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NHK「トットてれび」が放映中であるが、満島ひかりが全国的に認知されたのではないだろうか♪心ならずもNHKよいしょ記事になったが・・・ま~いいか。彼女の作品のうち大使が観たものを集めてみました。・NHK「トットてれび」・悪人(2010年制作)・川の底からこんにちは(2009年制作)NHK「トットてれび」より 先日、スタジオで若き日の徹子さんを演じる満島ひかりさんにお逢いしました。好奇心で瞳をきらきら輝かせた姿がとてもチャーミングで、私は彼女から目を離せなくなりました。徹子さんはきっと、あんなふうに素敵なお嬢さんだったのでしょう。 森繁久彌さん、渥美清さん、向田邦子さん、坂本九さん、沢村貞子さんといった昭和の大スターも続々登場します。そんな大スターたちが、“テレビ女優第一号”の徹子さんと共に、テレビの草創期を熱く駆け抜けるシーンを書いているうちに、彼らは今も私たちの心の中に生き生きと棲んでいて、大切な何かを伝えてくれていることを強く感じました。 徹子さんの元気と勇気をいただけて、そして、死ぬのがあんまり怖くなくなる不思議なドラマです。ぜひぜひ、ご覧ください!(脚本家:中園ミホ)抜群の演技力で見るものを魅了!満島ひかりの出演映画【厳選4作品】のうちで、1作品しか見ていないので満島フリークとまではいえない大使であるが・・・映画『悪人』で見せた演技力には驚いたのです。3年連続助演女優賞受賞はダテにもらえるもんじゃないのでしょうね。【悪人】李相日監督、2010年制作、H24.7.18観賞<goo映画解説>より長崎在住の清水祐一は、博多で働く石橋佳乃と待ち合わせをしていた。しかし、待ち合わせ場所で佳乃は他の男の車に乗って行ってしまった。佳乃を追いかけた祐一は、福岡県の三瀬峠で彼女を殺してしまう。その後、長崎でいつも通りの日常を送っていた祐一は、以前出会い系サイトでメールをやりとりしていた馬込光代という女性と会うことに。ホテルでお互いを求めあった後で、祐一は光代に佳乃を殺したことを告白するのだが…。<大使寸評>李相日監督の作品となれば、見ないわけにいかないが・・・この映画も『フラガール』に優るとも劣らない作品だと思うわけです。殺されるあばずれ娘が満島ひかりとは知らずに観ていたが、記憶に残るあばずれ役でした。それから、娘を殺された親父が、スパナを隠し持って真犯人?に迫るところが、凄い。とにかく、これらの助演陣が素晴らしくて、主演のお二人がかすんでしまうほどでおました♪movie.walker悪人【川の底からこんにちは】石井裕也監督、2009年製作、H24.2.8観賞<movie.walker作品情報>より妥協した生活を送るOLが、実家のしじみ工場を継いだことから人生に立ち向かっていく姿を描く人間ドラマ。監督は、「剥き出しニッポン」の石井裕也。出演は、「愛のむきだし」の満島ひかり、「夢十夜 海賊版 第七夜」の遠藤雅。第60回ベルリン国際映画祭フォーラム部門招待作品。<大使寸評>これ以上後のない者が、中小企業の社長として開き直るときのパワーが炸裂しています。それもプロゼクトX風というより、もっと底辺の火事場の馬鹿チカラみたいな感じです。佐和子が自分を「中の下」とランクするけど、「中の下」にしては美人すぎるが・・・・美人なら許す♪movie.walker川の底からこんにちは『川の底からこんにちは』石井裕也監督 インタビューところで、今晩の夜行バスで四国の田舎に、1週間ほど帰省します。例のとおりその間、音信不通になりますので・・・そこのところ宜しくおねがいします
2016.05.28
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図書館で『ユーラシアの風景』という本を手にしたが…写真と文章がセットになっている、ビジュアルな本でおます。黄河や、シルクロードや、砂漠や、フィン族の住むカレリアまで・・・まさにユーラシアである。【ユーラシアの風景】日野啓三著、ユーラシア旅行社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】美し過ぎる幻想の地ーオアシス都市シラーズ/天に向かって立つ岩と魂ーカッパドキア/野の果ての白い教会/極北の湖の岸で/タクラマカン、光り輝く静寂の土地の魔法/黄河/エフェソス/ベナレス、畏るべき場所/エローラの飛天女、反重力の夢/カトマンズの摩訶不思議〔ほか〕<読む前の大使寸評>黄河や、シルクロードや、砂漠や、フィン族の住むカレリアまで・・・まさにユーラシアである。rakutenユーラシアの風景砂漠の魅力が語られています。砂漠は大使のツボなんですね♪タクラマカン砂漠の画像よりp152~154 <砂漠―光と静寂の中の真実>より 私は格別に不幸な生涯を送ったわけではなく、どうしようもない不運に見舞われ続けたわけでもない。むしろ分不相応な良い偶然にも幾度も恵まれて、生きているのはいいことだとしみじみと感じた日も少なくない。 にもかかわらず、少年時代からこの世のものならぬものへの憧れのようなものが、ずっと心の奥に生き続けてきた。長じて生きていく上で、他人とのかかわりの難しさや社会的、歴史的現実の矛盾にぶつかってゆくにつれて、日々の現実以上に真にリアルなものへの飢えはますます強まったように思う。 そのように絶対的に真実なものへの希求に対応できる風景のイメージが、私にとって砂漠だ。 とりわけなだらかな砂丘が見渡す限り連なり、砂粒が絶えまなく砂丘の稜線から流れ落ちるかすかな音が、光と静寂の中で鳴り続けている砂丘的砂漠の中で、私は全身が透き通るような感動に震える―砂粒という最も貧しい物質と光と風だけで、世界はこんなにも豊かで美しい、と。 そんな風に感ずるのは私だけか、と長い間思ってきたが、最近になって日本でも上映された映画『イングリッシュ・ペイシェント』の原作者マイケル・オンダーチュやアメリカの前衛的作家ポール・ボウルズのような奇特な文学者の作品に出会うと心強い。イングリッシュ・ペイシェント オンダーチュの小説はサハラ砂漠の神秘的な魅力を描いて最高の小説であり、ボウルズの『孤独の洗礼』は砂漠の「鉱物的静寂」の中で人は本当に孤独になり、真の自分自身にかえると、砂のように淡々と威厳をもって、砂漠の形而上学を語って最高のエッセイである。 「絶対的なものの真ん中にいるという最高の満足感」と、ボウルズは砂漠体験の核心を語っているが、中国奥地のタクラマカン砂漠の一部を歩いただけの私の体験も、正確にその通りだった。
2016.05.27
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図書館で『ららら科学の子』という本を手にしたのです。なんか、楽しそうなタイトルの本ではないかと借りたわけで、かなりミーハーであったが・・・読んでみると、ハードボイルドで、政治的でもあるお話でした。イリーガルに出国して中国に渡り、30年後にイリーガルに日本に入国した、元学生運動闘士のニッポン探検は如何に♪?【ららら科学の子】矢作俊彦著、文芸春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より殺人未遂に問われ、中国に密航した過去を持つ彼は、30年ぶりの日本に何を見たのか。親友の組織に匿われ、不思議な女子高生と出会い、行方知れずの妹を追跡するー。その果てに下した決断とは?構想15年、連載から6年、ついに完成。待望の最新長編。<読む前の大使寸評>『ららら科学の子』というタイトルが秀逸で、気になっていた本でおます♪中国に密航した過去を持つ主人公という設定が、面白そうではないか。rakutenららら科学の子2003年刊時に30年前の日本を描いているので、今ではおよそ40年前の日本が再現されて・・・団塊世代の我々も、来し方の意味なんかを考えるわけでおます。そもそも、30年のブランクとはどんな事なのか・・・・主人公は浦島太郎のような、はたまたタイムマシンの映画のような状況で、徐々に現代のニッポンに順応していくわけです。著者の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。ヴェトナムから脱出した中国人と、中国から脱出した日本人という組合せが、いかにも東アジアである。p149~151 ヴェトナムと中国が戦争を始めたと聞かされたのは、莫賓の村の戯台だった。広い石積みの台に大勢の人が集まっていた。村民委員会のお偉方が、扉を残らず開け放った土造りの小屋の中に雁首をそろえ、委員長が丸イスの上に立って声を張り上げた。ソ連修正主義者の覇権行動と中国人民の大義。そのとき、数年前にヴェトナムがアメリカに勝ったことを知った。 そんな馬鹿な、と言いそうになった。そのことを想像しようとすると、頭がくらくらした。世界的なヴェトナム侵略戦争反対運動が、遂に世界を動かしたのか。それにしてもアメリカが、よもや戦争に負けるとは。 アメリカ軍とその傀儡政権は、民族解放戦線によって木端微塵にされたと、村民委員長は言った。解放戦線の38式歩兵銃で、どうして原子力空母と無数のF4ファントムに勝てたのだろう。反戦を訴えながら、戦争の行方には強く無力を感じていた。まったく俺の手は蟷螂の斧だった。イメージできない事柄は、決して自分の現実にはならないと、思い知らされた。またも、中国人から。体に刻み込むような方法で。 演説が終わり、日が暮れると酒が回された。初めて、なぜ中国人民解放軍が解放されたヴェトナムと戦わなければならないのかと考えた。言葉を誤まって聞いたのではないか。考えるうち、隣の村人が彼の顔を指差して笑った。手でぬぐうと、鼻血が出ていた。集会はすぐ宴となり、ついに答えは得られなかった。翌朝、義父の解答は短かった。ソ連によってメコンをふさがれれば、この国は腸閉塞を起こすじゃないか。「ああ、おかしな話だ」と、彼は言った。「ぼくの親父は、兵隊と言っても事務員ですよ」と、傑が言った。「給料なんか計算するんです。サイゴンでぼくを養子にしたのは、早く後方の勤務に戻りたいからだとよく言っていた。サイゴンじゃ、ヴェトコンの爆弾でよく人が死んでね。子供がいると危ないから平和な場所に戻してくれる。もちろん、冗談だけど」「三百メートル先、点滅信号です」 傑は声を立てて笑い、スピードを上げた。タイヤを鳴らして左に曲がり、シフトで減速してまた左に曲がった。「日本人は、先祖の名前を未来に残すために子供をもらうんでしょう」と、傑が言った。「アメリカ人は違うんです。親父は熱心なクリスチャンだったし、彼自身の気持ちの問題で子供をもらったんですよ。妻と何度も相談してね。ぼくを生んだ両親は、中国系なんです。あのころチョロン地区の中国人は、ヴェトコン協力者が多かった。想像はつきます」「三百メートル先、高速道路の入り口です」「ほら、間違えた」 傑は、子供のように勝ち誇って言うと、速度をゆるめた。主人公は、文革や下放の大波の中で、日本とは隔絶して暮らしたようです。p191~192 中国に来て9ヶ月が経っていた。日常生活にはもう不自由がなかった。漢字を並べ、足らないところを補えば、会話らしい会話もできるようになった。 何が起こっているか、それでもよくは分からなかった。 子供たちの目が怖かった。彼を上海に招いた紅衛兵の一組織、ことに彼の身の回りの世話を焼いてくれた連中は、誰もみな同世代で、どちらかと言えば十代終わりの彼よりも年上に限られていた。 だから子供が怖かった。町には子供が溢れていた。当時、アメリカでフランスでそして日本で、世界中の大学で申し合わせたように起こった学生の反乱の只中にいた自分が、ここではその外側に立っていた。 『Don't trust anyone over thirty!』という言葉が、まるで政治スローガンのように叫ばれていたが、上海の町では『別相信十八以上的!』が本物のスローガンのように思えた。 上海だけのことだろうと、彼は思った。 子供が大人を批判し、追訴し、公開で処刑めいたことまでする。むろん、そこにいるのは子供だけではない。しかし、大人たちは子供の熱狂にまきこまれ、まともに大人として振るまおうとはしなかった。熱狂が引くこともなかった。一度鎮火しても、町のあちこちでまた必ず火がつき、あたりを焼き尽くさずにはおかなかった。 北京には政権がある。毛沢東の政府がある。まさか、そこでもこんなことが起きているはずがない。しかし、誰にも尋ねることもなく、それは見逃された。彼は、誰にとっても客だった。過客という使い慣れない言葉を、ときに思い知らされた。(中略) それでも春が終わるころ、子供たちの狂熱は汐が引くように失われた。次に現れたのは交番のお巡りのような連中だった。彼らは党から派遣された役人で、逆に子供たちを整理しはじめた。どちらにしろ、彼の身の回りにいた学生たち、若い紅衛兵たちは分が悪かった。 君に中国革命の偉大な実験を体験させられることを、たいへん嬉しく思うと、12月、美しい英語で語った青年がいた。暁声という名が印象的だった。心から笑い、固い握手を交わすと彼の手をなかなか放さなかった。夜を徹して話し合い、大いに食い、また飲んだ。 冬晴れのある日、その青年は子供たちに腕をへし折られ、その次の週、目の前で連行された。 春の終わり、やってきた役人の中に暁声の姿があった。片手はまだ三角巾で吊っていた。厳しい口調で、かつての友人たちに指図して、宿舎にいた若者たちの半分を連れ去った。彼とは目を合わそうとはしなかった。著者は、中国の現代史を見てきたように語るのだが、合間に語る映画作品も懐かしいのです。19歳で日本から脱出した主人公は、裕次郎の映画とか、ゴダールの『中国女』とか、『博士の異常な愛情』とか、『ウェスト・サイド物語』とか、それまで観ていた映画作品を披露する薀蓄が半端ないわけで・・・・その薀蓄に映画好きの大使は飽きないのでおま♪『中国女』30年というブランクを挟んで、その間にニッポンが得たものと失ったものが、牛が反芻するように語られているわけで・・・・祇園精舎の鐘の音が聞えてくるような印象でおます。
2016.05.27
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図書館で『読書歯車のねじまき仕事』という本を手にしたが・・・・椎名誠の選ぶ探検本が渋いというか、ええでぇ♪内田先生の『街場の読書論』を読んだ後となるが、ここは読書路線つながりで、椎名誠のねじまき仕事を見てみましょう。【読書歯車のねじまき仕事】椎名誠著、本の雑誌社、2005年刊<商品説明>より日本と世界を縦横斜めに駆けめぐる椎名誠の、旅と読書のエッセイ集。本を抱え、ラオス、ベトナム、カンボジア、阿寒湖から有明海、パラグアイを駆け抜けてブラジル奥地へと旅立つシーナ。エッセイに加え、昨年半年にわたって行われた書店でのトークショーも録り下ろしで掲載。(武)<読む前の大使寸評>椎名誠の選ぶ探検本が渋いというか、ええでぇ♪rakuten読書歯車のねじまき仕事シーナ書店・売上ベスト100から大使お奨めの本を選んでみました。p196~197<「シーナ書店なのだ!」半年間の営業報告>より 2004年の5月2日から11月3日までの半年間、池袋のジュンク堂書店の7階にぼくのきわめて個人的な品揃えによる書籍コーナーができ、「シーナ書店なのだ!」というつまりは店舗内店舗というような恰好でこだわり書店を経営した。 「経営」などと偉そうなことを言ったが、そこに置く本のリストを作り、月に一度ほど行って読者のみなさんに折々の話をするという程度のものだ。けれど約5坪の圧倒的な個人商店の形をとっているので、「店長」としては責任もあるし不安もある。 これは2003年から始まった池袋ジュンク堂の思い切った試みの一環で、初代店長は谷川俊太郎さん、2代目は安野光雅さん、そして3代目をぼくが務めるということになったわけである。昔から3代目が店を潰すとよく言われているので、そういう不安もかなり本気であった。【売上ベスト100】より1 『陰鬱礼讃』谷崎潤一郎2 『無人島に生きる16人』須川邦彦3 『奇想、宇宙をゆく』マーカス・チャウン4 『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・L・カーソン5 『「しきり」の文化論』柏木博6 『さまよえる湖』スウェイン・ヘディン6 『かくれた次元』エドワード・ホール8 『飛ぶ教室』エーリッヒ・ケストラー9 『ゾウの時間、ネズミの時間』本川達雄10『ソロモンの指輪』コンラート・ローレンツ13『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック25『地球の長い午後』ブライアン・W・オールディス34『地球でいちばん過酷な地を行く』ニック・ミドルトン42『カラス なぜ遊ぶ』杉田昭栄47『秘境西域8年の潜行』西川一三55『納豆大全』町田忍61『漬け物大全』小泉武夫71『くさいはうまい』小泉武夫71『自然の中に隠された数学』イアン・スチュアート81『シルクロード・路上の900日』大村一朗椎名さんお奨めの探検本を見てみましょう。p79~81<ラ・プラタ川に持っていった本と映画>より パラグアイを旅しているときは『世界最長の徒歩旅行』を読み始めた。これはイギリスの青年が南米の最南端、パタゴニアのティエラ・デル・フエゴからとにかくまっすぐ南米大陸を北上し、合衆国を過ぎてカナダまで7年間かけて行ってしまうというとてつもない体験記録である。 なぜかぼくは歩いて旅をする本というのが好きで、国内外ずいぶんたくさんの本を読んだが、このタイトルにある通り7年間、3万キロを行くのは世界で最長の徒歩旅行なのだ。出発地点のパタゴニアのチリやアルゼンチンあたりの話はぼくも何度か行っているところだからずいぶん共感を持ってよむことができた。しかもこの主人公はヨシコという日本人を妻としている。 ヨシコはサポートとして最初のころ一緒に旅をするが、途中で妊娠し出産のために日本に帰る。その間にも主人公はさまざまな苦労を重ねながらどんどん北上していく。特に北米と南米を繋ぐいちばんくびれたコロンビアとパナマを結ぶダリエン地峡あたりを越えるのは読んでいてまことにスリリングな展開だった。ぼくはパラグアイからブラジルにむかって移動する船の中でこの部分を読んでいた。 日本で生まれた娘はアユミと名付けられ、そうして2年ほどたったときにこの主人公が南米大陸のかなり北限のほうに来たところで初めて対面する。とても感動的なシーンだ。それからしばらく家族3人で移動しているうちにヨシコが再び妊娠する。そして母と娘はまた日本に帰り出産とその育児に励むのだ。 第二子は男の子でジェフリー・ススムという名前が付いた。娘はアユミで息子はススムである。このススムも大きくなりヨシコは二人の子供を連れて北米のかなりゴールに近いところを進んでいく主人公と再会する。これもまた感動的な話で、実にこの本を今まで読まずにこういった旅で見ることができてえ幸せな気分だった。大使は根っからの発酵食品ファンであるが、ここで納豆の話を見てみましょう。p100~102<納豆・蜘蛛・鯰>より インドシナ半島のちょっと長い旅から帰ってきて数日後に経団連会館に行った。まだ頭の中や体の動きが暑くてごしゃごしゃしていて、場合によっては辛くてヒハヒハ、場所によっては暗くてグシャグシャしているようなアジアモンスーン地帯の呪縛から脱しきれずにいる状態である。そのぼあんと空気膨張したような頭で、経団連会館などという、それまでいたところとはずいぶん異なった世界に入っていくのはそれなりの勇気がいる。 その日、全国納豆協同組合連合会が主催するシンポジウムがあり、それに出席しなければならないのだ。小泉武夫教授に「このネバネバシンポジウムに参加するように」と言われており、仰せに従ったというわけである。 会場に行くとやはり経団連らしくぴしりとダークスーツを着込んだいかにも実業家的な人々がたくさにて、ほんの数日前まで毎日目にしていたアジアのだらだら風景とはずいぶん違うのでたじろいだ。 控え室に行くと、そのシンポジウムにパネラーとして参加する村松友視さん、南伸坊さん、阿川佐和子さん、枝元なほみさんらの顔が見えた。村松さん、阿川さん、南さんは以前にも会っているので、「やあ、しばらく」ということになった。控え室では早くも納豆の話で盛り上がっている。 こういうシンポジウムに参加するのだから、やっぱり全員ものすごい納豆ファンであったのか、という驚きとやや引け目を感じる。ぼくも納豆は好きであるが毎日毎食納豆がなければ生きていけない、というほどまでの納豆好きではなく、それについての薀蓄もあまりない。けれど先客らの話を聞いていると彼らもぼくと同じくらいの納豆との付き合い方をしているらしいとわかった。これもやはり小泉教授のお人柄が納豆のようにネバネバのからみ技で我々をひきつけたのであろう、とみなで解釈した。 シンポジウムの前に、小泉教授の納豆基調講演があり、続いて教授を囲んで我々もそれにからむネバネバシンポジウムとなった。都合3時間と少し、とにかく納豆まみれの研究時間を過ごし、帰りには全国の有名納豆をどさりと十数個おみやげに貰った。 家に帰ってその納豆のおみやげをひろげると、妻は「あらま」と言った。その前日からわが家にはアメリカ人のお客さんが来ていて、その人の要望もあり、納豆をどさりと買ったばかりというのである。かくて、その日から何食か必ずおかずに納豆が出てきた。妻が新たに買った納豆を加えると十メーカーぐらいの納豆を期せずして食べ比べるということになった。 そうしてわかったのだが、納豆にはびっくりするほどいろいろの大きさの粒があるということだった。ひき割りの極小サイズから、黒豆の親指サイズぐらいの巨大なものまで、いろんな大きさがある。そうしてその硬さも糸の引き方も商品によってさまざまであった。 結果的にわかったのは、おいしい納豆は大量のネバネバの糸を発生させるということだった。ネバネバ糸が多く出て、それが長く引けるほどどうやらうまいようだ。経団連会館での小泉教授の講演の話を思いだした。 あるテレビ局が納豆の糸がどのくらい長く伸びるものかということを実験したところ、なんと十数メートルも伸びることが判明した、という話である。『読書歯車のねじまき仕事』1
2016.05.26
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図書館で『読書歯車のねじまき仕事』という本を手にしたが・・・・椎名誠の選ぶ探検本が渋いというか、ええでぇ♪内田先生の『街場の読書論』を読んだ後となるが、ここは読書路線つながりで、椎名誠のねじまき仕事を見てみましょう。【読書歯車のねじまき仕事】椎名誠著、本の雑誌社、2005年刊<商品説明>より日本と世界を縦横斜めに駆けめぐる椎名誠の、旅と読書のエッセイ集。本を抱え、ラオス、ベトナム、カンボジア、阿寒湖から有明海、パラグアイを駆け抜けてブラジル奥地へと旅立つシーナ。エッセイに加え、昨年半年にわたって行われた書店でのトークショーも録り下ろしで掲載。(武)<読む前の大使寸評>椎名誠の選ぶ探検本が渋いというか、ええでぇ♪rakuten読書歯車のねじまき仕事日頃から本に囲まれた椎名さんが、古書店や書店に対する思いを語っています。<横柄な最後の古書店時代>よりp88~90 店の中にいると時々本を売りに来る人がいる。神保町あたりの古書店は高価で貴重な蔵書をまとめて処理するという客などを相手にしているからなのだろう、時折いかにも小遣いかせぎというようなかんじで数冊の本を恥ずかしそうに持ってくる若い人などがいると、たいていは横柄な口ぶりで「」などと言って門前払い同様である。その対応も店にいるとそっくり聞えてきてしまうので困った気持ちになるのだ。 仕入れ側が売る側に対して優位なのはどの業界でも同じだが、古書店ではそういう小口の本を持ってくる若い人が本好きであるからこそそれらの本を読み、本好きであるからこそその界隈の古書店に本を売りに来ている率がすごく高い、というふうに考えないのだろうか。ようするに彼らも時と立場が違えば明日の客なのである。 あるとき本を売りに来た若い学生ふうの青年をあまりにも横柄にしかもいささか軽蔑するような口調で追い返した40代ぐらいの店主を見て、この古本屋はこの男の代で早晩潰れるのだろうなと思った。業界全体がそういう危機的な状態にあるということも何も理解していないバカ顔であった。 今、都市郊外や地方都市に行くと「新古書店」と言われるマンガ本と雑誌中心のチェーン店がたくさん並んでいる。中に入ると信じがたいほど大量のマンガ本が明るすぎる蛍光灯の下でキンキラに眩しく光っている。たくさんの大人と子供が立ち読みしていてそこにたいてい同じようなアップテンポのやかましい音楽が鳴り響きこちらもなんとも形容しがたいプラスティックのような異空間をつくっている。これは日本だけのありふれた風景である。 あれはもう書店の範疇には入らないものかも知れないけれど、これからの多くの若者たちはあれが古書店、いやもしかするといわゆる普通の書店というふうに思って育っていくのではないかという危惧がある。 特に地方都市などはそういう店しかなかったりする場合も多いのだ。それが将来どんなところにどんなふうに影響していくのか今のところまるでわからないのだけれど。 一つだけ間違いないのだろうと思うのはコンビニの書棚を含めてそういう現代的な本の文化で育っていくこれからの大多数の日本人はよほど積極的に本に接していこうとしないかぎり本当の書店を知らずに生きていく可能性がある。 都市の本当の書店に行って「本が本格的に置いてある場所」ということを理解し、そこで本を買うことを覚える若者はマイノリティになる可能性がある。ましてや神田や早稲田の古書店に繰り返して通うまでに進化した若者が現れるかいささか疑問に思う。 今回ここで書いたような、人間が目に入っていないような古書店でもこれからの高齢化時代はしばらく生きながらえるかも知れないが、十数年先の若い世代はもうあのような店に足を運ばなくなるような気がする。ビジネスマインデッドな出版人は軽々に「出版不況」「市場のニーズ」というが・・・書物の原点を見据える必要があるのでは?
2016.05.26
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図書館に予約していた諸星大二郎著『キョウコのキョウは恐怖の恐』という本を、待つこと5日、速攻でゲットしたのです。【キョウコのキョウは恐怖の恐】諸星大二郎著、講談社、2004年刊<商品説明>より「伝説の漫画家」初の小説集! 「妖怪ハンター」「マッドメン」など、独特の作品世界をもつあの諸星大二郎の処女小説集! 「狂犬」「鶏小屋のある家」など日常に潜む恐怖を描く5編。 <読む前の大使寸評>諸星大二郎の初の小説集とは、どんなかなということです♪<図書館予約:(5/14予約、5/19受取)>rakutenキョウコのキョウは恐怖の恐『狂犬』のあたりの語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。<狂犬>よりp49~50 「でも・・・培養試験課・・・ですか? その・・・組織培養みたいなこともやってられるんでしょう?」 私は神崎の名刺の肩書を思い出して言った。神崎は一瞬、我が意を得たりという顔をしたが、それはすぐにまた、照れ臭そうとも自嘲的とも取れるような笑いの中に隠れてしまった。 「ええ、しとりますよ。センターでやるような大きな設備を使ったものとは違って、まあ、細々とですがな・・・。組織培養は、ほら、今はウィルスフリーの苗を育てるにも、苗の大量培養にも必要な技術だし、もうどこでもやってますが・・・。ご存じだと思いますが、言ってみればクローンですね、クローン植物・・・」 組織培養とは、植物の一部、特に成長点などを切り取って人口的に培養し、同じ植物を作り出す技術、いわばクローン植物を作る技術だ。 「今でこそクローン、クローンって言っていますが、まともと挿し木とか株分けとか、そういった方法で昔からやっていたことですからな、クローンなんて・・・。うちでも、組織培養、細胞融合、一応やっとります。規模は小さいですが・・・」 神崎の言葉にはひそかな自負が窺えた。自分のところの施設が時代遅れであると二言目には強調しながらも、組織培養の話になると、その目の奥が光るのだった。しかし、 「とは言っても、やっぱりもう、うちの試験場などでできることは、ほとんどないようなもんですがな・・・・」 と、すぐにまた凹んでしまった。 「まあ、私なんぞはもうすぐ定年ですから、いいですがな・・・。あとのことを考えると、いろいろと・・・気がかりでしてなあ・・・」 あとの残務処理のことでも、気になるのだろうか。そういえば、旧試験場が取り壊されるとしたら、あの地下の祠はどうなるのだろうと、ふと思った。どこかへ移転させられるのだろうか。取り壊した跡地に残しておくのだろうか。私は神崎に聞いてみたかったが、祠の上部を落としたことを思い出して、やめた。諸星さんの処女小説集!ということであるが・・・・どうして、どうして興味をそらさない語り口は、まれにみる語り手ではないやろか♪『未来歳時記バイオの黙示録』というコミックは、この小説集なんかを元にしたマンガ本のようです。ネット書店で買うのもいいかも♪【未来歳時記バイオの黙示録】諸星大二郎著、集英社、2008年刊<商品説明>よりバイオ戦争後、人間の中にヒト以外の遺伝子が発現する者が現れ始めたー。彼らの多くは“荒れ地”と呼ばれる場所に惹き付けられていく…。遺伝子混在により起こる、恐怖と笑いの混沌劇、「野菜畑」「養鶏場」「案山子」「百鬼夜行」「シンジュク埠頭」「風が吹くとき」の6作品に、物語を補完する描き下ろし、“幕間劇”5作品を加え待望の単行本化!!<読む前の大使寸評>このコミックは『キョウコのキョウは恐怖の恐』の題材などを元にしたマンガ本のようです。rakuten未来歳時記バイオの黙示録
2016.05.25
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「エンタメ系」でしょうか♪<市立図書館>・キョウコのキョウは恐怖の恐・読書歯車のねじまき仕事<大学図書館>・ららら科学の子・ビゴー日本素描集・中国の手業師図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【キョウコのキョウは恐怖の恐】諸星大二郎著、講談社、2004年刊<商品説明>より「伝説の漫画家」初の小説集! 「妖怪ハンター」「マッドメン」など、独特の作品世界をもつあの諸星大二郎の処女小説集! 「狂犬」「鶏小屋のある家」など日常に潜む恐怖を描く5編。 <読む前の大使寸評>諸星大二郎の初の小説集とは、どんなかなということです♪<図書館予約:(5/14予約、5/19受取)>rakutenキョウコのキョウは恐怖の恐【読書歯車のねじまき仕事】椎名誠著、本の雑誌社、2005年刊<商品説明>より日本と世界を縦横斜めに駆けめぐる椎名誠の、旅と読書のエッセイ集。本を抱え、ラオス、ベトナム、カンボジア、阿寒湖から有明海、パラグアイを駆け抜けてブラジル奥地へと旅立つシーナ。エッセイに加え、昨年半年にわたって行われた書店でのトークショーも録り下ろしで掲載。(武)<読む前の大使寸評>椎名誠の選ぶ探検本が渋いというか、ええでぇ♪rakuten読書歯車のねじまき仕事【ららら科学の子】矢作俊彦著、文芸春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より殺人未遂に問われ、中国に密航した過去を持つ彼は、30年ぶりの日本に何を見たのか。親友の組織に匿われ、不思議な女子高生と出会い、行方知れずの妹を追跡するー。その果てに下した決断とは?構想15年、連載から6年、ついに完成。待望の最新長編。<読む前の大使寸評>『ららら科学の子』というタイトルが秀逸で、気になっていた本でおます♪中国に密航した過去を持つ主人公という設定が、面白そうではないか。rakutenららら科学の子【ビゴー日本素描集】清水勲編、岩波書店、1986年刊<「BOOK」データベース>より浮世絵に魅せられて来日したビゴー(1860-1927)は、卓抜な諷刺画を数多くのこした。明治中期の日本を描いた貴重なドキュメントでもあるその中から、代表作「日本人生活のユーモア」シリーズを中心に60点のスケッチを収録。詳細な年譜・小伝等を付す。<読む前の大使寸評>追って記入rakutenビゴー日本素描集【中国の手業師】塩野米松著、新潮社、2000年刊<「BOOK」データベース>より新国家成立、文化大革命、改革開放政策。激しく変動してきた時代を、中国の陶磁器、急須、櫛、切り絵、凧、鳥籠、胡弓づくりの職人たちはどう生きぬいてきたか。【目次】1 陶磁器の都・景徳鎮の古老、陳仁功/2 宜興の急須づくり三代目、徐秀棠/3 常州の櫛工場の「検査員」、魏金中/4 河南村の百姓切り絵師、范祚信/5 伝統ある凧の町・〓坊工場主、楊其信/6 南人村で「馬印の鳥籠」を受け継ぐ、馬福清/7 北京・琉璃廠で胡弓の名品をつくる、史致広<読む前の大使寸評>中国にも、職人根性があるのかどうかを知りたいわけでおます。rakuten中国の手業師*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き148
2016.05.25
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図書館で『中国の手業師』という本を手にしたが・・・・中国にも、職人根性があるのかどうかを知りたいわけでおます。中国の工芸品といえば、超絶技巧とか富裕層への贈答品というイメージがあるわけで・・・大使の好みとは言いがたいのですが。【中国の手業師】塩野米松著、新潮社、2000年刊<「BOOK」データベース>より新国家成立、文化大革命、改革開放政策。激しく変動してきた時代を、中国の陶磁器、急須、櫛、切り絵、凧、鳥籠、胡弓づくりの職人たちはどう生きぬいてきたか。【目次】1 陶磁器の都・景徳鎮の古老、陳仁功/2 宜興の急須づくり三代目、徐秀棠/3 常州の櫛工場の「検査員」、魏金中/4 河南村の百姓切り絵師、范祚信/5 伝統ある凧の町・〓坊工場主、楊其信/6 南人村で「馬印の鳥籠」を受け継ぐ、馬福清/7 北京・琉璃廠で胡弓の名品をつくる、史致広<読む前の大使寸評>中国にも、職人根性があるのかどうかを知りたいわけでおます。rakuten中国の手業師祖父の代から紫砂壷(紫砂急須)を作ってきた徐さんの話を見てみましょう。p52~53<宣興の急須づくり三代目>より 江蘇省・宣興は人口は百万を超え、千本以上の煙突が立っているという焼き物の町である。市は太湖の側に開け、この水運を使って宣興で作られた品々が運び出された。今も船積みをしているのを見かける。 宣興の町のことを語れるほど滞在していなかったのだが、町中に土管や陶器の包みが山積みにされそれらの荷を満載したトラックが行き交う。交通量の多い国道筋にはたくさんの陶磁器屋が並び、露地に入り込めば、小さな工房がさまざまなものを作っている。家族でやっていると思われる小さな工房の前には作り上げられたばかりの土瓶が並び、乾燥途中であった。 市の南半分を宣興丁蜀鎮という。この地区が焼き物の中心区である。陶器というよりはあまりにさまざまな物を作っているので、窯業都市と言うべきかもしれない。(中略) 徐さんは「中国工芸美術大師」の肩書を持つ有名な美術家である。私はこのことを知らなかった。彼の亡くなった父上が急須作りの名人であったことを手がかりに、職人探しをしてもらい徐秀ショウさんにたどり着いたのだ。計画経済の元で、如何にして急須を作ってきたかが語られていて、興味深いのです。p79~83<不毛からの脱出>より 私(徐秀ショウ)は1958年まで3年間、合作社の学習班にいました。58年になると今度は合作社が国の工場になって、さらに拡大しました。国の政策で、組織が変わってしまったのです。 私は55年に入ったからそれまでちょうど3年勉強したのですが、なかには56年に弟子入りした人もいるわけです。その人たちは2年間しか勉強できませんでした。それなのに、58年に国営の工場に拡大したときに、たくさんの指導者が必要になりました。 そのときに、紫砂壷工場は一遍に千人ぐらいの工場になったのです。そうなってくると、私たちと一緒に2年間しか勉強してなかった人もすべて先生になるわけです。下手でも先生になりました。国営工場では、千人も集めて、みんなで急須や花瓶、鉢など、いろいろなものをつくっていました。 だけど、それは1年も続かずに解散になりました。そこで働いていた千人のうちの大半をまた田舎に戻したのです。なぜそうしたかといえば、簡単です。つくったものが売れなかったんです。そんなに需要もなかったのです。結局、こういうことは無駄だったということに気がついて、また小規模経営に戻ったのです。 小規模になったのは1959年。そういうやり方がだめだということに気づいて、田舎から連れてきた人たちを、また田舎に帰しました。さらに運が悪いことに、60年から数年間中国は自然災害が続いたのです。 田舎に帰した人たちは、下手な人とは限りませんでした。なかには腕の良い人もいて、78年の改革開放後にまた、急須を作り始めた人もおりました。田舎から連れてきた人は田舎へ戻して、町で募集した人たちはそのまま残したわけです。そういう政策でした。 そのときは学習班はもうありませんでした。そして、だいたい一つのチームに二人の先生がいて、20人ぐらいの徒工の面倒を見るとというふうに変わりました。 そのときの修業期間はだいたい3ヶ月というものでした。3ヶ月で、1回転させるのです。ですから、手で、本当に感じをつかみながらつくっていくのではなくて、型があって、その型で作ってしまうんです。 伝統の作り方よりも、効率よく、たくさんつくるために教えていたわけです。 私の場合は、1976年までは、ほとんど国の命令で大量生産品を作っていました。彫刻の分野でもそうでした。文革当時は、紅衛兵の彫刻が多かったのです。紅衛兵を褒めたたえることをずっとやっていました。 あのときは、やはり政治が一番優先で支配的だったので、つくるものでさえもすべて政治に合わせて指示されました。例えば、卓球外交が取り上げられると卓球外交の彫刻ををつくったり、毛沢東が人民も兵隊になろうという呼びかけをした時には、民兵の像をつくったり紅衛兵をつくったり、政治との結びつきが非常にあったのです。政治に影響されてものをつくった時代でした。 急須の胴にも民兵だとか卓球する絵とか、そういうものをみんな彫ったのです。 売ったり、使ってもらうためではなく、展示会に参加するために、まったく経済価値のないものをつくっていたのです。 それが1976年まで続きました。その年に、やっと文革が終わって、再び工場のなかに工芸研究所をつくることができたのですね。私や兄や顧先生、腕の良い先生たちが中心になって、もう一度伝統的な手の技を教える組織を作ったのです。 私たちが一人で弟子を二人ぐらい取って、伝統的やり方で教え始めたのです。元のように、手でつくる工程に戻ることができたのです。先生の選び方は、たくさんの工員のなかの優秀な人を選んで、例えばあなたは弟子が二人ですとか、あなたは一人とか、そういうふうに決めてやったのです。 ちょうどその年、1976年に周恩来が亡くなりました。この新しい方向転換は、周恩来のおかげもありました。 周恩来は中国のもので、外国に出せるのは工芸品であるといったのです。そういう下地があったので、76年に文革が終わると同時に、私は工芸研究員に選ばれたのです。 これは、一つの政府の政策というよりは、そこで働いている私たちのような中心になっている工員・・・工員は工員なのですが、主力工員というか、大事にされている工員・・・の意見でした。 私たちには危機意識がありました。師匠たち、先生たちがどんどん年を取っていくのに、後継ぎがいなかったのです。これは非常に重要な問題でしたから、私たちが工場長とか、幹部に強く後継者育成の機会を要求したのです。そして、研究所に十人ぐらいの人が集まったのです。 その後、だんだんと手工芸品を輸出するようになって、工芸研究所開設は間違いではなかったというのをみんな思うようになったのです。伝統的方法で、少ない弟子をしっかり教えましたから。自分の考えで、像を彫ったり、絵を描いたりできるように初めてなったのです。 文革の十年間は、ご存知のように、とても良い人材を育てられる状況ではありませんでした。当時は、技を尽したすばらしい急須をつくる人もすばらしい像を彫る人もいなかったのです。あのときは、一番叫ばれていたのは「誰のために働くのか」という問題でした。答えは大衆のためにでした。なるほど、共産党の指導のもとに急須を作ってきたようですね。伝統的工芸品に政治が介入するようでは、皆が欲しがる工芸品は容易にはできないでしょうね。
2016.05.24
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浜坂ハーフの結果は、残念ながら1ヶ所ある関門の関門不通過となり、記録無しとなりました。【言いわけを一つ】くまもんの着ぐるみを着た2時間40分定速ランナーを目印にして走っていたのだが・・・なんと、これで関門時間オーバーになったのです。一説によるとくまもんが時間を間違えたとか・・・怒るでぇ。それに、このレースでは関門不通過のランナーはバス乗場に誘導されてしまうので、ゴールまで走ることができないのです。で、個人的な完走計時ができないので、完璧に記録無しになった次第です(プンプン)【マラソンバスに乗り遅れ】泣き面にハチのような事態となったのは、マラソンバス出発時刻に8分遅れたわけで・・・8分なら待ってくれるかと思いきや、非情にも定時出発したようです。(まったく時間に正確なニッポンやで)ユートピアの畳の間で、ビールを呑んで寝過ごした大使に非があるわけで、怒る矛先がないのが辛いところでおました。慌てた大使は、財布の残金や交通機関など打開策を検討したわけで・・・結局、鳥取始発のスーパーはくとで帰ることにしたのです。追加料金が特急券込みで6140円なり・・・焼肉3回分くらいの散財となったのです。でもね、気分を切替えて、快適な「スーパーはくと」の旅情を楽しむことにしたわけで・・・スーパーはくとこの列車は振り子式なので、右に左のカーブでは快適な傾きを体感できます。また適度にスピードも出るので、マラソンバス帰着時刻に神戸に到着することができました♪ちなみに、浜坂ハーフの歴年の記録を浜坂ハーフ2015の結果に見てみると・・・・歳相応に記録が落ちてきているのが分かります(ヤレヤレ)
2016.05.23
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お天気 良~し♪卯の花のにおう垣根に~、ホトトギス早も来、鳴きて~♪裏山のウグイス連中に、ホトトギスが加わり、まさに百家争鳴でおます。p71<ホトトギス>不如帰・子規:カッコウ目カッコウ科全長:28cm、見られる時期:5~9月、分布:北海道南部以南、生活型:夏鳥、鳴き声:キョッキン、キョキョキョ。 繁殖期の雄の鳴き声を「特許許可局」「天辺かけたか、本尊かけたか」などと聞きなしする。ウグイスなどに託卵をするカッコウのなかまで、ウグイスに似たチョコレート色の卵を産む。「万葉集」に最も多く登場する鳥で、夏を告げる「初音」を、古来より人々は楽しみにした。鳴くときに口の中が赤く見え「血を吐く鳥」と言われ、晩年、結核を患った明治の俳人・正岡子規の俳号は、本種の漢字名のひとつに由来。
2016.05.23
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浜坂ハーフの結果は、残念ながら1ヶ所ある関門の関門不通過となり、記録無しとなりました。疲れているので、詳細については追って記入とします。その穴埋めというわけで(全然関係ないけど)・・・Eテレで22日に放送のあった再生医療用iPS細胞ストックについて、京大サイトよりコピペして紹介します。再生医療用iPS細胞ストックプロジェクトより 再生医療用iPS細胞ストックとは、健康なHLA(Human Leukocyte Antigen : ヒト白血球型抗原) ホモ接合体を持つボランティアの方に細胞を提供していただき、iPS細胞を作製し、保存するプロジェクトです。予め品質の保証されたiPS細胞を保存し、必要に応じて国内外の医療機関や研究機関に迅速に提供可能にすることを目的としています。 CiRA研究支援部門の医療応用推進室が中心となり、CiRA研究棟内に設置された細胞調製施設(FiT:Facility for iPS Cell Therapy)を運営する教職員と協力して進めます。頻度の高いHLA型を持つ方から臨床応用を踏まえた環境でiPS細胞を作製・評価・保存し、5年以内に日本人の約半数をカバーする計画です。2012年度には、京都大学医学部附属病院で過去にHLA型の検査を行った人や日本赤十字社で血小板の成分献血などの理由でHLA型を調べた方の中から、HLAホモ接合体を持つ方に協力していただけるように、周知を行いました。2013年度から本格的に取り組み始め、HLAホモ接合体を有するボランティアの方から提供いただいた血液を用いて、FiTにおいてiPS細胞の作製に着手し、臨床研究に使用できる可能性のあるiPS細胞株を樹立しました。また、そのiPS細胞株の品質評価を行いました。2013年度には、さい帯血バンクの協力を得て、HLAホモ接合体を有する人へ研究への協力に関するご案内をお送りしました。2014年度には、日本骨髄バンクの協力を得て、骨髄バンクにドナー登録をされ骨髄等をご提供頂いた方のうち、HLAホモ接合体を有する人へ研究への協力に関するご案内をお送りしました。2015年8月には、再生医療に使用可能なiPS細胞ストックの提供を開始いたしました。2016年度には、骨髄バンクおよび日本赤十字社の更なる協力を得て、骨髄バンクに新規にドナー登録する人に対し、研究への協力をお願いする予定です。また、新たに日本赤十字社のさい帯血バンクの協力を得て、過去にさい帯血を提供された方のうち、HLAホモ接合体を有する人へ研究への協力に関するご案内をお送りする予定です。引き続き日本人で頻度の高いHLAホモ接合体を有するドナーの皆様より御協力をいただきながら、第一段階として2017年度末までに、日本人の3?5割程度をカバーできる再生医療用iPS細胞ストックの構築を目指し、iPS細胞の製造に取り組んで参ります。
2016.05.22
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図書館で中島京子著『眺望絶佳』という本を手にしたが・・・・中島ワールドの真骨頂!とのこと・・・・中島さんの短編は期待できるかも♪以前に、『のろのろ歩け』という短編集を読んだことがあるのだが、中島さんの短編には(大使の)折り紙つきでおます。【眺望絶佳】中島京子著、角川書店、2012年刊<「BOOK」データベース>より昭和33年、東京タワーが立ったあの頃から遠くここまで来てしまった。それでもわたしたちは立っていなければならない。スカイツリーのように。もの悲しくも優雅な、東京タワーとスカイツリーの往復書簡。2011年の静謐と小さな奇跡を切りとった、「東京」短篇集。<読む前の大使寸評>中島ワールドの真骨頂!とのこと・・・・中島さんの短編は期待できるかも♪rakuten眺望絶佳『倉庫の男』の語り口をちょっとだけ見てみましょう。小さな出版社という場所設定が、いかにも大都会である。<倉庫の男>よりp37~38 小菅優は糸川紗江子にとって、ずっと「使えない新人」だった。 いまは就職難で、高学歴の優秀な人材が余っていて、編集技術に加えて高度な語学力までもが要求される職種には大学院出の秀才がこぞって手を挙げるはずだというのに、太陽教育出版にとって積年のドル箱である『鼻から覚えるフランス語』の著者である須賀川元雄名誉教授による推薦を断れずに雇ってしまったことに対しては、紗江子にも忸怩たる思いがあるのだった。 たしかに修士号は持っていたし、半年前に自主退学するまでは博士課程に在籍もしていたようだったが、学業面でいかに秀でていようとも世の中に出て使い物にならない例などいくらでもあるのであって、目の前に座っている20代も終わりかけたこの男が、その例から外れる理由など、一つも思いつかない。 まずその小さな声が、電話の応対を不可能にする。ねえ、少し大きな声ではきはき対応してもらえるかしらと、大の男に頼まなければならないとは思わなかった。そして小刻みに揺すられている右脚が机の下の大量の紙袋に合奏を強いるので、狭いオフィスには絶えずかさこそと鼠が走るような音が響くことになる。 当人はといえば、仕事中もなぜだか耳栓のようにイヤフォンをして音楽を聴いているから、他人に聴こえる音には無頓着であるらしい。一度、仕事中に音楽を聴くのはやめなさいと言ってみたのだが、ぼくはこれがないと作業に集中できないのでまったく仕事になりませんと真顔で返されてしまい、それならせめてしゃかしゃかという音が漏れないように小さな音量で聴いてちょうだいと消極的な申し渡しをしたため、ビートがうっとうしくこだまする事態は免れたものの、リズムを取るのか貧乏揺すりかは判断しかねる脚の動きを止める手立てが思いつかないので、紙袋の擦れる音にだけは耐えるほかない。 太陽教育出版で働いているのは、社長の紗江子、新人の優、そして今橋千早だけだ。だから、日中、倉庫からの出荷作業と営業を担当している今橋千早が出て行ってしまうと、二人は残されて編集や伝票処理といった事務仕事をすることになるのだが、伝票を打たせれば平気でゼロを一つ落とし、電話は用件をろくすっぽ聞かずに切って、昼時は時計の針が12時を指すと同時に飛び出していくこの青年が、いつか仕事のできる男になる姿は、紗江子の想像をはるかに逸脱するのだった。 内勤には向かないみたいだから外回りをやってもらったらどうかしらと、今橋千早に相談してみたこともあったが、勤続20年になるベテラン女性は、糸川さんまさかお忘れではないでしょう外回りとは営業すなわち人と接することですよと、きっぱり紗江子の了見違いを指摘した。 「でもちょっとだけ。営業じゃなくって、倉庫作業のほうよ、あれは男性向きの仕事じゃないかなあ」 紗江子も引っ込みがつかずに押してみたけれども、しぶしぶ倉庫行きの車に青年を乗せて出た今橋千早は、思ったとおりでしたよと、半分勝ち誇ったようにして戻ってきた。中島さんは、出版社に勤務したこともあるそうで、中小出版社での勤務とはどんなものか、よくご存知のようですね。なお、中島京子の『のろのろ歩け』がお奨めです。ところで、明日は浜坂ハーフがあるので、今日のお昼前に一泊レースに出発します。・・・・・・練習が足りてないので、観光が目的みたいなもんやけど(汗)
2016.05.21
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図書館で池澤夏樹著『スティル・ライフ』という本を手にしたが・・・・パラパラと飛ばし読むと、主人公の友人の佐々井がちょっと変わっているけど、いい奴なんだな~。【スティル・ライフ】池澤夏樹著、中央公論社、1988年刊<「BOOK」データベース>より遠いところへ、遠いところへ心を澄まして耳を澄まして、静かに、叙情をたたえてしなやかに―。清新な文体で、時空間を漂うように語りかける不思議な味。ニュー・ノヴェルの誕生。中央公論新人賞・芥川賞受賞作『スティル・ライフ』、受賞第一作『ヤー・チャイカ』を収録。<大使寸評>およそ30年ほど前、池澤夏樹デビュー時の単行本のようです。主人公の友人の佐々井がちょっと変わっているけど、いい奴なんだな~。持ち物は自分が持って運べる分だけというから、今でいうミリマリストそのもので・・・合って話す話題が、素粒子とか地質学とかで、不思議な静けさがあるのです。amazonスティル・ライフ『スティル・ライフ』の語り口をちょっとだけ見てみましょう。p49~51 「この間のきみの雪の話、あれは面白かった」と佐々井が言った。 彼の声は低く、ふくらみがあって、どこか老成して聞えた。この計画がはじまって、ぼくが染色工場を休職し、家で彼と証券会社の連絡係をやりはじめてから、彼はぼくよりずっと年上に見えるようになった。もともと年がよくわからなくて、ぼくと同年配という気がするときもあれば、はるかに上と思えることもあったのだが、計画に従って大量の資金を着実な手付きで運用しているさまを間近に見ていると、とても同じ年頃ではなかった。 「先日、ここでさっきと同じように地形の写真を見ていて、地球の表面の形というのは全部何かが降ってきて、それが積もってできたんじゃないかって気がした。いや、地質学の常識から言えばまるで嘘だ。しかし、山になっているところには山の原素が降り積もり、熱帯雨林にはみずみずしい緑色の、たぶん葉緑素をたくさん含んだ熱帯雨林の原素が降って、砂漠には砂や礫や岩が音もなく降って、それで地形ができた。そういう原初の、もちろん人など誰もいない、およそ目をもつものが何もいない時の、光景みたいなものがその時だけ見えた」 「少なくとも海は降ったものから作られたさ。間違いなく水なんだから」とぼくは言った。 「そう、しかし、海を作った地球最初期の雨は豪雨だった。大気の温度が下がって、その時の大気圧に応じた水の沸点以下になった時に、空気中の水蒸気が液体と化して、すさまじい勢いで降りはじめた。熱湯の雨だよ。それが何百万年も降り続いた。そして岩を削り、岩石の中の水溶性の要素を全部溶かし込んで、地表の低い部分へと流れ、そこにたまった。その熱い雨の猛烈な勢い、もうもうと湯気をたてながら暗い暗い地表に降る雨の光景には、今ちょっとなじめない」 「暗かったのかな?」 「うん、今の金星みたいなもので、空全体が厚い雲に覆われていたから。日光はほとんど地表に届かなかった。とても暗かったよ」 「それで?」 「だからその雨みたいなんじゃなくて、もっと穏やかな静かな降りかたで、木々や草原や荒野の原素が、ちょうど雪のように降ってきて、今見るようなさまざまな地上の景観を作った。その、原素が静かに降る情景を想像するんだよ」 佐々井はしばらく黙ったまま、ウィスキーを飲んでいた。 「ぼくはね、一つのイメージにとらわれると、それから抜けられなくなるんだ。この、地形の素が静かに降り積もる光景というのが、これからしばらく頭の中に、他のものを押しのけて居座りそうだ」この小説の終わりあたりを、見てみましょう。p75~80 時効が成立したところで、佐々井がはしゃいで大騒ぎをするとはぼくも思っていなかった。逃げている間はやはり彼もどこか緊張していたのだろうか。それがほどけた今、彼は逆に一種の苛立ちをおぼえているようだった。「とりあえず、何をする?」と家に戻ったぼくは聞いた。「考えていない」と佐々井は答えた。「会社への返済は弁護士を介してやる。昔知っていたのが一人いるから、その男に頼む」「仕事は?」「しばらくは何もしないな。またリュックを背負って暮らすかもしれない」(中略)「きみは本当にこのぼくたちの世界に属するんだろうか?」「え? どういうこと?」「違う世界から来たんじゃないかと思って」「そんなことはないよ」「あの株だって、ひょっとしたらタイム・マシンで明日の新聞を読んでやっていたのかもしれない。それなら、利益をあげるのは簡単だし、あんまり簡単だからつまらないということにもなるだろう」「それじゃ、ぼくは別の星から送りこまれたのか」「そう、大熊座から来たんだ」「何のために?」「何も。目的なんかない。きみはこの時代に来てみたかった。だから、休暇を申請して、しばらくここに滞在した。5年間だ。それが終わって、今は帰る時なのさ。だから、きみは帰ってゆく」「でも、ぼくは徹底して地球的な、地上的な人間だよ。しばらく前までは、人はみんなぼくみたいだった」「しばらく前って?」「1万年くらい。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中に併存していた」「今は?」「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を作ったんだよ。安全な外界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、きみの方が今では特別な人間なんだ」「知っているよ」 彼にはそれ以上ぼくと議論をするつもりはないようだった。ぼくも、もう言うことはないと思った。たぶん喋りすぎたのだ。 彼がその部屋にいる気配が薄れていった。出ていったのではなく、彼というものがどんどん広がって、この家よりもずっと広大な空間を占めるようになったみたいだ。空気が少し涼しくなった。しばらくして気がつくと、彼はもう遠方でかすかに光る微小な天体だった。ぼくは遠い彼に話しかけなかった。
2016.05.21
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図書館で内田樹著『街場の読書論』という本を手にしたが・・・・内田先生の説く読書論なら、読むしかないでしょう。今までこの本を見落としていたのが、大使の手落ちでおます。【街場の読書論】内田樹著、太田出版、2012年刊<「BOOK」データベース>より本はなぜ必要か。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか。21世紀とその先を生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる最強読書エッセイ。<読む前の大使寸評>内田先生の説く読書論なら、読むしかないでしょう。今までこの本を見落としていたのが、大使の手落ちでおます。rakuten街場の読書論内田先生が「文学」の効用を語っているので、拝聴しましょう。<「世界の最後」に読む物語>よりp391~395 いくつか例外はあるが、全体として文学作品は売れていない。なぜか。 身も蓋もない言い方をすれば、それは提供されている作品のクオリティが低いからである。悪いけど。 出版不況にしても、新聞の購買者数の激減にしても、送り手側は「私たちはこれまでと変わらず質のよいものを作っている。だが、売れない。これは読者の質が落ちたからである」というロジックを使って責任を転嫁しようとする。でも、それは違うと思う。 文学が売れないのは、決して読者のリテラシーが劣化したからではない。現に、世界的に評価の高い文学作品については、国内的にも高い評価が与えられている。 もし、海外では高い評価を得ている作家が日本国内ではまったく顧みられていないという事実があれば、日本の読者のリテラシーだけが選択的に劣化しているという推論は成り立つであろうが、そのような事実のあることを私は知らない。 村上春樹や、桐野夏生や、井上雅彦といった「物語作家」たちへの国際評価と国内評価のバランスを見る限り、現代日本の読者たちの鑑定眼は健全に機能していると判じて過たないであろう。 それゆえ、読者の判断に対しては原則的には敬意を示すべきだろうと私は思う。これがこの問題を考えるときの前提だと思う。作品の送り手側は、まずこの前提を呑み込んでもらわなくてはならない。 こんなことを言うと、出版社の人は、「」と反論するかもしれない。 しかし、こうした考え方そのものが、出版をビジネスと考えることから派生する一種の病のように思われる。 たしかに出版がビジネスであるなら、できるだけ短期間にできるだけ多くの収益を上げる書物がもっとも望ましいものだ。どれほど無内容でも、愚劣でも、市場の需要がある限り、それは「正しい出版活動」だということになる。 だが、それはあくまで商品として書物を見た場合の話である。 書物はもともと商品ではない。 書物が商品として市場で売り買いされるようになったのは、せいぜいこの200年のことである。書物の歴史はそれよりはるかに長い。「本来商品ではないもの」の価値や機能をその商品性によって考量しようとするから話が見えなくなるのだ。 例えば、ある書物に対する実需要がどれほどあるかは売り上げだけではわからない。図書館に収蔵されて数百人数千人に読まれても、買われただけで読まれずに捨てられる本も、どちらも売り上げ数を見れば同じ一冊である。だが、この二つの書物について、「市場のニーズはどちらも同じだった」と言うことはできない。言ってもいいが無意味である。出版事業がほんらい目指すべきは「読者」であって、「購入者」ではないからである。(中略) ビジネスマインデッドな出版人は軽々に「市場のニーズ」という言葉を口にする。だが、彼らが見ているのは「すでに存在するニーズ」か、せいぜい「その予兆が感じられるニーズ」にすぎない。「まだ存在しないニーズ」を創り出すような書物こそ最良の書物であるという考想は彼らの脳裏には去来しないのである。 すぐれた文学作品は同時代の辞書には存在しない語彙にリアリティを与え、誰も知らなかった概念の意味を理解させる。読者を彼らが閉じ込められている思考と感性の閉域から連れ出し、「異界を見せる」。 文学も哲学も、あるいは自然科学の書物も、その価値は「世界に対する衝撃度」によって考量されるという点では変わらない。 人々が安住している世界の亀裂を開け、見たことも聞いたこともないものがそこから吹き込んでくる。それは恐怖や不安の経験でもあるし、同時に開放と愉悦の経験でもある。それを可能にするのが「文学」や「思想書」の力である。『街場の読書論』1『街場の読書論』2
2016.05.20
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図書館で『驚異のバクテリア』という本を手にしたのです。ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士が、常に細菌採取用のビニール袋を準備して出歩いているとか・・・また、発酵食品は麹菌のおかげとか・・・このニュートンムックは興味深いのでおます♪【驚異のバクテリア】ムック、ニュートンプレス、2016年刊<商品の説明>より大腸菌やビフィズス菌などの「細菌」,細菌によく似て極限環境に暮らす「アーキア」,酵母やこうじ菌などの「菌類」など,顕微鏡を使わなければ見えない小さな生き物「微生物」たちの驚異の生存能力や,それらが私たち人間の健康や産業にあたえる影響などについて,あますところなく紹介した一冊。<読む前の大使寸評>ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士が、常に細菌採取用のビニール袋を準備して出歩いているとか・・・また、発酵食品は麹菌のおかげとか・・・このニュートンムックは興味深いのでおます♪amazon驚異のバクテリア日本の味に欠かせない麹菌を見てみましょう。<味噌や醤油、酒の醸造に欠かせない麹とは?>よりp144~145 日本食の味を決める、味噌や醤油、日本酒や酢にみりん。これら食卓に欠かせない調味料には、かくれた共通点がある。それは、必ず「麹」が使われていることだ。 また最近、食材のうまみや甘みを引き出す「万能調味料」として注目を浴びている「塩麹」は、漬け物の「浸け床」として昔から使われてきたものだ。このような伝統的な発酵食品に欠かせない麹とはどんなものだろうか。■麹とは、カビが生えた穀物 麹とは、蒸した穀物に、酒などの醸造に役立つカビ(糸状菌)を生やしたものだ。そのカビは「麹菌」、あるいは「コウジカビ」と呼ばれている。 麹は、麹菌を生やした穀物の種類によって、米麹、麦麹、豆麹などと呼びわけられている。■穀物を溶かす酵素の宝庫 麹には、穀物を分解するさまざまな種類の酵素(タンパク質の一種)が、数多く含まれている。酵素によって、穀物の成分であるデンプンは糖に、タンパク質は、うまみ成分であるグルタミン酸などのアミノ酸に、脂質は脂肪酸とグリセリンに分解される。 この酵素は、麹菌の菌糸(糸状の細胞)の先から出したものだ。麹菌はみずからの繁殖のために酵素を出して穀物を分解し、そこからでてきた成分を栄養源とするのだ。■麹が「おいしさ」のかなめ(中略)■東洋の文化、麹 麹の文化は、東アジア特有のものだ。たとえば中国では紹興酒や老酒、韓国ではマッコリが、麹を使ってつくられている。一方、西洋では、穀物の分解に微生物を用いず、大麦の種子を発芽させた「麦芽」が使われている。麦芽が酵素をつくり、デンプンなどを分解するのだ。この麦芽からつくられるのがビールだ。 麹は、穀物だけでなく肉や魚介類もやわらかくし、うまみのもととなるアミノ酸をつくる。また、麹からつくられた糖分はすっきりとやわらかな甘みでおいしい。麹からつくる甘酒は、消化によい栄養補給源としてもおすすめだという。 日々の食卓で麹を使ったおいしい食材をいただきながら、大事に育まれてきた麹菌に思いをはせるのもよいだろう。照葉樹林帯といえば、発酵食品の一大産地として知られていますね。『東アジアの食文化探検』という本から、納豆・発酵酒・ナレズシを見てみましょう。東アジアの食文化探検より<納豆・発酵酒・ナレズシ>p117~122 人間とは、勝手な動物で、同じ微生物によるエネルギー獲得手段を、その産出物が有用な場合には「発酵」と呼び、有害な場合には「腐敗」と呼んでいる。また、同じ人間であっても、かつての日本人は、欧米のチーズを食べられないとし、欧米の人たちは、味噌や塩辛を食べられないとした。発酵食品の価値や好みは、文化によって異なるといえよう。 納豆は、断るまでもなく日本にはあるが、インドネシアのジャワにも「テンペ」というものがあり、朝鮮半島にも、「チョンクッジャン」という日本の糸引き納豆と同じようなものがある。 中国では、かつては今以上に広域に分布していたと思われるが、現在では、西南中国の照葉樹林文化色が、まだ濃厚にある地域ぐらいにしかみられない。納豆菌によるのでなく、カビで発酵させる、日本の浜納豆に近い「豆鼓」なら、漢族の多くも親しんでおり、広域に分布している。 ちなみに、先に述べたジャワの「テンペ」も、カビによるものであった。しかし、雲南のタイ族の納豆は、納豆菌によって作られているけれども、糸を引かない納豆だという意見がある。だが、それは、西双版納の納豆だけしか知らない者の意見である。同じ雲南でも、徳宏のタイ族の納豆は、隣接するビルマの糸引き納豆と同じように、糸を引いているのである。 ところで、微生物の発酵による酒は、世界のあちらこちらにあるけれども、カビによる発酵酒は、東アジアのものである。かつての朝鮮半島には、さまざまな酒があったけれども、日本の植民地時代になると、いわゆるドブロクの「濁酒」と「薬酒」のような庶民の酒を除き、もっぱら日本人の好むビールや日本の清酒だけが有利な税率となったので、他の伝統的な酒類は、今となっては口伝によって知られるのみになったそうである(鄭大〇氏による)。(中略) 次は、アルコール発酵から離れ、乳酸発酵のナレズシに言及しよう。 日本では、現在あまり知られていないナレズシであるが、滋賀県の「フナズシ」は、まだ健在である。ニゴロブナと呼ぶフナの内臓を除去しただけの、まるのままのフナを、4,5月ごろ、塩漬けにし、土用に入ってから、米のご飯と交互に桶に入れ重石をして数ヶ月置き、乳酸発酵させたものである。 このスシの源流であるナレズシは、日本では、フナズシと、ナマズやドジョウのそれがあるぐらいになってしまった。しかし、西南中国や華南の少数民族間では、淡水魚類のナレズシだけでなく、ニワトリや豚、あるいは野生鳥類のそれもあり、植物性食品にまでも応用されているのである。 雲南省のタイ族の魚のナレズシ、貴州省のミャオ族の魚と豚のナレズシ、広西チワン族自治区のヤオ族の野生鳥類のナレズシなどがあるが、広西の三江トン族自治県は、魚、ニワトリ、アヒル、豚から、さまざまな野菜にいたるまでのナレズシを作っている。納豆系、乳酸系など発酵食品も大使の大好物でんがな♪日本人が育てた塩麹はいろんな歴史的食材を生んだが、その中で京都で食べられた塩鯖を見てみましょう。鯖街道マップより鯖街道 若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には、本来それぞれ固有の呼び名がありますが、近年、運ばれた物資の中で「鯖」が特に注目され有名になったことから、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになりました。 若狭から運ばれた鯖が京の都に着く頃には、ちょうどよい塩加減になったと言われ、京都の食文化の中に今も若狭の魚が生きています。なお、若狭の鯖は遠く兵庫県の篠山までも運ばれていました。マルコメのサイトで「味噌の種類と地域性」を見てみましょう。味噌の種類と地域性より 南北に長いその地形や、気候によって日本全国各地で味噌の種類も様々です。 北海道では赤い色の中辛口味噌が主流で、仙台では仙台味噌と呼ばれる伊達政宗時代より引き継がれている赤色辛口味噌が有名です。 味噌の原料となる穀物も全国的に「米」が使われることが多いものの、中部地方では「豆」、九州や四国の一部の地域では「麦」が使われています。ところで、小泉武夫著『発酵する夜』という本が面白いのでお奨めです。発酵する夜1発酵する夜2発酵する夜3
2016.05.20
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「短編小説」でしょうか♪<市立図書館>・街場の読書論・古代東アジアと文字文化・眺望絶佳・さかしま<大学図書館>・スティル・ライフ・驚異のバクテリア図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【街場の読書論】内田樹著、太田出版、2012年刊<「BOOK」データベース>より本はなぜ必要か。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか。21世紀とその先を生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる最強読書エッセイ。<読む前の大使寸評>内田先生の説く読書論なら、読むしかないでしょう。今までこの本を見落としていたのが、大使の手落ちでおます。rakuten街場の読書論街場の読書論byドングリ【古代東アジアと文字文化】小倉慈司著、同成社、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国で生まれた漢字は、どのように東アジア世界に広がり受容されていったのか。文字文化伝播のありようを、政治や呪術、食文化など多様な切り口から描き出す。【目次】漢字文化と渡来人ー倭国の漢字文化の担い手を探る/中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア/古代韓国の木簡文化と日本木簡の起源/古代の「村」は生きている/文字がつなぐ古代東アジアの宗教と呪術/正倉院文書の世界ー公文と帳簿/沈没船木簡からみる高麗の社会と文化/資料からみた日本列島と朝鮮半島のつながり<読む前の大使寸評>大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。rakuten古代東アジアと文字文化古代東アジアと文字文化byドングリ【眺望絶佳】中島京子著、角川書店、2012年刊<「BOOK」データベース>より昭和33年、東京タワーが立ったあの頃から遠くここまで来てしまった。それでもわたしたちは立っていなければならない。スカイツリーのように。もの悲しくも優雅な、東京タワーとスカイツリーの往復書簡。2011年の静謐と小さな奇跡を切りとった、「東京」短篇集。<読む前の大使寸評>中島ワールドの真骨頂!とのこと・・・・中島さんの短編は期待できるかも♪rakuten眺望絶佳【さかしま】梁石日著、ケイツー、1999年刊<「BOOK」データベース>より快楽と殺戮が同じ感覚だった。「血と骨」から2年、梁石日が放つ醒めない夢の果てしない暗黒の世界。【目次】夢の回廊/さかしま/蜃気楼/運命の夜/消滅した男/忘れ物/トラブル<読む前の大使寸評>追って記入rakutenさかしま【スティル・ライフ】池澤夏樹著、中央公論社、1988年刊<「BOOK」データベース>より遠いところへ、遠いところへ心を澄まして耳を澄まして、静かに、叙情をたたえてしなやかに―。清新な文体で、時空間を漂うように語りかける不思議な味。ニュー・ノヴェルの誕生。中央公論新人賞・芥川賞受賞作『スティル・ライフ』、受賞第一作『ヤー・チャイカ』を収録。<読む前の大使寸評>およそ30年ほど前、池澤夏樹デビュー時の単行本のようです。amazonスティル・ライフ【驚異のバクテリア】ムック、ニュートンプレス、2016年刊<商品の説明>より大腸菌やビフィズス菌などの「細菌」,細菌によく似て極限環境に暮らす「アーキア」,酵母やこうじ菌などの「菌類」など,顕微鏡を使わなければ見えない小さな生き物「微生物」たちの驚異の生存能力や,それらが私たち人間の健康や産業にあたえる影響などについて,あますところなく紹介した一冊。<読む前の大使寸評>ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士が、常に細菌採取用のビニール袋を準備して出歩いているとか・・・また、発酵食品は麹菌のおかげとか・・・このニュートンムックは興味深いのでおます♪amazon驚異のバクテリア*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き147
2016.05.19
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図書館で『古代東アジアと文字文化』という本を手にしたが・・・・大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。【古代東アジアと文字文化】小倉慈司著、同成社、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国で生まれた漢字は、どのように東アジア世界に広がり受容されていったのか。文字文化伝播のありようを、政治や呪術、食文化など多様な切り口から描き出す。【目次】漢字文化と渡来人ー倭国の漢字文化の担い手を探る/中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア/古代韓国の木簡文化と日本木簡の起源/古代の「村」は生きている/文字がつなぐ古代東アジアの宗教と呪術/正倉院文書の世界ー公文と帳簿/沈没船木簡からみる高麗の社会と文化/資料からみた日本列島と朝鮮半島のつながり<読む前の大使寸評>大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。rakuten古代東アジアと文字文化紙の伝来あたりを見てみましょう。<平安貴族が用いた高麗の紙>よりp185~188 大宝2年(702)の遣唐使以降、中国文化の直接摂取が始まる。それによって日本の漢字文化に与える朝鮮半島の比重は以前に比べ弱まったが、かといって皆無になったわけではない。新羅仏教が8世紀の日本仏教に与えた影響は大変大きく、新羅の高僧元暁は仏教界のみならず日本の文化人にとっても忘れられない存在であった。正倉院宝物のなかにも新羅との交易によってもたらされた物品が多く含まれていることが明らかになっているし、9世紀の東アジア交易において新羅商人が果たした役割は高く評価されねばならないであろう。 以上のように、朝鮮半島との文字文化交流を物語る資料には事欠かないが、紙数にも限りがあるので、ここでは平安貴族文化に与えた朝鮮半島文字文化の影響の一こまを紹介することにしたい。 平安時代の日本文学を代表する物語として『源氏物語』がある。これはもちろん紫式部による創作であるが、そこには当時の宮中の様子が豊かに描き出されている。源氏物語 全54帖のうちの32番目梅枝巻では光源氏の一人娘である明石の姫君の着掌(女子の成年儀礼)、そして東宮(皇太子)への輿入れの準備の様子が描かれる。婚礼調度の一つとして準備される草紙の書写を諸方面に依頼するために、光源氏は最高級の墨や筆、そして紙を選んだ。そして「高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしき」として、息子の宰相中将(夕霧)や紫上の父式部卿宮の子息である兵衛督、内大臣の子息である頭中将(柏木)ら青年貴族に、葦手(水草など絵の中に文字を書き込んだもの)や歌絵を思い思いに描くよう命じる。朝鮮半島の薄くて優美な紙を渡したということであろう。 同じ巻のなかでは「唐の紙」と「高麗の紙」「ここの紙屋の色紙」とがそれに記された書体とともに対比的に記されている。それによれば、「唐の紙」はこわばっている堅い紙であり、やや硬めで一字一字の独立性の高い草書体を記すのがふさわしかった。これに対し「高麗の紙」はきめが細かくやわらかな雰囲気で、色は派手ではなく優美な感があり、おっとりした連綿体の仮名を整えて心を配って記してあるのが、たとえようもなくすばらしいという。 さらに「ここ(日本)の紙屋の色紙」は色合いが華やかで、自由闊達な草書体を筆にまかせて乱れ書いたのが、見どころ限りないという。なお、『源氏物語』の明石巻では「高麗の胡桃色の紙」も登場する。 東アジア世界において紙は交易品の一つであった。豊富な原材料を背景とした質の高い和紙は、中国や朝鮮半島でも高い評価を受けていたが、一方で、日本にも中国や朝鮮半島から紙が輸入され、記す内容に応じた使い分けがなされていたのである。「漢字文化圏」への惚れこみについては、「漢字文化圏の成り立ちについて」でも、述べているので、ご参照あれ♪『古代東アジアと文字文化』1
2016.05.18
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図書館で『古代東アジアと文字文化』という本を手にしたが・・・・大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。【古代東アジアと文字文化】小倉慈司著、同成社、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国で生まれた漢字は、どのように東アジア世界に広がり受容されていったのか。文字文化伝播のありようを、政治や呪術、食文化など多様な切り口から描き出す。【目次】漢字文化と渡来人ー倭国の漢字文化の担い手を探る/中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア/古代韓国の木簡文化と日本木簡の起源/古代の「村」は生きている/文字がつなぐ古代東アジアの宗教と呪術/正倉院文書の世界ー公文と帳簿/沈没船木簡からみる高麗の社会と文化/資料からみた日本列島と朝鮮半島のつながり<読む前の大使寸評>大使積年の研究テーマといえば聞えはいいが、関心事といえるのが「漢字文化圏」でおま♪・・・ということで借りたのです。rakuten古代東アジアと文字文化漢字伝来あたりを見てみましょう。<百済よりもたらされた「竜編」とは>よりp170~173 4世紀後半ないし5世紀初頭の時期に百済からもたらされた書籍について、『古事記』には「論語」「千字文」と記されている。 「論語」は孔子の言行録であり、「千字文」とは中国南朝梁の武帝が6世紀前半に周興嗣に作らせた漢字学習書で、異なった漢字1000字を用いて作られた韻文である。想定される伝承の時期と異なるので、実際に『千字文』が伝えられたわけではなく、漢字入門書が伝来した(と想定される)ことによる後世の脚色であろう。 『千字文』以前の漢字学習書としては、前漢の司馬相如作『凡将篇』や史遊作『急就篇』、秦の李斯作『蒼ケツ篇』などを想定する説があり、また周興嗣作の『千字文』とは別の『千字文』があったとする説もある(大島庄二『漢字伝来』岩波新書)。 さて、このときに伝えられた書籍はどのような形をしたものであったと考えられるであろうか。現在、私たちが書物を利用する際の一般的形態である冊子の形は、東アジアでは8世紀頃に始まると考えられている。それ以前は巻子本(巻物)の形をとるのが普通であった。王仁がもたらした典籍も巻子本であったのであろうか。 4世紀後半の時期には中国では既に紙が主要な書写材料として普及していたのであるから、そう考えるのが自然であるようにも思える。しかし日本列島への漢字文化が百済を経由してもたらされたものであるということを踏まえるならば、百済における紙の使用状況を検討する必要があるであろう。 残念ながら百済も含めた4世紀段階の朝鮮半島で、どの程度紙が用いられていたは、現在のところ明らかではない。そこで別の観点からこの問題を考えてみたい。 8世紀後半に日本で最初に編纂された漢詩集『懐風藻』の序文には、冒頭に以下のようなことが記されている(原漢文)【現代語訳】はるか昔の先賢のことばを聞き、遠い昔の書物を見ると、高千穂の峰に天孫が降臨し、神武天皇が櫃原に建国したころには、まだ国土が創成されたばかりで、文化や制度は作られていなかった。神功皇后が征討し、応神天皇が即位するに及んで、百済が入朝して馬小屋に「竜編」を開くようになり、高句麗に国書を送って「烏冊」に文字を記してきた。王仁が軽島(応神天皇の宮)において知識を与え、王辰爾が訳田(敏達天皇の宮)で教えを広めた。それによって人々が孔子の教え、すなわち儒学を学ぶようになったのである。 日本への学問伝来の歴史が語られているが、そのなかで応神天皇の代に王仁の渡来が語られている。それによれば、百済より馬小屋に「竜編」が開かれ、王仁が知識を広めたという。これはもちろん『日本書紀』『古事記』の伝承を踏まえて記されたものであるが、ここで興味深いのは、王仁がもたらした典籍が「竜編」と表現されていることである。図2:柵書の模型 この「竜編」は木簡もしくは竹簡を紐で結んで束ねた柵書(図2)の比喩として用いられた表現と見てよいと思われる。すなわち、あくまでも『懐風藻』編者の想像なのであろうが、編者の意識としては、阿直伎や王仁がもたらした経書が冊書であってもおかしくはなかったのである。 典籍と同時に紙が伝来した可能性ももちろん考えられるが、たとえそうであったとしても、すぐに日本列島内で製紙がなされるようになったわけではあるまい。少なくとも日本列島に典籍が伝来したばかりの段階では、冊書も併用されていたと考えるのが自然であろう。
2016.05.18
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図書館で内田樹著『街場の読書論』という本を手にしたが・・・・内田先生の説く読書論なら、読むしかないでしょう。今までこの本を見落としていたのが、大使の手落ちでおます。【街場の読書論】内田樹著、太田出版、2012年刊<「BOOK」データベース>より本はなぜ必要か。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか。21世紀とその先を生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる最強読書エッセイ。<読む前の大使寸評>内田先生の説く読書論なら、読むしかないでしょう。今までこの本を見落としていたのが、大使の手落ちでおます。rakuten街場の読書論内田先生が中国人に対して、日本人の特性を語っているので見てみましょう。<『日本辺境論』中国語版序文>よりp250~252 地理学的・地政学的「辺境」に位置づけられたことが日本人の特殊性を深く決定したというのが本書の主張です(これまで多くの思想家が同じことを書いています。本書はそのような先行研究のダイジェストでもあります)。 中華皇帝が世界の中心におり、文明の精華はここに集中しており、「王化の光り」が広がり、その光量が減じてゆくにつれ、四囲の住民はしだいに禽獣に近い「化外の民」になってゆく・・・というのが華夷秩序のコスモロジーです。 この同心円的な宇宙観は中国人だけでなく、インドシナ半島や朝鮮半島や日本列島の住民によっても久しく共有されていました。日本列島住民たちの民族的アイデンティティーにはこの辺境民性が深く刻み込まれています。 その際だった特徴は「自分たちには制度文物をゼロから創造する能力がない(それは外部から到来する)」という無能の自覚です。「無能の自覚」というと否定的なニュアンスの強い言い方になりますが、逆から言えばこれは「学ぶことに対する激しい意欲」を意味します。「私は知りません。教えてください」という言葉を日本人ほど心理的抵抗なしに口にできる国民はあまりいないと思います(とりあえずフランスやアメリカにはそういうことを簡単に口にする人はあまりいませんでした。たぶん中国にも)。 間違いなく日本人は「学ぶ」ことについては一種の民族的才能を賦与されています(それが「創造することができない」ことの代価であるとしても、すぐれた能力であることに代わりはありません)。 イノヴェーションは苦手だが、学習し、摸倣し、改良することが日本人は得意です。その最高傑作が漢字という表意文字と「かな」という表音文字を併用する日本語というハイブリッド言語です。 文字を読むとき、図像処理と音声処理を脳内で同時に行うという解剖学的曲芸を演じているのは、たぶん地上にもう日本語話者しか残っていません。その独特な脳の使い方がどのような特異な文化を創り出すことになったのか・・・・これについては本書でかなり長い紙数を割いて論じていますので、ぜひそちらをお読みください。 私がこの本を書いたときに読者として想定していたのは、実は日本人ではなく、アジアの隣国の人々(中国人、韓国人、ベトナム人などなど)でした。日本人なら「そんなこと、言われなくても知っているよ」というようなことをくどくど書いたのは、外国の読者に理解してほしかったからです。 でも、実はそういうスタンスで日本人論を書く人というのは、ほとんどいないのです。日本人の書く日本人論は徹底的に「国内向き」です。「事情がよくわからない外国の人」に日本および日本人について説明するためのものではありません。日本人を罵倒したり、叱咤したり、激励したりして、「日本人に何かをさせる」という実践的な目的のために書かれているわけですから、読んでほしい相手は日本人だけです。 そういう本ももちろんあってよいとは思うのです。でも、それだけでは隣国の人たちの「日本人はどうしてあのような『理解しがたい』行動をするのであろう?」という疑問にはいつまでたっても答えることができません。ときどき、外国の方たちのための「はい、では、ご説明しましょう」というタイプの日本人論が書かれてもよろしいのではないかと思って、この本を書きました。中国人に対して、内田先生が親身になって助言するスタンスが見られますが・・・・でもね、中国に関しては、いわゆる「早過ぎた文明」との感が、拭えない大使でおます。
2016.05.17
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<アヒル(レベル4)との闘い34>大使は、日々、コンピュータ棋士アヒル(レベル4)との死闘を繰り広げているのだが・・・今のところ6:4くらいの割合で優勢であり、大使のサド感覚はご機嫌麗しいのでおます♪アヒル危うし2016-5-19 ahiru-lv40に対して314目で31.5目勝ち\(^o^)/本日の闘いに関して審判のだめ子が診断してくれているので、見てみましょう。だめ子 の診断より<変な癖はないかな? かんたん棋譜診断>・かたまり癖:もんだいなし。・はしっこ癖:もんだいなし。・ノビすぎ癖:もんだいなし。・キリすぎ癖:もんだいなし。 ・トリすぎ癖:もんだいなし。・きゆくつ癖:もんだいなし。・ひかえめ癖:もんだいなし。・よくばり癖:もんだいなし。↑だめ子 の診断です。誤診があったらごめんなさい。 アヒル(レベル4)は淡々と打っちゃって・・・・もっと、ねばってくれよな~♪アヒル(レベル4)との闘いで思うのだが・・・とにかく、大使の無茶な打ちかたに付き合ってくれる我慢強い棋士である。アヒル(レベル4)をいたぶるような打ち方は、確実に大使の手筋を悪くしているとは思うのだが・・・ま、いいか♪アヒル(レベル4)との闘い31きのあ囲碁スタート画面
2016.05.16
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図書館で『しなやかな日本知』という本を手にしたが…パラパラとめくってみると、やたらと中華文明との対比があって、ナショナリズムをくすぐるわけです。東シナ海や南シナ海の波高い昨今だから、こういう本の出番ではないかと思ったわけでおま♪【しなやかな日本知】中西進著、ウェッジ、2006年刊<「BOOK」データベース>より日本には多くの創意の賢者たちがいた、和の憲法をつくった聖徳太子、日本のダ・ヴィンチ平賀源内、通貨単位に「円」を説いた大隈重信、小学唱歌をつくった伊沢修二ら、しなやかな日本知によって、和の国家を築いてきた日本人の創意の足跡をたどる。【目次】聖徳太子の「和」の宣言/仏身と化する霊木/信仰を生かした古代の首都/ジャパンとよばれるうるし/筆に命を与える/変容させた曼荼羅/草も木も仏になる/外国語を取り込む工夫/独特の漢字の創造/安土城のみごとな着想〔ほか〕<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、やたらと中華文明との対比があって、ナショナリズムをくすぐるわけです。rakutenしなやかな日本知端午の節句と鐘軌との関係が述べられているので、見てみましょう。鐘軌さんp140~165 <尚武の思想に統一された飾り物>より 幟にしてもそうだが、とくに吹流しは風を利用した造作物だから、風塵の戦場にあっては、さぞ美しかっただろう。風のない時の幟や吹流しはみすぼらしい。反対に風が強いほど、彼らはみごとだ。この強風とはためきが、戦場の武士をいやが上にも鼓舞したことだろう。 吹流しには矢車のつけられることがある。これも強風によって目まぐるしく廻り、カラカラと音を立てたであろう。 戦場では鏑矢といって、矢尻に穴をあけた矢が用いられた。空気が穴をとおり、はげしい音を立てる。こうした空気や風の利用によっても、士気はいっそう高まる。 また端午の節句の飾り物には、鐘軌が欠かせない。鐘軌は中国、唐の玄宗皇帝の夢に出て来た人だというから、はなはだ頼りないが、疫病の鬼を退治したというのは、ありがたい。しかも容貌、風姿がすごい。顔のまわりをめぐって毛むくじゃら、ぎょろ目をむいて肩をいからせた巨漢である。これもまた尚武にも、悪魔よけにも役立つだろう。 じつはわたしの子どものころに、親が座敷に飾ってくれた五月人形の中にも、ショーキさまがいらした。そもそも端午の節句が魔除けに発したことはすでに述べたが、その性格はこうして現代まで厳然と守られ、その一翼を担って鐘軌も登場することになった。 もちろん端午の魔除けは、尚武の元となった菖蒲が主役だ。この匂いのきつい植物が疫病をしりぞけ、人間を健康にするという信仰はいろいろとこの節句に顔を出す。 家の軒には菖蒲をさした。節分の日の柊と同じだ。そして人びとは菖蒲酒を飲んだ。わたしの経験では、端午の日は必ず菖蒲湯に入った・・・父の句に「菖蒲湯や この子近ごろ 痩せて見ゆ」という句がある。「この子」はわたし。私事で恐縮です・・・。 菖蒲は子どもが束にして地面を打ったらしい。音の大きさをくらべる遊びだとされるが、おそらく土地の悪霊を退治する動作だっただろう。音が大きいほど、退治力は大きいはずだから。 中国に「撃壌の歌」というものがある。子どもが大地を撃ちながら太平を謳歌する歌だというから、それの流れを汲む動作が子どもの遊びとして残ったものらしい。太平の謳歌とは、悪魔の退散に他ならない。 この他に子どもは印地(あるいは印地打ち)という遊びをする。要するに石を投げ合って勝負するおだから、一昔前のことばでいえば戦争ごっこだ。 しかしこの5月5日の印地の遊びも、もとは正月に大人も参加して、その年の収穫の吉凶を占ったものだというから、印地も、占いや祈願が子どもの遊びとして残るパターンの一つだろう。 もちろん、戦争ごっこが端午の遊びに移行した理由は、この日が菖蒲=尚武の日だからで、以上のこの日の飾り物や行事は、どの一つをとっても魔除けや勝負という、戦いの意味をもつ点で一致する。 みごとに端午の節句は、尚武という武士の思想によって意義づけられているといえる。おお 端午の節句は、印地打ちや戦争ごっこと関係があるのか・・・・たまたま『僕の叔父さん網野善彦』という本を平行して読んでいるのだが、中世の飛礫の話が出てきます。『僕の叔父さん網野善彦』
2016.05.16
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図書館で『僕の叔父さん網野善彦』という新書を手にしたが…おお 中沢新一の本ではないか♪ 最近読んだ『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。【僕の叔父さん網野善彦】中沢新一著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。【目次】第1章 『蒙古襲来』まで(アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン ほか)/第2章 アジールの側に立つ歴史学(『無縁・公界・楽』の頃/若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール ほか)/第3章 天皇制との格闘(コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日 ほか)/終章 別れの言葉<読む前の大使寸評>最近読んだ中沢さんの『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。rakuten僕の叔父さん網野善彦網野史学の誕生が、中沢さんの口から語られています。p52~54 <礫の再発見>より 昼間からはじまって夜遅くまで続いたその日の会話は、網野さんと父との関係に、新しい段階を画するものとなったようである。この日から二人の飛礫研究が開始された。父は私に未開の戦争がどうなっているのか、調べてほしいと頼んだ。私は図書室に行って、ニューギニア高地人のおこなう儀礼的な戦争の詳細な記録を調べたり、人類学者の書いた戦争論を翻訳して聞かせたりした。ものを遠くに飛ばすということは、人類の意識になにをもたらしただろうと問いかけてくるから、ヘーゲルの『精神現象学』をよく読んで、自己意識の外に飛び出そうとする、人間の根源的な欲望について父に語った。 名古屋に戻った網野さんからは、三日にあげず、ぶ厚い封書が矢継ぎ早に送られてきた。中には中世の古文書からの抜き書きが、びっしりと書き込まれていた。それらの記録は主に、洛中で飛礫を飛ばす不逞の輩が横行しているので、よろしく取り締まるようにという御触書だったり、飛礫を飛ばすことを専門とするごろつき集団のことを批判している貴族の日記からの抜粋だったり、大神社の神人が強訴をおこなうときに礫を飛ばしてそれが神意であると主張しているのにたいする人々の驚きを伝える文書だとか、まあつぎからつぎへとよくこんなに調べ上げるものだとあきれるぐらいの気合いの入れ方で、そうした手紙の末尾にはかならず「兄さん、この問題はとても大事なことですから、ぜひ早く本にまとめてください。出版社の心配をする必要はありません。私がすぐに見つけます」と書かれていた。 あの会話をきっかけとして、網野さんの思考の内部で激烈な変化が起こっているのが、私にもわかった。東京大学史学科に出した卒業論文のテーマに選んだ、若狭太良荘の荘園史の克明な研究にも、すでに悪党や職人の存在が見え隠れしていた。 常民文化研究所に入って、漁業史の資料の研究をしているときにも、悪党や差別された人々の実態にたいする、深い関心が一貫していた。名古屋大学時代には、その中から「非農業民」という新しい概念が、力強く浮上してきた。そうした関心のすべてを、強力に統一する思想の核心部分が、今や沸騰する思考の中で明確な形をとりはじめていた。 網野さんは歴史に真実の転換をもたらすものの本質を、ようやく探りあてることができたという、たしかな実感をつかんでいるように見えた。常識をくつがえす視点に立ったまったく新しい中世像が、網野さんの前に明瞭な姿をあらわそうとしていた。この手応えをもって網野さんは、依頼されたまま長らく進行が難渋していた鎌倉時代の歴史書を、一気に書き上げようと決意した。 中世の飛礫をめぐる網野さん自身の発見が、そこでは重要な役割を演ずることになるだろう。しかしそこで律儀な網野さんは、自分の思考に最初に火をつけてくれた人を立てるために、自分の本よりも先に父が飛礫についての研究をまとめて、出版しておいてくれることを望んだのである。 「そう言ってくれるのはうれしいが、網野君、ぼくはものを書くのは君みたいにすらすらできないのだぞ。しがない田舎者なんだぞ。まああせらないで、待っていてくれないかい。それよりもぼくのことなどに遠慮しないで、まず君がそのことを書くべきだよ。きっと革命的な本ができるだろう。それを読んで楽しむほうが、ぼくにはふさわしい」(中沢厚の著作『つぶて』はその後1981年、網野さんの尽力によって出版された) そう説明された網野さんは、その後1973年の夏休みを費やして、『蒙古襲来』の執筆に取り組むことになる。「この書を書いた年の名古屋の夏は暑かった。まだ、冷房のなかった四畳半の狭い部屋で、参照すべき書物を探す頭からの汗が、たびたびしたたり落ち、原稿用紙を汚した」。そうやって書き上げられたこの書をもって、網野史学が誕生する。『東方的』4『東方的』3『東方的』2『東方的』1
2016.05.15
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図書館で『僕の叔父さん網野善彦』という新書を手にしたが…おお 中沢新一の本ではないか♪ 最近読んだ『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。【僕の叔父さん網野善彦】中沢新一著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。【目次】第1章 『蒙古襲来』まで(アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン ほか)/第2章 アジールの側に立つ歴史学(『無縁・公界・楽』の頃/若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール ほか)/第3章 天皇制との格闘(コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日 ほか)/終章 別れの言葉<読む前の大使寸評>最近読んだ中沢さんの『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。rakuten僕の叔父さん網野善彦中沢さんと網野善彦の出会いあたりが語られています。p10~14 <アマルコルド(私は思い出す)>より 網野善彦は私の叔父にあたる人であった。正確に言うと、私の父親であった中沢厚の妹にあたる真知子叔母の結婚した相手が、当時はまだ駆け出しの歴史学者だった網野さんだったのである。二人は渋沢敬三の主催していた常民文化研究所で知り合ったのだ、と聞かされていた。 「レンアイケッコン」という言葉が、何度もみんなの口から出てきていた。その言葉が口にされるたびに、あたりに甘い香りが漂ってくるのを、まだ幼い私でも感じることができた。 祖父が早く亡くなったしまっていたために、父の兄弟たちは真知子叔母のことを父親がわりになって、かわいがっていた。そのかわいい妹が、少し遅咲きだったが結婚するのである。とりわけ私の父などは民俗学の研究をしていたから、常民文化研究所の動向には並々ならぬ関心を寄せていて、そこの仕事のお手伝いに入った妹が、同じ山梨県の出身で、中世の荘園や漁業史の古文書に埋もれながら研究生活を送っている網野さんと結ばれたことが、よほどうれしかったとみえて、二人がはじめて山梨の実家に挨拶にやってくる日の朝などは、めずらしく私におめかしをさせたあと、いそいそと一人で駅へ迎えに出かけていった。 私はといえば、さわやかな初夏の朝なのに、気分はまったく沈んでいた。あれは1955年の5月のことだったから、私はもうすぐ5歳だった。ひどく人見知りをする性格で、退陣恐怖症の気味もあった。他人が自分に視線を送っているのに気づくと、もうそれだけで頭に血がのぼって、顔が真っ赤になってしまうのである。どちらかというと、一人で遊んでいるほうが好きだった。だから初対面の人などはまっぴらごめんな気持ちだった。 それなのに、私は東京のいとこのお古のビロードの上着を着せられて、玄関先に座って、叔母さんの結婚相手を笑顔で迎えなければならないのだ。祖母たちは、先方は井ノ上村の網野銀行のご子息で、とても上品な方なのである、だからいつものような品の悪いおちゃらかしを言うものではな、ととくに私には厳重に言い含めていた。まったくこんな気持ちのいい朝に、迷惑なお客さまだこと。私は内心むくれていた。 30分ほどして、父親が上機嫌で戻ってきた。そのあとから、ちょっと恥ずかしそうにしながら、叔母が入ってきた。それから大きな黒いかばんを手に提げた、異様に背の高い若い男の人が、少し緊張した顔つきをしながら入ってきた。まずいことにその瞬間、私はその男の人とばっちり視線が合ってしまったのだ。しかい、不思議なことに私は狼狽して真っ赤になったりしなかった。それよりも、その男の人の大きいことにびっくりしてしまったのである。 私は挨拶もそこそこに、急いで母親の背中に隠れて、その耳元にこうささやいた。 「あの人はアメリカ人?」それを聞いてみんなが笑った。 「こちらが網野さんよ」と叔母から紹介されたその人は、背丈が立派であるばかりではなく、とても鼻が高く、ハンサムだった。だから私はてっきりアメリカ兵だと思ってしまったのである。その頃はまだ、ジープに乗って田舎道を走り抜けていくアメリカ兵の姿を見かけることがときどきあった。 初対面にもかかわらず、網野さんと私はすぐに仲よしになった。深い井戸の底から響いてくるような上品な声も好きだったし、大きな目玉をギョロギョロさせながら、子供たちの遊びを興味深げに眺めている、優しい姿も好きだった。年上の姉たちは、「アミノ酸、アミノ酸」と言っては、げらげら笑っていた。 (中略) この最初の出会いの日から、私と網野さんは、人類学で言うところの「叔父ー甥」のあいだに形成されるべき、典型的な「冗談関係」を取り結ぶことになったわけである。この関係の中からは、権威の押しつけや義務や強制は発生しにくいというのが、人類学の法則だ。そして、精神の自由なつながりの中から、重要な価値の伝達されることがしばしばおこる。こうしてそれ以来40数年ものあいだ、私たちのあいだにはなによりも自由で、いっさいの強制がない、友愛のこもった関係が持続することになった。『僕の叔父さん網野善彦』1『東方的』4『東方的』3『東方的』2『東方的』1
2016.05.15
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「パトリオット」でしょうか♪<市立図書館>・しなやかな日本知・原風景のなかへ・越境者の政治史<大学図書館>・朝鮮奥地紀行1・僕の叔父さん網野善彦図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【しなやかな日本知】中西進著、ウェッジ、2006年刊<「BOOK」データベース>より日本には多くの創意の賢者たちがいた、和の憲法をつくった聖徳太子、日本のダ・ヴィンチ平賀源内、通貨単位に「円」を説いた大隈重信、小学唱歌をつくった伊沢修二ら、しなやかな日本知によって、和の国家を築いてきた日本人の創意の足跡をたどる。【目次】聖徳太子の「和」の宣言/仏身と化する霊木/信仰を生かした古代の首都/ジャパンとよばれるうるし/筆に命を与える/変容させた曼荼羅/草も木も仏になる/外国語を取り込む工夫/独特の漢字の創造/安土城のみごとな着想〔ほか〕<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、やたらと中華文明との対比があって、ナショナリズムをくすぐるわけです。rakutenしなやかな日本知しなやかな日本知byドングリ【原風景のなかへ】安野光雅著、山川出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より大地の原形によりかかり、住処や農地をかたちづくり原風景を求める旅にでた。むき出しの火山、氾濫する河川、山ふところに抱かれた神社、延々と連なる棚田など、自然は驚くべき早さで様相を変えていく。日本の原風景を求めて、列島各地を訪ね歩いた、初の画文集。<大使寸評>パラパラとめくってみると、絵になる場所とエッセイの組み合わせがいいではないか♪rakuten原風景のなかへ原風景のなかへbyドングリ【越境者の政治史】塩出浩之著、名古屋大学出版会 、2015年刊<「BOOK」データベース>より北海道・樺太へ、ハワイ・満洲・南北アメリカへ。大量に送り出された日本人移民たちの政治統合は、日本およびアジア太平洋地域の秩序にどのようなインパクトをもたらしたのか。移民史・政治史の盲点を克服し、一貫した視点で新たな全体像を描き出す。<読む前の大使寸評>吉岡桂子委員が選んだ、骨太の近現代史という感じでんな♪<図書館予約:(1/29予約、5/10受取)>rakuten越境者の政治史越境者の政治史byドングリ【朝鮮奥地紀行1】イザベラ・バード著、平凡社、1993年刊<「BOOK」データベース>より『日本奥地紀行』につづく、英国女性によるアジア紀行第二弾。甲申政変、日清戦争など混乱を極める十九世紀末朝鮮に深く分け入り、王室から民衆文化・風俗までつぶさに見聞。【目次】朝鮮の第一印象/首都の第一印象/行幸/ソウルの風物/装備-朝鮮のサンパン/漢江とその近辺/漢江とそこの住民/自然の美-早瀬/朝鮮の結婚の風習/朝鮮の驢馬-朝鮮の道路と宿屋/金剛山の僧院/長安寺から元山へ/切迫した戦争-済物浦の興奮/牛荘-満州/満州の大洪水-奉天/奉天/奉天の興奮/長崎-ウラジオストク<読む前の大使寸評>先日、読んだ『朝鮮旅行記』つながりで読んでみようと思ったわけでおま♪rakuten朝鮮奥地紀行1朝鮮奥地紀行1byドングリ【僕の叔父さん網野善彦】中沢新一著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。【目次】第1章 『蒙古襲来』まで(アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン ほか)/第2章 アジールの側に立つ歴史学(『無縁・公界・楽』の頃/若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール ほか)/第3章 天皇制との格闘(コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日 ほか)/終章 別れの言葉<読む前の大使寸評>最近読んだ中沢さんの『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。rakuten僕の叔父さん網野善彦僕の叔父さん網野善彦byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き146
2016.05.14
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図書館に予約していた『越境者の政治史』という本を手にしたのです。ゲッ ぶ厚くて重たい本ではないか・・・予約本でよくあるケースだけど、めげずに読んでみよう。【越境者の政治史】塩出浩之著、名古屋大学出版会 、2015年刊<「BOOK」データベース>より北海道・樺太へ、ハワイ・満洲・南北アメリカへ。大量に送り出された日本人移民たちの政治統合は、日本およびアジア太平洋地域の秩序にどのようなインパクトをもたらしたのか。移民史・政治史の盲点を克服し、一貫した視点で新たな全体像を描き出す。<読む前の大使寸評>ゲッ ぶ厚くて重たい本ではないか・・・予約本でよくあるケースだけど、めげずに読んでみよう。吉岡桂子委員が選んだ、骨太の近現代史という感じでんな♪<図書館予約:(1/29予約、5/10受取予定)>rakuten越境者の政治史昨今では中国富裕層の海外移住が問題視されているが、大使の関心は中国人の日本国籍取得となるわけで・・・そのあたりを見てみましょう。p104~106 <内地開放と国籍法>より 朝鮮人については、前述のように1876年以降認められていた内地雑居が継続されたのであるが、中国人については1894年、日清戦争の開戦とともに日清修好条規が効力を失っていた。中国人の入国は禁止され、日本国内の中国人は従来居住を許された地域(居留地、雑居地)での居住は認められたが、中国の領事裁判権が失われたため日本の裁判所の管轄下に置かれた。また府県知事には、中国人を国外に退去させる権限が与えられた(1894年、勅令137)。この規定は戦後も継続され、日本政府は1899年7月、条約国人の内地雑居を実施した直後にようやく中国人の処遇を改めた。 ただし内務省が中国人の居住地を従来の居留地・雑居地に限ろうとし、外務省がこれに反対した結果、中国人は日本国内における自由な居住や営業などを認められながら、労働者に限って従来の居留地・雑居地以外での許可なき居住を禁じられた(1899年、勅令352)。この制限は、中国人労働者の流入への強い警戒を反映したものである。 中国人労働者の移入規制は1920年前後に強化され、重大な政治・社会問題となった。日本政府は1918年の内務省令第1号(外国人入国の件)で、外国人に対する上陸禁止や退去命令を規定した。そして1921年以降、日本に渡航する中国人の無許可労働者が急増したのに対して、各地で入国禁止や国外退去が実施されたのである。 その理由には低廉な賃金の中国人労働者から日本人労働者を保護するという目的が挙げられ、実際に日本人労働者による中国人労働者の排斥運動も起こっていた。注目すべきことに、内務省が主導したこの中国人労働者規制に対して、在日中国人団体や国民党政府だけでなく外務省も、日本自身がアメリカの日本人移民排斥に抗議していることとの矛盾を指摘して撤回を求めた。また実際、1924年にアメリカで日本人移民の入国を全面的に禁止する移民法が制定されるにあたって、排日運動側は日本の中国人労働者規制を正当化に利用した。 しかし内務省は、以後も中国人労働者への規制政策を大きく修正することはなかった。なお朝鮮人は韓国併合以後、日本国籍保有者として日本本国に渡航できるようになったが、1919年以後は渡航証明書制度などによって規制され、渡航の自由はなかった。 以上に見た外国人の日本入国に関する制度に続いて、以下では日本国内の外国人の権利について論ずる。外国人の権利に関して、特に重要だったのは第一に帰化権、第二に土地その他の所有権である。第二の問題は項を改めて論ずることとし、本項の最後では帰化権問題について述べておこう。 内地開放の直前に国籍法が制定され(1899年、法律66)、日本に居住する外国人は内務大臣の許可があれば日本国籍を取得することが可能となった。帰化申請の条件には「品行端正」という漠然とした規定が設けられ、帰化した者(男性)は一部の高官や帝国議会議員などの公職に就くことを禁じられた。国籍法はこのように帰化権や帰化外国人のシティズンシップに一定の制限を加えただけでなく、日本国籍について父系血統主義の原則を定めた点で重要である。(中略) なお、この国籍法によって日本国籍に帰化した外国人は1900年から49年の間に309人、随伴して日本国籍を付与された家族は141人で、合わせて450人に過ぎなかった。309人のうち最多の168人は中国人で、その他は宣教師やさまざまな職業の欧米人だった。ウン 今のところ国籍法のガードが効いているようですね。当時の中国人労働者規制について、見てみましょう。p111 <第二章 おわりに>より 内地雑居論争において、居留地制度の危険を理由に内地雑居に賛成した田口卯吉は、欧米からのヒトや資本の流入自体は政治的支配につながらず、経済発展をもたらすという移民・植民認識を有していたが、「国土国民の区別」という論法が示すように、雑居尚早論者や制限雑居論者は欧米人の投資植民地化による日本の独立喪失を強く恐れていた。 その前提には、民族集団としての日本人が立憲政治の下で市民権を保有する「国民」としてとして日本の国家的独立や経済発展の主体となり、「国土」を専有すべきだという民族ナショナリズムがあった。またこの民族ナショナリズムは、「臣民」(日本国籍保有者)に含まれる北海道のアイヌや沖縄人、小笠原諸島の欧米・ハワイ系住民など属領の先住民を、「国民」たりうる存在として捉える視点を欠いたものであった。 内地雑居論争では、中国人の雑居も争点となった。当時は開港地で中国人商人が欧米人商人と並んで勢力を持った一方、ハワイやアメリカでは中国人労働者が排斥され、代わって日本人労働者が導入されつつあった。しかし中国人雑居への反対意見は、このようなヒトの移動への観察に根ざしつつも、それ以上に中国人に対する同族嫌悪的な蔑視によるものであり、内地開放後には実際に中国人労働者が規制対象となった。ここで、ややもするとナショナリズムに振れる大使を正す意味もあり・・・・朝日デジタルで吉岡桂子委員の書評を見てみましょう。越境者の政治史より<「移動」に焦点、「日本人」とは:吉岡桂子(本社編集委員)> 明治時代から第2次世界大戦の敗戦まで、「日本人」はどこへ移り住んだのか。そして、地域の秩序にどのような影響を与えたのか?。 北海道や樺太から、ハワイ、旧満州、朝鮮半島、台湾、南北アメリカと、移住先での国籍、市民権、参政権をめぐる動きと政治や民族意識のありようを包括的にとらえようとした本だ。 前提となる日本人を、北海道アイヌ、沖縄人、小笠原の欧米・ハワイ系住民、樺太アイヌと、明治維新のおりにすでに日本政府が統治の対象にしていた「大和人」に分けて、考察する。この分解が、日本の移民や植民を考えるときにも、見落としがちな日本のなかにある「民族」の視点を取り戻してくれる。 「日本人」が広く移住した時代は、日本が主権国家として国境を画定し、外国に触れ、富を外に求め、そして戦争とともにあった。 日本が支配した旧満州で日本人は、「在満日本人」だったのか、「日系満州国民」だったのか。ハワイで最大の民族集団だった日系人は、米国に対して中国や朝鮮半島からの移民とも連帯する東洋人系市民だったのか、それとも帝国日本の植民者だったのか。 敗戦後、日本や米国統治下の沖縄へ戻った「引き揚げ」を、戦勝者の連合国側は「送還」と呼んだ。人の動きに焦点をあてた問題意識が、領土の争奪とは異なる戦史を描くことにも通じている。 著者の関心の出発点がナショナリズムだったとするあとがきを読んでなるほど、と思った。いま日本列島に積みあがるナショナリズムと「大和人」の民族意識の関係など、現在の課題を考えるヒントが潜んでいる気がしたからだ。 対象に据えた民族と地域の変数の多さから、約500ページの大著となっている。ぐんぐん広がる領域を本書で着地させたあと、どこへ向かうのだろうか。読み終えてはや、次作が楽しみになった。
2016.05.13
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図書館でイザベラ・バードの『朝鮮奥地紀行1』という本を手にしたが…先日、読んだ『朝鮮旅行記』つながりで読んでみようと思ったわけでおま♪【朝鮮奥地紀行1】イザベラ・バード著、平凡社、1993年刊<「BOOK」データベース>より『日本奥地紀行』につづく、英国女性によるアジア紀行第二弾。甲申政変、日清戦争など混乱を極める十九世紀末朝鮮に深く分け入り、王室から民衆文化・風俗までつぶさに見聞。【目次】朝鮮の第一印象/首都の第一印象/行幸/ソウルの風物/装備-朝鮮のサンパン/漢江とその近辺/漢江とそこの住民/自然の美-早瀬/朝鮮の結婚の風習/朝鮮の驢馬-朝鮮の道路と宿屋/金剛山の僧院/長安寺から元山へ/切迫した戦争-済物浦の興奮/牛荘-満州/満州の大洪水-奉天/奉天/奉天の興奮/長崎-ウラジオストク<読む前の大使寸評>先日、読んだ『朝鮮旅行記』つながりで読んでみようと思ったわけでおま♪rakuten朝鮮奥地紀行1まさかバードさんが、日清戦争時に中国で取材していたとは・・・これはもう、ジャーナリストの領域なんですけどね。p328~332 <奉天の興奮>より 東学党は第8章で述べたように、数回朝鮮王軍を打ち負かした。随分ためらった後、朝鮮国王は、清国に救援を懇願した。清国はその救援懇願に敏速に応えて1894年6月7日、朝鮮に派兵する意向を日本に通告した。両国は、天津条約で、その時起こったような状況の下では、同じように行動できる同等の権利を有している。同じ日に、日本が同様な意向を清国に知らせた。清国の葉将軍は、三千名の兵士と共に牙山に上陸した。日本は大挙して済物浦とソウルを占領した。 清国の素早い処置に際し朝鮮は二度、「我が進貢国」と述べた。日本帝国政府は、朝鮮を決して清国の進貢国とは認めない、と応じた。 その時日本から、朝鮮行政のために日本と清国が共同して実行すべき三項目の提議が寄せられた。それは、(1)財政の管理運営の検討(2)中央ならびに地方公務員の選抜(3)国防ならびに国の平和保持のための訓練された軍隊の設立 であった。この提議に対し、清国は次のように返答した。つまり朝鮮の改革は朝鮮自体に任せるべきであり、日本軍の撤退はいかなる交渉にも先んじて行われなくてはならない、と。その提案は、日本によって拒絶された。日本は、7月14日、清国に通告した。日本は、清国軍のどのような増派も日本に対する挑戦的な行為とみなす、と。7月20日日本は、もしこの方針が採用されないならば「断固とした処置」が執られよう、と脅迫しながら朝鮮国王に、清国軍に朝鮮から立ち去るよう命令すべきである、と要求した。 一方、朝鮮国王の要請によって、条約締結国の諸代表が両国軍隊の同時撤退を提案して、平和維持に努めた。それに対して清国は同意した。しかし日本は、猶予を要求した。そして7月23日、日本は脅迫していた「断固とした処置」を執った。宮殿を襲撃して攻め落とし、事実上国王を捕虜にした。国王の父大院君は国王の要請で、しかし疑問の余地無く日本の教竣によって、名目上事態の舵を取った。 この後事態は、猛烈な速さで進展した。7月25日、イギリス国旗を翻して1200名の清国兵士を運んでいた運送船高シン号が日本の巡洋艦浪速に沈没させられ、多大な人命の損失を出した。4日後、日本は牙山の戦いに勝利して清国軍を追い散らした。7月30日、朝鮮は清国との約定の廃棄を通告した。それは、清国の宗主権否認を意味する。8月1日、戦争が宣言された。 これらの出来事の結果に就いて、さらには出来事自体に就いて、私はほとんど、いや、まるで知らないでいた。7月中頃まで、奉天は「その道の平静な進路」を保っていた。 満州では、清国のその他の所よりも外国人に対する敵意がはるかに少なかった。「鬼子」という名称でさえも、氏名の後に付ける尊称「・・・様」の丁重な敬称として使われているのかも知れない!かつてヨーロッパ女性が奉天市の内壁の門を潜り、その都市を徒歩で隈なく歩き回った事はなかった。しかし私は、数回だけ私の召使いと同行したが、邪魔される事なく歩き回れたばかりか、さらに本当に穏やかな通りで写真を撮る事もできた。(中略) 1894年8月1日に戦争が宣言された後、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に握ったので、朝鮮に派遣される清国軍の全てが満州を通って行進するよう余儀なくされた。吉林、チチハルその他の北部の緒都市から来た満州人兵士の訓練されていない大群が、毎日1千名の比率で奉天の至る所に注ぎ込まれた。 掴める物はなんでも手当たり次第に力ずくで奪って、彼らの南部行進を有名にした。宿泊代を支払わないで騒々しく宿屋を占拠した。それに抗議する宿屋の主人を殴り付けた。反キリスト教からではなく、反外国人感情からキリスト教徒の礼拝堂を壊した。外国人に対する憎しみは、奉天から40マイル離れた遼陽で絶頂に達した。その時満州人兵士たちはキリスト教徒の礼拝堂を壊し、スコットランドの宣教師ワイリー氏を殴り殺した後、一級の行政長官を「洋鬼子」に対する彼の友情の所為で襲った。 反外国人感情が奉天で急速に高まった。外国人の召使い、病院の助手さえも町なかで侮辱された。『朝鮮奥地紀行1』1『朝鮮旅行記』1『朝鮮旅行記』2
2016.05.12
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図書館でイザベラ・バードの『朝鮮奥地紀行1』という本を手にしたが…先日、読んだ『朝鮮旅行記』つながりで読んでみようと思ったわけでおま♪【朝鮮奥地紀行1】イザベラ・バード著、平凡社、1993年刊<「BOOK」データベース>より『日本奥地紀行』につづく、英国女性によるアジア紀行第二弾。甲申政変、日清戦争など混乱を極める十九世紀末朝鮮に深く分け入り、王室から民衆文化・風俗までつぶさに見聞。【目次】朝鮮の第一印象/首都の第一印象/行幸/ソウルの風物/装備-朝鮮のサンパン/漢江とその近辺/漢江とそこの住民/自然の美-早瀬/朝鮮の結婚の風習/朝鮮の驢馬-朝鮮の道路と宿屋/金剛山の僧院/長安寺から元山へ/切迫した戦争-済物浦の興奮/牛荘-満州/満州の大洪水-奉天/奉天/奉天の興奮/長崎-ウラジオストク<読む前の大使寸評>先日、読んだ『朝鮮旅行記』つながりで読んでみようと思ったわけでおま♪rakuten朝鮮奥地紀行1日本軍による東学党鎮圧の頃の済物浦(現在の仁川)が、バードによってレポートされています。p285~291 <切迫した戦争―済物浦の興奮>より 私は長い内陸旅行の間、一般社会の出来事に就いてまったく何も聞いていなかった。わずかに東学党(反逆者)と王軍の間の衝突が拡大している、という噂を2,3聞いただけであった。元山での流言の雰囲気はやや刺激的なものであった。けれども私はすでに朝鮮に十分永く居たので、その種の雰囲気の濃い物語に余り重要性を付与しなかった。 ある日、東学党が大成功を収め、王軍からガットリング機関銃を奪った、と言われる。他日、東学党が粉砕され、その神秘的で至る所に現れる指導者は打ち首になった、と言われる。一方、私の出発前の最新の噂は、東学党が大部隊で釜山に行進中である、と言うものであった。 東学党の流布させた宣言が、腐敗した官僚と不忠の顧問に反対して立ち上がった、と表明する一方、王位に対する固い忠義を公言している事から判断して、その宣言は、信頼できるもののように思われた。 もし朝鮮のどこかに愛国心の鼓動があるとするならば、それは、これら農民の胸のなかにある。東学党の蜂起は、苛税か、さもなければ虐殺を免れるためになされたもののようで、その改革計画遂行の企画に限定されていた。外国の同情が若干東学党に寄せられた。なぜならば、失政の悪業はその極に達し、耐えがたい苛税に反対する尋常な農民蜂起よりも、大規模な武装した抗議に時が熟している、と考えられたからである。 ところで、元山で、まるでだらけた関心を持ってこれらの事が討論されていた丁度その時に、事態の確立された秩序に対する恐るべき脅威が具体化され、日ならずして、東学党の影を薄くするよう運命づけられ、世界の耳目が、この取るに足らない半島に集中される事となった。 6月17日に汽船で元山を出発し、19日に釜山に到着した。私は日本の軍艦が港にいるのを見ても驚かなかった。その朝220名の日本軍兵士が肥後丸から上陸し、丘の上の仏閣を宿舎に宛てがわれた。反逆者たちは釜山とソウルの間の電信線を切断した、という。 釜山の少数のヨーロッパ人に不安は無かった。釜山に商業上の広大な植民地を持っている日本人は、その保護に相当の関心を示した。彼らが取った方針以上に当然なものは無いように見えた。日本軍が済物浦に上陸した、という噂はまったく無視された。 しかしながら21日の早朝、済物浦に到着すると、大変興奮した事態が示されていた。大艦隊―6隻の日本軍艦、アメリカの旗艦、2隻のフランス軍艦、1隻のロシア軍艦そして2隻の清国軍艦が外港に横たわっていた。 内港の限られている収容設備は、その能力の極限まで酷使されていた。日本の運搬船が軍隊、馬と軍事物資を汽艇で陸揚げしていた。平底帆船が、兵站部用に米その他の用品を荷揚げしていた。苦力が、それを海岸に積み重ねていた。海陸の動きには絶え間がなかった。海岸からの来客は興奮し、扇動し、びっくり仰天するようなどえらい噂を沢山もらした。しかし、大部分その真偽のほどは判らないものであるのを認めていた。 上陸してみて私は、あのひどく鈍かった港が変貌したのを見出した。通りには、秩序正しく行進する日本軍の足音が響いていた。まぐさを積んだ荷馬車の列が、道を塞いでいた。日本人居留地の大通りにある家が全て兵舎に変わり、兵隊でいっぱいになっていた。ライフル銃と装具が、バルコニーにきらりと光っていた。元気なくぼうっとしている、通りをぶらつくか、小さい丘に座り込んでいる朝鮮人の群集が、自分たちの港が外国人の野営場に変容するのを放心してじいっと見つめていた。 最初の軍隊の上陸からわずか2時間経過した時、私がロシアの若い将校と一緒に野営地を訪問した時、そこに莫座敷きの床と排水溝のある、それぞれ20人収容している、通風を良くした鐘形のテントの帆布の下に、1200名もの男たちが居た。食事は漆塗りの箱で出されていた。馬小屋が急造されていた。騎兵隊と多量の銃砲が、中央に置かれていた。丈が14手尺(1.42メートル)あり、役に立つ動物である。列をなして山のような大量の砲台を運ぶ馬どもが素晴らしい状態におかれ、最新のインド様式の荷鞍を装備していた。砲弾と榴散弾を二百名の男たちと百頭の馬で、日本領事館からソウルに向けて運搬中であった。(中略) その目的が何かは、朝鮮に居る日本国民に有効な保護を与える、という、尤もらしさの下にうまく隠されていた。日本国民は、東学党の成功で危険に曝されている、と言われていた。 南部朝鮮での反乱は、首都で多くの驚きを巻き起こした。そのような動きは、小規模であったけれども朝鮮半島では、毎年の春の出来事になっていた。(中略) しかし、私が済物浦に上陸する2,3日前の出来事が、地方騒乱の影を薄いものにした。地方騒乱は、ただ東学党が提供した、日本の干渉のための結構な口実になっただけである。それで私は、今や昔の歴史となったある出来事を、この小さい章で思い起こす事にした。 朝鮮にとって重大で、最高の外交的重要性をもつ質問は「日本の目的は何か?」「これは侵略ではないのか」「日本は敵としてあるいは友としてここに居るのか」というものであった。3ヶ月間の糧食を供給された6千名もの軍隊が上陸していた。15隻の日本郵船会社の汽船が輸送機関として行動するために、その定期航路から退けられていた。日本は、ソウル街道上の峠である山あいの道と、首都の川港である麻浦を銃砲を持つ相当数の軍隊で占拠し、樹木の生い茂っているソウルの南漢の丘に定着していた。その位置から、王宮と首都の双方を見下ろしていた。この動きは全て突如として敏速に、軍事的局面で最高の賞賛に値する、つまり障害無しに滞りなく遂行されたのである。まったく、報道記者さながらの内容であることに驚いた次第です。旅行記が彼女のオハコであると思っていたが、政治的、戦略的な視点も立派なものですね。『朝鮮旅行記』1『朝鮮旅行記』2
2016.05.12
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図書館で安野光雅著『原風景のなかへ』という本を手にしたが…パラパラとめくってみると、絵になる場所とエッセイの組み合わせがいいではないか♪安野光雅の画像より(この本の本文とは無関係です)安野光雅の絵は、司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵の頃から親しんでいたが、ええなあ♪この本のエッセイのうちで、「室津漁港」を見てみましょう。p26~27 <室津漁港>より ヨーロッパに、黒一色のペンで風景を描く手法の絵がある。ペンだから細工が細かく、旅行案内のイラストなどで見たことがあるかもしれない。「絵は画面全体を見渡しながら描く」と、決まったものではないが、こうした絵は端から順に描いていくらしい。インクの乾かないところをこする心配がない。 余談だが、大家の藤田嗣治も端から順に描いたことがある、と聞いた。描きながら全体の姿を見通しているのだろう。こんなことが言えるのは、ニュルンベルグの高台でそういうペン画を描いている人に会ったことがあるからで、一度試してみたいと思っていた。その人は貴婦人と見えた。目が合っても悪びれる風もなく、微かな会釈をしたが、風景から目をはなすことはなかった。 画用紙はケント紙のようだった。左手にインク瓶を持ち、左上から順に、屋根瓦、窓枠、煙突、電柱と描いていく。煉瓦造りの家は、煉瓦のひとつひとつまで描くが、その数まで勘定しているわけではない。下書きはしない。一度描いたら消せない。ここが大事なところで「目の前の風景よりも、描いている画のほうが問題なのである」。 描いたら消せない仕事をつづけて終わりに近づくのである。勢いのある達筆の絵は失敗することがあるのにくらべ、時間はかかるが必ず終わりに近づく。 描いているうちに、家並みにつじつまの合わぬ箇所がでてきそうなものだが、こだわっていては仕事がすすまない。それでも教会の塔や銅像など肝心なところは描き忘れないから、「ニュルンベルグのどこそこあたりから見た風景」と、わかる人には、わかる仕掛けになっている。 話は変わるが、週刊誌で『絵本 仮名手本忠臣蔵』を連載中、「城明け渡しの場」の赤穂城へいってみようと姫路から播磨灘界隈をまわったとき、室津漁港にたちよった。 たくさんの家や船がかたまった漁港はニュルンベルグの貴婦人風に描くといいかもしれぬと考えたが、黒インクは持っていなかった。そこで、消すことのできる鉛筆で、消さないおきてを決めて左から順に描いた。室津漁港は何一つ残さずに描きたくなる漁港だった。いつかペンで試してみたい。 「消さないきまり」はその気になってやってみる値打ちがある。お勧めしたい。ちなみに、この本の表紙の絵が「室津漁港」になっています。【原風景のなかへ】安野光雅著、山川出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より大地の原形によりかかり、住処や農地をかたちづくり原風景を求める旅にでた。むき出しの火山、氾濫する河川、山ふところに抱かれた神社、延々と連なる棚田など、自然は驚くべき早さで様相を変えていく。日本の原風景を求めて、列島各地を訪ね歩いた、初の画文集。<大使寸評>パラパラとめくってみると、絵になる場所とエッセイの組み合わせがいいではないか♪rakuten原風景のなかへ安野光雅美術館
2016.05.11
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図書館で『実りの庭』という本を手にしたが…パラパラとめくってみると、著者は海外での生活が長いコスモポリタンのようで・・・最近読んだヤマザキマリのエッセイに似てなくもないわけです♪【実りの庭】光野桃著、文藝春秋、2011年刊<「BOOK」データベース>より歳をかさねることで実る果実あり、味わうべき人生がある。親を看取り、家族がそれぞれ自立していく季節を迎えたとき、痛みと喜びを抱きつつ生きるにはー『実りを待つ季節』から10年、光野桃の最新エッセイ集。<読む前の大使寸評>著者について、まったく予備知識なしで、手当たりチョイスした本でおます。rakuten実りの庭仕事に明け暮れてきた著者は、母の家を手入れして、終の棲家にすることを決めたようです。p160~165 <終の棲家>より 道を掃いたり、立ち話をしながら、住人たちはそれとなく新参者を観察している。引越してきた最初の日だけ挨拶して、あとは隣人とすれ違うこともなかったマンション暮らしとは、なんと違うことだろう。 それまで住んでいた都会の暮らしは気が楽で好きだった。ましてや個人情報に神経質な時代である。マンションのポストにはほとんど名前が掲げられておらず、それをさみしいとも味気ないとも思わなかった。一方、この街はどこの家にも表札があり、昔から住人が代を重ねて住んでいる。どちらが正しいと言うこともないのだろうけれど、どうも戸惑い、その戸惑っている自分にまた戸惑う。ひととの距離感の取り方がわからなくなってくる。 国土のほとんどが土漠という中東の国に3年暮らして単身帰国したとき、皇居に程近い商業地に部屋を借り、窓から見える高層ビルの屋上に、飛行機のための小さく赤い明りが点滅しているのを目にして、やっと人の住み、働く場所に帰ってきた、と感慨無量だった。さあ、これからまたばりばり働くぞ、と高揚した。沖縄で長く仕事をしていた人が、土地に合わず、帰京してラッシュアワーが嬉しかった、としみじみ語ったという気持ちが痛いほどわかった。 その部屋で快適に4年ほど過ごしたが、諸々の事情で、母の家は売ることも貸すこともできず、ただ朽ち果てるままにしておくか、自分が住むしか方法がない、と結論が出たとき、大きな抵抗を感じないではいられなかった。 とにかく近隣に顔が割れているのが鬱陶しい。もう80代になっているはずのおばさまたちに「あの小さかったもも子ちゃん」と思われることが恥ずかしい。都心から離れた場所でフットワークが悪くなりそう。戸建てのセキュリティの悪さやメンテナンスの大変さは考えるだけでうんざり、外の人声がまる聞こえなのもいや、と友人にぼやきまくった。 なにより、何の不満もないマンションから引っ越したくなかったし、最初に見たとき呆然となりました、という大工さんの言葉どうり、築50年という古い家の持つさまざまな問題は改装中にも重くのしかかり、ほとほと疲れていたのである。 ところが引っ越したその日、ダンボールの林の中で眠ろうとしたとき、闇の中からひそやかな湿り気が漂ってきて、そのひんやりした指がそっと頬に触れた。なんだろう、と思う間もなく、トットトトトトトッと窓の外から聞えてきた。それが次第に早くなると、ザザーッと木々の葉を震わす雨音に変わり、土の匂いが立ち上がってきた。 ああ、雨。もう何年も感じたことのない感覚だった。アスファルトの都会では、雨の音も匂いも感じられない。それは、土の上にいることのリアルな感覚だった。 隙間風や建て付けの悪さは、反面、自然をより近くに感じさせてくれる。そしてなにより、わたし自身その感覚に飢え、強烈に欲していたのだということを、はっきり悟ったののだった。 引っ越しをして、住む家が変わると、自分の内面を知らず知らずのうちに覗き込まされる。そこでどんな暮らしをするのか、これからの時間をどう生きたいのか、考えがまとまらないうちは、カーテンひとつ選ぶことができない。 雨の夜を過ごしてから、俄然、この家に愛着が感じられるようになり、どんなふうにしつらえていこうかと考えたとき、好みが以前とまったく変わっていることに気づき、びっくりした。とにかく軽いのがいい。ものは必要最小限に。テーマとなる色は白、それも麻の白の質感で・・・・と思って、まさか白とは、と苦笑した。わたしの人生にもっともかかわりの少ない色だったからだ。 白いシャツを初めとして、女が一度は着たいと思うであろう白に、ご縁がなかった。時々、手にとって見ても、どうにも似合わず、イメージではないとあきらめていた。アネモネの紫やフィレンチェの夕焼けのようなピンク、カーテンならタフタの辛子色、というのがそれまでのインテリアの基調色であり、黒一色のワードローブの差し色でもあった。 それが今回は、白と木の色のものしいか置きたくない。歳を取ったことで、軽いもの、清々しいものをより求めるようになったということなのだろうか。 少しずつ部屋の中が整い、暮らしに慣れてくると、散歩をするゆとりも生まれてきた。ゴミ出しの日は、その足でお寺まで歩いていく。古い巨木を眺め、落ち葉の匂いをかぐ。老人たちがあとからあとからやってきては、散歩をしてまた去っていく。働くための街から、住むための街に移り、やっとその良さを味わいつつある。 しかし一方で、この環境に埋没してなるものか、という気持ちもある。 朝、家の前を掃く習慣は美しいが、まだ落ち着いてしまうには早い。そう思いながら、この家が終の棲家になるのかも・・・・と覚悟を決めている部分もないわけではない。(中略) この家が、本当に終の棲家になるかどうかはまだわからない。しかし、始末よく暮らし、いつ何があっても身一つで動けるようにしておきたい。 80歳の最後の最後まで、生きて、やりたいことが山ほどあり、その夢を持ったまま旅立っていった母が羨ましくもある反面、できる限りまわりに迷惑をかけずに終わりたい、と願うのは、介護をした者のトラウマだろうか。 ともあれ、この家に手を掛け、心を掛けしていこう、と決めたのだった。ウーン ヤマザキマリよりは繊細で、壊れやすい感性の人のようでんな。・・・というか、ヤマザキマリが規格外に図太いのかも。ヤマザキマリ著『望遠ニッポン見聞録』
2016.05.10
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<死ぬ気まんまん>図書館で『死ぬ気まんまん』という本を手にしたのです。佐野洋子さんが亡くなる1年くらい前に書かれたエッセイだから、このタイトルにすごみがあるわけです。大使の周りにも、死人が増える年頃でもあるわけで・・・・この本には、切実な関心があるわけでおます。【死ぬ気まんまん】佐野洋子著、光文社、2011年刊<「BOOK」データベース>より「あたし、まだいーっぱい言いたいことがあるのよ」元気に逝った佐野洋子が残した鮮烈なメッセージ。【目次】エッセー 死ぬ気まんまん/対談 佐野洋子×平井達夫(築地神経科クリニック理事長)/知らなかったー黄金の谷のホスピスで考えたこと/「旅先」の人ー佐野洋子の思い出(関川夏央)<読む前の大使寸評>大使の周りにも、死人が増える年頃でもあるわけで・・・・この本には、切実な関心があるわけでおます。rakuten死ぬ気まんまん洋子さんのエッセイを見てみましょう。p13~18 <死ぬ気まんまん>より ガンが再発して骨に転移した時、お医者は、死ぬまでに治療費と終末介護代含めて1千万円くらいだろうと言ってくれた。 ほぼ70歳くらいで、私は金がかからなくなるはずである。 私は抗ガン剤は拒否した。あの全く死んだと同じくらい気分の悪い1年は、そのため1年延命しても、気分の悪い1年の方が苦しいのである。もったいない。そうでなくても老人につき進むのは身障者につき進むことである。 70前後はちょうどよい年齢である。まだ何とか働け、まだ何とか自分で自分の始末はできる。 私はとてもいい子で来たにちがいない。神様も仏様もいるのである。そしてちゃんと私に目を留めてくれたのだ。 私はだらしなく、やるべきことをずるずるのばし、整理整頓が下手で、考えると頭の中の整理整頓が私の部屋のように散らかしっ放しだということがわかった。 父がよくどなっていた。「お前は、みそとくそが一緒か!!」 はい父ちゃん、私はみそとくそが一緒です。 それから父は夕飯の時、かならず訓辞をたれた。 「命と金は惜しむな」 父は命も惜しまず早死にして、母ちゃんは大変だった。 惜しむ金もないまま死んだ父はやっぱり、かわいそうである。 私は死んだ子を持ったことがないが、よくおいしいものを食べた母親が、あの子に食べさせたいと思って泪が出るときくが、私はおいしいものを食べると、ああ父に食べさせたいと思う。 親が早く死ぬのも悪いことばかりではない。 のびのび自由になれるのである。父が長生きしたら、今の自分があるかどうかわからない。私は大いなるファザコンである。死んだから、ファザコンは肥大するばかりである。だから私は命を惜しまない。金も惜しまない。 私は再発の告知を受けた日、病院の帰りに、家の近くの車屋に行った。 私は国粋主義者だから、絶対に外車に乗らなかった。中古の外車を買う奴が一番嫌いだった。 その車屋は外車屋だった。イングリッシュグリーンのジャガーがあった。私はそれを指さし、「それ下さい」と言って買った。 私は右翼の国粋主義者でも、イングリッシュグリーンのジャガーが一番美しいとずっと表面には出さずに思っていた。私の最後の物欲だった。 根が貧乏性の私は物欲がないのである。 食欲もないのである。 性欲もないのである。 もう物をふやしても困るのである。 もう男もこりごりである。70でこりごりと言うと笑われる。今からお前、男つくれるのか? はい、つくれません。 私はガンになっても驚かなかった。 二人に一人はガンである。 ガンだけ威張るな。もっと大変な病気はたくさんある。リューマチとか、進行性筋萎縮症とか、人工透析をずっとやらねばならぬ病気とか。 ガンは治る場合も大変多い。治らなければ死ねるのである。(中略) 私の再発箇所は左大腿部の付け根であったので、そこが痛い。 ガンになってすぐすっぱり煙草をやめる人がいるが、私は相変わらず、一日中スパスパ、人に本数を言えないほどエントツ状態である。 足が痛いので、初めはタクシーに乗っていた。病院に行くと点滴をする。月一回は二本する。4時間くらいかかるが、もちろん当然病院は禁煙だし、日本中あらゆるところが禁煙になったので、煙草をやめない人は人格が疑われるようになった。唯一タクシーは煙草が吸える空間だったから、私は点滴が終わると、何だか心理的にハァハァゼイゼイタクシーにかけこんで、ライターをにぎりしめた。 それが今年の1月から禁煙になった。 また神は私をご覧遊ばしていた。 私は左足が痛いが、右足は痛くない。今、車は右足しか用がないのである。 そうだ、自分で運転すればいいんだ。 それから、私はジャガーを運転してエントツに戻ることができた。 おまけにタクシー代が節約できた。70代のオババでも、ポンとジャガーを買うってか・・・・死ぬ気まんまんなら、それもありなんでしょうね。胃無しの大使も、なんだか元気が出てくるようなお話やでぇ♪
2016.05.09
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図書館で『朝鮮旅行記』という本を手にしたが…パラパラとめくってみると、ロシアの商人や軍人らが見た当時の朝・露・日関係が興味深いのです。大使が土地勘のある釜山~ソウル辺りの1885年状況を、この本で見てみましょう。p20~24 <ソウルから北朝鮮を経てポシェートに到る徒歩の旅日記>より わがは釜山で、主として木綿製品よりなる160トンの貨物を陸揚げし、70トンの銅塊を積み込んだ。銅塊は、同じ会社の汽船が元山から運搬してきたものである。は釜山に1日間停泊した。釜山を出航して三日目には済物浦(現在の仁川)着、その時、同港には数隻の軍艦(中国の軍艦2隻とコルベット艦1隻、英国の軍艦1隻、日本のコルベット艦1隻)が投錨していた。 済物浦では船舶が岸から約二露里離れて停泊する。干満時の潮位差がここでは28フィートもある。満潮時と干潮時は海流が非常に速くて6ウーゼル(時速6海里)にも達し、船舶と陸との連絡は困難を極める。停泊地は南に向けて開けている。湾内には中国と朝鮮のボートが無数に行き交い、漢江と河口との間を往復して貨物を運搬中である。 済物浦はもっぱら朝鮮人の住む中規模の町で、そこにある二つのホテルのうち、一つはドイツ人、今一つは日本人の所有である。ここでは中国人と日本人が貿易を一手に握っていて、三軒ある商店のうちで二軒は中国人、一軒は日本人の所有である。これらの商店では、上海や日本から輸入される商品、主として木綿製品が売られ、またヨーロッパ人のための乾物類も商っている。これらすべての商品に高値が付けられているのである。 済物浦には、現地税関勤務の役人である10人のヨーロッパ人が在住する。役人の一人はロシア人である。ここには英国、日本および中国が領事の資格で自らの代表を駐在させており、中国領事付きの警備隊には中国人兵士が務めている。 朝鮮人は牡牛の皮革、金鉱石、硫黄、銀塊といった朝鮮産品を放出する形で、中国人および日本人との間に物々交換を行っている。 済物浦から朝鮮の首都までは40露里の距離がある。交通手段は乗馬か輿で、馬を雇う費用はわれわれのお金に直すと2ルーブル50コペイカにもなる。道路の走り抜ける平坦で開けた土地には、満潮時に形成されるあまたの湖沼が点在する。これらの湖沼は夏季に腐敗臭を発するといわれる。引き潮になると岸辺が1露里にわたって干上がってしまい、ボートは乾いた路上に残される。 河床は軟泥土壌である。道路はその大部分が尾根および中規模の谷間を連ねて走っている。暖季の道路は、無数の轍が林立するので、非常に厄介である。首都まで10露里を残すところからは、朝鮮人がソウル川と称する漢江の河床を進まねばならない。 この川はひどく水位がさがっており、川の上を雪のようなものが運ばれていたが、これは砂であった。川は既に結氷いていたけれども、渡河地点では朝鮮人たちが氷を割り、ボートで渡してくれる。渡河料として20ケシないし30ケシを徴収。 1885年12月21日 40露里の距離を徒歩ならびに朝鮮馬に跨って10時間がかりで走破、ソウルに到着した。非常に寒くて、風が強かった。ソウルに着くや、私はともかく部屋を借りることを望んだ。パスポートを入手するまでの間、たとえ僅かでも南方諸州の方言を学ぶために、一時落ち着く場所が欲しかったのである。 釜山と済物浦で朝鮮人に接した時、私は彼らとわが国の南ウスリー地方および朝鮮の北方諸州に在住の朝鮮人との間に著しい方言差を認めた。アクセントに関する限り、南方諸州の語彙で北方諸州の言語と一致するものはほんの一握りに過ぎない。 ソウルにはホテルが1軒もなく、また朝鮮人はヨーロッパ人に部屋を貸さないばかりか、たとえ一時的にせよ自分の住居に入ることすら許さぬという事実が判明した。わが国のカ・イ・ウェーベル代理公使は親切にも、朝鮮を縦断してロシア国境に到るまでの自由通行を保証する、朝鮮政府発給のパスポートを彼が奔走して取り付けるまで、彼の家に止宿するよう勧められた。 ロシア領事館は、かつての某公爵の所有であったものが今は政府に没収されている朝鮮風の館に仮住まいである。話によると、来年にはわが領事館のために石造家屋が建設される予定という。そのための敷地は既に選定済みで、周囲の美観といい、また衛生的見地からもソウルの一等地にあり、夏が涼しい高台に立地し、汚い家屋には隣接しないとのことである。(中略) ソウルは約30万人の人口を擁し、深い盆地に立地している。町自体は漢江から5露里のところにあり、総延長がほとんど8露里に及ぶ石壁でぐるりと取り囲まれている。壁は高さが4サージェン、厚さ2サージェンに達する箇所もあり、六ヶ所で木造の門を構える。 門の笠木は各種野獣の鋳鉄像で装飾され、開き戸には、一対の青い梨と白い梨が円形に組み合わされたかのような、国旗を模した図柄が描かれている。 町の門は毎夕、日没とともに鐘の音と銃声が響く中を閉じられる。門が閉じられた後は、政府の許可を有する者を除いて、もはや何人といえども町を歩く権利を有さない。朝は日の出とともに、閉じられた時と同じ儀式を伴って門が開かれる。門の脇には衛兵が立ち、局刀よろしく木製の柄つきの鉄という格好の武具も立てられる。一見して、この武具はたいそう古いものとの印象を与える。 町の中ほどを、西北から南東へ貫いて小川(清渓川)が流れる。この川の水は、唯一肌着の洗濯だけに利用される。飲用ならびに炊事用の水は、小川の畔にあまた掘られた井戸から汲まれる。町の大路を繋ぐ形で川に架かる幾つかの堅牢な石橋は、どうやらかなり古い時代に建てられたようだ。 裕福でない住民の家屋は大抵が粘土壁で、外壁はそれぞれ独立に縄で角材に固定されている石塊で覆われている。家屋は内壁も外壁も粘土で仕上げてある。敷地は一様に石塀か潅木の垣根で囲まれている。家々の窓は内庭に面していて、街路に面するのはただ煙突と煙出しの孔だけである。竈の焚き口は屋内にあり、ここにはゴミや汚水の集積所も設けられる。 屋根は藁葺きと瓦葺きの双方がある。政府の建物および富裕な商人の館は石造もしくは木造建築で、瓦葺きの屋根には日本風の各種装飾が施される。以上が商人のヂョロトケヴィチの旅日記です。釜山港お次は役人のダデシュカリアニの視点です。p98~100 <朝鮮の現況(1885年)>より メレンドルフ氏については後で触れることとし、ここでは外国人に門戸を開いた朝鮮人が、自らの外国貿易の舞台に選んだ港湾を読者に紹介するのが当を得ていよう。かかる港湾とは、周知のように、釜山、済物浦、元山の三港である。 釜山は半島の南岸にあり、鹿島により海から防御された入江が釜山湾を形成している。湾内は非常に深く、広くて静かである。その湾岸には、2露里を隔てて二つの町が横たわり、その一つが朝鮮の釜山と、そして今一つは日本の釜山とそれぞれ呼ばれる。 外国人に開放されているのは、日本の釜山だけである。ここには今のところ、2000人ばかりの日本人のみが在住しているために、町も純粋に日本的性格を帯びている。日本領事が町長であって、警察も200名の兵士も彼の指揮下にある。釜山の日本人の許には、銀行、汽船会社の事務所、郵便局、長崎との電信(ケーブル)回線など、商人町に必要なものは全てが揃っている。ここには中国商店も英国商店もないのに、中国人は日本人に対する嫉妬から、また英国人は恐らく半島のこの海岸にロシアの影響が及ぶのを予防するために、いずれも自前の領事を置いているのである。 釜山から日本人が搬出するのは、主として生糸、去勢牛の皮革、昆布および各種魚類である。1883年度の釜山における貿易取引高は100万ドルで、1884年上半期には総額150,770ドルに上る朝鮮商品が釜山から輸出され、輸入されたのは20万ドル相当の外国商品であった。この6ヶ月間には、延べ重量で2302トンにも達する帆船119隻と、延べ重量で22305トンに上る蒸気船44隻がここに入港していた。 だが、このように明らかなる盛況にもかかわらず、釜山は大いなる将来性を期待できそうにない。この町は山々によって何となく半島から切り離されており、国の内陸部との交通も滞りがちである。ところで釜山からおよそ40露里のところでは、極めて豊かなる広大な渓谷を擁する洛東江が海へ注いでいる。権威筋の見解によると、この川の河口は、半島南部全体にとって主要な搬出地点になるべく運命づけられているという。というのも、川は広大な二州に隣接していて、遠くまで航行可能であり、しかも船舶に安全な停泊を保証する河口を有してもいるからである。 済物浦は、漢江が黄海に流入する地点から遠からず、フランス人が皇后(アンペルトリス)と揮名した入江の岸辺にある。1883年以前、ここは誰も住まず、誰も利用しない無住の地であった。しかしながら今年になって、半島の西海岸に一港を開放せよ、という日本人の執拗なる要求を容れた朝鮮政府は、ソウルからも遠からず、漢江の河口に位置する他ならぬこの無住の地を彼らに提供したのだった。 日本人はこの地の植民を急いだので、現在の済物浦は戸数80に達し、1000人の住民を擁する小集落である。新顔であるにもかかわらず、済物浦での貿易取引高は既に釜山を追い越している。 京畿道、江原道、平安道といった極めて豊かな三州の搬出港である済物浦は、掛値なしに朝鮮のマルセイユ、オデッサ、トリエステと称することができる。格別の意義をそれに付与するのは、漢江の河口における立地と首都への近接の事実である。というのも、首都ソウルは朝鮮の産業中心地であり、済物浦とソウルは素晴らしい交通路で結ばれているからである。 漢江を経由して両地の間をあらゆる船舶が往来できるほかに、さらに二本の素晴らしい道路も存在する。その一つは川の谷間を走る100朝鮮里の道で、今一つは山々を踏み越える80朝鮮里の近道である。済物浦には日本の商館のほかに二軒のドイツ商館もあるが、その重要さは、ドイツ政府がソウルにある総領事館のほかに、済物浦にも副領事館を持つことの必要を見出した事実に窺える。ドイツ副領事館のほかに、日本と中国の領事館もある。「序」の紹介が最後になったけど、編者チャガイによるイントロを見てみましょう。p11~15 <序(ゲ・デ・チャガイ)>より 1860年、中国との条約によりウスリー地方がロシアに併合された。朝鮮はロシア国家と境を接することとなった。 沿海州におけるロシアの植民が始まり、ここにはカザークたちが移住してきた。移住者の数はいや増しにふえて、新開地に入植していった。ロシアの農民の他に、地主である両班の圧迫に耐えかね、国境を越えて逃亡してくる何百人という朝鮮人農民も住みついた。 1867-1869年には、著名な旅行家のエヌ・エム・ブルジェヴァーリスキーがウスリー地方に滞在した。彼がロシア領内の朝鮮人村落を調査した折りは、既に1800人がそこで暮らしていた。 その当時、封建制朝鮮の政府は鎖国政策を堅持しており、外国人の入国を許さないばかりか、自国民には外国人との交際のみならず、国外移住も禁止していた。だが朝鮮政府の断固たる抗議にもかかわらず、極東の処女地開発をもくろむロシア当局は、朝鮮人移民を好意的に受け入れていた。既に1884年には、約9000人の朝鮮人がロシア領内に暮らしていた。 1876年、資本主義国日本は朝鮮政府に通商条約の調印を強要し、かくて朝鮮の鎖国には終止符が打たれた。間もなく、朝鮮にとって不平等である同様の通商条約が、米国・フランス・英国・ロシアおよびその他の資本主義国列強との間に締結された。朝鮮は魅力的な販売市場であり、また中国侵略のための格好の戦略拠点とも見なされたので、資本主義緒列強が競って触手を伸ばす重要目標の一つとなった。 当時の帝政政府は朝鮮の現状維持を必須と考えていた。この立場は何よりもまず、極東におけるツァーリズムの弱さによって説明され、その弱さゆえに、より積極的な帝国主義的政策を朝鮮に対して実行することができなかったのである。 朝鮮との通商条約をロシアが締結したのは、1884年のことであった。同時に外交関係が樹立され、またロシア人によるあまたの学術調査も実施されて、体系的な朝鮮研究が開始する。(中略) ロシアの旅行家たちを驚嘆させたものに、王室の奢侈と浪費、朝鮮貴族の寄生的生活がある。「朝鮮慣習法の基礎は収奪である・・・と、ダデシュカリアニは記していた・・・階級の階級に対する支配、奴隷制、民衆の無権利、権力の集中、朝鮮の社会秩序からは、権力がここでは民衆のためにあるのではなく、民衆は王や宮廷官吏にためにあるという印象を受ける」 これらの手記では、日本の植民者政策の暴露に対して多くの注意が払われている。民族的慣習を愚弄する以外のなにものでもない日本の「緒改革」について、また日本人が自らの権力を朝鮮に樹立せんがために用いた、各種の陰謀や荒っぽい実力行使について、ロシアの旅行家たちは憤りをこめて物語る。ウェーベり、カルネイエフ、アリフタンの手記には、日本資本が朝鮮経済に及ぼした破壊的影響を示す、興味深い情報が見出される。 支出増を賄うために、政府は税負担を大幅に増大させた。職人は、安価な工場製品を持ち込んだ日本商人との競争に敗れて、零落していった。地主は農民に対し、地代を現物納から貨幣による支払いへと切り替える動きをますます強めていく。ウン ええでぇ♪ こういう論旨が「客観的な歴史認識」とでもいうもんでしょうね。【朝鮮旅行記】ガリーナ・ダヴィドヴナ チャガイ編集、平凡社、1992年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末の開国まもない朝鮮を旅したロシア人による五件の踏査報告を収める。その内容は、朝鮮支配をもくろむ日本ほか列強諸国の動向や重大な政治事件から、恒常的貧困にあえぐ民衆の生活・文化にまで言及されており、当時の全体像を描き出した貴重な資料となっている。<読む前の大使寸評>フィールドワークのようでもあり、スパイのようでもあり・・・ロシアの商人や軍人らが見た当時の朝・露・日関係が興味深いのです。amazon朝鮮旅行記
2016.05.09
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図書館に予約していた『美麗島紀行』という本をゲットしたのです。世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪大使が在職時に台湾に数度出張したが、とにかく居心地のいい国でおました。【美麗島紀行】乃南アサ著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より人気作家・乃南アサが台湾各地をくまなく巡り、台湾と日本の深い関係性についてその歴史から思いを馳せる異色の台湾紀行。著者自らが撮影した、台湾各地の情緒あふれる写真とともに構成する。【目次】時空を超えて息づく島/夏場も時代も乗り越えた小碗の麺/牛に引かれて、ならぬ「牛舌餅」にひかれて/台中で聞く「にっぽんのうた」/道草して知る客家の味/過去と未来を背負う街・新竹/「お手植えの黒松」が見てきた歳月/宋文薫先生夫妻/淡水の夕暮れ/矛盾と摩擦の先にあるもの/日本統治時代の幕開けと終焉ー宜蘭/嘉南の大地を潤した日本人ー八田與一/「文創」が生み出すもの/三地門郷で聞く日本の歌/「帰れん港」と呼ばれた町・花蓮/出逢いと別れを繰り返す「雨港」-基隆/夕暮れの似合う街・台南ふたたび/手のひらに太陽を/「日本人だった」-台湾の老翁たちにとっての日本統治時代 <読む前の大使寸評>世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪対岸の大陸に厳しい態度をとっているのも好感が持てるわけで・・・とにかく、日本人旅行者にとって居心地のいい国である。<図書館予約:(2/19予約、4/26受取)>rakuten美麗島紀行大使が客家と聞けば、まずトウ小平、李登輝、リーカンユーが思い浮かぶわけで・・・聡明、反骨精神旺盛な人たちと、わりと好印象をもっているわけです。p59~62<道草して知る客家の味> さて、このMRT(台北の地下鉄網)に乗っていると、次の停車駅が女性の声で録音アナウンスされる。旅行者は少しでも駅名を聞き取り、発音の一つも覚えようと耳を澄ますものだが、実は最初はこれに戸惑った。「次は〇〇です」と何度か繰り返しているはずのアナウンスが毎回、違って聞えるからだ。 それもそのはず、一つの駅名を「国語(北京語)」「台湾語(ミンナン語)」「客家語」、そして最後に「英語」という順番でアナウンスしているのだった。中でも三つ目が「客家語」だということは現地の人から教わるまで分からなかった。 例えば「行天宮」という駅がある。台湾でも一、二と言われる人気のお寺・行天宮が近い駅だが、ごく乱暴にカタカナで発音を表記してしまうなら、北京語では「シンティエンゴン」、ミンナン語だと「ヒェンテェンキョン」、そして客家語になると「ハンテンコン」となるそうだ。台湾では多くの人が北京語と台湾語とを日常的に使い分けていることは承知していたが、ここに客家語が加わるとは思わなかった。大体、多くの日本人には客家という存在がよく分かっていない。 客家とはどういう人たちなのか。 台湾では人口のおよそ14パーセントを客家が占めている。この比率は第二次世界大戦後に蒋介石と共に中国大陸から渡ってきた「外省人」と呼ばれる漢民族の比率とほぼ同じだ。台湾の人口はおよそ二千三百四十万人(2014年6月現在)だから、およそ三百二十七万人といったところだろうか。 客家は、もともと黄河流域に暮らしていた漢民族の一種だという。それが長い歴史の間に何度となく繰り返されてきた戦乱により住処をうしなって、次第に南下するようになった。幾度も移動と定住を繰り返してきたことから「中国のロマ」などと呼ばれることもあり、現在は中国南部、海南島、台湾の他、東南アジアの華僑に多く、その総数は約千五百万人。「客」という文字は「他郷から来た移住者の意味で、土着民が区別していった語である」というから、言うなれば「よそ者」呼ばわりされたものを自分たちでも使うようになったということだろうか。 本来は中原の民として「正統派漢民族」の意識を抱いていたはずの人々が、どこに行っても先住者から「よそ者」扱いを受けて、ときに摩擦を起こし、その結果、幾度となく住まいを移さざるを得ず、さまよってきた歴史を経ると、どうなるか、客家人の特徴としては、 「(一)強い団結心(二)進取・尚武の精神(三)文化・伝統保持への自信(四)教育の重視(五)政治への高い指向性(六)女性の勤勉性」というものが挙げられるそうだ。また「」ともいう。 要するに自分たちの身を守るために強く結束して、「よそ者」だからと見下されないためにも勉学や労働などの努力を怠らず、時に激しい反骨精神を発揮しながら、自分たちの文化と伝統を誇りとして生き延びてきた人々、ということになるだろうか。 トウ小平、またそれぞれに孫文、蒋介石の妻となり財力と共に美貌でも有名だった宋慶齢・美齢姉妹、台湾出身者で初の台湾総督となった李登輝などが客家だという。台湾で暮らす客家も、やはり集中して居住しているそうだ。 「本当に、彼らはすごい団結心が強いですよ。そして勉強熱心だし頭もいいの。それからね」 台湾人の友人が、くすりと笑って声をひそめたことがある。 「ケチと言ったら悪いけど、ものすごく倹約家。絶対にものを捨てないの」 だからまずゴミが出ないのだという。食べ物についても、たとえば野菜が少しでも余れば必ず塩漬けにする。葉も茎も皮も捨てない。乾物を多く用い、肉でも野菜でも少しずつ余った物をかき集め、すべて細かく刻んで炒めるような料理が多いのだそうだ。 山地での暮らしや厳しい肉体労働にも耐えるためには塩分も脂分もしっかり摂る必要があることから、味付けは濃いめだという。それが何世紀にもわたって放浪を続けながら生き延びてきた、客家の人々の遺伝子に組み込まれているらしい。 ひとくくりに台湾の人口の大部分は漢民族が占めていると言っても日本が統治する以前から住んできた「本島人」と「外省人」、そして独自の言葉と文化を持つ「客家」の人たちもいることを忘れてはならない。台湾海峡に面した淡水で・・・・台湾に渡航した漢民族と原住民族の辛い歴史が述べられています。p114~117<淡水の夕暮れ> やがて鄭氏政権は打倒され、台湾は清国に領有される。当初、清国は台湾の価値をまるで認めていなかったが、かといって余計な勢力を持たせたくもなかった。そこで、それまでに台湾に住み着いていた「移住民10数万を中国に強制的に引き揚げさせ」たが、それでも密航者が後を絶たないために結局、厳しい条件付きで新たに渡航を許すようになる。その条件の中に「家族の同行を禁じ」というものであった。行くなら一人で行け、ということだ。 大陸と台湾を隔てる台湾海峡は波が荒く、当時は島を目指していざ船をこぎ出しても、三人に一人は海の藻屑と消え、一人は諦めて大陸に戻り、無事に渡りきることの出来た人は一人だけだったと言われている。やっとのことで新天地にたどり着いた三分の一の男たちは、暮らしの目処が立ってくれば当然、所帯を持ちたくなる。だが、妻子がいたとしても大陸に残してきていたし、結局、原住民族の女性と一緒になるより他なかった。 台湾の原住民族はどの部族もが戦闘的だったわけではない。人を疑うということを知らず、新たにやってきた人々を実に無防備に受け容れる部族も少なくなかった。そういった原住民族の中には既に、その時点で島を去っているオランダやスペイン人の血を挽くものが混ざっていても不思議ではなかっただろう。 いや、もっと言えば「国境」などという概念のなかった時代、人々は現代の私たちが思うよりも遥かに自由に、また広範囲に移動していたとされ、白人が台湾を「発見」するずっと前から「倭寇や海賊の格好の巣窟であったのは事実である」ことも考えれば、当時から台湾に住み着き、または根城にしていた日本人が少なからずいて、その血が受け継がれている可能性だって十分にある。 「私の家系は台湾に渡ってきてから今で十一代続いています。私は六代目になりますが、家系図を見ても最初の代、二代目、夫の名前は書かれていても、隣には女、とあるだけで、名前は書かれていません。なぜかといったらその頃、妻になる人は原住民族だったから。台湾の原住民族は文字を持たないんです。だから名前が書かれていない。つまり私たちは、もうその時点で純粋な漢民族とは違っています」 以前そう話して下さったのは台湾最大の発行部数を誇る新聞『自由時報』の呉阿明会長だった。1924(大正13)年生まれの呉阿明会長は、初めてお目にかかったときに開口一番「私は23歳まで日本人でした」と言われた。つまり日本が戦争に負けて台湾の植民地支配を終えた年に数えで23歳だったという意味だ。戦前の日本の教育を受け、勤務先で書く報告書の類いはすべて候文だったという呉会長の日本語は、戦後の教育を受けてきた私たち以上に正しく日本人らしい。 「それでも僕らの親の世代や昔の台湾人たちは、中国のことを『唐山』と呼んで、自分たちの故郷としていつも懐かしがっていたんです。中国といったら『清』ではなくて、ずっとむかしの『唐』だったんです」 唐を心の故郷としながらも、混血を繰り返すことで「本省人」たちは出来上がってきた。今、彼らのうちの相当数が、自分たちを「中国人」ではなく「台湾人」であると主張するのは、そのためもある。そしてまた、人口比としては全体の2パーセントにまで減ってしまっているものの、現在では正式な呼称として「原住民」と言われている民族たちの存在も「台湾人」として忘れてはならない。 「台湾の複雑さは、それだけじゃありません。たとえば同じ人でも、話す相手によって言うことが変わります。北京語で話すときと台湾語で話すときも、それぞれ違います。外国語で話す人なら、そのときも。自然にそうなっちゃうんです」 陽が傾き始めていた。淡水で、その人は横顔に多少の苛立ちを見せながら「仕方がないんです」と繰り返した。 「だって、色んな人を相手にしなきゃならないんだから」 もともと原住民族のケタガラン族が暮らしていた淡水にスペイン人が築いたサン・ドミンゴ要塞には、その後イギリス領事館が設置され、日本統治時代もそのまま使用された。現在は「紅毛城」と呼ばれている観光名所のテラスでは、夕暮れを待ちわびるように若いカップルが身を寄せ合っていた。 『美麗島紀行』1
2016.05.08
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図書館に予約していた『フラットランド』という本を予約5日後にゲットしたのです。手に取らないで予約する場合、その予約本によくあるのだが・・・・アチャー!表紙が左側で、本文が横書きの本ではないか。それに、注釈の分量が半分ほどあって、SFというよりも数学の論文という趣きではないか。しゃーないな。【フラットランド】エドウィン・A.アボット著、日経BP社、2009年刊<「BOOK」データベース>より次元の本質を著した不思議でおもしろい世界の物語。イアン・スチュアートの注釈と新訳で蘇る幾何学・物理学の古典。<読む前の大使寸評>次元の本質を著したSFというのが・・・しびれる訳でおます♪<図書館予約:(4/30予約、5/05受取)>rakutenフラットランドフラットランドと呼ばれる2次元の世界を見てみましょう。p98~99<1 フラットランドの気候と家> わたしたちの家には窓はありません。なぜなら、家の中も外も、昼も夜も、どこも常に同じような明るさだからです。その光りがどこから来るのかは、わかっておりません。昔の学のある人々は、「この光の源はなになのか」という問題に関心を持ち、よく取り上げたものでした。 そして、この疑問を解決しようという試みが幾度となく繰り返されたものの、結局は、この問題が解けたと言い張る人々で、フーライ病院が一杯になっただけのことでした。 そこで議会は、このような探求には重い税金を課すという形で、暗に押さえ込もうとしたのですが、それも失敗に終わったため、最近になって、このような問題の探求を完全に禁止しました。わたくしは・・・ああ、このフラットランドでわたくしただ一人が・・・この不可思議な問題のほんとうの答えを知りすぎるほど知っているのです。(中略) さりながら、このような辛い脱線はやめにして、わたくしたちの家の話に戻ることにいたしましょう。 家の形としてもっともよく見られるのが、五つの壁に囲まれた形、と申しましょうか。図にあるような五角形です。北側のふたつの壁、ROとOFは屋根になっていて、通常扉はありません。西にはそれよりかなり大きな男性用の扉があります。南側の壁というか床には扉はないのがふつうです。五角形 正方形や三角形の家を建てることは許されておりませんが、その理由は次の通りです。五角形の角と比べると、正方形の角はぐっととがっています。また、(家のような)無機質な物体は、男性や女性の線ほど明るくありません。ですから、軽率な、あるいはぼんやりした旅人などが走ってきて、正方形や三角形の家の角にぶつかり、ひどい怪我をすることにもなりかねませんん。 というわけで、この世界でいう11世紀に、法律により、三角形の家は全面的に禁止されたのです。例外は、砦や弾薬庫や兵舎などの国の建物に限られます。と申しますのも、一般大衆がこれらの建物に不用意に近づくことは、望ましくないからです。p127~128<5 この世界において互いを認識するための方法について> 光だけでなく影もご存知のみなさん、目がふたつあり、遠近感を備えていて、さまざまな色彩に魅せられもし、楽しんでもおられるみなさん、角というものを実際に目にすることができ、3次元のしあわせな世界において、円の周をそっくりそのまま観察することができるみなさん・・・そのような読者のみなさんに向かって、いったいどうすれば、フラットランドで互いの形を見分ける際の困難をつまびらかにできるというのでしょう。 前にわたくしが申し上げたことを、思い出してください。わたくしたちの目には、フラットランドに存在する者が・・・生ける者から木石まで、形の如何に関わらず・・・すべて同じ、いや、どれも似たようなまっすぐな線分に見えるのです。どれも同じ形に見えるのなら、いったいどうやって互いを区別するのでしょう。 判別の手段は3通りあります。まず第一に、聴覚による判別。わたくしの聴覚は、みなさまの聴覚よりはるかに発達しており、個々の友達の声を聞き分けられるだけでなく、社会階層の違いも、聞き分けられるのです。すくなくとも、正三角形と正方形と正五角形という、下から三つ目までの階層については・・・ここでは、二等辺三角形は数の内に入れません。 ですが、社会階層をあがるにつれて、聴覚による判別は難しくなります。なぜなら、ひとつには声が似てくるからで、さらには、声を判別するという能力そのものが、下層民において発達している能力であって、貴族階級ではさほど発達していないからなのです。というわけで、一般には、次なる第二の手段に頼ることになります。 触覚は、この世界のご婦人方や下々の者の間で、見ず知らずの者同士が、個々人の判別ではなく階層の判別を行わなければならなくなった場合の、主な判別方法となっています。したがってわたくしたちの世界では、この「感触」が、スペ-スランドの上流階級における「紹介」にあたるのです。 たとえば、「このわたくしの友、どこの誰それに、触ってみていただけますか。そしてまた、友があなたに触れるのを、お許しいただけますか」というように。・・・今も町から遠く離れた地方に住まう古風な田舎紳士の間で行われている風習こそが、フラットランドにおける紹介の定法なのです。主人公は、次元が一つ増えたスペースランドに乗り込んだのです、p270~272<18 わたくしがスペースランドにきた顛末と、そこで目にしたものについて> わたくしは恐怖にわしづかみにされて、一言も言葉を発することができませんでした。一瞬の闇、そして目まいがしたかと思うと、とうていこの目で見ているとは思えぬ光景が目に入り、わたくしは興奮のあまり吐き気を覚えたのでした。線は見えども線ではなく、空間と見えども空間ではない。わたくし自身も、もはやわたくしではありませんでした。 声を取り戻したわたくしは、苦悶のあまり金切り声をあげました。「わたくしが狂ったのか、はたまたここは地獄なのか!」「どちらでもない」。スフィアが冷静に答えます。「これが知なのだ。3次元なのだ。今一度目を見開き、しっかりと見据えるのだ」。 わたくしの目に飛び込んできたのは、ああ、わたくしが目にいたしましたのは、新しい世界でありました。目の前に立っているのは、それまでわたくしが全き美しい円と理解し、考え、夢みてきたものすべてを、はっきりと目に見える形で統合したものでした。(中略) すると、「おまえが見ていると思っているものは、実は見えていないのだ」という答えが返ってきました。「おまえにも、ほかの誰にも、わたしの内側を見ることはできない。わたしとフラットランドの住人とは、次元が違う。もしもわたしが円であるなら、おまえにも内側が見えようが、前にも話したとおり、わたしはたくさんの円がひとつになった、この国で球(スフィア)と呼ばれる者。そして、立方体の外側が正方形であるように、スフィアの外側は円に見えるのだ」ウーン この本はガモフの本のような魅力はあるのだが、とうていSFとは言いかねるようですね。
2016.05.07
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<図書館大好き146>今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「時代遅れ」でしょうか♪<市立図書館>・フラットランド・第2図書係補佐・誠の話・実りの庭<大学図書館>・朝鮮旅行記図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【フラットランド】エドウィン・A.アボット著、日経BP社、2009年刊<「BOOK」データベース>より次元の本質を著した不思議でおもしろい世界の物語。イアン・スチュアートの注釈と新訳で蘇る幾何学・物理学の古典。<読む前の大使寸評>次元の本質を著したSFというのが・・・しびれる訳でおます♪<受取ってみると>アチャー!表紙が左側で、本文が横書きの本ではないか。<図書館予約:(4/30予約、5/05受取)>rakutenフラットランドフラットランドbyドングリ【第2図書係補佐】又吉直樹著、幻冬舎、2011年刊<「BOOK」データベース>よりお笑い界きっての本読み、ピース又吉が尾崎放哉、太宰治、江戸川乱歩などの作品紹介を通して自身を綴る、胸を揺さぶられるパーソナル・エッセイ集。巻末には芥川賞作家・中村文則氏との対談も収載。【目次】尾崎放哉全句集/昔日の客/夫婦善哉/沓子(『沓子・妻隠』より)/炎上する君/万延元年のフットボール/赤目四十八瀧心中未遂/サッカーという名の神様/何もかも憂鬱な夜に/世界音痴〔ほか〕<読む前の大使寸評>又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということで・・・我ながらミーハーだったと思わないでもない。<図書館予約:(11/29予約、5/03受取)>rakuten第2図書係補佐第2図書係補佐byドングリ【誠の話】椎名誠, 和田誠著、角川書店、2004年刊<「BOOK」データベース>より時には遠くモンゴルで、時には新宿の居酒屋で、和田誠と椎名誠が語り合う。映画、おしゃれ、酒、結婚、くいもの、電車など12章。【目次】映画/モンゴル/イラストレーション/電車/くいもの/94年重大ニュース/うた/おしゃれ/酒/結婚/あとがき対談<読む前の大使寸評>椎名誠, 和田誠コンビのテイストは大使好みなんだけど・・・昨今の世情からは時代遅れの感があるわけです。rakuten誠の話【実りの庭】光野桃著、文藝春秋、2011年刊<「BOOK」データベース>より歳をかさねることで実る果実あり、味わうべき人生がある。親を看取り、家族がそれぞれ自立していく季節を迎えたとき、痛みと喜びを抱きつつ生きるにはー『実りを待つ季節』から10年、光野桃の最新エッセイ集。<読む前の大使寸評>著者について、まったく予備知識なしで、手当たりチョイスした本でおます。rakuten実りの庭【朝鮮旅行記】ガリーナ・ダヴィドヴナ チャガイ編集、平凡社、1992年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末の開国まもない朝鮮を旅したロシア人による五件の踏査報告を収める。その内容は、朝鮮支配をもくろむ日本ほか列強諸国の動向や重大な政治事件から、恒常的貧困にあえぐ民衆の生活・文化にまで言及されており、当時の全体像を描き出した貴重な資料となっている。<読む前の大使寸評>フィールドワークのようでもあり、スパイのようでもあり・・・ロシアの商人や軍人らが見た当時の朝・露・日関係が興味深いのです。amazon朝鮮旅行記*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き145
2016.05.07
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本屋でヤマザキマリ著『望遠ニッポン見聞録』という文庫本を手にしたが…最近、テレビや雑誌でよくお見かけするヤマザキさんが気になって、買い求めた次第でおま♪ヤマザキマリの画像よりこの本の冒頭にヤマザキさんの家庭の紹介があるのだが・・・・完璧なコスモポリタンの環境だったようです。p12~14 <世界を飛び回る、世界一幸福な人たち> 私の家庭環境はちょっとばかり特殊だった。 祖父は大正から昭和にかけて銀行の支店を作るためにアメリカに10年暮らし、その後もモンゴルなどに駐在していたせいもあってか、純日本風の家屋に暮らしつつも朝食は必ず欧米式。96歳で亡くなるまで、アメリカから持って来た蓄音器で古いオペラのレコードを聴いたり、会話の中にやたらと英語を混ぜ込むのも癖だった。 ある日私の同級生が掛けてきた電話に祖父が出て、私への連絡先を英語で答えたという「あんたのおじいちゃん、外人?」と聞かれたが、まだ海外の情報がそれ程ない時代に欧米に渡って激しいカルチャーショックを受けてしまったため、ちょっと珍しいタイプの日本人になってしまった・・・それがうちの祖父だった。 そんな祖父に育てられた母も幼い頃からずっとミッションスクールに通わされ、パリにペンフレンドもいた。このペンフレンドのフランス女性は私が幼い頃にも何度か日本に遊びに来たことがある。その時のことで今でも忘れられないのは、母が着物を着せようとしたらFカップはある胸になかなか帯が締まらず、この女性が「助けて!」的なことを必死で叫んでいた姿だ。違う文化を身をもって体験するのは実に大変なのだな、と幼心に感じたものだった。 母も職業柄(音楽家)、海外には演奏旅行で何度も出かけてはいるが、逆に海外から来る演奏家をよくうちに招いてパーティーを開いていた。 学校帰りに友達を連れて家のドアを開けると、中にぎゅうぎゅうに外人さんが詰まっているという光景に何度か出くわしたことがある。お友達は意表を突く扉の向こうの展開に度肝を抜かれていたが、おかっぱの日本人形のような可愛らしい子だったので、ウィーンの演奏家達は強ばる彼女と一緒に写真を撮りまくっていた。 そんな環境で育った私が17歳になった頃、私は母から本当に油絵がやりたいのなら日本から出て行くべきだと強く勧められた。 「日本だけが世界じゃないから」 これが彼女の口癖だ。かなり紆余曲折な人生を送ってきた母なので、それは恐らく彼女が自分の中でも何度となく唱えていた言葉だったのじゃないかと思うが、そう言われて私も納得し、さっさとイタリアへ渡ったのだった。そして私はそこで本格的に油絵の勉強を始め、日本へはもう帰らなかった。 これは傍から見れば「外国と縁の深い裕福なご家庭の子女にありがちな展開」なのかもしれない。でも私の場合は母からろくな仕送りもしてもらわず、しかも、やがて無職の彼氏と一緒に暮らすようになってしまったせいで、想像を超える極貧生活を強いられることになった。 だから全く皆さんの想像するようなドリーミーな留学生活は体験していないし、日本に帰るためのお金さえ作れなかったのだ。 しかし、それまで何かと窮屈だと感じていた日本を寛容な目で改めて見るようになったのは、恐らくこの時期だったと思う。 1990年代初頭、貧困、そして当時参加していた若者の社会思想運動と画業の苦しみの狭間で心身ささくれ立っていた私は、イタリアを訪れてくる日本人観光客の幸福に解き放たれた顔を見て、心底癒されていた。私は本当はこの国の人なのだと思うと、色々と夢と希望も湧いてくる。皆、塊になって連なって、何の不安も恐怖心も社会に対する憤りもなく海外旅行を楽しんでいるその様子はとても平和だった。(中略) 私にとって近くて遠い、心地好さと拒絶が一体化した祖国、日本。母は「日本だけが世界じゃない」と言っていたけれど、日本という世界の複雑さと面白さは、こうして長く離れて暮らしていると、よりはっきり見えてくるものなのだ。 獅子は子供を千尋の谷に落とすというたとえのようなお話でんな。【望遠ニッポン見聞録】ヤマザキマリ著、幻冬舎、2012年刊<「BOOK」データベースより>異国暮らし歴十数年、漫画家・ヤマザキマリが綴る、近くて遠い愛すべきニッポンの妙。ニッポンって変?でも可笑しい。【目次】世界を飛び回る、世界一幸福な人たち。/巨大化するおっぱいMANGA。/ぽっとんの闇が生んだ、世界最高峰トイレ文化。/アイデンティティなんていらない日本の国酒、ビール。/厳かに行われる俄か結婚式の妙。/子供の物欲をあおりまくるメディアに注意せよ。/同化しようとするカメレオンたちのストレス。/信頼できるのは、女好きより、猫好き人間。/ナチュラルに着飾れない、みすぼらしい東洋人の悲哀。/伊達男は伊太利亜にはどこ探してもおらず。〔ほか〕<大使寸評>ヤマザキさんのマンガを愛読しているわけではないが、彼女のコスモポリタンな経歴がびっくりポンでおま♪rakuten望遠ニッポン見聞録
2016.05.06
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図書館に予約していた『美麗島紀行』という本をゲットしたのです。世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪大使が在職時に台湾に数度出張したが、とにかく居心地のいい国でおました。【美麗島紀行】乃南アサ著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より人気作家・乃南アサが台湾各地をくまなく巡り、台湾と日本の深い関係性についてその歴史から思いを馳せる異色の台湾紀行。著者自らが撮影した、台湾各地の情緒あふれる写真とともに構成する。【目次】時空を超えて息づく島/夏場も時代も乗り越えた小碗の麺/牛に引かれて、ならぬ「牛舌餅」にひかれて/台中で聞く「にっぽんのうた」/道草して知る客家の味/過去と未来を背負う街・新竹/「お手植えの黒松」が見てきた歳月/宋文薫先生夫妻/淡水の夕暮れ/矛盾と摩擦の先にあるもの/日本統治時代の幕開けと終焉ー宜蘭/嘉南の大地を潤した日本人ー八田與一/「文創」が生み出すもの/三地門郷で聞く日本の歌/「帰れん港」と呼ばれた町・花蓮/出逢いと別れを繰り返す「雨港」-基隆/夕暮れの似合う街・台南ふたたび/手のひらに太陽を/「日本人だった」-台湾の老翁たちにとっての日本統治時代 <読む前の大使寸評>世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪対岸の大陸に厳しい態度をとっているのも好感が持てるわけで・・・とにかく、日本人旅行者にとって居心地のいい国である。<図書館予約:(2/19予約、4/26受取)>rakuten美麗島紀行次の「騎楼」のくだりには、著者の緻密な描写により、大使が出張したときの台湾の空気まで伝わってくる思いがするのです。p25~27<小碗の麺> その日の夕食は台南タンツー麺の老舗「度小月」本店でとることになった。タンツー麺はミンナン語では「ターミイ」という。ご飯茶碗を一回り大きくした程度の器で出てくる少量の麺料理で、豚骨と干しエビからとった、ごくあっさりしたスープに挽肉、エビなどの簡単な具材がのっている。 「度小月」の初代店主は「洪芋頭と言い、対岸の福建省から台湾に移り住んだ漁民だった(『台湾好吃大全』)」が、やっと移住してきた台湾の夏場は台風に見舞われるなどして不漁が続く。そのために「漁に出られぬ日々をなんとか食いつなぐという意味」でこの店名にした。「度小月」の「度」には「過ごす、暮らす」という意味があり、「小月」とは、この場合は「夏場」のことを指しているのだそうだ。 天秤棒で担いで売り歩いた麺は人気を得て、今や台湾名物となった。元祖の老舗だけあって、相変わらず混雑している。私たちは迷わず、店外に置かれた席に陣取ることにした。前回もそうした。外で食べる独特の開放感が、私には嬉しくてしようがないのだ。 台湾では、道路に面して軒を連ねている商店などにはほとんどの場合「騎楼」とか「亭シ脚」と呼ばれるピロティがある。建物の一階部分が、それぞれほぼ同じ幅ずつ道路際奥に引っ込んでいて、二階の床下部分がちょうど「屋根付き歩道」の役割を果たしているというものだ。 「これは日本が統治していた時代に出来たものですよ」 と、案内役の陳旭慶さん。亭シ脚の下を歩いている限り、歩行者は南国の強烈な陽射しからも、亜熱帯特有の突然の雨からも守られる。もちろん、そこが駐車場代わりになっている場合もあれば、露天商が店開きし、荷物置場になり、植木鉢や鳥かごが並び、野良だか飼い犬だか分からないイヌが寝そべっていたりもする。その上、建物によっては床の高さに違いがあるために亭シ脚にも段差が出来て、うっかりしていると躓くこともある。せっかくの優れた知恵なのに、車いすやベビーカーなどが通れないのは残念だ。 私たちが陣取った席も亭シ脚の下にあった。店に向かって左隣は時計店。右には帆布店。その店先には九官鳥。それらを眺めたり、逆に行き交う人々の視線にさらされたりしながら、タンツー麺の他にも煮卵や青菜の塩炒め、腸詰など、次々に運ばれてくる小吃(一品料理)に箸を伸ばし、夜風に吹かれながら食事を楽しんだ。そしてふと、騎楼の天井部分からさげられている店の看板に目がいった。 「百年老店 清光緒甲牛年 西元一八九五年」 思わず、箸が止まった。 1895年。 この年、明治28年の4月17日に、日本は日清戦争後の講和条約で「日清講和条約」いわゆる「下関条約」を締結した。この条約によって清国は遼東半島、澎湖諸島とあわせて台湾の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与した。つまり、この年を堺に台湾は日本の領土となり、以後1945年までの50年間、日本の植民地となったのだ。下関条約は、締結の翌日にはその内容が台湾に知らされた。 そうか、騎楼は台湾の気候から生まれた建築様式だったのか。日本の東北地方のガンギみたいなものでんな♪ それから、台湾では街中で野良犬を見かけるのだが、台湾人の大らかさが表れていると思ったものです。
2016.05.05
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図書館に予約していた又吉直樹著『第2図書係補佐』という文庫本をゲットしたのです。又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということで・・・我ながらミーハーだったと思わないでもない。NHK番組オイコノミアで、又吉さんの人柄が表れているが、(天然の)関西系のボケがええでぇ♪【第2図書係補佐】又吉直樹著、幻冬舎、2011年刊<「BOOK」データベース>よりお笑い界きっての本読み、ピース又吉が尾崎放哉、太宰治、江戸川乱歩などの作品紹介を通して自身を綴る、胸を揺さぶられるパーソナル・エッセイ集。巻末には芥川賞作家・中村文則氏との対談も収載。【目次】尾崎放哉全句集/昔日の客/夫婦善哉/沓子(『沓子・妻隠』より)/炎上する君/万延元年のフットボール/赤目四十八瀧心中未遂/サッカーという名の神様/何もかも憂鬱な夜に/世界音痴〔ほか〕<読む前の大使寸評>又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということで・・・我ながらミーハーだったと思わないでもない。<図書館予約:(11/29予約、5/03受取)>rakuten第2図書係補佐文学に造詣が深い又吉さんは、『異邦人』をどう読むのか?興味深いのです。p186~188 <『異邦人』> 僕が不条理という言葉で連想するのは、同期の「平成ノブシコブシ」というコンビだ。最近まで僕達は渋谷にある吉本興業の劇場に毎日のように出演していた。若手が出演する劇場の楽屋は雑然としていて体育会系の部室のような様相を呈している。 ある日、そんな楽屋から平成ノブシコブシ吉村君の怒声が響いた。どうやら相方の徳井君と喧嘩をしているようだった。吉村君が、「てめぇ!なんで小道具持って来てねぇんだよ!」と叫ぶ。それに対して無言の徳井君。「今のうちに買って来いよ!」と更に怒鳴る吉村君。 「お金ないもん」徳井君が悟りをひらいた。馬鹿のような言葉を返した。 「じゃあ、どうすんだよ?もういいよ!俺が金出すから買って来いよ!」 吉村君が千円札を差し出した。結局は優しい吉村君。そのお金で徳井君が小道具を買いに行く。これで一件落着のように思えた。 しかし、その十五分後再び楽屋に吉村君の怒鳴り声が響いた。僕が楽屋に入ると吉村君が徳井君に、「なんで俺の金でパン買ってくんだよ~!」と叫んでいた。徳井君を見ると無表情で静かにコッペパンを食べている。吉村君は、「ダメだろ!俺の金でパン買ったら!」怒る吉村君の意見はもっともだ。 記憶を19歳の頃に飛ばす。今でこそ「破天荒」と呼ばれる吉村君だが、当時はケンケンのTシャツを頻繁に愛用し、口癖は「もう駄目だ」で、実家から小包が届くと、「又吉く~ん!コーヒーがたくさん届いたから、お裾分けだよ」と言って持って来てくれる心優しき純朴な青年だった。 そんなある日、普段より早くNSC(吉本総合芸能学院)の教室に着いた僕が、真っ暗な無人の教室に入り電気をつけようとすると、暗闇の中で何かが動く気配がした。バケモノか?集中し目を凝らすと、なんと吉村君が上半身裸でシャドーボクシングをしていた。心の底から、「なんでやねん」と思った。あまりにも不条理で意味が解らなかった。だが今思うと吉村君はあの時、弱い自分と戦っていたのだろう。ダサいぞ、吉村君。 それから十年。吉村君は大東京の荒波に適応するため自分の精神面を改造したのだろう。先日、深夜に本社のトイレで吉村君と会った。僕が小便器に向かっていると、吉村君が鏡を見ながら、「なあ又吉・・・天下とろうぜ」と呟き出て行った。ダサい所は変わっていなかった。 『異邦人』は一般的にカミュの代表作と呼ばれているらしい。主人公が殺人を犯し動機を問われた時の言葉はあまりに有名だ。「不条理」とは、道理に合わない、脈略がない、というような意味であるらしい。 僕は予定調和なことよりも不条理なことにリアリティと人間味を感じてしまうことが往々にしてある。雰囲気や直感で行動を促されることが多々あるが、そういうのが他人にとって何の説明にもならず脅威になる場合もあると経験上解っているから、後からもっともらしい理屈を付けて嘘を吐いてしまうのだ。『第2図書係補佐』1なお、又吉さんは関西人の系譜3に収めているので、ご笑覧ください。
2016.05.04
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図書館に予約していた又吉直樹著『第2図書係補佐』という文庫本をゲットしたのです。又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということで・・・我ながらミーハーだったと思わないでもない。NHK番組オイコノミアで、又吉さんの人柄が表れているが、(天然の)関西系のボケがええでぇ♪【第2図書係補佐】又吉直樹著、幻冬舎、2011年刊<「BOOK」データベース>よりお笑い界きっての本読み、ピース又吉が尾崎放哉、太宰治、江戸川乱歩などの作品紹介を通して自身を綴る、胸を揺さぶられるパーソナル・エッセイ集。巻末には芥川賞作家・中村文則氏との対談も収載。【目次】尾崎放哉全句集/昔日の客/夫婦善哉/沓子(『沓子・妻隠』より)/炎上する君/万延元年のフットボール/赤目四十八瀧心中未遂/サッカーという名の神様/何もかも憂鬱な夜に/世界音痴〔ほか〕<読む前の大使寸評>又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということで・・・我ながらミーハーだったと思わないでもない。<図書館予約:(11/29予約、5/03受取)>rakuten第2図書係補佐又吉さんが『夫婦善哉』の真髄を語っているが、ええでぇ♪p22~25 <『夫婦善哉』>あんな、昔から知ってる駄目な男がおるねんけどな、わざわざ駄目って言いたくなるくらいの男の癖に、その彼女が思いやりがあって物凄く優しい女性やねん。ほんまに。まぁ、話を聞いてる限りやけどな。断っとくけど、俺がその女の人を好きとかちゃうで。そんなんちゃうで。そんなんちゃうけど、何でやろ?そんな素敵な女性に限って必ずその優しさに付け込んで寄生する甲斐性の無い男がおったりするよな。 実際その男がほんまに難儀な男でな、そいつの話聞いてたら腹立ってしゃあないねん。何が難儀かって、解りやすく不良とかじゃないねん。社会的に見たらギリギリセーフみたいな中途半端な位置におって、一見、ちゃんとしてる人なんかな?大きな夢を持っているがために不遇に晒されてはいるけれど、普通に働いてたら社会人として人並みに生活できてたりするような人なんやろな、実績こそ皆無やけど、いずれ大成する人やから、この人の意見は聞いとかなあかん、みたいなことを身近な人達に思わせてしまう雰囲気を一丁前に持っとんねん。 けど実際のとこ、からっぽ、からっぽ、何にも無い。世間を憂いまっせ、正論言いまっせ、我々の世代が世界変えまっせ、みたいな顔してますが、何のことは無い。ただの穀潰し甲斐性なしヘタレの阿呆ボン。 腹立ち過ぎて、その男と口論になった時に、どんな感じで攻めたろかな?ってシミュレーションしてもうてる時もあるもんな。(中略) その男な、金無い癖に、たまに、まぁまぁ高い服着たりしてんねん。それもな、彼女と一緒に服買いに行くねんて。そこで男が気に入った服があって、でも高いから買うか買わないか迷ってたりしたら、彼女が「うわ~これ私も着たい!一緒に使おうよ」とか言うて半分ずつお金出して買うねんて。彼女が率先してレジに服持って行くねんけどな、必ずその服が男のサイズやねんて。だから彼女は着られへんねん。 男は彼女がミスでそないしてると思ってて、俺の彼女阿呆やろ?とか言うねんけど、阿呆はお前や。汚い布でも身体に巻いとけ。 利害を離れて相手に何かを与えたい欲望って何なんやろ?話だけ聞いてると偉そうにしているが頼りない男と一見頼もしい彼女に思えるが、彼女の抱える苦労は容易に想像できる。男の才能を信じてんのか?それでも一緒にいたいというのは単純に愛とかそういうやつなのか。 『夫婦善哉』はどんな話だったか。一見逞しい女と頼りない男が出て来るのだが、男女が共にいる理由を理屈で説明するのではなく情景で匂わせてくれるような妙な読後感が好きだった。このコロキュアルな関西弁が、ええな~。なお、又吉さんは関西人の系譜3に収めているので、ご笑覧ください。
2016.05.04
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<『東洋文庫ガイドブック2』3図書館で『東洋文庫ガイドブック2』という本を手にしたのが・・・・パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。【東洋文庫ガイドブック2】平凡社東洋文庫編集部編、平凡社、2006年刊<「BOOK」データベース>より運命の一冊、座右の書、旅のお供に暇つぶし、小説のタネ本、老後の娯しみ…四十余人が東洋文庫とのさまざまな付き合い方を語り、解説総目録が既刊750巻の内容を簡潔に伝える。この一冊で叢書全体を見晴らしよく案内。<読む前の大使寸評>パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。rakuten東洋文庫ガイドブック2この本は読みどころが多いので、(その3)として読み進めました。アイヌや民俗学にも精通したN・ネフスキーというマルチ・リンガルのロシア人がいたようです。p35~37<アイヌの歌声から:津島佑子> そして、N・ネフスキーの『月と不死』。これも私には得がたい1冊となった。アイヌ叙事詩のうちの神謡(カムイ・ユカラ)に、怠け者の男の子が水汲みをいやがった罰で、月に閉じこめられてしまう話がある。水桶を持った子供の姿に月の影の部分を見立てての話だが、この話がサハリン・アイヌやウイルタ(ギリヤーク)ではどのように変化し、またずっと下って、宮古島、沖縄本島ではどのような月の話が伝わっているか、さらには北欧、北米先住民、メラネシア、そして古代日本の例もあげて、ネフスキーは報告している。 アイヌのカムイ・ユカラをこのような大きな流れのなかで見る必要があるということを、この本は私に教えてくれた。そして、実を言えば、私にとってこのカムイ・ユカラの印象があまりに忘れがたく、『月の満足』という短篇小説をひとつ、書くに至ってしまった。その意味でも、特別、感謝を捧げなければならない1冊となっている。 この本はとても親切な編集がなされていて、ネフスキーの翻訳によるアイヌのメノコ・ユカラ(女性が主人公の叙事詩)や、琉球の歌などが収録されていて、さらに日本の民俗学者である柳田国男やアイヌ語研究の先輩金田一京介などに宛てた書簡、そして解説としてかなり詳しいネフスキーの伝記も添えられている。 ロシアで中国語、日本語を学び、日本に留学している間に、ロシア革命の影響で帰国できなくなり、日本に14年も滞在することになった。やがて、日本女性と結婚し、アイヌ語の研究、東北地方のおしら様やイタコについても調べ、台湾の曹族の言葉、中国の西夏文字、満州語、ウイルタ語、琉球語など、驚異的な範囲の言語に通じ、民俗学をまたいだ研究を果たして、ようやくロシアに戻ったところで、スターリンの粛清に遭い、銃殺されてしまう。 こうした一人のロシア人研究者の人生までが迫ってきて、さまざまな思いをかきたてられる。ネフスキーの妻に宛てた日本語の手紙の写真も掲載されているのだが、私はこの日本語のなめらかさ、達者な文字にすっかり感心させられてしまった。ほかの書簡を見ても分かることではあるが、この人の言語の天才ぶりをここではさすがに信じないわけにいかなくなるのだ。 そして、この本から刺激を受けて、私自身も世界各地の口承文芸に近づかずにはいられなくなった。もちろん、この分野でも東洋文庫は期待に十分応えてくれる。なかでも、モンゴルの英雄叙事詩『ゲセル・ハーン物語』を読んだときは、アイヌの英雄叙事詩の内容にあまりにそっくりなので、びっくりさせられた。 13世紀のころ、サハリン・アイヌが今のモンゴルまで攻め込み、その後、今度はモンゴルがサハリンを攻めてきた、という記録が中国の資料に残されているらしい。となると、アイヌとモンゴルとの間に文化の接触も当然、あったのだろう、と想像される。アムール川の流域に沿って、人も物も流れ、叙事詩も流れ、交じりあったのだろうか。 アイヌからはじまり、ネフスキーから刺激を受けた私の思いは、東洋文庫とともに、こうしてますます広がりつづけていく。ネフスキー『東洋文庫ガイドブック2』1『東洋文庫ガイドブック2』2
2016.05.03
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先日、NHKスペシャルの再放送で「縄文 奇跡の大集落」を観たが・・・狩猟採集を生活の基盤として、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた縄文人がびっくりポンでおました。番組のなかで、かのジャレ・ド・ダイアモンドも、「農耕に頼らない縄文人の社会は従来の文明論を根底から揺さぶっている」と言っていました。アジア巨大遺跡(第4集)縄文 奇跡の大集落初回放送:2015年11月8日 最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。 この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。 なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。 さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。農耕とは地球の自然を人為的に破壊するという側面もあるわけで・・・ブラジルやアメリカのような過度な農耕は地球環境に良いわけないのです。いまさら、現代人も狩猟採集生活に戻れというわけではないが、1万年も持続可能な社会を継続した縄文人に学ぶこともあるのでしょうね。ジャレ・ド・ダイアモンドの大局的な慧眼は、そのあたりに注目しているのかも。この記事もNHKスペシャル・アーカイブ(改2)に収めるものとします。なお、狩猟採集から農耕への大転換については、ただいま鋭意『食糧と人類』を読んでいるところです。
2016.05.02
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図書館に予約していた『食糧と人類』という本をゲットしたのです。食糧大増産の軌跡を解明し、21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマってか・・・興味ふかいのです。【食糧と人類】ルース・ドフリース著、日本経済新聞出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より科学力と創意工夫で生産力を飛躍的に向上させ、度重なる食糧危機を回避し、増加してきた人類。数百万年にわたる食糧大増産の軌跡を解明し、21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマ。地球誕生から現代まで、試行錯誤の軌跡を追う。【目次】プロローグ 人類が歩んできた道/1 鳥瞰図ー人類の旅路のとらえかた/2 地球の始まり/3 創意工夫の能力を発揮する/4 定住生活につきものの難題/5 海を越えてきた貴重な資源/6 何千年来の難題の解消/7 モノカルチャーが農業を変える/8 実りの争奪戦/9 飢餓の撲滅をめざしてーグローバル規模の革命/10 農耕生活から都市生活へ<読む前の大使寸評>21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマってか・・・・・黒塗りのTPP交渉禄がかすんでしまうでぇ。<図書館予約:(3/26予約、4/26受取)>rakuten食糧と人類―飢餓を克服した大増産の文明史冒頭で、アマゾン南東部の自然破壊的な大豆生産が述べられています。p8~137<プロローグ>より 2000年代はじめ、ブラジルのマットグロッソ州(英語で深い森の意味)の風景は名前とはかけ離れたものとなった。知事を務めるブライロ・マッギの一族は当時、世界最大の大豆生産者として一大帝国を築いており、マッギは「世界の大豆王」とも呼ばれていた。大豆はアマゾンでは新顔の作物だが、この州を最大級の大豆生産地にしようと目論む彼は、新しい道を通し、森をどんどん切り開いたのである。収穫された大豆はトラックに積まれて次から次へと港に運ばれ船積みされた。行き先はヨーロッパとアジア。そこでは農場の牛、豚、鶏に大豆粕が飼料として与えられ、育った家畜はやがて食肉加工されて人びとの胃袋におさまった。 アマゾン南東部の変わり果てた光景はたしかに痛ましく無残ではあったが、こうした森林破壊はいまに始まったことではない。昔から何度もくり返されてきた。(中略) ブラジル政府は1960年代前半、先住民のカヤポ族の居留地として近隣の土地を指定した。それ以来、カヤポ族はそこで昔ながらの暮らしをいとなんでいる。鳥をしとめ、森で狩猟をおこない、川で魚を捕り、木の根と木の実を採取し、サツマイモとキャッサバを育てる。みずからの身体を動かすことと火だけが彼らのエネルギー源だ。トラクターの購入や、生産物を地球の裏側の人びとに売るという選択肢は彼らにはない。 境界線をはさんだいっぽうで化石燃料をエネルギー源とするブルドーザーを運転して開墾し、世界各国の家畜を養うための大豆を栽培する人びとがいる。もういっぽうでカヤポ族が動物を狩り、木の実と果実を採取し、人類史の大半においてヒトが行ってきたいとなみを続けている。ヒトはなんとも奇妙な種になったものだ。空腹を満たすため自然を活用する方法にこれだけの違いがあり、それがこうして同時進行している。 対照的な光景を目のあたりにすると、身近なものを食べて暮らすカヤポ族は自然と共生しているというロマンティックな考え方に傾きがちだ。ありのままの自然と共存する暮らしを美化したがる環境保護論者はいるだろうが、わが子によりよい暮らしをさせたいと奮闘する人びとにとってはかならずしも理想ではない。(中略) 丸太に座ったまま、頭のなかに次々に疑問が湧いてきた。暮らし方に優劣はあるのか?森林の消滅は、ヒトという種の消滅を暗示しているのか? わたしたちが生命維持に必要な食料を店で購入して浮いた時間を創造的な活動にあてられるのは、先人が食料を大量に栽培する方法を見つけてくれたおかげだと感謝すべきなのか?農業のはじまりが、述べられています。p73~74<狩猟採集から農耕へ>より 初期人類は何世代にもわたって狩猟採集生活で木の実や果実、肉を得ていた。やがてあるとき、とある場所で、地球上にあらわれて間もないヒト科の人物が重大な一歩を踏み出した。 チグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川の周囲の峡谷と丘陵を含む孤城の地域を「肥沃な三日月地帯」と呼ぶ。そのどこかで、食料を採集していたある人物が手に入れた二種類の野草のタネが、のちに小麦となった。いまもシリア北部とトルコ南東部では、このときの草、ヒトツブ小麦とエンマー小麦が自生している。 小麦の親戚にあたる野草を見るかぎり、栽培に向いているようには思えない。食べられる種子の部分は小さく、風でかんたんに散ってしまう。これでは大量に収穫するのは難しいだろう。おそらく、遠い昔のその人物は風でも飛ばされず茎についたままの種子に目を止めたのだろう。 これは人間にとって貴重な特徴だった。最初は手で、のちには鎌を使って種子を収穫した。風で飛ばない種子をくり返し集めて植えていくうちに、風に強い種子ができる確率が高まった。ほかにも、種子が大きい、脱穀で籾殻がかんたんにはずれる、実る時期が同じなど、人間にとって都合のいい特徴をそなえた種子が選ばれた。何千年という歳月をかけてヒトツブ小麦とエンマー小麦は進化して栽培種となったのだ。栽培時期と場所は人間がコントロールし、風まかせではなくなった。 同じような経過をたどって大麦、ヒヨコ豆、レンズ豆、エンドウ豆、亜麻、イチジク、デーツ、そしてあまり広くはしられていないベッチ(マメ科ソラマメ属の総称)が栽培されるようになった。 のちに、人間は動物を繁殖させて家畜化し、野生種よりも飼いやすい羊、ヤギ、豚、牛をつくりだした。家畜は人間から与えられる餌で育った。飼い主は世話をし、餌を与え、天敵の脅威から守る代わりに家畜の肉、乳、労働力を利用した。人間が動植物の自然選択の舵を握ったのである。祖先は自分たちに都合よく改良を重ね、動植物をそれぞれ栽培用・家畜用の品種に変えていった。これがけっきょく、人間をも変えることになる。狩猟採集していた人びとは農耕と家畜の世話に転じた。これが農業のはじまりである。この本の最後で、著者は破綻の危機を次のように述べています。わりと楽観的に見えるけど、それは良くも悪くもアメリカ人の開拓者魂というものかも。p265~266<喧噪のなかへ>より 21世紀半ばには、世界の人口の8割近くが都市住人になっている可能性がある。急成長する都市、なかでもラゴス、ダッカ、深セン、カラチ、デリー、北京、広州、上海、マニラ、ムンバイの勢いは衰えないだろう。途上国の無数の小さな町と都市に人が集まる。都市生活者は食料品店で食料を買う。レストランで外食してくれる人もおおぜいいる。 そんな彼らもイヌイットやカヤポ族と同じく自然界の制約に縛られている。地球の驚異的なメカニズムが太陽エネルギーを食料に変え、都市生活者はそのしくみに依存するしかない。微生物のはたらきで排泄物は循環を続ける。 地下の奥深くにある巨大なベルトコンベヤーはこれからも大陸を動かしつづけ、火山は大気にガスを噴きだす。上空から地球を俯瞰すれば、作物を作るための風景が広がり、都市の朝食、昼食、夕食の食材もそこからやってくる。人類が蓄えてきた知識の上にはこれからも新しい知識が積み上げられ、自然を活用する・・・あるいは還元するために知恵を磨きつづけるだろう。 人類が狩猟採集生活から農耕牧畜をする定住生活への移行を開始したのは1万2000年前。それから数千年かけて学び、文化を築き、移行はようやく完了しようとしている。人間は知恵を絞り工夫を凝らして自然と密接にかかわり合い、着実に繁栄の歯車を進め、農耕をする種として地球上で勢力を拡大してきた。 いまわたしたちは農耕をする種から都市生活をする種に変わろうとしている。小数が食料をつくり、大多数の人びとがそれを食べるという最新の取り組みは始まったばかりだ。どんな結果が待っているのかは、だれにもわからない。 これからも破綻の危機と方向転換はきっと起きるだろう。そのたびに人間は独創的な方法で地球のめぐみをうまく活用するにちがいない。これまで積み重ねてきた創意工夫の成果とともに、生きる方法を学びつづけるだろう。
2016.05.02
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<『東洋文庫ガイドブック2』2>図書館で『東洋文庫ガイドブック2』という本を手にしたのが・・・・パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。【東洋文庫ガイドブック2】平凡社東洋文庫編集部編、平凡社、2006年刊<「BOOK」データベース>より運命の一冊、座右の書、旅のお供に暇つぶし、小説のタネ本、老後の娯しみ…四十余人が東洋文庫とのさまざまな付き合い方を語り、解説総目録が既刊750巻の内容を簡潔に伝える。この一冊で叢書全体を見晴らしよく案内。<読む前の大使寸評>パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。rakuten東洋文庫ガイドブック2この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めています。東洋文庫にはイザベラ・バードの本が数多くあるが、そのうちの『日本奥地紀行』を見てみましょう。p29~32<握手したくなるイザベラ・バード:伊藤礼> イザベラ・バードの『日本奥地紀行』。これは思い切り特別に面白い本だ。 イザベラ・バードというひとはイギリス人で、明治11年の5月にアメリカから太平洋を渡って横浜にやってくる。そうして6月の10日に東京の英国大使館を出発、人力車で日光に向かう。日光に10日滞在、それから馬で藤原、50里を通り、山王峠を越えて会津若松に出る。彼女は少女時代から乗馬は得意だった。 さらに彼女の行程を追ってみる。彼女は会津若松から阿賀野川に沿って津川に行く。津川からは川船で70キロメートル余りを一気に下って新潟に出た。 新潟は明治初期の数少ない開港場であった。在住西洋人は18人と僅かだったが、ともかく領事館もあるしキリスト教の教会伝道所もあった。英語の学校もある。彼女はこの同国人の家で7日間、旅の疲れをいやした。 新潟からの出発はまた船である。しばらく船に乗り、そのあと人力車で行く。真野、中条、黒川というような村まで並木の道が続く。それから山岳地帯に入り、馬で関、川口、鷹ノ巣という土地を通る。今地図で見ると、このあたりは荒川温泉郷というところである。ここを過ぎて峠を越え山形県にはいる。最初の町が小国である。(中略) 地名をあげただけで原稿がはかどってしまったが、私は地図にしるしをつけながら読んで楽しかった。赤で記した彼女の経路を眺めながらあれから100年以上たったけれど、いつかきっと同じ所を歩いてみたいと思っている。 彼女の旅行は明治11年である。日本の都市部には新時代の波が打ち寄せはじめていたが、彼女の旅したほとんどの土地のひとが外国人を見るのははじめてだった。ましてや女性である。町にはいると千人の日本人が二千個の下駄の音をたてて彼女のあとを追ってくる。宿屋に泊まればふすま、障子は穴だらけになりその向こうに人間の目玉がある。ノミがたくさんいる。蚊がたくさんいる。日本の馬は乗った人をすぐ放り出す。(中略) イザベラ・バードのこの面白さは、チェンバレンの面白さともちがう。私はなにが私をこの書物にひきつけるのだろうかとよく考える。この旅行記の面白さは彼女が正確であること、それから正直であることから来ているとは言える。だがそれは一応のことだ。それ以外にも帰すべき大切なことがあるにちがいない。そんなことはわからなくても、この本を読んでいると、私はぜひとも彼女に会って握手したくなる。『東洋文庫ガイドブック2』1
2016.05.01
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図書館で『東洋文庫ガイドブック2』という本を手にしたのが・・・・パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。【東洋文庫ガイドブック2】平凡社東洋文庫編集部編、平凡社、2006年刊<「BOOK」データベース>より運命の一冊、座右の書、旅のお供に暇つぶし、小説のタネ本、老後の娯しみ…四十余人が東洋文庫とのさまざまな付き合い方を語り、解説総目録が既刊750巻の内容を簡潔に伝える。この一冊で叢書全体を見晴らしよく案内。<読む前の大使寸評>パラパラめくると、イザベラ・バードとか近代アジアの史実とか載っていて興味ふかいのです。rakuten東洋文庫ガイドブック2先日、富岡鉄斎展を観たのだが、文人画の「文人」という言葉に微妙な違和感を覚えていたのです。この本に、中国人の思い描く「文人」が述べられているので見てみましょう。p44~46<中国知識人の私的生活用具百科:原田憲雄> 分かり切ったようで、正体のはっきりしない言葉が、世の中にはあるもので、「文人」も、その一つ。日本ではいっぱんに文筆に携わる人をさすが、中国では「隠者」と「士大夫」といった相反する概念を持つ言葉と結びつけられることもある。荒井健氏を班長とする京都大学人文科学研究所の研究班が、優秀な人材と9年の歳月を傾けて解明した報告が、大冊『中華文人の生活』で、1994年、平凡社から刊行された。その結論は次のように纏められるだろう。 旧中国、すなわち19世紀以前の中国では、政治と文化の支配層は官僚で、彼らを「士人」とか「士大夫」といった。士人は、古典の教養と詩文の能力によって選別され、統治能力を期待される人たちだが、役人としての公的活動から離れ、私的な趣味生活に生きる場面での彼らを「文人」というのである。 官僚には予備、すなわち官吏登用試験の受験生などがあり、後備、すなわち退職後の役人があり、それらを含めたすべてが知識人だ。趣味は琴棋書画、つまり音楽、遊技、美術など一切、ただし趣味なのだから、優れていても専門技術者ではないことが条件とされた。 荒井健氏他が訳注し、平凡社の東洋文庫3冊本として刊行された『長物志』は、「無用の長物についてのメモ集」という意味だが、17世紀の文震亨が編集したというべきもの。役人の公的活動面では無用であろうが、文人の趣味生活に必要な大道具や小道具の主立ったものを分類配列して、著者の見識によって品評した本でといいかえることもできようか。 もとの本は12巻で、巻一室蘆、巻二花木、巻三水石、巻四禽魚、巻五書画、巻六几〇、巻七器具、巻八衣飾、巻九舟車、巻十位置、巻十一蔬果、巻十二香茗。 室蘆というのは建築物で、これをさらに、室蘆、門、階、窓、欄干、照壁、堂、山斎、丈室、仏堂、橋、茶寮、琴室、浴室、街径・庭除、楼閣、台、海論に分ける。総論で「山水のなかに住むのが最もよく、村落の住まいがその次、郊外の住まいはさらにその次で・・・・市井にまぎれこむとしても、門庭は風雅高潔、室蘆は清浄静寂、亨台は悠然たる士の思いをそなえ、斎閣は幽居の人のおもむきが必ずなくてはならぬ」という。優雅である。(中略) 今の日本の庶民の生活からは想像もつかぬ。官邸はともかく、私宅にこれだけの条件を完備できるのは、大臣でもごく一部の人だけであろう。こんなことをやっている文人とは、先に説明したように、他面で官僚であり、3年役人をすれば一生楽に暮らせるといわれた旧中国なればこそであろう。その風雅静寂な生活は、日本でなら『源氏物語』に出てくる大官たちと同様、人民を搾取し、賄賂を貪り、権力闘争に勝抜くことによって、維持されていたろうことは、見やすい道理である。 いくら優雅であろうと、わたしなどは、そのような文人になりたいとは思わぬし、人に勧める気も毛頭ない。 おなじ中国の知識人でも、質素な生活に耐える民間の人もあって、彼らは「隠者」と呼ばれた。隠者の中にも怪しげなのがいないわけではないが、文人にも清廉なのがいるのと同様であろう。なるほど、文人とは人民を搾取したうえで成り立っていたのか・・・原田憲雄さん、いいことを言うねえ♪
2016.05.01
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