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洞窟は、地中にある一定の大きさの空間で、洞穴とも言われます。 ”素晴らしき洞窟探検の世界”(2017年10月 筑摩書房刊 吉田 勝次著)を読みました。 いまだに誰も見たことのない未踏の世界が存在する知られざる洞窟に魅せられた探検家が、日本と世界各地のいろいろな珍しい洞窟を紹介しています。 一般には地下空間のうち人間が入ることが可能なものをいい、洞口の長径が奥行きよりも小さければ洞長2m程度でも洞窟と呼ばれます。 水平方向に伸びている横穴や井戸状に開口している縦穴などがあります。 通常、洞内空間は大気で満たされています。 内部の気温は、一般に洞窟がある外部の平均気温になり、内部は外部と較べると夏は涼しく冬は暖かいです。 また地中であることも含め、一般に湿度が高いです。 洞口部では日光が差し込むこともありますが、氷河洞・雪渓洞などを除いて奥部は完全な暗黒となります。 洞内空間が地下水・海水・堆積物で満たされている洞窟もあります。 完全に水没している洞窟は水中洞窟、特に海面下に沈んだものは沈水洞窟と呼ばれます。 広義には、自然洞窟だけでなく人工洞窟や混成洞窟を含みます。 吉田勝次さんは1966年大阪府生まれ、洞窟探検家で株式会社地球探検社代表取締役、有限会社勝建代表取締役、社団法人日本ケイビング連盟会長を務めています。 20代後半で洞窟にのめり込み、今まで入った洞窟は国内外含め1000以上にのぼるといいます。 元々は登山を趣味としていたそうですが、やがて既に踏破されてルートもほぼ定められた登山には物足りなさを感じるようになり、1994年に雑誌で参加者を募集していた静岡県と愛知県の県境にある洞窟探検に参加しました。 以降はケイビングを趣味とするようになり、1996年には仲間とともに「Japan Exploration Team」=日本探検チーム、略称J.E.Tを結成しました。 2011年に一般社団法人日本ケイビング協会(Japan Caving Association)を設立し、洞窟探検のガイドやテレビ撮影のガイド・サポート、洞窟ガイド及びレスキューの育成活動、洞窟に関する学術調査などの活動を行っています。 同団体は2016年に名称変更され、現在は一般社団法人日本ケイビング連盟となっています。 暗くて、狭い洞窟に入っていくのはなぜ、とよく聞かれるといいます。 危険を犯してまでなぜ洞窟に潜るのか、不思議に思えるらしいのです。 暗くて狭い場所が好きな変人に違いないと思われている節もあります。 ところが、実は高所恐怖症で閉所恐怖症と、相当な怖がりなのだそうです。 高所恐怖症は重いほうで、小学生の頃は、街中の歩道橋でさえ立って歩いて渡れないほどでした。 大人になって登山に初めて挑戦したときも、岩壁や氷の壁を登っているときは足がガクガク震えて止りませんでした。 20代で洞窟探検を始めてからは、洞窟の狭いところを移動しているとき、急に恐怖心が襲ってきて前に進めなくなって、そのまま帰ったこともあったといいます。 深い縦穴に降ろしたロープにぶら下がる瞬間はいつも、ロープが切れるんじゃないか、と不安に思うそうです。 それにたくさんの支洞が迷路のようになっている洞窟では時々、迷ってしまうことがあります。 そうなると緊張感と恐怖心で押しつぶされそうになって、脂汗が出てきます。 探検家は向こう見ずと思われがちですが、このように実は相当な怖がりです。 なのに、なぜ洞窟に入るのか、と言えば、そこには素晴らしい世界が待っているからです。 どのように素晴らしいのか、それを本書で伝えていければと思っているといいます。 子供の頃はバスで一人で観光鍾乳洞へ行くぐらい洞窟が好きでした。 そして洞内がライトアップされた観光鍾乳洞でも、ライトアップされていない通路や、これ以上は立ち入り禁止という看板の奥に行ってみたいと思っていました。 観光鍾乳洞ではない、自然の洞窟に入る機会に恵まれたのは28歳のときでした。 初めて入ったその洞窟は観光化されてないとはいえ、いま思えば入るのは大変でなく見所も少なかったそうです。 それでも、洞窟の暗闇の中を進みながらやっと見つかったと思いました。 目の前は真っ暗なのに、頭の中が明るくひらけた感じがしました。 自然の洞窟は、大人一人がやっと通ることのできる狭い通路、垂直の縦穴は当たり前です。 わずかな空間が水に満たされ、地下河川や地底湖になっていることもよくあります。 そして、暗闇の中には実に変化に富んだ地形が待っていて、洞窟の奥には入口からは想像できない世界が広がり、その景色は到達した者以外は見ることができません。 そして、洞窟の中を進むためには、スキルが必要です。 シングルロープテクニックが有名ですが、その他にもスキューバダイビング、ロッククライミング、登山などの技術が役立ちました。 また土砂や岩で埋没した空間を掘り進むための土木技術として、本業の建設業のスキルが活きました。 それまでの人生で取り組んできたことすべてが、洞窟探検につながりました。 国の天然記念物でもある山口県の秋芳洞、世界遺産のアメリカのカールスバッド洞窟や、ヴェトナムのフォッニヤ洞窟などのいわゆる観光洞窟には、一年中、大勢の人が訪れます。 訪れれば、きっと人それぞれ、洞窟の何かに心が動かされると思います。 しかし、同じ洞窟に入る行為でも、こうした観光洞窟の奥の観光化されていないところや、まだ誰も入ったことのない未踏の洞窟に入るようなものこそが洞窟探検です。 日本ではまだあまり馴染みがありませんが、海外とくに欧米ではケイビングというアウトドアスポーツとして人気があります。 さらに洞窟探検は、スポーツ的な面からだけではなく、学術的にも興味深いものです。 昔の人の住居跡や絶滅した生き物の化石が残っていたり、目の前の生き物がその洞窟だけの固有種だったりします。 考古学、地質学、地理学、水文学、古生物学、生物学、人類学など、多種多様な学問と密接な関係にあります。 ただ穴の中に入って帰ってくるだけではなく、入れば何かしら発見があります。 現在は、人工衛星のお陰で、奥深いジャングルでさえ容易に空から見ることができる時代です。 それにほとんどの山は誰かが登り、地表に人類未踏地はないと言っていいかもしれません。 だとすれば、地球上に残された未踏の世界は、深海か地底のどちらかしかありません。 深海は、潜水調査船に乗らないと行けません。 ですから、人の力のみで進む探検家にとって残された唯一の未踏の地は、洞窟なのです。 地球上の、まだ誰も足を踏み入れたことのない世界を探検するなら、洞窟探検家になる以外に道はありません。 ただし、探究心は、前に進むための原動力にはなりますが、それだけでは危険を察知して回避したり、戻る適切なタイミングを見誤ってしまいます。 前に進むのは、探究心が恐怖心に勝っているときであり、逆に恐怖心が探究心を超えたときは、潔く戻ります。 探検家は冒険家ではなく、臆病なところがあっていいのです。 そのほうが沈着冷静、用意周到になれるからです。 おいしいものを食べたい人は、評判のお店や食材に恵まれている土地を調べて、そこをめざします。 同じように洞窟に入りたい人は、ふつう洞窟がある場所を調べ、現地へ行きます。 しかし人類未踏の洞窟を探すには、洞窟があるという情報のないエリアほど可能性があるのです。 最低限必要な情報である、地質と地形の二つを調べて当たりをつけることになります。 活用するのはインターネットのグーグルアースで、洞窟がありそうな地形を見つけて、次に地質図・地形図と照らし合わせて場所を特定します。 規模的に大きく、距離も長い洞窟のほとんどは、石灰岩が雨水などに溶かされてできたものです。 石灰洞窟の場所を見つけるために、当たりをつけたら地質図を机の上に広げ、石灰岩の分布を調べます。 さらに石灰岩がつくる地形の候補の中でも、地底に洞窟がありそうな地形の場所を地形図で探します。 専門用語でドリーネと呼ばれている、すり鉢状の地形が理想的です。 ドリーネは雨水を漏斗のように集め、洞窟を作る原動力となる水を流し込むからです。 また、地形図上で目をつけるのは、唐突に川がなくなっていて地下に水が流れ込んでいたり、逆に地下から川が流れ出ている場所です。 とくに断崖絶壁から突然川が始まっている場所は、かなり有望です。 そうして候補地を絞ったあとは、現地に下調べに行きます。 現地で得る情報に優るものはありません。 洞窟探検を、死ぬまでずっと続けたいといいます。 洞窟探検には終わりがないからです。 洞窟の探検は、一回行っただけでは終わらないのです。 数回の探検で洞窟の全容がわかることはなかなかありませんし、探検、測量、撮影など目的ごとに必要な装備があって、これらを一度に実施するのは逆に効率が悪いのです。 だから、何度も行く必要があり、たとえば第一章で見た霧穴の探検には28年かっています。 また世界各地で洞窟探検をしたいから、この点でもやっぱり終わりは見えません。 現在ターゲットにしている洞窟がある国は、日本、中国、ラオス、ミャンマー、メキシコ、タイ、ベトナム、ニュージーフンド、南極、ボリビアなどです。 この本は、そんな洞窟探検の魅力を伝えるべく、洞窟探検がどういうものなのか、体験したことのない人でもそのプロセスをイメージできるように心がけて書いたといいます。 もし興味を持って、洞窟探検をしてみたいと思った人がいたら、勝手に洞窟には入らずに、まずは体験ツアーや講習会を実施しているケイビングの団体に連絡してほしいとのことである。プロローグ洞窟探検への招待/1怖がりの洞窟探検家/2すごい洞窟の見つけ方/3洞窟は危険のかたまり?第1章大洞窟「霧穴」/1入洞まで/2霧穴が見つかるまで/3ベースキャンプの生活/4まだ見ぬ空間を探して第2章石灰洞窟と火山洞窟/1沖永良部島・銀水洞/2黒部峡谷の未踏洞窟/3ハワイ・カズムラ洞窟第3章世界のすごい洞窟/1イラン・3N洞窟/2オーストリア・氷の洞窟群/3メキシコ・ゴロンドリナス洞窟/4ヴェトナム・ソンドン洞窟第4章未踏の地を探して/1ラオスの未踏洞窟/2中国・万丈坑/3洞窟潜水特別対談/洞窟壁画の謎に迫る 吉田勝次×五十嵐ジャンヌ/1どんなときに絵を描きたくなるか?/2洞窟壁画の研究法/3洞窟壁画を見つけよう!
2020.06.27
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マーク・エリオット・ザッカーバーグは1984年アメリカ・ニューヨーク州ウェストチェスター郡ホワイト・プレインズ生まれ、歯科医の父親と精神科医の母親からなる家庭の第2子として生まれました。 曾祖父はドイツ、オーストリア、ポーランドから移民したユダヤ系でした。 ”マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術”(2011年8月 ソフトバンククリエイティブ社刊 桑原 晃弥著)を読みました。 若くして多くの名言・格言で知られる若きカリスマの成功法則に迫り、速さの感覚をまず変えよう、常に「フリーウェイ」を走れ、天才をまねろ、願望に沿って進め、短期勝負に出るな、人間関係をクールにと紹介しています。 アーズリー高校に入学し2年を過ごしましたが、その後、エリート進学校として難関大学入試突破に特化した全寮制高校の1つ、フィリップス・エクセター・アカデミーへ転校しました。 この頃、友人のアダム・ダンジェロとともに、音楽再生用フリーソフトウェアのサービスを開始しました。 これは利用者が以前に選択した曲をベースに、聞く曲目を予測してくれる機能が高い称賛を受けたソフトウェアでした。 そして、2002年に18歳でマサチューセッツ州のハーバード大学に入学に入学し、2006年卒業予定の学生として登録されました。 入学後はフラタニティのアルファ・イプシロン・パイに所属しました。 ハーバード大学在籍時においても、自身のプロジェクトの創出を続けていました。 初期のプロジェクト、コースマッチでは、同じクラスを履修している他の学生のリストを参照できるようにしました。 のちにプロジェクトの1つとして開設したサイト、フェイスマシュ.comは、ハーバード大学内に特定した、ランキングサイトのような画像格付けサイトでした。 しかし、ネット上に開設後すぐに、大学の管理部職員によってザッカーバーグのインターネットアクセス権が無効とされたため、サイトがオンライン上に存在したのはわずか4時間程となってしまいました。 大学のコンピュータ業務部がザッカーバーグを連れ出したのち、ハーバード大学運営理事会によって、コンピュータのセキュリティを破りインターネット上のプライバシーや知的財産の規約に違反したとして処罰されました。 ザッカーバーグは、自由で公然とした情報の利用を可能にすべきと考えていたことを主張しましたが、理事会側から認められませんでした。 桑原晃弥さんは1956年広島県生まれ、慶應義塾大学を卒業し、業界紙記者、不動産会社、採用コンサルタント会社を経て、フリージャーナリストとして独立しました。 トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土、働き方、ワークスキルについて鋭い論旨を展開することで定評があります。 著書に”スティーブ・ジョブズ名語録””グーグル 10の黄金律””ウォーレン・バフェット賢者の教え”などがあります。 ザッカーバーグは、2003年19歳のとき、ハーバード大学の講義情報ソフト「コースマッチ」を開始しました。 これは、同じ授業を履修している他の学生のリストを参照できるサービスでした。 同年の美人投票ソフト「フェイスマッチ」で、大学から観察処分となりました。 これは、ハッキングで得た女子学生の身分証明写真をインターネット上に公開し、女子学生の顔を比べて勝ち抜き投票させるゲームでした。 2004年まだ19歳のとき、ハーバード大学で「ザ・フェイスブック」サービスを開始しました。 その後、アイビーリーグなど全米の大学に公開し、ザ・フェイスブックを創業しました。 共同創業者は、ハーバード大学のルームメイト・同級生だったエドゥアルド・サベリンです。 その後、アンドリュー・マッコーラム、ダスティン・モスコヴィッツ、クリス・ヒューズなどが加わりました。 当初は、会員はハーバード大学のドメインのメールアドレスを持つ学生に限定されていましたが、ボストン地域の大学、アイビーリーグの大学、スタンフォード大学へと対象が拡大されていきました。 徐々にさまざまな大学の学生も対象に加わり、2005年には高校生にも開放され、その後ザッカーバーグは大学を休学し、その1年後に中退となりました、 最終的には2006年から13歳以上のすべての人に開放され、現在はユーザー登録時に13歳以上であることを宣言すれば誰でも会員になれます。 2009年のある調査で、ワールドワイドな月間アクティブユーザー数によるランキングで、フェイスブックはもっとも利用されているソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)になりました。 アメリカ・カリフォルニア州メンローパークに本社を置き、フェイスブックInc.が運営する世界最大のSNSです。 フェイスブックという名前は、アメリカの一部の大学が学生間の交流を促すために入学した年に提供している本の通称に由来しています。 日本語版は2008年に公開され、実名登録制となっており、個人情報の登録も必要となっています。 公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にサイトのアクセス数がグーグルを抜き話題になりました。 2011年には世界中に8億人のユーザーを持つ世界最大のSNSになり、2012年には10億人を突破しました。 ザッカーバーグの先見性の高さは、インスタグラム社の買収からも伺えます。 社員わずか13人、売上高もほぼゼロの状態だったインスタグラムを、10億ドルで買収したのです。 当初は何が面白いのか分からないという否定的な反応が出たほどのサービスでしたが、ザッカーバーグだけが高値をつけました。 そして、蓋を開けてみれば大成功の買収劇でした。 ザッカーバーグの保有資産は現在、約8兆から9兆円と言われています。 長者番付トップのジェフ・ベゾス、2位のビル・ゲイツに次ぐ世界3位の資産家であり、伝説の投資家ウォーレン・バフェットより多くの資産を持っています。 ザッカーバーグには名言・格言が数々あります。 「お金がないならアイデアを出せ、作ったもん勝ちだ、一人の有能なハッカーは10人もしくは20人のエンジニアに匹敵する、自分たちがつくろうとしているものは自分たちだけで完成するものじゃない、僕たちも山あり谷ありで、本当にいろいろなことがあった」。 「人生の節目が来た瞬間は、誰もが気づかない。成功者と凡人の差が生まれるのは、そのあとだ。成功者は、新しいステージにいち早く気づき、確信を持って疾走し始める。凡人はなかなか気づかないし、気づいても走れない。そして、あとになって嘆くのだ、あの時だ。あの時に走ればよかった。」 ザッカーバーグはきわめて多数のユーザーを擁し、世界をもっとオープンにするという壮大なビジョンを掲げて、現代を疾走している成功者です。 しかし、ハーバード大学の学生寮で、学内限定のソーシヤルーネットワーキング・サービス「ザ・フェイスブック」をスタートさせた時には、そんなビジョンはなかったに違いありません。 ザ・フェイスブックは、いくつも手がけているプロジェクトの一つにすぎなかったからです。 急速にユーザーを拡大し始めてもなお、ザッカーバーグは別のプロジェクトのほうに期待をかけていました。 ですが、ある時点から、ザ・フェイスブックは人生を賭けるに値する「フェイスブック」に変貌します。 ビジョンは世界へと広がり、ザッカーバーグの人生は、ランチャーで加速された飛行体のように飛び出していきました。 それは、ザッカーバーグの敬愛するアップル創業者でCEOのスティブ・ジョブズの人生とよく似ています。 ジョブズも、新製品アップルⅠを開発した創業期には、周囲にいるマニア数百人に売ることができれば成功だと考えていましたが、ある時点から突然変わりました。 アップルⅡでパソコンという新市場をつくり出したばかりか、「宇宙に衝撃を与えるほどのものをつくろう」というビジョンにシリコンバレーを巻き込んでいきました。 ザッカーバーグもジョプズも、節目となる製品ができた瞬間には、平凡な若者だったと言っていいでしょう。 けれども、早い時期に、自分がやっていることの可能性に気づきます。 そして、気づくや否や全身全霊を打ち込んで、世界を変えるために急加速を始めています。 このスピード感が彼の持ち味であり、魅力なのです。 2004年のスタートから、わずか数年の短期間で大事業をなしたザッカーバーグヘの興味は尽きません。 本書は、サッカーパークの発した言葉をキーにして、ものの見方や考え方、行動の仕方をまとめたものです。第1章 速さの感覚をまず変えよう/第2章 常に「フリーウェイ」を走れ/第3章 天才をまねろ/第4章 願望に沿って進め/第5章 短期勝負に出るな/第6章 人間関係をクールに
2020.06.20
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インカは南アメリカのペルー高原を中心に君臨した王とその部族であり、ケチュア語を用い,アイユと呼ばれる一種の血縁・地縁的集団を基盤としました。 ”インカを歩く”(2001年6月 岩波書店刊 高野 潤著)を読みました。 長年アンデスの雄大な自然と伝統の世界を撮り続けてきた写真家が、マチュピチュ、大自然、ビルカバンバなどの紀行を写真と文章で紹介しています。 太陽を信仰し、高度の文明をもち、クスコを首都とするインカ帝国(1250年ころ―1533年)を建設し,1400年代にはチムー文化王国を併合して、北はエクアドルのキト付近から,南はチリ中部のマウレ川に及ぶ版図を占めました。 当時皇帝の命令によって、インカと同じ言語を使用していたものを、すべてインカとよぶことになりました。 ところがスペイン人が侵入してきて、この意味をさらに拡大し、帝国そのもの、またはスペイン的でないものすべてをインカとよびました。 さらにまた、帝国の皇帝をもインカとよぶようになりました。 正式な帝国の名称はタワンチン・スウユです。 タワンチン・スウユとは、四つの地方からなる国土の意味で、帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことによる国名です。 高野 潤さんは1947年新潟県生まれ、1972年 に写真学校を卒業し、1973年からペルーやボリビアをはじめとする南米に通い続け、アンデスやアマゾン地方を撮り続けました。 インカ帝国は、世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡のマチュピチュから、さらに1000m程高い3,400mの標高にクスコがありました。 クスコ王国は13世紀に成立し、15世紀の中ごろから急速に征服を開始し、第9代のパチャクチ皇帝は在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張しました。 第11代のワイナ=カパックはさらに領土を拡張して、アンデス世界の100万?、南北の距離は4000kmに及ぶ大帝国となりました。 ワイナ=カパック死後、皇位継承をめぐって争いが起こりました。 皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となりました。 1532年にアタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣ぎましたが、時を同じくしてスペインの征服者ピサロが北端のツンベスに上陸しました。 ピサロはわずかな部下を率いて進撃し、アタウワルパを欺して捕らえてこれを殺害し、1533年にインカ帝国は滅亡しました。 その後も1536年には反乱を起こし、最後の皇帝を称したトゥパク=アマルは1572年に殺害されました。 滅ぼされるまでの間の約200年は栄え、最盛期には80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がりました。 被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていました。 インカ帝国はアンデス文明の系統における最後の先住民国家で、アステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもあります。 国王インカは神の化身,太陽の子であるとされ,祭政・軍事の最高権をもって専制政治を行いました。 農業が中心で鉄器はなく,青銅器もまれで,木製の掘棒でトウモロコシ,ジャガイモなどを栽培しました。 インカ文明の特質は、国家の最高神たる太陽神をまつる神殿をはじめ、多数の巨石を使った大建築物に代表されます。 土器は幾何学文様を組み合わせた,鳥形取手の浅鉢,環状取手の水差しなどの多彩土器に特色があります。 青銅器・金銀器は生活用品・装飾用品の両方があり,特に黄金製装飾品にすぐれたものが多いです。 織物も古い技法を継承して発達し,つづれ織のポンチョなどが有名です。 天文・暦学はマヤ文化に及ばず象形文字はありませんが,キープという結縄文字が知られます。 来世を信じ死者を崇拝する風習があり,歴代皇帝はミイラにされて太陽の神殿にまつられました。 マチュピチュの遺跡をはじめ、数多くのインカ帝国の遺跡が眠るのは、ビルカバンバ山群の主峰サルカンタイ、海抜6271mです。 1973年から1年余、著者はボリビアを中心としたアンデス地方を歩き続けていました。 そして2回目となる1975年、リマ市から1時間の空の旅を経て、初めてクスコ市を訪れようとしていました。 この時の感動は何年経っても忘れられず、ようやくインカそのものの国に到着しつつあるという実感がこみ上げてきたといいます。 これらの初期の旅から、主にアンデス側を中心に南米と関わり続け、気がついたらいつしか29年ほどが経過していました。 アンデスに向かった理由はインカと結びついたアンデスという言葉に惚れたからで、この言葉は、広大、未知、不思議などを感じさせる語感がありました。 通うにつれて、当初、抱いていたインカに対する魅力は益々膨んだといいます。 それらに呼び寄せられるかのように、マチュピチュを基点としてアンデスに広がるインカ文明の跡を訪ね回りました。 そして次第に、遺跡だけではなく遺跡を囲む大自然のすべてもまた、インカであるように思われてきたそうです。 アンデスを歩きながら、著者かいつも驚かされてきたのがインカの石利用です。 ほとんど、石の文明といっても良いほどに、道や城塞、都市、または礼拝や神殿の対象として石を用いています。 アパチータ(峠の守り神)信仰をはじめ、多くの伝説もまた石に関連しています。 小さい石も大切にしましたが、より大きな石を求めていたことは、オリャンタイだけではなく、サクサイワマンの大要塞に並ぶ巨石が説明してくれます。 インカはなぜ、ここまで石を追い求め続けたのでしょうか。 きっと、石に対して不動不変のエネルギーを感じ、その力を自分たちの力として受け入れようとしていたとも思えてきます。 また、石自体がすべてを支える守り神的な存在だったのかもしれません。 ただ石を利用したというだけではなく、築いた城塞やアンデネスは現在もしっかりと残っています。 石積みはカミソリの刃も入らないほど精巧精緻を極めているものが多いです。 クスコ市内には角形の石が組みこまれた外壁もあります。 このように豪快にして繊細な石の文明を築いたインカ、数々の戦いに勝利したインカ、水・風・地形・気候などの自然環境を理解して応用したインカ、考えはじめるとインカに対するイメージは限り無く膨んできます。 そのインカがわずかなスペイン人征服者によって滅ぼされました。 ですが、マチュピチュをはじめとする石造りの遺跡の数々は蘇り、たくさんの人々の想像力を刺激し、謎や未知の多い数百年前の世界へと誘ってくれます。 そして、一人一人の気持ちの中に生き続けようとします。 そのことが何よりも、インカが残した大きな遺産ではないかと思われます。 本書では、山や谷、高原に残されたインカの遺跡、また、インカを支え、さらにインカとともに生き続けたアンデス山脈を、実際に見た範囲内で紹介したいといいます。 前半部の多くはインカの象徴でもあるマチュピチュ、それからビルカバンバ地方におけるインカについての話題が中心となります。 失われた都市マチュピチュの放棄から発見に至るまでの過程、または、衰退しつつもスペイン人に戦いを挑んだ反乱インカの物語りなどは、舞台となった険しい自然を含めて興味深かったといいます。 後半部ではインカが征服した広大な領域、そして、インカの名残りをとどめると思われる村人の主な風習に触れました。 アンデスを歩いて気づいたことは、どこにでかけてもそれぞれの地が、小宇宙的な独自の世界を抱えているということでした。 それらの空気や気配に接する楽しみが山旅をいつも新鮮にしてくれ、歩き続ける力をも生んでくれたといいます。1章 マチュピチュ(天空の都市)/2章 大自然(インカ道/チョケキラウ)/3章 ビルカバンバ(ビトコス/エスピリトゥ・パンパ)/4章 征服された山脈/5章 聖域内の伝統
2020.06.13
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新宿、渋谷、池袋、品川、上野などの都心ターミナル駅を起点として、郊外に向けてのびていく鉄道路線は、主に通勤通学のために使われますが、実はこれらの路線にも格差があるといいます。 ”沿線格差 首都圏鉄道路線の知られざる通信簿”(2016年8月 SBクリエイティブ社刊 首都圏鉄道路線研究会著)を読みました。 近年、東京への一極集中と地方経済の疲弊といった、東京と地方の格差に始まり日本が敏感になってきた格差について、東京23区の中でも勝ち組と負け組に分けられるという沿線格差を論じています。 本書は勝ち組10路線と負け組8路線を発表し、ブランドタウン充実路線から、酒盛り列車と呼ばれる路線まで、各沿線の愛すべき個性を徹底分析しています。 著者の首都圏鉄道路線研究会は、東京の鉄道路線を中心に各種統計データなどを駆使して、鉄道がもたらす様々な効果効用を日夜研究しています。 執筆者は、小川裕夫さん、小林拓矢さん、佐藤 充さん、常井宏平さんです。 小川裕夫さんは1977年静岡市生まれ、大学卒業後行政誌編集者を経て、フリーランスのライター兼カメラマンとして活動しています。 主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野で、ほかにエスパニョルを取材しています。 小林拓矢さんは1979年山梨県甲府市生まれ、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修を卒業し、会社勤務などを経て、2005年よりフリーライターとして活動しています。 一眼レフカメラを所有し、写真撮影が必要な取材も可能です。 佐藤 充さんは大手鉄道会社の元社員で、新幹線や在来線の運行を支えていました。 現在はIT企業に勤めながら、フリーライターとして活動しています。 常井宏平さんは1981年茨城県生まれ、中央大学文学部社会学科を卒業し、出版業界で編集やライティングを担当しました。 現在はフリーで活動しており、歴史やタウン系などの記事を執筆しています。 鉄道路線は、主要ターミナル駅から、郊外に向けて放射線状に伸びています。 私たちが毎日通勤た通学の手段として活用しているこれらの各路線に固有のイメージや、路線間のヒエラルキーはどのようにして誕生したのでしょうか。 日本における首都圏は、主に首都圏整備法第2条第1項および同施行令第1条に基づいてと定義され、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の1都7県を指します。 この範囲の首都圏総人口は、約4393万人です。 法令に基づく定義とは異なる範囲を対象とした首都圏の用例として、首都を中心とする周辺地域を指す用語の東京大都市圏、東京都市圏、東京圏などがあります。 東京を核とする首都圏には、世界でも類のない数の路線が運行されています。 それらの路線は、都心部から郊外に走る路線、都市部のみを走る路線、郊外を中心に走る路線など、さまざまな形態をもっています。 生活の場を地方から首都圏に移す際、また首都圏に育っても就職や進学などで生活の基盤が変わったりした際、引っ越しをしなければなりません。 その際、どのように住む場所を選ぶかの基準で、大きなウェイトを占めるのが路線ではないでしょうか。 車社会の地方では鉄道に乗る機会さえ限られますので、沿線を意識して住まいを選ぶ習慣がありませんが、首都圏では働いていれば、多くの人が平日は毎日電車に乗ることになります。 どの路線に住むかが暮らしぶりを変えるといっても過言ではありませんし、だからこそ、どの沿線に住むかは重要な関心事になります。 23区の所得水準で見た1位港区と最下位足立区の格差と同じように、誰もが路線間にも格付けや序列があることを薄々気づいていながら、これまであまり公には触れてきませんでした。 鉄道というのは、それがJRにせよ私鉄にせよ、社会インフラであり、不特定多数の人間が利用するものですので、路線に貴賎なしではありませんが、その優劣を論じることは憚られてきた面があるのでしょうか。 人気駅ランキング、住みたい街ランキングといった指標がよく不動産情報とひもづけて発表されるように、人気のあるなしは、鉄道路線にも確かに存在します。 また、私たちの普段の会話レベルでも、比較的よく交わされているテーマの一つです。 一方で、沿線の総合力、実力というのは、なかなか数値化して表すのが難しい面もあります。 例えば、各路線の沿線住民の富裕度なり沿線地価と、その路線の利便性が必ずしも一致するとは限りませんし、見栄やステイタスを気にしなければ、どこだって住めば都という一面もあります。 さらに、それぞれの沿線住民にとっての満足や不満も様々でしょうから、複眼的に各沿線を見ていく必要があります。 第1章では、東京都心部に通う人が利用する19路線をピックアップして解説されています。 選んだ基準は、JR山手線に接続しているJR路線、私鉄は都心部と郊外を結ぶ乗客数が多い主要路線、といった具合です。 東京メトロ、都営地下鉄は、その鉄道会社の性格上、都心部を走る路線が大半ですので、沿線に住宅地が多い路線を選んでいます。 沿線の「勝ち組」と「負け組」の選定は、通勤・通学の目的地にいかに早く行けるか、賃貸マンションの相場はいくらかなどを勘案して決めるわけですが、もうひとつ、「沿線のイメージ」も選ぶ際のポイントになります。 たしかにイメージで区別されることもありますが、ここではイメージにとらわれず、真の「勝ち組」沿線とはどこなのかを考えてみたいといいます。 何をして勝ち組とするのかは、①ブランドタウンが多くて、②接続路線が多く、③遅延も少なく、④混雑していない路線がまず考えられる。とはいえ、閑散とした路線では沿線に活気も出ないので、⑤乗客が多く、成長具合も加味して、⑥乗客が増えている路線と定義してみました。 加えて、当の鉄道会社にとっては⑦運賃収入の多寡が重要なポイントになるでしょう。 なお、混雑率が低い路線を「勝ち組」としてはおかしなことになるので、1日の1㎞あたりの乗客数を示す「平均通過人員」を加えました。 「住みたい街(駅)ランキング」などで上位に上がる場所は人気が高く、ゆえにマンションの相場が高いです。 しかし、高い割に不便だったりすれば、満足度は低くなります。 逆に家賃が高くても、それに見合う快適さ、便利さがあれば満足できるでしょう。 そうした考え方のもとにつくったランキングで1位となったのが、京急本線です。【勝ち組】1位 京急本線 2位 東海道線 3位 東急東横線 4位 小田急線 5位 総武線 6位 中央線 7位 京王線、京成線 9位 京葉線 10位 東急田園都市線【負け組】11位 都営三田線、埼京線 13位 東西線 14位 東武東上線 15位 西武新宿線 16位 相鉄本線、常磐線 18位 西武池袋線 ※このランキングは私鉄のみのランキングのため山手線などJRの路線は入っていません。 本書では沿線開設の歴史から現在までの発展といった時間軸、相互乗り入れなど接続の便利さや混雑率、さらに駅として栄えているかという駅力など、いくつかの指標を勘案して、各路線の実力を大胆に診断することにしました。 これが、あるようでなかった「沿線格差」と位置付けた理由です。 各路線の分析、格付けについては異論や反論なども生じるかもしれませんが、あくまでひとつの見方ではあり、読者の皆様に楽しんで読んでもらえるならば幸いです。【第1章 首都圏の主要各沿線の通信簿】中央線 /総武線 /東海道線 /埼京線 /常磐線 /京葉線 /東急東横線 /東急田園都市線 /西武新宿線 /西武池袋線 /小田急線 /東武東上線 /京成線 /京王線 /京急線 /相鉄線 /東京メトロ /東西線 /都営三田線 /つくばエクスプレス 【第2章 テーマ別沿線ランキング】お金持ちの沿線ランキング、客数アップ、ダウン路線ランキング …ほか【第3章 沿線イメージのウソと真実】各沿線に特有なイメージはどうして出来た? ~沿線開発の歴史から現在のヒエラルキー誕生、異変まで
2020.06.06
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