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♪ 平凡を良しと迎える正月の禍々しきを横目に過ごす 大地震の後は、「羽田空港C滑走路で、日本航空の旅客機と海上保安庁の航空機が衝突し、炎上。警視庁によると、海保の航空機に乗っていた男性乗員5人が死亡。乗客・乗員367人は脱出してけが人(14人)はいるものの全員無事。」のニュース。 家族で来ていた息子がスマホを見ていて、「羽田空港で火事だって」と。何事とかと驚いた。 読売新聞 機長は衝突直後に脱出して無事。原因は調査中。海上保安庁の航空機・固定翼機(ボンバルディアDHC8型機)は地震の新潟航空基地に物資を輸送する途中だった。6人搭乗 5人死亡(機長が重傷)。 フライトプランは、午後4時45分に羽田航空基地を出て、午後5時55分に新潟航空基地に到着予定だった。 着陸直後に衝突、炎上したのに(乗客と乗員は、3か所の非常脱出口から脱出したという)、犠牲者も出さずによくも無事に脱出できたのは不幸中の幸いだった。正月早々から2日続けての惨事。先が思いやられる。 この日は、息子と連れ合いが集って恒例の手巻き寿司の日。借りてあった「ミッションインポッシブル デッドレコニング パート1」のブルーレイを観た。この映画は何と言ってもトム・クルーズのアクションシーンが見もの。毎回、さまざまな高度なアクションを生身で演じて度肝を抜いてきた。 今回もその見せ場は盛りだくさんで、これでもかこれでもかと聴衆に挑むように展開されていく。中でも崖からバイクごと飛び降りるシーンは、最も高度な技術が本人はもとより、制作側にも要求されるところ。そのメイキング映像を見るだけでも十分に楽しめる。 カメラを回しての本番を彼は6回飛んでいるという。 1年間のパラシュート訓練、モトクロスの特設コースで1日30回のジャンプ練習。その総数はスカイダイビング500回、モトクロスジャンプ13,000回というもの。文字通り何でもこなすスパースター。 他にもカーチェースには、毎度違ったアイデアで楽しませてくれるし、最後のクライマックス「走る列車」のラストスパートでも大いに楽しませてくれる。 ストーリーは、AIの究極の進化の姿”エンティティ”を描いているが、無から有は生まれない通り現在の状況から想像できる未来の姿を、創作的に表現しているもので、まあどっちでもいいようなものではある。推定総予算は2億9,100万ドル。 究極の未来を表現している割には現在そのもの。近未来というには中途半端な内容ではある。アクションが好きな人は良いが、内容を重視する人にとっては物足りない。しかし、トム・クルーズ人気は衰えず、公開73日目までの累計興行収入が53.8億円を突破している。 2部作となっていて、後編である『ミッション:インポッシブル8』は2025年5月23日に公開予定。大型スピーカー(能率90㏈)で音量を上げて観たが、2時間43分と長いので、最後は疲れてしまった。 夕食の後にはこれも恒例の家族麻雀。 まったくの素人がいたし、孫が一人でやりたいとかいうので時間がかかる。ああだこうだとやっている内に時間はどんどん過ぎていく。半チャンに3時間半もかかったが、まあセブンブリッジなんかよりも楽しめるのは確かなので、それはそれでよかったかなと。
2024.01.03
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♪ じんわりと悲恋に涙にじみ出てこころの底に溜まるものあり スピルバーグの「ウェスト・サイド・ストーリー」を観てきた。1961年に映画化されたあの往年の名作のリメイク版なので、当時の映画を見ているしオリジナル・サントラ盤を持っている身としてはどうしたって比べてしまう。 ただいつものように予備知識なしで行ったので、スピルバーグがどう料理しのたか、バーンスタインの名曲がどう使われていたのか全く知らなかった。大いに興味をもって、カミさんと観客もまばらなユナイテッド・シネマの後方の座席についた。61年のオリジナル・サントラ盤 ポーランド系アメリカ人の集団・ジェッツ(リーダー:リフ)とプエルトリコ系アメリカ人の集団・シャークス(リーダー:ベルナルド)。貧しい移民の子供たちが青年になり、鬱屈した日々の中で縄張り争いをしている。スラム街が解体されて新しい街に生まれ変わる直前のやるせない思いを抱える日々の中で、ダンスパーティーが開かれる。 ここでのダンスシーンもなかなかに見せてくれ、ミュージカルならではのご機嫌なシーンだ。ダンスパーティー ここで一目ぼれする主人公のトニーとマリア。いきなり感があるものの、テンポが速いのは良い。お互いに反目しているグループに属していることが問題となっていく。トニーは喧嘩で相手を半殺しにして1年間豚箱に入っていた立場で、仲間から一線を引いている。そこで、成り行き上必然的な決闘をするという運びとなる。 そんな状況の中で、二人が逢引きをするシーンに謳われるのが「TONIGHT」。61年の映画ではマリアをナタリー・ウッドが演じたが、歌を勝手に吹き替えられたというのでひと悶着あったらしい。私が観たのは多分リバイバルヒットした時だったのだろうと思うが、半世紀も前の事なのでよくは覚えていない。 7インチのLPで4曲入っている。 この「TONIGHT」が耳に残っている団塊世代は、たまらなく懐かしいシーンでしょう。今作で、オーディションで選ばれたマリア役は高校生らしいが、ナタリー・ウッドと比べると何か物足りない感じ。『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセーと比較するのもなんだけれど、個人的にはちょっと惜しい感じがしないでもなかった。 ストーリーは前作と同じなわけだが、こんな風だったっけ? と、50年前のことを思い出そうとする。でもやっぱり無理だ。でも、印象は鮮明に残っている。前作とは比較しないようにしながら、今この時代に、スピルバーグがどうしてこの映画を撮りたいと思ったかを考えていた。「ブラック・イズ・マター」運動とか「Me too」など、ジャスミン革命以降のこの世界で起こっている様々な差別に対する反対運動の中で、トランプという極右の大統領が差別の片棒を担いでいるような現実。それ等に対してものを言うというより、意味もないことで反目しあっている愚かさを示し、世の中すべての人に純愛というテーゼを立てて語りかけたかったのでしょう。前作のジョージ・チャキリス このダンスはすごいインパクトがあった。 1950年代のアメリカ・ニューヨークが舞台のこの映画。その当時にそれをそのままを描いて、その時代を色濃く表現しているというので有名でもあった。 ベルナルドの恋人であり、マリアの姉的存在のアニタ。前作で演じていたのが「リタ・モレノ」。最後のエンドロールが始ってまもなく、彼女の名前が出てきたのでおやッと思った。どんなクレジットだったかは読めなかったが・・。 もしかして、あのドラッグストアの女主人、彼女がやっていたのかも? 歌も歌っていたし、とても存在感がある・・。中央がバレンティーナ役のリタ・モレノ、左がアニタ役のアリアナ・デボーズ、右がマリア役のレイチェル・ゼグラー 調べたらやっぱりそうだった。前作ではアカデミー助演女優賞を受賞している実力派。今回は、製作総指揮も務めていたらしい。スピルバーグにとっては今までとは全く違う映画なので、オリジナル版の良さを出すために一役買ってもらったというところか。「ロミオとジュリエット」を下地に作られた映画だけによくできている。前作を知らずに観たらやっぱり感動して、ミュージカルの良さもたっぷりと堪能することでしょう。 レ・ミゼラブルでも泣いたけれど、この映画でもやっぱり涙がにじんで着て困った。こういう映画で泣くことなんかないカミさんには、ゼッタイ悟られないように・・。
2022.03.02
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♪ 肉体は既成の枠に属しても心は水のごとく自由に‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥21年(第93回)のアカデミー賞で、作品、監督、主演女優賞の3部門を受賞した「ノマドランド」を観てきた。いつものように予備知識や内容の情報を入れずに、素の状態で観るのスタイルを取った。「ノマド」が流浪の生活者を指す言葉だという事だけが知っている唯一の情報だった。 特別に映画好きでもないので監督の名前も主演女優の事もロクに知らないまま、そのアメリカ大陸という粗削りで広大な大地を生活拠点として生きている人達が、今でもそこここにいるということに驚き乍ら、その世界に誘われるように見入っていった感じ。クロエ・ジャオ監督(右)と主演のフランシス・マクドーマンド もちろん、アカデミー賞受賞監督が初の中国系(アジア系女性として史上初、女性監督としても史上2人目)で、中国ではその事に全く触れず報道もされていないというニュースは知っている。でもそんなことはどうでもいい事です。監督が誰であろうと主演が誰であろうと、良いものは良いし良くないものはそれだけのこと。 冒頭、中古のキャンピングカー(バンを自分で改造)と共に登場し、何かを食べている主人公がとても自然でそれでいてなんとも存在感があるので、最初から首根っこを掴まれてしまった。主役は「フランシス・マクドーマンド」という女優で、「ファーゴ」「スリー・ビルボード」で2度のアカデミー賞主演女優賞に輝いている女優だと後から知って、やっぱりなぁと納得した次第。 このノマド達と自分が、心情的に非常にクロスする部分があって仲間を見るような心持ちで観ていた。様々なものに束縛されるのを好まず、金のために魂を消耗させて自己を蔑ろにしながら生きることを拒否する。思っていてもアウトサイダーになる度胸は無く、周りに迎合することでしか居場所が見つけられない人からすると、憧れの対象でもあったりする。 主人公の姉もそんなことを言っているものの、ノマド達がそんな思いを口にすることもなく、ごく自然に大自然の中に溶け込みながら、緩いけれども確かなつながりを持って生活している。その様子は、確かにアメリカの伝統の根幹にあるものかも知れない。収入はどうしているのかと思ったら、季節労働者として毎年同じところへ行って働いている。なので顔見知りや仲間がいる。社会を拒絶しているわけでもなく、生活のために最低限の繋がりを維持している。 珍しくエンドロールを観ていて、ノマドの名前がすべて本人であることが分かって驚いてしまった。堂々としかし自然に振舞っていてとても素人とは思えず、日本でのマスコミ試写でもエンドロールでその事実を知らなかった場内がどよめいたというのも良く分かる。その自然な演技は、ノマド達が生き方に誇りと信念を持っている証しだと思わせられる。 女優はマクドーマンドとストラザーン(スワンスキー役)の二人だけだという。監督クロエ・ジャオが取った手法にしても、本物のノマドのなかに違和感なく馴染んでいるその演技力と、監督の手腕はさすがだと思う。 どの程度の距離を移動しながら生活しているのか分からないが、あの荒涼とした広大な大地を移動しながら生活するなんて、日本の様な小さな国に住んでいる者にはあまりにも無謀な感じがしてしまう。日本中を放浪した経験があるだけに、あの風景と共に尚更そのワイルドさと底知れぬ強さを感じた109分だった。 固定した家に住まず、特定の仕事にも就かず、命令されることも、特定の責任を負うこともなく生きられたどんなにか人間らしい生活が出来るだろう。そう思う人が実際どれくらいいるのだろうか。(映画で主人公が、「私はホームレスじゃない。ハウスレスなだけ。」と言うシーンがある。) コロナ禍が続くにつれて、ずいぶん価値観の変化が見られるようになってきましたし、既成概念を疑う人も増えてきている。経済成長がなぜそんなに必要なのか、何のために自己を殺してまで働いているのか、当たり前と思われてきたものさえい疑い始めてきている。(映画では象徴的に、ネット小売り大手アマゾンの巨大な配送センターで働く主人公の姿が映し出されている。)アーミッシュは車を使わない アメリカのアーミッシュは今、高齢化が進んでいて存続も危うくなってきているらしい。そういう独自の生活集団を作って治外法権的に生きることもあまり意味が無くなりつつあるのかも知れない。 コスモポリタンなんていう言葉を聞くことはほとんどなくなり、排他的な傾向が強くなっている今の世界は、両極端の分断社会になりつつある。 そんな状況だからこそ「ニュートラルという生き方」に大きな意味があるように思う。★「ノマドランド」原作者・ジェシカ・ブルーダーへのインタビュー記事
2021.05.07
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♪ 一関ベイシーに行ってジャズを食うそんなグルメな旅を夢見る‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ このブログは8月22日より、飼い猫ピピの目線で書いています。タイトルの頭に ◇ が付いていますが一部、例外があります。 きのう爺さま、はいそいそとどこかへ出掛けて行った。新聞の切り抜きがあったので、多分それじゃないかな。 映画「JAZZ KISSA BASIE Swiftyの譚詩(Ballad)」ってやつ。岩手県一関で50年にわたって音にこだわって、世界でも例がないというジャズレコード鑑賞のための喫茶店。その店の歴史とオーナーの菅原正二のドキュメンタリー映画らしい。 名演小劇場という小さな映画館で、マイナーだけどいい映画を上映している。この日、一日3回上映の内、2:35からの上映を観にいったらしい。ジャズが好きだから当然この店の存在は知っている。だけど岩手県じゃアあまりに遠くて・・。北海道へ車で行った帰りに三内丸山遺跡に立ち寄ったのに、ここへ行く発想がなくて、行かず終いだったことをずっと悔やんでいる。 館内にはあまり人がおらず、爺さまと同じくらいかそれ以上の高齢者が数人いるだけ。キャパが小さいので整理券を渡して受付順に好きな席に着くというシステム。上映時間になると、ぞろぞろとやって来た客はおよそ30人。高齢者ばっかり。ウィークデイの昼間だしジャズが好きなのは70年代に青春を送った人達が中心だろうからねぇ。キャパ105席に30人ほどというのは、ソーシャルディスタンスにしてもちょっと寂しいけれど、まあこんなものでしょうか。 いきなりSLの音や雷の音が響き嗤る。 菅原正二氏がかけるジャズメンたちのレコードを、アナログ録音の伝説的名器とかいわれる「ナグラ」で生収録しての、音にもこだわった映画らしい。 JBLを最高の音で鳴らすと定評のある菅原氏。ジャズファンもオーディオファンもその音と人柄に惹かれて「ベイシー」集まってくる。50年の歴史は深くて重い。カウントべイシー本人も来るしエルビン・ジョーンズが単身でやって来て、急きょソロの演奏会が開かれたりする。 ファンは世界中からやって来るらしい。有名人のサインが壁の至る所にあるのを見るだけで、やって来るファンは感激してしまうだろうなぁ。 お客とのやり取りで「岩手にはジャズが定着しているんですね」という声に、「ジャズが息づいているんじゃなくて人がいるからジャズがあるの」と誰かが言ってる。坂田明のライブ映像もあり、「やってる方が何も考えていないのに、聴いてる方がなんか考えても意味がない」と。 爺さまが好きなナベサダのライブもあったし、マウスピースの留め金(リガチャー)によって音が変わるのを吹いて見せたりするシーンも面白かったと喜んでいる。 爺さまが、「ああ、あのJBLの音が聴いてみたい」と唸った。 「うるさいと思っても、ツバメが滝の裏側に飛び込んでいくように音に向かっていくと、静かになる瞬間があるんだよね」という菅原氏の話に頷いている。うるさいロックだって、その中に心ごと突っ込んでいくとうるさくなくなるというのを体験済みだからねぇ。 ここはかなりの音量で鳴らすらしいので、びっくりする人が多いんだろう。 菅原氏「ジャズというジャンルはない、ジャズな人がいるだけだ」 そして、どこかのジャズ喫茶のオーナーは、「ジャズというのは、最初はジャズじゃない。『これがジャズ? こんなの分かんない』というのが何年か経ってジャズになるんだよ。ジャズが流れているからジャズ喫茶なんじゃない。そこに集う人たちがジャズであるか否かなんじゃないかな」 ジャズってそういうものんだと・・・ 撮影したのが、東京・白金台にあるバー「ガランス」の名物オーナーというところがまた面白い。20年以上にわたって通い続けてきたベイシーと菅原氏の姿をきちんと形として残しておきたいと思い立って作ったドキュメンタリー映画なんだね。先日送ってくれた友人の夫婦を本にした編集者と同じだ。 この飲み屋に通っていたのが、エグゼクティブプロデューサーを担った亀山千広氏(「踊る大捜査線」シリーズの生みの親)で、「なかなか先が見えない」というのを聞いて、一肌脱ぐことになったらしい。 亀山千広氏「ジャズ喫茶に通っていた人たちが何かを感じ取ってくれたら嬉しいなあ。家でほこりをかぶっているレコードを再びかけてみようかと思ってくれるだけでも嬉しい。いま、音楽を含めて何もかもが手軽になってしまっているから、手間暇かけるという行為を面白がってもらえたらいいなあとも思うんですよ。 少し余裕が出てきた僕ら中高年が、ふっと自宅で出来る趣味を持つと豊かになるんじゃないかとも思うんですよ。でもまあ、僕が豊かかというとそうじゃない。オーディオなんか、はまっていくとろくなことないから(笑)」。映画.cmのインタビュー より 結局は、人に行きつくんだよね。世の中はみんな「つて」で成り立っているみたい。人が人を呼んで芋づる式に繋がって、仕事に、交流にと広がっていくらしい。爺さまも今では隠棲みたいな生活をしているけど、現役のころは顔が広かったらしい。社交的に動き回っていれば名古屋なんか狭いから、ぜーんぶ繋がってしまうとか。 それを維持するためには金もかかるというわけで、ストイックな性格が内向きへと舵を切らせてしまって、どんどん切っていった結果がいまの生活なんだって。菅原氏の50年は爺さまの50年と重なっている。大器晩成なんて言われたりもしたけれど、その晩成とやらのはずがこの有様で、さあてこの先どうする爺さま。このまま終わりたくないとは言ってるけど・・お帰りの際にポチっと クリックお願いします
2020.09.24
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♪ 幼少期のこころの傷の消えぬまま人間不信を抱えつづけて‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 映画館に行きそこなって観ていない「ジョーカー」をDVDでやっと観ることが出来た。バットマンの悪役で登場するジョーカーの生い立ちを描いたもの。それが背景にあるので説明的な感じがしないでもないが・・。コメディアンを目指すアーサー・フレック 主人公が精神を病んで病院に監禁されていたという事実が最初に明かされるので、その後の展開がある程度想像できてしまうので、ちょっと勿体ない。それを最後まで伏せた作りにすれば、もっと怖いサイコスリラー映画になっただろうが、その意図はなかったようだ。 母親の本当の姿(過去の病歴)が明らかになるところから一気にラストへ向かって突き進んでいく。起承転結のセオリー通りに盛り上がって恐ろしいことが・・。 ジャスミン革命以来、今も世界中で貧富の差、金持ち優遇の政策や社会の仕組みが問題になっている。そんな中でけったいで凶悪な事件が起こる。その背景にある幼少期の問題。精神を病んだ人のその生い立ちに、事件を起こす原因が潜んでいる。それがこの映画の肝だ。 精神を病んだものが、常人と同じ気持ちになって生きていくことを心に誓う。殺人を起こそうが何もなかったようにすればいい。そう決意してからのアーサー・フレックは、事を成し遂げると自己陶酔のダンスを踊る。「本当の悪は笑顔の中にある」劇場公開当時のキャッチコピークライマックスに向かうジョーカーこのシーンが象徴的で美しく、かつ恐ろしい 主役の主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスは役作りのために、かなり痩せる努力をしたのだろう。笑いたくないのに笑いが出てしまうという難しい役を見事に演じて見せてくれた。 この映画は怖い。サスペンスではないMental illnessの怖さ。良く出来た映画ではあるがストーリーに主眼が置かれているせいか、精神的な最も重要な部分が断片的に描かれていることに不満が残った。しかしそれはテーマの扱い方の違いであって、何をどう表現するかはこちら側と必ずしも一致するものでもない。 それにしても、この主人公は幼少期に精神異常の親から虐待を受けたことで、精神がおかしくなってしまったということの悲しさ、辛さが深く心に染みてくる。 この映画には多くの示唆に富んでいる。人間の愚かさ傲慢さ非力さが必ず事件の裏に潜んでいることを思い知らされる。 マレー・フランクリン役のロバート・デニーロはさすがに巧い。独特の雰囲気を持つ軽薄で強かな司会者の背後に、徐々にジョーカーを浮き彫りにしていく演技は見事。そしてスタジオでのクライマックスへ。
2020.02.27
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♪ 突っ走る男四十ポテンシャルをモチベーションが凌駕してゆく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 火曜日の午後、何となくNHK BSプレミアムを点けたら意外なものをやっていた。映画を放映している番組で古い映画が見られるのでたまにチャンネルを合わせてみる。 この日はマカロニ・ウェスタンだった。 あまり詳しくないジャンルだが、知人にこの世界のオーソリティがいて撮影現場に行ったり、世界中の同好の士と交流しているのがいる。それでこの日は見てみようかという気になった。 メキシコ革命を舞台に、砂金を運ぶ列車強盗をするというもの。主演がテレビ「スパイ大作戦」のピーター・グレーブスのアメリカ映画「五人の軍隊」。 見ているとどこかで見たことがある顔が現れた。丹波哲郎によく似た顔だ。まさか、マカロニ・ウェスタンだぜ。 それが間違いではないことが判明し、なおさら興味津々でテレビ画面に首っ引き。 元曲芸師が報酬1000ドルの仕事があると集めた3人の中の一人で、日本刀を持っていてサムライと呼ばれている。台詞はほとんど無いので影が薄い感じがしていたが、これがカッコいいところを見せる。日本刀での立ち回りがありバッサバッサと斬って捨てる所は圧巻だった。 曲芸師だけあって短剣の扱いも抜群で、列車を奪うシーンでその腕を発揮している。 1969年製作の映画で、この時、丹波哲郎47歳。走る列車から落ちて必死で列車を追いかけるシーンがあり、けっこうな距離を長回して見せていた。こんな風に走る姿なんか日本映画ではあり得ないだろうに、脂の乗っている歳頃なので案外楽しんでやっていたのかも知れない。 「007は二度死ぬ」に出たのが1967年なので、その勢いも有ってのことだろう。 後年、撮影中の女優さんとの下半身武勇伝を喋りまくっていたらしいので、よっぽど楽しかったのだろう。「007は二度死ぬ」ショーン・コネリー まんまと走行中の列車を奪い取り、50万ドルの砂金が積んである貨車だけを切り離して奪い取るというストーリーは面白かった。ラストシーンもちょっと捻ってあったりして、111分はあっという間だった。 NHKは民放のやたらと入る3分CMがないので、良い所で水を差されることもなく観られるのがいい。
2020.02.21
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♪ COVID-19(コビッド)に気を配りつつ上映の始まりし部屋の暗がりに入る 「COVID-19」は、決まった新型コロナウイルスを原因とする病気の名称‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ アカデミー賞4部門(作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の)で受賞した「パラサイト 半地下家族」を観てきた。アジア圏で初めての受賞という韓国映画。 第72回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞もしている。 原題は単に「パラサイト」なのに、わざわざ「半地下家族」というサブを付けてあるのは如何にも日本の映画界の特徴を表している。鑑賞者を信用していないかのような説明的なシーンとセリフ。その過剰さに何時もウンザリさせられている日本の映画作り。 「半地下家族」とわざわざ書くのは「万引き家族」を意識しての事だろうが、想像性を邪魔するばかりでなく印象を固定させてしまう恐れもあって、要らんお世話というものだ。 そういう意味ではこの韓国映画は良く出来ている。ストーリーに多少既視感があるものの、キャストの演技が素晴らしい。極端な二つの違うシチュエーションで全く違う印象を受ける事に、えらく感心して観ていた(演技賞にはノミネートすらされていないが)。過剰な演出もなく説明的な余分なセリフもない。一時期の日本映画と比べると格段にレベルが高く、まあそこそこに面白かった。北朝鮮の女アナウンサーの真似をするところには、大いに笑わされもした。詳しい内容は書かないでおく。『パラサイト 半地下の家族』メイキング映像 YouTube アカデミー賞は、元々アメリカ映画の健全な発展を目的に作られたもの。授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また映画産業全般に関連した業績に対して授与される。なのでずっとアメリカ偏重の選考がされてきた。 4年ほどの間に起こったアカデミー賞の投票母体の変化。演技部門の候補者20人が2年連続で全員白人だったことから「#OscarsSoWhite」批判が起きたのを受け、米アカデミーはマイノリティや女性、若者を増やすべく、意図的にそれらの人々を新会員に招待してきたという。4年前には6000人前後だった会員数は現在1万人弱にまで増え、その中には過去に類を見ないほどの外国人。カンヌやヴェネツィアは常連だが、アメリカの超大作はあまり見ないという人がかなり増えたのが受賞に大きく寄与したらしい。 映画批評家のリチャード・ブロディは、「『パラサイト』の受賞はただのジェスチャーであり、真に必要とされている変革の兆しではないかもしれない」という懸念を抱いているとか。 この「半地下」というものの存在は事実だそうだ。 1968年、朝鮮人民軍のゲリラ部隊が朴正煕大統領を暗殺しようと、ソウルに潜入し、青瓦台の大統領官邸を襲撃した。その後、武装した北朝鮮工作員が韓国に侵入し、テロ事件が相次ぐ。 事態の悪化を恐れた韓国政府は1970年、建築基準法を改定し、新築の低層住宅には国家非常事態に備えた防空壕として、地下室の設置を義務づけたという。これが「半地下」の誕生となったらしい。 当初はこの半地下を賃貸に出すことは禁止されていたが、1980年代の住宅危機で首都の住宅不足が深刻化すると、政府は半地下の住宅使用を合法化することに舵を切ったという。
2020.02.16
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♪ 手のひらを真後ろに向けて歩く癖 アラン・ドロン(ドロン)と同じに妻が前をゆく ある時、映画を見ていてアラン・ドロンは手のひらを真後ろに向けて歩くことを知った。普通は体に沿った形で歩くので、後ろからは手のひらが見えない。アラン・ドロンの後姿が妙に気になっていて、その理由が手のひらにあるのだと気付いた。妙な腕の構造をしているんだなぁと思い、それ以後はドロンの映画を観る度に気になってしょうがない。それである時、前を行くカミサンも同じ歩き方をするのを発見。「太陽がいっぱい」以来アラン・ドロンのファンである私は「ドロンウォークだ」と叫び、そこにドロンが現れたような錯覚さえ感じた。「美しさ」と「野卑」を併せ持ったドロンを世に出した最高傑作。「太陽がいっぱい」のあのラストシーンはルネ・クレマン最高の出来だと思う。胸震わすニーノ・ロータのテーマ曲がかぶり、その先を観る側に委ねる手法はなんと洒落ていて心憎い演出か。あの頃のフランス映画は良かった。
2009.04.11
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♪月照らすアップダウンの農道を砂漠を思いて走る真夜中 久しぶりのレイトショー。 もう何時行っても1000円で観られるんだけど、やっぱりレイトショーになってしまいます。 映画「オーストラリア」は長編の割には物足りない映画でした。言いたいことが何なのかが伝わってこないのは、焦点が絞られていないせいでしょうか。あれもこれも入れ過ぎて散漫になった感は否めない。 どうしてあんな映画になってしまったのか。原作の問題よりシナリオの問題でしょうか。監督の技量はよく分かりませんが、主役のカウボーイの描き方も中途半端で、何にも伝わってこないし存在感すら薄い。 ニコール・キッドマンはオーストラリア人という事で起用されたようですが、おてんば貴族の役をこなしてはいるけど配役に無理があると思った。 アボリジニの伝統と霊的な資質の部分も中途半端で、彼等がこの不毛の大地で如何に生きつづけて来たかが伝わってこない。乾季と雨季の物凄い格差のある広大な砂漠地帯に生きることのすごさ。 ここが一番重要な映画のはずなのに、オーストラリアの広大な砂漠に住むことの何たるかが伝わってこないのは最大の欠点でしょう。 ダシを取り忘れて、何でもかんでも放り込んだ「薄味のちゃんこ鍋」映画と呼んでおきましょう。 日本はつくづくいい国だと再認識させてくれたことは確かです。
2009.03.15
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♪ もう一人自分を見詰む人の出で別れの時ぞ救わるるらん 「おくりびと」がアカデミーの外国語映画賞を取って以来、益々注目を浴びるようになりました。 その納棺師の仕事は、死者と残された人との間を取りもち、旅立つ人の思いを受け止め直す準備をすること。そして、それらを儀式化することで死を客観視できるようにすることだという。 客観的に向かい合う事が出来れば、冷静に死者との対話もでき、心の整理もできるというもの。 日本の文化には、様式化してそこに美を見出すことで文化を継承するという伝統が根付いています。それは単に形式的なのではなく、大きな意味を内包しながら具体的な言葉で示さないことで、文化を伝えるテクニックだったようです。 死者をテーマにした映画なんて一昔前までは誰も関心を向けなかったものでしょう。それがこの空前の不況になって、価値観が金から人へと大きく方向転換した現れでしょうか。 もともと人の心の底に持っていた悼みとか慈しみとかいったものが、頭の上を覆っていた黒雲が晴れたことで、表に出てきたという事でしょうか。 アメリカの映画界がこの映画を選んだことの意味は大きいでしょうね。 日本以上に病んでいる今だからこそ、日本人が死者をいたわるこのような様式と文化を持つことに驚き、称賛を与えずにはおけなかったのでしょう。
2009.02.26
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♪ 一瞥の中に本性表せる俳優という名の凄いの職業 推敲 ♪ 一瞥の中に本性にじませる俳優の眼の底にあるもの 映画「チェンジリング」を観てきました。 1928年といえば日本では昭和3年、アメリカの腐敗社会(警察)で起こっていた法治する立場における数々の犯罪。 アメリカでは1920年から1933年までの間禁酒法が敷かれ、マフィアのアル・カポネが暗躍したりする時代がありました。 そんな時代での実話の物語。ひどい時代が有ったもので、世界共通にある権力者による犯罪社会。 官僚が出鱈目をやっている日本もそんなに変わりはしないが・・・・ この映画に限らず、俳優の演技力というものにはお怖ろしいほどに魅せられます。初めて画面に登場して一瞬のうちにどういう人物なのかを、その眼の表情で表現してしまう凄さ。 役者はその人物に完全になりきらないと本当の演技にならないと聞きますが、それにしてもその感情移入には舌を巻きますね。 特に、心の窓というぐらい眼の表情は重要ですが、いい映画の登場人物はどれもその人物の眼の演技が光っています。 この映画でも、主役は勿論のこと牧師、警察官、医者、弁護士、殺人犯など皆その存在感をリアルに演じきっていました。
2009.02.23
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