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天秀尼は鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持に当たり、家康の孫で秀頼の正室の千姫は養母です。 ”豊臣家最後の嫁-天秀尼の数奇な運命”(2013年2月 洋泉社刊 三池 純正著)を読みました。 秀頼の子で大坂城落城後に千姫の養女となり縁切寺として知られ、東慶寺の中興の祖となった天秀尼の生涯を紹介しています。 天秀尼は鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持に当たり、家康の孫で秀頼の正室の千姫は養母です。 大坂城落城以前の天秀尼については記録がありません。 1615年に大坂城が落城し、秀頼とその母・淀殿は自害し、豊臣家は滅びました。 秀頼の息子は斬首となりましたが、まだ7歳の少女だった天秀尼は死罪を免れ、千姫の養女となり、家康の命で東慶寺に預けられました。 三池純正さんは1951年福岡県生まれ、工学院大学工学部を卒業し、戦国期の歴史の現場を精力的に踏査し、現場からの視点で歴史の定説を見直す作業をすすめています。 天秀尼は1609年生まれ、天秀は法号で、法諱は法泰、院号は授かっていません。 母の名も、出家前の俗名も不明です。 記録に初めて表れたのは大坂城落城直後であり、それ以前にはありません。 同母か異母かは不明ですが、天秀尼の年子の兄・国松は、大阪城落城の直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが当時の記録にあります。 天秀尼は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命されました。 国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、祖母・淀殿の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあります。 天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り、落城後に千姫の養女となったと見られます。 出家の時期は東慶寺の由来書に、仏門に入り瓊山尼=けいざんにの弟子となったという記述があります。 時に8歳だったため、出家は大坂落城の翌年の元和2年であり、東慶寺入寺とほぼ同時期となります。 東慶寺は北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝わり、南北朝時代に後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、室町時代には鎌倉尼五山第二位とされました。 かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所でした。 代々関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持となっており、尼寺でこの格式ということから、天秀尼の入寺する先として選ばれました。 また師・瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘・振姫に仕えていました。 東慶寺住職だった井上禅定は、天秀尼の東慶寺入寺は、恐らく月桂院あたりの入知恵と推察されるとしています。 東慶寺に預けられる際、徳川家康に望みを聞かれた天秀尼は「開山よりの縁切寺法が断たれることのないように」と願い出たといいます。 その後、東慶寺の「縁切寺法」は、1872年まで存続しました。 天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていましたが、塔銘によれば、円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したという記載があります。 東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺、駆込寺として有名です。 江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのは、東慶寺と上野国の満徳寺だけで、両方とも千姫所縁です。 天秀尼について忘れてはならないのが、会津騒動といわれる会津若松藩主・加藤明成の改易事件です。 1639年に、会津若松藩主・加藤明成の非を幕府に訴えるため家臣・堀主水が妻や家臣と出奔しましたが、追っ手が差し向けられ、堀主水は高野山へ、妻は東慶寺へ逃げ込みました。 高野山は明成の要求を受け主水を引き渡し、その後斬殺されましたが、東慶寺の天秀尼は明成からの強硬な引渡し要求を拒否し、主水の妻を守ったといいます。 さらに養母・千姫を通じて三代将軍・家光に明成の非を訴え、明成は会津40万石を幕府に返上するはめになりました。 そして、会津加藤家改易から2年後の1645年2月7日に天秀尼は37歳で死去しました。 天秀尼の墓は歴代住持で最も大きなもので、側にある墓は天秀尼の世話をしていた女性のものと思われます。 一説には豊臣秀吉の側室となりのちに天秀尼の世話役もしていたという甲斐姫のものともいわれますが、真偽は不明です。 天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶しました。 長命であった千姫は、娘の13回忌に東慶寺に香典を送っています。 天秀尼の墓は、寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔です。 墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚となっています。 著者が天秀尼の取材に初めて鎌倉東慶寺を訪れたのは、2011年の晩秋のころだったそうです。 その日は朝から少しひんやりとした気候でしたが、境内はすでにたくさんの観光客でにぎわい、みなそれぞれに紅葉に彩られた東慶寺の風情を楽しんでいました。 東慶寺の宝蔵には、天秀尼が父豊臣秀頼への供養として1642年に鋳造したという雲版が残されています。 雲版をじっと見ていると、天秀尼の父秀頼への深い思いが伝わってくるといいます。 天秀尼は父秀頼を深く尊敬し、自らが秀頼の娘であることに大きな誇りを持っていたのではないでしょうか。 大坂城が落城し父秀頼が自刃する直前まで、父や祖母・淀殿のそばにいたものと思われます。 そこで父と過ごした日々は短かったのですが、天秀尼はそのときの思い出を深く胸に秘めてその後の人生を生きていったに違いありません。 天秀尼の目に映った秀頓とはいったいどんな人物だったのでしょうか。 資料によれば、秀頼は学問・教養を身につけた賢人であり、最後は自らの意志で家康と戦う道を選ぶことになりました。 純粋で慈愛に満ちた武将だったゆえ、そのもとに集まった浪人諸将は秀頼のために命を捨てることを厭わず、千姫もそんな秀頼を心から愛し、天秀尼も父の雄姿を生涯忘れることはなかったのでしょう。 人生はちょっとしたボタンの掛け違いで大きく変わってしまうことがあります。 家康も初めから豊臣家を滅亡させることなど望んでいたとは思えません。 また、淀殿も最後は自らが大坂城を出ていくことで、豊臣家を守ろうとしました。 しかし、秀頼は豊臣家の存続より、武門の意地、さらには浪人たちの誠にこたえる道を選び、結果的に豊臣家を滅ぼすこととなりました。 もし、家康と秀頼が大坂の陣の前に忌憚なく互いの胸の内を話し合う機会があったら、このような戦は避けることができたに違いありません。 大坂の陣は、その後の天秀尼、千姫の人生を大きく変えてしまいました。 遺児となった天秀尼は、自らの宿命に立ち向かい、最後は、それを女人救済という使命に変えていきました。 本書はそんな二人の心の通い合いを描いたつもりであるといいます。序章 豊臣秀頼の首/第1章 千姫の入輿―徳川家から豊臣家へ嫁ぐ姫/第2章 秀頼の隠し子―存在を秘された二人の子の誕生?第3章 家康暗殺計画―天下人の居城で相次いだ事件/第4章 家康と秀頼―京都二条城で逆転した主従関係/第5章 宣戦布告―浪人を召集して臨んだ大坂の陣/第6章 君主秀頼―滅びゆく豊臣家と親子の対面/第7章 脱出―大坂城外で捕らえられた兄妹/第8章 天秀尼誕生―十年後の出家と千姫との交流/第9章 会津加藤家改易事件―大藩と渡り合った天秀尼/終章 宿命を使命にかえて
2020.02.29
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魯迅は1881年中国・浙江省紹興生まれ、本名は周樹人、字は予才、ほかに迅行、唐俟、巴人など数十の筆名を用いました。 家は祖父が知県も務める中地主でしたが、祖父が科挙の不正事件で入獄し、父も病死してにわかに没落し、長子として生活の苦労も体験しました。 ”いま、なぜ魯迅か”(2019年10月 集英社刊 佐高 信著)を読みました。 まじめ主義者といい人ばかりの日本にいま必要なのは魯迅の批判と抵抗の哲学だとして作品を論じ、縁の深い作家・思想家を振り返る、魯迅をめぐる思索の旅です。 1898年に南京の江南水師学堂に入学しましたが、内容に不満で退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂に入学しました。 1902年に官費留学生として日本に派遣され、弘文(宏文)学院を経て、仙台医学専門学校に入学しました。 このころ思想的には革命派の立場にたち、清朝打倒を目ざす光復会にも加入しました。 仙台医専在学中、志を文学に転じて退学し、東京に戻って企画した文学運動の雑誌は未成に終わりました。 強烈な個性と反逆精神をもつ詩人=精神界の戦士を顕彰して、中国にもその誕生を促し、その叫びによって民衆の心を燃えたたせる、というのが当時に描いた中国変革のイメージでした。 1909年に帰国し、杭州、紹興で教師をするうちに1911年の辛亥革命を迎え、新政府に教育部員として参加し、北京に移りました。 辛亥革命後の現実は革命像を大きく裏切るもので、袁世凱の反動のもと、寂寞の時期を送りました。 1918年に、友人の勧めもあって『狂人日記』を発表、以後『阿Q正伝』等、のちに『吶喊』『彷徨』にまとめられた小説を発表しました。 これは文学革命に実質を与え、中国近代文学の成立を示すものであるとともに、中国社会と民衆のあり方を振り返り、青年時代の革命像を再検討する意味をもっていました。 また一方、鋭い社会・文化批評を込めた雑文を執筆し、やがて著作の大きな部分を占め、中国文学のなかでも独自の一ジャンルとなりました。 佐高 信さんは1945年山形県酒田市生まれ、山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、郷里・山形県で庄内農高の社会科教師となりました。 ここで教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため、赤い教師の非難を浴びたといいます。 酒田工高に転じて結婚もしましたが、同じく赤軍派教師のレッテルを貼られ、県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚女性との出会いがあり、前妻と離婚し1972年に再度上京しました。 上京後、総会屋系経済誌編集部員を経て編集長となり、その後、評論家活動に入りました。 公然とした社民党支持者で、土井たか子さんらと憲法行脚の会を結成し、加藤紘一さんとの対談集会を開くなど、護憲運動を行なっています。 小泉内閣・安倍内閣への批判から、クリーンなタカ派よりはダーティでもハト派の方が良いと、加藤紘一さんや野中広務さん、鈴木宗男さんら自民党内の左派や旧竹下派人脈との関係を深めました。 ロッキード事件で失脚した田中角栄さんに関しても、かつてはこき下ろしていたものの今ではダーティなハトとして相対的に評価しています。 現在、評論活動のほか、東北公益文科大学客員教授、元週刊金曜日編集委員、ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク共同代表、先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務めています。 魯迅は1925年に、北京女子師範大学の改革をめぐって新旧両派の衝突した女師大事件で、進歩派の学生・教員とともに軍閥政府に抵抗し、いったん教育部員を罷免されましたが、平政院に提訴して勝利を収めましました。 留学中に一度帰国して朱安と結婚をしていましたが、女師大の学生だった許広平と出会い、しだいに愛が生まれました。 1926年夏に厦門大学に移りましたが、その空気に不満で1927年初め、国民革命の根拠地だった広東に移り、ここで上海クーデターを体験し、思想的にも大きな転機となりました。 1927年秋に上海に移り、このときから許広平と同居し、1929年に子供が生まれ、その後、死ぬまで上海に住みました。 上海では国民革命の挫折を機に、革命文学を唱える創造社、太陽社から、小ブル文学者と非難を受け、革命文学論戦を展開しました。 そして、自らマルクス主義芸術論やソビエト文学を精力的に翻訳しました。 やがて1930年に左翼作家連盟が結成されると、その中心的人物となり、国民党政府の弾圧やその御用文人と、妥協することなく論争しました。 芸術にも早くから関心をもって、1931年に内山完造の弟嘉吉を招いて木版画講習会を開いたのをはじめ、若い木版作家を養成し、中国現代版画の基礎を築きました。 著者は、まじめ主義者と多数に従ういい人ばかりの日本に、いま必要なのが魯迅の「批判と抵抗の哲学」だと言います。 魯迅は、徹底して儒教に抵抗し、真ん中を行く中庸では、世の中は変えられないと言いました。 魯迅は永遠の批判者であり、魯迅の徒として「批判が生ぬるい」という批判は受け入れても、「批判ばかりして」という難癖を受けつけるつもりはないといいます。 「批判をし抜く」ことを基点としているのであり、「お前の批判は足りない」と言われた時にのみ、さらに奮起するとのことです。 「批判をし抜く人」は必要であって、そこにしっかりと踏みとどまって批判の言葉を研磨したのが魯迅でした。 著者は、残された時間もそう多くないのに、自分には主著と言えるようなものはあるのか、といった疑問がわいて、少なからずうろたえたそうです。 「魯迅を生きる」そして、「魯迅と生きる」道を歩んできた著者にとって、それは、ある意味でわが人生を振り返ることで、書き進めるに従って、改めて自分の中に魯迅が深く入っていたという思いを新たにしたそうです。 ドレイは人に所有されることによって自由ではない、しかし、ドレイの所有者もまた所有することによって自由ではない。 したがって、人間の解放はドレイがドレイの主人にのし上がることによってではなく、人が人を支配する制度そのものを改革することによってしか実現しません。 現在の企業という封建社会、あるいはドレイ社会の改革も、この方向によってしかなしえません。 そのためにもまず、ドレイ精神からの脱却が主張されなければなりません。 会社国家であり官僚国家でもある日本では、精神のドレイが主人の意向を先取りする、いわゆる忖度が大流行りです。 まじめナルシシズムの腐臭はそこから立ちのぼりますので、批判と抵抗の哲学をもってまじめナルシシズムを捨てることを勧めています。 魯迅がそうした腐臭と無縁なのは、己れの力などなにほどのものでもないことをハッキリ知っているからです。 努力が報われがたい現実であるからこそ、絶えず刻む努力が必要であることを知っています。 著者は、「私は人をだましたい」や「フェアプレイは時期尚早」といった魯迅の刺言を読んで、至誠天に通ず式のマジメ勤勉ナルシシズムから自由になったそうです。 魯迅を自らの思想的故郷として、血肉となった作品を論じ、ニーチェ、夏目漱石、中野重治、竹内好、久野収、むのたけじら、縁の深い作家・思想家を振り返ります。 「永遠の批評家」魯迅をめぐる思索の旅は、孤高の評論家の思想遍歴の旅でもあります。はじめに-いま、なぜ魯迅か/第一章 一九〇四年秋、仙台/第二章 エスペラントに肩入れした魯迅と石原莞爾/第三章 満州建国大学の夢と現実/第四章 上野英信の建大体験/第五章 故郷および母との距離/第六章 魯迅とニーチェの破壊力/第七章 死の三島由紀夫と生の魯迅/第八章 夏目漱石への傾倒/第九章 中野重治と伊丹万作の魯迅的思考/第十章 久野収と竹内好の魯迅理解/第十一章 竹内好の太宰治批判とニセ札論/第十二章 魯迅の思想を生きた、むのたけじ/第十三章 魯迅を匿った内山完造/第十四章 魯迅の人と作品
2020.02.22
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阪谷芳郎=さかたによしろうは1884年に東京大学文学部政治科を卒業し大蔵省に入省、1885年に専修学校にて経済学と財政学の講義を開始しています。 1886年に海軍経理学校教授を兼任し、主計局調査課長に就任し、翌年、会計原法草案を起草しました。 “阪谷芳郎”(2019年3月 吉川弘文館刊 西尾 林太郎著)を読みました。 岳父渋沢栄一と共に明治神宮の造営に尽力し広大な内外苑の基礎を作り、日清・日露戦争で戦時・戦後財政の中核を担い、大蔵大臣、東京市長などを歴任した阪谷芳郎の生涯を紹介しています。 阪谷芳郎は1863年備中国川上郡九名村、現井原市生まれ、幕末に開国派として活躍した漢学者の阪谷朗廬=ろうろの四男です。 1888年に渋沢栄一の次女と結婚し、1889年に長男が誕生しました。 1891年に造幣支局長、大蔵省参事官、1897年に主計局長、日清戦争では、大本営付で戦時財政の運用にあたり、1903年に大蔵次官、1906年に第1次西園寺内閣の大蔵大臣を務めました。 1907年9月、日露戦争の戦費調達などの功績により男爵が授けられ、1912年7月から1915年2月まで東京市長を務めました。 西尾林太郎さんは1950年愛知県生まれ、1974年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、1981年同大学政治学研究科博士後期課程退学、北陸大学法学部助教授を経て、現在 愛知淑徳大学交流文化学部教授を務めています。 阪谷芳郎は明治、大正、昭和の三代を生き、明治憲法体制の樹立にも関わり、近代日本という時代を代表する官僚政治家の一人でした。 旧体制である幕藩体制の枠組みの中で教育を受け、実務を通じて行政官としての経験を積んで見識を身につけた官僚政治家ではありません。 生年こそ旧時代ですが、教育は明治維新以降の近代教育、特に明治国家の最高学府である東京大学を卒業して、明治国家の要請に応えるべく官僚となった学士官僚です。 渋沢栄一を岳父とし、法律学者で東京帝国大学教授の穂積陳重を義理の兄とするなど、華麗な姻戚関係を持つ一方、その官歴・経歴も華麗です。 東大・大蔵省の同期に添田寿一、後輩に若槻礼次郎、浜口雄幸などがいます。 東大と官僚のルートを経て大臣になった最初の人物は岩崎弥太郎を岳父とする加藤高明、二番目が阪谷芳郎、その後、若槻、浜口らが続いています。 阪谷は、元老松方正義の下で、明治憲法体制下の国家財政の根幹創出の一翼を担い、日清戦争の戦時財政と戦後経営を担当しました。 さらに、日露戦争では戦時財政を一手に引き受け、その功績により華族に列せられ男爵に叙せられました。 官を辞して以降、ベルン平和会議に委員として招請され、第一次世界大戦においてはパリ連合国経済会議に日本政府代表として出席しました。 これらを機会に、国際的にも人的ネットワークを築き、日本を代表する官庁エコノミストとして国の内外に知られました。 またその間、東京市長に就任し、明治神宮の誘致と造営に尽力し、今日の広大な神宮内・外苑の基礎を作りました。 理事長として主導した明治神宮奉賛会は、大都市東京に、広く国民の献金や献木によって人工の森厳な風致を創り出すことに成功し今日に至っています。 外苑の神宮球場や神宮競技場は、昭和戦前期日本の最も重要なスポーツ施設であり、後者は国立競技場の前身的存在でした。 退官後の主な活動の舞台は貴族院で、1917年から1941年まで、24年11ヵ月の問、貴族院に議席を持ち、第39議会から第76議会まで、都合38回の帝国議会を経験しました。 貴族院における男爵議員の会派「公正会」の領袖として、政界・官界にその名が知られました。 議員在職中、本会議・委員会・分科会での演説を含む議会での発言は、帝国議会議員として最多の412回に及びました。 さらに帝国飛行協会、帝国自動車協会、東京市政調査会、東京統計協会、国際連盟協会、日米協会など、数多くの公益団体の代表などを務めました。 他方、教育者、研究者であり、大蔵省入省後間もなく、専修学校や海軍経理学校の教壇に立ちました。 田尻稲次郎や目賀田種太郎ら大蔵官僚が設立した専修学校の教育に長く関わり、後年、専修大学総長に就任するなど、経済学・財政学の教育・研究に大きな足跡を残しています。 当時は、原敬、高橋是清、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸など、官僚から政党政治家に転じて大臣、首相になった人物が注目されました。 一方で、官僚から貴族院政治家に転じた、清浦圭吾、田健次郎、阪谷芳郎らについては、注目されることが多くありませんでした。 政治家としてトップリーダーではなくいわば政界のサブリーダーであり、脇役プレイヤーであったためでしょう。 阪谷の人生は、大きく四つに分けることが出来ます。 第一に、生まれてから東大を卒業するまでの21年間で、修学期ともいうべき時代。 第二に、大蔵省人省から蔵相辞任までの24年間、大蔵省時代。 第三に、蔵相辞任から貴族院議員となるまでの9年間で、3回洋行し、東京市長を務めた時期。 第四に、貴族院男爵議員に互選されてから、死去するまでの24年間で、貴族院時代。 第一期の修学期の舞台は東京でした。 父朗廬の配慮で箕作秋坪の三叉学舎に学び、東京英語学校・大学予備門を経て、東京大学文学部に進学し政治学・経済学を学びました。 東大時代の恩師田尻稲次郎の世話で大蔵省に入り、第二の時期が始まります。 官僚となって間もなく、渋沢栄一の次女と結婚し、大蔵省において主計官、主計局長、次官と累進し、明治憲法体制における金融・財政制度の構築に大きく関わりました。 日清・日露戦争では戦時財政の中核を担い、日露戦争後、第1次西園寺内閣の蔵相を務め、大蔵官僚として功成り名遂げました。 第三の時代は、阪谷にとって最も実りがあり、豊かな時代であったかもしれません。 宿願であった欧米周遊を果たし、ベルン国際平和会議に委員として参加し、さらに第一次世界大戦に伴う連合国経済会議に日本政府代表として出席しました。 この3回の洋行で阪谷は国際的な知見を広め、国際的な人的ネットワークを作り上げました。 この間、約2年半ではありましたが東京市長を務め、岳父渋沢栄一とともに明治神宮の東京「誘致」に成功しました。 第二の時代に培い、手に入れた日本を代表する官庁エコノミストとしての名声をバックに、比較的自由に活動できた時代でした。 第四の時期は、第一第三の時期に獲得した知見に基づき、政治・経済・外交を縦横に論じ、貴族院議員として政治に参画しました。 田尻稲次郎や若槻礼次郎など大蔵省の先輩・後輩たちのように終身の勅選議員にはなれませんでしたが、男爵として7年ごとの互選により、24年間にわたり貴族院に議席を維持しました。 しかし、加藤高明や若槻礼次郎らのように、政党に入ることはなく、桂系の元官僚である阪谷は政友会に入ることはせず、桂太郎との微妙な人間関係により桂自ら組織した同志会に入会を誘われることはありませんでした。 加藤、阪谷、若槻らのような学士官僚でなかった後藤新平は、桂新党に一旦参加はしましたが、桂が死去するや離脱し、自らの才覚と実績によって官僚政治家として大成しました。 阪谷は貴族院の指導者の一人でしかなく、第二次護憲運動後の政党内閣の時代の到来は、貴族院を政治の前面に立てなくしました。 阪谷は政党というバックを持たなかったですし、衰退しつつあった山県・桂系官僚閥に依存するところは多くありませんでした。 そこで、大蔵省時代のキャリアと知見、第二の時代に得た知見や海外での経験などによる貴族院政治家であることを目指しました。 晩年の畢生の事業は東京・横浜万博の開催で、皇紀2600年奉祝という形で、日本初の万博として計画されましたが、日中戦争のため延期の止むなきに至りました。 しかし、それは、第二次世界大戦後、場所を変えてより大規模に大阪万博や愛知万博という形で開催されました。 日本万博協会は、阪谷たちによる「幻の東京・横浜万博」の抽選券付回数入場券が、戦後の混乱の中で多数回収されないままになっていたことを考慮し、二つの万博での使用を認めました。 阪谷は近代日本の展開とどのように関わったのか、官僚出身の政党政治家とはどのように異なった道を歩んだのか、本書はこの点に留意しつつ阪谷の生涯を描こうとするものです。第1 誕生から東京英語学校卒業まで/第2 東京大学文学部政治学理財学科に入学/第3 大蔵省時代/ 第4 日清戦争と戦後経営/第5 金本位制度の導入/第6 日露戦争と戦時財政/第7 日露戦後経営と大蔵大臣阪谷/第8 二度の外遊/第9 東京市長時代/第10 第一次世界大戦と連合国パリ経済会議/第11 幻の中国幣制顧問/第12 貴族院議員になるー「公正会」を設立/第13 関東大震災からの東京復興と昭和戦前期の貴族院/第14 「紀元二千六百年」奉祝に向けて/第15 日米開戦直前の突然の死
2020.02.15
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三条実美は幕末に将軍徳川家茂に攘夷督促の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒となり運動しましたが、1863年文久3年8月18日の政変で失脚し、七卿落の一人として長州、さらに大宰府に落ちました。 その後、王政復古を機に上京し、明治政府の副総裁・輔相、1869年右大臣、1871年太政大臣となり、1885年の内閣制まで同職を務め、以後内大臣、臨時内閣総理大臣を歴任しました。 ”三条実美-維新政権の「有徳の為政者」”(2019年2月 中央公論新社刊 内藤 一成著)を読みました。 上級公家の出身にして「七卿落ち」で知られる明治維新の立役者のひとりで政府の要職を歴任しましたが、業績についてはあまり知られていない三条実美の101015生涯を丹念に追い実像を紹介しています。 内藤一成さんは1967年愛知県生まれ、1996年日本大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学、2004年青山学院大学にて博士(歴史学)を取得しました。 現在、宮内庁書陵部編修課主任研究官・国際日本文化研究センター共同研究員を務めています。 三条実美は1837年に攘夷派の公卿三条実萬の三男として生まれ、幼名は福麿といい正室の子でした。 1854年2月に次兄で三条家嗣子の三条公睦が早世し、公睦には嫡子がいましたが、福麿の教育係であった儒者の富田織部の強い推挙によって、福麿が嗣子となり、8月に元服して実美と名乗りました。 父・実萬は、戊午の密勅の発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなりました。 1854年10月に実萬が隠居・蟄居し実美が正式に三条家の家督を相続しましたが、1855年4月に実萬は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去しました。 1862年に島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始め、関白九条尚忠を退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出しました。 実美はもともと公武合体論者でしたが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせた。7月から8月にかけて、尊攘派の志士との交流を深めるようになりました。 公武合体派の公卿であった内大臣久我建通、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやりました。 さらに実萬の養女を妻としていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させました。 8月に長州藩と土佐藩が、将軍徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として、実美を派遣するよう運動を開始し、10月に実美は勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴きました。 実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていました。 1863年1月に親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州関白と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となりました。 2月に尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなり、交渉役に選ばれた実美は慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとりました。 3月に将軍家茂が上洛し実美ら尊攘派は圧迫を強め、上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となりました。 5月10日を持っての攘夷決行を約束させ、孝明天皇は焦土と化しても開港しないという勅を出しました。 島津久光・松平春嶽・山内容堂などの公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握されました。 幕府は攘夷派公家の筆頭の実美と姉小路公知の懐柔を図りましたが、実美については効果がありませんでした。 5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺されました。 姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛で、長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らいました。 しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは偽勅であり、早々に実美と徳大寺実則を取除くべきであると青蓮院宮に伝えていまし。 6月に久留米藩より尊攘派の真木保臣が上洛して学習院御用掛となり、実美らに直接影響を与えるようになりました。 真木を謀臣とした実美は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて朝廷の方針となりました。 しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮と薩摩藩に対して救いを求めました。 青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保の会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のための計画を進めました。 8月13日に攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出されましたが、8月18日に薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出しました。 七卿は長州藩に向かうこととなり、8月19日に京都を出発し長州藩に向かい、兵庫湊から船で長州を目指しました。 8月24日に、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失いました。 8月26日と27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港し、長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、三田尻御茶屋の招賢閣を居館としました。 三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議し、9月28日に平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられました。 協議がまとまらないうちに澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗しました。 1864年1月に長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田に移りました。 1月27日に孝明天皇から、七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出されました。 長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め朝廷に働きかけ、実美ら五卿もこの動きを支持しました。 7月に藩主父子の上京と時を同じくして京を目指し、7月21日に讃岐国多度津に到着しましたが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するために鞆に向かいましたが出会えませんでした。 第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられましたが、五卿は長州藩と死生存亡を共にする決意を固めていました。 長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼しました。 尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩に移りました。 中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われました。 1865年1月15日に五卿は福岡藩に上陸し、宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊をへて、2月13日に太宰府に到着しました。 五卿の身柄は福岡藩が預かりますが、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていました。 福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると、中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えました。 1866年に幕府から使者が訪れ五卿を大坂に移すよう求めてきましたが、実美らは動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対しました。 1867年に中岡慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索し、その候補となった岩倉具視は当初、難色を示しましたが、岩倉の縁戚の東久世通禧の説得で提携を受け入れることとなりました。 1967年10月27日に大政奉還が成立し、12月8日に五卿の赦免と復位が達成されました。 12月14日にこの知らせを受けた五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられました。 反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となり、1868年に実美は岩倉とともに新政府の副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねました。 1869年5月24日に右大臣・関八州鎮将となり、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となりました。 7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ね、岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し実現させました。 1871年に制度改革により太政大臣となり、天皇の代行者として万機条公に決される体制を目指しました。 幕末の立役者の一人でしたが、実美の業績となると、一般の人だけでなく、少なからぬ歴史研究者からも、よくわからないという答えか返ってきましょう。 明治維新期を代表する政治家といえば、「維新三傑」といわれる西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のほか、板垣退助・江藤新平・伊藤博文・大隈重信・岩倉具視といった名前が次々と出てきます。 これに対して、三条実美は明治新政府のトップであったにもかかわらず、その差は歴然です。 基本的によくわからないところへ、その評価を決定的に下げたのが、征韓論で知られる1873年の政変でした。 紛糾する議論をまとめきれないまま卒倒してしまったことで、政治力に乏しい、お飾り的な存在という人物像か強く印象づけられました。 明治維新後、18年ものあいだ政権の頂点にあり、輔相・右大臣・太政大臣といったポストは、大政官制における扇の要にあたるなど、実美の存在はきわめて重要でした。 にもかかわらず、今日、その人物像はよくわからないとしたまま、ほとんど置き捨てられています。 その結果は、歴史に少なからず空白や歪みを生んでしまっているのではないでしょうか。 実際、取り組んでみると、たしかに実美は「最も論評の困難な標本」でした。 それだけに、歴史的に果たした役割や意義を明らかにするためには、その生涯をできるだけ丁寧にたどるほかないといいます。第1章 公家の名門に生まれて/近世の朝廷と三条家―徳川幕府支配のなかで/世に出るまで―父三条実萬と勤王少年時代/安政の開国問題―朝廷の浮上と焦点化)/第2章 尊攘派公卿としての脚光(文久政局への登場―尊王攘夷運動と土佐藩との連繋/時代の寵児―勅使として江戸へ/過熱する攘夷、八月一八日の政変による失脚)/第3章 長州・太宰府の日々(七卿落ちと長州藩―禁門の変、下関戦争の敗北/太宰府での艱難辛苦/幕末政局と太宰府―薩長盟約、攘夷論の転換)/第4章 明治新政府の太政大臣(維新政権の頂点へ―復古革新の象徴的存在/天皇親政の模索―動から静へ/明治六年の政変―留守政府トップの苦悩/明治八年の政変―島津久光とのたたかい)/第5章 静かな退場―太政官制から内閣制へ(迫られる制度の改変―太政官内閣の変質/現実化する天皇親政/伊藤博文の台頭―内閣制の発足と太政官制の終焉/内大臣へ―立憲政治のための自制)
2020.02.08
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真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、真田昌幸の次男、通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)、真田幸村の名で広く知られています。 現代人において、戦国武将では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑と呼ばれる人々をも凌ぐほどの、抜群の知名度と人気を誇っています。 ”真田信繁-幸村と呼ばれた男の真実”(2015年10月 KADOKAWA刊 平山 優著)を読みました。 真田幸村の名で広く知られ豊臣方の武将として、大坂夏の陣で徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、後世に軍記物などで英雄的イメージで広く知られる存在となった、真田信繁をめぐる通説・俗説・新説を根本的に再検証しています。 人気は今に始まったことではなく、江戸時代前期には、すでに真田人気は不動のものでした。 近代になっても、1918年に立川文明堂による立川文庫の創刊による影響もあって、明治末年から昭和初期にかけて一大ブームが到来しました。 平山 優さんは1964年東京都生まれ、立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了、専攻は日本中世史です。 山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹等を経て、山梨県立中央高等学校教諭を務め、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当しました。 真田を支える十人の優れた家来たちは真田十勇士と呼ばれますが、これは史実ではありません。 ですが、真田と十勇士たちの活躍は、戦前ばかりか、戦後になってもテレビドラマなどで繰り返し放送され、人々を魅了し続けてきました。 日本人の真田人気は、天下簒奪の野望に燃え、豊臣氏を滅ぼそうと企む徳川家康と、それを挫くべく、豊臣秀頼を助け知略の限りを尽くして立ち向かう真田幸村という、勧善懲悪という一貫したストーリーにありましょう。 弱きを助け強きを挫くという真田幸村の人物像こそ、日本人好みの理想像と合致しています。 そして力戦しあと一歩まで家康を追い詰めながら、力及ばず散華する姿は、悲劇性をも併せ持ち、幸村の魅力をいっそう際立たせているといえます。 実戦経験の乏しい信繁が、なぜ徳川方も称賛するほどの軍功をあげることが出来たのでしょうか。 その実像は、生涯のほとんどについて史料が残されておらず、謎に包まれているといっても過言ではありません。 確実に判明していることは、 信濃国小県郡の国衆真田昌幸の次男であること、 父昌幸の命により上杉景勝のもとへ人質に出されたこと、 父昌幸が豊臣秀吉に臣従すると上方へ人質として出され、大谷吉隆(吉継)の息女を娶ったこと、 1600年の関ヶ原合戦に際し、父昌幸とともに信州上田城に寵城し徳川秀忠軍を撃破したこと、 関ヶ原敗戦後、父昌幸とともに高野山に追放され九度山に住居を構えたこと、 1619年に豊臣秀頼の招きを受け、九度山を脱出し大坂城に入城したこと、 大坂冬の陣では「真田丸」「真田出丸」という砦を大坂城惣構のうち玉造口に築き、徳川方に甚大な打撃を与えたこと、 1920年5月の大坂夏の陣で戦死したこと、などです。 真田幸村の名が広く知られていますが、諱は信繁が正しく、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で幸村の名が使われているものはありません。 信繁は1567年(または1570年)に真田昌幸の次男として生まれました。 真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属していました。 伯父の信綱は先方衆として、信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍しています。 父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていましたが、1575年の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継ぎました。 幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にありましたが、昌幸も城代を引き継ぎました。 信繁は父に付き従い甲府を離れ岩櫃に移ったと考えられています。 1582年3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されました。 信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに、人質として赴きました。 同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生しました。 滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡しました。 真田氏は上杉氏に帰属して自立し、1585年には第一次上田合戦において徳川氏と戦っています。 従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといいます。 織田家臣の豊臣秀吉が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われました。 信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えました。 1590年の小田原遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城・箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられます。 文禄の役においては、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に在陣しています。 1594年11月に従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されました。 豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていません。 秀吉死後の1600年に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍しました。 留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになりました。 東軍の徳川秀忠勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、徳川軍を城に立て籠もって迎え撃ちました。 9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫しました。 昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところでしたが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまりました。 12月12日に上田を発して紀伊国に向かい、初め高野山の蓮華定院に入り、次いで九度山に移り、蟄居中の1611年に昌幸は死去、1612年に信繁は出家し好白と名乗りました。 1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣しました。 信繁は国許にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入りました。 大坂冬の陣では信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ず京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張しましたが、結局受け入れられずに終わりました。 大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築きました。 戦闘で信繁は寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなりました。 冬の陣の講和後、真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまいました。 家康は1615年2月に使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し説得に出ましたが、信繁は対面をしなかったといいます。 大坂夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、伊達政宗隊の先鋒の片倉重長らを銃撃戦の末に一時的に後退させました。 道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死しました。 退却に際して真田隊はしんがりを務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させました。 5月7日に信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案し、右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させようとしました。 先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し射撃戦を始め、本格的な戦闘へと突入しました。 死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行し、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至りました。 信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直隊の大軍を突破し、合わせて徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行しました。 精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入しました。 しかし、大野治長が秀頼の出陣要請に行こうとした際、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り落胆が広がりました。 さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍りました。 徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知しました。 東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めました。 真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていましたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩しました。 真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまいました。 そして、兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされました。 毛利隊も攻撃続行をあきらめ、大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となりました。 信繁は四天王寺近くの安居神社の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され討ち取られました。 これまで信繁については、数多くの著作が世に送られてきましたが、信繁が発給した文書の基礎研究すらなされておらず、また生涯についても軍記物を根拠にした記述が目立っています。 本書は、幾多の謎に包まれた不思議な弓取の真田信繁の生涯を、数少ない史料をもとに解き明かしていくことを課題としています。 最も頭を悩ませたのは、 大坂の陣をどのように評価し、信繁をこの大乱の中で如何に位置づけたらいいのか、 実戦経験に乏しい信繁がなぜあれはどの活躍をすることが出来たのをどう理解すればよいか、ということであったといいます。序 「不思議なる弓取」と呼ばれた男/第一章 真田信繁の前半生/第二章 父昌幸に寄り添う/第三章 関ヶ原合戦と上田攻防/第四章 九度山の雌伏/第五章 真田丸の正体/第六章 大坂冬の陣/第七章 大坂夏の陣/終 章 真田信繁から幸村へ
2020.02.01
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