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【みんな・みんなも・・・同じかい!?】「ブル-タス・・・お前もか!?」(シーザ-)「みんなの党」がDHC化粧品会社のひも付きであったとか?あんなに期待していたみんなの党が、民間化粧品会社の政治資金で成り立っていたとは幻滅以外ない。それに渡辺党首は、DHC化粧品会社吉田会長の目の前で土下座して謝罪したとか?いやはや、あいた口がふさがらない。この党首、不正に満ちた真っ黒な顔を、化粧品で隠していた訳だ。さらに云うなら、シミ隠しの化粧品では一時的に効果はあっても、すぐに剥がれてしまう、所詮その程度の化粧品であったわけだ。化けの皮が剥がれても当たり前の話である。猪瀬元東京知事の政治資金問題といい、このたびのみんなの党の政治資金問題。この国の政治家は、一体どうなってしまったのだろうか?そんなに政治には膨大な金が要るのか?改めで不思議に思ってしまう。両政治家は、まじめで誠実そうであっただけに、国民に大きなショックと失望感を抱かせてしまった。それに、今はまだ選挙権のない青少年の心に、一生消えることのない傷をつけてしまった訳である。もっと、もっと、責任の大きさを知るべきである。最後に、もう一度、云いたい。期待していたみんなの党が、あろうことか民間個人会社の政治資金で成り立っていたとは、情けない!ヤレヤレ、折角の今年の花見の酒も、まずくなるの~。トホホ・・
2014年03月27日
「大和撫子の底力」【でかした! STAP細胞の発見】(その3)「がんばれ小保方さん!」近頃世間が、変なところで妙に騒がしい。先日、あの大発見とされた小保方晴子博士らのSTAP細胞が実は怪しいという騒ぎである。STAP細胞は、理化学研究所・再生科学総合センタ-の小保方晴子博士ら女性5名からなる大和撫子研究員らによって発見されたものである。イギリスの科学雑誌「ネ-チャ-」にも掲載され、世界中にその偉業が報道された。しかし近頃になって論文の内容や、証明写真などに疑惑の目が向けられ、日本政府の下村文部科学大臣までもが、掲載取り消しについてコメントをする事態となってしまっている。ひどいものになると、「同じやり方でSTAP細胞は出来なかったから、小保方博士はその手順を公開すべきだ」、あるいは「骨髄からの内容物が残っていたか、入れたのではないのか?」などど、実に勝手な言い分を主張している。どんな論文でも、論文には大概過去のものをコピ-して使用する部分もあり、図式や写真も同じである。さて昨日、理研は野依良理事長、竹市所長らが会見を行い、「世間の多くの皆様にご迷惑とご心配をおかけした」と謝罪した。一部実験デ-タ-の切り貼りや、過去の論文にも重大な過誤があったことも求めた。しかしSTPA細胞そのものについては、第三者の追試等に委ねるとし、作業手順も公開したようだ。もし小生に、今年に入って日本の一番のビックニュ-スは何かと問われたら、「STAP細胞の発見だ!」と即答するだろう。それは今でも変わることが無い。そもそも英国科学誌ネ-チャ-に載るような新発見の論文でも、7割以上は再現不能という。今回だけが大騒ぎされるのは、その影響が余りにも大きいからである。まずその利権問題である。STPA細胞の市場は、計り知れないほど巨大である。それにはライバル達は、最も機密である作業手順等を深く知ることである。続いてSTPT細胞の発見は、現在の医療そのものにかってない致命傷となるからである。具体的事例は避けるが、医療業界の根本を覆すほど大きなものとなるだろう。されさて、この論文のクレ-ムを、海外から指摘されるのは止む終えないとして、足もとの日本国内から次々と騒ぎ立てるのは、いかがなものだろうか。日本人なら、しばらく騒ぎ立てるのを「STOP(細胞)」しようではないか!そして、「小保方さん達、ひるむな、頑張れ!」とエ-ルを送ろう。
2014年03月15日
「3年目の寒い朝に思う」3.11大震災から3年目を迎えた今朝の東京は寒い。北に位置する被災地はもっともっと寒いであろう。思えばあの日も、どんよりとした寒い日であった。犠牲者は行方不明2633名を含めて15786人に及んでいる。まずは、改めて犠牲者のご冥福を心より祈りたい。そしてそんな被災地では、いまだに26万人もの方々が帰宅困難という。そのご苦労を思う時、言葉を失ってしまう。そして今回の震災の桁違いの大きさと被害の甚大さに、みたび体が震えるのを覚える。被害総額はおよそ20兆円と推定されている。政府は復興予算23兆円を決め、復興債も出したが、復興のスピ-ドになかなか加速がつかないでいる。原因の一つは、津波によるかさ上げ基準や、新防潮堤の基準がなかなか決めれないからである。もうひとつは、福島原発による放射能の影響である。特に福島原発事故によるこれからの対応は人類未曾有の困難な仕事である。しかし、決して逃げたり、ひるんではならない。日本人はこの美しくも小さな島国に、脈々と歴史を刻んできた。そして今までに何回も何十回、何百回もの試練を受けて来たが、それをしっかり受け止め、次に繋ぎ続けてきたわけだ。必らずや、次につなげてみせる。それを成し遂げるのが、今生きている我々日本人ひとりひとりなのである。「頑張って下さい被災地のみなさん!」そして、何時までも、何時までも、我々も一緒に付いて行きますから!!
2014年03月11日
「鶯が鳴いた日に・・思う」(2)「今日は東京大空襲の記念日!」69年前の本日、3月10日夜半は一夜にして東京で10万人が犠牲になった東京大空襲の日であった。ここ数日の報道関係は、そんな日が無かったかのように、ほとんどが3年前の明日3月11日に起きた、東日本大震災報道ばかりである。あえて、私は今日、東京大空襲について触れてみたい。米軍は69年前の3月10日午前0時8分から2時間半に亘って、東京都上空から無差別爆撃を行った。大型爆撃機B-29の大編隊300機が、高度2000メ-トルという当時では低高度から侵入。日本の木造家屋に火災を発生させる為に新たに開発したナパ-ム弾を投下した。米軍はこの作戦の目的について、公式発表では「日本の中心部に集中している工業的および戦略的な目標破壊する」ためとある。しかし、どう見ても一般民衆への無差別爆撃であった。米軍の戦術は、1923年の関東大震災を検証して創られたという。B29でまず、長時間燃焼するナパ-ム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロ周囲に投下した。火の壁で住民の逃げ道を塞ぐためだ。そして、次にその内側に1665トンの焼夷弾を投下。これにより警視庁の調べでは、26万8358戸が焼失。100万8005名が被災し、死者は83793名、負傷者40918名。実際の死者数は10万人を超えるといわれている。これは空襲により犠牲者数で世界史上最大のものであった。この空襲で東京は一夜にして市街地の東半分、35区の三分の一以上に当たる約41平方キロを焼失した。その後4月13日には王子区を中心とした城北地域、4月15日には大森区、蒲田区と城南地域が被災、死傷者4004人、22万戸を焼失。5月25日には山の手にB29の470機が襲いかかり、死傷者7415人、約22万戸が焼失した。また多摩地区の立川、八王子も空襲で大被害を受けた。3月から5月にかけての空襲で首都東京は市街地の50%を焼失。その後米軍による空襲は名古屋、大阪をはじめとして、全国200以上の都市に及んだ。空襲による死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口970万人、被災面積64000ヘクタ-ル、被災家屋約223万戸、これは内地全戸数の約20%であった。この空襲により日本の国宝や重要文化財の90%以上が失われた。次にアメリカ軍の被害にも触れておこう。この作戦のB29投入総数は33000機であった。損失機数485機、損傷機2707機、搭乗員戦死者3041人。(日本人死者数の1%に満たない)当初米軍の日本本土への空襲は、通常の戦闘方法であったが米軍の被害も多く出たため、それを回避しつつ、日本の降伏を早めることを狙ったとされる。そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家屋や、使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ」とヘンリ-・ア-ノルドが主張。その意を受けて翌年の1945年1月21日、司令官がカ-チス・ルメイ少将と交代した。カ-チス・ルメイは忠実にそれを実践した。後日カ-チス・ルメインは「我々は日本降伏を促す手段として、火災しかなかったのだ」と述懐している。また一方で、「もし我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸いにして私は勝者の方に属していた」と言っている。「東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で、多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないか!」との指摘も強い。しかし日本政府はサンフランシスコ平和条約により賠償請求権をすべて放棄している。そればかりか、1964(昭和39)年12月4日、作戦を指揮した米軍のカ-チス・ルメイ少将に、戦後の日本自衛隊航空部隊育成に貢献したという功績により、勲一等旭日大綬章の叙勲を与えている。なんと、当時の第一次佐藤内閣が閣議決定したわけである。現在3月10日の東京大空襲記念日は、東京都が主催で追悼行事が東京都慰霊堂で小規模に行われている。そればかりか、この悲劇の記録を残すための施設は、国立にも都立にもない。民間の「東京大空襲戦災資料センタ-」が唯一あるだけである。なにはともあれ、今日だけは、69年前の3.10をまず想い、10万人にのぼる犠牲者に心から哀悼の意を示そうではないか!-合掌-
2014年03月10日
「鶯が鳴いた日に・・思う」昨朝鶯の初音を聞いた。「ホ-・・・ケキョ」というまだまだ不完全な節回しながら、緑の少ないあたりの森の静寂を破るのにはそれは十分であった。我が家の狭い庭にも、花好きの妻が植えた水仙を出頭に、梅や福寿草、そして鉢植えのボケの花も咲きだしてきている。今年の冬は例年にない寒さと、何度か雪にも見舞われたが、季節は確かに変わってきている。桃の節句を過ぎ、その動きは一段と高いギヤに入った訳だ。いよいよ、うれしい季節の到来である。しかし、近年その喜びが薄れてきているのは、やはり歳のせいであろうか?以前は感じた、胸の奥深いあたりから、ふつふつと湧きあがってくる朱鷺色の泡のようなものが、近頃はさっぱり感じられないのである。それもそのはずである。この3月という、本来この地上のすべての国が希望に満ち溢れる筈の月が、近代のこの日本にとっては最も不幸の出来ごとが起こった月だともいえるのである。何故なら3月10日は、1945年に第二次世界大戦において米軍から受けた東京大空襲の日である。そして続く3月11日は、3年前の2011年の起こった関東東北地方大地震の被災日である。近代の日本の3月の歴史には、この不幸な出来事の傷が深く刻まれてしまったのである。今日はまず、先に訪れる3月10日の東京大空襲について触れたい。68年前の3月10日夜半から、米軍のB29爆撃機の大編隊が次々と首都東京を襲った。米軍は、従来の軍事関連施設の空爆から一転、老若男女の生活する一般住民の居住地まで、いわゆる無差別に爆撃を行ったのである。そしてそのために米国は、日本の木造建築の弱点を突いた焼夷弾を新たに開発して、油の雨を首都の上空から降り注いだのである。この無慈悲極まりない戦術により、首都東京は一夜にして焼け野原となってしまったのである。死者は10万人以上といわれ、3.11の大震災と比しても7倍という実に末恐ろしいものであった。その後、米軍の焼夷弾を主体とした無差別爆撃は、名古屋・大阪をはじめ、日本の主要都市の殆んどを焼き尽くしたのである。そして、かろうじて被害を免れた広島、長崎には、8月に入って新爆弾の原子爆弾を投下されたのである。一発の爆弾で、一瞬のうちにすべてを破壊、殺生せしめ、その後においても数十年以上にわたり放射能被害を引き起こしているのである。これが国際法を無視した非人間的なもので、人間として強く罰せられて当たり前の違法行為なのである。しかし、東京裁判では日本側の責任は追及され、7人の指導者がA級戦犯とされ絞首刑とされ、さらに戦地でも多くの戦犯が連合軍という名のもとに処刑された。しかし勝利国の米国はじめ、ソ連、イギリス、フランス、中国に対して戦犯の例は一例も私は知らない。戦争ではどんな卑怯で卑劣な方法を使おうが、勝利さえすればそれが正義となる。それが、自由で平等を謳う米国はじめ戦勝国の本音なのである。表面はにこやかな顔をしているが、彼らの血の中に流れる本当の素顔を私たちは忘れてはならない。ところで、近年の日本の教育や報道には偏っているところが多すぎるではなかろうか。あえていうなら、触れないよう触れないようにしているところがある。それは明治維新以後第二次世界大戦終了までの期間である。書物や物語、あるいはテレビ番組などでも、明治維新などの関係は飽きるほど触れられているが、時代から第二次世界大戦に至る歴史ものは極めて少ない。せいぜい2.26事件が時々現れるくらいで、第二次世界大戦に到達するまでの最も肝要な時期がスッポリと抜けているのである。そして戦争など知らない世代が定年を迎えている現在、中国や韓国から南京虐殺事件や従軍慰安婦を騒ぎたてられ、尖閣や竹島問題を投げかけられても、即答が出来ないのは当たり前のことである。二度と再び、人の手により空から焼き殺されるような戦争をしてはならない。68年もたった今、隣国から意味の良く分からない理屈を突く付けられるようなこともあってはならないのだ。そして、そんなことをされないようにするため、どう対応するかを、その原因がどこからどのように始まったのかを、そろそろ真剣に考え直す時である。
2014年03月07日
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