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書棚の整理 (8) 自己満足の為に人生の目標が設定されるケースは案外多い。そこに利害関係が付きまとうとも構わない。利益を度外視した社会奉仕の為にであっても利益追及の為のものであっても人々が喜びその人々の為に成っているなら他人が何ら文句を言う筋合いは無い。金持ちがお山の大将になって満足するのも勝手、清貧に甘んじて労働報酬をするのも勝手、結果が総てであって何もせず口ばかりの人よりも良い。たとい偽善者と呼ばれようとも何もやらないよりはましだからである。中途半端な人々は批判をするものの「それじゃあ貴方は何をするのですか?」と問えば口を濁してしまう。そういう連中が多過ぎるのも現代社会である。何でも在りの時代、少々の事では人々は驚かなくなった。馬鹿に付ける薬を騙してでも売りつける時代なのだ。買った方が馬鹿なのか売りつけた方が悪いのかと言った処で始まらない。一時でもそれで幸せ感を持てただけ幸せなのだ。 要するに物は考え様なのだ。勝手な意味づけでも良いから納得いく理屈を持っている人は幸せである。但し、他人に迷惑を及ぼす理屈は社会的に糾弾されるから、政治家を始め役人も実業家も学者も宗教家も注意せねばならない。今や市民が正義と化した世の中、一部の良織派だけでは愚民政治には負けてしまう。ポピュリズムという大衆迎合主義は市民の代表とする似非運動家に振り廻され被害にあって初めて偽物に気が付く。巡り巡って元の振り出しに戻ろうとも、世の中は昔からその繰り返しで成り立っているのだ。開き直って諦めようとも事実は事実なのだ。理想を掲げて一所懸命に動くのも良い。そうでもしないと居ても立っても居られないのだから、そうするしか無いのだ。無駄と分かっていてもやる処にこそ生甲斐や人間性が感じられるとも言う。そういう訳知りの様な顔をして、我々は野生の動物とは違うのだとも言う。 そういう立派な事をのたまう人々に「それじゃあ、貴方は野生動物の何を知っているのか」と問うてみたいものである。野生動物の方こそ地球の表情を読み、それに合わせて自分達の生き方を決めているではないか。それを本能と呼んでも良い。自分の心の内なる声であるコントロール能力を知りもせず、本能を馬鹿にして変な理屈をつけたものを理性と信じて行動する事こそ非科学的であり無謀な生き物でしか無い。大自然に生かされている事実を捻じ曲げてみたところで、ちっぽけな人間に何ほどの事が出来よう。大自然は嘘をつかない。大自然に悪影響を及ぼした人間の為せる技を忘れておいて何が「自然を守ろう」だ。それこそ「馬鹿にするな!」という反論が宇宙の彼方から聴こえて来そうである。神や仏は罰という様な行為は行わないが、大自然は科学の法則で人間の犯した失敗に対して巡り巡ってしっぺ返しの様な結果を示すから、それが罰といえば罰であろう。 人間は失敗をするからこそ人間であるという逆説的な言い方は、失敗から学ぶ事で進歩なり発展があるからだ。だから大自然のしっぺ返しは大いなる教訓に成る。科学の進歩は、嫌な言い方だが、戦争が一つのバネに成っている事は事実だ。身を持って失敗した事は骨の髄まで染みわたる。自分の娘が苦しみながら焼け死んで行く模様を観て描いた絵師の炎の絵が真に迫っているとして人々の共感を得たという昔話は、多分実話であろう。仮に真実で無くとも絵そのものから臨場感が伝われば真実と成るのが人間社会である。だから時代によっては史実は必ずしも事実を伝えるものでは無く、権力者の記録に過ぎないとも言われる由縁である。因みに昨年の日本の福島原発がメルトダウンした事実と関係者の対応は、多分ゆがめられて伝わるだろうから、東電が事実を隠ぺいし政府もそれに加担する限り、数十年はそのまま誤魔化しが続く筈だ。 やがては50年、100年と時間が経過して行く中で、放射能に依る後遺症が続出し、当然ながら訴訟が起き、因果関係を証明するという冷酷な時間経過が更に事実を打ち消して行くだろう。尤も、真実を目の当たりにした人々は親から子へ言い伝え、孫の代で涙金程度の補償が為され、やがて人々の記憶から消えて行くにしても、科学だけは原因究明と対策を解明し秘密裏にマニュアル化するだろう。それが国家戦略として次世代で応用されるのが人間社会の非情な処である。マンハッタン計画(核兵器)以来、湾岸戦争(劣化ウラン弾)に至るまで放射能被曝に依る兵士の体験は総て記録として残され、改良実用化されて来た事実は誰も否定できない処だ。人間とは他人事となればそういう非情な事が科学や軍事という名目の下に平気で為される恐ろしい生き物なのである。現在も日本で為されている原発対策は何等人道的な意味合いを持たないまま為されている。 我々はニーチェでは無いが、ニヒリスティックに現実を直視しなければ末代まで誤魔化し続けられるだろう事を肝に銘記すべきである。お人好しは親子や親友間だけのものにしないと非道い目に遭う。権力者なぞというものは自分の事しか考えないものだ。誰にでも甘い顔をしていれば確かに人の受けは良いだろう。しかし、キリストの様に「右の頬を打たれれば左の頬を指し出そう」という様な生き方は一般市民は出来ないのだ。むしろ「目には目を、歯には歯を」と言うのが一般人の考え方だ。それよりも「生き馬の目を抜く」という生き方、つまりリーマンショックを演出したアメリカ財閥こそが世界をリードしている現実を如何に喰い止めるかを考える方が、我々の身を守る方法として現実味がある。世界はインターネットで小さくなった。情報は瞬時にして伝わる時代である。横のネットワークで情報交換する事が防衛の第一手段になるだろう。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/31
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書棚の整理 (7) ボクが日本建築の耐震性を述べる時、事例としてよく五重塔を挙げるのはボクの恩師の I 教授が提唱する「(五重塔の)芯柱かんぬき説」の受け売りである。その論文も書棚に入っている。 I 教授は、今では京都の国立大学の名誉教授だが、ボクが4回生の時に卒業研究で「超高層建築における動的解析」というテーマで指導を受けたのも「(五重塔の)芯柱かんぬき説」を聴かされて感銘を受けたからだった。それは「五重塔は落雷で焼失した事はあっても震災で倒れた事は無い」という内容だった。あんな長細くノッポの、言わば超高層建築にも匹敵するモデル建築が倒れない日本建築の技に興味を持ったのだった。構造建築家の I 教授とは別に、意匠の M 教授にも師事していたボクは元来は建築構造よりも建築意匠に傾倒していたのだった。しかし、 I 教授の「(五重塔の)芯柱かんぬき説」の方に魅了されてしまったのだった。 M 教授からは利休や道元の手ほどきをして貰ったから、これまで何度もそれについては触れて来ている。が、設計事務所の経営としては数寄屋ではどうしても本流としては成らず、一種の趣味として、あるいはボランティアとしてしか住宅に生かせられなかった。クライアントに頼まれて茶室や住宅を建てた事はあるが、ほんの数例でしかない。数寄屋を建てるクライアントが少な過ぎたのである。だから、それなら金で目が眩まず純粋の美の追求が出来る趣味の分野にするしか無いと決めたのだった。そう割り切って構造が定番の公共建築物や民間の設備投資の建築がメインになった。それは余談なので話を戻せば、建築はスケルトン(主要骨組み)に依って機能性も意匠も殆ど決まってしまうという現実があるからだ。当然ながら建築設計をするにはイメージのエスキースが支えとなる。が、そのエスキースに構造的裏付けが無ければ砂上の楼閣になってしまう。 幾ら奇想天外な意匠を考えても構造的裏付けが無いスケルトンでは仕方が無いのだ。あの奇抜に観えるガウディでさえ構造的裏付けを求めながら意匠を決めて行った。あの鐘楼となるタワーもドームとなる礼拝堂も総て構造的裏付けを確認しながら設計され施工されたものである。例えば建築モデルを逆さまにして糸を支点(柱頭)からぶら下げ、先端を結んで放物線を求めると言う原始的ではあるが理にかなった構造線を求めた話は有名である。それは鍾乳洞の風景を見れば想い当たるだろう。石灰岩に依るツララ(鍾乳石)や直下の筍(石筍)のような柱は構造の原点と成る。しかし耐震工学と新素材の開発で必ずしも見た目とは違う構造体が出現する時代である。超高層建築物における免震・制震・耐震装備がそうだ。柱も梁も形が違って来る。「(五重塔の)芯柱かんぬき説」もそうだ。芯柱そのものが免震・制震・耐震装備として働く。 その原理はこれまで何度も述べて来たので要点だけを言えば、扉の閂(かんぬき)を思い浮かべれば分かり易いだろう。その場合、扉の開閉力が地震力という訳であるが、五重の塔の1階から5階までの各層が地震で左右反対方向に水平に揺れる塔全体のスネイク・ダンスが扉の開閉力だと考える。芯柱はスラブの中心で左右対称に揺れるスラブの移動距離を止める事になるから閂の役割を果たしているのと同じ作用をする。各層の運動が芯柱に依って制約され制震作用をするのである。各層の柱には通り柱は無く総て各層毎の積み重ねである。亦、芯柱は基礎が無く中吊りになっている場合もある。超高層建築にもその原理を応用したものがある。振り子の重りを吊り下げた超高層ビルでは台湾の101タワー(世界第2位の高さ)がある。屋上に大きな水槽を設けて水の揺れで制震する方法もある。他にも様々な方法で地震力を吸収させている。 超高層建築は土地の有効利用という理由から出来たものの搭状の形だけに揺れやすい欠点がある。地震や風で揺れ難いのは昔からの低層の建物であるが、地下の建物は大地と一緒に揺れるだけに比較的安定している。土地の広さや建設コストからして超高層か低層かのどちらが経済的であるかどうかで建設方法や工法が決まる。超高層だからモダーンで文化の象徴であると勘違いしてはならない。寧ろ防犯や防火の点で超高層の方が問題点が多い。それよりもステイタスの意味で重宝される様だが、ボクに言わせれば空中に浮かんでいる不安定な気分で生活する人の気が知れない。当然ながら好きで住むのだから勝手ではあるが、マンハッタンの様な世界的な都心部の土地が狭く高騰する処では上へ上へと伸びるしか無く、好んで住んでいる人とそうでは無い人の割合は半々ではないだろうか。 日本でも超高層ビルが多く建ったが、それが文明の象徴の様に取り扱うマスコミは偏向している。木登り猿でもあるまいに高い処に住んで満足するのは医者と成り金と相場は決まっている。何とか周りを見下したい、睥睨する事で生甲斐を見出す人種は逆に見下される事を殊の他嫌がる。そういう方法でしか人生を満足させる事しか出来ないというのも可哀想なものである。あの広大な国土を持つ中国でさえ超高層ビルのマンションに住んで金持ち気分を味わって居るのだからささやかなものである。何万坪もの土地に邸宅を建て、庭にはゴルフ場が在り、趣味のSLも走っているという金持ちがアメリカには居るそうだが、上を見ればキリが無い。要するに人間の欲望とは他人とは違う証が欲しいだけの事かも知れない。自分だけが特別だという満足感が得られれば何でも良いと言うのなら究極は何処という限定した場所での住まいなぞ満足も出来ないだろう。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/30
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書棚の整理 (6) そういう無責任が横行する時代に生きているが為に「だから、俺はニヒリストに成らざるを得ないのだ」と言ってしまえば単なる羊の群れの中の一匹でしかなくなる。逃げるべきでは無い。人間はもっと強かで粘りがある筈なのだ。宗教改革で有名なマルチン・ルターの言う「明日、世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える」という信念が誰もの心にはある筈なのだ。だからこそ人間の歴史は馬鹿な事を繰り返しながらも発展し続けて来たのだと言える。そうボクは信じたいのだ。そうでないと生きている意味が無い。美味い物を喰って美酒に酔いしれるだけが人生ではないのだ。ブランド物に包まれて幸せとする女性も居るだろうが、無印良品を買い漁って得意がる女性も居るだろう。ブランドや華美な流行に振り廻されす、江戸時代の庶民の様に生きた方法もあるのだ。 己の分を知って無駄を極力省いて質素に生きた彼等は、綿製品を着物として着続け、古く成れば仕立て直して子供用の着物にし、更に古く成れば幼児のオシメに使い、それもヨレヨレに成れば雑巾やハタキにして使い、更に古く成ってボロボロに成れば燃やして質の良い灰にし、火鉢に入れて使った究極のリサイクルをしたのだった。どの様な生き方をしようが勝手と言えば勝手だが、無駄の無いリサイクルで賢く生きる人間こそが粘り強く生きる人間の原点だと想う。貧しかった江戸時代や明治期の庶民の生活に戻れない今の時代に古臭い事を言っても通じないかも知れないが、様々な公害や天変地異を目の当たりにするにつけ、その原因を作った人間を振り返り、ノスタルジーを込めて反省するのも一つの知恵である。其処から新たな知恵が生まれ、更なる生き方を模索する事にもなると想うのだ。 有吉佐和子の小説「真砂屋(まなごや)お峰」という江戸周辺の武蔵野に生える雑木を売るのを生業とする材木商の話がある。火事は江戸の華と言われたほど火災が多かった時代、江戸庶民は、欅や檜や杉という高級木材を住宅に使えず雑木で代用していた事から数寄屋建築が発達したとあって面白い見方と想った。が、そういう面も確かにあったではあろうが、数寄屋の原点は自然素材の美と安価な面が大きな要素であった筈だ。貴族や僧侶の建築が寝殿造りから書院造へと官制建物として建てられて行き、武家社会にもそれが広まり、やがては富裕な商人社会にも行きわたっても、大方の庶民は屋根瓦でさえ使えない時代だった。それが江戸期になって火災から守る為に庶民にも瓦が認められる様に成って江戸の火事も少しは収まり、そういった時代背景の中、数寄屋は更に発達し、利休による茶の湯も発展を遂げ、茶室という趣味の世界が出来上がって行く。 秀吉の黄金の茶室を究極の茶の湯のパフォーマンスと観れば、それは利休の権力者への最大限の皮肉を込めた作品として観る事も出来、権力者への密かな反抗心が感じられ面白いが、本来のワビ(詫び)、サビ(錆び)、質素などの自然素材が持つ美が数寄屋の原点であると捉え、黄金に置き換えた茶室は自然素材の究極の象徴であったとも言え、元来、建築用材とされなかった武蔵野に大量に生えていた雑木を利用する考え方にこそ数寄屋の萌芽があったとボクなんかは想うのだ。つまり杉、檜に見る高級用材では無く、断面積が小さく曲がりくねった雑木の丸太を意図的に使い、構造的にギリギリの耐力で持たせた軽い建物は現代の軽量化された耐震住宅の精神にも通じ、其処には丸太の木肌の美を取り入れ、細かく裂いた杉の繊維板の美を表現する網代の天井、荒削りの粘土による下地壁や窓なぞ質素そのものが素材美として表現された訳である。 素材美と言えば、ル・コルビジュエが唱えた「マチエール(素材)の持つ美そのものを建築に」という理念と通ずるが如く、コンクリートの打ちっ放し手法が素材の持つ美を活かした建築として一時大流行した様に、その神髄をロクに理解もせず、唯単に猫も杓子もル・コルビジュエの真似をした我々の大先輩であった戦後の若き建築家の恥ずべき時期を我々は忘れる事が出来ないのである。敢えて恥と言った訳は、戦後の社会状況であった高度成長期に付随して発展した車社会に依る排気ガスでコンクリートは黒く、街の銅像も化学反応で醜く汚れるという公害を体験して、単なる物真似が如何に低俗であったかを示し教えたからだった。大阪の著名な大建築設計事務所の本社ビルの打ちっ放しコンクリート外壁なぞは、いとも簡単にその意匠性や理念を否定するが如く吹きつけ素材で覆い隠し、証拠隠滅までしてしまうのである。 サラリーマン建築家をしていた頃、それを観てボクは失笑してしまったものだった。日本を代表する設計事務所でさえ欧米の猿真似をして大きな顔をしていたのだ。建築家協会でさえその様な体たらくを平気でやる様では、ちまたの新進建築家なぞル・コルビジュエどころかフランク・ロイド・ライトの足元にも及ばない筈である。ル・コルビジュエやフランク・ロイド・ライトの弟子であると称する日本の建築家達は、そいう事には全く振れず、象牙の塔に引きこもったり仲間内で弁解し合って黙ってしまうのである。それはガウディの後継者の様な顔をする日本の建築家も同様である。日本のオリジナルな建築を営々と築いてきた棟梁達の持つ独創性を越える大建築家が何人世に出たのかと問いたいものである。更には耐震性を無視した建築が長年の無知な時代に建てられ続けて来た事実をどう説明し弁解するのかも訊きたいものである。学者はもっと謙虚に大自然を観察し、公害をも含めて研究し、国や建築学会をして啓蒙して行かなくては地震災害や公害からは逃れられないのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/29
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書棚の整理 (5) 義父の残した書籍の中には古書も混じっている。つまり古本屋で買った本である。宗教関係は京都の寺町の宗教専門書店で買ったものだから、つまらない物は無いものの大阪で買った物では背表紙裏に古本屋のシールや価格が記されていない限り新品だったのかどうか分からない物もある。よく読み込まれた新刊書でも見掛けで古本と間違う事もあるから一概に古書とは言えないのだろうが、そういう本はそれなりに意味を持つ。義父がこういう分野にも興味があったのかと注意が行くからだ。中にはクラシック音楽の解説書のような物から高等数学の解説書まであって経済が専門だった義父の別の一面を発見したりする。ボクは絵描きに成りたいとか音楽家に成りと想った事があったぐらいだから芸術には殊の他興味があって音楽なぞわざわざ解説書なぞ読まなかった。だから面白い物を見つけたと想ってパラパラ見て拾い読みしてみた。 ところが、矢張り方向違いな事が書かれてあり、本来音楽は知識で聴くものでは無く心で聴くものである。が、その様な事は一切書かれていないのが分かって失望したのだった。当然、解説書には理論である音符や記号が書かれてあり、義父にそれが分かったかどうか疑問だった。心で聴くと言う事は、盲人の音楽家などがそうだろう。尤も、聴くのは耳ではあるが、耳を通して脳で聴くという事と目で記号を見ながら聴くのとでは違う。それは人間だから出来る事なのだ。動物は当然ながら記号は分からない。植物もそうだ。音楽を聴かされて動物や植物に何等かの変化があるのは波長が影響するからであって記号は全く関係の無い事なのだ。影響の源は音の強弱と剛柔と組み合わせ(和音)とリズムである。効果音やB.G.M.若しくは歌曲を消して映画やドラマを観れば映像効果が半減してしまうので簡単に分かるのである。 芸術はどのようなものでも五感を通して感じるものである。ギャラリーの書画や工芸品であってもそうだ。その場の雰囲気というものがある。それは目だけでなく肌からも耳からも、時には匂いからも感じるものである。五感の総てを駆使して舞台を観て感じるのである。映画でも舞台でも目を閉じて居ても感じるものがある。コンサートなら尚更だ。全身で受け止めるからこそ感じられる気というものがあるのである。だからこそ舞台役者は毎日同じ演技を舞台で演じても、同じという事が無いと感じ、明日こそはと想いながらベストの演技をしようとのめり込めるのである。映画なら画像に記憶させてしまえばそれで終わりだが、舞台はその日その日が勝負なのだ。コンサートも同じだ。だからこそライブは観客に受けるのである。C.D.やテープの記録には無い臨場感が心を揺さぶるのである。 そういう意味ではスポーツ観戦も同じだろう。わざわざスタジアムへ出向くだけの価値があるのである。勝っても負けても観客は臨場感に酔うのである。サッカーのフーリガンが暴動を起こしてよく問題になるが、当人達は興奮して傍迷惑なぞ考えもしない程陶酔し切っているのである。それは祭に酔う氏子達と何等変わらないのだ。神輿やダンジリを引廻して興奮するのは当人達だけで、観客はそれを観て二次的に興奮するだけだから興奮度は半減する。それでも年に一度の祭りは仕事を忘れてのめり込むのだ。昨年は、そういう祭のメッカである大阪南部の小都市にある府立高校の耐震補強工事が祭りを挟んであったのだが、時期が悪かったと言えよう。もし、工事が冬場であったなら夏祭も関係なく、職人も覚めた頭で仕事に臨めたかも知れないのだ。幾ら仕事が大事か祭が大事かと選択を迫ろうとも血が騒ぐものは仕方が無いのだ。 それで仕事に支障が出る半端職人を叱ってみたところで彼等にすれば糞喰らえなのかも知れない。所詮、京都の祇園祭の町内で育った上品な人間には理解なぞ出来ない事なのだ。亦、ダンジリ祭に酔う人々に祇園祭を理解し馴染めと言ったところで馴染めないだろう。祭はそういう事を教えてくれる。尤も、ボクは上品が良くて下品が悪いと言って居るのではない。人間は育った環境に左右されるのだと言いたいのだ。だからハッピ姿の職人の熱気でむせ返るダンジリ祭と、裃の着物姿の商人のゾロゾロと歩く山鉾行列とを比較したところで、お互い相手の興奮度や満足度は永遠に測り知れないのである。祭とはそういうものなのだ。上品であれ下品であれ、どちらが良いとか悪いと言ったところでナンセンスでしか無い。土地と風土に依って育った祭の比較なぞ何の意味も持たないのである。 書棚にあった古本のニーチェが言う「ツァラトウストラはかく語りき」で、ニーチェがキリスト教に絶望してニヒリストになったのが、ツァラトウストラ(ゾロアスター)に心酔したせいとしたところで、キリスト教的教義を身に付けた哲学者であったが故に異国の宗教に興味を持っただけの単なる好奇心であったのかも知れないと考えれば、ヒンズー教や仏教を生んだ印度や、シルクロードを経由して仏教を知った日本が、以前からあった宗教をベースに異国の宗教に興味を持ち影響されたとしても何等不思議は無い。世界が思想で揺れ動く時は人心の乱れが大きい時であり大戦が起きるのも無理は無い。我々は、そういう歴史を歩んで来たのである。現代は、第3次世界大戦は起きないだろうと想われている。が、原発のメルトダウンという最悪の災難が降りかかり戦後と同じ虚無感に陥っている時なのに責任者は逃げ回り、政府も裁定力を持ち合わせないのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/28
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書棚の整理 (4) ボクが小学生の頃迄は書棚に書籍が一杯並んでいるのが一種のステイタスとでも言おうか学識の証明の様に想えたものだった。他所の家へ連れられて行って応接間や書斎にそういうものが観えると「この家の人は知識人なのだ」と勝手に想ったのを覚えている。金持ちの家には必ずと言って良いほどの応接間や書斎があって、それが親戚であったりすると自慢したい気分になるのだった。何故なら洋風の応接間や書斎がある家は数少なく、我が家は和風の家屋だったから客間は12畳ほどの畳の部屋で床の間に書院があるだけで、床の間の掛け軸や横の違い棚の置物以外に書籍なぞは無く、勿論、書斎なぞも無かったからだ。但し、広い洋間が1階と2階の道路側にあって、1階の洋間は事務所代わりになっていて応接セットや事務員の机と大金庫が在り、2階の洋間には社長をしている親父のデスクや応接セットが在るだけで、飾棚には仕事の書籍や書類が入っているだけだった。 他所で観た様な書籍類は一切無く、親父が趣味で読んで居た歴史や短歌などの書籍は総てボクの部屋の書棚に置かれていて、其処には母親が読んで居た小説も一緒に並んでいた。子供部屋にしては10畳の間は広かった事から書籍類は全部まとめて置いてあったのだ。しかし、ひょっとして両親は、どの様な本を読んで居るのか他所の人に観られるのが嫌だったのかも知れない。何故なら、他所の家で観た様な立派な装丁の黒っぽい背表紙に金文字が打ってある全集ものや横文字の書籍なぞは一切無かったからだ。つまり、見せる為の本と実用的な本があると言う事を知ったのも小学生の頃だった。お蔭で、書棚から未だロクに理解出来ない小説なぞを取り出しては片っ端から読んで行った。ルビの打って居ない漢字は前後の文脈から類推して理解し、それでも分からない時は漢和辞典で引いた。だから漢和辞典は小学時代には簡単に引いていた事になる。 親父の書籍の和歌や万葉集とは違って母親の書籍は流行のものが多く、翻訳ものもあった。モーパッサンの「脂肪の塊」や「ボヴァリー夫人」などを覚えている。流行ものでは横光利一や石川達三、野間宏、山本有三、椎名麟三、船橋聖一等があった。およそ小学生には不向きなものばかりだったが気にもせず読んで行った。そのせいで小学生にしては文章力はしっかりしたものに成って居たからか、作文の時間が苦にもならず時間内にはちゃんと書き上げるので先生の受けも良く、文集には必ずボクの作文が載ったものだった。中学に入ってからは学校の先生の勧める文学ばかりを読んだ気がするが、誰もが読む芥川とか漱石、欧外、藤村など以外には「次郎物語」の下村湖人や阿部次郎の「三太郎の日記」などが記憶に残っている。その頃から親父の商売が上手く行かなくなって、家庭内も暗く成って行き、引っ越しをして家族がバラバラになってしまった。 そういう事がきっかけでボクの人生が大きく変わって行った訳だが、書棚を眺めて居ると当時の訳も分からず乱読していたのは、多分、家庭内の両親の不和を察知して近い将来の家庭崩壊を予感していたのかも知れず、読書に没頭する事で煩わしい事から逃げていたのかも知れないと想うのだ。少年のナイーブな心には小説に依る別世界の事が刺激的で、自分の家庭と摺り合せて何かを模索していたのだろう。しかし、実践社会を知らない少年の心では小説の中の世界なぞ何の役にも立たなかったのは当たり前で、ボクが世の中を本当の意味で知ったのは大学の半ば位からの事で、それ迄の学生生活は何の苦労も知らない有触れた青年に過ぎなかった。学生生活を終えて就職し、間もなくして両親が離婚し、初めて自分には世間並みの両親が形の上だけでも存在して居たのに気付かせてくれたのだった。 書棚を観て青年時代の事を想い出すのは余り良い気がしない。まして其処に宗教関係の書籍がギッシリ入っているのでは気が重くなってしまう。だからと言って中身を観ないまま捨ててしまうのも気が進まなく、せめて文学書や哲学書を取り出しては読み返すぐらいなものである。文学書では谷崎潤一郎と有吉佐和子だけは殆ど読んだから彼等の思想や性格や癖がよく分かり、文体も気に入っているから今も想い出せる。が、学生時代に想った小説家に成りたいという気は今は無くなり、近年ではエッセイを毎日書いている。心の整理をしている様なものである。仕事の建築関係では大阪事務所の若い所員に図面やディテールの指導をしたり、民間工事と公共工事の監理をしてそれなりに現役でいる。それは高齢ながら面白いものである。過酷な動きは出来なくなったが、安全と快適と美しさをロー・コストで実現させる楽しみがある。 その為の情報源であった書棚は今やパソコンに取って替わって過去の遺物の様になってしまったが、電子情報では得られない情報が未だ書棚には残されているから、この先も書棚は無く成る事は無いだろう。青年時代の情報も、古典と呼ばれる情報も紙面からでしか得られない物が未だまだ多くある。だからボクは想い出した様に、たまに大きな図書館へ行く事がある。其処でネットでは得られない情報を得るのだ。幾ら科学技術が発達しても、それを利用する為のインプットが為されていなければネット情報は無いのも同然だからである。誰かが時間と肉体労力を駆使してパソコンに入力しない限り情報は絶対にネットには流れないのである。延々と無限に残された膨大な紙の情報や人の頭の中にある情報をパソコンに入れ込む作業が完了するまでの期間、元の情報を求めて書棚を探すのである。それも楽しみのひとつになるから時間はもっともっと欲しいし、加齢なぞ糞喰らえと想っているのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/27
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書棚の整理 (3) どうしようもない事を何とか少しでも改善しようと努力するのが人間の知恵であり、自分に出来る範囲内で頑張るのも人間としての道、若しくは義務だろう。そう想いながら時には辛抱し、時には妥協して来たのも一つの知恵と呼べるにしても、敗北感を味わって来た訳だから、此処で一条の光が見え始めたのを好機として支援するのは自分を高める意味でも良い選択に成るだろう。年齢的には未だ数年は公共工事の監理が出来そうなので頑張ってみようという気にも成る。私的な設計・監理も公的なそれも同じなのに、公的な場合は施工業者を自分では選べないから、勢い厳しい指導をせざるを得なくなる。私的な場合は大丈夫と判断して使う業者だから未だましである。つまり、それだけ公的な場合はロクでもない業者を指導しなければならず、単に命令しただけでは動かない連中ばかりだ。昨年の府立高校の耐震工事がそうだった。 その事は既にブログに書いたから詳細は繰り返さないが、結論として、その地元業者はボクの指導通りやらなかった横着さからミスを出し、手直し工事をする羽目になり、大きな痛手を受けたのだった。最終評価としてはAランクからBランクに転落し、実質的にはC評価の評論を記しておいたから次年度の入札には外されるだろう。亦、一昨年の大阪市の小学校舎建て替え工事でも、矢張り地元の零細企業が受注し、丸投げの形で上請け発注をしたから仕事は何とかクリアしたものの、上請け業者から来ていた工事監督が元請け業者を舐めて掛かっていたのか不遜な態度で、ボクの監理指導に対しても勝手に検査を省略して工事を進めたりしたのだった。その為、度々工事を中断させて検査をするという事もあった。そういう記録は残るもので、幾ら素知らぬ顔をしたくても市にも記録は廻るので、工事担当も内心困った表情をせざるを得ない羽目になった。だから結論としては受注した元請け業者の評価はダウンした事だろう。 それでも建設業者の悪幣は直らないだろう。スーパー・ゼネコンはこの大不況でも何とか生き残るだろうが、一部上場企業であってもゼネコンのBクラスは言うに及ばず二部上場企業のゼネコンも経営は大変で、半分死に体で仕事をしている状態だ。一度倒産したゼネコンは手形が発行出来ず、下請けにはキャッシュで支払うから、下請け業者は返ってその方が健全経営ができるとして何とか息が繋がっている様なものだ。だから下請け業者は潰れたようで潰れず、利益が出ないまま何とか毎日を凌いでいる状態である。長引く不況で民間の設備投資が低迷し、税収が落ち込んでいるから公共工事も同じく低迷し、箱モノ行政は耐震補強工事程度しか出ず、忙しいのは構造設計事務所と耐震補強工事を受注する零細業者ばかりとなる。意匠(デザイン)を売り物にする設計事務所は開店休業状態で、新築工事では無い店舗設計やディスプレー設計に手を出しているのだろう。 ボクは建設という一つの業種の世界しか歩いて来なかったから直接は建設関連を通してしか世の中の経済活動は知らないのだが、誰もがそれが一般的であっても金融関係や評論家や政治家は総ての業種に通じて居ないと経済は語れない筈である。しかしながら全般に詳しい人も居るものの、総てに通じるということは逆に言えば一部の専門業種に詳しくは成れないと言う事でもあるから世の中の表層的な事象を観て語る事になる。尤も、一芸に秀いでる者は他の分野にも秀いでるだろうから優秀な観察力や洞察力があるのだろうし、そう想う事で彼等の言う事を信頼して聴くしかないのだが、残念ながら納得させるだけの評論をする人は少ない。先ず政治家が馬鹿過ぎる。官僚は視野が狭く小賢し過ぎる。木端役人も官僚の下請けの様なもので聴くに堪えない事しか言えない。評論家は御用評論家に成り下がり、学者も同様である。我々国民は一体何を信じれば良いのか。 そういう時は横の連絡に依る情報を得る事だろう。お上の出す情報なぞ誰もが嘘だと見抜いている。あんないい加減な連中の言う事なぞ誰も信用しなくなったのだ。だからインターネットで流れる膨大な情報の中から取捨選択してフルイに掛けて自分流に選び出す。その為には冷静な客観性を持たねばならぬ。それには付和雷同しない強固な信念も居る。単なる頑固では駄目である。勿論、唯我独尊も駄目である。信念と唯我独尊は紙一重であるから難しい判断力を要する。しかし、基本さえしっかりしていれば案外簡単なものである。人間の生きる為の基本的ル―ルを持てば良いだけの事だからである。愛と正義と言えば青臭いかも知れないが、それこそ基本である。我欲に走ればそれが見えなくなる。宗教の世界に迄のめり込むのも危険である。精々、倫理観をもって時代時代を乗り切るしか無いだろう。その倫理観も時代と言う曲者には翻弄され易い。 戦時中の常識と平和時の常識は当然ながら違う。敵といえども人を殺しても平気な時代というのは真の平和時では無い。アメリカがアルカイダの誰それを暗殺したと大統領が嬉しそうに語る姿を観て心から喜んでいる国民の姿が馬鹿に観える。が、その国民を観て批判する事は簡単である。自分がその国の市民であれば感じ方が変わるからである。竹槍で飛行機が落とせると教育していた時代の日本がそうだった。イランが核開発をしていると疑念を吹っかけて経済封鎖をするアメリカはイスラエルに踊らせれるピエロかマリオネットに観える。原発を作ると言う事はプルトニウムを作る事に繋がるから核開発をしているという理屈は自分で自分の首を絞めて居るのと同じだからだ。核を秘密裏にアメリカから入手したイスラエルは中東の火種である。火種である国が核を使用出来ないのは自明の理なのに脅しとして使っている矛盾に気が付いていないのは矢張り馬鹿という事になる。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/26
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書棚の整理 (2) 義父の残した宗教関係の書籍と同じぐらいの量の文学書が同じ書棚には在って、スライド式の二重棚の奥になっているからスライドした時にそれが目に入る。近年のものは未だ記憶に残っているから手にする事もないが、古典は折に触れ手にする事がある。親父の様に万葉集や新古今集を読み直したり、古典ではないが明治期の小説なども同じだ。同じ日本語なのに現代の日本語と古典とを比較すると古典の方が深い意味があったり短文ながら充分に意味を含んでいる事に気が付く。漢文がそういう意味で多くの意味を含んでいる様に読者の想像力を掻き立ててくれるのである。つまり漢字の用法が未だ日本語に充分染み込んで居なかった頃、平仮名が出来、ディテールの補足をする様になってからは漢字が次第に意味を限定する様に成って行くのである。その点、欧米語は日本語で言えば平仮名の様なものだから廻りくどい言い方になってしまう。 音読みと訓読みで同じ漢字でも多少意味する処が変わって来るのに対して平仮名はそのままの意味で、欧米語もそれに類するから現代向きの言葉であった事が分かる。しかし、漢字の国であった中国では戦後は略字が横行してしまった為に、元の漢字が類推できず、それこそ平仮名の様な中途半端な漢字になってしまって、文盲を無くす意味で開発された文字ではあったが、今では行きわたってその弊害が出ているという。藤堂式の漢字解説と白川式の漢字解説とを比較すれば白川式の方が現実的で含蓄がある事が分かる。一例を挙げれば「親」という漢字は藤堂式では、親が木に登って我が子を心配して観る(探す)という解説なのに対して白川式は、木に針(釘)で傷を付け我が子の成長を観るという風になる。ターザンでもあるまいに木に登って遠くまで遊びに行ったであろう我が子を探すというのは如何にも取って付けた様な解説になる。 現代社会でも柱に傷を付けて我が子の背がどれだけ伸びたかを観る事があるように写実的である。そもそも主に表意文字から発展して創られた漢字はルーツを探るとその成りたちが面白い様に分かる。そういう分類をすれば膨大な数の漢字も関連性が分かって覚え易くも成る。そういう教え方を小学校でしているかどうか知らないが、今の教員のレベルでは到底無理だろう。親戚の従姉妹なぞが学校の教員をしているのを見聞きするに及んで感じる事から、ボクなんか日教組が大嫌いなのだが、今回大阪市長になった橋下氏が教育改革に乗り出した事は時宜を得て良い事だと想っている。サラリーマン化した教員が国歌もロクに歌えず、式典では歌う事を拒否するなぞもっての他だと想うのである。そういう教員の子に生まれた子供は可哀想である。尤も、賢い子なら親を反面教師として観て育つかも知れないし、そう願いたいものである。 教員の子供が総てそういう訳ではないだろうが、ボクの知っている教員の子供は大抵いじけていたり暗かったり、精神的に貧しい連中が多かった。それは親が理想論ばかりを子供に押し付けるから、言わば教育者の子供は範を示さなくてはならない立場に追い込まれ、親の矛盾点を知っている子供は反抗して不良にまでは成らなくとも親の言う事を聞かなくなるのだそうだ。概してそういう子供は頭が良いのだが豪快さや大らかさに欠ける。俗な言い方をすればセコイ連中が多かった。だからその反動で金に執着心を持つか、全くその逆で行くかのどちらかに成るケースが多い。「娘をお嫁にやるには教員の家庭は駄目」とよく言われたのもそうだ。そういう意味では公務員の子供も似た様な処がある。高級官僚の場合は見掛けは優雅そうだが、その実、税金を食い物にする連中が多いから子供も真似をして小賢しくなるというのも半分当たっている。 そういう家の子は秀才ながら大物にはならないものだ。着実に堅実に親の真似をして高級官僚を目指すか、反動で半分グレてしまうかのどちらかなのだ。結論的に言えば「親の因果が子に報い」という事になる。そういう意味では親は余程注意しなければ子供がロクで行かない事になるから職業も慎重に選ばないと子供が迷惑する。尤も、それは職業でそうなると言うのでは無く、親の心構えや時代の背景もあるから言わば一種の流行なのだろう。たまたま革新的な人物が大阪市の市長に替わった為に新しい風が吹き始め、希望退職者を募ったところ例年の倍も出たというから、さもありなんと想った。ロクでもない公務員が税金を食い物にしていたのだ。そういう連中がドッと辞めるのだから良い事だ。ボクも大阪市の木端役人には腹の立つ事が多かった。自分を何様と想って居るのかと想える慇懃無礼な言動で、我々設計事務所の人間を馬鹿にして来たものだ。 これで少しは大阪も変わるかも知れない。首長が替わるだけでこうも違うものかと感心する。昨日も、ある設計事務所の所長と話をしていて、大阪の公共事業の裏話をしてくれていた。今では電子入札に変わって談合がし難くなったものの未だ談合らしき行為があって、受注している業者の能力よりも以上の工事が請負契約され、実際に工事をする業者は下請けではなく上請けの状態になっているというのだ。つまり形の上では下請けではあるが、下請けの方が発注業者よりも規模が大きくレベルも高いのだ。それは不況のせいで公共工事の数も金額も大幅にダウンして、ランク別では大きな業者には仕事が廻って来ず、弱小業者が落札して丸投げで上請けに発注する形になっているという事である。役所もそれを知っていて黙っている。ボクもそういう工事現場の監理を数件したので知っているが、どうしようもない状態なのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/25
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書棚の整理 (1) 自分の親が亡くなる頃と言えば、一般には我々の平均年齢からすれば50代か60代の頃だろう。自分の両親の他に配偶者の両親も居て兄弟の順位にも依るから年代が多少ずれるとしても人生の終盤に近い頃である。ボクの場合、父が23年前に、妻の父が12年前に亡くなっている。ボクが45歳の時と56歳の時だった。未だ近年の葬式だったから今もよく覚えているが、夫々の遺品は綺麗に片付いて今手元に残っているものは殆ど無く、実の親父の遺品では、ボクのデスクのペン皿に載っているコンパスとディバイスがある。之はボクが小学生の頃に分不相応というかプロ用の高級な製図道具を何故か買ってくれた物の内の一つで、ケースやその他の物は全部無くなっているのに真鍮製のそれだけが残った。先端の針部分は鋼鉄製で出来て居て丈夫なものである。だから今も残っているのだろうが、技術屋だった親父らしい形見となっている。 一方、義父の形見としては何も無いのだが、彼の書棚の膨大な本を整理し切れずに残ったものがボクの書棚へ取りあえず入れておいたものだけが残っている。ボクの書棚には56歳という年齢になっていた事もあって専門書を整理する為に、これから建築の勉強をするので欲しいという人に殆ど譲ってしまって空の状態になっていたのだった。専門書は大方頭の中に入っていて、インターネットの時代になって必要な情報はその都度ネットで調べれば分かるからと全部譲ったのだ。ボクの蔵書で残ったのは文学書ばかりになっていた。其処へ義父の処分し切れずに残った宗教関係の書籍がドッと加わったのだ。宗教関係の書籍は殆どが密教関連で少しばかり興味もあったからボチボチ読んでから処分しようと想った。その中に混じって哲学書も数冊入っていた。 その中に二ーチェの著書があった。懐かしい想いでパラパラとページをくってみると「ツァラトゥ―ストラはかく語りき」の元になった「ニヒリズム」についての記述があり、義父の癖である赤鉛筆のチェックを入れた跡があった。彼も学生時代に読んで、晩年になって再び読み返した様である。何故なら出版年が昭和37年5月第1版第1刷、昭和41年3月第1版第2刷となっていて、後扉の内側にはターミナルに在る馴染みの古本屋のシールと値段が記されていたからだ。上下二巻で夫々1,300円と1,500円のものが2,000円になっていて、それは読後直ぐに売ったのか新品同様の新しさを保った状態だったから値段もそれほど変わっていなかった。800円ダウンして売っていたと言う事は10年も経っていなかったのだろうが、ボクが結婚したのが昭和49年だったから当時の義父は60代だった事になる。 ボクが結婚した頃にこんな本を読んで居たのかと多少は興味が湧くが、今、ニーチェの事を書く積りは無いものの、義父が気持ちの若い人であった事を知って改めて彼への観方を考え直す機会かも知れないと想ったりもする。ニーチェの文体は散文詩の様なものだから人に依っては読み難いかも知れない。しかし、ボクなんかは読んで居て自分に近い表現方法をとっている様に想えて親しみを感じる。そして二十代の頃にはボクも同じ様な考え方で居たから、当時の友人とニヒリスティックな内容の会話で毎晩酒を飲みながら将来を語り合った事がまざまざと想い出されるのである。彼は大学教授の道を捨てて大手の企業の研究所に入って主任研究員として博士になり、彼なりの人生を歩み出し、ボクはボクで全く別の道を行き、その後の交流も無いまま今日まで来たのだが、特に会ってみたいという気も無く想い出として振り返るだけである。 ボクの父は建設会社を経営していた割には比較的時間があったのか、歴史物や時代物の小説が好きだった。亦、短歌が好きで、よく万葉集や百人一首の解説をしてくれた。そのお蔭か百人一首の歌人の事は殆ど頭に入って居た。のどかな時代の風景が想像力豊かな子供の柔らかい頭に幾らでも入ったのだった。そして義父も読書家だった。残された宗教関係の書籍がぎっしり詰まった書棚を眺めて全部読むには相当時間が掛かるだろうと覚悟したものだったが、興味の湧かない物は読まずに処分する事になるだろうという気も働いて、興味の持てる物だけをたまに取り出しては読んで居る。宗教は理屈では無く信じる事が基本だからそれで良いのだ。しかし、神(キリスト)は死んだとするニーチェをわざわざ読み返す義父の気持ちが単なるノスタルジアからなのか時間を持て余したからなのか分からないままボクも暇任せに読むというのも皮肉なものである。 しかし、義父は敬虔な仏教徒でもあった。真言密教の経文を毎日の様に仏前で唱えていたし、高野山にもよく参りに行って居た。若い頃はキリスト教に深入りして新渡戸稲造の弟子になって全国を廻ったというから金持ちの道楽息子だったのかも知れない。だからキリスト教も多少は研究したのだろう。そして、戦前戦後の社会状況からか、若しくはその反動から仏教に深く入り込む様になったのだろうとボクは想っている。だから宗教関係の書籍をよくもこれだけ集めたものだと感心はするものの、ボクには其処まで入り込む気が無いから適当に書棚から興味のあるものだけを抜き出して読んで居る程度だ。先述した様に宗教は理屈で考えるものでは無く信じるという行為の延長にあるものだからそれで良いと想っている。何処かの新興宗教の様に誰でも彼でも説得して加入させるべきものでは無いと考えるのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/24
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冬の京都(7) 正月が過ぎ、節分が近付くと京都は益々冷えて来て底冷えがし、人々を震えあがらせる。そんな中でも鍛え上げた雲水は素足にわらじを履いて托鉢に廻る。修業とは言え大変苦しい時期である。ボクなんか子供時分はそうでも無かったが、今では京都を離れた事もあって寒がり屋になってしまい、冬の京都へはめったに行かなくなってしまった。だから昔の写真を見て懐かしむ程度である。あの京都特有の夏の蒸し暑さも嫌だが、冬の風邪気味の体調不良の時の京都はもっと嫌だ。おまけに霙(みぞれ)が降っている時なぞ物好きにも洛中を徘徊した後の背筋の凍る様な寒さは経験した者で無いと分からない寒さだ。そういう時は当然ながら観光客も少ない。しかし、最近は逆に、そういう寒さや景色を売り物にして電鉄会社やホテルや旅館業界が大々的に宣伝し、割引き料金も併せているから観光客は徐々に増えている様である。京都(31) 祇園新橋。 京都で商売をしている小学時代の同窓生は家業を引き継いでいるせいか保守的な好々爺に成って何処か分別臭い顔をして飲み会に出て来る。商売の原則は大阪も東京も変わらないから、結局はボクの様な一代限りの建築家という商売をしている立場と何等変わらないのに商売人独特の人を覗うような目つきで同窓生を見て居る気がしてならないから戸惑ってしまう。伝統ある家業がそんなに偉いのかと問いたくなって来る。伝統的な商売で多いのは呉服屋、仏壇屋、和菓子屋、経師屋、旅館等だが、今時、昔の様な手法では商売もやり難く成っているだろうから羽振りの良かった時代の気分で今も旦那然としている同窓生なぞは親や御先祖様に足を向けて寝られないだろう。50年以上も会わなかった相手が、かつて頼り無かった小学校時代とは打って変わって旦那顔をしているのを観ると嬉しく成る反面、何時まで井の中の蛙で居られるのかなと想ってしまったりもする。京都(32) 祇園西石小路。 そういう気持ちとは別に、同窓生同士は利害関係が無く、亦お互いそういう気持ちで居るから、サラリーマンをリタイアして今では御隠居然として孫の話をする連中が訳知り顔で飲み会を仕切っているのが微笑ましく観えて来たりもする。当然ながらリタイアすればギラギラした面も消え、亦そうする必要も無くなっているだけに、何せ出来の悪かった連中が旦那顔で居る以上、サラリーマン時代のプライドの源であった学歴と一流企業名が折に触れひょいと顔を出す辺り、何時まで経っても子供時分の癖は直らないものだと自分自身も含めて苦笑いをしてしまう。それなら政治家や学者に成っていたならどういう顔をしただろうと高校時代の同窓生との飲み会を想い出せば、確かに政治家は天下国家を語り、大学教授は簡単な事をわざわざ難しく言ったりして皆を煙にまこうとする。其処へ自由業のボクなぞが皮肉を言ったり冷やかすものだから憮然とするのだ。京都(33) 哲学の道。 が、高が同じ高校を出、その頃の成績も知っているだけに威張っている姿が大丈夫かなと内心笑えてしまう。つまり。お里が知れているだけに皆お見通しなのだ。幾ら出世しようが結局は金を持っている方が一番という顔をする商売人は、その点強かなものである。口でこそ褒めはするものの「政治家がなんぼのモンじゃ」「大学教授がなんぼのモンじゃ」と心の内では想っているのだ。中には家業を弟や妹に任せて自分は学者になった男などは一応は実家の財産分けに預かったのか余裕のある生活をしているからか商売人のふてぶてしさとインテリとしての自信とを合わせ持っているからか人を小馬鹿にした様に観る。どうも京都人は根性の小さな連中が多過ぎる様で、ボクのように既に京都を出てしまった人間なんかは、そんなに人の噂が気に成るのかと笑えて来るのである。矢張り旧市内にすむ連中は隣近所の噂が気に成って仕方がないらしい。京都(34) 貴船神社。 さて、ボクはと言えば、そんな京都を出て、今では全く奈良らしくない奈良と大阪の県境の新興都市に住みながら生涯現役で行く積りでいるから、京都の因習に捉われる事無く、仕事場の事務所がある大阪谷町(中央区)では大阪人特有の「がめつい浪速商人」でも無く、言わば出身郷土が不明の関西人として自分なりに自分の世界を構築し、建築の仕事(設計と監理)をしている好々爺である。そんな親父なぞ煮ても焼いても喰えないだろうから個人的には国際人(インターナショナル人間)と自称し想っても居るのだが、やがては日本人の皆がそういう風に成るだろうと信じて若者に建築技術やディテールを指導している。若者に基本を教えれば直ぐにでも実践に間に合うだろうと願っているのだが、最近の若者は実戦経験が少ないからディテールが何処まで理解できるか覚束ないものの、やがては覚え込むだろうと期待はしているのだ。京都(35) 冬景色。 最後に、正月に京都で小学校の同窓生と新年会をもったのをきっかけに冬の京都について縷々述べて来たのだが、これまで自分の撮った冬の京都の写真では足りず、ネットで流れている写真を拝借したので先ずその礼を言っておく。商業用では無く私的なブログ用にアップしただけだし、善意の積りで読者に京都の情報を流す為には少しは役立ったと想っている。尤も、自分の写真を勝手にアップされて嫌な気分の人も居るかも知れない。が、所有者が分からないままネット上に流れているので漂流物のような軽い気持ちでアップしたから読者が読み終えた頃には消去するつもりでいる。これまでにもグーグル・アースでそういう借用の仕方をした事があったから、ほんの僅かな期間ながら容認して貰えるなら有難い。それにしても今年は全国的に雪が多い様である。風邪気味なだけに寒さがこたえる。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!http://ping.blogmura.com/xmlrpc/idjlbau56cwxhttp://www.blogmura.com/help/?type=h&no=12
2012/01/23
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冬の京都(6) 日本の画家が憧れてパリやヨーロッパの各地へ絵の勉強に行った様に、欧米の人々も京都や日本に憧れをもってやって来る。そして明るい欧米の光と違って日本の風景は墨絵そっくりで幻想的だという。雨や雪でも降って居れば浮世絵や墨絵が其処に再現されているともいう。我々日本人も薄暗い雨の日や雪の積もった真っ白な風景を観て墨絵とそっくりなのが存在するのを知っている。知ってはいるが幻想的だとは改めて言われるまでは気が付かない。それぐらい観慣れて何とも感じなくなっているのだ。直ぐ間近にあれば殊更有難味なぞ感じないのが普通の人間である。そういう意味で、バルセローナやマドリードへ行った日本人はそこら中にガウディがあると感じてしまう。ところが、其処にはガウディがデザインする前からそういう風な建物や彫刻が存在していて、ガウディはそういう環境の下で育っただけである。京都(26) 雪化粧の嵐山。 そういう歴史的背景を知らない日本人は単純に感激してガウディを堪能した積りに成る。しかも工事中のサグラダ・ファミリア聖教会の姿を観てガウディの素晴らしさを褒め称える。しかし、あれも最初は別の建築家が造り始めたものを途中からガウディが引き継いだだけのものだ。スペインにはああいう姿かたちの教会が幾らでもあるから珍しくも無く、長年にわたってボランティアで人々が教会づくりに励んでいる事こそ大切な事として人々の尊敬と興味が集まっているのである。宗教とは元来そういうものである、今の日本で言えば新興宗教が矢張りボランティアで巨大で立派な教会が建てられたり信者の寄付金で建てられる事と似ている。人々の想いが一つの結晶になるパワーは古今東西、人々が観て来た事実そのものである。人々の想念が巨大なパワーを発揮するのである。そしてガウディも偉大な建築家として育った一人だった訳だ。京都(27) 金閣寺の雪。 ピカソもそういう意味では偉大な芸術家であった。スペイン出身だからガウディと同じ様な社会環境で育ち、パリに在住する芸術家として、亦フランス人として、丁度日本人の藤田嗣治と同じ様に異邦人芸術家として活躍したのである。簡単に言ってしまえば母国での喰いつめ者がパリで成功し花開いたのである。それは悪口ではない。本人の才能が開いた場所が、たまたまパリであって世界に認められただけの事である。彼等が母国に留まっていれば開花しなかったかも知れないのだ。母国に居られない理由(政治犯的な存在や協会から締め出されたという様々な理由)でパリへ亡命(留学)したからこそ良かったのである。だからこそ日本の画家は挙ってパリへ行ったのだ。明治から昭和の40年代まで滞欧作品という名目で画廊に出しただけで作品が売れに売れたた時代があった。欧米の風景が未だ珍しかった頃の話である。今ではそんな陳腐な作品は売れない。京都(28) 銀閣寺の雪。 ところが島国日本では矢張り欧米は遠く、中高年者にとっては語学力や経済面も含め単独では行き難い処である事には変わり無い。旅行会社のツアーのように団体で行くパック旅行が気楽で良い。しかし、それでは表面的な一面しか観えず、庶民の生活や文化までは理解出来難い。矢張り旅行は観光であっても土地の人々や文化を観なければ面白くも無い。それなのに日本に来る欧米人の殆どは日本語が話せないのである。それで彼等が満足しているかどうかは分からないものの、それなら日本人も同じ事なのに日本人は大陸育ちでないから国境線を越える事に慣れて居ない。税関で質問されてオドオドし訳も無くニッコリと微笑んでしまう。気持ち悪い民族に思われるだけだ。かつてヒッピーの様な若者が金もロクに持たずに海外へ出掛けて行った事があったが、今でも旅慣れた若者は簡単な服装で出掛ける。寒ければ向こうで着る物を買えば良いという気で行くのだ。京都(29) 雪の法念院の茅葺山門。 だから荷物も最初は少ない。帰国する頃の荷物が倍近くにもなる。古く成れば捨てれば良いという発想だから至って気楽なものである。そう言った軽装で行ける癖が付けば語学力も音楽の様に耳に残って気楽に日常会話ぐらいは出来る様になる。要するに難しく考えないで同じ人間だと想えば誰にでも可能な事なのだ。そんな事よりも国際という事を気にするなら、国境の水際(税関)でのやり取りだけが少々面倒なだけで空港の内と外の違いさえ理解して居れば海外の空港も日本の空港も原則は同じだから空港の大小の違いはあっても何処も同じと考えれば良いだけの事である。最近は日本語も世界中に行きわたって来た事もあって、片言の英語と日本語でも通じる。特にアジアは気楽である。台湾、香港、グアム、フィリピンなぞはハワイと同じく日本語でも通じる。欧米も多少バター臭いだけの事で、原則は同じである。京都(30) 南禅寺。 海外旅行の案内をする積りなぞ無かったのに、つい老婆心から詰らない事を書いてしまった。そんな事を気にするよりも目的が観光なのか仕事をするのかで旅行の意味が変わってくるから、心構えも当然違って来る。ところが、昔も今も一度も海外へ出た事の無い人は多く、今の時代、行かなくても充分情報が得られる様になったから、臨場感を味わうだけで行く人も多くなった。それより海外に目を向ける前に国内の事も充分に知らないのに海外旅行の体験を自慢そうに言う人が居る。そういう人は何の為に行ったのか分かっていないのだろう。自慢したさに行くのなら時代感覚がずれている。昔の時代なら分からなくもないが、今の時代、自慢したり相手が行って居ない事を鼻に掛けたりするのを見ると馬鹿かと想う。行ったから偉いのか、行っていないのは馬鹿なのかと言いたくなる。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/22
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冬の京都(5) 清水寺の参道として観光客で賑わう通りの一つに産寧阪(さんねいざか)という階段状の坂がある。友人がこの辺りに住んでいて今では年賀状のやり取りをする程度の付き合いだが、彼は独身時代に三人で一緒に設計事務所をやり掛けていた時の仲間で、模型作りがプロ級の腕前だった。今は建築の仕事から離れて埋蔵文化財の研究をしていて、毎日の犬の散歩に産寧阪を通っているそうである。わざわざ観光客の多い処を通らなくても良さそうなものだが、表通りは車の交通量が多くて危ないらしく、裏通りの方が安全で上り下りが適当な運動量になり格好の散歩コースになっているのだろう。以前はボクもよく此処を通って名物の七味唐辛子を買って帰ったものだった。しかし、地元の人間は観光客の多い処には余り行かないもので、ボクなんか京都を離れて36年になるから一種のお上りさん気分で居られるから気楽なものである。京都(21) 清水(きよみず)の産寧阪風景。 産寧阪を見て独身時代の友人と一緒にやりかけていた設計事務所の事を想い出した。もう一人は京大の大学院を出た優秀な男だったが、惜しいかな経営手腕が無い上に身勝手で、直ぐに切れて喧嘩をするので周りを困らせたものだった。半年ほど一緒にコンペの仕事を二つ三つやっただけで閉鎖してしまったが、コンペには一つ通ったから、その時の経験は無駄では無かった。そしてボクは彼と別れて海外へ修業に行く準備をしていた。ところが、運命の出会いと言うか、急に結婚をする事となり、新婚生活を安定させる為に大手の企業に就職し結婚したことは以前にも書いた通りである。そこで人生の選択肢が替わったのである。それが良かったのか悪かったのか分からないが、後悔はしていない。海外を建築修業して廻った日本の建築家は多いが、西欧建築のモノマネでは詰らないという気が働いたのもあった。京都(22) 詩撰堂の雪。 実際は、欧米の建築を通して西欧文化と西欧科学とを繋ぐキリスト教がベースに成っている思想を学び、建築の真髄についての哲学を学ぶべきだったのだろうが、その当時はそういう気も無く、考えも其処まで及ばず、単なる外面的な模倣では詰らないと想って居た程度だった。ところが、大学の恩師が趣味で手掛ける五重塔に興味を持ち、子供時分から触れ親しんで来た数寄屋にも関心が向き、道元の「正法眼蔵」を知り、利休の「茶の湯」を知るにつけ、自分の進むべき建築の道がおぼろげながら観えて来た事もあって、数寄屋建築の棟梁や寺院建築の棟梁とも交わる様に成り、ようやく建築家としての生き方が決まったのだった。だから結局は海外での建築修業はしなかったものの、同じ事を別の方法で国内でやれたと想って居る。要は、その気に成れば何処に居てもできるものだと言う事が分かったのだ。京都(23) 大原寂光院の雪。 ところで、友人に語学の堪能な男が居て、英、独、仏、中、朝の各国語を自由自在に操れ、ボクも大いに影響を受け、学生時代は海外の観光客相手に彼と一緒にボランティア案内した事があった。だから京都の寺社仏閣をよく廻った事もあり、四季折々の風景にも詳しいのだが、その中でも観光シーズンでは無い冬場の京都の方が印象が強いのは寒さで緊張していたからかも知れない。尤も、白人は日本人よりも寒さには慣れて居るせいか決して「寒い」という言葉は聴かなかった。京都育ちのボクなのに底冷えのする真冬なぞ身体の芯から冷えるので、出来る事なら年中、爽やかな秋の気候の土地で暮らしたいと想ったものだった。秋は快適な気候の割には短く、あっという間に過ぎ去ってしまう儚さとでも言うべき寂しさを伴って居てボクの最も理想とする季節だったから憧れも強かったのだ。それに似た春は逆に嫌いで、夏に向けて蒸し暑く成って行くのが嫌だった。京都(24) 南禅寺の雪。 それは、やがて来るあの夏のムッとむせ返る蒸し暑さを連想させ、本番とも成れば毎日が辟易とさせられるのだった。そのくせボクは6月生まれで、あのじけじけする気持ち悪い気候が嫌で仕方無かった。ひょっとして、その暑さから逃れたくて京都を出たのかも知れない。しかし、行く先々で暑さからは逃れられず、北海道にでも移り住むしか無いと想った事もあったのに、青年時代に工事監理をしていた現場のゼネコン監督から「この工事が終われば北海道で仕事をするのですが、一緒に行ってやりませんか?」と誘われた事があったのを断ってしまった。旅行でこそ一周した事のある土地だったが尻ごみをしてしまったのだ。そんな事ぐらいで怖気づく様では海外へ建築修業に行けないのではないかと危惧したものだったが、欧米人を観光案内している頃は真剣に行きたいと願って居たのだった。京都(25) 冬枯れの桂離宮。 振り返ってみれば、ボクは進取の気概を持ち、常に新しい事を言いながらも案外保守的で臆病者だったのかもしれないと想う。京都の冬を様々な経験で彩った青年時代の事柄や大阪や東京に出て仕事をして来た事柄も全部狭い日本での井の中の蛙でしか無かった。幾ら英語やドイツ語、フランス語を話せても、いざ現地で仕事をするとなると単なる観光旅行の様な訳には行かない事は百も承知だったし、その為の覚悟もし準備もした筈だったのに結局は観光旅行でしか実現しなかった。反対に、大阪事務所の共同経営者であるデザイナーなぞは、マンハッタンのセントラルパーク横にマンションを所有し仕事もして来た実績があるのに、其処では日本国内の仕事ばかりをしていたという。夫々に思惑があったにも拘わらず違う行為になってしまった事を皮肉っぽく笑うよりも、何処で何をしようと考える事は同じ筈であると言える。それなら京都や大阪であろうが、東京やN.Y.であろうが何処ででも同じなのだと自分に言い聞かせ仕事をしても良い。冬の京都を想い浮かべながらそう考えたりする。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/21
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冬の京都(4) つまり、50年以上も経っているのに自分と旧友との人間関係に折り合いが付いていない部分が残っているのかも知れない。とすれば、それが心を悩ませる問題となる。それは長年の年数が勝手に作り上げた虚像かもしれず、それは多分に事実とはかけ離れた各自の勝手な想い込みに過ぎないものの筈だ。自分の人生と相手の人生の価値なぞ比較しようも無いが、仮にどちらかが経済的にも心理的にも優位に立っていると判断するなら、そう判断する心に問題がある事に成る。小説やドラマの主体は人間関係の織成す心的な問題だから、それ以外の事で悩む事なぞ高が知れている。病気や仕事や金の問題でも、其処から人間関係を差し引けば何も残らない。それほど安穏としたものである。如何に人間関係が社会現象の総てを物語っているかが分かる。想い込みの基準は自分の人生そのものだから、人は他人の心の内なぞ見えないのである。京都(16) 雪の大文字山。 だからでも無いが、相手は自分が想う程には案外考えて居ないのかも知れないし、反対に、人に依っては何でも無いと想っている様な事でも重大に考えている場合もあるとも言えよう。価値観が違えば考え方の基準も違うと言う事である。そういう些細な事に依る誤解は、会わなかった期間が長ければ長いほど増幅し大きくなる反面、時間と共に忘却もするものである。しかし久しぶりに再開した途端、突然想い出す事もあるから、スイッチが入るタイミングでお互いの印象が突如変わってしまう。人は年齢と共に疑心暗鬼が強く成り、用心深くもなり、常識だけは身に付けていくだけに事を荒立てる代わりに陰険な噂話に変化して行くものだ。だから人の噂ほど当てに成らないものは無い。尤も、世間には「人の不幸は蜜の味」とする風潮があるから人々の耳目を集めるには充分だ。が、結局は相性が良く、かつて仲が良かった相手なら誤解なぞ直ぐに氷解するのだ。京都(17) 宇治の平等院。 そう考えてみると、疲れる原因は相手との相性が悪いというほどのものかも知れない。そうなれば手の施しようが無く、どう仕様もない事になる。理屈では無いからだ。人間は感情の動物だから理性だけで行動できる人は少ない。単純に好きとか嫌いで相手を分類し自分の心の領域に入らせないなら心から打ち解けた会話は出来ないだろうし、宴会も楽しいものではなくなってしまうだろう。特に仕切り屋的な相手が居れば尚更だ。そういう彼や彼女に合わせてまで付き合う義理も無いと判断すれば宴会(飲み会や同窓会)に出席する必要も無く疲れる事も無い。仮に出席するなら、そういう相手を無視すれば良い事になる。人生はそういう事の積み重ねでしか無いのだろう。大人に成ってしまった以上、子供のように振舞えるのは旧友の前だけの筈なのに、それさえも出来ない窮屈な宴会なら一層の事、理由をつけて欠席する事だ。そうすれば波風は立たない。京都(18) 雪の竜安寺の枯山水庭園。 多分、宴会に欠席する人は熟慮の結果、そういう選択をした人々なのだろう。欠席を知った相手も表面的な理由を素直に受け入れるか、それとも本音が分からないまま淡い期待を抱いて次回に臨む事に成るだろう。余り長く欠席をしては変に想われるとして久しぶりに出席した人は気の合う相手を探し小グループに分かれてしまうだろう。かくして大きな宴会(同窓会)は小グループの宴会(飲み会)やティーパーティーへと変わって行き、気の合う者同士だけの寄り合いに成って行く。が、それも長くは続かないだろう。何故なら、高齢になって一人欠け、二人欠け、結局は自分一人に成ってしまうからだ。60代でこそ半分集まれば良い方で、70代ではその半分になり、80代では更に半分になってしまう。集める幹事役も大変だが、集まる行為すら大変に成ってしまう。90代では殆どの同級生は居なくなってしまい、独り寂しくお茶を飲む事になるのだ。京都(19) 嵯峨野大覚寺の方丈にある枯れ山水庭園。 その点、茶の湯は良い。かなりの高齢になっても集まれる。但し、亭主は準備に追われる。心から迎え入れるには時間的な余裕も居る。季節に依っては料理の内容にも苦心が要る。金にあかせてするものでは無く、招待される側もそれなりの心構えで出席するから緊張感が走る。利休の心を何処まで理解し、茶を喫し、風景を愛で、料理を味わい、亭主の心遣いを知るかは出席者の教養にも依るが、一に心の問題であり、接待する亭主も客の心を掴むだけの余裕を持たねばならない。形式にとらわれる事無く、それでいてそれなりの格式や品格を維持しながら楽しむ会話は大人の会話となる。砕けた単なる宴会も良いが、緊張感の漂う茶の湯も良いものである。命のやり取りをしていた戦国武将の時代の名残を感じつつ現代社会に合った茶の湯を自分流に演出できれば、これほど贅沢な宴会は無いだろう。心から楽しめるものだ。京都(20) 清水寺の産寧坂。 二十年にも前になるだろうか、京都岩倉に住む友人が茶室を作ったので観てくれというので行った事があった。工芸作家の彼とは行きつけのコーヒーショップの常連で、独身時代から何時しか親しく成っていた。その頃たまたま東京虎ノ門でボクが友人を訪ねた帰りに彼と文部省の前で偶然出逢った事も重なり、お互い何か因縁めいたものを感じて親しみを増して行った。茶室を建てたという話はたまたま偶然に知ったのだが、お互い仕事柄、自由時間を持つ身だけに一通り観て建築家の立場で客観的な評価した処、彼は喜んで茶を立ててくれ、その後酒宴になったのだった。彼とは一期一会とでも言うべき出逢いの関係ながら人と人との付き合いとはこういう風な出逢いでも充分に成り立つものだと想った。同窓生とは亦違う肩の凝らない、ジョークも飛ばせる関係での酒宴は雪の降る夕刻になっても続いたのだった。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/20
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冬の京都(3) ボクは京都へ行く度に想う事がある。それは道中の経路によって違う。先ず、車で行く場合、名神高速を通るか、京阪奈高速道路を通るかでも違って来る。つまり、途中の風景で考える事が変わるのである。数学の方程式の様にスタートとなる式に係数を放り込むのが道中の風景である。所要する時間も問題に成るが、景色の変わり様で以前との比較や、この先の未知数に想いを馳せる。すると目的地に近く成ってから振り返ると、同じ京都に到着しても、これからの京都での行動が変わって来る訳である。行きたかった処が別の方面に変わったり、遣りたかった事を変更するのである。大抵は一人か二人で行くが、二人の場合は相手が妻だからボクの京都に対する観方や考え方が違う分、行動も変わってくる。そういう場合はボクはホスト役だから主役では無い。だから一人で行く場合の事を考えると、京都に行く目的内容がその都度変化するという事である。京都(11) 本堂の伽藍。 先述した様に何か心に引っかかる場合や悩み事があるから故郷に行く訳ではないにしても、何か具体的な目的がある場合でも気分転換で行く事には違いは無い。しかし、その気分転換は当然ながら人生の一頁である事には変わりは無く、行く先々で出逢う人々に依っても内容は変わる。そして、時間が来て戻る頃に京都に来て何か心に残る事でもあったろうかと振り返る。車の場合は飲み会は無いが、必ず立ち寄る処がある。それは学生時代から常連で通った中京区のコーヒー・ショップである。その店のガレージに車を留めて、出来れば何時もの席で先ず地元新聞を読みながらコーヒーを飲む。そして京都の近況を知り、興味のあった記事からこれからの行動を決める。京都に着くまでの道中での考えた予定と摺り合わせ、知った人と出逢わなかった場合は、其処へ向かう。其処が観光地である場合もあれば何も無い単なる知っている場所である場合もある。京都(12) 墓地への参道。 それは美術館や画廊や映画館である場合もあるが、大阪で出来る様な事は折角の京都まで来てやる事では無いから、大阪での見逃した映画が上演されていれば優先して観た。それよりも京都ならではの場所だから其処にしか無い風景や寺院や仏閣である場合が多い。車だから簡単に行ける。そして一通り廻って納得出来れば、それだけで満足して帰る事に成る。その点、車は便利である。だが、コーヒー・ショップで常連の知人に出遭ったりすれば時間や計画が変わる。一緒に行動する場合もあり、大概の場合、相手も暇だから相手と一緒の行動は予定外ながら計画変更で臨機応変に行動する。片方の車はガレージに置いたままにしたり、二台で出掛ける事もあれば、近場の場合は二台ともガレージに残す事になる。電車で行った場合は、そういう煩わしい事は無いから相手の車に乗る。そして出先で別れる事もある。駅まで送ってくれる時もあり、そういう時は相手に合わせた行動を取っているから予定の行動は取り止めている。京都(13) 観光名所になっている寺院。 人と会う約束以外に出逢った人の割合というものは一割も無く、独りでの行動が多かったから、当初から考えて居た行動や道中で考えた行動を取るのが普通だった。京都に丸善があった頃は必ず立ち寄って本を物色した。大阪にも丸善はあったが、京都の方が専門書が多かったから自分の専門分野で無くとも興味があれば医学書でも物理学書でも美術や文学や歴史にも手を出した。振り返ってみて、それは冬場が多かったのは京都の四季で一番内にこもり易い季節だったからだろう。夏場はジッとしていても汗が出るぐらい暑いから買い物はせず、春や秋の時候の良い頃は観光地の風景を見て居るだけで気持ちが良いので動き回ったものだった。わざわざ買い物をするからには其処でしか無い物を買い、大阪でも売って居るものは買う気にも成らなかったのは当然で、自宅にある小物類で毎日の様に使って居る物の殆どは京都で買った物ばかりであるのに最近気が付いた。京都(14) 山の静寂。 成る程、我ながら同じパターンを繰り返して居たのには驚いた。行く道中で考え方を変えたり気分で行き先を変更していた割には、結局は無意識の内に取る行動が習慣づいていたのだったに過ぎないのだ。そういう意味では京都は箱庭のように狭いエリアなのだ。精神治療法で箱庭療法というのがあるそうなのだが、患者に何も指示しないで勝手に箱庭で遊ばせておくだけなのだという。それだけで患者の治療に成るというから、ボクも自分で無意識に箱庭療法を自分に施していたのかも知れない。と言う事は、大阪や東京で仕事に行き詰ったり人間関係で上手く行かなかった場合に、京都という心の故郷で何等かの解決方法を見出していたのだろう。10年ほど前に亡くなった京都の友人が、別の友人にボクの事を「彼は京都が懐かしくて度々京都に来て心を癒している」と言って居たそうだが、それを聴いて「馬鹿な!」とボクは笑ったものだった。京都(15) 夕陽の東寺の五重塔。 しかし、考えてみれば「其処に京都があるから行くだけの事で、京都が無ければ行かなかった」と自分では想って居たものの、ひょっとすればそれは間違いで、京都があった事でボクは救われたのかも知れないとも想える様になった。だが、最近では、同窓会や飲み会や新年会を京都で経験して、それらが終わる度に数日間疲れてしまうのだ。それは一体どうしてだろう。それは京都には直接関係の無い事では無いだろうかとも考えられる。それは遠くに在る為の単なる体力的な問題であるのかも知れない。が、ゴルフの方が激しい運動をしているのだから関係がない筈である。となれば人間関係の事になってしまう。懐かしい旧友に会う事が、そんなに疲れる事なのだろうか。それとも方程式の係数の入れ方に問題があるのではないだろうか。様々な事を考えながら、自分と相手との人間関係の折り合いが付いていない部分が自分の側にあるのではないかと想ったりもするのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/19
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冬の京都(2) 故郷であろうが無かろうが京都と言う町はボクにとっては勿論、日本人の心のふる里として愛されている場所である事実は誰も否定できないであろう。その特異な存在性で毎年、内外の多くの観光客が押し寄せる場所でもある。特異な存在性とは言わずと知れた千年の都であった歴史的事実である。特に欧米人は日本の文化と美の原点を其処に見出し、中国人は自分達が失った古代の建築風景を其処に見る事が出来、驚いた事に「心が休まる」と言う。そういう点では奈良も同じ事が言えるが、奈良は京都よりも古いだけに古代としての世界になってしまうので洗練された都の気風が無く、街も東海道から離れて居た関係もあって何処か田舎臭いままである。ボクの住む奈良は奈良でも、奈良市内から遠く離れた南西部の大阪府との県境にある新興都市だから更に田舎臭い処である。住んでいる人の半数以上は大阪からの移住者である。京都(06) 竜安寺とは亦違った雰囲気の枯山水石庭。 ボクの様に京都からの人々も居るが少数派である。それだけ京都からは遠く離れているという事である。因みに、ボクの家から京都へ行く距離と同じだけの距離を南に向かって行けば高野山がある。高野山へ墓参りに行くのは最近では数年に一度になってしまったが、高野山の菩提寺から季節毎の法事の連絡が来るのを見て時間の経つのを速く感じる程度だ。京都の西大谷にもボクの家の墓地があるが、ボクの代で宗旨替えをしたから妹が管理しているだけで、親父は高野山に眠っているから何れ子供の居ない妹の代で京都の墓地は無縁仏になってしまい本願寺の管理寺務所で統合されてしまうだろう。ボクにしてみれば同じ仏教だから宗派が違っても同じだと考えて居て特に違和感は無い。寧ろ、そういう死後の細かい事に拘るよりも現生にこそ極楽を味わい人生を謳歌すべきだと想っている。京都(07) 市内の仕舞た屋風の家並みも変貌して行く。 心のふる里だから心に何か悩み事があれば、その都度出掛けて行って癒されるかと言えば、先ずそういう事は無かったし、普通はそういうものは無いものである。そんな事は誰もが体験する事だろうし、遠く離れて想い返す方が、心の中で自然に癒されて行くものである。そうでも無いと、女々しく故郷へ帰ってぼんやり風景を眺めるというのはテレビや映画のシーンの観過ぎでしか無いだろう。観念的にはそういうシーンは考えられなくも無いが、現実は人間はもっとドライで現実的である。そうでないと世界中の人々が故郷へその都度大移動せねばならないし、交通機関が儲かるだけの話で、観光産業がそれで潤ったという話は聴かない。民族大移動は盆暮れの日本のサラリーマンだけが行う行事に過ぎないのである。車の大渋滞も一種の儀式だからこそ人々は耐えているのである。その為のゲーム機が渋滞の退屈さを紛らわせてくれるだけである。京都(08) 市内の仕舞た屋風の家並みが防火建築の街に変貌して行く。 が、それも運転をしない家族だけの暇つぶしに過ぎない。現実は今居る処が心の拠り所である事に気が付いている筈なのである。しかし人間は理想を願う生き物だから今居る場所は仮初めの場所に過ぎないという幻想に振り廻される。何処其処へ行けば癒されるとか幸せが待っているなぞという幻想を信じて居る馬鹿も居ないだろう。子供が願うからとか親の顔を観ないと義理が立たないという愚にも付かない事を錦の御旗の様にして移動する国民性にボクなんか辟易とする。単身赴任中に毎月の様に東京から帰省していた律義さはボクだけの事だった様で、全国各地から単身赴任していた仲間が「余程、子供や奥さんが可愛いのですネ」と冷やかすのを苦笑いをしながら誤魔化すボクの本音なぞ分かる筈もなく、仕事を離れて旅行し、自宅に着くまでの一時こそ至福の時だったのだ。京都(09) 繁華街の河原町にも高層ビルが建つ様になった。 人生とは旅の連続だとするボクの信念こそ大事にしていただけの事なのだ。それが仮に飛行機であったり新幹線であったりしても楽しめれば何でも良かったのだ。出来れば出張の延長で自宅へ立ち寄る事があれば尚良かった。そういう意味では公私混同的に仕事を楽しんで居たのかも知れない。人間、生きている限り、仕事で時間を浪費するのも私的な事で時間を過ごすのも同じ行動なのだ。それが生きている証でもある。此処からは仕事で、この先は私的な事なのだと切り離したところで、やっている本人は同じなのだ。成果が出ればどの様な方法であってもボクにとっては効率が良ければ同じ事なのだった。多分、忙しい人間や経営者はそういう考え方でやっていたのだと想う。だからこそ疲れる仕事や遊びはボクにとっては効率が悪かっただけの事なのだろう。京都(10) 生まれ育った辺りのビル街も次々と新しいビルに変貌して行く。 飲み会や新年会で楽しい一時を過ごしても、後で振り返って「はて、何が楽しかったのだろう?」というのでは詰らない。良い記憶が残れば宴会も成功なのだが、亦行きたくなる気にさせるにはどうすれば良いか幹事役は大変だろう。ボクなんか太鼓持ちになる気が無いから、そういう心配なぞせず勝手に飲んでいるが、話題の無い相手や口下手な相手を楽しませるには幹事役は上から下まで多岐にわたって話題を多く持たねば務まらない。自分も楽しむには話題が勝手にほとばしり出る位でなければ苦労するだろう。詰りは頭(脳)が要るという事に成り、人生を多く経験していない事には出来ない芸当に成る。そういう意味で忘年会の幹事役は貴重な存在であり有能な社員である。そういう人間が首相になって国を引っ張って行ってくれれば良いのだが、誰かが何とかしてくれるのをジッと待っている様な連中が成るから日本は斜陽化して行くしか無いのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/18
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冬の京都(1) 先日、京都で小学校時代の友人と新年会をした際に、事前に参拝しておいた知恩院の夕景を想い出して、少し京都の静寂を書いてみたくなった。この際の静寂とは精神的なものである。京都も大都市だから都市の雑踏は充分にあるのだが、少し繁華街から離れると嘘の様な静寂に包まれる。そういう静寂さがボクの京都のイメージとして頭に残っている。勿論、嵯峨野の竹林の静寂もあれば三千院の静寂もあるが、そういう風景や環境の静寂とは違った心に染みわたる静寂は多分に精神的なものである。だから冒頭にオ―ギュスト・ロダンの彫刻「考える人」をアップしたのだ。これは有名なダンテの小説「神曲」に啓発されたロダンが「地獄門」を創作した際の上部にある小さな彫刻を拡大したもので世界に七つほどあるそうである。この像は京都国立博物館にあるもので、ボクは小学校時代から眺めて慣れ親しんで居る。京都(1)ロダンの考える人 人気(ひとけ)の無い夕方の知恩院の参道を一人で歩いていて、寂しいと言う気が全くせず、むしろ心が落ち着くのだった。折からの風邪気味の体調不良も手伝って、だるい身体を労る様にゆっくりと歩いていた。この調子だと多分、これからの宴会で酒は飲めないだろうと考えると、むしろその方が酔わずに楽に帰れるだろうと良い様に解釈出来るのだった。しかし結果的には雰囲気に飲まれたのと美味しい酒だったせいで何時もの様に飲んでしまった。お蔭で翌日は二日酔いの気分で終日自宅で養生していた。根が好きなものだから誘惑に負けてしまうのだ。意志が弱いと言えばそれだけの事だが、何も頑張る事も無いと開き直ったのもあった。気楽な旧友を相手に頑張る事も無いのに久しぶりに会うというだけで楽しい気分になったのかも知れない。最近は歳を意識する事が多く、出来る限り老人よりも若い人と接する様にしている。京都(2)知恩院の参道 その方が楽しい気分に成れるからだが、肩の凝らない老人なら大丈夫だろうという気もあった。しかし、50年以上も昔の友人となると長く会わなかっただけに変に気を使う面もあって酒で誤魔化すと言うか、飲まずには居られなかったのもあったのだろう。6人だけの宴会だったが、高校まで同じだった相手が4人居たから50年振りにも成らない相手も居るのに、お互い歳には勝てないのか、若い頃の様には行かない面もあった。それは常識がそうさせるのか、それとも現在のお互いの生活状況が違う点が気を使わせるのか、そういう意味では歳なぞ取りたくないという気にも成るのだ。亦、男と女では同じ事でも感じ方が違うから幾ら色気が無くなったとは言え、それでも枯れ切っていないだけに難しい面もあって、相手の配偶者の事を勝手に想像したり、自分や自分の配偶者と知らない内に比較してしてしまったりするのだ。京都(3)知恩院の山門 この知恩院は東山文化が盛んな頃に出来た寺院の一つなのだろうが、応仁の乱で京都が東軍と西軍とに分かれて内乱状態になっていた時代の貴族の生活ぶりを感じさせる空間を維持している気がする。京都と言う小さな盆地に貴族や寺院が広大な荘園や屋敷や境内を持ち、優雅な生活を送っていたからこそ今もこういう寺院が残っているのであり、この付近には個人や企業の大きな別荘や屋敷が残っているのである。細川別邸や野村別邸(碧雲荘)、松下別邸なぞ1万坪もの敷地に日本庭園が優雅な佇まいでひっそりと静寂を保っている様は大きな目で見れば日本の貴重な宝なのかも知れない。金持ちが維持管理するのも個人の我慾だけでは出来ないものである。後世の為に残してくれていると想えば庶民感覚で観ても嬉しく成るのは建築家の目で観るからだろうか。寺院もそういう意味では広大な敷地が貴重な財産である。京都(4)知恩院の参道 だからこそ人々は京都観光に来て日本の心を取り戻し癒されるのだろう。ボクがたまたま京都に生まれ育ったという貴重な体験が自分の人生で役立っているとするなら親や御先祖に感謝しなければならない処だ。ボクの人生を壊してくれた親ではあったが、良い面もあったと想えば親の責任も半分は生きて来るだろう。青春時代は親を恨んだものだったが、多い起こせば悪い事よりも良い事の方が懐かしく想えるのは歳のせいだろう。その事を自分の家族に当てはめれば、子供には自分の苦労はさせたくないというのが親心としても、結果的には自分の人生と言うものは自分で切り開くものだけに親の事をどうのこうのと言った処で所詮仕方の無い事なのだ。そういうしんみりとした気分に成れるのも冬の京都の特徴である。反対に夏は全くそういう気には成れず唯々暑いだけである。祇園祭の頃の体温と同じ気候の、湿度も80%以上と言う異常さはジッとして居ても汗が流れる。京都(5)知恩院の山門 そういう状況では静寂なぞという静かな雰囲気なぞ感じられず、むしろ新鮮組のテロ集団の熱気や狂気だけしか感じられない。だからこそ無病息災を願って祇園祭が挙行され続けて来たのだろう。そう言えば昨年の祇園祭の殆ど同じメンバーでの飲み会では、ボクは酔っ払ってしまって忘れ物をしたのだった。後日、宅急便で送って貰ったのを半年ぶりに想い出し「迷惑を掛けて、申し訳なかった」と陳謝すれば「いえいえ、女将らしくも無い不手際で申し訳なかった」と返される始末。矢張り夏と冬の雰囲気が全く違う京都ならではの話だ。今年の秋には再び二年毎に開催される小学校の同窓会があるとか。幹事役は地元に住む同窓生の役割と割り切ってやってくれるのを当然のように想っているボクなんか、彼等からすれば五月蝿い同窓生ぐらいにしか想って居ないのだろうが、京都人特有の皮肉まじりの言葉で「出て行かはった人やし、もう他所の人やわ」とでも言うのだろう。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/17
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新年会(3) ボクが京都の花柳界で遊んでいた頃といえば30~40年ほど前の頃で、飲み仲間と言えば地元京都の連中が殆どだった。大阪でサラリーマンになって結婚してからは奈良に住む様になり、飲むのは殆ど大阪になって、京都へは週に一度程度しか行かなくなった。矢張り帰りを気にすると気持ちよく飲んで居られないからだ。ホテルに泊まったり友人の家に泊めてもらう以外は遅くても無理をして自宅に戻る様にしていた。だから飲み仲間も大阪中心になり京都の友人は次第に離れて行った。それが30年以上も経つと京都の風景もガラリと変わって、先斗町も祇園も知らない店の方が多く成ってしまった。新年会をやる先斗町の料亭もボクの記憶にはその頃には無く、数あるお茶屋の一軒だった気がする。歌舞練場の向かいのその料亭には定刻の10分程前に着いた。出て来た和服姿の仲居に案内されて二階座敷に入ると既に先客が一人待って居た。 それは昨年の祇園祭の飲み会で一緒だった男で「痩せたソクラテス」という題で前にブログに書いた事がある、なかなかの秀才で、高校時代は大いに影響されたものだった。暇があるとよく二人で洛北の山を一緒に歩き廻ったりした。雪の降るクリスマスに山小屋の外にわざわざ出て寝袋(シュラフ)に入って夜中話し合った事もあった。そういう風なバンカラ風が我々共通の青春だった。60年安保闘争で大学生に混じってデモにも行った。その頃の高校生にしては進んでいた方だった。今想えば若かったの一言だ。その頃の殆どの生徒がノンポリで、事無かれ主義なのが馬鹿に観えて仕方なかった。言いたい事も言えず何が勉強だと想った。大学受験にばかり気をもんで大事な人生を無為に過ごすなぞ青春では無いと反発していたのだろう。無為に生きるのも一つの生き方であるとは認めたく無かっただけだろう。 人生を長年やって来て酸いも甘いも経験すると、そういう事が分かって来るものだ。しかし、今更そんなことを述懐したところで老人のたわ事に過ぎない。それぞれの時をそれなりに生きて事こそ人生なのだ。そうこうしている内に出席者6名全員が揃った。女性は料亭の女将を含めて二名だった。男ばかりでは殺風景なので幹事役が声を掛けたとの事だった。が、微かに見覚えのある彼女なのに名前が浮かんで来ず、訊けば成る程と想い出した訳だが、実は同じ町内に住んでいたと言われ驚いて記憶をたどったものの、その家の景色が浮かんで来ないのだった。完全にその辺りが欠落しているのだ。詳しく訊けば、両隣りの家が糸屋とパーマ屋だったと言われ、そう言われれば京のしもた屋風の景色がおぼろげながら浮かんで来るのだ。記憶に無いのは、多分一緒に遊ばなかった相手だったのだろう。尤も、遊び仲間は男ばっかりだった。 冗談で「一緒に遊んだ女の子は、自転車屋のH子とその向かいのI子と隣のD子の三人だけだった」と言うと「ああ、Hちゃんと、Iちゃんと、Dちゃんネ。よく覚えているワ」と彼女は応えた。ボクの妹と仲が良かったから男友達以外は妹の友達が遊びに来ていた時に一緒に遊んだのだった。一寸ばかり話を砕けさせたついでに、まま事や女の子だけしかしない遊びなどもやった事を言うと含み笑いをした。その頃から女の子が好きだった様だ。今も事務所の若い男の子よりも女の子の方が話をし易いし年賀状も彼女等からの方が多い。老人になると億面も無く酒も入っている事もあって恥ずかしい事も平気で言える。聴く方も割り引いて笑って居る。痩せたソクラテスなんか高校時代に同じ高校生と同棲まがいの事までやっていたのを言うと「何と、よく覚えているな」と感心する有様だ。そう言えば出席者の女性二人は堅物だった。 それが当たり前の時代だったから驚く事はないのだろうが、時代も変われば変わるものだ。各自が懐かしく想い出話に花を咲かせ、想い想いに言って居る内に時刻は経って行き、河豚懐石も仕上げの雑炊が出れば、そろそろお開きの時間となった。時計を見れば9時だ。大阪ならもう一軒飲みに行きたいところだが、遠いボクの事を想って喫茶店でコーヒーを飲もうと言う事に成って先斗町と木屋町の間にある喫茶店に入った。成る程、女将が勧める店だけあって美味しいコーヒーだった。それでも時間が気にかかってボクだけ先に皆と別れた。これから二時間半ほどの道中を眠り込まない様に注意して帰らねばならないのだ。三条と四条の中間点だったから四条へ向かって早足で歩いた。細い先斗町の石畳を人を縫う様にして行くと矢張り昔とは違ってけばけばしい飲食店が増えているのに気が付く。通路の明りも昔と違って明るいのだ。 もう京都人で無くなっているから今更驚く事でも無いのだが、昔親父に連れられて歩いた和風の町が人通りの多い街に変わって風情というものが消えて行くのが寂しい限りだ。鴨川の床は夏場だけのものだが、それでも残しているだけで風情がある。四条に出ると更に人通りは多く成って速くは歩けなかった。京阪電車は鴨川の土手を走っていたのが30年程前に横を流れて居た疏水の下に地下鉄として走る様に成っていて、特急に乗ってしまえば大阪の天満橋まで30分程だ。そこからJRに乗り換え鶴橋で近鉄に乗り換える。近鉄に乗れば30分ほどで自宅駅に着く。近鉄に乗れば半分帰った気に成る。だからと言って眠ってしまえば乗り過ぎる。こうまでして京都へ飲みに行く価値があるのだろうかと苦笑いをしながら、ふと幹事役が言って居た言葉を想い出していた。「次回の飲み会は、東京でやろうヨ。東京や千葉の連中を一緒に呼んでサ」←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/16
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新年会(2) 折角、新年会で京都へ行くのだからと3時過ぎには家を出、八坂神社に初詣をし今年の運勢を御神籤(おみくじ)を引いて占う事にしようと想った。青年時代に伏見稲荷で御神籤を引いたら「大大吉」という最高のものが出て驚いた事があったが、何もなかった。御神籤なぞ多分に気分的なものだから信じるも信じないも無いのだが、悪いものよりも良いものが出るに越した事は無い。一種のゲン担ぎだから気にする事も無いのに何十年経っても「大大吉」を覚えて居る。ボクは昔からクジ運は良い方で、割合よく当たる。ロト6なら1万円が同時に4本当たった事もある。お遊びだからトータルすれば損の方が多いのに、当たった事ばかりを覚えている。だから今も続くのだろう。年末の福引もよく当たった。クリスマス・パーティーのくじ引きではカメラが当たった事もある。ホテルでの五百名程のパーティーだった。何故か事前に当たる気がしていた。 クジというのは勿論運が左右するものなのに事前に当たる気がする時は必ずと言って良いほど当たる。当たらないと想っている時は当たらない。それなら何時も当たると想えば良いのだろうが、そうは行かない。何か目に見えない赤い糸で繋がっているような気分で「今日は絶対に当たる」という予感がする時があるのである。だから予感がする時は身体全体で空気を感じ取っているのだ。悪いクジの時も感じる。例えば「今日の八坂神社でのクジは、多分凶が出るだろう」と想って居た。5時には八坂神社に着いて、夕闇が迫りつつある参道を歩いて行った。人の出は想ったより少なかった。時間的に遅いからだろう。若い人々ばかりで年配者は殆ど見掛けない。晴れ着姿の若い女性は綺麗だ。華やかさがある。夕闇にポッと浮かんだ晴れ着姿が未だ正月気分を醸し出している。本殿の前では鈴縄に行列が出来て居た。三列あって一番短い後に並んだ。 順番が来るのを待っている間、行列の前の拝んでいる人を観て居ると時間を掛けて念じて居る人や簡単に済ませる人が居る。一分ほど念じて居る女性の背中を観ていて「恋人が出来ます様に」とか「試験に合格しますように」と祈願しているのだろうと勝手に想像してしまう。並んでいる内に祈願の内容を考えておけば良いのにとも想う。時間を掛ければ良いと想って居るのか、人によって掛ける長さが違うのも面白い。そんな事を考えている内にボクの番が来て、賽銭を投げいれ、鈴を鳴らしてから伊勢式の二礼、二拍手、一礼をした。祈願内容は行列に並んでいる時に考えてあるからそれだけで終えた。一番早い参拝者だった。時間を掛けて念じる遣り方はボクは取らないのだ。拝殿の向かいにあるクジ売り場でクジ引いて二百円を渡した。想った通り「凶」だった。昔から八坂神社ではボクは「凶」が出るのが多いのだ。相性が悪いらしい。 それを横に在る小さな神社のクジ結びの紐に結んで参道を戻った。山門から四条通を観降ろすと夕闇が一段と迫っていて車の赤いテール・ライトの行列が出来て居た。新年会の時間まで未だ30分以上ある。四条通を行けば先斗町は直ぐそこだ。早く着き過ぎても仕方ないので散歩でもして時間を潰そうと八坂神社の隣の知恩院へ向かった。もう誰も参る人は居なかった。時々、戻ってくる一団に出逢う程度だった。暫く来ない間に参道が綺麗に整備され、真新しい御影石の幅広い歩道が両側に出来て居た。正月三が日は大勢の人々で混雑した事だろう。時々カメラに風景を収めた。フラッシュが光る度に夕景が浮かんで山門が浮き上がる。京都生まれの京都育ちなのにお上りさん気分に成る。京都を離れて奈良に住む様になって37年に成るから、もう京都人では無い訳だ。年賀状で「もう完全に東京人に成ってしまいましたヨ」と書いていた同窓生も居た。 夫々全国に散って行って会う事も無く、こうして新年会に集まるのは京都の近郊に住む連中ばかりだ。中には昔のまま同じ小学校の学区内に住んでいる連中も居るが、特に会う事も無く、二年に一度の同窓会で顔を合わす程度だ。老人になって小学校の同窓生に会うのが懐かしいと想ったのは数年前に初めて出席した同窓会だった。実に52年ぶりだった。元来、同窓会というのが嫌いで、大学も高校も中学も行かなかった。「自慢のし合いをして何になる」という気が働いたからだ。ところが、年賀状で夫々が仕事をリタイアしたと記してあるのを見ると「会っても良いな」という気に成り始めた。何処の大学を出たとか何処其処の会社に勤めて居るという連中は自慢するネタが無くなったから多分、角が取れただろうと想えたのだ。商売人は親の家業を継いでいる連中が殆どだから別に自慢する事も無く淡々とした好々爺になっていた。 ところが異口同音に孫の自慢をするのには辟易とさせられた。人間、幾つに成っても何かで自慢したがるものの様である。ボクなんか孫どころか息子は結婚すら考えた事も無く恋人も居ないのだ。話が合う訳が無い。せめて酒の飲み合いでもするしかないのだが、その酒も量が落ちてしまった。豪快に梯子をして飲み廻る元気も無くなった。歳を取れば取るほど頑固になって行くだろうし、夫々が我を強く出す様になるだろうから程々の付き合いしか出来なくなってしまうだろう。同窓会が嫌いな訳は自慢のし合い以外に下世話な話が多過ぎるのもある。しかし、そういう事を言い合うのが楽しいという連中も居るのだから世の中広い。そういう事を考えながら三条大橋を渡ると先斗町は直ぐ目の前になった。鴨川の流れを目で追いながら京都の夜景を眺めるのも久しぶりだ。とっぷりと夜の風景になって繁華街は若者が溢れだしていた。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/15
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新年会(1) 今年初めての持病薬を貰いに近所の掛かり付けの医者へ行き、診察室で「先生、今年もどうぞ宜しく」と挨拶すると「やあやあ、これはこれは、おめでとうございます。こちらこそ宜しくお願いしますヨ。◎◎さんは印象強い人だから、今年初めての気はしないけど・・・どうも年賀状を有難うございました」とカルテを観ながら老医師は新年の挨拶を言った。先生からも年賀状は来ているから社交辞令にも聴こえる。「成る程、12月27日に診察していますネ、年末ギリギリだったんだ」と最近会って居ても今年は初めてなのがカルテの記録から分かって一人納得した様だ。先生の今年の年賀状は返信だった。毎年元旦には来ているのだが、年末に「妹が亡くなって喪中の為、新年のご挨拶を失礼します」という案内があったから返事は無いと想って居ただけに先生らしい人柄が出ていると想った。コメントにはボクの年賀状のデザインが褒めてあった。 先生の妹といえば相当な高齢の筈で、先生の白髪漫才の奥さんと変わらない筈だが、遠く離れて暮らしていても親族の喪中にはなるのだろう。高齢になれば親族の高齢者が少なくなるから日頃の付き合いが無くとも心に留める事に成るのだ。尤も、ボクなんか年末の喪中の案内を想い起せば、ボクと妻の両親の四枚だけだった気がする。余り親戚づきあいをしないせいと高齢でも無いから喪中になる相手が居ないだけなのだが、そう言えば20年ほど前に現役の役人だった妻の弟が亡くなった時は喪中の挨拶状を出していたかも知れない。ところが、どうもよく覚えて居ないのだ。その5年ほど前にはボクの父が亡くなっているから葬式が続いただけに出した様にも想うのだが、20年も前の事だから詳細を覚えて居ない。それよりも義弟が役人だったから彼から情報を得て仕事をした事がある或る社長が義弟の亡くなったのを知っても葬式にも来なかったのを覚えている。 礼儀を知らない男だと想った。当然ながらそういう薄情な男だから付き合いは自然消滅になってしまったが、その後、風の便りで男の会社が倒産してしまったのを聞いた。20年の内には様々な事があるものである。矢張り常識を弁えない相手との付き合いは消えて行くものだ。そういう意味で仕事を離れて行く程に年賀状の数は減って行く。だから同窓生や古い友人に混じって仕事での付き合いがあったものの、もう20年以上も会わない相手との賀状の交信は考えものである。相手も余程の印象が無い限り、年末になって躊躇っていると想うのである。社交辞令は長く続くものではない。そういう事を推し量るのも常識なのかも知れない。だから来年からは大幅に削ってしまおうかとも考えている。貰ったものの義理で出す返信なぞ良い気がしないものだ。気分もそうだが、手間も面倒である。 それとは打って変わって新年会は古い友人ほど良いものである。診察中の先生との雑談で「明日の休みは京都で新年会です」と言うと「京都で新年会ですか、良いですネ」と身を乗り出して「ボクも床(ゆか)に行った事があるけど、良いものですネ」と言う。床とは、夏場だけ、鴨川沿いの先斗町(ぽんとちょう)に建つ料亭の座敷から川辺に張り出した和風ベランダの事で、料理や酒を楽しむ京都の名所の一つになっている。「床ですか、まあ、気分的なものですネ。暑い盛りですから気分転換には成りますが、その代わり帰りが大変です」「そうなんですヨ。電車で遠い大阪まで出て、更に奈良に帰るんだから・・・」「ボクなんか、泊まりになれば眠れないタイプなのに、以前は京都で飲めば泊まっていたんんですが、最近では疲れてしまうから泊まらない事にしていますヨ」とかつてのホテルを想い出しながら言った。 自宅まで京都から電車で2時間半は掛かる。だから9時には出ないと終電ギリギリになってしまう。友人は泊まって行けと言ってくれるが、翌日の疲れと虚脱感を考えると無理をしてでも電車で帰った方が楽なのだ。明日の新年会も先斗町の料亭であるのだが、メンバーは小学校の同窓生数名である。同窓生の一人が女将をする高級料亭なのだが、数年前の同窓会でそれを知って昨年の夏の祇園祭には飲み会をした事があった。そう言えば珍しく酔って、ハンティングと買い物の紙袋を忘れて後日送って貰った事があった。あの程度の酒で酔うなぞ歳のせいだとメールで笑いあったものだが、京都で飲む場合はそれなりに気を引き締めて掛からないと同じ事を繰り返さないとも限らない。故郷と言うだけで気が緩むのか、それとも50年以上も昔の同窓生と飲んだからかも知れない。大阪なら酔ってもタクシーで帰れる近場の安心感があるが、京都は遠い。 それよりも酒は気分的なものが大きく影響する。酔うとか酔わないというのは体調にも依るが、気の置けない友人だとどうしても気が緩むものだ。だからこそ美味い酒になるのだろうが、そろそろ歳を考えて飲まないと後で気まずい想いをする事になる。最近は大阪でも飲む事が少なく成った。年賀状で久しく会わない友人が「今年こそは会いたい」と書いて来ると、じゃあ大阪で一杯やろうかという気にも成るが、出来れば昼間の方が良いだろう。まさか深夜にまでは成らないだろうという安心感がある。そういう事を考えるだけでも歳のせいなのだろう。とは言え、まさか自宅で飲むのは家の者が困るだろう。相手の家でも同じだ。だから外で飲むのだが、中間点なら良いかと言えばそうでもない。中間点は郊外の田舎だからロクな店しか無いのだ。という事になれば矢張り大阪と言う事に成る。京都だって40分ほど先の処だと想えば神戸も京都も同じ程の距離なのに奈良からでは流石に遠い気がするのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/14
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新しい年のココ(2) 冬場、目覚めるとボクのする事は先ずトイレに立つ事とココに餌をやる事、それにコップ一杯の水を飲む事だ。その三つは毎日欠かさずやっている。ココが来る8年前まではそういう事は一切しなかった。トイレへは行きたく成れば行く程度で必ず毎朝という訳でも無く、コップ一杯の水も昨夜の酒の量で飲んだり飲まなかったりだった。ココが来てから生活のリズムが変わった訳である。その代わり、毎朝のウォーキングを始めたのは4年前に止めた。そのせいかどうか分からないのだが、無理が祟ったらしく突発性難聴になってしまったからだ。毎朝5時に起きてココの餌をやってからウォーキングに出ていた。雨の日は中止していたが、雪が降る日でも出ていた。それまで5時に起きるなぞ考えられなかった事だった。ココに起こされる様になって癖が付いたのだった。脳内モルヒネが出て、歩くのが気持ちよくなっていたのもあった。ココ 6(パソコンから降りてガラス戸の開くのを待っている) 歩く距離は1万歩が目安だったが、裏山の明神山に登って、向こう側の王子町へ降り、山裾の田園風景を観ながら廻って帰って来るのだった。1万歩は約7km程になる。日に依っては2万歩の時もあった。そういう時は少々遠出になるので電車に乗って帰って来た。当然、帰宅時間が遅く成るので携帯でその都度妻に知らせていた。帰宅すると風呂に入って汗を流す。その繰り返しが当たり前になっていたが、妻に言わせればボクのクタクタの顔を観て「大丈夫かしら?」と内心心配していたという。ボクにすればドーパミンが出て気分がハイになるから疲れよりも気持ちよく過ごしていた積りだった。ところが、ある日、湯上り際に耳の調子がおかしいので耳抜きをして空気を送った途端、鼓膜が破れる音と共にドクドクと内耳に液体が流れる音がして左耳が全く聴こえなくなった。と同時に平衡感覚がマヒして立っていられなくなった。ココ 7(もうそろそろ開けてくれても良さそうなものなのに) そのままソファに横になって安静にして寝て居て、暫くしてから近所の掛かり付けの先生の処へ行った。先生は原因が分からず、県立病院への紹介状を書いてくれただけだった。そして治療を始めたのだったが、藪医者ばかりなのか日本の耳鼻咽喉科のレベルが低いのか原因も治療方法も分からず手探りで薬を飲んだり検査の繰り返しだった。ひと月ほど通ったが、県立病院は駄目と判断して、私立の大病院に代え再度治療を受けた結果、半年程して聴力は中音を除いて高音と低音だけは半分程聴こえる様になったものの、肝心の人の話し声(中音)が聴こえないまま「もう、これ以上は現代の医療では治りません」と医師に宣告されて治療を終え、今年で4年目になるが、耳の調子は今も変わらず同じ状態である。半分でも回復しただけマシと想って諦めて居るが、会議の声が聴きとり難くて不自由する。会議のある仕事はもう諦めようかと想ったしている。ココ 8(陽射しがあるので温かいから辛抱して待って居ようか) その点、ココは非常に耳が良く、遠くの家族の歩く音や道路の音に敏感に反応する。動物は人間の百倍も千倍も五感が発達しているから当然の事なのだろうが羨ましい。しかし聴こえ過ぎたり臭いを嗅ぎ過ぎる能力もあり過ぎると困るのではないかと想う。何でも過ぎると疲れるからだ。人間には人間の能力の限界があって、それでバランス良くなって居るのだろうし、動物は動物で人間とは違う身の守り方があるのだからそれで良いのだろう。SF映画の超人間や超ハイテク・ロボットに観る様な能力は現実社会には不必要なものだからマンガの世界だけで充分なのである。しかし、身体に障害を持てば普通の生活が営めるように補助器具を使うのは科学の発達のお蔭だから日進月歩で益々便利な物が出来て行くのだろう。特に医療器具(外科手術)では目を見張るものがある。ココ 9(ガラス戸が開くまで退屈だから隣室でお八つをねだって待っている) 昨年、ゴルフの月例会で同じ組で回った人が、途中で胸を押さえ苦しそうにしているので中座して心配して見守った事があったが、昼食時に訊けば「心臓の周りの血管にカテーテルでスパイラルを二か所入れている。それで血管を広げているのだ」との事だった。「スパイラルは三ヶ所が限度だそうで、それ以上は死ぬらしい」とシャアシャアと平気な顔をして言うので背筋に冷たいものを感じゾッとしたが、今の医学はそういう事まで出来るのだ。そこまでしてゴルフをやるかと想うのだが、ボクより二つ年上で未だ若い積りなのだろう。が、夏の暑い盛りなぞはプレイ中に倒れるのではないかと想う。多分、今年辺り危ないのではないかと想ったりしたものだった。多分それでも好きなものは止められないのだろうが、傍迷惑なもので、少しは周りの事も考えてプレイして貰いたいものである。ココ 10(抱っこなぞしてくれなくても良いのに、お八つが欲しいのヨ) 仮にボクがそういう立場だったらゴルフなぞ直ぐに止めるだろうし、楽しんでこそ遊びでありスポーツである。高が遊びに命まで賭けるかと想うが、仮に寿命を知って最後まで楽しみたいと想うのなら覚悟は出来ているのだろう。人は好きな事をして死ねば幸せと言うが、そういう意味では登山もそうだろうし、役者が舞台で死ぬのもそういう意味を含んでいるのだろう。人間、一寸先は闇と言うから心配ばかりしていては何も出来ないのかも知れない。天が落ちて来るかと心配し過ぎて眠れなかった人が中国に居たそうだが、笑って居られないのが現実社会である。そういう点ではココは心得たもので、毎朝確実に餌を貰えるボクの傍に居て、5時ごろから辛抱強く待っている。その代わり食べてしまえばケロリと忘れて外へ遊びに出る。そして腹が減れば亦戻ってくる。それを「よしよし腹が減ったか」と快く迎え入れてくれる親分が居るのだから安心この上無しである。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/13
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新しい年のココ(1) 久しぶりのココの登場である。新しい年が明けたからと言って別段変わった事も無く、唯々、食欲旺盛なだけで、喰っちゃ外へ出、腹が減れば戻って来て食べる、それだけの毎日である。たまたま正月は御馳走が多かったからご相伴にあずかったせいで口が驕ってしまったが、十日も過ぎると日頃の餌やお八つに戻って、今では黙々と食べるだけで美味しいとも不味いとも言わず何が楽しみで生きて居るのだろうかと想わせる。しかし、そんな我々の気掛かりなぞ気にもせず、朝は5時にツナ缶の朝飯を食べ、昼には昼のお八つのカリカリを食べ、3時頃には夕飯のツナ缶、6時頃には二回目のお八つ、そして、9時頃にも晩のデザートとして煮干し雑魚を食べ、11時には寝る前の軽食のカリカリを食べてボクのベッドに向かって独りで上がって行く。この頃は唯我独尊で人の顔色を観ず、自分の想い通りに行動するだけである。ココ 1(パソコンに乗って外へ出たい合図をする) そのくせ外から家に入りたいと思うと、妻に大きな声で「ニャア、ニャア!」とドアやガラス戸の外で啼くという。余り大きな声で啼くので近所の手前恰好が悪いからとサッサと開けてやるのだそうだ。ボクには大きな声を出さず、書斎のガラス戸の外でジッとボクと視線が合うまで我慢して待っている。矢張り親分には気を使っているのだ。自分は二番目の立場で、妻は三番目、息子は四番目の位置づけをしていて二人は家来のようなものだ。だから息子の部屋に夜中でも入って「ニャア!(腹が減った!)」と啼いて起こしに掛かるのだそうだ。五月蝿いからなのか仕方が無いからなのか兎に角黙らせる為に一匙分のカリカリを与えると満足してボクの部屋に戻って行く。そんな話を妻に愚痴っているらしく、半分嬉しそうにもしているのでまんざらでも無い様なのだ。親しげに自分に懐いてくれるのが嬉しいのだろう。ココ 2(パソコンに乗ったら、次に外へ出るガラス戸を観る) 「そんなに五月蝿いのなら引戸につっかい棒でもして入れない様にしておけば?」と妻が言うと「いや、可哀想だから・・・」と言葉を濁す。入って来てベランダから外へ出たい時も「にゃあ!(出して頂戴!)」と啼き、外から部屋に入りたい時にはベッド上の高窓の外と同じ高さの棟瓦の上に乗って矢張り大きな声で「ニャアニャア!(早く入れてヨ!)」と啼くそうだ。近所に響き渡る様な大きな声を出す事を覚えたのだろう。家来には大きな啼き声で命令をするものと心得ているのだ。ボクには啼かないからどの程度の大きな声なのか分からないが、多分、隣家の犬(パピヨンとミニ・ダックス)の啼き声と変わらない位なのだろう。そう言えば、隣家のモモ(アメリカン・ショートヘア)は啼かなくなった。もう60歳以上の老婆猫だから声も出ないのだろう。12年以上も飼われているのだ。ココ 3(ボクが直ぐにガラス戸を明けないのですねている) 猫の寿命は精々20年以内だから1年を5歳とすれば100歳にもなる勘定である。ココは今年で7年目に入るから30~35歳になる。その頃は人間でも中年盛りの生意気な頃である。避妊手術を施してあるので色気は無いが綺麗な猫に成った。配達の人が頭を撫でて「可愛いネ」と言ってくれるのが嬉しい様で、そういう相手には身体ごと擦り寄って行く。自分を可愛がってくれたり猫好きの人が本能的に分かるのだ。ボクがココを受取りに行った出逢いの時、ボクの膝にチョコンと乗って大人しくしていたので元の飼い主が驚いて「まあ、この子ったら何時もの様に暴れ無いワ」と感心していたものだった。ボクが新しいご主人と分かったのだろうか。しかし、大阪から車で自宅までの道中は啼いて困った。駕籠の中で余りにも啼くので可哀想になって出してやっると車の中を行ったり来たりして運転の邪魔になるので膝に抱えて片手で運転した。ココ 4(すねた顔のココ) 高速道路もそうだった。30分ほどして高速を降り、自宅に着くとやっと大人しく成って家の中でクンクンと臭いを嗅いで廻った。此処が新しい住み家になると想ったのだろう。成れる迄家の中ばかりだったが、その内に庭に出してやると芝生に怖々脚を踏み入れて歩いていた。それ以来、外が好きになったのか家の中ばかりだと暴れて妻にまで飛びかかって外へ出たがった。已む無く出してみると家の敷地からは出ず、家の周りの庭を徘徊して自分のテリトリーを確認していた。そこへモモが現れ、モモも新参者に興味があるらしく一緒に行動する様になった。それが一年ほど続いて、二年目位から別行動を取る様になり身体の大きさもモモと同じか少し大きく成って立場が逆転したのだった。自分のテリトリーにモモが入って来るのを怒るようになったのだ。それで当初の目論見であったモモの対抗馬と成って庭が荒らされ無くなった。ココ 5(もう少しすれば開けてくれるだろうと期待して待っている) 中年の猫になったココは怖いもの知らずで、近所の家々を殆ど自分のテリトリーにして他所者を近づけない様にしている。だから野良ネコや飼いネコを見掛ける事が殆ど無い。精々モモがたまに隣家との境界線辺りをウロウロしているのを見掛ける程度で、かつてボクに噛みついた勢いはもう無い。ココが来てから形勢が変わってしまったので隣家の敷地内で大人しくする毎日である。そうなると少しばかり可哀想な気もするが、躾が為されていない猫だけに庭に糞をして廻った事を想い出すに連れ今の状態がベストと割り切っている。当然ながら猫好きな隣家の奥さんがココを抱きかかえ様とするとスルリと逃げるので妻に「なかなか懐いてくれないのヨ」と愚痴っていたが「我が家でもそうなのヨ。抱っこしても精々1~2分で逃げるの」と妻は気を使って返したそうだが、その1~2分でも奥さんは抱っこしたいのだろう。確かにフワフワした体毛は柔らかで気持ちが良い。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/12
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新しい年に向けて(10) 正月も10日が過ぎればそろそろ、正月気分も覚めて来る。今日は十日戎の日だ。子供時分、親父に連れられてお参りに行ったのを想い出す。商売繁盛の神様という事で、無神論者の親父も戎という海の神様にあやかろうとしたのだろう。戎さんというのは釣りざおに鯛という縁起の良いスタイルだから目出度い神様としたのだろうが、ボクは神様より縁日に出ている屋台の菓子に興味があったから黙って付いて行っただけだった。宵戎とか十日戎、残り戎と三日間の祭りは京都の町の寒い頃で、曇っていて霙(みぞれ)でも降れば震えあがったものだった。ボクの記憶では親父が十日戎なんかに参るというのは商売が上手く行っていない時か暇を持て余している時で機嫌が悪かったから一緒に行くのはそれ程嬉しくも無く、屋台の菓子を買ってくれるのが無ければ一緒に行かなかっただろう。 親父にすれば何とか景気を付けたかったのだろうが、一人で行くには照れくさく子供でも連れて行く事で格好を付けて居たのだ。それなら連れて貰って単純に喜ぶ妹でも良かったのだろうが、混雑する雑踏に小さな女の子では余計に気を使う心配もあってボクが適当だっただけなのだろう。要するにシャイな親父のダシに使われただけだったから子供のボクでも、その辺りの空気は読めていたのだ。街の子はそういう面では大人顔負けの考えが発達しているものだ。友達の中にはボクよりももっとはしっこい連中が居て、親父に連れられて行くボクを観てニヤニヤとしていた。それは自分が親に連れて貰えないやっかみを含みながらの半分からかいの意味もあった。目で分かるのだった。しかし、一旦出てしまえば、祇園の縄手にある戎神社は歌舞伎の南座の横を南に下る処だけに賑わいの雰囲気があり華やかだった。 華やかさは「ほえ駕籠」という駕籠に芸者が乗って10人程が街中を練り廻る祭りがあって、十日戎の前夜祭の様なものだった。それを子供心にも華やかで綺麗なものと眺めたものだった。矢張り親父が花柳界で飲み回り、そういう雰囲気を眺めて育っただけに芸者が綺麗に観えたのだろう。青年に成って大阪の設計事務所に勤め出してから大阪にも「ほえ駕籠」の祭りがあるのを知った。考えてみれば京都よりも大阪の方が規模的にも商業の街として栄えていたから大阪の方が先にあった祭りだったのかも知れない。しかし、京都という千年の都があった場所は独特の大人の街として出来上がった処だけに花柳界も発達していたから京都が本場だと想えるのだった。ところが戦後は東京一極集中の経済体制になってしまって、特にオリンピックを境にその傾向は顕著に成って行った。 だから東京に単身赴任していた頃、東京の空気に馴染み始めると東京に住む俄か江戸っ子連中が「京都?良い処ネ」と言いながらも「大阪?何だ、地方ネ」と馬鹿にした様な言い方に腹が立ったものだった。「自分達こそ田舎者の集まりのくせに何が都会人ぶっているのだ」と心の中で笑ったものだ。東京の成功者の殆どが関西出身者で占めている現実を知らず、たまたま親が東京に出て来て住んでいるだけで自分が首都の人間だと勘違いしているのがおかしかった。せめて三代住み続けていないと江戸っ子とは言わず、それも山手線の内側が周辺に住んでこそ江戸っ子と呼ばれるのに、世田谷や杉並でも郊外に近い処に住んで居ても江戸っ子と想っているお目出度い連中が意外に多いのだ。だから田舎者の集まりと呼ばれる由縁で、江戸の文化は関西の流れ着いたものでしか無いのだ。その証拠に関西を上方と言う。 文化は西から東へと流れて行き、一時は鎌倉や奥州平泉にも都の御旅所があったにせよ京都が中心だったからこそ幕末や明治維新で京都への反発が起き、一極集中の基盤が出来て行っただけの事なのだ。ところが、戦後も60年以上経って、いよいよ一極集中の弊害が出始め、日本経済も政治も機能しなくなってしまった。かつての官僚政治が上手く機能した時代は古い体質になってしまい、更には世界不況の波が東京にも襲い始め、かつてのバブル時とは別の意味で過酷な円高になって政府や日銀はオロオロするばかりなのだ。悪い時には悪い事が重なるもので、東北大震災が襲い、福島原発がメルトダウンしてしまって首都圏は被爆都市になってしまった。過小評価する事で何とか関東の人間を騙しつつ政府は必死に鎮静化を狙っているが、真実は隠しおおせず人々は次第に疑念の目を政府に向け出して、その輪は広がりつつある。 新年度に向けて想う事は、一日も早く日本経済が安定する事である。その為には今の政府では対応しきれない分、野党も付和雷同せず強い信念をもって前向きに取り組む事だ。官僚は古い体質の既得権を守る事ばかりを考えず何とか国難を乗り越える策を若い官僚の手を借りてでも練るべきである。その為には国会議員の定員を減らす事も真剣に考え実施するべきだ。それでこそ国民は国会議員の方を観る様に成るだろう。税金ドロボーと想われている内は何をやっても信用されない。それなのに消費税を上げる事ばかりしか頭が無いから国民からソッポを向かれるのだ。国民の目を意識するなら国民の目線で考えるべきだ。誰の為の国家なのか一寸考えれば子供でも分かる理屈だ。国民があってこその国家なのだ。不遜にも国家があるから、政府があるから国民が居られると想っている国会議員や官僚は死ぬしか無い。それが新しい年に向けてのボクのメッセージである。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/11
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新しい年に向けて(9) 正月早々、愚痴を並べても仕方ないが、新年の抱負を述べるにはどうしても現状を把握し、その上に立脚した上で希望を述べないと意味を為さない。つまり嫌でも悪い点を列記してしまわねばならないのだ。が、何だかんだと言っても、改革や何か新しい事を希望するにしても、今の政府や官・学・財界のモラルが、これ以上落ちる処まで落ちて足かせに成っている以上、古い体質に染まり切っている老練な学者や政治家や官僚を若返りさせようとリハビリをした処で到底無理で期待したところで高が知れている。が、その中で望めるのは未だ汚れ切って居ない優秀な若い人材である。彼等の活躍に期待せざるを得ないのだ。その為には彼等が動きやすい環境を作ってやる必要がある。時間が掛かるが、その方が結局は早い。急がば廻れである。我々市民の役割は、見詰め、批判し、時には褒め、育て上げる事である。彼等は貴重な卵であると期待して使うのだ。 若者は反応が速い。即戦力になる。間違いを正すに時間を要しない。亦、発想も斬新だ。それだけに権力を手にすれば大胆な施策も大ナタで切り廻り采配するだろう。時には行き過ぎもあるかも知れない。しかし、それも若さゆえの暴走に過ぎない。我々はそれを是正させ軌道修正させながら応援し押し進めて行くべきだろう。少々の暴走や行き過ぎも経験をする内に学習し本来の軌道に乗り正道を行く様に成るだろう。誰の為の軌道であり正道であるか分かって公僕としての役割を果たしてくれるだろう。国民がパトロンであり監督者である事を忘れず一所懸命に使命を果たせば国は自ずから栄える処となる。そしてやがては世界のリーダーに成れるだろう。しかしながら、この考えは、かつてヨーロッパで流行った思想・ニヒリズムの裏返しに過ぎない。「神は死んだ」とする二―チェの永劫回帰における超人なぞ存在しないとするのがボクの考え方である。 その考え方は何も今始まったものではない。結婚直前の39年ほど前にはボクはニヒリストそのものだった。結婚を目前にして薔薇色の将来を描くのが普通の若者なのに、ボクは覚めていたのだった。貧しかった学生時代を想い返し、如何に金を稼いで裕福な生活をするかという事だけを考え、就職したのだったが、単なるサラリーマンでは夢は達成できないと悟り、早々に辞め、友人と共同で建築設計事務所を開いた頃だった。そして幸いにも室町に呉服問屋のビルを設計する事が出来、建築家に成るのは金儲けの手段では無いにしても世の中が高度成長期に差し掛かっていた事もあって自分の夢の目標がが同時に達成されれば良いと考えていたのだった。そして金も少しは出来、海外へ建築修業に出る事が第一歩と考え準備していた。ところが、友人の紹介で知った相手と急に結婚をする事になって人生は変わり始めた。 恋愛は理屈では無く感情の分野である。理屈で考えた末の結婚は多少は恋愛感情が入ったとしても政略結婚と言える。感情よりも計算(理屈)に依る政略結婚をするなぞ非人間的な行為だと馬鹿にしつつも、それも現実社会の一面だと認めて来たニヒリストだったボクが、意外にも感情で自分の人生の進路を変えるなぞ考えられない事だった。第一、海外へ建築修業に出るには結婚なぞ出来ないのは当然だ。それなのに結婚は矛盾する。その矛盾を矛盾とせず結婚に走ったのは、海外での建築修業だけが唯一の選択肢ではなく、現実社会を生きるには結婚もあるだろうし他にも建築修業の方法もあるだろうと考え方を変えたからだった。しかし現実的には難しい問題だった。自分一人だけの生活では無く、結婚は相手を巻き込む。相手の親からは結婚の基礎となる社会的地位や経済性を示せと要求され大いに迷ったものだった。 ニヒリストだったボクに妻を紹介した友人もニヒリストだった。お互い、社会人になって居るのに世間を見返してやろうと学生時代の延長のような青臭い思想で京都の花柳界を飲み回っていたのだった。結論的には、ボクも友人も大企業に就職し、結婚し、子供が出来、それなりの地位を得、それなりの一家を構え、会社を辞め、独立した後も何やかやと仕事に関わりを持ちながら今では60代後半の老人に成ってしまっただけの話だ。世間を見返せたかどうか判定し難いものの、往年のニヒリストは半分現実主義の皮肉屋に成っただけの事であったのかも知れない。覚めた目で観る癖は今もお互いなおらないものの、それで人生を満足しつつ痛快であったかどうか未だ結論が出せないだけで、これから先、人の為に成る事で何か世間をアッと言わせる事でも出来るかどうか少しは期待を持っているだけなのだ。その一つの表れが若い世代に期待し支援する事も含まれる。 「大阪維新の会」の橋下市長にもそれを期待している。地元奈良でもそういう動きが出て来て、昨年辺りから県会議員が参加呼び掛けの手紙を送って来る。今朝のポストには第3回目の手紙が入っていて現状の政治に飽き飽きした市民が寄り集まってタウンミーティングを始めているという。その他の有料メールのニュース解説では、日米のマスコミに依る今年のユーロ体制の大方の悲観的観方に反して、逆に明るい見通しとドル体制の凋落を伝えている。ユーロ体制の崩壊を願うニュースばかり伝える日米のマスコミが如何に偏っているかが分かる。その証拠に金相場の変動の裏の理由も観えて来るのだ。中国では大衆に金を保有させ中国元の価値を高めさせ、日本国内では円が高騰し金も下落し投資家を一喜一憂させている。今年も新年早々マスコミに踊らされる国民が滑稽に観えて来る。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/10
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新しい年に向けて(8) 自治会連合の会議の席で教育委員会が恥をかかされた一件で、ボクのの住む小学校の校長と教頭が1年で交替になってしまった。翌年、年度初めに矢張り校長とPTA会長が拙宅に着任の挨拶に来られたのでそれを知ったのだが、ボクが変な質問をしたせいでそうなってしまって気の毒な気がした。新任の校長は女性だった。ハキハキと明瞭に話をする人で、多分これでPTAと老人会のボランティアによる子供見守り隊は上手く運営できるのではないかと想えた。更に驚いたのは、これまで来なかった中学校の校長までが着任の挨拶があった事だった。余程、教育委員会の方で噂になった様だった。他には市の教育委員会とは全く無関係なのに私立の高校の校長と教頭が拙宅に来たのだった。そして或る提案をしたのだった。「これまでボランティアで行って居た英会話教室を中止させて欲しい」というものだった。 ボランティアの英会話教室というのは「高校の生徒が住宅地内を登下校する事で大変ご迷惑をお掛けしている事への返礼として、外国人による講師を集会所に週一度通わせて、希望者に英会話を提供する」というものであった。それを急に中止したい理由を訊けば「大阪府の私立高校への予算が一律10%カットになりましたので経費節減でやむを得ない処置とお考え下さい」と言う。英会話教室には10名足らずの希望者が集まっていて事前に了承を得ていると言う。自治会の文化活動担当役員も同席していたので確認すると「然り」という返事。「それなら仕方ありませんネ」とボクは了承したのだったが「受講者の希望で、仮に講師のアルバイト料を負担すれば英会話教室の存続は可能ですか?」と訊くと可能だという返事だった。そこで文化活動担当役員にその旨を受講者に伝える様に指示して話し合いは終えた。 平身低頭の姿勢だった高校側を送り出してボクは少々気まずい気持ちになっていた。ボランティア活動一つするにしても様々な問題が生じるもので、個人の考え方だけでは想う様にならない事も心に引っ掛かった。老人会の考え方や学校側の方針、更には世の中の動きに連動していて、良いと想われる事でも単なる好意からでは成り立たない事が複雑な気にさせるのだった。そこには心の問題以外に経済問題も絡むのだ。後日、英会話教室は受講者内で話し合いが為され、講師のアルバイト料を負担する事で従来と同じく続ける事になったと報告があった。高校の自治会へのボランティア活動が自治会の英会話同好会の自主運営に切り替わったのだ。受講者の中には老人会のメンバーも数人居ると言う。幾つに成っても向上心はあるものだ。それが惚け防止にも成るのなら微笑ましい。ボランティアの良い面が現れて嬉しい気持ちになった。 ボランティアについては日本において先の阪神大震災が世の中に浸透するきっかけに成ったばかりで未だ日が浅い。宗教的なボランティアは古くからあったが、一般社会で自発的にその精神が根付いて行ったのは精々、生徒や学生が孤児院や老人施設に慰労に行くのが関の山だった。それが一般社会に自発的に発生したのが先の阪神大震災だった。更には「人の難儀を見て我が事の様に想え」と考えたのか、兵庫県に本部のある日本有数のの893組織である◆◆組がその気に成って焚き出しをしたり地域住民への労働奉仕をしたのだった。それで◆◆組への世間の評価が少しでも変わった訳でもなかったが、彼等も同じ人間である事が証明された程度にしても昔の任侠の世界を想い出させるには充分だった。清水の次郎長親分ではないが昔の任侠伝に出て来る国定忠治のように情念の世界では人々の意識の片隅に生きてはいても893は別物なのだ。 893は、今時流行らず人々から毛嫌いされている存在である。言わば社会の闇の世界の人間が表舞台に出過ぎた為に最近の法改正もあって強気に成った警察も取り締まりを厳しくし出し、人気お笑いタレントであった◆助という司会者が引退宣言をする迄になった。ところが、893を使って手に入れた大阪の繁華街の一等地に飲食店を派手に経営していたのが、そのせいで倒産し、経済的に困窮したのか、所属していた芸能タレント会社の社長を脅したのかゆすったのか知らないが、わざわざ動かして復帰運動をさせるという恥知らずな事を始めたのだ。世間は薄々は芸能人が893と繋がりを持っているのを知っていても、それは常識の範囲内での社会の表には出ない小さな事程度のものだった。しかし、893もこの不況には勝てず、生き残りを掛けて金儲けを企む事となり、頭の良い893だけがマネー・ゲームで稼ぐ処となる。 頭の悪い893は芸能界の用心棒程度でしか稼げない。そういう意味では政治家も賢い893同様マネー・ゲームに奔走する。全部が全部とは言わないが、大方の政治家はそれに近い事を立場を使用して情報を得て行っている。そうでないと莫大な金を貯め込む事が出来る訳が無い。昔の政商と呼ばれた連中はロスチャイルドと同じやり方(金融業および経済顧問)で政界に入り、裏で操作をし、戦争を仕掛け、武器商人にも成り、金儲けをして来た。その見返りを政治家は受け、彼等も潤って一種のコラボレーションは成功して来たのだった。今の日本では震災特需で政治家は目の色が変わっている事だろう。福島原発事故で原発特需は下火になったので舞台を替えたのだ。何処までも彼等は国民を喰い物にする。何故なら税金こそが金の成る木だからである。1億数千万人の税金は潤沢な金の成る木に他ならないのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/09
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新しい年に向けて(7) 日本人はボランティア活動を奉仕活動と口では言うが、実際には心から奉仕する人々は少なく、宗教活動においては信心から行う事が多いものの、私的な日常生活における弱者へのボランティア活動は一種の名誉職的とでもいうべき意識で「して上げている」という面が目立ち過ぎる。少なくとも「させて頂いている」という意識で活動している人は少ない。もっと穿って言うならボランティアをする事で見返りを期待している様なところがある。何も見返りなぞ期待せず無償の奉仕活動をするというのは苦手の様なのである。昔は、お伊勢参りとか四国八十八か所巡りのお遍路さんの世話をする人々が多かったから当たり前の様に為されていたものが、世の中が世知辛く成ったせいか一般には奉仕活動という行為は誰かの呼びかけがあって初めて行われるケースが多い。自発的に夫々が行うのは気恥ずかしいという気持ちが働くのだろうか。 ボランティア活動の最初の頃は確かに気恥ずかしさを伴うが、慣れて来ると当たり前の様になるものである。しかし、誰の為にとか何の為にという気持ちが働く内は純粋なボランティアでは無く、義務感から行う場合が多い。例えば、小学生の登下校時にボランティアで道路の要所要所に立って交通安全整理をしている人々を見掛けるが、PTAの人々は我が子が居るから交代制でやらされているのに対して自治会の有志や老人会から自主的に出て行っているのは心からのボランティアである場合が多い。しかしながらボクが自治会長をしている頃、老人会の有志から「会長さん、子供の交通安全見張り番のボランティアをするので、参加希望者を募るのに是非支援して下さい」という要請があり、回覧板でボランティア希望者を募った事があった。しかし残念ながら老人会以外の自治会員の参加者は居なかった。 それでも老人会の有志十数名ほどが参加して季節毎の時候の悪い時も道路に立ってボランティアを続けていた。それから半年ほどして彼等が再び自治会に要望を出して来て「会長さん、PTAの方がボランティアに参加しないのはおかしいから学校の方へ注意して下さい」と言うのだ。PTAのお母さん方が当番になっているにも拘わらず来なかったり、来ても自分の子供を見つけると一緒に連れて返ってしまうので数が足りない事が彼等の気分を害したらしいのだった。しかし、ボランティアでやっているのだから文句を言うのはどうかと想って「PTAと老人会とは別行動なのでしょう?」と訊けば「そんな事は無い。PTAの方は我々老人会の有志を毎月のローテーションに組み込んで当番表まで作って配っている」と息巻いて怒りだす老人まで出る有様だった。自分達が利用されていると言うのだ。 話を聞いていると彼等の言う事が尤もらしく聴こえるものの、冷静になれば何処かおかしく聴こえるのだ。そこで「ボランティアで参加されているのですから、仮にPTAの人々が来ても来なくても関係なく活動はしているのでしょう?何も期待する事も無いのでは?」と言うと一斉に怒りだした。そこで「ボランティアというのは奉仕活動であって見返りや褒めてもらいたくてやっているのでは無い筈ですが、違いますか?PTAが皆さんの活動をローテーションに組み込んで当番表を配るという真意が分かりませんので一度学校側に訊いてみますが、ボランティアの本来の意味からすればPTAなぞ放っておいて活動されても良いのではありませんか」と敢えて強く言ったのだった。すると「見返りや褒めてもらいたくてやっている訳ではない」と明言する。「それならそれで結構な話ですネ」と言って会談は終えたのだった。 その後、たまたま年度初めになって小学校の校長とPTAの会長が着任の挨拶に拙宅まで来られたので挨拶のついでに先の老人会の要望を伝えておいた。そしてひと月ほどして校長から手紙が来た。生徒の登下校の見張り番の件についての礼状だった。当番表の件については傷害保険の関係で名前を挙げておかないと保険が効かないからという理由だった事が分かった。それだけが書かれてあって老人会とPTAとの活動は別行動であるともあった。だから老人会との話し合いは特に必要がないとも書かれてあった。ボクは返事は書かなかった。こちらからの質問に応えたという内容だけだったからだが、老人会が期待したほどのものでも無かったと想ったからだった。その後、市役所で年度初めの自治会長連合会の会議が開かれ、市長の挨拶の後で教育委員会の幹部が挨拶に立った。それはそれは実に教育者らしい立派な内容のものだった。 ボクは会議の質疑応答の際、挙手して、百人近い自治会長や市の幹部職員を前に質問をぶつけてみた。それは「只今の教育委員会の立派なお話とは裏腹の事についてですが」と切り出し「子供見守り隊を老人会がボランティアで行っているのを小学校とPTAが当然の如くローテーションに組んで老人会の承諾も無しに当番表まで作って配布している事実をどう考えているのか。今のお話の教育理念とはかけ離れた遣り方は如何なものか」と問うたものだった。すると教育委員会の幹部は汗を流しながら答に成らない事をグダグダ並べるだけだった。すると彼方此方の自治会長からも同じ苦情が出、会場は一時騒然となった。慌てた市長が出て「私からも、よく話し合いをして皆さまにご満足頂ける答を後日ご報告申しあげますので今日のところは・・・」と発言して会議は何とか終了したのだった。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!http://ping.blogmura.com/xmlrpc/idjlbau56cwxhttp://www.blogmura.com/help/?type=h&no=12
2012/01/08
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新しい年に向けて(6) 元旦に年賀状が届いて、毎年気付く事がある。それはこちらから出していない人から来る年賀状がある事だ。それと当然来るべき人から来なかったりするのもある。急いで返信の年賀状を出す。その反対に来なかった人からの返信の年賀状が正月休み中に毎日数枚ずつ届く。毎年同じ事があるので10枚ほど余分に取っておくのだが、今年は全部使い切った。事前に喪中の為に年賀状を出さない事を知らせて来た人の分は分かっているから織り込み済みであるものの、それでも余分に取っておいた分が全部なくなるのは珍しかった。昨年も一昨年も来なかった人から来たりすると「おや、どうしたのだろう?」と訝しく想うものの悪い気はしないものだ。多分、病気でもしていたか気持ちが揺れ動いていたのだろうと勝手に想像するのだが「今年こそは、どうぞ宜しく」と書かれてあったりすれば苦笑いをしてしまう。 つまり、昨年、一昨年と会わずに居た相手が「如何がお過ごしですか?近々会いたいものです」とあったのに忙しさにかまけて会わなかった相手だ。「本当に会いたければ自分から連絡して来れば良いのに」と内心想って放っておいたのもある。が、それでも一年越し二年越しともなれば苦笑いせざるを得なくなって「機会を見て電話でもしてみるか」という気になるものだ。しかし、最近は若い頃の様に気楽に電話して飲みに出る事は無くなった。出るのが億劫になるというか、わざわざ電話連絡してまで会って話す様な事なぞ無いと想ってしまうからだ。それを見越してか、細かい字で近況を書いて来る人も居る。家族の動向まで書いてあって、一度も見た事も無い子供や孫の事を嬉しそうに書いていると微笑ましくなって来る。ボクには孫が居ず爺の気持ちが分からず若い気のままでいるからだろう「へえ、もうそんな年なのか」と今更の様に驚いてしまう。 常識的には今年で69歳に成ると言えば本当に老人になってしまったという気がするのに、自分では未だ中年のゴルフ親父程度にしか覆って居ない。子供時分なら60歳の還暦を迎えた人の話を聞けば、とうとう爺さんになってしまったのだなあと感じたものだったのに、近年では10歳は精神年齢が若返った事もあって精々50歳ぐらいの感覚でしかないのだ。尤も、50歳でも良い老人で、スポーツでもシニア扱いなのだが、国が年金の支給を遅らせる手立てとして65歳まで働ける環境整備に入ったというニュースを聞いて、そういう背景もあって60歳なぞ爺の内に入らなくなってしまったという気がするのだ。そもそも定年制というのは日本だけの事なのか、それとも海外から来た制度なのか知らないのだが、本来は年金生活に入れる年齢に達した人が退職する制度の筈なのに日本では年金よりも定年を重視する。 そういう処が企業の経営が脆弱である事を示しているのではないかと想ってしまう。尤も、そういう制度がある事で企業が活性化するのかも知れないが、高年齢でも仕事の出来る人は幾らでも居るから、いきなり退職年齢に達したからバッサリ首を切るというのは如何なものだろう。というのは、定年制の無い建築家という仕事において言えば、当然ながら能力の問題だけに本人が一番よく自覚しているもので、60歳なぞ未だまだ半人前の様なものだから一所懸命に切磋琢磨しても足りないぐらいに想える。中にはもっと若くして惚けてしまう人も居るが、退職すべきであるかどうかはそれこそ本人の自覚に任せるべきで、人に迷惑を掛ける様では論外だが、達者な人は多く居るものである。80歳でも旺盛な知識欲もあり仕事をバリバリやる人も居る。ボクの親父なぞは86歳まで現役だった。 そう言えば、年末に自治会長さんが来られて「ご相談があります」と30分ほど話して行かれた。話の内容は「高齢の為、次期会長は辞退したい」という事であった。歳を訊けば85歳という事で、年が明ければ86歳でボクの親父の現役生活を終える歳と同じになる。見掛けは元気そうで、長身の身体を真っすぐ良い姿勢で毎日の散歩を欠かさずされているのを見掛けるぐらいだから未だまだ大丈夫に想えるものの、腰を痛めて車椅子を利用されている奥様の事を考えれば子供も居ないご夫婦にこれ以上は無理も言えず「三年もの長い間、ご苦労さまでした」と労いの言葉を掛け「ところで、次期会長の候補者の心当たりはあります?」と訊くと「良い人が一人居ます」と膝を乗り出し「そこでお願いですが、次期会長選出委員会のメンバーの一人になって頂けないでしょうか」と言われたのだった。 自治会会則では、次期会長選出委員会の委員をを会長が任命する事が出来るとあって、ボクが自治会長をしていた3年前にも同じやり方で彼を選出した経緯があったのだ。その前までは会長が次期会長候補を探し廻って何とか決定していたのだったが、それが難航して困っていたという。たまたま自治会の集会所をボランティア設計したボクに白羽の矢が当たって、会長と長老役員の三名が自宅に押し掛けて三顧の礼を尽くした積りなのか連日の座り込みにボクも妻も困り果てて已む無く受諾した経緯があったのを想い出した。そして直ぐに会則を総会で改正し会長選出委員会を設けたのだった。あれからもう五年が過ぎたのだ。会長任期は二年間なのだが、昨年は同じやり方を取ったものの候補者が直前に病気の理由で辞退したので彼が已む無く引き続き延長してやってくれたのだった。しかし今回は何とか良い相手が見つかったそうなので多分大丈夫なのだろう。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/07
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新しい年に向けて(5) 正月休みも明けて、ふと昨年を振り返って例年と違っていた事を想い出した。府立高校の耐震工事の監理と月例会ゴルフである。どちらも偶然なのか対抗者が居たのだった。まさかと想ったから最初は戸惑ったが、後半になってやっとマイペースに成ったものの変な相手だった。耐震工事もゴルフも簡単な理屈やルールで成り立っている。先ず方針(目標)を決め、次にテスト(練習)をし、計画通りに実施し、最後にチェックをする。当然ながらそうする事で本来の結果が出る。その筈なのに違う結果が出たりすると再チェックして原因を探す。そして原因を探り当て、調整し、再度やり直して結果を観るだけの事だ。相手のミスでこちらが良くなるゴルフと違って、工事はミスが出ればこちらも指導不足というミスに繋がるから面白くない。だから厳しく指導し、やっとの事で合格ラインに近付ける。 100点には程遠いが合格点が出始めたのは夏から秋に掛けてだった。工事現場では夏と秋に夫々地元の山車(だんじり)祭りがあって、海側が晩夏で、山側が初秋にあり、ボクは休日の当日は現場へは行かずにニュースで祭りを知るだけだったが、元々、地元の人間ではないから心が燃える事も無く覚めた目で観過ごして終えた。彼等の生甲斐になっている祭りに気を取られていた職人達は祭りが終われば気の抜けた様な状態で現場に戻り、不具合のヶ所を手直しする。そして合格になり工事は完了した。しかし、一旦ミスが出た現場は評価が落ちるから合格点を与えたものの、普通ならランクAを与える処をランクBに迄落とさねばならなかった。ランクが一つ落ちると来年度の入札基準は厳しく成り、多分今回の規模の工事入札に参加するにはハンディキャップが付くだろう。果たして入札に加われるかどうかも怪しく成る。 最初からボクの言う事をちゃんと聴いていればミスなぞ出なかった筈だから馬鹿な業者だったという事に成る。何故かボクに反抗する老いた現場監督が居たのだ。その為、仕事が遅れ始め、会社にクレームを言って応援を出させ何とか仕事は動きだしたが、応援の技術者が協力的だったから救われた。それなのに上司である現場監督は最後まで現場から離れず言う事を聞かないままだった。そういう馬鹿な社員を抱えた会社は経営が危うくならざるを得ない。古い社員と言うだけの温情で抱えて居ると会社までおかしくなる。ランクBでも内容はランクCだったから最終報告書を受け取った府の担当者は、それを評価表に残し、契約発注課は数ある業者の末尾の方へファイルを移動させる。一旦下落した評価を上げるには1年や2年は掛かるだけに自分を大事にしない会社は落ちて行くしかない。しかし、それで良かったのかも知れない。 企業は当然ながらレベル・アップしながら成長するものである。亦そうしなければ生き残れない。それなのに古い体質だと平気で我流で間違ったままで居る。そんな企業は消える運命にある。地方には体質の古い企業が未だまだ多く残っている。実に気楽なものだ。こんな不況の真っただ中で経費を切り詰めるのは当然としても、やるべき事をやらず指示通りの事もしない企業は潰れる。効率よく動く企業は切磋琢磨している。それは経営者や社員の顔色を観れば分かる。彼等の目つきが違う。工事が始まった初夏の時点で再三注意をし、是正させるのにひと月は掛かった。それだけでも無駄な期間だった。言う通りにしていればその期間が稼げたのだ。その遅れを取り戻すのに仕事が雑になった。当然やり直しの指示を出す。職人達は監督が監督だから半分舐めていたのか土地柄の気性もあるのか祭りが近付くと浮足立っていた。 祭が何の為の祭なのか勘違いしている様だった。仕事があるからこそ祭があるのに、逆に想っているのだ。プロなのかアマチュアなのかと訊きたい気がしたものだった。一方、遊びのゴルフは個人的には楽しいものだ。月例会以外にも他所のゴルフ場のコンペにも参加した。真夏の暑くて死にそうに苦しい炎天下のフェアウウェーで「何故こんなに苦しいのにプレイするのか、馬鹿じゃ無かろうか」と想ったりもしたが、年上の仲間が平気な顔でプレイしているのに励まされながらラウンドを終え、風呂に入ってからレストランで休憩し、それなりの賞を貰うと一遍に気が晴れ疲れもとれたのだった。しかし、月例会では同じ組の一人がボクに対抗して途中から全く話さなくなってしまった。それには呆れてしまった。スコアや技量に差を感じたにしろ大人としてそれなりに楽しくプレイするのがプライベート・ゴルフなのに、まるで子供の様な態度だった。 その話を忘年会で隣に座っていた設備部長に話すと「それがゴルフなんですヨ」と笑いながら言っていた。「高がゴルフなのに?」「そう、高がゴルフだけど、其処まで成れるのがゴルフの楽しみなんだナ」「ナンセンスだ、馬鹿みたい」「そう、馬鹿みたいなものサ」と悦に入っていた。そう言えば、昔のボクがそうだった。香港のゴルフ場でイギリス人が淡々とプレイし、クラブ・ハウスではきちんと背筋を伸ばして座り、クイーンズ・イングリッシュで話している彼等を観て、日本人のクラブ・ハウスでの寛ぎ方と違うものだと感心したものだったが、それが初心であって、次第にそれを忘れ、仲間内でふざけながら日本流の悪い癖が付いて行った。多分、設備部長は日本の悪い癖を引きずったまま今も同じ様な事をしているのだろう。クールな紳士のゴルフではなく少年のゴルフを楽しんでいるのだ。が、ボクは10年前にそれを卒業したのだ。だからこそ今では淡々とゴルフが出来る。昨年を振り返って、その二つを想い出した。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/06
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新しい年に向けて(4) 将来、幾ら科学技術が発達しようが確認申請業務や監理・検査業務が機械で置き換えられる事は無いだろう。人間が直接関わなければならない業務で交渉が伴うものは部分的に機械が補うにしても消える事は無いという意味である。だからこそ機械でできる様な作業は益々ロボット化されオートメーション化されて行くだろうし、単純労働も人間から機械へと変わって行くだろう。そこでの人間の役割は機械の管理やチェックになり、メンテナンスが主要な仕事に成る。そうなれば益々人間の手で為される行為は高級業務に変わって行くだろう。大量生産でない少量の特注品は、例えばシェフによる高級料理やテーラーによる仕立て服の様に金持ちの道楽に成るだろうし、其処にステイタスが感じられるなら世の中が二極化され大量生産方式と手作りラインとに分けられ、料理と同様、手作り製品が金持ちの為の特注品ラインという事に成るだろう。 そして更に世界が二極化の方向に向かい、高級化路線は無くなる事は無い。尤も、その為の原材料の供給者は相変わらず単純労働者のままで、ロボットに代わる事も出来ず高級化する事も無い。例えて言えば、ダイアモンド鉱山での掘削作業や選別作業は人間の単純労働でありながら、選別され宝石としての製作作業ラインに乗ってしまえば別世界の事として高級路線を進む事となる。金鉱山における作業も然り、海産物の漁業や農産物の育成栽培も同様、こと原材料に関しては総てそういう事になる。完成品にこそ価値を見いだせ、それまでのプロセスには完成品程の価値は付けられない。亦、逆に完成品であっても一旦市場に出廻ってしまえば生鮮食料品の場合は鮮度が落ちて行く時間に比例して価値は限りなくゼロになって行く。建物で言えば竣工引き渡し時が最高の価値であり、年月が経てば経つほど価値が落ちて行く。 時間に反比例して一部の物の存在価値だけが高まるのを除けば、他の物は何れ価値が矢張り限り無くゼロに近づく。つまり、希少価値や付加価値は別物の話という事であって、選ばれた特別の物にしか価値を見出す事は出来ない。それは物質文明で更に助長され、それまでの家内工業的世界における文化との違いとなった。だからこそ人間の手に依る作品に価値を見出す芸術が永遠と呼ばれる由縁であり、お宝と称する骨董品や希少価値の品にも付加価値が付いて廻る事となった。茶の湯の世界における利休の様な価値創造者やお墨付きがものを言う世界では、ダイアモンド・シンジケートと同じ方式が構築され一部のマニアだけの付加価値世界が成立する事に成るのである。それは生産性を上げるものでは無いのに人々の満足度を上げステイタスにも成る。大粒のダイアモンドは女性を女帝の気分にさせるのである。 自分が特別な存在であると認識し世間もそれを認めると人間は知らず知らずの内に不遜になって行くものである。中にはそう成らない人も居るが、それは余程人格形成に鍛練したか精神的に苦労して人の心が分かる人だけである。不遜では無く特別な存在に見合うだけの物腰や態度を取らないと卑屈に観えるから堂々としている人も居るだろうし、それが自然に身についていて嫌味の無い人であれば益々人々の敬愛を受けるだろう。過去そういう人に何人か出逢った事があって幸いにも握手をした事があるが、握手をした瞬間、大袈裟に言えば電流が流れた様な衝撃と感銘を受けたものだった。流石、一流と呼ばれる人は違うと想った。言う事も違えば人を惹きつけるオーラが感じられたのである。それとは全く意味が違うが、熱烈なファンが売れっ子の芸能人やスターに熱狂し陶酔する気持ちが分かる様な気もする。 人間というものは自信がつけば幾らでも内面的に大きく成長するものである。その自信は周りの反応によって更に増幅される。つまり他者が鏡と成って自分を映し出してくれるのを見て客観的評価として自信に繋がるのである。他者指向効果とでも言えるそれは自己暗示以上に効果がある。何と言っても人間は他者から支持評価される事を無上の喜びとするものである。更には模範とすべき相手の模倣に依って自分も相手の様に成れる効果(ミラ―効果)で自信を付ける事が出来る。と言う事は付き合う相手を選べという事に成る。良い相手であれば自分も良く成るであろうという意味である。では、その相手はどうかと言えば、少々の事では影響されない確立したものを持っているから微動だにしない。そういう自信に満ちた人間が良いエネルギーを周りに発散する。良い波長を受けた人間も動物も植物も健全に育ち相乗効果が生まれる。 事実、草花にモーツアルトを鳴らしながら育てると良い結果が出ると言う。綺麗な花が咲いたり良い実が生ったりするというのだ。ボクもガーデニングでは庭木の幹や枝に手を当てたり握ったりしって「上手く育ってくれヨ」と念じる事がある。そうすれば咲かなかった花が実際に咲いたり成長が良く成ったりするのだ。長年咲かなかった百日紅や桜薔薇がそうした事で咲いたのだ。偉いものである。植物も音楽や人間の脳波に反応するのだろう。ボクは宇宙に生きる総ての物は波長に反応しあって生きているのだと考えている。人間や動物の以心伝心というのもそうだし視線を感じて振り返るとジッと見詰められていたという経験もある。人も動物もだ。最近では庭からジッとボクを見詰めている視線に気が付いて振り返るとココがボクをジッと見詰めていた。入りたければ「ニャ~」と啼いて合図すれば開けてやるのに啼かずにジッと見詰めるのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/05
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新しい年に向けて(3) 日本人に無神論者が多いのは有名である。「私は宗教というものを信じません」と平然と言ってのける知識人は多い。まるでそれが何か進んだ新しい考え方の様な言い方である。それを聴いて西欧人は呆れるそうだ。人間が心の頼りにする宗教を信じないなぞ人間としての存在価値を放棄した様に観えるからだ。そこに彼等の宗教観と日本人との考え方の違いを見て取れる。決して無神論者では無いのに敢えてそういう言い方をする処に文化の違いを感じ、矢張り明治期に西欧から輸入した西欧文化と科学とがバラバラに浸透して行った事が覗えるのである。キリスト教は西欧人の心のよりどころであり人生であり文化と科学を結びつける基本的な考え方なのである。ところが、日本人の希薄とも言える宗教観はキリスト教も他の宗教と同じ様に考え、既にキリシタン思想として日本に入っていたものと同一視したのだった。 形こそ同じではあったがキリシタン思想が日本社会での文化の違いを乗り越えて人々を思考させていく行く程のものでは無かったのだろう。江戸幕府の弾圧を越える程の心の強さが天草における一部の反乱でしか表しえなかったのがそれを語っている。そこへ西欧科学が入り込んだところで別の学問体系でしか無く、科学的思考力とキリスト教的宗教論が別々のものと解釈されて来たに過ぎなかった。仮に日本社会にとってキリシタン思想が権力闘争の為の心の拠り所の一つであったにせよ、単に江戸時代の暗い宗教弾圧の爪跡を感じさせる邪宗教というイメージだけが強過ぎて一部の信者にしか普及しなかったと想われる。社会的身分や差別に抗するというだけの考え方では人間解放の心の拠り所には成ったではあろうが、その信者でさえ科学的思考力がキリシタンを知らない人々よりも勝っていたとは言い難いと想われるのだ。 それと対比的なのは韓国におけるキリスト教信者の多い事である。実に国民の30%もの人々(1,400万人)がキリスト教信者と言われる(国民の53.1%が宗教人口で、非宗教人口は46.9%、だから宗教人口割合では54.6%)。長年にわたる仏教の影響下においても儒教の国と言われて来た様に儒教という一つの思想が宗教の様になっていて、日本の植民地時代を経て第二次世界大戦後の南北対立になっても儒教精神が根強かった国である。それが朝鮮半島の南側にアメリカ傀儡の韓国(南朝鮮)という独立国が生まれキリスト教が爆発的に普及したのは自然の成り行きであったのかも知れない。当然ながら社会主義国家となった北朝鮮にはキリスト教は無い。北朝鮮の親分格であるソ連(現ロシア)や中国ですら宗教を長年否定して来た以上、キリスト教の入る余地は無かったのだ。 だからと言って韓国社会に西欧文化と科学とを結びつける真のキリスト教が普及したかどうかは疑問である。何故なら、日本よりも思考力が西欧化しているとは言えず、寧ろ単純に国家戦略である反日思想に酔いしれる程度の科学的思考力しか持たないからである。冷徹で客観的な科学的判断が出来る民族に育っていたなら幾ら政府のプロパガンダが実施され様ともその自己矛盾に気付く筈である。科学と文化が矢張り遊離したまま彼等の社会に溶け込んでしまっていると言える。だからこそIMFの世話になりながら国力が復活した様に観えるものの、その経済力のぜい弱さは日本企業のモノマネに過ぎず、近年の輸出力の伸びに観られる旺盛さも未だ安定したものでないと観られる。つまり日本と同じく対アメリカよりも中国貿易が勝り、中国覇権が強まれば、よりその方に取り込まれるからである。 簡単に言えば、其処にもFTAとTPPの対立があり、アメリカ寄りか中国寄りかでアメリカから巧妙な圧力が掛かるであろうし、どの国においても経済優先である以上、ドル体制かユーロ体制かBRIC体制かで大きく左右される事になり、先行き不透明な状態が続くと想われる。幾らキリスト教圏が広がろうとも、かつてのローマ帝国の様な勢力拡大は成らず、今後BRIC勢力が伸びるに連れ、中国以外のブラジル・ロシア・インドも地域覇権で経済圏を確立して行くだろう。そして、そこには宗教的対立も生じ、イスラム圏も台頭して来るなら益々西欧勢力は斜陽化していく筈である。そこで問題となる西欧文化と科学との繋ぎであったキリスト教的思考力は変貌せざるを得なくなり、例えば在来の日本的発想力であった仏教的あるいは神道的、若しくは武士道的思考方法が融合し独自の発展を遂げながら新思考力として世界に広がる可能性が出て来る。 それが日本的経営であり、各企業間で行われる省力化にも結び付く。日本のノウハウが世界各地に広がり現地生産が増えるものの、その中枢である思考回路や思想方法は日本独自の文化であるだけに容易に世界の異文化で染まった人々には取り入れ難いだろう。日本の独自のマネージメントとノウハウが中国を始めアジアに広まり、更には中東や西欧世界も伸びて行くだろうが、その為には日本から日本人が出て行き、行く先々で日本人によるマネージメントで現地の人々を動かす事になる。資源の無い国の日本は人の頭脳が資源なのである。単純労働は現地の人々や機械がやってくれる。やがて現地の人々も日本人の指導で日本式マネージメントを身に付けるだろうし、その頃には更に新しい日本的手法で次の世代に向けての教育が始まる事に成るだろう。これが新しい年に向かってのボクの考え方であり、その手法は既に一部の企業では開始されている。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/04
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新しい年に向けて(2) 元旦が過ぎ二日目に入って見る夢が初夢だそうだ。未だボクは初夢を見て居ない。今は真夜中で、トイレに立ってからベッドに戻り、ベッドの上で横になっているココを抱きかかえ横に成り何故か考え事をしていると眠気が去り頭が冴えてしまった。その内にココを抱えている身体が温かくなり過ぎて、まるで炬燵を抱いている様になり、起き上がってしまった。猫を抱いていると実に温かい。綺麗な毛並みが柔らかくて気持ちが良いのだが、目が冴えては寝てもいられず、やむなく階下に降りて書斎でブログでも書こうとデスクに向かった。ココも一緒に付いて来てデスクトップのパソコンの上に座った。餌が貰えると想って待って居るのだ。5時に成れば朝の餌の時間だからやっても良いが、未だ3時である。辺りは静寂そのものである。それにしてもココはよく食べる。食べ過ぎるから丸々と肥っている。 体毛の長いラグドール種だから余計に肥って観え「ぬいぐるみ(ラグドール)」と呼ばれる通りコロコロとしている。毛が柔らかだから抱っこすると気持ちが良い。しかし、ココは抱っこされるのが嫌で、直ぐに逃げようとする。そのくせベッドに居る時だけは朝までジッとしている。温いからだろう。それでも自分で体温調整する為にボクが眠ってから布団の中で動いている様だ。周辺に頭を出して寝ているのだ。夜中にトイレに立つ時にココの寝ている位置が違うので分かる。熱く成り過ぎると布団から出て掛け布団の上に乗る。それは、朝目覚めた時に足元の布団が重いのでココが其処に居るのが分かるのだ。体重が5kgほどあるから非常に重く、掛け布団を引き上げようとしても引っ張れない。下半身が丸く肥っている上に体毛が長いから脚が短く観え、まるでトトロというマンガの様な姿でユーモラスである。 子供時分と違って大人に成ってからペットを飼うとは想わなかった。たまたま知人から「娘がアメリカへ語学留学に行く事になったので、世話が出来なくなった猫を貰ってくれないか」と頼まれた。生後4ヶ月の仔猫だった。丁度その頃、隣家のモモというアメリカン・ショートヘア種の猫が我が家の庭に糞をして困っていた時だったから対抗馬として飼ってみる気になった。そして今では7年目に入った。ココは2年目ぐらいからボスになった。それまではモモがボスだった。立場が逆転して、ボスの座や各所の定位置がココのものになってしまうとモモは小さく成って自分の家から余り出なく成った。お蔭で庭を糞で荒らされなくなった。尤も、それは我が家の庭だけの話で、相変わらず荒らす庭が近所にあるらしく、其処の奥さんが妻に電話でモモの事を「タチの悪い猫」と言うそうだ。妻はココでなくてホッとしている。 ペットは躾次第で良くも悪くも成る。近所から文句を言われない為にもチャンと躾は付けておくべきである。もし自分の子供が躾が悪いと言われれば恥ずかしくなるだろう。ところが常識というものは案外無視されるもので、猫を30匹も飼っている家が200mほど先に在るそうで、近所の人が迷惑を掛けられて文句を言いに行っても鼻であしらわれるのだそうだ。ボクは亦聴きだから詳しくは知らないのだが、専用の猫小屋でも作って飼っているならまだしも、仮に放し飼いだとすれば猫も近所を徘徊するだろうし迷惑を掛けないとも限らない。妻の友人の大学教授なんかは30匹ほど飼っているが、猫専用の立派な小屋を自分の図書館の隣に設けているのと野中の一軒家で広い敷地だから迷惑の掛けようが無いという。そういうのは特別として、住宅地では隣近所の事を考えるべきで好きだけでは通らないのが常識である。 ところが、我々の世代である昭和10年代生まれの常識と現代の常識とでは大分ズレがある様で、我々でさえ戸惑ってしまうぐらい日本も変わったものだと想うのだから我々よりも上の昭和一桁の世代なぞ理解不可能な事だらけだろう。しかし、更にその上の大正生まれだと意外にも西欧思想が我々世代と同じかそれ以上に入っていて考え方も開けて居るのだ。何故なら明治・大正生まれのインテリは西欧文化を旺盛に取り入れて居たから彼等の持つ常識も科学的で理論的なのである。変な主義主張や情に流されてばかりいた昭和一桁代生まれの人々は明治・大正時代の先人達の功績や偉業に圧倒されてしまって萎縮してしまっていたのではないだろうか。現代の若者が丁度それによく似ている。世界の先進国に比較して劣等感を抱きながら、内面では日本の科学技術力を過大評価し傲慢で不遜な考え方が巣食って居ると想われるのだ。 それは科学というものの捉え方を根本で考え違いをしているせいだろう。それは、西欧の文化と科学を輸入した際に忘れたキリスト教精神の無理解から来る様である。西欧の文化と科学をを繋ぐ精神的絆であるキリスト教に代わるものが日本には無いのである。宗教としては仏教があるが、他に神道もキリスト教もイスラム教も、更には新興宗教も多数あるが、全国民の生活に溶け込んだものとしては仏教が唯一のものである。ところが西欧の様に文化と科学とを繋ぐ役割は果たして居ない。精々、一部の人々の間で行われている座禅程度のものでしかない。つまり精神の中枢に成るような文化と科学とを結びつける哲学(宗教)が日本人には希薄なのである。信教の自由と言いながら日本人ほど無神論者が多い国は珍しい。神を信じている様で信じて居ないのが日本人である。正月に初詣するのも単なるセレモニーに過ぎないのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/03
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新しい年に向けて(1) せめて、これ以上悪いニュースは当面聴く事も無いだろうと少しは楽観的な期待を持って今年は過ごそうと考えている。そうでもしないと生きるのが嫌になるからだ。暗いニュースはニュース価値としては落ちるが人々の耳目を集めるには効果的である。だからと言って報道各社が挙って暗いニュースばかり報道したところで社会が良く成る訳でも無い。寧ろ人々のやる気を抑える効果しか無い。それなら明るく過ごせる様に未来を感じさせるニュースでも流してくれた方が有難い。だから各テレビ局は時間が余れば風景画や動物の画像を流すのだ。下手な役者よりも子供や動物の方が人々の目を惹くからだ。そこには下手な下心が無いから安心して観ていられ、かつての純真だった自分を想い起させる効果もあって、汚れきった世の中を片時でも忘れさせてくれる。新たな気持ちで明日を観る事が出来ようと言うものである。 例えば毎年、クリスマスの時期になるとクリスマス・キャロル的なドラマや映画が流れる。常に人々は純粋さを求めて居るのである。大人の世界がこんなにも汚れているという事を再認識して一種のガス抜きをし、心をリセットするのである。「マッチ売りの少女」を想い出し、世の中の可哀想な少女を助けたくなる変な親父も少年の心を取り戻すかも知れないし、みすぼらしい美少年をブルドックの様な金持女が哀れんで抱き寄せたくなる気持ちには、出来そこないの不良に育ってしまった我が子を想い出し、懺悔の意味で許しを求めているのかも知れない。キリストは彼等を救う事が出来るかも知れないが、現代社会は救うどころかその上を行き、美少女は悪女に変身し、美少年はドンファンに変身する。そういう現実を我々は嫌という程見せつけられ、何が純真で何が不純なのか分からなくなってしまい、偽物に手を出してしまうのだ。 かつては実に単純に世の中が構成されていて、家族を大きくしたものが村社会であり、村社会をおおきくしたものが城(藩)であり幕府(国家)であった。しかしながら政治が複雑に成るにつれ家族制度は崩壊して行き階級社会と経済社会の両輪社会に成り、世界の国々との交易で国家の利害関係から武力で拡大し、時には戦争を経験し、その勝敗の結果で国家観や世界観が変わって行った。近代国家が世界勢力を二分し、どちら側に付くかで国の行く末が決まる時代になって、それも僅か半世紀で行き詰って主導権を握る国々が台頭して行き、世界情勢は混沌状態に陥ってしまった。一極支配だった米英(ドル)体制に抗する様にユーロが現れたもののドル体制側から揺さぶりを掛けられている内にBRICに依る地域覇権体制へと移行しつつあるのが現代である。そしてTPP体制かFTA体制かで日本は対米主導と対中主導の狭間で揺れ動いている。 貿易関係は我々国民には直ぐには影響が出ず、3年先、5年先の事はなかなか読み取り難いものの、近々来ると言われるドル崩壊かユーロ崩壊かと言う前に今の内にしっかりと見極めておく必要がある。つまり近い将来BRICの台頭が動かし様の無い現実問題だけに日本は好むと好まざるを得ず、その渦に巻き込まれて行く事は確実だからだ。そういう現実さえも認めたくない日本のアメリカ主導とする守旧派は、これまでのぬるま湯にどっぷりと浸かったまま逃げ回りつつ対中貿易もこのまま維持発展させたいという助平根性があるからタチが悪い。それは原子力行政ひとつ取ってみても分かる。じわじわとしか廃止の方向へは進まないからだ。原発の寿命は30年とされる。それなのに寿命の尽きた原発を未だ将来に向かって20年間は騙し騙し使って行こうとしているのだ。何時事故が起きてもおかしく無い危険な装置が野放しである。 それを民間の電力各社がまるで群盲象を撫でる式で動かしているのだから恐ろしい。そういう脆弱な社会構造の中で我々国民の為にすべき事は何かと今真剣に考えてしまうのはボクだけでは無いだろう。昨年の暮からそういう事を考え続け、年頭に当たって改めて整理をしてみようと想った状態では、折角の正月の美酒に酔いしれる事も出来ない。それでも退屈だから年賀状を整理しながらテレビを観ていて、売れっ子の池上彰さんという元NHK記者が分かり易い口調で世界の近代史をテレビで語る番組を観て居て、面白い様に頭の整理が出来、事件を想い出していた。それを観て、先ず感じたのは実に時間の経つのが速いという事である。世界は刻々と進んでいるのだ。一時も停止はしていない。我々もうかうかとはしていられないのである。市民に出来る事は高が知れている。しかしその数が膨大になって一つのうねりに成れば政府も無視できなくなる。 基本は選挙で正しい投票をし正しい人物を選ぶ事である。そして選んだ人物が期待通りの政治をしてくれるかどうかウオッチングする事である。それも唯見ているだけでは駄目で、間違った路線を行きそうだと想えば修正させるべく抗議デモをする。そういう風に政治家と市民が出来るだけ一体となって活動すれば真の市民活動が政治に反映されるだろう。しかし、かつて市川房江さんのスタッフとしてボランティア活動していたと自称主張する人物が首相になった途端、あろう事か原発事故を引き起こさせてしまった。メルトダウンする前の秒読み段階でベント(原子炉の減圧)をさせずに福島原発の見物にヘリコプターで行ったが為にベントが出来ず爆発してしまったのだ。それは、まさしくパンドラの箱の蓋を開けた不名誉で無責任な犯罪者として末代まで馬鹿呼ばわりされる事に成るだろう。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/02
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2012年を迎えて 今年ほど憂鬱な気分で新年を迎えた年は無かった。「新年お目出どう」という言葉が自然に心の底から湧いて来ないのである。良い事と悪い事の比率が年々悪い方に傾いている。個人的には歳も歳だし半分リタイアしたような生活だから年寄りの愚痴を言った処で何にもならないのだが、自分の生涯を振り返って年々落ち付いた生活になって行くのは有難いものの、それに反して社会情勢が悪く成って行くのが気掛かりである。特に昨年は酷かった。あっては成らない最悪の事故・福島原発のメルトダウンが起こったにも拘わらず政府や関係者は皆逃げ廻っている。表面上は一所懸命に頑張っている振りをしているが、責任逃ればかりし内心やるきが無いから実が挙がらないのである。夢も希望も無い状態で年を越さねば成らなかった事故被害者は泣くに泣けない気持ちだろう。それを慰め支援する人々の声も心なしかトーンが低い。 何故なら肝心の政府や東電が福島を見捨ててしまった状態では精神面のサポートだけで事故処理が進まないのを知っているからだ。被害者は遣りきれない気持ちで年を越した筈だ。「否、我々は見捨てた訳ではない。今準備中なのだ」と政府は言うが、口では何とでも言える。しかし、彼等の態度や言葉にはまるで誠意が無い。内心ビクビクしている筈なのに、その素振りも出さず居直った態度で見下しているだけだ。最近のデジタル・テレビは感度が良く、お蔭で表情が克明に読み取れ、毛穴や皺の一本一本まで見える。政府関係者が表情を誤魔化しても目の色でバレてしまう。怖い世の中になったものだ。政治家も役人も言う言葉とは裏腹の意味する面が表面に出てしまうのである。ポーカー・フェイスで居られるのは余程訓練した役者ぐらいなものである。その役者も演技力不足で海外の映画やドラマに喰われる有様である。 だから彼等は子供と動物の画像に負けてしまう。この頃ではテレビ局は風景画像を流して誤魔化している有様だ。誤魔化して話を曖昧にする事で事故が終息するなら、こんな有難い事は無い。原発事故は人為的ミスで起きたのに「あれは自然災害だ」と言い逃れをして済まそうとしている。そんな態度では第2、第3の福島原発事故が再び起きるだろう。全国にある原発が総て危ないのである。そうなればもう日本は本当に沈没するしか無く、日本と言う国は地球上から抹殺されてしまうだろう。何故なら、大地震国・大津波国に原発が在る限り何時メルトダウンするか分からず、そうでもしないと世界が同じ被爆者になってしまうからだ。それでも放射能は海に漏れ出す。風にも乗って死の灰は世界に撒き散らされる。それを防ぐ為に世界は強制的にコンクリートで日本を石棺にしてしまうかもしれない。それでも危ないだろうが、やらないよりましだからである。 冷静に考えれば日本政府がどう慌てて抵抗しても世界は日本をコンクリート詰めにしてしまうだろう。それは戦争と同じである。日本と言う島をコンクリートで隔離してしまうのである。日本国内では、そんな夢の無い国には住みたくないという人間ばかりに成り、1億数千万人の人口の内、金のある10%の人間だけがチリジリに海外に散って行き、金の無い90%の人間の半分は絶望から死んでしまうだろう。残りの45%の出るに出られず死ぬに死ねない人間はパニックに陥り、内乱状態に成って、やがて人口は半分以下に減り、SF映画の様な核戦争後の破壊された世界とは違った見掛け上のどかなコンクリートで囲まれた2千万人程度の島国として取り残され、膨大な列島難民国家が誕生するだろう。北朝鮮の事を笑っていられなくなる。鎖国状態の農業国として日本は何とか生き延びる方法を模索するだろう。 正月早々そんな悪夢の様なイメージを抱いたのは人生で初めての事である。どんなに楽観的に観ても原発を何とかしないと安心して生活して居られない。大陸国家で余地が一杯あって地震も津波も無い国なら原発も良いだろう。しかし、日本を同じ様なやり方で行けると想う稚拙さが浅まし過ぎる。原発擁護派は「原発無くして如何に日本が経済国家としてやって行けるか」と問いかける。当然、原発以外の発電方式は一杯ある。原発擁護派は「原発ほど安価な発電方式は無い」とも切り返すが、イニシャル・コストやその後の使用済み核燃料の半永久的管理に膨大な費用が掛かっている事を隠している。万が一事故れば(既に起きてしまったが)甚大な事故処理費用が発生し補償も出来ないぐらいの費用が発生する。それを棚に上げて何処が安全で安価な発電方式なのか反論も出来ないではないか。 そういう子供でも分かる理屈を誤魔化して、さも社会正義やモラルらしきものを振りかざす学者や評論家は政府や原発関係者の手先に成り下がっている事さえ自覚していない。福島原発が事故った直後から東大や東工大の御用学者が金を貰って必死の誤魔化しキャンペーンを行った。それにも拘わらず事態は悪く成る一方で、とうとう彼等は逃げ出して今では隠れて出て来ない。まともな神経を持った人間なら恥ずかしくて出られない筈だ。それよりも彼等を信じて現場や周辺区域に残った人々にどう詫びるのだ。成長期の子供達が大量に死の灰を浴びて、将来の発癌や病気に掛かる不安に怯えている現実をどうとらえるのだ。自分の子供が同じ目に逢っても同じ事が言えるのか。せめて良心があるなら釈明して欲しい。そういう学者や評論家のいい加減さに国民は落胆し希望を失った。政治家や役人の嘘は聞き飽きたが、学者までが嘘を言う世の中に失望したのだ。今こそ日本再生のシナリオを国民は渇望しているのだ。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/01/01
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