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夏(16) テラスのココ 野良猫捕獲の回覧板が廻ってきて自治会のやり方に疑問があったので裏付けとなっている役所の了承なるものが本当か調べてみた。すると簡単な電話問い合わせだけで勝手に了承されたものとする判断であった事が分かった。そこで直接自治会に問い合わせるべきと前会長であった顧問に電話を掛けて確認してみると「回覧板が廻って来ず、まったく知りません」という返事だった。つまり顧問にも知らせず会員の賛否のアンケートも取らず回覧板で全会員に周知したかも確認せぬまま役員数名で独断で決めようとしている事も分かったので会長から電話をくれる様に頼んでおいた。翌日になって「会長から電話がありましたか?」と顧問から問い合わせがあった。しかし、まったく電話は来ず、多分、保健所から飼い主をよく確認してトラブルが起きない様にしてから届ける様にとの連絡があったり、他の会員からのクレームや苦情が殺到しているのでは無いかと想われ、今頃になって会長は独断でやった事を後悔し逃げているのだろうと想った。それならそれで構わない。もしトラブルが起きれば責任をとってもらう迄だ。週が替ってやっと会長から電話があった。が、震え声で訳の分からない弁解めいた事を何度もクドクドと述べるだけだった。何時までも同じことを繰り返すのでまどろっこしくなって「具体的にどの辺りから野良猫の苦情が出ているのです?」と訊いた。「池の横の家庭菜園をしている方です。野良猫が糞をして困っているというのです」「野良猫には困ったものですが、そんな一個人の苦情だけで勝手に捕獲を決めるなぞおかしいのでは?」「実は、ある会員から手紙で捕獲についての苦情がありまして7月1日の一斉捕獲は延期する事にして、試験的に池の横の畑に捕獲器を置いてみようかと思っています」「会長さんはペットは?」「え、猫を飼っています」「だったら猫の扱いは知っているという事でしょうから先ず啓蒙運動からやるべきでしょう。野良猫が発生する原因は人間なのですから・・・」そんな話で電話を切った。数日後、再び回覧板が廻って来て今度は「猫の里親探しにご協力を」という内容に変わっていた。結果的に猫の一斉捕獲は理不尽で不可能という事を悟ったのだろう。 続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/30
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夏(15) 庭を行くココ おかしな回覧板が廻って来た。特に最近やたらと回覧板が多い。多い時は連日の様に来る。今度の自治会長は何を考えているのだろう。班長の当番に当たった人は大変だな、こんな老人の多い住宅団地で・・・と想いながら読むと「野良猫が増えて庭に糞をしたりゴミを漁って道路にまき散らす被害の苦情が出ています。よって自治会で7月1日に一斉捕獲を行う事になりました。役所にも連絡済みです。捕獲した猫は保健所へ引き渡します。当日は飼い猫は自宅から出さないで下さい」とあった。野良猫には困ったものだが、動物関連法では勝手に猫を捕まえて処分しても良いという事は何処にも書かれていず飼い主が適正管理をする様にと謳われているだけである。野犬の場合は伝染病予防から捕獲し処分するのは法律でも認められているが、最近では余りそういう光景も観られず、カラス一羽でも勝手に捕獲出来ない時代である。間違って飼い猫を捕えた場合、どうするのか疑問になって市役所に問い合わせてみた。「その文章は届いていますが、役所はOKしておりませんし、捕獲器の貸出もしておりません。ひょっとして県の保健所と相談しているのかも知れません」と保健所の電話番号を教えてくれた。早速問い合わせると「電話で問い合わせはありましたが、捕獲器は当所にはありません。何処か動物病院で借りるのでしょう」との返事。そこで「間違って飼い猫を捕えて保健所へ届けられた場合、保健所はどうするのです?」と訊くと「届け者が飼い主を捜した結果、分からない場合は受け取ります」と言う。「そういう場合、後で飼い主とトラブルに成ったらどうします?」「存置期間を設けて保健所の前に公示しますから飼い主さんが受け取りに来る事になります」「遠い隣の市にある保健所まで電車に乗って誰が見に行くものですか。何の権限も無いのに野良猫と間違って飼い猫を捕えて保険所へ届け、殺処分された場合、仮に後でトラブって裁判に成った場合、保険所も責任を問われる事になると思いますが・・・」「ですから届け者がよく調べて届け用紙のチェック欄に飼い主不明と書かれてあれば受け取るしかありません」「それよりも後でトラブルが生じない為に、お宅から自治会長に電話で飼い猫であるかどうかをよく調べる様にと連絡してもらえませんか」「分かりました」(つづく)続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/29
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夏(14) 耐震改修工事の始まる学校 学校の耐震改修工事は阪神大震災以降始まって10年以上になる。だから、大阪府下ではもう殆どが完了している。それでも全てが終わった訳では無いから未だ2年ほどは続くだろう。学校は地域の防災避難所にも成るから工事中の多少の騒音は周辺の住民も辛抱してくれる。尤も、休日は家で休息する人々が多いからなるべく音の出ない工事をする事になる。原則的には休日は工事はしないのが建前になっているのだが、工期が短いから施工業者は休日返上でする。多分に不景気のせいもあるのだろう。だからなのか短い工期内に早く仕事を終えれば次の仕事の段取りも出来るから少ない利益の為にはそうでもしない事には喰って行けないと業者は言う。我々監理者は業者の言う事なぞ鵜呑みにはせず、ちゃんと利益を出しているのを知っているから検査は手抜きをしない。そうでないと検査が不十分であれば後で悔やむことになるからだ。業者と対立関係にある方が仕事はビジネスライクで進め易い。役所からも検査官が来るので監理者は中立の立場で検査に立ち会うが、役所に傾きすぎると業者から憎まれ、業者側の肩を持つと役所から胡散臭い目で見られる立場だ。ボクは昔から民間であれ公共であれ検査は厳しくして来たつもりだ。が、それでも役所の検査官はもっと厳しく見る。まるで業者を疑う態度で終始するから中立の立場の監理者でさえ業者に同情したくなる時もある。そのあたりの接し方で和やかな雰囲気になったり険悪なものに成る訳だ。要は人間のやる事だからミスはあるから如何に事前に上手く対処(業者指導や検査の公平性を堅持)するかで結果が変わる。決して誤魔化しでは無く整合性のある判断で監理の完璧を図るのである。その兼ね合いが経験者の腕の見せ所となる訳である。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/28
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夏(13) 葦の群生 ボクは葦が好きだ。パスカルの考える葦でも無いが、昔から葦の生えている風景は何処か寂しく人生の儚さを感じさせ、歌舞伎の舞台風景をも連想させるのだ。子供時分、よく歌舞伎に連れられ退屈しながらも観ている内に歌舞伎に慣れて、あの役者は見覚えがあるとか、この芝居は何度も観た事があると感じる様になった。戦後の混乱期の日本が復興を目指して頑張っていた頃で、お蔭さまというかボクの家の稼業(建設会社)が大いに繁盛して、両親は娯楽に南座の顔見世興行に毎年行くのは勿論、新しく興行がある度に行っていた。当時は歌舞伎の他に映画も盛んだったのと、自宅が京都の中心部・四条烏丸(しじょうからすま)に在った関係から繁華街へ歩いて行け、暇さえあれば映画館に通った。だから都会の子供特有である大人顔負けの知識があった。さて、歌舞伎の舞台風景で葦原が出て来ると地歌や長唄の演奏効果もあって日本独特の寂しい雰囲気になり、道行や落人の役を演じる役者が何か繰り言を言いながら演技する。それを子供ながら観ていて人生の一部を一人前に感じる様になっていた。だから大人になっても葦の風景を観ると何故か懐かしさを感じながらジッと眺めてしまうのである。そう言えば自分史を20年ほど前に書きあげたのだが、書き始めにパスカルの考える葦の事を書いたのだった。それは人間は風になびく一本のか弱い葦の様な存在だが、違う点は唯考えるという点にあると言う事で、考えるという行為が人間の素晴らしい点であり、それが文化や歴史を築いて来たのだと言いたかったのだろう。今読み返せば気恥かしい文章に想えるだろうが、未だ書き直しの時期が来ていない気がする。もう少し経って生涯現役の最後の仕事でも終えれば見直してみようかと考えている。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/27
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夏(12) グーグルアースの旧風景 同じ場所の今の風景 グーグルアースのストリート・ビューの続きである。二年ですっかり風景が変わった事を昨日書いた。そして環境も明るくなってスッキリとしている事も書いた。事前に観たストリート・ビューが暗くて殺風景だっただけに道を間違えたかと想ったぐらいだったから改めてグーグルアースを見直してみたのだ。見直してみて最新の技術も情報が古ければ役に立たない事を知った。が、全国の風景を毎年更新するのは大変であるので仕方がないと考え直した。つまりストリート・ビュー用のカメラを積んだ車が何台在るのか知らないが、仮に日本に10台あるとしても全国の整備された道路を隈なく撮影して廻るのは大変だからである。ところが人工衛星なら少なくとも一日に二度は同じ場所を通過するから小マメに撮って行けば毎年更新する事なぞ容易い事である。そこで考えたのは三次元(3D)カメラで撮って引き起こせば鳥瞰図的ではあるがある程度の通りの風景は観えるから、わざわざ車で廻らなくても瞬時にして撮影出来、更新も楽にできるという事だ。しかし、人工衛星の軌道は変える事をしないから方向性が同じという事は死角が出来るという事にもなる。だから観えない部分は矢張り何らかの方法を講じなければならないのだろう。尤も軍事衛星を使用しての制限下にあるから国家の防衛戦略からすれば内容を制限するのも止むを得ない。スパイ映画なぞでは簡単にアクセスして個人の邸宅のプールや芝生で寛いでいる風景も鮮明に観える。一種のSFものの様ではあるが、実際は我々の知らない処で防犯上、防衛上もっと詳しい事が為されている事を想えば空恐ろしい気もする。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/26
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夏(11) 関空の近くの工事現場付近(グーグルアースから) 7月から始まる学校の耐震改修工事の現場へ行ってみた。車で行くべきか電車にすべきか考えていると、たまたま車検の為に車のディーラーから車を受け取りに行きたいと連絡が来たので、暇な今の内に車検を受けておくべきだと考え車は置いて行った。駅からは現場まで1kmばかり歩かねばならなかったが、周辺の状況が把握できる機会だと思ってカメラを片手に撮影しながら行った。すると途中で道路と敷地との取り合い工事をしている工事現場に出くわした。其処は事前にグーグルアースのストリート・ビューで下見しておいたのと景色が違っていた。事前の風景はコンクリートの2m程の擁壁が30mほど連なっているのだった。だから道を間違えたのかと想った。そう思いながら通り過ぎるとやがて学校に着いた。現場で工事監督や役所の担当者と打ち合わせを終えて帰宅してから、どうも気にかかるので再度グーグルアースでその付近を観てみた。そのストリート・ビューの撮影時期は2年前だった。だからその2年間の内に擁壁は撤去されたのだろう。風景は刻々と変わるものだという事を改めて感じた。擁壁が撤去されて道路からの進入路を新たに別に設ける工事をしていると言う事は撤去後も使い勝手が悪く手直しをしているという事だ。つまり良い方向に改善するなら地域住民にとっても建物の使用者にとっても環境を良くしているという事にもなる。そう考えると風景が変わるのは仕方のない事だと納得出来たが、最新の情報手段もこうなると役には立たないものだと思った。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/25
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夏(10) ウォーキングの最初の曲がり角 ウォーキングは毎回ルートを少しずつ変えている。当然ながら自宅からのスタート時点は同じ風景で変わり映えもしないが、分岐点に来ると少しは違っていたりして、例えば公園緑地などは市の公園街路課が季節毎に整備するので刈り込まれた植木が真新しく見える事がある。今日も自宅を出て最初の曲がり角の突きあたりに小高い公園緑地が目に入った。其処は何時も誰も居ないものの、整備されて綺麗になっていた。「おや?」と想わず観てしまった。最近では雑草が生えてだらしない風景に成っていて当たり前の様に見慣れていたから変化に気付いたのだ。綺麗に刈り込まれた状態は理髪店から出て来た人の頭の様に「お初」というイメージである。「お初」とは新しい状態を指す呼び方で小学生の頃、誰かが散髪したてで学校に来ると、それを観て誰もがからかったものだった。新しい事は良い事の例えに用いる事が多いものの、逆に新しいという事は未だ身に着いていないというか似合っていない場合が多く浮き上がって見えるから目立ってからかわれるのだ。手癖の悪い生徒なぞはその頭を平手でポンと叩いたものだった。叩かれた本人も怒るよりも恥ずかしがって逃げ廻ったりして決して険悪な雰囲気ではなかった。子供のいたずらや遊びは単純なものである。ふとそんな事を想い出して通り過ぎたのだった。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/24
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夏(09) 田植えが終えた田と未だこれからの田(右側) やっと田植えが始まった。週に二度のウォーキングだから三日から四日の間が空く。その間に始まったのだ。あいにく田植えをしている風景は見なかったが、昔は早乙女姿の儀式の様にしていたらしく画像での記憶がある。そう言えばこの前、天皇さんが田植えをしている動画がニュースで流れていた。あれは儀式だから労働と言うよりも天皇の公務的なもので日も決まっている。元来、天皇は農耕民族の巫女的存在だったから米作が基本である。伊勢の海女族の血筋も受け継いでいると言われるから漁業も含まれるのだろうが儀式としては知らない。今年は式年遷宮(20年毎)の年で、近鉄電車が毎日の様に伊勢神宮の宣伝をしている。ボクは京都で生まれ育ったから子供時分から毎年の様に伊勢神宮へ行った。行ったというよりも連れて行かされたと言った方が正しい。学校からの遠足であったり修学旅行であったり夏は家族での海水浴だった。もう60年以上も昔の記憶だが、ふと目を覚ますと両親が居ないのだった。海浜の老舗の旅館で、妹と一緒に昼寝をしていたのだった。二人は両親の姿が見えないので不安になって泣いた。すると旅館の仲居さんが笑いながら「お父さんとお母さんは近くを散歩していらっしゃるから大丈夫、泣かないで」という風に慰めてくれたのだった。旅館の玄関で松並木越しに海を見ながら二人して泣いている処に両親が戻って来て笑っていた。それで二人はホッとして泣きやんだのだろう。時々そんな記憶が蘇って来る。考えてみれば未だ幼児(幼稚園か小学低学年)だったから両親は30代だったのだ。30代と言えば息子が30代の後半になって未だ独身である。最近の子供は30代になっても大人に成り切れず、身体だけが大きな大人なのに中身は子供だ。古希を迎えた我々夫婦も自分達が老人の真っ盛りでありながら老人という意識が無い。しかし、若い頃の様な訳には行かず、同じ様な運動量をすれば確実に翌日には疲れが出る。「翌日に疲れが出るのは未だ若い証拠で、老人は翌々日に出るものだ」と言われ、喜んで良いのか、老人の自覚の無さを悲しむべきなのか迷う。三浦洋一郎氏なんかは80歳でエベレストに登って世界をアッと驚かせたりする時代である。我々夫婦の合計年齢が140歳に成るのだから今の時代は確実に長生きの時代なのだろう。しかし田植えは機械で植える時代である。伝統的な田植えの風景も昔話となった。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/23
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夏(08) 珍しい榊の花 庭に植えた榊に花が咲いた。最初、アベリアか何かが榊の間に紛れ込んで咲いているのかなと想ってよく見た。すると何と榊の花だった。初めて見る花で、そもそも榊に花が咲くとは思いもよらなかったのだ。そういえば、植えた榊から2mばかり離れた処に榊が新しく芽を出し1m位の大きさに育っているのを昨年の秋に発見して、榊が勝手に自生する筈が無く、多分、胞子か種が飛んで来て芽が出たのだろうと想った程度だった。まさか花が咲いて種が飛散したのだとは気付きもしなかったから新しい発見だった。本当に小さな花で、注意しないと気がつかない程である。未だまだ知らない事の多いのに気付き人生の短さを知った。光陰矢のごとし。学成り難し。幾つになっても自然から学ぶ事が多いものである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/22
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夏(07) 最近の建売住宅 建売住宅と言えば長い間マッチ箱の様な家が隣家とスレスレに建って並んでいるというイメージがあった。ところがこの10年ばかりで様相がガラリと変わってしまった。何処が変わったのかと言えば、先ずモダーンになった事だ。家の小さな事は売却価格の問題で仕方がないが、その代わり見掛けが古臭く野暮ったい建売というイメージが無くなって、まるで個別に設計した様な、隣家と似てはいるが何処か違うデザインなのである。建材もラスモルタル一辺倒の外壁からサイディングを部分的に取り入れたものになった。更にはファサードが切妻のとんがり屋根から片流れ若しくはフラットに成り、四角い家に成った。そして小さく狭いのを解消する意味で二階建てから三階建に成った。売り文句も「建築作家とのコラボレーションで建った家」と写真入りの大きな広告板でまるでマンションの宣伝の様である。つまり「何もかも新しい考え方で建てていますヨ」というキャッチフレーズで集客を図るのである。ウォーキングをしていて工事中の建売住宅群を観ると昔の建売業者のイメージでは無く、何となく若者受けする様に観える。時代が変わったのだろう。業者も色々な工夫をするものである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/21
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夏(06) "変わった紫陽花 こういう形の紫陽花は初めてである。紫陽花には様々な形があるが原種は額紫陽花だそうだ。その変種として墨田の花火があり、小型のサッカーボールの様なボテ紫陽花がある。今日紹介する紫陽花は先端が尖っていて円錐形である。花が重くてしなっているのを支え棒で固定してあった。育てるにも工夫が要る様である。雨が少ないせいかPHのバランス(アルカリ性か酸性かの均衡)が偏っているらしく白っぽい。そのうちに紫が入るのだろうが、元々この紫陽花にはこの色が持ち味なのかも知れない。花としては余り美しく無いが珍しいのでアップしてみた。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/20
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夏(05) ミニ開発をやっている風景 不景気だ不景気だと言っていても何か金を生みだす算段をしない事には会社は潰れてしまう。特に建設関係は都市のインフラを作り出さなければ死んだも同然だから公共工事が無ければ何か民活事業を興すしかない。民活の宅地開発はその一つで基本的な事業だ。しかし適当な土地が無い。大都市に近接したまとまった土地(少なくとも4ha以上)となると特に少ない。因みに1haは100m角だから約3千坪だ。開発面積としては小さい方である。だから4haは1万2千坪になるものの、それは底地だから目的別(宅地、道路、公園緑地、雨水集積池など)に分類すれば宅地は6割程度(7千坪)に目減りする。最近は4m幅の様な狭い道路は人気が無く防災面からも5~6m幅は欲しい。幹線道路なら12mは要る。すると宅地率は半分(6千坪)近くになり、仮に計画道路でも想定されていれば幅広道路が要求され、それが開発条件となる。かくしてミニ開発はお互いに繋がって街に変貌して行く事になる。仮に6千坪の宅地だと売り易い最近の小さな宅地開発の条件とすれば45~50坪だから120~130戸程度で小さな住宅団地となる。今日の開発風景は多分それよりも更に小さな規模だ。マンションやアパートに住む人々が戸建てを望む場合の最初の家である。将来は子供の成長と家計に余裕が出れば、より大きな宅地か中古住宅に買い替え、リフォームかリノベーションをする事になる。それがサラリーマンの平均的なライフ・スタイルなのだ。しかし、最近はサラリーマンも大変で昔の様な「サラリーマンは気楽な稼業」と謳われたのが懐かしい時代となった。ミニ開発でも買える人は未だましな方なのだ。それでも業者は次々と事業を企てるのである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/19
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夏(04) 炎天下の道路(午前10時) ウォーキングの途中で空を見上げると真夏の太陽になっていた。道理でこのところ気温が30度を越えるはずである。沖縄では梅雨が明けたと言う。関西は未だ梅雨の中休みで、これから雨が降り出すのだろう。しかし、豪雨の後にカッと太陽が真夏の様相になって、カラカラ天気が続くと日除けを考えUVにも留意し水も携帯して行かないと熱中症になってしまう。ウォーキング・スタイルとしてラフな格好は勿論だが、帽子と手袋も必需品になった。ボクはゴルフ・スタイルで行くから老人の健康管理程度に観えるらしく、老人や主婦がたむろしている場所では向こうから会釈して来る。ボクもしかめっ面で居るよりも愛想よく会釈した方が気楽だからそうするのだが、先日ボクを追い越して行った若者に出会った折「お早うッス」とこちらから声を掛けた。しかし、返事が無かった。先日は向こうから声を掛けて来たのに変だなと見ると、ウォーキング・スタイルは先日の黒っぽいものだったが少しくたびれていて顔もしんどそうだったから人違いだったのかも知れない。まあ、そういう若者が多い世の中だから珍しくもなく、驚く事も無い。そういったタイプが多い世の中なのだ。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/18
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夏(03) 笹の藪 竹の一種の笹は生命力が旺盛である。空梅雨でカラカラに乾いた土や空気の中、道端に繁茂しているのが綺麗でシャッターを切った。この笹は自宅にも生えて、見つけ次第引き抜いているが、最初は野生のアザミや薄を移植した時に一緒について来たものが根を張って生き延びているのである。10年もすれば生き延びて来たのを通り越して新たなる勢力拡大を図って庭木や薔薇の領域に入り込んでいる。生命力の誇示をされても困るが、是も雑草の様なもので人間なぞチョロイものだと見下しているのかも知れない。否、草葉の陰(藪)から人間どもを見ながら笑っているのだろう。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/17
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夏(02) 雑草(カエル釣り) 道端に綺麗な雑草が生えている。雑草を綺麗だと思うのは変わっているかも知れないが、雑草と馬鹿にしたものでも無い。綺麗な色なのである。風になびく姿が文学的というか、まるで平安時代の貴族が馬を進める朝帰りの野辺で姫の事を想い出しながら観た風情があるのである。世間の人間が勝手に雑草と呼んでいるだけでちゃんとした名前がある筈である。牧野富太郎でも無いが植物学者なら「雑草?ちゃんとした名前で呼びなさいヨ」と言うかもしれない。昭和天皇なら「名も知らぬ植物なぞ在りませんヨ、ホホホ・・・」と笑った事だろう。正式な名前は調べてみないと分からないが、ガマの一種で俗称「カエル釣り」だと想う。又の名を「猫じゃらし」とも言う様だ。これを猫の前でクルクル回すと猫がじゃれて飛びかかる処から来たのだろう。それにしても鮮度の良い若葉色である。想わずシャッターを切った。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/16
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夏(01) 黄色いカンナ ウォーキングの途中で目に止まった花があった。畑の横に咲いたカンナである。ありふれた花だが根強い人気があるらしく彼方此方で観ることが出来る。イモ科の葉っぱの形をしているからカラーの親戚でもあるのだろう。赤が多いが黄色も綺麗である。カンナが咲くと愈々夏本番の気がする。しかし田植えが未だ始まっていないから本格的な夏は足踏み状態で、あのカーッとした暑さは当分来ないのだろうか。が、台風が来ている。これで念願の雨が降れば良いのだが、降れば降ったで集中豪雨では叶わない。穏やかな気候を望むが時代が荒れ模様だから気候もそれに乗じて荒れ狂うのだろうか。と同時に世界中でトラブルが起きている。元凶は矢張りアメリカだろう。アメリカがこの地球上から消えれば平和になるだろうと考えるのはナンセンスだが、憎まれっ子世にはばかるというから未だまだ粘って中国と対峙しながら生き延びるのだろう。農業国でありながら金融国でもあるから物づくりの国の人間(日本やドイツ)には理解し難い面がある。人を騙して金儲けをする国(仮想現実のレバレッジなどファイナンスを生業とする国)は恥を恥とも想わないから平気で世界の警察と称して戦争を仕掛け、それに反対する勢力をテロと呼んで抑え込もうとする。考え方の違いが対立を生み。平気で人殺しをする。このところ真夏日が続き人々がイライラする昨今、何とも嫌な世界情勢になりつつあるのが気がかりである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/15
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初夏(53) パティオの薔薇 玄関の前栽と裏の和風庭園との丁度中間にある小さなパティオ(中庭)の薔薇が今満開である。同じ薔薇なのに開花時期が既に過ぎてしまっている友人と電話で話をしていた妻が不思議そうに「何故なのだろう」と首を傾げているから「多分、日当たりのせいだろうヨ。あちらは日当たりの良い広い庭だけど、こちらは家と家との間に挟まれたパティオで正午前後しか日が射さないから」と言うと、やっと納得した様だった。暇さえあればガーデニングの情報交換をし、時折大阪で落ち合っては食事や買い物をする友人で、元女学校の英語の先生をしていて英語力を生かしてターシャさん(ロシアからアメリカへ移住した園芸家)に会いに行ったぐらいガーデニングに熱心な人である。妻とは同じ病院で大手術をした仲間だけに心が通じ合う相手という。人は生死を分ける手術をすると同じ境遇だった相手の心の内が見えるらしく本音で話せる友人なのだそうだ。先日なぞ急にスカイツリーを観たくなってわざわざ一人で行って上ってきたという。◎◎と煙は高い所に上りたくなると言うが、彼女も妻に似てミーハーな面があるらしい。あんな高い処なぞ考えただけでゾッとするという高所恐怖症の妻を知っているから誘わず一人で行ったのだろうが、遠いターシャさんに会いに行くぐらいだから行動派でもある。5年ほど前に一度、何かの用事のついでに方向が同じなので妻を彼女の家まで送って行った事があったが、広い芝生の庭を観て、手入れが大変だろうなと想った。ゴルフ練習には向いているが彼女はせず、その代わりご主人は酸素ボンベを曳きながらでもゴルフ場へ行くという。相当好きなのだろう。が、最近では愈々体調が悪化して出かけられないという。二人だけの生活だが時折結婚した娘さんが来てくれるから何とかやっているそうだが、子供が居ない娘さんだからこそ出来るのだろう。そんな情報まで話すからパティオの薔薇は彼女と繋がっているらしい。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/14
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初夏(52) 梅雨の晴れ間のパティオ 年中、何らかの花が咲いている場所が我が家のパティオである。年中と言っても冬場は冬枯れの季節なので華やかさは無いが、それでもラチスや上部の棕櫚縄のネットには薔薇の緑があり、下の二か所のレンガの花壇にはパンジーが咲いている。レンガの花壇は7年前の冬場に作ったものだ。ホームセンターからレンガを運ばせ、モルタルを練って積み上げた。高さは腰掛け程度だが、倒れたり傾いたりするのを避ける為に二日に分けて積んだ。お陰で予定通り出来上がり、その春には満開の花が咲いた。しかし色々な花を試みた結果、虫がついて手間が係るから厭だと言っていたのに妻は長年の念願だったらしく薔薇が一番良いという事になった。草花は妻の領域だからボクは何も言わず唯観るだけである。ボクは庭木の剪定が領域だから彼女の好きな様にさせていると6年で薔薇は草花では無く本当の木らしく太くなり、枝が四方八方に伸びた。ラチスの上にまで行くのでカットして横へ伸びる様にした。お陰で手の届く高さに花が咲き、手入れもし易くなった。春から夏に掛けては薔薇のシーズンだけに花盛りのパティオに成って、ほかの草花を薔薇の木の根元に群生させる様にして楽しんでいる。群生させる訳は何か草花を植えておかないと其処にココが用便をするからである。ココにとって花壇は絶好のトイレに見えるのだろう。自分のテリトリーだけに匂いを付けてまわるのが習性なのだから怒っても仕方がない。常に草花が植わっているお陰でパティオは年中花盛りという訳である。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/13
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初夏(51) 未だ田植えが始まらない 曇天だが未だ降らない状態が長く続いて、一旦はやりかけた田植えも中座して苗代の苗が寂しそうに観える。雨が降ればウォーキングはやりにくくなるが、それは趣味の問題。季節の田植えが遅れるのは社会問題だ。と言って農業政策を心配する訳でも無く、百姓はお天気商売で気楽なものだとウォーキング・ルートを歩きながら空の田んぼを観て想うだけである。隣の田吾作が動けば我もと釣られて動けば済む仕事をしていたら新規の発想は要らない。だから空梅雨でも田植えが出来る状態を作り出すのが新進の百姓のあるべき姿なのだろうが、要は水の問題だけで、田んぼに水が張れれば良いだけの事に過ぎない。幾つかあるこの辺りのため池には満々と水が張っているから何時でも田植えは出来る。それなのに空を見て思案している百姓は気楽でお天気商売程度にしかボクには見えないのだ。つまり趣味でやっている自前の為の半農が多いという事である。大都市近郊の半農の人々は先祖からの土地を住宅団地の為に売って本格的な百姓を止めて久しいから都会人と同じ生活をしながら農業政策の恩恵を受けているだけである。だから知恵が働かない訳だ。趣味なら好きな様にすれば良い。だから心配もしないのである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/12
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初夏(50) パティオに咲いた黄色い薔薇 好天気が続くと空気がカラカラに乾き、芝生や庭木から湿り気が無くなって早く梅雨らしい天気に成って欲しいと想う。ウォーキングするには雨は鬱陶しいが、決まった季節の流れには逆らえないから傘を用意して行くことになるが、仕方がない。ウォーキングしていて黒い日傘をさして澄まして颯爽と歩いている婦人を見かけたことがあった。余り格好の良いものでも無かった。矢張りウォーキングには其れなりのスタイルというものがある。日除けの為なら帽子を被るなり手っ甲や長手袋を身につける。が、その婦人は傘の下には赤ん坊の被る様な頬も覆ってしまう帽子を被り、勿論、長手袋も着装していた。余程日焼けが厭なのだろう。じっくりと顔を見た訳では無いが、未だ若い中年だったから歩きはボクよりも速かった。若いと言えば同じ日に「お早うございます!」と声を掛けてボクを追い越して行った30代の若者がいた。返事しつつ振り向くと黒でまとめたウォーキング・スタイルで、実に様に成っていた。ペットボトルも腰に掛け用意万端だ。見慣れない顔で未だ新しい衣装だったから初心者なのだろう。今時礼儀正しい若者が少ないだけに清々しく想った。ふと、最初の黒い日傘のご婦人は雨天の時はどういう雨傘をさすのだろうと考えた。黒か、それとも柄物かと連想し、否、濡れるのが厭でウォーキングは中止するだろうと考え直した。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/11
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初夏(49) 小粒の真紅の薔薇 鮮やかな紅色の薔薇である。大きな花の薔薇も良いが小粒ながら勢いよく咲くこの薔薇は毎年、梅雨の前辺りから今頃にかけて楽しませてくれる。近くでよく見るとアブラムシが先端の蕾に集まっていてアリがその周りを動めいている。小さな世界でお互いに助け合って生きる生活を見ると虫も人間も同じである事が分かる。人だって遠く離れた所から眺めれば虫と何ら変わらない。それが60億人以上も小さな地球の海浜近くの街にへばりつく様にして生きて居るのである。助け合わずして生きて行けないのは虫ばかりではない。生きとし生けるものは全て単独では生きて行けないのである。それを知りながら我こそはと他を押しのけ騙しながら何とか生きている。浅ましいと言えばそれまでだが、生きるという事はそれ程大変なのだろうか。大自然に生かされているという謙虚さがあれば人は何と気楽に生きて行けるものかと想うのだが、俗世間の虫どもはああだこうだと今日も這いずり回っている。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/10
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初夏(48) パティオの薔薇とゼラニウム 花盛りのパティオで休憩しているとココが現れ、あくびをしている。ノンビリしたものである。痛風の発作なのか、それともストレスの一種の症状なのか、兎に角痛みどめの薬でひとまず治って花を観ながら気持ちをリラックスさせている。ココの様にノンビリする事が何よりである。浮世の事で一喜一憂しているとロクな事は無い。またぞろウォーキングでもして気分転換でもするかと空梅雨の空を見上げる。晴れれば晴れたで困る人も居るだろうし、田植えも一時休止になっているのでは無いだろうか。ジケジケ湿った空気もカラッと乾燥した空気もそれなりに必要だが、タイミングというものがある。天候異変は局地的に集中豪雨となったり日照りになったり、アメリカでは時期外れのハリケーン(竜巻)となって猛威をふるう。異常気象と言えば異常だが、昔からこういう事もあったのだ。短いスケールで観て居ると観える筈のものも観えなくなってしまう。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/09
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初夏(47) 書斎の窓から観た庭風景 相変わらず梅雨は中休み状態である。大阪で月例会の話をした矢先、翌朝にはゴルフ仲間から誘いの電話があった。重なるものである。昨年の秋に一緒に行った仲間で、偶然だが空梅雨で電話して来たのだろう。ところが残念ながら体調が今一で「実は、昨日大阪の◎◎さんの事務所へ行って貴方の噂をしていたばかりですが、昨夜から右手の甲が腫れて傷むので今回は残念ながら・・・」と断らざるを得なかった。三つほど年上の大阪の市会議員だった相手で、是まで負けっぱなしだったのが昨年やっと彼に勝てたのだ。好敵手という訳だ。已む無くその足で掛かり付けの医者で診てもらうと「痛風の発作の症状でも無さそうだけど・・・」と首を傾げる。考えてみれば、先月半ばから取引先の事務所の一つが廃業に成りそうで相談のメールが来たのだったが納得行かない部分があって真意を正してみると、それが的中したのか常軌を逸した論外の返事だった。そういう事なら取引を止めるしか無いと返事し、それを気に病んでストレスが手の甲に腫れとして出たのかも知れない。それなら痛み止めのロキソニンで治るだろうと実行すると幸いにも午後には治った。かつて中年の頃、同様の症状が出て大阪の大病院へ行った事があった。美人の医師が「一寸、動かないでネ」と言って二人の看護婦に身体を抑え付けられ太い注射を患部にブスリと打たれた。驚いたが、暫くすると嘘の様に治った。結論は「痛風の症状です。一生、薬を飲み続ける事になりますヨ」だった。以来、35年ばかり飲んでいるが、数年に一度はストレスが溜まると出る。今回は軽い症状だった。痛みが取れた頃、件の取引先から「何とか解決しました。有難うございました。今後とも宜しくお願いします」とメールが来た。景気の良い事務所もあれば悪い事務所もある。それが世の中なのだろう。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/08
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初夏(46) 梅雨の中休み 梅雨入りしたものの本格的に降らないまま中休みに入って今日は曇ったり晴れたり、時にはカンカン照りである。そんな中、久しぶりに仕事の打ち合わせを兼ねて大阪へ出掛けた。相手はゴルフの月例会のメンバーの一人だ。「最近、余り顔を見ませんが体調は如何ですか?」と言われ「うちの事務所は閑古鳥が鳴いている状態で明きません。たまには顔を出さないと忘れられそうで、そろそろ、次回の月例会に参加してみましょうか」と雑談の後、仕事の話に入った。アベノミクスの効果が出て居るのかどうか知らないが、良いニュースとロクでもないニュースが錯綜する昨今、新規の建築設計が途絶えて久しく、今日の仕事の打合せは関西国際空港の近くの廃校になった小学校を地域社会の為に10か月掛けて改修工事をする監理業務だった。年齢が65歳を過ぎた団塊の世代がドッと増え、仕事が無くて困っている中、長年建築設計をやって来たお蔭で新築設計こそ無いが改修工事でも声が掛かるだけ有難い。家でブラブラしているよりも週に一、二度でも出掛けて行って仕事をするのは気分転換になり身体にも良い。電車で行くか車で行くかの話で打合せは終えた。「それはそうと、先月、1週間ほど家内と孫を連れて北海道をドライブして来ましたヨ」と相手は話した。「フェリーで?」「そう。夫婦の年齢の合計が88歳を越えると3割引きに成るので、一泊28,000円のフェリーが2万円で安上がりでした」「ほうー、先月だと、未だ雪が残っていたのでは?」「ええ、道路沿いに少し残っていましたがスノータイヤは要りませんでした」そんな話から学生時代に北海道を1カ月間、周遊旅行をしたのを想い出し「じゃあ、私も来年辺り、家内と行ってみましょうかな」と言って別れ、気分的に若返った。たまには大都会に出るのも良いものである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/07
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初夏(45) 窓辺の日除けテント 日除けテントを設けるとベランダの活用度が増した気がする。この梅雨向けに物干しの避難場所に成ったり、ベランダでお茶をするのに都合が良く、ゴルフのパター練習に疲れた時の休憩場所にも成る。ゴルフ練習をしている時は帽子を被っているが、ベランダの椅子で休憩している時は脱いでいる。日除けテントが蔭を作ってくれるからだ。その代わり庭が狭く成った気もする。丁度、竜安寺石庭の油土塀の屋根瓦が無くなって桧皮葺に替えられた時の逆のイメージである。つまり、屋根瓦がスケールの役目をしていた時は石庭の広さを無意識に確認させ現実の広さを知らせてくれていたのだったが、桧皮葺に替わってからはスケールが無くなって庭の広さが分からなくなったのである。日除けテントがスケールの役目をして猫の額の様な狭い庭が更に狭く感じる様になった訳である。勿論、テントを畳めば元の状態に戻るからイメージは戻るのだが、人間の視覚というものは錯覚を起こし易いという事であろう。一般には、それは月の大きさで確認出来る。月の出の時は月が大きく観えるのは山の稜線や建物がスケールの役割をしてくれるからで月の実際の大きさが判断出来て大きく観える現象なのである。天空に在る時は月は小さく観える。それを誰も錯覚とは思わない。そもそも月が出るというのも錯覚なのである。月は地球の周りを28日掛けて周回しているだけなのだ。そして地球は365日掛けて太陽の周りを周回しているに過ぎないのだから日の出、日の入りというのは人間の勝手な思い込みや錯覚にすぎないのだが、それを言ってしまえば何と詰らない事か。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/06
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初夏(44) 一駅隣の住宅団地から二上山を観る 毎回、ウォーキング・ルートを変えているので二上山の麓の風景が変わる。今日は電車の一駅向こうにある住宅団地の空き地から遠望してみた。その団地も小高い丘にあるので遠くの町や市も観える。二上山の麓にあるのは当麻(たいま)寺の旧村に新興住宅が増殖した住宅団地である。近年、そういう幾つかの町が合併して市に昇格した処でもある。たまにドライブで其処の育苗店や農協の野菜売り場(朝市)に出掛けると観光客が集まっている。矢張り大阪に隣接した市だけに人口が増えて近くの主婦が軽四輪を自転車代わりにして買いに来る。全国的にエコ・ブームだから軽四輪が増えて大体、乗用車の半分近くにも成っているそうだ。道理で見渡せば軽四輪が目につく筈である。急速に増えたから運転マナーや技術が低下して、あわや接触かと思う様な無謀な女性運転者が多く成った。自転車と同じ感覚で漕いでいるから車幅なぞお構いなしに突っ込んで来るのである。それだけに怖い。横着なのは狭い道の手前で対向車が見えて居ても平気で突っ込んで来る。是まで怖い目に遭っていないからか初めて恐怖を味わった様な顔をする。ボクは3ナンバー車だけに余裕を見て運転していて傷を付けられても詰らないから仕方無く停車する。すると相手は動けなくなる。技術が未熟だからバックも車寄せも下手くそでモタモタするのだ。そこで面むろに窓ガラスを開け「車幅も分からず突っ込んで来るから、こうなるんだ!」と怒鳴ってやる。半べそをかいたような顔で謝りもせず神妙に運転しながら相手はすれ違って行く。それをバックミラーで確認しつつボクは悠然と立ち去る。相手の運転者は憎々しく思いながらも自分の技術の稚拙さに後悔している事だろう。否、後悔どころか「何故待ってくれないのか?」と優先順位を無視し自分の無謀な運転をも度外視しながら憎んでいるのかも知れない。マナー以前の問題だ。そういう運転者に限ってウォーキング者を無視しギリギリ近接して行く。困った世の中になりつつある。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/05
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初夏(43) 梅雨の晴れ間 庭に面した二か所の窓にテントを設けた。詳しく言えば、妻の寝室には以前から日除けのテントを設けてあったのだが間口が一間だった。それを新しく一間半のものにし、書斎の窓に一間ものを移したのである。夏の日差しの西日がきついので妻の寝室のテントは緑色だったのが紺色に退色してしまって、新しく設けるテントの色を従来の緑色にするか最初から紺色にするかで迷ったが、どうせ退色するだろうからと緑色にした。テントが二か所になって、書斎の窓から観れば、書斎側のテントの裏地は退色せず緑色のままだから揃いのテントに観える。尤も同じ会社のもので製造場所も同じ中国工場だから間口が違うだけの事である。但し、新しい方には物干し竿が付いている。寝室に居ながら簡単なものを干せる様になっているのを妻がカタログを見て気に入って注文したのである。急の雨で庭の干しものを取り込む時も仮置きにも便利である。和風の家にテントは似つかわしく無いと想っていたが、庭側から家を眺める事は殆ど無く、気に成らないのと、家のファサードは確かに数寄屋風だが、裏は二階にもテラスを設けているから和洋折衷に成って居てテントを設けても頭の中で想うほど違和感が無いのが幸いだった。梅雨の今はテントを降ろせば暗いが、書斎にも夏の強い日差しに葦簀(よしず)の日除けを設けようかと想っていた処だったから良かった訳である。僅かな変化で生活様式が少し変わった気がする。それにココまでが変化に気付いてソワソワしているのが面白い。ボクは毎日一度はテラスの椅子に座って庭を眺めるのが癖になっているが、俄かの雨でも濡れなくなって浮足立って慌てる必要が無く成った分のんびるとして居られる。それも僅かな生活様式の変化と言えそうである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/04
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初夏(42) パティオに咲いたゼラニウム 深紅の花が余りにも綺麗なので名前を訊くと「ゼラニウムの一種で余り嫌な匂いがしないの」と妻の返事。ゼラニウムは蚊取り線香の代わりをしてくれると言うが、藪蚊は相変わらずブンブン飛んでいる。しかし、未だ挿す程の勢いは無い。梅雨の湿気を含んだ空気は蚊にとって絶好の環境らしい。ところが、梅雨が明けて暑く成ると急にワーッと襲いかかって来る。そうなると蚊取り線香を腰にぶら下げて庭を歩かない事には痒くてかなわない。ゴルフの練習どころでは無い。よくもまあ、こんなに居るものだと感心するぐらいである。この辺りは自然が残っているから蚊にとっては天国なのだろう。ココの様に毛が長いと蚊の針が届かないからココは痒さというものを知らない。顔にプーンと来てもサッと前脚で払いのけるから挿される事が先ず無いのだ。夏場、あんなファーを着ていたらさぞ暑いだろうなと余計な心配をしてしまうが、案外そういう役に立つ場合もある訳である。自然界には意味の無いものは存在しないのだろう。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/03
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初夏(41) シランの咲く前栽通路 梅雨に入っても降ったり止んだりの繰り返しで、時には晴れ間すら見え、その少しの間を庭歩きしてみると剪定していない見苦しい木がボチボチ散見される。しかし、この雨で未だまだドンドン伸びるから今葉刈りをしても中途半端になってしまう。先日、市のシルバー・センターに剪定の予約を入れると、9~11月は既に予約で詰ってしまい8月しか空いて無いとの事。それでも良いからと予約を入れ、秋に成れば成ったで亦考えれば良いと思い直した。高木は手間が大変だから精々見苦しくなって気に成る枝だけを高枝切りで切る程度に成りそうで、低木は何時も自分で剪定しているからお手のもの。中木は気分次第で適当に剪定する事に成りそうだ。加齢と共に自分で出来る剪定もそろそろ限界に近付いて来て、専門家任せになってしまうだろう。息子なぞトンと庭に興味が無いから親が居なく成れば伸び放題になってしまう筈だ。まあそれも仕方が無い。好きにすればいいのだ。誰の為でも無い、自分の楽しみの為にやって来たのだから自分が居なくなった後の事なぞ考えるのはナンセンスというものだ。そう想うと建築家は全く手のかからない庭というものも考える必要があるのではないだろうか。ふとそう想った。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/02
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初夏(40) 梅雨入り直前のカラカラに乾いた庭で 関西は梅雨に入った。1週間ほど早いそうである。曇天の天気が6月下旬近くまで続く事になる。しっとりとした空気と言えば風情があるが、ジメジメした空気では興が無い。しかしこの雨で米や作物が育つのだから恵みの雨と想えば納得が行く。それにカラカラに乾いた芝生がゴルフの練習で剥げてしまったのを修復してくれるのだ。身近な恵みがあるから有難いと思わねば罰が当たる。ココは梅雨を知ってか知らずか毎日、雨でも取り合えず外へ出たがる。そして雨の掛からないガレージの屋根の下で道路を終日観て過ごす。腹が減ればその都度戻って来て「ニャア」と催促する。そして食べ終えると直ぐに外へ出せとドアの前に行く。その繰り返しで一日が終える。単純なものである。続「猫と女と」(03) 「どんな具合だ?」「あ、貴方。心配は要らないと先生は言っているわ、インフルエンザでもない唯の風邪の様で、兎に角熱は下がって今寝た処ヨ」病院に着く迄のタクシーからの電話で麗の容体を確かめた。そんな落ち着いた舞子の声を聴いて大丈夫らしいとは想ったが、それでも顔を観る迄は気になった。10分ほどして病院に着いた。閑散とした病院のカウンターに当直の女性が一人居るだけだった。未だ処置室に居るとの事で言われた方向へ向かった。ドアを開けると舞子と女がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。振り返り私を確認すると一安心した表情になった。幾ら気丈な事を言っても矢張り女達には一家の主としての男が必要なのだと想った。子供の病気の事なぞ考えた事も無かったが、こうして風邪をひいて熱を出したぐらいで慌てる女達を観て、親と言うものはこういうものかと自分の冷静さに今更ながら気付いた。自分の子供時分の親の対応はどうだったのだろうと想い返せば、私は風邪でよく学校を休んだ生徒だった。 虚弱体質でも無いのに一寸した風邪引きぐらいでで休むのはズル休みだと親に思われていると私は薄々感じて居た。特に父は私の心を見透かしていた様だった。それが小学校卒業時に健康優良児として表彰されたのだから尚更ズル休みの常習犯と思われていた様だ。それを肌で感じていた私は父を冷静に観察しながらも怖い父親である事もあって決して好きには成れない親だと想っていた。それにワンマンで不道徳だった。外に女を作っては酒浸りになって散財し、酔った勢いで母に暴力をふるう事もあり決して家庭的では無かった。母は母で、そんな父に不満を抱きながらも仕事が上手く行っている間は黙って父に従って居た。しかし、私の中学時代に父は身体を壊し寝た切りになった。それ以来家運は傾き始め、その頃から父と母との関係が悪化し出し始めた。それでも何とか母の内職で暫くはやり繰りして行けたのだったが、中学を卒業する頃には膨大な借金が出来、その結果、とうとう家を売らねばならない羽目に陥ってしまった。そして両親は離婚し、母と私は小さなアパートに引っ越した。 生まれ育った大きな家から急に自分の部屋も無い小さなアパートに夜逃げの様に引っ越しをし、誰にも引っ越し先を連絡する心の余裕も無いまま親友を失い孤独になった。私は落胆し精神的に落ち込み絶望し、自分の人生もこれまでかと少年ながらに想った。が、そんな中でも志望する高校に合格出来たのがせめてもの救いだった。ところが高校へ行く様になったある日、生物の授業が始まる前に教室で待ちながら窓から外を眺めていて何気なくコンクリートの犬走りに唾をポトリと落とし、それを見詰め、血が混じっているのを見た。血痰だった。授業が始まっても頭の中は「血痰は結核の症状、結核は死を意味する」という図式が飛び交い虚ろな気分でいた。暗い気持ちで帰宅し母に告げると急かされるまま病院で診察を受ける事になり、肺浸潤を発病している事が分かった。以来、休学はしなかったが体育は見学扱いになり、それまで続けて来た柔道は止めざるを得なくなった。中学二年で初段になった自慢のスポーツマンだった自分が虚像だった様にガラガラと崩れて行く想いだった。 想い返せば肺浸潤という結核の初期症状は中学時代に知らぬ間に父親の不注意から移されたものだった。ある日、母に連れられて別れた父に会いに行った事がある。「この子が血の混じった唾を吐いたんは、あんたのせいや。責任を取りよし!」と母が攻め立てていたのを想い出す。父はうな垂れて何も弁解しなかった。が、結局の処何も出来ず終いだった。病み上がりで事業に失敗した父は再起を図って居たとしても既に往年の馬力も意気込みも無い単なる中年親父に過ぎなかった。サラリーマンとして再就職する事だけが残された生きる道だった父は、引っ越しをする日の朝「男一匹何とでも成る」と息込んでいた。しかし、既にその意気込みは無かった。それでも母は攻め立てるしか無かったのだろう。やがて、そんな無気力な父親を観て見切りをつけたのか、帰宅してから母は独自の道を模索し始めるのだ。不動産屋を訪ね飲食街の貸店舗を借りうけ、大工を入れ、小さな飲み屋を始めたるのだ。それが私の青春時代の家の様子だった。 一連のそんな青春時代を想い出し、今、自分がかつての父の様に外に女をつくり子供まで出来た現実をどう観るのかと自問してみても、それを決して父親の真似をしている訳ではないと弁明出来た。むしろ母親に反発しているのだと想った。何故なら、離婚して自由の身になった母は飲み屋の客の何人かと関係を持ち、その中から小金持ちの一人の男をアパートに連れ込む様になったからだ。言わば愛人としての関係だった。「渋谷さんは小さな鉄工所の社長さんやね。色々と相談に乗ってもらってるのや」と母は私に男を紹介した。男は週に数度やって来ては昼食や夕食をとった。そして母の店へ一緒に行くのだ。泊まりこそ無かったが、それは私が居るからで、外では日中、連れ込みホテルを利用しているのだ。見掛けないホテルのマッチ箱が鏡台に置かれているので確信した。男が来る日は下校しても直ぐに帰宅せず友人宅を転々とするのが私の習慣に成った。前の日から帰宅せず友人宅に泊まる事もあった。 お蔭で不愉快な自宅に戻るよりも気楽な高校生活を送れたと想っている。そういう家庭環境で愚れもせず私が今日在るのは理解ある友人達のお蔭だと想う。高校を卒業して大学に入ると私は下宿生活を始めた。学費もアルバイトで稼いだ。贅沢さえしなければ友人宅を転々と廻り食事もし何とか自活は出来た。私が家を出て間も無く母と愛人はアパートから一軒家に移った。つまり私には実家が無くなった訳だ。だから4年経って卒業した時、就職で京都を離れる事もあって、もうこれで母とは生涯会う事も無いだろうと別れの挨拶に行った。男と出逢えば不愉快になるが、昼過ぎなら男は仕事で鉄工所へ行っているだろうと考えた。果たして男は居ず、寝巻き姿のだらけた母が玄関戸をガラガラと開け「何の用や?」と無愛想に言った。戸口で別れの挨拶に来た旨を伝えると一瞬顔色を変え「何処へ行くのや?」と訊いた。「東京や」「そうか・・・。身体に気つけてな。手紙頂戴な」とポツリと言った。通りの曲がり角で振り返ると母は未だ玄関口に立って私を見ていた。それが母との最後の別れだった。(7月につづく)
2013/06/01
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