寛永年間(1624-1645年)の成立と推測される『当代記』の享年67歳説が、成立時期や史料の性格から最も信が置けるとみられるが、断定はできない。『明智軍記』では没年が天正10年6月14日(1582年7月3日)の享年55。『武家聞伝記』では享年70。
一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している。この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
本能寺の変が起こったのは6月2日です。この運命の一日、信長による徳川家康暗殺の決行日であったとの説が最近にわかに浮上しています。
家康を油断させるために、信長自身も手薄な警護で京都に入り、家康をおびき寄せたところを、丹波にいる光秀の軍勢が家康を仕留める、というものです。ですから、光秀が兵を挙げるのは信長の命令通りであり堂々と京へ進軍できました。ただ、その矛先が家康ではなく信長に方向転換された…というのが、本能寺の変だったというわけです。このように家康暗殺計画により、光秀に謀反のチャンスを与えてしまったことが「予は予自ら死を招いたな」の真意だというものです。
https://kyotolove.kyoto/I0000300
明智軍に従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、真の目的が知らされていなかったことを示している。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
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