まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2023.07.25
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カテゴリ: NHK大河ドラマ
NHK大河、
どうする家康「本能寺の変」を見ました。

ジャニーズが崩壊しようとしている今、
信長と家康の《BL的な愛憎関係》に焦点をあて、
ある種の「父殺し」みたいな話に仕立てたところは、

なにやら予言的な脚本だったといえます…(笑)。

松潤の 「信長!信長!」 という心の叫びを、
思わず 「喜多川!喜多川!」
わたしだけだったでしょうか??

きっとデヴィ夫人なら、
こうした父殺しを「非礼極まる」と切り捨てるだろうけど、

わたしは、
父殺しの葛藤のなかで泣き叫ぶ松潤の姿に、
痛切な共感を禁じ得なかったのです。



…てなわけで、
いろんな意味で面白い脚本だったのだけど、

案の定、ヤフコメなどを見ると批判の嵐!
嵐だけに!


資料的な反論がまったく見当たらない。

あのさあ…
そんなに歴史通ぶって批判をするなら、
もうちょっと資料的な反論をしてみたら?
と思うのだけど、何故それが出来ないのかしら。


じゃあ、お前は史実を知ってるんか!
…って話ですよねw



かたや、
≫ 一昨年の 『麒麟がくる』のイメージが台無し!
と嘆いていた人たちもいるらしい。

しかし、
一般の学説にしたがえば、
信長が享年49才だったのに対して、
光秀は70才前後と比定するのが普通なのだから、

長谷川博己みたいに、
若くてハンサムな光秀をイメージするほうが、
よっぽど通説に反しているのです。

「明智光秀=金柑頭」説。

寛永年間(1624-1645年)の成立と推測される『当代記』の享年67歳説が、成立時期や史料の性格から最も信が置けるとみられるが、断定はできない。『明智軍記』では没年が天正10年6月14日(1582年7月3日)の享年55。『武家聞伝記』では享年70。
一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している。この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

本能寺の変は、
70才前後の光秀の年齢から考えれば、
「老人が小賢しい私怨から企てた謀反」と考えるのが自然。
さもなくば、
光秀はたんに悪役に仕立てられただけで、
「他にだれか別の黒幕がいる」と考えるべきでしょう。



さらにひどいのは、この期に及んで、

> 家康が信長を恨む理由などありません!!

と主張しているエセ歴史家が見受けられること。

しかし、
それは自分の仮説の上にまた自分の仮説を重ねているだけ。

たとえ妻と息子を殺したのが誰であろうと、
「家康黒幕説」 そのものは昔から存在しているし、
家康が信長を討とうとした可能性を考えるのは、
むしろ普通のことなのです。

ちなみに、Wikipediaには、
以下の6種類の「家康黒幕説」が紹介されてます。


●光秀・家康共謀説
●光秀・秀吉・家康共謀説(土岐明智家滅亡阻止説)
●近衛前久・徳川家康黒幕説
●堺商人・徳川家康黒幕説
●徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89



もうひとつの学説として見逃せないのは、
いわゆる 「信長黒幕説」 です。
本能寺の変が起こったのは6月2日です。この運命の一日、信長による徳川家康暗殺の決行日であったとの説が最近にわかに浮上しています。
家康を油断させるために、信長自身も手薄な警護で京都に入り、家康をおびき寄せたところを、丹波にいる光秀の軍勢が家康を仕留める、というものです。ですから、光秀が兵を挙げるのは信長の命令通りであり堂々と京へ進軍できました。ただ、その矛先が家康ではなく信長に方向転換された…というのが、本能寺の変だったというわけです。このように家康暗殺計画により、光秀に謀反のチャンスを与えてしまったことが「予は予自ら死を招いたな」の真意だというものです。

https://kyotolove.kyoto/I0000300

明智軍に従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、真の目的が知らされていなかったことを示している。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

今回の古沢良太の脚本は、
いわば「家康黒幕説」と「信長黒幕説」の応用であり、
「信長が家康に自分を討たせようとした」 という解釈なのです。
そこにBL要素が絡んでくる。

そして、光秀の私怨は、
「信長と家康の両方に向けられた」ってことですね。
それは、いうまでもなく饗応役解任事件がきっかけ。
明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

光秀は、
本能寺の変を「家康の謀反」に見せかけるために、
信長の首を取りながらも、
自分ではそれを晒さなかったのかもしれません。
(信長の首については次週の内容を見ないと分かりません)



信長に "男好み" があったのは間違いないし、
家族どうしでさえ殺しあう戦国の世においては、
いつとも知れぬ死の恐怖に苛まれるあまり、
「せめて愛する人に殺してほしいっっ!!ハート
…みたいな異常心理が生まれることだってあったかも(笑)。

このあたりのBL的な解釈や、
お市が堺で家康に "兄の恋心" を仄めかすくだりは、
さすがにフィクションだと思うけど、
そこらへんはドラマの脚色として楽しむ範囲のことでしょう。



おそらく今回のドラマを批判している人たちは、
過去の特定作品のシナリオに固執するあまり、
それ以外のシナリオを受け入れる柔軟性がないのです。

それは、すなわち、
いつもどおりの展開を期待する「水戸黄門」の視聴者と同じで、
要するに、老人なのでしょう。




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最終更新日  2024.06.17 19:22:29


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