おしゃれ手紙

2017.06.24
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テーマ: トリビア?(277)
カテゴリ: 八百八橋散歩

水陸両用バスが行く
谷町筋から
北に天満橋を渡ると天満。(左側)

NHK土曜時代ドラマ「みをつくし料理帖」 ■の「天満一兆庵」は、この町にあったに違いないと妄想する。
「銀二貫」も天満が舞台。
北に向かって右手には、明治21年に架けられた鉄橋の橋門上に設置された橋名飾板がある。
北に向かって左手には、「将棊島粗朶水制跡 (しょうぎじま そだ すいせい あと)碑」がる。
将棊島粗朶水制跡 (しょうぎじま そだ すいせい あと)碑

将棊島というのは江戸時代に作られた堤で天満橋はこの島(実際には島ではない)を跨ぐ形で架けられていた。
この将棊島は1909年に撤去された。


将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて236間(約430m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅7間(約13m)あった。

淀川治水のため、明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師デ・レーケらが、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。



寝屋川、鯰江川と大川が合流するあたりには、備前島と将棊島という、堤のように突き出た陸地があった。
突堤になる以前は、どちらも独立した中州だった。

「粗朶」は木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物のこと。
木の枝を束にしたものだから、生物が棲みやすい工法だった。


大川の合流点を天満橋付近から眺めたのが上の写真。

寝屋川
現在は徳庵で西側から古川、東側から五箇井路と六郷井路が合流して西の今福まで直進し、そこから鴫野を通って緩やかに西に曲がりながら大川に注ぐ形になっているが、この直進部分は元々徳庵井路であり、元来の寝屋川は徳庵から稲田本町までJR片町線に沿うように南下して楠根川(現、第二寝屋川)に合流し、今度は南側から長瀬川が合流する放出から北西方の鴫野に至り、現行のルートに繋がるという流れであった。

猫間川
百済川に対して高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、訛って猫間川になった。
現在は埋め立てられJR西日本森之宮電車区の一部になっています。

鯰江川
鯰江川は寝屋川にほぼ平行して流れ、現在の城東区・鶴見区など大阪市東北部の悪水排除を機能とする全長1.5kmの河川でした。
今は埋め立てられている鯰江川は三郷井路が三郷橋の下で合流したあと、
蒲生から京橋を経由し天満橋で大川に流入していました。

旧大和川
江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、幾筋にも分かれ、(略)次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。

平野川
大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。
大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流する。
了意川(りょういがわ)、百済川(くだらがわ)、
河内川あるいは竜華川(りゅうげがわ)とも呼ばれていた。

野田井路(のだいじ)
区内は昔から有名な低湿地帯であったので、井路(人口水路)がよく発達し、寝屋川や六郷川のほかにも重要な井路が数本あり、網の目のように通っていました。
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Last updated  2017.06.25 13:44:27
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