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全国の萌音ファンが、朝っぱらからキャーキャーいって学校に遅刻しそうな勢いですけど、大丈夫でしょうか?◇ちなみに「カムカムエヴリバディ」は、いまのところ昭和14年(1939)という設定です。ラジオからは、英語講座や、ラジオ体操や、藤山一郎の「丘を越えて」や、エンタツアチャコの「早慶戦」などが聴こえてきます。映画館では、チャップリンの「黄金狂時代」や、桃山剣之介の「棗黍之丞シリーズ」などがかかっているようです。…ただし、これらは、かならずしも当時の最新の流行だったわけではありません。たとえば、チャップリンの「黄金狂時代」は大正14年(1925)の映画だから、当時にあって、すでに14年も前の映画なのです!(笑)そのほか、藤山一郎の「丘を越えて」も昭和6年の曲だから、当時にあって8年も前の曲だし、エンタツアチャコの「早慶戦」も昭和11年の映画で広まったから、当時にあって3年以上前の漫才ネタってことになる。この時代はまだ情報が少ないので、ひとつの流行が今よりもずっと長続きしたのだろうし、しかも、岡山は地方の都市ですから、東京や海外の流行が、すこし遅れて入ってきたのかもしれません。去年の朝ドラ「エール」では、昭和11年の新人歌手オーディションのときに、久志(山崎育三郎)が「丘を越えて」を歌っていました。◇一方、時代劇役者の"桃山剣之介"ってのは、今回のドラマオリジナルの架空の人物です。モデルはたぶん長谷川一夫じゃないかと思います。長谷川一夫は、当時の「時代劇六大スタア」の中でもいちばん若くて、しかも女形出身のヤサオトコでした。昭和10年に「雪之丞変化/第一篇」がヒットすると、同年にその「第二篇」が公開され、翌11年の「解決篇」までシリーズ化されています。さらに昭和14年になると、あらたに「雪之丞変化/闇太郎懺悔」が公開されるので、これが当時の最新流行だったといえるのですが、ただし、この映画にかんしては、主演が長谷川一夫から坂東好太郎に代わっています。◇日中戦争は、すでに昭和12年に始まっています。ラジオでは、5月11日のノモンハン事件を伝えていましたが、岡山市内には、まだそれほど戦争の影が目立っていません。けれども、「純情きらり」や「エール」のことを思い出してみると、愛知や東京のような都市部では、だいぶ事情が違っていた気がします。東京では、すでに昭和12年の「露営の歌」以降、古山裕一/古関裕而(窪田正孝)は戦時歌謡ばかり書くようになっていたし、昭和13年になると、西園寺先生(長谷川初範)も軍歌を作曲させられてたし、池袋のマロニエ荘でも、若い画家たちが「戦争画を描く、描かない」と揉めはじめて、八州治(相島一之)は従軍画家として大陸へ渡っています。同じく昭和13年ごろには、愛知の岡崎で特高警察が活発になっていて、笛子(寺島しのぶ)が学校で「源氏物語」を教えたり、冬吾(西島秀俊)が「資本論」を読んだだけで目をつけられていた。そして昭和14年には、杏子(井川遥)が特高に逮捕され、藤堂先生(森山直太朗)は戦地へ出征してしまいます。◇今回の「カムカムエヴリバディ」にも、「純情きらり」や「エール」と同様に、喫茶店が登場します。すなわち、岡山には喫茶「ディッパーマウス・ブルース」があって、愛知の岡崎には喫茶「マルセイユ」があって、東京には喫茶「バンブー」があるわけですね。いずれも横文字の名前の店で、ジャスのレコードや、クラシックのレコードを流してます。しかし、昭和15年ごろになると、英語も外来語も「敵性語」と見なされるようになるので、たぶんラジオの英語講座も放送されなくなるのだろうし、ジャズやクラシックのレコードも聴けなくなるだろうし、喫茶店の名前も漢字平仮名に変えざるをえなくなる。安子(上白石萌音)の家の近所の洋食屋さんには、いまは「オムレツ」とか「カツレツ」とか横文字のメニューが並んでますが、それさえも書けなくなって、しまいには喫茶店でコーヒーも飲めなくなるでしょう。頭のわるい軍人ばかりが我がもの顔で歩くようになり、本当にいやな世の中になるんですよね。戦争とは、そういうものです。◇愛知の岡崎では、喫茶マルセイユのヒロさん(ブラザートム)が、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」などのレコードを流してました。今回の岡山では、喫茶ディッパーマウス・ブルースの柳沢(世良公則)が、ルイ・アームストロングの「明るい表通りで」のレコードをかけています。原題は「On The Sunny Side Of The Street」ですね!サッチモの昭和10年(1935)ごろの録音だと思います。彼は1901年生まれなので、たぶん34才ぐらいの歌声。そういえば、桜子(宮﨑あおい)は、学生時代から「セントルイスブルース/St. Louis Blues」を弾いてましたが、じつは、昭和14年に、八州治を大陸へ送る壮行会のとき、みんなで「On The Sunny Side Of The Street」を演奏しています。そして戦後になって、桜子が小学校の代用教員になったときも、教え子のために「On The Sunny Side Of The Street」を弾いています。◇最後に、話は変わりますけれど、安子の家は和菓子屋の「たちばな」を営んでいて、稔(松村北斗)の家は繊維会社の「雉真キジマ繊維」を経営しています。岡山県は、江戸時代から繊維業が盛んで、実際に戦前から学生服を作っていましたし、今でも「カンコー」「富士ヨット」「トンボ」など、大手学生服メーカーが岡山県に拠点を置いていて、それらが全国シェアの8割を占めているそうです。まあ、それは岡山市ではなく、倉敷市なのですが…。今回の「雉真繊維」のモデルは、戦後に初の国産ジーンズを製造した「マルオ被服」だとの噂ですが、これも、やはり倉敷市の会社です。去年のTBSの「じょんのび」では、川沿いに江戸時代の蔵屋敷が並ぶ倉敷市のモダンな町並みを、由貴ちゃんが巡ってました。すでに萌音の朝ドラ出演が決まってたので、後輩のドラマの舞台を一足先に視察したって感じ?一方、岡山といえば桃太郎の吉備だんごですが、なぜか和菓子屋「たちばな」には吉備だんごが売ってないようです…。猿と犬とキジしか食べないからでしょうか?かりに、棗黍之丞なつめきびのじょうこと桃山剣之介ももやまけんのすけが買いに来ても、「たちばなじゃ売ってねーよ!」ってことになりそうです。そのかわり、特製おはぎ、あんころもち、わらび餅、草餅などが並んでいます。雉真家の人たちも、雉キジと名のつくわりには、おはぎばかり注文しています。ちなみに安子の店では、「おはぎ」のことを「ぼたもち」とは呼ばないそうです。「ぼたもち」の呼び方は《春の牡丹ぼたん》に由来していて、「おはぎ」の呼び方は《秋の萩はぎ》に由来しているそうです。
2021.11.06
結核。隔離。あまりにも残酷な結末。15年前に本放送を見たときは、遠い過去の話だと思っていたけれど、コロナ禍のなかで再放送を見ていると、なにか皮肉な偶然を感じずにはいられない。◇通常のドラマなら、最後に伏線が回収されて、これまでの約束がみごとに果たされて、めでたく夢が叶って終わるところですが、このドラマは、そのすべてを裏切ります。朝ドラ史上、稀に見るようなバッドエンド。桜子の人生は、なにひとつ実現しないまま、報われずに終わる。なにも成し遂げることの出来ない人生。…でも、それが不幸だとは思わない。そういう感想を、本放送のとき以上に強く持ちました。◇夢が叶おうが叶うまいが、想いが報われようが報われまいが、約束が果たされようが果たされまいが、生きていること自体に輝きがある。それが、このドラマのメッセージだと思うし、実際、桜子の人生はとても輝いていたと、わたしは思います。桜子だけではありません。目の不自由な亨ちゃんにも生きる歓びがあったし、生まれてきた赤ちゃんの命もキラキラ輝いている。夢が叶ったり、想いが報われたりするのは、せいぜい小説やドラマのなかの架空の話であって、現実の人生は、そうではありません。さまざまな行き違いや矛盾に満ちていて、けっして現実は「まんどろ」というわけにいかない。これは、冬吾=太宰治に対するメッセージでもあるのだけれど、やはり「命を捨てるべきではない」というのが、作者の最終的な考えなのだろうなと、あらためて思います。◇冬吾との関係も、最後まで片付くことはなかった。本来の冬吾は、誰に対してもズバっと本音を言い、魂をぶつけるような絵を描く人でしたが、結婚後の冬吾は、そうではなくなりました。不本意な絵しか描くことができなくなっていたし、死線を彷徨った夢のなかで桜子に救われたときには、「笛子と加寿子と亨の顔が浮かんできた」などと嘘をついて取り繕ったりしていました。いや、嘘ではなかったのかもしれませんが、夢のなかで桜子の魂と通じ合った記憶は、みずから抑圧したのでしょう。冬吾にとっての真実は、唯一、桜子でした。笛子も、うすうすそのことを察知していて、桜子の姿を描いた冬吾の絵を病室に飾ると、桜子にむかって「あんたが羨ましかった」と言いました。そこにも、それぞれの報われない真実がありました。◇ものすごく矛盾に満ちた内容だったけれど、それゆえに強烈な印象を残しました。わたしは、やはり、このドラマが面白かったです。
2021.01.06
冬吾には、自殺願望があります。それが、このドラマの最大の裏テーマです。◇冬吾は、空襲で家屋の下敷きになったとき、桜子に「俺はもう死ぬ」と言いました。あとに妻子が残されることなど考えもせずに、平気で「俺は死ぬ」などと言うのです。妻の存在は、彼にとって「生きる理由」にはなりませんでした。二人の子供でさえ「生きる理由」にはならなかった。唯一、桜子の存在だけが、冬吾にとって「生きる理由」になりえたのです。桜子だけが、冬吾に生き続ける気力を与えていました。◇冬吾と桜子は、たがいに愛し合っていたはずですが、その抑えきれない想いを、冬吾は絵に込め、桜子は曲に込めることで、なんとか一線を踏み越えずにとどまっていました。その純愛は、たしかにプラトニックで美しかったけれど、戦後の冬吾が、妻や家族ではなく、唯一、桜子のためだけに生きていたのは間違いない。笛子も2人の相愛に気づいていました。達彦とかねを亡くした(と思っていた)桜子にとって、冬吾だけが心の支えになっていたのを分かっていたし、そんな桜子を支えようとする冬吾の心情も理解していました。そして、冬吾の芸術にとっても桜子の存在が必要なのだということを、笛子はちゃんと承知していました。もちろん、そこに嫉妬はあったし、そのフラストレーションを吐き出すためにこそ、戦後の笛子は、まるで銭ゲバのように振舞ったりもしました。それぞれの止むにやまれぬ心境は、それなりに理解できます。◇しかし、それでも、どうしても解せないことがあります。そもそも冬吾は、なぜ愛してもいない笛子と結婚したのでしょうか?そして、それは彼の自殺願望の結果だったのでしょうか?あるいは、それこそが、彼の自殺願望の理由になってしまったのでしょうか?さすがの笛子も、冬吾の自殺願望には気づけなかったと思う。冬吾は、かろうじて桜子の存在によって生きているだけです。◇太宰治も、正妻と3人の子供がいたにもかかわらず、なんども愛人との自殺未遂を繰り返しました。「純情きらり」の原作者は、その娘です。もしかすると津島佑子は、父の自殺願望の「謎」を解くために、この物語を書いたのかもしれません。しかし、すくなくともドラマを見るかぎり、冬吾の自殺願望の謎は、結局のところ、最後まで分からないのです。愛してもいない女と結婚したせいだったのか。それとも、もっと本源的な厭世観のためだったのか。あるいは、自分自身を憎んでいたためだったのか。この「謎」は、物語の構造の外側にまではみ出しています。やはり、このドラマには、ちょっと怖いところがあるのです。
2020.12.28
冬吾が、笛子のもとから逃げてきました。まあ、笛子から逃げるのはいいとしても、八州治や八重やマリのところではなく、わざわざ、よりによって岡崎まで来るというのは、やっぱり桜子に「何かを期待して」のことなのでしょうか?それとも(太宰治もそうかもしれないけど)、たんに「女のところを渡り歩く」という彼の習性なのでしょうか?◇いまさら言うのは何だけど、そもそも冬吾がどうして笛子を妻にしたのか、そのこと自体が不可解なんですよね。ほんとに彼女を愛したんでしょうか?恋愛と結婚というのは別物だし、笛子のような堅い女を妻にするのは、ある種の合理的な判断だったかもしれないけど、ややもすると、ただ打算的に利用しあってるだけの夫婦にも見える。あらためて結婚にいたった経緯を思い起こしてみると、冬吾がすすんで笛子を愛したとは言い難くて、どちらかといえば、笛子の想いをやむなく受け入れた、というのに近い。そして、それと同じことは、じつは桜子と達彦の関係にも言えるのですよね。桜子はすすんで達彦を愛したのではなく、どちらかといえば、達彦の想いを受け入れた、というほうが正しい。◇恋愛と結婚は別物ではあるけれど、あくまで「恋愛としての純粋さ」という意味でいえば、やっぱり桜子と冬吾との恋愛が、もっとも純粋で、もっとも嘘のない恋愛だったように見えます。たしかに世間的に見れば不純な不倫行為だけど、それだけに、なんらの打算もありえなかったわけですから、あれこそが、ほんとうに捨て身の恋愛だったように見える。実際、太宰治の場合も、「女にだらしない」と言えばそうだけど、心中するくらいに捨て身だったという点でいえば、打算のない純粋な恋愛だった …とはいえる。◇達彦は戦地から帰ってきました。桜子は、冬吾にそのことを告げました。すると、冬吾は「えがったな」と笑って、まもなく桜子のもとを去っていきました。これにて二人の恋は終わり。一件落着。とも見えるのですが、…じつはそうとも言いきれない。わたしの14年前の記憶も曖昧で、ネタバレしようにも出来ないのですが、桜子と冬吾の精神的な繋がりを感じさせるエピソードは、このあとに、まだ残っているはずです。◇◇それはそうと、ヒロさんのマルセイユ=ブラザートムの喫茶店で、またバッハの「ゴルトベルク」のレコードをかけていました。戦前のシーンでは、チェンバロ演奏のように聞こえましたけど、今回は、どう考えてもピアノのように聞こえます。しかし、昭和21年ですから、まだグレン・グールドのレコードは世に出ていない。グールドがデビューするのはおよそ10年後だし、そもそも彼の最初の録音はもっとテンポが速い。ためしに楽曲検索をかけてみましたけど、やるたびに違う演奏家の名前が出てきて、結局だれの演奏なのか分かりませんでした。
2020.12.23
「純情きらり」は全26週で終わるのですが、最終盤の23週目にして、達彦がとつぜん帰ってきます。すでに達彦は死んだものと思われてたし、実際、かねの死に際にも達彦の魂が立っていたし、ドラマ的にも、達彦の死亡フラグは何度も立っていました。だから、14年前の本放送のときは、達彦の帰還を喜びつつ、どこかしら違和感もあった。もしかしたら、視聴者からの要望を受けて、脚本を変更して、あとづけで達彦を復員させたんじゃないの?そういう疑念は、いまでも感じています。あるいは、当初から両方の選択肢を残してたのかも。◇ドラマ的にいえば、死んだ夫を待ちつづける妻というのは美しい。けれど、達彦の場合、待っているあいだは帰ってこなくて、待つのをやめてしまったあとに帰ってきます。そして、結局、達彦が帰還しても、桜子が音楽家になるという本来の目的は、果たされることのないままに終わります。キラキラした少女時代のような桜子は、ついに最後まで戻ってこないし、桜子の後半生というのは、総じて暗い。父とともに夢見た人生をつかみ取ることはできない。その意味で「純情きらり」の主人公は、なんとなく「スカーレット」の孤独なヒロインに似ています。◇本来、達彦は戻ることなく、桜子がひとりになる結末だったんじゃないかしら。最愛の父を失ったあと、斉藤先生、達彦、冬吾という3人の男性との悲恋のすえに、最後には、桜子がひとりで生きていく物語だったように思います。今まで 私 いろんな人と別れてきた好きになった人… 一番 大事な人と別れていく…私の人生は そういうふうになっとるんだねちなみに、第22週の「さよならを越えて」は、演出家が3人がかりで作ってました。そのせいもあってか、冬吾との恋愛が、いちばん濃密だった気がします。
2020.12.18
芸術一筋だったはずの桜子と冬吾は、ブレまくってる。そして、道ならぬ男女の感情に支配されています。◇笛子が、教師を辞め、家族を犠牲にまでして冬吾の画業を支えたのとは裏腹に、冬吾は、岡崎で結婚して以降、画家としての先鋭的な感覚を失っていったし、桜子も、味噌屋の若女将になると言い出して、音楽への情熱をほとんど放棄してしまいました。そして戦況が悪化すると、冬吾は、悲惨な現実に打ち砕かれて、絵を描く意味すら見失ってしまったし、桜子も、達彦とかねを亡くした喪失感のなかで、なりゆきで教員を目指しはじめたりする。ついでにいうと、出戻り娘だった杏子も、妻子を失った男と、両親を失った少女に、まるで拾い物のような人生の意味を見出します。和之は、育ての母でなく、産みの母のほうを選びます。◇なんだか、とってもグチャグチャしてる。このドラマが描く戦争には、「エール」みたいな凄惨な戦場シーンこそないものの、人の心が壊れて、夢や希望がなくなっていくような、深い闇の世界が感じられます。戦争のなかで、ただ生き延びることで精いっぱい。人生の目的も約束も打ち捨てられる。テーマは定まらず、伏線も回収されず、もはや誰ひとり「純情」でなどいられない。◇そういえば、第21週のサブタイトルは「生きる歓び」だったのですが…空襲下の東京を舞台にした、いちばん悲惨で悲劇的な内容だったのに、この期に及んで「生きる歓び」とは、なんという皮肉! ものすごいアイロニー!この「歓び」とは、目の不自由な亨ちゃんが、無心になって世界を生きようとするときの、根源的な生命力のことを指していたのだけど、逆にいえば、そういう刹那的な衝動以外に、生きるための拠り所がなくなってしまった、ということでもある。◇教師は教職を失い、画家は絵画を失い、音楽家は音楽を失い、妻は夫を失い、母は息子を失う。夢も希望も壊れてしまった後の世界。そんななかで、ムクムクと湧き上がる、桜子と冬吾がたがいを求めあう道ならぬ感情。なにもかもグチャグチャになった戦時下のなかで、親子も、夫婦も、職業も、すべてガラガラポンになっていく世界の、善悪をこえた生への衝動?理性をこえた暗い性への欲望?笛子は、それに気づいています。
2020.12.17
桜子と冬吾は、けっして男女として結ばれるわけではないけれど、たがいに芸術を志した者として、むしろ男女の関係を超えるほどの絆で、強力に惹き合っているようなところがあって、そこには、ある意味、妻の笛子でさえ立ち入れない部分があります。それは、このドラマだけでなく、津島佑子の原作「火の山 - 山猿記」における、(太宰治のことをかなり意識させるような)冬吾という人物の特異な位置づけのせいでもあるし、同時に、この当時の宮﨑あおいと西島秀俊の、俳優としてのコンビネーションのせいでもある。◇この朝ドラが本放送されていた2006年に、映画「好きだ」と「海でのはなし」で、宮﨑あおいと西島秀俊は共演してましたから、ついドラマの内容を超えたところで、この二人の関係に期待して、それを桜子と冬吾の姿に重ねてしまう雰囲気は、すくなからずあったんだろうと思うし、ドラマの展開としても、かりに達彦が戦死した場合、桜子と冬吾が…という選択肢もあったんじゃないかと勘繰らせる面はある。◇実際、冬吾は、桜子にとって、達彦よりも重要な男性だったんじゃないか?…という妄想は十分に成り立つし、そう解釈したほうが、かえって作品の深みが増す気もします。もし「桜子と冬吾との恋」が見たければ、宮﨑あおいと西島秀俊との当時の共演映画のなかで、それを疑似的に楽しむという手もある!!…のかもしれません(笑)。
2020.12.09
『純情きらり』を見ていたら、源氏物語が「不敬文学」だという話が出ていました。それは、いうまでもなく、源氏物語がエロ文学だからなのですが、与謝野晶子や谷崎潤一郎は、戦時中にもかかわらず、これを現代語に訳していました。当時としては、けっこう政治的な仕事だったのかもしれません。◇ちなみに、源氏物語が批判されるようになったのは、江戸時代以降です。最初は、儒学者や漢学者が、中宮と光源氏との密通などをあげつらって、皇室文化のふしだらさや、皇統の欺瞞性を指摘したわけです。これに対して、国学者の安藤為章などは、必死になって源氏物語を擁護しましたが、一般的に、国学者たちにとっては、源氏物語が「不都合な書物」となってしまったようです。◇一方、明治期になって、源氏物語のことを批判したのは内村鑑三です。彼によれば、ほんとうの文学とは「世界に戦争するときの道具」なのだから、源氏物語のような美しいだけの軟弱な文学は、「後世への害物」でしかなく、「われわれを女らしき意気地なしになした」ものだ、といって容赦なく罵倒したわけです(笑)。もっとも、非常に誤解されやすいところですが、この内村鑑三の批判というのは、けっして軍国主義の立場からのものではありません。そもそも反戦主義者である内村が、文学のことを「戦争の道具」などと言うはずはありません。ここで内村が述べている「戦争」とは、社会改革のことです。つまり、ほんとうの文学とは、未来に社会改革をもたらすための思想表現なのだから、愛だの恋だのと軟弱なことを書くのが文学ではないと言って、その代表格である源氏物語のことを槍玉に挙げたのです。いわばロマン主義の側から自然主義文学を批判したのですね。まあ、それはそれで、一理あると思います。◇戦時中になると、いよいよ国粋主義者の面々が、源氏物語のことを「不敬文学」だと言いはじめます(笑)。代表的なのは、橘純一ですね。彼らは、表向きは天皇の権威を利用しながら、その反面で、皇室の華美で雅な文化を徹底的に否定しました。そういう自己矛盾を犯していたのです。もともと王朝文学というのは、ヨーロッパであれ、アラブであれ、インドであれ、たいていは恋愛物語なのですから、それを否定することは、王朝文化そのものへの侮辱でしかありません。いまから見れば、国粋主義者たちの態度のほうがよっぽど不敬であり、なによりも国賊的な振る舞いなのですけどね(笑)。◇谷崎潤一郎は、そんな戦時中にもかかわらず、源氏物語を現代語に訳したばかりか、ひたすらエロ文学を書き続けていました。それは、内村鑑三のようなロマン主義の立場からすれば、くだらない「害物」だったかもしれませんが、むしろ戦時中にあっては、谷崎のような断固とした数寄物の姿勢こそが、かえって政治的な意義をもっていたように思います。『純情きらり』のなかでも、冬吾は好きな絵を描き続けていましたし、桜子はジャズやクラシックを弾きつづけていました。好きなことをやり続けるのは大切です。さもなくば、古関裕而みたいに、戦時中だからといって、軍国主義的な作品にばかり手を染めるハメになります。それこそが、大きな過ちなのですよね。書きたいものを書かずに、時勢だの時流だのに合わせたものばかりを書いていると、後悔するばかりか、後世に大きな批判を浴びることになる。あくまでも好きなことをやり続けるのは、勇気のいることだけれども、とても大切なことです。◇ところで、現代のネトウヨは、大江健三郎のことが大嫌いです(笑)。大江の作品は、個人と社会との葛藤を描く近代文学です。つまりは近代性の表現そのものです。ネトウヨは、表向きは「近代国家」を装いながら、そのじつ近代性というものを非常に嫌っています。彼らは、表現の自由を抑制し、中央政権が国民を統制するような総動員体制をこそ望んでいます。つまりは、北朝鮮や中国のような前近代的な国家こそが、ネトウヨたちにとっての本当の「理想」なのですね。それもまた、戦時中の国粋主義者と同じような自己矛盾です。
2020.10.15
桜子が、ピアノを売り払う前に、最後に弾いた「埴生の宿」。戦時中とは思えないほど洒落たアレンジでした!ジャズで弾くクリスマスソングみたい。まあ、最後の演奏かと見せかけて、ピアノはわりとすぐに戻ってきましたが(笑)。◇アンパンマンが心変わりをしたおかげで、ついに達彦との婚約が成立!ここらへんが、このドラマの最大のハイライトだったかも。達彦とは、「ピアノを弾き続ける」という約束をして別れました。出陣式の場面では、かなりの死亡フラグが立っていたようにも見えました。まあ、このドラマの場合、約束は何ひとつ果たされることがありませんし、主人公は何ひとつ夢を実現できませんし、永遠に別れたかと思ったものが、わりとあっさり戻ってきたりもしますが(笑)。◇それにしても、入営前夜の線香花火のシーン。あんなに官能的なシーンがあったなんて!すっかり忘れていました。戦時中に、屋外で、服のボタンを外してしまうなんて、NHK朝ドラのヒロインにあるまじき行動だったのでは?戦時中だからこそ、抑圧された本能がむき出しになってるともいえるけど…。さすがに達彦は自制してましたが、キヨシくんだったら確実に押し倒してましたよね。目をギラギラさせて。◇一方『エール』では、裕一が前線へと向かいました。満州や南京へ行った史実などは省略されていたので、ここにきて外地へ行くとは予想外です。現地でロケをやってるわけじゃないと思いますが、物語の舞台はミャンマーに移っています。もしかしたら、「純きら」の貧乏絵描きの八州治も、あのような前線で絵を描いていたのでしょうか。◇古関裕而がビルマへ行ったのは史実だそうです。たびたび外地へ行っていたのは驚きだし、陸軍が、当代の戦時歌謡の名手を、そんな危険な前線へ送り出していたのも不思議です。ちなみに、このとき古関裕而と同じ慰問団に加わって、インパール作戦にまで従軍したのは火野葦平です。ドラマでは「水野伸平」という役名になっています。ところで、蛇足ですけど、原節子って、戦前から有名女優だったのですね。てっきり戦後になってから有名になったと思ってました。戦前の原節子というと、わたしは『河内山宗俊』しか見たことありません。
2020.10.14
「純情きらり」でも「エール」でも、町の喫茶店が癒しの場になっていたのですが…喫茶バンブーは、敵性語を禁止されて「竹」と改名し、やがて材料を仕入れられなくなったので、閉店を余儀なくされてしまいました。喫茶マルセイユのほうは昭和14年の時点ではまだ営業してますが、やがて「丸勢勇」と改名することになりますし、やはり閉店することになるはずです。◇治安維持法のもとで特高警察が活発になっています。冬吾は、かつてマルクスを読んでいたので、笛子は、学校で源氏物語を教えていたので、取り締まりの対象になる危険があった。豊橋の関内家もクリスチャンだったので、音も軟弱な女流小説を書いていたので、やはり危険な立場におかれていたようです。桜子もジャズが好きだったので、特高に狙われる危険はあったわけですよねえ。◇しかし、冬吾の場合は、実家が大地主だったことが救いになりました。関内家の場合も、稼業が陸軍御用達の馬具屋だったことが、小山家の場合も、裕一が戦時歌謡の名手だったことが、やはり救いになっていたのだと思います。裕一や五郎が兵役を逃れたのも、そのためです。そういう不公平がまかりとおる社会でもあります。そうでなければ、「おしん」の俊作や浩太のようなことになりますよね。小林多喜二みたいに、右翼の憂さ晴らしみたいに殺されてしまう。◇当時の国家主義者たちが、日本の最重要の古典である「源氏物語」を嫌っていたのは、今でいえば、ネトウヨが大江健三郎のノーベル文学を嫌うのに似ている。はたから見たら、どっちが国賊なのか分からないのですが、彼らは「愛国」という名目で、日本社会の文化的洗練をつぎつぎに抹殺していくのです。結局のところ、戦時中における特高警察の取り締まりは、現代におけるネトウヨのうっぷん晴らしと、基本的には同じ心理なのだと思います。一言でいえば、国際主義に対する「妬み」ですね。現在のネトウヨも、大江健三郎とか、是枝裕和とか、伊藤詩織みたいに、国際的に評価される日本人のことが大嫌いですよね。戦時体制になると、「愛国」とか「治安維持」の名のものとに、普段から気に入らない人間たちを、ここぞとばかりに密告しまくって逮捕させるという、まさにネトウヨ天国みたいな社会になります。それが戦争の現実だろうと思います。
2020.10.07
"KY"なのにモテすぎちゃって困る桜子と、モテなすぎて嫉妬やら欲求不満ばかりが募る笛子。双方の八つ当たりが、しばしば衝突します(笑)。◇2006年の本放送のときには、桜子のKYっぷりに対する反感のほうが多くて、笛子に対しては同情や共感の声が多かった。でも、わたしには、自分の欲望に真っしぐらな桜子の、笑えるほどのKYっぷりは、かえって清々しくて、逆に、妬みやら欲求不満やらを蓄積させて、それが行動原理になっている笛子の姿は、あまりにもイタすぎて、ほとんど醜悪でした。ある意味、いちばん面倒くさいタイプの女です(笑)。そんな笛子にくらべれば、青森から死物狂いで追いかけてきた許嫁女の、破滅的なストーカーっぷりのほうが、むしろ清々しく思えたしだいです(笑)。◇ちなみに「KY=空気読めない」という言葉は、このドラマが放送された2006年に生まれたらしいです。14年たって、いまや死語かもしれませんが…。『知恵蔵』によると、2006年ころから女子高生の言葉として使われ、07年参院選で大敗した安倍内閣を「KY内閣」と評したことで、一般的な流行語となった。場の空気を瞬時に読み取る状況判断能力を物語っているが、過度になると、主体性を喪失し、周囲に迎合することになる。集団同調圧力が強いられる日本社会ならではの問題かもしれない。…だそうです。浅野妙子は、そんな時代に、あえてKYなヒロインを生み出したのですね。意外に先駆的だったのかもしれません。◇桜子は一見するとKYなようで、じつはちゃんと空気が分かってる面もありますよね。ただし、分かっていても、あえて「空気を読まない」のも桜子の生き方です。しかも、このドラマに描かれている「空気」は、戦争へ向かっていく世の中の、シャレにならない「空気」でもあります。笛子や徳治郎は、世間の空気に染まっていくタイプだから、権威とか体制とかにも従順で、戦時下の空気にも流されてしまいます。でも、桜子は、そういうことに左右されません。よくもわるくも、自分の欲望と自分の価値観にだけ忠実ですから、他の人とは行動原理が違うのです。そこに、かつて父の言った、「桜子の強さ」と「笛子の弱さ」があります。◇本放送から14年もたってますから、「KY」なヒロインに対する視聴者の反応も、だいぶ変わっているかもしれません。物語の終盤になると、笛子は、桜子に向かって、「あんたが羨ましかった」と言います。
2020.10.05
『純きら』と『エール』は、昭和13年でシンクロしていたのですが、『エール』のほうは、あっというまに昭和16年まで話がとんで、太平洋戦争がはじまりました。「暁に祈る」を書いていたときは、たしかに昭和13年だったのですが、その曲が発表されて映画が公開されたときは、すでに昭和15年だったようです。実際の古関裕而は、「露営の唄」を書く前に、夫婦で満州旅行をしてますし、「暁に祈る」を書く前には、従軍部隊として中国の前線にまで入っています。ドラマでは、そこらへんの史実はすべて省略したようです。そもそも、朝ドラで中国ロケなんかするはずないのですよね(笑)。でも、彼が中国の現状を見ていたことは、史実としては重要なことだと思います。◇日中戦争のころの小山家は、とてもモダンでお洒落で優雅な生活をしていましたが、さすがに太平洋戦争がはじまると、服装も食事も質素になって、生活に変化があらわれます。なんとなく世の中が暗い雰囲気に包まれています。長女の吟が軍人のもとへ嫁いだのは、軍人こそが安定した職業だったからでしょうが、その夫は、前線へ向かうようです。次女の音の婚約者である五郎が、豊橋から訪ねてきましたが、まだ軍服を着てなかったのでホッとしました。娘の華ちゃんの初恋相手であるハーモニカ少年が、いずれ出征させられそうで怖いです。◇「日本男児」という言葉は聞きますが、「日本婦人」とか「日本婦道」とかいう言葉は、このドラマではじめて知りました。戦争ドラマでは、女性は被害者として描かれることが多いですが、このドラマでは、女性の加害性というか、女性が戦争に加担した面も描かれていますね。とても重要な戦争の一面ですが、これも関係者の存命中には描きにくかったことかもしれません。現在でさえ、「鬼畜のような敵兵が本土に上陸する」となったら、竹槍の訓練などをはじめる人たちは出てくるでしょうね。◇『純情きらり』のほうは、まだ昭和13年ですが、一日に2話ずつ進めば、ふたたび『エール』に追いつくかもしれません。
2020.09.29
「エール」と「純情きらり」。現在、奇しくも、昭和13年でシンクロしています。いや、それとも、あえてシンクロさせるための中断だった?どちらのドラマも、「忠君愛国」な姉がいて、「戦争より芸術」な妹がいる。その図式は、ちょっと似ています。◇すでに婦人会はお国のために一生懸命で、世の中は「ぜいたくは敵!」というムードなのに、小山家の面々ったら、音楽教室だとか、喫茶店でコーヒーだとか、おやつにはドーナツだとか、ずいぶんとハイカラで優雅です。もう、あれですね、ここらへんは、ネトウヨ的には発狂ポイントでしょうね(笑)。◇とはいえ、福島三羽烏も、軍馬PRのために「暁に祈る」を世に出そうとしてるし、裕一こと古関裕而は、まもなく従軍音楽部隊の一員として中国に渡るはずです。すでに「純情きらり」でも、貧乏画家の八州治が、戦争を取材するために中国へ渡ろうとしています。◇「純情きらり」では、すでに雑誌記者の薫子が、戦時体制に協力する紙面づくりをしていましたが、いまのところ、「エール」の梅が書いている小説には、戦争の影響は及んできていません。梅は、婚約者を連れて豊橋へ戻ってしまったけど、もともと豊橋の実家は、陸軍御用達の馬具屋なのですから、裕一たちの作った「暁に祈る」がヒットすれば、小山家ともども、いっそうの戦争協力を迫られることでしょう。◇ところで、「エール」のなかで、山田耕筰は、けっこうな悪役ですね。まるで陸軍と蜜月関係のように描かれています。というより、コロンビアレコード全体が、完全な戦時協力体制になっているのですね。演じる志村けんがいなくなった以上、あとになって戦争協力を後悔する機会もなさそうです。
2020.09.23
マロニエ荘にやってきた達彦の母=松井かねは、まずは桜子の登場にブチ切れ、そして旦那の登場にもブチ切れ、さらに旦那が連れてきた芸者にもブチ切れ、自分の顔のアンパンをちぎっては投げ、ちぎっては投げていました。◇達彦は、母の反対を押し切り、キヨシの反対も押し切り、あくまで音楽に邁進してるように見えますが、じつは彼の目的は、音楽ではなく桜子です(笑)。そもそもドイツ渡航を渋っていたのも、母に反対されたからじゃなく、たんに桜子と離れたくなかったからです(笑)。彼の父が思ってるほど、達彦は「夢にまっしぐら」じゃないのです。たんに女の子にウツツを抜かしてるだけです(笑)。桜子は、あいかわらず空気も読まず猪突猛進ですが、もともと達彦は、そんな桜子が好きなのだから仕方ありません(笑)。◇しかし、そんな達彦のふらふらしたモラトリアムも、やがて父の死と戦争によって中断されるでしょう。彼の運命はどうなるのでしょうか?ちなみに、いまや37才の福士誠治くんは、100分de名著で『ペストの記憶』を読んどります。◇戦争の影は強まっています。反戦少女だった薫子の勤める出版社も、いまや戦意高揚のための紙面を作っています。冬吾は、戦争への協力を拒否してますが八州治は、戦争画を描くために中国大陸へ渡ることを決めます。古関裕而は、すでに軍歌を作っていましたが、西園寺先生も、ついに軍歌の作曲に着手します。どんなに頭で戦争に反対していても、生活のために戦争協力を余儀なくされてしまう。それが「総動員体制」というものです。
2020.09.09
「きらきら星変奏曲」の連弾。このドラマの最大のハイライトのひとつでした。もしかしたら、『蜜蜂と遠雷』や『羊と鋼の森』のなかで、印象的な連弾のシーンが描かれるようになったのも、この『純情きらり』の影響だったかもしれません。◇西園寺先生とはじめて会ったとき、桜子は「セントルイスブルース」を弾いてました。だから、もともと西園寺には、ジャズの文化に対する理解もあったわけです。耳コピで「セントルイスブルース」を弾きこなし、滝廉太郎の「花」もジャズ風に編曲していた、そんな桜子の耳のよさと即興のセンスを、西園寺はちゃんと見抜いていたのです。>ジャズは男の世界。>女に教えるようなことはない。そう言っていたサックス奏者の秋山も、じつは桜子の才能に気づいています。しかし、当時、川畑文子や淡谷のり子のような女性歌手はいても、やはり女性のジャズ奏者はいなかったのでしょう。ちなみに秋吉敏子は1929年生まれなので、桜子よりも9才年下です。秋吉の場合は満州育ちですが、やはり戦前はクラシックを学んでいて、日本でジャズを弾き始めたのは戦後になってからです。桜子にも、戦後にチャンスがあればよかったのですが、残念ながら、秋吉のようなジャズピアニストになることはできません。
2020.09.04
先週の「サクラサク」ってのは、”桜子錯乱”の略だったのかしらと思うほど、上京してからの桜子の行動は、常軌を逸しています。合格発表の人だかりを押しのけて、我れ先にと自分だけ前に陣取ったり、達彦に理不尽な逆切れをしたり、マロニエ荘の住人に泣きながら喚き散らしたり、笛子にも身勝手な我がままを押し通しています。岡崎にいた時から、それなりに自己中ではあったけど、東京に来てからの桜子は、その比ではありません。そして、ダンサーのマリや、お金持ちお嬢のるり子の意地悪が、桜子のバトルをいっそう盛り立てています(笑)。◇岡崎での桜子は、基本的には笑顔で過ごしていましたが、東京での桜子は、かなりの頻度で苦悶の表情を浮かべています。今後、戦争が本格化すると、桜子の表情からは、ますます笑顔が消えていきます。この物語は、進めば進むほど、不幸の度合いが強まっていきます。ちなみに磯おばさんも、かつては東京で挫折した経験があったようです。(世代的に、桜子の父はモボで、磯おばさんはモガです)桜子は、それ以上に過酷な経験を強いられることになります。◇今週のタイトルは「貧乏なんか怖くない」ですが、それは、お嬢のるり子が勝手に言っただけのことで、基本的に有森家は、それほど極端な貧乏ではありません。東京という土地が、彼女の劣等感を刺激するのですよね。貧乏というのは、むしろダンサーのマリのことですね。
2020.08.27
いよいよ桜子が上京します。「サクラサク」というのは、合格発表のことでもあるけれど、桜子自身の本格的な人生の開花ことでもある。マロニエ荘を舞台に、冬吾をはじめとする芸術家の卵たちと交流しはじめます。◇昭和13年といえば、小熊秀雄が「池袋モンパルナス」について書いた年です。池袋モンパルナスに夜が来た学生、無頼漢、芸術家が町に出る彼女のために、神経をつかへあまり太くもなく、細くもないありあはせの神経を――。上野には文化の中心があり、浅草には大衆娯楽のメッカがあり、そうした世界に憧れる若者たちは、西側の池袋に巣食っていました。画家、ダンサー、キネマ俳優、音楽家、無頼者、地方人の寄り集まり、酒、麻薬、暴力、セックス…とまではいわないまでも(笑)、当時としては、けっこう頽廃的な世界です。そして、東京が岡崎と違っていたのは、そこが二・二六事件の現場だったこと。軍靴が鳴り始めていて、池袋モンパルナスもその影響を受けるようになる。過激な自由と、過激な不自由が衝突していました。『エール』がらみで言えば、すでに「露営の歌」をヒットさせていた古関裕而が、従軍音楽部隊のメンバーとして中国大陸へと渡ります。
2020.08.21
『純情きらり』再放送。いよいよ桜子の本領が発揮されつつあります。亡き父にも愛され、味噌彦やキヨシにも愛され、もちろんテレビの前の殿方にも愛され、そして斉藤先生にも愛されてしまう桜子。じつは桜子は、この物語のなかで、徹頭徹尾、終始一貫してモテモテなのです。15年前の本放送のときにも、同じようなことを書いたのですけど、ここで、あらためて、「笛子の弱さ」問題について書こうと思います。◇いまのところ、物語のいちばんの【暗黒面】を担っているのは、池鉄をはじめとする河原家の名古屋人のように見えますが、それはあくまで表向きのことにすぎません。じつは、ほんとうにドロドロしているのは、有森家における「姉妹間の嫉妬問題」なのです。はじめて視聴している人も、うすうす気づきはじめてると思うけど、器量良しの杏子が先に嫁いだあたりから、この姉妹間の嫉妬問題が、水面下でうごめいています。何を隠そう、『純情きらり』の最大の【暗黒面】とは、この「モテない姉」と「モテる妹」の問題なのです。◇かつて父はこう言いました。笛子は、ああ見えて弱いところがあるんだよ。何かのときは、お前が力になってあげなさい。父は、笛子の「弱さ」を心配していました。※桜子は頑丈なので、さほど心配いりません。笛子は、その弱さゆえに、虚勢を張って生きています。だからこそ、いまいち女性らしさや細やかさにも欠ける。笛子は、長女として厳しく躾られて早くに母を亡くし、父も亡くして、社会的にも経済的にも有森家を支えて、結局のところ全部を背負っています。戦争に備えて、ひとりで竹槍を振り回している。そこに彼女の不幸があります。彼女自身が十分な幸福に恵まれていないので、他人にまで幸福を分け与える余裕がないのです。何かにつけて桜子にきつく当たったり、杏子の不幸も省みずに、無理やり嫁がせたりするのは、彼女自身が柔らかな幸福で満たされていないからです。※もしも父が生きていたら、杏子は河原家へ嫁がずに済んだはず。つまり、笛子の「弱さ」とは、 世間的な常識や価値観を打ち破れないところであり、そのため自分の人生を進むことに臆病なところであり、ついに自分の幸福をつかめないまま、最後まで《嫉妬》の中で生きていくほかないところです。でも、これって、一般的な女性の弱さそのものですよね(笑)。このことが後々の物語にまで尾を引きます。
2020.08.07
薫子(松本まりか)は、味噌彦に横恋慕するだけの「恋する乙女」じゃなくて、じつは、かなり硬派な反戦少女だったんですねぇ。そこらへんも、すっかり忘れてました。まあ、これは、当時の文学少女の定型だったのかもしれません。◇そうなると、ちょっと気になるのが、『エール』に出てくる三女の梅(森七菜)のことです。彼女もゴリゴリの文学少女。現在の『純情きらり』は、日中戦争がはじまった昭和12年を描いていますが、中断している『エール』のほうも、すでに昭和11年まで話が進んでいます。ほとんど同時代です。おそらく『エール』のほうも、翌12年には日中戦争がはじまって、古山裕一(窪田正孝)が「露営の歌」を発表するはずです。妻が西洋音楽を目指し、妹が文学を目指しているのに、夫は軍歌を作る状況になるのだなぁ…と想像します。◇ところで、斉藤直道(劇団ひとり)も、薫子や梅と同じようなインテリです。群衆にまじって「日本万歳!」などと叫んでいる、無知蒙昧な祖父などとは正反対の存在です。そういう意味では、帝大出身だった亡き父に近いところがある。桜子が斉藤に惹かれるのも、きっと、そこらへんに理由があるのでしょうね。そんな図式も、今回あらためて見えてきました。
2020.08.05
昭和12年ごろの日本人は、どのぐらいジャズを聴いてたのでしょうか?…と思ってたら、13話のレコード屋さんの場面でヒントを見つけた。店の入り口と壁に、「淡谷のり子/ジャズソング」と貼り紙がある!よく見ると「おしゃれ娘」とも書いてあります。ネットで調べてみたら、たしかに昭和12年に淡谷のり子が歌った曲です。この前の年に、淡谷のり子はシャンソンをヒットさせたのですが、ここではじめてジャズ風の歌謡曲に挑んだのですね。作曲したのは、コロムビア専属になったばかりの服部良一でした。大ヒットした「別れのブルース」の前の年ですね。ぜんぜん知りませんでした。◇ここでもまた『エール』の内容に交差するわけですが、両方のドラマに関連する流行歌を年代順にしてみると、昭和7年 藤山一郎「酒は涙か溜息か」(古賀政男)昭和10年 音丸「船頭可愛や」(古関裕而)昭和11年 藤山一郎「東京ラプソディー」(古賀政男)昭和12年 淡谷のり子「おしゃれ娘」(服部良一)←ココ 戦時歌謡「露営の歌」(古関裕而)昭和13年 淡谷のり子「別れのブルース」(服部良一)これらが、すべてコロンビアレコードから出てます。つまり、昭和12年というのは、「船頭可愛や」のヒットから2年後、服部良一もいよいよコロンビアで作曲活動をはじめて、ジャズが歌謡曲のなかにまで浸透してくる時代なんですね。詳しくいうと、服部良一と淡谷のり子がジャズに取り組むより先に、川畑文子が「青空」(昭和8年)、ディックミネが「ダイナ」(昭和9年)をヒットさせてるし、そのあとエノケンも歌手デビューしてますから、ジャズ歌謡の流れが徐々に出来ていたのだと思う。ただし、昭和12年には、古関裕而が作曲した「露営の歌」も発表されています。自由なモダニズムと軍国主義が交錯しはじめる時代です。◇ちなみに、ドラマのレコード屋の壁には、「藤山一郎/男の純情」という貼り紙もあります。これは、昭和11年に古賀政男が作った曲です。なにげに「純情」というキーワードが入ってますね(笑)。
2020.07.19
ピアノが来る前に父が死ぬんですね…。すっかり忘れてました。◇記憶していた以上に、「宮崎あおいは幼く見えるなあ」と思うけど、考えてみれば、これって演技ですよね。後半になると、キャラが激変して、暗くて重い中年女性になっていきます。◇ブラザートムの喫茶店に、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のレコードが流れていた。ピアノじゃなくて、たぶんチェンバロですね。気になって調べてみたら、ランドフスカが「ゴルトベルク」を録音したのが、ちょうどこの時代でした。そしてラジオからは「セントルイスブルース」が流れている。かなりハイソな人たちの生活ではあるけど、戦前の名古屋あたりって、こんな感じなのでしょうか?◇『純きら』の有森桜子は、岡崎市の出身。『エール』に出てくる関内音は、豊橋市の出身ですね。おなじ愛知県出身で音楽を目指した女性ですけど、年齢的には、関内音のほうが20才たらずほど上です。関内音のモデルになった内山金子は1912年生まれ。有森桜子は、たぶん1920年ごろに生まれた設定です。1912(明治45年)内山金子、豊橋市に生まれる。1915(大正4年)三浦環がオペラで英国デビュー。1920(大正9年)有森桜子、岡崎市に生まれる。1928(昭和3年)桜子が7才。味噌樽に落ちる。1930(昭和5年)古関裕而が国際コンクールで2等。金子と結婚。1935(昭和10年)「船頭可愛や」が大ヒット。1936(昭和11年)二・二六事件。1937(昭和12年)桜子が17才。学校でジャズを弾く。こんな感じです。◇『エール』の関内音は、子供のころに教会で賛美歌を歌ったり、地元の"ミュージックティーチャー"から、ドイツ仕込みの西洋音楽を指導してもらってました。実際の内山金子の経歴をみると、小さいころからオペラが好きだったり、宝塚歌劇団に憧れたりしてたようで、長谷川時雨らの女性芸術にも感化されてたみたいです。裕福な家庭だから、レコードで西洋音楽を聴くことはできたはずだけど、実際にオペラを聴く機会もあったでしょうか。三浦環は大正4年に世界デビューしてるし、大正時代の後半ともなれば、豊橋のような場所でも、オペラを聴いたり、声楽を学んだりできたんでしょうか。◇一方、ジャズは、1920年代に世界に広まって、大正12年には、神戸に日本初のジャズバンドも生まれてます。桜子の父・源一郎は、妻と東京で暮らしていた頃に、「横浜でジャズを聴いた」と言ってましたが、桜子が生まれる前の話なのでしょうか?だとしたら、かなり早いです。さすがは帝大の学生…?大正時代はもちろん、昭和に入っても、まだまだジャズを聴いてる人は少なかったはずです。ちなみに、いまの岡崎は「ジャズの街」として知られてますが、その立役者である内田修さんは1929年生まれ。桜子より9才ほど年下です。
2020.07.17
「純きら」再放送。今回もミゾミゾが止まらない(笑)。◇キムラ緑子から、あんなにヒステリックに説教されたら、ためしにノートに200回、ひたすら「良妻賢母」って書いてみたくなる!意外に人生変わるかも。◇それにしても、磯おばさんは、たんなる居候なのに、どうしてあんなに有森家を仕切ってるんでしょう?いちおうエプロンはしてますけど、どうせ家事のほとんどは杏子がやってるんだろうし、彼女はいったい有森家で何をしてるのか。娘たちの結婚話まで取り仕切るとか、まったく余計なお世話。そもそも娘たちを嫁がせるよりも、あの居候女をどうにかするほうが先なのでは?ピアノも買わなきゃいけないし、ただでさえ家計が苦しいんだから。杏子は、「磯おばさんを安心させるためにお嫁に行く」なんて言ってたけど、たんなる居候を安心させなきゃならない義理はない。それどころか、杏子がよそへ嫁いじゃったら、まともに家事をする人がいなくなって困るのでは?◇…そんなわけで、杏子のお見合い相手の池鉄!出てきただけで視聴者を不愉快にさせる安定の顔!ここでもミゾミゾが止まりません。◇…そして、べつに親類が入学したわけでもないのに、なぜか女子高の式典にちゃっかり参列してる味噌彦!あんたは何者?母親は町の有力者だから出席してるんだろうけど、なんで息子の味噌彦まで一緒に座ってるの?いったい何の身分なんでしょうか?もしかしたら、ちゃっかり父親の代理みたいなふりして、たくさんの女の子たちを眺めにいらしたのかしら?いい御身分ですね。◇ちなみに、全国の校歌や唱歌を、ぜんぶジャズに編曲したらいいのになあと思う。それだけでも学校に行くのが楽しくなりますよね。生きるうえで、リズムって大事です。ほんとに。
2020.07.15
純きら、再放送。ひさしぶりの大島ミチルのテーマ曲にウルっとくる。2006年の放送ってことは、このあいだ再放送してた「野ブタ」の1年後ですね。これまた、すっかり内容を忘れてるので(笑)、ほとんど初見のような気持ちで見ています。そもそも、幼いときの桜子が、美山加恋ちゃんだったことさえ忘れてました…!子役時代が短かったからかなあ?実際、もうすこし長く加恋ちゃん時代を見ていたかったです。◇宮崎あおいちゃんがジャズを弾きはじめるところは、さすがに覚えてましたけど、次女が井川遥だったのを完全に失念してて驚愕!え~っ?井川遥だっけ~っ?!いまやカウンターでウイスキー注いでるイメージしかない。ちょっと色気ありすぎでしょ。姉じゃなくて、ほとんど継母みたいだったけど!てっきり三浦友和が再婚しちゃったかと思いました…。そして、ひそかに松本まりかが出ていたことにビックリ。へ~。そうだったんだ~。当時から、ちょっと嫉妬深い感じのキャラですか?(笑)◇さて、キムラ緑子(≒かまど)の意地悪っぷりにも、かなりイライラさせられたのですが、それ以上に、宮崎あおいちゃんの、あの若干鼻につく感じのキャラ!まったく悪気ないけど、ちょっと自己中な感じ!なんだか久しぶりにミゾミゾしちゃいました(笑)。なつかし~!!このミゾミゾ感がたまらない。でも、あの鼻っ柱の強さがあるからこそ、今後の悲しい物語もなんとか乗り越えられるのですよね。先のことを考えると重くなるので、なるべく気軽に楽しんでいこうと思います。(~~♪
2020.07.14
「半分、青い」は、「何も成し遂げることのない人生」をひたすらに描いた物語でした。そのことを考えると、現在放送中の「まんぷく」とは真逆の物語であったことが分かります。「まんぷく」は、近代日本でもっとも成功した人物と、それを支えた人々の物語なので、まぎれもない成功譚になることが約束されています。それは夢が叶う物語であり、主題歌は《ドリームズカムトゥルー》であり、《空腹》だった人々が、最後には《満腹》になっていく物語です。これは、NHKの朝ドラにとって、もっとも伝統的な「成功者の一代記」です。それが古臭くて駄目だというつもりもありませんし、むしろ、これこそが朝ドラにとって必勝のフォーマットというべきです。しかし、そこから振り返ると、「半分、青い」がいかに新しかったのかが、よく見えてくる。「半分、青い」とは、半分だけが青空の物語であり、けっして、すべてが青空にはならない物語であり、しかしながら、半分だけ青空である、ということに、ささやかな希望をもちつづけようとする物語でした。星野源の主題歌も、1番が朝で、2番が夜。光と闇が半分ずつの世界でした。◇じつは、2006年に放送された「純情きらり」も、それと似たような物語でした。ジャズピアニストを目指しながら、その夢を果たせず、最後には我が子すら抱くこともできずに死んでいった女性の一代記。そこに描かれていたのも、まさしく「何も成し遂げることのない人生」でした。当時、わたしは、そんな物語を高視聴率のままに描き切った浅野妙子の力技に、ひたすら感心して称賛したことを、自分で思い出しました。 ↓もう12年前の日記ですね…。 『純情きらり』 ドラマの遺言 その2ただし、当時のわたしは、こんなふうに「何も成し遂げない」物語をドラマティックに描くためには、戦中・戦後という「激動の時代」が必要だったと考えました。そうでなければ、いくらなんでも物語の紆余曲折がのっぺりしてしまう。◇ところが、今回の「半分、青い」の舞台は、高度成長以降の、とくに大きな激動は起こらないような時代でした。そんな時代設定であるにもかかわらず、北川悦吏子は、浅野妙子と同じようなことをやってのけました。つまり、時代に動きのない、のっぺりした世界のなかで、いつまでたっても成功しない紆余曲折の物語を、高視聴率のままに描き切ってみせた。その力技は、浅野妙子の「純情きらり」を上回るものだったと思います。もちろん、ドラマへの関心を持続させるためには、脚本家自身のTwitterでの炎上商法みたいなものも、ひとつの手段ではあったのだろうけれど、はたしてネットの炎上商法なんてものが、どれほど視聴率に作用するかは疑問だし、そんなものだけじゃドラマを見続ける要因にならないと思います。半年間、ドラマを見せ続けるための、《けっして成就することのない紆余曲折》を、北川悦吏子は周到に準備したうえで、執筆に臨んだはずです。その内容についての詳細な分析は、今後のドラマ制作者にとって、大きな課題になるはずです。◇ちなみに、今回のドラマでは、最終週に東日本大震災が描かれました。はたして震災まで描く必要があったのかという批判もあるけれど、大正や昭和初期の人々を描く際に戦争を避けては通れないように、団塊ジュニア世代の人生を描く場合に、もはや震災は避けて通れません。とはいえ、もちろん震災前と震災後を予定調和的に描けるほど、社会は、まだ、この経験を消化しきれていない。したがって、まだ震災の出来事は、ちょろっと最終週に描くことしかできなかった。いわば、この物語は、何も成し遂げられずにいた団塊ジュニア世代の《希望》が、大震災で打ち砕かれるまでの物語… だったといっていい。そして、その大震災で死んだ人もいれば、生き延びた人もいる。そこまでを描いた物語でした。そこから先に何があるのか。これはもう、ドラマの外側の物語としかいいようがありません。たしかに、最後には、律と鈴愛が結ばれ、そよかぜ扇風機の開発にもこぎつけて、何ごとかが成就したかのようにも見えましたが、それはけっして《成功》を意味していたのではなく、あくまでも、ささやかな《希望》を示したにすぎません。そうしたドラマの紆余曲折と結末をとりあげて、「何も成し遂げていないじゃないか」「何も成功していないじゃないか」といった批判は、ほとんど本末転倒です。そもそも、これは「何も成し遂げることのない人生」を描いた物語ですから。◇この長い物語には、いくつかのキーになる出来事やアイテムがあったのだけれど、そのひとつが《七夕》です。この物語は、《七夕》に始まって、《七夕》に終わる。かつて多くのトレンディドラマが、「クリスマスまでに何かを成就させる物語」だったとすれば、今回の朝ドラは、「七夕にささやかな希望を託しつづける物語」だったといえます。《クリスマス》から《七夕》へ。《欧米》から《アジア》へ。《おわりの冬》から《はじまりの夏》へ。《成功》から《希望》へ。この転換は、テレビドラマのフォーマットそのものの転換を象徴しています。
2018.10.13
【ヒロインについて】今回の作品で、宮崎あおいちゃんに要求されたことは、視聴者の「共感」を呼びよせることではなく、とにかく、半年間にわたる長いドラマの、あれやこれやの様々なエピソードのなかで、たえまなく強力な「存在感」を放ち続けることだったと思う。その意味で、宮崎あおいちゃんは完璧でした。いわば、彼女の役割は、数々のエピソードが散乱する長期ドラマの中で、ヒロインとして「出来事に遭遇する力」を発揮し続けるってこと。事実、このドラマで、桜子の立ち会わないエピソードは、たぶん一つもない。ほぼ、すべてのエピソードに、桜子が立ち会ってたと思う。実際には、このドラマの外には、もっともっと色々なエピソードがあったはずなんだけど、桜子のいない場所で起こった出来事は、このドラマには出てきません。たとえば、反戦少女だった薫子が、兄を亡くしながら、戦中をどんな思いで過ごしてたのか。戦前の教育を受けた勇太郎が、現実との狭間で何を考えていたのか。かつての不倫相手と結婚するまでの間に、磯にどんな事があったのか。そんなふうに、実際にはいろんなドラマが同時にあったはず。でも、ヒロインのいない場所でドラマが進行すると、一般の視聴者は、物語がどこにあるのか分からなくて不安になるから、物語は、つねにヒロインのいる場所で進行する。本来は、各エピソードは脈絡なく散乱してるだけなんだから、物語がどこに行こうが、べつに構わないんだけど、でも、むしろ、各エピソードどうしをつなぐ明確な「軸」が無いからこそ、ヒロインがつねにそこに存在し続けることは重要です。ヒロインの存在そのものが、ドラマにとって唯一の「軸」なんだから。つまり、このドラマの各エピソードには、一貫したテーマも何も無いけれど、強いて言えば、このドラマのテーマってのは、「桜子=宮崎あおいちゃん」その人なんだと言っていい。不規則に羅列されたエピソードをつなぐ軸になるのは、ただ、あおいちゃんの顔としぐさ。それのみ。とにかく、彼女さえ画面に出ていれば、たとえどんなに突飛で唐突なエピソードが描かれようと、それは間違いなく『純情きらり』の物語なんだと、そう視聴者に思わせるような強い存在感が、宮崎あおいちゃんに必要だったし、宮崎あおいちゃんには、それを実現するだけの資質があった。そもそも、それが無かったら、「NHK朝ドラ」のような長期のドラマというものは成立しない。ヒロインは、長いドラマの沢山のエピソードを繋ぐ、唯一の軸でなきゃならない。こういう資質というのは、とりわけ宮崎あおいちゃんだけに具わっている資質ではありません。すぐれた俳優さんなら、ほとんどの人がもってる能力だと思う。でも、「NHK朝ドラ」のように、あえて既存の俳優を使わず、毎度毎度、ヒロインを新人オーディションで選ぶような慣例の中では、主役の新人の女の子に、こういう強い存在感を求めるのは、かなり難しいことだといえる。それは、はっきりいって賭けに近い。存在感そのものが軸になりえないような、心もとないヒロインを中心にして、沢山のエピソードや、長期にわたる物語を描ききろうというのは、よくよく考えれば、かなりリスキーなことだと思う。そういう意味で、「NHK朝ドラ」は、やっぱり厳しい条件を背負ってる。ちなみに、宮崎あおいちゃんは、その「存在感」という点から言って申し分なかったけど、演技力という点から見ても、さすがだったと思う。わがままであることが許された「戦前」ののびやかな時代。苦悶に満ちた表情を浮かべて、自分の欲望を押し殺して生きていた「戦中」の時代。そして、「戦後」に生きる大人として、自分の分をわきまえながら、与えられた人生を受け入れようとした後半の桜子。桜子の表情と生き方を通して、3つの異なる時代を明確に演じ分けていたあおいちゃんはさすがでした。【福士誠治くんについて】このドラマで、福士くんが果たした役割は大きい。浅野妙子は、視聴者戦術においても、重要なメッセージを伝える場面でも、かなり意識的に「達彦」の存在を使ってた。たとえば、通常、日本の戦争は「被害性」の視点から描かれることが多いけど、戦争の「加害性」の側面というのを、達彦の存在を通して描いたことは、重要な意味があった。(「加害性」といっても、中国人ではなく、日本兵に対する「加害性」でしたが。)こういう福士くんのような存在は、今後の「NHK朝ドラ」を考える上でも、重要な参考になるんじゃないかと思う。つまり、ヒロインをオーディションで選ぶのではなく、福士くんのような「王子様役」の男の子をオーディションで選ぶ、というのは、ひとつの手として有り得ると思う。ぶっちゃけ、今回のように、劇団ひとり、達彦、キヨシ、冬吾と、複数の「王子様候補」が登場するような展開なら、あらかじめ数人の俳優を抜擢して保険にしておくという展開も可能だし。視聴者対策としても有効に機能する。少なくとも、ヒロインをオーディションで選んでしまうよりも、リスクは少ない。今後は、新人男優の発掘に力を入れてみてはどうでしょうか。正直な話、今までの朝ドラみたいに、若い女の子が成長してく様子を、TVの前のじいさんたちに目を細めながら見てもらおう、みたいな発想の内容は、いいかげん飽きた。むしろ今は、テレビに出てくる可愛い男の子の立ち居振る舞いを、目を細めながら眺めてたい、という女性の側の要望のほうが強いし、そちらのほうを優先させるべき時勢に来てる。それに、そのほうが視聴者の需要にも合ってると思う。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.01
このドラマの成功要因は、大きく分けると、次の三つ。◎ 浅野脚本のエピソード量。◎ 宮崎あおいちゃんの存在感。◎ 福士誠治くんの貢献。もともと、わたしは、前作の『風のハルカ』に対して懐疑的だった。なぜなら、テーマ性が曖昧じゃないか、と思えたから。でも、じつは「テーマ性がはっきりしない」という点では、『純情きらり』も、『風のハルカ』も、大差ない。「ジャズ」なのか「クラシック」なのか分からないし、「家族」なのか「恋愛」なのかも分からない。ヒロインの「父の水晶」が紛失してしまうところも、風のハルカのときの「龍のウロコ」と同じだった。でも、それにもかかわらず、なぜか、『純情きらり』の場合、そのテーマ性の曖昧さや、各エピソードの連関の薄さは、さほどの欠点に思えなかった。いまになって思うことだけど、「NHK朝ドラ」にとって本当に必要なものってのは、一貫したテーマ性とか、各エピソードの整合性とかじゃなく、とにもかくにも、ネタやハッタリを駆使してでも、毎日15分の枠をきちっと埋めて、翌日の放送へと確実に継ないでいくため、その圧倒的な「量」と「密度」なんだな、と思う。『純情きらり』に有って、『風のハルカ』に無かったものは、けっきょく、何よりそれだったんだ、と気づきました。そう考えると、『風のハルカ』のときに、テーマの一貫性を求めようとしたわたしは、ちょっと酷だったなあと思うし、かえって、一貫したテーマ性なんかにこだわりすぎるのは、半年の長いドラマ枠を、単線的で、貧弱な内容にしてしまう恐れがあるし、むしろ、避けるべきことなのかもしれない。それが、「NHK朝ドラ」というドラマ枠の、他の枠にない特殊性なんだと思う。【浅野脚本について】そもそも、『純情きらり』の脚本は、以下の3つの点で有利でした。・歴史ものだったこと。・もともと浅野妙子は歴史ものが得意だったこと。・分厚い原作本があったこと。この条件があったからこそ、『純情きらり』は、豊富なエピソードの量を確保できた。もちろん現代劇でも、分厚い原作本などがあれば、豊富なエピソードを確保することはできると思う。だけど、現代劇の場合、エピソードの量が増えて、エピどうしの繋がりが希薄になると、物語全体が、どうしても散漫な印象になりかねない。その点、歴史もののドラマというのは強い。たとえ各エピソードのつながりが希薄になっても、物語全体が、「時代のベクトル」に向かって進んでいくような、そういう一体感を期待できるから。『純情きらり』でも、“戦前・戦中・戦後”という3つの時代背景のもつ一定の色彩が、登場人物の描写と、各エピソードの雰囲気に、統一した印象を与えてた。だから、長期の連続ドラマの場合は、やっぱり歴史もののほうが有利なんじゃないかという気がします。そして、やはり『純きら』では、エピソードを創造する浅野妙子の能力の高さが際立った。しかも、浅野妙子は、視聴者の関心を巧みに取り込んで、翌日の放送に強引に引っぱる、ネタやハッタリの使い方も、相当にあざとい。いわゆるアンチの人を引き込んだのも、かなりの部分はネタだったと思う。きわめつけのネタは、最終回にも出てきました。達彦の子守唄を聞いた途端、桜子の具合が悪くなってしまうという、あの不思議なシーン。もしや、達彦のあのビミョーな歌声が、ヒロインの直接の「死因」になってしまうんじゃないかと、みんなが心配して駆けつけてみると、何事もなく、おだやかに談笑している2人。死にそうで、なかなか死なないヒロイン。最終回の、貴重な15分の時間の中に、あんなドリフの“臨終コント”みたいな、どうしようもないコテコテの場面をあえて見せることで、浅野妙子は、じつはこのドラマ全体が、かなりの程度「ネタドラマ」だったんだと、最後の最後に、正直に自白してみせた。(しかも最後にネタに使われたのは達彦。)ネタとハッタリを織り交ぜて、圧倒的な量を書きこなす、そういう脚本。「NHK朝ドラ」に必要なのは、こんなふうに、ネタやハッタリを駆使しながら、とにかく半年分の「分量」を書きこなせる脚本家なんだろうと思うけど、でも、いまのドラマ界には、「上手な脚本」を書ける人は沢山いると思うんだけど、こんなふうに「量」を書ける人というのは、意外に少ないと思う。そういう意味で、今回の成功にもかかわらず、やっぱり「NHK朝ドラ」は、今後も厳しい条件を強いられるでしょう。
2006.10.01
最終回。浅野妙子にやられた。この脚本家は凄い。あざといけど、巧みです。◇桜子は、何も成し遂げませんでした。桜子の人生は、何もできなかった人生でした。桜子の人生は、なにものでもありませんでした・・。我が子にすら触れられない桜子の最期の姿は、このドラマの、そういう結論を表しているんだけど、でも、このドラマの本当の主題は、桜子のあれやこれやの人生の出来事じゃなかった。それは、結局、最後にあの8mmのスクリーンに大映しにされた、あの赤ちゃんの姿だったってことです。◇このドラマは、結局、桜子の物語なんかじゃなくて、あの最後の「赤ちゃんの映像」を見せるための作品だったと言っていい。桜子の歩んできた人生なんて、本当はどうだっていい。そんなものは、数ある人生のうちの一つに過ぎない。浅野妙子は、そうやって、せっかく半年もかけて延々と描き続けてきたヒロインの人生のエピソードを、最後の最後に、ポイっと捨てる。大事なのは、人生の中のあれやこれやの出来事じゃなくて、何でもない「命そのもの」なんだ、と。浅野妙子は、最初からそのことだけを描くために、わざわざ半年もかけて、ヒロインの人生の色々なエピソードを、“すべて無駄になる”ことをはじめから知りながら、ただただ、書き続けてきたんだと思う。しかも、同時に、テレビの職業脚本家として、ネタとハッタリを織り交ぜ、高い視聴率をきっちりと確保しながら!!それが、浅野妙子の凄いところだよね・・・(*^_^*)◇もともと、母親マサの人生も、何も成し遂げられなかった、儚い人生でした。このドラマのヒロイン=桜子の人生も、結局は、何も成し遂げられない、なんでもないような人生でした。そして、やっぱり息子の輝一だって、最終的には「なんでもない人生」を送ることになるのかもしれない。だけど、あの、生命いっぱいの赤ちゃんの8mm映像を見ていたら、たとえ、人の一生が、「何も為すことが出来ないもの」だとしても、それが無駄だとか、不必要だなんてぜんぜん思えない。大事なのは「命そのもの」なんだから。“なくてもいい命”なんてない。その単純なメッセージのために、無駄なエピソードを、半年も見せ続けた浅野妙子は、本当に凄い。演じ続けた役者さんも、えらい。毎日見続けたわたしも、ある意味、褒めたい。ものすごくご苦労さまでしたと言いたい。あの画面いっぱいの赤ちゃんの映像は、忘れられません。あらゆる意味で、浅野作品のドラマ力に脱帽。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.30
今日の冬吾のエピソードは、このドラマの、数あるエピソードの中でも、ものすごく特異な感じがしました。もともと、このドラマは単線的なストーリーではないんだろうし、それゆえに、色んな人物の色んなエピソードが、脈絡もなく出てくるのも分かる。まして、すべての出来事を「桜子と達彦の物語」に集約できるとも思ってない。なので、べつに、この期におよんで、桜子と冬吾が、生死の境で互いを呼び合ったとしても、それが特別唐突なエピソードだとも思わないし、それを見て、すぐに「男女の関係」を勘ぐる気もない。むしろ、ドラマ的にいえば、これまでの2人の関係に、最後の決着をつける必要があるのは、当然なことなのかもしれない。・・なんだけど、今日のエピソードは、きわだって特異な感じがする。なんとなく、ドラマの物語の外にある、メタ=エピソード的な感じ。まず、今日の冬吾は、ほんとに「太宰治」になってる感じだった。かなりはっきりと「冬吾=太宰」に見えるような気がした。もしかしたら、原作者も、今日のドラマのように小説の中で父親を救ったのかな?と思ったんだけど、実際は、津島佑子は、やっぱり小説の中でも冬吾を死なせたらしい。ってことは、死んだ太宰に向かって「生きなきゃダメなんだよ」と告げる桜子は、同時に、このドラマのオリジナルのメッセージをも語ってることになる。物語がこういう形で逸脱してくるときは、ドキッとする。冬吾が、冬吾を超えて、太宰的なものを象徴する存在として、このドラマの中では救ってもらえたんだなと思いました。桜子のこういうメッセージが、彼女の“遺言”になってしまうのかどうか、わたしもまだ知らないけど、どうやら、今日の桜子が作曲してたメロディも、このドラマのテーマソングだったらしいし、今週は、こういうメタ=エピソードが続くのかな・・。
2006.09.27
NHKの『純情きらリ』は、とても高い視聴率を維持しつつ、終盤に来ています。浅野妙子が書く脚本の、圧倒的なエピソードの「量」。宮崎あおいちゃんの、ある意味「剛腕」ともいえる存在感。福士誠治くんの起用を巧みに使った視聴者戦術。その他、いくつか成功要因があると思いますが、『スタパ』やら何やら、NHKも総力を挙げて、成功にこぎつけた感がある。この成功は、今後の朝ドラ製作にとっても大きなヒントになるとは思うけど、現実には、今回と同じような条件をそのつど整えるのは困難。むしろ、それゆえに、朝ドラを製作することの難しさを痛感させる結果じゃないかと思う。◇おそらく浅野妙子は、今回の作品で、低迷する朝ドラの「視聴率回復」を最大の目標にしたんだと思う。そして、それは、見事に成功しました。もともと彼女は、そういうタイプの脚本家だったと思うけど、今回は、その側面が、よりハッキリと出てた。しかもそれは、NHKの「朝ドラ」という枠の性質にも、完璧にハマった。わたし自身、今回の作品で、はじめて「NHK朝ドラ」という枠の特殊性を認識しました。それから、浅野妙子が「宮崎あおい」という人を好んで起用する理由も、わたしは、何となく分かった気がします。毎日15分の枠を、確実に翌日へとつないでいく圧倒的なエピソードの量。そして、物語の分かり易さ。まず何よりも、このことが、多くの視聴者を呑み込むために必要な最大の条件だったと思う。たとえば、ネット上では、このドラマの大量の「アンチ」ファンが生まれました。しかも、そうしたアンチが、最後まで消えなかった。アンチの人たちも、結局、最後までこのドラマを見ることを止めなかったし、最後まで、ドラマの内容について、毎日毎日喋りつづけた。その事実は、このドラマがいかに多くの視聴者にうったえる「分り易さ」を備えているか、それを逆説的に証してたと思う。浅野妙子は、ほぼ意図的にそれをやったと思うけど、つまり、このドラマは、だれでも毎日毎日文句を言い続けられるような、そういう分り易さをもってる。いい換えれば、「万人向け」に作られてるってこと。日本中の朝のお茶の間と、熱心なアンチファンをも呑み込みながら、大量のエピソードを、半年にわたって見せ続け、この物語を経験させる。それが、NHK朝ドラの本来の課題であり、この作品の当初からの最大の目標だったとすれば、その目論見は、完全に達成されたといって良いと思う。宮崎あおいちゃんのヒロインには、これまでになかった、いくつかの特徴があると思うけど、そのひとつは、このヒロインが、視聴者の「共感」を必要としなかったことです。これは、もしかしたら、浅野脚本のすべての主演女優に共通して言えることかもしれません。『大奥』を思い返してみると、菅野美穂も、瀬戸朝香も、内山理名も、とくに視聴者の「共感」を誘うタイプの女優とは思えなかったし、彼女たちの演じるキャラも、そういうものを必要としていなかった気がする。もしかしたら、人々の「共感」を呼ぶキャラを中心に据えてしまうと、そのキャラを中心に、物語が「単線的」になりすぎるきらいがあるのかもしれません。それを避けるために、浅野脚本の場合、視聴者の安易な「共感」をそれとなく拒みつつ、とにもかくにも、圧倒的な量の「物語」をみせつけていく。そういう特徴があるんじゃないかと思いました。浅野妙子が好んで宮崎あおいちゃんを起用することも、きっと、そういうことに関係があると思います。そういう意味で、宮崎あおいちゃん演じるヒロインが、このドラマの圧倒的なエピソードを見せ続けるために、物語の中央で見せつづけた存在感は、いわゆる「共感」とはまったく別のものだったと思います。そうだとすれば、この目論見も成功だったと思うし、慣例に逆らった今回のヒロインの起用は、(今回は間違いなく浅野妙子側の要請だったと思うけど、)今後のヒロインを考える上でひとつの参考にしなきゃならない。『純キラ』がなぜ成功したか、理由はもっとあると思います。それについては、また後日。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.19
● 「男子ひとすじ」で、音楽なんてどうでもよかった、ハツ美。● 「絵画ひとすじ」で、女なんかどうでもよかった、冬吾。マロニエ荘で、いちばん対照的だったのは、この二人でした。これをチャートにすると、下のような感じです。 芸術ひと筋 冬吾 ↑ 恋愛は二の次 ← → 恋愛ひと筋 ↓ ハツ美 芸術は二の次 ハツ美の「男子ひとすじ」ぶりは、説明するまでもありません。他方、自分に思いを寄せてくれていたマリのことを置き去りにして、モデルにするため毎度服を脱がせていた八重には挨拶もせず、そのうえ、郷里からたずねてきた約束の女の人の目も眩まして、あらゆる女のしがらみを振りきって、ひとり岡崎の有森家までやってきた、冬吾。やっぱり、冬吾にとって、「女」は二の次です。有森家で冬吾が目をつけたのは、一番上の姉の笛子だけど、ここでの彼の興味の対象も、もっぱら“モデル”としての、笛子の凸凹であって、「異性」としての興味じゃ、これっぽっちもありません。にもかかわらず、またもや勘違いしてしまいそうな笛子が、いまからもう、可哀想。芸のためなら女も泣かす・・。そんな冬吾の女性観に、いつか変化は来るんでしょうか。ところで、達彦って、上のチャートにあてはめると、どの辺りに位置するんでしょう??けっきょく、音楽の道をあきらめた達彦。ここまでのドラマを振り返っても、彼がどれほど「音楽ひとすじ」だったのかは、かなり疑問。そもそも、何の音楽が好きだったのかも、よく分かんないし。やっぱり、かねが言ったとおり、達彦が東京に行ったのは、「音楽を追い求めて」じゃなく、「桜子を追い求めて」のことだったと見るのが妥当?音楽学校を目指したのも、マロニエ荘に引っ越したのも、ダンスホールに潜入したのも、すべては「音楽」じゃなく、「桜子」目当てだったわけで。今も、音楽のことをあきらめはしたものの、やっぱり、桜子のことはあきらめきれない様子。そう考えると、イケメンに目移りの早かったハツ美なんかとは、まったく比べものにならないほど、達彦こそが、正真正銘の、「恋愛ひとすじ」人間です。彼にとって、音楽なんて、二の次三の次だった?つぎに桜子。十代にして劇団ひとりと結婚の約束を交わし、こんどは達彦と密会する毎日をすごしてる桜子。そのかたわらで、味噌屋のキヨシも、すでに射程圏内に入ってる。早くも「恋多き女」の本性を現しつつある桜子だけど、逆にいえば、どの恋愛も、彼女にとって、さほど真剣じゃないって証拠でもある。自分から本気で誰かを好きになったり、追いかけたりしないし、そもそも恋愛に興味があるとは到底思えないほど、鈍感。いわゆる恋愛オンチ。ひとことで言えば、桜子の恋愛観って、たんに来る者は拒まずってやつ?劇団ひとりに「好き」って言われれば、すぐに結婚の約束だってしちゃうし、達彦がストーカーみたいに追いかけてきたら、劇団ひとりに教わったとおり帽子もプレゼントしちゃう。ついでに、軽く頬っぺにリップサービスしちゃうぐらいは、お茶の子さいさい。お安い御用。もし、彼らへの想いが、代えがたいほど切実なら、あんなに簡単に劇団ひとりから達彦に乗り換えたりしないはず。今回も、達彦と密会する約束をした桜子だけど、きっと、キヨシに同じことを頼まれても、同じ顔で、同じ答えを返すんだろうことはウケアイ。けっきょく桜子にとって、イケメンたちの存在は、彼女が音楽の夢を目指していく上での、いっときの寄り道。心の余興。たぶん桜子も、冬吾と同じように、「芸のためならイケメンも泣かす」くちだと思う。ついでに冬吾のことも泣かせることができたら、桜子の「魔性」っぷりも、ほんとに一流なんですけど。ま、イケメンになど目もくれず、音楽のある所へ無心に走っていってしまう桜子の幼なさが、かえって男子諸君のロリ心をくすぐってるんでしょーね。◇このドラマにおけるジュリエットは、もちろん桜子ひとりなんですが、ロミオのほうは、これから30人くらいまで増えると思う。そんなこととはつゆ知らず、自分こそが“唯一のロミオ”だと信じてる純情な男子諸君は、あまりにも気の毒。でも、何人ものイケメン君たちをその気にさせておきながら、本人自身は、まったくもってなんの悪気も無いってとこに、桜子の、もって生まれた「魔性」の片鱗が垣間見えるってもんです。出てくるイケメンたちを次々にたぶらかしておきながら、あくまでも、ぜんぜん悪気がない桜子こそが、ある意味では「純情」そのもの、と言えるのかもしれないけど、ほんとうに「純情」なのは、そんな桜子の「魔性」にコロリコロリとひっかかってしまう、うたがうことを知らないイケメン君たちのほうです。この際、タイトルも、『純情きらリ』より『純情コロリ』のほうがいい。世間のお父さんがたは、いまだに朝ドラヒロインの「処女性」だの「貞操観念」だのを信じて、さぞかし毎朝、目を細めて桜子のことを眺めてるんでしょうけど、哀れなのはあなたのほうですよっ!おとうさんっ!!劇団ひとりも、達彦も、キヨシくんも、桜子の人生にとって、有用な持ち駒のひとつにすぎませんよっ。じっさい、戦中・戦後を生き抜く中で、使えるロミオは、なるべく沢山確保しておいたほうがいいんだから。だいいち、これから先、ジャズの演奏会じゃ客席の罵声を浴びせられ、空からは、山ほど爆弾も降ってくるってのに、いったい、どのイケメンとどんな約束をしたかなんて、いちいち覚えちゃいられない、っつーの。そもそも“ヒロインの処女性”なんてものは、『風のハルカ』のときに、あっさりと放棄されてるし。ハルカが、大阪で最初につきあった男子というのは、正巳でも、啓太郎でもなく、物語とはなんの関係も無い、顔もろくに映らないような、「そこらへんのお兄ちゃん」でした。そのぐらいアッサリなほうが、現代の視聴者にはちょうどいい。昭和初期の桜子に、ハルカと同じ“軽さ”を期待するのは無理かもしれないけど、このまま、何人かの男の人と思わせぶりな関係を維持しつつ、戦後になったら、一気にハジケてくれて全然かまいません。数々のイケメンたちと華麗な男性遍歴を積み重ね、最後は親子ほども年の離れた年下のイケメン君に看取られて、波乱万丈の人生を終える、みたいな、そんなイカした人生でもいいんじゃないでしょうか。ジャズピアニストなんだし。(←偏見?)つーか、いまどき「たったひとりの人と最後に結ばれる」みたいな、朝ドラのお決まりの展開じたい、いいかげんウザったいし。何組ものカップルの可能性をちらつかせて、「さて誰と誰がくっつくでしょう?」みたいな、あざとい脚本の手口も、なんだか見てる視聴者のほうが弄ばれてるみたいで、腹たってくる。この歳になると、別に、どのオニーチャンとオネーチャンがくっつこうが、そんなこと知ったこっちゃないし。NHKの朝ドラのテーマって、いつから「恋愛レース」一辺倒になっちゃったの?って感じ。まあ、せっかく出てきたんだから、出てきた登場人物にはとりあえず幸せになってもらいたいけど。「恋愛レース」オンリーな展開は、ゲップ出そうです。◇浅野妙子には、今までの朝ドラ・ヒロインにまつわる、ウザったい処女性だの、貞操観念だの、結婚の幸せだの、その種の幻想を思いっきりぶち壊してもらうべく、このまま桜子の「魔性の女」ぶりを全開させてもらいたい。ついでに宮崎あおいちゃんも、これを機に「優等生タレント」から解放してあげてください。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.06.06
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