道長は生前一度も関白とならなかった。「御堂」の名称は、晩年の道長が法成寺無量寿院を建立して「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによる後世の呼称である。しかし「御堂関白記」の呼称は江戸時代にはすでに通称になっていたようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/御堂関白記
寛弘9年(1012年)1月に顕信が突然比叡山に登り出家してしまった。道長はかねてより自身の出家を志していたが、その意志を遂げないうちに息子に先を越されてしまったことを酷く嘆いている。5月に延暦寺で顕信の受戒が行われ道長も参列する。ここで道長は騎馬のまま比叡山に登ったため、法師から馬から引きずり下ろせとの放言を受けたり、石を投げつけられたりされてしまい、藤原実資から「相府当時後代の大恥辱也」と批判されている。この仕打ちに対して道長は、老いて徒歩で登るのはつらいから馬で登っただけなのに石を投げつけられるのは心外だ、と自らの正当性を主張している。
まもなく道長は重病に伏して、一時は飲食物を受け付けないほど状態が悪化し、致仕の上表を行う。この病気について、比叡山に騎馬で登ったために日吉大社の祟りを受けたためとも噂された。この頃、道長の病気を喜ぶ公卿が5人おり、大納言道綱、実資、中納言隆家、参議懐平、通任である、との風説が流れる。これに対して道長は「私の病気を喜ぶ者が5人いると最近聞いたが、そんなはずはない。中宮大夫(道綱)と右大将(実資)がそうだとは信じられない」と述べたという。
娍子の立后の日と妍子の参内の日が同じ日(4月27日)に重なってしまう。当日は妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始されるスケジュールが組まれていた。実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった。しかし、道長は本宮の儀を欠席、道長の威勢を憚って右大臣・藤原顕光(病気)と内大臣・藤原公季(物忌)も障りがあるとして欠席し、これを見た公卿・殿上人も多くが欠席してしまった。この有様にやむなく、三条天皇は右近衛大将・藤原実資を呼び出して儀式を行わせている。なお、実資の他に参内したのは、中納言・藤原隆家(皇后宮大夫)、参議・藤原懐平(実資の兄)、参議・藤原通任(娍子の兄)といずれも娍子を後見する立場にある3名のみと寂しい儀式となった。一方で、道長は妍子の参内の参加者に対して非常に神経質になっており『御堂関白記』に不参の公卿として、本宮の儀の準備のため天皇に呼ばれた実資に続いて隆家・懐平を記し、年来親しく交際している人々が来ないことを気にしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原道長
もし仮に、時の帝(権力者)が「この描写はエグすぎて、現に傷ついている読者がたくさんいるのだから公開を差し止めよう」と、公開禁止や焚書を実施したのであれば、その施政はあふれる善意と慈愛によって進められたはずだ。300年後、1000年後、現代の表現にまつわる政策は、どう評価されるんだろう。
— たられば (@tarareba722) November 20, 2019
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