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ふと 振り返ってみると、 「昭和」から「平成」へと時代が動いた時 僕は、当時の勤務先で過ごしていました。 正直なところ、元号が変わりゆく意義や 歴史的背景を考えたり、次の時代について思いを馳せる様なことも 全く無かった様子であり、恐らくは ただ、目の前の仕事をこなすのに必死だったのでしょうか・・ 自身の今までの職業生活上、どちらかというと西暦主体であったせいか 元号については あまり深く考えることもなかったのですが、 ちょうど良い機会ですね 元号が変わるからと言って、時間そのものが変わるわけでもないですし、 国際基準で見ると、むしろややこしい一面もあるのかもしれませんが、 大化の時から、長い年月を越えて今も生きて根付き 意識、無意識に関わらず 人々の生活に影響を与えているもの 「節目」そして「文化」として 敬意を払いたいと自然に考えるようになりました この場所、時代に生を受けたのも、ひとつの必然なのでしょう この世界から、 全ての争いがなくなる時代に なることを心から祈って 渕崎 昭彦
2019.04.30
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先日、パリのノートルダム寺院の火災をニュースで知った。日本から考える位置的な基準や、個人的な宗教的価値観を基準にするなら直接的には、僕の生活には関与しないのかもしれない、それでも、ある国の精神的支柱であり歴史そのものであるとまで言わせしめ、またその哀しみに市民が歌を捧げる、そんな映像を目にしているととても他人事とは思えなくなる・・・かれこれ20年近く前にバックパックを背負い、パリの街を訪れたことがある凱旋門の前で、バスを降りた僕は右も左も判らないどころかどこに行くべきなのかも判らないでいたのだが、「ノートルダムに向かえばきっと何とかなる」と勝手に思い込み、雨の中をひた歩いた。やがて その場所にたどり着き、軽い、雨宿りのつもりでノートルダムに入ってみると、そこは 朝の礼拝の最中であり市民たちが、静かに真摯に祈りを捧げていたそこでは 明らかに自分は異物であり、いるべきでない人物であることはすぐに気づき、そこを後にした「祈り」とは・・・と初めて真剣に考えるきっかけをくれた場所であるささやかではあるけれど今宵は、追悼の聖杯を捧げたい
2019.04.17
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以前、千葉県のとある市に住んでいた頃、借家に住んでいた僕は、毎月 月末になると近隣に住む 大家のところに家賃を直接払いに行っていた。(今では珍しいかもしれませんが ノート持参で行って 毎月 領収印をもらうという、実にシンプルなシステムだったのです、 そういえば スペインでもそうでしたね・・)いつも、夜勤明けの朝に 大家さんの家に向かうわけですが、すると 大家が 「おい 茶でも飲んでけ!」と縁側に通されかつての戦争体験を話始めるのです僕は、まあ 夜勤明けでかなり眠いわけで内心困ったな・・と思いながらも、大家の機嫌を損ねて「家を出ていけ!」と言われても厄介なので静かに聞いていましたその話は シベリアで拘留されていた時の事や、そして脱出して祖国に帰ってきたときの話でした、当時の僕にとっては、それら歴史の話であり 過去のもの、恥ずかしながら、どこか 遠いものとして受け止めていたわけですが、その大家にとっては 決して消えることががない「経験した逃れられなかった現実」であり、それを体験者の口を通して、聞く前と後では自分の取り巻く世界の見え方がすっかり変わっているかのようでした。どうして、自分の親の代、またその親の代が残酷なほどの影響を受けているのに、そして、それが今日の自分にまで至っているという事に 気が付かずに生きてきたのでしょうか?無知、無関心はある意味 本当に恐ろしいものですね、どちらかと言うと、僕は自分の経験したことを信じますが、一人の人間が人生で経験する事項は限られています。だからこそ文献を読み、または 多くの経験者の話を聞き、善き物語も、そうでないものも、自分を通して、一度変換、咀嚼することがどうしても必要となってきます年齢を重ねるていくと、なかなか話を聞かせてもらう機会も減ってきますが(こちらが 話す機会も増えてきますよね・・?)これからも そういう瞬間、機会は大事にしたいものですね
2019.04.12
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少々、恥ずかしい話しにはなるのですが、20代で企業勤めをしていた頃、僕は、選挙というものに全くの無関心でした。これは、実に情けない言い訳ではあるのですが、過酷な勤務状況の中、時間が取れなかったという大義名分の下に選挙を自分の生活とは無関係のものとして捉えていたのでしょうか、社員寮での生活時代を思い出しても、投票資格の郵便物を受け取った記憶すらもないわけですから、まさに 無関心だったのですね。また 当時の会社内でも、政治や宗教の話を仕事の場に持ち込むことはタブーだったのか否かまでは覚えていませんが、周囲でそういう話をする場面がなかったことも影響していたのかもしれません。しかし 面白いもので年齢を重ねることで、自然と政治の話にも少しは耳を傾けるようになるようです・・・何を信用して、何を信用しないのか・・何が実現されて、何が曖昧(巧妙に)に消えていくのか・・・直接的に自分に関与するものだけではなく、間接的に周囲へ影響を与えることについても幾分は考え、そして 「自分の票は無意味である・・・」という発想から「それでも 0票と1票は異なるし 無力と微力は違う」そう考えるようになり、毎度 投票場に奥さんと二人自転車でチャリチャリ向かうようになりました。正直なところ、ギターを弾いているときはそれ以外の事は全く考えられなくなってしまいますし、また 音楽に没頭するということは、それが必然でもあるのですが、それ以外の時間の使い方、日常生活レベルで、社会の事象についてコツコツ勉強しなくてはいけないですね・・・道中の「桜」 見事でした!
2019.04.07
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毎年、この季節に桜を眺めることができること本当にありがたく思うようになりました。桜の木の下で、静かに佇んでいると、何とも言葉にならない、この瞬間にしか感じえない不思議な時間が訪れるようです、しばらくして、奥さんが言いました「桜を眺めて お酒を飲む人の気持ちが判るわね・・」となるほど!現代でこそ 花見はすっかりイベント的になっている面もありますが(もちろん それも楽しいのですが)元々は、そういう心の動きが生活に醸し出された自然の営みだったのかもしれませんね恐らくは 月を眺めてお酒を楽しむのと同じように
2019.04.03
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