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徳島市から高知市へと、レンタカーと列車で移動したのだが、途中で何人ものお遍路さんと遭った。徳島の海部駅から室戸岬を回って高知の奈半利駅の間は、徒歩で大きな荷を背にしたお遍路さんに。奈半利駅から高知駅窪川駅宿毛駅の間では、列車の中でお遍路さんに遭った。50年前に四国88カ所霊場を巡った者としては、懐かしいような、お仲間のような、そして今となっては、憧れのようなお遍路さんだ。そんなお遍路さんを見て、昔との違いを感じた。スマホだ。地図の代わりにスマホを持って見ている。昔はスマホなどは無く、紙の地図、しかもコマ地図だった。コマ地図というのは、主要な曲がり角のみが書かれた地図。コマの地点以外は、おおよその現在地しか分からない。いや、コマで書かれた地点がどこなのかも、はっきりとは分からない。そんな地図だった。だが、今のお遍路さんは、スマホの地図を拡大したり縮小したりして、現在地を確かめ、乗換案内で次の列車やバスの時刻を検索している。50年前と比べても仕方ないが、お遍路も変わった。
2023.03.25
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DMVの走る徳島県の阿佐海岸鉄道のあたりは、「四国の右下」と呼ばれる所。「四国の右下観光局」まであって、観光客を呼び込んでいる。交通の便が悪いから観光客が少ないのか、見どころが少ないので観光客が少ないのか、・・・いずれもYesだ。阿佐海岸鉄道から、高知の土佐くろしお鉄道へ行くのに、鉄道を利用すると、徳島駅経由となり、6時間以上かかるが、車なら、2時間でお釣りが来る。なので、レンタカーを借りて移動したのだが、折角のレンタカーなので、室戸岬を回った。室戸岬の灯台は、思いの外、低かった。室戸岬そのものに海抜があるからだ。で、四国88カ所霊場の24番札所、室戸山・最御崎寺(ほつみさきじ)をお参りした。四国88カ所霊場は、1972年、50年前に一回りしている。画像下は、その時の御朱印。当時は書き置き印はなく、全て手書きで御朱印帳に書いて貰った。カーナビなどはない時代。我が家のさっちゃんナビで回ったのだが、どこへ車を駐めたのかも、境内をどう歩いたのかも、まったく記憶は残っていなかった。昔から、何かを集める癖があったのは確かだ。
2023.03.23
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神様を祀る社に、神宮、大社、神社、宮、などがあ。たとえは、鹿島神宮、出雲大社、氷川神社、東照宮などだ。祀っている神の偉大さや、地域的な社の大きさ、などで、違いが出ているようだが、素人にはよく分からない。そんな中、鹿島神宮に初詣した。鹿島神宮の御祭神は、出雲国で日本の建国に挺身された、「武甕槌大神・たけみかづちのかみ」。と、分かったような事を書いているが、よく分かっていない。ともあれ、1月中に初詣をしようと、この寒い中にお参りした。初詣なので、大きな神社に行こうとしただけで、鹿島神宮にこだわったのではない。あえて言うなら、いや、正直に言うなら、鉄印巡りとコラボの初詣だ。常磐線の水戸駅から、鹿島臨海鉄道で南に下り、大洗駅で鉄印を貰い、鹿島神宮駅から徒歩(数分)でお参りした。奥宮への参道は凍っていた。氷が張っていたのではなく、泥濘(ぬかるみ)が凍っていた。泥濘に砂を撒き、そこを通った人の足跡が残っているのだが、その足跡ごとカチンカチンに凍っていた。だが、境内の空気は爽やかだった。(爽やかは秋の季語だが・・)マスクを外して、深呼吸しながら歩いた。森林浴である。参道を歩く人の3割ほどが、マスクを外していた。神様に何を願う事なく、無想で手を合わせてきた。
2023.01.28
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能登長寿大仏のある真和園では、絵馬が売られている。真和園は財団法人なのだが、宗教そのもの、仏教そのもので、絵馬まで売られている。ただ、能登長寿大仏をお参りした日は、園内の施設が定休日で、絵馬を買う事はできなかった。神社仏閣で定休日があるというのは、聞いたことがない。やはり、財団法人か・・・という感じだ。ノボリには、「日本でたぶんここだけ」とある。何がここだけなのかと思ったのだが、どうやら、ノボリの絵にあるように、絵馬を掛けるところが、海の上のようなので、行ってみる事にした。山道を下って海(穴水湾)に出ると、絵馬を掛けるところがあった。これを「絵馬掛け」というのだろうか?普通は境内にある物だが、ここではかなり離れている。で、足下の遊歩道の下に波が来ている。確かに、(ほんの少しだが)海の上だ。海べりという事は、ここは私有地ではない、すなわち真和園の敷地ではないと思われる。確か・・・日本では、海岸線を私有できないはずだ。という事は、ここは、穴水町の所有で、穴水町が真和園の絵馬を掛ける事を認めたのだろうか?大仏様をシルエット風に切り抜いた絵馬はユニークだが、やはり、財団法人真和園と穴水町の関係が気になる。
2022.10.20
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先週、能登長寿大仏をお参りした。能登長寿大仏は、鉄印巡りの際にその存在を知ったもの。能登半島が口を開いたようになっている辺りにある。鉄印巡りの時は、時間がなくて、タクシーの運転手に「(短時間で行って来るのは)無理だね」と言われたのだが、改めて尋ねて正解だと思った。あまりにも広い敷地だったからだ。およそ2時間ほどかけて境内を回った。ここで「境内」と書いたのだが、「境内」でいいのか、迷った。それは、能登長寿大仏があるのは、真和園という財団法人の敷地だからだ。宗教法人ではなく、一般財団法人だ。だが、境内(敷地内・園内)には、画像の三重塔や、観音堂、弘法大師堂、阿弥陀堂、太子堂、観音菩薩像、親鸞聖人像釣鐘堂」(大梵鐘)、仏心堂・・・・などがあり、仏道そのものだ。しかし、案内のパンフレットや、園内の案内板には、「真和園」と並んで「穴水町」と書かれている。一般財団法人は、普通の法人と同じように固定資産税が課税される。入園料は無料なので、これらを含めた維持管理費用は多額と思われるがどうなっているのか、不思議というか、分からないというか、知りたいところである。画像の山門は、枯れた草が目立つが、園内は丁寧に管理されている。もしかして、三セク鉄道のように、上下分離方式、すなわち、(下の)固定資産は穴水町の所有となっていて、(上の)園の運営が真和園、となっているのかもしれない。というのは、真和園は、地元で建設会社を起こした堀内秀雄さんが、私財の全てを投じて整備をしたもので、穴水町は整備やその資金に関わっていなかったからだ。最初から宗教法人になるのは無理なので、財団法人でスタートすることを穴水町と協議した結果なのか?ネットを検索したのだが、手がかりは得られなかった。ということで、健康で長生きできるよう、手を合わせてきた。
2022.10.19
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なぜ、長浜駅で下車したのかというと、それは、「長浜びわこ大仏」をお参りするため。以前、金沢方面から京都に向かう途中、車窓から背の高い大仏様が見え、見たことのない大仏様、お参りした記憶のない大仏様と、大仏大観音ウオッチャーとして気になっていたもの。長浜びわこ大仏は、琵琶湖の直ぐ傍の平安山良畴寺(りょうちゅうじ)の境内に立つ、高さ28メートルの鋳銅製。平成6年(1994年)開眼。この以前に、コンクリート製の「護国阿弥陀如来」があったが、コンクリートの劣化のために取り壊して、青銅製に建立し直し、「長浜びわこ大仏」と命名した。日頃の行いのためか、どんよりと曇っていて、大仏様がきれいに写せなかったので、改めてお参りに行きたいと思っている。中山道ウオークも、現在、米原付近なので、何回かお参りする機会はあると思う。
2022.08.09
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加賀大社の境内を巡っていて、画像上の看板を見た。「入口専用の為 進入禁止」とある。入口だから入るな、とはどういうことなのだろう。関係者の専用入り口だから入るな、というなら、そのように書けばいい。「大社関係者以外進入禁止」、と。なぜ入口なのに進入禁止なのか、疑問だ。この看板の裏を見ると答が分かるかも知れない、と思い、看板の裏を見た(画像下)。「↑ 出口 P」とある。そうなのだ、ここは出口なのだ。出口だから、進入禁止なのだ。「入口専用」でなく「出口専用」なのだ。毎度同じ事を書いているが、なぜ関係者はこの間違いに気付かないのだろう。看板の原案を作った人も、それを決済した人も、看板を作った人も、設置した人も、そして、毎日ここを通ったり清掃している人もいるのに、である。ま、だから、世の中は楽しいのではあるが。
2022.07.19
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俳句に、「夏越(なごし)」という季語がある。昔は1年が6カ月で、夏越と年越があり、その名残で、茅の輪(ちのわ)をくぐって、災いや厄を払い、無病息災を願った。読んで字の如く、茅の輪の「茅」はカヤ。しめ縄と同じ物。一年中茅の輪を備えている神社もまれにあるが、多くは、6月末から7月始め、12月末から1月始め、に備える。ということで、加賀大社の茅の輪をくぐってきた。ただ単にくぐるのではなく、8の字状に3回くぐる。と書いたが、地方や神社によって、そのくぐり方は異なるようだ。あれもこれも、と多くを望んだら、神様は迷うに違いないので、多くを望まず、茅の輪をくぐってきた。茅の輪の向こうに見えるのは、加賀大社の太鼓橋。4段ほどの階段なので、橋を渡ろうかと思ったが、雨に濡れていて滑りそうだし、自分の歳を考えろ、ということだと思い、渡るのはよした。そのうち、足が上がらなくなって、太鼓橋どころかこの茅の輪も跨ぐことが出来なくなるのだろう・・・元気な内に、と思う
2022.07.18
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金沢から京都へ向かうと、途中の加賀温泉駅付近で、加賀大観音が見える。加賀大観音は何回かお参りしているので、見える方向も見える場所も分かっていたので、デジカメを構えて、観音様を写した。寂れて輝きを失い黒ずんでいるかと思ったが、きれいな姿に安堵した。で、ぼんやり車窓を眺めていたら、今度は大仏様が見えた(画像)。え、ここに立っているのは・・・何だっけ?加賀は観音様だし、すでに通り過ぎているし・・・と考えながら、デジカメした。大仏様の様子から、自分のHPを検索すればいい、と思ったのだが、未訪問の大仏様だった。デジカメした時は、おおよその場所を覚えたつもりだったが、家に帰ったらまったく記憶は無くなっていた。あの大仏様はどこだったのだろう・・?グーグルアースで、加賀温泉から京都まで探すのは大変だ。もう一度同じ電車に乗るか・・・と思った時、デジカメのデータに、撮影時間があるかもしれない、撮影時間が分かれば、時刻表から撮影した場所の見当が付く、そう思った。ということで、デジカメのデータを見たら、撮影時間が記録されていた。それでは時刻表とチェック・・・と思ったが、デジカメの時間を設定した記憶がおぼろなので、その時間が間違っているかも知れないので、あわてずに、先ずは、現在時刻が合っているかをチェックをした。デジカメの時刻が合っていることを確認して、時刻表の時間を追った。その時刻に電車が通過したのは、米原の北、長浜駅を過ぎた頃と分かった。そう言えば、ブログ友のニコ67さんが、琵琶湖近くに「大きな大仏がある」と、何回か書いていたことがある、その大仏だ。地図を拡大すると出てきた。「長浜びわこ大仏」だ。ここなら行ける。中山道ウオークは、現在関ヶ原まで歩いていて、次回は、新幹線の米原駅で下車して在来線で戻る予定なので、ウオークの前日か翌日にお参りすることが可能だ。楽しみが一つ増えた。そして、デジカメの時刻設定をいい加減に済まさない、ことを学んだ。
2022.05.20
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のと鉄道の鉄印は、終着駅の穴水駅で貰った(買った)。鉄印を貰ったのは、私ともう一人だけ。折り返しの電車(気動車)には、約1時間あるので、駅の土産店などを見て時間つぶしをしたのだが、切符売り場に置かれていたパンフレットに眼が行った。能登長寿大仏とある。大仏大観音ウオッチャーとしてHPを開いているのだが、能登長寿大仏は初耳だ。発車まであと30分ある。直ぐに「行ってみよう」と決断し、駅員に所要時間を尋ねたら、「歩くと30分くらいだから、次の列車には間に合わない」との返事。歩いて30分なら、タクシーなら5~6分だろう。「タクシーでは?」と尋ねると、「運転手に聞いて」となった。なので、駅前にさっきから退屈そうに止まっているタクシーの運転手に聞いた。「30分後の電車に乗るんだけど、能登大仏に行けますか」と。「ゆっくりはできないよ」「写真写すだけでいいんです」と言うと・・・車の時計と腕時計を見比べて、「ちょっと無理だな」となり、「それでもいいから行って」とは言えず、諦めた。帰りの電車の中でパンフレットをよく見たら、穴水駅からタクシーで5分、とあったが、それは公園の門までのことであって、大仏様のすぐ前まで行けるのではないようなので、やはり、『ちょっと無理』のようだった。鉄印巡りが終わったら、お参りしよう、と、新たな予定が生まれた。
2022.05.19
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四国88カ所霊場、23番札所・薬王寺をお参りしたのだが、駐車場も境内も、閑散としていた。観光バスでの団体遍路もなく、マイカーや徒歩の個人遍路もいなかった。春の遍路が始まっているだろうに、どうしたのだろう?遍路の世界ではコロナ自粛が解けないのだろうか?この時代、遍路は不人気なのだろうか?そんなことを思った。が、阿佐海岸鉄道で鉄印を貰っての、2日目、土佐くろしお鉄道に向かう時、多くの徒歩遍路に会った。いや、会った、のではなく、追い越した。この海岸沿いは、23番札所から24番札所への道。この間、75.4Km。四国88カ所巡礼で2番目に距離がある。大きな荷物を背負って、編笠をかぶり、金剛杖をついて、元気に歩いている。私が街道ウオークで歩ける距離は、1日に15キロほど。2日連続で歩くと、翌日は5キロがやっとだが、このお遍路さん達は1日にどの位歩くのだろう。重そうな荷物を背負っての徒歩は大変なことだ。男の人が大半で、私のような年配者はいなかった。また、ご婦人と呼べる年代の女性もいた。お年寄りは遍路バスで巡るのだろう。何を考えて歩いているのか、何を思って巡礼しょうとしたのか、聞いてみたい気がした。恋に破れたのか、生活に疲れたのか、仕事に行き詰まったのか、88カ所を巡り終える頃には、辛い思いは晴れることだろう。
2022.04.15
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四国88カ所霊場を巡ったのは、ちょうど50年前だった。インターネットなどの情報は無く、一冊のガイドブックを頼りに、埼玉から車で行って、88の札所を回った。当然にカーナビなどは無い時代で、地図を広げて、我が家のさっちゃんナビで走った。確か、宿は電話で、国民宿舎は往復ハガキで申し込んだ。一日で何カ所の寺を回れるのか、寺の滞在時間や移動距離を計算し、ゴールデンウイークを使って、12日間で回った。そんなに宗教心が有るわけではないのに、今にして思えば、御朱印を集めるのが主目的だったのかもしれない。・・・その続きが鉄印か・・・そんなことを思い出しながら、徳島を走っていたら、23番札所・薬王寺が道路側にあった。数百メートル過ぎてから、30分なら寄り道できる、とお参りしていくことにし、戻った。懐かしい、という感覚はまったくなかった。50年前の記憶は皆無だった。山門を見ても、本堂を見ても、観音堂を見ても、初めてのお参りという感じだった。画像下は、50年前にいただいた御朱印。朱印は朱、墨痕は黒、変色していない。日付が無いのが残念だ。
2022.04.14
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淡路島の世界平和大観音をお参りし、北条鉄道の鉄印を貰ったら、そのまま埼玉へ帰宅、というワケにはいかない。大阪の住吉大社を素通りすることはできないからだ。大阪で途中下車して、住吉大社へ向かった。住吉大社をお参りして新幹線に乗るまで、およそ2時間が必要。今日中に埼玉へ戻れれば急ぐことはないので、のんびりとお参りしたいのだが、住吉大社の閉門は午後4時。あまりのんびりとはしていられない。ということで、正月バージョンが残っている住吉大社をお参りし、その末社の楠珺社で招福猫を求めた。元気な内に48体を集めたいと思っている。画像上、住吉大社の門前に自転車のおばちゃんがおる。何回も同じようなことを書いているが、この自転車に傘を付けたのが、典型的な大阪のおばちゃんだ。この姿を見ると、大阪やなぁ~と思う。で、気になったのが、画像下。住吉さん入口側の灯籠の石がずれて傾いている。見る方向に寄るのか、と思ったが、間違いなく、ずれている。地震でずれたのだろう。大丈夫なのだろうか? ちと心配である。
2022.02.03
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ということで、智頭急行の鉄印を貰って、家に戻ったのだが、どうしても、行きたかったところが残ってしまった。それは、淡路島にある世界平和大観音。去年から解体工事が始まっていて、解体される前に、お別れの参拝をしたいと思っていた観音様だ。大仏大観音ウオッチャーとして、後世に残したいと、管理人になる人をお願いし、宝くじが当たるのを心待ちにしていたのだが、宝くじが当たらず、我が手で維持保存をすることを断念した観音様だ。鉄印は(鉄道が廃線にならない限り)いつでも行けたのだが、世界平和大観音は、今を逃すとお参りすることはできなくなる。なので、コロナ大感染の前に、再び関西に向かった。 (そこには、もう一つの目的があったのだが、それについては明日)九州・山陽方面の旅から戻った翌週だったので、我が家のさっちゃんは呆れた。元気になったのは良いけれど、と。ところで、昭和や平成に造られた大仏や大観音の存続は、税金と大きく関係している。固定資産税だ。拝観料は建立費や維持管理費に比して微々たるものだから、利益課税(所得税、法人税)や消費税は影響しない。敷地と観音様という構築物に課税される固定資産税が多額なので、宗教法人として、固定資産税が非課税扱いとなること、それが、大仏大観音の生きる道であったのだが、この世界平和大観音は宗教法人にはなれなかった。解体費は8億8千万円。もし、宗教法人で固定資産税等が非課税だったら、観音様の維持管理は適切にできたのではないかと思う。税金で解体費8億8千万円を支払うことになったことを思えば、宗教法人の認可を渋って良かったのか、とも思う。淡路島には鉄道では行けないので、西明石からレンタカーした。フェリーやバスより、レンタカーの方がコロナに対しては安全でもある。1時間もしないで観音様へ着いた。以前、参拝した時は、駐車場があったが、今は、工事のフェンスが張られていて、駐車できない。いや、駐車できないどころか、解体工事が進んでいて、近寄ることもできない。車で観音様の周囲を巡り、デジカメをして、お別れのお参りをした。
2022.01.31
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石切劔箭(いしきりつるぎや)神社をお礼参りした次は、応頂山勝尾寺へお礼参り。大阪のあの子(昨日のあの子とは違う子)が、「ガン封じのお守りがあったので」、と送ってくれていて、「郵送してくれれば返してくるから」と言われていたのだが、祈願成就なので、自分の手で納めたと思い、参拝した。♪まさか待ってるなんて~♪ という歌があったが、あの子が、勝尾寺の山門で待っていてくれた。勝尾寺は、西国札所23番の霊場。一昔も二昔も前だが、西国札所を巡った時にお参りしているハズなのに、その記憶は全くなくなっていた。勝尾寺は「だるま」であふれていた。一つは、大きなだるまで、「勝ちだるま」。願い事をだるまの背に、その次の目標をだるまの底に書き、右目を入れ、願い事が叶ったら、左目を入れて奉納する、というもの。もう一つは、「だるまみくじ」。いわゆるお御籤で、境内に置いて帰っても良いし、持ち帰っても良い。なので、境内のいたるところにだるまみくじが置かれている。そのうち境内が赤いだるまで埋め尽くされると思ったが、年に一度お焚き上げをしているとのことだった。持参したガン封じのお守りは、授与所で聞いたら、そこで預かるということなので、お礼を述べて納めた。そして、山門に、千社札を貼った。これで国内のお礼参りは完了。肩の荷が降りたというか、ほっとした。
2021.10.21
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がん治療卒業のお礼参り(その2)大阪の住吉大社の次は、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社。略して石切宮。大阪のあの子が送ってくれた「お守り」を祈願成就で納めるのが目的。石切劔箭(いしきりつるぎや)の名は、祭神に与えられた剣が岩をも切り裂き貫き通すというとこらから。石切宮は、お百度参りでも有名で、何人かの人がお参りの数を数える紙縒り(こより)を折りながら巡り歩いていた。境内には納札所があり、頂いていたお守りをここに収めた。頂いたお守りをこのままにしておいてはいけないと思い続けていたので、納めて、気が楽になった。実は、この神社には、何年も前にお参りしている。大仏大観音ウオッチャーとして、石切宮の参道入口にある石切大仏をお参りした時に、併せてお参りしたのだった。あの時は、狭い参道が参拝者で溢れ、境内はお百度参りの人で混雑していたが、今回はコロナ禍の影響なのか、静かな参道と境内だった。その時は、まさか自分がガンを患うとは夢にも思ってもいなかったので、形ばかりのお参りをしたのだが、何と言うか、不思議な「縁」のようなものを感じ、しっかりとお礼参りをした。
2021.10.20
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がん治療卒業のお礼参り、その2は、大阪へ行った。先ずは、住吉大社と楠珺社(なんくんしゃ)。住吉大社には、4つの本宮がある。それぞれの本宮に祀られている神は異なり、「第四宮は・・・」と書きたいのだが、その知識はない。四、三、二、一宮、とお参りし、その奥にある楠珺社(なんくんしゃ)を詣でた。楠珺社の別名は、初辰さん。住吉大社には多くの摂社末社があるが、末社の一つが楠珺社(なんくんしゃ)。その月最初の辰の日にお参りすると、御利益があり、これを4年間続けると、しじゅうはったつ(48辰・始終発達)となり、楠珺社お守りの招き猫を買い求めていれば、48体となり、満願成就となるという。AKB48などの元祖本家本元の「48」とも思える。1996年から画像の招き猫を買い求めているが、現在は27体。関東から初辰の日に毎月通うことは出来ないから、お参りできる機会を見つけては参拝するだけなので、満願西成就はまだまだ先のこととなっている。で、今回お参りをしたら、お堂が閉まっていて、招き猫を買うことが出来なかった。コロナ禍で、参拝者が少なく、閉めているものと思われる。チト残念だったが、次の機会のあることを願った。招き猫は、(値上がりしていなければ)1体500円。そのための小銭を用意していたので、そのお金で、住吉大社の門前で宝くじを買うことにした。高額が当たるのではないかと、期待したのだが・・・ロト6はかすりもしなかった。
2021.10.19
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旧中山道は、日本橋から、埼玉、群馬、長野、岐阜、滋賀を通って、京都三条大橋までの69次。500㎞。2015年6月に、中山道ウオークをスタートしている。初日は、日本橋から、地元の浦和宿まで25㎞を歩く予定で、先を急いで歩いたので、巣鴨のとげ抜き地蔵の前の巣鴨地蔵通りが中山道なのに、参拝せず、もくもくと歩いた。なので、すがも鴨台観音(おうだいかんのん)の存在に気付かず、通り過ぎていた。言い訳をすれば、ビルの谷間の観音様なので、お寺があるとはは思わなかった。街道沿いの神社仏閣には必ずお参りしているのに、まったく、気づかなかった。今回、板橋から日本橋方向へと、のんびりと歩いたので、ビルの谷間にあるすがも鴨台観音に気付いた。いや、最初は、観音堂とは思わなかった。変わった作りの建物は何だろう、と思って近寄ったら、画像の案内碑があり、何と読むのだろう、というところから観察が始まった。画像の建物が観音堂(通称・さざえ堂)。入口には上品な案内所が置かれていた。それを見ると、2013年に建立された八角三層のお堂で、上りと下りが交わらない二重螺旋式の階段があり、最上階に観音菩薩(すがも鴨台観音)が祀られている、とあり、大正大学の案内も書かれている。なんと、大正大学の一部だった。大正大学は、天台宗、真言宗、浄土宗が設立母体となり、大乗仏教の智慧とと慈悲の精神を教育の基本とする大学。さざえ堂は大正大学が建立した。そうか、大正大学はここにあったのか・・・周囲のビルは大正大学だった。それにしても、これは何だろう・・・観音堂の敷地の隅にあったが、説明書が雨に滲んで読めなかった。
2021.10.16
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都電荒川線、庚申塚停留所の直ぐ近くにあるのが、「巣鴨猿田彦大神庚申堂」。庚申堂とはなんぞや、となるが、旧街道を歩いていると、庚申塚や庚申塔によく出会う。ここは、旧中山道の巣鴨の庚申堂。庚申(堂)とは、中国の道教の教えによる信仰の一つで、大きいものが「堂」、小さいものが「塔」や「塚」で、石に神像が彫られ祀られていた。石碑などを読むと、人間の体内にいるという尸虫(しちゅう)という虫が、庚申の日の夜に這い出て、天帝(最高の神)にその人間の悪事を告げに行くとされていることから、夜通し眠らないで、庚申塚などに祀られた神像に祈り、宴を開き、尸虫の行動を妨げたといい、神道では、猿田彦の神を祀ることが多かったという。ということで、ここは、猿田彦の大神を祀った庚申塚で、大きくはないがお堂があるので、庚申堂、ということ。何気なく路傍の塚や堂を見て通ってしまうが、その由来を知ると、昔の信仰の様子が見えるようで楽しくなる。体の中に尸虫がいて、大神様に悪事を告げに行く、そして、それを止めようとして、神に祈る、というのだから、人間は昔から、悪事を働いてしまい、それを隠そうとしていたのだ。何だか、今と変わらないように思えてくる。そして、宗教のいいとこ取りは日本人の生き方そのものだと思う。
2021.10.15
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中山道ウオーク復帰は可能だと書いたのだが、待てよ、その前に、お礼参りがあるではないか、と思い直した。私のガンを知って、大阪のあの子二人が病気治癒のお守りを送ってくれていた。石切宮(石切劔箭・いしきりつるぎや・神社)と勝尾寺のもので、ともに大阪の社寺。神仏の力を全面的に信じているワケではないが、あの子へのお礼としても、お礼参りに行くべきと思う。そして、大阪に行くなら、住吉大社にもお参りをしたい。住吉大社から石切宮までは約1時間、石切宮から勝尾寺までは約80分、半日あれば3寺社は巡れそうなので、日帰りも可能だ。何だったら、このお参りの帰りに、どこかで一泊して、中山道ウオークの続きを歩いてもいいし、東海道ウオークのおまけの、京都から大阪を歩いてもいい。コロナが落ち着いたら、外出自粛が叫ばれなくなったら、と、たらタラだが、もう一つ、タラがある。海外旅行へ以前のように気楽に行けるようになっタラ、台湾と香港だ。台湾の佛光山寺と香港の竹林禅院にも、お礼参りに行きたいと思う。この2寺は、がん治療中にお参りしたお寺。苦しい時の神頼みでお参りしたわけではないが、ガンの治癒を願ってきたので、お礼参りをしたいと思う。そして、夢は膨らむ。街道ウオークのもうひとつ、甲州街道ウオークが相模湖でストップしているので、こちらも続きを歩きたい。
2021.10.04
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中山道ウオークを再開するには、ある程度のリハビリが必要だと思っている。図書館へ行っても、マーケットに行っても、2千から3千歩しか歩いていないからだ。そのような中、隣町の、大宮氷川神社へ行った。大宮氷川神社は、武蔵一宮、氷川神社の総本社。暑いくらいの秋日で、早くも七五三のお参りをする家族がいた。そこで目にしたのは、カラフルな袋(画像)。氷川神社には何回もお参りしているが、このような袋を見たことはない。これまでは絵馬が掛かっていたり、みくじが結んであったりしたところだ。どうやら絵馬のようではあるが、よく分からない。社務所・・・いわゆる御札などの売店(何と言うのだろう)に行ってみると、説明書きと見本があった。願い事を書いた紙を袋にいれて奉納する、とある。紙を畳まないで、筒のようにすると、袋が膨らむ、ともある。ひとつ500円。なるほど・・・これが今風の絵馬なのか・・・願い事や氏名を隠す、個人情報保護から生まれたのか・・・などと、感心したが、私は願い事が多すぎるので、パスした。境内には、振り袖で着飾った子、と母もいた。子の方は七五三の歳ではなく、七五三の親にしては若い。結婚式の披露宴かとも思うが、母親の方はそんな服装ではない。なんだろな~と見ていたら、そのお嬢さんに声を掛けるおっさんがいた。「七五三じゃないよね」・・・単刀直入、私と同じ疑問だ。いかに図々しい私でも、この質問はできない。「成人式の記念写真です。コロナでできなかったので」なるほど、そんな人もいたのだ。ということで、この日は、11,341歩を歩いた。歩幅60センチとしても、6.6キロメートル。これだけ(簡単に)歩ければ、中山道ウオーク復帰は可能だ。
2021.10.03
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私が通院している大学病院には、礼拝室がる。宗教系の大学ではないが、コンビニや理髪室などがあるフロアに礼拝室がある。最初にこれを見た時、理解ある病院なんだ、と思ったが、何年か通院していて、この礼拝室の存在が気になりだした。そもそも、この礼拝室は何のためにあるのか、と。色々な宗教がある中、特定の宗教・信者のために、礼拝室を設けるのは、ある意味、宗教差別、特定の宗教保護ではないのか・・・と思えるのだ。神道、仏教、キリスト教などなど、その信者のための部屋は無くて良いのか?とも思うし、目立たないところでお祈りをして欲しいから、礼拝室を設けてそこへ追い込んでいる、とも思う。アラビア半島の小さな国で、飛行機を乗り継いだことがあるが、飛行場には礼拝室があり、多くの人で混雑していたのを思い出す。アブダビの飛行場では、トイレの通路の奥に礼拝室があり、トイレで手などを洗う人が多く、床がビチャビチャしていたのを思い出す。
2021.08.24
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某氏のブログから借用2018年10月に、琉球金宮観音菩薩について、 高さ25メートル 重さ40トン 寄贈者は福岡県飯塚市なのか、飯塚市の陶芸家なのか分からない 飯塚市から移築したというが、飯塚市のどこにあったのか分からないなどと、書いた。大仏大観音ウオッチャーとしてショックだったのは、飯塚市に25メートルの大観音があれば、どこかからか情報が入ってくるはずなのに、その存在をまったく知らなかったことだ。普通、大仏様や大観音様については、名称、所在、大きさ、建立者、建立目的、宗教法人名、などがネットの検索で出てくるが、飯塚市から沖縄に移築されたこの琉球金宮観音菩薩については、なんらの情報も持っていなかった。沖縄へ移築されたので「琉球・・・」なのだろうから、飯塚市にあった時は飯塚金宮観音菩薩だったのか、それさえも分からない。その後、思い出してはネットを検索していて、琉球タイムスに 「福岡県飯塚市から寄贈」を「福岡県飯塚市の陶芸家から寄贈」と修正の記事を見つけ、某氏のブログで、飯塚市にあった時の観音様を発見した。(画像)某氏のブログは、2012年7月のもの。陶芸家則松金藏氏(建立者)を訪問した時のものだが、観音様については、一言も書かれていない。氏のブログは2020年7月以後更新されておらず、コメント欄もメアドもないので、連絡の術がない。琉球金宮観音菩薩が台風で倒壊したのは2018年。2019年11月までに再建すると沖縄タイムスにあったが、建立地の沖縄市の東南植物楽園のホームページには載ってなく、その後どうなったのか、これもよく分からない。目立つことが苦手な観音様のようである。
2021.08.12
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読売新聞から先月、6月15日、福島県会津若松市の会津慈母大観音にマスクを装着した、というニュースが読売新聞にあった。新聞の写真はまだ作業中のもので、ロープを操作する作業者が写っている。観音様の大きさをあらためて感じる写真だが、何か変だ。新聞の説明には、「当社機から」とある。観音様の高さは57メートル。飛行機から写す高さではない。地上から参拝する観音様を上空から写す考えが分からない。目線が違うから、変なのだ。マスクの大きさは、4.1×5.3メートル。35Kg。コロナの終息宣言がでるまで着け続けるという。淡路の観音様は取り壊しになる予定だが、会津慈母大観音は宗教法人になったので、固定資産税から解放され、手入れが行き届いているようだ。昭和平成の大仏大観音ウオッチャーとしては、マスク姿の観音様を参拝に行きたいと思うのだが、このコロナ禍では参拝を躊躇うし、コロナが落ち着いた後では、マスクは外される。どうしたものかである。
2021.07.03
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オンラインニュースから淡路島にある「世界平和大観音」の解体工事が始まった。(6月14日)この観音様は、地元出身の奥内豊吉さんが建立したもので、「豊清山平和観音寺」を名乗っていたが、宗教法人ではなかったため、巨額の固定資産税の支払いに苦しみ、管理が行き届かなくなり、奥平さんや相続人が亡くなった後の2006年頃から放置され、2020年3月に国の所有となっていた。昭和平成の大仏大観音ウオッチャーとしては、この観音様の荒廃が気になっていて、宝くじが当たったら、観音様を買い取って、整備をして、宗教法人にして、しっかりと後世に残したい、と思い、そのための管理人になる人にも同意を得ていたのだが、宝くじが当たらず、解体となってしまった。解体費用は8億8千万円。2023年までに解体を終えるという。解体前に、もう一度お参りをしたいと思っていたのだが、コロナの影響で行くことができなかった。もうひとつ、気になっているのが、石川県加賀市にある「加賀大観音」。正式には、慈母観世音菩薩。この観音様も荒廃がひどい。周辺の遊園地が閉鎖されてから、宗教法人に引き取られたのだが、カミナリに打たれたりして、電気が満足に点かない状況になっている。建立者の意志を守ってあげたいと思うのだが、これも、宝くじが頼りである。
2021.06.16
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大阪のあの子から、ガン封じキュウリ守が送られてきた。キュウリ守というのは初耳だ。ガン封じキュウリ守の説明には、次のようにある。 「古来よりキュウリは輪切りの形が法輪に似ている事から 病の邪気を封じ込める力があると云われております。 このキュウリはガン封じのお守りとして特別に祈念いたしております。 大切にお持ち下さい。」これは、勝尾寺のお守り。勝尾寺は、大阪市の北に位置する西国23番の札所。何回かお参りしているのだが、どんなお寺だったのか、記憶がない。紫陽花を見に行って、このお守りが目に止まったという。ありがたいことである。
2020.06.28
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淡路島の北部に、世界平和大観音が立っている。台座の建物を含めて、地上100メートルと、大きな観音像だ。「豊清山平和観音寺」を名乗っているが、宗教法人ではない。大坂で成功した実業家奥内豊吉さんが、故郷の淡路島に建立したもの。私が最初に訪問参拝した時は、丁寧に管理されていたが、しだいに管理費用が捻出できなくなり、1988年に奥内豊吉さんが亡くなり、相続した妻が亡くなった2006年、拝観停止閉館となった。閉鎖となっても、高さ100メートルもあるので、外から拝観することは可能で、その後何回が訪問したのだが、劣化がひどく、なんとかしなければならない状態だった。2億円あれば再生できるか・・・・宝くじが当たったら行動を起こそう、と考えていたが、宝くじは当たらなかった。で、最近、この世界平和大観音を取り壊すニュースが入ってきた。相続人がなく、債権者が債権回収困難との結論に達したため、所有者である国(財務省)が、解体撤去すると発表したという。取壊には3年ほど掛かるようだから、もう一度参拝に行きたいと思っている。体調は十分だが・・・コロナがいつ落ち着くかである。世界平和大観音のHPはこちら
2020.04.30
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少し遅い初詣をした。いや、遅くはないか、旧正月の春節だ。場所は、赤坂(東京・港区)の乃木神社。地下鉄の駅を上がったところなので、気楽に行ける。例年だと、入口に日の丸がクロスして掛けられているが、やはり初詣には遅いようで、日の丸はなかった。が、着物姿のおばちゃんのグループや、外国人が訪れていた。おばちゃん達はおしゃべりでうるさかったが、さすがに日本人なので、お参りする時は静かだった。中国からと思われる旅行者は、ごついカメラを抱えていて、物珍しげにあちこちを写していた。礼儀として、先ずは参拝しなさいよ・・・と言いたかったが、私の能力ではできなかった。ということで、元気でお参りに来ることができました、と、手を合わせてきた。
2020.01.23
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この町に住んで50年以上。たいがいの所は知っているつもりだったが、散歩コースに未訪の寺があった。街道から50メートルほど奥に入ったところにある寺なのだが、いつでも行ける、と思っていたのか、見るに値しない寺だろう、と思っていたのか、まったく尋ねたことはなかった。そんな寺に、なせ行ったのか・・・これまた、意識はない。なせか、行ってみる気になった。小さな寺だった。どれが本堂なのか、住職の住まいなのか、地域の集会所なのか、分からないような境内だ。明らかに分かるのは、薬師堂のみ。そして、その薬師堂完成記念の碑があり、 信心は何になるかと人問はば 一寸先の闇のともしびと彫られていた。典型的な仏教の教えだ。
2020.01.19
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真生大観音の次は、美山平和観音をお参りした。岐阜市の隣り、山県市にある慈母観音だ。観音様の御丈は、8メートル。台座を含めると17メートルある。建立は1991年、平成3年。建立者は地元の、美山生コンの関係者。典型的な現代の大観音だ。美山平和観音があるのは、山県市の外れ。時には上下一車線になる国道から、県道に入った山の中。なぜ、こんな場所に? と思ってしまうが、1991年に発見された温泉の開発過程で建立された。現在、温泉は廃業、当時作られたモノレールなども廃墟と化して、野生の猿が闊歩していたが、誰かが美山平和観音を管理しているようで、周囲の草は刈られ、敷地内も落葉が溜まることなく清掃されていた。建立者には、少なからぬ信仰心があったと思われるが、世間からは、人寄せパンダのように見られたようだ。建立者にしてみれば、少しでも多くの人に見て欲しい、手を合わせて欲しい、と願ったのだろうが、その意味では、立地が良くなかったようだ。「ようやく尋ねることができました」と、手を合わせてきた。
2019.12.12
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岐阜大仏の次ぎにお参りしたのは、同じ岐阜市にある真生寺の真生観音。真生寺のホームページを見ると、「総本山 真生寺」とある。日本の主流的宗派に属さないお寺で、真生会の総本山となっている。門前の石碑に「一念三千」とあるが、これは、「ちょっとした動作や考えの中(一念)にも宇宙の真理が多数(三千)関係している」という意味で、天台宗の教え。天台宗の教えに導かれ、自身で開教したようだ。で、画像の観音様は、平成4年(1992年)10月に開眼落慶。総丈10メートル、コンクリート製なのか、FRPなのか、ネットを検索したのだが、それらしき記述は見つからなかった。新宗教として。多数の信者がいて、大観音を建立する資金を調達できたのだろう。昭和・平成時代には、大仏や大観音を先に作り、後に大きな困難を抱えながら宗教法人となる例が多数あるが、真生会は、昭和53年(1978年)に宗教法人の認証を受けていて、その後、平成4年に大観音を建立した。岐阜まで来ることができたことに感謝し、手を合わせてきた。
2019.12.10
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名古屋大観音の次は、岐阜大仏をお参りした。岐阜と言えば白川郷、という私のイメージだが、地図を見ると、名古屋の直ぐ北が岐阜市(岐阜駅)だ。そして、岐阜の大仏大観音と言えば、岐阜大仏だ。岐阜大仏は、奈良の大仏、鎌倉の大仏と並び、日本三大仏と言われるが、何をもって三大仏としているのか、まったく分からない。座像で、高さは13,6メートル。1829年に完成。周囲1,8メートルのイチョウを真柱として、木材で骨組みを作り、その周囲を竹材で仏像の形を作り、粘土と和紙で覆い、漆と金箔で仕上げている。岐阜大仏が鎮座するのは、正法寺。正法寺のパンフレットには、「黄檗宗 金鳳山 正法寺」とある。黄檗宗(おうぱくしゅう)とは何ぞや? 初めて耳にした宗派だ。黄檗宗は、江戸時代に伝わった宗派で、日本の三禅宗の一つだという。正法寺の所在地は、岐阜市大仏町。町名に「大仏」が残されるほど、地域に根付いたお寺と大仏のようである。
2019.12.08
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名古屋大仏がある桃厳寺の次ぎに参拝したのは、金龍寺。金龍寺の本尊は、名古屋大観音と呼ばれる、十一面観世音菩薩。大仏の観音はどう違うのかは、次の機会にして、今回は、名古屋大観音などについて。金龍寺は小さなお寺。住宅街の一角にある。道路に面した敷地の間口は5メートルほど。小さな弁天堂や地蔵堂のような感じで、タクシーの運転手も初めて来た、と言う。道路に面して建てられた石柱には、「高野山 真言宗 瑞穂山 金龍寺」とある。私のささやかな経験からすると、宗派などを強調する昭和や平成の寺は、設立に何らかの困難があったのではないかと思う。 (例えば、長期間宗教法人になれなかった越前大仏なども、その例だ)本堂は、と言うか、本堂しかない寺で、入口は下町の小さな工場のような、ガラス戸。ガラス戸から中を覗くと、照明がなくて暗い。どうしたものかと思ったが、ガラス戸を開けると、それに反応して照明が灯った。本尊の十一面観世音菩薩のすぐ前が、土足で入れる通路となっているが、通路が狭いので、御丈7、6メートルの観音様は見上げて、手を合わせるしかなかった。照明が灯ったのだが、まだまだ薄暗く、十一面観世音菩薩の十一面がどうなっているのか、よく見えない。どこが十一面なのだろう?観音様の鉢巻のような部分だろうか?
2019.12.06
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数ヶ月前、まだ、足の裏がさほど痛くない頃、名古屋から名鉄で、聚楽園大仏へ名古屋から近鉄で、純金大観音へなどと、ネットで調べていたら、名古屋大仏が現れた。私の所も尋ねなさい、ということのようだった。予想外の大仏様の出現。名古屋市内ということなので、少し早い新幹線に乗って行くことにした。画像が名古屋大仏。画像の色が変なのではない。ほぼ、この色の大仏様だ。台座は蓮でなく、象の群が支えているという。なぜこの色なのか、下調べができてなく、驚くばかりだった。大仏様は、桃厳寺の境内に鎮座されている。お寺の境内にあって、なぜこの色なのか、聞くべきだったが、名鉄や近鉄に乗る都合があったので、早々に寺を後にした・が、桃厳寺には、日本一の木魚があると、後になって分かった。「日本一」ウオッチャーとしては、残念なことをしてしまったが、名古屋なので、行く機会はあると思うので、それまでのお楽しみ、とした。
2019.11.13
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義母の部屋を片付けていると、色々な物が出てくるのだが、「般若心経ミュージック」なるCDが出てきた。義母がこのCDを買ったとは思えない。誰かに頂いたのかもしれない。CDには23曲入っているが、すべて般若心経。が、般若心経と言っても、お坊さんが唱えているのではない。音楽に乗せた般若心経だ。般若心経ミュージックなので、和楽器伴奏風、童謡風、ポップモードロックモード、ラップモードなどがある。これを、多少の般若心経の心得のある者が聞くと、何とも言えないリズムに般若心経が口ずさみたくなる。私は、般若心経の経本を見ないと、般若心経を唱えることはできないが、このCDを聞いていると、耳コピで歌うように唱えることができそうに思う。世の中、色々なCDがあるものだ。
2019.10.29
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義母の家の神棚と仏壇を処分した。仏壇のなんと重いことか。二人で持つのがやっと、という重さで、これを分解するのは大変だった。板を重ねて階段状の模様にしたり、天板や底板も板を重ねて何重にもしているからだ。90センチ以下になれば、市の回収に出せるのだが、分解すると釘の先が出てきたりするので、完全に分解することにした。中途半端にすると、ご先祖に失礼、という思いもあった。バールを使ったり、ノミを使ったりして、どうにか分解できた。神棚のお社は、簡単に分解できるので、金属部分を取り外して、庭先で焼却した。「神も仏も無い」・・・・と言うが、そんな意味でなく、義母の家からは、神も仏もいなくなった。もちろん、先祖代々の位牌は、我が家に持って来ている。小さな仏壇を探して、そこに納める予定だ。私の亡父亡母の位牌や仏壇は弟に任せたので、ここ数年は仏壇や位牌はなかったのだが、位牌を置くと、なんとなく安心できる気分になる。そんな年頃である。
2019.10.12
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老人ホームへ入った義母の家を整理している。色々なものが出てくるが、基本的には、個人情報などを消して、市のゴミ回収に出している。広い家に一人で住んでいて、昔の家なので押入が多くあり、そこに、何もかも区分しないで押し込んでいたようで、まさかと言うところから、神様のお札などが出てくる。いかに、基本的にはゴミ、と言っても、お札はゴミに出せない。なので、武蔵の国一宮といわれる、氷川神社にお札を納めに行った。多くの神社の場合、「当神社のお札に限る」となっているが、氷川神社はそのようなことはない。無人の回収箱に入れ、しかるべき賽銭を賽銭箱に入れれば、それでOK。足の裏は、薬の副作用でまだ痛いので、タクシーで行ったのだが、タクシーの何と気軽なこと、と感じた。タクシーに乗ると、運転手に気を使ってしまう性格なので、タクシーを遠慮していたが、車がなくなって、タクシーしかない状態になると、タクシーが便利なものへと変化した。
2019.10.08
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関東地方だと、どこどこの地までの、おおよその距離と時間が分かる。例えば、最寄り駅から、高崎なら、90キロ、45分前橋なら、90キロ、80分、水戸なら、100キロ、90分という感じだ。が、関東を離れると、距離的なことも時間的なことも、よく分からない。先日行った、聚楽園大仏のある愛知県東海市も、名古屋からどのくらいか、ネットで調べないと分からなかった。だから、というワケではないが、名古屋まで行くなら、三重県白山町の、大観音寺の、純金大観音をお参りしてから帰ろうと考えた。だが、名古屋からは距離があるので、日帰りは無理と判断して、津で一泊した。前置きが長くなったが、大観音寺の純金大観音をお参りした。高さは33メートル。世界一の高さの純金大観音がご本尊。純金大観音ということだが、全部が全部純金ではないはずだ。拝観料800円。護摩木を渡された。書き方見本があったが、今は「病気平癒」しか思い浮かばないので、病気平癒と書いてきた。で、画像下は、駐車場を共用する、ルーブル彫刻美術館。どう見ても、大観音寺が併設したとしか見えない。これらの建設資金はどこから出てくるのだろう?檀家がとてつもなく多いのだろうか? 高崎までの距離を訂正しました ちゃおりんさん、ありがとうございます
2019.08.16
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「大仏廻国」という映画があった・・・・・そうだ。1934年(昭和9年)の作だという。大仏様が暴れて町を壊すのでなく、町の中を歩くという、特撮だけを売り物にした作品のようだ。フイルムは現存しないという。大仏・大観音ウオッチャーとしては、初耳で、その大仏のモデルとなったのは、どこの大仏様なのか、気になった。調べた結果、愛知県東海市の聚楽園(じゅらく園、でなく、しゅうらく園)大仏と分かった。分かったからには、お参りに行かなければならない。名鉄常滑線に、聚楽園という駅があり、駅の前が「しあわせ村」という公園で、その一角に、聚楽園大仏が鎮座されている。公園の敷地の所有者は東海市なのか?聚楽園という名は個人的名称ではないのか?大仏様という宗教を東海市はどう扱っているのか?色々な疑問が生じるが、お参りが先だ。大仏様の高さは、18,79メートルで、鎌倉の大仏様より大きい。名古屋の実業家山田才吉が、昭和天皇の成婚を記念して1927年に造った。今の金額で、2億円に相当する建立費用だという。ということで、大仏様はお座りだが、映画では大仏様がすっくと立ち上がり、名古屋市内を歩く、という内容のようだ。大仏・大観音のHPは、こちら
2019.08.11
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「その後どうしているの?」「引き籠もっているんじゃないの?」・・・ということで、亀戸天神(江東区・かめーどBy江戸っ子)の藤を見に誘われた。実は、4月の句会の兼題が「藤」だったので、わたし的には遅い感じなのだが、藤の花が香っているというので、誘いに従った。画像のように藤の花は満開。一部盛りを過ぎた棚もあったが、いい色と香りだった。ま、欲を言わせて貰うなら、境内の露天屋台の、たこ焼きや焼きそばの匂いを、なんとかして欲しかったと思う。折角の、藤の花の香りなのに・・・そして、神楽殿では神楽が奉納・・・というか、披露されていた。亀戸天神の「藤まつり」の一環としての神楽のようで、奉納者はいないようだった。で、神楽の画像の奥は神楽を見る人が写っているが、手前の人は、神楽を見ずに、左方向を向いている。なぜなんだと思ったら、手前は御朱印を貰う人の列で、納経所を向いているのだった。そうそう、この日は、令和になった初めての日。平成最後の日に御朱印を貰って、この日にも並んでいる人がたくさんいるようだった。と言う私は、単品(一枚もの)を、並ばずにもらい受けた。
2019.05.09
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古事記が文字になったのは、西暦712年。それまでは暗誦で伝えられていた、神話、伝説、天皇の系譜などを文字で記録したという。古事記の解説本を読むと、色々な神が登場して、その神を祀る神社が紹介されている。例えば、出雲大社は、アマテラスオオミカミが、オオクニヌシノミコトの求めに応じ。出雲国に「天の御舎」を作り与えたことがその起こりだというが・・・実際に「天の御舎」は作られたのか、単なる神話での話なのか分からない。神話の後から、出雲大社や三峯神社(埼玉県・イザナキとイザナミを祭る)が造られたのか?そうだとすると、誰が作ったのか・・・いくつかの解説本を読んだのだが、分からない。古事記の写本が出回って、これを読んだ権力者が、神話の神を祭る神社を造ったのか?それは誰なのか? その資金は? その目的は? 分からない。更なる読書が必要なようだ。
2019.03.29
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そうだ、と思い出した。昭和62年(1987年)3月19日と20日で秩父の観音霊場を巡礼した際、納経帳の他に、掛け軸にも、朱印を頂いていた。我が家には掛け軸を掛ける床の間などがないので、母が住む実家で掛けていたものだ。母が亡くなり、遺品を整理した時、この掛け軸を持ち帰っていたのだが、すっかり、その存在を忘れていた。狭い我が家、探せば出てくるもので、おそらく、20年振りくらいに、風を通すことになった。画像は、その、納経朱印掛け軸。(掛け軸と言わずに「軸」と言うのが正しい)観音様の周囲に、札所34ヶ所の朱印がある。納経帳と同じように、札所を巡って、一寺ずつ記入押印して貰った。改めて、眺めてみると、34ヶ所の寺を、うまいこと割り振って、左右対称に並べたことに感心する。今回も、軸に御朱印を頂こうか・・・とも思うのだが、掛けるところがないので、納経帳だけにしようと思う。
2019.01.22
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昨今は御朱印ブームで、寺社でいただいた御朱印がネットで販売されているという。何というバチ当たりなんだと思うが、それが、現代なのかもしれない。その、御朱印をいただく冊子を、御朱印帳と言ったり、納経帳と言ったりするが、専門家に言わせると、御朱印帳と納経帳は異なるものだという。が、そこまでこだわっていない在家は、スタンプラリーのように御朱印を集めている。画像は、秩父34ヶ所観音霊場の納経帳。昭和62年(1987年)3月19日と20日で巡礼した際のもの。なぜ、秩父34ヶ所観音霊場の納経帳と言うのかというと、見開きのページに、寺の簡単な案内と御詠歌が印刷されているので、他の寺社の納経には使えないから。さて、今回の秩父巡礼はどうしようか・・・一回り大きな納経帳にしてみようか、などど思いつつ、少しずつ準備を進めている。
2019.01.21
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大阪のあの子から、住吉大社の、病気平癒守 と 初辰さんの御守、招福猫が、送られてきた。ブログで見て、病気の様子を心配してくれたものだ。大阪には、ことある毎に行っていて、時間があれば、住吉大社とその末社のひとつ、楠珺社(なんくんしゃ)で、招福猫を求めてきた。2009年8月のブログでは、18体の招福猫を集めたとあり、2017年2月には、24体になったと書いている。現在は、今回頂いた招福猫を加えて、27体。本来は、毎月最初の辰の日にお参りして、招福猫を受けて祈願して、48ヶ月間続けると「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の福が授かる、というもの。48体まで、あと21体。元祖AKB48・・・・HTS48(はったつさん48)、SNM48(住吉楠珺招き48)、なかなか良い頭文字が見つからない・・・ 頑張って、48体、それまで、生きながらえねば・・・・
2019.01.10
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仏光山は、お寺のある仏光山寺と、仏陀記念館に分けることができる。 場所は隣り合わせだが、案内書等がしっかりと区分されている。 非課税の扱いか何かに、違いがあって、区分しているように感じられた。 で、仏光山寺の方だが、ビュッフェ式の食堂(レストラン)で昼食をとった。 普通、ビュッフェ式の場合、会計は食事をピックアップした後だが、レジがなかった。 どうなってるの? と、スタート点に戻って聞いたら、「ドネイション」寄付、だと言う。 平たく言えば、タダということ。 他の人はどうしているのかと、見ると、寄付をしている人はいない。 ありがたく手を合わせて、頂きますをしている。 これが、仏教の施しなのだろう。 目からウロコだった。 日本のお寺(檀家)では、施餓鬼などで寄付を求められるが、 基本的考えに違いがあるようで、施しを受けたことは一度もない。 私は、100元、400円弱を寄付してきた。
2018.11.27
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板東三十三観音 16番 天台宗 五徳山 水澤寺昨日の日記の日本佛光山法水寺から南へ1キロ程行くと、板東三十三観音札所16番の五徳山水澤寺がある。通称、水澤観音と呼ばれている天台宗の寺だ。広い駐車場は満杯。多くの車が法水寺の前を通ってきたと思われるが、法水寺に立ち寄ってはいないようだ。法水寺の広い駐車場には、ほんの数台の車しか止まっていなかった。信仰心が違うと言えばそれまでだが、どうして大きな寺に目が行かないのか、無宗教と言われる日本人なのに、宗教を選んでいるのか、不思議である。旅行ガイドブックのお勧めルートを巡るだけなのだろうか?そして、この寺にも、隣の大陸からの観光客が観光バスで来ていた。釣り鐘が割れるのではないかと思われるほど、力いっぱい鐘を撞いたり、線香を振り回したり、自己中で写真を写したりする、宗教心ゼロの観光客だ。寺を詣でるなら、それなりのマナーは心得て欲しいものである。水澤観音は、観音札所だけあって、線香の煙がもうもうとし、木立に囲まれた境内には、実にお寺らしい雰囲気があった。ということで、蕎麦をすすって帰ってきた。水澤観音と言えば、水沢うどんなのだが・・・・・
2018.11.13
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数日前のブログに、台湾・高雄に大きな大仏の寺があって、その分院が、群馬県の伊香保にあり、伊香保なら行ってみたいと書いた。その寺は、臨済宗 日本佛光山 法水寺。本山は、1967年に台湾高雄に開山し、世界各地に300以上の別院があるという、国連のNGO組織に認定された「国際佛光会」を持つ巨大な宗教組織。日本では、そのまま宗教法人として認可されないので、臨済宗の寺として、伊香保の町に開山したものと思われる。日本的には、新しい宗教を煙たがる傾向があるが、法水寺には、線香臭さがなく、静かに修行と奉仕を教える姿勢を感じた。参道入口の大仏様 いかにも台湾風である本殿に上る階段には25尊の小石仏その内の3尊の台座には教えが・・・その意味は、英語を読むと分かる本堂 あまりにも参拝者が少ないこの寺のご本尊 玉仏 釈迦牟尼仏玉殿の四方の壁は万仏崖 2万尊の仏陀慈悲宝殿の千手観音 すべての手に目を持っている壁の数字を返すと、お御籤のようなメッセージを読むことができる見送ってくれた小仏ということで、台湾高雄の本山をお参りすることを、本気で考え始めた。
2018.11.12
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仏光山のHPから借用何をどうしていたのか・・・・記憶にないのだが、台湾・高雄の仏光山という、大きな大仏がある寺のホームページに出会った。こんな大きな寺があるんだ。こんな大きな大仏様がいるんだ(ゴマのように見えるのがヒト)。こんな大仏様が立っているんだ。高雄へ行ったのは、去年の11月だった。その時は、記念のIC交通カードを入手するのが目的だったが、高雄の主たる観光地はチェックしたはずなのに、仏光山はまったくチェック出来ていなかった。その存在も分からなかった。大仏大観音ウオッチャーとしては、このままというわけにはいかない。元気なうちに、そう、元気なうちに、お参りをしたいと思う。で、仏光寺は、仏教系のお寺で、いわゆる台湾系のお寺とは違うようだ。仏教系のお寺なら、いわゆる山号寺号(成田山新勝寺・金龍山浅草寺)があるはず、と思い、台湾のHPを探してみたのだが、「仏光山寺」という表現しか出てこなかった。そして、仏光山の別院が日本にあるという。群馬県伊香保にある、佛光山 法水寺 がそれだという。臨済宗の寺だ。群馬はお隣の県。お参りしてくることにした。
2018.11.05
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いずれも、関係webから借用1ヶ月程前だっただろうか、ネットニュースに、こんな記事があった。 台風24号が過ぎ去った30日、沖縄市の東南植物楽園内に設置される 高さ約25㍍、重さ約40㌧の「琉球金宮観音菩薩」が倒壊しているのが見つかった。 強風で根元から倒れたとみられる。けが人はいない。大仏大観音追跡者としては、ショックなニュースだった。いや、倒壊がショックだったのではない、「琉球金宮観音菩薩」の存在を知らなかったことがショックだった。高さ25メートルとなると、かなり存在感がある観音菩薩だ。それを知らなかったとは・・・・・で、ネット検索をすると、いくつかのことが分かってきたが、疑問も沸いた。 建立地は、沖縄市の東南植物楽園。 開眼は、今年、4月14日。 横浜毘沙門天の、高野山真言宗禅馬山三郷院真照寺の水谷栄寛住職が入魂開眼供養。 観音菩薩像は福岡県飯塚市から寄贈 菩薩像は、陶芸家の則松金藏さんが寄贈。福岡県飯塚市から移築し、 昨年8月から同園で組み立てる作業を開始。福岡県飯塚市から移築したというが、飯塚市にこんな観音菩薩があるとは知らなかった。そして、寄贈者が、「飯塚市」なのか「彫刻家」なのか、これもよく分からない。飯塚市のどこに建立されていたのか、これも追跡出来ない何とも不思議な、琉球金宮観音菩薩である。沖縄へ行って、この目で確かめ、その出生を尋ねたいところだが、転倒しているところへ行くのもどうかと思われる。
2018.10.27
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磯崎温泉のホテルのすぐ隣に、落ち着いた歴史がありそうな神社があった。その名は、酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)。西暦856年の創建だという。長い参道を覆う生い茂った樹木を見るだけでも、その歴史が分かる。旧社名は、酒列磯前薬師菩薩神社(さかつらいそまえやくしぼさつじんじゃ)。「薬師菩薩」という仏教系の名が入っていたので、これを外したのだろうことは分かるが、それが何時の頃だったのか、知りたいものである。で、また、「酒列」とは何を意味するのか、これも知りたいところだが、案内のパンフレットによると、主祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)で、医薬の祖神で、醸造の神、百薬の長である酒の神として崇敬を集めているという。そして、菅原道真公が、学問の神と崇めていたことから、学業成就・合格の祈願が多いという。また、ホームページなどには、宝くじの高額当選者が奉納した「幸運の亀」があり、この亀を撫でると金運に恵まれる、とある。もちろん、欲深な爺としては、亀を撫でてきたのだが・・・・お賽銭が少なかったかも知れない、と反省中。
2018.10.21
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