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図書館で『国境を越えて愛されたうた』という本を、手にしたのです。テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪【国境を越えて愛されたうた】竹村淳著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりラテン音楽の名曲の数々、日本、インドネシア、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの不朽の名歌の誕生からヒットまでの知られざる歴史とエピソードを綴る!!それぞれの歌のお勧めCDと、YouTubeで観ることができるお勧め動画の案内も掲載!!【目次】上を向いて歩こう(SUKIYAKI)-日本/エル・マニセロ(El manicero)~南京豆売り(THE peanut vendor)-キューバ/アンダルシーア(Andalucia)~そよ風と私(The Breeze and I)-キューバ/エル・チョクロ(El Choclo)~火の接吻(Kiss of Fire)-アルゼンチン+アメリカ/エル・アレグリート(El arreglito)~アバネーラ(Habaner a)スペイン+フランス/誰も知らない私の悩み(Que nadie sepa mi sufrir)~群衆(La foule)-アルゼンチン+フランス/さらば草原よ(Adi´os Pampa mia)/青い背広で~Mi Geisha esta triste~女の嘆きーアルゼンチン/日本/ソンブラス“ただ影だけ”(Sombras nada mas)-アルゼンチン+メキシコ/ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo)-インドネシア/ドナドナ(Dona Dona)~ダナダナ(Dana Dana)ベラルーシ+アメリカ〔ほか〕<読む前の大使寸評>テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪rakuten国境を越えて愛されたうた由紀さおりが、この歌で実力を遺憾なく発揮したことは記憶にあたらしいが・・・セルジオ・メンデスの「マシュ・ケ・ナーダ」を、見てみましょう。p131~135<マシュ・ケ・ナーダ> 「マシュ・ケ・ナーダ」を知ったのは、ご多分に漏れずセルメンこと、セルジオ・メンデスが率いるブラジル'66の演奏を聴いたときだ。 その少し前から耳にしていたボサ・ノーヴァ、とりわけヘタウマ歌手の元祖的存在アストラッド・ジルベルトの「イパネマの娘」とも違う、明るくてポップなサウンドは、日本でもかなり評判になった。ラジオでよくかかっていたせいか、必ずしもぼくの好みではなかったが、「オー・アリアー・アイオ オバオバオバ」が、なぜか「オー・マリアよ、オバンオバンオバン」と聴こえ、そんなうろ覚えのデタラメな歌詞が口をついて出て困るほどだった。 冒頭の歌詞はブラジルで盛んなアフロ系宗教の呪文のようだが、神への祝詞とも、「愛の神よ、わが家へようこそ」という意味だとか、諸説あるが、よく分からない。また曲名の「マシュ・ケ・ナーダ」も直訳するなら「なんということはない」と言った意味だろうが、ブラジルのスラングゆえにいろいろな解釈がされているようだ。「それがどうした」とか「かまわないよ」といったところだろうか。♪O aria aio oba oba oba オー アリアー アイオ オバオバオバ O aria aio oba oba oba オー アリアー アイオ オバオバオバ Mas que nada マシュ・ケ・ナーダ Sai da minha frente, 前をあけてくれよ eu quero passar 俺は通りてぇんだ (後略) その頃はセルメンのことも、曲の作者がジョルジ・ベンであることも、曲名の意味も、ましてやリード・ボーカルがブラジル人ではないことなど、知るよしもなかった。 その後ベンがコパ5(シンコ)と録音した1963年の初アルバム『マシュ・ケ・ナーダ~新しいサンバへの道』で、「マシュ・ケ・ナーダ」のオリジナルを聴いたとき、「これぞハイブリッド・サンバだ!」というのが第一印象だった。サンバを基軸に、ロック、R&B、アフロなどの要素を自在に融合したサウンドは、まさにワン&オンリーのジョルジ・モードで、活力にあふれて最高に魅力的だった。 同じ曲でもセルメンのカバー版とは見事なまでに対照的で、セルメン版も別の意味ではハイブリッドだったが、ベンのそれはほどなく訪れるフュージョン(一時クロスオーバーともよばれた)時代を鮮やかに先取りしていた。(中略) いずれにせよ「マシュ・ケ・ナーダ」の全米でのヒットで、セルメンの名前は全米に轟くことになり、脱ブラジル・USA進出を狙っていた彼にはまたとない順風となり、当時はまだ世界の田舎だったブラジルの新進シンガー&ソングライター、ジョルジ・ベンにも明るい未来を約束することになる。『国境を越えて愛されたうた』3:「黒い瞳」『国境を越えて愛されたうた』2:「テネシー・ワルツ」『国境を越えて愛されたうた』1:「花はどこへ行った」
2018.07.31
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図書館で『国境を越えて愛されたうた』という本を、手にしたのです。テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪【国境を越えて愛されたうた】竹村淳著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりラテン音楽の名曲の数々、日本、インドネシア、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの不朽の名歌の誕生からヒットまでの知られざる歴史とエピソードを綴る!!それぞれの歌のお勧めCDと、YouTubeで観ることができるお勧め動画の案内も掲載!!【目次】上を向いて歩こう(SUKIYAKI)-日本/エル・マニセロ(El manicero)~南京豆売り(THE peanut vendor)-キューバ/アンダルシーア(Andalucia)~そよ風と私(The Breeze and I)-キューバ/エル・チョクロ(El Choclo)~火の接吻(Kiss of Fire)-アルゼンチン+アメリカ/エル・アレグリート(El arreglito)~アバネーラ(Habaner a)スペイン+フランス/誰も知らない私の悩み(Que nadie sepa mi sufrir)~群衆(La foule)-アルゼンチン+フランス/さらば草原よ(Adi´os Pampa mia)/青い背広で~Mi Geisha esta triste~女の嘆きーアルゼンチン/日本/ソンブラス“ただ影だけ”(Sombras nada mas)-アルゼンチン+メキシコ/ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo)-インドネシア/ドナドナ(Dona Dona)~ダナダナ(Dana Dana)ベラルーシ+アメリカ〔ほか〕<読む前の大使寸評>テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪rakuten国境を越えて愛されたうた「黒い瞳」を、見てみましょう。p81~83<黒い瞳> ロシアにいは素晴らしい民謡がたくさんある。本当は民謡とよぶのは不適切なのだが、子供の頃に親しんだ、いわゆるロシア民謡を誰しも一度ならず口ずさんでことがあると思う。帝政時代に人びとが様ざまな思いを込めて唄った「トロイカ」「ボルガの舟歌」「バイカル湖のほとり」、ロシアでは少数派のロマ(ジプシー)ならではの哀調を秘めた「黒い瞳」、そして1917年の革命後に生れた大衆歌謡「ともしび」「カチューシャ」などなど、挙げるとキリがない。 比較的新しい時代にも名歌「百万本のバラ」がある。ロシアにはなぜ名歌が多いのか、ぼくはかねがね不思議に思っていた。 そんな疑問があるとき氷解した。西ヨーロッパの教会には大抵オルガンが設置されている。だから優れたオルガン奏者が生れる。ヨハン・セバスチャン・バッハにしても、まずオルガン奏者として名声を確立し、オルガンの名曲を遺した。ところが、ロシア正教では、儀式の際に楽器の使用を禁じ、聖歌を唄うときも伴奏楽器なしのア・カペラなのだという。歌唱が発達し、いい歌がたくさん生まれるわけである。 では、歌の大国ロシアから1曲選ぶとして、なにを選ぶか。いろいろな曲名が頭を駆け巡ったが、国境を越えて愛されたとなると、欧米でも日本でも人気の高い「黒い瞳」だろう。(中略) この歌の世界に知らしめた最初の功労者は、19世紀末から1930年代にかけて活躍したロシア出身のバス歌手フョードル・イワノビッチ・シャリアピンだった。彼は唄っただけでなく、みずから歌詞を書きたして唄った。よほどこの歌が気に入っていたのだろう。 シャリアピンは、ロシア革命以前は世界を股にかけて活躍した超売れっ子のオペラ歌手だったが、革命後は次第にソビエト政権との折り合いが悪くなり、1921年に亡命を決意し、活動の拠点をパリに移した。彼の当り役といえば『ボリス・ゴドゥノフ』の主役が有名だが、リサイタルではロシア民謡も唄ったという。亡命後は以前にもましてロシアの大衆歌謡も唄うようになり、歌詞まで捕作した「黒い瞳」は彼の必須レパートリーだった。 この歌が世界で愛唱されるようになる上で、シャリアピンは最初の貢献者だといえる。『国境を越えて愛されたうた』2:「テネシー・ワルツ」『国境を越えて愛されたうた』1:「花はどこへ行った」
2018.07.31
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図書館で『国境を越えて愛されたうた』という本を、手にしたのです。テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪【国境を越えて愛されたうた】竹村淳著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりラテン音楽の名曲の数々、日本、インドネシア、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの不朽の名歌の誕生からヒットまでの知られざる歴史とエピソードを綴る!!それぞれの歌のお勧めCDと、YouTubeで観ることができるお勧め動画の案内も掲載!!【目次】上を向いて歩こう(SUKIYAKI)-日本/エル・マニセロ(El manicero)~南京豆売り(THE peanut vendor)-キューバ/アンダルシーア(Andalucia)~そよ風と私(The Breeze and I)-キューバ/エル・チョクロ(El Choclo)~火の接吻(Kiss of Fire)-アルゼンチン+アメリカ/エル・アレグリート(El arreglito)~アバネーラ(Habaner a)スペイン+フランス/誰も知らない私の悩み(Que nadie sepa mi sufrir)~群衆(La foule)-アルゼンチン+フランス/さらば草原よ(Adi´os Pampa mia)/青い背広で~Mi Geisha esta triste~女の嘆きーアルゼンチン/日本/ソンブラス“ただ影だけ”(Sombras nada mas)-アルゼンチン+メキシコ/ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo)-インドネシア/ドナドナ(Dona Dona)~ダナダナ(Dana Dana)ベラルーシ+アメリカ〔ほか〕<読む前の大使寸評>テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪rakuten国境を越えて愛されたうたテネシー・ワルツを、見てみましょう。p110~115<テネシー・ワルツ> 新制中学に入った1949年春から、近所に住む米軍通訳に英語を習うようになり、少しでも英語に慣れようとFEN、米軍の極東放送を聞くようになった。“This is Far East Network”というコールサインがカッコよく、口真似したりしていた。 1951年だったが、パティ・ペイジが唄う「テネシー・ワルツ」を初めて聴いたのもFENだった。この歌はぼくがほれ込んだアメリカン・ポップスの第1号となった。 ♪I was dancin' with my darlin' To the Tennessee waltz When an old friend I happened to see Introduced her to my loved one And while they were dancin' My friend stole my sweetheart from me ダーリンとテネシー・ワルツで踊っていた/そのときたまたま旧友に会った/私の愛する人を彼女に紹介した/すると二人で踊っている間に/友人は私の恋人をとっちゃったの…。 格別むずかしい単語もなく、中学生の英語力でも理解できる歌だった。それもあったろうが、いま思うにおきゃんなアメリカ娘らしくない、パティ・ペイジが漂わせるフェミニンな雰囲気と“恋人を奪われた娘心”という曲想を表現するためだろうか、控えめで、どこか頼りなげな感じをにじませる歌唱がよくて、それに惹かれていたようにも思える。 この歌はカントリー・ミュージック畑のアコーディオン奏者でバンド・リーダーのピー・ウィー・キングが1946年に作曲、歌手のレッド・スチュワートが作詞したワルツ調の失恋バラードで、1948年に彼らが始めて録音した。当時は彼らのオリジナル盤があることなど知る由もなく、聴いたことはなかった。 いまはYouTubeで簡単に映像で見聞きできるが、カントリー色が強い。それだけに本国ならともかく日本で発売しても、ペイジ盤のようには受けなかったろう。ずっと後になって、米国では大評判だったカントリーの人気歌手ハンク・ウイリアムスやエルヴィス・プレスリーを初め、この歌の様ざまなカバーを聴いてみたが、ぼくにはパティ・ペイジ盤が極めつけだった。 ところが、パティ・ペイジの1年ほど後に聴いた江利チエミの「テネシー・ワルツ」に、ぼくは夢中になった。彼女のデビュー盤が欲しくてたまらなかったが、ぼくの小遣いでは高くて買えなかった。それでもその前年、1951年に放送を開始した民間放送のラジオから彼女の歌声はいつも流れていたので、聴くのに不自由はなかった。(中略) チエミの「テネシー・ワルツ」は40万枚を超える大ヒットとなり、彼女は“美空ひばり以来の天才少女”と絶賛され、その年に初の主演映画『猛獣使いの少女』に出演する。翌1953年春には、米キャピトル・レコードに招待されて渡米し、「ゴメンナサイ」と「プリティ・アンド・ベイビー」の2曲を録音し、日本人として初めてヒット・チャートにランクされた。 LAでステージに立って喝采を浴びたり、帰途ハワイでも公演を成功させ、さらに同地で合流したボーカル・グループ、デルタ・リズム・ボーイズと連れ立って帰国し、各地でジョイント・コンサートを開催して称賛され、ジャズ・ボーカリストNo.1の地位を確立した。(中略) 進駐軍とともにどっと入ってきたアメリカン・ポップスやジャズを唄うとき、英語で唄うのが当たり前だったが、チエミがとった英語日本語併用スタイルは当時としては画期的なことだった。これにより外来ポップスのカバー盤の人気は都市部に限られていたのが、地方都市にまで広がることになり、彼女に続いたペギー葉山や小坂一也らはその恩恵をこうむることになる。 15歳の天才少女の健闘で、「テネシー・ワルツ」はあざやかに海を越えただけではない。時空をも超越し、多くの日本人の心に定着し、いまも唄い継がれ、聴き継がれている。 一例を挙げると、2003年のNHK紅白歌合戦でユニークなジャズ・シンガー、綾戸智恵が唄ったことは記憶に新しいところだろう。同じ現象はこの歌の生まれ故郷である米国でも起こっている。たとえばノラ・ジョーンズのような若い世代の歌手がこぞってカバーい、まさに永遠のスタンダード・ナンバーとなっている。 ところでパティ・ペイジと江利チエミの2人には共通項が多い。ペイジは大家族の家庭に生れたが、父親は線路工夫、母親と姉妹は綿花摘みをしてなんとか生計を立てていたとかで、貧しくて家には電気もなく、日が暮れると本も読めなかったという。チエミのデビュー前後の苦労話はすでに書いた。ともに生活苦と闘うなかで「テネシー・ワルツ」と出会い、この歌をカバーし歌手としてのステイタスを築き上げた。(中略) ほかにも両者の共通点は多いが、決定的に違ったことがある。 1927年生れのペイジは80歳前後まで現役で歌い続けて、充実した幸せな一生を過ごし、2013年1月1日に85歳で天に召された。 ペイジのちょうど10年後の1937年に生れたチエミは、散々なまでに辛酸をなめた末、「もういいよ。お疲れさん」と神が差し伸べてくれた手に導かれ、1982年2月13日に45歳の若さでこの世を去った。『国境を越えて愛されたうた』1:「花はどこへ行った」
2018.07.31
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図書館で『国境を越えて愛されたうた』という本を、手にしたのです。テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪【国境を越えて愛されたうた】竹村淳著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりラテン音楽の名曲の数々、日本、インドネシア、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの不朽の名歌の誕生からヒットまでの知られざる歴史とエピソードを綴る!!それぞれの歌のお勧めCDと、YouTubeで観ることができるお勧め動画の案内も掲載!!【目次】上を向いて歩こう(SUKIYAKI)-日本/エル・マニセロ(El manicero)~南京豆売り(THE peanut vendor)-キューバ/アンダルシーア(Andalucia)~そよ風と私(The Breeze and I)-キューバ/エル・チョクロ(El Choclo)~火の接吻(Kiss of Fire)-アルゼンチン+アメリカ/エル・アレグリート(El arreglito)~アバネーラ(Habaner a)スペイン+フランス/誰も知らない私の悩み(Que nadie sepa mi sufrir)~群衆(La foule)-アルゼンチン+フランス/さらば草原よ(Adi´os Pampa mia)/青い背広で~Mi Geisha esta triste~女の嘆きーアルゼンチン/日本/ソンブラス“ただ影だけ”(Sombras nada mas)-アルゼンチン+メキシコ/ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo)-インドネシア/ドナドナ(Dona Dona)~ダナダナ(Dana Dana)ベラルーシ+アメリカ〔ほか〕<読む前の大使寸評>テネシー・ワルツ、花はどこへ行った、エル・チョクロ、マシュ・ケ・ナーダ、黒い瞳等々・・・好きな歌のオンパレードではないか♪rakuten国境を越えて愛されたうた大使もよく歌った「花はどこへ行った」を、見てみましょう。p119~121<花はどこへ行った> この歌ほど、幾多の国境を越え、有名無名をとわず数え切れないほどの歌手に唄われ、ときには人びとに切実な思いをこめて唄われ、ときには人びとがともに唄うことで心を一つにしてきた歌はないのではなかろうか。 ぼくがこの歌を知ったのは、月日までは思い出せないが、東京オリンピックの年だったから、1964年のことだ。ピーター・ポール&マリーの来日公演を観たときだと思う。彼らの人気はほどなく爆発するが、そのときはまだ知名度が低く、初来日公演とあって東京大手町の産経ホールの客席は空席が目立っていた。 1960年の暮れに始まったとされるベトナム戦争では、旧正月(テト)を迎えると戦闘は一時休止というのが慣例だったが、1月30日にテトを迎えた1968年は、北ベトナムが意表をつく形で南ベトナムに攻勢を仕掛けた。これを“テト攻勢”とよぶ。 ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された1963年11月22日、副大統領のリンドン・B・ジョンソンは急遽第36代米大統領に就任し、ケネディ政権から受け継いだベトナム戦争への軍事介入の度合いを強めていく。テト攻勢を堺に介入はさらに激化。 反戦運動が高まりをみせるなか、「花はどこへ行った」はそのシンボル・ソングのような色合いを帯び、激化するべトナム戦争に向けての反戦歌として広く知られていった。 いまさら言うまでもなく、この歌はフォークソングの最高峰、ピート・シーガー(1915~2014)が作った名曲中の名曲である。しかし彼はこの歌を反戦歌として作ったわけではなかったという。(中略) シーガーの録音を民俗音楽研究家のジョー・ヒッカーソンが聴き、仲間と唄ううちに、すぐに終わってしまって物足りなさを感じたことから、4番と5番の歌詞を書きたした。それを聴いたシーガーは、その加筆を気に入り、彼を共作者と認め、1961年に著作権申請をやりなおし、歌は両者の共作曲となった。 とはいえ、まだ知る人ぞ知るといった存在でしかなかったこの歌が、広く知られるようになるのは、1961年に録音したキングストン・トリオの唄が翌1962年にヒットしたときからである。(中略) 1961年にデビューしたピーター・ポール&マリーは、1962年に発表したファースト・アルバムにこの歌を収録し、彼らの「花はどこへ行った」はのちに日本では一番人気となる。 1962年にはマレーネ・ディートリッヒが、バート・バカラックのアレンジで英仏独の3ヵ国語で録音し、話題騒然となる。だが、なんといってもこの歌を有名にしたのはベトナム戦争そのものだったと言うべきだろう。
2018.07.30
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図書館で『装幀列伝』という新書を、手にしたのです。パソコンでは装丁となって違和感があるのだが、装幀という見慣れない文字もやや鼻につくのです。ぱらぱらとめくってみると、その多彩な章立て、わりと独断的な趣きが気になるけど・・・まあ、借りて読んでみるか。【装幀列伝】臼田捷治著、平凡社、2004年刊<「BOOK」データベース>より明治の洋装本以来、日本の装幀文化は、時を追って深みを増し、奥行きを広げていった。編集者による仕事、詩人による仕事、著者自装、画家、版画家、イラストレーターたちによる仕事。そして杉浦康平と杉浦を師と仰ぐデザイナーたち。また一方、独自の世界を築き上げたミニマリストたち。現代日本の装幀文化の水脈を、幅広く掘り起こした注目の書。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、その多彩な章立て、わりと独断的な趣きが気になるけど・・・まあ、借りて読んでみるか。rakuten装幀列伝イラストレーターの自装本はよく見るが、作家の自装本とやらを見てみましょう。p117~120■戦前・戦後の系譜と消長 1970年に三島由紀夫が逝ったあたりを堺として、文学は人生に欠くことのできない指標としての特権的位置から、他のレジャーと同様の、ひとつの均質な消費の対象へと変わりつつあった。安岡章太郎は仕事への打ち込みに自信がないと謙遜しているが、むしろ価値観の変貌しつつあった文学への安岡の冷めた心情が、上記の発言の背景にあるのではないだろうか。 そしていまや、多くの小説家や文筆を業とする人たちの装幀に対する認識は、安岡とほぼ同じレベルだといって差し支えあるまい。本文組にまで独自の美学を貫く京極夏彦のような例外は存在するものの、装幀は専門家に任せておくのが無難、というところが大方の著述家のいつわらざる心情だろう。■装幀の定則をくつがえした現代の自装本 しかし、著者自身による装幀への意欲の著しい低下のなかにあっても、自装本がまったく試みられなかったわけではもちろんない。戦後から50余年来でもっとも話題を呼んだのが、二百万部の大ベストセラーとなった村上春樹の『ノルウェイの森』上・下だった。上巻が濃い赤を地色として、文字が濃い緑色抜き。下巻はこれがそっくり反転して、緑の地に赤で文字が入っている。 いわゆるクリスマス・カラーによる配色とその上・下巻入れ替え。まるでコロンブスの卵である。同書の魅力はここに集約されるだろう。くわえて、小説の装幀の定則をくつがえす、装画など装飾要素のまったくない文字だけのミニマルな構成が斬新である。私も同書が書店の平台に並んだときの驚きと、若い女性客がためらいもなくひょいと手に取り、レジにさっそうと向かったのを目撃したときの記憶は今なお鮮やかである。 同書は主人公の「僕」が、友人・恋人の宿命的な自死を乗り超えて、現実としてのきたるべき人生の道筋を見つめようとする小説であり、さまざまな経験を通じた主人公の自己形成を綴っている。赤と緑の対比・反転は、死という非日常世界と、追想と出会い、愛、性が重なり合う日常世界とを往き来するロマンの基調音に見合うものであろうか。 小説家は読者からの質問に答えるかたちで次のようにコメントを寄せている。 「『ノルウェイの森』が出版されたのは1989年の9月で、べつにクリスマス・カラーを最初からねらったわけではありません。あの赤と緑は前から使いたいと思っていた色だったのです。あの色を選んだときには出版社の人々に『こんなきつい色じゃ本は売れませんよ』と反対されたことを覚えています。色にはとくに意味はありません」(村上春樹『そうだ、村上さんに聞いてみよう』朝日新聞社) 村上らしいちょとぶっきらぼうな回答であるが、いわば「超デザイン」で装われた同書が空前の大ヒットを記録し、「装幀の勝利」と喧伝されたことはこれからも長く語り継がれていくに違いない。 村上春樹と同姓であることもあって、とかく比較されるkとの多い現代文学の同じ人気作家、村上龍は76年、武蔵野美術大学基礎デザイン科在学中のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を自装で世に問うた。群像新人賞、芥川賞を受賞した超話題作である。『装幀列伝』2:イラストレーターの仕事p78~82『装幀列伝』1:恩地孝四郎の装丁術p45~46、戦後の版画家装丁p52~54
2018.07.30
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピブッシュマンとの交流を、第14章「ブッシュマンの火を囲んで」で見てみましょう。p225~229<Alain> 私たちは南アフリカの旅の最後にジョンと会うことにした。むしろ、ティッピがジョンと会うことにしたといったほうがよいかもしれない。これはずいぶん前から私たちに夢を与えるとともに、多少当惑もさせてきた話だ。 私たちはこの旅で、象のストンピーやヒョウのJ&B、そしてカメレオンンのレオンに出合った。またカラカルのサムに出合ったとき、ティッピは一緒に背丈の高い草に隠れ、ヤギの群れを驚かせたりした。さらに、子ライオンのムファサとも知りあった。 そして、この旅のあいだ私たちはずっと、動物とすぐ仲良くなるというティッピの能力に驚かされつづけたのだ。ジョンの意見はやはり正しいのかもしれない。ジョンは、ティッピのなかに文字どおり“”の要素があるのを見て、ティッピは“”少女なのだと言ったのだ。 ジョンが私たちが知りあったのは4年前のことだった。紹介してくれたのは、当時カラハリ保全協会に勤めていた私たちの友人ポール・シェラーだった。そのときのことは細かいところまでよく覚えている。 「やあ、シルヴィ! アラン! きみたちに会えるなんてうれしいね!」 「ポール! きみのベースキャンプからこんなに遠いところで、いったい何をやっているんだ?」 「きみだって、ティッピをいったいどこに隠したんだ?」 ティッピは柵のすぐ後ろにいた。彼女は、小さな水飲み場をよじ登り、空いている椅子すべてを登ろうと試し、四方八方を駈けずりまわったあとで、その柵を今しがた越えたところだった。 のテラスはマウンでかならず立ち寄る場所だ。ドイツ人がやっているこの新しいレストランは、紅白の格子縞のテーブルクロスを使ったフランスふうのビストロだ。壁には、鉄板にマリンブルーのペンキでパリを模して通りを描いたプレートが飾ってある。綴りは発音に合わせたので劣等生並みの出来だが、まあしかたないか。 シルヴィも私もべつに誰かを待っているわけではなかった。やがて、そこにポールが現れたというわけだ。(中略) そうして、ポールに同行していたジョン・ハードバトルを私たちに紹介してくれたのだ。 ジョンは叢林生活者(ブッシュマン)のサン人で、顔つきは東洋的、目は切れ長で頬が突き出ていた。顔色は杏色で背が高く1メートル80はある。ふつう砂漠の民の身長は1メートル50あるかないかなので、これはずいぶん驚きだった。ジョンは母親がブッシュマンで、父親がイギリス人なのだ。 ジョンはすぐにティッピの存在に気付いた。彼の笑い声にティッピが笑い声で応えたからだ。ティッピはジョンの首にぶらさがり、彼の話をうれしそうに聞き、ブッシュマンの言葉でジョンに挨拶した。ブッシュマンの言葉はクリックと呼ばれる独特の舌打ち音で一語一語が区切られる。 この南アフリカの先住民は、おそらくモンゴル系の、人類の最も古い祖先で、度重なる異民族の侵入によって、最も過酷な地に追いつめられてしまった。ブッシュマンはその最後の避難場所を、誰も人のいないカラハリ砂漠中央に見つけたのだ。ボチマンまたは依然としてサンと称されるブッシュマンは、政治制度がなく、部族同士を束ねる首長をもたない平等な共同体を構成している。これらの部族は定住せず、族長もいない。部族は家族を核に構成されているのだ。 大人のブッシュマンはほっそりした顔立ちで、胡椒の種のような髪をしていて、その体格は西洋人の子供なら12歳ぐらいの大きさだ。男たちは今も弓で狩りをし、女たちは植物の根や昆虫の幼虫を棒切れを使って掘って探す。1万年前と同じだ。 子供たちは、なんの制約も受けずに、自分たちにとってよいと思えることをしながら時間を過ごす。というのも、学習は体験と観察によって行なわれるからだ。子供たちは採集に行く女たちについていって、砂漠では本当に貴重な水分を含むイモがどれなのかをしっかり学ぶ『野生のティッピ』5:ティッピとヒョウの交流『野生のティッピ』4:ティッピと象の遭遇『野生のティッピ』3:アフリカーンス語『野生のティッピ』2:アランとシルヴィ(つまりティッピの両親)『野生のティッピ』1:ティッピとリーダー象アブーとの交流
2018.07.30
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピティッピとヒョウの交流を、第13章「世界でいちばん強いヒョウ」で見てみましょう。p207~<Alain> その日の夕方、夕陽がとてもきれいだったので、私はシルヴィに、農場と反対側にある干上がった川の河床で写真を撮るために、ティッピを連れていこうと提案した。私たちは午後のはじめに山間の道のいちばん端にある、車でヴィントークから30分ほどの牧場に来ていたのだ。 私たちは、友人のミューラー夫妻のところで数日を過ごす予定でいた。そして、ティッピはヒョウのJ&Bに再会できるのを楽しみにしていた。 実はティッピには言ってなかったが、デイヴィッドと電話で話したとき、彼からJ&Bが初めて黒人従業員の一人を襲い、その肩に噛みついたことを聞いていた。これまでJ&Bは、遊びで少し興奮したときに多少乱暴に振る舞うことはあったが、いつでも抑えることが可能だった。むろんJ&Bも、プロのハンターが最も危険だと考えるほかのヒョウと同じように危険であることに変わりはない。 私はヒョウとはずいぶんつき合いがあったので、たとえ飼いならされていたにせよ、ヒョウの行動は予測できないということをよく知っていた。それにヒョウは正真正銘の殺し屋で、その恐ろしさはライオン以上なのだ。 去年、バック・ド・フリースの息子のテイスが、ジンバブエで狩猟サファリツアーのガイドをしていたとき、お客が一頭のヒョウに傷を負わせたことがあった。まだ若いにもかかわらず豊富な経験をもつテイスは、その手負いのヒョウを追いつめるのは難しく、とても危険で、ヒョウのほうがハンターを狩ることになりかねないことを知っていた。 ヒョウは隠れるのがうまく、驚くほどの敏捷性をもっている。ふつう、ヒョウは枝の高いところからハンターに飛びかかり、銃を撃つ暇さえ与えない。カービン銃でねらいをつける時間などとてもない。だから、ヒョウから身を守るには、銃身が短く扱いやすい銃が用いられる。これなら一発お見舞いできるからだ。至近距離で撃つ必用がある場合、強力な44マグナム拳銃が有効だ。テイスはいつもその拳銃を携帯していた。 その日、手負いのヒョウがテイスに襲いかかったときに、彼の命を救ったのはその銃だった。今でも傷が残っているが、テイスはそのとき腕と足に大きな怪我を負いながらも危機を脱したのだ。経験豊富な狩猟ガイドとして、テイスは冷静で、しかも運にも恵まれて生き延びることができたのだ。ほとんどの場合、ヒョウは一瞬のうちに犠牲者の喉に噛みつき、噛みついたまま後ろ足で腹を裂くのだ。(中略) ティッピはJ&Bと知りあって一緒に遊ぶようになってから、J&Bが羽目をはずしたときでも自分一人でなんとかJ&Bを抑えてきた。彼女はJ&Bに背を見せて走ってはいけないことを知っている。そして、J&Bが攻撃的になったら、まっすぐ目を見つめ、頭をたたいておとなしくさせなければならないということも知っている。ティッピは自分がしてもよいことが何かをきちんと意識していて、少しも恐れを感じていない。 ある日、J&Bが遊びで私の背中に飛びかかってきたことがある。そのとき、J&Bの力の強さをはっきり認識し、それが幼い少女だった場合のことを思わず想像してしまった。そのときから私は、ティッピがJ&Bと一緒にいると不安でならなかった。(中略) 私は、ヒョウの場合たとえ飼いならされても、いつかは本能が表に出てくると思っている。問題は、J&Bを大自然に放すことができないということだ。J&Bは人間と触れあったことがあるから人間を恐れていない。だから、放されたらすぐに牧場に近寄ってくるはずだ。当然、最も簡単な獲物を襲うようになる。はじめは家畜を、そして次には人間を襲うようになることが目に見えている。『野生のティッピ』4:ティッピと象の遭遇『野生のティッピ』3:アフリカーンス語『野生のティッピ』2:アランとシルヴィ(つまりティッピの両親)『野生のティッピ』1:ティッピとリーダー象アブーとの交流
2018.07.29
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピティッピと象の遭遇を、第9章「アブー、私のお兄ちゃん」で見てみましょう。p124~128<Sylvie> 象に乗ってオコバンゴ湿地帯を回るサファリツアーの観光客向けキャンプに、群れのリーダー象であるアブーの名前がつけられていた。は、すでに大金持ちになっていたアメリカ人動物調教師ランドル・ムーアが運営している。 ランドルは動物学者でもあったが、それはたんにそのほうが仕事に有利だからしかたなくそうなっただけのこと。アングロサクソンの世界では、自然や動物関連の仕事をする場合、学者であることが求められるのだ。 ランドルはまずアメリカで象を集め、それを調教してアフリカに連れてきた。アブーはこの冒険旅行にはじめから参加していた。ランドルと彼の三頭の象はまずケニアに上陸したが、ケニアは彼らを追い出した。彼らを受け入れたのは南アフリカだった。 ランドルは南アフリカに着いてすぐ重要人物になり、ハイクラスの人たちと交流するようになった。公園局で彼はじかに局長に話しにいく。アランと私はもっと控えめな手順をたどった。でも、私たちがヨハネスバーグの社交界で彼らに会うと、そのつど私たちに話しかけてきた。 私たちのミーアキャットとの冒険が、ランドルの心を惹きつけたにちがいない。このほとんど不可能ともいえる私たちの賭けが、象を相手にした彼の非現実的な企てにかなり近かったからだ。私たちはふつうの人たちとは別の部類に属す人間で、彼もまた同様だった。 南アフリカで仕事をしてから、ランドルは自分の象たちとともにオコバンゴ湿地帯に移り住み、そこで象に乗るサファリツアーを始めた。彼に言わせれば、「自分が借っている象たちはきちんと調教されているが、決して飼いならされているわけではない」とのことだった。だから、お客さんが象たちに近づけるのは乗るときだけで、しかも象たちの用心深い視線を浴びなければならなかった。 は、黄金時代のケニア様式を模した贅沢なキャンプだ。アフリカふうでありながら洗練されている。超デラックスなテントが建っていて、バーには50種類のウィスキーがおいてあり、サービスは完璧だ。すべてが超一流で気取っていた。 一泊一人八百ドルのこのキャンプのお客は一般人ではない。ランドルが受け入れていたのは特権階級の人だけで、しかも同時に5組以上を受け入れることはなかった。だから億万長者でさえ、そう簡単に宿泊を予約できなかった。はとても閉鎖的なクラブになっていた。ランドルは意図的にそうしたのだが、それが彼の成功の鍵だった。(中略) ランドルの永遠の協力者アブーでも、時々ティッピのほうが好きになることがあった。今でも思い出されるのは、ランドルのキャンプへ初めて行ったとき湿地帯で見かけたあるシーンだ。 そのときティッピは、湿地の葦のなかに立って象の群れを眺めていた。群れのなかには、ランドルを背中に乗せたアブーがいた。アブーはその日のツアーから帰ってきたところだった。ランドルが厳しく命令しているのに、アブーはそれに従おうとしなかった。アブーはティッピに近寄り、彼女がアブーに手を差し出す。アブーは鼻を上げて彼女のほうに伸ばし、頭の上にそっと置いた。アブーは本当に軽く置いたのだが、ティッピは葦のなかで少しバランスを崩し、尻もちをついてしまった。彼女は大きな笑い声を上げ、また立ちあがると頭をアブーのほうに出して、 「もう一度!」と言ったのだ。 ティッピの語彙のなかで理解できるのはママンとパパだけで、それ以外は理解不能あのだが、この語彙にもうひとつの言葉がつけ加えられた。しばらくしてティッピは“アブー”という言葉を覚え、さらに少したつと、“アブー、私のお兄ちゃん”という言葉を言えるようになった。『野生のティッピ』3:アフリカーンス語『野生のティッピ』2:アランとシルヴィ(つまりティッピの両親)『野生のティッピ』1:ティッピとリーダー象アブーとの交流
2018.07.29
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図書館で『姫椿』という本を、手にしたのです。おお 浅田次郎の初期の短篇集ではないか♪出版当時には名前も知られていなくて、借りることもなかったでしょうけど。【姫椿】浅田次郎著、文藝春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より飼い猫が死んでしまったOL、経営に行き詰まり、死に場所を探す社長、三十年前に別れた恋人への絶ち難い思いを心に秘めた男、妻に先立たれ、思い出の競馬場に通う大学助教授…。凍てついた心を抱えながら日々を暮す人々に、冬の日溜りにも似た微かなぬくもりが、舞い降りる。魂を揺さぶる全八篇の短篇集。【目次】(「BOOK」データベースより)シエ(xi`e)/姫椿/再会/マダムの咽仏/トラブル・メーカー/オリンポスの聖女/零下の災厄/永遠の緑<読む前の大使寸評>おお 浅田次郎の初期の短篇集ではないか♪出版当時には名前も知られていなくて、借りることもなかったでしょうけど。rakuten姫椿八篇のうち『再会』の語り口を、見てみましょう。p79~81『再会』 九鬼の生家は都心のオフィス街で小さな喫茶店を経営していた。あの地価高騰の時代に生家を高値で売り、テナントビルやマンションを十数棟も所有する資産家にのし上がったのだという噂は、どうやら的を外れているようである。 好景気の時代のうまい話には耳を貸さず、やがて地価も金利も下がったころに、有利な条件で不動産をひとつひとつ取得して行った。いかにもおとなしい優等生だった九鬼にふさわしい筋書きだった。 「神田の店は?」 「ああ おふくろと出戻りの姉貴とで、まだやっている。昔のまんまだ」 「へえ。また、どうして?」 資産家の母と姉が、いまだに20坪ばかりの喫茶店を営んでいる。私の素朴な疑問に、九鬼はむしろふしぎそうな顔を向けた。 「どうしてって 家族が生活して行くには、ころあいの商売だからさ。この店さえあれば末代まで食いっぱぐれはないから、決して手放すなというおやじの遺言だった」 私はふと、学生時代に何度か会ったことのある、九鬼の父親の顔を思い出した。 言葉をかわしたという記憶はない。ほの暗い喫茶店の、古ぼけたカウンターの向こうで、九鬼の父親はいつも生真面目な顔でコーヒーを淹れていた。 テラスから射し入る午後の弱日を受けた九鬼の顔は、無口で謹厳な父親に良く似ていた。 「似てますでしょう、おとうさんに」 と、ソファから腰を上げて妻が言った。 「ああ、そっくりです。久しぶりにこうして会っても、さほど様変わりしたように思えないのは、考えてみればおとうさんと彼とを混同している」 「性格までうりふたつなんですよ」 「冷静沈着、ですか」 「良く言えば。反対に悪く言いますとね、感情がないんです。泣かない、笑わない、怒らない。何を考えているのかわからないの」 まるで妻の評価を証明するように、九鬼は面白くもおかしくもない顔で、「もう、さがりなさい」と言った。 それから九鬼は、学者のような口調で景気の先行きの話を始めた。ゆったりと間を置いて、言葉のひとつひとつを正確に選別するような口ぶりも昔のままだった。この本も浅田次郎の世界R13に収めておくものとします。
2018.07.29
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図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争英メネシス号の中国兵船砲撃アヘン戦争開戦前夜あたりを、見てみましょう。p128~130<実力行使> 公行は大へんな問題を背負い込んだ。 夷人がこの国に来るのは、アヘンを売って、茶葉を買うためである。 アヘンを持ち込めば殺されてもよい。・・・そんな誓約書に、夷人たちがおいそれとサインをするはずがない。 そのうえ、現在夷人が〇〇沖にストックしているアヘンを、ぜんぶ没収されるために供出せよというのだ。 困ったことに、天朝である中国には対等の国家がなく、したがって外交関係もありえないという“たてまえ”である。したがって、外交を担当する役所もない。夷人のことは、すべて公行というルートを通してなされる。たとえば、すべての外国船が広州にはいるとき、公行のメンバーの誰かが保証人とならねばならない。国家の外交と通商事務を、民間の同業組合が一手に引受けているという変則的な形態である。商売のうえでは独占ということになって、大そうけっこうであるが、こんどのような難題がもちあがると、たちまち頭が痛くなるのだった。 期限と定められた三日のあいだに、公行総商の伍紹栄はげっそりと痩せてしまった。問題が解決する見通しはまったくなかった。 いったい、公行は正式の特許商人だから、アヘンは扱うことができない。それなのに、アヘン問題から起こったゴタゴタで、こんな苦しい板挟みになるのだから、割の合わない話である。 かつて公行のメンバーであった同泰行という店が、自分が保証人になった外国船からアヘンが発見されたというだけで、貨物の50倍の罰金刑を受けたことがあった。 …弛禁論が実現しておれば、こんな苦労もなかっただろう。 そんな愚痴がメンバーの口からもれたであろう。 夷人たちは、公行から示された諭帖を、頭から拒絶した。話し合いの余地もないという態度であった。 約束の期限は2月7日であった。新暦では3月21日で、春分にあたる。そのためか、林則徐はその日、なんの行動も起こさなかった。翌日も代理の役人を十三行街に派遣いただけである。 伍紹栄はけんめいに夷人たちのあいだを説いてまわった。 …どうせこの国の役人のことだ。こけおどしにすぎない。賄賂をはずめということだろうが、そうはさせないぞ。 夷人の大部分は、そんなふうに考えていた。これまで清国の役人は、ソデの下をつかませると、どうにでもなったからである。 伍紹栄は、「欽差大臣」という役職を説明し、これは非常のときにしか任命されないもので、最近では7年まえの台湾叛乱にさいして、福州将軍瑚松額が任命された一例のみだから、ことは重大だ、と熱っぽく説く。やっと夷人たちも、こんどは金で解決できそうもないとわかったようだ。 欽差大臣ともあろう者が、いったん言い出したことを、かんたんに引っ込めることはできないだろう。では、すこし奮発して、面子を立ててやるか。…こうして、夷人たちもちょっぴり譲歩した。 誓約書のことにはふれずに、ストックのアヘン1037箱を供出しようと答えたのである。だが、林則徐は各方面の情報を検討して、アヘン母船にストックされているアヘンは、約2万箱あると推定していた。 …千箱などでは問題にならん! と、その申し出は一蹴された。 追い打ちをかけるように、欽差大臣から夷館内の一英人に逮捕状が出された。 デント商会のデントである。 もともと林則徐は代表的アヘン商人としてジャーディン・マセソン商会のジャーディンを逮捕して、みせしめにするつもりであった。ところが、かんじんの本人が、林則徐着任五日まえに、イギリスに帰国していたのである。デントはその身代りであった。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。なお、東インド会社については『東インド会社とアジアの海賊』という本が面白いのです。『実録アヘン戦争』2:東インド会社の退潮『実録アヘン戦争』1:貿易品としての茶とアヘン
2018.07.28
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図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争東インド会社の退潮を、見てみましょう。p66~69<選手交替> イギリスの対中国貿易は、東インド会社に独占権が与えられていた。その免許状は20年ごとに切りかえられる。1834年が免許状切りかえの年にあたっていたが、1832年のイギリス国会は、免許状の期限の延長を認めないという決議をした。 長いあいだ対中国貿易を独占してきた東インド会社が、舞台から退場するのである。 それにはいろんな理由があった。 まず産業革命後に起こった産業都市の市民が、選挙権を獲得したことが挙げられるだろう。それまでは、十ポンド以上の税金を納めている「家持ち」だけが、世襲的に選挙権をもっていた。それが改正されたことは、貴族時代が終わって、商工市民の時代を迎えたことを意味する。 世襲と保守と領地の時代はすぎて、自由と進取と工場の時代が、それにとってかわった。新興商工市民は、対外貿易についても自由競争を主張した。彼らにとっては、独占権などもってのほかのことだったのだ。 つぎに、東インド会社の対中国貿易が、きわめて非能率的なものになっていたことも、免許状取消しの大きな理由になった。 東インド会社の商船は千二百トンから千三百トンで、一航海で広州においてあげる純益が、米ドルにして平均三万ドルから四万ドルにすぎない。ところが、アメリカの商人は、平均僅か三百五十トンという小型商船を操って、毎船四万ドルから六万ドルの純益をあげていた。 東インド会社は官僚化して、小回りがきかず、「親方日の丸」的になるのであろう。アメリカ商人の場合は、利益のあるところには、ためらわずに突っ込んだ。彼らはアメリカの農産物をヨーロッパにはこんで、スペイン銀貨に換え、インドからアヘンをマカオへ運搬し、広州で中国の茶葉や絹を仕入れて帰米した。 イギリスの商人がアメリカの商人に劣るとは考えられない。それは機構の差による。とすれば、ここは特許会社の独占を廃して、商人の自由競争にまかせたほうがよいのではあるまいか。・・・イギリス国会の1832年の決議は、そのような判断を背景にしていたのである。 東インド会社が独占していたといっても、プライベート・トレイダー(個人貿易商)と呼ばれる連中が、その下請けのようなかたちで、対中国貿易にかなり活躍していた。ジャーディン・マセソン商会やデント商会などは、その代表的な商社だった。 東インド会社は広州に特派委員を出していて、清国側ではそれを「大班」と呼んでいた。会社が対中国貿易の舞台からひきさがれば、このような会社の代表者もいなくなるわけだ。しかし、貿易の指導や監督をする仕事はなくならない。それどころか、かえって強化する必要があった。なにしろ大資本とがっちりした機構をもった東インド会社のかわりに、資本も組織も弱いプライベート・トレイダーばかりになるのだから。 そこでイギリス政府は、新たに駐清商務監督の職を設けることになった。領事のことである。会社の代表の代わりに、政府の代表が広州に派遣されることになったわけだ。 これはたんなる交替ではない。 大班は会社が派遣した社員にすぎないが、商務監督はいやしくも国家を代表する正式の官吏なのだ。女王陛下の官吏は、それ相応の処遇を受けねばならない。 初代商務監督はウィリアム・ジョン・ネーピアであった。47歳。海軍大佐。サーの称号を持つ。 しかしながら、清国側にすれば、東インド会社であろうが大英帝国であろうが、そんな選手交替は、こちらの知ったことではないのである。「世界史の窓」というサイトで、ジャーディン=マセソン商会について見てみました。ジャーディン=マセソン商会より 1832年、広州で設立されたイギリスの貿易商社。アヘン貿易などで大きな利益をあげた。 中国では怡和洋行(いわようこう)という。1832年に広州(の近くのマカオ)で、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。 1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。 アヘン戦争の最中に、当時ほぼ無人島だった香港に本店を移転し(香港で認可された最初の外国商社となった)、さらに上海にも支店を開いて大陸に進出(上海租界で最初に土地を取得し、建物を建てた。1920年に改築された同社ビルは現在も残っている)、清朝政府に対して借款を行うまでになった。 その後、中華民国となってからも鉄道の敷設権や営業権を得て、深くその経済に関わった。中華人民共和国成立後は活動を香港だけに限定していたが、中国の改革開放以降は本土との取引を再開し、現在でも活発な貿易、金融活動、ホテル経営などを展開している。【Episode 幕末日本でも活動】 ジャーディン=マセソン商会は横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初。その商館は山下町の現在のシルクセンターのところにあって「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。 19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だったといえる。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。『実録アヘン戦争』1:貿易品としての茶とアヘン
2018.07.28
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<『実録アヘン戦争』1>図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争貿易品としての茶とアヘンを、見てみましょう。p30~38<奇形通商> 茶は16世紀のはじめ、船員や伝道士によってヨーロッパに紹介され、はじめは薬屋で貴重薬としてはかり売りなどをしていたが、しだいに喫茶の風習が一般にひろまり、とくにイギリスでは、19世紀にはいってから「ティー・タイム」が習慣化し、茶の需要は急増した。 茶の供給源は中国にしかなかった。アッサムやセイロンで茶の栽培がはじめられたのは、後年のことである。だから、金額にしてもおびただしい額の茶葉を、イギリスは中国から輸入しなければならなかった。 ところが、それに対して、イギリス側では、適当な見返りの輸出品がなかった。毛織物の輸出に力を入れようとしたが、それがどうしても中国人の好みに合わないことがわかって、輸出量も伸び悩んだ。時計や望遠鏡など、たしかに乾隆帝の勅諭にもみえているように、奢侈品であって、無くてもすませるものだった。 中国の出超、イギリスの入超という、いわゆる「片貿易」になる。見返りの輸出品がないので、巨額の茶葉購買の代金は、どうしても現金決済となる。このようにして、イギリス船はメキシコ・ドル、スペイン・ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、そして茶葉を積んで帰るということになった。(中略) 中国で本格的に銀貨が出現するのは、辛亥革命以後のことで、孫文や袁世凱の像をもった一元銀貨が出まわり、前者は「孫頭」、後者は「袁頭」と称されていた。 おれはともかく、最も多く流通したのはメキシコ銀貨で、これは鷹の模様があったので「鷹洋」と呼ばれた。「洋」とは洋銀、つまり西洋の銀貨という意味である。 茶葉の輸出代金として、この洋銀が中国に流れ込み、そのまま流通するようになったわけだが、現銀が国内に溢れているとき、庶民はわりあい暮らしやすい。その反対のケースになれば、人民の生活は圧迫されるのだ。 茶葉を大量に輸出し、みるべき輸入品がないうちは、銀は国内にだぶついていた。ところが、みるべき輸出品どころか、こんどはとんでもない輸入品が、中国の市場に出現したのである。 アヘンである。 インド製のアヘンの輸入が、清国の貿易形態を逆転してしまった。イギリスはこのアヘンという新製品を開発することによって、万年入超という、アンバランスな対清貿易を正常化しようとしたのである。 それは成功した。 成功しすぎたのである。 イギリスが清国から輸入する茶葉の額よりも、清国に販売するアヘンの額のほうが、はるかに多くなったのだ。そうすると、これまでとは逆の現象が起こる。清国側としては、アヘン購入代金の見返りとして、茶葉の輸出だけでは足りなくなって、現銀を充てねばならなくなった。銀がどんどん海外に流出して行くのである。 極端な出超から、極端な入超へ。・・・このアブノーマルな劇的逆転は、とうぜん人民の生活のうえに、黒い影をなげかけた。(中略)<芥子の妖魔> 明の季時珍の著わした『本草綱目』に、 ・・・鴉片前代窄聞、近方有用之者。 とある。前代にはめったに聞かなかったものだが、最近の処方にこれを用いることがあるというのだ。だから、もともとアヘンは中国にあったものではない。opiumの語原はアラビア語であるから、アヘン吸食の風習は、おそらく中近東あたりが発生地であろう。 いったんアヘンにとりつかれると、なかなかそれをやめることができない。 ジャン・コクトオは ・・・芥子は気が長い。いちどアヘンをのんだ者はまたのむはずだ。アヘンは待つことを知っている。 とか、あるいは、 ・・・いちどアヘンを知ったあとでは、アヘンなしで生きることは難しい。 と、のべている。(中略) 明の万暦17年(1589)の関税表によれば、アヘン二斤の値は銀条二個に相当し、その税率は十斤につき銀二銭と定められていた。正式の輸入が認められていたわけだが、もちろん薬材としてであって、その数量も微々たるものであった。 このアヘンが、病気を治す薬としてではなく、嗜好品として中国にひろまったのは、清代にはいってからである。この本も陳舜臣アンソロジーR7に収めておくものとします。
2018.07.28
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピアフリカーンス語アランとシルヴィの南アフリカ滞在を、第4章「ミーアキャットが待っている」で見てみましょう。p49~54<Alain> すれ違う人の数がだんだん少なくなり、その格好はますます風変わりにはってきた。ここでは英語は一言も通じない。通じるのはアフリカーンス語だけ。観光客はすでにほとんどおらず、ましてフランス人など一人もいなかった…。 私はやっとバンガローと地図、それに英語で書かれたルール冊子を手に入れた。ここのルールもクルーガー・パークと同じで、《日没前に帰ってこなければいけない》と定められている。 バンガローも同じたぐいの軍隊式のもの。管理人の態度も同じでとっつきにくい。 しかし、いったんゲートを越えればこちらおもの。私は砂の道路を、以前は川だった大地の筋に沿って走った…。私は、いよいよミーアキャットの生息地帯に入った。そして、双眼鏡を首からつるし、ミーアキャットを探しはじめた。 三日間、私はバンガローに帰らなかった。みんなすっかり仰天して、私を探しまわったらしい。私のほうは二日を費やして、やっと遠くにミーアキャットの一群を見つけた。私はすぐに、そこからいちばん近い町アピントンに行き、シルヴィに電話をかけた。 「きみも絶対ここに来なきゃだめだ。とにかく素晴らしいよ」 「でも私、病気なのよ。仕事が思うようにいかなくて…気分が悪いのよ」 「だから来なきゃいけないんだよ。ここに来れば絶対治るって。とにかく、朝一番の飛行機に乗って飛んでこいよ。迎えにいくよ」(中略) 二人のスチュワードに両脇を抱かれた、ほっそりした人影が見えた。シルヴィはふらふらで、まるでゾンビだった。彼女は文字どおり私の腕のなかに倒れこんだ。 「だから言ったでしょ。熱があって、気分が悪いのよ。飛行機に乗っているあいだじゅう、うつらうつらしていたの。着陸したとき、外を見たらあっちこっちに《ルンガウェ》と書いてあるのが見えたので、アピントンではないと思って、またうとうとしはじめたの。飛行機がまた飛び立とうとしてエンジンを回しはじめたとき、アピントンには何時に着くのか訊いてみたの。そしたら、スチュワードがもう一度聞き直してから、『奥さま、ここがアピントンですよ。この飛行機はまもなく出発してしまいます!』と言ったのよ。ちょっと考えてみてよ、アラン。《ルンガウェ》って、アフリカーンス語で空港っていう意味なのよ! まったく、ここの人たちは、そこらじゅうに空港と書いているのに、空港の名前は書いていないのよ」 のちに彼女がこの話をしても、南アフリカの白人は誰も笑わなかった。みんな決まってこう言うのだ。 「だからアフリカーンス語を習わなければいけないんだよ」 確かにアフリカーンス語は南アフリカの第二の公用語で、通じる範囲は英語より広い。しかし、この言語は喉を使って音を出すのでなんとなく耳障りだし、何よりアパルトヘイトの言語なのだ。だから、私たあちはこの言語を習おうとは思わなかった。<Sylvie>(中略) 空港では、タラップを降りたところでアランが私を抱きかかえ、そのままワゴン車のところへ運んでくれた。彼が後ろの座席を倒してくれたので、私はそこに横になり、そのまま眠りこんだ。 だから、私は国立公園までの舗装されていない道路の様子をまったく見ていない。アランが赤い砂ぼこりのなかを突き抜けて車を走らせているとき、私はひたすら眠っていったのだ。目を明けたのは、車がのゲートの前に止まったときだった。 入口を通過したのち、アランは休みも取らず、さらに二百キロも車を走らせて、私をノソブ・キャンプに連れていった。この世界の果てには数軒の小屋が建っているだけ。レンジャーが一人と動植物を研究しにきている科学者夫妻しか住んでいなかった。 この科学者夫妻は、発信器を仕込んだ首輪を動物たちにつけたり、植物の標本を採取して、それを小さな実験室で分析したりしていた。奥さんがアネット、旦那さんがマイクというナイト夫妻は、のちに私たちの最良の友人となるのだが、このときにはほんの少ししか会う機会がなかった。『野生のティッピ』2:アランとシルヴィ(つまりティッピの両親)『野生のティッピ』1:ティッピとリーダー象アブーとの交流
2018.07.27
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピアランとシルヴィ(つまりティッピの両親)を、第2章「運命的な出会い」で見てみましょう。p28~35<Alain> シルヴィと出会ってから、しばらく時間がたったある日、私はショービジネスの仕事に嫌気がさして、ラジオに移った。そしてまたある日、ラジオの仕事に嫌気がさして、映画に関する調査の仕事に移った。 シルヴィは私の仕事を手伝ってくれていた。昼間はで仕事をし、夜は、氷をいっぱい詰めた容器をタイプライターの横に置いて、翌朝の4時まで映画の解説文を翻訳していた。眠くなると、顔をその氷で引っかくのだ。 私が家を出たことを二人の息子は快く思っておらず、以来、彼らには会っていなかった。息子たちにとって私は敵だった。それが私の気持ちを落ちこませていた。髪の毛が束で抜けるようになった。抜けたあとから血が出ていた。傷口を隔すために、帽子をかぶった…。この大仕事が終ったとき、私は心身ともに疲れはてていた。 シルヴィの懸命の努力にもかかわらず、私の気持ちは沈んだままだった。35歳にして、17もの職業を転々としてきたのだ。ショービジネス、ジャーナリズム、ラジオそして映画、自分の情熱をかきたてるものがいったいなんなのか、もうわからなくなっていた。 一時熱中したアフリカでの狩猟もする気にならなかった。思い起こしてみれば、アフリカ大陸はいつも私にとって憧れの土地だった。それは、子供のころに見たターザンの絵本にさかのぼる。そのあと、私はブッシュや動物たちのことを学び、プロのハンターになったりもした。でも、それも終り。もう猟銃を撃ちたいとは思わない。(中略) <Sylvie> 私たち二人は惨めな状態だった。この状態を脱するには、まずパリを離れることだ。私はドミニク・ペランに、パリからいちばん遠いの支社に派遣してくれるように頼んだ。ペランは、はじめいぶかるような様子だったが、本気だとわかると少しショックを受けたようだった。私は勇気を出して言ったことが無駄だったと思いこんで、ペランのオフィスを泣きながら飛び出した。 2週間後、ペランに内線電話で呼び出された。 「シルヴィ、会議室まで来てくれないか」 会議室には、私の知らない男の人が5,6人いた。 「きみに、南アフリカのの責任者のみなさんを紹介しよう。どうだ、ひとつヨハネスバーグで、彼らと一緒に働いてみないかね」 とドミニク・ペランは言った。 私はよく考えもせずに、ペランの提案をすぐに受け入れた。 「心から歓迎するよ。一緒に素晴らしい仕事をしようじゃないか」と、南アフリカ人の一人が言った。 帰宅してそのことをアランに告げると、彼の目はすぐに輝きはじめた。 《すごいぞ、アフリカに行けるなんて!》 アランは、飛行機のチケットと中古のニコンのカメラを2台買った。(中略)<Alain> 1984年6月、私はアフリカに向けて旅立ったはずなのに、着いたところはまるでアメリカ合衆国だった。飛行機からヨハネスバーグとその郊外を見ると、どうしてもロサンゼルスを思い起こしてしまう。しかも、こちらのほうがプールの数が多い。1軒にひとつのプールという光景なんて、ここ以外、世界のどこにもない。 住宅街が広がり、高速道路やインターチェンジもある…。 着陸前に、スチュワードが外気温をアナウンスした。私はしばらく理解できなかった。シルヴィもいぶかしそうに眉をひそめている。私たちが着いたのは、南半球の真冬、しかも標高千七百メートル以上の高地だったのだ。6月初旬でみぞれが降っており、気温は摂氏零度だった。 もうひとつの驚きは、空港が実に清潔だということだ。私の知っているほかのアフリカ諸国の空港とはまったく違う。南アフリカでは清潔さと秩序が支配していた。警官があちらこちらに立っていて、着ている制服はアメリカのアリゾナ州の警官の制服に似ていた。 この空港には、もうひとつ、誰の目にも明らかな特異な点があった。それは黒人たちの態度だ。黒人たちは、ふつう陽気で冗談を言いあって笑いころげたりするものだ。しかし、このヤン・スマッツ空港にいる黒人たちは、陰気で、話すときも私たちと目を合わせることはない。いつも前かがみで、言葉の最後に、かならず「ご主人さま」とつけ加える。 「鞄をお持ちしましょうか、ご主人さま?」 「タクシーはご入用でしょうか、ご主人さま?」といった具合だ。 ヨハネスバーグに到着して最初の数分間で、私たちは、アパルトヘイト(人種隔離政策)の容赦のない現実を、否応なく思い知らされることになる。 が空港まで迎えのために差し向けてくれたリムジンに乗って、私たちはヨハネスバーグ郊外のサントンに向かった。上流階級の人たちはみなサントンに住んでいる。ヨハネスバーグに住んでいるのは貧乏人と黒人だけなのだ。 サントンにはビルが立ち並び、ハイウェーがある。狭い田舎道ではなく、高速道路がある。そして、この幹線道路にはロールスロイス、ジャガー、BMW、メルセデスベンツなどが走っている。もちろん運転手付きで。 小型自動車にすれ違うこともあるが、その持ち主は決まって黒人か混血の人だ。 私たち二人がやって来たのは、世界で最も裕福で、清潔で、最高級車の走りまわる地域だった。そこにいるかぎり、ヨハネスバーグの中心がどうなっているのかわからなかった。アフリカらしさはどこにも見当らなかった。『野生のティッピ』1
2018.07.27
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図書館で『装幀列伝』という新書を、手にしたのです。パソコンでは装丁となって違和感があるのだが、装幀という見慣れない文字もやや鼻につくのです。ぱらぱらとめくってみると、その多彩な章立て、わりと独断的な趣きが気になるけど・・・まあ、借りて読んでみるか。帰って調べてみると、この本を借りるのは2度目と判明しました。で、(その2)としています。【装幀列伝】臼田捷治著、平凡社、2004年刊<「BOOK」データベース>より明治の洋装本以来、日本の装幀文化は、時を追って深みを増し、奥行きを広げていった。編集者による仕事、詩人による仕事、著者自装、画家、版画家、イラストレーターたちによる仕事。そして杉浦康平と杉浦を師と仰ぐデザイナーたち。また一方、独自の世界を築き上げたミニマリストたち。現代日本の装幀文化の水脈を、幅広く掘り起こした注目の書。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、その多彩な章立て、わりと独断的な趣きが気になるけど・・・まあ、借りて読んでみるか。rakuten装幀列伝イラストレーターの仕事を、見てみましょう。p78~82<装幀とかかわる多彩な才能> ぼくたちは 現代をイメージによって証言し そのコスモスの拡大を意識の根底として 創造的形象化をめざす イラストレーターの集団として 東京イラストレーターズ・クラブを結成する 1964年に発足した「東京イラストレーターズ・クラブ」のマニフェストの冒頭部分である。同クラブの結成は折からのイラストレーションへの関心の高まりを背景としている。 文面からも新時代の感性の担い手たらんとする自負と意気込みが伝わってくるが、イラストレーションのムーブメントは当時のグラフィックデザインと印刷メディアの裾野の広がり、それに高度成長にともなう広告表現の多様化などが要因として挙げられるだろう。 戦前には「挿絵画家」という呼称があったように、かつては文学と結びついた挿絵が広義のイラストレーションの世界の花形であり、それを担ったのは画家であった。ところが戦後に入って抽象表現主義や反芸術的な表現が隆盛になるにつれて、絵画は具体的な描写から離れて純粋化を深めていった。 その結果、文学世界と疎遠になった画家にかわって時代の語り部となったのがイラストレーターだった。東京イラストレーターズ・クラブの発足と同じ64年の『平凡パンチ』や『ガロ』の創刊に示されているように、サブカルチャー、アンダーカルチャーも胎動しつつあり、書物の枠組みを超える活躍の場を押し広げつつあった。 こうしたなか、宇野亜喜良、横尾忠則、原田維夫、和田誠、粟津潔、田名網敬一、伊坂芳太良、辰巳四郎、山藤章二、長尾みのる、井上洋介、山口はるみ、真鍋博らの個性派が相次いで登場する。 宇野のマックスファクターの化粧品広告と天井桟敷のポスターとか、横尾の状況劇場のポスターが一躍脚光を浴び、イラストレーターはたちまち時代の寵児となる。上記の多くはグラフィックデザイナーであり、同時にイラストレーターである人たちである。真鍋博は画家からの転身であった。 イラストレーションはグラフィックデザインの一分野から、次第に独立したジャンルとして市民権を獲得するに至る。もともと出版デザインと深いかかわりのあるイラストレーターは、当然の成り行きとして装幀で活躍する人たちが多かった。後続の世代からも、蓬田やすひろ、小島武、湯村輝彦、長友啓典、黒田征太郎、河村要助、矢吹伸彦、渋川育由、安西水丸、三嶋典東、原田浩、南伸坊、唐仁原教久ら多彩な才能が出版とのかかわりを深めている。 イラストレーターの装幀の特徴は、大半が彼ら自身のイラストを装画として使うという点では、画家が自らの絵をあしらうのと同様である。違いはグラフィックデザインからの出身者が多いことから、画家が持ち合わせない印刷知識に通じていることと、ほんの構造性を踏まえたトータルな取り組みが本来の装幀のあり方であるとする、ブックデザインの新しい認識を共有していることだろう。 横尾忠則は1978年に発表した文章で次のように書いている。「ぼくはブックデザインを時間と空間の芸術だと考えている。だからデザインする時は映画の編集や、または彫刻を創るような気持ちで作業する。 本の表紙は本の顔である。できるだけ魅力的な表情が必要だ。 まず読者の手に触れさせなければならない。次は手ざわりである。彫刻的感触とでもいうか、手の中で本が生き物と化すこと。表紙、見返し、化粧扉、そして本文へと読者の意識を導入していく過程は、映画のタイトルから導入部に引っぱっていく方法論とよく似ている。 特に写真や絵の多い本のデザインには、こうしたエディトリアル(編集)の才能が要求される。そういう意味でもブックデザインは映画を立体的にしたようなものだ」(『ARTのパワースポット』、ちくま文庫)ウン 横尾忠則が説くブックデザインがええでぇ♪この本の論調に、なんだか上から目線が感じられると思ったが、著者は雑誌『デザイン』の編集長だった人だそうで・・・道理で。
2018.07.27
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「わりと古書」でしょうか♪<市立図書館>・国境を越えて愛されたうた・姫椿<大学図書館>・実録アヘン戦争・装幀列伝図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【国境を越えて愛されたうた】竹村淳著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりラテン音楽の名曲の数々、日本、インドネシア、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの不朽の名歌の誕生からヒットまでの知られざる歴史とエピソードを綴る!!それぞれの歌のお勧めCDと、YouTubeで観ることができるお勧め動画の案内も掲載!!【目次】上を向いて歩こう(SUKIYAKI)-日本/エル・マニセロ(El manicero)~南京豆売り(THE peanut vendor)-キューバ/アンダルシーア(Andalucia)~そよ風と私(The Breeze and I)-キューバ/エル・チョクロ(El Choclo)~火の接吻(Kiss of Fire)-アルゼンチン+アメリカ/エル・アレグリート(El arreglito)~アバネーラ(Habaner a)スペイン+フランス/誰も知らない私の悩み(Que nadie sepa mi sufrir)~群衆(La foule)-アルゼンチン+フランス/さらば草原よ(Adi´os Pampa mia)/青い背広で~Mi Geisha esta triste~女の嘆きーアルゼンチン/日本/ソンブラス“ただ影だけ”(Sombras nada mas)-アルゼンチン+メキシコ/ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo)-インドネシア/ドナドナ(Dona Dona)~ダナダナ(Dana Dana)ベラルーシ+アメリカ〔ほか〕<読む前の大使寸評>追って記入rakuten国境を越えて愛されたうた【姫椿】浅田次郎著、文藝春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より飼い猫が死んでしまったOL、経営に行き詰まり、死に場所を探す社長、三十年前に別れた恋人への絶ち難い思いを心に秘めた男、妻に先立たれ、思い出の競馬場に通う大学助教授…。凍てついた心を抱えながら日々を暮す人々に、冬の日溜りにも似た微かなぬくもりが、舞い降りる。魂を揺さぶる全八篇の短篇集。【目次】(「BOOK」データベースより)シエ(xi`e)/姫椿/再会/マダムの咽仏/トラブル・メーカー/オリンポスの聖女/零下の災厄/永遠の緑<読む前の大使寸評>おお 浅田次郎の初期の短篇集ではないか♪出版当時には名前も知られていなくて、借りることもなかったでしょうけど。rakuten姫椿【実録アヘン戦争】陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データ無し<読む前の大使寸評>かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。amazon実録アヘン戦争【装幀列伝】臼田捷治著、平凡社、2004年刊<「BOOK」データベース>より明治の洋装本以来、日本の装幀文化は、時を追って深みを増し、奥行きを広げていった。編集者による仕事、詩人による仕事、著者自装、画家、版画家、イラストレーターたちによる仕事。そして杉浦康平と杉浦を師と仰ぐデザイナーたち。また一方、独自の世界を築き上げたミニマリストたち。現代日本の装幀文化の水脈を、幅広く掘り起こした注目の書。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、その多彩な章立て、わりと独断的な趣きが気になるけど・・・まあ、借りて読んでみるか。rakuten装幀列伝************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き318
2018.07.26
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図書館で『お江戸風流さんぽ道』という文庫本を手にしたのです。上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。【お江戸風流さんぽ道】杉浦日向子著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>より粋(すい)の上方、粋(いき)の江戸。吸ったら吐き出す江戸の「いき」。情もお金も溜め込まない気っ風のよさを身上に、即席グルメに、江戸前ファッション、長屋暮らしに、色に恋。江戸の庶民の息づかいを生き生きと今に伝える江戸案内。初詣でに始まり、桜見、川遊び、花火大会、大相撲見物などの行事や娯楽、洒落を駆使した言葉遊び、そして日々の生活や町の様子を概説する第一部「ごくらく江戸暮らし」。浮世絵や古地図を参照しながら四回にわたって行われた“講義録”を収録した第二部「ぶらり江戸学」。面白さも二倍の、杉浦版「江戸入門書」。<読む前の大使寸評>上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。rakutenお江戸風流さんぽ道江戸前の食生活を、見てみましょう。p189~191<「おかず」は食事、「料理」は行事> 江戸の食べ物には、ロクなものはありません。いまだに上方の方にバカにされているように、自慢できるものは、正直なところ、ないんです。でも江戸っ子たちが、これが江戸の食べ物なんだ、これが好きなんだと、自慢していたようなフシのあるものがある。で、今日は、食べ物についての川柳を抜き書きしてきましたので、これに沿いつつ、ご説明していこうと思いますが、その前に枕として、一般的な食生活についてお話しします。 一般の庶民、つまり長屋の熊さんや八っつあんクラスの人たちですね。この層が一番厚くて、江戸に住んでいる人間の八割方は、長屋住まいの階層です。この人たちがふだん何を食べていたかといいますと、まずご飯です。ほとんどご飯です。1日の総カロリー摂取量の90%以上を、ご飯で補っていました。その残りの1割が、おかずであったりおやつであったりするわけで、いかにご飯の量が多いかということが実感できるかと思います。 大人の江戸っ子は、1日平均五合食べたといいます。1日に、です。五合飯。当時は朝飯と夕飯、1日2食なんです。江戸後期にやっと3食です。つまり、1食2合半ですね。2合半のご飯は、どんぶりにてんこ盛りにして、2杯です。すごい量です。それが9割ですから、おかずはほとんどないと考えてけっこうです。 一番ポピュラーなおかずは、たくあんです。江戸前のたくあんというのは、非常に塩辛かったんだそうです。上方の上品なたくあんとは比べものにもならず、「江戸のたくあんは塩よりも辛い」といわれていました。江戸前のたくあんのしっぽ、一番硬くて締まった細いところをちょんと切って、ねぼけた人の口の中にポンと入れると、目がパチンと覚めたというくらい、辛い。そんな塩より辛いたくあん二切れで、2合半をかっ込む。これが平均的な食生活です。 ほかには、佃煮とか煮豆…こちらも、醤油より辛いというぐらい、からーく煮しめたものですが、それをチョコチョコとおかずにする。あとは嘗め味噌…これも金山寺味噌のような豪華なものではなくて、ただほんとに味噌を焼いただけの、さっぱりした、甘味のないものですが、この焼き味噌で、ご飯をかっ込む。結局、塩っ辛いもので大量のメシをかっ込むというのが基本でした。ウーム 上方を意識した日向子さんのかなり自虐的なお話でしたが、このあと・・・握り鮨と蕎麦の話で挽回するのです。『お江戸風流さんぽ道』3:江戸の時刻『お江戸風流さんぽ道』2:物見『お江戸風流さんぽ道』1:桜見
2018.07.26
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『朝日デジタルの書評から』フォームや『読みたい本』フォームを作っているのだが、これを市図書館の予約に利用しようと、思い立ったのです。これまでの予約内容と予約候補は以下のとおりです。<予約中>・村上春樹『騎士団長殺し第一部』(4/12予約済み、副本33、予約992)・村上春樹『騎士団長殺し第二部』(4/12予約済み、副本33、予約833)・原田マハ著『スイート・ホーム』(4/16予約、副本10、予約149)現在54位・アマゾンのすごいルール(5/18予約、副本1、予約15)現在11位・加村一馬著『洞窟おじさん』(6/07予約、副本2、予約37)現在29位・EVシフト(6/28予約、副本1、予約5)現在3位・半藤一利『歴史と戦争』(7/11予約、副本10、予約120)現在109位・『熱帯雨林コネクション』(7/13予約、副本1、予約0)現在1位・与那覇潤『知性は死なない』(7/25予約、副本4、予約24)<カートで待機中>・N・ネフスキー著『月と不死』・8月の果て・ミヒャエル・エンデ『モモ』・ある日うっかりPTA(副本4、予約39)<予約候補>・新説・明治維新:図書館未収蔵・オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン論』:図書館未収蔵・原田マハ『楽園のカンヴァス』・重松清『ビタミンF』:阿刀田さんが「セッちゃん」をお奨め・デジタルエコノミーはいかにして道を誤まるか:図書館未収蔵・高橋源一郎著「読んじゃいなよ」・南伸坊『シンボーの絵と文』図書館未収蔵・サピエンス全史(上・下):図書館未購入・フィリップ・ボール『かたち』・カズオ・イシグロ著『癒されざる者たち』図書館未購入・『ウォルマートがアメリカをそして世界を破壊する』図書館未購入・ペンの力:図書館未購入・銃・病原菌・鉄(上)・暗い時代の人々・バーバラ・タックマン著『八月の砲声』外大の蔵書・ネルケ無方著『迷える者の禅修業』・スティーヴ・スターン『どいつもこいつも昼行灯』図書館未購入・ボリス・ヴィアン著『うたかたの日々』・『都会の鳥たち』図書館未購入・『一汁一菜でよいという提案』・中島岳志著『血盟団事件』・・・西図書館の棚で見た・新シルクロード1:楼蘭、トルファン・『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』・フィールドサイエンティスト 地域環境学という発想・禁じられた歌(田)・私家版鳥類図鑑(神戸市図書館では蔵書なし)<予約分受取:6/15以降> ・頭に来てもアホとは戦うな!(12/26予約、6/15受取)・真山仁著『オペレーションZ』(1/05予約、6/15受取)・変調「日本の古典」講義(5/13予約、6/30受取)・アメリカ 暴力の世紀(1/15予約済み、7/04受取)・菅ちゃん英語で道案内しよッ! (2/28予約、7/04受取)・萩野アンナ著『カシス川』(1/20予約、7/13受取)・重松清『たんぽぽ団地』(7/03予約、7/13受取)・『オンブレ』(5/02予約、7/13受取)【騎士団長殺し第一部】村上春樹著、新潮社、2017年刊<「BOOK」データベース>よりその年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降っていたが、谷の外側はだいたい晴れていた…。それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕れるまでは。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(4/12予約済み、副本33、予約992)>rakuten騎士団長殺し第一部【スイート・ホーム】原田マハ著、ポプラ社、2018年刊<「BOOK」データベース>より幸せのレシピ。隠し味は、誰かを大切に想う気持ちー。うつくしい高台の街にある小さな洋菓子店で繰り広げられる、愛に満ちた家族の物語。さりげない日常の中に潜む幸せを掬い上げた、心温まる連作短篇集。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(4/16予約、副本10、予約149)>rakutenスイート・ホーム【アマゾンのすごいルール】佐藤将之著、宝島社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりだからAmazonは成功した!Amazonの最大の武器は超合理的な「仕事術」だった。アマゾン ジャパンの立ち上げメンバーがジェフ・ベゾス直伝のメソッドを初公開。最速×最高の結果を出す仕事術と14の心得。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:5/18予約、副本1、予約15>rakutenアマゾンのすごいルール【洞窟おじさん】加村一馬著、小学館、2004年刊<作品情報>より昭和35年、13歳の少年は「両親から逃げたくて」愛犬シロを連れて家出した。以来、彼はたったひとりで、足尾鉱山の洞窟、富士の樹海などの山野で暮らしヘビやネズミ、コウモリに野ウサギなどを食らい命をつないできた。発見されたとき、少年は57歳になっていた。実に43年にわたる驚愕のサバイバル生活。―これは現代のロビンソン・クルーソーの記録である。<読む前の大使寸評>驚愕の自叙伝というか、平成の冒険的ドキュメンタリーではなかろうか。図書館で探してみよう。<図書館予約:6/07予約、副本2、予約37>amazon洞窟おじさん【EVシフト】風間智英, 鈴木一範著、東洋経済新報社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりプレミアム市場の先駆者テスラ/販売台数世界一位の中国BYD/EVシフトに出遅れたトヨタ・ホンダ/カギを握る電池開発の最前線/これから消える部品・増える部品/ドイツと中国の共同覇権構想/米国ファーストの影響/ガラパゴス化が進む日本/自動車産業の水平分業化/自動運転とシェアリングサービス/電力マネジメント問題/「走る蓄電池」としてのビジネス/クルマのアズ・ア・サービス化、ほか。業界構造、勢力図、産業、暮らし。電気自動車が世界を変える。<読む前の大使寸評>販売台数世界一位の中国BYDのEVが気になるのです。つまり、技術的にイマイチであっても、EV用インフラも含めて集中的に量産化を図る中国は脅威ではないか。<図書館予約:(6/28予約、副本1、予約5)>rakutenEVシフト【歴史と戦争】半藤一利著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>より幕末・明治維新からの日本近代化の歩みは、戦争の歴史でもあった。日本民族は世界一優秀だという驕りのもと、無能・無責任なエリートが戦争につきすすみ、メディアはそれを煽り、国民は熱狂した。過ちを繰り返さないために、私たちは歴史に何を学ぶべきなのか。「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」「戦争の恐ろしさの本質は、非人間的になっていることに気付かないことにある」「日本人は歴史に対する責任というものを持たない民族」-80冊以上の著作から厳選した半藤日本史のエッセンス。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/11予約、副本10、予約120)>rakuten歴史と戦争【熱帯雨林コネクション】ルーカス・シュトラウマン著、緑風出版、2017年刊<「BOOK」データベース>よりボルネオの熱帯雨林ほど美しいものはないという。その地球上で最も豊かな生態系を、マレーシア・サラワク州の独裁政権が、乱伐し、どのように破壊していったのか?抵抗するリーダーや内部告発したものは抹殺され、先住民族の森の民はブルドーザーに追われ、伝統的な生活手段を奪われた。汚職と不正乱伐で肥え太り、マネーロンダリングで不動産投資に明け暮れる“マレーシア木材マフィア”=タイブ帝国の驚くべき実態を暴露する。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/13予約、副本1、予約0)>rakuten熱帯雨林コネクション【知性は死なない】與那覇潤著、文藝春秋、2018年刊<「BOOK」データベース>より平成とはなんだったのか!?崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探してーいま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!【目次】はじめに 黄昏がおわるとき/平成史関連年表 日本編/第1章 わたしが病気になるまで/第2章 「うつ」に関する10の誤解/第3章 躁うつ病とはどんな病気か/平成史関連年表 海外編/第4章 反知性主義とのつきあいかた/第5章 知性が崩れゆく世界で/第6章 病気からみつけた生きかた/おわりに 知性とは旅のしかた<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(7/25予約、副本4、予約24)>rakuten知性は死なない【月と不死】N・ネフスキー著、平凡社、1971年刊<出版社>より著者は日本民俗学界の異色の存在として知られるロシア人学者で,柳田国男,折口信夫らと親交を結び,沖縄,東北などの民俗を採録した。本書は日本語で発表された論文・書簡を網羅した唯一の著作集。<読む前の大使寸評>ロシア人にして、日本民俗学界の異色の存在が気になるのです。<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>heibonsha月と不死【8月の果て】柳美里著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より日本統治下の朝鮮・密陽に生を受け、マラソンでの五輪出場を目指した亡き祖父・李雨哲。そのうしろ姿を追い、路上を駆けることを決意した柳美里。ふたりの息づかいが時空を越えて重なる瞬間、日本と朝鮮半島のあわいに消えた無数の魂が封印を解かれ、歴史の破れ目から白い頁に甦る。偉丈夫の雨哲と美丈夫の弟・雨根。血族をめぐる、ふたつの真実の物語が、いま日本文学を未踏の高みへと押し上げる。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakuten8月の果て【モモ】ミヒャエル・エンデ著、岩波書店、2005年刊<「BOOK」データベース>より町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえずカートに入れておこう)>rakutenモモ図書館予約の軌跡129予約分受取目録R12中央図書館新着図書リスト図書館情報ネットワーク 蔵書検索システム図書館予約の運用にも慣れて、速攻で入手するコツも何となくつかんだと思うのだ♪・朝日書評欄で探すとしたら、3ヶ月前掲載くらいのモノが狙い目かも。・専門的すぎるほどのモノは、予約0となっていることが多い。・受取館に収蔵しているモノは、移送する手間が省けるので早くなるだろう。・本屋の店頭に出た直後の新刊本・ウィキペディアでめぼしい著作を探す
2018.07.26
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2本立て館で観た映画を集めてみました。ま~個人的な鑑賞目次みたいなものです。R9:「彼らをつき動かすもの」を追記・彼らをつき動かすものH30.7.21・覚悟をもった嘘!H30.6.28・時空を超えて・・・H30.5.24・今年一番の「衝撃」と「温もり」H30.4.14・静と動・・・H30.3.16・【年末】掘り出し物特集H29.12.25・家族の歴史H29.10.04・子供たちのためH29.6.29・ヨーロッパの景観H28.11.18・噂と真実・・・H28.11.7・人生いたるところに青山ありH28.9.8・暑中お見舞い2本立てH28.8.15・新春の2本立てH28.1.1・仲間と家族、大切なのは絆・・・ H27.11.24・行動すると、何かが・・・ H27.11.03・使命を背負う者は・・・H27.10.04・家族以上の絆H27.8.04・初老向け二本立て映画H27.3.28・生きた証H26.10.30・不良老年2本立てH26.09.20・文芸2本立てH26.8.14・離婚の危機を乗りこえたH26.3.09・頑張るフランス女H26.2.06・大晦日に2本立て館へH26.1.5・豪華2本立てを観たH25.9.28・屋根裏部屋のマリアたちH25.4.24・「キリマンジャロの雪」と「星の旅人たち」H24.12.20・全天候型ロボジーと自称しているのでH24.8.11・マーガレット・サッチャー鉄の女の涙H24.7.8・ゴーストライターH24.4.11・ハートロッカー2010.09.07・グラントリノ2009.08.14・ナイロビの蜂(The Constant Gardener) 2006.09.21以降、折りをみて追記予定。
2018.07.25
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図書館で『野生のティッピ』という本を、手にしたのです。冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>冒頭にティッピの写真が数枚載っているが、どれにもティッピの魅力的な能力が写っています。・・・これは期待できそうである。rakuten野生のティッピティッピとリーダー象アブーとの交流を、見てみましょう。p19~21<象と会話するティッピ> ティッピはうれしさのあまり一瞬哺乳瓶の乳首を放し、いきなりよく響く笑い声を上げた。彼女の笑い声はいつも、その体に似合わずとても大きい。ティッピの場合、楽しいものすべてに人並み以上の関心を示し、それが節度など関係なく突然爆発するのだ。ティッピはアブーに触れようと近づいていった。 アランと私は、アブーは何も危害を加えないとティッピが確信していることに驚いたものの、ティッピを引き止めることはせず、ティッピから十メートルほどのところで立ち止まった。調教師のランドルがいるとはいえ、私たちは二人とも息が詰まるような思いだった。 そのランドルでさえ口もきけずに唖然としている。調教は後回しになった。そのときの出来事、地球上で最も大きな動物と小さな赤ん坊が向かいあっている光景に、私たちはみな一様に声が出なかった。 アブーはできるかぎりやさしく、そっとひざまずき、地面に身を伏せた。ティッピはさらに前に進み、アブーの大きな足の硬い皮を手で撫で、それからそれをよじ登ろうとした。いたずらな妖精が山頂を目指そうというのだ。するとアブーは、鼻先でその小さな訪問者の小さな顔をそっと調べた。また笑い声が大きく響く。ティッピがくすぐったがっているのだ。 ランドルが感嘆の声を上げた。 「こんなのは初めて見た。ティッピ・ベイビー、きみは本当に大胆だな。シルヴィ、教えてほしいね。きみはあの哺乳瓶にいったい何を入れているのかね! それにおまえもだよ、アブー。おまえも驚いたんじゃないか?」 人間と同じように象にも個性がある。アブーは本当にやさしい性格をいている。28歳、つまり壮年に達したこの5トンの雄の巨象は、南アフリカのクルーガー・パークという国立公園内で生れたが、親を亡くし、その後アメリカに売られた。しかし、のちにランドル・ムーアによってまたここに帰ることになった。 1991年9月のその日、ティッピはアブーの心を奪い、彼の前で安心しきってじっと立ちつづけるのだった。
2018.07.25
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図書館で『お江戸風流さんぽ道』という文庫本を手にしたのです。上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。【お江戸風流さんぽ道】杉浦日向子著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>より粋(すい)の上方、粋(いき)の江戸。吸ったら吐き出す江戸の「いき」。情もお金も溜め込まない気っ風のよさを身上に、即席グルメに、江戸前ファッション、長屋暮らしに、色に恋。江戸の庶民の息づかいを生き生きと今に伝える江戸案内。初詣でに始まり、桜見、川遊び、花火大会、大相撲見物などの行事や娯楽、洒落を駆使した言葉遊び、そして日々の生活や町の様子を概説する第一部「ごくらく江戸暮らし」。浮世絵や古地図を参照しながら四回にわたって行われた“講義録”を収録した第二部「ぶらり江戸学」。面白さも二倍の、杉浦版「江戸入門書」。<読む前の大使寸評>上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。rakutenお江戸風流さんぽ道振り売り江戸の生活を、見てみましょう。まず江戸の時刻から。p80~85<十 時刻> 江戸時代の時刻は、 季節による昼夜の比率から毎々割り出される不定時法。 ですから、春夏秋冬一刻の長さが伸び縮みします。 今なら混乱してしまいそうですが、 自然のリズムで暮らす江戸の人々には、こちらのほうが便利でした。■時計に縛られない自在な暮らし 時計を持たない庶民の暮らしには、朝、昼、夕方そして夜の区別で十分でした。起床時間も職種でバラバラ、食事は定時ではなく空腹時にとります。自営業ならば日によっても労働時間が違い、季節によって職種を変える人も多く、フリーターに近い世渡りが奇異ではありませんでした。一斉に通勤・下社という集団移動は稀だったのです。 引け四つ(夜の十時前後)に各町内は一部の木戸を閉めますが、あらかじめ木戸番に「今日は遅いよ」とひと言かけておけば、通れます。本来は、町を区切る木戸を閉めたあとは通行が規制されます。これにより不審者の夜間通行を阻止することができました。 かといって夜遊びがかなわないものかといえば、大丈夫。町内の住人であると日頃からはっきり知られていれば「顔パス」でオーケー。とはいえ、度重なれば、「また、おまえか」と呆れられるのは必定です。門限破りもほどほどにということです。 時間ばかりか、江戸には曜日もなかったので、週休はなく、土日・平日の別もありません。盆と正月以外に公の休日は定められていませんから、連休に行楽地がごった返し、道が大渋滞するということもありません。■時を感じる手段 外で仕事をするほど、お天道様すなわち時刻の推移に敏感です。例えば、天秤棒の前後の籠に商品をぶら下げて売り歩く「振り売り」は、空を見て仕事をします。晴れならば長く稼ぎ、雨だと早じまい。気分の問題もありますが、天気に対して感覚が鋭く、風向きや湿気、雲行きなどによる仕入れの判断も的確です。「雲行きが怪しいから、少なめに仕入れて手前で切り上げよう」という具合で、空の荷を持ち帰って長屋の戸を閉めたとたん、雨がザーッと降るなんてことも珍しくないとか。 時計も曜日もなかった江戸ですが、五感で感じる時の流れには敏感です。太陽の位置で時刻を知り、月の位置で日にちを知り、星を見て季節の移ろいを読み取ります。江戸の人の月への関心は深く、月の微妙な欠け方の違いを、「十六夜・いざよい」「十七夜・たちまちづき」などと風雅に呼び分けています。『お江戸風流さんぽ道』2:物見『お江戸風流さんぽ道』1:桜見
2018.07.25
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久々にくだんの2本立て館に繰り出したが・・・・今回の出し物は「スリー・ビルボード」と「15時17分、パリ行き」であり、館主の設けたテーマは「彼らをつき動かすもの」となっています。毎度のことながら、2作品を選ぶ館主のセンスには感心しているのですが、今回のテーマとしては、いいんじゃないでしょうか♪【スリー・ビルボード】マーティン・マクドナー監督、2017年、米英制作、H30.07.21観賞<Movie Walker作品情報>よりとある田舎町で起きた殺人事件にまつわる騒動の行方を描き、数々の映画賞で話題を呼んだクライム・サスペンス。『ファーゴ』でアカデミー賞主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンドが、亡くなった娘を思うがゆえに起こした騒動によって孤立していく母親を、ウディ・ハレルソンが町の人々から支持される警察署長を演じる。<大使寸評>娘をレイプされ殺された者の怒りに比べれば、もう何も恐れるモノはないわけで・・・過激な母親は警察署に火炎瓶を投げつけるのです。この過激なシーンが、案外とストレス発散に効くわけでおます♪警察署長を演じたジョージ・C・スコットには見覚えがあるのだが、「パットン大戦車軍団」のパットンだったんだ。Movie Walkerスリー・ビルボードこの映画館では毎回、幕間にお昼の弁当を食べるのだが・・・・今回は駅キオスク買ったおにぎり3個でした♪【15時17分、パリ行き】クリント・イーストウッド監督、2018年、米制作、H30.07.21観賞<Movie Walkerストーリー>より巨匠、クリント・イーストウッド監督が、2015年に起きた実在の事件を緊迫感たっぷりに描き出すサスペンス。列車内で銃を発砲したイスラム過激派の男から乗客を守ろうとした3人のアメリカ人の物語を、事件の当事者である本人をそのままキャスティングして映画化。実際の乗客も数多く参加したほか、事件が起きた場所でも撮影を敢行した。<大使寸評>クリント・イーストウッド監督の実話シリーズ(笑)ということで観たのだが・・・実話に基づく話を当事者本人が演じる映画なんて、奇をてらいすぎていて、映画完成度としては無理があったのかも。Movie Walker15時17分、パリ行き今回は「15時17分、パリ行き」を観たいので繰り出したのだったが、結果、B面の「スリー・ビルボード」が良かったわけで・・・この二本立て館でよくあるケースでおました♪パルシネマ上映スケジュール
2018.07.24
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<大学図書館でDVD観賞(その19)>大学図書館で観たDVD映画のその後です。このところ、鑑賞ペースが落ちていたが・・・調べてみたら2年以上もご無沙汰していたのです。で、そろそろ大学図書館のDVD鑑賞を再開しようと思ったのです。・百円の恋****************************************************************************【百円の恋】武正晴監督、2014年制作、2018.7.23観賞<movie.walker作品情報>より故・松田優作氏の出身地である山口・周南映画祭に新設された第1回松田優作賞グランプリ脚本を「イン・ザ・ヒーロー」の武正晴監督が映画化。不器用でどん底の生活を送っていた32歳の女が、中年ボクサーと出会い、ボクシングを通して変化していく姿を描く。出演は「かぞくのくに」の安藤サクラ、「アウトレイジ ビヨンド」の新井浩文、「ハラがコレなんで」の稲川実代子。第27回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門作品賞受賞。 <大使寸評>「立て イチコ!」思わずエールが出そうになったぜ。これまで、ボクシング映画は『ロッキー』とか『ミニオンダラー・ベイビー』など観てきたが・・・泣いた覚えは、ないなあ。では、この映画を観て涙が出てきたのはなぜでしょうね?セコンド陣がタオルを投げずに戦わせたのは、イチコの愚かしいほどのハングリーさを見知っているからでしょう。タオルを投げないのも武士の情というべきか♪movie.walker百円の恋それにしても、安藤サクラの役者根性が素晴らしい。体型が変わるほどトレーニングを積み・・・ほれぼれするステップを見せてくれます♪****************************************************************************大学図書館でDVD観賞(その18):ボブという名の猫 大学図書館でDVD観賞(その17):「0.5ミリ」、「ディア・ドクター」
2018.07.24
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図書館で『敵機に照準』という本を手にしたのです。渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。【敵機に照準】渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。<読む前の大使寸評>渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。rakuten敵機に照準
2018.07.24
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図書館で『お江戸風流さんぽ道』という文庫本を手にしたのです。上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。【お江戸風流さんぽ道】杉浦日向子著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>より粋(すい)の上方、粋(いき)の江戸。吸ったら吐き出す江戸の「いき」。情もお金も溜め込まない気っ風のよさを身上に、即席グルメに、江戸前ファッション、長屋暮らしに、色に恋。江戸の庶民の息づかいを生き生きと今に伝える江戸案内。初詣でに始まり、桜見、川遊び、花火大会、大相撲見物などの行事や娯楽、洒落を駆使した言葉遊び、そして日々の生活や町の様子を概説する第一部「ごくらく江戸暮らし」。浮世絵や古地図を参照しながら四回にわたって行われた“講義録”を収録した第二部「ぶらり江戸学」。面白さも二倍の、杉浦版「江戸入門書」。<読む前の大使寸評>上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。rakutenお江戸風流さんぽ道ホトトギスp38~42<五 物見> 百万都市お江戸も、一足のばせば自然がいっぱい。 郊外の野や川、磯へとくり出し、親しい人たちと自然に囲まれ、 旬の味覚を堪能するのが江戸っ子の四季折々の行楽です。 日常からちょっとだけ離れる遠足は、 町暮らしのリフレッシュには欠かせません。■梅、桜、桃から潮干狩り、春の行楽は盛りだくさん 江戸は超人口過密地帯です。窮屈さでいえば、東京を上まわるかもしれません。ですから、ふらり出かける近郊への日帰り旅行は、何よりの行楽でした。江戸の近郊は、清らかな水や豊かな緑に包まれており、四季折々の行楽を楽しむことができました。(中略)■目には青葉、山杜鵑、初鰹 初夏に欠かせない江戸の風物といえば、「目には青葉、山杜鵑、初鰹」です。この三つが揃わなければ、夏が来た気がしません。何でも一番乗りが好きな江戸っ子は、夏を誰よりも早く感じようと、腕まくりをするわけです。 まず「目には青葉」。視界がひらけた品川や洲崎の海辺や、飛鳥山、道灌山など、郊外で新緑を満喫。これは比較的簡単ですね。 次に「山杜鵑」。正式には山からおりてくる杜鵑を見聞きすることですが、もっと広く解釈して、杜鵑の夜鳴きや空高く舞い上がる雲雀の鳴き声を聴きました。バードウォッチングは1年中盛んでしたが、夏は、この二つの鳥に限定されます。 そして仕上げは「初鰹」を頬張ること。これが、江戸ではとんでもない値段で売られます。江戸の下級士族が、1年3両強で暮らした時代に、初鰹1本に2両の値がつきました。その初鰹が江戸中でたったの十数本しか出まわらない年もある。 お金持ちしかかえないのかというと、さにあらず。江戸の大店は財布のヒモが固く、初物などありがたがらず、目もくれません。有名料理屋以外で買うのは庶民です。それも日銭で暮らしている、威勢のいい職人衆。魚売りもちゃんと承知で、一目散に職人の長屋を流します。 一人で1本買いあげて大盤振る舞いといきたいところですが、手に余れば共同購入して初物の贅を味わいました。『お江戸風流さんぽ道』1
2018.07.23
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図書館で『言葉はこうして生き残った』という本を、手にしたのです。著者の河野さんは雑誌「考える人」の編集長も務めた人だそうで・・・期待できそうである。【言葉はこうして生き残った】河野通和著、ミシマ社、2017年刊<「BOOK」データベース>より「考える人」編集長メルマガ、待望の書籍化。膨大な書籍群の中に飛び込み、6年半かけて発見しつづけた、次代へつなげたい知と魂!!300超のメルマガから厳選した、必読の37本!!<読む前の大使寸評>著者の河野さんは雑誌「考える人」の編集長も務めた人だそうで・・・期待できそうである。rakuten言葉はこうして生き残った「ドストエフスキーと愛に生きる」というドキュメンタリー映画のお話です。p336~340第7章 翻訳という夢を生きて なんともイヤな事件です。『アンネの日記』や関連書籍が、東京や横浜の図書館で300冊以上も破られていたという事件です。誰が、なぜ?というのはまだ憶測の域を出ませんが、まったくの気の滅入る話です。加えて、ロシアがウクライナに軍事介入するという動き。情勢は次第に緊迫の度を増しています。 そんなタイミングで、たまたまこの二つの出来事につながりのある映画が公開されました。2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で優秀賞・市民賞を受賞した「ドストエフスキーと愛に生きる」です。 全篇が詩情あふれる映像と、美しい言葉の響きに満たされた圧倒的な作品です。気の滅入る事件の“口直し”はもちろんのこと、かき乱された心をも安らげてくれる、静謐で、ゆたかな時間がそこにはゆったりと流れています。 主人公はドイツを代表するロシア文学の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーさん。すでに2010年11月に87歳で亡くなっていますが、映画は最晩年の2006年から撮影されました。原題の「五頭の象」とは、90年代から彼女が新訳に着手したドストエフスキーの五大長編小説…「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」を巨大な象に見立てたものです。 タイトルだけを眺めると、世界文学の偉大な作品に生涯を捧げた「文学的」なドキュメンタリーだと予想する人が大半でしょう。私自身も多分にそうでした。 ところが、見終わってしまうと、彼女が優れた翻訳者であることなど、実は「どちらでもいいこと」(柴田元幸)に思えてしまうほど、もっと根源的なテーマ…生きることについての深い省察に導かれる作品なのだと気づきます。 たしかに、翻訳家としての彼女の献身的な仕事ぶりが作品の基調になっていることは間違いありません。翻訳の口述に取りかかろうとする瞬間の、最初のひと言が発せられるまでのおごそかな緊張感。原作の世界をありのままに感受し、さらにそれを別の言語に正確に移しかえようとする、無償の願い。そのエロティックなまでの言葉との交感が、テキストと触れ合う彼女の真剣な姿を通して伝わってきます。「(夜の書斎で、翻訳の)準備をしていると、優れた文章だけに起こる不思議なことがある。文章が自ら動き出す。それは突然起こる。何度も目を通した文章なのに、不意に未知のものが見えてくる。汲めども尽きぬ言葉の織物。そのような文章はすでに訳したことがあっても、汲み尽くせない。おそらくそれこそが最高の価値をもった文章である証拠。それを読み取らねば」 しかし、全体の印象からすれば、翻訳の仕事はこの作品のひとつの柱にすぎません。むしろそれを包み込むように、静かに流れていく、落ち着いた日常が魅力的です。買い物に行き、料理を作り、お茶のひと時を楽しみ、訪れてきた孫やひ孫たちをもてなす、繊細でシンプルな暮らし。家の中には、長い間丁寧に扱われ、主に寄り添うようなかたちで時を刻んできた家具や雑貨が置かれています。居心地のよさそうな、あたたかで威厳と気品のあるたたずまいは、彼女の心映えそのもののようです。(中略) 作品の序盤に、アイロン台を組み立てる場面がいきなり登場します。いったい何が始まるのかと思っていると、本当にアイロンかけでした。その時、彼女が語ります。「洗濯をすると繊維は方向性を失う。その糸の方向をもう一度整えてやらねばならない。織りあわされた糸、文章も織物と同じこと」。つまり、テキスト(文章)とテキスタイル(織物)は同じラテン語の「織る」から生れた言葉であって、一本一本の糸が絡み合い、織り合わされて生地ができるのと同じように、文学もまた言葉の織物だ、と。 彼女が語るからこそ、胸にストンと落ちる言葉です。 一方で、その半生は波乱に満ちたものでした。1923年、ウクライナ共和国のキエフに一人娘として生まれますが、15歳の時に、農学者だった父親がスターリンの大粛清の犠牲となり、逮捕されます。(追って記入予定)『言葉はこうして生き残った』1
2018.07.23
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図書館で『言葉はこうして生き残った』という本を、手にしたのです。著者の河野さんは雑誌「考える人」の編集長も務めた人だそうで・・・期待できそうである。【言葉はこうして生き残った】河野通和著、ミシマ社、2017年刊<「BOOK」データベース>より「考える人」編集長メルマガ、待望の書籍化。膨大な書籍群の中に飛び込み、6年半かけて発見しつづけた、次代へつなげたい知と魂!!300超のメルマガから厳選した、必読の37本!!<読む前の大使寸評>著者の河野さんは雑誌「考える人」の編集長も務めた人だそうで・・・期待できそうである。rakuten言葉はこうして生き残った「太陽の塔」の内部展示が始まったが、もうそろそろブームが収まっただろうか?・・・ということで「太陽の塔」あたりを、見てみましょう。p230~232第5章 見るたびに大きくなる「塔」 2011年は岡本太郎生誕百年ということもあって、企画展やいろいろな出版物が目白押しの賑わいです。日曜日の午後、東京国立近代美術館で開催中の「岡本太郎展」に出かけてきました。 予想もし、ある程度覚悟もしていたのですが、それをはるかに上回る人手でした。「切符を買うまで十分待ち」「入場するまで二十分待ち」というプラカードを持った係員が立つほどで、いまさらながら岡本太郎ブームの根強さに驚きました。若い人たちの多いことにも目を引かれました。 展覧会そのものは、岡本太郎の歩みを時系列的に追った構成になっていて、会場を一巡するにしたがって、その時代、時代に太郎が何と「対決」しながら芸術的な足跡を刻んでいったのかがわかりやすく紹介されています。 「ピカソとの対決」、「『きれい』な芸術との対決」、「『わび・さび』との対決」、「『人類の進歩と調和』との対決」、「戦争との対決」、「消費社会との対決」、「岡本太郎との対決」の七つの章に区切られ、従来だと展示の対象にはなり得ないはずの、「芸術は爆発だ!」で話題を呼んだ1981年のテレビCMや、タモリの番組に出演した際の映像まで流されていました。今回の企画に対する美術館側の明確なスタンスが表れていて、興味深く思えました。 ただ、生誕百年というよりも、没後15年と言われたほうが個人的にはピンときます。1996年1月7日、彼が亡くなった時は、死去に反応する人が意外に少ないという印象を受けました。1970年の大阪万博で「太陽の塔」を作った人、という過去形の扱いで、ほとんどの著作も絶版品切れの状態でした。ネット(デジタル朝日)で「太陽の塔 内部展示」を見てみましょう。2018/03/19太陽の塔、鮮やかに再生 岡本太郎「生命の樹は血流だ」より 芸術家の故岡本太郎が手がけた太陽の塔(大阪府吹田市)の内部公開が、1970年の大阪万博以来48年ぶりに始まった。一昨年秋から大阪府が耐震改修工事などの再生事業を進め、19日から一般公開する。岡本太郎の哲学を表現する展示物が、現代技術も採り入れながら鮮やかによみがえる。■ひときわ目を引く第4の顔 「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博で、太陽の塔は岡本太郎がプロデューサーを務めたパビリオン「テーマ館」の一部として生まれた。内部にも岡本太郎が監修した造形物があり、塔内に入って見ることができたが、万博閉幕後は原則非公開となっていた。 入館者はまず、地下の展示室に入る。ひときわ目を引くのは、塔の第4の顔「地底の太陽」。直径約3メートル、幅約11メートルの巨大な黄金の仮面だ。万博後に行方不明になり、詳しい図面も残されていなかったが、当時の写真などを手がかりに作り直した。 地底の太陽は、当時も飾られていた世界の仮面や神像に囲まれている。内部展示プロデューサーの平野暁臣さん(59)は「地底の太陽は神々の森の呪術師」と解説する。 かつての地下展示は「いのち」「ひと」「いのり」の三つの空間で構成されたが、閉幕後に埋められた。今回再生した地下展示室は「いのり」の空間のごく一部。そこで、地底の太陽にプロジェクションマッピングを投影し、当時の写真を交えて三つの空間のイメージを伝えることにした。■予約はオフィシャルサイトで 太陽の塔の内部公開は30分間に80人の定員が設けられている。時間指定の予約制で、太陽の塔オフィシャルサイト(http://taiyounotou-expo70.jp/別ウインドウで開きます)で4ヶ月先まで予約できる。 大人700円、小中学生300円。別途、万博記念公園自然文化園の入園料(大人250円、小中学生70円)が必要。営業は午前10時~午後5時。水曜定休(営業する期間もある)
2018.07.23
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図書館で『お江戸風流さんぽ道』という文庫本を手にしたのです。上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。【お江戸風流さんぽ道】杉浦日向子著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>より粋(すい)の上方、粋(いき)の江戸。吸ったら吐き出す江戸の「いき」。情もお金も溜め込まない気っ風のよさを身上に、即席グルメに、江戸前ファッション、長屋暮らしに、色に恋。江戸の庶民の息づかいを生き生きと今に伝える江戸案内。初詣でに始まり、桜見、川遊び、花火大会、大相撲見物などの行事や娯楽、洒落を駆使した言葉遊び、そして日々の生活や町の様子を概説する第一部「ごくらく江戸暮らし」。浮世絵や古地図を参照しながら四回にわたって行われた“講義録”を収録した第二部「ぶらり江戸学」。面白さも二倍の、杉浦版「江戸入門書」。<読む前の大使寸評>上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわけでおます。rakutenお江戸風流さんぽ道現代の花見スポットといえば上野公園などが筆頭になるが、江戸のお花見を見てみましょう。p21~24<二 桜見> 呑んで歌って食べて踊る、無礼講の宴。 行楽のなかの最高峰がお花見です。 敷きつめられた花弁の上で、 とめどなく降る桜を愛でる、江戸の花見は、ファンタジーでした。■七分咲きより散る里桜 桜を愛でる花見(桜見)は、上方で始まりました。野遊び感覚で弁当を携えて深山に入り、自生する一本の桜の名木を愛でるのが古来の風習です。やがて、江戸では、山中ではなく、植樹した桜を町中で花見しようという新しい発想が生まれます。山でなく里で楽しむ「里桜」の誕生です。 このように、桜の愛で方が上方と江戸では違います。上方は桜の木自体の美しさを鑑賞するのに対して、江戸は人々がワイワイガヤガヤとコミュニケーションするための桜だったんですね。 江戸市中に数多くある花見名所には、団子屋や茶店は出ますが、持参の花見弁当も大きな楽しみとなりました。花見弁当は、季節の菜の花や山菜、桜餅などが詰め込まれ、みんなの持ち寄りだから種類も豊富。それぞれ自慢の惣菜を、分け合い盛り上がります。 また、花見の時期も、現代と異なります。今は七分咲き、八分咲きの散る前を見頃としますが、江戸では散る頃を愛でます。江戸では「」といえば、一弁の花びらの形、これを単弁桜と称します。空にハラハラと花弁が舞い、春先の黒くて軟らかい土の上に薄紅色の花びらが積もり、一面、花の毛氈となる状態を愛でるのが、正統派の花見。桜は散りそめてこそ風雅あり、なのです。(中略)■無礼講の大イベント 花見の場は、身分を忘れた無礼講です。誰も彼もが浮かれて舞い上がる宴会です。 大店では、春に新たに召し抱えた奉公人の歓迎会を兼ねて、花見を催しました。小さな店でも、家族と従業員の慰安を兼ねた行楽としました。花の下で気分もほぐれて親睦が深まりました。 町ぐるみ、町内会ごとの花見もありました。今と同じく場所取りをしますが、その役は、町内会の月番です。月番は月々二人いて、花見の時季に当れば、いかに少ない予算で華やかにするか腐心せねばならず、荷の重いことでした。 町内会の花見もはめをはずした、歌に踊りの宴となります。江戸っ子は上戸が多かったので、はちゃめちゃになったことでしょう。踊りは、当時の流行歌へ当て振りを図解した絵本が上梓されていましたから、それを頼りにみんなで集まって稽古します。なかにはアレンジを加えたり、踊り方を工夫して、オリジナルを創作するくらい熱を入れるグループもいました。また、茶番という即興劇もたくさん繰り広げられます。 花見のときの仮装も、江戸後期に流行っています。町人が侍の格好をしたり侍が町人の格好をして花見を楽しむという、いわゆる酔狂です。
2018.07.22
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図書館で『敵機に照準』という本を手にしたのです。渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。【敵機に照準】渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。<読む前の大使寸評>渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。rakuten敵機に照準二式飛行艇「二式飛行艇」を、見てみましょう。p84~87■大艇、多難のとき 内地にいた二式飛行艇のラバウル往復は、実際に行なわれていた。 ラバウルの航空兵力の総引き上げが実施されてから3ヶ月後の昭和19年5月中旬に、第11航空艦隊司令部に直属のサイパン派遣隊が務めたのが、その一番手だったと思われる。 十一航艦の本拠地ラバウルに飛行機がなくなっても、その出先機関の同派遣隊は、二式飛行艇を輸送用に直した同型の「晴空」を一機もっていて、残留搭乗員や司令部の参謀ら30~40名を救い出してきた。 二回目の6月11日は派遣隊指揮官の楠目亮中尉が機長を務め、トラック諸島・夏島を中継ののち、ラバウルに面した夜のシンプソン湾に着水。湾内の小さな松島で、燃料を補給しつつ、ゴム艇に乗ってやってくる搭乗員たちを乗せる。早朝に発進し、無事に任務を完遂した。■雷撃などナンセンス 二式飛行艇の原型である十三試大型飛行艇の試作発注がなされた昭和13年は、航空兵力の真の威力がいくぶん理解され出したころだ。しかし、連綿と続いてきた海軍の中心思想たる、大鑑巨砲主義を基幹とする艦隊決戦方針には、大した影響は及ぼさず、航空はあくまで補助戦力の域を出ていなかった。 したがって、遠く洋上へ進出、敵艦隊を雷撃し、1隻でも減らして味方艦隊の砲撃戦に貢献することが四発飛行艇の重要な任務、と考えられたのはむしろ当然だ。 長大な航続力と、大艇にしては高い速度と機動性を、用兵側が求めたのはこの運用法のためだが、そこには、空対艦攻撃についての判断力と、戦闘機を積んだ敵空母の存在が、ともに欠落していた。 飛行性能が世界水準を抜いていても所詮は鈍重な大艇が、敵艦隊の弾幕を突っ切って雷撃を成功させ得るはずはなく、ましてや戦闘機とは勝負にならない。米英のこの機種がそうであったように、偵察と輸送、それに対潜哨戒が適役だったのだ。二式飛行艇は確かに優秀ではあっても、敵の同級機との飛行性能差の分だけ有利だったとは思いにくい。 二式飛行艇の主生産タイプである一二型の、最大速度455キロ/時は、四発大艇としては傑出している。けれども軍令部、航空本部の用法上の思惑は、さらに高速な二二型を生んだ。(中略) 米軍の航空優勢に拍車がかかった昭和18年以降、いかに優秀な搭乗員をもってしても二式飛行艇の敵艦隊雷撃など夢のまた夢、昼間の要地爆撃も不可能で、攻撃用兵器としては使えなくなった。制空権がなくては偵察、輸送、対潜哨戒も、敵戦闘機が出てこない薄暮から黎明のあいだに実施せざるを得ない。 こうした状況に、受け身の戦いが苦手な海軍の、使い勝手のよくない大艇に対する期待と関心が薄らいだのは当然で、川西航空機の受注数も急速にしぼんだ。ほんとうは不利な事態のもとでこそ、ラバウルへの空輸をはじめ、敵の意表をつく隠密行動力を発揮する機会があるのだが。『敵機に照準』1:「二式水戦」「強風」『敵機に照準』1:「雷電」
2018.07.22
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朝日のインタビュー記事、オピニオン記事をスクラップのように集めてみました。ネットでは記事の全文が見えないので、朝日デジタルから全文を転記しました・・・そのうち朝日からお咎めがあるかも?(いい記事なんだから、無料で公表してほしいんだけど)あとで、見渡すとほとんどの記事が2大覇権国からみになっていました。【2018年】・(耕論)鏡を見よう、日本エマニュエル・トッド2018.7.18・(ニッポンの宿題)個人データ どこまで岡嶋裕史2018.2.15・(ニッポンの宿題)やはり新築・持ち家?平山洋介2018.2.09【2017年】・(耕論)明治維新150年三谷博2017.12.20・(オピニオン)日米同盟の現在地佐藤丙午2017.12.19・(2017衆院選)岐路に立つ平和半藤一利2017.9.29・(ニッポンの宿題)重い住まいの負担川田菜穂子2019.8.8・(ニッポンの宿題)魚、食べ続けるために有路昌彦2017.6.21・取り残された白人たちJ・D・バンス2017.6.06・(ニッポンの宿題)シャッター商店街藻谷浩介2017.5.13・(耕論)緊迫の朝鮮半島平岩俊司2017.4.29・(耕論)史上初、罷免の底流小此木政夫2017.3.11・(ニッポンの宿題)人質司法の闇周防正行2017.2.24・外国人に国をひらく国松考次2017.2.01・(ニッポンの宿題)老朽化するインフラ宮本泰介2017.1.28・トランプ政権への期待オリバー・ストーン2017.1.24・(ニッポンの宿題)米軍基地のこれから佐道明広2017.1.14・(ニッポンの宿題)移民の受入れ方田村太郎2017.1.08・(ニッポンの宿題)老いるニュータウン石橋尋志2017.1.06・(シェアの時代:1)人と人、分かち合い変わる社会2017.1.01【2016年】・東京都は変わるのか上山信一2016.12.21・揺れる中東、100年前の分断クルド人政治学者2016.12.5・大統領を追い込んだ怒り康煕奉2016.11.30・保護者なき日本白井聡2016.11.25・(一語一会)雨宮処凛さん雨宮処凛2016.11.10・(耕論)AIと生きる新保史生2016.11.9・(耕論)変な国アメリカ?矢口祐人2016.11.8・北朝鮮を止めるには古川勝久2016.9.13・IT 30年後の未来2016.9.02・文化大革命50年徐友漁2016.8.31・(憲法を考える)公共のゆくえ桐野夏生2016.4.12・AIは人の脅威か、アルファ碁の圧勝北野宏明2016.4.09・テレビ報道の現場金平キャスター2016.3.30・中東安定への道世界銀行副総裁ハフェズ・ガネム2016.3.26・イランとサウジ田所昌幸・慶大教授2016.3.7・時流に抗う辺見庸2016.1.21・出版流通の壁新井敏記2016.1.20・選べない国で藤田孝典2016.1.04【2015年】・田園回帰1%戦略藤山浩2015.11.17・試されるアジア経済吉野直行2015.11.13・中国の自画像北京大学国際関係学院院長2015.10.30・イスラム過激派の系譜パリ政治学院教授2015.10.20・TPPの底流白石隆2015.10.07・変調する中国経済余永定、茅于軾2015.9.30・書棚から見える中国 書店「万聖書園」劉蘇里2015.9.12・世界経済、不安の正体猪木武徳2015.8.25・米国との間合い百旗頭真2015.8.06・「あの戦争」とは加藤陽子2015.8.05・日本の誇るべき力ジョン・ダワー2015.8.04・変わらぬダムに物申す宮本博司2015.7.04・生活保護のこれから 上山信一2015.6.30・米国、指導力の行方カート・キャンベル2015.6.20・若者の狂気と希望見つめる藤原新也2015.6.11・中ロ蜜月、その内実ロシア高等経済学院教授2015.6.10・台湾で日本軍にいた私辜寛敏2015.6.4・防衛指針改定、米の視点デビッド・シアー2015.4.29・隣国を、見直す徐賢燮2015.4.8・中国「官僚資本主義」 區龍宇2015.4.2・台湾、ひまわりの芽は邱義仁2015.3.21・IS 本質を見極めるロレッタ・ナポリオーニ2015.3.18・中華民族復興パトリック・ルーカス2015.2.25・分断される世界エマニュエル・トッド2015.2.19・中国、権力と文学閻連科2015.2.06・フランス社会の混迷マリーヌ・ルペン2015.1.27・何となく肯定、変わらない日本斎藤環2015.1.10・人類の未来のために川田順造2015.1.04・失われた平等を求めてトマ・ピケティ2015.1.1【2014年】・政治化するナショナリズムワンチョン2014.11.15・米国と世界のこれからフランシス・フクヤマ2014.11.8・日韓「愛国」の圧力千葉大学教授の趙さん2014.10.24・カジノで考える民主主義内田樹2014.10.21・紛争下で命をどう守る緒方貞子2014.9.17・成長戦略の「勘違い」冨山和彦2014.9.9・国家の枠を超えて中国人文学研究者2014.8.27・揺れ動く民主主義英オックスフォード大学教授2014.8.21・中国バブルの虚実梶谷懐2014.7.12・米政権が見る東アジアダニエル・ラッセル米国務次官補2014.7.7・変わるアジア太平洋マイケル・グリーン2014.6.20・新しい資本論トマ・ピケティ教授2014.6.14・「どん底」から見た中国政治・社会学者のユイさん2014.6.12・在宅医療で見えたもの太田秀樹さん2014.6.3・中国、成長の罠香港大学教授2014.02.26・米国から見る安部政権1年在米作家の冷泉彰彦さん2014.02.21・是枝監督の政治的発言2014.02.16・中国の「不動産バブル」大手不動産会社トップ2014.01.28・これからの日米 キャロライン・ケネディ2014.01.23・ 「満州国化」する日本山室信一2014.01.10【2013年】・人間本意の金融論米エール大教授2013.12.06・NRC委員長インタビュー「第一原発の教訓」 2013.12.05・ 国家は常に秘密主義に傾くAP通信社長2013.11.30・中国 国有企業の行方張維迎 2013.11.07・アレックス・カーさんへのインタビュー2013.10.10・安部政権と戦争の記憶キャロル・グラック 2013.8.21・中国と影の銀行陳志武 2013.08.02・技術者が見る原発事故名嘉幸照 2013.07.15・中国、労働者の権利は常凱 2013.06.22・アベノミクスに欠けるものスティグリッツ 2013.06.16・ アジア主義から見た中国中島岳志 2013.03.30・同盟強化、ですか榊原英資 2013.02.17・米の「アジア回帰」外交カート・キャンベル 2013.02.09・春の闘い何のため?ビル・トッテン 2013.01.31・本屋サバイバル松岡正剛 2013.01.23【2012年】・丹羽さん、ご苦労さんでした丹羽宇一郎 2012.12.23・華夷秩序に生きる精華大学院長イエン・学通 2012.12.13・反TPPの核心佐伯啓思 2012.12.02・北京大教授へのインタビュー賀衛方 2012.11.07・ジョン・ダワーさんのインタビュー2012.10.31・ 「原発ゼロ」方針に驚いたアメリカ米戦略国際問題研究所所長 2012.10.26・成功物語の裏面で米支配が…吉見俊哉 2012.09.06・米保守派の対中感アーロン・フリードバーグ 2012.08.29・米中不信の時代が来るのかケネス・リバソール 2012.07.22・ 金曜の夜、官邸前で 小熊英二 2012.07.21・尖閣問題で開いた傷口をどうするか?宮元雄二、他 2012.07.10・書籍販売の巨人:アマゾンジェフ・ベゾス 2012.05.24・チャイナマネーの正体 高西慶 2012.05.18・老いゆく中国 ツアイ・ファン 2012.04.21・政権を出た派遣村村長湯浅誠 2012.04.14・朝ドラ「カーネーションが終わったけど 渡辺あや 2012.04.06・五百旗頭真(防衛大学校長)のオピニョン2012.02.23・橋下さんのルール 橋下徹 2012.02.14・「真珠湾が教えるもの」加藤陽子 2012.02.08・ドルの落日行天豊雄 2012.02.07・日本は「中国化」しつつある與那覇潤 2012.02.03・デジタル最優先の新聞社ジョン・ペイトン 2012.02/17・国債暴落というオオカミが見える伊藤元重 2012.01.23・五百羅漢図に取り組む村上隆2012.01.17・『貧困の装置化』に対抗して内橋克人 2012.01.08・東アジアは壊れるか 白石隆 2012.01.06・ウォール街占拠の仕掛け人カレ・ラースン 2012.01.02
2018.07.22
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図書館で『小さな工場のものづくり魂』という本を手にしたのです。中国が「世界の工場」となった昨今であるが・・・ものづくりは「テクノナショナリズム」となるわけです(大使の場合)【小さな工場のものづくり魂】今瀬憲司著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>よりたび重なるコストダウンの要求、厳しい納期…このままでは駄目だー下請けメーカーの技術者が挑んだゼロからの出発。数々の失敗を乗り越え中小企業ならではの発想力が常識を覆す“世界初”の製品群を生み出した。国内外の自動車、半導体メーカーから引き合いが絶えない、田舎の機械要素メーカーの成功ストーリー。ものづくりは「ロマン」だ!自社製品メーカーとして成功するための真髄がここに。<読む前の大使寸評>中国が「世界の工場」となった昨今であるが・・・ものづくりは「テクノナショナリズム」となるわけです(大使の場合)rakuten小さな工場のものづくり魂日本のものづくりの問題点を、見てみましょう。p29~32■このままでははダメになる ここまで日本のものづくりの現状を述べてきましたが、簡単にまとめると、日本はどこか予定調和的なものづくりを行なうようになってしまった結果、つくり手はつくっていてわくわくしない、使う側も、製品を使っていてわくわくしない、という、本末転倒な方向へ進んでいるようです。 一方で、海外の動きはどうかというと、新興国の製造業が力をつけたことは、下請けメーカーにとってだけの脅威ではありません。今まで新興国の製品は「安かろう悪かろう」と敬遠されてきましたが、日本の商品をアジア流に改善して世界市場に提供するという戦略で台頭しています。 特にエレクトロニクス分野では、DVDプレイヤー、液晶テレビ、携帯電話、太陽光パネルなど日本の製造業が生み出した製品を、より安く大量につくり、それらを世界の各市場に求められる形で提供することで、日本企業を上回る圧倒的なシェアを奪いました。 例えば、スマートフォン市場における中国企業の活躍には目を見張るものがあります。世界のスマートフォン販売台数を調査しているアメリカの市場調査会社ガートナーの調べによると、2017年の7月から9月のスマートフォン出荷台数ランキングにおいて、全世界のトップ5メーカーのうち、実に4社がアジアの企業であることがわかりました。ちなみに、1位のサムスンは韓国企業であり、2位のアップル以外はすべて中国メーカーが独占しています。これら中国メーカーの勢いは年々増しており、アップルやサムスンに追いつくのも時間の問題だとする見方もあります。 こうした海外企業の躍進に対して、日本企業の凋落の原因としてあげられるのが、「官僚的ものづくり」です。大手完成品メーカーでは売上げや利益、シェアという数字で見える成果のみを評価します。また、コンプライアンスや社内ルールで社員を管理することで、将来のリスクをなるべく避け、職域外の仕事を避け、自分のポストがなくならないことを願う社員ばかりの「官僚的ものづくり」の組織になってしまっているのです。 確かに、安定した品質を確実に供給するために、ルールは必用です。しかし、ルールに縛られてばかりでは、革新は生まれません。保守的なものづくりを続けている以上、画期的な新製品で世の中をあっと驚かせることは決してできないのです。 エレクトロニクス分野で、日本の名だたる完成品メーカーが凋落していったように、このままでは日本の基幹産業である製造業が息絶えてしまう日も遠くはありません。ウーム 著者の今瀬さん(加茂精工㈱取締役会長)は、かなり悲観的な展望が見えるようですね。とにかく、東芝が製造部門を切り売りするご時世だもんね。『小さな工場のものづくり魂』1
2018.07.21
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図書館で『小さな工場のものづくり魂』という本を手にしたのです。中国が「世界の工場」となった昨今であるが・・・ものづくりは「テクノナショナリズム」となるわけです(大使の場合)【小さな工場のものづくり魂】今瀬憲司著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>よりたび重なるコストダウンの要求、厳しい納期…このままでは駄目だー下請けメーカーの技術者が挑んだゼロからの出発。数々の失敗を乗り越え中小企業ならではの発想力が常識を覆す“世界初”の製品群を生み出した。国内外の自動車、半導体メーカーから引き合いが絶えない、田舎の機械要素メーカーの成功ストーリー。ものづくりは「ロマン」だ!自社製品メーカーとして成功するための真髄がここに。<読む前の大使寸評>中国が「世界の工場」となった昨今であるが・・・ものづくりは「テクノナショナリズム」となるわけです(大使の場合)rakuten小さな工場のものづくり魂コンパクトな割り出し装置を、見てみましょう。p61~66■空気圧駆動により、割り出し時間を大幅削減 結果的に最小タイプで重量800g、サイズは直径5cmという、小型化と軽量化に成功します。他社の従来製品と比べるとおよそ10分の1の省スペースを実現。空圧式による安全性の向上とコストダウン、さらに価格は他社の8分の1。何よりも特筆すべきは、割り出しとロックの機構をひとつにしたことで、割り出し時間を他社従来製品に比べ大幅削減することに成功したことです。 ミニデックスはニッチ製品といえど、これまでの常識を覆す「まだ世の中にない新しいもの」だったのです。■メーカーとして「商売」がはじまる クオリティーが高く画期的な商品はできた。しかし、売れなければ何の意味もありません。まずは売り先を確保することが先決でした。 ぼちぼちとできる範囲で営業活動をはじめたのですが、まったく売れません。商品には絶対的な自信があったのですが、どこも門前払いでした。 「時代とニーズを見誤っていたのか・・・」 二足のわらじ生活は続いていましたが、開発投資のおかげで会社の経営は火の車でした。 そんなピンチを救ってくれたのは、会社に出入りしていた機会工具会社の営業マンでした。彼は外回りの途中で工場を見学に来てくれ、熱心に工程を見ていきました。ある日、彼は 「今瀬さん、あなたたちは面白いものを作っている。できればうちの会社で売りたい。今から会社に帰って社長とかけ合ってみる」 と言い出したのです。 機会工具会社の社長からの答えは、 「面白い。100台つくってもらったら買うよ」 というものでした。 いきなりの「100台受注」に私と妻、現場スタッフたちは嬉しくて狂喜乱舞しました。ついに「自社商品第1号」が売れる、世の中に、市場に出るのです。 が、すぐに「100台つくる」という現実に戻らなくてはなりません。昼夜問わず、何とか手分けして納期までに100台つくったのですが、結果的に20台は失敗作でした。■売れない! それには理由があった とりあえず製品化できた80台を売ることになったときに、 「今瀬さん、商品はあっても、カタログがないと売れませんよ」 と機会工具会社の営業マンに教えられたのです。(中略) ところがなかなか売れない。月に平均2,3台といったところです。注文があれば私たちが製品を新聞紙でくるみ、ありあわせの段ボールに梱包して送っていました。これもリピーターを生まない要素だとあとから気がつくことになります。この最初の80台は売り切るのに2年かかりました。この会社のホームページを覗いてみました。加茂精工株式会社:割出機器よりエアーシリンダの感覚で使用可能な回転軸タイプの空圧式割出間欠機器です。内部のカム構造により確実な位置決めが可能です。本体外形が小さく、駆動部の省スペース化に貢献できます。
2018.07.21
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図書館で『敵機に照準』という本を手にしたのです。渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。【敵機に照準】渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。<読む前の大使寸評>渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。rakuten敵機に照準二式水戦「二式水戦」や「強風」を、見てみましょう。p60~63■出遅れた新鋭水戦 水上戦闘機の最大のメリットは、基地の設備がほとんどいらないことである。 飛行機や軍艦などの設計は、技術者の努力で欧米列強に追いつけた日本だったが、基礎工業力の浅さは容易に埋められず、土木、建設の機械化なども遅々として進まなかった。太平洋戦争が始まってからも基地の地盤は、つるはし、モッコ、ローラーを“三種の神器”とする人力で造成され、滑走路を1本作るのにも数週間を要した。 列強戦闘機をしのぐ零戦はあっても、ブルドーザーすら持たない日本海軍にとって、兵員を収容するバラックさえ作れば、ただちに作戦を開始できる水上戦闘機が、魅力的でないはずはない。 日華事変で複座の九五式水上偵察機が、敵機を撃墜するハプニングがあった。それならば、もっと高性能の機体にフロートを付けた水上戦闘機を作り、すみやかに前線へ進出させて制空権を確保しよう、という考えが出てくるのは当然だった。 昭和15年9月、この水上戦闘機という新機種の試作が、飛行艇の製作に経験が深い川西航空機へ、十五試水上戦闘機の名で発注された。だが、新型機の試作、実用化には2~3年はかかる。開戦を間近にひかえて、とりあえずピンチヒッターで急場をしのぐため、零戦一一型にフロートを付ける案が決定。翌16年に入るころ、中島飛行機へ“応急”水戦の製作が発注された。 優等生の零戦をベースにしたピンチヒッターのほうは、開発も順調に進んで、1年後の17年初めに二式水上戦闘機として制式採用された。そして、同年春から北方のアリューシャン列島や北千島、南洋のソロモン諸島やインドネシア方面、内南洋に展開。零戦なみとは行かなくとも、それなりの活躍を示した。 しかし、層流翼、空戦フラップ、二重反転プロペラなど、新機軸を意欲的に採用した本格派の十五試水戦は、17年5月に初飛行したけれども、海軍側からなかなかOKを得られなかった。整備に手間取るうえ故障が多い二重反転プロペラを、通常の三シペラに改めたため、強いトルクの反作用が生じ、また二式水戦の1.35倍という高翼面荷重も加わって、離着水が難しかったのが、その主因と思われる。(中略) 十五試水戦がなんとか航空技術廠・飛行実験部の審査をパスし、水上戦闘機「強風」一一型の名で制式採用にこぎつけたのは、18年の夏も終わりのころだった。航空本部は18年度の生産予定機数を103機とし、川西は9月から量産にかかった。 しかし、19年度生産計画には組込まれず、19年3月で量産を終了。二式水戦が327機も作られたのに比べ、総計97機という少なさだった。その原因は言うまでもなく、水上戦闘機の使い道がなくなってしまったからである。『敵機に照準』1
2018.07.21
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図書館で『敵機に照準』という本を手にしたのです。渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。【敵機に照準】渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。<読む前の大使寸評>渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。rakuten敵機に照準 雷電で初戦果を上げた三五ニ空を、見てみましょう。p10~15■開隊前後の三五ニ空で 松尾上等飛行兵が同期生3名とともに、7月初めに長崎県大村基地にやってきたとき、部隊の名はまだ佐世保空・大村分遣隊で、任務は零戦の練成と佐世保鎮守府管区の防空にあった。 中国大陸奥地のB-29の北九州爆撃と、マリアナ諸島サイパン島の陥落まじか(B-29の基地化)により、後者の防空戦闘機部隊への改編が進みつつあるころだった。 まだ佐空・大村分遣隊の装備機は零戦ばかり。それも古い二一型が多く、三二型、二ニ型が少数で、第一線機の五二型は見当たらなかった。訓練を命じられた松尾上飛は、翼面荷重が小さくて楽に乗れる、二一型での慣熟飛行を開始する。 8月1日付で佐空・大村分遣隊は改編され、第三五ニ航空隊として独立した。三00番台は局地戦闘機と夜間戦闘機を装備する防空部隊だ。飛行隊長は飯塚雅夫大尉から神埼国雄大尉にかわり、昼間戦闘機の分隊長に次席の杉崎直大尉が補職された。 神埼大尉は先任下士官の名原安信上飛曹とともに、新たに導入する「雷電」の講義と操縦訓練を、7月に厚木基地の三0二空で受けていた。とはいえトップとしては、機数が多い零戦の甲戦隊の指揮を担当するのが順当で、まだ少数の「雷電」の乙戦隊は杉崎大尉が率いるように処置がなされた。 草薙部隊と別称が付いた三五ニ空が、初交戦に至ったのは8月20日。このときは甲戦隊と「月光」の丙戦隊だけで、可動機が皆無の乙戦隊は出られなかった。十月25日には乙戦隊から二個小隊8機が上がって、杉原小隊の名原上飛曹がB-29一機に火を、もう一機に煙を吐かせたと報告し、「雷電」の初戦果を上げている。 名原兵曹は神崎飛行隊長とともに、隊内で最初に「雷電」に乗った搭乗員だが、それよりも1年半ちかく前の横須賀空で、試作の十四試局地戦闘機をテストしていた一木利之上飛曹が、八月上旬に二六三空から転勤してきた。一木兵曹を区隊長に加えた邀撃戦は11月21日である。 大村の海軍機生産工場・第21航空廠をねらったB-29群は、高度がさして高くなく、乙戦隊から出動した16機はよく戦った。「雷電」が葬った3機のうち、1機は一木区隊長の単独撃墜、もう1機は名原区隊長と三宅淳一上飛曹が共同撃墜したものだから、二人の区隊長の優れた技量が知れよう。 この時点で松尾上飛はまだ零戦の操訓中で、作戦出動の搭乗割りには入っていなかった。■「雷電」、悪くないぞ 8月のある日のこと松尾上飛は、名原上飛曹の部屋に呼び出された。上飛曹は腕は立つが、下級者に意地が悪いと思わせる先任下士官だった。上飛もにらまれていて、重い気分でドアを開けると、室内にいたもう一人の上飛曹がすっと立ち上がって言った。 「松尾さん、同県人なので、この部隊でよろしく頼みます」 松尾上飛はびっくりした。先任下士の部屋にいるなら、二人は同格なのだろう。最下級の搭乗員と言っていい自分に、古参上飛曹が立って敬称、敬語で話しかけるとは!(中略) それから4ヶ月ほどたった12月1日付で特乙二期は飛行兵長に進級。まもなく、仲がいい栗栖幸雄飛長から「『雷電』へ来んか。『雷電』の方がいいぞ」と誘われた。彼はすでに11月6日の単機で偵察に来たB-29の邀撃から、杉崎分隊長の区隊の四番機に指名され、不時着大破まで経験していた。(中略) 「『雷電』ってそんなにいいのか」 「おお、速度が速いからな」
2018.07.20
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図書館で『ふくわらい』という本を手にしたのです。帰国子女にして、関西弁の使い手というのが、大使の認識であるが・・・この小説は、かなりインターナショナルな場面設定になっているようです。【ふくわらい】西加奈子著、朝日新聞出版、2012年刊<「BOOK」データベース>よりマルキ・ド・サドをもじって名づけられた、書籍編集者の鳴木戸定。25歳。唯一の趣味は、暗闇でのひとり遊びー。<読む前の大使寸評>帰国子女にして、関西弁の使い手というのが、大使の認識であるが・・・この小説は、かなりインターナショナルな場面設定になっているようです。rakutenふくわらいこの小説の語り口(続き)を、見てみましょう。p96~98 会社の一番高みから見える街は、雨にぼやけ霞がかったようで、美しかった。 隣のビルの屋上には、たくさんの緑が植えられ、その向こうに見える屋上には、お稲荷さんが祀られている。見回す限り、どのビルの屋上にも人影はなく、雨は時々風にあおられ、大きくうねった。傘が役に立たない類の、雨だった。 定は、遠くからで失礼するが、と、お稲荷さんに挨拶をした。そして、あぐらをかいた。濡れることなど、平気だった。 目をつむると、雨粒が顔を叩く。優しい音がする。 この雨をやませるのかと思うと、少し心が痛んだが、苦しんでいる、之賀さいこのためである。担当編集者は、作家が望むことを、全力でせねばならないのだ。 定は、両手を大きく上に伸ばし、呪文を唱え始めた。 「ウルピ、ソンコ、パラ、サヤイ!」 覚えているか不安だったが、一度口に出すと、面白いくらいに、するすると浮かんできた。一度唱え終わると、そのままの姿勢で、タンクを舐めた。そうだった、この大勢が、体の固い私には苦しかったのだ、と、定は思い出した。給水タンクは濡れて、少し甘かった。 「ウルピ、ソンコ、パラ、サヤイ!」 数分そうしているだけで、たちまち全身が濡れそぼった。だが、かえって気持ちが良いくらいだった。こんな気持ちでは、雨がやむことなどないのではあるまいか。定は、なるべく怒ったような顔をして、大声で、呪文を唱えた。舐めた、唱えた、舐めた。 「ウルピ、ソンコ、パラ、サヤイ!」 どこかで、カラスが鳴いている。雨の中、食べ物を探しているのだろう。何かを乞うような、甘ったれた鳴き声である。(中略) そして、5時間半後、見事に雨はやんだのである。 もう夕方だったが、晴れ間が見えてきた空を見て、定は嬉しかった。自分の目、鼻、口、眉毛を、自分から解き放ち、空間に放り込んだ。目や鼻たちは、嬉しそうに空を舞い、カラスや雲をよけながら、また律儀に、定の顔に戻って来た。 定は、晴れ晴れしい気持ちで立ちあがった。死んだ父が、また、褒めてくれるのを待った。濡れた体を抱き、頭を撫で、ひりひりする舌に触れてくれるのを。だが父はおらず、そこにはただ、嘘のように晴れた空が、あるだけなのだった。『ふくわらい』1
2018.07.20
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「手当り次第」でしょうか♪<市立図書館>・お江戸風流さんぽ道・敵機に照準・野生のティッピ・言葉はこうして生き残った<大学図書館>・小さな工場のものづくり魂図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【お江戸風流さんぽ道】杉浦日向子著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>より粋(すい)の上方、粋(いき)の江戸。吸ったら吐き出す江戸の「いき」。情もお金も溜め込まない気っ風のよさを身上に、即席グルメに、江戸前ファッション、長屋暮らしに、色に恋。江戸の庶民の息づかいを生き生きと今に伝える江戸案内。初詣でに始まり、桜見、川遊び、花火大会、大相撲見物などの行事や娯楽、洒落を駆使した言葉遊び、そして日々の生活や町の様子を概説する第一部「ごくらく江戸暮らし」。浮世絵や古地図を参照しながら四回にわたって行われた“講義録”を収録した第二部「ぶらり江戸学」。面白さも二倍の、杉浦版「江戸入門書」。<読む前の大使寸評>上方志向の強い大使であるが・・・杉浦日向子さんのお江戸はけっこう、お気に入りでこれまで数冊の本を読んでいるわけです。こんな杉浦版「江戸入門書」があったので、即、借りたわでおます。rakutenお江戸風流さんぽ道【敵機に照準】渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。<読む前の大使寸評>渡部洋二氏といえば・・・今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。rakuten敵機に照準【野生のティッピ】シルヴィ・デグレ・ロベ-ル, アラン・デグレ著、小学館、1997年刊<「BOOK」データベース>よりティッピは、ナミビア生まれの最初のフランス人だ。私たちはこの広大なアフリカの地平線を、ティッピとともに分かちあうのだ。彼女は動物たちとふれあいながら、世界でもっとも美しい風景の中で大きくなっていくだろう。アフリカに移り住んだ家族の、愛と自由に溢れる驚愕のノンフィクション。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten野生のティッピ【言葉はこうして生き残った】河野通和著、ミシマ社、2017年刊<「BOOK」データベース>より「考える人」編集長メルマガ、待望の書籍化。膨大な書籍群の中に飛び込み、6年半かけて発見しつづけた、次代へつなげたい知と魂!!300超のメルマガから厳選した、必読の37本!!<読む前の大使寸評>著者の河野さんは雑誌「考える人」の編集長も務めた人だそうで・・・期待できそうである。rakuten言葉はこうして生き残った【小さな工場のものづくり魂】今瀬憲司著、幻冬舎、2018年刊<「BOOK」データベース>よりたび重なるコストダウンの要求、厳しい納期…このままでは駄目だー下請けメーカーの技術者が挑んだゼロからの出発。数々の失敗を乗り越え中小企業ならではの発想力が常識を覆す“世界初”の製品群を生み出した。国内外の自動車、半導体メーカーから引き合いが絶えない、田舎の機械要素メーカーの成功ストーリー。ものづくりは「ロマン」だ!自社製品メーカーとして成功するための真髄がここに。<読む前の大使寸評>中国が「世界の工場」となった昨今であるが・・・ものづくりは「テクノナショナリズム」となるわけです(大使の場合)rakuten小さな工場のものづくり魂************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き317
2018.07.20
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<(耕論)鏡を見よう、日本> エマニュエル・トッドさんがオピニオン欄で「行動せず議論、移民は流入」と説いているので、紹介します。(エマニュエル・トッドさんのオピニオンを7/18デジタル朝日から転記しました)<行動せず議論、移民は流入> 1990年代に初めて訪日したとき、将来の少子化など人口動態の問題を語る人は多かった。欧州より意識が高いと思いました。来日はこれまで16、17回になりますが、今はこう考えています。人口動態危機について、日本人には何も行動しないまま議論し続ける能力があると……。 国力を増したければ人口動態危機に取り組むはず。それをしない姿勢をナショナリズムとはいえません。 日本の問題は、女性が働くと子どもをつくれなくなるというところにあります。 家族人類学の視点から見ると、日本は長男が家を継ぐ直系家族の国です。往々にして、男の方に特権がある。消えつつある家族形態ですが、その価値観はゾンビのように今も残り続けています。 現代日本で、男尊女卑が激しいわけではない。女性は高等教育を受けられるし、職業上のキャリアを積み上げることもできる。けれどキャリアを積もうとすると子どもをつくりにくい。「あれか、これか」の二者択一を迫られる。 日本の場合、直系家族というシステムが頂点に達したのは明治期で、近代化のスタートと重なりました。テクノロジーを次世代に伝えながら完成するには効果的でした。競争にも強い。同じく直系家族のドイツは近代化へ離陸すると、わずかの期間で英国より強国になった。 明治日本の離陸も恐るべきものでした。しかし、これまでのやり方を断絶し、システムを大きく転換するときに直系家族の価値観は困難に直面します。方向を変えられないのです。 日本は移民政策に消極的です。ドイツは今、移民を最も受け入れている国の一つですが、直系家族が移民導入の足かせにはなっていません。 日本文化には、極端な礼節へのこだわりがあります。他人に決して迷惑をかけない。それは一つの価値ですが、移民問題に当てはめてみるとどうなるか。礼節という文化が脅かされることになる。フランスなら話は簡単だ。もともとお互いに不作法だから失うものなどありません。 現実問題として、日本が移民を拒むのは不可能です。人口減社会の日本では、労働力不足が深刻化し、技能実習生という名の「移民」がすでに始まっています。 自分たちだけで暮らしたいという閉鎖的な夢と、外への開放という現実。意識が現実と切り離され、移民の流入はウソの中で始まっているのです。 人口動態危機の解決策として優先するべきは、まず女性が快適に働き、子どもを産むことができる政策です。未来に向けて豊かになるために、政府は保育園整備や児童手当に巨額の予算を投じるべきです。今すぐ豊かになることしか視野にない政策は、将来、国を貧しくします。(聞き手・大野博人) * Emmanuel Todd:1951年生まれ。人口動態や家族構造の分析で、ソ連の崩壊などを予見。米国でのトランプ大統領当選の可能性も事前に指摘した。少子高齢化、貧困な子供たち、移民問題など難問山積のニッポンであるが・・・直系家族の価値観がジャマをして、動きがとれないようですね。野田聖子さんが首相になっても、この難問は解決できないかも?(耕論)鏡を見よう、日本エマニュエル・トッド2018.7.18この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR6に収めておきます。
2018.07.19
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図書館に借出し予約していた『オンブレ』という本を、待つこと2ヵ月でゲットしたのです。アメリカ合衆国黎明期の活劇譚を村上春樹が訳しているってか・・・表紙の画像もいかにも西部劇のようであり・・・期待できそうである。【オンブレ】エルモア レナード著、新潮社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりアリゾナの荒野を行く七人を乗せた駅馬車―御者メンデスとその部下アレン、十七歳の娘マクラレン、インディアン管理官フェイヴァー夫妻、無頼漢のブレイデン、そして「男」の異名を持つジョン・ラッセル。浅黒い顔に淡いブルーの瞳、幼少期をアパッチに育てられた伝説の男と悪党たちが灼熱の荒野で息詰まる死闘を繰り広げる。レナードの初期傑作二作品を、村上春樹が痛快無比に翻訳!<読む前の大使寸評>アメリカ合衆国黎明期の活劇譚を村上春樹が訳しているってか・・・表紙の画像もいかにも西部劇のようであり・・・期待できそうである。<図書館予約:(5/02予約、7/13受取)>amazonオンブレこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p56~58 「時間だ」とメンデスは言った。その声には幸福そうな響きさえ聞き取れた。自分の机から何かを取るために、彼はゲートを抜けて中にやってきた。その機会を捉えて私はブレイデンがさっきやったことを彼に説明した。いかにも腹に据えかねるという口調で話したから、ブレイデンのやり口について私がどう思っているかは、メンデスにも間違いなく伝わったはずだ。 「じゃあ、乗客は六人のままなんだな」とメンデスは言った。ただそれだけ。 それが8月12日の火曜日に、スウィートメアリを出発した六人の乗客の顔ぶれだった。メンデスも加えれば七人になる。 出発の直前には大したことは何も起こらなかった。ラッセルは御者台のメンデスの隣に座っていいかと尋ねた。話したいことがあるからと言って。 「話すだと」とメンデスは言った。「ここじゃ自分の声だってろくに聞こえやしまいよ」。そしてラッセルを馬車の中に押し込んだ。「さあ乗れよ。馬車の乗り心地をゆっくり味わうといい」 それからメンデスとドクタ・フェイヴァーとの間で話し合いがあった。馬車は貸し切りということだったが、なぜ他にも乗客がいるのか、ということだ。メンデスがこう言うのが聞こえた。「まだその金を、私は目にしちゃいないんでね」と。二人はそれから何ごとかを語り合っていたが、やがて話はついたようだった。 ラッセルとマクラレン嬢と私が進行方向に後ろ向きに座り、その向かい側にブレイデンとミセス・フェイヴァーとドクタ・フェイヴァーが座った。それは完璧な席順だった。我々はしばらくの間、無言のままそこに座っていた。メンデスがサイド・カーテンを下ろしたので、馬車の中はほとんど真っ暗だった。馬車が底面に張られたバネつき皮革の上で、ごとごとと上下に振動するのが身体に感じとれた。ウン 七人が決まっていく過程が、『七人の侍』の出だしを彷彿とするわけで・・・なかなかのストーリーテリングや、おまへんか♪読み進んでいくと、ミセス・フェイヴァーとドクタ・フェイヴァーが冷め切った夫婦であることが分かってきて、これが面白いのだ♪しかしまあ・・・アメリカという国は一貫として、この本に描かれたような銃社会であることが怖いといえば、怖いのです。
2018.07.19
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図書館に借出し予約していた『たんぽぽ団地』という本を、十日待ってゲットしたのです。団地を舞台にした映画作りということのようで、映画作りに関心がある大使としても、興味深い舞台設定でおます。【たんぽぽ団地】重松清著、新潮社、2015年刊<出版社>より昭和の子どもたちの人生は、やり直せる。新たなるメッセージが溢れる最新長編。元子役の映画監督・小松亘氏は週刊誌のインタビューで、かつて主人公として出演したドラマのロケ地だった団地の取り壊しと、団地に最後の一花を咲かせるため「たんぽぽプロジェクト」が立ち上がったことを知る。その代表者は初恋の相手、成瀬由美子だった……。少年ドラマ、ガリ版、片思いーー あの頃を信じる思いが、奇跡を起こす。<読む前の大使寸評>団地を舞台にした映画作りということのようで、映画作りに関心がある大使としても、興味深い舞台設定でおます。<図書館予約:(7/03予約、7/13受取)>rakutenたんぽぽ団地この小説の冒頭の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p5~6<プロローグ> 1時間ほど空けておいてほしいと頼まれていた週刊誌のインタビューは、30分以上も時間を余して終ってしまった。 酒井という若い女性記者は「あのー、それで、えーと、つまりですね…」と間をつなぎながら、しばらく取材ノートをめくっていたが、結局、質問は出てこなかった。 「すみません…じゃあ、これで記事をまとめさせていただきます」 恐縮して肩をすぼめる酒井記者に、小松亘氏は「お疲れさま」と苦笑いで応えた。取材がわるいのではない。『私の近況』というコーナーに、5年も新作を撮っていない映画監督を登場させることじたいに無理があったのだ。 スランプに陥っていた。テレビドラマの演出などの請負仕事はこなしていても、自らの企画が何も浮かんでこない。52歳。難しい年齢である。もはや若手ではないが、「監督」というしかつめらしい字面が似合うにはまだ渋みが足りず、「カントク」の軽さからなかなか卒業できずにいる。 今回の取材も、もともと登場するはずだった売れっ子の同業者が、売れっ子ゆえに仕事の都合がどうしてもつかなくなったので、プロデューサーのツテで代役を務めることになった…という、さえないいきさつからだったのだ。(中略) カントクは、かつて子役として映画やテレビドラマに出演していた。1970年代前半…ホームドラマや学園ドラマ、刑事ドラマ、時代劇に、特撮ドラマの黄金時代である。 本名のファーストネームを片仮名にした「小松ワタル」くんも、数多くのドラマでさまざまな役を演じてきた。 ただし、そのほとんどは脇役だった。大きな役でも主人公の親友やライバルがせいぜいで、「同級生」や「店内に居合わせた少年」という、役名もつかない仕事も少なくなかった。演技は巧みだが華やかさに架ける、というのが業界での評価で、ワタルくん自身それをよくわかっていた。おとなになって演じる側から演出する側に回ったのも、自分の中では当然のなりゆきだったのだ。 昔の自分を覚えてくれているひとがいるというのは、やっぱり、うれしい。うれしくても、売れずじまいで終ってしまったことが、やっぱり、寂しくて悔しい。二つの「やっぱり」がからみ合い、もつれ合って、表情は複雑に揺れ動く。 「母に教えてもらうまで知らなかったんですけど、調べてみたら、小松さん、すごくたくさんのドラマに出演してるんですね」 「使い勝手がよかったってことだよ」 冗談めかして言ったが、本音だ。
2018.07.19
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中国が進めている「一帯一路」プロジェクトが案外と嫌われているので、中国政府は宣伝報道の自粛を指示しているようです。ネットの関連記事を見てみましょう。 2018/07/05中国で「一帯一路」報道自重ぎみ 評判振るわずより 61年振りに政権交代したマレーシアのマハティール政権は、ナジブ前首相と中国共産党政府が契約した、2つの一帯一路プロジェクトである計4兆円相当の鉄道計画の中止と見直しを発表した。国内の専門家から、親中ナジブ前政権のように政治腐敗と巨額負債を促すとの声が強まっていた。7月初旬にナジブ氏が逮捕されたことにより、さらに負のイメージとのつながりが色濃くなる一帯一路。中国政府は内外の情報に敏感になり、宣伝報道を抑制するようメディアに指示している。 中国国内メディアによると、中央政府は一帯一路に関する宣伝報道や発表を自粛している。指示では、次の2点を強調したという。1.マーシャル・プラン(米国による経済疲弊国救済計画)の中国版ではない。 2.一帯一路はイニシアチブ(構想)であり、戦略計画ではない。 この報道自粛指示は、関係国のなかで起きている懸念、例えば債務超過で現地政府機能を低下させ中国の影響力を強化する「債務トラップ外交」、また軍事圧力、現地政府の腐敗を招く金満外交など、ネガティブな論調を抑制する狙いがある。 ジャーナリスト・末永恵氏がJBプレスで5月に発表した記事によると、マハティール政権による知識者を集めた政府の評議会メンバーは、中国主導の「東海岸鉄道計画(ECRL)」について「非常にリスクが高く、しかも理にかなっていない。マレーシアにとって全く有益ではない」と、否定的な見方を示した。記事によると、マレーシア与党関係者の間では「中国政府と交渉した上、中止になる公算が高い」との見方が強いという。中国国内の銀行も 一帯一路の先行き不安? 米ニューヨーク・タイムズは最近、中国政府は一帯一路にブレーキをかけ始めたと報じた。アジア、東ヨーロッパ、アフリカにまたがる大胆で大規模なプロジェクトに資金を注ぐため、5年かけて何千億米ドルを資金調達してきた。中国の公式発表によると、2018年1月から5月まで、中国企業は一帯一路関連事業に362億米ドル相当の契約を請け負ってきた。まだ規模は大きいが、前年同期比で6%減少した。 中国側も慎重意見が出始めている。中国人民銀行の易綱・総裁は4月、中国の金融機関は、相手の返済能力を見極め、一帯一路で国をまたいだ融資計画を組むときは慎重になるようにと発言した。 6月中旬、上海の中国金融当局の会合で、関係者からも自重ぎみな意見が出ている。中国輸出入銀行の?暁煉・会長は、一帯一路に注いだ莫大な投資が、短期ではなく、より長期にわたりプロジェクトの成功が見えるかどうかを問題提起した。 6月末、香港で開かれた一帯一路サミットで登壇した、香港貿易発展局の羅康瑞氏は、この巨大構想プロジェクトに関わる国には、中国国有企業が多く投資しているが、これらの企業は「(関係国への)寄付ではないことをはっきりと自覚するべきだ」と述べた。一帯一路で関係悪化+++++++++++++ハンバントタ港 一帯一路の関係国は、対中国との関係悪化がみられる。冒頭のマレーシアのマハティール新政権は、同国とシンガポールを結ぶ高速鉄道計画を中止させ、東海岸鉄道計画も見直しを決めた。合わせて4兆5000億円にも及ぶ2つのプロジェクトは一帯一路の目玉事業と言われ、中国企業が建設工事を請け負う予定だった。さらに新首相は6月、初の外遊先に日本を選び、中国の影響下からの脱却をアピールした。 米シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)ジョナサン・ヒルマン研究員は、同氏の率いるアジア経済研究サイト「リコネクティング・アジア」のなかで、「スリランカの経験に関心を集めている」とした。中国資本で建設された同国コロンボ港は運営と債務返済が困難な状況で、その見返りに、スリランカは中国の地政学戦略上で要衝となるハンバントタ港の運営権を99年譲渡することを余儀なくされた。ハンバントタ港に見られるような「債務トラップ外交」は、札束で張り倒すような外交であり、やり過ぎだったようですね。2018年4月20日「一帯一路はEU分裂の火種」 27カ国の駐中大使が批判より 中国に駐在する欧州連合(EU)28カ国の大使のうち27人が連名で、習近平政権が提唱する現代版シルクロード「一帯一路」構想を強く批判した。ドイツの国際放送、ドイチェ・ベレが18日報じた。外国大使が駐在国を連名で批判するのは極めて異例だ。 報道によると、大使らは「一帯一路は中国政府による無制限の補助金を受け取った中国企業だけが利益を独占するだけで、欧州企業は同等の機会を得られない事業だ」とし、「これはEUの自由貿易プロセスを損ね、欧州を束縛するものだ」と主張した。大使らはまた、「一帯一路プロジェクトはEU28カ国に分裂の火種をまいている」と懸念した。大使らの発言は、今年7月のEU・中国首脳会合を控え、EUレベルで取りまとめられたもので、EU加盟国ではハンガリーの大使だけが加わらなかった。 ドイチェ・ベレは、ハンガリーが署名を拒否したのは、東欧の鉄道、高速鉄道、発電所などの建設に大規模投資を行っている中国の影響力を示すものだと伝えた。さらに、インフラ整備の遅れで中国による投資を求める一部EU国家が中国の人権問題、南中国海(南シナ海)の領有権問題でEUの決議案に加わることを拒むなど、欧州団結にもひびが生じているとも指摘した。 EUの大使らは、中国が自国を開放せず、相手国に開放を強要する中国の二重性もやり玉に挙げた。大使らは「欧州の政治家は中国を訪問するために『一帯一路』に加入するという署名に応じるよう、中国側の圧力を受けている」とし、「こうした圧力は中国が悪用する可能性が高い力のアンバランスにつながる」と主張した。 EUの外交官は「中国は知的財産権保護の分野で世界貿易機関(WTO)のルールのあいまいさを悪用し、ルールに違反しても全くお構いなしだ。交渉のテーブルでそうした問題を取り上げれば、同意するような姿勢を見せるが、現実は何も変わっていない」と指摘した。世界貿易機関(WTO)にタダ乗りしてやりたい放題の中国であるが・・・そのうちしっぺ返しがあるのかも?
2018.07.18
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図書館で中沢新一著『アースダイバー 東京の聖地』を借りて読んでいるのだが・・・・これまで、中沢新一の著作をかなり読んでいたことに気付いたのです。で、それらの著作を並べてみます。・アースダイバー 東京の聖地(2017年)・大阪アースダイバー(2012年)・東方的(2012年)・僕の叔父さん網野善彦(2001年)・南方マンダラ(1991年)・蜜の流れる博士(1979年)<『アースダイバー 東京の聖地』5>図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地『アースダイバー 東京の聖地』4:日本型流通システム『アースダイバー 東京の聖地』3:江戸の魚河岸『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化【大阪アースダイバー】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>より南方と半島からの「海民」が先住民と出会い、砂州の上に融通無碍な商いの都が誕生・発展する。上町台地=南北軸と住吉~四天王寺~生駒=東西軸が交差する大地の一大叙事詩を歌いあげる。<読む前の大使寸評>内容はディープな大阪案内であるが、切り口と本のタイトルが斬新なんですね♪だいたい「ジャンジャン横丁のデュシャンたち」とか「ナニワのミトコンドリア戦略」とかいう切り口は、誰も設けないですよ。rakuten大阪アースダイバー<『東方的』4>図書館で中沢新一著『東方的』という本を手にしたが・・・・目次を見ると、多彩なテーマが並んでいて、何が語られるのか、興味深いのです。【東方的】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりボストークー東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前である。偉大なる叡智=ソフィアは、科学技術文明と近代資本主義が世界を覆い尽くす時こそが、真実の危機だと告げる。バルトーク、四次元、熊楠、マンダラ、シャーマニズム、製鉄技術、方言、映画とイヨマンテ…。多様なテーマで通底する「無意識」に、豊饒な叡智を探求する。<大使寸評>スラブ民族や熊楠曼荼羅など、果ては四次元的推論まで縦横無尽に書きつくす(あるいは書き散らす?)中沢さんの頭の中は、どうなっているのだろうと、驚いたのです。shogakukan東方的『東方的』4『東方的』3『東方的』2『東方的』1<僕の叔父さん網野善彦>図書館で『僕の叔父さん網野善彦』という新書を手にしたが…おお 中沢新一の本ではないか♪ 最近読んだ『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。【僕の叔父さん網野善彦】中沢新一著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。【目次】第1章 『蒙古襲来』まで(アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン ほか)/第2章 アジールの側に立つ歴史学(『無縁・公界・楽』の頃/若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール ほか)/第3章 天皇制との格闘(コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日 ほか)/終章 別れの言葉<読む前の大使寸評>最近読んだ中沢さんの『東方的』という本が良かったので、この本もいけるかも。rakuten僕の叔父さん網野善彦『僕の叔父さん網野善彦』1<『南方マンダラ』4>図書館に予約していた『南方マンダラ』という本を、待つこと1ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪【南方マンダラ】南方熊楠, 中沢新一著、河出書房新社、1991年刊<商品の説明>より世紀を超えてなお知の巨大な風貌をとどめる南方熊楠。日本人の可能性の極限を拓いた巨人の中心思想=南方マンダラを解き明かす。中沢新一の書き下ろし解題を手がかりに熊楠の奥深い森に分け入る。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪<図書館予約:(5/12予約、6/16受取)>amazon南方マンダラ『南方マンダラ』1『南方マンダラ』2『南方マンダラ』3<『蜜の流れる博士』5>図書館で『蜜の流れる博士』という本を、手にしたのです。目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪【蜜の流れる博士】中沢新一著、せりか書房、1989年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪amazon蜜の流れる博士『蜜の流れる博士』1『蜜の流れる博士』2『蜜の流れる博士』3『蜜の流れる博士』4
2018.07.18
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<『カシス川』4>図書館に借出し予約していた『カシス川』という本を、およそ半年待ってゲットしたのです。胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。【カシス川】荻野アンナ著、文藝春秋、2017年刊<出版社>より7年前に彼を癌で亡くし、父を見送った私の腸に、癌が見つかった。これで私はようやく休める、私は腹の中に「楽園」を抱え込んでいるのだ。告知を平然と受け止めた私は、ともに暮らす要介護4の母との入院を心に決めた。<読む前の大使寸評>胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。<図書館予約:(1/20予約、7/13受取)>rakutenカシス川「日雇い通信」の記者という女が登場するので、見てみましょう。p66~71<ミッシェル> 爪がリノリウムの床を掻く音がする。黒く濡れた瞳は、闇の中でもそれと分かる。鳴き真似をすると寄ってくる。首を傾げている気配がある。私は安心して目をつむる。まどろみの中で、げっ歯類の歯が私の夢をかじる。おかげで私の朝は真っ白になる。 「日雇い通信」の菅野、とその人は自己紹介した。おかっぱを黒く染めているので年齢不詳だが、痩せた首がコウノトリのようだ。血管の浮き出た手に、巨大なエメラルドが偽物を主張している。 「がんの手術のことを聞かせてちょうだい。何でもいいからさ」 貰った名刺には「記者」とあるが、しわがれた声は飲み屋の女将である。手術を「シリツ」と発音する。気配を察したのか、彼女は二枚目の名刺を取り出した。寿町で「クレオパトラ」というカウンターだけの店をやっている。 横浜の寿町は、東京なら山谷、大阪なら西成だ。ただし寿町は、体験上、女ひとり、立ち飲みで一杯やれる緩い場所だ。NPO団体のやっているカレー屋「みのむし」と菅野は関係があり、タウン誌の編集を任されている。 「不景気じゃない? 取材費は出せないけど、うちの店で飲み放題ってことで」 「ドンペリ飲ませて」 「ドンのペリ? チューハイのペリで勘弁してよ。うちのはドライで評判いいのよ」 私はすでに菅野のペースに巻き込まれていた。母のヘルパーの知人、以外にじょうほうはない。赤の他人になれなれしくされている自分を眺めるむひとりの自分がいる。 「何から話しましょうか?」 「シリツ」 では、と背筋を伸ばした。 全身麻酔だから、手術そのものの記憶はない。眠りとは異質な、荒っぽいやり方で数時間が吹っ飛んだ驚きは、未だに覚えている。落ちた意識が戻ると、目の前が藤の花だった。テーブルに造花を括り付け、壁には藤柄の手拭いを貼ってある。 傍らで母があわあわさせていた。問いかけに答える努力が吐気を呼んでくる。 「一人にして」 母は明らかな失意の表情を残して去った。一人になるとは、不快感と取り残されることだった。 他人の看病を重ねた経験から、このような場合に気を紛らわす用意は怠りない。鼻からチューブ、患部からドレーン、背中に麻酔液の管、尿道にカテーテルの状態で、アロマを焚く気にならない。(中略) 棚の上のメモ帳を取るという最低限の動作が、思うに任せない。そのもどかしさは、肺と腰を病む母親の日常に近いと思い至った。母を哀れと思う余裕はなく自分の中身がすっぽり抜けている。 朝になると、鈍痛は左下腹部に集中した。傷跡はへその下だが、傷跡そのものではなく、内部のいじった箇所が傷むと知った。無理やりへその下に意識を移したら、そちらのほうに痛みが移った。 再びメモ帳を開く。無地のはずが薄い黄色のアラベスク模様が見える。何度か目を開いたり閉じたりした。ネズミの残像が残った。長い毛足が艶やかなブラウンで、濡れた瞳が私を凝視している。次の瞬きで飛んでいきそうなネズミを、意識の中に押し込めた。ミッシェルと名付けた。名前さえ付けてしまえば彼は私のものであり、私が彼の檻になる。『カシス川』3:猫男『カシス川』2:アンナさんの入院記『カシス川』1:アンナさんの母子関係や病歴
2018.07.18
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図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地建築家の伊東富雄氏との対談を、見てみましょう。p146~148■流通センターか、市場か中沢:そういう意味でも、築地市場は特異な空間です。先進国の多くで市場は物流センターに作りかえられ、床にマグロがごろごろしているところはなくなっています(笑)。ところが不思議なことに、物流センター化した市場では、総じて味覚文化の水準が低下したと嘆かれています。 伊東:はい、そのとおりです。中沢:今いろいろなところで市場の物流センター化が進んでいます。日本の地方市場でもそういうことが起きています。物流センターには仲卸という存在がいません。セリもなくされていく傾向にあります。僕はそれをあらゆる種類の「中間機構」を廃止していこうとする、現代の資本主義の全体的傾向に対応した変化と見ています。食文化のようなデリケートな領域では、それがどういう状況をつくりだしていくかは、今からでも予想がつきます。 その先には当然、電子取引の世界が待っています。「種」という「中間機構」を排除してしまうそういう世界では「個」は直接剥き出しの状態で「普通」に向かい合うことになります。これがグローバリズムの本質ですが、食文化のようなものは「種的」な本質を持つ文化の中でもとりわけデリケートなものです。物流センターの対極にあるのが築地市場です。そういう現代だからこそ、世界中から築地市場が高い評価を受けているのだと思います。 築地市場なんて古めかしい汚らしいものを潰してしまえと、乱暴なことを言う人たちがいます。それを聞くと、なんて時代遅れな人たちなんだろうと感じます。市場を物流センターにつくりかえるということは、それはある種のモダニズムの極限ではありますが、そういう近代型の資本主義はもう終末に向かっているのではないでしょうか。 伊東:だいぶ前に、僕は東京を指して「サランラップ・シティ」と言いました。 つまり、コンビニやスーパーに行くと、野菜や魚など生鮮食料品がすべてラップに包まれている。そうすると匂いもないし、全部清潔に見えてしまう。しかしフランスのマルシェに行けば、土のついた野菜が並んでいる。本来はなまものである商品がラップされることによって、われわれは記号としてそれを消費するようになる。 要するに豊洲移転でやろうとしていることは巨大なサランラップ・シティというか、巨大なコンビニエンス・ストアをつくろうとしていることなのではないでしょうか。いきなり大きなマグロをパックしてしまうようなものですよね。中沢:農業に関心をもつ若い人たちの中に産地直送型を目指す人たちもいます。彼らが問題にするのはJAです。農業協同組合と名乗っていたころのJAには仲卸のような意味もありましたが、あまりにも巨大化して形骸化してしまいました。そこでJAの流通機構を通さないで、直接消費者に結びつきたいという考えが生まれています。 ただ、ここにもいろいろな問題が孕まれています。産地から消費者に届くには物流のシステムが必用です。しかしIT化が進んでいくと、昨今の運送業の状況を挙げるまでもなく、仲卸抜きですべてを産直にすることは到底不可能になっていくでしょう。もうひとつの問題は、専門知識の蓄積、いわゆる目利きの問題です。 伊東:なるほど。そうですね。 ■「目利き」の力中沢:農業の場合は日頃作物を扱い、よく勉強している普通の生産者が目利きの役割をする余地は大いにあると思います。しかし、魚市場に関しては、これは難しいのではないでしょうか。 築地市場ではじつに幅広い魚類を扱っています。それこそ、大型スーパー向けの魚から飲食店向けの高級魚、加工用から生食用まであります。 この幅がそのまま日本食のバラエティを支えていて、クールジャパン文化の源泉でもある。 伊東:部位によっても名前が変わってくる。中沢:「目利き」は分類し、グラディエーションをつくりだす番人のようなものです。それは身体的な暗黙知を生かしながらおこなわれる、たいへんデリケートな作業です。そういう仲卸を排除する市場というのは、まさに伊東さんのおっしゃるサランラップ・シティと同根です。ウン、都庁のお役人の場合、箱物優先という議会、議員に忖度して豊洲移転を決めたわけで・・・味覚とか伝統とかいうデリケートな感性は期待できないし、その能力にも疑問符がつくのでしょうね。『アースダイバー 東京の聖地』5:築地市場移転問題『アースダイバー 東京の聖地』4:日本型流通システム『アースダイバー 東京の聖地』3:江戸の魚河岸『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化
2018.07.17
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お天気はピーカンである。酷暑が予想されるが横尾忠則を観に行こう♪…ということで、横尾忠則現代美術館に出かけたわけです。なお、今回は兵庫県の文化施設の入館料無料サービス(7/12~16)にあずかっております。兵庫県立美術館にも行くつもりだったけど、あまりの暑さで取止めにしました。今回のポスターです。横尾忠則 画家の肖像より 1965年の自主制作ポスター《TADANORI YOKOO》以来、横尾忠則は作品にたびたび自身の姿を登場させています。1960年代後半から若者文化を牽引し、作品のみならず作家自身のイメージまでもがメディアによって拡散されてきた横尾にとって、主観と客観が混在する自身の肖像は特別なテーマであったといえます。また、グラフィックデザイナーから画家へ転身する1980年初頭には、確立したデザイン手法を封印し、絵画の中に自分らしさを求めて、多種多様な自画像を描き始めます。 本展の第一部では、移り変わる関心のままに主題や様式を変化させてきた横尾の根底にある自己探求のプロセスを、自画像というテーマから探ります。虚像としての横尾忠則像を自ら複製する1960年代後半から70年代、試行錯誤を繰り返し、様々な手法で自身の姿をモチーフとして取り入れる1980年代、少年期の記憶から自身を見つめる1990年代、日常の延長をスナップ写真のように描きとめる近作など、自画像の変遷は、描くこと、生きることに対する横尾の意識の変化でもあります。 第二部では、横尾が影響を受けた画家の肖像を展示します。そこには師であり仲間でもある先人たちへの敬意や共感、批評等、様々な思いが見え隠れしています。 自己と他の画家との間を往還する「画家の肖像」が、変幻自在の画家、横尾忠則の道程を辿る機会となれば幸いです。[会期]2018年5月26日(土)-8月26日(日)この美術館では、真正面でなければ、そしてフラッシュ無しなら写真撮影OKという方針になっていて・・・ええやんけ♪横尾忠則を観に行こう♪6:横尾忠則の冥土旅行横尾忠則を観に行こう♪5:横尾忠則 HANGA JUNGLE展
2018.07.17
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図書館に借出し予約していた『カシス川』という本を、およそ半年待ってゲットしたのです。胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。【カシス川】荻野アンナ著、文藝春秋、2017年刊<出版社>より7年前に彼を癌で亡くし、父を見送った私の腸に、癌が見つかった。これで私はようやく休める、私は腹の中に「楽園」を抱え込んでいるのだ。告知を平然と受け止めた私は、ともに暮らす要介護4の母との入院を心に決めた。<読む前の大使寸評>胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。<図書館予約:(1/20予約、7/13受取)>rakutenカシス川猫男が登場するので、見てみましょう。p44~46<鵺> 私はそのうち男を「高橋さん」と呼ぶようになった。「佐藤さん」のこともある。テレビの画面がキムタクだと「木村さん」になる。どうせ相手は「にゃあ」としか答えない。 それでも名前が出たとたん、猫男は私の話し相手になった。 「大腸がんの抗がん剤は手足が荒れるのよ」 病院の医師には保湿を心がけるよう言われている。しかし現実には、クリームを塗ったとたん、トイレやら料理やらで手を洗うはめになる。 「手術してから頻便なの。わかる? ウンチがちびちび何回も出るの。そのたびに手を洗うから保湿どころじゃないのよ」 猫男は食事時の尾篭な話にもたじろがない。その代わり返事もない。 「今朝、二度寝いたら嫌な夢見ちゃった。胃の中が血でいっぱいになってるの」 「にゃあ」 「昨日テレビのドキュメンタリー観たじゃない? 母親の介護をしているジャズ歌手の話。今日、お母さんに話したら厭味だと思ったみたい。『お前は長生きする。私の歳になって私のことを考えてみて欲しい』って」 「にゃあ」 翌日は母に付き添って病院へ行く。 「私は抗がん剤で白血球が減っている時期だから、本音では、外出したくないわけ。嫌がってる気持ちって、伝わるみたいね。『どこまでお前に迷惑かければ済むねんやろか』って言われちゃった」 「寝る」 猫男は最初、いびきをかくふりをする。そのうち本当に寝てしまう。規則正しい寝息の横で、私は天井を見つめている。 駅のホームに、パジャマの私が立っている。前の女性が傘で私を威嚇した。私は声を絞り出した。 「手術した体なのに、やるならやりなさい」 パジャマをめくり、腹の傷跡を見せた。発車のベルが鳴り止まない。実は電話のベルだと半分気付いている。母が留守電に吹き込む声を聞きながら、ホームを歩いている。階段を降りた先の通路が私の家らしい。そこで目が覚めた。『カシス川』2:アンナさんの入院記『カシス川』1:アンナさんの母子関係や病歴
2018.07.17
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図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地築地市場移転問題を、見てみましょう。p123~125■ふたたび移転問題が 築地市場は銀座に近い絶好のロケーションにあって、大きすぎず小さすぎもしない最適な規模を持ち、外国人旅行者からも熱いエールを送られている。まさに世界一の魚市場である。 それがいつの頃からか、修理や改修のための予算を計上されないままの状態が続いて、すっかり老朽化が進んでしまった。竣工当時はあんなに若々しく美しかった築地本場の建物も、いまではすっかり老人だ。 こういう場合、最近の世界的傾向としては、リノベーッションの改修工事をおこなって、近代建築のすぐれた遺産として、現代に蘇らせるという方法がとられる。じっさいい東京駅などはそのやり方で、立派によみがえった。ところが築地市場に関しては、現地において再整備するという意見が退けられ、東京湾に浮かぶ人口島の豊洲へ移転することが、決定されてしまった。しかもそこは、ガス会社が最近まで操業を続けていた土地である。 私たちは、築地市場がいかにすぐれた魚市場であるかを、アースダイバーの視点で詳しく見てきた。そこでは巨大な「中間機構」が働き続けている。産地から卸売によって市場に運び込まれた魚貝類を荷分けしたり、セリにかけて適正な価格をつけ、魚体をさばき、下ごしらえしたうえで、買出し人に売り渡す。入力と出力の間に差し挟まれたこの中間機構が、築地市場では他に類例がないほど、発達している。 物流は中間機構に委ねられている間ストップするが、そのあいだに品物には豊かな価値づけが付け加えられる。「魚河岸の伝統」と言われているものは、じつはこの中間機構のことをさしている。その伝統は日本橋魚河岸で生まれ、成長をとげて、築地市場にまで持ち込まれた。(中略)■たれこめる暗雲 ではいま目論まれている移転の場合はどうだろう。残念ながら、うまくいきそうな見込みはほとんどない。いちばん大きな理由は、豊洲新市場が沖卸の仕事場にふさわしくつくられていないからである。 新市場の予定地になっているガス工場の跡地には、環状二号線と315号線が直交している。このため市場となるべき敷地は四分割されることになり、築地市場にあるような卸売と沖卸のそれぞれの空間を、スムーズな動線で結ぶ通路をつくることができない。(中略) 豊洲新市場を設計した現代の技術者たちは、どうやら中間機構の意味や機能を理解できていなかったらしく、むしろ積極的に、中間機構の働きを壊す方向に、図面を引いてしまっている。そこに高い施設使用料金の問題が重なる。さまざまな意味で、豊洲新市場の建物は、市場を殺すというよりも、沖卸の世界を滅ぼす効果を発揮するにちがいない。ウーム 豊洲新市場の設計には立地の安全性などに、どこかしら政治の介入が感じられたのであるが・・・伝統への無理解まであったのか。要するに箱物優先の政治と行政の無作為があったのでしょうね。『アースダイバー 東京の聖地』4:日本型流通システム『アースダイバー 東京の聖地』3:江戸の魚河岸『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化
2018.07.16
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図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地昨今はアマゾンの独り勝ちが批判されているが、かつての流通システムを、見てみましょう。p71~76■日本型流通システム 日本橋本小田原町を舞台にくりひろげられた、伝統を誇る森一族系問屋群と新興の大和屋助五郎との勢力争いの裏には、新旧二つの流通システムのつばぜりあいがあった。 森一族系問屋は、大阪雑喉場市場などで確立されてきた、いかにも日本的な流通システムを、江戸に展開した。このシステムでは、何段階もの名称のちがう「問屋」の連携によって、産地から魚貝類が魚河岸に届けられてくる。 まず産地側から言えば、問屋と契約を結んだ「持浦」の漁師たちが漁った魚貝は、産地仲買人である「旅人」によって集荷され、「押送船」に積み込まれ、最速の航海で日本橋まで運ばれてくる。■大和屋絶頂 ところがそこに、大和屋助五郎が殴り込みをかけてきた。手練手管をつくして、幕府から「御本丸、西御丸御膳御次御肴御請負」を仰せつかるにいたった助五郎は、おりからの消費ムードにのって、鯛を活きたまま産地から日本橋まで運んでくる、クール宅急便ならぬ「活鯛」の商売で、おおいに名を挙げた。 助五郎の開発した流通システムは、森一族系問屋のものとは、真反対の考え方によっていた。産地から消費までを、多様な問屋などを介在させないで、単一の「ヤマトヤシステム」で統一し、いったん儲けを独占したうえで、システムの構成員にお給金を払っていくやり方である。 大和屋助五郎は、はじめ駿河と伊豆の9ヶ所の漁村と指定契約を結んで「敷浦」となし、生簀の中で飼い、網で生け捕った鯛を、活船で江戸に運びこむシステムを開発した。■大和屋の凋落 しかしこの納魚請負人という制度から、大和屋を凋落させるにいたる大問題が発生した。18世紀になると、幕府は江戸城への魚貝類の納入のやり方を「直納」から「請負」に、変えていった。直納では、出入りの御用商人たちが、魚を吟味して、各自でお城の膳部に納入する。これに対して請負では、四つの大きな問屋を選んで、納入の一切の責任を持たせる。そればかりか、請負人になった問屋は、城内の膳部に配下の料理人を派遣して、魚料理の下ごしらえまでしておかなければならなかった。 はじめは、森一族につながる摂州系問屋四軒がこれに選ばれて、請負人となった。しかし、あまりに負担の大きさに、彼らが不満たらたらで、待遇改善を要求しているのを知った大和屋助五郎は、「今の条件でけっこうですから、私が一人ですべて責任をもって請負の仕事をいたしましょう」と申し出たのである。これによって、森一族系問屋まで、自分の配下に入れてしまおうという落胆である。願ってもないおの申し出に、財政難の幕府が喜んで応じたのは、いうまでもない。助五郎は納魚請負人の地位を、こうしてまんまと独占した。(中略)■魚河岸の成熟 あっという間にのし上がり、なんだかんだと騒いでいるうちに衰退していった、大和屋助五郎の盛衰記を目撃したあと、日本橋魚河岸は本物の成熟期に入っていった。 大和屋助五郎は、産地と小売の間をつないでいる、独立性をもったさまざまな仲買人の連鎖を一掃する「仲抜き」を断行して、単一の「ヤマトヤシステム」をつくりあげようという革新的試みに挑んだ。しかしそれは、ここではついに大勢となることがなかった。最終的に、伝統システムのほうが勝ったのである。 日本橋魚河岸でふたたび勢力を回復した、佃島=森一族につながる問屋たちは、大小さまざまな問屋群の連携・連鎖でなりたつ伝統的な流通システムに、さらなる改良と磨きを加えて、現代まで続く江戸東京の魚河岸文化の原型をつくりあげていった。まさに驕る大和屋助五郎のようなアアゾンであるが・・・日本の伝統的流通システムは結束して復権をはかってもらいたいものである。『アースダイバー 東京の聖地』3:江戸の魚河岸『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化
2018.07.16
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図書館に借出し予約していた『カシス川』という本を、およそ半年待ってゲットしたのです。胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。【カシス川】荻野アンナ著、文藝春秋、2017年刊<出版社>より7年前に彼を癌で亡くし、父を見送った私の腸に、癌が見つかった。これで私はようやく休める、私は腹の中に「楽園」を抱え込んでいるのだ。告知を平然と受け止めた私は、ともに暮らす要介護4の母との入院を心に決めた。<読む前の大使寸評>胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。<図書館予約:(1/20予約、7/13受取)>rakutenカシス川アンナさんの入院記を、見てみましょう。p31~34<海藻録> 5月15日 私に天才的なアイデアが浮かんだ。入院中、母を一人にしておくことは不可能である。食べずに干からびるか、転んで骨を折るか、その両方の可能性が高い。 幸い母は入院するに足る病気を複数抱えている。母と私が同時に入院すれば飯の心配は解消する。おまけに常時医者がいるから倒れ放題だ。 主治医に泣きついてOKを取った。間に一部屋置いて、母と私の病室が並ぶことになった。 母は不満である。同室を主張した。幸い病院に二人部屋は無かった。 5月16日 ホームドクターはダジャレ好きである。 「子宮がんはシキューに手術しないと」 「悪いところがないのにケッカンとはこれいかに」 さすがに患者を見て言葉を選んでいるらしく、医院は結構繁盛している。経緯を電話で報告するたび長話になる。 「がん細胞は自由奔放なヤツなんです。体から『大腸の粘膜になりなさい』と指令が来ても『おれは大腸になんかなりたくない』と他所のショバに行ってしまう」 以上、がんの「湿潤」の説明である。浮かれたがん細胞も、普通なら大腸の細胞にブロックされて「遊走」できない。それでもロックを解除し、早い段階から「旅に出る」がんがいる。のんびり発達しながら遠出をしないがんもいる。すべては最初から運命付けられている。がんも、患者も、「お釈迦様の手のひらの上」なのだ。 5月22日 ハンコ メガネフレーム 保険のこと ヘアカット 百均小物入れ 本を返す 携帯の充電器 布・引っ付き虫… 入院の必須アイテムは「布」だ。病室の白い壁に耐えるのが入院生活と知っている。 5月23日 職場を昼に退き、大量の荷物と母親を背負って入院した。「背負って」はむろん比喩である。正確には、左腕に百均のビニールバッグをふたつ。ホームレスが日常品一式を入れて持ち歩くのと同じタイプのものだ。右腕にはショルダーバックと、ホームレスバックがひとつ。バッグを半分床に引きずりながら、母親の車椅子を膝で押して歩いた。病人になるには体力がいる。 落ち着いたところで、主治医から説明を受けた。「高・中分化線がん」と聞いて胸をなで下ろした。小細胞がんのような活発なタイプではない。遠隔転移(肺・肝臓)も目に見えるレベルでは存在しない。今のところ「ステージ2」だが、切ってリンパ節転移があればステージ3になる。 5センチのがんに対して約15センチを切る。短く切ると「廓清が甘くなる」、すなわち取り残しの危険が出る。切除の後はサーキュラーステープラー(ホッチキス)を尻から挿入して縫合する。 手術の翌日から歩行訓練が始まる。4、5日でドレーンが抜け、水と粥が摂れる。1週間で抜糸。順調なら10日で退院。ウン 大使の場合も手術の翌日から歩行訓練が始まったなあ。胃の全摘で順調なら2週間で退院と言われたのかな?『カシス川』1
2018.07.16
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図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地江戸の魚河岸を、見てみましょう。摂津の佃村から移住してきた漁民たちの苦労話でおます。p47~53■点のような佃島 隅田川河口部にある佃島は、いまではそこがかつて島であったことを想像しにくいほどの、変貌をとげてしまっている。周囲には晴海や豊洲といった、比較的新しい埋立地ができ、石川島や月島・新佃島とは、いまやひと続きになっている。 ところがかつて、ここは「点を打ったる佃島」と呼ばれたように、江戸湾にぽつんと浮かぶ、小さな干潟島だったのである。隅田川デルタに堆積した砂がつくりあげたこの干潟島に、江戸時代のはじめ頃、森孫右衛門に率いられて、摂津の佃村と大和田村から移住してきた漁民によって、白魚漁の拠点が築かれた。このささやかな出来事こそ、今日まで続く築地市場の、歴史的原点にほかならない。 この小島が生んだ文化と人材が、そののちの江戸の庶民文化の形成に、大きな役割を果たした。江戸の食文化も、庶民のエートス(江戸っ子の心意気)も、すべてがその小島の伝統と関係している。その意味で、この小さな点のような島は、日本の文化伝統にとって、多産な女王蜂のような働きをした。■江戸のモーゼ 瀬戸内海民の小集団を引き連れて、東の未開地への移住の旅を指導した、この「江戸のモーゼ」ともいうべき森孫右衛門という人物は、じつに思慮深い、慎重な男だった。家康が秀吉によって、肥沃な三河から当時まだ未開の地だった江戸への移封を命じられて、みずから「討ち入り」というぐらいの悲壮な決意で、葦生い茂るその地へ入った、その直後に、孫右衛門も誘われて江戸に入った。関ケ原の役や大坂の陣のおこるよりも、ずっと以前の話である。 江戸城は、その頃はまだ、日比谷入江に突き出した岬の突端に立つ、砦ていどの小城にすぎなかった。お城の前に広がっているのは海で、銀座尾日比谷も日本橋も築地も、遠浅の海底に沈んでいた。その遠浅の海のむこうに、小さな干潟が見えた。大阪湾からやってきた漁民たちは、その干潟を利用して、白魚漁の試験操業にとりかかった。 最初に江戸へ向かった森孫右衛門一行は、十人にも満たない少人数であったが、土地もなければ住む家もなかったから、小石川にあった安藤対馬守のお屋敷の一隅に、仮宿舎をあてがってもらった。そもそもこの江戸移住は、安藤対馬守のアイディアによるものであったし、当時の小石川は海岸線からそれほど遠くなかったので、佃・大和田両村の漁民は、毎日小石川のお屋敷から海へ出勤して、沖の干潟に船を停めては、周辺の海での試験操業を続けたのである。 彼らはほかにも、お堀の警護と江戸湾へ入ってくる船舶の監視という、別の任務もおおせつかっていた。海賊的な側面ももつ瀬戸内漁民にとっては、こうした任務はむしろお手の物で、漁船仕立てにした軍船を操って、湾内のパトロールと、白魚漁の試験操業とを、同時にこなしていた。■漁師から魚商人へ 埋め立てで新しくできた日本橋界隈に、生魚市場(魚河岸)を最初に開設した人々こそ、ほかならぬ佃島の漁民であった。 もっとも日本橋に魚河岸ができた頃、佃島はまだ未整備の干潟で、人の住める島ではなかったために、摂津の佃村から移住してきた漁民たちの多くは、日本橋小網町のあたりに住んで、漁師をやりながら、生魚の販売にも手を伸ばそうとしていた。 森孫右衛門はすでに中年をすぎて、隠居の身分だったとはいえ、あいからず精悍で、佃・大和田両村の漁民の統率を続けていた。森一族に与えられていたのは、江戸前の海で白魚を漁して、将軍となった家康のもとに届ける、という仕事であった。 この頃、摂州出身の海民たちは、漁のやり方にさまざまな工夫をこらしたので、白魚の漁獲量は、お城への納入量をはるかに超過して、増大していた。そこで孫右衛門たちは、余りが出た分の白魚を、市中に市場を開いて販売したいと願い出た。それを機会に、白魚ばかりでなく、スズキやボラやヒラマサのような他の魚も、その市場で販売しようと考えた。江戸にはまだ、大阪の雑喉場のような、公的な市場がなかったから、この提案は大いに可能性があった。 ただその計画に一つ問題があるとすると、江戸には彼ら以外にも、すでに魚の販売でなりわいを立てようと、小田原や房総などから多くの漁師や魚商人たちが、集まってきていたことである。そういう魚商人たちの開いた私設の生魚市場なら、日本橋小網町にもあって、けっこうなにぎわいを見せていた。そこは芝の漁民が開いた魚市場だったので、芝河岸の名で呼ばれていた。摂州漁民たちは、そこに割り込んでいこうとしていたわけである。ざこばの朝市オンラインショップより『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化
2018.07.15
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図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。【アースダイバー 東京の聖地】中沢新一著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>より海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。<読む前の大使寸評>「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。rakutenアースダイバー 東京の聖地魚河岸文化の原型を、見てみましょう。p38~43■大阪の魚河岸 海に面した岸辺に、生魚の水揚げのできる、本格的な魚河岸が出現するのは、戦国時代後期の大阪においてである。ここで日本の魚河岸文化の原型がつくられた。 一向宗の蓮如が、大阪上町台地の北端に本願寺(石山本願寺)を開いた。本願寺の周囲には多くの信者が移り住んできて、たちまち立派な寺内町ができていった。 大阪は短期間のうちに、東洋一の大都市に成長していった。大小の商人が全国から、雲霞のごとく大阪に集まってきた。商家の使用人、もろもろのサービス業者、川と海と陸上の運輸業者、消費しかしない武士たちと、大阪は本願寺時代にもまして、本格的な近世都市としての骨格を整えていった。■川の民 この大阪城建設によっても、台地北端の土手下にあって、コイ、フナ、ウナギなど川魚を専門に扱う魚河岸は、以前と変わらない営業を続けることができた。それどころか、大阪の大都市化にともなって急増する人口を養うため、京橋魚河岸と橋向こうの天満青物市場は、さらなる拡充を求められた。とくに京橋鮒市場とも呼ばれた京橋の魚市場は、川魚だけでなく、海の魚貝類をも販売できる、より大きな市場への脱皮が求められた。(中略) 大阪に本願寺が建設されると、川の民たちはこぞって寺内町の周辺に集まってきた。そのうち、上町台地北端の坂下に、川魚専門の市場を開いた。ここから毎日、本願寺へ新鮮な川魚が、信心をこめた「ご喜捨」として届けられた。その残りを市場で寺内町の住人たちに売りさばくのである。売るほうも買うほうも、ともに気心のしれた一向宗門徒だったわけである。■雑喉場魚市場 その一向宗が、石山本願寺から撤退するにともなって、多くの門徒住民は大阪を離れることになった。ところが、すでにこの地で商いを成功させていた商人の多くは、大阪での営業を続けようとした。魚河岸の生魚商人も、大阪を去らなかった。秀吉が大阪城に入ると、さっそくの城の台所から役人が京橋魚河岸に派遣されてきた。役人は、海川の魚貝類のうちすぐれものを、新鮮なうちに城の台所に収める仕組みをつくれと、魚河岸の有力者たちに命じた。 魚貝の納入といっても、百姓が米で税を納めるのと、基本的には同じ考えであるから、たとえ極上品をお城に納入したからといって、信じられないほどの格安でなければならなかった。そのかわり、納入業者としてのお墨付きをもらって、商人仲間のうちで一頭地を抜くことはできる。京橋魚河岸は、いっぽうでは秀吉や茶々の住む大坂城や伏見城にむけて、もう一方では庶民たちにむけて、二つの方向から魚河岸システムを構築する作業にとりかかった。(中略) そこで京橋魚市場に対抗していた、海魚商人たちが目をつけたのが、船場の西の端の河口部にあった、雑喉場という埠頭であった。ここにつくられた新しい魚河岸こそ、江戸の日本橋魚河岸の原型をなす、雑喉場魚市場である。 『アースダイバー 東京の聖地』1
2018.07.15
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