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前回の日記で、わたしは次のように定義しました。 「ゴミ」とは、事実上、自治体が処理している廃棄物のことである。しかし、これはあくまで第一の定義です。現実には、 本来は「ゴミ」であるはずなのに、自治体が処理していない廃棄物というものも存在するからです。したがって、これを第二の定義とします。ここで取り上げたいのは、家庭から下水として流される、洗剤、廃油など。それから、様々な不法投棄物です。◇洗剤や廃油や糞尿などは、一般的には「ゴミ」という範疇から外されるかもしれないけど、法的にも廃棄物と定義されるものですし、やはり自然界にそのまま投棄されてはならないものです。そして、これらもやはり、「下水処理」や「汚泥処理」という形で、事実上、自治体が処理を負担していることになります。つまり、その処理のために、わたしたちの税金が投入されている。したがって、洗剤や、食用油は、容器だけでなく、中身も「ゴミ」を生むのだ、といえます。容器にも課税し、さらに中身にも課税しなければなりません。そして、このように考えてくると、行き着くところ、人間の糞尿も「ゴミ」だということになってしまいます。じっさい、人間の糞尿の処理にも税金がかかっています。結果として人間の糞尿になってしまうような商品、つまり、すべての食べ物が「ゴミ税」の対象になってくる。わたしは、前回、ソフトクリームはゴミを出さないが、お団子はゴミの出る商品である、というように書きました。しかし、人間の糞尿を「ゴミ」と定義するならば、ソフトクリームも、最終的にはゴミになるってことです。だから、お団子も、ソフトクリームも、わたしの考える「ゴミ税」の対象になってしまいます。飲食物そのものに「ゴミ税」を課すというのは、やや奇異なことに感じられなくもありません。しかし、わたしは、食べ物や飲み物にも「ゴミ税」を課すべきだと考えます。人間は食べなければ生きていけませんから、その結果として糞尿が出るのは仕方のないことです。それに対して「ゴミ税」を課すのは適当ではないとも思える。けれど、人間の糞尿であれ、工夫して処理すれば、下水処理に依存せずに活用できる可能性もあると思う。そうした努力やアイディアを促す意味でも、糞尿になる食品にさえ、一定の課税をしてもいいのではないか、そのようにわたしは考えています。わたしの考える「ゴミ税」では、排出されるゴミの種類によって税の金額が異なります。可燃ゴミか、不燃ゴミか、リサイクルゴミなのか、それぞれ別の枠組みで税を課すことになります。下水に排出されるゴミにかんしても、飲食物を含め、その処理の難しさや量に応じて、課税の金額を変えればよいのではないかと思います。◇つぎは不法投棄物です。不法投棄物は、不法に投棄されているのですから、自治体は(まだ)それを回収も、処分もしていません。場合によっては、そのような不法投棄物は、ボランティアの人々が回収することになるかもしれないし、そのまま自然界に埋もれていくかもしれない。その意味でいえば、不法投棄物は、自治体の処理にも依存せず、税金コストにも依存していません。しかし、だからといって、それが「ゴミ」の範疇に入らない、などという理屈は通りません。不法投棄物は、人間社会にも、地球環境にも悪影響を及ぼします。むしろ、そのような不法投棄に結びつきやすい商品には、大いに現状を改善する努力と工夫が必要だということです。したがって、そうした商品こそが、まさに「ゴミ税」の対象です。不法投棄は、直接的には、捨てる人間自身に非があることです。しかし、そのように言っても、問題はいつまでも解決しない。そして、事業者側に責任がないということではありません。たとえばデポジット制などのように、100%の自主回収をするための工夫や努力をすることで、そうした不法投棄が避けられるのならば、それを促すためにこそ、そうした商品は課税の対象になります。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2012.08.09
今日は、「ゴミとは何か」ということについて、一般的に考えてみたいと思います。ゴミは、たいていの場合、自治体が回収し、処分しています。つまり、わたしたちの税金で処理されています。わたしが、ゴミに課税すべきだと考える「第1の理由」は、ゴミ処理にかかる納税者の負担を減らしたいからです。残余物の処理を自治体が行なっている実態があるならば、そのようなものを排出する商品はすべて、わたしの考える「ゴミ税」の課税対象になります。◇ここで、スーパーの生鮮野菜の例を考えましょう。わたしたちが野菜を料理で使った後に、芯とかへたの部分とか葉っぱとか、使い残しが出る。いわゆる生ゴミです。しかし、人によっては、こうした部分を上手に使い切ってしまう人もいます。その場合、ほとんど生ゴミが出ないわけです。また、処理機を使ったりして肥料などにする人もいる。その場合も、生ゴミは出ません。つまり、同じ商品であっても、使う人によってゴミが出る場合と出ない場合がある。また、出るゴミの種類が違ってくることもあります。では、生鮮野菜には「ゴミ税」をかけるべきなのかどうか?結論からいえば、ゴミが出るかどうかは、結果から見るしかない。商品をどのように消費するかは、消費者の自由です。どのように使うか、どこまで使うかについて、事業者の側が決めることも、また期待することもできない。それが消費社会の現実だと思います。例えばレストランで食事をするときに、出された料理を残さず食べる人もいれば、「おいしくない」「お腹いっぱい」などの理由で、食べ物を残してしまう人もいます。残された食べ物、つまり残飯は、当然ながら生ゴミです。きわめて例外的なケースとしてならば、残さず食べることを強要するラーメン屋等もあるようですが、一般的に、消費者にそのような義務はありません。消費社会において、「ゴミとは何か」を決めるのは、原理的に消費者自身です。他人から見たらまだ使えそうな家具などを、「もう古いから」と言って捨ててしまう人がいる。まだ動く電化製品を捨ててしまう人だっています。マニアにとっては貴重な「お宝」なのに、別の人には「ただのゴミ」ということだって、珍しくはない。でも、それは仕方のないことです。それが消費社会です。それらをすべて含めて「消費行動」なのだと認識せざるをえない。購入した商品をどう使い、どこまで使うのかは、基本的には消費者の自由です。したがって、野菜の使い残しをゴミとして出すかどうかは、やはり消費者側の判断次第だと言わなければなりません。もちろん、このようなゴミについて、消費者側にも責任はあり、その処理について負担すべきです。事実、野菜の生ゴミを出してしまう人は、自治体の処理に委ねなければいけませんから、「指定のゴミ袋を買う」という時点で、すでにそれについての負担をしているといえます。野菜を上手に使いきって生ゴミを出さなければ、そのぶんだけ、指定のゴミ袋を買うコストも免れるわけです。さて、生鮮野菜に「ゴミ税」を課すべきか、ということですが、これはやはり課税しなければなりません。ゴミが出ているかどうかは、結果から見なければなりません。たしかに、野菜のゴミは、努力しだいで無くせます。その責任は消費者側にもあり、現実に消費者には負担があります。しかし、それでも、いまだ現状において、野菜の使い残しを自治体が処理している実態がありますし、そのように認められるかぎりは、生鮮野菜も、「ゴミ税」の課税対象でなければいけません。もしかりに、野菜の使い残しが、消費者側や事業者側の工夫によってうまく処理され、自治体の処理にはほとんど依存していないと認められるなら、そのときにはじめて、生鮮野菜は「ゴミ税」を免れることになります。というわけで、わたしの考える「ゴミ税」の理屈からすると、生鮮野菜も、鮮魚も、現状では課税の対象になります。もちろん、生活者の立場からすると、これはちょっとキツイけど。◇以上のことからも分かると思いますが、ここでわたしが定義する「ゴミ」というのは、事実上、自治体が処理している廃棄物のことを指します。それが第1の定義です。けれども、本当はそれだけでは済みません。次回も、「ゴミとは何か」についての続きです。
2008.07.11
これから、断続的に「ゴミ税」を考えていこうと思います。海外では、各世帯の住居面積にあわせて「ゴミ税」を課しているところもあるようです。広い家に住んでいると、高いゴミ税を払うんですね。日本では、市町村指定のゴミ袋が有料になっていますから、これが事実上の「ゴミ税」です。しかし、これらの「ゴミ税」は、いずれも消費者負担になっているわけですね。もちろん、ゴミ問題の責任は消費者側にもあると思う。だけれども、消費者側にのみ責任を負わせるだけでは、社会からゴミを減らしていく実効性ある方法にはなりません。事業者側の責任を考えること、つまり、メーカーや小売業者の負担の仕組みを考えることが、本当の意味で「ゴミを減らすための」有効な施策になるはずです。◇ゴミ税を考えるために、ここだけの特殊な概念を設定したいと思います。「良い商品」という概念と、「悪い商品」という概念です。これは、普通の意味での「良い/悪い」とは少し違います。わたしたちが商品の「良し悪し」を考える場合、「性能が良い」とか「健康に良い」とか「デザインが良い」とか、そういうことを問題にするのが普通だと思います。しかし、ここでは、そういうことは関係ありません。そういうことは、とりあえず、ちょっと横に措いてください。ここでは、ゴミの出ない商品が「良い商品」であり、ゴミの出る商品であればあるほど「悪い商品」ということです。だから、これは、ちょっと特殊な概念なのです。健康に良いかどうかとか、性能が良いかどうかとかは、とりあえず、ここでは無視してください。ひとつの例を挙げましょう。「ソフトクリーム」と「お団子」という二つの商品を比べてみます。結論からいえば、ソフトクリームは、かなり「良い商品」です。お団子は、ちょっとだけ「悪い商品」です。ソフトクリームは、アイスクリームを舐めるための食べ物ですけれど、「持つ部分」も食べられるのです。つまり、コーンの部分も食べることができる。だから、食べた後は、ほとんど何にも残らない。まったくゴミが出ない、とても工夫された「良い商品」です。お団子もなかなか工夫された食べ物ですけれど、食べた後に「串」が一本残ってしまいます。串は木でできているので、自然界で分解されますが、投棄したりすれば、転んだ子供に刺さったりする危険もあるので、やはりきちんと「回収」して、後に「処分」しなければなりません。「回収」と「処分」は、通常、自治体が行なっています。つまり、わたしたち自身の税金が使われています。だから、お団子は、ちょっとだけ「悪い商品」なのです。しかしながら、お団子は、あと一歩、あとほんの少しの工夫をするだけで、ほぼ完全に「良い商品」になれる可能性をもっています。その方法はいくつかあります。1.串を食べられるようにする。 串をポリポリ食べられるようにすれば、 お団子からはまったくゴミが出ません。 したがって、ゴミの回収や処分にかかる税金は必要ありません。 そうなれば、これ「良い商品」です。2.投棄されても問題のない串を作る。 串は自然界で分解されますけれど、体に刺さる危険がある。 そのような危険性のない串を開発し、、 自然界で容易に分解される串を作ることができれば、 その串はもう「ゴミ」と認識する必要はないと思います。 ゴミの出ない商品として認定してもかまわないと思われます。3.事業者自身が、串の回収と処分をする。 メーカーや小売店が、ほぼ100%の串を回収し、 それを自らの負担で処分、またはリサイクルできるような、 そのようなシステムを作ることができるなら、 もはや串の処理のために自治体が手間をかける必要がありません。 したがって、その場合も、 お団子は「良い商品」だとみなして構わないだろうと思います。◇もうお分かりだと思いますが、「良い商品」にはゴミ税は課されません。「悪い商品」にのみ、ゴミ税が課されるのです。そして、その「悪い商品」から出るゴミが、可燃ゴミなのか、不燃ゴミなのか、リサイクルゴミなのか、その種類によって、つまり、自治体がゴミ回収処分にかけるコストの違いによって、税の金額は異なります。その金額は、商品そのものの価格には直接比例しません。極端に言えば、100円ぐらいの商品であっても、そのゴミの処理に1000円のコストがかかるのだとすれば、その商品には1000円のゴミ税が課されるということです。そんなのは当たり前だと思います。つまり、「ゴミ税」というのは、そのゴミを処理するために、わたしたちが一体どれだけの税を負担しているのか、そのことによって課され、また、そのことに比例するのです。ゴミの処理には、「回収」と「処分」の段階がありますが、そのどちらかだけでも事業者が負担する場合は、税負担も、その分だけ半減されます。このゴミ税は、結果的に消費税の形をとります。一般的な消費税というのは、商品の価格に対して一律10%とか20%とかいう形をとる。けれども、このような税の課し方では芸がありません。大事なことは、現在のわたしたちの社会が、どのような商品であることを望むのか、企業に対してどのような努力を期待するのか、そうした社会の意思を、課税によって表現できる仕組みでなければならないのです。消費税は、文字通り、消費者が負担する税です。そして、通常の消費税においては、消費者が「買わない」という努力をしない限り、税を免れません。このような消費税は、財源を確保するために必要だとしても、課税の効果としては、景気を悪くすることにしかならない。ですが、ここでいう「ゴミ税」の場合には、企業が「ゴミを出させない」という努力をすることによって、消費者が税を免れ、事業者は安く商品を売ることができる。結果的にゴミ処理にかかる公的なコストも減らすことができる。財源を確保するだけでなく、課税じたいが色んな点で前向きな効果を促すことができます。ゴミが出ないような商品を作る努力をしている企業もあります。しかしながら、今のところ、企業がそういう努力をしても、たいしたメリットがないのです。だから、ほとんどの企業は、ゴミが出ることをほとんど考えもせずに勝手に商品を作っています。そして、売ったら売りっぱなしなのです。「ゴミの責任は消費者側にあるのだから」と高を括っているからです。しかし、これではダメなのです。企業がゴミの出ないような商品を作る努力をしたならば、そのことを、社会がその分だけ評価できるような仕組みを作らなければなりません。わたしは、これが本当のゴミ税であると同時に、本当の消費税なのではないか、と思っています。 ※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2008.07.10
屋上屋上の東側は、物干しのスペースです。ガラス屋根のある大きなサンルームになっているので、雨の心配をせずに、大量の布団や洗濯物を一度に干すことができます。閉め切ってしまえば、洗濯物に花粉がつくのも防げます。布団類は各階からエレベーターで運んできます。西側はフリーのスペースです。すこし野菜なども植えてあります。七夕の夜は、ここに笹竹をもってきて、みんなで短冊をさげます。十五夜になると、お団子を作って、ここで月を見ながら食べます。もちろん、日光浴をしたり、夕日を眺めたりもできますよ。以上で、建物の案内が一通り終わりました。(~~)そういえば、「ゴミ」のことに触れていませんでしたね。ドミトリー内のゴミは一ヶ所で管理します。居住者は、あらゆる種類のゴミをそこにもってきて、マニュアルに従って、正しく分別しなければなりません。また、現在の単体のドミトリーでは難しいのですが、いずれは複数のドミトリーが連携して、廃油や生ゴミのリサイクルシステムを作りたいとも考えています。もちろん、ゴミ自体を減らす工夫も怠ってはいけませんね。v(*~~*)v☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 長くなりましたけど、これにて連載終了です!かなりの妄想もありましたが。ww低コスト社会の実現に向けて、「ライフスタイルの変革」が叫ばれていますが、小手先の省エネや節約ぐらいで解決できる問題ではありません。ですが、ここで描いたドミトリーのように、抜本的にライフスタイルを変えることができれば、それは大きな意味を持ちうるだろうと思います。その場合に、わたしは「我慢」が必要だとは思っていません。むしろ、現代の生活のクオリティを維持しなきゃならない。貧乏くさい考えは排除しなきゃいけない。それどころか、よりいっそうの快適性を追求すべきだと思っています。以下が目次です。【目次】ドミトリーを考える現代の課題 利点 個人と共同体Part1 ドミトリーと低コスト社会 1 空間の共有 2 モノの共有 トイレ 浴室 ベッド 洗濯機 テレビとパソコン 食材 衛生問題 3 時間の共有 どんなドミトリーであるべきかPart2 ドミトリーのワークシェア 1 地域通貨(ドミトリーポイント) 2 家事マニュアル 3 家事のフレックスタイム制 4 スキル一覧表 ワークシェアの利点 《番外編》ドミトリーと、秋葉通り魔事件。 Part3 ドミトリーと、豊かな人生ヴァーチャル・ドミトリー
2008.06.22
3F3階です。東側と南側は、個室スペースです。全部で20室以上あります。個室の設備は、バス・トイレ、そしてベッドのみです。テレビやパソコン、冷蔵庫やポットなどの電化製品、その他の家具などは、必要に応じて私物を持ち込んでください。トイレットペーパーやお風呂用品などの生活必需品は、付属されてはいませんが、ドミトリーで安く買うことができます。わざわざ外に買いに行かなくても大丈夫です。私物はすべてここに置いてもらうのですが、収まりきらない人には、1階のロッカーをお貸しします。ただし、別途料金が出ます。ここで食事もできますし、自由に使ってかまいません。清掃は、その日の担当が昼前に廻ってきて、全室おこないます。それまでに、部屋の中をある程度片付けておいてください。自分が担当になって清掃してもいいわけですが、その場合は、自分の部屋だけでなく、他の人の部屋もいっぺんに掃除しないといけません。南側の端には、数室の空き部屋が取ってあって、通常は個室をもたないメンバーでも、ポイントを支払えば、一時的に借りることができます。たとえばインフルエンザで熱を出したときなどは、この部屋で休養してください。食事も廊下まで運んできます。食べ終わった食器は、廊下にある食洗機に入れておいてください。くれぐれも他のメンバーに風邪をうつさないように。ちなみに、この部屋は、恋人どうしや夫婦で借りることもできますよ(*~~*)夜景もまあまあです。西側には、小さいですが、1階と同様の就寝スペースがあります。夜の仕事をしている人や、昼と夜が逆転している方々は、こちらで寝てもらいます。ここは、夕方に掃除を始めます。北側は、やはり両側に2階と同様のリビングスペースがあって、それぞれに大きなテレビブースがあります。都合4台のテレビで4つのチャンネルを見れるわけです。リビングに卓球台を入れてほしいとの要望もありますが、まだ決まっていません。まん中の部分は、一応エクササイズルームになっています。たいした設備はありませんけれど、バイクをこいだり、ヨガをやったりできるスペースです。トイレのことを話していませんでしたが、1階に2箇所、2階と3階に各1箇所ずつ、合計で4箇所です。すべて洋式になっていますが、女性のほうが、一箇所につき3室なので、全部で12室。男性のほうが、大小各2つずつなので、全部で大小各8つ。これを、個室をもたない約30名のメンバーが共用します。個室のあるメンバーは、極力自室のトイレを使ってください。ちなみに、一部ウォシュレットもあって、ノズルのクリーニング機能もついていますが、やはり共用のトイレだと抵抗があって使えない人もいるようです。また、男性用の小便器は、経済的な無水トイレになってます。じゃあ、屋上にも上がりましょう!(つづく)
2008.06.21
2Fさて、2階です。北側はシャワースペースです。更衣所とシャワーと洗面台のみで、浴槽はありません。いわゆる「立ちシャワー」ですが、高い位置にカランと湯桶台がついています。ちょっとケチですが、一回に使える湯量は制限があります。工夫すれば100リットルはむしろ多すぎる湯量だと思います。湯桶は、各自に配られたものを持ってきてくださいね。シャンプー類、ドライヤー、バスタオルは共用のものを置いています。シャワースペースは一日2回まで利用することができます。夕方4時から翌朝10時まで、好きな時間に使用できます。朝10時から清掃をして、昼のあいだに乾燥させます。シャワースペースの横にランドリーがあります。シーツが洗える大型の洗濯機や乾燥機が数台置かれています。個人用の洗濯機と乾燥機も数台あります。コインランドリーのように、わずかなポイントを払えば使えます。小さな洗濯物は、自分の小型洗濯機で洗う人も多いのですが、大きなものはこちらのランドリーを使ってください。また、他の物と一緒に洗って干したりしても構わないものは、名前入りのネットに入れて出してもらえば、洗っておきます。東側は、リビングスペースとパソコンルームです。両端がリビングスペースで、それぞれ大きなテレビがあります。中央部分がパソコンルームになっています。テレビブースには大勢が腰かけて見ることができます。右側と左側のテレビは違うチャンネルを映しています。お酒とつまみぐらいなら、食堂から運んでもらうこともできます。ただし、食堂でもそうですが、「泥酔」は固く禁じられています。違反したら、ポイントが差し引かれます。何度も違反が重なると、ドミトリーから退去させられます。パソコンルームは、10台くらいのパソコンがあって、自由に使えます。ここにHDD内蔵のビデオデッキも置かれてますので、録画したいテレビ番組があるときは、番組表に印をつけた上で、録画セットをしてください。録画した番組は、自分のDVDディスクにコピーした上で、パソコンで見ていただくことになります。DVDを見るときはヘッドホンを使ってくださいね。南側には、猫の部屋と会議室があります。猫も、1人につき1匹まで連れ込むことができます。猫の場合は、エサやりとたまのシャンプーぐらいで、ほとんど放置ですから、とくに仕事もありません。猫好きの人たちがいつもここで憩っています。猫たちは、自力で中庭に降りることもできますし、屋上にも登っていけるようになっています。会議室は、いろんな話し合いもしますけれど、普段はいわば多目的ルームとして使っています。広いテーブルがあるので、いろんな作業もできます。昼間は、ここでミシンを使ったりする人もいますし、何人かで手芸をやったりしてる方たちもいます。ラジカセをかけながら日舞を踊ってられる方もいます。夜になると、ここで勉強する人や、仕事をする方がいます。3階へ行きましょう!(つづく)
2008.06.20
1F1階の北側はチャイルドルームになってます。子供たちが遊んだり、勉強したりしています。大きなベビーベッドがあって赤ちゃんも寝かせられます。基本的には子育ての経験者が交代であずかっていますが、未経験の人が手伝ってくれても構いません。オムツ替えやミルクなどをひと通りマスターしてください。チャイルドルームの隣には犬の部屋があります。小型犬ならば1人1匹まで持ち込むことができます。ただし去勢されてなくてはなりませんし、大型犬など、種類によってはお断りする場合もあります。また2匹以上なら、別途料金を納めなくてはいけません。そしてドミトリーを退去するときは、自分の犬を一緒に連れて行かなければいけません。朝の散歩は、飼い主その他の犬好きの人たちが交代でやってるようです。2Fには猫の部屋もあるのですが、ドミトリーで犬や猫の出入りできる場所はかぎられています。食堂や就寝スペースなどに入れることはできません。中庭は、犬も出入りできますし、猫も2Fから自分で降りてきます。中庭には少し木なども植えられていますが、とくに猫たちにとっては、ここが自然のトイレになっています。しつけといって、犬や猫を叩いたりしてはいけません。東側は、個室をもたないメンバーの就寝スペースです。20台以上のベッドが、壁を挟んで左右2列にずら~っと並んでいます。いちおうは右側が男性で左側が女性ですけれど、それほど厳密ではありません。片方が一杯なら、反対側に寝ても別にかまいません。その場合は、一言スタッフに断ってください。周りは厚い壁で囲われているので、外部の音は遮断されています。中も吸音構造になっていて、ほとんど物音がしません。先に寝る人から順に、奥のほうのベッドを使っていきます。枕元と通路の足元にだけ弱い照明が点っていますが、人の入った奥のベッドから順に暗くなっていきます。隣のベッドとはパーテーションで仕切られていて、隣の照明は漏れてこないようになっています。枕もとのブラインドを開けておくと、朝に光が差し込んできます。起床したら、反対側の出口から出られるようになっています。出口のところに置いてあるカートの上に、自分の使った布団を積んでおいてください。シーツは大きなかごの中へ入れておいてください。次は2階へ上がりましょう。(つづく)
2008.06.19
1F1階の西側は、庭に面して食堂になっています。2階まで吹き抜けの空間なので、広々としてます。ここで食事する場合は、前日の朝までに申し込んでもらうことになってます。食物アレルギーがある人や、カロリー制限をしている人も、事前に申告しておいてください。食材はなるべく安全性の高いものを選ぶようにしていますが、いずれは野菜などを自家栽培で確保したいと考えています。食事はメンバーが自分たちで作っています。キッチンをおもに仕切るのは、ほぼ決まったメンバーですが、他のメンバーも、できそうなことから挑戦してもらっています。最近は、かなりおいしい珈琲や紅茶も出せるようになってます。パーティのときは、何名かで集まってお菓子を作ったりもします。他のドミトリーとも交流して、互いにスキルを交換しています。ときたま、腕に覚えのある男性がパスタを振舞ったりして、みんなの喝采を受けていることもありますし、年配の女性が毎朝出してくれるお漬物も、とても好評です。庭に突き出た小さな部屋はピアノルームです。ピアノのほかにギターとかも置いてあって、借りて演奏することができます。私物の楽器をここに置いている人もいます。ただし、屋内だとうるさいので、庭でやってくださいね。食堂とピアノルームは庭に面して開放できます。この庭は、フリーのスペースですので、テーブルを出して食事をすることもできますし、ちょっとしたパーティや演奏会などにも使えます。夕方になると、誰かしら庭でギターなど弾いたりしています。だれかが自前の映写機を持ってきて、即席のスクリーンをつくって映画を観たこともあります。昼間は、学生さんたちが、ピアノを弾いたり、キャンバスを出して絵を描いたり、何やらオブジェみたいのを作ったりしています。いい絵ができたら、施設内に飾らせてくださいね。毎日のように日曜大工をやってる方もいますねえ。いい物ができたら、ドミトリーに提供してください。(つづく)
2008.06.18
1Fでは、1階からご案内します。南側が入り口です。インターホンを押すと中の人が対応して開けてくれます。スタッフメンバーは、あらかじめ、居住者の人たちのおおよその帰宅時間を把握しています。帰宅時間がずれる場合は、携帯で連絡することになってます。エントランスルームには洗面台があるので、まずは、ここで手洗いとうがいをしてください。花粉症の季節は花粉も払ってくださいね。花粉の時期には加湿器を強めにして飛散しにくくします。玄関のすぐ横には事務室があります。スタッフの人が運営業務を行なう場所です。廊下にはドミトリー内の仕事のいわば「求人」が出ています。ハローワークみたいな感じです。自分の出来る仕事を探して埋めていきます。仕事の内容によって与えられるポイントの数値も異なるので、自分のポイントが必要な数値に達するように調整しながら、仕事の「空き」の部分を埋めていきます。埋まらないところは、スタッフの人が調整していきます。また、スタッフの人は、居住者の人たちの適性に合わせて、なるべくスキルを増やすように促していきます。求人は、居住者個人が出してもかまいません。たとえば、「パソコンを手伝ってほしい」「英語の翻訳をしてほしい」「髪を切りたいので手伝ってほしい」など、個人的に何でも自由に募集してもらってかまいません。中に入るとすぐロッカースペースがあります。ロッカーといっても、実際は戸棚ではなく、一人につき一畳分はあるような広いスペースです。衣服はもちろん、いろんな私物を置くことができます。施錠できて、隣とも完全に仕切られています。入浴時に使う湯桶、歯ブラシ、タオルなども、ここに置いてください。私物がこのスペースに納まり切らない人は、もうひとつ借りることもできますが、別途料金が出ます。ただし、みんなで使えるような物ならば、ドミトリーに預けもらっても、また寄付してもらってもいいです。ここに小型洗濯機を設置すれば、小さな洗濯や物干しもできます。人工風で半日あれば乾かせると思います。ただし、たいていの小型洗濯機は脱水機能がないので、ロッカースペースの隅にある共用の流しで、水を汲んだり排水したりします。そして、そのまま干すと水が滴るので、各自ネットに入れて何人かと一緒に乾燥機に入れてから、ここに干している人もいるようです。ロッカーだけは自分自身で管理する個人の空間です。ただし、清潔に使用しているかどうか、定期的にチェックされます。(つづく)
2008.06.17
今までの議論を踏まえて、ひとつ「ヴァーチャル・ドミトリー」でも描いてみようと思います。しばらくわたしの妄想におつきあいくださいww☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ これは都市部にあるドミトリーです。サラリーマン、OL、フリーターやニート、学生、退職者、老人、シングルペアレントとその子供、犬や猫、あらゆる種類の人が、総勢50人ほど居住しています。そのうち20人ほどは個室を借りているメンバー、残りは個室をもたないメンバーです。ドミトリーの運営を管理する数人のスタッフも含まれます。居住費ですが、たとえば、個室をもち、朝昼晩ともドミトリーで食事をし、かつドミトリーの家事をまったくしないメンバーでも、月におよそ10~15万円ほどです。ドミトリーの家事をたくさんこなすメンバーなら、それよりさらに安い料金で暮らしています。建造物は、長方形の3階建てです。建物の外側と各階床部に空気の緩衝帯があるので、通気を調整すれば、かなり冷暖房費を節約できる作りです。中央には小さな中庭があります。西側にも広めの庭があります。駐車場が2~3台分ありますが、ドミトリーの車だけです。これは基本的に、ドミトリーの業務のために使用する車です。しかし通勤の足の無いメンバーなどは、これで送迎してもらっています。個人の自動車は、近隣の駐車場と契約してもらっています。駐輪場もあります。こちらは私物の自転車を置くことができます。ドミ所有の自転車も1~2台あって、借りることができます。建物のなかの概要は、以下のとおりです。1F 南側:玄関、ロッカールーム、事務所 西側:食堂、ピアノルーム、トイレ 北側:チャイルドルーム、犬の部屋 東側:就寝スペース(大)、トイレ2F 南側:会議室、猫の部屋 西側:(吹き抜け部分) 北側:シャワースペース 東側:リビングスペース、パソコンルーム、トイレ3F 南側:個室スペース(空室ふくむ) 西側:就寝スペース(小) 北側:リビングスペース、エクササイズルーム、トイレ 東側:個室スペース屋上 西側:フリースペース 東側:物干しスペース それでは、さっそく中をご案内します。(*~~*)/(つづく)
2008.06.16
現代社会は、人間関係が希薄です。そのために孤独な人も多いし、人間関係が不得手な人も多い。たとえば、ニートの人は、仕事をする気力や能力が無いのではなくて、多くの場合は人間関係を維持する力が無いのだと思います。フリーターの人たちにも、組織の中の人間関係や競争を避けたがる人は多い。ドミトリーも、複数の他人どうしが暮らす場所です。だから、やはり人間関係になじめずに、孤立する人もいるかもしれない。しかしながら、ドミトリーは、基本的に自由な個人の空間です。かつての共同体のように、濃密な人間関係を強要するような場所ではありません。独りで、気ままに自由に過ごしてかまわない場所です。また、大規模なドミトリーであればあるほど、個々の人間関係に気をはらう必要もなくなると思います。◇わたしは、人間関係というのは、原理的には「経済関係」なのだろうと思っています。「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、お金だけで繋がっているような人間関係は、不純で、えげつなくて、きわめて脆弱なものだといえる。けれど、本当の「経済関係」というのは、それとは違う。それはいわば経済的な役割分担のことです。たとえば、生産者と小売業者の関係は、切り離せない。お互いに信頼や信用が無いと成立しないし、どちらか一方がいなければ、他方も成り立たないような、互いに補完的な関係です。かつての地域社会にも、このような経済関係があった。町の中に、八百屋さんや、魚屋さんや、電気屋さんがいて、だれが欠けても町の生活が成り立たないような、相互に依存した関係がありました。また、町の行事があれば、みんながそれぞれ役割を担ったし、地域で行なう作業があれば、分担して力を合わせた。しかし、現在では、八百屋や魚屋がなくても、スーパーがあれば事足りてしまう。相対的に地域の関係が弱まったのは、そういうこともある。同じことは家族関係にもいえる。従来、夫婦は、やはり相互依存的な経済関係だったと思う。夫と妻の役割は、互いに補完的なものだったと思います。けれど、今は、夫がいなくても女は生きていけるし、それと逆のこともいえるのだと思います。そのことで、家族の関係も相対的に弱まってきたといえる。◇ドミトリーの人間関係も、気の合うどうしの仲良しの関係というより、やはり経済的な関係、つまり役割を分担する関係だと思う。もちろんドミトリーのサービスを利用するだけでは、このような関係は生まれてこないかもしれないけれど、たとえば、ドミトリーの中で掃除をしたり、料理を作ったり、子供の面倒を見たり、そうやってお互いに役割を分担するなかで、自然に、他人への信頼とか親しみとか、共同意識とかが生まれてくるのだろうと思います。趣味が多いとか、話が上手だとかそういうことだけで人間関係の有無が決まるのだとしたら、それは、豊かな社会というより、かなり貧困な人間社会です。たとえばニートの人がいるなら、積極的にドミトリーの家事をこなしてほしいと思う。人間関係なんてものは、そこからおのずと生まれてくると思います。(つづく)
2008.06.15
最後に、ドミトリーが現代人にもたらすだろう精神的な効用について、考えてみたいと思います。現代人は、概して孤独です。結婚しない人も多いし、子供も少ない。老いて独りで暮らす人も多い。孤独死という問題もある。孤独から生じる様々な不安も多い。反対に、共に分かち合う喜びや楽しみは少ない。たとえば、一人きりで生活していると、節目の行事ごとを祝ったりすることも少ない。つい、そうした感覚もさびれてしまいがちです。そもそも、そういうのは、だれかと「共に暮らす」なかで生まれる感覚なのだと思う。ふと資本主義の競争社会の外に出たときに、何のメリハリもない孤独な生活しかないことに気づいて、恐ろしいほどの虚しさを感じることがあるのではないでしょうか。たとえば、クリスマスにケーキを作ったり、お正月にお餅を作ったり、バレンタインデーにはチョコレートを作ったり、八月十五夜にはお団子を用意したり、(注:食べ物をメインに考えているわけではありません)そんな些細なことも、だれかと共に暮らす中ではじめて味わえる喜びです。異なる生活スタイルの人たちが共生するドミトリーでは、全員が一堂に集まって行事ごとをするのは無理だろうけど、それでも、ちょっとした飾り付けをするとか、ささやかながら、その雰囲気を感じることはできると思う。◇ところで、世の中には「老人ホーム」というものがあります。これは老人だけを一箇所に住まわしている場所です。「母子寮」というのもある。これは母子家庭の世帯だけを集めた寮です。同じように、「学生寮」は学生だけ、「社員寮」は社員だけ、「障害者施設」は障害者だけを「児童養護施設・保育所」は子供だけを集めた施設です。社会の機能性ということを考えれば、このように人間を分類して管理することは有効でしょう。けれど、はたしてそこに人生の豊かさがあるのかどうか、はなはだ疑問に感じずにもいられません。たしかに、同じ境遇の人間や、同じ世代の人間は、立場も価値観も近いし、機能的にも行動しやすい。しかし、その分、均質な人間を集めた空間であればあるほど、互いを互いに差別化しあうような窮屈さもある。また、異なる存在が共存することで得られる豊かさが、そこには無いんじゃないかと思える。年寄りがいて、子供がいて、お兄ちゃんやお姉ちゃんや、弟や妹がいる。若者や、いろんな世代の大人がいる。あるいは、犬や猫がいる。それは、決して機能的ではないかもしれないけれど、でも、そのほうが人生は豊かだろうと思います。世代から世代へ、年上の人間から年下の人間へ、ゆるやかに受け継がれていくものもある。現在では分離されていますが、以前なら、年寄りは、子供たちと一緒に老後を生きることができた。今の年寄りには、それがない。共同体とは切り離された、年寄りだけが生きる場所で、世代の連続性を感じることもなく、ただ老後の時間をやり過ごすように生きるしかない。子供も、かつてなら年寄りと触れ合う機会があった。子供は、両親だけに育てられるものではなく、地域全体の環境の中で自然に育まれるものだった。今の子供には、それがない。学校では、同じ年齢の子供だけが、一つの場所に集合させられる。家に帰ると、親と子供が直に向き合う核家族の空間だけです。これらは、きわめて貧困な人間関係ではないでしょうか。◇わたしは、いままで述べてきたドミトリーのことを、特定の種類の人々だけが住まう空間とは考えていないし、低所得層だけの空間だと想定しているわけでもない。ニートやフリーターの住処を想定しているわけでもありません。いろんな人が存在することが望ましいと思う。家族ごとドミトリーに住んだっていいと思っています。また、今後、老人の数はいっそう増えるけれど、家族とともに暮らせない人も多いし、老人ホームに入れない人、または行きたくない人もいる。孤独な老後を強いられる人はこれからますます増える。ドミトリーのような生活スタイルが当たり前のものになって、そうしたことが少なくなれば、と思います。(つづく)
2008.06.14
やや脱線もしてしまいましたが、家事のワークシェアを行なうことの利点は、まとめると、次の4点です。1.家事に費やす時間的なコストが減る。2.家事の労力的な負担が減る。3.個人の生活能力が向上する(スキルアップ)。4.ドミトリーの生活の質が高まる。家事に費やす時間が減らせれば、余暇時間も増えます。あるいは、そのぶん外で仕事をすることもできる。これらは大きなメリットだと思います。また、スキルを共有すれば、ドミトリーの生活環境も、また個々人の人間性も、とても豊かなものになるだろうと思います。ドミトリーが、たんなる空間のシェアだけに終わるのは勿体無い。工夫を凝らしながら、ぜひとも家事のワークシェアを実践すべきです。(つづく)
2008.06.13
スキル一覧表についてですが、現在、ちょっと脱線して、子供の教育への応用について考えています。◇しばしば、親とか先生は、「ゲームなんかしないで、もっと勉強しなさい」と言います。でも、じつはゲームと勉強はとてもよく似ている。一つの段階をクリアして、次の段階に進む。このことに人は面白さを見出すと思いますが、これがテレビゲームの面白さの根幹を成す部分です。そして、これは勉強が本来もっているはずの面白さでもある。にもかかわらず、なぜか学校の勉強には、このような面白さが無い。◇テレビゲームでは、今、自分がそのステージをクリアできるかどうか、そのことに没頭できる。そのときの達成感を味わいたい衝動に突き動かされる。集団のなかで比較されることもない。自分の能力だけを鍛錬し、挑戦していくことができる。失敗したら、何度でもリベンジする。ステージをクリアした瞬間は、あくまでも自己本位に満足を味わえる。そして、またすぐ次のステージも達成したい、という欲望が次々と生まれてくる。けれど、学校の勉強はそうではありません。学校の教室の空間は、テレビゲームの空間とは違う。そこでは、つねに他人との比較があり、差別化される。出来すぎれば嫉妬され、出来なければ蔑まれる。教室には、同じ年齢の子ばかりが集まっていますが、同じ段階を、同じようなペースで進んでいかなければならない。他人との違いが、否応なしに際立ってしまう空間です。規定の期間内に、同じ課題(ノルマ)をこなさなければならず、そのつど評価が決定する。再チャレンジの機会はほとんどない。そこは、互いの価値評価を決めるための場所です。大人にも同じことが言える。ビジネスの世界はむろんですが、学区内の大人の関係にも同じことがいえる。地域のつながりが薄いぶん、学校を通した付き合い以外にない。それは、同じ年齢の子をもつ保護者どうしの関係でしかありません。そこもまた、自分の子と他人の子を比較し、差別化しあう場所です。かつての地域の共同体の中には、お兄ちゃんやお姉ちゃん、あるいは妹や弟(年下の子)らとの関係がありました。また、いろんな世代の大人や、青年や、年寄りがいた。年長の子供は、まだ小さな子供の面倒を見たし、年長の大人は、まだ若い大人に、色々なことを教えた。そもそも、みんな年齢が違うわけですから、同じことが当然なのではなく、むしろ、違うのが当然だった。互いを比較しあうことが意味を為さないような空間だった。そのような、おおらかで柔軟な場所は、もうありません。◇わたしは、この連載のいちばんはじめに、資本主義社会の負の側面として、人間が、人間の価値や存在理由を「商品価値」でしか測れなくなっている。ということを挙げましたが、学校における子供の価値づけかたと、市場における商品の価値づけかたとは、きわめて相似した関係があります。市場社会の価値観は、学校の中にも、見事に浸透している。逆にいうと、市場価値以外の価値観を養える場は、今はほとんどありません。◇学校というのは、スキルを身につける場であるというよりも、互いを価値づけ、差別化しあうような空間です。ぶっちゃけ、学校ってのは、スキルを身につけるのにふさわしい場所じゃありません。話を戻しますが、教育が、テレビゲームから学ぶべきことはきわめて多い。テレビゲームの面白さは、勉強に応用することができる。ドミトリーの「スキル一覧表」は、ライフ・スキルや学習スキルなどを獲得する面白さ、あるいは蓄積していく面白さを実感するための道具です。もちろん、「生涯学習」に応用することもできます。(つづく)
2008.06.12
スキル一覧表に関連して、さらに話を広げてみたいと思います。たとえば、子供のいるようなドミトリーだったら、居住者が子供に学校の勉強を教えることもありえます。いわば「家庭教師」の仕事を、ドミトリーの大人たちで請け負うということです。国語の得意な人が国語を教え、算数の得意な人が算数を教えるという具合に、分担して子供の勉強のお手伝いをしていくということです。そして、「スキル一覧表」には、自分がどの科目を教えることができるのかを表示します。しだいに「指導スキル」が蓄積されてきたなら、それをドミトリーの中でマニュアル化し、独自の教材を作ったりして、スキルを伝達・共有していってもいい。むしろ学校以上に、子供の能力や発達に合わせた教育が可能かもしれません。◇そして、その場合に、ドミトリーの「スキル一覧表」を、子供の学習能力を表示する手段として使用することもできる。たとえば、「分数の掛け算」や「分数の割り算」といった項目に分けて、その学習スキルが身についたのかどうかを、一覧表に記入します。各教科、各段階ごとに細かく分類して、子供の学習能力をすべて表記していけば、一目で発達の段階が分かるし、得意分野や苦手分野も把握できる。重点的に学習すべきポイントも明瞭になる。一般のライフスキルと同様、学習スキルも、段階的にスキルの度合いを表示できます。たとえば、分数の割り算が一度でもできたなら、○印。その後、何回か繰り返して完全に身についたら、◎印。ほかの子供にも教えられるなら、☆印。 ‥というように。空欄なら、まだ分数の割り算はできてない、ということです。子供自身にとっては、なるべく多くの空欄部分を◎印に変えていくことが目標になる。◇スキル一覧表は、そんなふうに応用することもできると思う。お気づきだと思いますが、子供の学習能力のこのような形での表示のしかたは、学校で行なわれている「通信簿」の表示方法とは、まったく異なる。学校の通信簿というのは、規定の学習目標を、定められた期間中に達成できたかどうかを、そのつど「評価」していくものです。通信簿における「評価」は、永久に変わりません。小学五年生のときに分数の割り算が理解できたかどうか、それに対する「評価」は、その時点で確定します。再チャレンジする機会は、ほとんど与えられませんし、かりにリベンジしたとしても、「評価」自体は変わらない。現在の通信簿では、相対評価でなく、絶対評価が主流になっていますが、以前なら、クラス内の他の子供との比較の要素が、通信簿には含まれていました。つまり、通信簿というのは、「学習スキルを身につけたかどうか」が重要なのではなく、あくまで子供の価値を定めていくことが主眼なのです。◇あらためて述べますが、スキル一覧表というのは、個人の「評価」を定めるためのものではありません。あくまでも「スキルの達成段階」を示すものに過ぎません。空欄の部分は「まだ出来ていない」ことを表示するだけで、それは「これから◎印にしていけばよい」との可能性を示すものです。子供は、自分のペースで、一つ一つ確実にクリアしていけばいい。他の子供と比較して焦る必要もありません。いつでも、何度でも、チャレンジする機会がある。それは、ちょうど、部屋の中でテレビゲームに打ち込むのに似ている。つまり、ゲームのなかの各ステージを、ひとつひとつクリアしていく感覚に似ています。(つづく)
2008.06.11
それでは、スキル一覧表についての続きです。◇スキル一覧表には、いわゆるライフスキルではない技術や能力、またドミトリーの家事には直接関係ないものを、記載したって構いません。たとえば、「パソコンの表計算ができる」「英語の翻訳ができる」「ミシンの操作ができる」「子供に算数を教えられる」など。ありとあらゆる能力を記載していいと思います。それを見て、居住者は、個人的に仕事を依頼してもいいし、あるいは、そうした技術を教えてもらってもいい。そして、その場合も、ポイントで対価を支払えばいいわけです。◇何度か書いてきたように、ライフ・スキルの伝達と共有は、かつてなら、家族や地域の共同体の中で行なわれてきたことですが、そうした共同体の中でも、ライフ・スキルばかりにとどまらず、ときには、きわめて特種で高度な技術や知識などが、受け継がれていたのではないか、と思われます。しかし、そのような共同体の機能は弱まっています。現在では、さまざまな技能や知恵が、ハウツー本やカルチャーセンターで売り買いされたり、著作権や特許などで法的に保護されたりしています。つまり、あらゆるものが市場経済の中に呑み込まれています。けれど、市場経済からはこぼれ落ちてしまうもの、市井の人のなかで無駄に消えていってしまうスキルもある。あるいは、生活を共にすることでしか受け継がれないスキルもある。すごくもったいないことです。そういったものを、ドミトリーの中で自由に伝達していければいいと思います。◇従来、ライフ・スキルをはじめとする人間としての素養を、家庭や地域においてあらかじめ身につけておくことは、社会に出る上での常識であり、前提でした。実際、職場で教わる「マニュアル」以前に、共同体で身につけておくべき基礎的なスキルがなければ、ビジネスなどでも対応できないことのほうが多い。しかし、そうした前提が崩れ始めているのが現状です。学校教育の中だけで生活スキルのすべてを養うのは無理がある。やはり、家庭や地域の中でのコミュニケーションの中でこそ、それらは自ずと養われていたのだと思います。市場経済の拡大と浸透によって、そうしたコミュニケーションの領域は解体されていきました。その結果、資本主義社会のバランスが崩れてしまってる。◇やや大げさな話になりますが、資本主義社会というものは、市場経済だけで成り立っているのではありません。太陽の恵みがあり、地球の生態系があり、共同体があり、そこで人間の再生産がある。人間の、身体性と精神性が、そこで再生産されている。そこは、いまだ資本化されていない領域です。いわば“贈与”のみで成り立っているような世界です。しかし、その土台がなければ、資本主義社会などというのは、そもそも成り立たないのです。もちろん、部分的になら、水やら空気やらを市場で売買することもできるだろうし、科学の力で人間を再生産することだってできるかもしれない。しかし、それには必ず限界がある。健全な地球の生態系を守り、人間の再生産の場である共同体を再建することは、じつは資本主義の市場経済を維持していくために不可欠です。それらが崩壊すれば、資本主義自体が危機に陥る。両者は補完関係にあるといってもいい。(つづく)
2008.06.10
今日は番外編。キレた若者が、無差別に大勢を殺傷した。この手の事件で最大の要因と考えるべきものは、まず「個人の資質」、つまり性格的な問題です。同じような境遇や環境、社会的背景があったとしても、すべての人がこんなことをやらかすわけじゃありません。しかし、同時に、こういう資質をもった人間は、一定の割合で存在する。そして同じような資質をもっていても、全員がこんなことをやらかすわけじゃないのも事実。そこに何か「引き金」になる因子が加わるかどうかで、こういう結果をもたらすかどうかの分かれ目になる。今回の事件において、派遣労働、ワーキングプア、格差社会、勝ち組負け組といった価値観などの社会的背景や、家庭の崩壊、コミュニケーションの欠如といった問題が、何がしかの因子のとして作用しているかどうか、また、これを一つのテロと見なすべきなのかどうか、これはまだ分からない。仮にそうだったとすれば、特定の資質をもった人間が、一定の割合で社会に存在する、ということを前提にして、そういう人間が暴発しないようなセイフティネットを築くことも、一面では非常に重要な課題です。これは、ただ「防犯」ということだけではなく、こうした資質の人間を追い詰めないような逃げ場を、社会的に用意しておく知恵も必要だということ。社会が本当に洗練されたものになるかどうかは、実はそういうところにかかっているのであって、さもなければ、極度に高コストな「防犯社会」になるしかない。イスラエルやアメリカは、そういう方向に進んでいるけれど、あれが「洗練された社会」だとはいえません。むしろあれは、知恵や洗練や寛容を欠いた社会の、ひとつの顛末ともいえる。そうした視点も踏まえて、ライフスタイルを大きく覆していく方法を考えています。(つづく)
2008.06.09
4.スキル一覧表わたしは、ドミトリー全体の「スキル一覧表」を作ることを想定しています。これを見れば、そのドミトリーの中にどんなライフスキルがあるか、そして居住者個々人がどのスキルを身につけているか、ぜんぶ一目で分かる。同時にこれは、個人にとって「スキルアップ」の目標を与える目安にもなる。◇スキル一覧表は、縦軸に居住者の名前が、横軸にスキルの種類が並びます。ドミトリーの居住者数が多いほど縦に長く、ドミトリーのスキルの種類が多いほど横に長くなります。つまり、この一覧表が大きければ大きいほど、そのドミトリーが豊かであるということの指標にもなる。スキルはどんどん増えていきます。たとえば、料理のメニューやバリエーションが増えるたびに、「ブリのネギ照りマヨ焼きが作れる」とか、「蓮根と赤玉葱のバルサミコソース和えが作れる」などといった項目が、無限に増えていくことなります。マニュアルも膨大な量になりますが、スキル一覧表もまた膨大な大きさになってしまいます。やはり、これもパソコンで管理することになると思います。また、表のスキルの項目は、なるべく細かいほうがいい。たんに「料理ができる」などといった大雑把な項目でなく、「ご飯が炊ける」「お味噌汁が作れる」「野菜が切れる」などのように、なるべく細かく分けたほうがいい。そうしないと、出来る人と出来ない人の溝が、なかなか埋まらないからです。まずはご飯が炊けるようになってもらう。その次に、お味噌汁にも挑戦してもらう。そうやって、少しずつスキルを増やしてもらえばいい。スキルは段階的に表示してもいいと思います。たとえば、いちどマニュアルどおりに仕事をした人は、○印。何回かやって1人でできるようになったら、◎印。そして他の人にも教えられるレベルの人は、☆印。空欄の人は、いちどもやったことのない人です。基本的には◎以上の人に仕事を担当してもらいます。○印の人は、まだスキルが完全に身についていないので、慣れるまでは◎印以上の人と一緒に仕事をしてもらいます。スキルを身につけたい人は、☆印の人に教えてもらう。◎印以上のスキルを増やすことが、居住者の共通の目標です。スタッフメンバーは、居住者の適性に配慮しながら、なるべく多くの人がスキルを増やすように促していきます。◇ドミトリーの中であるとはいえ、スキルをもっているかどうかを公開することは、ある意味、プライバシーを明かすことでもあります。もちろん秘密にしたければ秘密にしてもいいのですが、そのスキルをもっていることを公開しなければ、ドミトリーで、その家事を担当する資格も与えられません。そして家事をこなさなければ、ポイントを稼ぐこともできません。なるべく多くのスキルをもっているほうが有利です。そのほうが、仕事の選択の幅も広がるし、家事をおこなう時間も自由に選べるようになる。ポイントを獲得する機会も、それだけ増えるわけです。「スキル一覧表」の話は、もうすこし続きます。(つづく)
2008.06.08
3.家事のフレックスタイム制ドミトリーの中の仕事(家事)を居住者自身が分担でおこなう。それが家事のワークシェアです。けれど、生活時間の異なる人たちが住むようなドミトリーでは、当番を決めて全員が分担するというのも、ちょっと難しいですね。中には、外での仕事が忙しくて、体力的にも、時間的にも、ドミトリーの家事を担当する余裕のない人もいるかもしれない。ドミトリーの家事といっても色々あります。掃除ぐらいならともかく、食事の仕度とか、子供の世話とかいった難しい仕事は、だれにでも出来るというものではありません。だとすれば、なおさら当番制でやっていくのは難しいでしょう。わたしの考えているドミトリーでは、家事の基本的なやり方(マニュアル)がきちんと決まっています。逆にいうと、マニュアルを覚えて、きちんとスキルを身につけた人でなければ、それを担当してもらうことはできません。したがって、人によって、できる時間はもちろん、できる仕事も限られる。まったくできない人もいるかもしれません。体の弱い老人や、小さい子供を含むようなドミトリーであれば、なおのことです。だから、仕事のできる人が、できる時間を選んでおこなう。これが「家事のフレックスタイム制」です。◇ドミトリーの仕事を時系列で示した「求人表」を張り出します。居住者は、その中から、自分にできる時間・内容の仕事を選んでもらいます。それぞれ「定員」もありますので、空きの部分からどんどん埋めていってもらう。また、仕事の内容や時間によって、与えられるドミトリーポイントの数値も異なります。つまり、報酬が異なるってことです。したがって、居住者は、自分に必要なポイントの数値に達するよう調整しながら、自分の担当する仕事を選んでいきます。「フレックスタイム」とは言ってますが、実際は、時間だけでなく、仕事の種類も選ぶわけですから、むしろ「ハローワーク」のような感じですね。ともかく、こうすることで、ドミトリーの居住者は、自分の生活時間を比較的自由に設計できるようになる。うまく余暇をつくることもできるし、余った時間を外でのパート労働などに充てることもできます。ドミトリーの仕事をどのくらいやるかは、人それぞれです。たくさんできる人には、たくさんやってもらう。少ししかできない人は、それで構いません。中には、まったく家事をしない人もいるかもしれません。しかし、地域通貨(ドミトリーポイント)があれば、そうした不公平も、あとで清算することができます。時間によって、また内容によっては、なかなか担当者の埋まらない仕事もあるかもしれません。そうした場合も、やはり大規模なドミトリーのほうが有利です。人数がたくさんいれば、分担もそのぶんスムーズです。どうしても埋まらない部分は、専属のスタッフメンバーが調整していきます。スキル一覧表(後述)を見て、スキルをもっている人の中から、担当できそうな人を探して直接お願いしていく。同時に、まだスキルをもっていない人にも、その人の適性を見ながら、なるべく色んなスキルを身につけるように促していきます。(つづく)
2008.06.07
2.家事マニュアルドミトリーの中で家事のワークシェアをやるために、つぎに必要だと思っているのが「家事マニュアル」です。たとえば、居住者が交替でトイレ掃除をすることがあるでしょう。しかし、実際に掃除をしてみると、とても丁寧に掃除をする人もいれば、きわめて大雑把に、好い加減にしか掃除しない人もいる。そういう不公平が生じる可能性がある。料理の場合はどうでしょう。たとえば、同じ「肉じゃが」を作る場合でも、とても上手に作る人もいれば、そうでない人もいるでしょう。そうした不均一というのは、避けられないと思う。だから、トイレの掃除のやり方にしても、肉じゃがの作り方にしても、まずは、とりあえず標準的な「マニュアル」を定めます。そのマニュアルを覚えて、マニュアル通りにやってもらう。そうやって、ドミトリーにおける家事の能力、いわばライフスキルを、居住者の人たちに身につけてもらいます。◇世間では、しばしば、「マニュアル人間」が馬鹿にされる。マニュアル通りにしかできない人間は、底が浅いと言われる。けれど、わたしが思うに、人間というのは、多かれ少なかれ、かつてどこかで身に付けた習慣やスキルでなければ、それを実践することも応用することもできないのであって、まったく初めての事態に対して、つねに的確な対応のできる人など、この世に存在しないと思う。大事なのは、家庭で、あるいは職場で、つまり、生活の場や、あるいは社会の中で、様々なマニュアルを積み重ねて身につけていくこと、そして、マニュアル自体に不備や欠陥があれば、それを絶えず書き換えて行くことが大事なんだと思う。◇居住者は、いちどはマニュアルを覚えなければなりませんが、実際の仕事をマニュアル通りにやらなきゃいけないわけではない。さまざまなアレンジ、違う方法でやってみるのは、自由です。そして、もっとおいしい「ご飯の炊き方」とか、もっと上手で効率的な「トイレの掃除の仕方」など、もしマニュアル以上に良い方法があるのなら、そのつど、マニュアルのほうを書き換えていくべきです。家事の動作を、一つ一つマニュアル化していく作業は、自分たちの身体的なスキルを客観的に見直す作業でもある。マニュアル化する中で、はじめて欠点や改善点が見えてくることもあると思う。そうやってスキルが磨かれていくほどに、ドミトリーの生活は、より豊かで快適なものになります。食べ物はよりおいしくなるし、生活環境はより過ごしやすく清潔になる。創意工夫が蓄積されていくことで、生活の利便性が高まる。それはいわば、昔の「お婆ちゃんの知恵袋」のような、ドミトリーにとっての財産になる。◇ドミトリーの家事スキルを逐一マニュアル化するのは大変です。しかも、それは膨大な量になります。それでも、基本的なスキルだけでもマニュアル化すべきです。そうすることで、全員がスキルを共有しやすくなる。また、人には、《見よう見まねでスキルを体得できてしまうタイプ》と、《言葉や理屈で教えてもらわないと呑み込めないタイプ》がある。とくに後者のタイプの人にとっては、マニュアルは有効です。逆に、スキルを教える側の人にだって、他人に教えるのが上手な人と、不得意な人がいるわけですから、やっぱりマニュアルがあるほうが心強いと思う。家事マニュアルは、マニュアル・ブックやマニュアル・ファイルのような文書の形でも、あるいはマニュアル・ビデオのような映像の形で作ってもいい。作ったマニュアルはパソコンで保管してもいいかもしれません。(つづく)
2008.06.05
ドミトリーにおける「家事のワークシェア」をおこなうために、わたしが必要だと考えている仕組みが4つあります。1.地域通貨(ドミトリーポイント)2.家事マニュアル3.家事のフレックスタイム制4.スキル一覧表これから順次述べていきますが、今日は地域通貨の話です。◇1.地域通貨(ドミトリーポイント)わたしは、ドミトリーの中で地域通貨を使うことを想定しています。といっても、それほど面倒な仕組みは必要ありません。ドミトリーのメンバーは、家賃、光熱費、食材費、また設備の使用費などを含め、すべて、基本的には現金で支払います。各メンバーがドミトリーに対して支払った現金は、いったん地域通貨に換算されて、各自に戻ってきます。この地域通貨を、仮に「ドミトリーポイント」と名づけます。ちょうど電気屋さんで買い物するとポイントが貯まるように、ドミトリーに支払った金額は、すべてドミトリーポイントとなって各自に加算されます。さて、ドミトリーの居住者たちは、家事をワークシェアしています。ドミトリーの中の家事その他のさまざまな仕事は、メンバー自身が、自分たちで分担しておこなっています。食事も自分たちで作るし、掃除も、洗濯もする。この家事労働の対価も、ドミトリーポイントで支払われます。けれど、中には、忙しくてドミトリーの仕事をこなせない人もいるでしょう。お年寄りなどの場合は、なかなか若い人のようには働けないかもしれません。子供が含まれるとすれば、子供だって、大人と同じように働くことはできない。そうした人たちは、あまりポイントを稼げません。逆に、時間的に余裕があって、ドミトリーのなかでたくさんの家事をこなせる人もいる。あるいは家事の能力が高い人などがいると、特定の仕事は、その人に任せっきりになるかもしれない。働けば働いたぶんだけ、ポイントは貯まっていきますので、家事労働の多い人は、ポイントも多く獲得できます。ドミトリーに居住し続けるためには、一定期間内に、各自必要なポイントを蓄積する必要がありますが、家事労働に従事してポイントを獲得すれば、結果的に、その分だけ現金の支払いが免除されることになる。基本的には、メンバーの全員が家事労働を少しずつシェアする前提です。したがって、全員がある程度の免除を受ける前提になっています。しかしながら、仕事の忙しい人や、子供や、一部の老人など、ドミトリーの中の家事労働がなかなかできない人は、必要なポイントを、現金の支払いによって得るしかありません。まったく家事に従事できないメンバーは、必要なポイント分の全額を、現金で支払うしかありません。逆に、一日のほとんどを家事労働に費やすようなメンバーは、必要なポイントの大部分を、現金の支払いなしで獲得できてしまうかもしれません。ちなみに、家事労働の全部を居住者自身ではおこなえない場合、外部から人を雇うことになるかもしれません。そうした費用は居住者全員で平等に負担しなければなりません。◇ドミトリーには、あらかじめ決められた作業(家事)があります。たとえば買物、炊事、洗濯、掃除など、生活に必須の仕事です。基本的には、こうした仕事を分担して、各自がポイントを稼ぎます。けれど、それ以外のことでポイントを稼いでもかまいません。たとえば、メンバーの中にパソコンの得意な人がいたとして、その人に、ぜひ手伝ってほしい仕事が個人的にあるとします。その場合、その人に対して自分のポイントを支払えば、個人的に依頼して自分の仕事を手伝ってもらうこともできる。つまり、メンバーどうしでポイントを直接に交換してもかまわない。それによってポイントを稼ぐ人もいれば、失う人もいる。多くポイントを稼げば、そのぶん現金の支払いが免除され、逆にポイントを失って必要なポイント数に満たなくなれば、そのぶんを現金の支払いで補うしかありません。以上が、地域通貨(ドミトリーポイント)のおおまかなの概要です。(つづく)
2008.06.04
☆今日からは、「ライフ・スキルの伝達と共有」を話題にしていきます。その前提になるのが、ドミトリーにおける家事のワークシェアです。ドミトリーは、外形的に見れば、宿泊施設と似ている。個室のあるドミトリーは、ビジネスホテルみたいなものかもしれないし、個室のないドミトリーは、いわばカプセルホテルみたいなものかもしれない。ドミトリーが宿泊施設と異なるのは、食事や掃除など、生活上の仕事を自分たちで行なうことです。したがって、そうした面での人件費は含まれません。ホテルに泊まるのとは違い、そうしたコストはかからない。のみならず、ドミトリーでは、そのような仕事(つまり家事)を、居住者が共同で、あるいは分担して行なうことができる。その場合のドミトリーは、ハウスシェアだけでなく、ワークシェアという側面ももちます。家事のワークシェアを実践しているドミトリーは、現実には、あまり多くないかもしれません。ですが、ドミトリーがワークシェアを取り入れることは有効です。すべての家事を単独でおこなうのと違い、家事を分担すれば、時間的なコストも、労力上の負担も減る。その日の担当者が、すべての場所をいっぺんに掃除してしまったほうが、また、全員の食事をいっぺんに作ってしまうほうが、あるいは、全員の洗濯物をいっきに洗ってしまうほうが、時間的にも労働的にも無駄がなく、一人あたりの労力も少ない。同時に、居住者どうしが生活のスキルを共有しあうことによって、全体の生活の質を高めることができます。これまでに書いてきたとおり、ドミトリーでは、空間や設備やモノを共有することで、それらにかかるコストを抑えることができるわけですが、それにくわえて、上記のような「家事のワークシェア」をおこなえば、人件費をかけずに、個人にかかる家事負担を減らし、時間的な自由をも、より多く得ることができるわけです。たくさんの人が居住するドミトリーであればあるほど、家事の分担は、よりフレキシブルに調整することができる。つまり、個々人の時間設計を、より自由に行なうことができます。そして、地域通貨のような媒体を使えば、各人の家事労働の負担を、不公平のない形で交換し合うことができます。(つづく)
2008.06.03
今日はふたつ同時にアップしています。◇ルームシェアやシェアハウスなど、現実に存在している住空間のシェアの多くは、だいたいが少人数のグループでおこなわれています。あまり人数が多いと、収拾がつかないのかもしれません。しかしながら、少人数で住空間をシェアするのには、難しさもある。より関係が密になるし、そのぶんだけ、お互いの習慣、嗜好、個性などの違いが際立つからです。それらを客観的な立場で調整するのは難しいけれど、それでも、自分たち自身で問題を解決するしかない。個人差はあるけれど、一般的にいって、わたしは、多数でシェアするほうが、かえって楽だと思います。そのほうが、個々人の違いが鮮明になることも少ない。個々の関係が相対的に希薄になる分、齟齬も中和される。そのほうが、かえって人間関係が柔らかいだろうと思います。ただし、生活上のガイドラインやルールについては、あらかじめ、きちんと定めておかなきゃいけない。そうでないと、ただの有象無象の集合になり、収拾がつかない。いくら相対的な関係が希薄になるといっても、個々人の顔が見えなくなって、みんな無責任になるのも困る。ルールは細かくきちんと定められているほうがいいし、それを徹底させるために、指導する人がいるほうがいい。ドミトリーを円滑に運営するために、数人の専属スタッフが一緒に居住するのが望ましいと思います。そのためにも、それなりに規模の大きなドミトリーがいい。もしかしたら年配の人などは、ルールが細かすぎるのは煩わしくて窮屈かもしれないけど、逆に、若い人にとっては、それが自律的に生活するキッカケにもなるし、かえって安心なんじゃないかと思う。客観的なルールがあって、それを管理してくれる人がいれば、住人どうしに起きた問題を自分たちで解決する面倒臭さもありません。ところで、こうしたドミトリーには、低コストな生活だけを求めてやってくる人、その設備やサービスに依存しようとする人が集まるかもしれません。しかし、たんなる「利用者意識」だけで集まる人たちの生活は、ややもすると、無責任で、怠惰で、不潔な、言ってみりゃ「貧民の巣窟」みたいにもなりかねない。それを考えると、例えばですが、「エコロジー」などといった、ある共通の意識をもった人たちが集まった場合のほうが、ドミトリーの運営はしやすいだろうと思います。また、前にも書きましたが、ドミトリーで個室などの占有スペースを設ける場合、問題なのは、コスト面だけでなく、使用する本人に管理が任せられることで、かえって衛生面などが不行き届きになりかねないことです。占有スペースといえど、いずれ使用者は入れ替わります。使用者が入れ替わるたびに、ドミトリーの設備が汚れたり傷んだりしていくようでは、長く維持しつづけていくことはできません。設備が汚なかったりすると、ますます扱い方が粗暴になるので、ドミトリーの環境は、相乗的に悪化していってしまいます。かりに個室などの占有領域を多くするにしても、施設の維持管理がきちんと行き届くように、空間の設計や管理のあり方を工夫しなければいけません。どうしても汚れたり、傷んだりしやすい箇所については、使用者が変わったときに、そこだけすぐ交換できるよう、簡易な設計にしておくべきかもしれません。(つづく)
2008.06.02
今日はふたつ同時にアップします。ここまで、いろいろと「共有」(共用)のあり方について書いてきました。繰り返しますが、わたしが考えているのは理論上のドミトリーにすぎません。ここで、ルームシェアの現実について紹介しているサイトがあるので、紹介します。かなり参考になります。フラットシェアリング in Tokyo - ルームシェアのやり方さて、上のサイトの中では、「フィクションの中のルームシェア」のことも紹介されています。映画などに登場するルームシェアの例です。わたしもここで、ドミトリーに関連するような、映画やドラマの例をいくつか挙げてみます。まずは、オダジョー主演の映画『メゾン・ド・ヒミコ』です。これは老人ホームですけど、高級ドミトリーと考えることもできる。みんな引退した人たちばかりなので、職業をもつ人などはいません。みんな気ままに楽しく、しかもかなり贅沢に暮らしています。そこが人生を終える場所でもあります。じつは経営をパトロンに頼っている実情も明かされます。それから、NHKのよるドラ『ルームシェアの女』。子連れのシングルマザーが男性とルームシェアをする話。「10か条」のようなルールを一方的に定めたりして、しょっちゅう喧嘩のたえないルームシェアでした。そして、今放送中の『ラストフレンズ』。5人の男女が楽しく暮らしているシェアハウスですが、親しい間柄だけに、亀裂が入ると深刻な状況を生みます。『ルームシェアの女』と『ラストフレンズ』では、食材費などは別々になっているようで、冷蔵庫の中身が、きっちりと仕切られていました。今のNHKの朝ドラ『瞳』は、東京下町の長屋の生活が舞台になっていますが、濃厚な地域の人間関係がまだ残っている様子が描かれます。同時に、里親制度がテーマのこのドラマでは、児童養護施設の寮も紹介されています。子供たち8名ずつの集団生活で、二人部屋だそうです。また、これはドミトリーでもルームシェアでもないのですが、阿部ちゃんの『結婚できない男』。そして、いま放送中の『猟奇的な彼女』。この両方に共通してるのは、マンションで隣どうしの男女です。マンションという個の空間が、ベランダにおいて開かれていて、しばしば、隣人どうしがベランダごしに話すシーンがあります。いわば、昔の「縁側」みたいな感じです。こうした場所が、人間の関係を描く上で、格好の舞台になっているわけですね。。逆に、このような場所を上手く設定しないと、現代のような社会では、人間関係を描くのも困難なのだと思います。ドミトリーの場合も、個人と個人のあいだを、仕切るでもなく、また繋ぐのでもない、あいまいな空間を上手に活用できれば面白いだろうと思います。(つづく)
2008.06.02
3.時間の共有と占有ここまで、「空間」の共有、また「モノ」の共有について考えてきました。「空間」と「モノ」にかんしては、できるかぎり共有をはかることがメリットにつながると思います。残るは、「時間」の共有です。時間の共有は、もっとも困難です。なぜなら、個々人の自由がもっとも制限されるのは、空間やモノの共有によってではなく、おそらく時間の共有によって、だろうから。既存の寮などでは、起床時間、食事の時間、帰宅時間(門限)、就寝時間などが、きっちり決められているところもあるでしょう。つまり、これらの時間を「共有」することが求められている。でも、これがいちばんキツイと思う。既存の寮の場合は運営上の都合もあるのでしょうし、学生寮や社員寮なら、居住者の生活時間がおよそ同じだから、時間の共有というのも可能なんだろうけれど、職業や生活スタイルの違う人が、同じ時間を共有するのは無理です。一般に、自由を欲する個人にとって、もっとも障害となるのが、このような「時間の共有」ではないか、とわたしは思います。したがって、わたしの考えるドミトリーでは、時間の共有はほぼありえません。時間は個人が占有すべきです。つまり、時間の使い方は、個人の自由であるべきです。現在では、家族生活においてさえ、起床時間や食事の時間を共有しているとは限りません。たとえ食材を共有する生活であっても、個々の食事の時間を別々にするのは、不可能じゃない。この点では、大規模なドミトリーは、より有利です。食堂の担当者がつねに交代で仕事をすれば、メンバーが好きな時間に食事をすることができます。むしろ食事の時間が違うほうが、空間的なメリットも大きい。トイレや浴室にかんしてもそうですが、個々の使用時間が異なるほうが、かえって混雑が少ないわけです。それぞれの生活スタイルが異なれば、起床時間や就寝時間もぜんぜん違ってきます。昼に騒がしく活動する人も、夜にゴソゴソと作業する人もいる。昼に寝る人もいるし、夜に寝る人もいる。互いの生活を妨害することのないように、それぞれの空間をうまく分けないといけないでしょう。こうした意味でも、規模の大きいドミトリーのほうが有利です。時間を共有しないドミトリーでは、同じ時間帯に、それぞれの居住者が別々のことをしています。たとえば、同じ時間にテレビを見るとしても、ある人はNHKを、別の人はフジを見るってことでもある。こうしたことにも配慮した設備・設計でなきゃいけません。それから、わたしの考えているドミトリーでは、ドミトリー内の業務(家事)を行なうのは、メンバー自身です。あとでくわしく書きますが、ドミトリー内の業務をいわゆる「フレックスタイム」にすれば、メンバーは、そこでも自分の生活時間を自由に設計できます。(つづく)
2008.06.01
ここでドミトリーの衛生問題についても触れておきます。空間やモノを共有する生活において、この問題は避けて通れません。たくさんの人が生活する空間では、ウイルスや菌の感染に注意しなくてはなりません。人は、見た目の汚さや他人との接触など、「観念的な衛生」に対しては敏感ですが、目に見えないミクロな部分など、「細菌学的な衛生」に対しては、つい無頓着になりがちです。とくにインフルエンザの時期などには、手洗い、うがいはもちろんのこと、全員にマスクを着用させたほうがいいのかもしれません。ドミトリーの空間が、あまりに人口密度を高くするような設計でもいけません。ドミトリーの人数の設定や、建築をおこなう段階から、このことは考慮しておかなければなりません。集団感染になるようでは、話になりません。お年寄りがいる場合には、いっそうの注意が必要です。死につながる危険もありますから。お年寄りの生活空間については特別の配慮が必要かもしれません。梅雨の時期や夏場は、食中毒にも気をつけねばなりません。感染症の流行している期間は、パーティーなどのイベントも控えるべきでしょう。また、罹患した人は、治るまで特定の場所にいてもらうなど、可能なかぎりのリスク回避をはかるべきかもしれません。(つづく)
2008.05.31
「モノ」の共有についてあれこれ取り上げましたが、最後は、食材の共有について考えます。現実のルームシェアなどでは、食材を共有しているケースは少ないかもしれません。食材を共有するということは、必然的に、みんなが同じメニューを食べる、という前提です。おのおの好きなものを食べる、という生活にはならない。また、料理の問題もあります。みんなが料理上手ならいいけれど、そうとはかぎらない。結果的には、特定の人ばかりが「料理担当者」になりかねない。そんなわけで、少人数のドミトリーの場合、食材の共有は意外と困難なのでしょう。逆に、人数の多いドミトリーを想定すると、かえって食材は共有のほうがいいと思う。もちろん食材費のコスト削減にもなるし、食材を残さず使い切ることも、やりやすくなる。キッチンの共用という点からいっても、まとめて作ったほうがいい。ひとつのキッチンを大勢の人間が交替で使うのは無理があります。調理道具はもちろん、調味料などにかんしても、むしろ共有して使うのが自然であって、個々人ごとに分けていたら、かなり面倒臭いし無駄も多い。わたしは、ドミトリーの中での業務をみんなで分担しあい、それを地域通貨などの媒体で交換する、と想定しています。そのかぎりでなら、料理のできる何人かの同じメンバーが、つねにキッチンを任せられがちになったとしても、とくに不公平ということにはなりません。食材費を共有すれば、みんなが同じメニューを食べなければなりませんが、おいしい食事ならば不満は少ないだろうし、かえって、個々人で毎日の献立を考える手間も省けます。健康的にみても、共通のメニューをみんなで食べるほうが、バランスが崩れにくいと思う。ただし、全員分をいっぺんに料理するのですから、外食で済ませたい人には、事前に知らせてもらわなければなりません。食事にかんしては、「時間」の共有という問題もあります。これについては後で述べます。(つづく)
2008.05.30
今日はテレビやパソコンの共有(共用)について考えます。「一人でゆっくりとテレビが見たい」という人、つまり、テレビを見る「空間」を占有したいと考える人は、自分だけの個室が必要になると思いますが、「モノ」としてのテレビの共有には、ほとんど抵抗はないと思います。大規模なドミトリーであれば、数人がゆったりと座って見れるような大きさのテレビブースを、ドミトリーの中にいくつか配置して、それぞれのブースで、それぞれのチャンネルを楽しめばいい。パソコンは共用できるでしょうか。パソコンの設定を自分の好きなように変えたり、本体に自分のファイルをいっぱいため込んだり、パソコンの中が自分だけの世界になってしまってる人は、他人と共用するのは難しいのかもしれません。でも、そうでなければ、たいていは大丈夫だろうと思います。ファイルだって、本体の外に保管すればいいわけですから。しかし、わたし自身は、というと、ちょっとパソコンの共用には抵抗があります。それは、設定とかファイルとかの問題じゃありません。本体やディスプレイの共用には問題はありません。むしろ、抵抗があるのは、マウスとキーボードです。触るのが、ちょっと嫌。以下、余談になりますが。世の中には「電車の吊革にも触れない」という人がいます。そういう人は、一般に“潔癖”と呼ばれるかもしれません。わたし自身は、自分が潔癖症だとは思わないんだけど、でも、そういう人の感覚が、すこしは分かる気がする。マウスやキーボードの表面が、もし木製コーティングで出来ていたなら、なんの問題もないと思うのですが、プラスチックというのは、一種異様な感触があります。プラスチックは、湿度も温度も吸収しない。自分もふくめ、色んな人が触ると、だんだん油が浮いてきます。ネットカフェあたりのキーボードやマウスは、かなりベトっとした感触があります。なので、わたし自身は、パソコンの共同使用がちょっと苦手です。まあ、自分のパソコンだって、だんだんベタついてくるわけですが。わたしの場合は、マウスにはハンカチをのせて使ってます。キーボードには医療用のネットを被せています。(←これ裏技)市販のキーボードカバーは、まだ使ってみたことがありません。パソコンメーカーの方々、そして素材メーカーの方々には、「プラスチックの手触り(手障り)」について案じてもらいたいです。プラスチックというのは、温感も質感もない不気味な感触がします。(つづく)
2008.05.29
「モノ」の共有について考えていますが、ここでちょっと、おことわりすることがあります。◇ここまで「共有」とか「占有」とかいう言葉を使ってきましたが、厳密にいうと、これはちょっと不正確です。通常、ドミトリーやその設備の所有者は、そこに住むメンバーではありません。なので、ドミトリーのメンバーは、その設備を「所有」しているのではなく、一時的に借りて使用しているだけ、というのが普通だと思います。なので正確にいうと、これは「共有」というより、「共用」にすぎません。前に「10人の人が3台のテレビを買ったら」という例も挙げましたが、これも、実際にそういうことがあるわけではありません。これはドミトリーのコスト的意義を考えるための比喩であって、通常は、すでにドミトリーに備えてあるテレビを使用するだけです。念のため、おことわりします。◇さて、今日は洗濯機の共有(共用)について考えます。世の中には「コインランドリー」というものがあります。他人と同じ洗濯機を、さほどの抵抗を感じずに使っているわけです。同じ洗濯機を使う、といっても、他人のものと一緒に洗うわけではありませんから、さほど問題は無いのかもしれません。けれど、かくいうわたし自身は、やっぱりちょっと抵抗があります。正直、わたしはあまりコインランドリーを使う気にはなれません。もしかしたら、そういう人もいるかもしれません。とはいっても、ドミトリーの中で個々人が別々の洗濯機を使用するというのも、いかにも無駄な感じがするのも確かです。たとえば、下着とかタオルとか枕カバーとか、小さな洗濯物は、各々が自分で手洗いすることにして、シーツとか洋服とか、大きなものは共同の洗濯機を使用すればよいのかもしれません。最近は「ミニ洗濯機」や「電気バケツ」なんてものもあるんですね。各メンバーがこういうものを所持すればいいのかもしれません。また、物干しの場所も、屋外の共有スペースだけでは問題がある。個室がない場合には、メンバー占有のロッカーやクローゼットのある場所に、下着などを干せるような小さな空間を確保すべきです。他人に見られないような仕切りがいるかもしれませんが、男女で分けられているのなら、気にならないかもしれません。屋内なので、タイマー式の人工風があったらいいですね。(つづく)
2008.05.28
トイレ、浴室、ベッドなどは、わざわざ共同使用にせずに、個室でもいいかもしれません。とはいえ、いちおうベッドの共有についても考えてみます。ベッド自体はさほど問題ないですが、布団、シーツなどは、直接肌に触れるものですから、他人と共有することには抵抗があるかもしれません。わたしたちは、ホテルや旅館などの布団やシーツを普通に使用しますので、清潔でさえあれば、これらを共有するのも不可能ではないけれど、かりにそれらを個人専用にしても、さほどコスト的な差はなさそうです。むしろベッドのことを考える場合には、布団やシーツなどの「モノ」の共有よりも、やはり「空間」の共有、そして「時間」の共有のほうが問題になる。同じ空間で、複数の人が、落ち着いて眠れるようにするには、空間の設計にも色々な工夫が必要だと思います。いわゆる「ザコ寝」でも毎日平気で眠れる人はいいですが、なるべくすべての人が快適な眠りを実現できるように、可能なかぎりの配慮をした環境にしたいものです。天井や足元の照明、壁や床の遮音や吸音、隣のベッドとの間を仕切るためのパーテーションやカーテン、かりに個室じゃなくとも、意外にちょっとした工夫で、眠りの空間は作れるのかもしれません。居酒屋やレストランなどでもそうですが、たとえ、たくさんの人が集う場所であっても、それらの境界を、むやみに、完全に遮断してしまうのではなく、ちょっとしたパーテーション等でゆるやかに仕切ったり、照明などに少しの工夫を加えたりすることで、案外、リラックスした個人の空間を作ることができるものです。こうした発想は、就寝スペースのみならず、おそらくは、ドミトリーの空間設計全体に応用できます。ちょうど、「占有」と「共有」のあわいのような空間です。隣の人を見ようとすれば見えるし、話かけようとすれば話もできるけれど、でも、なんとなく、境界が仕切られている感じ。いちおう「占有」ではあるけれど、どことなく「共有」でもあるような、その曖昧さが、かえって開放的で、気楽で心地のよい空間です。たとえば、古い日本の家屋でも、内と外を曖昧につなぐ「縁側」のような構造が、たくみに取り入れられていたのだ、ともいわれていますね。・・さて、しかし、就寝スペースの場合、「空間」のみならず、「時間」の共有という問題もあります。つまり、すべてのメンバーが「寝起きの時間」を同じくするわけではない、という問題です。極端にいえば、昼の仕事をする人と、夜の仕事をする人、それらの人が同居する場合は、同じ空間で寝起きするのが困難です。すくなくとも、夜就寝のグループと、昼就寝のグループくらいは場所を分けないと、掃除する時間も確保できなくなってしまう。たとえ同じ就寝スペースを共有する場合でも、多少の時間のずれは気にならないような空間を設計しないといけません。(つづく)
2008.05.27
トイレ、浴室、そしてベッドについて、「他人との共有ができるか」を考えているのですが、ちょっとここで立ち止まってみます。それらを「共有」することにこだわっていますけれど、コスト的な観点からいうと、それほど、こだわることでもないかもしれません。わたしは先日、一泊だけ病院に入院する機会がありました。そこには約40ほどの個室がずら~っと並んでいて、ひとつの部屋には、およそ6畳ぐらいのスペースの中に、ベッド、バス、トイレがぜんぶ簡潔に納まっていました。一応テレビも付いていましたが、まさに「寝るだけ」という、きわめて簡素で、狭い作り。でも、清潔だったし、意外とそれで快適だったのです。わたしは建築のことなどはよくわかりませんが、あくまで簡素なつくりの個室であればトイレ、浴室、ベッドなどを個室ごとに配置するのも、それらを一つの大きなスペースにまとめるとのも、コスト的な面では、さほど大きな差はないかもしれません。ドミトリーとはいえ、わざわざトイレや浴室やベッドを、共同使用にする必要はないのかもしれません。高級志向のドミトリーにする場合でも、個室ごとに配置するのと、共同スペースにまとめるのと、コスト的な差がどうなるか、実際のところは分からない。かりにトイレ、浴室、ベッドなどが共有でなくとも、ドミトリーの生活には、他の面でもコスト的な意義が充分ある。食材費や光熱費、さまざまな設備、また、そもそも土地や建造物を共有するだけで、ドミトリーには意味がありますから、それほどトイレや浴室の共有に固執することもありません。現代人の嗜好を考えれば、やはり個室を基本に考えるべきなのかもしれません。ただし、前にも書きましたが、個室のような、自分だけのスペースというのは、使用する本人の管理にまかされることになるわけですから、それゆえに、場合によっては、管理が不十分になったり、人によっては、きわめて不潔なことになったりもしかねません。こうしたことは、使用する当人だけでなく、けっきょくはドミトリー全体の生活環境にも影響します。また、その人の使っている場所は、あとで別の人によって使用されることになるかもしれない。たとえ今現在は自分だけが占有するスペースであっても、それらを清潔に使用し、管理することは、ドミトリーにおいて重要な義務です。一定の標準的な使用のしかた、管理のしかたも、ドミトリーのメンバーが共有すべき重要なスキルでなくてはなりません。(つづく)
2008.05.26
昨日は、トイレの共有について考えました。トイレの場合、「清潔で落ち着ける空間」という大原則さえ守れば、たいていの人は、トイレの共有に抵抗を感じないだろうと思う。今度は、お風呂について考えます。お風呂についても、トイレと同じようなことがいえる。日本人は温泉が好きです。だから、他の人と同じお湯につかるのも、いたって普通のことです。まあ、プールだって同じことです。もちろん、お風呂の広さとか、お湯の量とかにもよると思うけれど。小さな浴槽を他人と共有するのは、ちょっと抵抗があると思う。けれど、お風呂の場合もトイレと同様に、まずは「落ち着ける空間」かどうかが問題なんだと思う。銭湯などで他人と同じお湯に入るのは構わないとしても、あまりにも沢山の人がいるような場所では、なかなか落ち着いてお風呂につかる気になれないものです。体をチャッチャと洗うだけなら構わないけれど、湯ぶねには、落ち着いた気分で浸りたいってのが大きいと思う。ドミトリーの場合、シャワールームなら共同の空間でもかまわないんじゃないかと思える。体をチャッチャと洗うだけなら、さほど問題ない。着替える場所やシャワーの場所がすこし仕切られていれば、隣に他の人がいても、さほど問題ないように思います。もちろん、清潔な空間であることが絶対の条件ではありますが。体を洗うだけでいい人なら、それで事足りてしまう(笑)。実際、沖縄なんかだと、シャワーしかない家庭も多いらしいです。暖かい地域では、「湯ぶね」は必要不可欠ではないんですね。まあ気候の問題や、習慣の問題もありますが。毎日ちゃんと湯ぶねに浸かってリラックスしないといられない人は、浴槽つきの個室が必要ですね。もちろん、共同浴場に大きなお風呂をひとつ置いてもいいですが、ドミトリーの施設内の温度を暖かくしておけば、意外にシャワーだけでも充分なんじゃないでしょうか?ただし、シャワーというものは、じつは、浴槽に浸かるよりもお湯の無駄遣いになりやすい、とも言われています。資源の節約という点では、かえって注意が必要かもしれません。少々ケチ臭い話をすると、シャワーを出しっぱなしにせずに、いちど湯桶に溜めて、そのお湯で体を洗うのがいちばん経済的ですね。それから、昨日もちょっと書きましたが、「お風呂の腰掛け」は、やや不衛生な気もします。どうなんでしょう?シャワーは立って浴びる形のほうがいいような気がする‥。すくなくとも、ドミトリーのような場所では、感染症などの要因は完全に排除しなければなりません。また、湯桶やバスタオルも共有することには抵抗があるでしょうから、これらは個々人の占有物にする必要があるのかもしれません。明日は、ベッドその他の共有について考えます。(つづく)
2008.05.25
2.モノの共有と占有昨日はドミトリーにおける「空間」の共有を考えましたが、こんどは、「モノ」の共有という視点から見てみます。「どんなモノなら他人と共有できるか」というのは、もちろん、人それぞれで、感じ方や考え方は違います。たとえば「衣服」を共有するのは、かなり困難です。下着にいたっては、まず無理です。そもそも、サイズも違うし。けれど、女の子同士で洋服を共有し合うのは、有り得ないことではありません。あるいは、貸衣装のように、ドミトリーで礼服などを共有しあうのも、有り得るかもしれません。とはいえ、モノを「共有」する場合に、多くの人が抵抗を感じるのは、やはり、「肌に直接触れるモノ」の共有にかんしてだろうと思います。実際、トイレを共同使用することが「何となくイヤだ」と感じる人は多いわけです。しかしながら、わたしたちは日常生活の中で、意外なくらいに「肌に直接触れるモノ」を、不特定多数の人と共有しています。紙幣や硬貨にもさわります。電車の吊革にもさわります。食堂やレストランでは、食器やスプーンに口をつけます。職場やデパートのトイレでは、便座にも腰かけます。ホテルに泊まれば、部屋にあるほとんど全てのモノが、どこかのだれかが使ったものばかりです。もちろん、それらはすべて「衛生的だ」ということが前提ですが、意外なくらい、わたしたちは、さほどの抵抗を感じず、他の人と色々なモノを共有できています。「衛生」については、また論じる機会をもうけたいのですが、とりあえず、観念的な意味での「衛生」と、細菌学的な意味での「衛生」とは、分けて考えなければなりません。◇もういちど、トイレについて考えてみましょう。トイレを共同使用するということは、「空間の共有」でもあり、便器という「モノの共有」でもあります。これを分けて考えてみたいと思います。家から一歩も外に出ないような人は別ですが、たいていの人は、職場やデパートのトイレを、日常的に使用します。つまり、個人差はあると思いますが、清潔でさえあれば、「モノ」としての便器の共有には、さほどの抵抗は感じていません。むしろ抵抗があるのは、「空間の共有」のほうではないでしょうか。つまり、「家のトイレじゃないと落ち着いて出来ない」という人は多い。それは、便器という「モノ」に対して抵抗があるから、というより、トイレの「空間」に対して落ち着けない雰囲気を感じるから、だと思う。わたしは、「落ち着ける空間」というものの設計に配慮し、それを清潔に使用し、保つための仕組みがきちんと出来ていれば、たいていの人は、トイレの共有に対して抵抗を感じることはないと考えています。ま、慣れの問題もあるだろうけどw細菌学的にみても、便器の共同使用はそれほど問題にならない気がするし、むしろ細菌学的に見れば、銭湯などで使う「腰掛け」のほうが問題がありそうな気がしてしまいます。まあ、それもどうでもいいんですけどwなんなら、便器はそのままで、「便座」だけを取り替えられるようなシステムがあったらいいんですが。次は、浴槽、洗濯機、ベッドなどの共有を考えます。(つづく)
2008.05.24
わたしの考えるドミトリーは、他人との「共生」をする場であると同時に、個々人の「自由」をも追求できるような場です。他人との「共生」、個人の「自由」。そのの両立をはかるというのは、言い換えると、ドミトリーの中で「共有」と「占有」とのバランスをとる、ということです。その線引きをどこでどのようにするのか、が大事な問題です。おおざっぱに、以下の3つの視点で考えることができます。1.空間の共有と占有2.モノの共有と占有3.時間の共有と占有これらを、順番に考えてみたいと思います。1.空間の共有と占有ドミトリーで、おもに「共有か占有か」が問題になる場所は、◎食事スペース(食堂)◎リビングスペース〈居間〉◎トイレ◎お風呂◎就寝スペース〈寝室〉といったところだろうと思います。「どの空間ならば他人と共有できるか」というのは、その人のものの感じ方、考え方、嗜好などによって違うでしょう。たとえば、50人もいるような大規模なドミトリーと、せいぜい5~6人ほどの小規模なドミトリーとでは、空間のエコノミーをどのように配分するかも、おのずと違うでしょうけれど、とくに、トイレやお風呂、寝室などについては、あとでまた、色々と考えてみたいと思います。とはいえ、上記した5つの場所のすべてを「共有」にすることも、けっして不可能なことではありません。つまり、食堂や居間はもちろん、トイレも、お風呂も、就寝場所も「共同使用」ってことです。いいかえれば「個室」が無いってことです。その場合、個々人が占有する空間は、せいぜいロッカーやクローゼット、もしくは物置だけです。「食事くらいは他人と一緒でもいいけれど、 やはりトイレ、お風呂、寝室は、どうしても自分だけの場所がいい。 テレビを見るのも、仕事をするのも、やっぱり個室のほうがいい」と考える人の場合は、やはり個室のあるドミトリーが必要です。「個室」があれば、自由の領域、プライバシーの領域は増えます。ただし、同時にそこは、自分個人が負担をし、管理をする空間でもあります。「共有の空間」では、メンバーが共同で負担をし、掃除やメンテナンスといった管理も分担なので、個々人にかかる家事負担、経済的負担は、そのぶん分散・軽減できます。けれども、「個室」では、そのようなメリットを得られないわけです。昨日も書いたように、個室をもつ人と、個室をもたない人が、共存するようなドミトリーも、ありうるだろうと思います。(つづく)
2008.05.23
わたしは、「ドミトリーの生活コストは、メンバーが等しく負担する」というふうには、かならずしも思っていません。たとえば、高いお金を支払えるメンバーには、特別な個室などを設えて、基本的なドミトリーのサービスは他のメンバーと共有しながらも、同時に、よりグレードの高い生活をしてもらっても構わないわけです。また、わたしは前に、次のようにも書きました。ニートの人たちには、ドミトリー内の家事業務全般に従事してもらう。正規の職業を持っている人たちは、家事に従事する割合いが少ない分、他のメンバーよりも多く現金を納めてもらう・・・そして、ドミトリーへの様々な貢献のしかたを、たとえば地域通貨のような共通の価値媒体を使って対等に「交換」するつまり、この場合は、かりにすべてのメンバーが同じ程度の生活をする場合でも、ドミトリーに対して、より多くの現金を納めるメンバーがいる一方、ほとんど現金を支払わないメンバーもいる、ということです。ここでは「ニート」や「正社員」といった書き方をしましたが、もちろん、これはひとつのイメージにすぎません。もっと一般的な言い方にすると、ドミトリー内の業務(家事)に専従する人たち、つまり、ドミトリーのサービスを「提供する側」に立つ人たちを、スタッフメンバーとみなすことができます。他方で、現金を納めてサービスを「受ける側」の人たちのことを、一般メンバーだと考えることができる。ただし、実際は、このような区分はもっとフレキシブルでも構いません。ときには一般メンバーの人が家事を手伝って、地域通貨(ドミトリー・ポイント)を獲得しても構わないし、はじめから、外での職業とドミトリーの仕事を兼務する人がいてもいい。あるいは、ドミトリーの財政状況などによっては、本来、スタッフメンバーである人たちも、アルバイトなどをして、何らかの現金収入を得なければならないかもしれません。(つづく)
2008.05.22
現在の先進国において、一人の人間の生活にかかっているコストは過大です。たとえば、1人につき1つ以上のの部屋がある。また、1人につき1台ずつのパソコンやテレビ、冷蔵庫や自動車もある‥。場合によっては、トイレやお風呂も、1人1つずつです。これは個々の家計にとっても大きな負担ですが、同時に地球の環境にとっても、巨大な負荷になっています。先進国のみならず、もし全人類がこんなふうに資源を使ったら、地球は、完全にパンクしてしまうだろうと思います。大量生産、大量消費、大量廃棄。この悪循環から逃れるためにも、現在の先進国の人々が、個々人ごとに消費している資源のいくつかを、可能な範囲で(いいかえれば、個人の生活の質を下げない範囲で)、共有できるものを共有すればよいのだと思います。たとえば10人の人間が、ひとつの空間で一緒に生活するとします。そこに10台のテレビは、さすがに必要ないだろうと思います。せいぜい3~4台のテレビがあれば、事足りるのではないでしょうか。ためしに、二通りの考えかたをしてみます。10人のお金で3台のテレビを購入するならば、コストは、一人あたり、それまでの約3分の1で済むことになります。逆に、コストを抑えずに、同じ金額を投入するならば、今までよりも、3倍ほど高価で、高品質なテレビが買えることになる。もしかすると、安い電化製品を購入するよりは、地球環境に配慮された、やや高価で高性能な電化製品を買うほうが、地球への負荷も低いのかもしれません。つまり、ドミトリーのような生活においては、生活コストの抑制を目指すこともできるし、反対に、高級志向の生活を目指すこともできるわけです。わたしは、どちらの考え方もあっていいと思います。(つづく)
2008.05.22
ドミトリーは、かつての共同体の機能を、部分的に回復するものかもしれないと、わたしは思っています。その最大の利点は、前述したとおり、ライフ・スキルの伝達や共有ということにあると思います。ここで考えなければならないことがあります一般に「共同体」と「個人」は対立概念であると見られています。血縁や地縁、宗教や政治信条で結ばれた既存の共同体には、様々なしがらみがあり、それは、個人の自由や発展を制限する側面をもっています。会社にも、そういう側面があると思います。かりにドミトリーがかつての共同体の機能を回復するとしても、それが個人の尊厳や自由な発展を阻害するのでは好ましくありません。だいいち、現代社会に生きる人々のほとんどは、古いタイプの、縛りやしがらみの多い共同体の回復を望まないだろうと思います。したがって、現代人の要求に応えるドミトリーを作るとすれば、その主体は、あくまでも「個人」でなければいけません。前にも書いたとおり、、ドミトリーのような生活スタイルを考える上で、「プライバシー」の概念をあらためて問い直すことは必要不可欠です。何もかもを個人が占有することが本人にとっての幸福であるとは限らず、むしろ他人との共有によって得られる効用や幸福があると思うからです。しかしながら、ドミトリーによって個人の自由が制限されるということはありません。というより、ドミトリーの目的が、個人性の否定であってはなりません。もちろん現実には、ドミトリーの運営上、メンバーに課せられる様々なルールや禁止事項があるはずです。しかし、それはべつにドミトリーの生活に限ったことではありません。社会生活を営む以上、どこにでもルールや制限事項はあります。わたしが言いたいのは、たとえドミトリーが外見的には「集団生活」のように思えたとしても、「集団生活である以上は、多少の我慢ぐらい必要なんだ」というような精神論、あるいは美徳意識は、べつに必要ないということです。むしろ、そうした発想を排除したところで、新しいドミトリーの生活形態を考えてみたい、と思っています。つまり、ドミトリーの中でさえ、個人の自由は、可能なかぎり、最大限に追求されるべきです。◇そのためにもっとも重要なことは、当たり前かもしれませんが、ドミトリーは、入退が自由だということです。社会のなかに複数のドミトリーがあるのならば、そこから自分に適したものを選択するのも自由です。もちろん、入退にも一定のルールはあるはずです。とくに、ドミトリーの経営や運営が、メンバー同士の対等な交換によって成り立っている場合は、それを等価な状態にしてからでなければ退去できないでしょう。つぎに大事なのが、ドミトリーの設計やシステムのあり方です。現代社会のテクノロジーや利便性を有効に活用すること。また、建築する段階から、占有空間と共有空間について工夫を凝らすこと。さらに、運営上のシステムやルール作りを巧みに構築することで、可能なかぎり、個人の生活上の嗜好や快適性を、最大限に追求できるような場として、ドミトリーを考えることです。(つづく)
2008.05.21
現実に存在しているドミトリーとして、学生寮、社員寮、母子寮などといったものがあります。ドミトリーの生活にふさわしい人たちとして考えられるのは、ニート、フリーター、シングルペアレントとその子供たち、そして老人など、収入が少なく、社会のシステムからはじき出され、低コストな生活を余儀なくされている人たちが挙げられるかもしれません。けれども、わたしが考えているドミトリーは、かならずしも福祉施設のようなものではありません。特定の種類の人々を社会から機能的に分離するという発想は、貧困です。実際、福祉施設として設置されるタイプの寮は、かえって社会から排除された人々の吹き溜まりのようになりかねない。わたしは、ドミトリーのような生活環境を望む人たちが、いわゆる社会的弱者のような人たちである、との想定はしていません。たとえば、正規の社員として企業に勤めている人たちの中に、あるいは、家族とともに暮らしている人たちのなかにさえ、「家事負担を減らしたい」「生活コストを軽減させたい」「それによって余暇の時間を増やしたい」と思っている人がいるかもしれない。他方で、生活の孤独や不安を解消したいと思っている人もいるかもしれない。高度にプライバシーを追求しすぎた果ての寂しい人生よりも、色々な人たちと人生を分かち合う気ままな生活を望む人もいるかもしれません。わたしが考えているのは、公費によって運営される社会福祉施設ではありません。だから、もともと、収入の無い人ばかり集まっても、ドミトリーは経営的に成立しない。さまざまな形で、メンバーから運営資金が集められなければ成り立ちません。収入のある人たちが、メンバーの中に含まれていなければいけません。さまざまの立場や世代の人が、それぞれの形でドミトリーに参加してもらう。たとえば、ニートの人たちには、ドミトリー内の家事業務全般に従事してもらう。シングル・ペアレントの人たちは、子育てや家事をドミトリー内で分担することで、余った時間をパート労働などに当て、その賃金の一部を納めてもらう。老人にも子育てや家事を手伝ってもらい、また、年金の一部をも納めてもらう。正規の職業を持っている人たちは、家事に従事する割合いが少ない分、他のメンバーよりも多く現金を納めてもらう。そして、ドミトリーへの様々な貢献のしかたを、たとえば地域通貨のような共通の価値媒体を使って対等に「交換」するということです。もっとも簡単なやり方は、ドミトリー内の家事業務をこなしたり、現金を納めたりするたびに、メンバーに「ドミトリー・ポイント」のようなものを加算する、という方法です。その場合、期間内に一定以上のポイントを獲得しないと、ドミトリーに居住し続けることができない、ということになります。何度もくりかえしますが、わたしがここで書いている「ドミトリー」というのは、理論上のものです。だから、現実にはほとんど存在しないものだと思います。「学生寮」や「母子寮」といった具体的な例を出すと、あたかも、自由やプライバシーを制限され、快適さの追求を断念させられた、質素で、窮屈な生活環境をイメージする人もいるかもしれません。しかし、それは既存の「寮」のイメージから得た固定観念にすぎません。わたしの考えているドミトリーは、そういうものとは関係ありません。(つづく)
2008.05.20
今日は、ドミトリーの利点を挙げてみます。繰り返しになりますが、私がここで述べる「ドミトリー」は、あくまでも理論上のものなので、現実にはまだ存在していないかもしれません。さて、ドミトリーの利点ですが、それは、大きくいって次の3点があります。1.コストの軽減 これは、個人の生活コストの軽減という意味ももちろんありますが、 それ以上に、地球環境にかかるコストの軽減という意味でもあります。 もしも、先進国の大部分の人々がドミトリーのような生活形態に移行したら、 地球環境にかかる負荷は、現在の数分の一にまで減るのではないかとさえ 思います。2.ライフ・スキルの伝達と共有 ドミトリーのなかで身につけることになる様々なライフ・スキルは、 個人にとって、生活のための能力であると同時に、 経済社会で生きるための基礎的な能力にもなります。 こうしたスキルの伝達や共有は、 従来なら、家族や地域共同体によって担われてきた機能です。 3.精神的な影響 複数の人間が一緒に生活することの精神的な影響は、色んな点であると思う。 現代の人々は、自由で豊かだけれど、そのぶん孤独ゆえの不安も多い。 精神的な闇がそのライフスタイルに由来するところも多いと思うから。それぞれの点について、これから詳しく書いていきますが、読んで下さっている方は、これらの点について自由に考えをめぐらせてみてください。ドミトリーのような生活形態は、いろんな点で人間のあり方を変えるかもしれません。一方で、考えなければならない問題もあります。ドミトリーとはいえ、個人の尊厳や自由は守られなければなりません。それらを制限したり踏みにじるようなものであってはなりません。とはいえ、現代において極端な形で追求されてきた「プライバシー」の概念については、あらためて定義し直すことも必要だと思います。何もかもすべてを個人が「占有」することによって、その人が幸福になるとはかぎらない。私にはそう思えます。だから、自分で「占有」する領域と、他の人たちと「共有」する領域とについて、より洗練された線引きや空間設計がなされなきゃいけないってことです。ちなみに、こうしたドミトリーは、もちろん自然発生的に生まれてくるものでもいいんですが、たとえば民間の企業や組織が運営するものであってもいいし、あるいは公的な機関が運営するものであってもいいと思います。(つづく)
2008.05.19
以前、ここで少子化問題のことを書いたときに、「ドミトリー」のことを話題にしかけて、連載しますと言いながら、それっきりにしていました。2005年の10月4日ですから、↓じつに、もう2年以上も前になります。( ̄ロ ̄;)http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200510040000/地球の環境や資源の問題。日本の貧困問題。これは、もうのっぴきならないところまできています。高齢者を見殺しにするほど、日本の社会保障制度はどん詰まりです。食べ物は余るくらい沢山あるというのに、なぜか飢える人が出てくるのは、社会システムが、今もまだ洗練されたものになっていないからです。若者の4人にひとりが本気で自殺しようと思ったことがある、という内閣府の調査結果。人間が、人間の価値や存在理由を、「商品価値」でしか測れなくなっている。価値のない人間は、自分であれ他人であれ、死ぬ以外なくなってしまう。物事を商品価値で測ることが当然だと信じる人は、確実に増えてきてるし、それ以外の価値観に対する感受性が、悲劇的なくらいに衰えています。こんなふうに、資本主義社会の負の側面がキワだって目立ってきてる。そうした観点も視野に入れて、もういちど、「ドミトリー」の話題をもち直そうと思います。◇「ドミトリー」といっても、人によっては、学生寮や独身寮のようなものをイメージしたり、あるいは、素泊まりの安宿みたいなものをイメージしたり、小規模なシェアハウスみたいなものを考える人もいるだろうと思いますが、私がここでいう「ドミトリー」は、あくまで理論上のものなので、特定のイメージでとらえてもらう必要はありません。どんなものでもいい。とにかくそれは、複数の個人が、協働/共生するような空間のことです。そしてそれは、高度で快適なライフスタイルを手に入れた現代人の生活空間です。ちなみに、「協働」と書きましたが、それはべつに、貨幣経済の利益追求活動をともに行なうということじゃなく、生活のための仕事(いわゆる家事)を部分的に負担しあう、というだけの意味です。わたしは、先進国の人々の中から、こうした生活形態に徐々に移行する人たちが増えるべきだろうと思っています。(つづく)
2008.05.18
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