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人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、四つの季節が巡っていくのが自然の摂理です。 玄冬なのに青春のような生き方をしろといっても、それは無理です。 ”孤独のすすめ”(2018年2月 中央公論新社刊 五木 寛之著)を読みました。 孤独というと何かとマイナスイメージで語られますが、歳を重ねれば重ねるほど人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感できるといいます。 「秋」という字の下に「心」と書いて、「愁」という言葉があります。 これは自分自身の問題であり、なんとなく心が晴れず、もの寂しい心持ちを指します。 愁いがくっきり見えてくるのが高齢期の特徴ですが、その愁いを逆手にとって、むしろそれを楽しむという生き方もあるのではないでしょうか。 だとすれば、後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼したほうがよほどいいといいます。 そして、孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたものではありません。 それどころか、つきせぬ歓びに満ちた生き生きした時間でもあります。 五木寛之さんは1932年福岡県八女郡生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移りました。 第二次大戦終戦時は平壌にいましたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去し、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出しました。 1947年に福岡県に引き揚げ、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えました。 その後、(旧制)福岡県立八女中学校、福島高等学校を卒業し、1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学しました。 生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトなどをして暮らしましたが、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍されました。 しかし後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなりました。 大学抹籍以降、ラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、業界新聞の編集長を務めました。 同時に、CMソングの詞の仕事を始め、CMの仕事が忙しくなって新聞の方は退社し、CM音楽の賞であるABC賞を何度か受賞しました。 その後、PR誌編集、ルポやコラム執筆、放送台本などの仕事を経て、大阪労音の依頼で創作ミュージカルを書きました。 そして、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられ、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞しました。 1965年に結婚し、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗りました。 かねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅しました。 帰国後、妻の郷里金沢でマスコミから距離を置いて生活し、小説執筆に取りかかりました。 1966年に”さらばモスクワ愚連隊”により第6回小説現代新人賞を受賞し、続いて同作で直木賞候補となりました。 1967年に”蒼ざめた馬を見よ”で、第56回直木賞を受賞しました。 ほかに、1976年に吉川英治文学賞、2002年に菊池寛賞、2010年に毎日出版文化賞などを受賞しています。 本書は、2015年に刊行された単行本”嫌老社会を超えて”を再構成し、大幅加筆のうえでタイトルを変えて新書化したものです。 孤独の時間を楽しみ、老いに伴う体や心の不調を穏やかに受け入れ、自立した生き方を心がけ、心が辛いときには回想することで癒しを得ることができるといいます。 孤独とは、他の人々との接触、関係、連絡がない状態を一般に指し、自分がひとりであると感じる心理状態を孤独感といいます。 孤独とそれに伴う孤独感には、自分と他者、世界との関係で捉えたものや、人間の存在そのものから来る孤独感などさまざまな視点があります。 大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じているならば、それは孤独です。 孤独にはそれに近い概念が多数存在します。 他人から強いられた場合には「隔離」、社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」、単に一人になっているのであれば「孤立」、他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」です。 孤独の感じ方は、発達段階の各時期によって異なることが知られています。 児童期の孤独感は、物理的にひとりになったときに体験するものがほとんどです。 思春期になると、周囲に人がいても疎外感の体験などから孤独を感じるようになります。 青年期には他人との関係ばかりではなく、自分の内面との関わり方、考え方の違いが重要な要因となります。 老年期になると、単身世帯になる場合や、活動や交際範囲が縮小するなど人や社会とのつながりが減少しがちであり、孤独感との関連性が見られます。 また、死を意識するようになり、人生を超えた時間的展望の中で孤独を感じるようになります。 五十嵐久雄さんの「春愁や老医に患者のなき日あり」という句は、焦っているわけでもないし、淡々と、おだやかに行く春を惜しんでいる感じが出ています。 この中の「春愁」という言葉は、春爛漫の中でなんとなく感じる愁いを表しています。 それもまた味わい深いもので、人生の最後の季節を憂鬱に捉えるのではなく、おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁いをしみじみと味わう境地です。 孤独な生活の友となるのが例えば本であり、読書とは著者と一対一で対話するような行為です。 体が衰えて外出ができなくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話ができます。 本は際限なく存在していますから、孤独な生活の中で、これほど心強い友はいません。 たとえ視力がおとろえて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずです。 残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺の世界が広がっていきます。 誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国であり、孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれます。 歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独のすばらしさを知ります。 孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方のひとつです。 また、昔はよかったという老人の繰り言を非難する人がいますが、繰り言は決して甘えではないし、後ろ向きの行為でもありません。 昔話をするのはむしろ、歳を重ねた人間にとっては豊かさや元気の源といってもいいでしょう。 人生の後半生は、後ろを向いて進む、振り返って進むことは、「後進」あるいは「背進」といい、むしろ大事なことです。 老年期の一番の問題は、生きる力が萎えることです。 生きていこうという気力さえ、萎えてしまいます。 弱っている人や衰えている人に、積極的になれとか、前向きにポジティブに生きろなどというのは、むしろ残酷なことではないでしょうか。 好奇心も、もともと旺盛な人はいいけれど、そうでない人に突然好奇心を抱けといっても無理でしょう。 むしろそういった励ましは、自分はこんなふうになれないと、ますます自己嫌悪に拍車をかける要因になりかねません。 スピードを落とすとき、ブレーキだけにたよらないでコーナーを気持ちよく回っていくためには、きちんとシフトダウンする必要があります。 高齢化社会にどう生きるかを考えたとき、頭に浮かんだのは、減速して生きる、というイメージだったといいます。 それも無理にブレーキをかけるのではなく、精神活動は高めながら自然にスピードを制御する、という発想です。 時代はまさに減速の時期にさしかかっており、加速ではなく、スピードを制御することを考えなければなりません。 しかし、それは後退でも停止でもなく、確実に時代のコーナーを回っていくための積極的な滅速です。 そして、気分が滅入ったときはたくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張り出すことです。 そうやって回想して咀嚼しているうちに、立ち直る自分がいます。 最終的には、人間とは愛すべきものだというあたたかい気持ちが戻ってくるといいます。第1章 「老い」とは何ですか/第2章 「下山」の醍醐味/第3章 老人と回想力/第4章 「世代」から「階級」へ/第5章 なぜ不安になるのか/第6章 まず「気づく」こと
2020.05.30
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日本人指揮者の小澤征爾が、ウィーン国立歌劇場の総監督に迎えられたのは画期的な出来事でした。 オペラの総本山が真の国際化に乗り出したということであり、また日本の異文化受容の到達点を示してもいます。 ”小澤征爾 日本人と西洋音楽”(2004年10月 PHP研究所刊 遠藤 浩一著)を読みました。 巨大な伝統を持つ西洋に対して、日本人として西洋のグラウンドで繰り広げている孤独な小澤征爾を論ずることによって、日本人と西洋音楽、ひいては日本文化としての西洋音楽について考察しています。 日本人が西洋音楽に近づくには、いい伝統もなければ悪い伝統もないため、まず日本人であることを自覚することから始めることになります。 才能豊かな小澤征爾という指揮者を通して、日本人が西洋音楽を奏する意味を問い直してみます。 本書は、『月曜評論』、『文語春秋』、『正論』といった月刊誌のほか、『改訂・小澤征爾とウィーン』(音楽之友社)などに発表した文章に加筆、修正を施し、解体し、再構成したもので、ほとんど書き下ろしに近い形になったそうです。 遠藤浩一さんは1958年金沢市生まれ、1981年に駒澤大学法学部を卒業し、民社研の雑誌を編集していた叔父と指導教授の影響を受け、民社党職員となりました。 民社党は1960年民主社会党として結成、1969年に民社党へ改称、1994年に新進党の結成に伴い解散しました。 遠藤さんは、民社党本部で月刊誌委員会編集部長、広報部長等を務めました。 民社党解党後は拓殖大学日本文化研究所の第2代所長を務め、公開講座を主宰し季刊誌を発行しました。 また、大学院地方政治行政研究科教授として、後進の指導にあたりました。 情報工学センター代表取締役、新しい歴史教科書をつくる会副会長、国家基本問題研究所理事、日本国際フォーラム政策委員等を務めました。 専門は日本政治史で保守派の論客として知られましたが、演劇・音楽にも詳しい人でした。 2014年に新年会に参加した後、体の不調を訴え、その後55歳で死去しました。 小澤征爾は1935年満洲国奉天市生まれ、1941年に母や兄と日本に戻り、立川市の幼稚園に入園し、1942年に立川国民学校に入学しました。 1947年に父の仕事の関係で神奈川県足柄上郡金田村に転居し、1948年に成城学園中学校に入学しました。 片道2時間かけて通学し、ラグビー部に所属し、豊増 昇にピアノを習いました。 ラグビーの試合で右手人差し指を骨折したため、ピアノの道を断念しました。 1950年に世田谷区代田に転居し、1951年に成城学園高校に進みましたが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年に齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科(男女共学)へ第1期生として入学しました。 1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学、現、桐朋学園大学音楽学部へ進学し、1957年に卒業しました。 短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当しました。 また、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会では、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめました。 1959年にスクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏し、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位となり、ヨーロッパのオーケストラに多数客演しました。 カラヤン指揮者コンクールで第1位となり、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事しました。 1960年にアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事しました。 1961年にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインに師事しました。 1961年にNHK交響楽団(N響)、1964年にシカゴ交響楽団、1964年にトロント交響楽団、1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、1970年にサンフランシスコ交響楽団などで指揮者や音楽監督を務めました。 1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団を創立し、指揮者として中心的な役割りを果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年に桂冠名誉指揮者となりました。 1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任し、活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなりました。 1984年に没後10年を偲び、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催し、これが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなりました。 1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功をおさめました。 1998年に長野オリンピック音楽監督、2002年にウィーン国立歌劇場音楽監督に就任しました。 ウィーン国立歌劇場では、2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまで音楽監督を務めました。 2008年に世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章しました。 小澤という指揮者は、リハーサルに際して、オーケストラに向かってあまり演説をしません。 余計な講釈は垂れない、時間を浪費しないのです。 指揮者には二つの能力が要求されます。 バトン・テクニックによって楽員たちから音を引き出す能力と、リハーサル中に言葉と指揮棒によって楽員たちに自らの意思を伝達する能力です。 そのリハーサルにおいても、小澤は言葉による伝達、すなわち演説は最小限にとどめようとします。 あくまでも棒によって、つまり身体によってオーケストラを操り、音楽を表現しようというやり方は、日本人指揮者として、到達すべくして到達した一つのスタイルと言えるでしょう。 日本人として他者の在り様をしかと観察し表現する、それが小澤のやり方です。 もちろん、言語によるコミュニケーションを拒絶しているわけではありません。 その場合でも、小澤の指示はあくまでも感覚的、直截的です。 小澤たちがサイトウ・キネン・フェスティバルで、毎年密度の濃い演奏を通じて確認しているのは、師である斎藤秀雄が編み出した〈斎藤メソッド〉の普遍性と可能性です。 斎藤は弟子たちに徹底的に音楽の基礎文法を叩き込みました。 小澤は折りに触れて、基礎的な訓練ということに関しては〈斎藤メソッド〉はまったく完璧で、世界にその類を見ないと、師匠の功績を称賛します。 それは、裏を返せば、西洋音楽の伝統を持たない日本人にとっては、基礎的な訓練が必要不可欠であったということにほかなりません。 なにしろ、日本人が国民的課題として西洋音楽と取り組み始めたのは、明治5(1872)年、小学校に唱歌、中学校に奏楽という課目が設置されて以来のことです。 西洋音楽の移入から戦後小澤ら日本人演奏家が世界で活躍するようになるまでに、100年も経っていないのです。 サイトウ・キネン・オーケストラは、世界に類を見ない音楽文法を自家薬寵中のものとした演奏家の集まりです。 サイトウ・キネン・フェスティバルは、斎藤の音楽文法の普遍性を証明する場と言えます。 それは、まさに日本人じゃなければできない証明です。 日本、アメリカ、ヨーロッパでは、音程の取り方から音の感じ方、音の大きさ・長さにいたるまで、奏法はまったく違います。 オーケストラによっても演奏の仕方は異なりますし、演奏家の個性もまちまちです。 オーケストラというものは力ずくで言うことを聞かせようとしても、決して統御できるものではありません。 力を抜いて、自分の意思を楽員に伝え、自分の思うような音楽を奏でさせます。 それは斎藤から受けた、オーケストラも室内楽のように他の奏者の演奏を聴きながら奏でるのが基本だ、という教えとも通底します。 小澤は、オーケストラをねじ伏せるのではなく、自分の表現したい音楽を、抗いがたい放射によって表わすとともに、一人ひとりの演奏家から表現したい音楽を引き出し、それをハーモニーとして造形していくという指揮法を確立しました。 そして、小澤の音楽は、音楽的思慕も音楽的教養も持たないが実人生だけは承知している一般聴衆の胸に、直接通ずるものだけが簡潔に表現されています。 小澤の音楽的才能は、日本人であるという自意識の上に立脚しています。 日本人として音楽の基礎文法を徹底的に習得し、譜面の読み方、作品の解釈の仕方が、西洋音楽の悪い伝統に引きずられておらず、きわめて日本的なのです。 日本的というのは、謙虚に他者と向き合うことであり、他者の文化を柔軟に受容するという一面を持っています。 そしてそれは、常に柔軟に進化を続けます。 小澤のように西洋音楽の悪い伝統にとらわれることなく、ひたすら譜面を通して作曲家に直に迫るというアプローチの仕方は、ある意味で、日本人でなければできないことでしょう。プロローグ 音楽には国境がある/第1章 「文化的・平和的掠奪行為」としての西洋音楽/第2章 何人かの「父」/第3章 「透明なブラームス」の是非/第4章 疾走する『荘厳ミサ曲』/第5章 ショスタコーヴィチの「叫び」/第6章 オペラという伏魔殿/第7章 菊池寛とチャイコフスキー/エピローグ 西洋音楽と「からごころ」
2020.05.23
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私たちは、有史以来の物々交換からはじまり、やがて中国や自国の貨幣を使用するに至り、近世・近代以降の貨幣経済を当たり前のように生きてきました。 ですが、最近は仮想通貨の登場で現金消滅の近未来が現実味を帯びてきて、「お金」を取り巻く様相は激変しています。 ”「お金」で読み解く日本史”(2018年5月 SBクリエイティブ社刊 島崎 晋著)を読みました。 現代人は近代以降の貨幣経済を当たり前に生きてきましたが、最近AIの進展で銀行・金融スキームがなくなり様相が激変している「お金」についてその歴史を振り返り役割や存在意義をあらためて考えています。 島崎晋さんは1963年東京都生まれ、立教大学文学部史学科東洋史学専攻、大学在学中に中華人民共和国山西大学への留学経験をもっています。 大学卒業後は旅行代理店に勤務し、のち編集者として歴史雑誌の編集者を経て、歴史作家になり今日に至ります。 現在、商品を買った支払いを電子マネーやクレジットカードで処理する人も増え、お金に対する認識を改める必要に迫られています。 これまでのところ人類はかろうじて一線を越えるにいたっていませんが、近年の状況を見る限りでは楽観は禁物といわねばならないでしょう。 話を日本に限ってみても、「お金」中心の経済に行き詰まり感があることは否めません。 コインや紙幣という実体のある通貨だけでは、閉塞状況を打開することはできないと思います。 しかし、その代案として決定的なものはいまだなく、各種カードは既存貨幣の存在を前提として成り立つもので、仮想通貨にいたっては定着するかどうかも危うい状況にあります。 日本経済が「お金」に翻弄される時代はまだ続きそうであり、近年、仮想通貨取引所の事件が立て続けに起きました。 また、2013年にキプロスを見舞った預金封鎖などは、完全な他人事と決め込んでいますが、それは大きな間違いです。 キプロス危機はキプロスショックとも呼ばれ、ユーロ圏のキプロス共和国で発生した金融危機です。 ギリシャ危機により、キプロスの銀行の融資や債券投資に大きな不良債権が発生し、経営が立ち行かなくなったことに起因します。 欧州連合(EU)や国際通期基金(IMF)に救済を求めた際に、支援の条件としてキプロスの全預金に最大9.9%の課税を導入することを、2013年3月16日にキプロス政府とユーロ圏側が合意しました。 キプロスで起きたのと同じことが近い将来、日本でも起こりうることを覚悟しておかねばなりません。 預金の引き出しが停止され、引き出しが再開された時点には、その額が半分近くに減らされているような事態が、絶対起こらないとは断言できないのが昨今の現実です。 わたしたちが、これからどのように「お金」と付き合っていくかを考えた場合、「お金」の根本を振り返ってみることで、「お金」が社会に果たす役割などを知り、これからの「お金」のあり方を考えられるのではないでしょうか。 物々交換から貨幣経済への転換が根付くまで、どれはどの歳月を要したかは見当もつきません。 物々交換の開始時期がわからないのですから当然ですが、西暦57年に倭の奴国の王による後漢の光武帝への朝貢時に貨幣の存在を認識していたとすれば、その時点から最初の国産貨幣が製造されるまでに約700年が経過していました。 東アジア情勢の緊迫にともない、日本でも権力の集中が進められると、貨幣の利便性に着目する者が増え始め、和同開珎の製造にいたりました。 古代の貨幣には金貨、銀貨、銅銭の三種がありましたが、日本で基本通貨とされたのは銅銭でした。 いつまでも中国大陸からの輸入に頼ってはいられませんので、和同開珎をはじめ、国産貨幣の製造と普及に向けての努力が重ねられました。 しかし、技術の未熟さから衆人を納得させられるレベルのものが造れず、958年の乾元大宝を最後に、国産通貨の製造はいったん停止されました。 藤原氏による摂関政治の時代と、国政の運営権が上皇の手に移った院政の時代を経て、やがて、武家政権が誕生することとなりました。 日本人のあいだに、貨幣経済が広く浸透したのは室町時代のことでした。 それまでは全国的に流通させるには絶対量が足りなかったため、貨幣の存在が知られてからも、日常の取引で常用されるまでには、かなりの時間を必要としました。 室町時代になって中国大陸から大量の銅銭が流れ込むにおよんで、ようやく日本全国に貨幣経済が浸透しました。 戦国時代は、天下を取るためには兵を食わせていかねばならず、江戸時代には、天下を治めるには民を食わせていかねばならないという構図もできあがりました。 上意下達は無条件とはいかず、そのためには食べていくのに十分な手当をしっかりと支給し続けねばならなくなりました。 武力だけでなく経済的な裏付けがないことには、長く政権を保つことは不可能になりました。 そういう意味で、江戸時代は「米」中心の経済から「お金」中心の経済への過渡期にあたっていました。 民間では商人層の台頭が目覚ましく、生産よりも流通に重きを置くことが始まりました。 生産から流通までの全体を掌握して、特定の顧客だけを相手にするのではなく、誰にでも開かれた商売をする、現在の商社や百貨店、スーパー、小売店などの前身が生まれました。 そして迎えた明治時代には、「お金」での納税が義務付けられるにおよび、人びとはもはや完全に「お金」なしで生きていくことができなくなりました。 明治新政府は中央集権の体制づくりはもちろん、電信の設置や銀行の設立、鉄道の開設など、あらゆる分野で西洋を手本とした近代化を図りました。 明治以来の日本には北進論と南進論の二つがありました。 帝国主義に遅れて参画した日本には残された場所が少なく、北進をすればロシアと、南進をすれば英仏の利害と衝突するのは目に見えていました。 環太平洋全域を自国の市場にしようとしていたアメリカとの関係についても、同じことが言えます。 第一次世界大戦以降、日本でもできるだけ協調外交が推進され、衝突回避の努力が重ねられました。 ですが、ニューヨーク株式市場に端を発した世界恐慌が、ブロック経済を招くにおよび、後発の持たざる国は先発の持てる国のお裾分けに甘んじるか、戦争を覚悟の上で手荒な手段に出るしかありませんでした。 かくして第二次世界大戦が勃発しましたが、そこにいたるまでの日本は途中で何度も大きな選択を経験していました。 朝鮮半島の植民地化と満州の事実上の併合は北進論であり、台湾の植民地化と中国本土への進出は南進論に分類され、太平洋戦争勃発の契機となったフランス領インドシナ進駐などは南進論の延長線上にあるものでした。 中国と全面戦争をしながら、ソ連の脅威にも備え、米英仏に戦いを挑むなど無謀もいいところでした。 戦後日本の復興に弾みをつけたのは朝鮮戦争特需でした。 日本が受け負った武器・弾薬以外の軍需品の製造と運搬で、国内産業に復興の兆しが見え、敗戦に打ちひしがれていた日本にとって大きな転機になりました。 高度経済成長期を経て、日本製品の海外市場は東アジアだけではなく、欧米にも拡大しました。 1971年に、アメリカが19世紀末以来初の赤字を体験すると政策の大転換を行い、世界経済が変動相場制へと移行すると、日本経済も荒波の上を激しく上下しました。 西ヨーロッパ諸国が立ち直りを見せはじめると、あらゆる分野で競争が激しくなり、米ドルの価値は急速に下落しました。 1973年の第一次オイルショックを境に日本経済も陰りが表れ、以来政府は赤字国債の発行により財政赤字の補填に努めました。 バブル崩壊後、窮状を打開するには従来の政治家ではダメとの考えも広まっていました。 「聖域なき構造改革」「骨太の方針」など様々なスローガンを打ち出しながら、郵政民営化に限らずあらゆる分野での規制緩和が実行されました。 一連の規制緩和は競争社会にともなうサービスの向上や料金の値下げといったプラスの効果をもたらしましたが、その反面、一億総中流意識や終身雇用を完全に打ち砕き、格差社会を到来させることともなりました。 金融業界を除くあらゆる業界で人員の削減をはじめリストラが実施され、失業率が他の先進国並みに上昇しました。 正社員の採用をできるだけ抑え、派遣社員に頼る業態も一般化して、若者の貧困化が加速することにもなりました。 これに追い打ちをかけたのが2008年のリーマンショックと、2011年の東日本大震災です。 消費の冷え込みは日本社会全体におよび、バブル崩壊から20年以上におよぶ不景気は、「失われた20年」と呼ばれ、IT産業一人勝ちという格差の構図は、解消される見込みがありません。 自由競争社会・資本主義の中で、便利になった反面、生き方の選択肢が著しく狭められました。 その結果、そこで生じる格差社会にどう対処したらよいのかという点が、日本を含めた国際社会が共通して抱える問題となりました。 国家や会社をあてにできなくなりつつある状況では、われわれは「お金」に関してはもちろん、生活に関するあらゆる点において、自己防衛に努めなければならず、その際、本書が必ずや参考になるはずです。序 章 2000年もの間、日本人を本当に動かしたのは「お金」だ!/第1章 こうして物々交換から物品貨幣へ移った古代日本/第2章 中国と日本の「銭」が入り組んだ中世日本/第3章 貨幣制度が本格化し金銀を求めた戦国時代/第4章 独自の貨幣制度で250年間を安定させた江戸時代/第5章 「円」と「銀行」の誕生で近代国家を歩んだ日本/第6章 高度成長とバブルでマネーに狂乱した戦後日本/終 章 こうして始まった!現金消滅の近未来
2020.05.16
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独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点であると述べる青春バイブルです。 ”二十歳の原点”(1971年5月 新潮社刊 高野 悦子著)を読みました。 かつては映画化され最近コミックにもなり、50有余年で230万部超えとなる時代を超えた名著です。 1969年6月24日午前2時36分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線の二条駅と花園駅間の天神踏切西方20メートルで、上り山口・幡生駅発梅小路駅行貨物列車に、線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死しました。 自殺らしい。 西陣署で調べていますが、年齢15~22歳、身長145センチで、オカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明という記事が、京都新聞の夕刊社会面に載りました。 自殺した若い女性は高野悦子さん、当時20歳で、立命館大学文学部史学科の3年生でした。 下宿には大学ノートに十数冊の横書きの日記が遺されました。 その一部は同人誌「那須文学」9号(昭和45年8月刊行)に、父親高野三郎氏の編集で、44.1.2~6.22まで掲載されました。 高野悦子さんは1949年栃木県那須郡西那須野町生れ、西那須野町立東小学校、西那須野町立西那須野中学校、栃木県立宇都宮女子高等学校を経て、立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学しました。 社会・政治問題に関心を持ち、部落問題研究会に入部したり、学内バリケードに入るなどの活動を経験しました。 1969年に20歳6か月で自死し、学園紛争が吹き荒れた時代に、自己とは何かを問い、死の直前まであふれる思いをつづりました。 中学時代から書きつづけていた日記が、死後に『二十歳の原点』(1971)、『二十歳の原点序章』(1974)、『二十歳の原点ノート』(1976)として出版され、いずれもベストセラーになりました。 『二十歳の原点序章』は1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までの記録です。 大学受験の時期から、立命館大学進学での新しい生活のスタートと戸惑い、片思いなど心の葛藤が書かれています。 新潮社から発売された「二十歳の原点」がベストセラーになり、その続編として出版されました。 出版された時期は「原点」の後になりますが、実際に書かれた時期は「序章」の方が古いです。 2009年4月にカンゼンから「新装版」が発行されました。 『二十歳の原点ノート』は1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までに書かれたものです。 新潮社から発売された「二十歳の原点」、「二十歳の原点序章」が続けてベストセラーになり、その続編として出版されました。 中学校から高校にかけての思春期の心の移り変わりと学校生活での悩みが書かれていて、3作目に当たる本作もベストセラーになりました。 いずれも、いつの時代にも通じる普遍的な若者の心の深層をとらえた内容となっています。 高野三郎氏は1923年生まれ、1946年に京都帝国大学農学部を卒業し、神奈川県庁勤務後、1947年に栃木県庁に入り、教育次長民生部長をへて、1981年に退職しました。 1982年から西那須野町の町長を2期・8年間務め、2001年に脳こうそくのため自宅にて77歳で亡くなりました。 『二十歳の原点』は1969年1月2日(大学2年)から1969年6月22日(大学3年)までの記録で、1971年に新潮社から発行された日記です。 大学2年から大学3年までの、立命館大学での学生生活を中心に書かれています。 理想の自己像と現実の自分の姿とのギャップ、青年期特有の悩みや、生と死の間で揺れ動く心、鋭い感性によって書かれた自作の詩などが綴られています。 タイトルは、当時の成人の日である1月15日に書いた、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という一節から取られています。 日記は全共闘による東大安田講堂封鎖で学生運動がピークを迎える中、栃木県西那須野町の実家から京都・嵐山の下宿に戻り、20歳の誕生日を迎えた1969年1月2日から始まっています。 立命館大でも紛争が激しくなり、大学本部・中川会館が全共闘によって封鎖され、どう立ち向かうべきか焦りが募っていきました。 2月には大学近くの喫茶店で音楽を聴きながら、思いを巡らしました。 傍観を止めて自ら行動することを決意し、入試実施を控え騒然としたキャンパスで徹夜しました。 機動隊が入る事態を目の前にして、ついに全共闘の集会やデモに参加しました。 3月に京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを始め、違う世界があることを知りました。 仕事を続けながら学生運動に関わっていくため、下宿から丸太町御前通近くの部屋での一人暮らしに移りました。 4月に大学3年生になりましたが、自分の行動を理解してもらえないと、相談相手だった同級生との仲を絶ちました。 アルバイト先の男性に恋心を持ち交際を深め、沖縄返還のデモをきっかけに全共闘のバリケードに泊まるようになりました。 5月に男性に別の女がいることを知りショックを受けましたが、なかなか諦められませんでした。 立命館大のバリケードは機動隊に追い出され、移った京大では機動隊とのぶつかり合いで警察署に連行されました。 大学の体制とその下で学生であることを否定し、両親との話合いも物別れになりました。 6月にアルバイト先で男性に別れを告げようと思いますが、できないままの日々が続きました。 体を張って取り組んだ全共闘運動に停滞を感じ、行動する熱意がなくなりました。 午後1時15分、 「バイトを終えて独り部屋でジャズをきくと楽しくなる。それが唯一の楽しみだ。バイト先で私は皮肉と悪口ばかりいっていた。これじゃ誰からも嫌われるのは当然です。このノートに書いているということ自体、生への未 練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。」(カッコ内は引用)。 そして、睡眠薬を買ってきて飲んで20分たってもまだ眠くならない。 20錠のんでも幻覚的症状も何もおこらず、しいて言えば口と胃が重たくなった程度です。 どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。 アルコ~ルの方がよっぽどましだ。 日記の最後に、「旅に出よう」で始まる詩が書かれています。 6月23日未明で日記の記述は終わり、翌24日に列車に飛び込み自殺しました。(以下、引用)。----------旅に出ようテントとシごフフの入ったザックをしょいポケットには一箱の煙草と笛をもち旅に出よう出発の日は雨がよい霧のようにやわらかい春の雨の日がよい萌え出でた若芽がしっとりとぬれながらそして富士の山にあるという原始林の中にゆこうゆっくりとあせることなく大きな杉の古本にきたら一層暗いその根本に腰をおろして休もうそして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう近代社会の臭いのする その煙を古木よ おまえは何と感じるか原始林の中にあるという湖をさがそうそしてその岸辺にたたずんで一本の煙草を喫おう煙をすべて吐き出してザックのかたわらで静かに休もう原始林を暗やみが包みこむ頃になったら湖に小舟をうかべよう衣服を脱ぎすてすべらかな肌をやみにつつみ左手に笛をもって湖の水面を暗やみの中に漂いながら笛をふこう小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中中天より涼風を肌に流させながら静かに眠ろうそしてただ笛を深い湖底に沈ませよう----------2009年4月にカンゼンから「新装版」が発行されました。読者へ/二十歳の原点/高野悦子略歴/失格者の弁・高野三郎
2020.05.09
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組織は共通の目標を有し目標達成のために協働を行うシステムであり、何らかの手段で統制された複数の人々の行為やコミュニケーションによって構成されます。 ”組織の盛衰”(1993年4月 PHP研究所刊 堺屋 太一著)を読みました。 豊臣家、帝国陸海軍、日本石炭産業の巨大組織のケース・スタディーから、機能体の共同体化、環境への過剰適応、成功体験への埋没という三つの死に至る病を検証し、時代の大転換期を生き抜く新しい組織のあり方を提唱しています。 たとえば、企業体,学校,労働組合などのように,複数の人々が共通の目標達成をめざしながら分化した役割を担い,それぞれ統一的な意志のもとに継続しています。 メンバーシップ、階層構造、ポジション、コミュニケーション、自律性、集合的主体として行動ならしめるルールなどから定義されます。 諸要素を計画的に調整することで、組織は個人で対処できる能力を超えた問題を解決できます。 組織の利点は個人の能力を強調・追加・拡張することですが、計画的な調整を通じて惰性と相互作用の減少が生じるというデメリットももたらされます。 将来にわたって存続し続ける組織、世間に対して価値を提供している組織、組織内のメンバーが心地よく働ける組織などが良い組織とされます。 企業も資金不足などで倒産することがあり、倒産してしまえばそれ以上社会に貢献を続けることも従業員の雇用を守ることもできません。 継続して生き残れる企業であることが必要で、存続し続ける会社の組織は良い組織といえるでしょう。 業績低迷する企業、硬直した官僚機構、戦後の未曾有の繁栄をもたらした日本的組織を、今、何が蝕んでいるのでしょうか。 堺屋太一さんは1935年大阪市東区岡山町、現中央区玉造生まれ、本名は池口小太郎で、ペンネームの由来は先祖の商人の堺屋太一から採ったものだそうです。 1954年に大阪府立住吉高校を卒業し、東大受験に失敗し滑り止めの慶大法学部に入学しましたがすぐ退学しました。 2年間の浪人生活の後、1956年に兄と同じ東京大学に合格し、経済学部で大河内一男教授に師事しました。 1960年に通商産業に入省し、1962年の通商白書では世界に先駆けて水平分業論を展開しました。 また、日本での万博開催を提案し、1970年の大阪万博の企画・実施に携わり、成功を収めました。 その後、沖縄開発庁に出向し、1975年-1976年の沖縄海洋博も担当しました。 工業技術院研究開発官として3年ほど自然エネルギーに関わるサンシャイン計画に携わった後、通産省を退官しました。 通産省に在職中の1975年に、近未来の社会を描いた小説『油断!』で作家としてデビューし、その後も多数の小説や、社会評論、政策提言に関する著作を執筆しました。 2002年に東京大学先端科学技術研究センター客員教授に、2004年に早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授に、2008年に関西学院大学大学院経営戦略研究科客員教授に就任しました。 この本の目的は二つあるそうです。 一つは、現在の組織、特に日本の官僚機構や企業組織などの現状を点検して正確に観察認識し、その改革改善と新しい創造に役立つような発想と手法を提供することです。 もう一つは、この国に組織論または組織学の体系を広めることです。 1992年においても経済は成長し、失業率はきわめて低く、貿易は人類史上最大といわれるほどの黒字でしたが、今日、日本経済は不況といわれています。 つい3年前までは世界無敵のようにいわれていた日本企業が、今は業績悪化に喘ぐ有様です。 日本の経済実態は、決して破滅的なほど悪いわけではありません。 この国に重大な天災が起こったわけでも、外敵の侵攻危機が迫ったわけでもありません。 たかだか土地や株が値下りし、消費需要が少々前年割れになった程度です。 こうも大騒ぎになるとは、日本の企業組織がいかにも弾力性を欠いている証拠でしょう。 企業だけではありません、政府官僚機構も同様です。 長い間、日本の官僚機構は優秀有能と信じられていましたが、それもこの2、3年ですっかり潰れてしまいました。 世界の冷戦構造が消滅しアメリカが日本の追随を喜ばなくなった途端に、日本政府は基本方針の立案も総合調整の実行もできなくなってしまいました。 財政問題でも教育改革でも公共事業や医療制度の問題でも、この20年間に成果を上げた改善はほとんど見られません。 官僚機構という組織が極度に硬直化し、有能な人材を閉塞しています。 今日の日本人は戦後という特定の時代に長く生きて来た間に、この特定の時代を当り前の状態と思うようになりました。 安価な安全保障と確実な原料輸入と有利な輸出市場が得られ、内では高度経済成長が続き、企業は押しなべて大発展を続けました。 そんな日本人が寄り集まって作る組織も戦後の環境に適応し、それ以外を考えなくなってしまいました。 今日の日本の組織は、官僚機構も企業組織も個人の家庭も、そんな国際環境と経済状態に適合して形成されています。 しかし長い歴史を踏まえて見れば、戦後はきわめて特殊な時代でした。 世界には東西対立冷戦構造がありましたが、1989年末にベルリンの壁が崩れて冷戦構造は消滅してしまいました。 その直後から日本国内でも土地と株とが値下り、バブル経済の崩壊がはじまりました。 つまり、国際政治でも国内経済でも戦後は終わり、新しい時代、新しい環境が始まったのです。 戦後という特殊な時代に適合した日本の組織が、これに対応して自らを改革し改善するためには、どのような視点から分析し、どのような要点に留意すべきか、それを考えることが大切でしょう。 本書の第一の目的は、そうした問題意識を持って組織を点検し、これからの知価社会にふさわしい組織の体質と気質を創り出す一助となることです。 この本のもう一つの目的は、この国に組織論または組織学の体系を広めることです。 今の世の中はすべてが組織で動いているといえますが、その組織に関する調査研究は必ずしも多くはありません。 近代の学問体系はあらゆる分野を細分化し専門化してきわめて高度な知識と技術を作り上げて来ましたが、組織に関する研究だけは著しく立ち遅れています。 現在の組織についても個々の問題としてはいくらか取り上げられていますが、大部分は組織の観察と影響を論じることに主眼が置かれています。 そして、組織そのものの種類や要素、機能や構造に関する体系的な理論にまでは到達していません。 著者が組織の問題に取り組んだ最初は、20年あまり前の通産省の組織改革に当たって、ヒューマンウェアの研究をはしめた時だったといいます。 通産省退職後、1983年から85年にかけてヒューマンウェア研究会を主催し、数多くの研究者と大量の資料に遭遇することができました。 組織論の研究は断続的ではあるものの既に20年を超えましたが、その間に社会も技術も、世界も経済も、様々に変わりました。 ただ日本の組織だけは基本的に変わっておらず、むしろ戦後という特殊な時代にますます過剰に適応しているように見えます。 冷戦構造と高度成長という環境の中で、あまりにも多くの成功体験を積み上げて来たからです。 時代が継続し環境が不変なら、組織の問題は実務の範囲で処理できます。 しかし、世界構造が変わり歴史の発展段階が転換しようとする今は、これまでの経験と経緯を離れた観察と思考が必要です。第一章 巨大組織の生成から崩壊まで 三つのケース・スタディー/導入のための事例(1)豊臣家-人事圧力シンドロームと成功体験の失敗(2)帝国陸海軍-同体化で滅亡した機能組織(3)日本石炭産業-「環境への過剰適応」で消滅した巨大産業第二章 組織とは何か 取り残された学問領域-「組織」(1)組織の要素(2)「良い組織」とは(3)組織の目的/(4)共同体と機能体(5)強い機能組織を作った織田信長-もう一つのケース・スタディー第三章 組織管理の機能と適材 組織作りの巨人/(1)人間学と組織論(2)トップの役割(3)現場指揮者と参謀(4)得難い補佐役(5)後継者第四章 組織の「死に至る病」/(1)機能体の共同体化(2)環境への過剰適応(3)成功体験への埋没(4)組織体質の点検(5)組織気質の点検第五章 社会が変わる、組織が変わる 近代歴史学の欠落部分/(1)旧知価革命と組織変化(2)情報技術の変化(3)高齢化社会と人事圧カシンドローム第六章 これからの組織-変革への五つのキーワード 戦後型組織の終わり/(1)経営環境の大変化(2)三比主義からの脱却(3)「価格-利益=コスト」の発想(4)「利益質」の提言(5)ヒユーマンウェア(対人技術)の確立(6)経営の理念=あなたの会社の理想像は
2020.05.02
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