迫観念でも、苦しめながら、なんでもできるものである。神経質の人の考え方の特徴として、それを自分で出来ない事と、理論的に独断してしまうのである。(森田全集第5巻 白揚社 99ページより引用)これに対して我々は、物事に取り組む時はそのものに集中しなければいけないと考える傾向がある。余計な考えが頭の中に入り込むと、物事は決してうまくいかないのではないか。こういった事は頭の中で考えると、それが最も効率よく、しかも正確に素早く目的が達成できるようには思う。森田先生は、実際の生活の面ではそういう事はありえないと言われている。机上の空論である。時と、場面に応じて様々なことが、眼について、気になるのが普通の人間である。そうでなければ、他の動物の餌食となって、人類がここまで生き延びることはできなかったであろう。その上で、では一体物事に集中するということはどういうことか。たとえば、先生が学生を相手に講義をしているとする。もちろん、講義している内容には集中している。でもその時、森田先生は決して講義の内容のみに集中しているわけではないといわれる。机の上に置かれた水差し、時計、書物なども気になる。また、外の自動車の騒音や学生の仕草も気になる。眠っている人や、遅れてきた人が気になるのだ。森田先生の集中と言うのは、それらのことすべてに一時的に注意と関心が移動して、しばらくすると気になったことが次から次へと変化していく事を意味する。一時的にとらわれても、時間が経てばまた別のことにとらわれる。つまりいつまでも一つのことにとらわれるということはありえないのである。集中とはその時、その場で瞬間的に一時的にとらわれているのである。一時的にとらわれてなりきることを集中といっている。時間が経てば速やかに、別のことに意識が移り、別のものに集中している状態のことをいう。その時、注意と関心が講義の内容のみに固定されるとどうなるのか。本来外へ向かうべき自分の注意や意識が自然と自己内省化してくる。講義の内容はこれでいいのだろうか。自分の表情や声の調子は問題ないだろうか。体の震えを止められないものか。そうした不安や心配事が次から次へと湧き上がってきて、大勢の前で講義をしすること自体が恐ろしくなってくる。これは血管の中を血液がスムーズに流れなくなってきた状況によく似ている。血管の中に詰まり気味に血液が流れているような状態だ。これではいずれ病気になる。目の前に現れてくる様々な感情に対して、変化流転を拒み、無理やり歯止めをかけようとしているようなものである。森田先生は、日常生活の中では雑念だらけだと言われている。目の前の状況に応じていろんな感情や気持ちが湧き上がっては消え、湧き上がって消えていく。決して一つの感情のみに固定したいと思っても不可能なことなのだ。神経症に陥ると、意識や注意の固定化が起きて、変化流転という自然の動きが止まってしまっているのだ。だから神経症を治すためには、谷間を勢いよく流れる小川がイメージできるようになるといいのだ。私たちはその自然の流れに身を任せて、その時々の様々な感情を受け止めながら、生きていくしかない。決して人為の力で手出ししてはならないものなのである。
2017.05.25
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高良武久先生のお話です。人間は正直であるべきだ。これは大切なことですね。しかし、いつも正直であるべきだ、ということを鵜呑みにして、それを実践したら、変なことになりますよね。なるほど、正直でなければ、人間はいちいちを疑わなくちゃならない、用心ばかりしていては、取引も何もできないですね。人間関係が破壊されますよ。しかし、正直であるということにとらわれて、自分の心に思うこと、そのとおりいうのが正直だというようなことで、人に会ってですね、 「あんた、顔色が良くないですね、ガンでも出来ているんじゃないですか」とか言うようなことを言うのは、これは変ですね。「もう、長いことないんじゃないかね」なんて言ったら、困るんだな、そういう事は。特に医者がそんなこと言ってね、 「あなたはせいぜい、あと1ヶ月ですね」とかなんとか言って、あるがままを正直に言わなくちゃならんと思ったら、それは大変なことになるわけだね。「夕べあなたにいただいたダンゴはまずくてね。ようやく我慢して食べましたよ」なんて言ったら、それは事実であるから、言うのが正直だと、そういう事を言ったら、相手をただそこなうだけですね 。反社会的だね。そういう事は。たとえまずくてもですね、 「結構なものをいただきました。ありがとうございました」と言うのが礼儀だねえ。よく、世の中には、そういう外界の事情に応じないで、一本調子にやるのが、正直な態度だと心得ている人があるんだな。そうゆうのは、まあ世間知らずとか、人を無視するような態度になりますね。(生活の発見誌 1997年1月号より引用)これは森田理論の中の、精神拮抗作用について説明されていると思う。高良先生が言われている自分の正直な気持ちは、自然現象でありどんなことを思ってもいいのだと思う。自分の気に食わない人を殺したいほど憎んでもいい。また、どんなに卑猥で下品なこと思ってもいい。これらは自分の意志の力ではコントロールできない。台風や地震などの自然災害と同じことであり、好むと好まざるとにかかわらず、受け入れていくしかない。しかし、その自分の正直な気持ちをそのまま言動として外に吐き出すことは問題である。もともと人間にはある感じやある感じ欲望が起これば、同時にこれに相当して、必ずこれと反対の心が起こって、我々の行動を生活に適応させるようになっている。森田先生曰く、 「精神の拮抗作用が欠乏するときには、子供や白痴のように欲望が起これば、抑制の心のない衝動行動となり、またこれが麻痺弛緩するときには、酔っ払いや精神病者におけるような軽率、無謀の言動となり、またこの抑制の心が強くなると、抑うつ症のように話すことすることも全くその自由を失うのである。また緊張型分裂病のようにてん、あるいは錯乱興奮して、あるいは混迷になるなどの事は、これを筋肉の間代性または強直性のケイレンに比較することができる。あるいは神経質の種々の苦悩や精神活動の自由を失う事は、欲望と抑制との間における拮抗作用の増進することから起こるものである」 (神経質の本態と療法 白揚社より引用)自分の正直な気持ちと、それを言動として吐き出した場合、相手がどのような気持ちになるかという2つのことが心の中で自然に湧き上がってくるのが大人としての人間である。自分の正直な気持ちばかりが前面に出て、相手の立場に立って考えることができないという事はバランスが崩れているということだ。それはいわばロボットと同じである。人間に備わった精神拮抗作用という素晴らしい仕組みを活かして、時と場合に応じて、自分の正直な気持ちを打ち出してみたり、相手の気持ちを押し図かり、バランスをとりながら臨機応変に生活していけば間違いがない。バランス・調和の考え方を考慮しない森田理論学習はありえないと思う。
2017.05.24
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三重野悌次郎さんは、頭の中で考えたり思索することを重要視している人は、現地を無視して地図を信頼して生活するようなものだと言われています。私たちは、自分が考えたり話したりすることは、事実そのままだと信じていますが、実際は事実の1部分か、あるいは、ありもしないことを、あると信じて、考えたり話したりしているのです。それが神経症の苦しみです。ある人は専門の医者が否定するのに、心臓に疾患があると信じて、発作を恐れて電車にも乗れない。ある人は胃ガンになったと思って勤務を休む。ある人は人前で緊張するのは自分の精神が弱いからだと考えて、精神強化のために座禅をしたりする。これらはいずれも自分の考えたこと(観念や思想、つまり言葉)を事実と見間違えて対応しているのです。これは間違った地図によって現地を旅行しているようなものです。迷ったり行けずまったりするのは当然です。だが、このような誤りは神経質者に限らず、一般の人も同様な誤りを犯します。例えば、 「近頃の若いものはなっていない」とか、 「女だからダメだ」と言うのは、いずれも自分の考えを事実と混同しているのです。このような誤りを犯さないためには、つねに事実をあるがままに見る事、できるだけ具体的に話すことが大切です。事実は無数の要素から成り立っています。言葉はその一部分を語るだけです。どんな精密な地図でも、現地の複雑さに比べれば簡単なものです。「言葉は事実を言い尽くせぬものではない」ということをよく知ることです。地図はその時の目的によって、必要な要点さえ示せればよいのです。会場案内の地図であれば、土地に不案内な人でも会場に着けるように、必要な目印を示すことです。言葉は次々に抽象化できます。それによって複雑で高度な思考もできて、文化も発達します。しかし抽象化の度合いが高くなるほど、誤解も多くなり、意思の疎通が困難になります。話は具体的であるほどわかりやすく、誤解も少なくなります。車のナビゲーションはとても便利なものです。これを信頼して車を走らせれば、ほぼ間違いなく目的地に到達します。しかし、目的地に近付くと、駐車場を探したり、目的の建物の中に入る入口を探したりするのは、自分の目で行うことになります。 1から10までナビゲーションに頼ることができません。私は以前、普段よく通っている道なのですが、ナビを信じて車を走らせてみようと思いつきました。すると、ナビが一方通行のところへ誘導し、パトカーに捕まり、反則キップを切られてしまいました。ナビは、 「かくあるべし」と一緒で融通が利きません。例えば、新しい道がどんどん出来ていますが、古いナビゲーションだと道のないところを進んでいくことになります。また、よく知っている道で、この道の方が車が空いていて、早く目的地に到達できると思っても、ナビは最初に設定した道路に強引に何回も引き戻そうとします。それを見ているとイライラします。これが、いちど通った道は新しく書き加えるとか、運転者の意図を汲んで素早く道路変更するなどの対応ができれば問題ないのですが、ナビゲーションはプログラム通りにしか動かないので、仕方がありません。こういうことが人間の場合に起こったらどうなるでしょう。「こうあるべきだ」 「こうでなければならない」などと頭で考えたことを優先して、行動しようとしたり、他人に押し付けたりすると摩擦が発生します。これがこうじると、自己否定したり、人間関係に問題が生じてきます。それはあまりにも観念や思索、つまり言葉を信頼しすぎているからです。これに対して森田理論では、事実、現実、現場、現状を重視しています。それらが頭で考えたことと違ったり、対立したりするときは、必ず事実に立ち戻って、そこを起点にして出発するという生活態度を養成することが目標となります。神経質者や神経症に陥った時は、それが逆になっています。言葉を全面的に信用し、観念や思索から出発しようとしているのです。そうなりますと、ほとんど頭で考えたことと実際に起こっていることにギャップが生じてきます。それへの対応として、事実のほうを、頭で考えたことに合わせようとするのす。森田理論とは反対です。その結果、事態は悪化し、ますます葛藤や苦しみが出てくるのです。これを頭で考えたことを重視するのではなく、事実、現実、現場、現状に沿って生活するようになると、苦しみはあるかもしれませんが、葛藤や悩みに苦しめられることはなくなると思われます。 (森田理論という人間学 三重野悌次郎 春萌社参照)
2017.05.23
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野菜の種で「 F1品種」と言うのがあります。これは雑種第1代、 1代雑種などと言う名前でも呼ばれています。F1品種は、メンデルの法則をもちいて生産されています。異なる遺伝子形質を持つ2つの固定種(何世代にもわたって選抜を行って、優れた特徴を固定させた品種)を掛け合わせると、子であるF1世代には全て優勢遺伝子の性質が現れ、親より大きくなり、収量も多く、暑さや寒さ、病気に対しても強くなります。子が持つこの優れた性質のことを「雑種強勢」と言います。しかし、人間がそのような操作を行って野菜の種を生産すると、 F2世代では、 3対1の割合で劣勢遺伝子の形質を持つ子が生まれるため、生産量が低下してしまいます。さらに F3 、 F4世代になると、さらに生産量が低下していきます。したがって、 F1品種とは、ほぼ1代限りなのです。今現在市販されている野菜の9割以上がF1品種となっています。その市場を牛耳っているのか、アメリカに本社があるモンサント社という多国籍企業なのです。モンサント社は、種子、肥料、農薬をセットにして販売しています。F1品種を一旦採用した農家は、外国の種子会社に継続的に全面的に依存することになります。モンサント社は日本だけではなく世界戦略をとっており、今や世界の農業を牛耳っているのです。この方向はどう考えても不自然としか言いようがありません。人間が自然の摂理を無視して、自然を自分たちの都合の良いように操作しようとしているのです。この方向は森田理論が最も懸念するところです。今や人間は遺伝子の解読を完了し、遺伝子操作に手を染めるようになってきました。たとえばがんや糖尿病等にならないようにあらかじめ遺伝子操作を行う。あるいは、障害のない子供、容姿端麗、スポーツ万能、頭脳明晰な子供が生まれるように、他人の優勢遺伝子を持った精子と他人の優勢遺伝子を持った卵子を人工授精させて母親の体内に戻して子供を産む。その子供を我が子として育てる。順調に育てば、重大な病気を発症することもなく、容姿端麗、スポーツや芸術、科学の分野で普通の人では考えられないような大きな能力を発揮する。これらは、生命を人間の意のままに操るという究極の段階にきたと言えるのではないだろうか。豆腐、味噌、醤油の材料になる大豆はほとんどが輸入品である。国内生産量はわずか5%程度である。日本は2006年には、アメリカから320万トンを輸入しています。これは全輸入量の80%です。問題なのは、アメリカの農務省が発表している資料によると、遺伝子組み換え大豆が、そのうちの89%を占めているという。ということは私たちが普段口にしている豆腐、納豆、味噌、醤油は遺伝子組み換え食品から作られている可能性が高いということだ。こんな事実は公表しなくてもよいのだろうか。人間が勝手に遺伝子を操作して農作物や家畜、人間を取り扱うようになったのは1,995年頃からです。遺伝子組み換えについての危険性の検証をすることがなく、 目先の利益を求めて見切り発車しているのです。遺伝子組み換え農産物については、農薬耐性や害虫抵抗性の遺伝子が、それ以外の農産物に拡散することにより、環境や生態系に悪い影響を及ぼす可能性があります。つまり、遺伝子組み換え作物は病害虫に強いので、他の農産物を駆逐する可能性があるのです。また命を再生産する食料が、モンサント社のような民間の特定企業に独占され、あくなき儲けの道具として利用されることになります。もうすでに農産物の種子の独占化が世界中で進行しています。さらに安全性の問題もあります。遺伝子組み換え作物が人間にどのような悪影響を与えるのか、検証される事はありません。遺伝子操作を人間が自由自在に行うことが人間に許されることなのでしょうか。もし弊害が現れたとき、人間はどのように対処していくのでしょうか。核戦争と同じように、内側から静かに人類を滅亡させていく方向に向かうように思えてなりません。
2017.05.22
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森田療法のことを、 「行動療法」であるといわれる人がいます。理屈を言うまえに、実際に行動をすれば、神経症を治すことができるという考え方です。森田療法には、 「症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす」という教えがあります。私が30年前に森田理論学習を始めた頃は、この教えが金科玉条のように取り扱われていました。この考え方は、精神交互作用で神経症が固着して蟻地獄に陥ったような人にとって、とても切れ味鋭い効果をもたらしています。私も対人恐怖症で、会社の中で孤立し、うつ病になったとき、生活の発見会の集談会でこのことを教わりました。具体的には、実践課題を作り、日常生活の中で行動し、その結果を次の集談会で発表して先輩会員からアドバイスしてもらうという事でした。その結果、私の場合蟻地獄の底から早期のうちに地上にはい出すことができました。今考えると、症状に陥っていたときは、症状以外の事は何も考えることができなかった。その苦しい状態のままで、目の前の仕事や家事などに、気が進まないまま取り組んでいったことが、結果的に症状からの回復につながっていったのです。急がば回れというようなものです。神経症を直そうとして直球勝負で挑んで行っても決して結果が良くならない。むしろ増悪するばかりです。視点を変えて、行動することによって一時的に症状から解放されたのだと思います。だから今現在、神経症でどうにもならない人は、先輩のサポートを得て取り組んでみられたら良いと思う。ただ、 「行動療法」のみで神経症が完全に治るかというと、少し無理があるような気がする。それは森田理論学習を長らく続けてきた人たちの多くから聞かれる言葉である。私がこのブログでも書いているように、治り方には3つの段階がある。その一つ目の段階として、この「行動療法」があるのである。今現在、症状で苦しんでおられる人は、今はそんなものかなという理解で、行動、実践に取り組んでいただきたい。この1つ目の段階をクリアすることはとても大切である。次の段階に進むためには、確実に身に付けておく必要がある。一つ注意点を書いておきます。森田理論の中に、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉がある。行動一辺倒の考え方の人が、この言葉を聞くと、森田理論ではグチや不満を言う前に、昼間活動している時はどんどん仕事を見つけて動き回れという風に理解している人がいる。確かにそういう面が全くない訳では無い。だが私はそう言われると意味もなく糸車を回し続けているネズミを思い出す。この言葉は決して何も考えないで馬車馬のように動き回れという事を言われているのではない。この言葉は、同じ仕事を長時間続けていると体に疲労が溜まってくる。また飽きがきたり、マンネリ化して、やる気や意欲が減退してくる。そのような時に、その仕事をやめて別の仕事に転換すると、体の疲労が取れ、また気分転換になり精神状態が活発になる、と言われているのである。身体や精神状態には必ず波があるので、波が落ち込んだ時は、視点を変えて別のものに取り組む。これを応用して、体を使った後には、頭を使った仕事をする。家事をする場合にも、洗濯をした後に、掃除をしたり、料理を作る。ある人は集中力が持続するのは30分だから、 30分ごとにやることを切り替えていくと、精神が常に緊張状態でいろんなことに取りくめると言われている。大学の授業は90分であるが、これは人間が集中力を持続できるぎりぎりの限界であると聞いた。
2017.05.21
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森田先生は神経症の治り方に3つの段階があると言われている。小学校卒業し程度の段階。中学卒業程度の段階。大学卒業程度の段階。小学校卒業程度の段階では、気分の悪いまま堪えて働くことができる。症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす。症状は横に置いて、仕事や家事、育児など、生活に必要なことに手を出していく。最初のうちは、靴磨き、風呂の掃除、部屋の後片付け、布団あげなどの実践課題に取り組んでいく。そうすると、症状ばかりに向いていた注意や意識が、身の回りのものにも向いてくるようになる。症状に陥っているときは、ほとんど症状を治すことばかりに向いています。日常生活を丁寧にすることによって、注意や意識が少しずつ症状から離れていく。これが第一段階です。この部分は土台部分です。ここをおろそかにしていては次に進めません。中学校卒業程度の段階では、事実から逃げたり、誤魔化したりしないで、事実をそのままに認めることができる。イソップ物語にすっぱい葡萄という話があります。狐が木になっている葡萄を取って食べたいが、背が低いために何回飛び上がって取ろうとしても手が届かない。そこで狐はどう考えたか負け惜しみで、あの葡萄はきっとまずくて食べられるものではないと自分の気持ちを欺こうとした。あるいは元々自分は葡萄は欲しくないのだと、欲しいという事実をごまかそうとしました。さらにその葡萄を取る能力のない自分に劣等感は抱いたり、このような自分を生み育てた親を憎んだり、葡萄を欲しがらないようにしようとか、葡萄がすぐに手にいれられる超能力を得たいとか考えます。これは迷いです。迷いの元は、事実をあるがままに見ないことです。「自分はどうしても葡萄が食べたい」という事実と、 「自分の力では葡萄を採ることができない」という事実をあるがままに認めることができないのです。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば、四方八方力を尽くして及ばなければ、そのままその事実に服従します。だが人間は事実をあるがままに認めようとはせず、観念で事実を誤魔化したり、自分を欺こうとします。森田理論で大事な事は、世の中の事実をありのままに認めるということです。どんなに気にくわない事実であっても、その事実を認め、事実に服従できるようになった段階が第2の治った段階です。森田理論学習では、「かくあるべし」を少なくしていく方法を学び、実践してゆきます。大学卒業程度の治った段階について、森田先生は次のように説明されています。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現在における、我々の「生命の躍動」そのものになりきっていくことが、それが大学卒業程度というものであろうか。第2段階で、事実に服従できても、事実によい悪い、正しい間違いなどの評価をしているのが普通です。本心ではよくないと思うけれども、森田理論で自然服従がよいといっているので、やむなくそうしている。第3段階では、そこまで来たのなら、それを打ち破って、ぜひ次の段階に進みましょうといっているのです。この段階に至ると、目の前に現れるすべての出来事に対して、是非善悪の価値評価をしないで、すべての事実をあるがままに受け入れましょう。そして自然の流れに乗って、一体になって生きてゆきましょうといっているのです。誰でも台風、地震、津波、雷、大雨、大雪、雪崩、土砂災害は嫌なものです。しかし、人間は自然災害に対して、良いとか悪いとか、それが正しいとか間違いとか評価をすることはありません。人間は自然現象に対しては、基本的に反旗を翻すことはありません。まず自然災害で命を落とすことがないように、できる限りの備えを整えています。しかし、それ以上の想定外の災害に対しては、好むと好まざるとにかかわらず自然に服従しています。命の危険にさらされても人間にはコントロールできません。ところが、自分や他人の性格や容姿、生まれてきた時代環境、現在の境遇、理不尽な出来事などに対しては、すぐに是非善悪の価値判断をしてしまうのが人間です。かくあるべしを持ち出して、事実を認めることが出来なくなっています。そのことで様々な葛藤や苦しみを生み出し、他人との軋轢を深めています。是非善悪の価値判断をしない状態はどんな状態でしょう。サーフィンをしているようなものではないでしょうか。サーファーは大きな波にうまく身体を合わせて、波の流れに乗って変化やスリルを楽しんでいます。自分の自由は効きません。波が主役です。サーファーはただ波の変化にうまく合わせて波と一体になるしかありません。そうしなければサーフィンそのものを楽しむことはできませんし、反抗的な態度をとるとケガをしたり、最悪大きな波にさらわれて生命の危険にさらされてしまいます。サーフィンの上手な人は自然をコントロールしようと考えているのではなく、自然と同化しようとしているのです。人間の生き方としては、サーフィンの楽しみ方に学ぶことが大切だと思います。自然に反抗する態度を止めて、自然の流れに素直に同化していく態度を養成していくこと。第2段階の治り方では、「かくあるべし」を少なくして事実、現実、現状に基づいて生きていくことを目指しました。第3段階の治り方では、その事実、現実、現状に是非善悪の価値判断を持ち込まないで、自然と同化して、自然に溶け込んでいく生き方を目指していくものです。そういう段階に到達したとき、自然と共存共栄できて、健やかな生活を心から楽しめるようになるのではないでしょうか。(森田全集第5巻 白揚社 652頁より一部引用)
2017.05.20
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形外会で布留さんが、森田先生に次のように質問した。勉強しているとき、遊びに行きたいという気持ちになったとき、いくら抑えようとしてもだめです。たいていは欲望に負ける。そんな気分が出ると、我慢しようとしても、どうにもしようがない。ついにやぶれかぶれで遊びに行く。そんな時、どんなに苦しくても我慢して、本を読むようにした方が良いでしょうか。これに答えて森田先生曰く。「遊びに行きたい」という欲望と、 「勉強しなければならない」という2つを、我々の心の事実として認め、これを両立させて自由に解放、発展させておくと、悪知なくなって、必要に応じては、楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽しく、遊びに行くことができて、心に拘泥はなく、自由に適切に、その行動を選ぶことができるようになる。これに反して、 「遊びたいと言うような、のんきな心を起こしてはならない」 「勉強に興味を起こし、 身を入れるようにしなければならない」という風に、 「かくあるべし」ということを強いると、我々の心の事実を否定しようとする不可能の努力となって、これが悪知となるのです。本の上に目を走らせながら、上野に行こうか、浅草に行こうかと考えながら、この本をもう1ページとか、この章だけを、とか考えて、読んでいるうちに、その本の内容が、自分と同感するところや、あるいは排斥すべき説などにぶつかると、ついついその方に心がつり込まれて読書のほうに没入することになる。 (森田全集第5巻 白揚社 359ページより引用)勉強しているときに、遊びに行きたいという考えが次第に強くなって、勉強が上の空となった時どうすればよいのか。そういう時、ふつうは「遊びに行きたい」というのはよくない考えなので、その気持ちを否定する。否定をして、勉強に取り込もうとするのだけれども、「遊びに行きたい」という気持ちが収まるどころか、どんどんと強まってきて、収拾がつかなくなる。こんな気持ちでは、どうせ集中して勉強なんかできるわけないんだから、破れかぶれになって遊びに出かけてしまう。こんな二つの相反する気持ちに振り回されることは、日常生活にいくらでもある。例えばパチンコの好きな人は、お金を無駄に使ってはいけないという気持ちもあるが、どうしても一勝負しなければ気が収まらない。これらに対して森田先生が上記のごとく適切に回答されていると思う。私はこんな経験があった。夏暑いときビヤガーデンで会社の暑気払いがあった。ところが次の日は生活習慣病検診が予定されていた。次の日のことを考えると、今日は理由を話して欠席することがよいと思った。でも根っからの酒好きである。特にビール飲み放題には眼がない。少しぐらいなら影響はないだろう。それに会社の人間関係は大事だ。同僚も盛んに誘ってくるし、行くことにしよう。ビヤガーデンでは盛り上がって、健康診断のことは眼中になかった。そして、さらにスナックに行ってカラオケをした。帰ったころは12時を過ぎていた。よく朝起きると頭が重い。完全な二日酔いである。健診結果は散々なものであった。「たくさん酒を飲みたい」「明日の健康診断に不都合があってはいけない」この二つの相反する気持ちを、どちらも認めてほどほどの行動をとればよかったのだが、ビールを飲み始めると、健康診断のことはすっかり忘れてしまった。というよりも、あとで考えると、酒の誘惑に負けて、健康診断を受けるということを無視してしまった。両方の調和を心得ていると、ガブガブとビールのお代わりをしないで、例えばジョッキ2杯までと決めて控えめに飲む。二次会は丁重にお断りする。いろんな方法はあったのだ。森田先生は「精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である」と言われている。「遊びに行きたい」でも「勉強しなければならない」このような対立する気持ちがある時、どちらかに決め付けてはいけないということである。 2つのどちらの気持ちも、否定しないで、泳がしておくということである。あとは、状況次第ということになる。明日試験が控えているという場合は、遊びに行く事は許されない。反対に差し迫った勉強でない限りは遊びに行ってもよい。私たちの特徴は、対立する気持ちのどちらか一方を、 「かくあるべし」で抑圧してしまうことである。この場合、 「遊びに行きたい」という気持ちを意志の力で、そう思ってはいけないと押さえつけることである。抑えつければ押さえつけるほど、その感情は高ぶって手がつけられなくなる。そして最後には、その時の状況を無視してやぶれかぶれな衝動的な行動へと突っ走ってしまうのである。相反する感情や気持ちがある時は、まずは、その2つを自然現象として素直に受け入れる。そして行動としては、その時の自分の置かれた状況によってどちらかを選択する。本を読んだり、勉強するということは努力を伴うことであり、苦痛を強いる事であるが、状況に応じては、そちらの行動を選択してゆかなければならないこともあるのだ。本能の赴くまま軽率な行動をとるのではなく、2つの相反する気持ちの調和を図るということが大切だ。
2017.05.19
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形外会で安田さんがこんな話をされた。子供が夜泣きをして泣くのがうるさくて、いつも家内に、そんなに泣かせなくともよさそうなものだと小言を言っていました。家内はそんな無理を言っても仕方がない。子供は泣くときは泣くものだから、放っておくほか仕方がないと言うので、なおさら癇癪を起こしてしまいました。森田先生のお話から、私がうるさいと思うのもやむを得ない。家内の心待ちもそれよりほかに仕方がないと考え、そのままじっとしていると、癇癪や気まずさもすぐ消えて、非常に安楽になりました。これに応えて森田先生曰く安田くんの、 「泣くのはうるさい。泣かさなければよいのに」というのは、我々の感情の事実です。母親のほうは、これまでいろいろやってみたが、泣き止ませることはなかなかできない。放っておくと、かえって早く泣き止むと言う事実を、経験によって知っている。だから母親でも、泣かれるのはうるさいことは同様である。けれども、仕方なしに我慢している。安田くんは、私の話によって、うるさいと思うのも、感情の事実であるから、なんとも仕方がないと、あるがままに我慢していると、自然に心が落ち着いて楽になるという。しかし、この場合には、まだ「事実に服従しなくちゃいけない」 「我慢しなくちゃならない」と言う格言を立てるところの努力があって、相当に骨の折れることである。いわばこれは小乗のやり方である。「我慢しなければならない」と、型にはまっていては、少しも進歩はないが、 「アアうるさい、どうしてやろうか」と、ああも思いこうも工夫して、子供を観察していると、泣くにもさまざまの泣きぶりがある。しかれば尚更憤慨して泣くとか、母に叱られて心細くって泣いているのを、端から父親が機嫌を取ると、こころ丈夫になると憤りとのために、かえってひときわ声を張り上げて泣くとか、あるいはいきがかり上、急に泣き止むわけにいかないで、こじれ泣きをしている、とか言うような、さまざまな場合を知ることができるようになる。小乗は、まだ「あるがままにならなければならない」という、 「思想の矛盾」から脱しきることができず、大乗は、我々の心の「心は日万境に随って転ず」の真の「あるがまま」の変化流転であり、そこに初めて「日に新たに日々に新たにまた日に新たなり」という進歩があり、運命を切り開いて、 「災いを転じて福となす」とか言うような働きも自ずからその間に現れてくるのであります。 (森田全集第5巻 白揚社 676頁より引用)難しいことを言われているが私なりにこの意味を考えてみた。私たちは普段イライラするようなことがたくさんあります。そんな時、ついイライラを取り除こうとしたり、その場から逃げてしまったりします。森田理論学習をすると、不快な感情は自然現象だからそのまま受け入れるしかないと学習します。抵抗しなければどんな感情も最終的には流れていってしまうのだと学習しました。だから行動としては、軽率に不快な感情に対して対応しないように耐えたり、我慢しようとします。安田さんの場合は、これが「かくあるべし」になって、「耐えなければならない」「我慢しなければならない」という思想の矛盾に陥っている。「かくあるべし」という考え方は、どんな場合でも葛藤や苦しみを生みだしてしまう。森田先生はこんな場合、しいて耐えたり、我慢する必要はない。そうすると益々不快な感情は増悪してしまうといわれているのだと思います。ではどうするのか。「かくあるべし」ではなく、イライラ、不快感が沸き起こってきたという事実から出発するのだ。別の言葉でいえば、イライラ、不快感という感情を受け入れてよく味わってみるということだ。そのイライラや不快感をいかにして軽減させたり、なくすることができるか、工夫したり試行錯誤してみなさいと言われています。いろんな対応策を思いつくままに、ああでもない、こうでもないと考えておればよい。結論が出ないままに迷っているうちに、イライラや不快の原因は収まっていることが多い。つまり何も手を打たないうちに、イライラや不快感が消え去ってしまうということになる。もし何日もその不快感が消え去らないということがあれば、それはあなたにも理があることだ。そういう場合は、その原因を落ち着いてよく整理して、理路整然と議論すればよい。慎まなければならないことは、一時的にそのイライラや不快感に耐えかねて、短絡的に行動を起こしてしまうことだ。その前にイライラ、不快感を受け入れて、味わってみるという過程が完全に抜け落ちて、原因がはっきりしないうちに対症療法的に対応してしまっていることが、致命的な欠陥である。そのように対応すれば、どんな感情も谷川を流れる小川のようによどみなく流れていく。短絡的な行動をとると、お城の堀の水のように、汚く濁って雑菌が繁殖していくようなものです。感情の取り扱いは、基本を押さえて実践すると問題は起こらない。
2017.05.18
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作曲家の久石譲さんは、第三者のようにさめた視線で冷静に物事を判断することを重視している。つまり、自分の感情だとか先入観などを取り払ったところでものを見て判断するのである。このような第三者の脳の機能が働いていると、人や物事の本質を見誤ることが少ないといわれる。確かにそうだ。これは森田理論でいうと「純な心」で見るということだと思う。普通最初に物事に遭遇したとき、直観ともいうべきものが働く。それが「純な心」だ。ところがそれは次々に湧き上がってくるもろもろの感情によって消し去られてしまう。直感が働いていたことすら思い出せない。久石さんは、最初の第一印象は間違いなくその人の本質を突いているといわれる。初対面の人と会ったとき、第一印象は「この人は軽そう。ペラペラよくしゃべるし、何だかあまり信頼できそうな感じがしない」だったとする。しかし、しばらく付き合っているうちに、 「いや、そうでもないかな。意外に考え方がしっかりしている。仕事もきちんとやるし、そんなにいい加減じゃないかもしれない」と感じるようになる。最初の印象を改めて再評価する。大抵の人は、ここでその人の本質を見た気になってしまう。だが、しかしである。もっと長く付き合って、その人が土壇場に追い込まれた時を見たらいい。必ず、最初の印象に戻る。 「なんだ、いざとなったらやっぱり軽かった」と言ったことになるケースが多い。久石さんは、これを「サンドイッチ理論」と名付けている。サンドイッチというのは、パンと中身の具を一緒に食べるから、サンドイッチとしておいしさがある。人を見るときもサンドイッチだと思ってみればいい。最初にパンの耳の部分だけ食べ、いまいちおいしくないと思い、次に中身の具材を食べて、割といけるじゃないか、と思ったとしても、それはサンドイッチの本質を捉えていない。中に入るチーズでもチキンでもハムでも野菜でも、もともとそれだけで食べることができる。しかし、具をはさんでいる両側のパンがなかったらサンドイッチにはならない。パンだけの味、具だけの味で何を語っても、それはサンドイッチという全体を見たことにはならない。だから、パンだけを、中身だけを食べて、つまり1部分だけを見て、主観でいろいろ言っても、それはその人を冷静に見ているとは言えない。人だけでは無い。物事や現象でも同じことが言える。(感動を作れますか 久石譲 角川書店 61頁より引用)要するに、久石さんは物事や現象、他人を見るときに最初に感じたこと、いわゆる第一印象や直観力をもっともっと信頼したほうがよいといわれている。森田理論も同様のことを言っている。我々は第一印象や直観力から出発すれば間違いないのだが、それらを無視してしまう傾向がある。事実を無視してすぐに「かくあるべし」で物事を判断したり、他人を評価してしまうのだ。「かくあるべし」が出てきたときに、「ちょっと待て」、最初の第一印象、直観的に感じたことはなんだったのだろうと振り返ることができる人は、相当森田の修養が進んだ人だと思う。
2017.05.17
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5月6日のプロ野球、阪神対広島の8回戦は阪神の逆転勝ちで大いに盛り上がった。この試合、広島は5回までに9点を取った。しかし、その後阪神に12点をとられて負けた。広島のピッチャーは、広島の勝ち頭の岡田だった。4回までは、速球も冴え、変化球もキレがあった。ところが、5回に入ると、別人のような投球に変わっていた。次の回、満塁になり、とたんに広島は完投予定だった岡田をあきらめ中田にスイッチした。中田はこれまで首脳陣の信頼を勝ち得ていたが、勢いづいた阪神の勢いを止めることはできなかった。6回に一挙7点をとられてしまった。地の利を得て勢いにのった阪神は、その後も着々と点を積み重ね、逆転勝ちをした。甲子園はお祭り騒ぎとなった。その時の球は記念として博物館に展示されるという。これを見て私の感想である。岡田投手は、広島が9点を取ってくれた時点で勝ちを確信したのだと思う。プロ野球の試合で9点をとりながら、その後逆転負けをしたケースはほとんどないわけだから、そう思うのも無理はない。気持ちの面で戦闘能力がなえていた。緊張の糸が緩んで、弛緩状態に陥ったのだと思う。それでもノラリクラリ投げていれば、よもや負けることはないだろうと信じて疑わなかった。今日勝てば4勝目だ。セリーグ最多勝だ。あとは試合を楽しんで投げていこう。そう思ったのではないだろうか。これは岡田投手のみならず、広島の首脳陣、広島のファンのみんなが思っていたことだろう。しかし6回を終わった時点で、阪神に1点差にまで追い上げられ、これは、とんでもないことになった。再度気を引き締めて、再び緊張感をよみがえらせた戦おう。まだ負けたわけではないのだから。そのように思って、改めて気持ちを奮い立たせて試合を組みたてなおそうとした。ところが、一旦弛緩状態に陥った精神状態を急いで緊張状態に切り替えることはできなかった。阪神は地元のファンが多い甲子園球場ということもあり、ずっと緊張状態を継続していたため、両者の精神状態の差は大きく水を開けられた状態となった。勝利の女神が阪神に味方したと言うのは、考えてみれば当然の結果であった。その後、阪神は勢いに乗り、今やセリーグのトップにまで躍り出た。阪神ファンは今年は優勝間違いなしという人までいる。その原点はこの試合から始まったと言っても過言ではない。私はこの試合を見て、森田理論のことが頭の中にひらめいた。森田先生は、冬寒いときに風邪をひくと言うのは、寒い中野外で活動し、急に暖房の効いた部屋の中に入って、緊張状態が急に弛緩状態に変わった時に起きやすいと言われている。特にコタツの中に潜り込んで、 うたた寝のようなことをするとすぐに風邪をひくと言われている。緊張と弛緩状態の落差に身体がついていけないのである。だから緊張状態から弛緩状態に移り変わる時は、徐々に移行させていく必要があるのだ。スポーツ選手でも激しい運動した後はクールダウンと言って、すぐに運動を休んでしまうのではなく、徐々に運動量を減らしていって、最終的に弛緩状態に切り替えていく。そのほうが病気や障害を防げるのである。毎日の生活は緊張と弛緩状態が波のようにうねっている。それが急に切り替わっているのではなく、山形の曲線をなして徐々に変化しているのである。気が付いてみればいつの間にか切り替わっていたというのが普通である。われわれは、その変化の波にうまく乗って、生活していくということが肝心なのである。決して緊張状態を弛緩状態に乱暴に切り替えてはならないのである。
2017.05.16
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映画界で世界的スターのトム・クルーズは、学習障害の1つである読字障害があったという。教科書を読むように言われるたびに、彼は屈辱的な思いを味わったという。「頭が真っ白になって、焦りや不安や嫌気や欲求不満や、僕はバカなんだという思いが湧いてくる。腹もたったよ。勉強していると、嘘じゃなく本当に足が痛くなってくるんだ。頭痛もした。小学校から大学まで、それに仕事をし始めてからも、ずっと自分には人に言えない秘密があると感じていた」彼は字がうまく読めなかったことで、他の生徒からからかわれ、いじめを受けることもあった。自分が分かっていないことをごまかすために、ふざけたり、教師に反抗したりもした。そこで彼は特別支援教育を受けることになった。さらに、母親が家庭で指導した。その中でも重要なアドバイスは、 「自信を持たせるため、スポーツ、演劇、美術など非学術的な分野で才能を伸ばすように勧められた」ということだった。そのアドバイスに従って、トム・クルーズは演劇部に入り、そこですぐに素晴らしい才能を発揮し始めた。台本を覚えるときは、教師に読んでもらって暗記したが、文字がすらすら読めないと言うだけで、読んでもらえれば素早く台詞を覚えることができたという。ハイスクールに在籍していた頃、ミュージカルのオーディションを受けてみないか、と友人にすすめられた。その時、プロのエージェントがいた。オーディションでの彼の演技力は群を抜いていた。そこから彼の俳優としての輝かしいキャリアが始まったという。読字障害や書字障害がある人は、それに気付かれないように大変な気苦労と労力を払って生活している。「メガネを忘れた」とか、 「手を痛めている」といった理由をつけて、うまく読み書きできないことをごまかしながらも、内心は冷や汗をかいていることもあるし、領収書を書くといった作業ができないために、販売や接客の仕事を避けなければならないケースもある。トム・クルーズも例外ではなかった。それにとらわれてしまうと神経症に陥る可能性が大きい。だが、そうしたハンディは、代償的に他の人にはない能力を育む。学究的でない面で自信を持てることに取り組ませるというアドバイスは、こうした障害のある人の能力を伸ばす上で、まことに的を得たものと言えるだろう。(発達障害と呼ばないで 岡田尊司 幻冬舎新書193頁より引用)
2017.05.15
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プロ野球の試合を見ていると、ピッチャーが相手打者に打たれて、選手交代を告げられたときや打者がチャンスで打てなかったとき、ダッグアウトに戻ってからクローブを投げつけたり、足で椅子を蹴り上げたりしている光景を見ることがある。自分自身に腹が立っているのだろう。その選手は悔しさや怒りの感情を抑えつけることができなくなったのだ。その気持ちは分かる。でもその後のプレイにまで影響するのではないかと心配になる。また、そういう選手は普段の日常生活においても、不安や不快な感情をすぐに表に出しているのではないかと想像してしまう。こうした場合、いつまでも悔しさや怒りの感情を持つ事はよくないので、終わった事はすぐに水に流して、気持ちを切り替えることが大事であると言われる。また、どんな結果であれ、 「クール」に受け入れたほうがいい。淡々と仕事をこなし、ヒットを打っても喜びを過大に表現しない。打てなくてもがっかりしない。そんな一喜一憂しない心の状態を持ち続けるのがよいと指摘する人もいる。これに対して、王貞治さんは、 「悔しいとか、怒るとか言うのは態度で見せなければいけない」と言われている。また、「あえて悔しがる」 「あえて怒る」ということが大切だといわれている。早速、このことを森田理論で分析してみたい。森田理論では、あらゆる感情は自然現象であって人間の意思の自由はないと言われている。悔しさや怒りの感情はまさしく自然現象である。それがどんなに激しいものであっても受け入れる事しか出来ないといわれている。しかし、その受け入れ方は、よくよく考えてみることが必要だ。悔しさや怒りを持ちこたえることができなくて、それを外に向かって発散することは、一時的には楽になる。しかしそれではまわりの人に迷惑をかけるし、悔しさや怒りの感情もますます増悪してくる。これは幼い子供のやることである。大人になると、一時的な感情の高まりをこのような形で処理すると、後々取り返しのつかない事態に至ることは容易に想像できる。しばらく時間をおいてみると、その感情は次第に沈静化してくるのが常である。その上で、王貞治さんが言われている、 「あえて悔しがる」 「あえて怒る」はどういう意味を持っているのだろうか。これは沸き起こってきた感情を、簡単に見捨てるようなことをしてはならないと言われていると思う。「クール」であると言うのは、悔しいとか怒りという自然現象である感情を、どちらかというと抑圧しようとしているのではないか。どんな感情も受け入れて自然に服従するということと、沸き起こってきた感情を否定したり、無視したり、抑圧してしまう態度はまるっきり方向性が違う。感情を否定したり無視したり抑圧すると、注意や意識は自分の存在自体を否定したり無視したりする方向に向かう。あるいは他者の存在否定などに向かう。悔しさや怒りの感情を否定したり、無視しないで受け入れて、その感情を十分に味わうとどうなるか。野球でいえば、打てなかった原因や打者を抑えられなかった原因を考えるようになる。そのミスや失敗を分析して、次に生かすことを考えるようになる。次こそはと、集中力ややる気、モチベーションを高めることができるようになる。悔しさや怒りの感情をプラス思考、未来志向で、次に生かすことができるようになるのである。そのためには、どんな不快な感情がわき起こってきても、その感情をあるがままに素直に味わってみることが必要なのである。感情に対して反抗的な態度では何も得るものがない。別の言葉で言えば、沸き起こってきた感情を爆発寸前まで高めて味わい尽くすことが肝心だと思う。(王貞治に学ぶ日本人の生き方 斎藤隆 NHK出版参照)
2017.05.14
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ハワード・ガードナー氏は、人間の潜在能力を8つに分類されている。・音楽・リズム知能 様々なメロディ・リズム・ピッチ・音質などを認識したり、識別したり、作りだしたり、表現したりする能力のことである。代表的な人にモーツアルトがいる。他の人がピアノを弾いているのを1度聞いただけで、自分でもすぐに弾けるだけの能力がある。・論理・数学的知能 論理的なパターンや相互関係、命題(仮説や因果関係) 、また抽象的な概念に対応できる知能のことである。数字の意味をとらえて操作したり、何かを明確に論証したりすることができる。例えばアインシュタインやホーキング博士などがそうである。・視覚・空間的知能 空間および空間の中に含まれるものを的確に認識したり、その認識を自由に転換させたりすることができる機能です。例えば、工業デザイナーや建築家の場合、図面などを見た瞬間に、細部から全体までを映像として捉えることができる。著名な建築家やスティーブ・ジョブズ氏などがそうである。・言語・語学知能 話をする、文字や文章等を書くなど、言葉を効果的に使いこなす知能のことである。言葉を使って人を説得したり、情報を記憶したりする知能も含まれる。文字や文章で書かれたものを読む。文字や文章を書く。話をする能力のことである。小説家はこの方面の能力が優れている。・対人的知能 、他人の気持ちや感情、モチベーションなどを見分ける知能のことである。表情、声、ジェスチャに反応したり、人間関係における様々な合図を読み取ったり、その合図に効果的に反応したりすることができる。交渉力やリーダーショップの発揮に欠かせない能力である。政治家や経営者、臨床心理士などに不可欠な能力である。・博物学的知能 身の回りにある様々な事象を認識し、違いや共通点を見つける知能のことである。自然現象にとどまらず、分類する視点を自ら作りだしたり、いちど分類したもの違った視点で再分類してみたりすることができる。古美術品の鑑定士、不動産鑑定士などで頭角を現す人たちのことである。・内省的知能 長所短所にかかわらず、自分自身について正確に把握し、その上で行動を起こさせる知能のことである。自分を尊重したり、律したり、大切にすることで、自分の行動スタイルを作ることができる。親鸞聖人、道元、良寛、孔子、老子などの人たちがいる。・身体・運動感覚知能 考えや気持ちを自分の身体を使って表現したり、自分の手で物を作ったり、作り変えたりする知能のことです。登場人物になりきったり、授業で学んだこと。家で実際にやってみたりすることも得意です。プロ野球選手、ダンサー、俳優などの人たちがいます。普通、一般的な人は飛び抜けた潜在能力を持っている人は少ない。どれも平均的な場合が多い。私の場合もそうである。しいて言えば、言語・語学知能、内省的知能面の能力が多少あるような気がする。ましてや、それ以外の面の能力はほとんど自信がない。ここで面白いのは、発達障害という問題を抱えているような人は、際立った潜在能力を持っている場合があるということである。普通の人以上のことができて、周囲の人をびっくりさせることがある。ただ逆に、そういう人は得てして、学校でもじっとしていられなくて授業中ウロウロ歩きまわる。あるいは、友達と仲良く遊ぶことができない。自分勝手な行動が多くて、集団生活に馴染むことができない場合がある。今の教育は、先生が大勢の子供をまとめて講義形式で教育していくやり方である。自閉症、注意欠陥多動性障害、学習障害、広範性発達障害などとみなされる人は、そのような教育にはなじまない。授業の進行を妨げるために、仲間はずれにされたり、集団学習の場から排除される。時には障害のある児童生徒とみなされて特別支援教育の場に送られる。もしその子供たちの持っている潜在能力を信頼して、その能力を発掘して成長させていくという考え方を親や先生が持っているとその後の展開は全く違ってくる。欠点を修正して、人並みに社会生活が営めるようにすることはある程度必要だが、それ以上に大切なのは欠点を修正するよりも、その子供の持っている潜在能力を見つけて、伸ばしていくという考え方を持てるかどうかということである。発達障害を抱えた人は、最初から落ちこぼれている人ではなく、別の面で優れた潜在能力を持っている可能性が強いのである。そういう視点で、周りの大人たちがその子供たちと接触できるかどうかが、その子供たちの将来を決めてしまう。
2017.05.13
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倉田百三氏話です。ある土佐藩の武士が、和田倉門の所を通っていたら、 1人の武士から真剣勝負を挑まれた。ところが、土佐藩の武士はまるで剣術を知らない。それで、 「今は用事があるから、それを果たすまで待て」と言って、名高い千葉周作の門へ行き、その事情を話して、 「自分は実は剣を知らない。ただ死ぬるなら見苦しくなく死にたいから、どうすればよいか教えを願いたい」と言って頼んだ。千葉周作は次のように教えた。「相手に立ち向かったら、すぐ太刀を大上段にふりかぶり、左足を前に出して眼を閉じよ。しばらくするとヒヤリとする。それと同時に切りつける。そうすれば必ず相打ちになる」ということであった。土佐藩の武士は、約束のごとくかの武士と真剣で立ち向かった。そして大上段に構えて、目をつぶって待ったが、なかなかヒヤリとしない。しばらくすると、相手の武士が、 「まいった」と叫んだ。「到底我が輩はかなわぬ。ところで、貴公の流儀は何というものか。剣は知らなくても、剣の極意を得ている」この土佐の武士は、剣術を知らないから弱い。弱いから勝とうとはしない。気が楽になっている。斬ってきたら斬り下げようと、それだけを考えているばかりである。倉田氏は、神経質は気が弱いくせに、完全欲が強い。神経質は諦めるところにその生活戦術がある。たとえ失敗しても構わないという覚悟を持つことが、神経質者の戦術の強みが出てくる元で、是非がないと諦めれば、そこに非常な力が出てくる。(森田正馬全集第5巻 白揚社 724ページより引用 )玉野井幹雄さんも、神経症を治すには、治そうとすることを諦めることが大切だと言われる。そのことを玉野井さんは、 「地獄に家を建てて住む」ということを言われている。そういう心境に至って初めて神経症は治ると言われている。これは森田先生の言葉では、退路を断つという事だと思う。退路が1つでも残されていると諦めることができない。その段階では、治すためにいろいろと手を尽くす。ところが治すための方策は、治るどころかどんどんと増悪していく。それは坂道を転がる雪だるまのようなものになる。諦めるためには、いろんな手を尽くしてもどうにもならなかったという体験が必要になる。いったんは絶望感を味わうことが有効になる。そして、最終的に症状と格闘することから注意や意識が離れていくとしめたものだ。森田先生は、親からの仕送りがなくなり、脚気や神経衰弱、不安神経症などの病気を治すことを諦められた。病気を治すことに集中していたそのエネルギーを、本来取り組むべき勉学のほうに向けられた。すると、不思議なことに、今まで自分を苦しめていた病気が雲散霧消したと言っておられる。ここから神経症治療としての、森田療法を思いついたといっておられる。神経症治すには、ここが肝心なところだ。自分の体験としてコツをつかんでいくことが大切である。
2017.05.12
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2013年5月に、アメリカ精神医学会より出された最新の診療基準であるDSMー5に 、 「インターネットゲーム障害」が採用された。これによると、次の項目のうち5つ以上は当てはまる場合、ネットゲーム障害と診断される。・ネットゲームが日々の生活の中での主要な活動になっている。・ネットゲーム機が、とりさられたとき、イライラや不安が襲ってくる。つまり、離脱症状が出てくる。・ネットゲームのために昼夜逆転現象が起きている。深夜までゲームをする。・ネットゲームをやめようと思っても止めることができない。・ネットゲーム以外の過去の趣味や娯楽への興味の喪失がある。・心理社会的な問題を知っているにもかかわらず、過度にネットゲームの使用を続ける。・家族、治療者、または他者に対して、ネットゲームの使用の程度について嘘をついたことがある。・否定的な気分(例えば無力感、罪責感、不安)を避けるため、あるいはやわらげるためにネットゲームをする・ネットゲームへの参加のために、大事な交遊関係、仕事、教育や雇用の機会を危うくした、または失ったことがある。ゲーム障害になると、過敏でイライラしやすく、不機嫌で、集中力が低下し、目はうつろになる。色は白く蒼ざめて、顔は伏せがちになり、目を合わせようとしない。何も手につかず、以前はそれほど苦労することなく出来ていたことができなくなる。無気力で目の前のことには意欲が湧かず、投げやりになる。神経過敏、不機嫌になりやすい、焦燥感がある、不安、うつ状態、無気力、注意力や集中力の低下、社会的機能の低下などが認められる。これらはアルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症の人たちに現れる現象とよく似ている。日本では、 2005年には数十万人から100万人と推定されていた。現代では400万人とも500万人とも言われている。20代前半では19%がネットゲーム依存に陥っている。依存の低年齢化とともに、成人まで依存を持ち越すケースや、これまで無縁だった人でも依存するケースが増えている。インターネットゲーム依存症にかかると、脳が萎縮したり、機能停止に陥っていることがわかっている。眼窩前頭葉、前帯状回、外包、脳梁などである。眼窩前頭葉は、やってはいけない行動にブレーキをかけたり、逆に報酬が得られる行動に意欲を出したり、善悪や価値判断をしたりすることに重要な役割を果たしている。ここが機能障害に陥ると、衝動的でキレやすくなったり、無気力で意欲が湧かなくなったりする。前帯状回は、共感性、傷や危険の認識、感情の調整、選択的注意などに重要な働きを行っている。ここが機能障害に陥ると、他人の気持ちに無関心になり、冷淡になったり、うつ状態に陥ったり、情緒が不安定になったり、危険に鈍感になったり、注意力が低下したりしてくる。ネットゲームをしている間は、脳内にドーパミンが大量に放出されている。ドーパミンは脳内に快楽現象を引き起こす。一旦ネットゲームに依存するようになると、自分の意志の力では避けることができなくなる。また、ネットゲームを中断するとイライラや不安に襲われるようになる。その時脳内では、ダウンレギュレーションがひき起こされているという。つまり、過剰なドーパミンの放出を抑えるために、ドーパミンの受容体の数そのものが減ってしまうという現象である。こうなると、少ない時間で快楽を得ることができなくなる。長時間のネットゲームに陥ってしまうのだ。これはもはや脳の機能が変質してしまったと言わざるを得ない。我々神経症に陥りやすい人は、愛着障害、発達障害、適応障害を抱えている人が多い。そのために、学校や職場になじめず、人間関係の悪化を招き、慢性的な生きづらさを抱えている。そういう人たちが、精神的破綻から身を守るためにさまざまな依存症に陥りやすいということが考えられる。 その中でも、ネットゲームはインターネットの普及とともに急速に拡大してきている。韓国、中国、タイ、ベトナムなどでは、国家が先頭に立ってその弊害を取り除こうとしている。日本では、ネットゲームは放置されたままである。かつて中国がアヘンで、国の存続の危機を招いたようなことが日本で静かに進行しているのである。(インターネット・ゲーム依存症 岡田尊司 文藝春秋参照)
2017.05.11
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禅に「求めんとすれば得られず」ということがある。そうかと思うとバイブルには、 「求めよ。しからば与えられん」と言っている。この2つは反対のことを言っている。どちらを信じたらよいのか。森田先生は次のように説明されている。「求めよ。与えられん」と言うのは、例えばあの人にいくら会いたいと念願したとしても、訪問しなければ面会ができるはずはない。 「求めよ」ということも、珍しいものが欲しければ探しにいけ。 1円が欲しければ、それだけ働けと言うことである。手を出さなければ得ることはできないぞ、ということの奨励の意味である。すなわち実行における事実を表現したものである。次に、「求めんとすれば得られず」というのは、これと比べて、思想と事実との相違であり、思念と実行との相違である。眠らんと求れば寝られず、思わないようにと欲すれば忘れられず、気を落ち着けようとすれば、ますます不安になる、と言うようなものである。私はこれを思想の矛盾として説明しているのである。 (森田正馬全集第5巻 白揚社 709ページより引用)この話と同じようなことを、玉野井幹雄さんは次のように説明されている。昔、武士が茶会に招待されたとき、茶室に入るのに刀を持っていては失礼になると思い、刀を持たずに入ったところ、師匠から「武士たるものが刀を肌身から放すとはなにごとか」と言って叱られたそうです。そこで次に参加するときには、刀を持って入ったところ、今度は「茶室に刀を持って入るとはなにごとか」と言って叱られたと言うのです。 (神経質にありがとう 白揚社 264ページより引用)玉野井さんの話では、その武士は、何の言い訳もせず、師匠の言う通りにしたと言うのです。常識で考えると、 2回目に叱られたとき、 「この前刀を持って入れといったではありませんか」と言いたくなるところですが、それでは「目の前の事実に反抗することになって」素直だとは言えないのです。それは、過去のことにこだわった態度だということになるわけです。武士のとった態度は「過去のことに関係付けないで、目の前の事実に従う」というものでした。相手が自分の意見と違うことや、関心のないこと言う時に、それを素直に聞くのは難しいものです。その場合に、なるたけ過去や自分を含めた他のことと関係付けないで、相手の言うことを素直に聞くことができれば、相手も喜ぶし、自分も負担がかからず助かるのです。このように、過去のことや自分を含めた他のことと関係付けないで目の前の事実に従うという事は、幸せな日常生活を送る上でとても大切なことだと思っています。こういう事は会社でもよくある。会社の上司が朝の朝礼で、訪問回数を増やさないと営業成績は上がらないと発破をかける。その日の夕方、営業目標の未達の報告を上司にした。するともっと営業戦略を練ってから訪問するように叱責される。朝指示したことと夕方指示することが首尾一貫していない。このような朝令暮改的な上司の元では仕事をする意欲がわいてこない。一体この上司は何を考えているんだということになる。上司の言葉を表面的にとらえれば確かに誰でも腹が立ちます。これを玉野井さんのように、朝と夕方、どちらも場合も目の前の事実に従うとどうなるでしょうか。まず朝の指示について。新規開拓の仕事は、見込み客を選り好みしないで、ローラー作戦で隈なく訪問して営業をかけないと思ったような成績は叩き出せません。新規営業は何度断られても粘り強く訪問を継続することが必要です。続いて夕方の指示。御用聞きのような営業活動を永遠に続けていて、営業目標を達成できるでしょうか。そういう戦略のない営業スタイルでは、継続的な成果を叩き出すことはまず無理でしょう。優秀な営業マンは、営業戦略やセールステクニックを常日頃研究して磨いています。会社で優秀営業マンとして表彰されるような人は、どちらの面でも優秀という場合が多いのではないでしょうか。一見矛盾するような話でも、その真意を事実に沿って具体的に考えてみて、事実に従うということが森田理論でいわれていることではないでしょうか。
2017.05.10
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先日の集談会で、排尿困難の話が出た。男子トイレに行ったとき、自分1人の時は問題はないが、横に他人がいるときは、用を足すことができなくなる。そこでプロ野球を観戦時は、自分のひいきのチームがチャンスを迎えた時に用を足しに行く。その時は大勢の人が試合に夢中になっているので、トイレに行く人がいない。安心して心置きなく用が足せるのだ。反対に、攻守の切り替わりの時は、みんなが一斉にトイレに駆け込むのでトイレには行かない。たちまち排尿困難になるのが分かっているからだ。また後ろに何人もの人が並んでいて、早く済ませるように急かされているようでとても不安になる。その方は以前、ある偉い先生にそういう時は逃げてはいけないと言われたそうだ。逃げてばかりだと、いつまでたっても排尿困難は治すことはできない。排尿困難の時は、用が足せるまで便器から離れてはいけないと言われたのだ。そのようにしてみたが、一向に排尿困難は改善することができなかった。集談会で相談したところ、反対にそういう時は逃げてもいいと言われたそうだ。そして、こうも言われた。用を足すということが目的であるので、人がいないときを見計らってトイレに行くのも1つの方法である。水を流しながら、用を足すほうがやりやすいのなら、その手を使ってもよい。また、大のほうの便器で用を足しても良い。大きなビルであれば、違う階に行って用を足してもよい。手段はどうであれ、用を足すという目的が果たせばよいのではないか、と言われた。その人は排尿困難について生活の発見誌に投稿した。すると、何人もの排尿困難の問題を抱えている人たちから手紙が来たという。その人たちとの意見交換では、用を足すことが目的であるので、それが達成できれば問題はない。排尿困難になったとき、逃げてはいけないということにとらわれて、 じっと耐えているほうが問題だという結論に達した。次に、その方から排尿困難を引き起こす心理状況について話があった。その方は排尿困難だけではなく、食事恐怖症、吃音恐怖症もあった。食事恐怖症というのは、人前で食事が出来なくなるという症状である。吃音恐怖はどもりである。矯正院に通ってもなかなか改善しない。これらは同じからくりによって引き起こされるそうだ。これらは、人が自分のことをどう見ているのかということが気になり、何とか気にしないようにしようとやりくりをしているうちに症状として固着してくる。そういう人は負けず嫌いである。人から気の小さいダメな人間に見られる事を極端に恐れる。正々堂々として、立派な人間としてみられなければならないという「かくあるべし」が強いといわれる。そのことにとらわれるあまり、増悪して症状に発展していくのだ。その人は排尿困難、食事恐怖症、吃音恐怖症は、現在すべて克服されている。どうやって克服されたのか。興味がある。それは森田理論を学習したからだといわれる。その中で、「事実唯真」の考え方がとても役に立ったと言われる。特に事実をよく観察するということだ。例えば食事恐怖症は、たまには他人から「どうして食べないのか」と指摘されることはあったという。ところが、そんな事は稀であり、周りの人は自分のことはほとんど見ていない。というよりも無関心であるということに気が付いたそうだ。自分の食事のことで頭がいっぱいで、人を観察するゆとりはないのである。それなのに自分は、周囲にいる人みんなが自分に注目して動向を見守っているはずだと思っていたのだ。自分は1人相撲を取っていたのだと気がついた。何回も観察するうちにそれは確信に変わった。すると、気持ちが楽になって落ち着いてきた。次第に宴会の席から参加できるようになった。宴会の席では飲み物があるので、とっかかりとしては良かったと言われていた。吃音恐怖症の人も、目的の言葉がでないのにいつまでも何とかして発音しようとしている。でも、考えてみるとカラオケを歌っているときに、どもっている人はいない。あれはリズムに乗っているからだと言われる。またどもる時は、その言葉の前に別の言葉を付け加えて話すように心がけると、吃音恐怖症が改善できることがある。要するにこれらの症状に対しては正面切って治そうと思わずに、用が足せればそれで結構だという心構えで取り組んでいくことが必要だと言われていた。こういう話を聞くと今日も集談会に参加してよかったとしみじみと思える。
2017.05.09
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森田先生はチャンスの女神は前髪はあるが、後ろ髪はないと言われている。だからチャンスをつかもうと思えば前から捕まえないとなかなか自分のものにすることはできない。森田先生は恩師の呉先生が車で出かけるとき、 「誰か一緒に行くものはいないか」と言われると、遠慮がちであったが、そのチャンスをみすみす見逃すような事はされなかった。誰よりも先に立候補されていた。また、自分の故郷である高知で「犬神憑」の研究をされた時も、研究費が余っているので誰かこれを使うものはないかと聞かれたとき、真っ先に手を上げられたのである。東洋大学で「教育病理学」の講義をを引き受ける時も、専門外ではあったが、引き受けられた。決して自信があったわけではないが、まず引き受けてから必死で準備をするという考えであった。自信は最初からあるわけではなく、努力する過程の中で生まれてくるものだと考えられていた。自信が出てきてから引き受けようという考えでは、チャンスという女神はするりとすり抜けてしまう。だから、自信があるなしにかかわらず、チャンスが来た時に、すぐに行動することが大切なのだと思う。私の場合は、取越し苦労が強く、新しいことにチャレンジするということがあまりなかった。面倒なことは避けて、現状維持で甘んじることが多かった。大学時代好意を寄せてくれる人がいたが、手をこまねいているうちに友人と引っ付いてしまった。これは、もし引き受けて失敗するとみんなの笑いものになるという予期不安の気持ちが強いからである。目標に向かって奮闘努力するということに消極的であった。目標の実現を早々とあきらめてしまう傾向もあった。途中で困難や障害に出くわすと、すぐにあきらめてしまう傾向もあった。それは失敗したときに受ける精神的ダメージを極端に恐れてしまうからだ。失敗して傷つくくらいなら、チャレンジや努力をしないでおこうと考えてしまう。心の奥底には、 「自分は何をやってもどうせ失敗する」という思い込みにとらわれているのである。失敗するとわかっているものに、エネルギーを注ぐ事は無駄なことだと思ってしまう。失敗から学んで成功するまで頑張るという気持ちはない。間違いなく成功するに違いないと思うことしか手を出さないのだ。何度も失敗したり、トライしてもうまくいかなかった経験を根拠にしてそう考えてしまうのだ。実際、何もうまくいかなかったではないか。やっても傷つくだけだ。それならやらない方がマシだという結論になってしまう。特に対人関係の面でそれが強く出る。つまり、 「こうしたい」 「チャレンジしてみたい」と言う気持ちはあるのだが、すぐに悲観的な結果を予想して、結局は行動を押さえつけてしまう。そして、後から「あの時にチャレンジしていたら、今の悶々とした生活とは別の生き方をしていたかもしれない」と後悔の念でいっぱいになる。私は対人恐怖症なので、自分の気持ちを相手に伝えて、人に物を頼むということが苦手である。相手に断られたり、反発されることを恐れるのである。私は、人に見捨てられるということを1番恐れているのだ。人に協力を依頼することができず、自分ですべてのことを引き受けて窮地に追い込んでいったことが多かった。自分の素直な気持ちを相手に伝えることができず、みすみす相手が自分から離れていくという経験も多かった。これは30年以上も森田理論学習を続けてきたが、その本質はあまり変わっていない。取り越し苦労ばかりしてチャンスをものにする機会は少ないようである。ただし、これは人間関係が絡む場合である。森田理論を学習したおかげで、自分は好奇心の強い人間であることがわかった。その好奇心を行動・実践に結びつけるという事は比較的できるようになってきたとは思う。これを逆手に考えて、今では次のように対処している。何かイベントする場合、人間関係の交渉等の部分では得意な人に依頼することが多い。集談会の場合では、不安神経症の人の場合は比較的対人交渉が得意な場合が多いと感じている。依頼を断られてもあまり心の痛手とはならないように見えるのだ。その点対人恐怖の人は人生の一大事が発生したかのようになって落ち込んでとらわれてしまう。半面、対人恐怖の人は緻密で分析力がある人が多い。イベントの計画立案、実施に向けての障害の予防等の面では力を存分に発揮することが多い。手抜かりが少ない。餅屋は餅屋で自分のの得意な分野で頑張り、苦手な部分は得意な人のお世話になるということでいいのではないか。今は自分の得意な分野で頑張り、苦手な部分では得意な人の力を借りるという考えでやっている。そのほうがお互いに活躍できてよいのではないかと思うようになっている。
2017.05.08
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森田先生には有名なエピソードがある。森田先生が学生の頃、動悸や頭痛などの症状のため、勉強が手につかない状態になった。あれこれ治療を受けてみたが、ひどくなる一方だった。それに追い打ちをかけるように、試験を前にして、親からの仕送りが止まってしまった。森田先生は、悲嘆と無力感に打ちのめされる。このままでは死ぬしかないとまで思いつめた。その時森田先生は、もうどうせ死ぬのだから、動悸や頭痛を放置して治すことをやめてしまった。そのかわりに、今まで手をつけなかった勉強に無我夢中で取り組んだ。そして試験で好成績を収めることができた。あとで気がつくと、あれほど自分を苦しめていた症状が消えてなくなっていたのである。治そうとしている間は悪くなるばかりだったのに、死んだ気になって、試験勉強に注意を集中しているうちに、症状のことなどすっかり忘れてしまったばかりか、症状が治ってしまったのだ。これと同じような経験を精神医学の世界的大家と言われているカール・ユングも経験している。ユングは12歳の時、他の生徒につき飛ばされた拍子に、 歩道の縁石で頭打ち意識を失った。それ以外、意識を失っては倒れるという発作を繰り返すようになった。特筆すべきことは、発作が起きるときは必ず面倒な課題を課せられた時だった。ユングの病状を診察した医師たちは、てんかん発作かもしれないといい、もしそうだとすると完治する見込みはないといった。両親は悲観し、息子の行く末を案じた。学校を休み始めて半年ほど経ったある日、父親が訪問客に心中を打ち明けるのを耳にした。「もし医者が診断するようなてんかんなら、あの子はもう自活することができないだろう」ユングは父親のその言葉を聞いたとき、自分の未来はこのままでは閉ざされてしまうかもしれないという危機感を抱いた。ユングは自伝に次のように書いている。「私は雷にでも打たれたかのようだった。これこそ現実との衝突であった」 「ああ、そうか。頑張らなくちゃならないんだ」という考えが頭の中を駆けぬけたそれ以後、ラテン語の教科書を取り出し、人が変わったように身を入れて勉強をし始めた。すると10分後失神発作があった。もう少しで椅子から落ちるところだった。だが、何分もたたないうちに再び気分がよくなったので勉強を続けた。およそ15分もすると2度目の失神発作が来た。そのままにしておくと最初の発作と同じく通り過ぎていった。そして半時間後3度目の発作が来た。それにも屈服せず、もう半時間勉強した。そういう経験をしているうちに発作が克服されたということを実感した。そのうちもう発作が起こらなくなった。急にこれまでの何ヶ月にも増して気分が良いのを感じた。事実、発作はもう二度と繰り返されなかった。数週間後、再び登校するようになった。それ以降、学校でも発作に襲われる事はなくなった。魔法はすっかり解けた。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書 194ページより引用)つまり森田先生もユングも症状に過度の意識や注意を向けることによって、病状をますます悪化させていたのだ。これは慢性疼痛で苦しんでいる人たちからもよく聞く話である。これから回復するためには、症状には手をつけないで、目の前のなすべき課題や目標に真剣に取り組んでいくことである。
2017.05.07
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何でも話せて、自分の弱い面や未熟な面を見せても非難されることがない相談相手を、1人持つだけで、自殺のリスクは半分に減少すると言われている。日本的な言い方で言うと、甘えられる人間関係を持っておくことが大事なのだ。甘えられる存在が身近にいると、危機や試練を乗り越えやすい。岡田尊司氏は、そういう人のことを「安全基地」と呼んでいる。では、自分が「安全基地」の役割を果たすためにはどうすれば良いのだろう。安全基地の第一条件は、まず相手の安全を脅かさないということです。安全を脅かす最たるものは攻撃だ。相手の非を責めたり、感情的に怒ったりすることが多すぎると、その関係は安全基地ではなくなっていく。いくら本人のために言っているつもりでも、結果は同じだ。ポイントは、ネガティブな反応を減らし、ポジティブな反応を増やすということだ。ネガティブな反応をする癖がある人は、相手が言ったことに、 7割まで同意でき 3割だけ違っていても、違うと考えてしまう。相手から何か言われると、まず「いや、違う。 」と反応する。何かアドバイスや注意をされると、 「でも」と言い訳を考えてしまう。そういった思考が、その人の幸せや可能性を邪魔している。「でも」とすぐ言い訳をしてしまう人にとって、人生を変える良い方法がある。その方法は実に簡単で、効果抜群だ。誰かから何か気に食わないこと言われたら、 「私もそう思っていたんだ」と答えるだけで良い。「もう昼の12時よ。いい加減に起きたら」と文句を言われたら、 「うるさいな。休みの日ぐらい寝かせてくれよ」と言う代わりに、 「僕もそろそろ起きようと思っていたんだ」と答えるのだ。これは機械的に行うことが大切だ。心の中では反発したくなっても、「実は私もそう思っていたんだ」というのだ。努力すれば誰でもできる。これだけで人間関係が大きく改善する。次に、応答性を高めるということだ。応答性とは、相手が求めてきたら、答えるということである。相手が何かしたら、こちらもリアクションする。相手がしていることにまず関心を向け、一緒に反応することだ。応答性とは、あくまでも相手が求めてきたときに答えるということである。求めてもいない事を、こちらから一方的に押し付けたり、やらせたりすることは応答性では無い。それは過保護で相手の自主性を切り取って、依存性を強める。支配やコントロールに近い。3番目は、共感性を高めるということだ。共感性を高める秘訣は、結果ではなく、プロセスに目を注ぎ、プロセスを評価する言葉を使うように心がけることだ。「 100点はすごいな」ではなく、 「一生懸命勉強していたのはすごいな」のほうが共感的な言い方なわけだ。「今回はうまくできなかったけど、あなたが努力していたのはよく知っているよ」たとえ60点と結果が振るわなくても、共感的な言い方は、変わらずに使える。それは結果に左右されないと言うことであり、逆境から守ることにつながる。この3つを心がけて、できるだけ周囲の人の「心の安全基地」になってあげられるように努力してみよう。自分が相手の「心の安全基地」となろうとする努力は、相手に「心の安全基地」としての役割を果たしてもらうことに役立つと思う。(ストレスと適応障害 岡田尊司 幻冬舎新書 204ページより引用)
2017.05.06
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最近適応障害という言葉をよく聞く。症状的にはうつ病とよく似ている。うつ病になると、次のような症状がある。憂鬱である、何をしても面白くない、食欲がない、睡眠障害、じっとしていられなくてつねに体を動かしている。意欲が湧かない、自分は価値のない人間だと思う、物事に集中できない。私が生きていては、周りの人に迷惑がかかる。自殺願望がある。適応障害の人が誤ってうつ病と診断されて、薬物療法に入ることもあるそうだ。この場合は、本当の意味のうつ病ではないので、なかなか治りにくい。特に最近「新型うつ病」と診断される場合、そのほとんどは適応障害であると言われている。その場合でも、本人は死ぬほど苦しいことに変わりはない。「新型うつ病」も、症状的にはうつ病とほとんど変わらないという。だが、休職に入り、ストレスを取り除くと途端に元気になる。休暇中は、気分転換の趣味や旅行などには積極的に取り組んでいる。資格試験に挑戦するような人もいる。つまりストレスがなくなると、いろんな症状が速やかに霧散霧消してくるのだ。本当のうつ病の場合は、ストレスがなくなっても、すぐに元通りに元気にはならないという。だから「新型うつ病」の場合はただ単に仕事をさぼっているとみなされることもある。それでは適応障害というのはどういうものなのか。家庭、学校、職場環境にうまくなじめないことで生じる心のトラブルで、うつや不安、意欲や自信の喪失、体調面の不良などを示しやすいが、ケースによっては、イライラして怒りっぽくなったり、嗜癖的な行動にのめりこむといった行動上の問題となって表れることも少なくない。環境やライフスタイルの変化、負担や責任の増大にともなって起き、挫折や失敗、叱責や非難といった否定的体験、孤立的状況などが誘因となることが多い。適応障害は、不適応を起こしている環境から離れたり、ストレスが減ってくると、速やかに回復するのが特徴である。(ストレスと適応障害 岡田尊司 幻冬舎新書参照)私の場合は、中学、高校と大学卒業後に就職した2つの職場で適応障害が起きた。対人恐怖症があったために、他人から非難されたり、無視されることを恐れていた。人から見捨てられるようなことがあると、社会的には死んだも同然と考えていた。それだけはなんとしても避けたいといつも思っていた。自分の弱みや欠点だと思えるようなことは人目に触れないように隠してきた。ミスや失敗をすると見捨てられてしまうのではないかという極度の恐れがあり、積極的な行動はできなかった。心から心を許せる友人はほとんどいなかった。職場になじむことはできていなかった。そういう防衛的な生活をしていると、抑うつ気分が強くなり生きていくことが本当につらかった。それでも定年まで仕事を続けて、今こうして生きているのはどうしてだろうか。生活の発見会の集談会で出会った人たちが、「心の安全基地」と機能していたからではないかと思う。そこで会った人たちとの交流がなかったとしたら今はなかったかもしれない。森田理論学習では、神経症からどうすれば回復できるのかが分かった。また神経質性格を活かして、これから先どう生きて行けばよいのかも理解できた。これも大いに役立ったと思っている。職場での人間関係のほうはとうとう最後まで改善はできなかった。職場での人間関係は定年まで悪かったのだ。そこで私は仕事は生活費を稼ぐところと割り切っていた。生活のために仕方なくしているのだと言い聞かせていた。タイムカードを押しに行く「月給鳥」というスタイルを踏襲していた。立場上中間管理職の仕事もしたことがあったが、それ以上出世しようとは考えていなかった。その代り、仕事以外のことには積極的に手を出していった。スキー、テニス、釣り、トライアスロン、楽器演奏、資格試験の挑戦などである。職場での人間関係は薄氷を踏む思いだったが、仕事以外にいつも夢中になって取り組むことができるものを持っていた。芸が自分を助けていたのである。上司から見ると、なんというやつだと思われるかもしれないが、会社での適応障害を抱えながらも定年まで勤めあげ、満額の退職金を手にした自分をほめてやりたい気持である。今振り返ってみると、岡田尊司先生が言われているように、無意識のうちに、不適応を起こしている環境から離れたり、ストレスを減らすための方策を自然にとっていたのである。
2017.05.05
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2017年4月号の生活の発見誌に河野基樹先生の記事があった。河野先生は、対人恐怖症の精神科医であった。1996年に直腸癌を発症され、 58歳で逝去された。亡くなる直前まで、講演を続けておられたのが印象的である。点滴を打ちながら講演されていた。頭が下がる思いである。この文章の最後に、河野先生のお父さんの詩集の中から次のような詩を紹介されている。夜がふけるのは朝がはじまるため冬が来るのは春を迎えるため悲しみは喜びのさきぶれ失望は希望の道しるべ太陽はどこでも明るくまわっている。神経症に陥った時は、アリ地獄の中にはまりこんだようなもので、将来に希望が見いだせず、悲観的な気持ちになります。この詩は、最悪の状態に陥ったとしても、時間の経過とともに、状況は自然に変化してくるということを言われていると思います。私たちは、素直にその変化に身をゆだねることが大切になります。深夜で辺りが真っ暗になると誰でも不安でいっぱいになります。でも必ず朝が来て辺りが明るくなるということがわかっていれば、将来に希望が持てます。その不安な嫌な気持ちを払拭しようとしていると、せっかく朝が来てもその不安な気持ちだけは無くなるどころか増悪してきます。不安な気持ちに対してやり繰りしたり逃げたりしないで、じっと持ちこたえるということが大切なのだと思います。河野先生は、 「森田理論は症状をとるために学ぶのではなく、私たちが社会生活をするために、神経質者はどういう心構えで仕事をすればいいのかということを学ぶのが生活の発見会であり、集談会であると私は考えています」と言われています。私もそう思います。森田療法が神経症を克服するという考え方は、間違いのないところですが、神経症の治療法に関しては薬物療法、その他心理療法が30種類もあるといわれている。だから神経症の克服は、その人に応じて、その人に合った治療法を選択して組み合わせるべきだと考えます。しかし、神経質者、発達障害、愛着障害などを抱えた人たちに対して、生涯にわたって生きる指針となる考え方を示しているのは森田理論だけだと考えています。またそれ以上に自然と人間のかかわり方、人間関係の在り方について、明確な一つの方向性を打ち出しているのは森田理論以外に有効な理論は今のところ見つかっていない。また、河野先生は、森田理論学習だけに取り組んでおられる人は、進歩が遅いとも言われています。実践という言葉を大事にして、体を動かして、行動に移しておられる人の立ち直りは早い。必ず理論と実行が伴わないといけないのだといわれています。集談会から次の集談会までの1ヶ月の間に、日常生活を自分はどのように送ったかという答えを持って出席し、次の1ヶ月はどのような事を日常生活の中で実行するかをはっきりさせて生活に取り組んでいく。自分の考え方や行動のどこが間違っていたのか、先輩の意見やアドバイスを参考にして修正をしていただきたいのです。それには1ヶ月ぐらいの期間がちょうど良いのではないかと思います。これもその通りだと思います。森田理論を学習している人は、理論と行動の2つの車輪をつけて日々生活しているわけです。ステップアップすれば、もう少し大きな車輪に付け替える。同じ大きさの車輪に付け替えながら生活するということが大切です。理論の車輪だけを大きなものにして、行動の車輪を小さいものから大きなものに付け替えないということになると、行動の車輪の周りを森田理論の大きな車輪が空回りするようになります。こうなると生活を前進することができなくなります。観念化が進行しすぎると、むしろ弊害のほうが大きくなります。
2017.05.04
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神経症で苦しんでいる人は完全主義という「かくあるべし」を持っている人が多い。完全主義が強いと「全か無かの二分法的思考」に陥りやすい。物事を見る場合、良いか悪いか、白か黒か、正しいか間違いか、プラスかマイナスか、といった両極端なものの見方をすることになる。やることなすことが100点満点であれば問題はないが、現実問題としてそういうケースはほとんどない。二分法的思考の特徴は、 99点から1点までの間はすべて0点と判定するのである。つまり中間的、灰色、ファジィを許容するゆとりは持ち合わせていないのである。ものの見方が100点か 0点の2つしかしかないのである。これはデジタル思考の考え方である。こういうものの見方や生活の仕方は精神面にとても深刻な問題を引き起こします。このような思考方法をとると、自分が弱点や欠点と思うことは決して見逃すことができなくなる。また、楽器の演奏やスポーツ、自分に与えられた役割や仕事などでミスをしたり、失敗をしでかすことも寛容な態度で許す事は出来なくなる。弱点や欠点があったり、ミスや失敗が発生すると、自分自身をダメ人間と判定して、 0点に評価してしまうのである。そうなると普段の注意や意識はミスや失敗にばかりに振り向けられるようになる。ちょっとしたミスや失敗に神経が過敏に反応するため、生きていくことが苦しくてならなくなる。仮にミスや失敗をすると、自分で自分を責めるようになる。自己を肯定することができなくなり、自己嫌悪の固まりとなる。さらにまずいいことに、自分のみならず、自分の周囲にいる人に対しても執拗に完璧を求める。自分の理想から外れていると嫌悪感をもたらし、相手を攻撃するようになる。その結果、相手との人間関係はどんどん悪化してくる。「全か無かの二分法的思考」に陥りやすい人は大きな特徴がある。例えば、インテリアの卸会社でお客様から注文を受けて、メーカーに発注する仕事をしていたとしよう。オーダーカーテンの注文を受けて、パソコンで加工して工場に発注する。数日が経って出来上がった商品がお客様のところへ届く。ところが届いたその商品が寸足らずで、柄も色も違っていた。当然、お客様は腹が立ち不平不満を発注担当者にぶつける。発注担当者はとても動揺する。このような場合、普通の発注担当者はお客様に対し、丁寧にお詫びをすると同時に、できるだけ早く再発注をかけて被害を最小限に留めようと最大限の努力する。ところが「全か無の二分法的思考」をとる人は、そのような対応ができなくなることがある。例えば、お客様からの注文書のファックスの数字が曖昧であったなどの言い訳をする。自分の責任をなんとかして逃れようとしたりするのである。その時点でお客様の立場に立った対応ができないので、ますますお客様の怒りに油を注ぐことになる。それと、もっと大きな問題が発生する。カーテンの誤発注というミスをしたという事実に対して、意識や注意が自分を責めて自己否定の方向に向かうのである。そのことばかり考えるので、どんどん加速して増悪していく。この仕事は自分に向いていないとか、自分は何をしても大きな失敗をしてみんなに責められる。自分にはいいところは何もない。もう会社での自分の居場所はなくなった。上司や同僚たちは、きっと自分のこと軽蔑しているだろう。解雇されるかもしれない。これをきっかけにしてきっと人間関係も悪化するだろう。こんな居心地の悪い会社は辞めるしかない。会社を辞めて楽になりたい。これでも自分の会社人生は終わったも同然だ。こんな自分が生きていてはいけないのだ。生きていくことが、こんなに苦しいのなら死んだ方がマシだ。・・・等々。商品の発注の仕事をしている人で、誤発注をして落ち込んだ経験はほとんどの人が持っている。その時、普通の人はすぐに先方に謝り、始末書を上司に提出して、早急に事後処理を行っている。ところが「全か無の二分法的思考」をとる人は、だれでも避けて通れないミスを、自分の将来の人生を左右するような大問題にまで膨らませてしまうのである。自分で自分の首を絞めているようなものである。これでは仕事をすること自体、予期不安でいっぱいになり、いつもビクビクして苦しいばかりである。自分は苦しむために生きているのだろうかと疑心暗鬼になる。生きていくことは苦しいことばかりである。完全主義や「全か無の二分法的思考」は何としても解消していかなくてはならない。そのためには、自分の欠点や弱み、実際にしでかしてしまったミスや失敗を自分の能力のなさや人格の未熟さ等にまで拡大しないことである。私たちはたった1つの不完全な自分自身を見つけると、それをすぐに敷衍して、自分の性格や人格、能力や意欲にまで拡大して、自分のすべてを否定してしまう。あまりにも拡大解釈している。不完全な点が1つでもあると、他の面では多くの長所や今までの実績があっても、それらを含めてすべてを0点判定してしまうという特徴がある。これでは自分がかわいそうではないか。このことをしっかりと自覚する必要があると思う。
2017.05.03
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2017年4月号の生活の発見誌からの引用です。私たちは、ともすると先入観で物事を見てしまいます。そのほうが、事実を確認する手間が省けて楽だからです。その結果、安易に誤った価値判断で行動に走り、後から悔やんでしまうが多いと思います。1つの例ですが、 「LDL 」は、悪玉コレステロールと呼ばれています。なぜ「悪玉」かと言うと、肝臓で作られたコレステロールを各臓器(例えば血管壁)に運ぶタンパクだからです。これは動脈硬化の原因になるので、 「悪玉」なんですね。しかし、これは一方的な見方です。今が飽食の時代。誰もがダイエットにいそしんでいる世の中だから、 「悪玉」扱いされるのです。もし今が食糧難時代で、誰もが十分な栄養を摂取できない状態だとしたら、血管壁にコレステロールを運んで壁を丈夫にして出血を防いでくれる「LDL 」は、 「善玉」と呼ばれているはずなんです。私たちは多かれ少なかれ、このような「先入観」で勝手に価値判断して物事を解釈していること、よく自覚しておきましょう。先入観で物事を判断すると、事実とかけ離れてしまうことが多いように思います。会社などでは4月になると昇格人事、移動や転勤があります。私の元勤めていた会社では、管理職の個人的な進言(好き嫌い)が人事に大きく反映されていました。自分のお気に入りの部下を昇格させたり、自分の指示を無視したり、反抗的な態度をとる部下を移動させたり、転勤させたりしていました。それは日常茶飯事に行われていたように思います。卑近な例では、お中元やお歳暮をを欠かさない部下をかわいがるとかです。部長などのような人は、日々部下と接している訳では無いのですが、部下の人物査定は課長などから聞いて、いわば気分で行っていました。私は部長の秘書のような仕事もしていたのでよく知っているのですが、部長は噂話や課長の評価をそのまま信用して、人事に反映させる傾向がありました。本人に直接面接して、その人の能力や可能性を把握しているわけではないので、誤った人事をされた人は災難にあったようなものです。先入観でこのような人事をされると、モチュベーションが下がることはあっても、上がることはないでしょう。また、周囲の部下たちは、人事権を持つ上司の機嫌をとるイエスマンばかりになり、組織は硬直してくると思います。私が以前訪問販売の仕事をしていた時のことですが、訪問販売では見込み客というリストがあります。私はそのリストを見て、先入観でランク分けをしていました。そういう勘は鋭くなるのです。そして実際の仕事では、高ランクに位置づけた人のみを訪問していました。すると必ず買ってくれるはずだと思って訪問した人から、断られると大変ショックを受けました。次の見込み客を訪問する気力が湧いて来なくなりました。見込み客が10人いると、そのうち高い確率で成約になると勝手に自分が先入観でランク付けした人が3名ぐらいいます。その他の人は訪問しても買ってくれないから無駄骨を折るだけだと思ってしまうのです。無駄なことはしたくない。実際にそういう人は最初から訪問することはありません。このような先入観で訪問販売の仕事をしていると、実績を残すことはできません。低実績で、上司や同僚たちから攻められるようになります。針のむしろに座らされているようなものです。また残った時間をどう潰していこうかと、右往左往するようになるのです。実際に実績を残している人はどんな人かというと、ローラー作戦で営業をしている人です。見込み客であろうがなかろうか、しらみつぶしに多くの人に会って営業ができている人です。その人たちは先入観というものがありません。しっかりとした確率論によって支えられています。体験的に10人の人に面会すれば2人か3人は成約に結びつく。最悪の場合でも1回の成約はあると考えているのです。数多くの営業活動をこなしてゆけば、成約になる確率と断られる確率は一定の範囲に収まることを経験的に分かっているのです。それはサイコロを振るようなものです。1から6までの出る確率は、数多く振れば振るほど6分の1に近づいてゆきます。だから、成約になろうが断られようが、営業の質を上げるよりも数を上げることを重視しているのです。つまり先入観ではなく、確率論で積極的に営業活動を行っているのです。そのほうが、安定的な営業成績を長期に渡って出し続けることができるのです。先入観に支配されると、目の前の事実を確認するという基本的な態度を放棄しています。必要な事実を見ようともしないし、見た瞬間に勝手に決めつけて解釈してしまうのです。そして、頭の中で勝手に解釈したり評価したりしています。言い換えれば、事実をありのままに見ていない人は、「事実」と「観念や解釈という人によって処理されたもの」との区別がつかない状態にあるといえます。森田理論では、肥大化した 「かくあるべし」を、小さくしていくことを学びます。その際、先入観を排除して、人から聞いたことでも、実際に自分の目で事実確認して裏付けをとることが大切だといわれています。森田先生は、残された記録によると、実際にそのようにされていました。
2017.05.02
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イチロー選手の体つきを見ているとそんなに大きくはない。スリムな体つきである。あれでは筋肉隆々の外国選手と比べると互角に勝負できるのだろうかと心配になる。ところがイチロー選手は、「外国の選手とは骨格が違います。でも、日本人はアメリカ人のような筋肉を目指す必要はありません」「大きさに対する憧れや強さに対する憧れを強く持ちすぎなくてもいい。体が大きいことには意味はないと、アメリカに来てから強く思うのです」という。イチロー選手は、パワーを生み出す筋肉をつける方向でトレーニングを続けているのではない。ではなんで勝負をかけているのだろうか。筋肉だけを鍛えているのではないという。イチロー選手は身体を素早くスムーズに動かすことを心がけているという。そのためのイチロー専用のマシーンを持っている。筋力だけが突出するのではなく、身体全体のバランスがとれていて素早く動くように意識しているのです。さらに走攻守のバランスについても次のように述べている。「僕のプレーヤーとしての評価はディフェンスや走塁を抜きにしては計れない。どの部分も人より秀でているわけではないし、すべてはバランスと考えています。」そういう方面で体を鍛えて、50歳までプレーすることを目指しているのです。バランスといえば、ガンをはじめとするほとんどの病気は白血球のバランスの崩れから発生するのだといわれています。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできています。その顆粒球の割合が54%から60%、リンパ球の割合が35%から41%の比率になっているときバランス的に一番安定しており、病気にならず健康体を維持してゆけるそうです。このバランスの維持に影響を与えているのが自律神経だそうです。自律神経には交感神経と副交感神経があります。不安やストレスが続くと交感神経優位になります。そういう状態が続くと血管が収縮して緊張状態が続きます。本来は速やかに不安やストレスを解消して副交感神経優位の状態に戻すことが必要なのです。自律神経失調症は、がんなどの病気を作り出す原因になります。森田理論のバランス・調和を意識して行動するという考え方はとても重要な考え方です。「不即不離」という考え方にしても、「欲望と不安」についてもバランスという考え方を抜きにすると理論そのものが成り立ちません。調和、バランスの考え方は、是非とも生活の中に定着させることが大切です。私はそのことを意識するために、机の前に「やじろべい」を置いています。「欲望と不安」の単元の話をするときは、理科の実験用の天秤を持ってゆきます。本当はお土産物屋で売っている傘がいっぱいぶら下がったものを吊り下げたいのです。それらが視野に入るとバランスや調和の意識化を強化してくれるように思います。森田先生はバランスの重要性を「精神拮抗作用」や「不即不離」などで説明されています。また太陽と地球の関係でも、太陽の強力な引力に地球が飲み込まれないのは、地球が太陽の周りを高速で回転することによる遠心力が発生して、求心力と遠心力のバランスがとれているからだといわれています。宇宙に存在しているものは、すべて相対立する者同士が調和を保っているからです。バランスや調和を無視すると、存在そのものがありえないということだと思います。神経症で苦しんでいるときは、「欲望と不安」のバランスを無視している状態だと思います。不安を取り除くことや不安から逃避することばかりに注意や意識を集中しています。その結果バランスを崩して、調和が保てなくなっています。神経症から解放されたいのなら、不安をやりくりするのではなく、不安に対するかかわり度合いを軽減することがポイントです。その時、「生の欲望の発揮」は蚊帳の外になっています。バランスを回復するためには、「欲望の発揮」の方に力を入れることです。バランスが崩れている場合は、この際、不安への対処は放っておいて、「生の欲望の発揮」の方に100%エネルギーを投入していくことです。そうすることで、少しずつバランスが回復してくるものと思われます。
2017.05.01
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