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享徳の乱は享徳3年12月27日(1455年1月15日)に、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱です。 ”享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」”(2017年10月 講談社刊 峰岸 純夫著)を読みました。 戦国時代は応仁の乱より13年早く関東で起きた享徳の乱から始まり、古河公方と上杉氏の対立による抗争は以降30年近くにわたる戦乱となったといいます。 第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争いました。 そして、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因もしくは直接の発端となりました。 峰岸純夫さんは1932年群馬県生まれ、1961年に慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修士課程を修了、1966年に慶應義塾志木高等学校教諭となりました。 1971年に宇都宮大学教育学部専任講師、1973年に同助教授を経て、1975年に東京都立大学人文学部助教授となりました。 1982年に同大学教授に昇格後、1989年に東京都立大学附属高等学校校長、1991年に東京都立大学評議員に就任しました。 1993年に同大学図書館長を経て、1994年に東京都立大学名誉教授となり、その後、中央大学文学部教授を歴任しました。 専門は日本中世史で、1990年に”中世の東国-地域と権力-”で文学博士(慶應義塾大学)を取得しました。 天智天皇の死後672年に起きた大友皇子と大海人皇子の間の後継者争いである壬申の乱以来、日本歴史上の内乱には5つの大きな長期戦乱が起こっています。 南北朝の内乱(57年間)、享徳の乱(28年間)、応仁・文明の乱(11年間)、アジア・太平洋戦争(盧溝橋事件から8年間)、治承・寿永の内乱(源平合戦の5年間)です。 日本列島での戦国時代の開幕は、一般的には応仁元年(1467)に始まる「応仁・文明の乱」が画期とされることが多いです。 この戦乱で京は焼け野原となり、下剋上があたりまえの新しい時代が訪れました。 これに対して著者は、戦国時代は応仁の乱より13年早く関東から始まった、応仁の乱は関東の大乱が波及して起きたものであると説きます。 足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の次男の基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐しましたが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立していました。 これを打開するため、第6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした永享の乱が起こりました。 その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、1440年に結城氏朝などが持氏の遺児の成氏を奉じて挙兵する結城合戦が起こりました。 これは鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治が行われました。 そののち,東国では成氏が鎌倉公方に就任し鎌倉府が再建されました。 しかし,成氏と関東管領上杉憲忠の両勢力が対立し,1454(享徳3)年に成氏が憲忠を暗殺したことで両勢力の戦闘が開始されました。 1455年に上杉方支援のために派遣された幕府軍が鎌倉を制圧し,成氏は下総の古河に移り、幕府の意向により上杉方は,将軍義政の弟の政知を関東の公方として伊豆の堀越に迎えました。 以後,小山氏・宇都宮氏・千葉氏などの豪族勢力とむすんだ成氏方(古河公方)に対して,上杉氏(堀越公方)が対抗し,家臣の長尾氏・太田氏や武蔵・上野の中小国人層を国人一揆として組織しました。 両勢力は,ほぼ利根川を境に24年にわたる内乱を続けました。 この享徳の乱で、東国は畿内にさきがけて戦国動乱に突入しました。 この東国の内乱は京都に飛び火し、京都では足利義政の後継をめぐる将軍家の家督争いと,畠山氏や斯波氏などの一族の内部分裂が重なりました。 そして,1467(応仁元)年に細川勝元と山名持豊を頂点とする東軍と西軍の戦闘が京都を舞台にはじまりました。 この応仁・文明の乱で、西国の守護大名は大軍を率いて京都へ上り,それぞれの軍に属してたたかい、合戦は11年に及び京都は焼け野原となりました。 享徳の乱の前後における主要な事件を時期区分すると、1期、2期があります。 1期では、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の二大権力の分裂・相剋を基軸とし、幕府が上杉方を直接支援・介入して状況がエスカレートし、幕府方=上杉方と成氏方の対立となって展開しました。 上杉憲忠殺害後、成氏方と幕府・上杉方が各地で激突をくりかえし、成氏は鎌倉を離れ下総国古河に本拠を移し、幕府・上杉方は武蔵国の利根川南岸の五十子=いかつこ陣を本陣として対抗しました。 京都の足利義政・細川勝元政権は、幕府方を支える権威として、義政庶兄の禅僧・天龍寺香厳院主を還俗させて、新たな関東の公方にして古河公方に対抗する方針を1457年7月ころに決定しました。 義政の庶兄は政知と名乗り関東に下りましたが、鎌倉に入ることはせず伊豆の堀越にとどまりました。 しかも、幕府・上杉方の力を結集した成氏方討伐計画が失敗したため、最後まで箱根を越えることができませんでした。 こうした状況を見据えて、山名持豊らが将軍足利義政・管領細川勝元政権にたいして反旗をひるがえし、応仁・文明の乱が発生したのです。 2期はむしろ幕府・上杉方の内訌が問題で、主役は長尾景春という武将であり、これに対峙する太田道濯でしょう。 長尾氏の家宰職の継承をめぐり景春が謀反を起こし、幕府軍の五十子陣は崩壊し関東の混乱は広がりました。 やがて、応仁・文明の乱の終息を受けて、成氏と現地の上杉氏、成氏と幕府という二段階の和平で享徳の乱はようやく終わりました。 しかし、その後、山内・扇谷両上杉の抗争が再燃し、上杉氏体制の分裂はさらに深刻なものとなりました。 それに古河公方と長尾景春の動き、やがては小田原北条氏の進出が絡みあって、いよいよ本格的な戦国時代となったのです。 享徳の乱は単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府、足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した東西戦争です。 しかし、これほどの大乱なのに1960年代初頭までまともな名称が与えられておらず、15世紀後半の関東の内乱などと呼ばれていました。 関東で起こったこの戦乱は、戦国時代の開幕として位置づけるべきではないか、そのためには新しい名称・用語が必要ではないか、と考え、著者は1963年に享徳の乱と称すべきことを提唱したといいます。 この歴史用語は、その後しだいに学界で認められて、今日では高校の歴史教科書にも採用されるようになっています。 しかし、いまだに戦国時代の開始は応仁・文明の乱からという国民的常識は、根強く残っています。 それを正すためにも、享徳の乱をメインタイトルとした書を世に問いたかったということです。はじめに 教科書に載ってはいるけれど…第一章 管領誅殺/1「兄」の国、「弟」の国/2 永享の乱と鎌倉府の再興/3 享徳三年十二月二十七日第二章 利根川を境に/1 幕府、成氏討滅を決定/2 五十子の陣と堀越公方/3 将軍足利義政の戦い第三章 応仁・文明の乱と関東/1 内乱、畿内に飛び火する/2「戦国領主」の胎動/3 諸国騒然第四章 都鄙合体/1 行き詰まる戦局/2 長尾景春の反乱と太田道灌/3 和議が成って…むすびに 「戦国」の展開、地域の再編
2020.03.28
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戦後、古事記、日本書紀などの文献を皇国史観から取り戻していくなかで、古代学は古代を明らかにするために、様々な学の成果、見方を抱え込んで、日本の古代をみようとしました。 “古代史研究70年の背景”(2016年6月 藤原書店刊 上田 正昭著)を読みました。 古代史の泰斗が自らの古代史研究70年を振り返り、古代史、考古学、民俗学、東アジア史を駆使した上田古代学の背景を語っています。 文字史料を批判的に考察しつつ、遺跡や遺物、神話や民間伝承なども総合的に考察することによって、日本古代の実相を明らかにしようとしました。 上田正昭さんは1927年兵庫県城崎郡城崎町生まれ、1947年に國學院大學専門部を卒業し、1950年に京都大学文学部史学科を卒業しました。 1963年京都大学教養部助教授、1971年教養部教授、1978年教養部長、1983年埋蔵文化財研究センター長を務めました。 1991年に大阪女子大学学長となり、1997年に退任しました。 専門は古代日本・東アジア史、神話学で、小幡神社宮司、歌人でもあり、京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授、西北大学名誉教授でした。 世界人権研究センター名誉理事長、高麗美術館館長、島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長、中国西北大学名誉教授、中国社会科学院古代文明センター学術顧問を務めました。 大阪文化賞、福岡アジア文化賞、松本治一郎賞、南方熊楠賞、京都府文化特別功労者、京都市特別功労者、勲二等瑞宝章、韓国修交勲章を受賞しました。 中学生の時、京都府亀岡市の小幡神社の社家、上田家の養子となり、長じて大学時代から同神社宮司を務めました。 1940年1月に、早稲田大学の津田左右吉教授が出版法違反の容疑をうけて早稲田大学教授を辞任しました。 同年2月に『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』が発売禁止になりました。 ファシズムによる言論弾圧がきびしくなる時代に中学校に入学し、中学2年生のおりに、担任の先生の自宅を訪問したさい、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』をみつけたといいます。 先生は貸すことをためらいましたが、強引に借りうけて学校で習っている神典『古事記』『日本書紀』には後の知識で作為されたり、あるいは潤色されている箇所のあることを知りました。 中学校で習っている上代史には虚偽があるらしいことを実感し、学問とは何かをなんとなく教えられました。 上代史の真相を知りたいと疑問と興味をもったのはそのころからということです。 第二次世界大戦中の1944年4月に國學院大學専門部に入り、折口信夫らに師事しました。 在学中に古書店から津田の著書を入手し、『古事記』『日本書紀』に対する文献批判に衝撃を受けました。 津田と会うことはありませんでしたが、強い影響を受けたといいます。 終戦まで学徒動員で東京石川島造船所などで働きました。 1945年8月の敗戦を契機に、神国日本、皇国日本の実態を認識するために、天皇制とは何かを改めて考察しようと決意したそうです。 幼年から青年期にかけて、徹底的に学徒は皇国臣民として天皇と皇国に殉ずべきであると教育されてきて、神国日本の決定的な敗北で虚脱と懐疑の淵に投げこまれました。 近代日本に創出された天皇制が、古来の伝統にもとづくものであるからというので、その内容を明確に吟味しないで、天皇制が古代から連綿とうけつがれてきたのは、歴史の実相とは大いに異なります。 672年の壬申の乱によって勝利した大海人皇子(天武天皇)の治世のころから、天皇制は具体化すると考えて、上代史の研究をこころざしました。 1947年に、総合的な文化史を唱える西田直二郎に憧れて京都帝国大学文学部史学科に入学しました。 しかし、西田は戦時中の戦争協力を理由に公職追放を受けて退職しました。 京都大学文学部史学科の卒業論文には、『古事記』『日本書紀』の氏族系譜のありようを中心に「日本上代に於ける国家的系譜の成立に就いて」(主論文)、「中宮天皇考」(副論文)をまとめました。 これらの論文では大東亜戦争が敗北に終った昭和20年8月15日のその日の、「天皇制とは何か」という19歳のおりの疑問を自分なりに解明することをめざしました。 京都大学卒業後、高等学校教員を経て京都大学助教授、教授となりました。 日本古代史の第一人者であり、その学問の特徴は、神話学・民俗学などに視野を入れ、広く東アジア的視野点から歴史を究明するところにありました。 2015年は戦後70年になりますが、研究史もちょうど70年になるといいます。 70年におよぶ研究史のなかで論争したのは、井上光貞東京大学教授との間でした。 邪馬台国問題や日本の3~5世紀を「日本古代貴族の英雄時代」とみなした石母田正法政大学教授説をめぐり、奴隷制以前の「はつらつたる無政府の状態としての英雄時代」を支持する井上説に対し著者は批判を行いました。 あるいは、国造制の成立をめぐって、国県制として県主制を国造制の下部組織であると断言する井上説に対して、県主制から国造・県主制への発展を主張とする著者との相互批判などについて論争しました。 これは論争のための論争ではなく、あくまでも史実を明らかにするための論争でした。 プライベートにはきわめて親しい交友関係でありましたので、今は亡き井上光貞さんのありし日を偲ぶばかりであるといいます。 戦後70年には、1956年に出版した『神話の世界』から数えて81冊目の2015年の『古代の日本と東アジアの新研究』まで、ちょうど研究史70年が重なります。 そこで古代史研究70年をかえりみて、生きた歴史を学ぽうとする人びとに、参考になればと思って、70年におよぶ研究史の内実をまとめることにしたといいます。第一章 人権問題の考察/「年寄りの達者春の雪」/三つのふるさと/折口古代学と西田文化史学/高校の教師として/京都大学と同和問題/在日の問題/帰化と渡来と/『日本書紀』の「帰化」の用例/大仏の造立と高野新笠/武寧王の血脈/百済王氏の活躍/郊祀のはじまり/『日本のなかの朝鮮文化』/家族の協力第二章 中央史観の克服/東アジアと古代の日本-日本版中華思想/中央史観の克服/出雲の息吹第三章 生涯学習・女性学と世界人権問題研究センター/生ける歴史/生涯学習/二つの名誉市民/大阪女子大学学長として/世界人権問題研究センター第四章 研究史七十年/天皇制とは何か-王道と覇道/私の研究史の歩み/井上東大教授との論争第五章 朝鮮通信使と雨森芳洲/朝鮮通信使の考察/雨森芳洲の思想/朝鮮通信使と雨森芳洲/韓語司の設立/概説書と入門書第六章 海外渡航/好太王碑の観察/訪中と民際/雅楽のヨーロッパ公演/パリでの時代祭/モンゴル訪問/ハンギョレ・コンサート
2020.03.21
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小林一三は1873年に山梨県巨摩郡河原部村、現在の韮崎市の商家で生まれ、すぐ母が死去し父とも生き別れ、おじ夫婦に引き取られました。 ”日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三”(2018年12月 中央公論新社刊 鹿島 茂著)を読みました。 阪急、東宝、宝塚などのユニークな発想から生まれたビジネスモデルを実践して、各地の事業者達に影響を与えた小林一三の生涯を紹介しています。 高等小学校から笛吹市八代町南の私塾・成器舎を経て上京し、1888年に慶應義塾に入り、塾構内の塾監・益田英次の家に寄宿しました。 1892年に慶應義塾正科を卒業して三井銀行に勤務し、34歳まで勤め東京本店調査課主任まで昇進しました。 日露戦争終結後、北浜銀行を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるため、1907年に大阪へ赴任しました。 しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えとなり、その頃に箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業が有望として岩下を説得し、北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功しました。 1907年に同社は箕面有馬電気軌道と社名を改めて設立され、小林は同社の専務となりました。 後にこれが阪急電鉄となり、さらに宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝などを加えて阪急東宝グループになりました。 鉄道起点の都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致などを行い、日本最初の田園都市構想を実現しました。 そうした手腕が見込まれて、東京電燈、現在の東京電力の経営を立て直し、1940年には第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命されました。 鹿島 茂さんは1949年横浜市生まれ、湘南高等学校、東京大学文学部仏文学科を卒業し、同大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学しました。 共立女子大学助教授・教授を経て、2008年より明治大学教授を務め、専門は、19世紀のフランスの社会生活と文学ですが、1990年代に入り活発な執筆活動を行っています。 1991年サントリー学芸賞、1996年講談社エッセイ賞、1999年ゲスナー賞、2000年読売文学賞、2004年毎日書評賞を受賞しました。 本書は2015年10月号から2018年12月号までの、雑誌”中央公論”への連載を元にしています。 箕面有馬電気軌道は恐慌に見舞われ全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれ、社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになりました。 そして1910年に開業し、現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間に電車を走らせました。 これに先立ち、線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年に分譲を開始しました。 サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めました。 同年11月に箕面に動物園、翌年に宝塚に大浴場・宝塚新温泉、1914年4月に、三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊を創り上げました。 沿線開発は乗客の増加につながり、神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改めました。 神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図り、現在の阪急を創り上げる支えとなりました。 1927年に社長に就任し、日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめました。 路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を、阪急マーケットと称した日用品販売店を2・3階に入れました。 1929年3月に阪急百貨店という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させました。 阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなりましたが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える阪急のイメージを確立し続けています。 百貨店事業の成功は、1929年の六甲山ホテルなどの派生事業の拡充、1932年の東京宝塚劇場や1937年の東宝映画の設立などの興業・娯楽事業につながり、阪急東宝グループは年々拡大の一途でした。 その後、1934年に阪急社長を辞任してグループの会長に就任し、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任しました。 放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人東電電気実験所、昭和肥料の設立にも関わりました。 そして、第2次近衛内閣で商工大臣となりましたが、革新官僚の代表格の岸 信介と対立し、企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕され、岸が辞職しました。 しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃され小林も辞職しました。 終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めましたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となりました。 1951年に追放解除となった後は東宝の社長になりましたが、1957年1月25日に自宅にて急性心臓性喘息で84歳で死去しました。 明治時代に、若尾逸平、根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれましたが、小林は関西を中心に活動した地方財閥と見なされ、甲州財閥とは区別されています。 また、小林は実業界屈指の美術蒐集家、茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、逸翁コレクションと呼ばれています。 これらを集めた逸翁美術館が旧邸の雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていました。 雅俗山荘は現在、小林一三記念館として一般公開されています。 なぜ今、小林一三なのでしょうか、それは、小林一三ほど、デカルト的な合理的精神を体現した企業家は日本にはいないと感じているからであるといいます。 デカルト的合理的精神とは、正しい損得勘定ということです。 近年、歴史人口学の発達により、出生率と死亡率の相関関係が、その国や地域の文明の進捗度などを計る最も確実な指標として浮上してきています。 いまや、この二つの指標の相関値の推移を観察すると、その国や地域の過去ばかりか、未来まで予測できるようになっています。 一般に一国ないし一地域の人口状況は、社会の経済発展にともなう医療・保健衛生の整備により、多産多死型の高出生率・高死亡率から、少産少死型の低出生率・低死亡率へと移行します。 その過程は以下の四段階をもって完了します。 第一段階の前工業化社会においては、医療・保健衛生状態と栄養状態の悪さゆえ、乳児死亡率が非常に高く全体では高死亡率で、自然増加率は低水準に止まっています。 第二段階の工業化社会の到来で、医療・保健衛生状態と栄養状態が改善され、死亡率、とりわけ乳児死亡率が大きく低下しますが、出生率は第一段階のまま高止まりし、自然増加率はどんどん高くなります。 第三段階の工業化社会の進展により、出生率が死亡率を大きく上回り人口圧力が高まりますが、やがて出生率の転換が起きて生率は一気に下がり、自然増加率は低下し始めます。 なお、人口そのものは第二段階の影響が残り増加を続けます。 第四段階では出生率も死亡率もともに下がり続け、自然増加率は低水準で推移し、自然増加率はマイナスとなり少産少死型が完了し、総人口はやがて減少に転じます。 小林の企業家としてのスタートは1907年の箕面有馬電気軌道の設立と専務取締役就任とすると、それは第二期に相当していました。 小林は日露戦争後の日本の若年人口がどんどんと増加していく最も良い時期に、箕面有馬電気軌道を始めたのです。 自然増加率が最大になった第二期の起業家である小林には、人口増という強力な後押しがありました。 しかしいうまでもなく、小林以外の誰かであっても同じような業績を残せたということではありません。 人口増という要因をビジネスの浮揚力として利用することを思いついたのは、ひとり小林だけでした。 著者は、箕面有馬電気軌道を計画してから分譲地開発を思いついたのではなく、分譲地となるべき土地の安さと優良さに気づいていたがために、箕面有馬電気軌道は行けると判断したのだといいます。 大阪市内に人口が密集しているのは市内にしか移動手段がないためで、もし郊外への移動手段が整備されたら、人々は大阪を脱出して環境のいい郊外に移動すると、人口学的な発想がひらめいたのです。 人口増大期の第二期的な発想から、事業を人口増大という大原理に照らして有望か否かを判断していたのです。 21世紀のわれわれは人口状況の第四期ですが、鏡で画像を反転させるように対偶的思考を用いて検討したら、あるいは人口減少期に生きる日本人のヒントになるようなことが見つかるかもしれません。 人口はすべてを決める、この点を忘れてはならなりません。序章 なぜ今、小林一三なのか?第1部 星雲立志/第1章 実業家なんてなりたくなかった?/第2章 銀行員時代① 仕事より舞妓の日々/第3章 銀行員時代② 耐えがたき憂鬱の時代/第4章 鉄道篇① 鉄道事業との予期せぬ出会い/第5章 鉄道篇② 鉄道と住居が民主主義を育む/第6章 鉄道篇③ アミューズメントで客を呼べ/第7章 劇場篇① 少女歌劇団を発明する/第8章 劇場篇② 男役誕生秘話/第9章 鉄道篇④ 災難が降りかかるほど運がいい/第10章 鉄道篇⑥ 事業は無理してはいけない/第11章 鉄道篇⑥ 阪急vs.阪神/第12章 番外篇① 「阪急」が文化になりえた理由/第13章 百貨店篇① ターミナルデパート「阪急百貨店」の誕生/第14章 経営のイノベーターとして何が革新的か第2部 第1章 東京篇① 心ならずも東京進出/第2章 東京篇② 電力事業に着手する/第3章 劇場篇③ 宝塚少女歌劇団、大ブレイクの時/第4章 映画篇① ヴィジョナリー・カンパニー「東宝」の誕生/第5章 映画篇② モットーは「健全なる興行」/第6章 劇場篇④ ”東宝の救世主”古川ロッパ/第7章 番外篇② 欧米視察旅行で見た実情/第8章 東京篇③ 楽天地-下町に明るく健全な娯楽を/第9章 東京篇④ 第一ホテル-東京に大衆のためのホテルを/第10章 球団篇 阪急ブレーブスとプロ野球に賭けた夢/第11章 東京篇⑤ 幻に終わったテレビ放送事業/第12章 番外篇③ 阪急沿線に学校が多いのはなぜか/第13章 国政篇① 天才実業家、政界への道/第14章 国政篇② 革新官僚の台頭と軍国化する日本/第15章 国政篇③ 大臣就任-戦時経済の救世主となれるか?/第16章 国政篇④ 革新官僚との戦い/第17章 国政篇⑤ 怪物次官・岸信介との仁義なき戦い/第18章 国政篇⑥ 小林、大臣を「落第」する第3部 戦中・戦後/第1章 筋金入りの自由主義者、戦時下を生きる/第2章 戦後篇① 自由経済を求め、二度目の大臣就任へ/第3章 戦後篇② 東宝、分裂の危機/第4章 戦後篇③ 新東宝とのバトルを経て、社長復帰/第5章 戦後篇④ 天才実業者の後継者/第6章 戦後篇⑤ 小林一三が遺したものあとがき/小林一三年譜
2020.03.14
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トウガラシは唐辛子、唐芥子、蕃椒とも言い、中南米を原産とするナス科トウガラシ属の果実あるいは、それから作られる辛味のある香辛料です。 ”トウガラシの世界史 - 辛くて熱い「食卓革命」”(2016年2月 中央公論新社刊 山本 紀夫著)を読みました。 原産地の中南米からヨーロッパに伝わり、わずか500年のうちに全世界の人を魅了するに至った比類ない辛さが魅力のトウガラシの、伝播の歴史と食文化を紹介しています。 唐辛子の漢字は、唐から伝わった辛子の意味で、歴史的に、この唐は漠然と外国を指す語とされ、同様に南蛮辛子や、略した南蛮という呼び方もあります。 唐辛子の総称として鷹の爪を使う者もいますが、正確には鷹の爪はトウガラシ種の1品種です。 トウガラシ属は中南米が原産地で、メキシコでの歴史は紀元前6000年に遡るほど古いそうです。 トウガラシ属には数十種が属しますが、そのうち栽培種は、 annuum(トウガラシ)、baccatum(アヒ・アマリージョなど)、chinense(ハバネロ、ブート・ジョロキアなど)、frutescens(キダチトウガラシ)、pubescens(ロコト) の5種です。 トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシには様々な品種があり、ピーマン、シシトウガラシ、パプリカなど、辛味がないかほとんどない甘味種も含まれます。 山本紀夫さんは1943年大阪市生まれ、京都大学農学部農林生物学科を卒業し、同大学院博士課程を修了しました。 農学博士(京都大学)、学術博士(東京大学)、専攻は民族学、民族植物学で、国立民族学博物館教授を経て、同館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授を務めました。 トウガラシは15世紀後半に、ヨーロッパでは純輸入品の胡椒に代わる自給可能な香辛料として南欧を中心に広まりました。 16世紀にはインドにも伝来し、様々な料理に香辛料として用いられるようになりました。 バルカン半島周辺やハンガリーにはオスマン帝国を経由して16世紀に伝播しました。 日本への伝来として、1542年にポルトガル人宣教師が豊後国の戦国大名に献上したとの記録がありますが、諸説があるようです。 いまや日本の漬け物の生産量第一位を占めるのはキムチですが、これにはトウガラシが不可欠です。 そのせいか、トウガラシの原産地は朝鮮半島だと考えている人が少なくありません。 また、インド原産だと考える人もいます。 これも辛くて刺激的なトウガラシを使ったカレーライスのせいかもしれません。 しかし、トウガラシは朝鮮半島原産でもなければ、インド原産でもありません。 トウガラシの故郷は中南米であり、15世紀の末にコロンブスによってカリブ海の西インド諸島から初めてヨーロッパに持ち帰られました。 コロンブスは、唐辛子を胡椒と勘違いしたままでしたので、これが後々まで、世界中で唐辛子 (red pepper) と胡椒 (pepper) の名称を混乱させる要因となりました。 そして、トウガラシはコロンブスの新大陸発見まで、旧大陸ではまったく知られていなかった作物ですが、ヨーロッパからアフリカやアジアなど世界各地にもたらされました。 著者がトウガラシに初めて興味をもったのは、40年以上も前の1968年のことだったといいます。 当時、京都大学農学部の学生で、京都大学探検部が派遣したアンデス栽培植物調査隊の一員として、ペルーやボリビアなどのアンデス地帯を踏査していました。 アンデスは、ジャガイモをはじめとして、タバコやトウガラシなど多数の栽培植物の原産地ですので、これらの栽培植物の起源を探ろうとしていました。 ある日のこと、ボリビアの事実上の首都であるラパスの市で珍しいものを売っているのを見つけたそうです。 小指の先ほどの小さな緑色の果実で、見たところサンショウのように見えますが、果実を売っていた女性は「ウルピカ」だと言いました。 その果実を一個だけ味見させてもらったところ、たしかに飛び上がるほど強烈な辛さでした。 その味はトウガラシ以外の何者でもなく、ウルピカはトウガラシの野生種だと分かりました。 それからトウガラシと人間の関係に大きな関心が生まれ、それを知るために中南米の各地を歩きまわりました。 そして、中南米各地域で採集した900系統あまりのトウガラシの栽培、観察、交配実験などを繰り返し、1978年には「トウガラシの起源と栽培化」のテーマで学位論文を提出し、博士号を得たそうです。 これまで世界各地におけるトウガラシの利用や歴史を追いかけてきましたが、なぜ、人間はあんなに辛いトウガラシを好むのでしょうか。 食べているときは、汗をかくほどつらいのに、食べおわるとまた辛いものを食べたくなってしまい、トウガラシの辛みには一度食べると病みつきになってしまう魅力があります。 人間の舌には辛みを感じる感覚はありませんが、トウガラシの辛み成分のカプサイシンが舌を強く剌激し、舌の痛覚かそれを感じます。 トウガラシを食べると人間の体は、痛みの元となる物質を早く消化し無毒化しようとして、胃腸を活発化させ食欲が増進します。 トウガラシは胃腸を活性化するだけでなく、カプサイシンによって体に異常をきたしたと感じた脳は、脳内モルヒネと呼ばれるエンドルフィンまで分泌します。 エンドルフィンには鎮痛作用があり、疲労や痛みを和らげる役割を果たし、結果的に、人間は陶酔感を覚え快感を感じます。 トウガラシの辛み成分であるカプサイシンには、食欲増進効果だけでなく、ストレスの解消や体内の脂肪の分解を促進する働きもあります。 カプサイシンは胃腸から吸収されると副腎に作用し、かなり長時間にわたって、アドレナリンを主成分とする人間を興奮状態にさせるホルモンの分泌を促進します。 現在、トウガラシを含む香辛料が食品として使われる主な目的は、食欲の増進や風味づけにあると考えられます。 しかし、人間が香辛料を使ったそもそもの動機は必ずしも食欲増進や風味づけだけにあったわけではありません。 肉類や魚介類の品質変化の抑制や腐敗防止の目的でも、香辛料は使われたのではないでしょうか。 中米でもアンデスでも、まだ人びとが狩猟採集で食料を得ていた時代から、トウガラシが利用されていたことはそのことを物語ります。 トウガラシの主な辛み成分はカプサイシンですが、これはカビに対して効力を有し、一部の細菌に対しても強い抗菌性を示すことが知られています。 トウガラシはキムチやコチュジャン、辛子明太子などの貯蔵や保存を目的とする食べものに用いられており、腐敗防止という作用を期待してのものだったことかうかがえます。 トウガラシの代表的成分はカプサイシンで、生のトウガラシには重量の0.02~0.2パーセント、乾燥トウガラシで0.1~1パーセント含まれています。 カプサイシンはトウガラシを食べたときのカーッとした熱い辛さを生み出し、食品として食べたときには、まず口にさわやかで強烈な辛みを引き起こします。 そして、辛いと感じることで、大多数の人が汗をかき唾液の分泌も高まります。 そのほか、カプサイシンの刺激が脳に伝わるとさまざまな作用が起き、まず、交感神経を刺激して、エネルギー消費を高め、脂肪の燃焼をよくします。 同様に、交感神経か刺激されることで血行がよくなり体が温まります。 また、ビタミンEよりも高い抗酸化作用があることもわかっています。 トウガラシの栄養素のうち、ビタミンやミネラルなどの微量成分では、ビタミソCの量の多いことか特徴として指摘できます。 ビタミンCの働きのうち代表的なものとしては、体の老化を防ぐ抗酸化作用があります。 ビタミンC以外のビタミンとしては、ビタミンEやA、Kの含量も高いです。 これらは単独で働くだけでなく、一緒に摂取することでお互いの効果を高めあうことができ、酸化を防止するACE(エース)とも呼ばれます。 このほか、トウガラシには医薬品としての用途などもあり、まだまだ知られていない魅力もあります。 これらの魅力が明らかにされれば、トウガラシによる辛くて熱い食卓革命は、さらに世界中で広く深く浸透してゆくに違いありません。 本書の構成はわかりやすいように地域別にしてあり、原産地の中南米に始まり、地球を東まわりに日本で終わるという構成となっています。第1章 トウガラシの「発見」/第2章 野生種から栽培種へー中南米/第3章 コショウからトウガラシへーヨーロッパ/第4章 奴隷制が変えた食文化ーアフリカ/第5章 トウガラシのない料理なんてー東南アジア・南アジア/第6章 トウガラシの「ホット・スポット」ー中国/第7章 「トウガラシ革命」ー韓国/第8章 七味から激辛へー日本/終章 トウガラシの魅力ーむすびにかえて
2020.03.07
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