まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2020.07.06
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あらためて「逃げ恥」を見直してみると、


森山みくりも、深海晶も、
何でも出来て、器用なぶんだけ、
かえって酷使されてしまって、
まったく正当な対価を得られないキャラですよね。

状況を改善しようとして意見をいえば、
かえって「小賢しい」といわれて周囲から敬遠される。

「けもなれ」のあとで「逃げ恥」を見直すと、


唯一、津崎だけが、
自分の主張を受け入れて、
労働の価値にも正当な報酬を与えてくれたのですね。

しかし、ある意味で、津崎の謙虚さというのは、
その自尊感情の低さと無縁ではありませんでした。

「逃げ恥」の続編も企画されているらしいのですが、
いったいどんな内容になるのか気になるところです。



「逃げ恥」というドラマは、
当時、フェミニズムの分野でさかんに論じられました。
"家事労働の対価"という問題が、


しかし、
フェミニズムの枠組みで論じることができたのは、
あくまでドラマの前半部分だけです。
ドラマの終盤になると、
従来のフェミニズムの枠組みでは扱えなくなります。



ひとつは、
津崎が終盤で「失業」してしまうからです。
家事労働への正当な対価が支払えなくなってしまった。

そもそも、
家事労働についての等価交換が成立するためには、
それに見合うだけの十分な世帯収入が必要なのです。
世帯収入そのものが不足すれば、
どうしたって家事労働は搾取にならざるを得ません。
ここに人権上の問題が生じます。

いくら少子高齢化が深刻だからといっても、
家庭内のブラック労働の実態を放置したままで、
むやみやたらと若い世代に結婚や出産を奨励することは、
それじたいがDVという名のパワハラ・セクハラを助長しかねない。
みくりの言う「愛情の搾取」というのは、
厳密にいえば、愛情を利用した「労働の搾取」のことです。

ふたつめは、
物語の終盤で「愛」の等価交換がテーマになるからです。

そもそも愛というのは計量できませんから、
労働とは違って等価交換が成り立たないのです。
等価で交換しようとすればするほど、自分だけ搾取されている気分になる。
愛についての不足感は、結局のところ交換では補えません。



「逃げ恥」の終盤では、
交換ではなく、むしろ贈与がテーマになっていると言えます。

世帯収入の少ない家庭で、
家事労働への正当な対価を実現していくためには、
何らかの贈与(社会保障)が必要になります。
それは再分配や社会インフラであり、
あるいは科学革命や技術革新による文明の贈与です。

それがなければ結婚はおろか同棲すらも成立しない。
まして出産や子育てなどありえません。

愛について考えるためにも、
交換という枠組みではなく、贈与という観点が必要になるはずです。

こうした問題を、
はたしてドラマの物語のなかで扱うことはできるでしょうか?





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最終更新日  2020.07.06 14:44:24


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